「もういけない、
「なにを云う」
「ここまで来て、そんな弱音を吐いてどうするんだ、元気をだせ、佐和山まではどんなことがあっても行くと云ったではないか、いいか、石に
「いやだめだ、頼むから……下ろしてくれ」
ほとんど担ぐように、肩へ掛けている
「おい田ノ口、おい!」
祐八郎は驚いて、左手にある
「しっかりしろ、おい、田ノ口!」
「……無念だ、おれは」
義兵衛は
「おれは、忘れないぞ、
「義兵衛、声が高いぞ、声が」
肩を
――誰かが、そこにいる。
かさッとも動かぬ藪のかなたに、じっとこっちを
「田ノ口、もうひと頑張りだ、立ってくれ」
「…………」
返事はなかった。
「おい田ノ口、義兵衛!」
耳へ口を寄せて呼んだ。それから相手の
すると、そのとたんに、藪を押し分けて来る人の気配がした。
――みつかった。
物音はすばやく近寄って来る。
「義兵衛、
祐八郎はそう
「気付かれた、そっちへ逃げるぞ」
うしろで叫びたてる声がした。
「外から廻れ!」
「鉄砲、鉄砲だ」
だあん! だあん! だあん!
祐八郎は思わず足を止めた。そして、押し包んでくる物音の方角を計ると、とっさに身をひるがえして、藪の
だあん! だあん!
めくら撃ちに射たてる銃声とともに、竹林を走る
――くそっ。
彼は夢中で駈けた。
藪が尽きて、畑地が現われた。それから雑木林の丘を越えると、ふたたび藪につきあたった。祐八郎は自分の体を叩きこむように、その藪の中へとびこんで行った。
どのあたりで敵をひきはなしたか分らないが、とにかく追跡の手を逃れたことはたしかだった。かなり遠く、それもずっと右のほうで銃声が聞えたきりで、あたりはひっそりと物音もない。
――もう大丈夫だ。
そう思うと同時に、疾走して来た疲れと、胸膜をつきやぶりそうな息苦しさに堪えかね、彼はそこへあおむけさまにうち倒れた。そしてしばらくのあいだはただ、恐ろしい息苦しさと闘うだけが精いっぱいだった。
かなり長い
呼吸が少しずつ鎮まってくるにつれて
それは今から三日まえ、すなわち、慶長五年九月十五日、関ヶ原に展開された合戦の、ある忘るべからざる一瞬の記憶であった。
眼もあけられぬほどもうもうと、渦巻きあがる土けぶりだった。夜明け前からはじまった合戦は、
押し寄せ、
――味方の勝ち目だ。
――見ろ、徳川家康の本陣が崩れだしたぞ。
――最後のひと押しだ。
みんなそう信じた。事実、
じつにそのときであった。
味方の右翼から、眼に見えぬ一種の波動が、電撃のように全軍の上に
――
――金吾中納言どのが裏切った。
松尾山に陣を張っていた小早川
憎むべし! 金吾秀秋が裏切った、まさに勝利を掴もうとした時に、その時に。小早川秀秋が敵へ裏切ったのだ!
「ああ、……」
自分の口から出た
――秀秋の犬め、死んでも忘れんぞ!
臨終に叫んだ義兵衛の声が、なまなましく耳の奥から甦ってきた。……いや! 義兵衛ひとりの声ではない。
あたりは死んだように静かだった。
仰むけに倒れている祐八郎の眼は、枝をさし交わしている竹藪の上に、高く高く、星がまたたいているのを見た。
「ああ星が美しいな」
祐八郎はそっと
「御主君はいま、どこでこの星を見ておいでなさるだろうか」
故
――主君に会いたい、主君の先途を見届けたい、そして佐和山城に入ってもうひと合戦。
そう思って、祐八郎と義兵衛は落ちのびて来たのだ。
「そうだ、こうしてはいられない」
彼は身を起した。
主君を捜さなければならぬ。佐和山城へ急がなければならぬ……。体は
彼は藪を分けて歩きだした。西へ、ただ西へ向って、歩いた。
うしろから出た月が、いつかしら前へ廻った。下枝や草の葉に、露が光りはじめた。林を通りぬけ、丘へ登り、畑を歩いた、
祐八郎はふと、ぎょっとして足を停めた。すぐ眼の前に、木の香も新しい高札が立っているのをみつけたのだ。彼は近寄ってみた。
一、石田治部 、備前宰相、島津、三人、捕え来たるにおいては、御引物のためその所の物なり、永代無役に下さるべきむね御掟候こと。
一、右両三名とらえ候こと成らざるにおいては討果し申すべく候、当座の引物として金子百枚くださるべきむね、仰せ出でられ候こと。
一、その谷中差送り候に於ては、路次有りように申上ぐべく候、隠し候においては、その者のことは申すに及ばず、その一類、一在所、曲事に仰付けらるべく候こと。
右のとおりに候間おいおい御注進申上ぐべく候也
九月十七日
祐八郎は茫然とした。こんな処までもう手配が廻っているとすれば、主君の身上はどうなったことか分らぬ、佐和山へも行けるかどうか。
「いやここで
彼は自分を
「ひと眼でも御主君に会わぬかぎり死んではならん、どんなことをしても佐和山城へ入るのだ、どんなことをしても」
卒然として起った馬蹄の音に、はっと我に返った祐八郎の背後へ、
「落武者だ、みんな出あえ!」
と喚きながら三騎の武者が馬を
ひと息、丘を登ったところで、
「わっ」
というような叫びとともに、追い詰めて来た者が、うしろから槍を突きだした。穂先が外れた
叢林に包まれた丘は、何段にもなって、次ぎ次ぎと高くひろがっていた。……祐八郎は茂みを茂みをと
追手の声はいつか遠くなった。
どのくらい駈けたであろう。段丘の頂へ出て、それを右へ、松林の中をしばらく走ったと思うと、左手に
――水だ、水だ。
なかば夢中で、音のするほうへ丘を下りようとした。そこは熊笹の藪だった。浮足で下りるところを、その笹へ踏込んだので、ずるっと滑った。
――ああ。
と叫んで笹を掴もうとしたが、
大地に体を叩きつけられたとき、祐八郎はその衝撃をたしかに感じた。しかし、そのあとはまるで覚えがなかった。……
――金吾秀秋、犬め!
混沌とした意識の底から、
「もし、……もし、お武家さま」
声はまえよりもはっきりと聞えた、……白い顔と、美しい眉とが、祐八郎の眼にうつった、彼は夢のようにそれを見ていたが、やがて、自分の眼前に、一人の若い娘がいることを認めた。
――いかん。
気付いて、彼はがばとはね起きた、いや、はね起きようとして、背骨に伝わる鋭い痛みのために、呻き声をあげながら
「危のうございます」
娘は誘われるように
「お立ちあそばしてくださいまし、すぐそこにわたくしの家がございます、ここでは人眼にかかるといけませぬから」
「……拙者は石田軍の
「よく分っております」
「拙者に
「よく分っております」
娘は聡明な
「でもお怪我をしておいでのようすですし、このままではどうあそばすこともできませぬ、わたしの家は里からも遠く、家には病気で寝たきりの父一人しかおりませぬ、けっして御心配あそばさずに、せめてお傷の手当なりとして行ってくださいまし」
「……かたじけない」
泪をうかべた娘の眼を、祐八郎は泣きたいような感謝の気持で見上げた、……はじめて見る眸子とは思えなかった、真実の
「では申しかねるが、御親切にあまえて……」
「さあわたくしの肩へお
娘はまるい肩を、かいがいしく男の
崖の下を少し行くと、
「ここでございます、むさ苦しゅうございますけれど、どうぞ我慢あそばして」
「とんだ
「もうそんな御会釈はお止めくださいまし」
云いながら、娘はほとんど男を担ぎあげるようにして、庭へ向いた縁側へと掛けさせ、ふと祐八郎の眼を見て明るく微笑した。
――おや、この笑顔は?
祐八郎は、一瞬どきっと胸をつかれた。
――見た顔だ、どこかで見た笑顔だ。
そう思ったのである。
「すぐおすすぎを持ってまいります」
祐八郎の凝視にあって、娘は眉のあたりを染めながら、小走りに裏手のほうへ走って行った。
――そうだ。
闇のなかで、祐八郎は急に、夢から覚めたように眼を
――そうだ、妻の顔だ、あの
家のなかは暗く、物音もない、外には風があるとみえて、さらさらと粟の葉ずれの音が聞えてくる。もう夜半を過ぎたであろう、傷の手当にも、作ってくれた
「ああ、……若菜、おまえだった」
祐八郎は久しく口にしなかった妻の名を、胸の震えるような懐しさで呼んでみた。
ほのかに燈火の光が流れてきた。そして、娘が
「もし、……どうかあそばしましたか」
「いやべつに、大丈夫です」
「なにかおっしゃったように存じましたけれど、もしお苦しゅうございましたら……」
「なんでもないのです、ただ」
あなたが、死んだ妻のように思えたので、……そう云いかけて、口を
「お眠りなされませんのですか」
「ひどく疲れているのだが、眼が
「そんなにおっしゃっていただくと、かえって恥しゅうございますわ」
娘は健康な
「まだ申上げませんでしたけれど、わたしに兄が一人ございますの」
「お兄さんが」
「それが三年まえ、大阪へ上って武士になるのだと申し、父やわたくしの
と、娘は申訳のないことをうちあけるように、少し口籠りながら続けた。
「すぐに兄の身上を思いだしたのでございます」
「そうですか、……そうでしたか」
「でも、そう申上げましても、お怒りくださいませぬように……」
「とんでもない、そう伺って、あなたの御親切がなおのこと身にしみるばかりです。……して、お兄さんのお名前はなんとおっしゃる」
「うちには
「柏山条助。……柏山」
なんども口の中で呟いてみた。しかし、まったく聞いたことのない名だった。……もし娘の考えるとおり、彼が西軍にいたとして、そして、もしあの戦場から落ち延びることができたとしたら、そのままここへ来ていなければならぬはずだ、今日まで姿を見せぬとすれば、……あるいは関ヶ原の露と消えたのかも知れぬ。
「あなたさまは、これからどちらへお越しあそばします」
「治部の殿(三成)のおゆくえをたずね当て、佐和山の城へ入って、さいごのひと合戦をするつもりです」
「まあ、それは!」
と、娘は思わず驚きの声をあげた。
「それでは、あなたさまはまだ、御存じありませんのですか」
「知らぬとは、なにをです」
「佐和山のお城は
「……陥ちた」
祐八郎は
「それは、本当ですか」
「はい井伊、脇坂、小早川の軍勢が攻めかかり、昨日の朝とうとう落城したと、見て来た人の話でたしかに聞きました」
「……そうか。……ついに佐和山も、落城か……」
絶望と悲憤とで、祐八郎は身も心もうちのめされてしまった。……たった一つの希望、残された唯一の死場所がなくなったのだ。
祐八郎の絶望をそれと察したのであろう、娘はそっとすり寄って、
「もしあなたさまさえおよろしかったら」
と心を籠めた調子で云った。
「この家でお怪我の養生をあそばしませぬか、そのうちには治部少輔さまのお
「ありがとう……できればそうしたいのだが」
祐八郎はそう云いながら娘の眼を見上げた。
娘の眼は、朝のときのように泪をためていた。眉のあたりに、男を
――若菜。
祐八郎はそう呼びたかった、しかしようやくそれを抑えつけた。やがて娘は夜具の隅を押えてから、そっと次の間へ去って行った。
明けがたと思われるころだった。
さすがに連日の疲れが出て、ぐっすり眠っていた祐八郎は、異様な人の叫び声にはっと眼覚めた。声は家の裏手でしていた。
「嘘です、家には父が寝ているだけです」
「黙れ、この干し物はなんだ、百姓の家にこのような品があるか」
「それは、……ひ、拾った品です」
「面倒だ、踏込め!」
「あれ、父は重病で寝ております、あれっ」
だだっと戸を押し破る音に続いて、人の踏み込んで来る気配がした。
このあいだに床をぬけ出していた祐八郎は、太刀をひっ掴んで、縁側の雨戸を
「ああ、逃げた」
「庭へ廻れ」
そういう声と、娘の悲鳴とが、鋭く彼の耳を打った。
外は深い朝霧だった。祐八郎は
しかし遅かった。追い詰めて来た一人が、やっと叫びさま、体ごと、うしろから跳びかかる、
――
彼は身を
――もういけない。
祐八郎は『そのとき』がきたと悟った。それで反抗することを止めた。
繩を掛けられて引き起されたとき、なによりもさきに彼は、そこに立っている娘の姿を認めた。娘は彫像のようにかたく硬ばった顔で、わなわなと総身を震わせていたが、立ちあがった祐八郎を見ると、ひき裂けるような悲鳴をあげながら、地面の上へ崩れ落ちてしまった。
「貴公たちは誰の組だ」
祐八郎は振返って訊いた。……具足を着けた三人の武士は、まだ肩で息をついていた。
「我らは田中兵部大輔どのの家臣だ」
「そうか、……では念のために申しおくがこの農家に罪はないぞ、拙者がこの娘を太刀で
「そんなことは本陣へ行って云え、我らは狩り出すだけが役目だ」
「飢えた野良犬どもの犬狩りだ、わはは」
三人は声を合せて笑った。
「そこの、……娘」
祐八郎は静かに振返って、
「迷惑を掛けて済まなかった、おまえに罪のないことは、陣所へまいって固く陳弁してやる、……雑作をかけた
娘は答えなかった。そして地面に膝をついたまま、大きく
「別れるまえに
「……まつ、……まつと申します」
「……まつ。済まなかった」
祐八郎は娘の眼を見返しながら、心へ刻みつけるように呟くと、振返って、
「さあ
と高く
もうなにも考えることはなかった。行き着くところへ行き着いた者の、澄んだ、快いほどに澄んだ気持だった。……石山の陣所でひととおり
――御主君はどうあそばしたか。
なによりもそれが知りたかった。それで大津へ曳いて行かれる途中も、警護の者の言葉から耳を離さなかった。しかし、結局は安否を知ることができずにしまった。
石山から大津までのあいだは、おびただしい関東軍の人馬で埋ったようだった。勝軍にめぐまれた人々の、元気いっぱいな、明るい談笑がいたるところで
大津に着いたのは深夜を過ぎていた。
その翌日、ようやく日の昇った頃、本陣の幕営へ曳き出された彼は、一瞬おやっと思った。……幕営のようすがあまりに物々しい。
――誰の陣だろう。
そう思っていると、やがて、三ツ
――家康だ、家康だ。
それはまさに徳川家康だった。
旗本の部将たちに護られて、設けの
「そのほうは治部少輔の家来だそうじゃな」
「……いかにも」
祐八郎は
「ならば、治部少輔のいどころを知っておるであろうが、どうじゃ」
「……いかにも」
御主君はまだ御無事だった! 祐八郎はとびあがって歓呼したい大きな欲望を感じた。……御主君は無事なのだ、どこかにまだ生き延びて
「いかにも」
と彼は声高く答えた。
「主君、治部少輔の殿の御在所は知っております」
「それを聞きたいのじゃ」
「……ほう」
「五日や十日生き延びられようとて、しょせん覆水は盆にかえらぬ、治部どのの名のためにも、早く始末をつけるほうがよかろうではないか。……治部どのはどこにおらるるの」
「さぞお知りになりたいでございましょうな」
「聞かずにはおかぬじゃ」
「さて、……どうありましょうか」
老人の細い眼が、そのとき、かすかにきらりと光を放った。……そして、
「あれを見い、あの幕の側にあるものを」
と右手を顎でしゃくった。……そこには、一見して拷問道具と分る物が、乾いた血の
「責め道具でございますな」
「体は弱いものじゃ」
家康は柔かい撫でるような声で云った。
「心はどのように固くとも、人間の体が苦痛に堪えられる限度は知れたもの、今までに何十人となくその証拠を見せている、……どうじゃ、試してみるかの」
「試していただきましょう」
祐八郎は正面あげて家康を
「いまより四日まえ、関ヶ原の合戦に、わたくしは金吾中納言どのの裏切りを見ました、秀秋どのの裏切りの軍勢が、味方の側面へなだれ込むのを、……この眼ではっきりと見ました」
「…………」
「弓矢とる身にとって、見るべからざるものを見たのです。わたくしの五体は、そのとき
祐八郎の全身が
「そのときわたくしの五体は、
彼の叫びは高く、幕張の内に昂然と響きわたった。
家康の表情は少しも動かなかった。いやむしろ、そのたるんだ瞼の下にある細い眼が、いつか力を無くして閉じられさえした。
――金吾中納言の裏切り。
その一言が、家康の太い胆玉に、わずかながら鋭い痛みを感じさせたのである。……老人は間もなく眼をあげた。
「あっぱれ申しおるのう」
家康は低く呟くように云った。
「そこまで心を決められては、いかな責め道具も歯がたつまい。……誰ぞ、その繩を解いてやれ」
みんな
「繩を解いて逃がしてやれと申すのじゃ」
そう云って、家康は床几から立ち、
「祐八郎とやら」
と振返って、
「治部どのに会ったらそう申しつたえてくれ、おひとがらには惜しい家来を持たれる、
そして幕のかなたへ去って行った。
陣所から曳き出され、木戸の外へと解き放された祐八郎が、石山のほうへ歩きだしたとき、……うしろから名を呼んで追って来る者があった。
「大畑さま、お待ちあそばして」
振返ると、意外にも、あの農家の娘まつであった。
「まつどの、どうしてここへ」
「大畑さま!」
娘は側へ走せ寄ると、泣き
「わたくしも曳かれてまいりました」
「あなたも、……ではやはり拙者の言訳は通らなかったのか」
「でもいま許されましたの、あなたさまがお調べをお受けあそばすようすも、幕を隔てて伺っておりました、……おめでとう存じます」
「重ね重ね迷惑をかけて、詫びの申しようがありません、どうか許してください」
「わたくし本当にはらはら致しました」
娘は男と並んで歩きながら詫び言をうち消すように云った。
「あなたさまは、治部の殿さまのお行方を御存じないはずでございましょう……それなのに、あんなに幾度も知っているとおっしゃって。もし、拷問などにかかったらどうあそばすおつもりでございました」
「……ああ云うほかに言葉がなかったのです」
祐八郎は苦く笑いながらいった。
「さむらいともある者が、しかも戦場で、自分の主君をみうしなった、ゆくえを知らぬと云うことができますか。……たとえ責め殺されても、知らぬとは云えないことです」
「まあ……わたくし、気付きませんでした」
娘は武士の生きかたの厳しさに、いまさらながら驚きと尊敬とを感じた。
「そのお立派なお覚悟が、こうして無事に出ておいでになる元だったのですね。もうこれで安心でございますね、お約束どおり、わたくしの家へおいでくださいますでしょう?」
「あなたの家へ?」
祐八郎は振返ったが、すぐ元気な声で、
「そうです、まいりましょう」
と云って笑った。
「この傷では動きがとれません、しばらく御厄介になって、百姓のお手伝いでもするとしましょう」
「まあ、本当でございますか」
娘は満面に、つきあげるような歓喜の表情をうかべながら、男の顔を仰ぎ見た。
「本当です」
祐八郎はそう答えた。……早くも彼は、自分のうしろに、家康から
「本当ですとも」
祐八郎は、跟けて来る隠密に聞けとばかり云った。
「拙者は、このまま百姓になろうかとまで考えていますよ」
「まあ大畑さま」
娘の明るい声が、松並木に快い反響を呼び起した。……湖畔の道は、清らかな秋の日ざしを浴びて、白々と石山の里へとのびていた。