女は同じ物語

山本周五郎





「まああきらめるんだな、しょうがない、安永やすながの娘をもらうんだ」と竜右衛門がその息子に云った、「どんな娘でも、結婚してしまえば同じようなものだ、娘のうちはいろいろ違うようにみえる、或る意味ではたしかに違うところもある、が、或る意味では、女はすべて同じようなものだ、おまえのお母さんと、枝島の叔母さんを比べてみろ、――私は初めはお母さんよりも、枝島の、……いや、まあいい」と竜右衛門は云った、「とにかく、私の意見はこれだけだ」


 かじ竜右衛門は二千百三十石の城代家老である、年は四十七歳。妻のさわは四十二歳になり、一人息子の広一郎こういちろうは二十六歳であった。梶家では奥の召使を七人使っていた。これは三月から三月まで、一年限りの行儀見習いで、城下の富裕な商家とか、近郷の大地主の娘たちのうち、梶夫人によって、厳重に選ばれたものがあがるのであった。――その年の五月、梶夫人は良人おっとに向って、新しい小間使のなかのよのという娘を、広一郎の侍女にすると云った。竜右衛門は少しおどろいた、未婚の息子に侍女をつけるというのは、武家の習慣としては新式のほうであるし、従来の妻の主義からすれば、むしろよしありげであった。
「しかし」と竜右衛門は云った、「それは安永のほうへ聞えると、ちょっとぐあいが悪くはないかね」
「どうしてですか」
「むろんそんなことはないでしょうが」と竜右衛門は云った、「一郎はもう二十六歳であるし、若い娘などに身のまわりの世話をさせていると、万一その、なにかまちがいでも」
 さわ女は「ああ」と良人をにらんだ。
「あなたはすぐにそういうことをお考えなさるのね」と彼女は云った、「きっとあなたはいつもそんなふうな眼で侍女たちを眺めていらっしゃるんでしょう、若い召使などがちょっと秋波ながしめをくれでもすると、あなたはもうすぐのぼせあがって」
「話をもとに戻そう」と竜右衛門は云った、「なにかそれにはわけがあるんですか」
「わたくしが仔細しさいもなくなにかするとお思いですか」
「それもわかった」
「広さんは女は嫌いだと云い張っています」とさわ女は云った、「安永つなさんという許婚者いいなずけがあるのに、女は嫌いだと云って、いまだに結婚しようとはしません、これはわたくしたちがあまり堅苦しく育てたからだと思います」
「そういうことですかな」
「そういうことですかって」
「あとを聞きましょう」と竜右衛門は云った。
「どうか話の腰を折らないで下さい」
「そうしましょう」
「それで、つまり――」とさわ女は云った、「ひと口に申せば、きれいな侍女でも付けておけば、広さんももう二十六ですから、女に興味をもつようになるかもしれないでしょう、いくら堅苦しく育っても男はやはり男でございますからね」
 竜右衛門は心のなかで「これは奸悪かんあくなるものだ」とつぶやいた。
「なにかおっしゃいまして」
「いやべつに」と竜右衛門が云った、「あとを聞きましょう」
「あとをですって」
「それでおしまいですか」
「わからないふりをなさるのね」
「いやわかるよ」と竜右衛門は云った、「しかしですね、もしも広一郎がその侍女に興味をもって、まちがいでも起こしたばあいは」
 さわ女は「まあ」と良人をにらんだ。
「あなたはすぐそういうことを想像なさいますのね」と彼女は云った、「広さんはあなたとは違います」
「はあそうですか」
「そうですとも、広さんは純で温和おとなしくって、それで女嫌いなんですからね」と彼女は云った、「それともあなたは反対だとでも仰しゃるんですか」
「とんでもない、おまえの意見に反対だなんて」
「なすったことがないと仰しゃるのね、そうよ」とさわ女は云った。
「そうしてなにかあれば、みんなわたくしの責任になさるのよ、あなたはそういう方なんですから」
「その、――どうして障子を閉めるんですか」
「ちょうどいい折です」と彼女は云った、「わたくしあなたに申上げたいことがございます」
 さわ女は障子をぴたりと閉めた。座敷の中はそのまま、長いこと静かになっていた。
 その日、広一郎が下城したのは午後七時すぎであった。彼は役料やくりょう十五石で藩の文庫へ勤めているが、十九歳から五年間、江戸邸で昌平坂しょうへいざか学問所へ通学したというほかに、さしてとびぬけた才能があるわけではない。二十六歳にもなる城代家老の息子を遊ばせておくわけにもいかないので、せいぜい城中の事に馴れる、というくらいの意味のようであった。
 広一郎が居間へはいると、母親が小間使を一人つれてはいって来た。
「今日はおさがりがたいそうおそいようですね」
「はあ」と広一郎は云った、「帰りに村田で夕餉ゆうげの馳走になりました」
「村田さまってどの村田さまですか」
「三郎助です」
 と広一郎は云った。よりみちをするときは断わらなければいけません、とさわ女は云った。母さんは夕餉をたべずに待っていたんです。それは済みませんでした。そういうときはいちど帰って断わってからゆくものです。そう致しましょう、と広一郎は云った。さわ女はそこで召使をひきあわせ、今日からこれが身のまわりのお世話をします、と云った。
「私のですか」と広一郎は母を見た、「――と云うとつまり」
「あなたの侍女です」
「どうしてですか」
「あなたはやがて御城代になる方です」とさわ女が云った、「もう少しずついろいろな事に馴れなくてはいけません」
「いろいろな事って、どういう事ですか」
「いろいろな事ですよ、あなたもくどいのね」とさわ女は云った、「これは城下の茗荷みょうが屋文左衛門という呉服屋の娘で、名はよの、年は十七です、うちでは紀伊きいと呼びますから、あなたもそう呼んで下さい」
 広一郎は「はあ」と云った。
「では紀伊、――」とさわ女は云った、「おまえ若旦那さまに着替えをしてさしあげなさい」
 侍女は「はい」と云った。
 広一郎は渋い顔をしてそっぽを見た。昼のうちに(さわ女から)教えられたのだろう、よの、否――紀伊という侍女は箪笥たんすをあけ、常着をひとそろえ出して、広一郎に着替えさせた。さわ女は側で見ていて、二、三注意を与えたが、概して紀伊の態度に満足したようであった。広一郎は始めから終りまで、侍女のほうへは眼も向けず、着替えが済むのを待ちかねたように、父と共同の書斎へはいってしまった。
 竜右衛門はなにか書きものをしていた。たいへん熱心なようすで、息子がはいって来ても黙って書き続けていた。
「あれはどういうわけですか」と広一郎がささやいた、「私に侍女を付けるなんて、いったいどういうことなんですか」
「おれは知らないね」
「御存じないんですって」
「知るわけがないさ」と父親は云った、「済まないが行燈をもう少し明るくしてくれないかね」
 広一郎は行燈の火を明るくした。竜右衛門は書きものに熱中していた。少なくとも、そうやって息子の質問を避けようとしていることだけは慥からしい。広一郎はそれを理解し、唇で微笑しながら、父とは反対のほうに据えてある(自分の)机の前に坐った。
 やがて、紀伊が茶道具を持ってはいって来た。彼女はおちついた動作で煎茶せんちゃれ、広一郎の脇へ来て、それをすすめた。
「お茶でございます」と紀伊が云った。
 広一郎は壁のほうを見たままで「ああ」と云った。


 六月になった或る朝、広一郎は侍女のからだつきを見て好ましく思った。
 ――温雅な躯つきだな。
 彼はそう思った。温雅という言葉の正しい意味はべつとして、彼にはそういう感じがしたのであった。ちょうど薄着になったときで、彼女の躯のしなやかさや、弾力のある軟らかなまるみやくびれが、美しくあらわれていた。それまで眼を向けたこともなかったので、広一郎には特に新鮮で好ましくうつったようであった。
 それからまもなく、彼は紀伊の肌が白いのに気づいた。非番の日で、彼は机のまわりの掃除をし、筆やすずりを洗うために、紀伊に水を持って来るように命じた。彼女は金盥かなだらいと筆洗を運んで来たが、そのときたすきをかけていて、両方の袖が高く(必要以上に)絞られ、殆んど腕のつけねまであらわになっていた。
 広一郎はまぶしそうに眼をそらした。薄桃色をいたような、あくまで白いそのあらわな腕の、溶けるような柔らかい感じは、たとえようもなく美しく、つよい魅力で広一郎をひきつけた。彼は眼をそらしながら、自分の胸がときめいているのを感じた。
 七月になると、彼は紀伊の声がやわらかく、おちついて、きれいに澄んでいることを知った。そして、彼女のきりょうのよさ、――彼女が縹緻きりょうよしなことを発見したとき、広一郎はわれ知らず眼をみはった。
 ――初めからこんなにきれいだったのだろうか。
 と彼は心のなかで自問し、同時に躯の内部が熱くなるのを感じた。
 梶夫人はこの経過をひそかに注視していたらしい。ときどき彼にさりげなく問いかけた、紀伊はちゃんとやっているか、気にいらないようなことはないかどうか、などと息子にくのであった。広一郎はあいまいに答えた。ええよくやっているようです、まあよくやるほうでしょう、かくべつ気にいらないようなことはありません、などと答えた。
 八月にはいってから、彼は紀伊と話をするようになった。ふしぎなことに、紀伊に話しかけるとき、彼は赤くなるのを抑えることができなかったし、紀伊もまた同じように、赤くなったり、躯ぜんたいで嬌羞きょうしゅうを示したりした。
 或る夜、――父と共同の書斎で、父と彼とが読書をしていた。八月中旬だから、季節はもう秋であるが、残暑のきびしい一日で、夜になっても気温が下らず、縁側のほうの障子も窓もあけてあるのに、微風もはいってはこなかった。竜右衛門は読みながら、団扇うちわで蚊を追ったり、えりもとをあおいだりした。息子のほうを見ると、息子は机に両肱りょうひじをつき、じっと書物を読んでいた。蚊を追うようすもなく、風をいれるようすもなかった。
「――一郎」と竜右衛門が云った、「おまえ暑くはないのか」
 広一郎は「はあ」と云った。
「なにを読んでいるんだ」
「三代聞書です」
 竜右衛門は「うん」と云った。
「父さん」と広一郎が云った、「あの娘は誰かに似ていると思いませんか」
「――どの娘だ」
「私の侍女です、紀伊という娘です」
「――誰に似ているんだ」
「わからないんですが、誰かに似ているような気がしませんか」
「――しないね、私はその娘をよく見たこともない」と竜右衛門が云った、「おまえその娘が好きになったんじゃないのか」
「冗談じゃありません」
「それならいいが」と竜右衛門が云った、「男でも女でも、相手が好きになると誰かに似ているように思うことがよくある、――人間は性分によって、それぞれの好みの型がある。だから、好きになる相手というのは、どこかに共通点があるんだろう、……おまえいつか好きになった娘でもあったんじゃないのか」
「冗談じゃありません、よして下さい」
「それならいいさ」と竜右衛門が云った、「おまえには安永つなという、許婚者いいなずけがいるんだからな、ほかの娘なんか好きになっても、母さんが承知しないぞ」
 広一郎は「大丈夫です」と云った。ひどく確信のない気のぬけたような調子だった。そして書物のページをはぐり、熱心に読み続けた。竜右衛門ははたはたと団扇を動かし、それからとつぜん、自分の読んでいる書物を取り、表紙を返して、題簽だいせんを見た。
「一郎、――」と彼は云った、「おまえはいまなにを読んでいるとかいったな」
「三代聞書です」
「ほう」と竜右衛門は云った、「そんな本が面白いかね」
「ええ、面白いです」
 竜右衛門は微笑しながら、「そうかね」と云い、また自分の書物の題簽を見た。そこには「三代聞書全さんだいききがきぜん」としるしてある。それは戦乱や凶事を予知する禁厭きんえんの法を撰したもので、広一郎のような青年にとって、決して「面白い」筈のものではなかったし、梶家の蔵書ちゅうにも一冊しかないものであった。
「気をつけるがいいぞ、一郎」と竜右衛門は云った、「その娘を好きにならぬようにな、気をつけないと辛き事にあうぞ」
 広一郎は黙っていた。
 ――ばかな心配をする人だ。
 一人になってから、広一郎はそう思った。あの娘を、そんな意味で好きになるなんて、おれにできることかどうかわかる筈じゃないか。もっとも父さんは懲りているからな、と広一郎は思った。父は枝島の娘と縁談があったのを、自分からすすんでいまの母をめとった。枝島の娘はときといい、縹緻はさわ女ほどではないが、気だてがやさしく、琴の名手として評判だった。父がさわ女を娶ったあと、枝島では長男が死んだので、さわ女の弟で甚兵衛という人が入婿した。それから三年、その二人の若い良人たちは、お互いに自分の家庭生活について語り、結婚まえにその娘がどうみえようと、――気が強そうにみえようとやさしそうにみえようと、――結婚してしまえばみな同じようなものである。色情と物欲と虚栄と頑迷の強さにおいて、すべて男の敵とするところではない。という結論に達し、両人相共に、嘆いたということであった。
「おれはそんなふうにはならない」と広一郎は独りで呟いた、「おれはまた、そんな意味であれが好きだと云うのではない、おれはただ、……ただあの娘が、単に、――」
 彼はそこで絶句し、渋いような顔をした。
 九月になった或る夜、寝間で着替えをしているとき、紀伊がひどく沈んだようすをしているのに気づいた。広一郎は「どうかしたか」と訊いた。彼女はなかなか答えなかった。どうも致しません、なんでもございません、と云うばかりであった。
「正直に云ってごらん」と広一郎は声をひそめた、「ごまかしてもわかるよ、なにがあったんだ」
 すると、紀伊は泣きだした。


 紀伊はそこへ坐り、両手で顔をおおって、声をひそめてむせびあげた。広一郎も坐った。すでに夜具がのべてあるので、低い声で話すためには、紀伊の側へ坐るよりしようがなかった。彼は紀伊の側へ坐った。
「云ってごらん、母が叱りでもしたのか」
「いいえ」と紀伊は頭を振った、「わたくし、おひまを頂くかもしれませんの」
 広一郎はどきりとし「え」と云った。
「それは」と彼はどもった、「それはなぜです、どうして、なにかわけがあるのか」
「申上げられません」
「なぜ、なぜ云えないんだ」
「それも申せません」と紀伊は云った、「いつかはわかることでしょうけれど、わたくしの口からは申上げられませんの」
 広一郎はまた吃った。
「それは縁談ではないか」
 紀伊は答えなかった。
「縁談なんだね」と彼は云った、「云ってくれ、そうなんだろう」
 紀伊はうなずいて、もっと激しく泣きだした。広一郎はのぼせあがった。そんなにも近く坐っているので、彼女のあまい躰臭や、白粉おしろいや香油のかおりが彼を包み、咽びあげる彼女の声は、じかに彼の胸を刺すようであった。
 広一郎はのぼせあがっていた。そんなに泣くのは相手が嫌いだからか。はい、と紀伊は答えた。それだけで泣くのではないが、相手は好きではない、自分は「いやだ」とはっきり断わったのである、と云った。それで相手は承知しないのか。そうのようです。しつっこいやつだ、と広一郎は云った。相手はなに者だ。お武家です。家中の者か。そうです、御中老の佐野さまの御長男です。すると要平だな。そうです。あの平家蟹へいけがにめ、と広一郎は云った。よし、彼のことは引受けた。でも、紀伊は云った。乱暴をなすっては困ります、あの方はお強いそうですから。いや大丈夫、私は暴力は嫌いだ。本当ですか。大丈夫だ、あいつのことは安心していい、と広一郎は云った。もう一つの理由を聞こう、泣いた理由はほかにもあると云った筈だ。ええ申しました、でもそれは、……紀伊は眼を伏せた。云えないのか、縁談のことさえ云ってしまったのに、もう一つの理由は云えないのか、と広一郎は問いつめた。
 紀伊はますます頭を垂れた。見ると耳まで赤くなり、呼吸も深く大きくなっていた。広一郎は恐怖におそわれた。
「おまえ」と彼は乾いた声で云った、「ほかに好きな人がいるんだな」
 紀伊は肩をちぢめ、たもとで顔を掩った。
「そうか、――」と彼はふるえ声で云った、「それは知らなかった」
 紀伊は掩った袂の下から「でも望みはないんです」と云った。その方とは身分も違うし、その方には許婚者がいるんです、わたくしはただ一生お側にいるだけで本望なんです、と云った。――袂に掩われた含み声で、はっきりしなかったが、広一郎はちょっと息を止めた。
「だって紀伊は、いま、――」
「はい」と彼女は云った。
「すると、おまえは」
「はい」と彼女は云った、「わたくし、若旦那さまとお別れするのが、辛くって、……」
 そして彼女はまた泣きだした。
 広一郎はとつぜん、彼女を抱き緊めたいという衝動にかられた。むろん不純な意味ではない、泣いている紀伊の姿があまりにいじらしく、消えいりそうなほど可憐かれんにみえたからである。だが、彼は衝動をこらえ、ぐっとおちつきながら、頷いた。
「わかった」と彼は云った、「もう泣くことはない、私がいいようにしてあげよう」
「お側にいられるようにですの」
 広一郎は「うん」と云った。
「若旦那さま」と紀伊が云った、「――うれしゅうございます」
 こんどは彼女が、広一郎にすがりつきたいような身ぶりをした。すでにとびつきたいような姿勢をみせたが、広一郎は唇をの字なりにし、じっと宙をにらんでいた。
 ――あの平家蟹め。
 と広一郎は心のなかで云った。
 ――どうするかみていろ。
 その翌日、――広一郎は登城するとすぐに、佐野要平のところへ行った。要平は中老伊右衛門の長男で、国もと小姓組に属している。年は二十八になるが、酒のみのぐうたらべえで、娘を嫁に遣ろうという者がなく、いまだに独身のまま呑んだくれていた。
 佐野は貧乏で有名だった。要平をかしらに子供が十三人いるし、妻女は派手好みであり、伊右衛門が浪費家であった。そのため四百七十石の家禄かろくはいつも足らず、八方借りだらけで、要平の呑み代など出る余地がなかった。そこで要平は友人にたかり、到るところに勘定をめた。彼は剣術がうまいし、腕っぷしが強かった。酒のために破門されたが、精心館道場では師範代の次席までいったことがある。したがって暴れだすと手に負えないから、たいていの者が泣きねいりということになった。
 要平は詰所でごろ寝していた。酔っているのだろう、綽名あだなの「平家蟹」がよく似あう角ばった顔がまっ赤で、肱を枕に、口の端からよだれをたらしながら、いびきをかいて眠っていた。広一郎は乱暴にゆり起こした。要平は眼をさましたが、起きあがるまで呼び続けた。
「起きたよ」と要平は云った、「ちゃんと眼をさまして、このとおり起きてるじゃないか、なんの用ですか」
 広一郎は用件を云った。要平はどろんとした眼で、いぶかしそうに彼を見た。
「わかった」と要平は云った、「しかしなんの用ですか」
 広一郎は「そのとき話すよ」と云い、そこを去った。
 午後五時すぎ、城下町の北にある陣場ヶ岡で広一郎と村田三郎助が待っているところへ、佐野要平がやって来た。
「おそいぞ」と広一郎が云った、「必ず五時にと云った筈だ、支度しろ」
 そして彼はたすきをかけ汗止めをし、はかま股立ももだちをしぼった。要平はあっけにとられ、ぽかんと口をあいて見ていた。「支度をしろ」とまた広一郎が云った。なんのためだ、と要平が云った。いいから抜け、勝負だ。わけを云わないのか。そっちに覚えがある筈だと広一郎が云った。要平は当惑した。
「原田を殴った件か」と要平が云った、「それならあやまる、おれは酔っていたんだ」
「そんなことじゃない」
「では茶庄のおしのを裸にした件だな」


 広一郎は首を振り「違う」と云った。
「すると駕籠辰かごたつから金をまきあげた件か」と要平は云った、「あれなら悪いのはおれじゃない、駕籠辰はいつも茶庄で飲むが、勘定というものを払ったためしがないんだ、いや、おれだって少しは溜まってるさ、しかしやつのはまるで無法なんだよ、それでおれは茶庄の代理として」
「たくさんだ、支度をして抜け」と広一郎が云った、「理由は勝負のあとで云ってやる、早くしろ」
「どうしてもか」
「村田が立会い人だ」
 要平はにっと笑った。軽侮と嘲弄ちょうろうのこもった、いやな笑いである。彼は広一郎と三郎助をじろっと見た。
「ふん」と要平は唾を吐いた、「城代のせがれだから下手したてに出てやったが、おまえさん本当におれとやる気なのか」
「諄いぞ、抜け」
「斬られても文句はないんだな」
「村田が証人だ」
 要平はそっちを見た。三郎助は「そうだ」と頷いた。
「よしやってやろう」と要平は云った、「おまえさんは江戸へいっていて知らないだろうが、おれは家中でもちょいと知られた腕になってるんだ、そのつもりでかかれよ」
「支度はいいのか」
「相手がおまえさんではな」要平はまた唇で笑った、「――いざ」
 要平が「いざ」と云った刹那せつな、広一郎の腰から電光がひらめいた。もちろん、電光ではない、閃いたのは刀である。要平は「あ」と云ってとびさがった。三間ばかりとびさがったが、とたんに袴と帯がずるずると下り、着物の前がはだかってしまった。要平は仰天し、片手でずり下った袴を押えながら「待った」と叫んだ。
「いや待たん」と広一郎が云った、「真剣勝負に待ったはない、ゆくぞ」
 要平はうしろへしさった。広一郎は刀を上段にあげ、一歩、一歩とつめ寄った。
「待ってくれ」と要平が云った、「これでは勝負ができない、これでは」
「勝負はついたぞ」
「頼むから待ってくれ、あっ」
 うしろへさがろうとした要平は、ずり落ちた袴の裾を踏んで、のけざまに転倒した。広一郎は踏み込んでゆき、上から、要平の鼻さきへ刀の切尖きっさきをつきつけた。
「どうだ」
 要平は口をあいた。
「斬ろうか」と広一郎が云った。
 要平は「まいった」と云った。
「慥かだな」
「慥かだ」と要平が云った、「しかし、おれにはわけがわからない、まず聞かせてくれ、いったいこの勝負はなんのためだ」
「茗荷屋の娘だ」と広一郎が云った。
 要平はぽかんと彼を見あげた。
「きさまからの縁談を、娘ははっきり断わった筈だ」と広一郎は云った、「にもかかわらずきさまは諦めない、たぶん中老という家格と、自分の悪名にものをいわせようというんだろう、しかしそうはさせぬ、おれがそうはさせないぞ」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ」
「手をひけ、佐野」と広一郎は云った、「おとなしく手をひけば、きさまの呑み代はおれが月々だしてやる」
「なんだって」要平はごくりと唾をのんだ。
「多くは遣らない、月に一分ずつ呑み代をやる、それできっぱり手をひくか、どうだ」
「そっそれは慥かでしょうな」と要平は云った、「た、慥かに一分ずつ、れるでしょうな」
「手をひくか」
「慥かに貰えるなら、――承知します」
「おれは武士だ」
「よろしい、私も武士です」
 向うで三郎助がにっと苦笑した。要平は眼ざとくそれを見「笑いごとじゃあないぜ」と渋い顔をした。
「笑いごとじゃない」と要平は云った、「いまの契約にも、村田は証人だぞ」
 三郎助は「いいとも」と頷いた。広一郎は刀をよくぬぐって、さやにおさめた。それから身支度を直し、ふところから紙入を出して、一分銀を懐紙に包んで要平に渡した。
「今月の分だ」
「いやどうも」と要平は頭を下げた、「――慥かに、……して、あとはどういうぐあいに呉れるんですか、こっちからたずねていっていいんですか」
「月の五日に来れば渡す」
「五日ですな、わかりました」
「ひとつ注意しておく」広一郎は云った、「これからは行状を慎むこと、もし不行跡なことをすれば、呑み代はむろん停止するし、公の沙汰にするからそのつもりでいろ、それから、今日の事は決して他言するな」
「おれだって自分の恥をさらしはしないさ」
「そこに気がつけば結構だ、忘れるな」
 そして広一郎は三郎助と共に去っていった。
 要平はそれを見送りながら、いかにもにおちないという顔つきで、首をかしげたり、片手で頭をいたりした。もう一方の手は、まだずり下った袴を押えたままである。
「おかしなやつだな」と彼はつぶやいた、「茗荷屋のはなしは去年のことだし、断わられてからおれはなにもしやしない、手をひくもなにも、おれはまるっきり忘れていたくらいじゃあないか、……わけがわからねえ」と彼は首を振った。「化かされたような心持だ」
 広一郎と三郎助は坂をおりていった。三郎助は要平のことを笑いながら、「袴の帯を切ったのはみごとだ」と云った。梶が剣術をやるとは知らなかったし、あんなにすばらしい腕があるというのは意外だ、と云った。広一郎は苦笑した、おれだって侍の子だから、剣術ぐらい稽古するさ、江戸邸ではやかましいんだ。流儀はなんだ。江戸邸へ抜刀流の師範が来るので、三年ばかりやったよ。なるほど、いまのは居合いあいか、いや、あれは見て覚えたんだ、と広一郎は云った。江戸にいたとき寛永寺へ参詣さんけいした、その途中で、浪人と浪人の喧嘩けんかがあったが、片方が抜き打ちに相手の胴をはらった、すると袴のひもと帯が切れてずり下り、相手は動けなくなった、おれはそのまねをしただけさ、と広一郎は云った。なるほどね、と三郎助は云った。江戸にいるといろいろな学問をするものだ。
「だが、それにしても」と三郎助が云った、「どうしてまた茗荷屋の娘などのために、こんなおせっかいなことをしたのかね」
「うん」広一郎は顔をそむけた、「その娘が三月から、おれの、……家の小間使に来ている。母の気にいりで、おれはよく知らないが、――母に頼まれたんだ」
「毎月一分ずつの呑み代もか」


 広一郎はますます顔をそむけた。さもなければ、当惑して赤くなったところを、三郎助に見られるからであった。
「佐野にしたって、――」と広一郎は云った、「呑み代があればばかなことはしないさ」
「どうだかな」
「ここで別れよう」と広一郎が云った、「わざわざ済まなかった」
「今日の事は黙っているよ」
 と三郎助は笑いながら云った。
 その夜、――広一郎は紀伊に「もう大丈夫だよ」と囁いた。紀伊はおびえたような眼をした。しかし彼がごく簡単に話して聞かせると、さも安心したというふうに微笑し、急に熱でも出たような眼で彼を見あげて、嬉しそうにこっくりをした。
 二人は親しくなるばかりだった。
 陣場ヶ岡の事は二人の秘密であった。その秘密な事が、二人を他の人たちから隔て、密接にむすびつけるようであった。――すると、十月になった或る夜、寝間の世話をしながら、紀伊は「明日いちにちお暇がもらえます」と云った。祖父の七年忌なので、梶夫人に頼んで暇をもらった、と云うのである。広一郎はそうかと云った。紀伊はなにか訳ありげな眼つきで、微笑しながら彼を見た。
「若旦那さまも、明日は慥か御非番でございましたわね」
「そうだったかね」
「御非番の日ですわ」と紀伊は云った、「わたくし本当は、法事にはゆきたくないんですの」
「だって自分で頼んだのだろう」
「それはお願いしたんですけれど」
「しかもいやになったのか」
 紀伊は含み笑いをし、斜交はすかいに、広一郎を見あげた。彼は眩しそうに眼をそらした。しかし眼をそらしたとたんに、ひょいと天床を見あげ、その唇をとがらせた。
 ――明日はあなた非番だ。
 あなたも、の「も」という一字に、彼女の暗示があったのだ。つまり、二人はどこかへいっしょにゆける、ゆくことができる、という意味にちがいない。彼は振向いて紀伊を見た。
「紀伊は赤根の湯を知っているか」
「はい、存じております」
「うん」と広一郎は口ごもった。どうきりだしたらいいかわからない、そんなことを云うのは不作法かもしれないし、断わられるかもしれない、「うん、――」と彼は云った、「あそこは閑静でいい、温泉いでゆも澄んでいるし、大きな宿も五、六軒あるし」
「そうでございますね」と紀伊が云った、「それに御領分の外ですから、あまり知った人にも会いませんわ」
「そうだ、赤根は松平領だ」
「まだ紅葉がみられますわね」と紀伊が云った、「わたくしゆきとうございますわ」
「私もいってみたいな」
 紀伊は待った。広一郎の胸はどきんとなったが、どうにも勇気が出てこない。彼は赤くなって、急にそっぽを向きながら云った。
「私は明日いってみる」
 紀伊は彼を見た。
「私は、――」と彼は不決断に続けた、「私は、東風楼という宿で、半日、保養して来よう」
「東風楼なら存じていますわ」
「あれはいい宿だ」
「でも武家のお客さまが多いようでございますね」と紀伊は云った、「平野屋という宿は小そうございますけれど、すぐ下に谷川が見えますし、静かでおちついていて、わたくし好きですわ」
「それなら、平野屋にしてもいい」
 紀伊は待った。
「平野屋にしよう」と広一郎は云った、「――私はもう寝ることにする」
 彼は寝衣ねまきに着替え、そして夜具の中へ(まるで逃げ込むように)もぐってしまった。
 明くる朝早く、広一郎は両親に断わって、赤根の湯にでかけた。紀伊はなにもいわなかったし、変ったそぶりもみせなかった。
 赤根はその城下から二里ほどのところで、佐貝川の渓流に臨んだ、小高い丘の中腹にあった。広一郎は歩いていった。その途中、彼はしきりに気が沈んだ。独りで保養にいってどうするんだ、温泉に浸ったり出たり、谷川を眺めたってしようがないじゃないか、「いっそやめにするか」と彼は呟いた。二度ばかり立停って、引返そうとした。しかし、ことによると紀伊が来るかもしれない、と彼は思った。平野屋をすすめた口ぶりだと、あとから追って来るつもりかもしれないぞ。いやそんなことはない。娘が一人で湯治場とうじばへ来るなんて、そんなことができる筈はないじゃないか、ばかな空想をするな、と彼は思った。
 平野屋はすぐにわかった。一と筋道の左右に、宿や土産物の店などが並んでいる、そのいちばんさきの、川に面したほうに、平野屋はあった。彼は渓流の見える座敷へ案内された、建物は古いが、がっちりとおちついた造りで、ほかには客がないのか、渓流の音だけが、静かに座敷へながれいって来るだけであった。
 女中が茶道具と着替えを持って来て、「すぐ湯へおはいりになるか」と訊いた。
 彼はあとにしようといい、茶をすすってから、縁側へ出て外を眺めた。対岸は松林で、かえでがたくさんあるのだが、季節が過ぎたのだろう、みんなもう葉が落ちていた。
「お湯へいらっしゃいませんの」
 と脇で女の声がした。あまり突然だったから、広一郎はとびあがりそうになった。
 振向くと紀伊がいた。
「ああ、――」と彼は云った、「紀伊か」
 彼女は大胆に彼をみつめ、びた笑いをうかべながら頷いた。
 広一郎は眼をみはった。彼女はもう湯あがりで、肌はみずみずとつやっぽく、まるで光りのかさおおわれたように、ぼうとかすんでみえた。着物も屋敷にいるときとは違って、色彩のなまめかしい派手な柄だし、町ふうに結んだ帯もひどくいろめいてみえた。
「きれいだね」と彼は云った、「――じつにきれいだ」
「うれしゅうございますわ」
「眼がさめるようだ」
 広一郎はしんけんにそう云った。紀伊はそれをすなおにうけとり、すなおによろこんだ。
 だが、いつのまに来たのか、と広一郎が云った。はい駕籠かごをいそがせて、おさきに来ていました。では途中で会ったんだな。はい途中でおみかけ致しました、と紀伊が云った。大榎おおえのきのところで立停っていらっしゃいましたわ。うん、――引返そうかと迷っていたときだ、と彼は心のなかで思った。
「お湯へいっておいであそばせ」
「いや」と広一郎は云った、「湯はあとだ、少し話をしよう」
「わたくしもうかがいたいことがございますわ」
「なんでも話すよ」と彼は云った、「座敷へはいらないか」


 二人は坐って話した。
 紀伊が訊いた。世間ではあなたが女嫌いだとうわさしている、自分にはそう思えないが、なにかわけがあるのか。広一郎は「ある」と答えた。聞かせて頂けますか。いいとも。どういうわけですの。正直に云ってしまう、それは或る一人の娘のためだ。そうだと思いました、と紀伊が云った。それはあなたの許婚者で、安永つなさんと仰しゃる方でしょう。なんだって、――広一郎は吃驚びっくりした。どうして紀伊はそれを知っているんだ。わたくしあの方とお稽古友達ですの、お琴、お茶、お華、みんな同じお師匠さまでしたわ、と紀伊が云った。それに、二人は姉妹のようによく似ているって、みんなからよく云われました。そうかな、私にはそうは思えないがな、と広一郎が云った。親しくはなかったろうな。どうしてですの。あれは気の強い意地わるな娘だった。あら、そうでしょうか、わたくしたいへん仲よくして頂きましたわ。あれは気の強い意地わるな娘だった。どんなふうにですの、と紀伊が訊いた。
「私はいまでもよく覚えているし」と広一郎は云った、「それを思いだすたびに、口惜しいような憎らしいような気持になることが幾つかある」
「うかがいとうございますわ」
「私は蛇が嫌いだ」と広一郎は云った、「蛇を見ると、いまだに私は躯じゅうが総毛立つくらいだ」
 十二歳の年だった。彼が安永の家へ遊びにいったとき、つなが「面白いものを見せるからいらっしゃい」と云って、彼を庭へさそいだした。安永の庭は広くて、林や草原があったり、小さな池もあった。なにげなくついてゆくと、ひょいと草むらの中にしゃがんで、「ほら此処ここよ」と云う。そして、彼が近よっていって、のぞいて見ようとしたら、「わあ」と叫びながら、一ぴきの小蛇をつまんで、彼の眼の前へつきつけた。
「私は気絶しそうになった」と広一郎は云った、「たぶん悲鳴をあげたろう、気が遠くなったようで、われに返ったら、自分は草履をはいたまま、いつのまにか座敷の中に立っているし、母はおそろしく怒っているし、あの娘はげらげら笑っていた」
「あの方はお幾つでしたの」
「私が十二だから六つの年だ」と広一郎は云った、「そのまえの年だったと思うが、安永と梶と、両ほうの家族でこの赤根へ来たことがあった」
 宿は東風楼だった。親たちが話をしているうちに、あの娘が「いっしょに湯へはいろう」と云った。彼が渋っていると「男のくせにいくじなしね」と云った。彼はつなといっしょに湯へはいった。湯壺へはいると、つなは潜りっこをしようと云った。
 ――髪毛が濡れるからいやだ。
 ――あとで拭けばいいわよ。
 ――母さんに怒られるからいやだよ。
 ――男のくせにお母さまが怖いの。
 へええ弱虫ね、とつながあざ笑った。そこで彼は承知した。二人は潜りっこをしたが、どうしても彼は負けてしまう、三度やって、三度めには死ぬかと思うほどねばったが、つなは彼より十三も数えるほどよけいに潜っていた。
「あの娘は大自慢で、さんざん私のことをからかった」と広一郎は云った、「それから湯を出て髪を拭き、お互いに髪を結いあったあと髪毛がよく乾くまで遊ぼうと云った」
「そこでですか」と紀伊が訊いた。
「裸のままでだ」と広一郎が云った、「そして、まず自分のからだの自慢を始め、白くてすべすべしてきれいでしょう、よく見てごらんなさい、と云うんだ」
 事実まっ白できめのこまかい、ふっくらとしたきれいな肌であった。つなは躯をすっかり眺めさせたうえ、あたしには「三つ星さま」があるのよと云い、足をひろげて、右の太腿ふとももの内側を見せた。薄桃色の、腿のつけ根に近いところに、黒子ほくろが三つ、三角なりにあるのを彼は見た。ほんの一べつ、ちらっと見ただけであるが、彼はなにか悪いことでもしたように、胸がどきどきし、ひどく気がとがめた。つなは平気な顔で、こんどは二人の躯を比べっこしようと云い、「あたしにぴったりくっつきなさい」と命令した。彼は狼狽ろうばいし、いやだと云って逃げた。するとつなは顔をしかめて軽蔑し、またしても「男のくせにいくじなしね」とからかった。
「そういうことは誰にもありますわ」と紀伊が云った、「そのくらいのじぶんは、なんとなく躯に興味があって、お互いに躯を見せあいたくなるものですわ」
「紀伊もしたのか」
「あら、――」と彼女は赤くなった、「いまは若旦那さまが話していらっしゃるのでしょう、わたくしのことはあとで申上げますわ」
「うん」と広一郎は云った、「だがかんじんなのはそのことじゃない」
 躯の比べっこで逃げたあとで、つなが「いいことを教えてあげましょうか」と云った。いいことってなんだ、彼は警戒した。つなは肩をすくめ、くすくすと笑った。そして、潜りっこをあんなふうにしては負けるにきまっている、途中で頭を出して息をするのだ、と云った。あたしなんか二度も三度も頭を出して息をした。あなたはばか正直で、「お知恵がないのね」と云うのであった。
「私は口惜しかった」と広一郎は云った、「いつかはやり返して、こっちで笑ってやろうと思った、ところがいつもやられてしまう、笑われるのはいつもこっちなんだ」
 或る時やはり安永の庭で、つなが木登りをしていばっていた。例のとおり「あなたにはできないでしょう」と云う。そこで彼が登ると、あたしはもっと上まで登った、「あたし海が見えたわ」と云う。彼はさらに登った、すると海が見えなかったばかりでなく、枝が折れて墜落し、背中を打って気絶してしまった。
 或る時は草の中の小径こみちで、ここをまっすぐに歩いてみろと云う。蛇がいるんだろう。蛇なんかいないわ、もう冬じゃないの「臆病ねえ」と笑う。それでまっすぐに歩いていったら、落し穴があっておっこち、左のくるぶし捻挫ねんざした。
「おまえ笑うのか」と広一郎が云った。
「わたくし笑いませんわ」
「いま笑ったようだぞ」
「笑ったりなんか致しませんわ、わたくし」
「数えればまだ幾らでもある」と広一郎は云った、「袋撓刀ふくろしないのこととか、背中へ甲虫かぶとむしを入れられたこととか、暴れ馬のこととか、お化粧をされたのを忘れて、そのまま帰って土蔵へ入れられたこととか、――なんだ」広一郎は話をやめて、向うを見た。縁側へ女中がやって来たのである。「こちらは梶さまか」と訊くので、そうだと答えると「お客さまがみえました」と云った。広一郎はぎょっとした。
 ――客の来る筈はない。紀伊もちょっと色を変えた。
「その、――」と広一郎は女中に訊いた、「客というのは、どんな人間だ」
「お武家さまでございます」
 広一郎は「う」と云った。


「お名前をうかがいましたけれど」と女中は続けた、「なんですか怒っていらっしゃるようで、会えばわかる、ぜひとも会わなければならない、と仰しゃるばかりでございます」
「よし、――」と広一郎は云った、「ではすぐにゆくから、ほかの座敷へとおしておいてくれ」女中は承知して去った。
「どなたでしょう」紀伊がおろおろと云った、「わたくしどうしましょう、みつかったのでしょうか」
「とにかく会ってみる」
「わたくし帰りますわ、お会いになっているうちに帰るほうがいいと思いますわ」
「うん、――」と広一郎が云った、「そのほうがいいかもしれない、そうするとしよう」
 紀伊は立った。駕籠が待たせてあるから、いそげば祖父の法事にまにあうだろう、と紀伊は云った。では晩に、と広一郎が云った。紀伊はすばやく出ていった。
 広一郎は冷えた茶を啜った。紀伊が支度をしてしまうまで、と思って坐っていた。やがて気持もおちついて来、時間もよさそうなので、わざと無腰のままで出ていった。女中が案内したのは、隅のほうの、暗くて狭い部屋であった。そのなんの飾りつけもない、古畳の、まるで行燈部屋のように陰気なところで、一人の侍が蝶足のぜんを前にして、酒を飲んでいた。広一郎はあっけにとられた、さかずきを持って「よう」と振向いたのは、佐野要平であった。
「よう、これはどうも」と要平は云った、「御馳走になってますよ」
「なんの用があるんだ」
「御挨拶ですね、今日は五日ですよ」
 広一郎は思い出した。なんだ、そのために来たのか。約束ですからな、約束の第一回から忘れられては困りますよ、と要平は盃をあおった。お宅へ伺ったら赤根だと云うので、すぐさまあとを追って来たわけです、ひとつどうですか、と要平は云った。
おごってくれるのか」
「冗談でしょ、貧乏人をからかっちゃいけません」
 広一郎は坐った。紀伊がいたことは知らないらしい、罪ほろぼしに少しつきあってやるか、と思ったのであった。
 その夜、――広一郎は「なんでもなかったよ」と云い、要平のことを話した。紀伊は頷いて、楽しゅうございましたわと囁いた。そして、二人きりの時間(それはいつもごく短いものであったが)には、赤根の楽しかったことを、よくお互いに囁きあった。
 赤根の湯から二人の心はもっとぴったり触れあうようになり、しばしば、ちょっと眼を見交わすだけで、互いの気持が、ごく些細ささいなことまでも、通じあうようになった。そして、十一月中旬の或る午後、――ちょうど広一郎の非番の日であったが、二人は庭の奥で少しながく話す機会があった。そこは北斗明神といって、梶家代々の氏神のほこらがあり、若木ではあるが杉林に囲まれていた。北斗明神は梶家がどこへいっても祭るもので、十幾代もまえからの氏の神だということである。
「わたくし、うかがいたいことがあるのですけれど」と紀伊が云った、「このまえ赤根の宿で、つなさまのことを仰しゃってましたわね」
 広一郎は頷きながら、紀伊は日ましに美しくなるな、と心のなかで思った。縹緻もよくなるばかりだし、こんなにやさしい、気だてのいい娘はない、なんという可愛い娘だろうと思った。
「若旦那様はそのために、つなさまとも御結婚なさらないし、女嫌いになっておしまいなすったのでしょうか」
 広一郎は「ん」と紀伊を見、それから自分が質問されていることに気づいた。
「うん、いや、それもあるけれど」と彼はちょっと口ごもった、「ついでに正直に云ってしまうと、――私の母のこともあるんだ」
「奥さまのことですって」
「紀伊だから云ってしまうが、母がどんな性質の人かわかるだろう」と広一郎は云った、「私はずっと父と母の生活をみて来た、そして、いつも父を気の毒に思った、……表面は旦那さまと立てている、父はいかにも家長の座に坐っている、しかし」と彼は首を振った、「じっさいはそうじゃない、城代家老としては別だが、私生活では母の思うままだ、すべての実権は母が握っている、父には、母のにぎっている鎖の長さだけしか自由はないし、その鎖で思うままに操縦されている」
「それはお言葉が過ぎますわ」
「父だけではない、どうやらたいていの男がそうらしいよ」
「あんまりですわ、それは」
「猿廻しは猿を太夫さんと立てる、そして踊らせたり芝居をさせたりして稼がせる、――よく似ていると思わないか」
「でも、――」と紀伊が云った、「ぜんぶの女がそんなふうだとは限りませんわ」
「たとえば紀伊のようなね」
「あら、あたくしなんか」
「私は紀伊となら結婚したいと思う」
 紀伊は「まあ」と云って赤くなった。広一郎も自分の言葉に自分でびっくりした、深い考えもなく、すらすらと口から出てしまったのである。彼は狼狽したが、云ってしまってから、それが自分の真実の気持であり、ここではっきりさせるべきだ、ということに気がついた。
「紀伊は私の妻になってくれるか」
「うれしゅうございますわ」紀伊は赤くなったまま眼を伏せた、「若旦那さまのお気持はよくわかりますの、本当にうれしゅうございますけれど、身分が違いますし、なにより奥さまがお許しなさいませんわ」
「それは私が引受ける、来てくれるか」
「わたくしにはお返事ができません」紀伊は顔をそむけた、「だって、それはできることではないのですもの」
「いますぐに話す、これから話して、きっと承知させてみせるよ」
「いけません、若旦那さま」
「あとで会おう」と広一郎は云った、「今夜その結果を知らせてやるよ」そして彼は卒然と、紀伊の手を握った。彼女の躯はぴくっとし呼吸が深く荒くなった。そして、広一郎に握られた彼女の手は、冷たく硬ばったまま動かなかった。
 心配しないでいい、きっとうまくゆくよ、と広一郎は云った。紀伊は黙って顔をそむけていた。続けさまの感動で、ものを云う力もない、というようすであった。
 広一郎は母の部屋へいった。そこには鼓の師匠が来て、母の稽古をみていた。彼は鼓の音が聞えなくなるのを待って、改めてたずねた。――梶夫人は、広一郎の言葉を、黙って聞いていた。眉も動かさなかったし、かくべつ感情を害したようすもなかった。しめたぞ、と広一郎は話しながら思った。これは案外うまくゆくかもしれない、母は紀伊がお気にいりだからな、とも思った。――聞き終ったさわ女は、平生の声で「お父さまにお訊きなさい」と云った。広一郎は、母上の御意見はいかがでしょうか、と訊いた。
「母さんは女ですから、そういうことに口だしはできません」とさわ女は云った、「お父さまが梶家の御主人ですからお父さまに訊いてごらんなさい」
 広一郎は「ではそうします」と云った。


 父の竜右衛門は首を振った。そうして、この話の第一章に記したとおり、彼自身の女性観を述べ、諦めるほうがいいと云った。
 私は諦めないつもりです、と広一郎は主張した。私は紀伊が好きですし、紀伊はよい妻になると思います、と云った。だめだね、母さんがおれに訊けと云ったのが、すでに不承知だという証拠だ、そうだろう、おまえだって母さんの性分は知っている筈だ。しかし母さんは、「父さまが梶家の主人だから」と云われましたよ。おまえもそう思うか。ええまあ、――それに相違ないんですからね、と広一郎が口ごもった。竜右衛門は苦笑し、その詮索せんさくはよしにしよう、と云った。
「まあ諦めるんだな」と竜右衛門は続けた、「それにおまえは、たいそうあの娘が気にいったらしいが、さっきも云ったように、結婚してしまえば、女はみんな同じようなものだ、安永の娘だって紀伊だって、――おれは紀伊のことはよく知らないがね、しかし結婚して妻になれば、どっちにしても同じようになるものだよ」
「しかし父さんは反対ではないのですね」
 竜右衛門は頷いて、「母さんがよければね」と云った。
 広一郎は母の部屋へいった。
 こんどは問題がはっきりした。母は「いけません」と云った。
「あなたには安永つなさんという許婚者があります。そのうえ、あなたはやがて城代家老になる身ですから、町人の娘などを娶ることは許されません」とさわ女はきめつけた、「二度とそんな話は聞かせないで下さい」
「ですけれど、――」と彼は云った、「父上はいいと云われましたよ」
「お父さまにはあとでわたしが話します」とさわ女は云った、「――まだほかに、なにか仰しゃりたいことがおありですか」
 広一郎はひきさがった。
 よろしい、それならこっちも戦術を考えよう、と彼は思った。父はこれからしぼられるだろうし、相当お気の毒さまであるが、それは御自分のいばらを御自分でるわけである、「よろしい」と彼は呟いた、「戦術を考えるとしよう」
 だがその暇はなかった。彼が両親と交渉しているあいだに、紀伊は屋敷から出ていってしまった。それがわかったのは、彼が寝間へはいったときである。夕餉のときも紀伊がみえず、書斎へ茶を持って来たのも、べつの小間使であったし、寝間の支度は安芸あきという小間使がした。――広一郎は不吉な予感におそわれ、「紀伊はどうした」とその小間使に訊いた。すると、まるでその質問を待っていたように、母がはいって来て、「今日からこの安芸があなたのお世話をします」と云った。
 広一郎はかっとなった。
「母上が暇をおだしになったんですね」
「紀伊は自分でいとまを取ったのです」とさわ女は云った、「あなたはまさか、母を疑うほど卑屈におなりではないでしょうね」
 広一郎は頭を垂れた。彼もそこまで卑屈になりたくはなかった。紀伊は同じ城下町にいるのである、会おうと思えば茗荷屋へゆけばよいのだ。「おやすみなさい」と彼は云った。さわ女も「おやすみなさい」と云い、寝間から出ていった。
 安芸は用が済むと、一通の封じ文をそこに置き、挨拶をして出ていった。安芸はなにも云わなかったが、もちろん紀伊の手紙であろう、広一郎はすぐに取って封をあけた。
 ――わたくし必ずあなたのところへ戻って来ます、とその手紙に書いてあった。神仏に誓って、必ず戻ってまいりますから、それを信じてお待ち下さい。どうぞわたくしを呼び戻そうとしたり、会いにいらしったりなさらないようにお願い致します。
 会いにきても自分は決して会わない、その代り半年以内に必ず、「あなたのところへ」戻ると、その手紙は繰り返していた。
「わかった」と広一郎は呟いた、「私はおまえを信じよう、紀伊、――待っているよ」
 そして彼は待った。十二月になり、年が明け、二月になり、三月になった。梶家では毎年の例で、七人の小間使が出替ったが、すぐあとで、広一郎の結婚が行われることになった。
「安永さんを五年ちかく待たせました、これ以上お待たせすることはできません」とさわ女は云った、「広さんの女嫌いもなおったようだし、だって誰かを嫁に欲しいと仰しゃったくらいですからね」とさわ女は注を入れた、「こんどこそお式を挙げることにします」
 事は決定した。梶夫人がはっきり宣言した以上、誰に反対することができるだろう。梶家と安永家の往来が復活し、たちまち祝言の日どりがきまった。広一郎は祈った、「戻ってくれ紀伊、戻ってくれ」彼は空に向い壁に向い夜の闇に向って呼びかけた、「どうしたんだ、紀伊、いつ戻って来るんだ」そしてまた云った、「おれは待っている、おまえを信じて、最後のぎりぎりまで待っているぞ」
 紀伊は戻って来なかった。祝言の日が近づき、ついにその当日になった。紀伊はまだ戻って来ない、だが彼は望みを棄てなかった。梶家には客が集まり、彼は着替えをさせられた。花婿姿を鏡に写しながら、やはり彼は待った。紀伊は必ず戻って来る。紀伊は誓いをやぶるような女ではない、必ず戻って来るに相違ない。――そのうちに時刻が迫り、花嫁が到着した。仲人なこうどは次席家老の海野図書夫妻である、定刻の七時が来、式が始まった。
 白無垢しろむくに綿帽子をかぶった花嫁と並び、祝言の盃を交わしながらなお広一郎は紀伊を待った。紀伊はまだあらわれない、盃が終り祝宴に移った。にぎやかで陽気な酒宴が続き、花嫁は仲人に手をひかれて座を立った。
 ――紀伊、どうしたんだ。と広一郎は心のなかで叫んだ。どうしたんだ、もうすぐ最後のぎりぎりだぞ。
 そして、その「最後のぎりぎり」のときが来た。花嫁が立っていってから、約半刻はんとき、仲人の海野図書がおひらきの辞を述べ、広一郎は席を立って寝間へ導かれた。晴れの寝衣ねまきに着替えながら、「紀伊、――」と彼は心のなかで呼びかけた。海野夫人は彼を新婚のねやへ案内し、彼を屏風びょうぶの内へ入れてから、そっとふすまを閉めて去った。
 花嫁は夜具の上に坐っていた。
 六曲の金屏風に、絹行燈の光りがうつっていた。華やかな嬌めかしい夜具の上で、雪白の寝衣に鴾色ときいろ扱帯しごきをしめ、頭をふかく垂れて、花嫁は坐っていた。――広一郎は決心した、すべてを花嫁にうちあけよう。つなは気は強いしいじわるな娘だった。しかし、うちあけて話せばわかってくれるだろう、彼はそう思って、そこへ坐った。
 すると初めて、静かに花嫁が顔をあげた。
「あ、――」と広一郎は云った、「おまえ」
 花嫁は両手をついた。
「どうぞ堪忍して下さいまし」と花嫁が云った、「わたくしがどのように変ったか、みて頂きたかったのです」
 広一郎は「まさか」と呟き、茫然と眼をみはった。
「お側に仕えてみて、それでもお気にいらなかったら諦めるつもりでした。決しておだまし申したのではございません、あなたのお眼で、つながどう育ったかをみて頂きたかったばかりでございます」そして花嫁は嗚咽おえつした、「――堪忍して下さいますでしょうか」
「夢を見ているようだ」と広一郎は云った、「――すると茗荷屋の娘というのは」
よのさんは稽古友達ですの」
「母は知っていたのか」
「はい、――」花嫁は啜りあげた、「どうぞ堪忍して下さいまし、わたくし、あなたの妻になりたい一心だったのですわ」
 広一郎はあがった。すっかりあがってしまい、どう答えていいかわからなくなった。そこで鼻が詰ったような声で云った。
「おまえは誓いをやぶらなかった、つまり、私のところへ戻って来たわけだな」そして、すばやく指で眼を拭いて、ばかなことを云った。
「三つ星さまはまだあるだろうね」


「もう一と月になるな」と竜右衛門がその息子に云った、「もう一と月になる、うん、――どうやら無事におさまったらしいな」
「ええ」と息子が答えた、「無事にいっています」
「おれの云ったことが思い当ったかね」と父親が云った、「結婚してしまえば、女はみな同じようなものだ、ということがさ」
「さよう」と広一郎はおちついて云った、「仰しゃるとおりでした、女は同じでしたよ」





底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
   1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
   1955(昭和30)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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