思い違い物語

山本周五郎




一の一


 典木泰助のりきたいすけが来たときは誰もさほど気にしなかった。江戸邸から人が来るたびに警戒的になる一連の人たちは、こんども初めはびくりとしたようである。しかし二十日ばかりするとかれらは祝杯をあげた。よほど疑いぶかい者でさえも、多少は含みのある調子で、
 ――まあ、よしんばそうだったとしてもあの男ならまあさして心配はないだろう。
 こう云ったくらいであった。
 泰助を寄宿させたのは山治やまじ右衛門である。彼は九百二十石の中老で年寄役を兼ね、昔は無鉄砲な強情者と定評があった。先代の殿さまは長門守知幸ともよしといって、これもずいぶんと我の強い人だったが、なにか右衛門に対して心残りなことがあったとみえ、もはや御臨終というばあいに及ぶと――山治をへこませることができなかったのは今にしては無念である。こういうことを口外されたそうである。このことは右衛門の耳に伝わったらしい、そして彼は臣下としてかなりまじめに反省し、自分の性行をめなおすことに努めた。そこには少なからぬ苦心があったと思うが、現在では穏やかな渋い人格を身につけ、どちらかといえばがまん強い人の部類にはいっている。……そのためかもしれないが、右衛門は泰助については満足していると云った。妻のみね女もそれに異存はないらしかった。またかれらには二人の娘がいて、姉の千賀は十八歳、妹の津留は十七歳になるが、この娘たちも幾らか保留的に同感の意を表した。
「本当に温厚なおちついた方ですわ」
 姉の千賀は含羞はにかみながらこう云った。
「どんな大事な物でも安心して預けられる方らしいわ」
 妹の津留は含羞まずにそう云い、それからちょっと視点を斜にしてから付け加えた、「そしてとッてもうまく静ウかにくしゃみをなさるわ」
 平穏な日々が続いた。
 泰助は寄合格で奉行総務という職に就き、山治家と城とを毎日ごく精勤に往復した。藩の人事異動に警戒を怠らない一連の人々は、泰助と接するにつれて自分たちの安全を確認し、ほどなく彼を無視するようになった。……この「一連の人々」というのは、領内の農工商業を管掌する関係役所の者、つまり勘定、納戸、作事、収納、普請など、各奉行所の主事支配といった人たちで、要するにその担当する事務上かなり多額な特別収入があり、その利得を守るために連合協力しているわけである。こんな事はいつの世どこと限らず、およそ「役所」があり「役人」がいる以上は必ず付いてまわるし、そこはどうもやむを得ないものらしいが、……そういう実情からして、江戸邸から誰か転任して来る者があると、かれらはまず検査官ではないかと疑い、相当以上やきもきするわけであった。
 山治家においても日々は平安であった。妻女と姉娘とは掛って泰助の世話をし、将来についての微妙な予想を楽しんでいた。なぜかというと、姉妹のどちらかがやがて泰助と結婚することになっていたから、……そして妹は早くも棄権し、泰助が不承知でさえなければ花嫁の席は千賀のものであったから。
良人おっとにはおちついた温和おとなしい人に限ります、お父さまの無鉄砲と強情には泣かされましたからね、本当に山治へ来てから五六年は、母さんは一日として泣かない日はないくらいでしたよ」
 みね女がそう云うと、千賀は涙ぐんでそっとうなずく。彼女はそんなときには、すぐ「泣いている母」の姿が眼に見えるので、それがべつのときの母の言葉と矛盾することなどには決して気がつかない、たちどころに同情の涙が出て来るのであった。
「わたくしも典木さまなら、良人として一生お仕えできると思いますわ、……静かな、波風のない、しっとりとおちついた一生、……女の仕合せってそういうものですわねえ」
 もしもこんなとき津留がいるとすれば、この妹娘は必ず山羊やぎのような声で「ええへへへへ」と笑う、わざとのどへひっかける妙な笑いかたで、それから姉の口まねを上手にやってみせる。
「女の仕合せってそういうものですわねえ」
「津留さん、なんですそんな」
 母親が叱ると、こんどは母の口まねをする。
「母さんは一日として泣かない日はないくらいでしたよ」
 これもたいへんうまい、しめっぽい声といい口調といい母親そっくりである。そして、あきれている母と姉に向って、ずけずけと遠慮なく云うのである。
「女の人ってみんなへんてこよ、母さまも谷川のおばさまも幸田の奥さまも、みんな嫁に来てからどんなに辛かったとか悲しかったとか、日も夜も泣きの涙で送ったとかって、世界じゅうの不幸を独りで背負ったような顔をなさるかと思うと、こんどは旦那さまの自慢を始めて、およそ自分くらい幸福な妻はないなんて、まるっきり反対なことを平気でおっしゃるんですものね」
「あら、母さんがいつそんなこと云いました」

一の二


「いつでもよ、例えばこのあいだ」
 津留はこういうときまず舌に湿りをくれて精気溌溂はつらつとして、巧みにこわいろを使い分けながら極めて能弁に連打をあびせるのである。
「このあいだ倉重の奥さまがいらしったとき、この頃は主人がすっかり年寄じみてしまって物足りませんわ、昔は若くもあったでしょうけれど、やっぱり愛情も激しかったんですわね、つまらないような事でも、すぐむきになって、それこそまっ赤になって怒って、がんがんがんッて雷を鳴らすんですの、それがもう比べ物のないくらい猛烈で、わたくしからだじゅうがじいんとしびれるようになるんですけれど、そんなあとは水でも浴びたようにさっぱりして、歌でも唄いたいようなうきうきした楽しい気持になったものですわ、本当にあのじぶんのことを思うとこの頃は」
「もうたくさんよ、いいかげんになさい」
 母親はたいがい狼狽ろうばいするだろうし、顔も赤くならざるを得ないだろう。
「――なんという人でしょう、そんなことを聞いていたりして恥ずかしくないんですか」
「恥ずかしいのはお母さまでしょ、わたくし聞いていたんじゃなく聞えて来たんですもの、お母さまとッても嬉しそうに話していらしったでございますですわア」
 右のようなわけからして、津留の舌が活動を始めるときは、原則として母も姉も黙ることにしている。父の右衛門でさえも、よほどの事でなければ抗弁はしない。それほど頭がいいというのでもないらしいが、勘が敏速で口の達者なこと、白を黒と云いくるめる巧みさと、云いくるめるまでの精力的なねばりの強さとは無敵であった。
 津留が花嫁候補を棄権してから、典木泰助についての世評はしだいに低下していった。石の仏とか、薄ぼんやりとか、昼の蝋燭ろうそくとか、いろいろな蔭口が弘まった。それらはやがて統一されて「大賢人」ということにおちついたが、……これを聞いたとき山治右衛門は寝酒を飲んだ、晩酌は五合ときまっていたし、このところ寝酒など飲むことは絶えてなかった。それを敢えてしたには理由があるに違いない。
「お父さまよっぽどお嬉しいのね」
 こう云って津留は笑って、眼をくるくるさせた。もちろん皮肉であるが、母や姉には通じない。彼女たちは善良であるから、右衛門の胸中を察し、津留の勘の悪さに驚いたくらいで、「お父さまは嬉しがっているのではありません、内心は怒っていらっしゃるのです」と母親がたしなめた、「――典木さまのことをよくも知らないで、世間の人たちがつまらない悪口を云うので、気を悪くしていらっしゃるんですよ」
「あらそうかしら、わたくしが聞いたのは大賢人ッていう綽名あだなでしたわ」
「それが悪口なんです、本当はその反対の意味で云ってるんですよ、あなたにも似合わない、そのくらいの意地悪がわからないんですか」
「まあそうでしたの」津留はまた眼をくるくるさせて、さも吃驚びっくりしたように云う、「――大賢の反対ッていうと大愚ですわね、お世辞のうまいこと、わたくしならそんなふうには云いませんわ、わたくしならもっとはっきり」
 だが母親と姉はほかの話を始めた。
 大略こんな状態のところへ、江戸から典木泰三が到着したのである。泰助の弟で年は二十三歳、藩主からお声掛りの赴任で、やはり山治家で面倒をみることになった。まだ泰三が来るまえのことであるが、その話を右衛門から聞いた泰助は、ちょうど菓子をべていたときであったが、それを喉へつかえさせてうっと云い、千賀がいそいで茶を取って渡すと、その茶でようやく呑みこんで、悠然と眼をしろくろさせた。……そんなことは初めてで、相当に強い精神感動を受けたものらしく、「はあ、泰三がまいりますか」
 こう云って深い溜息ためいきをつき、それからこんどは自分で自分に云いきかせるかのように、口のなかでそっと次のようにつぶやいた。
「嵐が始まる、……安穏にやってゆけると思ったが、……やっぱりそうはいかないのか、……私はいいとして、……迷惑な人には、迷惑なことになるだろう」
 ごく低い独り言であった。母親と千賀とは聞えなかったのだろうか、べつになんとも思ったようすはなかったが、右衛門と津留はなにかしら一種の印象を受けたらしい。右衛門は眉のあたりを緊張させ、津留は好奇心のために眼をきらきらさせた。
 そして泰三は到着したのであるが、その当日、右衛門は役所でちょっとした事があって、精神的に幾らか昂奮こうふんしていた。たいした問題ではない。例の「一連の人々」が、泰助のばあいと同じように、こんどもまた泰三が「検査官」として来るのではないかと疑い、右衛門に向ってさぐりをいれるようなことを云ったのである。それがいかにも狡猾こうかつで知ったふうな態度だったから、こちらはよほどやりきれない気持になった。
 ――なんという卑しいやつらだ。
 こう思ったくらいではないが、そこは身分や年齢からして、さりげなくあしらっておいた。そうして個人的には少なからず不愉快になって帰って来たわけだったが、自宅の門をはいって、玄関へかかろうとしたとき、「危ないッ危ないッ、さがれッ」
 いきなり頭の上からどなられた。

一の三


 そんなことは未曽有みぞうであるし、なにしろ余りに突然である。頭の上のほうからずぬけた高声で絶叫され、われ知らず右衛門は脇のほうへ身を避けた。それと同時に、がらがらがらッとなにか落ちて来て、殆んど右衛門とすれすれの処でなにかが砕け飛んだ。
 ――金吾だな。
 右衛門は瞬間そう思ったという、そして刀の柄に手をかけながら上を見た。
 玄関の屋根の上に若侍が一人いて、妙な、こっちがてれるような腰つきで、踊りでも踊るような恰好をしながら、たいへんおうふうな口ぶりでどなっていた。
「いい年をして不注意じゃないか、侍は常に用心を旨としなければならない、軒下なんぞを歩くときには特に気をつけないと、いつ屋根から瓦などが落ちて来ないとも限らない、またこの屋根がばかげて古い、瓦なんぞみんなずれているんだから、ええ畜生」
「なに者だ、きさまは」右衛門は片方の足で地面を叩いた、「――なんだ、そこでなにをしているんだ、きさまは誰だ、この……」
 そして振返って、下僕の多助に向って、あのくわせ者を引摺ひきずり下ろせと命じた。
 屋上の若侍はびくりとした。そのときわかったのだが、彼は玄関脇のほおの木の枝にたこをひっかけたので、それを破らないように取ろうとしていたのであるが、眼下の老人の正々堂々たる怒り声と、その怒りのために赤くなった顔を見て、これはたいへんだと思ったらしい。
 ――これはこの家の主人に違いない。
 こう気がついたものだろう、そこで、持っていた凧糸は放さずに、危なっかしい腰つきで屋上から敬礼を送り、「これはどうも、失礼を致しました、知らなかったものですから、山治のおじ上ですか」
「下りてまいれ無礼者、下りろ」
 右衛門は十五六回も片方の足で地面を叩きそれから玄関へとびこんだのであるが、そのあとの事はよく覚えていない、気がついてみると、着替えをして居間に坐って、妻の持って来た茶をすすろうとしていた。その茶がひどく熱かったので、うっと云ったとたん、初めて自分がそこにいることに気づき、それと同時に言葉がしぜんと口を衝いて出た。
「泰三か、泰三だな、泰三だろう」
「はい、泰三さんでございます」
「うーん泰三か」
 右衛門はうなって、それから突然、「なにが可笑おかしい、なにを笑うんだ」と妻女をどなりつけた。みね女はあっけにとられ、口をあけてぽかんと良人を見た。
「どうなすったんですか、わたくし笑いなんか致しませんですよ」
 そのときえへんというせきが聞えた。見ると廊下にさっきの屋上の若侍が来ていた。手に箱のような物を抱えている、背丈は五尺四寸くらいだろう、がっちりと固肥りで、躰重たいじゅうは十六貫ぴんというところか。濃い眉毛も、眼尻もわざとのようにしりさがりで、きれいな白い大きな歯を出して、にこにこ笑いながら、「御挨拶にまいりました、はいってもよろしいでしょうか山治のおじ上」
 こう云い云い、ひどくむぞうさにはいって来て、箱をそこへ置いて坐り、みね女に向ってくすくす笑いながら、「とんだ失敗をしましてね、凧が樹にひっ掛ったものですから、屋根へあがって取っていたんですよ、糸がひっ絡まってなかなか取れやしません、それに久しく手入れをしないんですね、瓦が緩んじゃってて、ちょいとするとずっこけるんです、そこへおじ上が帰って来られまして、私は吃驚して、おじ上とはよもや知りゃあしません、とっさのばあいですから危ないぞッてどなったんですよ、どうも済みません、でもその代りおじ上は頭を破らずに済んだんですが、もし私のどなるのがもうちょっと遅かったら」
「うるさい、黙れうるさい」
 右衛門がこんをきらせて叫んだ。とたんに泰三はそこへ両手をつき、右衛門の先手へまわって初対面の挨拶を始めた。それが間髪を容れぬすばやさで、剣術関係の術語でいうところの「燕返つばめがえし」といったような呼吸であった。
「右のようなしだいで、御上意とは申しながら、兄ともども私まで御迷惑をおかけ申すということはまことにあれでございまして……それにつきなにか手土産をと思い、多少は勘考したわけですが、田舎へは浅草海苔のりとかき餅がなによりということで、それだけでは先方も物足らぬであろうと思ったものですからべつに花仙堂の栗饅頭くりまんじゅうを買いまして、これがそれを容れた箱でございますが」
 こう饒舌しゃべりながら、彼は箱を前へひき寄せ、その包紙とのしを指で示して続けた。
「ごらん下さい、このとおり水引もかかっております、決して嘘偽りは申しません、それは信用して頂きたいと思うのです」
「そんなことは信ずるも信じないも……そんな土産物などは家の者に渡せばいいではないか」

一の四


「それがいちおうお眼にかけませんとうろんに思われるかもしれませんので、と申しますのが、実はこの箱の中はからっぽなので、ごらん下さい……このとおりなんです」
 泰三は水引をこき外して、蓋を取って中を見せた。なるほど中はからっぽである、右衛門はかっとのぼせてきた。だがもしかするとなにかの洒落しゃれか、変った手品でも披露するのかもしれない。いきなり怒っていいかどうかわからないので、「からっぽはわかった、しかしそれがどうしたのだ」
「そこが云いにくいところなのですが、ほかならぬ山治のおじ上だから申上げるのですが、その、貴方は浅草海苔とか栗饅頭とかまたかき餅など、そんなつまらない物にみれんはお持ちにならないでしょうな」
 右衛門は黙ってこっちをにらんでいる、泰三はできるだけ愛嬌あいきょうよく笑ってみせ、空き箱の内部を手でさっとでながら云った。
「私は実に意外だったのですが、こちらへ来る途中ですね、宿屋へ泊るたびにどの宿屋の飯もひどく不味まずいんです、ことに飯の菜がなってない、まるで食えないんです、といったところで武士であってみれば、まさかおかずの文句は云えやしません、そこまでは私も品格を下げたくはないですから、つまり」
「つまりそれで箱の中の物を喰べたというわけか」
「いやそう仰しゃっては、それでは身も蓋もなくなります、そんな単純な気持では決してありません、私としてはこちらへ持って来て喜んで頂くつもりで、代金も自分で払いましたし重い思いをして持って来たものなので、そんな貴方の仰しゃるような」
「うるさい、黙れ、もういい」右衛門は唇を白くしていた、「――土産は貰ったことにする、礼も云う、過分であった……このとおり頭を下げた、これでいいだろう」
「いやそんな、礼を云って頂くほどの物ではございません、ほんのもう寸志ですから、どうぞもう」
「うるさい、わかったからあっちへゆけ、頭がきんきんしてきた」
 側からみね女がめまぜをするので、泰三は心残りだったが、「ではせめてこれだけでも此処ここへ置きますから」と云って、からっぽの箱を右衛門のほうへ押しやり、おじぎをして去ろうとした。その背中へ、右衛門が思いだしたようにどなった。
「屋根の上で凧などあげてはならんぞ」
 そして両手で耳をふさいだ。泰三がまたなにか云うかと思ったのであろう。だがそれを見て、泰三は黙ってもういちどおじぎをして去った。
「なんというやつだ」
 もう安心とみて、右衛門は両手を耳から放して妻を見た。
「あんなにれ狎れしいやつは見たことがない、またあのずうずうしさとむやみに饒舌しゃべることはどうだ、これはとんだ者を引受けたらしいぞ」
「わたくしも吃驚しました」
 みね女は半分がた笑いながら云った。
「十時ころに着いたのですが、すぐ裏へいって薪を割りまして、十束ばかり割ったそうですけれど、そのあいだに下女のお花を泣かせまして、飯炊きの吉造の腕を抜きまして、隣りの村田さまの有之助さんと口論をなさいまして、裏木戸をこわしまして」
「まあ待て、いや待て、その下女を泣かしたとか吉造の腕を抜いたというのはどうしたわけだ」
「お花も泣くほどのことはないのですが、あれは御存じのように縹緻きりょうが自慢でございます、自分ではこの城下で幾人のなかにはいると思っているのを、泰三さんが踏んづぶしたひょっとこのようだとお云いなすったそうで、それから吉造ですけれど、あれは左の腕が少し短いんですの、自分では右が長いんだと云っておりましたが、それを左が短いんだから同じ長さにしてやると云いまして、それでつまり、……肩の付根のところを抜いてしまったんです」
「もういい、また頭がきんきんし始めた」
 右衛門は溜息をついて云った。
「水を一杯持って来て呉れ」
 その夜のことである。およそ夜半じぶんであったろう、突然どこかで烈しい物音が起こり、人の悲鳴が聞えたので、右衛門はがばとはね起き、脇差を取り、行燈あんどんおおいをはねて、「なにごとだ、なんだ」と叫んだ。そのときもすぐ「金吾」という名が頭にうかんだのであるが……ふすまをあけて隣りの部屋から妻が顔を出した。
「あの物音はなんだ」
「わたくしにもわかりませんけれど、泰三さんのお部屋のようでございますよ」
「なに泰三……」
 右衛門は廊下へ出て、脇差を右手に持ち替えてそっちへいってみた。……泰三の部屋は玄関に近く、家扶かふの相模忠之進と隣り合っている、近づいてゆくと、そこでは誰かわからないがいま盛大に組討ちをやっていた。
「――誰だ、なに者だ」
 右衛門はこう叫んだ。
「――曲者くせものです」
 泰三の声である。続けて忠之進の苦しそうな声も聞えた。
「――曲者です、この、あっ」
「――どうだ、うぬ」
 どたんばたん、ばりばりと襖や障子が毀され、組んずほぐれつ格闘している。右衛門は片方の足で廊下を叩きながら絶叫した。
「あかりを持て、曲者だ、あかりを持て、曲者だ油断するな」
 格闘者は廊下へ転げ出て来た。

一の五


 城代家老の満信みつのぶ文左衛門は温厚な徳人である。思慮綿密、喜怒を色に表わさず、かつて人をしかったことなく、声をあげて笑わず、沈着寛容、常に春風駘蕩たいとうといった人格であった。……今もにこにこしている、肥えているというほどではないが、躯も顔も福ぶくしい、半ば白くなった眉毛が眼の上へかぶさるほど厚く生えている。その眉毛の下の眼が、いかにも柔和に微笑して、泰三の深刻な気持をやわらげているようにみえる。
「私も少しは粗忽そこつでございます。兄が、……御存じかもしれませんが、兄があのとおりおちついておりますから、私まで泰然自若というわけにはまいりません、そこが世の中のむずかしいところだと思うのですが、それにしてもいくら私だって、まさかわけもなく粗忽をするというのではないので、……そうです、例えば先日の夜なかのことなんですが」
 泰三は坐りなおした。ふしぎなことにそのようすが津留に似ている、さあ来いとばかり舌に湿りをくれる感じで、精気溌溂たるところまでそっくりにみえる。
「私はかわやへまいるつもりで、起きて夜具から出まして、障子をあけたところがいきなりおでこをなにかにぶっつけました、よく眼から火が出るということを申しますが、御城代はそんな覚えがおありですか」
「そう……まあ、ないようだが」
「本当に火が出るんです、ばしッといったぐあいにですね、ひどいもんです、吃驚しまして、これは方角が違ったと気がついたもんですから、こんどはこっちへ見当をつけてあけました、するとなにかしらぐにゃッとした物を踏んづけたんですが、そいつがもう、まるでまっ暗がりの中でものも云わずにとび掛って来たんです、いきなりですからね、……こっちは御参なれと思いました、さあ来いというわけです、なにしろこれから世話になる山治家のためですから、武運つたなく死ねば死ねと覚悟をきめて、むにむさんにひっ組んで、敵もさる者でしたから相当に骨が折れましたけれども、そこへ人がやって来たりしたときは遂に、……相手は気絶していたんですが、それがまさか家扶の相模さんとは、私としては実に案外でもありぺてんにかかったような心持で、これは御城代にもわかって頂けると思うのですが、どうでしょうか」
「――うん、まあ、そこはわしとしても、ひと口には批評はできないと思うが……」
「そうでしょうか」泰三は不平らしい、「――私は繰り返して申上げますが厠へゆきたかったんです、そのほかにはこれッぽっちも邪心はなかったので……それは相模さんも気の毒は気の毒ですけれども、結果ばかりとりあげて私だけが粗忽だというのでは片手落ちだと思うんです、それだけは私は、……はあ、なにか仰しゃいましたか」
「――ええ、それについては、あとで云うとして、まずそこもとを呼んだ用件なのだが、ええ、つまり、このたび江戸からこちらへ来た、お声がかりで来たわけなのだが、そのお声がかり、……というところに、なにか特別な意味があるか、どうか、という点で、……城代として聞いておきたいと思うのだが」
 泰三はすばやく四方あたりを見た。そこは城代家老の詰所であって、常なら取次や書記や走りという侍などが六人いる定りだが、満信城代の計らいでそのときはみんな席にいなかった。
「おたずねですから申上げますが、誰かに聞えるようなことはないでしょうか」
「それはまあ、その懸念はまあ無用である」
「では申上げますが」泰三は上半身を乗り出し、低い声で耳うちをするように云った、「――原因は幾つかあるのです、表向きは厄介払いということになっていますが、実際また私がいなくなって江戸ではずいぶんほっとした人間もいることでしょうが、殿もそんなふうなことを仰しゃっていましたけれども、むろんそんな些細ささいなことじゃないので、最も重大なのはですね、……失礼します」
 泰三はよほど安心できないとみえ、すり寄って、城代家老の耳へ口を寄せて、ややしばらくなにかこそこそささやいていた。
 これは機宜な方法だったかもしれない。そうでなかったかもしれないが、ともかく、このとき太鼓張りの障子の蔭、――というのは家老の席の三方を囲ってあるのだが、――その蔭に少年が一人、眠ったふりをしてこの会話を聞いていたからである。
「――うむ、ふむ、ふむ」
 城代はこう頷いた。
「だいたいそういうわけなのです」泰三は密談を終ってちょっと笑った、「――殿としては立場もあり、あれだけ頭脳あたまのよい方ですから、事を荒立てずにおさめたいと思われたわけでしょう、私としても宜しいというわけです、厄介払い、笑うなら笑えという気持です」
「――そう、うむ、まあそこは、あれだからともかくもまあ、……やるがいいだろう」
 満信城代は深慮遠謀といったふうに、しかし温厚に微笑して、ではこれでと、引見の終ったことを手振りで示した。
 廊下をさがって来た泰三は、どこで曲り角をまちがえたものか、いくらいっても供待へ出ない。彼はまだ無役なので、三の口というところからあがったのだが、だいたい目印を頭へいれておいたのがうやむやになってしまい、同じ廊下を何回も通ったのだろう。
「なあんだあいつは、またあんなとこを歩いてるぞ」
 などと云うのが聞えた。そのくらいならいいが、或る部屋にいた人間は、げらげら笑いをして、こっちを指さして、「おい見ろ見ろ、あそこに大きな迷子がいるぞ、誰か親を捜して来てやらないか」
 大きな声でこう云った。泰三はこのときはむかむかっときて、べらぼうめなにをぬかすとどなり返した。
「こんなちッぽけな田舎の小城がなんだ、江戸へいってみやがれ、上屋敷の御殿の廊下なんぞ延長一里十二町二十一間もあるんだ、角々に立番がいて道を教えるくらいなんだぞ、こんな鼻のつかえるような城の中で頼まれたって迷子になれるかッてんだ、ざまアみやがれ」
 ぽんぽんと巻舌でやッつけた。そしてあっけにとられているのをしり眼に、ずんずん大股おおまたに歩いていったが、……それからどうしたか、供をして来た若党の弥平は、日のれるまで供待で欠伸あくびをしていた。

二の一


 典木泰助と泰三の兄弟について、この辺でその身分関係の要点を記しておこう。……かれらの父は斎宮いつきといって、江戸家老を十二年も勤続した。きげんのいいときは中ぐらいはらを立てているような顔つきで、怒っているときはきげんのいいような顔になった、ということである。母の名はそで、同藩の佐々木氏の出で、妻としても母としてもごくあたりまえな、――ということは女性としては優良の部に属するだろうが、――容姿も気質も中ぐらいな人であった。
 人はみかけだけでは判断はできない。斎宮は十二年も江戸家老を勤続して、比較的には謹厳実直な人物であると信じられていた。にもかかわらず、十二年めの夏のことであるが、どう魔がさしたものか、御手許てもと金を二千両もつかいこみ、殿さまお気にいりの若い侍女を殴打し、そのついでというわけでもないだろうが、殿さまにも悪態をついて、そうして自分は腹を切って死んでしまった。……殴打された若い侍女はたいそう泣き悲しんで、自分をひいきにしてれた殿さまに対してなにか侮蔑ぶべつ的なことをいって暇を取って出ていったそうで、殿さまの立場としては二千両も遣いこまれたうえのことでもあり、相当な損害などという程度ではなかった。
 典木は食禄しょくろく千二百石であった。かかる不始末をしたからには当然その家名はつぶれ、妻子にもとがめがある筈である。一般はそう思っていたが、殿さまはそうはしなかった。食禄を千石削り、妻と二人の子は沼田東兵衛という老職にお預け。こういう処置をとられたのである。……これについての解釈は種々あったが、代表的な説によると殿さまになにかひけめがあって、斎宮の所業はすべて忠義のためだったといわれる。それは妻子を沼田老職に預けるとき、殿さまから内密に、
 ――よくよくをかけて遣わせ。
 というお言葉があり、残った食禄とはべつに年々かなり多額な養育料が、御手許から出たということである。このとき殿さまは長門守知幸、現在の殿さまはその子の長門守知宣とものぶという人であるが、典木の遺族についてはなにか云い含められていたとみえ、泰助と泰三は早くから小姓にあげられ、ずいぶんなお気にいりだと伝えられている。……こういうところから、典木斎宮の切腹を忠死だとする説が出たらしい、だが真相のほどは現在のところまで不明というほかはない。ちなみに兄弟の母そで女は三年まえの冬、沼田老職の家で安らかに病死した。
 右のような略歴であって、初めに兄、次に弟と、二人が江戸から派遣されて来たとあってみれば、国許の人々がそこになんらかの「使命」を臆測するのは人情というべきであろう。……すなわち前章で述べた如く、泰三が城代家老に呼ばれ、城中で密議を交わした日の夜、ほぼ同じ時刻に二個所で、ひそかに二様の密会が催された。
 その一は金吾六平太の家であって、集まる者は六人。金吾六平太(納戸奉行)のほかに川北孝弥(勘定奉行所主務)井上角兵衛(作事奉行所支配)沢野市三郎(普請奉行総務)下島義平(収納方元締)金沢勘次(郡奉行監事)という顔触れであって、例の「一連の人々」の幹部らしい。内容は密会であるが、形式は金吾家のこころ祝いというわけで、座にはきらびやかに屏風びょうぶをめぐらし、煌々こうこうしょくを列ね、さすが特別収入のある連盟だけに、美酒佳肴かこう配膳はいぜんにもぬかりはなかった。
「実にどうも、くわせ者というぐらいでは足りないような人間と申すべきか、実にどうも、なんともだいそれた挙動である」
 六平太は出目金と綽名の付いた眼をぐりぐりさせて、膳部の上の焼き鯛をねめつけ、その眼で連盟員の顔を順々に眺めやった。
「現に人払いをしていながら、肝心の点に及ぶと城代の耳へ口を持っていって私語したという、ではいったい人払いはなんのためであるか、実にその狡猾さというものは」
「いや狡猾なのはむしろそのあとの振舞」と井上角兵衛が卵焼をのみこんで云った、「――お廊下で迷ったふりをとりつくろい、うろうろ致し、わざと暴言を吐き、そして御台所へ紛れ入って料理人と悪ふざけ」
「そのとき魚を割いてみせたそうですな、私は聞いただけですけれども、これなどは、いかに彼が肚黒い人間であるかという一例だと思うのですがな」
「そこで対策なんであるが」
 六平太はまた焼き鯛をねめつけ、その眼を列席の人々へ向けながら議題を進めた。
「相手がそこまで深慮遠謀で来るとすれば、こちらも単に買収などという手で安心はしておられない、むろん買収の網も掛けるが、喧嘩けんかを仕掛ける手、酒色の餌なども案外な効果をあげるかもしれぬと思う、……これは、酒色について彼がいかなる嗜好しこうを持っておるか、という点をまず仔細しさいに調べなければならぬが」
「彼は近く御役に就くそうですから、その方面で失脚させる法も考慮すべきでしょう」
「兄の石仏を利用する手もあり得るですな」
 かれらとしては身の安泰を護るためだろうが、その謀議はしんけんな様相を呈してきた。自分たちがどちらかといえば不正な利得をしている関係から、ふだん内心ではそくばく気が咎めないとはいいえない。精神組織が多少とも正常であるなら、幾分かは良心の囁きも聞く筈である。が、一旦そこに摘発される危険が生じたばあい、その心理は猛然として自己主張に変貌する。
 ――かかる些細ささいな事を取上げるとはなにごとであるか、世間にはもっと大々的な憎むべき悪事が多々あるではないか、にも拘らずわれら如き小事件を追求するとは卑劣である。かかる不正は断じて排斥しなければならない。
 こういう理屈になるらしい。しかも底になにほどかの罪の意識があるだけ、かれらの反噬はんぜいは警戒を要するのである。……ところで話の途中であるが、そのとき一人の新しい人物がはいって来た。まだ若い貧相な男で、右の高頬に長さ二寸ばかりの古い傷痕きずあとがある、そのためにうっかりした者が見るとどすのきいた顔にみえるが、そして彼自身も、
 ――詳しくは云えないがね、相手は五六人だったが、ちょいとした決闘をやってね、向うを斬ってはいけないと思ったもんだからね、なに話すほどのことじゃないのさ。
 こんなふうに云っているが、実際のところは洗濯町という下品な娼婦街で、なじみの娼婦のために剃刀かみそりで斬られたということであって、その当の娼婦から直接に聞いた者があるのだから、このほうが事実らしい。彼の名は本多孫九郎という。
「野村の吉太郎が典木を訪ねてゆきました」
 彼は誰かをあざ笑うような表情で、こう云って、高頬の傷痕をぴくぴくと動かした。
「かれらは典木泰三に会見を申込んだのです、野村はその使者です」

二の二


 泰三は午餉ひるげを喰べている。もう時刻が過ぎたので、喰べているのは彼一人。給仕には妹娘の津留が坐っていた。
「もう少し悠くり召上れな、それでは喉へつかえてしまいますわ」
「そんな声を出さないで下さい」泰三ははしを持った手で津留を制止し、その箸で醤油注ぎをひっくり返したので、慌ててそれを起こしたとたんに汁椀をはじき飛ばした、「――悠くり喰べたいんだが、そうしてはいられないんですよ、私はいそぐ必要はないんですがね、飯を下さい、茶がありますか、なにしろ大将がやきもきしている、茶を下さい、茶漬でかっこみましょう、大将は気が短いですからね、貴女だってそう思うでしょう」
「お茶をどこへおかけなさるの、みんなお膳へこぼれてしまいますわ、……あらあら、おはかまが濡れてたいへんですわ」
「袴なんぞ構っちゃいられないんです、いま何刻なんどきぐらいですかね、ああいけない」彼は箸をほうりだして懐中を探り、あおくなって飯茶碗も置いて、飯茶碗は畳の上へ転げ落ちたが、彼は両手で自分の着衣をあちこち忙しくき捜し、やがて内ふところからくしゃくしゃになった封書をみつけ出し、ほっとしてにこにこと眼尻を下げて笑いながら、「――ああよかった、ありましたよ、無くなしたなんてことになると大将てんかんを起こしかねませんからね、どうしてあんなに怒りっぽく育ったものか、よっぽと親があまかったんですねきっと、いや飯はこっちにあります、喰べかけのをいま此処へ置いて」
「これがそうですの、お膳から落ちたので拾ってつけ替えたんですわ」
「そいつはすばしっこいですな、へええ、そいつは気がつかなかった、ああ、おじ上」
 廊下の障子があいて、山治右衛門が恐ろしい顔をのぞかせた。かんたかぶっているのを懸命に抑えているらしい、恐ろしい顔のままにこやかに笑って「ははあ食事か」と云った。泰三もあいそよく笑い返し、茶碗と箸を右衛門に見せながら「ええ食事です」と答えた。
「空腹なものですから、失礼しています」
「ほほう、そうか、ふん、空腹か」
「ええ、ふしぎなくらい空腹なんです、三年ばかりまえにいちどこんな事がありました、あれはたしか殿さまのお供をして葛飾かつしかのほうへかもを捕りにいったときでしたが、途中から雨になって」
「それはいいが用事はどうした」右衛門はそろそろがまんが切れてきたらしい、「――空腹であろうとなかろうと、用事を頼まれたら先にその報告をしなければならない、おまえは十時に家を出ていった、満信までは往復十七八町、もう二時間以上も経っているではないか、……が、まあいい、返辞を聞こう」
「返辞っていいますと、なんの返辞ですか」
 右衛門は眼をつぶって、口の中でなにか呪文じゅもんのようなものを呟いた。それからごく慎重に眼をあいて、穏やかにこう質問した。
「おれはおまえに満信へ使いを頼んだ、手紙を持たせて、返辞を聞いて来るようにと頼んだ、そうではないか」
「そうですとも、そのとおりです」
「うう、……で、おれは、その返辞を聞きたいのだ」
「ああそうですかその返辞ですか、それなら食事が終ったらすぐいって来ます、手紙はここにちゃんと持っていますから安心して下さい、決して無くしたりなんかしやしません、ちょっとばかりしわくちゃにはなりましたけれど、これで私もそこまでずぼらではないですから、ええすぐいって来ます」
「すぐいって来る」右衛門の両方の眼の眸子ひとみが右は右へ左は左へと乖離かいり運動を起こした、「――というと、つまり、その、……おまえは、二時間以上も経つのに、まだ、その、うう」
「いや待って下さいお待ち下さい」
 泰三は片手をあげた。そのために箸が飛び皿の焼魚が――といっても殆んど骨だけになっていたが――膳の上へはね返った。
「それについて申上げなければならないんですが、私は此処を十時に出ました、それはもう仰しゃるとおりなので、私は満信さんへ向ってゆきました、それは天地神明に誓ってもいいです、頼まれた以上は責任がありますから、いくら私だってそれほどずぼらじゃありません、満信さんの家は二条町で此処からは北に当るわけでしょう、多少は東に寄っているかも」
「要点を云え要点を、おれは方角などを聞いてはおらん」
「そうですとも、私も方角などはどっちでもいいんです、そこで満信さんのほうへ向っていったんですが、あの原っぱですね、御材木蔵の向うにある草っ原ですが、あそこへさしかかったのが私の運の悪いところだと思うんですが、実を申上げるんですけれども、私は武士としてひくにひかれぬ立場にぶっつかったんです、私が武士でなければよかったんですが、武士である以上は、おそらく貴方でもみのがして通るわけにはいかなかったと思うんですが」
「もういちど云うがな、いいか、よけいなことは抜きにしろ、いいか、よけいなことは抜きにして要点だけ云え、要点だ、わかったか」
「はあわかりました、要点ですね、要点」泰三は脇へ向いて眉をしかめながら呟いた。
「ばかばかしい、人生が要点だけで成り立つと思ってるのかしら」
「なに、な、なに、今なんと云った」
「貴方が武士ならわかって下さると思うんです」泰三はみごとに切って返した、「――手紙の内容は知りませんが、ともかく手紙は手紙ですからな、まさか命にかかわるという切羽せっぱ詰った問題ではないでしょう、ところがこっちはそうはいかないんです、その場でなんとかしなければ当人の立つ瀬がないんですから、それは実に見るに見かねたありさまなんで、貴方がもしごらんになったとしても」
「云え、云え、云え」右衛門は右手で拳骨げんこつこしらえ、その拳骨で自分の眉間みけんを押えながら叫んだ、「――なにがどうしたんだ、その原っぱでなにがあったんだ」
「こういうことは冷静に聞いて頂かないと話しにくいんですが、弱ったな、貴方がそんなに昂奮していらっしゃるとすると、いえ話します、べつに仰天するほどのことじゃないんですから、それで問題の原っぱなんですが、私が通りかかるとですね、子供が大勢で凧をあげていたんです、ええ凧です」彼はすばやい横眼で右衛門の顔色を見る、「――あのいかのぼりというやつですね、あれを大勢であげている、見るともなく見るとです、むろん私は歩きながらですが、二十人ばかりいたでしょうか、なかには十五六以上になる大きな子供もいましたが、またそのなかには大人の侍が二人ばかり、……自分のか伜のかそれとも弟のか、そこはわかりませんけれども、これが子供といっしょになって凧をあげているのには驚きました、貴方にも想像できると思いますがみっともいい図じゃあありません、ばかなまねをするやつがあるもんだ、どんな育ち方をしたものか、監督者の顔が見てやりたい、こんなふうに思いながらですね、ふと脇を見るとそこに、……そうですね、年にして六つか七つ、まあ八つにはなっていないでしょう、可愛い子供が泣いているんです」
「おれはもういちど云うが、おれは」
「いえわかってます、つまり要点ですからね、私だってそのくらいのことは忘れやあしません、それで要点なんですが、私としても侍であって、当城の藩士ともなればへたなことは出来ない、うっかりすれば殿さまの御名にもかかわるわけですから、……そこで私は聞いたんです」
「なにを聞いたんだ、誰に、なにを」
「その子供にです、その泣いている子供にですよ、どうして泣いているのか、誰にいじめられたのか、殴られでもしたのか、悪いやつはまだ此処にいるか、……こんなぐあいにですね、相手はなにしろまだ頑是がんぜない子供ですからなかなか返辞をしやあしません、じれったいけれどもこっちも乗りかかった舟ですからそこは根気よくやりました。そのうちに子供のほうでもいくらかおちついたんでしょう、実はこれこれと話しだしたんですが、いやどうも、……殴られたのでもなければ誰にいじめられたんでもない、貴方もそれは意外だとお思いになるでしょうが、誰のせいでもないんです、つきつめたところそこは子供だと思ったんですが、実にばかな話なんですが、つまり凧があがらないっていうわけです」
「凧、……凧、……凧がどうしたと」
「あがらないんです、みんなの凧はあがってるのに彼の凧だけはあがらない、見ると嘘も隠しもないそこの地面にのたばってる、小っぽけな奴凧でしたが、……またのたばってるというのは仙台の方言で、寝転んでるっていう意味なんですが、それを覚えたについて仙台藩の人間と知己になったことから話さなければならないので、もし貴方がお聞きになりたければですが、いやそれはべつの機会にします、今はとりあえず要点だけにしますけれども、……それでですね、小ちゃな奴凧がそこの地面の上にのたばったわけです」
「おまえがそれをあげたんだろう」右衛門はついに喚きだした、「――そのへたばった凧を、その小っぽけな奴凧をその子供の代りにあげたんだろう」
「貴方は見ていたようなことを云いますが」
「うるさい、黙れうるさい」右衛門はここでまた拳骨で眉間を押え、右の足で廊下を叩きながら叫んだ、「――なにがひくにひかれぬだ、武士の面目と凧とどんな関係がある、殿までひきあいに出す必要がどこにあるんだ、おれはおまえに満信へ使いを頼んだ、おれは返辞を待っていた、ところがきさまは途中でひっかかって、まるで阿呆のように凧をあげていた、凧を、凧を、凧を」
「しかし待って下さい」泰三は少しずつ脇のほうへ退却しながら、「――私はふと使いのことに気がついたんです、これはいけない頼まれたことがある、こうしているばあいではないと、しかし気がついてみるとひどく腹が減ってる、非常な空腹なんで、まさか貴方がそんなにむきに怒ろうとは思いませんから、ちょいと午飯ひるめしを」
「おれは上訴する、江戸の殿へ、おれは」
「いってまいります、すぐです」泰三は横っ跳びにうしろの襖をあけた、「――ほんのちょっとのまです、どうか暫く」
 そして脇玄関のほうへとびだし、どこかの障子でも蹴倒けたおしたのだろう、ばりばりがたーんという物音をさせ、さらにがたぴしどたばた賑やかな音響を展開しながら、ついに外へと出ていった。

二の三


 そのとき山治から満信城代へった手紙は重要な意味をもっていた。
 すなわち、この両者は早くから家中の綱紀粛正を考え、弛廃しはいし堕落した政治のたてなおしを計画していた。もっとも両人にすればそれほどむきになりたくはない、政治というものは、それ自身が横暴と不正と悪徳を伴うものであって、どんなに清高無私の人間がやってもいつかは必ず汚濁してしまう。寧ろそういうものなしには政治は有り得ない、もう一つ押し進めるとそれが自然でさえあるかもしれない。という感じであってみれば、粛正や改革はやってもやらなくても同じことで、なるべくなら知らん顔をしていたいのである。ところがそうしていられなくなった、実にこの世はうるさい仕組になっているものだが……。
 時と処に関係なく、大義名分とか公明正大とかいうものを信仰的に固執して、自分以外のあらゆる人間を不正不義、悪漢堕落漢であると罵倒ばとうし憎悪する人種があるものだ。これは一種の病気であって療法はごく簡単、すなわち彼に欲するだけの権力と富と名声を与えれば即座に治癒する。昨日まで赤くなって慷慨こうがいしていた者が、けろりと治ってごく穏当な人間になる。疑わしい向きは試みにやってみることをおすすめするが……しかし権力や富や名声などというものは贈答品ではないから、おいそれと遣ったり取ったり出来るものではない。ことに正直廉潔などという銘柄は、決して流行しないものと古今東西を通じて厳と相場が定っているのである。
 右ようの理合で、この藩にもそういう侍がいた。それほど過激ではなかったらしいが、藩史によると、その中心人物は野村吉太郎だと明記してある。野村は藩の重職格で、もと御納戸奉行九百二十石の身分であった。それが十年ほどまえに役目のことで譴責けんせきされ、食禄半減、この物語の当時は無役であった。……この男を中心にして、主として若侍が二十人ばかり、例の「一連の醜団」に対して弾劾的な言動に出ていたが、典木兄弟の到着を機に、それが積極的行動にまで発展するもようになって来た。
 ここに及んで、満信城代と山治右衛門とが動きだしたのであるが、どちらも荒療治はやりたくない。「一連の醜団」なるものは、代々その局に当った人間がみなそうであった。正面から摘発して、現「醜団」に肚を据えられると、時効などという便法のない時代のことだから、遡及そきゅう的にどこまで拡大してゆくかわからない。それでは困るので、これが対策には慎重な考慮がはらわれなければならなかった。
 然らば両老職はいかなる策をたてたかというに、まず泰三を使者として、密書がましいものの遣り取りから始めたのである。実に年の老けた人間というものは狡猾だと思うが、その効果は意外に早く、意外なかたちで顕われたのである。
 泰三は右衛門の手紙を持って満信へゆき、満信の返書を右衛門に持って帰った。
「奇態なことをするおいぼれ共だ、どういう魂胆でこんな人を小馬鹿にしたようなことをやるのかしら」
 二日おき一日おき二日おきといったぐあいに、山治と満信を往復するので、泰三は気持が草臥くたびれてきて、歩きながらよく独りで不平を云った。
「これじゃあまるで飛脚に雇われて来たようなもんだ、いまに道筋のやつらがすっかりおれのことを覚えちまって、ちょいとあたしのも頼みますなんか云いだしたらどうするつもりだろう」
「ははあ、また走り使いか」
 いきなりこう云った者があった。例の原っぱのところであったが、不平の独り言を云いながら歩いていたので、泰三は不意をくらって「やあ」と快活におじぎをして振返って、それからむっとした。……すぐうしろに三人の若侍がいた、まん中の一人は高頬に傷痕のある、あの本多孫九郎であった。
「いまへんなことを云ったのはおまえさんたちか」
 泰三は三人を眺め、その眼をにやにや笑っている孫九郎の上にとめた。
「聞えたかね」孫九郎が答えた、「――聞えたとすると悪かったが、三人でね、いま貴公のことについて話していたんだよ、聞かせるつもりじゃなかったんだがね」
「ああそうかい、おれはまたおれをからかったのかと思ったよ」泰三はしげしげと相手の顔を眺め、ぺっと脇へ唾をして、「――人相の悪いやつらだ、ろくなしゃっ面あしていやあしねえ、どうせ末は馬子か駕舁かごかきだろう」
「おい待て、聞き捨てならんぞ」
 孫九郎がどすのきいた顔で、すごんだ声をあげてどなった。歩きだした泰三は立停って、けろっとした顔で振返った。
「なんだい、なにか用かい」
「いまなんと云った、いまの言葉をもういちど云ってみろ」
「聞えたかい、そいつは悪かったな」泰三はにこっと笑った、「――聞かせるつもりじゃなかったんだよ、感想を独り言で云っただけなんだ、そうかい、聞えたかい」
「人を嘲弄ちょうろうするな、あんな高声の独り言があるか、聞えるのを承知のうえの暴言ではないか」
「するとお互いさまだな、おまえたちの暴言もおれに聞えた、つまり聞かせるつもりの悪口がお互いに聞えたわけで、双方目的を達して満足というわけだ、そうじゃないか」
「黙れ、悪口にも程度がある」孫九郎は本気に怒ったらしい、「――われわれの人相をうんぬんし、あまつさえ末は馬子か駕舁きとは武士として聞き捨てならん言葉だぞ」
「おれのほうもそうなんだ、おれも使い走りなどと云われたのは初めてでね、おまえたちの十倍くらい聞き捨てがならないんだよ」
「それならなぜ初めにそれを云わんか」
「云えないんだ、云えば喧嘩だからね、おれは殿さまに喧嘩を売ってはいかんと禁止されているんだ、売ってはいかん、だからこっちから仕掛けるようなことは出来ないんだ」
「すると喧嘩を買って出るというのか」
「ばかなやつらだ」泰三は唇をへし曲げてこう呟いた、「――喧嘩をするのにいちいち念を押してやあがる、これだから田舎者はいやだってんだ、ちぇッ、そこに原っぱがあるじゃねえか、見えねえのかな」
「その一言気にいった」
 孫九郎の右側にいた男が、大きな声でこう喚いて、そして続けて喚いた。
「問答はやめて勝負をしよう、来い」
「そうこなくっちゃあいけねえ、男はあっさりするもんだ」泰三はにこにこと眼尻を下げて笑った。
「――だがおれはちょいと使いを済まして来る、なにひとっ走りだ、あっというまに帰って来るから」
卑怯ひきょう者、この期に及んで逃げる気か」
「そいつだけは心配するな、おれに限ってそんな勿体もったいないことはしないから、それだけは大丈夫だから待ってて呉れ、そこの原っぱだぞ、すぐ戻って来るからな」
 そして泰三は満信家のほうへと喜び勇んで走っていった。

二の四


 その夜の夕餉のとき、右衛門はしきりと泰三のほうへ眼をやった。泰三はいつもの席よりずっと下座へ寄って膳を置き、なにやら燈火を避けるような姿勢で、いやにこそこそと喰べている。……どうもおかしい、脇見もしないし話もしない、茶碗の中へ顔を伏せるようにして、ひじを横へ張って、ぜんたいがなにか隠し立てをしているようなぐあいである。
「泰三、おまえどうかしたのか」
 あまりにおちないので、右衛門はとうとう堪りかねてそうきいた。
「私ですか、いいえ、べつに」
「こっちを向いてみろ、おまえなにか隠しているだろう」
「私がですか」彼はこっちを向かない、「――私はなにもしません。隠すことなんかありません、本当です、嘘なんかつきません、私は殿さまに……」
「殿にどうした、殿にどうしたというんだ」
「殿さまにいかんと云われたんです、こっちから決して喧嘩を売ってはいかん、これは固く禁ずるぞと云われたんです」
「――それで、……それでどうしたんだ」
「ですからつまり、私は、喧嘩なんぞ売りやしません、殿さまの仰しゃることは重いですからね、私は決して」
「おまえ額にこぶを出してるな」
 右衛門は眼を光らせて、こっちを覗くように見た。泰三は顔をそむけ、いそがしく飯をかきこみながら云った。
「ええこれは、あれです、ちょいと転びまして、木の根があったもんですから、とっ拍子もないような処に大きな根っ子がありまして、あれはなんでしょうか、道路関係の事は普請奉行の係りでしょうか、それとも作事方の」
「おまえ喧嘩をしたんだろう」
「私がですか」泰三は心外なことを聞くものだという眼つきをした、「――私が喧嘩をしたと仰しゃるんですか、この私が、……どうして笑うんです津留さん」
 給仕をしていた津留が、もうがまんができないというように失笑ふきだした。よほど忍耐していたものだろう。止めようとしても止らないらしく、袖で口を押えながら立ち、笑いながら廊下へ逃げだしていった。すると、それといれ違いに、玄関番の侍がやって来て、「典木さんの泰三さんにお客です」と云った。
「私に客、ああそう」
 得たり賢しと彼は立った。右衛門の追求を逃れる絶好の機会である、立ったときひざで膳を小突いたので、皿小鉢がけたたましく踊り、なにか二つ三つ転げ落ちたが、そんなことに構っている暇はない、誰にともなくおじぎをして廊下から玄関へとびだしてゆくと、そこに――うす暗いのでよくわからなかったが――四五人の若侍が立っていた。
「私が典木泰三です、なにか御用ですか」
「――なにか用かって、ばかにするな」
 最前列にいた男がどなった。聞き覚えのある声なので、泰三は式台へ下りて、「なにを怒ってるんです、なにか私が」こう云って相手を覗いて、「――やあ、これは、これはどうも」
 高頬に傷痕のある顔を見て、泰三はあいそよく笑って、それからあっと声をあげた。
「やあ失礼、あんたたちか」
「黙れ卑怯者、約束をどうした、えらそうに大言を吐いて、われわれはずっとあの原で待っていたんだぞ」
「しっ、しっ、そんな声を出さないで呉れ」泰三は手で相手を押え、声をひそめて、「――まことに済まない、あやまる、実は大きな声では云えないんだが、あれから使いにいったさきで喧嘩になってね、向うの家へはいろうとしていたときなんだが、詳しいことは省くが、いやに向うばりの強い野郎で、やるか、よしっていうわけさ、五人いたっけが一人ちょいと強かった、このとおり瘤をこさえちゃったんだが、気持のいいやつらで、あとはさっぱり手を握り合ってね、そういうわけで原っぱのほうはつい忘れちまったと云っては悪いが、そうするとつまり……みんな原っぱで待ってたのかい」
「逃げ口上はたくさんだ、表へ出ろ」
「そうだ表へ出ろ」うしろにいた仲間が口々に叫んだ、「――果し合の約束を破るとは卑怯なやつだ、それでも武士か、恥を知れ」
「そんな高い声で、そんな」
 泰三は両手でかれらを制止しようとしたがすでにそのとき右衛門がそこへ出て来ていた。
「なんだそうぞうしい、なに事だ」
「決闘です」本多孫九郎が昂然と叫んだ。
「武士と武士との決闘です、失礼ですが御老職は口を出さないで下さい」

三の一


 玄関から戻って来た右衛門の顔にはちょっと複雑な表情があらわれていた。それは憎むべき犯人に判決を与えてこれを刑務所へ引渡したときの裁判官の責任をはたした自信と幾らかの人間的反省とが混合した表情に似たものであった。
「どうなさいましたの、泰三さんは」
 妻女が待ち兼ねたように質問した。右衛門は黙って自分の膳の前に坐った。泰助はちょうど食事を終って悠然と千賀に茶を注いで貰っていた。
「決闘をしにいったよ」右衛門は飯の残った茶碗を取上げながら、「――相手は五六人いたようだが、いや七八人かもっといたかもわからない、ひどく激昂して、卑怯者とか恥を知れとか喚いておったが、泰三はぐうの音も出しおらん、ひらあやまりにあやまって」
「それをお父さまは黙って見ていらしったんですか」
 津留がそう云って非難するように父をにらんだ。
「どうしてお止めにならなかったんですの、お父さま」
「かれらは黙っていて呉れと云った」右衛門は晴れやかに答えた、「――御老職は黙っていて下さいとな、どうもしようがない、武士と武士との決闘とあってみれば、これはもうわしなどの口出しをすべきばあいではないし、それに考えてみるに、これは泰三には一種の薬であるかもしれん、こんな事でもなければあの軽率とお饒舌しゃべりと粗忽そこつは治らぬかしれんのでな、いや男子はなにごとも修業、艱難かんなん辛苦を経験しなければお役に立つ人間は出来ぬものだて」
「お父さまは卑怯です」津留は眼に涙をうかべながら云った、「――御自分が泰三さまにはらを立てていらっしゃるものだから、泰三さまがひどいに遭うのを喜んでいらっしゃるんです、わたくしみんな知っています」
「なにを云いますか津留さん」母親が側から驚いて叱った、「お父さまのお考えなさることに間違いはありません、それにこんな事は女の口を出すことではないのですから」
「泰助さまもそれでいいのですか」
 津留はこんどは舌鋒ぜっぽうの向きを変更した。
「血を分けた弟が七八人も十四五人もと決闘をなさるというのに」
「いや十四五人などはおらん五六人だ」
「お父さまは御自分で七八人かもっといたかもしれないと仰しゃったではございませんか、現に見たお父さまが仰しゃるのですもの、本当は二三十人いるかもしれませんわ、いいえきっと二三十人はいると思います、それなのに泰助さまは兄として安閑とそうして茶を召上っていていいのですか」
 姉の千賀がはらはらして「津留さん」と云い、母親も「津留さん」と制止したが、この溌溂はつらつたる妹娘はいさい構わず、「それでもあなたには御兄弟の情がおありなのですか」
 こうきめつけて凄いような眼をした。すると泰助は悠然として、睫毛まつげ一本動かさないといった顔で、津留のほうを静かに見て答えた。
「――しかしですね、それは、ええ……それはつまり、泰三のことをですね、心配していらっしゃる、ということになるわけですか」
 津留はひっちゃぶいてやりたいというような眼をした。けれども相手には通じはしなかった、泰助は依然として静ウかな調子で云った。
「――もしもそうならばですね、それはむしろ私は反対だと思うんです」
「反対とはなにがですの、どこのなにが反対だと仰しゃるんですか」
「――つまりです、つまり私はですね、寧ろ相手の人たち、その決闘の相手の人たちのほうがずっと心配だと私は思うんです」
「では泰三さまは負けないと仰しゃるんですか」
「――泰三がですか、ええもちろんです、それで江戸でもみんな手を焼いたんですが……しかしですね、殿さまから厳しいお叱りを受けて来たんですから、まあこんどは、……こんどくらいはですね、あまりひどい事はやらないだろうと思うんです」
 右衛門はまたしても喰べかけの茶碗と箸を置いて、「それは本当か、その泰三が強いということは」と泰助のほうを見た、「――七八人も相手にして、本当に彼は負けないというのか」
「えええそれはです」
 泰助がそう云いかけたとき玄関のほうにどたんばたんがたぴしという物音が起こり、その物音がつぎつぎに物音を呼び起こしつつこちらへ近づいて来た。玄関の障子が倒れ、ついで杉戸が外れ、襖が破れ廊下の障子が破れといったぐあいであって、とりもなおさず、泰三が進行して来る状態を証明するものであった。
「やあ、どうも、どうも失礼」
 泰三が襖を一尺ばかりあけて、そこから顔を出して、にこにこと眼尻を下げて笑って、ひょいとおじぎをして、「ちょっと人に招待されたものですから、食事はもう頂きませんからどうぞ片づけて下さい、それをお断わりしようと思いまして」
「待て泰三、け、決闘はどうした」
「残念なことに仲裁がはいっちゃったんです、その仲裁人に招かれたんで、口惜しいけれどもあのおけら共と仲直りをするわけなんです、今日は二つも喧嘩の口があったのに、二つとも中途半端になっちゃって、いやなんでもありません、私は喧嘩なんか、決して私は、ではいって来ますから、どうぞひとつ皆さんはお先へ」
 そして勢いよく襖を閉め、その反動で一方の襖を二尺もすべらせ、それから再び例の狼藉ろうぜきたる物音を立てながらその物音といっしょにとびだしていった。……四人はしばらくは身動きもしなかった。そしてやがて、姉の千賀がほっと太息といきをついて恍惚うっとりとしたように泰助を眺め、それから母のほうへ振返って、胸の中からなにかあふれてでも来るようにささやいた。
「――ほんとうになんという違いようでしょうねえお母さま、御兄弟でいながら……こんなにお兄さまはお静かでおちついていらっしゃる、ほんとうになんという違いでしょう」
「ええなんという、なんという」津留はからだをくねくねとくねらかして、姉の声をそっくりまねて云った、「――ほんになんというお静かな、石のような、木像のような、ええへへへ」
 山羊やぎのような声で笑って、すばやくそこから逃げだしていった。

三の二


 泰三は勘定奉行所の仕切方という役目に就いた。今でいうと支出係に当るものらしい。十月初旬に仰せ付けられたのであるが、初めて登城した日は多忙であった。まず勘定奉行の元田東兵衛から、以下役所の関係筋へ挨拶まわり、およそ十二三人に会ったろう。そのたびごとに机に蹴つまずき、湯沸しをひっくり返し、対立ついたてを押し倒し、襖障子を破り、また机に蹴つまずきといったぐあいで、どこへいっても「わっ」とか「あ大変」とか「ひやっ」などという奇声をあげさせた。
 仕切方というのは奉行所の中でも人数が少ない、八じょうばかりの役部屋の三方は戸納で、そこにはぎっしり書類が詰っている。同僚は三人であるが、三月と九月が決算期で、そのときは十五六人になるそうである。支配は大仲甚太夫という老人で、一日じゅうのどでうるるんうるるんといったふうな、こっちの喉がかゆくなるような音をさせていた。……ほかの二人は、泰三に云わせれば「昼間のみみずく」であって、決してそれ以外のなにものでもないそうである。……初登城の日、退出してから祝宴に招かれた。招待者は野村吉太郎ら五名の若侍で、なかに白井九郎兵衛とか大仲久馬などという者がいた。
 なぜかれらに招待されたかというと、かの本多孫九郎らと喧嘩をした日、泰三は満信城代の家の門前でこの野村吉太郎ら五人とも喧嘩をし、吉太郎と殴りあいをしたうえ和睦したという関係があったのである。……で、その日の招待となったのだが、場所は新柳町という処の「柳亭」という小さな料理茶屋であった。泰三は下城してそこへいって、通された座敷を眺めまわすと、
 ――この連中はあまり金はねえな。
 こう思って腹の中で舌打ちをした。これに比べるとあの晩、本多孫九郎たちと仲直りをしたときは豪華版であった。もっとも仲裁にはいったのが井上角兵衛といって、作事奉行所の支配だったからだろう。和泉橋の脇にある観水楼とかいう二階造りの料亭で、芸妓も十人ばかり来て、じゃんじゃか騒いだ。
「むさくるしい処で失礼ですが、まずこれへお坐り下さい」
 大仲久馬がいそいで彼を上座へ据えた。やっぱり自分たちもむさくるしいことは知っているらしい。みんなが席に着くと、野村吉太郎が改まった姿勢で自分と四人を紹介した。それによると大仲久馬はなんと、彼の上役大仲甚太夫の二男であった。そこで泰三はすぐさま、「あの人が喉で妙な音をさせるのはなんですか、たんが絡んでるようでもないしせきをするんでもないようだし、あれはなんですか」
 久馬は急に顔を赤らめ、かなりいきごんだ調子で、自分はそんなことは知らない、これまでついぞ聞いたことも見たこともないと答え、しかもそれを断言した。……これはあとでわかったことなのだが、甚太夫の「うるるん」は人まねであった。勘定奉行の新郷治兵衛がそれをやる、そしてそれをやるときには或る程度まで威厳が出るので、甚太夫はそれを――まねていると云って悪ければ――それにあやかっているらしく、またそのことはかなり広範囲に知られているため、久馬が赤面し且つ否定の断言をしたらしいのであった。
 酒が始まるとまず喧嘩の話が出た。
「ともかく驚きました」吉太郎がそう口を切った、「――こちらは貴方に話しかけた、まえからいちどお話をうかがいたいと思っていたところ、御城代のお邸の門前でばったり会ったでしょう、これはいい機会だと思って声をかけたわけです、ところが貴方はいきなりこの野郎ふざけたまねをするなと喚きだしたんですからね」
「側にいた私たちも吃驚びっくりしました」白井九郎兵衛が云った、「――あれあれと見ているまにふざけたまねとはなんですか、くそウくらえ、なにがくそだ、うるせえ、無礼者、ええ面倒だということで殴りあいになったんだが、私は三つ四つ殴られましたけれども、なにしろわけがわからないんで」
「あのときはこうなんだ」泰三は説明した、「――あのすぐまえに別の連中と喧嘩をやってね、すぐ引返して来るから待っていろと云って、用達しをするために走って来た、そこを呼び止められたんで、その連中が追っかけて来たもんだと思ったんだよ、おかげでそいつらが待っていることを忘れちまって、夜になって家へねじ込まれて恥をかいちゃった」
「その連中というのは誰ですか」
「頬ぺたかどっかに傷痕のある、そう本多孫九郎というのとほかに四五人」
「本多孫九郎ですって」
 吉太郎が大きな声をだし、かれらは互いに眼を見交わした。泰三はそんなことは気がつかないから、喧嘩のこと、井上角兵衛が仲裁にはいったこと、それから観水楼で盛大に仲直りの宴会をしたことなど、例のあけっ放しな調子ですっかり語った。
「かれらは先手を打った」吉太郎が仲間に向ってそう云った、「――われわれの先手を打って、典木氏を懐柔しようとしたんだ」
「なんだいそれは、あいつらになにか魂胆でもあるというのかい」
「その喧嘩はわざとこしらえたものなんです」白井九郎兵衛が云った、「――井上が仲裁に出ることも、仲直りの宴会も、初めからみんな計画されたことなんですよ」
「へえ、妙な趣向を凝らすもんだね、こっちじゃあみんなそんな手数をかけて人と知合になるのかい」
「そんなばかなことはありません、かれらは特に理由があってそうしたんです」
 野村吉太郎が沈んだような声で云った。それは自分の言葉に重みと実感を添えるためらしく、自然その表情や姿勢も厳としたものになった。
「その理由というのは、これは典木さんだから申上げるのですが、実に憎むべき汚職事件からきているのです」
おしょくッてなに者だい」
「汚職、つまり職務を汚す、汚職です、うちあけて申しますが藩政は紊乱びんらんし弛廃し、悪徳と不正で充満しています、貴方はおそらく、……典木さんが赴任して来られたのも、おそらくその点に秘密の使命があるのだと思いますが、いいえ隠さないで下さい、私共は知っているのです、そして貴方が必ず使命をはたされるだろうということも信じているのですから」
「おれにはなんだかわからねえが」泰三はやや酔いかけていた、「――政治だのなんだのごたごたした話はやめようじゃねえか、酒が不味まずくなっていけねえ、おウそこにいる青いの、おめえ一つ受けて呉んな、それにこう野郎ばっかり雁首がんくびを並べていてもつまらねえがどうだ、芸妓を四五人呼んでぱっとやらねえか」
「今夜はまじめな話があるんです、貴方は仮面をかぶっておられるようだが、私共は本気なのですから、藩家のためには一命をささげる覚悟でいるのですから、どうか胸襟きょうきんを開いて申上げることを聞いて頂きたいのです」
「そんなに云いてえんなら云うさ、おらあ勝手に飲みながら聞いてるよ」泰三は手酌で飲み、脇を向いて独り言を云った、「――こんなことなら来るんじゃあなかった、酒もさかなも不味いし、なっちゃねえや」

三の三


 世間の批評とか人の鑑識などというものは実に軽薄なものである。泰三が勤めだしてから二十日と経たないうちに、泰助の評判がめきめき善くなってきた。昼の蝋燭ろうそくだの石仏だのと嘲笑ちょうしょうした人々が、今では彼を認め、彼の人格を賞揚し始めさえした。
「やはりなんですな、同じ血筋といっても兄は兄、比べてみると格の違いというものは争えないものですな」
「沈着冷静、実にあの若さにしては珍しい老成ぶりです、能あるたかは爪を隠す、石仏などと云われても馬耳東風と聞きながしていたところなど、実にあの若さにしてはまれな風格と云うべきでしょう」
「私はあの人は禅学をやったと思うですな、それも曹洞の痛棒にたたきぬかれて、大悟の境を通過した人だと思うのですな」
 こんなような評が、城の内外でしきりにとり交わされた。
 だが云うまでもなく、この世評の変貌には由来するところの原因がある。それは泰三そのものであった、初め勘定奉行所の仕切方に勤めた彼は、十日めに納戸方へ転勤になり、そこから書院番、次に作事奉行書記と、三十日ばかりのあいだに四回も役目を転々した。……もちろん彼が希望したわけでもなし、また城代重臣が好んで命じたわけでもない。ゆくさきざきで、たちまちその支配役が手を挙げるのである、躰操をするのではなく降参するという意味で。
「どうかあの男をほかへやって下さい」
 こう悲鳴をあげて、その役所の奉行職とかまたは係りの重職に泣きつくのである。
「あの男は役所の中をめちゃくちゃにしてしまいます、襖も障子もめちゃめちゃ、畳はちりだらけ、茶をこぼす湯沸しをひっくり返す、筆を踏み折る机を蹴とばす、事務もなにも出来たものではありません、お願いです、私を助けると思ってあの男をほかへやって下さい」
「どうぞ来て見て下さい御老職」こう訴えて来る者もあった、「――お手間はとらせません、いらしってひと眼で宜しいから御覧下さい、私の役所がどんなありさまになっているか、……でなければ私を免職にして下さい」
 畢竟ひっきょうするに泰三は山治家におけるが如く、その進退動作を派手にやるわけであった。困ることには彼には藩主が付いている、山治家へ預けたのも長門守知宣の直命であるし、満信城代へも「特にをかけよ」という内達があった。だからこそ城代は初めに泰三を呼び、そこになんらか特別任務があるのではないかと聞いたわけである。……どうもしようがない、眼をつぶって他の役目に就かせる、そしてまた他の役目へ。
「泰助さまの評判がとてもよくなったそうですよ、お父さまが仰しゃってたけれど」
「その筈ですわ、だって本当にお立派ないい方なのですもの」
 姉の千賀と母親とが、そんなふうに話すのを、津留はしばしば口惜しい思いで聞いた。
「ひと頃あんなに悪く云ってた人たちが、まるで手の平を返すようにめるんですって、将来は典木家を再興して、元どおり江戸家老にお成りなさるだろうって、御重職のあいだにもそんなうわさがあるそうよ」
「人にそれだけの値打があれは、いつかはわからずにはいませんわ、あの方はそれだけの値打があるのですもの、それがようやく皆さまにわかってきただけですわ」
「どうしてだか云ってあげましょうか」
 津留がいまいましくなって憎らしそうにあごをつき出しながら云った。
「どうして泰助殿の評判がよくなったか、石仏氏がなぜ急に褒められだしたか、そのわけを云ってあげましょうか、へん、お母さまもお姉上さまもなんにも知らないで、いい気なものでございますわア」
「仰しゃいよ」珍しく姉がそう応じた、「――わたくしたちの知らないわけがあるのなら、いいから云ってごらんなさいな」
「それはね、泰三さんのおかげなのよ」
「あら、泰三さまがどうなすったの」
「泰三さんが勤めだして、せっかちで粗忽なことばかりやるから、それでお兄さんのほうが引立ってきたのよ、泰三さんが引立て役になったから泰助さんが幾らかましにみえてきただけよ、それだけのことよッ」
「へんな理屈ですわねえ」姉は自信満々らしくにっこりと微笑したくらいである、「――それは泰三さまがせっかちで粗忽だということにはなっても、泰助さまの御人柄がそのために認められたという証拠にはならないじゃありませんか、ねえお母さま」
「どうせでまかせですよ津留さんの云うことは、勝手に云わせておおきなさい」
「あたしの云うことがでまかせですって」
 津留は憤然と坐りなおした。胸のまん中が火のようになり、頭脳あたまがぐらぐら煮え立つように感じた。彼女はもう分別を失い、理性を逃がし、克己心のつなを切っていた。
「ようございます、それでは申しましょう、飾らずにはっきり申しましょう」津留は眼を据えて云った、「――泰三さんのせっかちや粗忽はあれはみんなわざとしていることなんです、お兄さんを引立てるために、わざとあんな粗忽なまねをしているんですのよ」
 母と姉とはあっけにとられて、二人とも大きな眼でまじまじとこちらを見た。津留は受難者のような顔をしていた、半ばつむった眼を上方へ向け、蒼澄あおずんだような頬をぴりぴりさせ、そして深い苦悩を訴えるかのように、「白い物を引立てるには黒い物がなければならない、泰三さまは自分から進んで黒い役をやっていらっしゃるんです、歯をくいしばって、お兄さまのために、わざと人に嘲笑され蔭口をきかれるんです、……誰もそこに気がつかない、同じ家にいるお母さまでさえ気がついてはいらっしゃらない、そして泰助さまの評判がよくなったことだけを喜んでいらっしゃる、……その裏に泰三さまの悲しい犠牲があることを知ろうともなさらないで……」
 津留の眼から涙がこぼれてきた。しめたものである。彼女は自分のその涙が、母と姉とに大きな感動を与えたのをたしかめ、なお沈痛な声音で次のように云った。
「お可哀そうな泰三さま、お可哀そうな……そして、お仕合せな泰助さま」
 母と姉はいつか眼を伏せていた。津留はうちひしがれたように溜息をつき、よわよわしく立って、廊下へ出るなりぺろっと舌を出した、そして自分の部屋へはいっていった。……舌を出した、などといえば判断がつくとおり、彼女の言葉はでたらめであった。口惜しまぎれに、母と姉の感傷癖を利用したまでのはなしである。口からでまかせに、それこそ舌の動くがままに弁じたてたのであるが……ところが、自分の部屋へ帰って、小机の前に坐ったとたん、津留はわれ知らずあっと声をあげた。
「――ああそうだ、……そうだわ」
 こうつぶやいて、こんどは眼をつむり、両手を膝に置いて、かなり長いこと沈思黙考という態であったが、やがてその眼から、――こんどは嘘いつわりなしの、――涙がぽろぽろと頬を伝わって落ちた。
「――それに違いないわ、慥かに、……自分では気がつかなかったけれど、心ではちゃんと感じていたのよ、だから自然と口に出たんだわ、自然と、……でなくって泰三さんがあんなにばかげたような粗忽をするわけがないじゃないの、……そうだったんだわ、今こそはっきりわかったわ」
 津留は衝動的に両手で顔をおおい、お可哀そうな泰三さん、と心のなかで呼びかけながら声を忍ばせてすすり泣くのであった。

三の四


 津留がこのように活眼でみぬいているにも拘らず、泰三は依然として自由濶達かったつにとびまわっていた。彼は城の中でも外でも、殆んど全藩中の人と知り合った。頻りとお台所へいって料理人と話しこむし、庭番と共同で菜園の堆肥つくりもやるし、足軽長屋のへいもなおすし、またどこかの子供にせがまれてどこかの邸の柿の木へ登って柿の実をしこたま採ってその邸の番人に追っかけられもした。
 このなかで特に親しくなったのは、本多孫九郎の仲間と野村吉太郎の仲間である。もちろん別々にではあるが、どちらも泰三には特殊な親密さを感じているらしく、道や城中の廊下ですれちがうときでも、「やあ――」などと云って、一種の表情でこちらを見る。そのときによって違うが、そしてことによると泰三のほうの状態に原因があるかしれないが、或るときはその表情は、
 ――どうですか、少しは融通しましょうか。
 などという意味に思える、そこで泰三としては早速そっちへ寄っていって、「ひとつ頼むよ、小遣が無くなってね」
 遠慮なしに徴発した。またときには、――どうです一杯やりませんか。という意味にみえるがもちろんこれもたいていは辞退しない。
「帰りにやろう、盛大なところを頼むぜ」
 だがこれは殆んど本多一党に限っていた。野村一派には「柳亭」で懲りている、かれらは無役であるか二男三男の輩で、うっかりするとこっちが徴発されそうだから、なるべく当り触りのないような態度をとった。かれらのほうでも決して誘惑的な表情などはしない、その代りというわけでもないだろうが、道でほかに人のいないとき会ったりすると、「さかんにやってますね、噂は聞いてますよ」
 などと云って妙な眼まぜをした。
「粗忽でひっきまわすとは妙案です、いまにごそっと」こう云うときは両手でなにかをすくうような身振りをする、「――ごそっと根こそぎ網にひっかかるでしょう、いや知ってます、そしてわれわれは早くその日の来るのを待っていますよ」
 泰三はいつもなにも云わずに、意味ありげに微笑したり、うなずいてみせたりした。こちらにはかれらの云うことがてんでわからない、そしてわからないという事実を説明しても、かれらはまるっきり承知しない、「隠してもだめです、私共はちゃんと知ってますよ」と云うのである。しようがないからそれに応じて、意をりょうしたようなまねをしているのであった。
 山治家においても城中にあっても、物をひっくり返したり蹴とばしたり、踏みこわしたり破いたりする点は連日連刻のことであった。いつか、――それは年来のことだったが、山治家で満信城代を茶に招待したことがある。それは右衛門がなんとかいう名物の茶器を手に入れたので、それを自慢したかったのらしい、ところが客が来て、さて茶席へ案内してみると、その自慢の名物がなくて、つまらないような通俗な器物がそろえてあった。
「どうしました、あれは」右衛門は次客をつとめていた妻女にこうきいた、「――先日求めたあれはどうしました、道具調べをしたときにはあったのだが」
 茶席であるから荒い言葉はつかえない、すべて閑寂静雅でなければならないから、静かにこう質問したわけであるが、妻女がみやびやかに答えたところによると、泰三さまがお毀しになったということであった。そのとき右衛門がもしかして立っていたら、おそらくはまた右足で畳を叩いたであろう。老人は顔面を赭土あかつち色にし、歯をくいしめたまま鄭重ていちょうに云った。
「ははあ、そういうわけか」
「はい、そういうわけでございます」
 右衛門は眼をいて妻をにらみ、口を信じられない程度までねじ曲げた。それからぐっと下腹部に力をいれ、自制心を総動員して、静かな声で云った。
「ではひとつ、あの釣瓶つるべの茶碗で、……いやよろしい、私がいって来る、自分でな」
 右衛門は客に会釈をして茶室を出た。茶室は渡り廊下で母屋に続いているが、その廊下のところに泰三が立っていた。たぶん自分が過失をしたので、どんな騒動になるものか容子をうかがっていたものだろう、……右衛門はそんなことは知らないから、彼の姿を見るなり愕然がくぜんとし、いや慄然りつぜんのほうかもしれないがともかく非常に吃驚して、思わず知らず叫びそうになった。
「私が取って来ます、私が」
 泰三はあいそ笑いをして云った。
「釣瓶の茶碗ですね、二階のあのため塗の文庫の中にあるんでしょう」
「まま、待て、待て泰三」
「すぐです、どうか坐っていて下さい」泰三は廊下を駆けだしながら、「――ちゃんと知ってるんですから、手間はかかりません、すぐ持って来ますから」
「待って呉れ泰三」右衛門もあとから走りだした、「――おれが取りにゆく、構わないで呉れ、頼む、どうかおまえは、……ええ待て、待てといったら待てこの野郎」
 とうとう喚きだした。なにしろ大の男が二人どたばた駆けたり喚いたりするので、茶室からは妻女が出て来るし、家人たちもいかなる異変出来しゅったいかと思い、おっ取り刀で、――女性たちは擂粉木すりこぎとかはさみとかほうきなどを持って、――集まって来た。
 右衛門はこれを見てさすがに駆けるのを中止した。
「いや騒ぐな、なんでもない」息をはずませながら、「――なんでもないんだ、騒ぐことは少しもないんだ、いいからさがっておれ」
 騒いだのは自分であるにも拘らず、彼はこう云って、おもむろに二階へあがろうとした。むろん泰三はとっくに上へあがっていた、今じぶんは文庫の中をひっ掻きまわしていることだろう。……こう思うと気が気でなかったが、みんなの眼があるので体面上できる限り沈着な動作で、階段のほうへと近づいていった。が、近づいたとたん、彼は「あ」と云って両手を前方へ突き出し、「たた、た」と云いながら後方へとびさった。
 たたたと云ったのは泰三に対する呼びかけであったか、それとも「大変」と叫ぶつもりであったか。ともかく右衛門がうしろへ退避するのと同時に、どしんだだだがらがらッというもの凄い音響が起こり、階段の上方から人間となにかの箱とがごっちゃになって、雪崩なだれのように下方へと転げ落ちて来た。
 この場面がどうなったかということは、これはもう紹介する必要はないだろう、それで四半刻ばかり時間をとばすことにするが。……それから四半刻ほど経って、泰三は自分の部屋で裸になって、躯の要所へ手当てをして貰っていた。手当てをしているのは津留である、彼女はぼっとなまめかしく上気していた。それはその作業のために血行がよくなったのかもしれないが、或いはまた若い男性の裸の肉躰、――それは筋骨の秀でたたくましい、健康と精力に満ち溢れたものであったが、――に手を触れ、創薬を擦り込んだり膏薬こうやくったりするので、或る種の情緒的気分になったからであるかもわからない。
「わたくし知っていますわ」津留は彼の腰骨の上へ膏薬を貼りながら云った、「――あなたがどうしてこんな粗忽なまねをなさるか、わたくしだけはちゃんと知っていましてよ」
「――貴女がですか、……貴女が」
「知っていますの、わたくしだけは」彼女の声は鼻が詰ったようになった、「――そして、いつも泰三さまのために、独りでそっと、そっと泣いていますのよ」
 泰三は暫く黙っていた。眼を半眼にし唇をきっとむすんで、……それからやがて溜息をつき、低い声で述懐するもののように云った。
「――私のために泣いて呉れる人がいる……それだけで充分です、それだけで、……ほかの者が笑おうと馬鹿にしようと、そんなことは私には痛くもかゆくもありません、一人でも自分を理解して呉れる者があれば、それで私は満足です、……本当に満足です」
「もう仰しゃらないで、泰三さま」津留はこう云って、衝動的に相手の腕へすがり、「――津留がよく知っています、津留があなたの味方です、いいえ、津留は一生あなたのお側にいて、一生あなたをお守り致しますわ、一生、わたくし泰三さまの……」
 あとは云えなかった。云えない代償に津留は彼の胸に泣きながらもたれかかった。泰三は憮然ぶぜんとして、そして途方にくれていた。

四の一


 その年の十二月の初旬に典木泰助と山治家の長女とが結婚した。式は極めて盛大豪華なものであったが、泰三はその式にはまったく関係しなかった。二人兄弟の兄の結婚式に、唯一人の弟が列席しないというのは、愛情のうえからも義埋のうえからも穏当でない。こう思うむきもあるかしれない、が、これは山治右衛門の計略であって、泰三にはいささかも責任はなかったのである。泰三はそのときは勘定奉行所の検計係に勤めていた。初め同じ役所の仕切方へ勤めてから、それが七回めの転勤である。そしてこんどは当分はそこにおちつくだろうと思われるのは、「計理部」というのは彼のために新設された部署であって、その部には彼一人しかいないし、したがって――従来しばしば記した理由によって――彼のためにべっして迷惑をする者もなく、しぜん転勤を懇請する人間もないからである。また検計係なる役所はなにをするかというに、なにかしらむやみに古い帳簿の、すでに「済」という印のしてあるものを、もういちど計算し直すというのが役割であった。
 ――これはかなり重要な仕事であるからして、慎重丹念、時間をかけてゆっくりやって貰いたい。
 勘定奉行はこう云ったので、泰三としては少なからず張切った。しかし二十三年も昔の「御領内料材払下仕切帳」などというものを独りぱちぱち算盤そろばんではじいていたりすると、なんとなくばかにされているような気持になることもあった。そんなときは気分転換のため、どこか他の役所へでかけて、
 ――なにかいそぎの事務はないかね。
 ――いそがしかったら手伝おうかね。
 などと云って時間つぶしをした。これをつづめていえば、「検計係」なるものは泰三を拘束するためであって、古帳簿の検算などは単にみせかけに過ぎない、ということがおわかりであろうと思う。……だが俗に人をのろわば穴二つということも、この際ちょっと記憶にとどめておいて頂きたいのである。
 さて泰助と千賀との結婚式の当日、泰三はかなり多数の帳簿を与えられたうえ、「今夜は城に泊って、出来るだけ多く、片づけられるだけ多く片づけて貰いたい」
 こう依嘱されたのである。これは山治右衛門の計略であり、それによって勘定奉行が動いたわけであるが、もちろん泰三は知らない。彼としては私情のために公務を怠るようなことはできないだろう。云われるとおり城中にこもって熱心にその事務に精励した。
 かくて山治家の豪華な式は無事に済んだ。
 泰三が列席したとしたらそうはゆくまい、にぎわしさは増大したであろうが、各種の損失出費もそれに正比例した筈である。但し、その式が徹頭徹尾「無事」だったとは断言はできない、なぜかなら、その式の進行ちゅうに、局面を新しく展開する二つの芽が発生し、二つとも相当な力と速度で成長し始めたからである。
「あんまりだわ、あんまりひどいわ」
 その芽の一つはこういう泣き声で始まった。とりもなおさず山治家の津留の叫びである、彼女は泰三を城中に拘束したことで父を非難し、知っていてその計画に反対しなかったことで母と姉と泰助とを非難した。
「たった一人きりのお兄さまの結婚式なのに、ごまかしてまで除け者にするなんて、お父さまもお父さまだけれど、お母さまだってお姉さまだってあんまり薄情だわ、泰助さんなんか石仏どころじゃない、涙も情愛もない唯の石ころだわ」
「お黙りなさい津留さん、言葉が過ぎますよ」
 母親もついには怒り声をあげた。
「それもこれも泰三さん御自身の責任です、考えてもごらんなさい、祝言の式にいろいろと大事な飾り道具や高価な器物がたくさん並び、お客さまも三十幾人かいらっしゃるのですよ、もし泰三さんがいてごらんなさい、そのお道具や器物は毀されてしまうし、お客さまに対しては恥をかくし、なにもかもめちゃくちゃになってしまうじゃありませんか」
「そんなことはありませんわ」津留は涙をぽろぽろこぼしながら叫んだ、「泰三さんの粗忽はお兄さまをひきたてるための作り粗忽なんですもの、御祝言の席でそんなことをなさる筈は絶対にありませんわ、ええ絶対に」
「それは津留さんがそう思うだけですわ、津留さんお一人が」と姉は化粧した美しい顔を鏡に写して見ながら、おちつきはらって、やさしい声音でそう云った、「――作り粗忽だなんて、どこにも証拠はないじゃございませんの、わたくしどうしたって信じられませんわ」
「信じられませんわ、信じられませんわア」涙をこぼしながら津留は姉の口まねをした。
「信じられなければ信じなくともよくってよ、泰三さんの粗忽がもしか本物だったにしろ、二人っきりの御兄弟じゃありませんか、御祝言といえば一生に一度、なにもそんなにけちけちしないで毀せるったけ毀さしてあげたらいいじゃないの、まさか天地まで粉々にするわけでもないでしょ、えへん」
「お望みなら津留さんのときにさせておあげになればいいわ、ねえお母さま」
「ええそうするわ、もちろんよ」津留は昂然と宣言した、「――わたくしたちのお式のときには思う存分そうさせてさしあげるわ」
「そのときはどうぞわたくしたちを招かないで下さいましね」
「こっちで御免をこうむります、わたくしたち二人っきりよ、二人っきりで誰に遠慮も気兼ねもなくやるわよ、どうぞ御心配なく」
「あら妙ですこと」姉はそのときは皮肉に切って返した、「二人っきりって、それでは、花婿さまはどうなさるの、あの方と津留さんとお婿さまぬきでお式をなさるの」
「わたくしは良人おっとは一人しか持ちません、わたくしとおさかずきをする方がわたくしの良人ですわ」
「まあ津留さん」母が仰天して云った、「――なんですそんな乱暴な、ほかの事とは違いますよ、女にとって一生の大事を、そんな冗談ごとにするひとがありますか」
「わたくし冗談になんか申しません、本当にそうだからそうだと申すんですわ」
「なんですって、まあ、なんですって」
「わたくし泰三さまの妻になります」
 彼女はこんどは決然と第二の宣言をした。
「泰三さまの苦しい悲しいお気持を知っているのはわたくしだけです、父さまも、母さまも、ほかの誰も理解しようとはなさらない、あの方をわかってあげ、あの方の味方になってあげられるのはわたくし一人です、あの方の妻になってあげられるのもわたくしだけですわ、ええ、わたくしはっきり申します、津留は泰三さまと結婚いたします」
 そして気絶でもしたような母と姉をしり眼に、颯爽さっそうと、――だが涙で白粉のすっかりまだらになった顔のまま――その部屋から出ていった。

四の二


 山治家で津留が大いに気を吐いていたとき、城中では泰三が興味津々たる叫びをあげていた。彼は周囲に古帳簿をちらかし、机の上になにやら細密に数字を書き列ねた長い巻紙をひろげ、それと帳簿と照合したり分類したりしながら、「ははは、いやどうも、や、これはこれは、ふーん、いやどうも、や、こいつはどうも」
 独りでこんなことを叫び、なにやら書き込み、片方の帳簿と片方の帳簿をつきあわせ、朱で記号を入れ、それからまた「ははは」などと笑い、やがては手拭を出して鉢巻をして、殆んど夢中で、さも面白くて堪らないというようすで、――夜の明けるまでその仕事に没頭した。そしてこれが、発生した「芽」の他の一つだったわけである。
 泰三は三日のあいだ家へ帰らなかった。四日めの朝、まだ暗いうちに帰った彼は、裏の通用口から台所へとびこんで、「すぐなにか食わして呉れ」と、そこの板間へ坐りこんだ、「いいんだよ冷飯で結構だ、湯をぶっかけて食うから味噌と沢庵でも出して呉れ」
 どうしても動きそうもないし、女中たちも彼には親密な感情をもっていたので、云われるとおりに茶漬の支度をした。
 この騒ぎに気がついたのは津留であった。彼女はいつも早起きで、家族のなかではいちばん先に起きる。そして風呂舎で冷水摩擦をするのが、もう四五年まえからの日課であった。彼女の説によると、それが健康と美を保つ唯一の秘法だそうで、ひと頃は姉や母親なども強制的にやらされたが、冬季の寒さなどは辛抱するとして、手順が面倒くさいのと、相当以上に羞恥しゅうち的であるために、両者とも断乎だんことして拒絶した。それというのが、津留のやりかたは一般に行われている方法のほかに両手首と両足首、そして身躰前面の微妙な部分に対する灌水かんすいと、骨盤部周辺の入念なる摩擦という技法が加わるのである。それにはかなり大胆な放恣ほうしな姿勢をとらなければならないし、或る姿勢などは、……ここでは描写することを避けるが、母親が驚きと羞恥のために眼をつむって全身を赤くして、
 ――やめてやめてやめて、いやいやいや。
 と叫びだしたくらいであった。
 もちろんこれは物語とは関係のないことで、つまりその朝も彼女は「健康と美のため」の日課をやったのだが、終って風呂舎を出たとき、台所がたいそう賑やかなのを聞きつけ、なにごとかと思ってのぞいて見たのであった。彼女がなにを発見したかは云うまでもあるまい。ひと眼その光景を見るなり、さすがの津留が「まあ」と叫び声をあげた。
「やあお早う」泰三はこっちを見て、皿を一つはねとばしながら手を挙げた、「腹が減ったもんでね、やってるところです、貴女もよかったらどうです、朝の茶漬というのも乙なものですよ」
 台所にいた召使たちはみな立竦たちすくんで、息をのんだ。この令嬢は怒ると容赦がない、がんがんがんと、それこそ父の右衛門以上に荒れるのである。どうなることか、今にも雷が鳴りだすか、こう思っていると、津留はすばやくあたりへ眼を走らせ、「そうね、ではお相伴いたしますわ、まつやわたくしのも支度して頂戴」
 そして泰三の側へ坐った。それからのことは書かないほうがよかろう。彼女は喰べ終って台所を出るときさも満足そうに泰三を見て、「朝の茶漬ってほんとに乙ですわね」こう云って、それから低い声で、「――ねえ泰三さま、これから内証で毎朝頂きましょうよ」
「いやそれがだめなんです、また暫くお城へ泊り込まなくちゃなりません」彼は自分の部屋のほうへ曲りながら云った、「今は疲れ休めに帰ったんですが、明日から当分は帰れなくなるんです、あ、あの祝言は無事に済みましたか」
「ええ済みましたわ、そのことでわたくしお話があるんですけれど」
「とんでもない、この眼を見て下さい」彼は充血した自分の眼を、津留に指さして見せた、「――このとおり、眠くって眠くって、ぶっ倒れそうなんですから」
「ではお支度を致しますわ」
 津留はいっしょに泰三の部屋へいった。そうして夜具をのべ、着替えをさせながら、結婚の晩に母や姉とやり合った問答の始終を語った。だが泰三はまったくうわのそらで、うんうんとなま返辞をし、欠伸あくびをし寝衣ねまきになるとすぐさま夜具の中へもぐり込んでしまった。これではらちがあかない、津留は決心をして自分の意志を明白に通告した。
「そういうわけで、わたくしあなたと結婚することに致しましたの、ようございますわね、泰三さま」
「ああ結構、いいですとも」泰三は欠伸をしながら手を振った、「どうも有難う、おじさんには起きてから挨拶にゆきますから、では」
 そして掛け夜具を頭からひっかぶった。津留はほっと太息をつき、かなり得意そうでもあり相当に複雑な微笑をうかべ、静かに立ってその部屋を出た。と、ちょうど津留が廊下を曲ったと思えるとき泰三はがばと夜具を蹴ってとび起き、「えっ」と異様な声をあげた。
「な、なんですって、結婚……」
 それから周囲を眺めまわし、首をひねり、ちょっと考えてから、左のように呟いて、どたっとまた横になった。
「なんだ、夢か、びっくりさせやがる」

四の三


 泰三の古帳簿検算は熱烈なるものとなった。彼は殆んど城に詰めっきりで、殆んど夜と昼の区別なしに恪勤かっきん精励した。それは熱烈というより狂熱的であり、煩瑣はんさ論的にさえなった。なぜかというと、彼は絶えず帳簿の出し入れを間違える、検算済みだといって返したのを「あれは未済だったから」と取りに来る。また甲の役所のそれと乙の役所のそれを間違えて返し、それを四五日も経ってから思いだして、慌てて両者を返し替えたり、返し替えてみたら間違えたと思ったのが間違いでまた元のように返し替えたり、甲乙丙丁戊それぞれがどれをどこへ戻したかわからなくなって、とんでもない帳簿がとんでもない役所へ紛れ込んだりした。
「私にはもうなにがなんだかわからない、あの男の顔を見ると寒気がして眼がくらんで、なにか乱暴な事がしたいような気持になる」
 各役所の帳簿係はついにこう音をあげた。
「もう御免だ、おれは任せた」或る帳簿係はそう白状した、「――これでは気がおかしくなってしまう、おれは関係しない、たかが古帳簿、出したければ出すがいいし返したければ返すがいい、おれはあの男にすっかり任せることにした」
「なるほど、ふむ、なるほど」他の帳簿係もこう頷き合った、「――たかが古帳簿」
 泰三の活躍はこうして漸次自由になっていった。
 だが、これはいったいいかなるわけであるか、なんのために彼はそれほど熱狂するのであるか、そこは誰にも理解がつかなかった。例の不当利得者の一派も、かの野村吉太郎ら正義派の連中も、それぞれの立場から、泰三のする事をば満足して眺めていた。前者はうまく彼を閑職に追込んだと思い、後者は彼がいよいよ不正摘発にとりかかったものと信じた。
 年が明けて一月、二月、三月には藩主が帰国した。
 長門守知宣の帰国を誰よりも熱心に待っていたのは、城代の満信文左衛門と山治右衛門の二人であろう。帰国祝いの式が済むと、二人は、早速のところ人払いの謁見えっけんを願い出た。……知宣はそのとき三十八歳で、藩譜によると列代のうち第一の美男だったという、酒も強いし、もう一つの方面でもかなりな精力家らしく、伝記には華やかな逸話が幾例かある。が、ここではそれに触れる必要も余白もない、単直に三者会談を紹介するわけであるが、満信と山治との質問は、ひと口に云うと、「泰三を赴任させた真意はどこにあるか」ということであった。
「それをきかれると少し困るのだが」
 知宣はちょっと迷惑なようであった。
「少なからず困るのだが、しかし云わぬわけにもまいるまい」こう云って、やや反省的な眼つきになられた、「――二人とも典木兄弟の父の出来事を知っているな、うん、斎宮が光泉院(故長門守知幸)様の侍女を殴り、御手許金二千両を着服し、そして切腹したあの出来事だ」
 古い話が出たので、こちらの両老職はまぶしいような顔をした。知宣はさらに反省の調子を強め、「泰三をこちらへよこしたのは、実は、彼が斎宮と同じような立場になりそうだったからだ」そこで言葉はかなり沈痛になった、「――光泉院様のことを申すのは忍びないけれども、斎宮の着服した金二千両は、事実は寵愛ちょうあいの侍女の費消したものであり、またその侍女はいろいろの点で光泉院様を、……なんと申したらよいか、その、……俗にいうところの、つまり瞞著まんちゃくしておったというわけで、斎宮はかなり手を尽したらしいが、ついにあのような方法で事態を収拾したという」
 満信も山治も「それは意外な」という表情をしたが、ごく形式的であったところをみると、その事情はおよそ知っていたものであろう。知宣はそんな邪推はしない、幾らか告白の快感をさえ味わうかのように、「これは自分が光泉院様のお口から聞いたことで、典木の家名は必ず立ててやるようにという御遺言もあった、しかるところ、……計らずもというべきか、……またまたここに、泰三が斎宮と同じような事をやりそうな情勢が生じたわけであって、そこのところは推察に任せたいと思うが」
「と仰せられますると、要するに殿が、光泉院様の如く、その」
「推察せよと申すのにたしかめることはない、但し自分は瞞著はされなかった」知宣はそう念を押した、「――その他の面ではかなり似ておったが、瞞著だけはされなかった、自分はそこまでお人好しではない」
「そう致しますと」城代が反問した、「――彼を当地へお遣わしなされました理由は、それだけなのでございますか」
「それだけだ、ほかに仔細しさいはない」
 こう云いかけて、知宣はふと思いだしたように、両人の顔色に注意しながら云った。
「だがこの二月の初めであったか、殿は非常な金満家である、これからはどんなに散財しても差支えない、という手紙をよこしたが、……ああいかん、これは泰三が発表するまで内密であった、しまった」殿は自分に対して舌打ちをなされた、「――そういえば帰国以来まだ彼の顔を見ないようだが、彼は今どうしておるのか」
「そのことでございますが、実は泰三めの粗忽にはみな非常に迷惑致しまして」右衛門がこう答弁した、「――去る年末よりごく害のない仕事を宛がいましたところ、どこに興味をもちましたものか、今日に到るまで存外の熱中ぶりにて、日夜強行、いまだその無害なるところの仕事に没頭しておるありさまでございます」
「ふむ、無害な仕事、……無害な」
 殿はこう呟いて首をひねられた。こちらでは満信城代と右衛門が眼を見交わし、けげんな顔つきでこう囁いていた。
「殿が金満家であられると、金満家で」
「わけがわからん、金満家とはなんであろうか」
 三者会談はこのようにして終った。
 それからつい数日して、殆んど半月も城に詰めっきりの泰三が、いきなり知宣に面謁を求めた。そのとき知宣は菩提山という処まで遠乗りをして、ちょうど帰ってこられたところであった。菩提山は桜の名所で、またくずの根で拵えた、「万力餅」という菓子も名物として知られているが、ここには関係がないだろう、……殿はもちろんすぐに泰三とお会いなされた。泰三は無精髭ぶしょうひげを生やし、むくんだような顔で、赤く充血した眼をしていたが、しかし元気は満々たるものらしい、挨拶が済むのを待ちきれぬように、まず知宣から問いかけた。大名となっても金に関する限りは、そこは凡夫と大差がないものとみえる。
「そうですとも、殿は金満家です」泰三は印判を捺すように答えた、「――それについては明後日、御前会議を開いて申上げますから、これに書いてある者、……全部で四十三人になりますが、これらの者をお召しになって下さい、そのとき詳しく御説明を致します」

四の四


 余白の関係上、ここですぐさま御前会議に移ることにするが、その召集人員は殆んど全重職と現役退役を通じて、各奉行所の事務主任と主事などに及ぶもので、例の金吾六平太一派や、その弾劾者である野村吉太郎一派も加わっていた。このなかで、野村一派は生色に溢れてみえた。かれらは肩肱を張り、眼を光らせて不当利得派をねめまわし、それから互いに頷き、こう囁き合っていた。「いよいよ時節到来だぞ」「さよう典木はやはり正義の士だった」「大集会の席で摘発とはさすがではないか」「金吾一派を見ろ、もうすぐ青菜に塩だぞ」「これは一世一代のみものになる、面白し面白し」
 このあいだに泰三の準備が出来た。彼は御前の中央に坐り、左右に帳簿の山を置き、なにか書いた大きな紙、――生紙きがみを六尺四方に貼りつないだらしい、――を披いて、まず藩主に低頭、それから老職席に会釈をして、殿の許可を得てこれより藩財政の忠誠なる業績を披露すると口を切った。
「これは殿が御日常の経費について、ずいぶん御不自由であられるらしきこと、その証拠として常に、余は貧乏だ貧乏だと嘆いておられること」(ここで殿にはえへんと咳をなされた)「そのためときに御領主としてふさわしからぬ御行跡のあること、以上の理由よりして財政の実情と、重職ならびにその担任者の苦衷、これらを記録にしたがって披露するしだいであります」
「殿は現在のところ、現銀にして約二十一万七千六百三十五両余を、お持ちになっておる勘定でございます」泰三はこう続けた、「――これは七年前までの数字でありまして、その後さらに増加しておることは申すまでもございません、さてその内容でありますが」
「典木は発狂でも致したか」
 満信城代が仰天してこう叫んだ。
「さような巨額な金はいま当藩を逆さに振っても出はせぬ、仮にも御前で根もないことを申上げ」
「いや待って下さい」泰三はにこにこと城代の言葉をさえぎった、「――御城代の誠忠はわかります、金の有ることが知れると、人間はとかくばかなまねをするものです、だから今日まで巧みに隠しておられたのでしょうが」
「ば、ばかな、ばかなことを申すな」
「いや証拠があるんです」彼は自若として答えた、「――御存じのように私は古帳簿の検算を命ぜられました、それでわかったのですが、実にその記帳の巧妙さというものは……例えばこれをごらん下さい」
 泰三は例の六尺四方ほどの、系図書きのようなものを示した。
「これは今から二十年まえの九月の仕切ですが、この全収納額の内、二千八百三十二両余というものが繰越になっている、いいですか、それがですね、年度仕切の三月になると、きれいに帳簿から消えているんです、むろんその内訳はちゃんと出来ています。何某奉行所の緊急予算として何百何十両、何某奉行所へ臨時予算として何百何十両、何某奉行所へはこれこれ、……そしてその各役所の帳簿をみるとですね、その緊急予算や臨時予算の金は、その役所では決して使われないのです、こちらの金はあちらへ、あちらの金はそちらへというぐあいに、むやみとぐるぐる廻し合って次年度の九月の仕切になるとまったく収支面から消えてしまうのです、これは一見不正と思えるでしょう、私も初めは不正であると思いました、ところがです」
 泰三は舌に湿りをくれ、かたわらの古帳簿を取って披きそれを前方へ押し出しながら云った。
「ところがさに非ず、これがみな納戸奉行の別会計にはいって、特別御用金に宛てられているのです、その中から公用として、使途の明白でない金も相当に出ています。が、そんなものはどうでもよろしい、この特別御用金の計上額を合算すると、さきに申上げた二十一万七千六百幾らという数になるので、……その責任者は代々の納戸奉行と、各奉行役所の主任主事ということになっているのです、つまり、殿のお手許へ呈出しました名簿、今日この席へ出ました四十三名が、それだけの金額に対する責任者であります、中には死去した者もおりますが、それはその子が責任を継承するわけでしょう、例えば十四年前の納戸奉行は野村吉兵衛で、これはそこにいる吉太郎が引受ける、また橋本三左衛門はその子の三郎兵衛が……」
 列席する人々のうち曽てその職に在った者、または心に覚えのある者は、――現在の不当利得者はもちろん、――野村吉太郎一派の清直廉潔派までが、いちように色をうしない声をのんだ。泰三は記録と帳簿の事実によって、老臣たちが藩主の財産をひそかに蓄積した苦心、その巧みにして緻密ちみつな努力を率直に褒めたたえ、
「なお私の検算したもの以後、今日までの金額を合計すればいかなる数字が表われますことか、しかも責任者はみな揃っているのですから、殿には御入用に関する限り今後は絶対に御不自由はこれなしと申上げることができます。但し、かかる家臣の努力と苦心についてはお忘れなきよう、僭越せんえつながら念のため言上つかまつります」
 そして、不審の点があったら、詳しく帳簿を当ってみて貰いたいと云い、静かに座を下って平伏した。

四の五


 泰三の投じた一石によって、どんな騒ぎが起こったかは読者の御想像に任せるとしよう。ただ表面に現われた変化は、納戸奉行の金吾六平太とその一派が退職し、それらに代ってまったく新たな系統の人物が抜擢されたこと。満信城代が「老年任に耐えず」と云って引責辞職し、典木泰助が城代に就任したこと、以上の事は記して置きたいと思う。
「あいつを甘い粗忽者だと思ったのはたいへんな間違いだった」金吾一派はこう云っていた、「――まんまと裏を掻かれた」
やぶを突ついて蛇を出した」野村とその同志たちはこう云った、「――われわれの味方だと思ったのに、とんでもない逆手を食った」
 泰三の検算による「特別御用金」の処理については、藩譜にも、はっきりした記述がない。おそらく長い年月のあいだに、そこは宜しく片づいたものであろうし、べっしてわれわれが心配すべき筋合でもないだろう。……この騒ぎがいちおう鎮静したのは五月のことであるが、その中旬の或る日、右衛門は泰三を呼んで、
「実は相談があるのだが」と、ひどくまじめに云いかけた、「――ざっくばらんに云ってしまうが、典木の家は立派に再興したことでもあるし、ひとつこの辺で、おまえにこの山治の家を継いで貰いたいのだが、どうだろう」
「私にですか、私にこの山治家を」
「つまり婿養子になって貰いたいわけだ」右衛門はここで渋いような顔をした、「――これはわしの意見というより、娘がそう望むので、どうしてもそうしたいとせがむので、まあ、やむを得ず相談するわけなんだが」
「それは困ります、それは困るんです」
 泰三もまじめに首を振った。
「なぜかというと、ばあいがばあいですから申上げますが、私には約束した者がありまして、どうもそれを反故ほごにするというわけにはまいらないのです」
 彼がそう云いかけたとき、襖の向うでわっと女の泣く声が起こり、ばたばたと走り去る足音が聞えた。不躾ぶしつけにも立聞きをしていたらしい、右衛門の渋い顔は、そこでなごやかになり、温厚なおちついた微笑がうかんだ。
「いや結構、男らしくはっきりとよく云って呉れた、これで娘も納得したであろうし、わしもわしの妻もひと安心というものだ、いやかたじけなかった」
 右衛門としては「しめた、厄のがれだ」と叫びたかったろう、だがそれは胸にたたんで、きげんよくその縁談をうち切った。
 正確にいうとそれから三日めの早朝、まだほの暗い時刻であったが、泰三はまた台所へとび込んで来た。右衛門の話を聞いてからずっと、彼は夜になると考え事にふけった。昨夜などは殆んど一睡もしない。
 ――はてどうしたわけだろう、ここまで出ているんだが、……ふしぎだ、どうしても思いだせないというのはどうしたわけだろう。
 こんな独り言を云いながら、輾転てんてん反側、そのうち猛烈に腹が減ってきて、どうにも忍耐ができなくなり、ふと台所で物音がするのを聞くと、矢も盾も堪らずとび込んでいったのである。
「おいなにか食わして呉れ」
 彼はいきなりそうどなったが、ふと見ると、そこにはすでに津留が坐って、なんと茶漬を喰べているではないか。彼は「やあ」と声をあげ、彼女の前に坐って、さも愉快そうに手を擦り、さも秘密そうに、眼くばせをした。
「やってますね、はは、どうです、朝の茶漬は乙なもんでしょう、この味を知らない人間は哀れなもんですよ、おい、おれにも早くして呉れ、腹が減って眼がくらみそうなんだ」
 津留は喰べかけた茶碗と箸を持ったまま、じっと俯向うつむいて黙っていた。
「どうしたんです、今朝はひどく温和おとなしいがどこかぐあいでも悪いんですか」
「構わないで下さい」
 津留はこう叫んで眼をあげた。とたんにその眼から涙がこぼれ落ち、その顔がくしゃくしゃになった。
「あなたはわたくしなんぞ、わたくしなんぞ、あなたは」
 こう云いかけて、喉が詰ったものか、いきなり立って、ばたばたと台所から逃げだしていった。泰三はあっけにとられ、――正しく口をあけたまま、――茫然とそのうしろ姿を見送った。そして、なにか口の中でぶつぶつ呟いたが、やがて自分の前に膳が据えられ、箸と茶碗を持って、ざくざくと二た口ばかり掻込んだとたん、突如、ぷっと口の中の茶漬け飯を吹き出し、「あっ」と喚き、茶碗と箸を放り出し、自分の膳と津留の膳に蹴つまずき、がちゃんどたんぴしりだだだと、近来にない派手な物音を立てながら、「待って下さい、津留さん、待って下さい、云うことがあるんです、待って下さい」
 声いっぱいに喚き喚き、津留の部屋へとあとを追っていった。さて、……作者はここで、津留の部屋における、二人の会話を紹介して、この物語を終ろうと思う。
「私はねえ、貴女にぜひ私の妻になって貰いたかったんですよ」泰三はこう云っている、「ところがです、この家のおやじがですね、私にこの家の婿養子になれって云うんです、実にどうも利己的と云っていいかわる賢いと云っていいか、そこは貴女にもわかって貰えると思うんですが」
「どうして利己的なんですの、どうしてわる賢いんですの」津留は泣き泣きこう云っていた、「――わたくし朝の茶漬なんて、少しも乙だなんて思やしませんわ、でも、いつかの朝のことが忘れられず、あのときの思い出のために、あれから毎朝、独りで茶漬を喰べながら……そっと泣いていたんですわ」
 恋人のおもかげしのんで、お茶漬を喰べながら泣いていたという。これは愛の告白として実に哀切なるものではないか。しぜん泰三の言葉も熱を帯びてきたようだ。
「有難いです、いや嬉しいくらいです、貴女もそこまで私を思っていて下さる、とすれば、私が婿養子の話を断わった気持もわかって下さるでしょう」
「いいえわかりません、わかる道理がありませんわ」津留はなお泣きながら、「――いま仰しゃることが本当なら、婿養子をお断わりになるわけがないじゃございませんの」
「これは驚いた、これはどうも、いや待って下さい、いいですか、私は貴女と結婚したいんですよ貴女と、そのほかの誰とも絶対に御免です、絶対に、それを貴女はこの家の婿養子になれと云う」
「だって泰三さまが、もし、わたくしをお好きなら、そうして下さる筈ですわ」
「では貴女は私に二重結婚をしろというわけですか」
「わかってますわ」津留はますます甘く、そして悲しげに泣く、「――あなたは津留を嫌ってらっしゃるんです、泰三さまはわたくしがお嫌いなんです」
「待って下さい、泣かないで下さい、もういちど云いますがね、私は貴女とだけ結婚したいんです、いいですか、貴女のほかには絶対に、わかりますか、絶対に貴女のほかには……」
 廊下では右衛門が。――さっきの騒ぎで駆けつけたものだろう、――問答をそこまで聞いて首を振り、眉をしかめ、ふきげんな、おそろしく渋いような顔をして、絶望的に深い溜息をついて、そうして悄然しょうぜんと向うへ去っていった。





底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「労働文化」労働文化社
   1950(昭和25)年9月〜12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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