荒法師

山本周五郎





 昌平寺の俊恵が荒法師といわれるようになったのはそう古いことではない。……昌平寺は武蔵の国における臨済門の巨刹きょさつの一であるが、その頃はいわゆる関東五山の威望もうすくなり、さして傑作した人物もあらわれず、いたずらに応燈関(大応、大燈、関山)三師の盛時をしのぶ臨済宗門のもっとも衰えた時代で、大徳寺の古統をひいている昌平寺もすでにむかしの壮厳はなかった。しかしそれでも慧仙和尚けいせんおしょうのもとに老若十余人の僧が研鑽けんさんしていたし、また諸国から来て挂錫けいしゃくする修業僧もつねに三五人は欠かなかったのである。……俊恵はもと土地の貧しい郷士の子で、幼いとき孤児になったのを慧仙がひきとって弟子にした、性質のごくおとなしい、頭のすぐれて明敏な少年だったから、和尚もこれは拾いものだといい、檀家だんかの人びとも俊恵さまはいまに大智識におなりなさるだろうとうわさをしあっていた。かれは十八歳になったとき京へのぼって東福寺に入り、そこで二年、さらに建仁寺から鎌倉へ来て円覚寺で二年、前後まる六年の修業をして昌平寺へ帰った、そのとき二十四歳になったかれは見違えるような偉丈夫に成長していた、骨太の六尺ちかいからだつきも、浅黒い顔にぐいと一文字をひいたような眉も、※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)けいけいと光りを放つ双眸そうぼうも、すべてがたくましい力感に充ちあふれていた。相貌がみちがえるようになったのと共に性質もずんと変った、少年の頃から無口だったのがますますひどくなり、たまたまものを云うときにはなにかんだものを吐きだすような調子だった、「俊恵さまはお変りなすった」「むかし叡山の荒法師と呼ばれたのはあんな風だったろうか」「いかにも荒法師という風だ……」いつかしらんそういう評判がたちはじめ、やがてその名が近在に弘まってしまったのである。
 晩春の或る朝はやく、ひとりの農夫が畑へゆこうとして昌平寺の裏をあるいていた、すると頭の上のほうでとつぜん妙な叫びごえが聞えた、びっくりしてふり仰いでみると、寺の境内にある高いかやの木のてっぺんに誰か人がかじりついていた、まだ足もとは仄暗ほのぐらかったがこずえのあたりは明るいので、すぐにそれが俊恵だということがわかった、農夫はもういちどびっくりして、しばらくその異様な姿を見あげていたが、やがて恐る恐る呼びかけてみた、「……俊恵さま、そんなところでなにをしておいでなさる」すると樹の上からはひどくはらをたてたようなこえで呶鳴どなり返した、「真如をさがしているんだ」そしてそれっきりまた早暁の空をにらんで動かなくなった。農夫にはもちろん真如がなんであるかわからなかったので、庄屋の閑右衛門という隠居にきいてみた、隠居はたいそう閉口したようすで、「ああ」だの「うう」だのとしばらく頭をひねっていたが、「つまりそれは、……まあ云ってみればこんなものだ」そういいながら指で空に円を描いてみせた。「それが真如でございますか……」「まあそうだ」「すると円いものですな……」「そうだ」「堅いものですかなそれとも柔らかいものですかな」「堅くも柔らかくもない」「色は……」「無色透明だよ」「生きているんですかそれとも」「いや生きてもいないし死んでもいない」「なんだかちっともわかりませんが、いったいその正体はなんでございますかな正体は……」「弱ったな」隠居は自分でもじれったそうだった、「つまりこうだ、この天地の間にある物はすべて移り変る、いまかたちがあっても焼けて灰になり腐って土となる、山は崩れるし川は……つまりそういうようにいろいろと絶えず移り変っている、そのなかで絶対に変らないのが真如だ、殖えもせず減りもしない、焼けも腐りもしない、天地が亡びても亡びない、……まあ云ってみれば真如とはそういうものだ」「そうするとそいつはよっぽど死太いものですな」農夫は解せたような解せないような妙な顔をした、「それで……なにかそいつは薬にでも使うんですかな」それからなお半刻はんときほど同じような問答が続き、やがて隠居閑右衛門が肚を立てて奥へひっこんでしまったので、農夫は結局なにもわからずじまいだった。このことが噂になりだしてから間もなく、或る日のひざかりに俊恵は大鍬おおぐわを手にして、本堂の裏の片隅をせっせと掘り返していた、季節はもう初夏にはいって、照りつける日光は、境内の若葉に反映して眼に痛いほどぎらぎらと輝いていた、俊恵はまるで頭から水を浴びたように汗みずくで、今はもう身の丈を越すほども掘った穴の中でなおけんめいに鍬をふるっている、朋輩ほうばいの僧たちがなにを云ってもきかないし、和尚が出て来て叱りつけたけれど耳にもかけなかった、そのうちに檀家の老人が墓地へゆきがけにみつけて、なにげなく呼びかけた、「俊恵さま暑いのにご苦労でございますな、しかしなにをしていらっしゃる」俊恵は鍬を打ちおろしながら呶鳴り返した、「……真如をさがしているんだ」それからすぐに続けて、「……世間にもなし、天空にもなし、地面の下にでもあるかと思って……」そう云った、その声はまるで泣いているようだったと、檀家の老人はあとで語った。


 それからひとしきり「真如」という言葉がところのはやり物になった。俊恵の奇行はつぎつぎと絶えなかったが、ここではくわしく書いている必要はないだろう、こうして年が明け、天正十八年となった五月の末の一日である、慧仙和尚が方丈で客とはなしをしていると、小坊主のひとりが走って来てけたたましく和尚を呼びたてた、「方丈さま早く来て下さいたいへんです」「どうしたのだ」「俊恵さんがいま本堂で御本尊さまと喧嘩けんかをしています」「……ばかなことを云うな」「本当なんです、御本尊さまと本当に喧嘩をしているんです」客がいるのでばかなことをと叱りつけたが、和尚はすぐに立って方丈を出ていった。
 俊恵は本堂の須弥壇しゅみだんの前に立っていた。片手に経巻を持っているのはそれまで読経していたものであろう、須弥壇に向ってぬっくと立ち、右手をぐっと前へつき出しながら、本尊の釈迦しゃか如来像に大喝をくれていた、「……きさまは何処どこのなに者だ」それは天蓋をびりびり震わせるほどの声だった、「……身につけている蛮衣はなんだ、螺髪らほつとはなんだ、眉間みけん白毫びゃくごうとはそもそもなんだ、なんじはいずれの辺土から来た頓愚だ、云え、仏とはそもなに者か」「俊恵……」はいって来た慧仙和尚がうしろから叫んだ、「そのほうなにをしておる、気でも狂ったか」「…………」俊恵はくっとふり向いた、火を発するかと思える双眼で慧仙をはたと視、膏汗あぶらあせのにじみ出た額を高くあげてかれは叫んだ、「いかにも、俊恵は気が狂ったかも知れません、しかし師の御坊におたずね申す、この釈迦如来は何処のなに者ですか、毛髪の玉と縮れた、身に蛮衣をまとった、この偶像はそもなに者ですか」「さような愚問に答える言葉はない」「ではわたくしから申しましょう、これは」と俊恵は手をあげてひしと本尊を指さした、「これは天竺の迦毘羅衛カビラバスツ城主の子で悉達多シッタルタといい、のちに釈迦牟尼しゃかむにと呼ばれた人間の摸像でございましょう、だがその天竺の一城主の子が、われらにとってなんだというのです、わたくしは幼少の頃からこの像の前に拝跪はいきし、朝な夕な看経かんきん供養をしてきました、ひと口に申せばこの釈迦牟尼仏に仕えてきたのです、いったいこれはどういうわけですか、大やまとの国に生れた俊恵がなんのために天竺の一城主の子の摸像を拝さなければならぬのです、まことに樹下石上を家とし、衆生しゅじょうを済度するということが僧徒の悲願なれば、この輪奐りんかんたる堂塔と異国の像を棄てることが第一ではありませんか、俊恵はまずこの仏像を放逐します」そう喚きながら、かれはひじょうな勢いで須弥壇へとびかかった、和尚はおどろいて誰ぞまいれと叫んだ、「俊恵は気が狂った、誰か来てとり押えろ……」寺僧たちは向うからこのようすを見ていたので、呼ばれるまでもなく走せつけて来た、そして暴れまわる俊恵をとり囲み力をあわせてそこへじ伏せた、「構わぬから縛って経蔵へ押込めてしまえ」慧仙はそう命じた、かれらは繩を持って来て俊恵をぐるぐる巻に縛りあげたうえ、講堂の裏にある経蔵の中へ担ぎこんだ。俊恵は抵抗をやめてされるままになっていた、眼を閉じ口をひき結んで、ほこり臭い板敷へ投げだされたきり身動きもしなかった。「よく聞け俊恵……」慧仙和尚はかれの上へ身をかがめ、ひと言ずつ噛んで含めるように云った、「おまえはなま学問にあてられているのだ、堂塔や仏像の否定などは田夫もたやすく口にできる、さような眼前鎖末の事に心をとられるようでは、大悟の境に到る道はまだまだ遠い、修業のはじめには誰しもいちどは昏迷こんめいするものだ、いや三度も五度も昏迷し、気も狂うだろう、けれどもそれが妄執となっては救う道はない、おのれを超脱せよ、些々ささたる自己の観念に囚われるな、学問は必ずいちどその範疇はんちゅうの中へ人間を閉じこめる、その範疇を打開することが修業の第一歩であろう、頭の中からまず学問を叩き出すがよい、跼蹐きょくせきたる壺中こちゅうからとびだして、空濶くうかつたる大世界へ心を放つのだ、窓を明けろ……」俊恵は黙っていた、和尚の言葉はなんの感動をも与えなかったようすである、かれは息も絶えた者のように、蒼白あおじろい顔をのけざまにして埃の上に横たわっていた。
 俊恵の脳裡には荒涼たる風景が去来していた、葉の落ちた林がみえる、裸の細い枝が厳寒の風のなかでひゅうひゅうと泣く、枯草のみじめに固くしがみついた涯の知れぬ荒地、どこから来てどこへゆくともなく灰色に伸びているひと筋の長い道、暗澹あんたんと垂れさがった鉛色の雲の下に、ぞっとするほど寒ざむと凍っている沼、……そしてそういう風景のなかをとぼとぼとあるいてゆく人間の孤独な姿が、いつまでもかれの空想をひきずってやまない、人間はいつかは死ぬのである、いかなる富も権力も死からのがれることはできない、営々五十年の努力は金殿玉楼を造り権勢と歓楽を与えるかも知れないが、いちど死に遭うやすべてあとかたもなく消え去ってしまう、この世にあって存在のたしかなるものはまさに「死」を措いてほかにないのだ、かくて死はすべての消滅でありながら、しかも唯一のたしかな存在であるという、この矛盾は果してどう解すべきものだろうか……。


 かれは六年のあいだこの疑問を解くために修業してきた、しかし追求すればするほどわからなくなるばかりだった、諸山の学堂にまなんだが、そこでは経典の字句の末節をもてあそ煩瑣はんさ哲学が横行していたし、禅門を叩けば※(「木+老」、第4水準2-14-60)こうろうの仮面をかぶった瑠璃禅の臭気ばかりが鼻をつく、――生死超脱、口頭でやすやすとそう一喝できるのは、死がいかに避くべからざる宿命であるかという諦観ていかんに発するもので、生きてあることを肯定する上には立っていない、万物無常、生者必滅という観念を土台とするならば「生死超脱」はその逃避である、これはどうしても俊恵には承服することができなかった、あらゆる生物がやがては死滅するだろう、いかなる代償を以てしてもそれだけはあがなうことはできないに相違ない、それはまさに動かすべからざる事実である、しかし同時にあらゆる生物が活きてあることも事実ではないか、生物はすべて死ぬまでは生きるのである、死が否定しがたいものであるなら、生もまた否定することはできない、死が必ず現前するものだとすればむしろ生きてあることを肯定し、そのまさしい意義を把握すべきが先だ、生死超脱は生きることの上に立たなくてはならぬ、俊恵はその一点に身心を叩きつける思いで修業した、そして今日までに得たものは空々たる「無」だった、かれの脳裡を去来する荒涼たる風景、ひたすら死の道をゆく絶望的な人間の姿、それがどうしようもない力でかれの観念をひきずりまわすのだ。……そのとき世間はどんな状態だったろうか、本能寺に亡びた信長のあとを受けて秀吉がめざましく擡頭たいとうしてきた、戦えば破り攻むれば必ず降し、しだいに諸国をおのれの手に収めたうえ、天正十四年にはついに太政大臣に任ぜられて、天下はその威武の前に慴伏しょうふくした。けれどもむろんまだ泰平というには遠い、年々どこかに兵火が揚るし、現に関東には北条氏の強大な勢力が根を張っていて、いま豊臣氏に敢然と一戦を挑み、小田原城を中心にあわただしい風雲が巻き起っている。こういう世相を仏徒はなんとみるか、――修羅妄執のちまた、とよそにみくだすだけである、戦火に逐われる民たちにも一椀の施粥せがゆをすれば能事足れりとしている、衆生済度というのは口舌の理想で、じっさいにはまったく衆生と交渉がない、こういう事実だけをとりあげて当否を論ずるのは誤っているし、それではそこからどう実践に踏みこむべきかを考えると、俊恵にもまるで方途がつかないのだ。かれは仏法そのものにさえ疑いをもった、宗教は理論によってあらわれはしない、発生はきわめて素朴で簡明だ、かれは発生までかえるところに打開の道を求めた、その第一が「釈迦は天竺びとである」というわかりきった点である、天竺びとを「本尊」とすることにいささかの疑いをもたない仏法のありかた、それがともかくもひと筋の光りとなってかれの頭にひらめいてきたのだ、したがって本尊放逐はかれの目的ではなく、そこから改めて出なおす手段だったのである。
 夜になってから小坊主のひとりが握飯を持って来た、そして自分の手で持ち添えて喰べさせようとしたが、俊恵は眼を閉じたまま石のように動かなかった、「喰べないんですか、喰べないとおなかが減りますよ……」小坊主は気のどくそうになんども念を押したが、うんともすんとも返辞がないので、やがて握飯を竹の皮のまま口の届きそうな所へ置いてそっと出ていった。明くる朝、おなじ小坊主がまた結飯を運んで来たとき、前夜のものが手もつけずにあるのを見た、それからは幾たび来てみてもおなじだった、飯粒を口にしないばかりでなく水も飲まない、「……俊恵さま大丈夫ですか」小坊主は心配そうにのぞきこんだ、「少しでも喰べるほうがいいのになあ、それでないと死んじまいますよ……」俊恵はやはり答えなかった、小坊主はいかにも思案に余ったというようすで溜息ためいきをついた、それから首をかしげながら、「和尚さまが縛ったりしたんで、よっぽど肚を立てたんだな」と低いこえで呟き、悲しげに経蔵を出ていった。……こうして飲まず喰べず、眠りもしない日が経っていった、五日までは記憶にあるが、それからどれほどの時が過ぎたか覚えていない、けれどもそのうちに外でなにか変ったことが起ったらしく、あわただしく寺へ出入りする人の足音や、急にひっそりしたかと思うと、にわかにののしり喚く声などが、昏沌こんとんとした俊恵の意識をときどき現実へひき戻した、だがそれを不審に思うゆとりはなかった、かれは小坊主の口にした言葉を知らず知らずのうちに反芻はんすうしながら、ふとそこに迷路の出口がみつかりそうに思え、思想の虚実をあつめて凝視を続けていたのだ、――飯を食わぬと腹が減る、そしてついには死ぬ。そのとおりである、そしてそれが「そのとおりである」ことのすぐ次ぎになにかがある、なにかが、……俊恵は眼をみひらいた。


 闇の中に眼をみひらいた俊恵は、呼吸をととのえ精神を凝らして智恵光の発するのを待った。微妙な刹那せつなとはそういう場合をさすのだろう、しかしそのときかれの眼は観念の世界からまたしても経蔵の中の現実へひき戻された、身をとり巻く塗りつぶされたような闇が、どこからともなくかすかに明るみはじめたのである、それは夜から朝への光りではなかった、赤みを帯びているしゆらゆらと揺れる、ときどきはたと闇にかえるが、すぐまたおどろおどろしく光りを揺曳ようえいするのだ、眼がそのことを認めると間もなく、耳にもしだいに外の物音が聞えだした、……戞々かつかつと地をとどろかす馬蹄ばていの音が、山門から鐘楼のほうへと疾過した、前庭のあたりでするどい悲鳴がおこり、「逃げろ……」という喚きごえに続いて、とりみだした人の足音が境内を横に崩れたった、なにか変事が起っている、俊恵ははじめてわれに返った、数日まえからおぼろげには聞いていた騒音が、いまはっきりと記憶の表によみがえり、唯事でないという感じがかれを呼び覚ましたのだ。俊恵は身を起した、そのときいかにも危急を告げるように早鐘が鳴りだした、経蔵の中はいつか赤く揺れる光りで満たされ、ぱちぱちと物の焼けはぜる音が間近に聞える、そしてふいに扉の隙間が眼をみひらいたかの如く※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)かえんの色に染まった。――寺が炎上している、俊恵は息が止るように思い、よろよろと立って扉へ身をもたせた、耳を澄ますと騒動は寺の内だけではなかった、はるかに遠く、おそらくおしの城下とも思えるあたりでは陣鉦じんがねや銃声さえ聞えていた。
「合戦が始っている……」かれはそうつぶやいた、早鐘がはたと鳴り止み、逃げ惑う人の足音や、ひき千切るような悲鳴が再び大きく耳をうった、俊恵はわれ知らず叫んだ、「ここを明けろ……」けれども答える者はなかった、「おおい明真、明真はいないか……」小坊主の名を呼びつづけたが、燃えあがる※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおと、すさまじいうめきのほかには、もう人の声さえ聞えなかった。かれは扉から身を離した、そして縛られたままの全身を、力かぎり扉へ叩きつけた、三度、五たび、けれど扉はびくともしなかった、不飲不食のからだはそれだけでも精根が尽き、かれははげしくあえいだ、いつの間にかあたりはひじょうに熱くなり、巻きこんでくる煙が眼口をふさぐように思える、燃えているのは本堂であろう、巨大なかなえでも沸騰するような、ごうごうという※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)の音が経蔵を押し包んだ。……もうすぐ此処ここも火になる、このままいれば焼け死ぬだろう、そのことがはっきりわかると俊恵はつきあげるように忿怒ふんどを感じた、死を怖れるのではない、寺を焼かれることが口惜しいのでもない、なんとも説明しようのない、そして自分でも理由のわからぬ烈しい忿いかりが、むらむらと肚の底からつきあげてきたのだ、それはかれの血の叫びであった、かれの全身にながれている郷士の血が、仏徒としてのかれの存在をひき裂いて出たのだ、――くそっ、ここで死ねるか、俊恵は再び身を起した、そのときである、裏門のほうからばたばたと走って来る足音がして、誰かが扉へすがりついた、そして錠を壊すのであろう、手斧ておのの響きがするどく耳をうった、「……明真か」俊恵はそう叫んで扉口へすり寄った、錠の落ちる音がし、扉が開いた、かれは思わず眼をおおった、扉が開くといきなり、天にちゅうする火柱と眉をくような火気に面を撃たれたのである、眼がくらんでよろめくかれを誰かが支えた、「俊恵さま早く、早く……」そう叫びながら、その手はかれをき抱くようにした、かれはその手の導くままによろよろと走りだした。……明真ではない、それは声と手の触感とですぐにわかった、女である、たしかに女に違いない、しかし誰であるかは見当がつかなかった、……いったい誰だろう、皮膚を焦がすかと思える火気のなかを走りながら、かれは印象にある人の姿をかいさぐってみた。裏門を出たところで「ああ経蔵へ火が移った」という声を聞いた、俊恵はもう眼をあいていたが、ながい断食と精神の苦闘とで、ひどくからだが衰えているから、逃げ惑う人波をぬけてゆくにはれの女の手にすがっていなくてはならなかった。どこかで潮のようにときをあげるどよめきが聞え、銃声が続けさまに起った、おそらくかなり間近なところで合戦があるのだろう、女は俊恵をひきずるようにしながらけんめいに走り、やがて道を横に切れて林の中へと駆けこんだ、「……もう少しです、もうすぐですから辛抱して下さいまし」自分でも喘ぎながらそう励ます声が、俊恵の耳に触れるほど近く聞えた、かれにはもう返辞をする力もなく、女の温たかい息吹が頬にかかるのを、なかば夢のように感じていた。


 もう焔の明りもなく、林の中は爪尖つまさきもわからないほど暗かった、そこをぬけ出ると畑地で、すぐ左がわに農家の灯が見える、それは墓守り七兵衛の家だった、それでようやく自分を救ってれたのは七兵衛の孫娘だということがわかった、――そうか、花世だったのか、それならいいと思うなり足から力がぬけてゆき、かれはふらふらと横へ倒れてしまった。それから翌朝までのことは千切れちぎれの印象しか残っていない、娘の叫びごえで七兵衛とせがれの弥助夫婦がとびだして来たようだ、かれは三人に抱えられてその家へゆき、納戸のような部屋へ寝かされた、そして温かい薄粥を僅かにすすったのを覚えているが、あとはただ昏々となにもかも忘れて眠ってしまった。
 起きあがれるようになったのはそれから七日めのことだった。寺のほうへ詰めていたという七兵衛が戻って来た朝、はじめてかれは寝床の上に起き直って食事をしていた、「命びろいをなさいましたな……」老人は枕許まくらもとへすり寄ってそう云った、「お経蔵は風下になっていたものですから、本堂の焼けおちるまえに火をふきだしたそうです、客殿だけは残りましたがあとは眼も当てられません」「いったい火をかけたのはなに者なんだ」俊恵はまだなにも知らなかったのである。「石田治部少輔の軍勢でございます」「石田、……治部少輔が攻めこんで来たのか」「なんでも三万の軍勢で、館林を攻めおとすなりまっすぐに押寄せたのだそうです」七兵衛老人は次ぎのように語った。……豊臣秀吉は天下の威勢を集めて小田原を囲んだが、その一方で上野こうずけから武蔵、上総かずさにかけて散在する北条氏の属城を攻めさせた、総帥は石田三成、その下に大谷吉継、長束正家らを将とした兵三万は、草原を踏みにじる如く上野から武蔵へ殺到した。これに対して館林城にいた北条氏規をはじめ、板倉、北大島、西島、足利など十八城では、その城将の殆んど全部が兵をひっさげて小田原へ入っていたので、留守軍はみな館林へ合体して防戦に当った、けれども三万の石田軍は僅か三日にしてこれをみ潰し、その勢いを駆って忍城おしじょうへと攻寄せたのである。忍城は成田氏長の守るところだったが、氏長はやはり兵を率いて小田原へ去り、城には氏長夫人と三百そこそこの兵しかいなかった。氏長夫人はいかにも武将の妻らしく館林へ合体することを拒み、微々たる守兵と武器を以て石田軍に挑戦したのであった。「奥方さまのけなげなお覚悟を聞いて」と七兵衛はつづけて云った、「……領民たちは逃げる者もなく、竹槍を持ち米を担いで、ずいぶん大勢の人数が城へ入りました、また城へ入らぬ者もそのところに踏み止まり、どこまでも後詰の役をつとめようと頑張っております」「だがそれで、どうして寺が焼かれたのだ」「本陣に使うから明け渡せと石田軍から使者があったのです、さすがに方丈さまは承知なさいませんでした、寺を戦の道具には貸せぬ、そう云ってお断りなすったものですから、とうとう火をかけられたのだそうでございます」慧仙和尚や僧たちは持田村の檀家へたち退いたという、あらましの話を聞いて俊恵はふかい太息といきをついた、――まさに修羅の巷が現前したのだ、そう思った、そして自分はこの渦に巻き込まれることなく、求道ひと筋の修業に出よう、仏像を棄て寺を棄て、身ひとつになって仏法の神髄をさぐるのだ、まことに生死を超脱して生きる道、いかなる大事に当面してもゆるがざる不動の一念、そのひとつをつかむまでは雲水を続けよう、それが自分に与えられた使命である、かれはそう心をきめてしずかに寝床へ横たわった。
 明くる日の午後のことだった、俊恵がうつらうつらしていると、ふいにこの家の表でけたたましい叫びごえが起った、「……どうした花世」「お父っさん早く来て……」娘の声は震えていた、「お城のおさむらいが怪我をして倒れているんです」「どこだ」「そこの栗林の中です」「よしすぐゆくぞ……」お由も来いといいながら、弥助がとびだし、すぐにかれの妻も出ていった。そして間もなく、かれらは誰かを運んで来て、奥の間へそっと寝かしたようすだった、「人に気づかれるな」とか「外に気をつけろ花世」などとささやくこえを聞きながら、しかし俊恵はそっと口のうちで経文をしていた、ともすればあの経蔵の中で感じたような、わけのわからぬ忿りがこみあげてくるのだ、それでつとめて心を抑えつけ、誦経に心を集めていたのである。その日はれがたまでに三人、そういう負傷者が担ぎこまれた、みんな忍城の者か、それとも敵の者もいるのか、寝たままの俊恵にはわからなかったけれど、七兵衛はじめ家族の者が手を尽して介抱するさまはよく聞きとれた。ことに娘の花世はいちばんてきはきとして、傷を洗い、薬草を揉み、繃帯ほうたいをするまで殆んど手ひとつにやっているようだった、「……ちょっとしみますから我慢して下さいまし、これで血が止りますから」「…………」「さあようございます、きっとすぐお楽になれますでしょう、決してお案じなさらないでお心やすくおやすみなさいまし、あとでぬく粥をさしあげますから……」まるで病児を労る若い母親のような、心のこもった温かい言葉を聞いていると、自分が救い出されたときの柔らかい手の触感が思いだされ、俊恵は云いようのない感動がこみあげてきて、思わず眼をつむらずにはいられなかった。……そういうひそやかな気配は、夜明けがたまで続いていた。


「ええ邪魔だ、はなせ……」するどい喚きごえで俊恵が眼をさましたとき、夜はもうすっかり明けはなれて、障子には爽やかな朝の光りが溢れていた、「でもそんな者はいないのですから」花世の声だった、「つべこべ申すな、訴える者があったから来たのだ、どけ」「いけません、奥には病人がいるんです、待って下さいまし、あれ、……お父っさん」争いは門口だった、「面倒だ、踏みこんで家捜しをしろ」そう呶鳴るのといっしょにばりばりと戸襖とぶすまを踏みやぶる音が聞えた、――いかん、と自分を制止しようとしたが、俊恵のからだはもう本能的にはね起きていた、制しようがなかった、手早く法衣を身に着け、数珠を手に襖を開けて納戸を出ると、ちょうど押入って来た三人の鎧武者よろいむしゃとばったり顔をつき合せた。どちらも思いがけなかったが、顔をつき合せるなり俊恵が「無法なことをなさるな」と云った、自分でも意外なくらい圧倒的な調子だった、「……力もない百姓の家へ土足で踏みこみ、家捜しをするなどとは豊臣公の名聞にも関わりましょう、しずかになさるがよい」「なに……」なにと云ったが相手が法師なので、さすがにかれらも乱暴はできなかった、槍を持ったひとりが大股おおまたにすすみ出て、「無法ではない、この家に落人をかくまっておると聞いてあらために来た、家人が邪魔をするから踏みこんだまで、御坊には係わりのないことだ」「それはこなた達の聞き違いであろう」俊恵は平然と云った、「なるほど負傷者は数名いる、重傷でこのあたりに倒れていた者をここへ運んで手当をしてやった、しかしそれが忍城のさむらいか寄手の武者かは知らない、捨てて置けば死ぬので救っただけだ、落人を匿まったなどということは断じてない」「たとえ負傷者でも、城兵なれば検めるのがわれらの役目だ」「よろしいとも……」かれは寧ろ笑をうかべてうなずいた、「それが役目ならば検分なさるがよい、但し手をつけることを堅くお断りする」「…………」「見らるるとおりわたしは仏に仕える者だ、僧侶そうりょには敵も味方もない、戦うだけ戦って傷つき倒れた者、また草の上にむくろを横たえた者は、敵味方の差別なく救って労り念仏供養するのが仏の慈悲だ、こなた達はすでに昌平寺を焼いている、これ以上なお無法をするとすれば、臨済五山の宗門を敵にまわすとお覚悟あれ、それだけをはじめにお断り申す、いざ検分なさるがよい……」三人の武者は言句につまったようだった、俊恵の言葉は道理をつくしている、それを無視するだけの決意はかれらにはなかった、三人はちょっと眼を見交わしたが、「とにかく検めるだけは……」とひとりが云い、思い切りのわるいようすで奥の間へはいっていった。そこには四人の負傷者が枕を並べていた、けれども、みんな甲冑かっちゅうをぬいで下着ひとつになっている、石田軍は総勢三万余騎だからたとえ味方でも顔だけで判断はつかなかった。「……うん、みんな重傷とみえるな」槍を持った武者が不決断にそう呟いた、すると次ぎの者が「身動きもできぬ者なら捨てて置いてもいいだろう」と云い「そうだ落人さえ匿まっていなければ……」そんなことを申しわけのように云い合うと、来たときとは人間が違ったように、おとなしく外へ出ていってしまった。
 家人は始終のようすを震えながら見ていたが、三人が去ってゆくと花世がいきなり俊恵のそばへ走り寄った。「ありがとうございました俊恵さま、おかげで皆さまのお命が助かりました、わたくしもうだめかと思いまして……」「わたしに礼を云うことはない、無事に済んだのはあなた方に御仏の加護があったからだ、けれども」そう云いかけて俊恵は七兵衛のほうへふり向いた、「これからもまだ負傷者は出るだろう、それを全部この家で介抱するわけにもゆくまい、幸い寺の客殿が焼け残ったというのだからあっちへ運んで世話をしたらどうか、そうすれば寺のことではあるしおまえ方にも迷惑はかからないで済むだろう……」「それはようございますな、わたくし共の迷惑はともかく、ここでは狭くて身動きもできません、ぜひそうさせて頂きましょう」「ではわたくしは村の女手を集めて来ます」花世もそばから嬉しそうに云った。……この渦に巻き込まれてはならぬ、そう思った俊恵がこうして自分からその渦の中へとび込むことになった。負傷者たちはすぐに寺の客殿へ運ばれ、その世話をするために村の女房や娘たちが集って来た、食事をこしらえる者、薬を作る者、傷の手当をする者、それぞれ分担がきまると、まるで待っていたように、次ぎ次ぎと収容されて来る者が殖えた、みんな重傷者ばかりで、中には手当をするいとまもなく死ぬ者も少なくなかった、そしてそれらのなかには寄手の兵もあったが、運びこむとすぐに甲冑をぬがして敵味方の区別のつかぬようにしたし、俊恵が上に立って指図をしていたから石田軍も手をつけることができず、しまいにはかえって幾らか保護するようにさえなっていった。……こうしているあいだに、戦は包囲の対陣になった。


 忍城はすばらしく戦った。館林では三千余騎が合体していたのに僅か三日しか保たなかった、忍などは唯ひと揉みと攻め寄せたのに、意外にもその鉾先ほこさきはぐわんとはね返された。兵は三百そこそこだし小さな野城のことで防砦が厳しいわけでもない、けれど忍城には領民の力が集っていた、七兵衛の語ったように老幼婦女まで竹槍を持ち米を担いで入城し、外にいる者も城と固い連絡をとって、ひそかに寄手を悩ました。石田軍はやっきとなって攻めたてたが、城兵は存分にひきつけて必中の矢弾丸やだまをあびせ、また不意に斬って出ては縦横に暴れまわった、その戦いぶりの精悍せいかんさと領民の協力がひとつになって、三万の大軍を釘付くぎづけにしてしまったのである。
 六月も中旬になった或る夜のこと、花世が来てそっとかれに囁いた、「……ご苦労さまですけれど、ちょっと外へいらしって下さいまし」俊恵は頷いて立っていった。……星ひとつみえない暗い夜だった、寄手の陣のあたりはかがりをうつすのであろう、低く垂れた雲が明るく染まっているが、あたりはひっそりと更けて物音もなく、戦場のすぐそばだということが嘘のようなしずけさであった、「……討死をなすった方をお葬い申していますの」花世はそっと云った、「おいでを願って供養をして頂くようにと、お祖父じいさまがそう云うものですから」「大勢か……」「八人でございました」それから二人は黙ってあるいた。花世の若わかしい呼吸を聞きながら、俊恵は危ういところを救われたあの夜のことを想い、また今日までの娘の辛労を思った、かれが経蔵にいたことは明真から聞いたそうである、けれどもその明真さえ忘れたほどの騒動のなかで、あの猛火を冒して救いに来るということは、若い娘にとってそうたやすいわざではない、重傷で倒れている者をはじめて助けたのも花世だった、みつかればどんな罪に問われるかも知れないのに、少しもためらわず助けて来て介抱した、どちらも些々たる憐愍れんびんや同情でできることではない、それは仏の慈悲にもたとうべきである、俊恵はそう思った、……いや仏の慈悲でもこれほど直接にあらわれることはないだろう、哲学は事実を拒否することに高さをみる、仏法理論は慈悲について高遠な説をたてるが、目前の事実に対しては権力に屈するだけだ、高遠な理論をいかに巧みに積上げても、事実に対して無力なら遊戯と選ぶところはないのである、花世のしたことは仏の慈悲より大きく深い、しかもなんと深く大きいことだろう。俊恵はふと娘のほうへ感動の籠った声で呼びかけた、「……花世、おまえには頭がさがるぞ」「なにがでございますの」娘はびっくりしたようにふり返った、俊恵はもういちど「本当に頭がさがる」と云った、「人間がみんなおまえのようになれたらな……」
 導かれていったのは七兵衛の家のうしろにある栗林の中だった、そこには七兵衛と伜夫婦のほかに村の者が十人ほどいて、いま盛上げたばかりの土饅頭どまんじゅうを囲んでひっそりとたたずんでいた、みんな黙っていた。俊恵も人々の目礼を黙って受け、しずかに墓の前へいって立った。下草の繁みからおこる虫のこえを縫って、やがて数珠を揉む音と低い誦経が聞えはじめた、更けわたる林のなかは森閑として、経文を唱える俊恵の声は啾々しゅうしゅうたる鬼哭きこくを思わせる、しばらくすると七兵衛が呟くようなこえでそれに和し、村人たちもそっとそれにつけだした、他聞をはばかりながら、しかしいかにも真実のこもった供養が、そうして半刻あまりもつづいたのであった。
 それから数日のちに、行田の森で城兵が二十人ばかり斬り死にをしたという評判を俊恵は聞いた。それは真昼のことで、かれらは三の木戸からとびだし、ゆだんをしていた寄手の陣へ面もふらず斬り込んだ、そしてさんざんに敵陣を駆けなやましたが、ついに行田の森へ追い詰められ、ひとり残らずそこで討死をしたのだという、……かれはそれを聞くとすぐに寺をでかけた。もちろんいって供養するつもりだったが、それよりもいってみずにいられない気持があった、それは自分でもわからないあの忿怒、心の底からつきあげてきて抑えようのないあの忿りが、今またがっしとかれをつかんだのだ。行田の森は城の南がわにあった、昌平寺からは寄手の陣をまわってゆかなければならないので、そこへゆき着いたときはもう黄昏たそがれの頃である、水田とあしの茂った沼沢にかこまれて、その森は鬱々と昏れかかり、どこかでもの悲しげにひぐらしぜみが鳴いていた。……かれは法衣をかき合せ、数珠をとりだして、聖域にでも参るような足どりで、そこへはいっていった。


 捜してまわるまでもなく、死躰はすぐにみつかった。巨きな杉の根方に、下草のまばらに繁った土の上に、またひこばえの葉簇はむらの蔭に、此処にひとり、かしこに二人とたおれていた。俊恵はふしぎなほどおちついた気持で、死者の枕頭に立っては供養をしてまわった。……どんなにすさまじく戦ったのだろう、みんなよろいもずたずたになり、どれもこれも満身創痍そういの姿だった、横顔を草に埋めている者もあり、仰に斃れて眼をみひらいたまま死んでいる者もあった、片腕のない死躰、足を喪ったもの、躰首ところを異にしたものなど、形容を絶するすさまじいありさまだった、「……なむ十方の諸仏、仰ぎ願わくば愛護のおん手を垂れて」俊恵は心を凝らし念仏唱名をしながら、三人、五人と供養していった。そして十七人まで数えたときである、草摺くさずりのあとも残らず千切れた鎧を着け、のこぎりのように刃こぼれのした太刀を持って、湿った土の上に俯伏うつぶせに倒れていたひとりの武者の前に立ち、しずかに経文を唱えはじめると、ふいにその武者が「御坊、無用だ……」とものを云った、あまり思いがけなかったので、かれはぎょっとして息をひいた、よく見るとその武者はまだ微かに呼吸がある、かれはすばやくあたりを見まわし、人かげのないのをたしかめてからそばへすり寄った、「こなたは生きておいでだな、傷はどこだ」「いや寄るな……」武者は首を揺った、「もうながくはない、もうそのときは見えている、しかし……経文は読むに及ばないぞ」「なぜ経文は無用だとおっしゃる」「おれは……」ごくりと武者ののどが鳴った、あらい呼吸のためにしばらく言葉はとぎれたが、すぐまたけんめいのちからで続けられた、「……おれは成仏するつもりはないからだ」「お言葉ではあるが、それは違います」俊恵は耳へ口を寄せるようにして云った、「こなたに成仏するおつもりがあろうと無かろうと、人間は死ねばみな御仏の手に救われて成仏する、むろん経文などは読むまでもないが、しかしそれは」「黙れ、黙れ」再び武者は首を揺った、「……さようなたわ言は耳が汚れる、きさまにはおれの、おれのこの姿がみえぬか、おれは武士だぞ」「…………」「武士たる者は、たとえ死んでも成仏はせぬ、悪鬼羅刹となって、この領土と、御しゅくんを守護し奉るのだ、七たび、十たび、人間と生れかわって御しゅくんを守護し奉るのだ……」そう云いかけて、武者はおどろくべき力でくっと顔をあげた、「生きても死んでも、父祖の国土を守り御しゅくんを守る、これがもののふの道なのだ、おれだけではないぞ、きさまがいままで供養して来た者はみなそうだ、成仏しようなどと考える者はいちにんもおらぬ、……無用だ、無用だぞ御坊」それは瀕死ひんしの者のこえとは思えぬ烈しい※(「口+它」、第3水準1-14-88)しっただった、無用だ御坊という叫びを聞いたとき、俊恵は慄然りつぜんとしてそこへ立ちすくんだ、雷霆らいていが頭上におちて瞬時にかれの骨肉を粉砕したかに思えた、かれはわれ知らず呻いた。
 なにか脳裡に打開されようとしている、ながいあいだ追求してきた生死の大事が、衣をはらってその神髄を見せているのだ、かれは瞑目めいもくし、一念を凝集させた、……ここにあったのだ、「生きては命のあるかぎり、死ねば悪鬼羅刹となって、七たびも十たびも人間に生れ更って、あくまで父祖の国土と御しゅくんを守護し奉る」という、「断じて成仏せず」という、微塵みじんの惑いもなく唯ひとすじに貫きとおした烈々火の如き信念、生を生とせず死を死とせず、現世も未来もあげて「守護し奉る」という信念ひとつに生きる、これこそ生死超脱の境地ではないか、これこそ唯一不滅の道ではないか、……そうだ、これだ、ここにあった。俊恵はかっと眼をみひらいた、五山の学堂にまなんでも得られなかった、大蔵経典も教えては呉れなかった、結跏けっか参禅の修業も打開し能わざるものが今こそかれの眼前にあらわれた、さんらんたる光輝を放って今こそかれの面前にあらわれたのだ。
「生あるものは必ず滅す、善い哉」俊恵は片手をつきだして云った、「……生きることが目的ではない、死ぬことが終りではない、生死を超えて生きとおす信念、なにものが亡ぶるとも信念の亡ぶることはないのだ、見ろ……この領土は敵に侵犯され、領主も兵も孤城を守って戦っている、この事実を目前にしてなんの仏法、なんの悟道だ、おのれはこの地に生れこの郷土の恵みを享けて育った、これをよそにして生死の大事があるか、足を地につけろ、道はここにある、喝!」言葉の終りは叫びになっていた、叫び終ると同時にかれは数珠をひき千切った、ばらばらと飛散する数珠玉を踏みにじって、かれはしずかに眼の前にいる武者を抱き起した、それはとうにもう息が絶えていたけれど、俊恵は生きている者に対するように囁いた、「唯今のごいち言、胆に銘じました、こなたには及ばぬまでも御遺志を継いで城へはいります、ぶしつけながら鎧を借ります」そう云いながら死者の鎧を解こうとした、するとしずかな人の足音がして、――お手伝いを致しましょう、そう云いながら花世が近寄って来た、俊恵は思いがけなかったのであっといった、「……お帰りが夜道になってはと案じられたものですから」云いわけをするように花世はちらとこちらを見あげた、「此処だということがどうしてわかった……」「おあとからいてまいりました、たぶん此処へいらっしゃるのだと思いまして……」かれはじっと娘の顔を見まもった、花世はその眼をまぶしそうに避けながら、すぐに死者の鎧を解きはじめた。その姿を見やるうちに、まだこれまでに覚えたことのない、新しい火のような感動が胸へあふれてくるのを俊恵は感じた、花世の眩しそうな眼つきや、どこかに軽いおののきのみえる身ごなしや、こちらへ見せている横顔の寂しげな色が、なにを表白しているかということにはじめてかれは気づいたのだ、それはまるで痛みのように、じかにかれの胸へつきとおり、そこで火をふきだすように思えた、「生きる」ということがどういうものであるかを、生れてはじめてみつけたように思えた、「……わたしは城へはいる」かれは叱りつけるような調子でそう云った、花世はそっと頷いた、なにもかも知っているというようすだった、「すべては次ぎの世のことだ、いいな、花世」「はい……」「約束するぞ」叱りつけるような調子だったが、そのなかに隠れている意味はまさしく娘の心に通じたようだ、花世はもういちど「はい」と頷きながら、解きはなした鎧を持って立った、「……お着せ申しましょう」
 うむといいながら俊恵は法衣をぬいだ、これが門出である、花世の頬へ涙がつつと糸をひいた、昏れはてた森のどこかで、そのとき思いだしたように、また蜩が、かなかなとえた音をはって鳴きはじめた。

 程なく寄手の陣へ浅野長政の軍勢が到着した。浅野軍は武蔵のくに岩槻いわつき城を攻め落して来たのだが、その余勢を駆って忍城へ迫り、なお躊躇ちゅうちょする石田本軍をしりめに激しく戦って、ついに城の一角へ突入することができた、それは忍城にとって正に危急存亡の刹那であった。けれども石田三成はそこで浅野軍に功を奪われることを快しとせず、敢えて後援の兵を動かさなかったので、城兵の一隊は猛然と決死の反撃をいどみ、ついに突入した浅野軍の将士百余騎を討ってこれを城外へ駆逐した。……このとき城兵のなかに一人の僧形の武士がいて、殊にめざましく戦うのを浅野軍の兵たちは見た、かれは草摺の千切れた鎧を身に着け、槍をとってまっ先に進んで来たが、そのまま面もふらず寄手の人数のまん中へ突っ込み、阿修羅の如く戦って討死をした。ま一文字に突っ込んで来たありさまもすさまじかったし、むらがる人数の中で一歩もひかず奮戦した闘いぶりも類の無いものだった。浅野軍の兵たちは後になってからも、そのときの話がでるたびに、「あれはたしかに名のある武士だったに違いない」と云いあった、「……あとにもさきにもあれほど大胆不敵な戦いぶりをする者を見たことがない、敵ながらまったく惜しい武士だった」





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1944(昭和19)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年6月26日作成
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