追いついた夢

山本周五郎





 娘は風呂おけから出るところだった。
「どうです、いいからだでしょう旦那」
 おかみしゃがれた声でそっとささやいた。
「あれだけきれいな躰は千人にひとりもありやしません、こんな商売をしているから、ずいぶんたくさん女の躰を見てますがね、ああいうのこそほんとの餅肌とか羽二重はぶたえ肌とか云うんですよ、あれだけの縹緻きりょうだし肉付きもいいし、……まあよく見て下さい。これが気にいらなかったら罰が当りますよ」
 そう云っておかみは去っていった。此処ここ行燈あんどん部屋のような暗い長四畳で、壁の一部に二寸角の穴が切ってあり、黒いしゃ二重ふたえに張ってある。向う側はそこだけ横に黒い砂ずりになっているから、こちらで燈でもつけない限りまったくわからない。和助わすけはその紗へ顔を押しつけるような姿勢で、風呂場の中をじっと見まもった。
 娘の名はおけい、年は十七だという。小づくりの緊った躰つきで、着物を着ていたときとは見違えるほど肉付きがいい。殊に胸のふくらみと腰の豊かな線とは、年よりはるかに早熟ませそそるようなまるみをもっている。湯に温められた肌は薄桃色に染まり、それをぼうと光暈こううんが包んでいるようにみえた。
 ――いい躰だ。これまで見たなかではたしかに群をぬいている。
 彼はこの尾花屋おばなやでもう七人もこういう娘に逢った。こっちで出した条件がいいから相当よく選んだのだろう、なかに三人ばかりは惜しいようなのがいた。しかし彼はいそがなかった。すべての点で自分の好みに合う者、これなら満足だといえる者がみつかるまでは折合わないつもりだった。……その八人めがおけいで、今日は二度めであるが、四五日まえ初めて逢ったとき、だいたい気にいって、今日こうして躰を見る段取りになったのである。
 娘は糠袋ぬかぶくろくびから胸、腹からももへと洗いながら、また湯を汲みに立ったりして、前後左右いろいろな角度と姿勢をこちらへ見せた。ことによるとおかみに云い含められたのかもしれない、それともまったく無心にそうするのか、ともかく躰の緊張した線や、まるみや厚みや、豊かなふくらみが、伸びたり盛りあがったり、柔らかくくびれたりするのを残りなく見ることができた。そしていかにもそれは美しかった。立ちかがみのときなど、かなり不作法な線が現れるのだが、それが少しもいやらしさやみだらな感じを受けなかった。十七歳という年齢のためでもなく、男を知らないためでもなく、なにかまったく別な理由、……云ってみればしんにあるきよらかさ、生れつきのつつましさがあらわれているようであった。いつまでも汚れることのない、単純で美しい性質のためのようであった。
 ――千人にひとりもないというのは本当かもしれない、慥かにほかの女たちとは違う、ほかの女たちに無いなにかがある。
 和助はこう思いながら、早くもそれを馴らしめざめさせてゆく空想にかれ、われ知らず深い溜息ためいきをついたが、やがてみれんらしくそっとそこを離れた。……彼はおかみの部屋へ寄って、二人だけで話すことがあるから、酒を持って来させてれと云い、そのまま二階の元の小座敷で待っていた。
 おけいはほどなくあがって来た。
「こっちへ来てお坐り」
 和助は彼女が膳拵ぜんごしらえをすると、こう云って自分の側へ招いた。わるく遠慮するふうもなく、ほのかな含羞はにかみをみせながら、おけいはすなおに来て坐った。
「私はぜひ世話をしたいと思うが、おまえの気持はどうだ、私の面倒をみて呉れるか」
「はい。こんな者ですけれど、お気に召しましたらお願い申します」
 おけいは案外しっかりした声でそう答えた。
支度料したくりょうや手当のことはこのあいだ云ったとおり、ほかにも必要があれば金のことなら出来るだけのことはするが、ただ、来て呉れるとすれば断わっておくことがあるのだ」
 和助は酒には手を出さずにこう云った。
「それはおまえの家のほうと縁を切るつもりになって呉れることだ、毎月のきまった物はきちんと送るし、おふくろさんにもしものことがあれば別だが、さもない限り往き来をして貰っては困る」
「はい、それは此処のおかみさんからうかがっています」
「つまり私は遁世とんせしたいのだ、おちついたらいずれ身の上話もするが、世間からも人間からも離れたい、煩わしいつきあいや利慾に絡んだ駆引や、いっさいのうるさい事からさっぱりと手を切って、静かに、誰にも邪魔をされずに余生をおくりたいのだ」
 おけい俯向うつむいたままそっとうなずいた。
「それにはこんど一緒に住む家のところなんだが、これは私の身内の者にも知らせてないし、おまえの家のほうにも知らせないことにする、誰か一人にわかるとつぎつぎに弘まって、しぜんと人が出入りするようになるものだ、これもはっきり断わっておくが、いいだろうな」
 和助の口のききかたは押しつけるような調子になった。おけいはこれにもすなおに頷いて、それから眼をあげてきいた。
阿母おっかさんになにかあったときは、すぐわかるようにして下さるんでしょうか」
「それはむろんそうするし、おちついたらときどきみまいにもってやろう、ただところだけは決して知らせてはいけない、これだけをはっきり断わっておいて、それで承知なら世話をしよう」
「――はい、どうぞお願い申します」
「では一杯ついで貰おうか」
 和助はさかずきを持った。それはそのときまで酒を待っていたことになにか意味があるとでも云いたそうな、かなり勿躰もったいぶった手つきであった。
「この盃でおまえも一つ、これもまあかたちだから」彼はおけいに盃を渡し、自分で酌をしてやりながら云った、「――そして、それを飲んだらおかみとその家主さんを呼んで来て呉れ、話を定めて、渡す物を渡すとしよう、たぶん四五日うちに迎えの駕籠かごを遣ることになるだろうから」
 おけいはひと息に飲んで、そしておかみを呼びに立とうとした。するとつまずきでもしたように、よろめいて片方のひざを突いた。和助はすばやく手を伸ばして彼女を支え、
しびれがきれたのだろう、危ないよ」
 と云って起してやろうとした。
「済みません、いいえもう大丈夫です」
 おけいはそっと和助の手から離れ、すり足をしながら出ていった。和助はそのうしろ姿を見おくりながら、いまつかんだ娘の手のしめっぽい柔らかな、しっとりと冷たい感触を慥かめるように右の手をじっと握り緊めながら、唇のまわりに貪慾どんよくそうな微笑をうかべた。


 尾花屋を出たおけいと万兵衛は、はまぐり町まで殆ど口をきかずに歩いた。背骨の曲りかけた万兵衛は、まるで重い荷物でも背負っているように、前跼みになって、ひどく大儀そうな足どりで歩き、なんどもはあと深い太息といきをついた。
「では、……なんだ、……慥かに預かったから」
 別れるときに初めて万兵衛はこう云った。彼はこっちを見ることができないようだった。おけいは黙って微笑して、だがそのまま長屋の路地へはいっていった。……家へ帰ってみると、医者の良庵が来ていた。母親のおたみがまた発作を起したのだろう、隣のおむらが世話をして呉れたとみえるが、母親はいつもの薬がもう効き始めたらしく、うとうと眠りかけているようすだった。
「やっとお金の都合がつきました」
 医者を送りだしながら、おけいは低い声でこう云った。
たまっているのもきれいにします、これからも決して御迷惑はかけませんから、どうぞお願いします」
 医者は向うを見たまま頷いた。なにか云おうとするふうだったが、しかし黙って薬箱を持って、そして出ていった。
「お茶がはいってるよ、おけいちゃん」
 おむらが病人をはばかるように、囁き声でこう呼びかけた。おけいは母のようすを見た、唇を少しあけて、軽い安らかな寝息をたてている。おけいはそっと隣の女房の側へ来て坐った。
「いつも済みません、おばさん」
「ぬるくなったかもしれないよ。良庵さんに出したあとだから……」
 音を忍ばせて茶を注いでやり、自分のにも注いで、おむらはうかがうようにこっちを見た。
「どうだったの、話は」
「ええ定めて来たわ、すっかり」
「相手はどう、よさそうな人かえ」
「わからないけれど」おけいは湯呑を取って眼をそむけた、「――でもおっとりした人だったわ、少し肥っていて、丈夫そうな」
「どんな商売をしているの」
「それがわからないの、お店は大阪とこっちと両方にあるって云うし、かなり大きくやっているらしいんだけれど、そのお店がどこにあってどんな商売をしているんだか、尾花屋のおかみさんも知らないらしいのよ」
「そんなこと云っておけいちゃん、もしもその人が悪い事でもしている人間だったりしたら、いやじゃないの」
「しかたがないわ、あたしお金が要るんですもの」おけいは微笑した。
「たとえ相手が泥棒だって、凶状持ちだって、……でも大丈夫よおばさん、そんな人でないことは慥からしいから」
 おむらは溜息をついた。それから衿へ掛けてある手拭の端で、なんとつかず口を押え、もういちど肩をおとして溜息をついた。
「あんたが女に生れて来たんでなければね、そうすればこんなとき悲しい思いをしなくてもよかったのに、でも女だからこれだけのことができるんだよ、おけいちゃん、これが男であんたの年であってごらん、それこそ阿母さんに薬ひとつ満足に買ってやれやしないから」
「そんなこともないだろうけれど」
「だって宇之さんをごらんな、二十一にもなっていっぱしの職人でいて、弟の竹ちゃんがあの大怪我をしたとき、やっぱりお医者にはかけきれなかったじゃないか、あのときすっかり治るまでお医者にかかっていたら、竹ちゃんも死なずに済んだかもしれないのに、……それを思えばおたみさんは仕合せだよ、あんたにしたってまだ年は若いし、縹緻はいいし、いまにこんなことも笑い話にするようなときがきっとやってくるよ、生きているうちには悪いことばかりはないものさ、くよくよしないで、おけいちゃんらしく辛抱してお呉れよ」
「大丈夫よおばさん、あたしちっともくよくよなんかしてはいないわ、こうするよりほかにどうしようもないんだもの、恥ずかしいだの悲しいだの辛いだの、そんなこと思ってたら一日だって生きてゆかれやしないわ」
 おけいはこう云って、きらきらするような眼でおむらを見て、明るく笑った。
「それよりあたし、おばさんに頼みがあるの」
「水臭いことお云いでないよ、なんて、啖呵たんかをきるほどのがらでもないが、なによ改まって」
「あたしが出ていったあとのことよ」
 和助との約束をおけいはあらまし話した。
「そういうわけで、毎月の物を尾花屋へ取りにゆくとか、あっちの人との面倒な事は大家さんがして呉れることになったけれど、阿母さんの世話はやっぱりおばさんにお願いしたいのよ」
「わかりきってるじゃないかそんなこと、あたしはこの話が出た初めから」
「そうじゃないの、それはいまさらお願いもなにもないんだけれど、そうじゃなく、これまでと違ってあたしがいなくなるでしょう。昼間はともかく夜なかまで世話をして頂くわけにはいかないわ、それであたし考えたのよ」
 おむらに松乃という姉があった。本所の横網に住んでいてときどき遊びに来る、おけいもよく知っているが、年はもう五十だろう。亭主は網舟の船頭であったが、去年の冬、十九になる息子の平吉といっしょに沖へ出て、突風に遭って二人とも死んでしまった。……それ以来は針仕事などして暮しているが、おけいはその人に家へ来て貰えまいかと云った。
「ああそうか、そういう手があるわねえ、だけどおけいちゃん、あの人ときたら知ってのとおりぐずだから」
「だっておばさんが隣にいて呉れるじゃないの」おけいは賢げに笑った、「それから、あたしはっきり云うから怒らないでね、っていうのがお金のことなの、あたし阿母さんの世話をして貰うために人を頼みたいって云ったら、毎月べつに一分ずつ呉れることになったの、それで横網のおばさんにがまんして貰いたいんだけれど」
「いいわ、それ貰うわ」
 おむらは眼をふっとうるませた。
「おけいちゃんからお金なんて、一文だって貰うつもりはないけれど、断わればあんたの気の済まないのがわかるし、正直いえば姉さんだって助かるんだから」
「うれしいわ、あたしどなられやしないかと思ってびくびくものだったのよ」
「こんなときでなけりゃどなるくらいじゃ済まないよ」おむらも笑った、「――それじゃあ横網のほうへすぐに知らせておくからね」
 こう云ってまもなくおむらは帰っていった。


 母親は夕餉ゆうげまで眼をさまさなかった。支度が出来たので起して喰べさせ、煎薬せんやく頓服とんぷくをのませると、びっくりするほどの効きめで、すぐにまた眠りだした。
 ――こういう薬があってこんなによく効くのに、法外なお金を出さなければ手にはいらないなんて、どういうわけかしら。
 おけいは母親の寝顔を見ながらそう思った。
 おたみが病みついてから三年になる。もともと躰が弱かったらしいが、おけいを産んで以来は精をなくしたようで、続けて百日と丈夫でいたことがなかったという。おけいが覚えてからでも、煮炊きや洗濯などはたいてい父親の七造がやった。おたみの躰の調子がいいときでも、洗濯だけは決してさせなかった。……七造は山本町の「植芳」という植木屋の職人をしていたが、それはこの長屋へ移って来てからのことで、同じ路地うちにいた源次が口をきいたのだという。源次は子飼いからの植芳の職人で、ずいぶんいい仕事をするそうだが、宇之吉という長男のほかに子供が五人あり、また自分が底抜けの酒のみだったため、いつもひどい貧乏に追われていた。それで宇之吉などは十一二の年から父と一緒に植芳へ手伝いに出て、家計を助けなければならなかった。
 ――病気はおめえしようがねえ、にんげん病気にゃあ勝てねえ。
 毎晩のように酔って来て、定ってそんなふうに云う源次の姿を、おけいは今でもよく覚えている。
 ――おれの酒は病気だ、こいつばかりは自分でどうにもならねえ、なあ七さん、おめえはおたみさんの病気で苦労するが、おめえに苦労させるおたみさんはもっと辛えや、そうだろう、それが夫婦の情てえもんだ、……おれも酒じゃあ女房子供に苦労させる、わかってるんだ、宇之の野郎なんぞ可哀そうでしょうがねえんだ、こころもちは辛えんだけれども、しようがねえ、この酒はやめえなんだから、夫婦親子の情なんていったっておめえ、病気にゃあ勝てやしねえや。
 こんなふうにくだを巻く源次の口から、おけいはほかにもいろいろなことを聞いた。父の七造がまえには京橋へんの質屋にいたこと、おたみはその店の養女で、いつか七造と愛しあっていたところ、婿を取ることになったので隠しきれず、結局は義絶ということで、二人とも身ひとつで逐い出されたことなど、……もちろん断片的な、半分はふざけたような話しぶりだったが、おけいには強い印象として記憶に残った。
 源次の話がどこまで事実かということはわからない、父や母は決してそんな話はしなかった。またこちらから問いただせることでもなかったが、不平らしい顔もせず煮炊き洗濯をする父のようすや、そういう良人おっとに寝床の中から喰べ物の註文をしたりする母の態度を見ると、質屋の養女とその店の者という関係を証明するようで、おけいはしばしば哀しいような切ないような気持を感じたものであった。
 源次が四年まえに死んでから、宇之吉は七造と一緒に植芳へかよった。おけいと四つ違いの、そのときまだ十七だった彼の腕では、母と五人の弟妹は養いきれず、妹の一人は子守りに出し、十二になる弟は日本橋こく町の太物商ふとものしょうへ奉公に遣ったが、それで母親の手内職を入れても食うのがやっとのことらしかった。
 ――可哀そうに今日も宇之は弁当を持って来なかったよ。
 父親がそんなふうに云うのも珍しいことではなく、小銭や米などをそっと届けて遣るところなど、おけいの知っているだけでも五たびや十度ではなかった。……それがおけいの身にまわって来たのである、酒も煙草も口にせず、なんの道楽もなく稼ぎとおしていた七造が、去年の冬のかかりに腸を病んで急死し、その日からすべてがおけいの肩にかかってきた。
 母親はもう三年越し寝ついたきりだったが、自分で世話をするようになって、初めて病気の性質や薬の高価な意味がわかった。もとは単純な婦人科の疾患だったのをこじらせたのだそうで、激痛をともなったさしこみの発作が起り、それを鎮めるには一種の頓服しかなく、その薬は輸入品で、しかも表むきには禁制になっているため、手に入れることからして非常に困難だというのであった。……おけいがそれを知ったのは三十日ほどまえのことである。このあいだ約半年、家主の万兵衛に金を借りたし、それこそ売れないような物まで売りつくした。
 ――おとっつぁんは仕合せだった。
 母親は独り言のようによくそう言った。
 ――少しもなが患いをしないで、あんなに早く死ねて、……あたしが代れたらよかったのに、こんなふうでおまえにまで苦労をかけて、辛い思いをしてまだ死ねないなんて、……ごうが深いっていうんだろうけれど、つくづくお父つぁんがうらやましいよ。
 宇之吉も苦しいなかでよくちからになって呉れた。口の重い性分で、いつもむっと怒ったような顔をしているし、して呉れることもたかの知れたものだったが、おけいにとっては大きな心の支えであり、頼りであった。そうして、急速に二人の思いが結びついていった。
 ――辛抱しよう、おけいちゃん、いまによくなってゆくよ、もうしばらくだよ、苦しいだろうが、きっといまになんとかなるからな。
 宇之吉はそう云って励まして呉れた。しかしその彼自身がまた不幸にみまわれていた。いちばん下の弟の九つになる竹次が、この正月にひどい怪我をした。木登りをして遊んでいたのが落ちて、額を割り右の太腿の骨を折った。すぐ医者にもみせ、骨ぎにもかよわせて、いちおう治ったようにみえたのに、四十日ばかり経つと太腿の折れた部分がみだし、それがみるまに脱疽だっそというものになって、死んでしまったのである。
 ――骨接ぎがへたくそだったんだよ。
 近所の者は口ではそう云ったが、治療が不充分だったのだとは誰もが察していた。貧乏人は医者にも満足にはかかれない。病気になったらおしまいだということは、それぞれが自分でよく知っていることであった。……おけいは医者から母の病気と薬の性質を聞いて、そのときすぐにはらをきめた。医者の払いも溜り、借りも溜り、もう売る物も無くなっていた。
 ――宇之さんのためにもそうしたほうがいい。
 そのままの状態では、見ている宇之吉も辛いだろう、こう思いきった。そして隣のおむらの知人で、そういう方面にかかわりのある人に頼み、尾花屋という家へでかけたのであった。
「――阿母さん、早くよくなってね」
 おけいは母親の寝顔に向って、口のなかでこう囁いた。
「――あたしはいなくなるけれど、もう薬代にも困らないし、美味おいしい物も喰べられるわ、そのうちあの人に頼んで、できたら一緒に暮せるようにするし、そうでなくったって病気が治れば一緒になれるわ、……だからよく養生して早くよくなって頂戴ね、阿母さん」
 おたみせているのにむくんだようなあおい顔で、唇の間から歯をのぞかせて、いい気持そうに熟睡していた。
 夕餉のあと始末を終って、縫いかけた母の肌着をひろげたとき、あたりを憚るように宇之吉が訪ねて来た。いつもとは違ったようすで、眼つきがきらきらし、頬のあたりが硬ばっていた。
「ちょっとそこまで出て貰えないか、大島町の河岸かしで待ってる」
 彼はそう云って返辞を待たずに去った。おけいは胸が騒いだ。彼は聞いたのに相違ない。
 ――どうしよう。
 すぐには立てなかった。しかしやがて勇気をだした、母親はその薬の効いているあいだは眠っている。おけいは行燈を明るくして、そっと家をぬけだしていった。
 大島町の河岸というのは深川の南の地はずれで、海に面してずっと荒地がひらけている。宇之吉はその荒地の端で待っていたが、おけいが来るのを見ると、黙って草のなかを海のほうへ歩きだした。空は曇っているのだろう、星も見えず、まだ宵のくちなのにきみの悪いほどあたりは暗かった。
「――怒ってるの、宇之さん」
 おけいが先にこう云った。
「――なにか聞いたのね」
「ああ聞いた」宇之吉は立停った、「おふくろがおむらさんから聞いたんだ、本当なんだね」
「そうするよりしようがないの、そのほかにはどうしようもないのよ」
「――金はもう、受取っちまったのか」
 おけいはちょっと黙ってから答えた。
「四五日うちに迎えの駕籠が来るわ」
 宇之吉はふいにおけいをひき寄せた。両手で激しく抱き緊め、自分の頬をぐいぐいとおけいのへすりつけた。おけいは頭がしびれたようになり、自分では知らずに、宇之吉を抱いて泣きだしていた。
「おれは放したくない、どこへも遣りたくない、おれは一緒になって貰いたかったんだ、おけいちゃんと一緒になれると思っていたんだ」
「うれしいわ、宇之さん、あたしもそう思っていたのよ、あたしも宇之さんのお嫁になりたかったのよ」
「そんなら、それがもし本当なら」
 こう云って宇之吉はおけいの肩を掴み、押し離すようにして顔をのぞきこんだ。
「おけいちゃん、おれと一緒に逃げて呉れ」
「――逃げて、どうするの」
「二人で暮すんだ、おれには職がある、職が無くったってなんでもやる、おれもおけいちゃんもずいぶん辛抱してきた、もうたくさんだ、おれたちだって生きたいように生きていい筈だ、逃げようおけいちゃん、どこか遠いところへいって二人で暮そう」
「――待って、宇之さん、おちついて頂戴」
 おけいは彼を見あげて、静かなゆっくりした調子で云った。
「あたしもそう思ったことがあるの、いっそ宇之さんと一緒に逃げだして、どこかへいってしまおうかしらって、……でも考えたの、あたしたちが苦しいのは貧乏だからでしょ、宇之さんのおじさんもあたしのお父つぁんもあんなに稼いで、それでお酒を飲むとか病人がいるとかすれば、もう満足に喰べることも着ることもできなくなるわ」
「だから逃げだすんだ、このままいればおれたちも同じことになってしまう、おれたちの一生もめちゃめちゃになってしまうんだ」
「そうじゃないわ、逃げたって同じよ宇之さん、親兄弟や蛤町の長屋からは逃げられるけれど、貧乏からは逃げられやしないわ、……あたしのお父つぁんや阿母さんだって、貧乏したくって蛤町へ来たんじゃない、二人で仕合せになろうと思っていたに違いないわ、あの長屋にいる人たちのなかにも、江戸へゆけばなんとかなると思って、どこかから逃げて来た人がいるでしょう、でもやっぱり同じことよ、運不運もあるだろうけれど、ただ此処を逃げだすだけでは決して仕合せにはなれやしないわ」
「それだっていい、おけいちゃんとならおれはどんな貧乏だってするよ」
「そしてあたしたちの子供にも、あたしたちのようにみじめな辛い思いをさせるのね、宇之さん……いいえ、あたしはいやよ、あたしは自分の子供にはそんな思いはさせたくないわ、あんただってそんなことはできない筈だわ」
 宇之吉は黙って頭を垂れた。おけいは彼の手をそっと握り、怒りを抑えたような口ぶりで、云った。
「逃げちゃだめ、逃げるのは負けよ、ねえ、世の中はたたかいだっていうでしょ、宇之さん、……あたし五十両という支度金を取ったし、家のほうへも月々の物を取る約束をしたわ、向うへいってからもできるだけ詰めて、できるだけお金を溜めるつもりよ、……そしてこれならと思うくらい溜ったら、わけを話してひまを貰うわ、強がりを云うようだけれど、あたしきっと思うだけの物を溜めてみせる、きっと溜めてみせるわ」
 怒りの宣言のようにおけいはそう云った。だがそのあとから心はよろめき、むざんなほど声がふるえた。
「あんたも強くなって頂戴、やけになったりあきらめたりしないで、辛抱づよく、一寸刻みでもいい貧乏からぬけるくふうをして頂戴、……そしていいお嫁さんを貰って、仕合せに」
「おれがいい嫁を貰うって」宇之吉はかすれ声で叫ぶように云った、
「――じゃおけいちゃんは、おれに待っていろとは云わねえのか」
「だって宇之さん、あたしきれいな躰じゃなくなるのよ」
「そんなことがなんだ、それが悪いんなら罪の半分はおれにある、おれに甲斐性かいしょうがあればおめえにそんな悲しい思いをさせずに済んだんだ、おれあおめえのほかに嫁なんぞ貰おうとは思わねえ」
「宇之さん」
 おけいは握っていた彼の手を自分の胸へ押しつけ、あえぐように叫んで身をすり寄せた。宇之吉はその手を振放し、おけいの肩をつぶれるほど抱き緊めて云った。
「待ってるぜ、おけいちゃん」
 おけいは身もだえをした。
「それじゃあ済まない、あたしが宇之さんに済まないわ」
「泣いちゃあいけねえ、いま泣くんじゃあねえおけいちゃん」宇之吉は歯をくいしばった声で云った、「泣くのはもっとさきのことだ、いつかそういう日がきて、二人が晴れて一緒になれたらだ、……それまでは泣くのはよそう、おれも強くなる、精いっぱい稼ぐ、そして何年でも待っているぜ、いいなおけいちゃん」
「そんな、そんなことを云えば」
 おけいはいやいやをしながらむせびあげた。
「泣くまいと思ったって、泣けちゃうじゃないの、こんなに、しぜんに声が出てきちゃうわ」
 咽びあげる声に笑いがまじった。そのおけいの顔へ、宇之吉がのしかかるような姿勢になり、うっのどへ声の詰るのが聞えた。……みぎわではしきりに波の音がし、闇の向うに佃島つくだじまの燈がちらちらとまたたいていた。


 尾花屋を駕籠で出て、永代橋を渡ったところで下り、水天宮すいてんぐうの近くでつじ駕籠に乗ったが、それも京橋八丁堀で下りた。こうして五たびも駕籠を乗り替えたうえ、目黒から大山道を西へまっすぐにゆき、柿の木坂というところで、掛け茶屋へはいってひと休みした。
「遠いのでさぞ吃驚びっくりしたろう」
 茶店を出て、こんどは歩きだしながら、こう云って和助は振り返った。おけいは淋しそうな微笑をうかべ、そっと首を振った。
「こっちのほうへ来たことがあるかね」
「いいえ、初めてです」
「下町の人間は出不精でぶしょうだからな」
 和助はきげんのいい調子で笑った。
 大山道を左へ曲り、丘へ登って、松林の中を二町ばかりいった。あたりはすっかり田舎の景色であった、どっちを眺めても林や草原や畑ばかりで、農家らしいものもまれにしか見えなかった。……五度も駕籠を乗り替えたのは、駕籠きなどに足取りを知らせないためであろう、そのうえ閑居かんきょというにはあまりに土地が辺鄙へんぴすぎる。
 ――なにか悪い事でもするような人だったら。
 おむらの云った言葉が思いだされて、覚悟をきめて来たものの、おけいはだんだん不安になるのを抑えることができなかった。
 二町ほどいって右へ坂を下りた。小さな谷間といったふうな、二つの丘に囲まれたところに、その家はあった。南西へひらけた千坪ばかりの広さで、周囲に高い生垣をまわし、表側だけは黒く塗った板塀いたべいで、あまり大きくはないが両開きの門が付いていた。
「あの川はなんというか知っているかね」
 門のところで和助がそう云った。土地はそこから西へ段さがりになって、松林の向うに草原がひろがり、そこにゆるやかな川の流れているのが見えた。
「あれが玉川だ、名ぐらいは知っているだろう」
「ええ、聞いたことはあるようですけれど」
「これからあゆが獲れるんだが、ここのは味がいいので名高いんだ」
 川魚は嫌いですと云おうとしたが、おけいはさりげなく頷くだけにした。
 門をはいると老人夫婦が出迎えた。名は吾平にとみというのだが、爺や婆やと呼べばいいそうである。かれらはまえから聞いていたのだろう、おけいのことを御新造さんと呼び、とみが先に立って家へ案内した。……さして広くはないが凝った造りの平家で、土蔵が付いていた。部屋は五つあり、おけいの居間には箪笥たんすさおと鏡台、長火鉢、小机など、すっかり道具がそろっていた。
「あとで箪笥をあけてごらん、帯地や反物が夏冬ひととおり入れてある。私は今日は帰って五六日したら来るから、そのあいだに当座の着る物を仕立てさせるんだね」
 和助は長火鉢の前へおけいを坐らせ、自分もさし向いに坐って、さも満足そうな口ぶりでこう云った。
「こんな処に仕立屋さんがあるんですか」
「山奥へでも来たと思ってるんだね」和助はからかうように笑った、「――おちついたら下へいってごらん、仕立屋どころか料理屋もある、しかしまあ、私のいないときは出歩かないようにして呉れないと困るが」
「あたし外へ出るのは好きじゃありません」
 とみが茶を持って来ると、和助は食事を取るように命じた。鈴半へいって――などと云ったところをみると、それが料理屋かもしれない。和助は茶を飲み終ると、おけいれて家の中をみせてまわった。
「これが寝間、こっちが私の部屋だ、おちついたらこの向うへ茶室を建てようと思う、……これから茶や生花をならって貰うんだな、読み書きの師匠も呼んでやるよ」
 土蔵をあけてはいると、なにが入っているのか長持ながもちひつや箱がぎっしり並んでいた。和助はおけいを用箪笥の前へ呼んで、
「この中に金や書付が入れてある、これがこのかぎだ、預けて置くから気をつけて持っていて呉れ、それから……」
 彼は鍵を三つ渡して、いちばん奥の長持を指さした。
「この中のはまとまった金だからな、用箪笥のはおまえに任せるが、これには手をつけないように、……いまに見せてやるが、あの長持や箱の中にはかねめの品がたくさん入ってるんだ、私が十年かかって集めたものだがね、おまえがよく面倒をみて呉れれば、いつかはこれがみんなおまえの物になるんだよ」
 和助の声には一種の感慨がこもっていた。色の黒いたくましい彼の顔は赤くなり、眼はおちつきなく光っていた。
 ――そうだ、これはおれの物だ、此処にあるすべてはおれの物だ。
 彼はこう叫びだしたいくらいだった。
 運ばれて来た食事は、山女魚やまめの田楽に鯉のあらい、甘煮と鯉こく、卵焼などであった。おけいはしをつけたが、川魚の匂いがどうしてもいやで、甘煮と卵焼しか喰べられなかった。
「此処へ来て川魚が喰べられないのは困ったな、まあそのうちに馴れるようにするんだな、鮎も食えないなんてそれこそ玉川が泣くぞ」
 こんなことを云って、和助はおけいの残した物までみんな喰べた。
「お店はどちらに在るんですか」
 帰るといって和助が立ったとき、おけいは送りだしながらそうきいた。和助はあたまからとりあわなかった。
「そんなことは知らなくってもいい、こんど来ればもう二度と往き来はしないんだから、……門まで送っておいで」
 こう云って玄関を出た。
 彼はおけいに庭をみせてまわった。かなり広い芝生があり松林があった。裏には少し畑もあった、吾平が勿躰もったいないからといって、野菜を作っているのだそうである。
「こっちは見えねえし、あけて置くのはむだだからねえ」爺やは付いて歩きながらおけいにそう云った、「――これっぱかしでも旦那や御新造さんのあがるくれえは作れるだから、それにおらあも手がすいてるだからよ」
 おけいは来たときから吾平ととみの人柄をみていた。口ぶりでは老夫婦はこの近くの者らしい、性質もわるぎのない朴訥ぼくとつなようすで、ばあいによっては力になって貰えそうな、頼もしい感じがした。
「では五六日うちに」和助は門のところでこう云った、「――早ければ二三日のうちに来るから、じゃあ……」
 そして彼は坂道を西へ下りていった。


 それからまる三日、和助は最後の仕上げのために奔走した。すっかり手順がつき、用意がととのった。
 その日は三軒ばかり客筋をまわって、れ方に銀座の店へ帰った。主人の儀兵衛は町内の寄合にでかけたという、和助は自分の机でその日の帳締めにかかったが、途中でやめて、手代の増吉を呼んだ。
「どうも頭が痛くっていけない、風邪でもないらしいんだが、……どうにも気分が悪いから、おまえこれを締めといて呉れないか」
「へえよろしゅうございます」
「医者におどかされてから、頭が痛むとすぐ神経にこたえる、いやな心持だ」
 和助はまえから、――医者に中気のがあると云われた。ということを事実らしく云い、頭をやすめるために海へ釣りにゆくという理由で、ときどき店を休んだ。釣りにゆくのもまるっきり嘘ではないが、おもな目的は、誰にも知られてはならない必要な時間を取ることであった。そして今ではもう、彼に「中気のがある」ということは、家でも店でも知らない者はなかった。
「明日はことによると休むかもしれない、旦那がお帰りになったらそう云って、それから……と」和助は片手で額をんだ、「――島屋さんではこの十日に返済なさるということだったから、それも旦那に申上げといてお呉れ」
「かしこまりました、それだけでようございますか」
 それだけだと云って、和助はさりげなく店の中を眺めまわした。……十二の年からあしかけ三十二年になる。みじめな、暗い、濁った日々、ふり返ってみれば屈辱と悲哀に塗りつぶされた月日のようだ。しかしそれも今日が終りである、もう二度とこの店を見ることはないだろう。
 ――これでおさらばだ、二三日うちにひと騒ぎ起るだろう、おれの置き土産みやげだ、ちょっとしたみものだから悠くり見て呉れ。
 あざけるように心のなかでつぶやいて、それから駕籠を呼ばせて店を出た。
 新銭座の家へ帰った和助は、具合が悪いからと云って早く寝た。けれどもこれが最後と思うせいか、頭がえてどうにも眠れない、そのうちに十時の鐘が聞え、苛々いらいらしてきたので起きあがって、妻に酒を云いつけた。
「お酒って、……いいんですか」妻のおこうは針を持ったまま良人を見た、「――お医者に止められてるっていうのに、なにか煎じ薬でも」
「うるさい、持って来ればいいんだ」
 お幸はしぶしぶ立っていった。和助はそのうしろ姿を憎悪の眼で見やった。ずんぐりと胴の太い肥えた躰、勘のにぶさ、動作ののろさ、げびた口のききよう、すべてがいやらしく、やりきれないほど醜かった。
 ――こんな女と十三年も暮したんだ。
 彼は舌打ちをした。
 ――だがそれも今夜でおしまいだ。
 隣の部屋には寝床が二つ並んで、十一になる和市と八歳のおさきが眠っていた。彼はその子供たちの寝姿を見てもなんの感情も起らないふうで、冷やかな一瞥いちべつを投げるとすぐに眼をそらした。
 ――おまえたちはおまえたちで好きなようにやるがいい、おれも自分でやってきた、誰の世話にもならなかった、……七つの年に孤児みなしごになってから、ずっと自分で働いて生きてきたんだ、おまえたちもそうすればいいんだ。
 彼の顔に皮肉な嘲笑ちょうしょうするような表情がうかんだ。……お幸が盆の上へ燗徳利かんどっくりと盃をのせて持って来た、彼は寝床の上に坐ったまま、独りで不味まずそうに酒を飲みだした。
 ――そうだ、ずいぶん辛い月日だった。
 七歳で孤児になってから、親類さきを三軒も転々し、十二の年に銀座の両替商へでっち奉公にはいった。親類では厄介者として追い使われ、でっち奉公は過労と屈辱の日が続いた。――いつかこの取り返しはつけてやる、いまにみんなを見返してやる。寝ても起きてもそう思っていた、ほかのでっち小僧たちは屈辱を屈辱とも思わず、牛馬のようにこき使われながら、笑ったりふざけたり平気だった。そのなかで和助だけはひそかに心で刃を研いでいた。……店は「近正きんしょう」と呼ばれ、金銀地金の売買と両替を兼ね、またかたわら高利の金融もやっていた。彼は辛抱づよかった、決していそがなかった。ひそかにねらうもののために、彼は誰よりも勤勉に働き、誠実に店の利益を守った。それは彼の復讐心ふくしゅうしんをさらに強くしたが、周囲の信用を集める効果もあげた。
 彼は吝嗇りんしょくに銭を溜め、狡猾こうかつくすねた。二十一で手代になり、やがて番頭になった。店を持たせてやろうと云われたが断わり、嫁を貰えと云われたが断わった。そして三十の年には支配人になり、金融の仕事を任された。だがそれにはお幸を嫁に貰うという代価を払った……、なぜならお幸は主人儀兵衛のめいで、二十五になっても嫁入りぐちがなく、主人夫妻ももてあましたかたちであった。それをこっちから望んで嫁に取ることが、どういう効果をあらわすか、和助は充分に知っていた。
 和助は新銭座に家を持ち、店へかよい、客筋を自分でまわった。彼は確実に利益をあげ、顧客とくいやした。だがそのあいだに「近正」という背景を利用して、ひそかに彼がふところをこやしていることは、知る者がなかった。疑うにはあまりに誠実であり勤勉であった、仕事の慥かさ、人柄の堅さ。……主人や店の者は云うまでもなく、関係のある人すべてが彼を信じた。
 ――だがいまにわかるだろう、いまに、おれがどんな人間だったかということが。
 彼は心のなかでいつもそう嘲笑していた。彼のあいそ笑い、揉み手、追従ついしょう、跼める腰、卑屈な低頭。その一つ一つが復讐の誓いを強くし、決心に執拗しつようさを加えた。……十年まえ、三十四の年に荏原郡調布村えばらごおりちょうふむらに土地を買った。それから今日まで周到に狡猾に、そして極めて用心ぶかく事を運んだ。家が建ち土蔵が建った、書画骨董こっとう、茶器、必要なあらゆる道具が揃い、土蔵の中には八千両余りの現銀が溜った。彼のめあては壱万両である、もうひと息というところへ来ていた、しかし、そのときふと危険な予感がし始めた。……そんな理由はない筈である、万が一にも尻尾しっぽを掴まれる筈はない、そんなへまなことは決してしてはいなかった。にもかかわらずその予感はかなり強かった。……そうだ、満つれば欠けるということもある。和助はこう思って、きっぱりと打ち切る決心をした。
「――なにか云いましたか」
 お幸が向うから声をかけた。和助はとびあがるほど吃驚した。回想でわれを忘れていたらしい、という声さえあげた。
「――どうかしたんですか」
 だらけたような無神経な妻の調子に、彼は激しい怒りをそそられた。けれどもそれを抑えつけて、冷やかに燗徳利を指した。
「もう一本つけて呉れ、熱くして」
 お幸はのそのそと立ってきた。
 ――こんな女と十三年も暮してきたんだ。
 彼は妻のほうへ侮蔑ぶべつの眼をやりながらそう思った。それはすぐにおけいの姿へつながった、あの美しい従順な、みずみずしい娘、これまで見たこともなく、形容しようもないきれいな、若さと命のあふれるような躰。
 ――だがお幸、おまえも不幸ではなかった筈だぞ、おれが貰ってやらなければ一生おとこの味も知らずに済むところだった、それが嫁になって、子供も二人できたんだから、……おまけに、あとのことは近正の叔父がなんとかして呉れる、おれはおまえからつりを取ってもいいくらいだ。
 勝手で妻が酒の音をさせていた。和助は満足そうに、うす暗い家の中を眺めまわした、冷酷な、嘲弄ちょうろうするような眼つきであった。


「頭をやすめにいって来る、もうきすが出ているかもしれない」
 彼はそう云って、釣道具を持って、まだほの暗いうちに家を出た。
 金杉の「梅川」というのがゆきつけの舟宿であった。預けてあった包を持って舟を借り、川を下って海へ出た。和助はかなり巧みにを使うことができる。海へ出ると西へ向ってぎながら、もう決してうしろへは振返らなかった。
「――とうとう今日という日がきた、夢のような望みだったが、とうとうその夢がおれのものになる」
 独りでこう呟きながら、夢の実現と、世間に対する復讐の完成のために、彼は声をあげて喚きたいような衝動を感じた。
 品川の沖で日が昇った。海の上では日光は暑い、たちまち汗がふきだした。和助は着物を脱ぎ、次には半身裸になった。強い日光と、休みなしに漕いでいるためか、頭が痛くなり、ときどき眼がかすむように思えた。
 ――もうひと息だ、松が見えるまで、それですべてが済むんだ。
 鮫州さめずへかかると遠く松並木が見えた。鈴ヶ森であろう、頭の痛みは時をきって強くなり、かなり烈しく痛む。そして汗をかいているのに、それが熱いのか冷たいのかはっきりしない。気分も重苦しく、胸がむかついてきた。
「ひと休みしよう、それに着替えをしてもいいじぶんだ」
 和助は櫓をあげて休んだ。
 日並がいいのでかなり釣舟が出ていた。しかしみんな遠かった。初夏のいだ海は小波さざなみも立たず、のように平らな浅黄色に、空の白い雲がはっきりと映っていた。……釣道具をあけ、遺書を出して、それを餌箱を押えにして舟底へ置いた。遺書には「店の金を遣いこんだので申しわけのために死ぬ」という、びの文句が書いてある。……次に梅川から持って来た包をひらいた、つむぎのこまかい縞の単衣ひとえに、葛織くずおりの焦茶色無地の角帯かくおび印籠いんろう莨入たばこいれ印伝革いんでんがわの紙入、燧袋ひうち、小菊の紙、白足袋に雪駄せった、そして宗匠頭巾そうしょうずきんなどをそこへ並べた。
 遠い釣舟にも気をくばりながら、用心ぶかく着替えをした。潮のぐあいで、舟はしぜんと西南へ流されてゆく。彼は家から着て来た物をひと品ずつ、舟べりから海の中へ捨てた。そして立って櫓を使いだした、もういそぐことはない、彼は悠くりと静かに漕いだ。
 金杉を出てから約四時間、和助は六郷川の川口に近い海岸へ舟を着けた。そこは若いあしがいちめんに伸びていて、舟を入れると陸からも海からも見えなくなる。彼は満潮線をよく慥かめた、今は潮の退くさかりだから、あげて来るのは夕方であろう、満潮になれば舟が浮くように、そして川の流れに乗って沖へもってゆかれるように、およその見当をつけてから舟を下りた。
「なるべく遠くへいって呉れ、少なくとも明日まではみつからないようにな、……ではお別れだ、頼むぞ」
 和助は舟に向ってこう云い、かかとほどの水を渡って岸へあがった。
 濡れた足を拭き、足袋をはいた。そのときまた胸がむかつき、ぐらぐらと眩暈めまいがした。暫くじっとしているとおさまったので、雪駄をはいて立ちあがった。……湿地や水溜りの間を、拾い拾い街道のほうへ歩きだした。東海道の往還は見えていた。松並木の間をちらほらと馬や人が往来している、車の音も聞えてくる。
「おけいが待っているだろう、今夜は風呂をたてさせて、鈴半からさかなを取って……」
 突然、和助は眼がくらんだ、地面が斜めになり、耳の奥でがあっすさまじい音が起った。彼はなにかに掴まろうとして、両手をおよがせながら、若いあしの中へ前のめりに倒れた。
 和助は眠りからさめた。
「まあそっとしとくよりしようがない、まちがいなし卒中だよ」
 すぐ側でそう云う声がした。
 ――夢をみているんだな。
 和助は可笑おかしくなった。みんなが自分に中気のけがあると信じている、ばかなやつらだ、しかし誰だろう。
「とんでもねえものを拾っちゃったな」こんどは違う声が聞えた。「――紙入の中にゃあ二両ばかりへえってるが、名札もところ書もねえんで、まるっきり身許みもとがわからねえ」
なりでみると相当な店の隠居らしいがな」
「それにしちゃあぶっ倒れた処がけぶですぜ、六郷の川っぷちを海のほうへ、三十間もいった蘆ん中だからね、なんだってあんな処へ踏んごんだものか、わけがわからねえ」
 和助はあっと思った。六郷川、蘆の中、ぶっ倒れていた。これらの言葉がなにを意味するか、初めて彼にわかったのである。
 ――これは夢ではない。
 総身を恐怖がはしった。とび起きようとしたが、躰は岩にでもなったように重く無感覚で、声のするほうへ顔を向けることもできなかった。
 ――中気、……まさか。
 彼は笑おうとした。だがすぐに、今そこに聞えた声を思いだした。
「まちがいなし、卒中だよ――」そして彼は息が詰りそうになり、われ知らず絶叫した。絶叫、いやそうではない、それは哀れな、いやらしいうめき声に過ぎなかった。
「またうなりだしたぜ、いやな声だなこいつは」
 こう云って誰かが覗きこんだ。三十五六になるひげだらけの男だった。眉の太い唇の厚い、色のまっ黒な、けれども眼だけは好人物らしくみえた。
「眼をあいてますぜ先生、やれやれ、涙とよだれでぐしょぐしょだ」
「おまえさん動いちゃあいけないよ」
 もう一人の顔が見えた。五十四五になる男で、頭を総髪に結い、ひどくせていた。もちろん医者に違いない、彼は和助の手首を取り、脈をみながら云った。
「卒中で倒れなすったんだ、全身のしびれるいちばん重いやつだから、動かないでじっとしていなくちゃいけない、むりするとそのまんまになりますよ、脅かしではないんだから、静かに寝てなくちゃいけませんよ」
「口もきけねえのかね、先生」
「そんな声でものを云っちゃあいけない、耳は聞えるんだから」
 そして二人は向うへいったが、話す声はかなりはっきりと聞きとれた。
「すると治るみこみはねえのかね」
「いけないね、すぐ死ぬほうが病人のためなんだが、……そのほうがいいんだが、命は助かってもこのままで寝たっきり、まあ、……このたてには間違いはないだろう」
「だってそんな、それじゃどうすればいいんだ」
「二両という金があるんだから、これも因縁だと思って世話をしてやるんだね、金が無くなっても引取り先がわからなかったら、まあそのときは村の御救い小屋へでも入れるさ」
「どっちにしてもよくは云われねえ、まったくこいつはとんだことをしたもんだ」
 和助は呻いた。彼は調布村の家を思い、土蔵の中の金品を思い、そしておけいを思った。玉川の流れを見おろす閑静な土地、それは彼のものである、ぎっしり詰った書画骨董、八千余両の金、それも彼のものだ。緻密ちみつに計画し、執拗に狡猾に、十年のあいだ営々と、用心に用心して作りあげたものだ。そしてあのおけい、……風呂場で見たあの裸。横からも前からもうしろからも、立ったり跼んだり、まるさもなめらかさもふくらみも、残りなく見たあの唆るような若い躰。それも彼のものである、そしてこれらはすべて彼を待っている、殆ど手の届くところに、……もう半日、いや二時間早ければそこへいけた、仮に倒れたとしても、そこまでゆけば安心できた。
 ――いやだ、此処では死ねない、死んでなるものか、おけい、……あの家屋敷、みんなおれのものだ、おれの。


 それから二年余の月日が経った。
 調布村の家はすっかり空気が変っている。おたみが引取られて寝ているし、宇之吉と妹のなほも来ていた。……おけいの母親は、おけいがこっちへ来て半年めに引取ったのだが、宇之吉となほはつい数日まえに移って来たのである。彼の母は去年の夏に死に、弟の一人は本所の質屋へ奉公にやった。
 これはみんな吾平夫婦のすすめたことであった。五六日うちに来ると云った主人が、それっきり姿をみせない、使いもないしたよりも来なかった。
 ――いったいどうしたんだろう。
 おけいは云うまでもないが、吾平たちも主人についてはなにも知らなかった。江戸と大阪にあるという店の所在も、商売も、……わかっているのは土地を買うとき、証文に書いた名前だけであるが、それも「喜右衛門」という名だけで、ところ書は此処になっていた。
 ――まあそのうちにはおいでなさるだろう。
 こう云って待ったが、半年しても音も沙汰もない。それで吾平は、母親を引取るようにとおけいにすすめた。
 ――病人を放りっぱなしにはして置けないからな、それに半年もなんの知らせもないんだから、旦那もまさか怒りはなさるまい。
 もし怒ったら自分たちが詫びを入れる。こう云ってすすめるので、不安ではあったが、おけいもそうすることにした。そのとき母を送って来たのは宇之吉であった、半年ぶりにお互いの顔を見て、かえって話もできなかったが、吾平の妻は二人のようすからなにか感づいたらしい、宇之吉が帰るときに、畑から野菜を抜いて持たせ、暇があったら訪ねて来るようにと云った。……それから彼はときどきやって来た、月にいちどくらいの割であったが、また訪ねて来てもおけいとはあまり口をきかなかったが、このあいだに、主人を待つ気持はだんだん薄くなっていった。
 ――やっぱり悪い事をした人で、それがわかってろうへでも入れられたのではないだろうか。
 おけいはそういう不安につきまとわれ、宇之吉にも相談した。彼は尾花屋へいって慥かめたが、そこでも身許は知れないし音信はないという、……一年経ち、とうとう二年経ってしまった。
 ――宇之さんもお呼びなさいまし。
 まる二年めの夏になると、吾平夫婦が頻りにそう云いだした。
 ――この辺はこんなに空地があるんだから、こっちへ来て植木屋をやったらいいでしょう、地面やなんかは私が心配しますよ。
 おけいは心が動いた。自分のものではないが金はある、買うのが土地であるから、金をただ費消したことにならない。云いわけは立つと思って、宇之吉を半ばくどきおとすようなかたちで、妹と一緒に移って来させたのであった。今、――おけいと宇之吉が家のうしろにある丘の、松林の中に坐っている。
「ふしぎだなあ、まるで夢のようじゃないか、こんなことって聞いたこともないぜ」
「――あたしはもう心配じゃなくなったわ」
 おけいは玉川の流れを見やりながら、感動をひそめた自信のある声で云った。
「――あの人はもう来ない、決して来ないという気がするの、決して、……どうしてだといわれてもわからない、自分でもこれがこうとは云えないけれど、でもあの人が二度と来ないということは慥かだと思うわ」
「そうなればますます夢だ、しかしそんな大きな夢でなくってもいい、此処へ地面を借りて、おけいちゃんの側で暮すことができれば、おれはそれだけでも充分だ」
「――ねえ、泣いてもよくって、宇之さん」
 宇之吉の言葉には構わず、おけいはこう云って、彼の眼を見あげながらすり寄った。
「泣くって、だって、急にどうしたんだ」
「――いつか大島町の河岸で云ったじゃないの、こんど二人が一緒になれたときは泣けるだけお泣きって」
「それあ、けれどもそいつは、二人が晴れて……夫婦になれたときっていう」
「ゆうべね」おけいはそっと宇之吉の胸にもたれかかって、あまく囁くように云った、「――ゆうべ、あたし聞いちゃったの、爺やと婆やが、……十月になったらあたしたちを一緒にさせようって、……宇之さん」
 おけいは両手でしがみついた。
「阿母さんを引取ったのも、あんたを呼んだのも、あの二人よ、いやだと云ったって、あたしたちきっと一緒にされちゃうわ、……宇之さん、あたしたちよく辛抱したわねえ」
 そして激しく泣きだした。宇之吉はその背中へ手をまわし、黙って頬をすりつけた。おけいむせびあげながら、とぎれとぎれに彼の耳へこう囁いた。
「とうとうこうなることができたわね、あたしうれしい、……うれしいわ、宇之さん」
 かれらはもうなにも恐れる必要はなかった。なぜなら、和助は五十日もまえに、六郷在の御救い小屋で、身許不明のまま死んでいたのである。





底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「面白倶楽部」光文社
   1950(昭和25)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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