嘘アつかねえ

山本周五郎




 浅草の馬道を吉原土堤どてのほうへいって、つきあたる二丁ばかり手前の右に、山の宿へと続く狭い横丁があった。付近には猿若町とか浅草寺とか新吉原など、遊興歓楽の地が多いので、そのあたりは全般的に活気もあり、家数こそ少ないがかなり繁華でもあった。……しかしその横丁だけはまるで違う。狭いうねくねした道は昼間でも殆んど人通りがないし、両側の家は軒が低く、おそろしく古ぼけて、片方へかしいだり前へのめりそうになったりして、五六軒ぐらいずつ途切れ途切れに並んでいる。その途切れたところは草の生えた空地だの、塵芥ごみ捨て場だの、汚ならしい水溜みずたまりだの、家を取壊した跡だの、また気紛れに作りかけたまま放りだしたような畑だのになっていて、ぜんたいがじめじめと暗い、陰気くさい、ひどくうらさびれた眺めであった。
 この横丁の馬道からはいった左側の空地に、夜になると「やなぎ屋」という袖行燈そであんどんを掛けて、煮込みかん酒を売る店が出た。夕方になると六十五六になる爺さんが車屋台をいて来て、葭簾よしずで三方を囲い、腰掛けを二つ並べて商売を始める。夜が明けると片づけて、車屋台を曳いて帰ってゆく。どこに住んでいるのか、いつ頃からそこへ店を出しているのか、どんな身の上か、家族があるかないか、すべてわからない。爺さんも話さないし尋ねる客もない。……客はただ「爺さん」とか「とッさん」とか「おやじ」などと呼ぶだけだし、爺さんのほうは殆んど口をきかない。実際には腰は曲ってはいないのだが、腰の曲っているようなたどたどしい動作で、酒のかんをしたり、なべの下をあおいだり、煮込みを皿へつけたり、はしさかずきを洗ったり、絶えずなにかかにかしているが、それはできるだけ客と話すことを避けているようにみえる。そして事実そのとおりであって、くどい客などが相当しツこく話しかけても、ほんのおあいそに返辞をするくらいで、身を入れて聞くとか自分から話しだすなどということは決してなかった。


 信吉はうらぶれたような気持になると、よくその「やなぎ屋」へいって酒を飲んだ。
 彼はその横丁ぜんたいが好きだった。両側の家に住む人たちはどんな生業なりわいをしているものか、彼のゆくじぶんにはどの家も雨戸を閉めて、隙間だらけのあばら家なのに灯の漏れるようすもない。ときたま赤児の泣く声や、病人らしい力のないせきや、がたごと雨戸をあけたてする音などが聞えるほかは、みんな空家のようにひっそりとしていた……その横丁へはいってゆくと、信吉はふしぎな心のやすらぎを覚えた。そこにはつつましい落魄らくはくと、あきらめの溜息が感じられた。絶望への郷愁といったふうなものが、生きることのむなしさ、生活の苦しさ、この世にあるものすべてのはかなさ。病気、死、悲嘆、そんなおもいが胸にあふれてきて、酔うようなあまいやるせない気分になるのであった。
 初めて「やなぎ屋」へいったのは二年まえの冬のことだろう。酒もさかなも安いだけがとりえで、決して美味うまくはない。ぶあいそな、うす汚れた爺さんのようすも、ふだんなら眉をしかめるところだったが、そのときは新吉原の茶屋で友達と飲んで、そこで口論になって、ひどくやけな孤独な気持でとびだした。このまま旅へでもとびだすか、いっそ身投げでもするかといったような気持だった。……そんなときだったので、葭簾で囲った屋台店も、不味まずい酒や肴も、よぼよぼした爺さんのようすも気にならなかった。むしろ遠い親類の家へでもいったような感じで、――なにか泣き言も云ったらしい――、空の白むじぶんまで乱暴に飲み続けた。
 それからときどき飲みにでかけた。いつも客はあまりいないし、爺さんは無口で、こっちが話しかけない限りいつまででも黙っている。手酌で勝手に酔うことができるし、誰に気兼ねもなく邪魔もされず、いたければ朝までいられるし、自由にもの思いにふけることもできた。
 客はたいていがふと紛れこんで来たといったふうな者ばかりで、長い馴染らしい者はなかった。馬道の通りにも夜明しの飲屋がある。安くて美味い酒肴があって、給仕に小女などを置いている店が、とびとびに四五軒はあった。場所柄もあるだろうが、それらの店では客はだいたい馴染が多く、客同志で話したり唄ったり、陽気に飲んで酔うといったふうであった。しかし「やなぎ屋」の客は殆んどが一度きりであった。そして信吉が初めてとびこんで来たときのように、それぞれが暗い重苦しいかげをもっていた。
「――おやじ、強いのはねえか」
 ぶすっとそんなことを云って、濁酒どぶろく焼酎しょうちゅうを入れたのを取って、それをすぐには飲もうともせず、蒼黒あおぐろいような疲れた顔を俯向うつむけて、なにかぶつぶつ独りでつぶやいたり、なんども深い太息といきをしたりする。それから突然その酒をあおり、銭を投げだして、暗い夜半のちまたへ消えてゆく。……そういった者が多かった。
「いまの男は首でもくくるんじゃないのか」
 信吉は半ば冗談によくそんなことを云った。爺さんはたいがい気のない相槌あいづちをうつか、にやにや笑うくらいのものであるが、ときには独り言のような調子で、「――なあに、珍しかアありませんや」
 などと云うことがある。おそらくそんな経験が幾たびかあったのだろう、なにかをじっとみとおしているような云いかたで、信吉は急に寒気のするような気持になったこともあった。……いちどなどは人を斬った侍がはいって来た。残暑の頃で、もう東の空が明るみだす時刻だったが、その侍は足音もさせずにぬっとはいって来て、酒を冷のまま湯呑へ注がせ、続けさまに三杯も呷った。こまかい白飛絣しろがすり帷子かたびらの夏羽折を着ていた、せた小柄なからだつきで、眼が血ばしっていた。
「くだらないな、実にくだらない」四杯めを飲みながらそんなことを呟いた、「――世の中も人間も、生きていることも、……みんなくだらぬたわけたことだ」
 侍はその血ばしった眼で、ときどき信吉のほうを見た。警戒するのでもなく相手を求めるのでもない。信吉を見はするが実は信吉を見るのではなく、心はまったくべつのほうにあるという眼つきだった。
「ばかなものだ、ちえッ、ばかなものだ」
 そんな呟きも殆んど無意識だったろう、酒を五杯飲むと、途方もないほど多額な金を置いて、来たときのように足音もさせずに出ていった。
「ふられて来たというかたちだね」
 信吉はそう云った。爺さんは苦笑しただけであるが、それからまもなく役人が来た。いまくるわで人を三人斬った侍がある、人相風態はこれこれだが見かけなかったか。こう云うのを聞いて、信吉は危なく声が出そうになった。……役人が去ったあと、信吉は侍の血ばしった眼や、とりとめのない呟きを思い返しながら、爺さんが店を片づけ始めるまで、沈んだぼんやりした気持で飲み続けた。
 松という男に初めて会ったのは、北風の吹き荒れる寒い晩だった。色のめたつぎはぎだらけの股引半纒ももひきはんてんに、草鞋わらじがけ頬冠りで、腰には弁当のからとみえるのを小風呂敷に包んでくくり着けていた。年は自分で三十七だと云ったが、五十以下とは思えないくらい老けてみえた。……もうどこかで飲んで来たのだろう、いい気持そうに鼻唄などやりながら、「強いのを」一杯取って、「しばらくだったなあ、おやじ、おめえ生きてて呉れて、おらあ有難え、生きてせえすりゃあまた会えるッてよ、こんな有難えこたアねえや」
 舌ったるい調子で饒舌しゃべりだした。彼は自分の名や年や、妻と子供が三人あることや、今は人足に雇われていることなど、二度も三度も繰り返して、そのたびに「嘘アつかねえ」と念を押した。
がきは三人よ、みんな可愛い畜生だ、可愛い畜生だが、暮しは楽じゃあねえ、楽じゃあねえさ、こちとら人足の日雇銭にまで、お上の運上が掛るッてんだから、文句を云うわけじゃあねえが、お上ッてってもどんな心持でいるものかさ」

 信吉が「やなぎ屋」へゆくのは不規則で、三日も四日も続けさまにいったり、十日も二十日もゆかなかったりした。しかしまる二年近くも通っているのだから、もう馴染という感じになってもいい筈であるが、爺さんには少しもそんなふうはなかった。いつも初めてはいったときと同じ態度で、べつにおあいそも云わず親しむようすもない。そしてこちらでも、――まえにいったとおり、――客がいつも新顔ばかりで、二度三度と会うような者はめったにないから、しぜん馴染の店という感じはもてなかったのかもしれない。だが、そのなかで松という男は、幾たびか顔の合った例外の客の一人であった。
 二度めは暑い季節だったろう。蚊いぶしの煙が葭簾の隙間からしまのようになって外へながれ出るのを、信吉はぼんやり眺めながら、いつもの隅の場所に腰掛けて、飲んでいた。松は彼のゆくまえに来て、もうだいぶ飲んだのだろう、もつれるような舌で頻りにきえんをあげていた。
「この阿魔あま、起きろ、起きてかまの下をきつけろ、……おらあこの式だ、女はこれでなくッちゃいけねえ、日に二三度は横ッ面をはりとばしてやる、やかましいッ文句ウぬかすな、黙れこの野郎、……っとばすこともあるが、いちどなんざあ土間へ蹴落してれたが、……そのくれえにして女はちょうどなんだ、嘘アつかねえ、おいらあいつもこの式だ」
 信吉はぼんやり聞きながら、思わずそっと苦笑し、横眼で男を観察した。初めに会ったときと同様、年は五十くらいに老けてみえるし、皮膚はたるんでつやがなく、肥えているのに肉に緊りがない。まるっこい顔つき、気の弱そうな尻下りの眼つき、すべてが典型的な好人物の相貌である。
 ――よっぽと女房の尻に敷かれてるな。
 信吉はそう思った。男の言葉は逆であろう、いろいろな点で女房に頭があがらず、常にぽんぽんやりこめられているに違いない。そのありさまが信吉には見えるようで、つい苦笑せずにはいられなかったのである。……その次にいったときのことであるが、男が馴染らしい口をきいていたのを思いだして、「いつかの松とかいう客は古くから此処ここへ来るのかい」
 信吉はそうきいてみた。爺さんはいつもの調子で、なにか洗いながら、ええまあ、などとあいまいな返辞しかしなかった。
 それから秋までに三度ばかり松と顔が合った。そして話しかけられて口をきくようになったが、彼の話題はいつも必ず、「女は殴りつけて蹴とばすに限る」というところへおちた。物価の高いことや、幕府の政治の悪いこと、老中の誰某はどうだとか、世間の風儀がみだれるばかりだとか。そういう飲屋の客に共通した社会批評が、しまいにはきまってそこへおちるのである。
「旦那なんぞはあまそうだな、うん、隠したってちゃあんとわからあ、顔のね、ここんところとここんところがね、へっ、おらあ嘘アつかねえ、だめだよ旦那ア、あめえあめえ、そんなこッちゃあね、一家てもなア立ちあしねえんだよ」そしてぐっと細い眼をくのであった、「――女ッてえやつアね、がみがみどなってあばれるにしろ、温和おとなしそうにはいはいと猫をかぶッてるにしろ、どっちみち男にくつわませて、手綱をしばって、けつッぺたむちでぴしゃぴしゃ叩くもんなんだ、かせげ稼げッてよ、……稼げ、稼げ、……旦那はなんの商売かおらあ知らねえ、けれども理屈にゃア変りはねえと思うんだ、人間同志ならそこはわかって呉れると思うんだ。……男は悲しい、可哀そうなもんだ。だから、だからおらあかかあをはり倒す、拳骨げんこつでも平手でも、……この阿魔ッふざけるな、蹴ころがしてやることもあるさ」
 まるっこい顔をふくらませて力むのだが、人の好さそうな尻下りの眼は、そんなときふと異様な光りを帯びて、彼の言葉にかなりな実感を与えた。
 寒くなりだしてから、宵のうちとか夜半過ぎなどに、夜鷹よたかの紛れこんで来ることがあった。一人は躯のだぶつくような肥えた女で、もう一人はまだ十五くらいの、病的に痩せた、殆んど男の子のような躯つきをしていた。肥えた女はお吉といい、少女はお琴という名だった。初めは二人いっしょにはいって来て、爺さんに焼酎を貰い、お吉が少女の裾をまくって太腿ふとももの傷の手当をしてやった。……客の奪いあいをして、相手の女のひもに短刀で突かれたのだと、お吉が爺さんに話した。少女は手当の終るまでひっきりなしに饒舌っていた。傷を焼酎で洗われたりしたら痛いだろうのに、眉をしかめもしなかった。
「あたいああいうの好きさ、へたな文句なんぞ云わずに、いきなり、ずぶっとやりゃアがった、それがいい気持だったらないの、躯じゅうがぞウっとしちゃった、今でもおへその下ンところがぴくぴく動いてるわ、おなかの奥のほうの此処ンとこ、ねえ、此処ンところになにがあるの、このぴくんぴくん動くものなによウ、ねえさん、いいからもっとぎゅうぎゅうこすってよ、痛くなんかありゃしないんだから、力いっぱい擦って、畜生、これから毎晩あの女と張合ってやる、あの女からあの男をふんだくってやるんだ、あんな女にゃ勿体もったいないよあの人」
 まだ子供のようだが、云うことだけ聞いているとあばずれた年増としま女としか思えなかった。そしてそのように饒舌りながら、ときどき信吉のほうへながし眼を向け、捲っている裾をもっと上へあげたり、細い腰を露骨に揺ってみせたりした。……当時も私娼街は指定地区に限られていたし、夜鷹とかけころなどの名で呼ばれる街娼も、黙認ではあるが出る場所が定っていて、その他の地域ではつかまると罪が重かった。特に新吉原の付近などは、――くるわからの要請で、――厳しく禁じられていたのである。
「こんな処へあんなのが出てやかましくはないのかい」
 二人が去ってから信吉がそうきいた。爺さんはなべの下を煽ぎながら、食うためには危ない橋も渡るわけだろう、というようなことを、口の中で不明瞭に呟いた。
 それから彼女たちはしばしば「やなぎ屋」へあらわれるようになったのだが、寒さと空腹しのぎに寄るらしい、お吉は酒を熱くして一杯、お琴は煮込をべた。二人で来るときもあるし、どっちか一人のときもあった。お琴の太腿の傷はどうなったものか、まるでそんな事はなかったかのように、いつも元気でよく饒舌った。二度めに信吉がゆきあわせたとき、お琴は子供っぽく笑いかけて、
「おじさんこないだいたお客さんだね」
 ちょっと懐かしそうに云ったが、それから突然その笑いが娼婦の誘いに変った。
「あアあ、誰かあたい買って呉ンないかな」
 妙な身振りをしてそんなふうに云うこともあった。

 その夜はひどい凍てだった。夕方までかなり強い木枯しが吹いていたが、それがやむと急に気温が下りだして、道など宵のうちに凍ってしまった。……わけもなく気の沈む晩で、暗い絶望的なことばかり頭にうかび、酒もむやみに不味かった。「やなぎ屋」のは安酒のなかの安酒で、いつもはそれが一種のわびしい魅力だったのだが、その夜はそんな気分のせいか、二本ばかり飲むとやりきれなくなり、いっそよそへいって飲みなおそうと思った。そして財布を取り出そうとしたとき、松という男がはいって来た。
「ようッ生きてたな、おやじ、有難え有難え」彼はよろよろと台板へのめりかかった、「――人間、生きてせえすりゃあこうして会えるんだ、おらあこれが嬉しくッてしょうがねえ、この、また会えるッてことがよ、そうだろうおやじ、有難え有難え」
 そして「強いの」を注文して、ふと信吉をみつけて頓狂な声をあげた。信吉もその声にすぐ答えた。古い友達にでもめぐり会ったような、ふしぎな親しさが感じられ、出るのを思いとまって彼も「強いの」を取った。
「おらあ旦那のこたア覚えてる、嘘アつかねえ、ちゃんと覚えてるよ、男は哀れなもんだッてね……旦那はそう云った」
「それはおまえの云ったことだろう」
「へっ、御冗談、ふざけちゃアいけねえ」
 松はその晩は社会批評ぬきで、いきなり彼の本論をもちだした。信吉を女房にあまい男だと云い、信吉に限らず、一般に世間の男は女房にあまくて、そのだらしのなさは見られたものではないと云った。
「女ッてえものはね、日に二三度は横ッ面をはっとばしてやらなくッちゃあいけね、拳骨でも平手でも、薪ざっぽでも構やしねえ、ぱんぱんッてね、……遠慮も会釈もねえ、まずいせえよくぶっくらわすこッた、ぱんぱんッてね、おらあその式だ、……やい阿魔ッ酒を買って来い、釜の下あ焚きつけろ、すべた野郎、来ておれの足を洗え、……おらあいつもこの式さ」
「旦那は本気にしねえかもしれねえ」松は強いのをひと口飲んで続けた、「――だがね、旦那、おれがこんな式をやるにゃア、それ相当のわけがあるんだ、人間が酒を飲んで酔うには、酔うだけのわけがあるように、嘘アつかねえ、おらあね、……おれのちゃんでそいつをよく見たんだ、おれのこの眼でよ、旦那、おらあこれだけは旦那に云わずにゃアいられねえ」
「おれの父は温和しい人間だった」松は舌ったるく話しだした、「――酒も煙草もろくろく口にしねえ、桶屋おけやだったが、腕はよかった、仲間の職人からそねまれるくれえの仕事をした、浅草橋からこっちの番手桶は父でなくッちゃあならねえ、と云われたくれえなんだが、仏性で、……そこは自分でもじれったかッたらしい、頭がこすくまわらねえ、仕事にはばかな念をいれるが、どうしてもあこぎな銭が取れねえ、おまけに人をだますより騙されるッてえ、くちだった。……いくら腕がよくッたって、それじゃア蔵の立つ道理はねえ、蔵どころか、正直のところ女房子に満足な着物も着せられなかった」
 松の話はたどたどしく、前後したり、つじつまの合わないことがとびだしたり、同じことを繰り返したりした。だがそのためにかえって誇張のない実感が感じられた。……信吉には一人の愚直な職人の姿がみえるようであった。そこにいる松のような、肉の緊らない躯つきで、眼尻の下ったまるっこい顔で、いつも諦めたような卑屈な笑いをうかべている。仕事の腕はあるが、頭が悪いので人に利用され、ばかにされるだけである。狡猾こうかつの勝つ世の中では、こういう人間は一種の敗者であろう。勘定の催促でも強くはできない、割の悪い仕事はみな押付けられる。彼にはすべてがあとまわし、取るものはびしびし取立てられる。そしてしぜん生活はいつも苦しく、いつまでも苦しく、彼は溜息をつくばかりである。……信吉には今、その途方にくれたような、力のない溜息が聞えるようであった。
「おふくろは、気の勝った女だったろう、生れつきの性分はしようがねえ、だが仮にも、稼ぎにいく亭主に、飯を炊かせる、水をませる、ときには洗濯までさせるッてなあ、……こいつはおらあめたこッちゃねえと思う、旦那のめえだが、こいつだけあおらあはっきり云いてえンだ」
 松はこう云って眼をきらきらさせた。相変らず舌ったるいが、顔にはかなりな怒りの表情が現われていた。
「こんな暮しは御免だ、飽き飽きした、……おふくろはいつもそう云ってた、満足に食いてえ物も食えねえ、着てえ物も着られねえ、おまえさんなんかと一緒になるンじゃアなかった、……こいつを口癖のように云った、いつも頭が痛え、腰が痛え、眩暈めまいがする腹がやめる、疲れて起きられねえから、おまえさん起きて釜の下を焚きつけて呉れ、……そして、そのくせ夜中になれば、父をそっと寝かしたこたアねえ、むりむてえかかってくんだ、否も応もねえ、むりむてえ、文句なしなんだ、……たまには父もいやだでとおすことがあった、誰にだって、どんなに強くったって、そこは男は女たア違う、どういきんでもいきみきれねえ時があらア、……知れたこッたが無事にゃアおさまらねえ、おれの口じゃア云えねえような悪態だ、帝釈たいしゃく様も耳を押えたくなるような悪態の始まりだ」
「女はつまらねえもんだ、まるで下女下男みてえだ、……これがおふくろのもう一つの口癖だった」彼はひと口飲んで続けた、「男は外で勝手な事をする、ちっとばかりの稼ぎで酒も飲む、隠れて悪遊びもするが、女は家にひっこんでぼろの縫い繕い、煮炊き洗濯、子供の世話から暮しの心配から、いやな事はみんな女の役だ、下女下男なら給銀てえものがあるが、女房にゃアそれもねえ、働きどおし働いて、これッぽちも楽しい思いをしねえで、亭主にこき使われ、牛馬のように一生を終ッちまう、これが女の一生だ、……ああ、……だがおらあ知ってるんだ、おらあ、……この眼で見て、この耳で聞いて知ッてるんだ、おふくろは父が稼ぎに出るとのこのこ起きだして来る、父の炊いてった飯を食う、それから近所の嬶たちを呼ぶか、こっちから押掛けるかして、十文が菓子を買ってがぶがぶ茶を飲みながら、……緞帳どんちょう芝居の役者評判か色ばなしか、近所合壁がっぺきの悪口が始まる、……恥も外聞もねえような、男も顔が赤くなるような下劣なことを饒舌って、げらげら笑って、しめえにゃアてんでんが、てめえの亭主を裸にするようなことをぬかしゃアがる、……嘘アつかねえ、おらあこの眼で見た、この耳で聞いた、おらあちゃんと知ってるんだ」
「父はいい人間だった」ひと息いれて松は話し継いだ、「――おふくろになんと云われても、決して口答えはしなかった、……済まねえ、おれに甲斐性かいしょうがなくッて申し訳がねえ、もうちっとだから辛抱して呉んねえ、……だが旦那、父だって人間だ、一寸じゃねえかもしれねえ、五分ぐれえかもしれねえが、五分の虫にだって二分五厘の魂はあらア、たまにゃあむしゃくしゃしてはらも立つだろう、やけくそなような気持にだってなるこたアあらア、……稼いでも稼いでも、正直一方でこすい事が出来ねえ、いつも下積みでうだつがあがらねえ、女ア知らねえから外で勝手なまねをしていると思ってる。好きなことをしていると思ってるが、それどころじゃアねえ、……女房子を抱えて、今日の日を食ってくッてなあ道楽じゃアねえんだ、それこそ血の涙の出るような思いをすることもあるんだ、……女も苦労だろう、そこは貧乏人はなんともしようがねえ、けれども、男は、男の身になってみりゃアそんな苦労どころの話じゃアねえ、そんなもんじゃアねえんだ、段が違うんだ、……父が酒を飲みだした心持は、おらにゃアわかる、誰だって飲まずにゃアいられねえ、現に旦那がそうじゃねえか。ええ、旦那みてえな人だって、ただむやみに飲みてえから飲むッてわけじゃねえんだ、ねえ、そうでしょう旦那」
「飲むッたって父のはごくときたまだった」松はぐっと呷って云った、「――そうしていくらか気が紛れて帰って来る、酒だけは人間を騙さねえ、飲めばいくらかは気を紛らして呉れる、……だが帰ってみると戸が閉ってるんだ、隙間からのぞいたって灯も見えねえ、戸をぴしゃっと閉めてみんな寝ちまッているんだ、……阿母おっかアけえったぜ、父はそっとこう呼ぶんだ、低い声でよ、そおッと指の爪で戸を叩きながら、……阿母アおれだ、あけて呉んな、けえッたぜ阿母ア、済まねえがあけて呉んな、……おふくろは寝ちゃアいねえんだ、眼をさましてちゃんと聞いてるんだ、父はいつまでも呼んでる。トントン、トントン、爪でそっと戸を叩きながら、低い声でそおッと、阿母アけえッたぜ、……嘘アつかねえ、おらあ聞いていたんだ。聞いていて涙が出たもんだ、父ッ戸なんか蹴破ってはいんねえ、此処は父の家じゃねえか、おらあこうどなりたかった、本当に声ッ限りどなりたかった、……けれどもどなるなアおれじゃねえ、いつもおふくろだ、さんざッぱら父に呼ばせてえてから、寝とぼけたような声で誰だえと云う……いまじぶん誰だえ、なにか用があるのかえッてよ、それから喚きだすんだ、町内じゅうが眼をさますような声で、ありッたけのざんそと悪態を並べるんだ、そうしてから、……それから云うんだ、戸が閉っててはいれなきゃはいるにゃア及ばねえ、どうせくらい酔ッてるんだから外で寝て酔をますがいい、あたしの知ったこッちゃねえよッてさ」
 松の両方の眼から、そのとき涙がだらしなくこぼれ落ちた。太くて黒くてがさがさに節くれ立った指の手の平を返して頬をで、それから湯呑のもう底になったのをすすった。
「おふくろが寝返りをうつまで、おらあ黙って動かねえ、それからそおッと寝床をぬけ出すんだ、そおッとよ、……そして勝手口をあける、そろそろとあけるんだ、……父は寒そうな恰好で尻尾しっぽを垂れた迷子犬みてえに、しょんぼりと闇の中に立ってる、……おらあ低い声で呼ぶんだ、父、……早くはいんなよ、早く、ああ、……旦那がもしこいつを知ったら、そうしたおれの式が嘘でねえ、むりはねえッてことがわかって貰える筈なんだ、おらあそれだけは云わずにゃいられねえんだ」
 信吉は爺さんにめくばせをして、空になった彼の湯呑へもう一杯「強いの」を注がせた。松は急に顔のひもを解き、眼尻を下げて、片方の手で濡れた頬を擦りながら、ぺちゃぺちゃと音をさせてそれを啜った。話で抑えられていた酔が、みるみる盛返しふくれあがるらしい。
「おらあ父のようにゃアしねえ、この眼で見てるんだ、いやッてくれえ耳で聞いてるんだ、まっぴら御免くそくらえだ、……女に桶が作れるか、腰ッ骨の折れるような人足稼ぎが出来るかッてんだ、……おらあ横ッ面アはっとばしてやる、ぱんぱん、……こうだ、ぐっとも云わしゃしねえ、頭からどなる、やい阿魔ッ釜の下あ焚きつけろ、足を洗うんだッ水を持って来い、ぐずぐずしやアがると足の骨をぶっ挫くぞ、……こうだ、飲みたくなりゃア酒を買いにやる、夜中だってなんだって会釈はねえ、やい阿魔ッいって酒を買って来い、……嘘アつかねえ、おらあこの式よ、父はそれが出来なかった、父は、……だがおらあまっぴらだ、へい、まっぴら御免候だ」
 松はぐらぐらと頭を垂れ、右手には湯呑を持ったまま、台板へ俯伏してしまった。
「へえ、まっぴらだよ、なにょウぬかしゃアがる、けつでもくらえだ、……べらぼうめ、女がなんだ、嬶がなんだッてんで」
「お客さん、あたい買っと呉れよ」
 耳のそばでこうささやかれて、信吉は殆んど吃驚びっくりして振返った。いつ来たものか、お琴がぴったりと躯を寄せて立っていた。
「あたい遊ばせるの上手よ、ねえ、好きなことだったらどんなことだってさせてあげるわ、まだ骨が固まってないから普通の姐さんじゃ出来ないことが出来るわ、いちど遊んだお客さんはみんな忘れられないッて云うわ、ねえ、いちどでいいからあたいを買ってよ」
 痩せて骨だけのような腰を押付け、すばやく信吉の手を取って自分の股の中へ入れようとした。信吉はそれを振放し、財布を出して、幾らかをつかんでお琴の手に握らせた。
「これを持って帰りな、おじさんは意気地なしでだめなんだ」
「ふん、きれエみたいなことを云うわね」
 お琴は銭を握るとうしろへとび退いた。そして若い毛物のようなぎらぎらする眼でこちらをにらみ、憎悪をこめてののしった。
「これを持ってけがあきれるよ、ひとの股へ手を入れて唯呉れるようなこと云やアがる、あたいはそんなあまいンじゃないんだよ、見そくなッちゃアいけないよ」
 そしていたちのように外へとびだしていった。
「――食うため、か」信吉は眼をつむってそう呟いた、「――食うために、お互いが騙し、お互いが憎み、汚しあい、……いつまでも、子も孫も、この世が終るまで、同じことを繰り返してゆく、いつまでも、……食うために」
 松が勘定をして出ていった。信吉はそれをぼんやり見ていたが、凍った道でつまずきでもしたのだろう、松がぶっ倒れて、なにか喚きたてているのを聞くと、信吉はすぐ戻って来ると云って外へ出た。
「さあ殺せ、野郎、どうともしやアがれ」
 松は道の上へ仰向きになって、手を振廻しながら叫びたてていた。信吉は彼を抱き起こしてやり、はだけた半纒を合わせてやり、それから左の腕をこっちの肩へ掛けさせて、一緒によろめきながら歩きだした。彼はいきり立ち、右の腕を頻りに振廻した。
「くそッたれ阿魔め、唯じゃアおかねえ」
 それを飽きずに繰り返した。
 そんなにも酔っているのか、曲り角を三度も間違えて、山の宿のごみごみしたその一画へゆくまでに、――まっすぐにゆけばひとまたぎだったが、――殆んど半刻はんときちかくも時間をとった。凛寒りんかんな凍てと、それだけ歩いたためだろう、松は道の四つつじになった処で、もういいからと別れを告げた。
「今夜は酔ってるんだから、乱暴をしないで温和しく寝るがいいぜ」信吉はそう云った、「――おめえの式もいいが時と場合があるからな、今夜は温和しく寝るんだぜ」
「わかってるよ、おれだって程てエものア知ってらあな、大丈夫だから、……それじゃアまあ、旦那も、……風邪をひかねえようにね、ひどく冷えるから、じゃアひとつ、そこはなにぶん……」
 あとは口の中でもぐもぐ云って、かなりしっかりした足つきで、松は歩いていった。
 ――危ないな、悪く暴れるんじゃないかな。
 信吉はちょっと不安になり、それとなくあとからついていった。松は横丁へ曲ったが、そこは家が三四軒しかなく、向うは空地で、つまりその貧しい一画の隅に当るらしい。松は左側の長屋の、いちばん端の家の前へ寄っていった。
 ――戸を蹴破ってはいんなよ。
 松が子供のときそう思ったという、その言葉がふっと信吉の頭にうかんだ。しかし、松は閉っている雨戸の前で、遠慮がちな、低いよわよわしい声で呼んだ。
「――阿母ア、けえッたぜ、あけて呉んな、けえッたぜ阿母ア」そして指のさきで、トントンと軽く、ほんの軽く雨戸を叩いた。
 信吉は逃げだしたくなるのをがまんした。歯をくいしばるような思いで、松の哀しい呼声と、訴えるような戸を叩く音を聞いていた。やがて家の中から女がだみ声でどなる、あけすけな、仮借かしゃくのない罵詈ばりが聞える。だが信吉はがまんして苦行でもするかのように耳を澄ましていた。
「そんなこと云わねえでよ、あやまるからよ、なあ阿母ア、外は寒くッて、……おらあこごえ死ンじまうよ、なあ阿母ア、おらあこのとおりあやまるからよ、なあ、……なあ」
 彼が雨戸に向って、実際におじぎをするのを、信吉は見た。そして、それからどのくらい経ってか、彼はこの情景の点睛てんせいともいうべき声を聞いたのである。……どこかの戸がきしみながらあいた、そうして低い囁くような声で、――それは十二三の少年のもののようであったが、――こう呼びかけた。
「はいんなよ、ちゃん、……早く……」


 正月も近くなった或る夜。曇った、なま暖たかいような晩だったが、信吉は「やなぎ屋」の台板へもたれかかって、いい気持そうに酔っている松のきえんを、なんの感動もなく、聞いていた。松はすばらしい機嫌だった。彼は尻下りの眼をいからかし、右手の拳骨でなにかを殴りつけるような身振りを繰り返した。
「この阿魔、早くしろ、文句ウぬかすな、すべた野郎め、来ておれの足を洗え、……女ッてやつアこれに限るんだ、おらあこの式だ、本当だぜおやじ、女アね、女ッてやつアそれでちょうどなんだ、……嘘だと思うんなら」
 信吉の唇がふるえながらゆがんだ。のどがごくッとなり、鼻の奥が熱くなった。
「そうだ、そのとおりだ」彼は口の中でそっとこう呟いた、「――おまえの云うとおりだよ、松さん、いいから酔おう、……酒だけはおれたちを騙さねえからな」





底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年10月28日作成
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