おもかげ

山本周五郎





 はやり病をやんで、母の亡くなったのは、正之助しょうのすけが七歳のとしの夏の末だった。母はすぐれて美しいひとだったが、漆のようにつやつやとした黒髪と、ながいまつげに包まれた大きな眼とに特徴があった。ことにその眼は、またたきをすると云いようのない美しいつやがあらわれ、いっそう顔がやさしくみえるので、正之助はたびたび「母さま、又またたきをしてみせて――」とねだったものである、母はいつも微笑しながら、云われるとおりしずかにぱちぱちとまたたきをしてみせて下すった。
 母が亡くなってから間もなく、父はおかみのお申しつけで江戸へ去った。それまで父はおくなんど係の取締りをしていたが、殿さまのおぼしめしでお側御用という重い役目にとりたてられ、江戸のお屋敷でお勤めをすることになったのである、「あちらへ行って落着いたら正之助も呼んであげるから――」そう云って父は、家来たちをつれて、秋のなかごろに江戸へおたちになった。
 父が去ると、にわかに家のなかが淋しくなった。広い屋敷の南は武家町につづいていたけれど、北がわとうしろは久松山の叢林で、夜更けなどには狐のくかなしげな声が聞えたりした。家族はお祖父じいさまと、秋代という叔母さまと、それから正之助の三人になっていた。家来たちも多くは父の供をして去ったので、弥兵衛という老家扶かふのほかに侍が二人、下男とはしためとで五人、それでぜんぶだった。それにお祖父さまは隠居をなすっていたので、たずねて来る客もすくなくいつも人ごえの絶えなかったにぎやかな屋敷のなかは、嵐のあとのようにひっそりしてしまい、いままで気づかなかったお祖父さまのせきのこえまでが、いくつもの部屋を越してはっきりと聞えるくらいだった。
 母の百ヶ日の忌があけた日、叔母さまは正之助を仏間へつれていって坐った。
「正之助さん、きょうでお母さまの忌もあけました、明日からまたあなたは学問や武芸のお稽古にお通いなさるのです。わたくしは、亡くなったお母さまから、あなたのことをよく頼まれました、きょうから叔母さまを母と思って下さい。お父さまもお留守ですし、お祖父さまはおからだがお弱いのですから、しっかり勉強なさらないと、世間の人に笑われて、お父さまや亡くなったお母さまの恥になります、ようございますか」
 叔母さまは仏壇の前でこうおっしゃった。叔母さまはそのとき二十歳だった。まる顔で、からだつきのふっくりと匂やかな、声の美しいひとだった。「秋代さまの声を聞いていると春が来たようで――」とよくみんなが云っていた。正之助がいたずらをして叱られると、いつもすぐに来ておびをして下すったし、「武士の子にはふさわしくない――」と云う父にないしょで、いろいろな玩具おもちゃを買って下すったこともある。どんなにあまえても、決してすげなくされることのない、やさしい叔母さまだった。けれども、そのとき仏壇の前にきちんと坐った叔母さまは、まるで人が違ったように思えた、言葉つきもきつかったし、正之助を見る眼もとにもなんとなく冷たい色があった。
「それから、これまでお稽古には多助に供をさせましたけれど、召使たちの手が足らなくなっていますから、これからはおひとりでおいでなさるのです」
「でもそれでは、ひら武士(身分の低い者)の子のようにみえますよ」
「あなたの心さえ正しく、しっかりとしていれば、他人にどうみえようと気にかけることはありません。さあ、もういちど仏壇へお香をおあげなさい」
 叔母さまのようすがあまり違うので、正之助はなんだか悲しいような気持になり、お香をあげながらふとお母さまのことを思いだした。
 それからいろいろな事が変った。それまでお祖父さまのおそばで寝ていたのを、べつに自分の部屋がきめられた。朝もずっとはやく、午前四時には起きなければならない、そして井戸端へ行って自分で水をみ、顔を洗ったり、裸になってからだを清めたりするのである。季節はもうすっかり冬になっていたので、正之助にはそれがずいぶん辛かった。そして朝な朝な、重い釣瓶つるべの綱をたぐりながら、「お母さまが生きておいでなすった時は、こんなことはいつも誰かがしてれたのに――」と思って、しぜんと涙ぐむことがしばしばだった。お稽古から帰るといつもおやつの菓子が貰えたのに、それもやめになった、そのうえ叔母さまが薙刀なぎなたを持って、武芸の練習をはんとき(一時間)ほどするのである、だから夕食がすむ頃には、まぶたの垂れるほど眠くなっているが、それからまた素読そどくのおさらいをしなければならないのであった。
「もっとはっきり、声をはっきりあげてお読みなさい」
 叔母さまはぴしぴしとお叱りになった。
「ご両親がそろっている者と違って、すこしでもひとに劣ると、あれは片親だからとすぐに云われます。心をひきしめて、鳥取藩の誰にも負けない、りっぱな武士にならなければいけません」
 その言葉を聞きながら正之助はじっと、亡きお母さまのやさしい面ざしを胸に描いていた。


 冬になってはじめての雪の朝だった。起きたじぶんにはもう高下駄も埋まるほど積って、そのうえになお、さらさらと乾いた粉雪が小やみもなく降りしきっていた。正之助はお稽古にゆく支度をして玄関まで出たけれど、遠い塾までの、困難な道を考えると急にいやになり、「なんだか気持が悪いから――」と云ってやめようとした。叔母さまは元気をつけるように、「出かけてしまえば、少しくらい気分の悪いのはすぐになおります――」と繰返し仰しゃった。しかしそれでも正之助がむずかっているので、「どうしてもそんな我儘わがままを仰しゃるなら――」と云いながら、正之助の腕をつかんで、はだしのまま玄関から門のそとへぐんぐんとひきだした。
「お祖父さま」
 正之助は泣きながら叫んだ、それから老家扶の名も呼んだ。けれど叔母さまは少しも力をゆるめず、雪のなかを引きずるようにして、昌源寺しょうげんじの墓地までひきたてて行った。そして正之助を母の墓の前に坐らせ、ご自分も雪のうえにぴったりお坐りになった。
「わたくしは、あなたのお母さまに、あなたがりっぱな武士になり、御国のために役だつ人間になるよう、世話をして下さいとくれぐれも頼まれました。けれどもあなたは少しもわたくしの云うことをおききなさいません、学問も武芸も、本気になって勉強なさらないし、すぐにめめしくお泣きになったりする。そのうえこればかりの雪におそれ、気分が悪いなどと偽りを仰しゃって、勉強をお怠けなさるようでは、とてもりっぱな武士になれるみこみはありません。亡くなったお母さまとのお約束は守れないと思いますから、わたくしは此処ここであなたを刺し、自分も死んでお詫びをするつもりです」
 叔母さまはそう仰しゃると、懐剣をお抜きになり、片手で正之助のえりをぐっとおつかみになった。正之助はあおくなった、
「これから本気になって勉強します、きっとりっぱな武士になります、悪うございました叔母さま、どうかおゆるし下さい」
「口ではどのように仰しゃっても、心が元のままではおなじことです、わたくしも覚悟をきめているのですから、あなたも未練なまねをなさらないで、せめてはいさぎよく死んで下さい。さあ、ご一緒にお母さまのお墓をおがみましょう」
「死ぬことは怖くはありません」
 正之助はきっと眼をあげて云った。
「けれどもりっぱな武士にならずに死んでは、お母さまのおそばへ行っても叱られます。叔母さま、正之助はこれから本気になって勉強します、そして、いつ死んでも、お母さまに褒められるようなよい子になります。どうぞ、こんどだけおゆるし下さい、お願い申します」
 叔母さまの頬がひきつるようにふるえ、眼をお濡らしなすったようだった。そして、しばらくのあいだ正之助の顔を見まもっていらしったが、やがてしずかに衿を掴んでいた手を放した。
「ようございます、いま仰しゃった言葉をお信じ申しましょう。ではお家へ戻って、はやく塾へおいでなさいまし」
 そのときのことはいつまでも忘れられなかった。夜ふけなどにふと眼ざめて、森閑しんかんとした久松山のあたりに狐のくこえを聞いたりしても、もう頭から夜具をかぶったりするようなことはなく、じっと闇のなかにお母さまの顔を思いながら怖さと闘った。「お母さまがお望みなさるような強い子にならなければ――」そう思って歯をくいしばった。いちどはおぼろげになった母のおもかげが、あざやかによみがえってきたのはその頃からだった。裾へひくほどもあったお美しい黒髪、いつもしずかに微笑をうかべておいでになるおくちもと、そしてまたたきをすると、云いようもなくおやさしいつやのあらわれるあのお眼など、いろいろなことが、生きていらしった頃よりもまざまざと、本当にまざまざと思い描くことができた。
 叔母さまは本当に人がお違いなすってしまった。いつかは元のようにおやさしくなるのではないか、どんなにあまえても、決してすげなくされることのない叔母さまに戻って下さるのではないか、正之助はひそかにそう願っていたけれど、叔母さまのようすは少しも元へかえらず、「春が来たような――」と云われたお美しい声までが、冷たく、かたく変ってしまった。そしていつも、きびしい眼で正之助のすることを見まもっておいでになり、ちょっと怠ける風がみえても、「昌源寺の墓地で約束なすったことをお忘れですか――」とお叱りなさるのであった。
 二年ほど経った或夏の夜のこと、机に向ってお習字をしていた正之助は、ふとお祖父さまのお部屋で話しごえがするのに気づいた。お祖父さまは怒っておいでなさるようすで、お声がいつもより高かったのである。
「それでは約束が違う。一年のばしてくれというので秋山へそう申したのだ。これ以上待てと云えるものではない、それでは破談にせよと申すもおなじことではないか」
「それでも致し方はございません」


 ああお嫁入りの話なのだと思い、正之助はじっと耳をすました。
「いったいおまえは秋山へとつぐ気持があるのかないのか、それをはっきり云ってごらん」
 叔母さまのお返事は聞えなかった。正之助は、「叔母さまがお嫁にいらしったら――」と考えるだけで、からだがのびのびするような気がした。「お祖父さまならおやさしいから――」そうすればこんな窮屈な毎日ではなくなるにちがいない。そう思いながらふと、
「叔母さまは早くお嫁入りなさるといい」
 とつぶやいた。すると、いつの間にかうしろに叔母さまが来ていらっしゃって、
「その姿勢はなにごとです、勉強なすっているのですか、遊んでいるのですか」
 ときびしい声で仰しゃった。あまり不意のことで、正之助は胸の鼓動が止まるほどびっくりして、慌てて筆をとって草紙に向った。それでも叔母さまはそれ以上はなにも仰しゃらず、しずかにご自分のお部屋へ立ってゆかれた。「いまの言葉を叔母さまはお聞きなさらなかったのかしら、それともお聞きになったかしら。もしおききになったとしたらお気の毒だが――」そう考えめぐらしながら、正之助はひとりの時でも決してそんなことは口にすまいと自分に誓った。
 おまえも呼びよせると仰しゃったけれど、父からは「来い――」という知らせはなかった。はじめのうちは待ちわびて、「いつお呼び下さるのですか――」と云う手紙をたびたびさしあげた、そういうときにはいつも、「叔母さまがお厳しすぎるので悲しい」と書いてあげたけれど、父からはきまって、「さむらいの子はどんなに厳しく育てられても、厳しすぎるなどとは云わないものだ、父が江戸へおいでと云ってやるまでは、叔母さまの申しつけをよく聞いて、どんなにもよい子に成長しなければならない――」そういうお返事が来た、いつ来るお返事もおなじことしか書いてないので、正之助はだんだんお手紙をさしあげるのがつまらなくなり、やがてきまったご挨拶をお送りするほかには、おたよりをさしあげることもまれになってしまった。
 月日が経つにしたがって、正之助は、学問も武芸も眼だって進みだした。ことに鳥取藩は学問がさかんで、どの町のつじに立っても素読の声が聞えると云われるくらいだった、町家でもそれほどなので、武家はなおさら、ずいぶんぬきんでた秀才も多かったが、正之助はそのなかでもすぐれた者に数えられるようになった。けれど叔母さまは口ぐせのように、
「かた田舎で少しくらい秀才と云われて慢心なすってはいけません。いつかは江戸へおいでなさるのです、お江戸には日本じゅうの秀才が集るのですから、もっともっと勉強なさらなければ笑われます」
 そう仰しゃって、少しのゆだんもお許しにならなかった。そんな時正之助はきまって亡くなったお母さまのおもかげを偲び、「お母さまがおいでなすったら、いちどくらいは褒めて下さるだろうのに――」と思い、どんなことがあっても叔母さまを好きになってはあげないからと考えることがたびたびだった。
 正之助が十二歳になった春、お弱かったお祖父さまが、霜の消えるようにしずかにお亡くなりになった。お母さまが亡くなったときはまだ幼かったので、悲しみもそれほどではなく、かえって月日の経つほど悲しみが増すばかりであったが、お祖父さまのときにはずいぶん悲しく、泣いても泣いてもなみだがせきあげてきて、幾日ものあいだ眼を泣きらしていた。叔母さまのおなげきは見るのも辛いほどで、わずかな日のあいだに見ちがえるばかりお痩せになった。そういうなかにもうれしかったのは、二十一日の忌日に、江戸から父が帰っておいでなすったことである。五年ぶりでお眼にかかる父は、いくらかはおけになったけれど、顔色などはつやつやとしてご健康そうだし、たち居や言葉つきなどはずっと威がおつきになり、いかにも重いお役目にふさわしいお人柄になっておられた。
「りっぱなからだに成長したな、十四五くらいにはみえるぞ、どれ立ってごらん」
 父はそう云って、正之助をたのもしげな眼でごらんになった。正之助はうれしいなかにも、叔母さまはどんな風に父の言葉をお聞きなすったかと思い、「どうです、父はこんなに正之助をよろこんで下さいますよ――」と云いたい気持で、大きく胸をひろげるのだった。
 よろこびはそれだけではなかった。正之助は父といっしょに江戸へゆくことになり、三十五日の忌があけると、母のお墓におわかれをして、生まれて初めての旅にのぼった。季節は晩春で、野山には色とりどりの花があり、うつりゆく遠山の青、ながれる雲の白など、眼につくものがみんなたのしかった。やまかいの道が幾日も続いた、指のきれそうな冷たい川を渡った。丹波のくにへ入ってから、雨に降りこめられて三日ほど宿ですごしたこともあった。京では名所を見せて頂き、大阪へも足をとめた。けれどそれらのものをぜんぶ集めても、遠江のくにで初めて富士のお山をあおぎ見たときの、大きな驚きにはくらべることはできなかった。正之助が江戸のお屋敷に着いたのは、五月のなかばのことであった。


 江戸へ出た正之助は、間もなくある高名な学者の塾へ入門した、その塾は規則がきびしくて、なかなか普通の者では入門できないのだが、正之助は素読吟味(入学試験のようなもの)も難なくとおり、ずっと年長の者をとびこして入門することができた。そのとき父は、「なかなか正之助はえらいのだな――」そう云っておうれしそうな笑い方をなすった。正之助もうれしかった、その夜はなかなか眠れず、なんども父の言葉を口のなかで真似てみた。「お母さま、正之助はえらいでしょう、ねえ、えらいでしょう――」そんなことをつぶやいていると、亡き母のおもかげが宙にうかび、やさしくまたたきをなすって、いくたびも頷いて下さるように思えた。
 鳥取のくにもとでぬきんでたように、江戸屋敷でも間もなく正之助の名は評判になった。学問にすぐれただけではなく、武芸の道場でも年長のひとの眼を集めた。けれどもう、正之助はそれで慢心するようなことはなかった。朝はいつも四時に起き、冬のてるなかでも裸になって身をきよめた、夜は更けるまで机からはなれず、父に叱られてから寝るようなことがしばしばだった。
 あくるとしの二月のことだった。父は正之助を居間へ呼んで、しばらくよしなしごとを話していたが、やがてふと笑いながら、
「どうだ、鳥取へ帰りたくはないか」
 と仰しゃった。正之助はすぐに、
「いいえ決して帰りたくはございません、江戸へまいってから正之助は、本当に生きかえったような気持ですもの」
 そうお答えをした。父は意外なことを聞くというようすで、しばらく正之助の顔を見ておいでになったが、しだいにお顔色がけわしくなり、やがてひざをお正しになって、
「おまえはまだ、叔母さまが厳しく育てて下すったことの意味をよく知らないのだな。父はそうは思わなかった、おまえが心から叔母さまに感謝しているものと信じた。よく考えてごらん、母が亡くなり、父が江戸へ去ったあと、叔母さまは若い女ひとりの手でおまえをお育てなすったのだよ。おまえの気に入るように、おまえのよろこぶように、好きにまかせて育てるのは造作もないことだ。けれど、もしそうしたとしたら、おまえはどんな風に成長しただろう、世間でよく『お祖母ばあさん子は三文安い』というが、それはあまやかして育てた子は世のなかへ出ても役にたたぬという意味だ。おまえはいま学問でも武芸でも、ひとに負けない子になっている、それはおまえが熱心に勉強し、よくはげんだからだ、おまえの努力のたまものにはちがいない、けれどそれはうしろに叔母さまがいて、絶えずおまえを導き、力をつけて下すったからだ。ちょうど柱を支える土台石のように、叔母さまが下からしっかりとおまえを押し上げていなすったからだ。おまえはそれに気がつかず、叔母さまが厳しすぎるということをなんども手紙に書いてよこしたね。けれど正之助、よく考えてごらん、叔母さまはおまえを育てるために、自分の一生をお捨てなすったのだよ」
 正之助はびっくりして眼をあげた、父は悲しげに眉を曇らせながら仰しゃった、
「叔母さまは秋山靱負ゆきえというひとのところへお嫁入りをするお約束があったのだ。三年もまえからのお約束だった、けれどおまえの母が亡くなってから、おまえがふびんで家を出る気になれなくなった。それで半年、一年とお約束を延ばしていた。秋山家からはたびたび厳重なかけあいが来て、お祖父さまはずいぶんお困りになった、そしてついにお約束は破談になってしまったのだ。こんなことはおまえに云ってもよくはわかるまいが、叔母さまは秋山家へお輿こし入れすることを、本当は心から望んでいらしったのだよ、靱負という人はやがて重役にもおなりなさる身分だし、人柄もりっぱなかただった、お輿入れすれば、叔母さまの一生はきっと仕合せになれた、そして叔母さまもそれをお望みなすっていたのだ。けれどおまえがふびんさに、母の亡いおまえを育てるために、自分からその仕合せをお捨てなすってしまった、一生の仕合せを捨てて、おまえをりっぱに育てあげようとなすったのだ」
「父上さまもう仰しゃらないで下さい、よくわかりました、悪うございました」
 正之助は腕で顔を押えながら泣きだした。
「本当にわかったのか、厳しくされるおまえよりも、厳しくなすった叔母さまのほうが、どんなに辛かったかということがわかるか」
「わかります、正之助は考えが足りませんでした、叔母さまに申しわけがないと存じます」
「わかればそれでよい」
 父はしずかにうなずいて、それから少しは慰めるような調子で仰しゃった。
「ではお祖父さまの一周忌が来るから、おまえは父の代りに鳥取へお帰り、そして法事がすんだら、叔母さまを江戸へおともないして来るがよい」


 花の旅とでも云おうか、二人の供をつれて江戸を立ってから、ゆく道の野に里に、梅が散り、桃が笑っていた。するがの国には桜が咲きそめ、野にはげんげが花筵はなむしろを敷いていた。正之助はゆくゆく、
今日もまた花にくらしつ春雨の露のやどりをわれにかさなむ
逢坂おうさかのせきの関屋のいたびさしまばらなればや花のもるらむ
 などという金槐集きんかいしゅうの歌をくちずさみ、鎌倉の秀でた歌人の心をしのんだりした。
 鳥取の城下へ着いたのは三月十日のことだった。叔母さまは一年まえにお別れしたときよりも、いくらかお肥りになったようで、お顔もあかるく、眼もえざえとしていらしった。「おとし若なのに、遠い旅をよくご無事でいらっしゃいました――」そういってお褒めになったので、思わず「叔母さまに褒めて頂いたのはこれが初めてですね――」とお答えしてしまった。叔母さまがちょっと悲しそうな笑いかたをなすったので、正之助はいけないことを云ったと思い、すぐに坐り直して、
「叔母さま、正之助をおゆるし下さい、わたくしは考えが足りませんでした、叔母さまが厳しく育てて下さるのを、ただ辛いと思うだけで、叔母さまのお気持を少しも考えませんでした。でもいまではいろいろな事がよくわかりました、叔母さまには本当に済まぬことばかりだったと思います、どうぞおゆるし下さいまし」
「そう云って下さるのはうれしゅうございます。けれど、あなたはまだそのようなことを考えるには及びません、ただ一心に勉強なすって、お国の役にたつりっぱな人になって下さればいいのです」叔母さまはそう仰しゃって、正之助にそれ以上なにもお云わせにならなかった。でもおうれしかったには違いなく、お顔つきのどこやらに、それからいつもほのかな微笑がうかんでいるように思えた。
 お祖父さまの法会ほうえんで、江戸へ戻る日が来た。いっしょに江戸へおともないする筈だったけれど、「お墓守りをする者がなくては――」と仰しゃって、叔母さまはやはり鳥取へお残りになることになった。しゅったつをする前の夜、更けるまでいろいろお話をして、正之助が自分の部屋へかえると、しばらくして叔母さまがそっとおいでになった。もう寝たものとお思いになっていたようすで、ありあけの燈火に、正之助がふりかえると、少しうろたえたような表情をなすって、「狐が啼いても、もう怖くはないでしょうね――」などと笑いながら仰しゃった。そしてしずかにお坐りになったので、正之助もありあけの燈をかきたてた。
「正之助さん、あなたはいつもおやすみになるとき『お母さまおやすみなさい』とお云いなすったでしょう」
「ええそう申しました」
「いまでもそうお云いなさいますか」
「ええそう申します」
 叔母さまは「そう」というようにお頷きになった。それからすぐに続けて、
「でもお顔やお姿はもうお忘れでしょうね」
 と云い、気遣わしそうに正之助の眼をごらんになった。正之助は力をこめて答えた。
「いいえ覚えています、お美しいおぐしも、やさしいお顔も、眼をつむればすぐにありありと見えますよ。ねえ叔母さま、お母さまのお眼は、またたきをなさるとたいへんお美しくなったのをご存じですか」
「正之助さんはそれもお忘れではなかったの」
「忘れませんとも、亡くなったって正之助にはたったひとりのお母さまですもの」
 叔母さまは急に、「ありがとう――」と云ってお泣きなすった、でもそれは悲しそうにではなく、おうれしそうな泣きかただった。
「本当のことをお話しいたしましょうね」
 やがて叔母さまは泪を拭き、しずかにお顔をあげて仰しゃった。
「わたくしは正之助さんのお母さまがだい好きでした、血をわけたお姉さまのようにもお慕い申していました。そしてあなたのお母さまも、わたくしにはたいそう親しくして下すったのです。お亡くなりになるときには、わたくしをお呼びになって、あなたのことを繰返し、繰返しおたのみなさいました。お母さまにはなによりもあなたがお心残りだったのです。それでもわたくしが固くおひきうけしますと、いくらかご安心なすったようで、『子供はずんずん育つものです、亡くなった母のことなどは早く忘れて、元気に成長して呉れますように――』と仰しゃいました」
 叔母さまは泪を拭くために、ちょっと言葉をとぎらせ、しばらくしてお続けなすった。
「お母さまは、死んだ母のことを忘れて早く元気に育つようにと仰しゃいました、あなたのためにそうお望みなすったのです、これが本当の母親の愛情ですよ正之助さん。死んでゆく身には、いつまでも忘れずにいてほしいと思うのが人情です。亡くなった者には、絶えず思いだしてあげることがなによりの供養だとも云います、けれどもそれではあなたが強い子になれないとお思いなすって、一日も早く忘れて呉れるようにとお望みなすったのです」
「わたくしにはそのお心がよくわかりました」
 と叔母さまは言葉をついだ。
「それであなたにお母さまを忘れさせたくなかったのです。わたくしが厳しすぎたのも、なにかにつけて辛くしたのも、そうすればあなたがおやさしかったお母さまを思いだすからでした。あなたの心にあるお母さまの姿を、いつも思いだすようにと考えてのことだったんです。正之助さん、わたくしのことは心配なさるには及びません、これからも亡きお母さまをお忘れにならないで、りっぱな武士になって下さい」
 ああそうだったのかと思い、母と叔母と、ふたりの愛情に包まれた仕合せを、正之助はいま初めて自分の身にひしひしと感じた。その夜半、鳥取へ帰ってから初めて、狐の啼くこえを聞いた。





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「少女の友」実業之日本社
   1942(昭和17)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2025年2月23日作成
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