「音をさせちゃ駄目、そおっと来るのよ」
「――大丈夫です」
「そら! 駄目じゃないの」
正吉の重みで
土蔵の二階は暗かった、番札を
「ああまだいるわ」
「いったい何なんですか」
「御覧なさい。あれ」
指さされた所を覗いて見ると、葛籠の蔭のところにひと塊りの
「――鼠の仔ですね」
「そうよ、可愛いでしょ」
「気味が悪いな」
「嘘よ可愛いわ。ほうら――こっちの端にいるひとりだけ眼が明いてるでしょ」
「見えない」
「もっとこっちへ寄って御覧なさい」
お美津は正吉の腕を執って引き寄せた、二人の体がぴったりと触れ合った。――土蔵の中は
「――幾匹いるかしら」
「五匹よ」
「みんな未だ裸だな」
「……生れたばかりですもの、もう少しすれば毛が生えてよ、――きっと」
お美津の声は哀れなほど
正吉はじっとしているのに耐えられなくなって、いきなり手を差出した。
「こいつ、捨てなくちゃ」
「駄目よ」
お美津は慌ててその
「可哀相じゃないの」
「だって、――蔵の中にこんな……」
「いけない、いけない」
二人は眼を見交わした、二人とも真青な顔をしていた。正吉の手頸を掴んだお美津の手がわなわなと
「――いや! いけない」
火のようなお美津の息吹と、
「お美津さん」
という
「正さん、――正さん、……」
絶え入りそうなお美津の叫びが、正吉の
「正さん、どうしたの、正さん!」
ひどく肩を揺りながら呼び覚まされて、正吉はふっと眠りから覚めた。――夢だった。
「どうしたのさ、こんな所へ
棒縞お召の
「辰さんか。――」
「ちょいと用があってね。来る途中そこん所で湯帰りのお紋さんに会ったものだから」
「まあ火の側へ寄んねえ」
正吉は物憂げに起き直った。――お紋は湯道具を鏡の前へ置いて、
「おまえはひどく
「――――」
「この頃寝ると直ぐ魘されるようじゃないか、きっと病気が良くない証拠だから、
正吉は黙ってふところへ手をやった。気味の悪いような
――もう長え命じゃあねえ。
正吉はそう思った。
――この頃お美津ちゃんの夢ばかり見るのもそのせいかも知れねえ。人間死ぬときには一生の事を夢に見るってえからなあ。
「実はひと仕事持って来たんだ」
辰はお紋の方へ話しかけていた。
「仕事ってまた例の口かい」
「そうじゃあねえ、おいら初め
「こっちも御同様なのさ」
「そこで相談だが、まあ聞いてくんねえ筋書はこうだ、――橋場の親分が客人を伴れて来る、場所は
「じゃあ
「博奕は博奕だが種がある、親分が客人を伴れてくる時に
「田舎上りのいい鴨てえのがあるのかい」
「そこがねたさ、鴨には正さんに化けて貰うんだ。――正さんが鴨で博奕を始める、なあに拵えは分っているんだ、いいくらい勝たして置いてから、正さんが拵え博奕の現場を押えて尻を
「なるほどね」
「つめ
「面白い、それあ物になるねえ」
お紋は振返って、
「で――その客の当てはあるのかい?」
「それが無くて相談に来るかい、五十両ずつ持った旦那衆が二人いるんだ」
「乗ろうよ、その話」
「有難え、早速の承知で何よりだ、なにしろ急な話で他に人がねえ、正さんならと見当をつけてやって来たんだ、――じゃあ済まねえがおらあ直ぐ橋場へ知らせるから、
「おや、今夜なのかえ」
「客人はもう橋場へ来ているんだ」
そう云って辰次郎は立ち上った。
辰を送り出してお紋が戻って来ると、正吉は壁へ
「正さん、いまの話――やっておくれだろうねえ?」
「……
にべもない返辞だった。
「厭だって、どうしてさ」
「このあいだ断った筈だ、こんな浅ましい仕事はもう沢山だ、真平御免
「浅ましい仕事だって?――ふん」
湯上りの肌へ、自信たっぷりに白粉を刷きながら、お紋は冷笑して云った。
「たいそう立派な口をお利きだねえ正さん。
「――知っていたらどうするんだ」
「そんな偉そうな口は利けまいと云うのさ、猫だって三日飼われた恩は忘れないよ」
「お紋! てめえ……」
正吉は思わず、長火鉢の猫板の上から湯呑を取上げた。
「てめえ、それを本気で云うのか」
「売り言葉に買い言葉、お互いさ」
「――畜生!」
正吉は身を震わして叫んだ。
「よくもそんなことをぬかしゃあがった、この己を、こんな
「今更なんだね未練がましい、誰のせいなもんか、おまえが好きで墜ちた穴じゃないか、厭がるおまえの首へ繩をかけて曳いて来た訳じゃないよ」
「畜生


湯呑を掴んだ正吉の手がぶるぶると慄えた。正吉はそれを
初めて江戸へ出て来た時の事が思われる、十二の年だった。故郷の長崎から父に伴われて来ると、同郷の筑紫屋茂兵衛の店へ奉公に入った。筑紫屋は江戸でも有数の唐物商(現今の貿易商)で、日本橋本町に間口十二間の店と、五戸前の土蔵を持った大店だった。――茂兵衛には男子がなくて、お
正吉は気質も好く、人品も優れているうえに、人並以上の敏才だったので、茂兵衛はやがて姉娘のお綱の婿に直し、筑紫屋の跡目を継がせようとした。――ところがその時分、正吉は妹娘のお美津と、
お綱の婿にと、すっかり段取りを定めていた茂兵衛はひどく怒った。お美津は直ぐに根岸の寮へやられ、正吉は懲しめのため、一年間小僧と同じ走り使いに落とされた。――この小さな食い違いが正吉の運命を
――罰だ、罰だ。みんな旦那様やお美津ちゃんの罰が当ったんだ。
正吉は
「いい態だ、いい態だ、罰当たりめ、こうなるのが己にはふさわしいんだ」
「正さん、――正さん」
お紋はその有様を冷やかに見ていたが、やがて
「厭ねえ正さん、何もそんなにむきになる事はないじゃないの、――あたしも少し云い過ぎたけど、おまえだって
「――――」
「正さんだって幾らかあたしを好いてくれたからこそ、ここまで一緒に墜ちて来たんでしょう?――日蔭の生計しか知らないお紋と、世間知らずの正さんがひとつになれば、結局こんな穴より他に生きる道は有りゃあしない、あたしはねえ正さん、おまえとなら地獄の底へでも行く覚悟だよ」
お紋は自分の言葉に酔いながら、そっと正吉の肩へ手をかけた。――正吉は死んだ者のように身動きもしなかった。
「ねえ、分っておくれだろう」
「――――」
「分っておくれなら機嫌を直そうよ、そして今夜の仕事が
お紋は説き伏せたつもりで、静かに正吉の肩を
「さあ機嫌を直して、そろそろ出掛けるとしよう、ねえ正さん」
「――――」
「あたし着換えて来るわね」
お紋は次の間へ立って行った。――その足音を聞きすまして、正吉は急に起上ると、何を思ったかそのまま格子口の方へ出て行った。
「おや、どうかしたの正さん」
女の呼ぶ声がした、「――正さん、どうかしたのかえ、……正さん

――逃げるんだ、今夜こそこの泥沼の中から逃げるんだ!
外は
川波がひたひたと音をたてていた、空高く鳥の声がするので、仰いで見ると遙かに、雁の群が西へ西へと渡っていた。
「――あの雁の行く方に長崎がある」
正吉は悲しげに呟いた。
「長崎、……長崎、――おっかさん

不意に、全く不意に、正吉の胸へ熱病のような故郷恋いの念がつきあげて来た。――香焼島に寄せる潮の音が聞える、出島の異人館の旗が見える。諏訪神社の山も、唐風の眼鏡橋も……まるで覗絵を見るように見えて来る。
「そうだ、長崎へ帰ろう、どうせもう半年さきも覚束ない体だ、故郷の土を踏んでから死のう、おっかさんにひと眼会って、不孝を
思いつくと矢も盾も堪らなかった。正吉は息をはずませて立った。
「あいにくだったなあ、二両はさておき二朱もねえ始末だ」
「――そうか」
「お
「なに、無けれあいいんだ、騒がして済まなかった、勘弁して呉んねえ」
「冗談じゃあねえ、むだ足をさしてこっちこそ申訳ねえ」
「じゃあ又来るぜ」
正吉は寒々と露地を出た。
――矢張り駄目か。
どんな事をしても長崎へ帰ろう! そう思案を決めた。然しこの体ではとても歩く旅はむずかしいので、回船問屋へ行って
然し、その秋から断行された町奉行の、
「どうしよう、――明日の船に乗り後れれば、あとは正月十五日過ぎでなければ船は無いのだ。この体ではそれまで保つかどうか分らない、どんな事をしても帰り度いが――ああ、どうしたらいいんだ」
空しく歩き廻った疲れと寒さで、身の凍えきった正吉は、ふと通りかかった居酒屋の
「酒をつけてくれ」
「――どの口に致しましょう」
「その……」
正吉はふところの銭をそらで数えた。
「その梅でいいや」
「お
「――いらねえよ、寒さ
亭主は無愛想に酒の
「間違ったら御免なさい、――おまえさん生れは九州の方じゃあありませんかい」
「へえ――よく分るな、おらあ長崎だが」
「そいつあ懐しい私も長崎だ」
「親方もか?」
正吉は眼を輝かして、
「それあ奇縁だあ、おらあ一ノ瀬の下だが、親方あどこだ」
「――そんな事を訊く必要は無かろう」
亭主の顔つきが不意に変って、野獣のような惨忍な表情が現われた。――正吉は眼を外らしながら黙った。
「呑んでくれ、これあ私の
別に一本、上酒の燗をして亭主が持ってきた。――そして語調を柔げて、
「どうも言葉尻に
「――――」
「おめえも見たところ堅気じゃあ無さそうだ。つまらねえ
「下らねえ事を訊いて悪かった」
正吉は素直に云った、「――同じ所と聞いたんでつい舌が滑ったんだ、気を悪くしねえでくれ」
「分りあいいのよ」
「御馳走になるぜ」
正吉は亭主の酒をあっさり呑んだ。――そして手早く勘定を済ませると、
「縁があったら又会おう」
と外へ出た。
居酒屋の亭主が長崎と聞いて、正吉は更に更に帰心を
「もう一度だけだ、今夜っきりでおさらばなんだ、これ一度だけやろう」
正吉はそう決心した。――場所は横網の
横網の
その時であった、右手の闇から一人の男がぬっと出て、
「何方様でござんすか」
とこっちを覗きこんだ。
「おらあ……」
と云いかけて正吉はぴたりと足を止めた、こっちを見込んだ相手の身構え、右手をふところへ入れて腰を浮かした恰好、――ひと目で岡っ引と分る。
――しまった、手が廻っている。
そう思うのと、
「御用だ!」
と相手の跳びかかるのと同時だった。
正吉は体を捻って、十手の一撃を避けざま、だっと相手に体当りをくれると、身を飜えして
「うぬ待ちあがれッ」
岡っ引は追いながら
――
正吉は夢中で逃げた。然し笛の音は左から右から、前と後と相呼応しつつ、袋を絞上げるように迫って来る、余程の厳しい手配らしい。――正吉は本所御蔵の堀へ抜け、小泉町の方へ引返して両国へ出ようとした、然し表通りへ出る前に、行手を御用
――駄目か。
――畜生!
呻くと、咄嗟に右手の黒板塀へとび付いてさっと中へ乗り越えた。――
――助かった。
呼子の音が聞えなくなった時、正吉は生き返ったように呟いた。
「今夜の様子はちっと妙だ、おいら仲間を狙うにしちゃあ厳重過ぎる、――きっと他に大きな捕物があったに違えねえ。その巻添えを食ったんだ……あの様子じゃあお紋のやつも、橋場も辰も、恐らくお繩になっただろう、――みんな年貢の納め時なんだ」
正吉は静かに身を起した。
「だがおらあ逃げる、石に
と
「船は明日の朝
正吉はじっと
正吉は半ば夢中で、ふらふらとそこから中へ忍び込んだ。
――到頭やった。どんなに
度胸を定めた正吉は、ふところの短刀を抜いて、縁側から座敷の方へ進んで行った。家内は森閑として音もない、さすがに胸が裂けるかとばかり騒いで、膝頭はがくがくと震える。まだ新しい建物なので、どんなに足音を忍ばせても
――くそっ、みつかったら短刀でひと
自分を
「あっ、つー

叫びながら
――もう駄目だ!
と直感した時、猛烈な咳が襲って来て、捻伏せられたまま体に波を打たせて咳き入った。
「誰か燈を持って来い、泥棒だ」
馬乗りになった男が叫んだ。
二度三度叫ぶのを聞きつけて若い
「燈をこっちへ見せてくれ」
と、慄えている婢に云った。
「あっ、おまえは……」
手燭の光に、
「もう宜い、少し私に考えがあるから、おまえたちは向うへ行っておいで」
「あ、あの――自身番へお届けを」
「届ける時には私がそう云う、黙って向うへ行っているんだ」
婢たちは足も地につかぬ様子で、そそくさと廊下を去って行った。――主人はその足音を聞きすましてから、暫くのあいだ正吉の姿をみまもっていたが、やがて底力のある声で、
「正吉、――顔を挙げたらどうだ」
と云った。正吉の体がぴくっと
「あっ、だ、旦那!」
絶叫して跳ね起きる、とたんに主人はその肩を掴んで突き倒し、背中を足で踏みつけながら、
「分るか、この私の顔が分るか。この恥知らずの犬め、――筑紫屋茂兵衛にあれだけ煮え湯を呑まして置いてまだ足らず、押込みにまで
「ま、間違いでございます、だ、旦那」
正吉は腸を絞るように叫んだ、――なんという運命の皮肉さであろう。
「出て行け、出て失せろ」
茂兵衛は正吉の背を蹴放した。
「この手で繩にかけてやるのも
「――――」
「茂兵衛はそれでも宜い。だが……可哀そうなのはお美津だ、貴様の方では覚えてもいまいが、お美津は貴様を忘れることが出来ず、――今では半病人のようになってこの寮に暮しているのだ。……お美津はまだ、貴様がきっと自分のところへ戻って来ると信じているのだぞ、それなのに――貴様は、貴様は……」
正吉は畳に伏したまま体を弓のように曲げた、ごぼごぼと無気味な音がして、正吉の口からぱっと血潮が
「――正吉!」
「旦那さま、……」
「貴様そんな重い病気なのか」
「罰でございます、天道さまの罰が当ったのでございます。旦那さま、正吉は、こんな姿になりました」
「そんな体でどうしてまた」
「――長崎へ、帰りたかったのです」
正吉は袖で口を拭いながら云った。
「お袋にひと眼会って、死のうと、――二両の旅費が欲しさに、初めて忍び込んだのがこの家……正吉は今夜こそ、初めて、天罰の恐ろしさを、知りました。――お
「――――」
「何も
茂兵衛は黙って正吉の横顔を見ていた、――そして暫くすると、
「是を持って行け」
ばたりと投げ出した。
「え?――」
「貴様に
正吉は無言で金包を押戴いた。
「長崎は暖い土地だ、生れ変った気で養生をしてみろ。そして一度でも宜い、人間らしくなった姿を見せてやってくれ」
誰に見せろとは云わなかった、――正吉は歯を食いしばって
茂兵衛は裏木戸まで送って来て、印入りの提灯を与えた。――追われる身には何よりの贈物である。正吉は無言で受取り、千万の言葉を
「おや、おめえさんまた来たのか」
さっきの居酒屋だった。
「今度は良いのを頼むぜ」
正吉は悲しげな微笑を浮べて云った。
「このまま会えるかどうか分らねえ親方に、商売物の酒を
「何か良い目でも出たのかい」
「おらあ明日の朝長崎へ帰るんだ」
亭主は燗をつけながらじろりと見た。――厭な眼つきだった。
「さっきはそんな景気じゃあねえようだったなあ」
「だから祝って貰いに来たのよ」
「そいつあ豪気だ、――
「船だよ。おっと来た」
亭主が燗徳利と
「さっきのお返しだ」
「そう云われちゃあ恥入りだ、貰うぜ」
「海上無事を祝ってくんねえ、――明日の朝あもう江戸ともおさらばだ。十二年振りに帰る長崎、変ったろうなあ、眼をつぶると見えるようだぜ」
「さあ返盃だ――」
「おらあいけねえ、いまの先断ったばかりだ、おらあこれから生れ変るんだ、故郷へ帰って始めっから遣り直すんだ、何も彼もこれからなんだ」
「そいつあ良い思案だ、けれども
「そうだ、人間一匹生れ変るなあ容易いこっちゃあねえ、けれどもおらあやるんだ、例え嘘にでも、一度だけあ真人間の姿を見せてあげてえ人がある」
「分ってるよ、
「そうじゃあねえ、昔は知らず今はそう云っちゃあ済まねえ人だ。――ああ、今夜は色々な事があった、二十四の今日までをひと
然し正吉はそう云うことをもう少し待った方がよかったのである、――運命の操る糸は眼にこそ見えね、因果の律は不思議なほど緊密に巡って来る。その夜の最後の事件は、それから四半刻も経たぬうちに起った。
亭主に頼んで雑炊を拵えて貰っていると、土間の横手の油障子が手荒く明いて、どかどかと入って来た人の気配。
「――奥を借りるぜ」
と云うのを見た亭主が、
「あ! いけねえ、裏から……」
慌てて手を振る様子に、正吉がひょいと振返って見ると、
「助けて、助けてーッ」
ひらき戸から奥へ消える時、店にいる正吉をみつけたかして娘が
「何処へ行くんだ!」
喚く声に、振向いて見ると亭主が、右手に刺身
「可哀相に、
静かに云って、銀のびろびろの震えている簪を、珍しい物でも見るように、くるくる廻しながら戻って来た。
「ふん。ひと晩に簪の二つや三つ、泥まみれになるのは江戸じゃあ珍しかあねえ」
「全くよ、珍しかあねえ」
「だから見ねえつもりでいな、若いの」
と亭主が
「うっ! や、野郎ッ」
呻きながら
「誰だ、
と障子を明けて覗く、その
「ぎゃッ」
悲鳴と共にのめる奴を、突放してとび込むと、部屋の中に娘を
捨身の庖丁に
「――野郎!」
「あッ」
と正吉、振返りざま其奴の脇下へ、骨も徹れと庖丁を突っ込んだ。
「だ、誰か来て呉れ、むーッ」
無気味に喚きながら、仲間の上へ折重って倒れる。――正吉も脾腹の傷に耐えかねて、思わずよろよろとなったが、
「助けて、助けて下さいまし」
と云う娘の声に、はっと気を取直して走り寄ると、手早く娘の
「あ、おまえは正さん」
と
「え――

「あたしを忘れたの正さん」
「――あッ」
「お美津よ。逢いたかった」
叫ぶように云って、狂おしく
「――逢いたかった、逢いたかった」
「お美津さま!」
正吉も我を忘れて抱緊めた。
歓びと哀みと、悔恨と謝罪との入混った愛着の情が、まるで烈火のように正吉の身内を痺れさせた、――然しそうしている場合ではない。
「ここは危い、早く表へ!」
と云って、お美津を抱き起した正吉は、
「あたしもう死ぬ覚悟でいたわ」
「ここまで来ればもう大丈夫です」
正吉は暗い街辻で喘ぎながら足を停めた、脾腹の傷を覚られまいとする苦しさ、着物の下を伝わって血は流れ続けている。
「ここからは寮も近い、お美津さま、早く貴女は帰って下さい」
「あたしが独りで帰ると思って?」
お美津はすり寄って、
「あたしは厭、おまえと一緒でなければお美津は生きる
「…………」
「ひどい、ひどい、正さん」
脾腹の傷より、もっと烈しい痛みが、きりきりと正吉の胸を
耐え難そうに
「お帰り下さい、お美津さま」
「――――」
「正吉も長崎へ帰ります、そして――真人間に、昔の正吉に生れ変って来ます。私は、悪い夢を見ました」
「正さん!」
「此の世にあるとも思えない、悪い夢でした。けれどその夢も
「いけない。一緒に来て、正さん」
「左様なら、正吉を可哀そうな奴だと
「待って、待って、正さーん」
追い縋るお美津の手を振切って、正吉はよろめきよろめき走り去った。――ふところへ入れた右手には、さっき居酒屋の土間で拾った、お美津の花簪を
その明くる朝。
ようやく明けたばかりの江戸橋の船着場に、雪のような白い霜を浴びて、一人の男が死んでいた。それを発見したのは、その朝そこを出帆する長崎船「八幡丸」の船頭だった。
死体の男は脾腹に無残な傷を受けていたが、しっかりと胸へ押当てた手には、美しい花簪をひとつ固く固く握り緊めていた。――集って来た人たちは、男のみすぼらしい
天保十一年十二月十七日朝の