お美津簪

山本周五郎





「音をさせちゃ駄目、そおっと来るのよ」
「――大丈夫です」
「そら! 駄目じゃないの」
 正吉の重みで梯子段はしごだんきしむと、お美津みつ悪戯いたずららしく上眼でにらんだ。――十六の乙女の眸子ひとみは、そのときあやしい光を帯びていた。
 土蔵の二階は暗かった、番札をった長持ながもち唐櫃からびつや、小道具を入れる用箪笥ようだんすなどが、南の片明りを受けて並んでいる。お美津は北側の隅へ正吉をれて行って、溜塗ためぬり大葛籠おおつづらの蔭をのぞきこんだ。
「ああまだいるわ」
「いったい何なんですか」
「御覧なさい。あれ」
 指さされた所を覗いて見ると、葛籠の蔭のところにひと塊りの繿縷ぼろ切れがつくねられてあり、その真中のくぼみに、小さな薄紅い動物の仔が四五匹、ひくひくとうごめいていた。
「――鼠の仔ですね」
「そうよ、可愛いでしょ」
「気味が悪いな」
「嘘よ可愛いわ。ほうら――こっちの端にいるひとりだけ眼が明いてるでしょ」
「見えない」
「もっとこっちへ寄って御覧なさい」
 お美津は正吉の腕を執って引き寄せた、二人の体がぴったりと触れ合った。――土蔵の中はちりの落ちる音も聞こえそうに静かだった、梅雨明けの湿った空気は、物のりてゆく甘酸い匂いに染みている。正吉は腕を伝わって感じるお美津の温みに、しびれるような胸のときめきを覚えながら、こくりと唾をのんだ。
「――幾匹いるかしら」
「五匹よ」
「みんな未だ裸だな」
「……生れたばかりですもの、もう少しすれば毛が生えてよ、――きっと」
 お美津の声は哀れなほどふるえていた。触れ合っている肌はじっとりと汗ばんで、小さな胸があえぐような息遣いに波打っている、――面白いものを見せるからと云って、正吉をここへ誘って来たお美津の本当の気持が、その荒い息遣いの中で精いっぱいに叫んでいるのだ。
 正吉はじっとしているのに耐えられなくなって、いきなり手を差出した。
「こいつ、捨てなくちゃ」
「駄目よ」
 お美津は慌ててその手頸てくびつかんだ。
「可哀相じゃないの」
「だって、――蔵の中にこんな……」
「いけない、いけない」
 二人は眼を見交わした、二人とも真青な顔をしていた。正吉の手頸を掴んだお美津の手がわなわなとおののいていた。然しその眸子は、急に大胆に輝き、あかくしめった唇は物言いたげに痙攣ひきつった。正吉は手を振放そうとした、お美津はそうさせまいとした、おどおどしたぎごちない争いが起った、お美津がよろめいたので正吉が支えた、そのとたんに二人は、何方からともなく互いの体を抱き合った。
「――いや! いけない」
 火のようなお美津の息吹と、
「お美津さん」
 という暴々あらあらしい正吉の喘ぎとがもつれた。紫色の眼のくらむような雲が、二人を取巻いてくるくると渦を巻いた。
「正さん、――正さん、……」
 絶え入りそうなお美津の叫びが、正吉の耳許みみもとへ近寄って来た。正吉はお美津のしなやかな温い体を狂おしく抱き緊めた。――そしてその手触りが、段々とはっきりし始めた時、
「正さん、どうしたの、正さん!」
 ひどく肩を揺りながら呼び覚まされて、正吉はふっと眠りから覚めた。――夢だった。
「どうしたのさ、こんな所へ転寝うたたねをして毒じゃないか、――辰さんが来てるんだよ、お起きな」
 棒縞お召のあわせ黒繻子くろじゅすの帯、えりのついた袢纒はんてんをひっかけた伝法な姿、水浅黄みずあさぎ蹴出けだしの覗くのも構わずみだらがましく立膝たてひざをしている女の側に、辰次郎が寒そうな顔で笑っていた。
「辰さんか。――」
「ちょいと用があってね。来る途中そこん所で湯帰りのお紋さんに会ったものだから」
「まあ火の側へ寄んねえ」
 正吉は物憂げに起き直った。――お紋は湯道具を鏡の前へ置いて、耳盥みみだらいへ湯を取り、白粉壺おしろいつぼ牡丹刷毛ぼたんばけを取広げながら、
「おまえはひどくうなされていたよ」
「――――」
「この頃寝ると直ぐ魘されるようじゃないか、きっと病気が良くない証拠だから、転寝うたたねなんかしちゃ駄目だというのにねえ」


 正吉は黙ってふところへ手をやった。気味の悪いような盗汗ねあせだった。
 ――もう長え命じゃあねえ。
 正吉はそう思った。
 ――この頃お美津ちゃんの夢ばかり見るのもそのせいかも知れねえ。人間死ぬときには一生の事を夢に見るってえからなあ。
「実はひと仕事持って来たんだ」
 辰はお紋の方へ話しかけていた。
「仕事ってまた例の口かい」
「そうじゃあねえ、おいら初め橋場はしばの親分まで、このところ可笑おかしいくれえの不漁しけさ、このまま三日もいれあ人間の干乾しが出来ようてえ始末なんだ」
「こっちも御同様なのさ」
「そこで相談だが、まあ聞いてくんねえ筋書はこうだ、――橋場の親分が客人を伴れて来る、場所は横網よこあみ葉名家はなや
「じゃあ博奕ばくちだね」
「博奕は博奕だが種がある、親分が客人を伴れてくる時にこしらえ博奕だというんだ。いいかい、田舎上りのいいかもがいるから組みで拵え博奕をやろうと相談をして来る」
「田舎上りのいい鴨てえのがあるのかい」
「そこがねたさ、鴨には正さんに化けて貰うんだ。――正さんが鴨で博奕を始める、なあに拵えは分っているんだ、いいくらい勝たして置いてから、正さんが拵え博奕の現場を押えて尻をまくるんだ」
「なるほどね」
「つめさいは博奕の法度、場銭をさらったうえに簀巻すまきにして川へ叩きこまれても文句の云えねえのが仲間の定法だ、――正さんの顔なら凄味すごみがあってきっとおどしが利くぜ」
「面白い、それあ物になるねえ」
 お紋は振返って、
「で――その客の当てはあるのかい?」
「それが無くて相談に来るかい、五十両ずつ持った旦那衆が二人いるんだ」
「乗ろうよ、その話」
「有難え、早速の承知で何よりだ、なにしろ急な話で他に人がねえ、正さんならと見当をつけてやって来たんだ、――じゃあ済まねえがおらあ直ぐ橋場へ知らせるから、一刻いっときばかりうちに葉名家の方へ来てくんねえ」
「おや、今夜なのかえ」
「客人はもう橋場へ来ているんだ」
 そう云って辰次郎は立ち上った。
 辰を送り出してお紋が戻って来ると、正吉は壁へもたれたままうつろな眼でくうみつめていた、――とろんと濁った眼だった、蒼白あおじろい紙のように乾いた皮膚、げっそりとこけた頬、つやを失った髪の毛……お紋は慄然りつぜんとして眼を外向けながら、鏡へ向って肌を脱いだ。
「正さん、いまの話――やっておくれだろうねえ?」
「……いやだ」
 にべもない返辞だった。
「厭だって、どうしてさ」
「このあいだ断った筈だ、こんな浅ましい仕事はもう沢山だ、真平御免こうむるってちゃんと断って置いた筈だ」
「浅ましい仕事だって?――ふん」
 湯上りの肌へ、自信たっぷりに白粉を刷きながら、お紋は冷笑して云った。
「たいそう立派な口をお利きだねえ正さん。労咳ろうがい病みの薬料から其の日其の日のおまんま、いったい誰のお蔭で口へ入るのかおまえ知っておいでかえ」
「――知っていたらどうするんだ」
「そんな偉そうな口は利けまいと云うのさ、猫だって三日飼われた恩は忘れないよ」
「お紋! てめえ……」
 正吉は思わず、長火鉢の猫板の上から湯呑を取上げた。
「てめえ、それを本気で云うのか」
「売り言葉に買い言葉、お互いさ」
「――畜生!」
 正吉は身を震わして叫んだ。
「よくもそんなことをぬかしゃあがった、この己を、こんなざまにしたなあ誰だ、素っ堅気のお店者たなもの、これっぽっちも世間の汚れを知らなかった者を、だまし放題に騙しゃあがって、大恩ある主人の金を持ち逃げさせ、一生浮かぶ瀬のねえ泥沼へ引きずり込んだなあ誰だ! こんな労咳病みの体にしたなあ誰なんだ」
「今更なんだね未練がましい、誰のせいなもんか、おまえが好きで墜ちた穴じゃないか、厭がるおまえの首へ繩をかけて曳いて来た訳じゃないよ」
「畜生※(感嘆符二つ、1-8-75) 売女ばいた※(感嘆符二つ、1-8-75)
 湯呑を掴んだ正吉の手がぶるぶると慄えた。正吉はそれをあぶらぎった女の背中へ叩きつけようとした。――すると不意に恐ろしいせきがこみあげて来た、正吉は湯呑を投げ出し、両手で喉を掴みながら、こんこんと咳き入りつつそこへうち倒れた。……苦しさに固く閉じた眼蓋の裏へ、いましがた夢で見たお美津の、なつかしい顔がまざまざと見えて来た。


 初めて江戸へ出て来た時の事が思われる、十二の年だった。故郷の長崎から父に伴われて来ると、同郷の筑紫屋茂兵衛の店へ奉公に入った。筑紫屋は江戸でも有数の唐物商(現今の貿易商)で、日本橋本町に間口十二間の店と、五戸前の土蔵を持った大店だった。――茂兵衛には男子がなくて、おつなとお美津という二人の娘がいた。父親同志が故郷での親友だったので、正吉は他の奉公人たちとは別に目をかけられ、二人の娘とは友達のようにして育った。
 正吉は気質も好く、人品も優れているうえに、人並以上の敏才だったので、茂兵衛はやがて姉娘のお綱の婿に直し、筑紫屋の跡目を継がせようとした。――ところがその時分、正吉は妹娘のお美津と、ひそかに恋を語るようになっていた。そして或る日……奥土蔵の中で、二人が罪のない逢曳あいびきをしているところを番頭の一人に発見された。
 お綱の婿にと、すっかり段取りを定めていた茂兵衛はひどく怒った。お美津は直ぐに根岸の寮へやられ、正吉は懲しめのため、一年間小僧と同じ走り使いに落とされた。――この小さな食い違いが正吉の運命を捻曲ねじまげる因であった、そしてすっかり自棄やけになっているところへお紋が現われた。お紋は筑紫屋の裏に薗八節の師匠という看板をかけ、内実はいかがわしい商売をしている女だったが、早くから正吉の美貌に眼をつけていて、彼が自棄になっているところをうまうまと自分の物にした、正吉は遂に五十両という店の金を持出してお紋と逃げた。……それ以来五年、闇から闇を渡るどん底暮しに、押借おしがり強請ゆすり美人局つつもたせと、あらゆる無頼の味をめた、そして飽くことを知らぬ女の情慾のために、今では治る望みもない労咳を病む身となっている――。
 ――罰だ、罰だ。みんな旦那様やお美津ちゃんの罰が当ったんだ。
 正吉は身悶みもだえをしてうめいた。
「いい態だ、いい態だ、罰当たりめ、こうなるのが己にはふさわしいんだ」
「正さん、――正さん」
 お紋はその有様を冷やかに見ていたが、やがてなだめるような調子で側へ寄った。
「厭ねえ正さん、何もそんなにむきになる事はないじゃないの、――あたしも少し云い過ぎたけど、おまえだってひどいよ。幾らお紋が阿婆擦あばずれでも、好きでこんな事をするものかね、みんな正さんと楽しくやって行きたいためじゃないか。それあ……正さんをこんなにしたのはあたしの罪かも知れない、けれどあたしが正さんに命までと打込んでいたのは嘘じゃなかったわよ」
「――――」
「正さんだって幾らかあたしを好いてくれたからこそ、ここまで一緒に墜ちて来たんでしょう?――日蔭の生計しか知らないお紋と、世間知らずの正さんがひとつになれば、結局こんな穴より他に生きる道は有りゃあしない、あたしはねえ正さん、おまえとなら地獄の底へでも行く覚悟だよ」
 お紋は自分の言葉に酔いながら、そっと正吉の肩へ手をかけた。――正吉は死んだ者のように身動きもしなかった。
「ねえ、分っておくれだろう」
「――――」
「分っておくれなら機嫌を直そうよ、そして今夜の仕事がうまくいったら、正月は二人でのんびり湯治にでも行くんだ、そうすれば病気もきっと良くなるからね」
 お紋は説き伏せたつもりで、静かに正吉の肩を愛撫あいぶしてから立上った。
「さあ機嫌を直して、そろそろ出掛けるとしよう、ねえ正さん」
「――――」
「あたし着換えて来るわね」
 お紋は次の間へ立って行った。――その足音を聞きすまして、正吉は急に起上ると、何を思ったかそのまま格子口の方へ出て行った。
「おや、どうかしたの正さん」
 女の呼ぶ声がした、「――正さん、どうかしたのかえ、……正さん※(感嘆符二つ、1-8-75)」正吉は戸外へとび出していた。
 ――逃げるんだ、今夜こそこの泥沼の中から逃げるんだ!
 外はこがらしの吹く月夜だった。一丁ばかりは夢中で走った、然しいきなり冷たい風の中を走ったので、大川端まで来ると再び烈しい咳がこみあげ、河岸かしっぷちに積んであった材木の上へ、殆どぶっ倒れるようにして、息も絶え絶えに咳きこんだ。――そしてようやくそれが鎮まったときには、体中がびっしょり膏汗で、暫くは身動きも出来ぬ有様だった。
 川波がひたひたと音をたてていた、空高く鳥の声がするので、仰いで見ると遙かに、雁の群が西へ西へと渡っていた。
「――あの雁の行く方に長崎がある」
 正吉は悲しげに呟いた。
「長崎、……長崎、――おっかさん※(感嘆符二つ、1-8-75)
 不意に、全く不意に、正吉の胸へ熱病のような故郷恋いの念がつきあげて来た。――香焼島に寄せる潮の音が聞える、出島の異人館の旗が見える。諏訪神社の山も、唐風の眼鏡橋も……まるで覗絵を見るように見えて来る。
「そうだ、長崎へ帰ろう、どうせもう半年さきも覚束ない体だ、故郷の土を踏んでから死のう、おっかさんにひと眼会って、不孝をびて死のう」
 思いつくと矢も盾も堪らなかった。正吉は息をはずませて立った。


「あいにくだったなあ、二両はさておき二朱もねえ始末だ」
「――そうか」
「おあらため以来というもの一列一体のひでりだ、恥かしいが女房を裸にしてやっとかゆすすってる有様よ、――急ぐんだろうなあ」
「なに、無けれあいいんだ、騒がして済まなかった、勘弁して呉んねえ」
「冗談じゃあねえ、むだ足をさしてこっちこそ申訳ねえ」
「じゃあ又来るぜ」
 正吉は寒々と露地を出た。
 ――矢張り駄目か。
 どんな事をしても長崎へ帰ろう! そう思案を決めた。然しこの体ではとても歩く旅はむずかしいので、回船問屋へ行ってくと、幸い明日の朝七時むつはんに長崎向けの船が江戸橋から出ると分った。然もそれは年内で最後の船で、それに後れると正月十五日過ぎなければないと云う、――そう聞くともう帰心は油をそそがれた火のようなものだった。船賃を入れて二両、かつかつの旅費を工面するために、凩の中を足に任せて駈け廻った。
 然し、その秋から断行された町奉行の、放火ひつけ盗賊とうぞくあらための厳しさは、彼等の仲間にもひどくたたって、二両などと云う金の都合のつく者は一人もなかった。
「どうしよう、――明日の船に乗り後れれば、あとは正月十五日過ぎでなければ船は無いのだ。この体ではそれまで保つかどうか分らない、どんな事をしても帰り度いが――ああ、どうしたらいいんだ」
 空しく歩き廻った疲れと寒さで、身の凍えきった正吉は、ふと通りかかった居酒屋の暖簾のれんをくぐる気になった。――店はがらんとして人気もなく、亭主らしい肥えた男が、鋭く光る眼でぎろりと正吉を見た。
「酒をつけてくれ」
「――どの口に致しましょう」
「その……」
 正吉はふところの銭をそらで数えた。
「その梅でいいや」
「おさかなは?」
「――いらねえよ、寒さしのぎなんだ」
 亭主は無愛想に酒のかんをつけて来た。――正吉はそこに出ているつまみ物にも手を出さず、呷りつけるようにぐいぐいと呑んだ。そして二本めにかかった時、さっきからじっと正吉の様子を見ていた亭主が、身を乗出すようにして云った。
「間違ったら御免なさい、――おまえさん生れは九州の方じゃあありませんかい」
「へえ――よく分るな、おらあ長崎だが」
「そいつあ懐しい私も長崎だ」
「親方もか?」
 正吉は眼を輝かして、
「それあ奇縁だあ、おらあ一ノ瀬の下だが、親方あどこだ」
「――そんな事を訊く必要は無かろう」
 亭主の顔つきが不意に変って、野獣のような惨忍な表情が現われた。――正吉は眼を外らしながら黙った。
「呑んでくれ、これあ私のおごりだ」
 別に一本、上酒の燗をして亭主が持ってきた。――そして語調を柔げて、
「どうも言葉尻になまりがあると思ったんだ、何十年離れていても、故郷訛りは争えねえものだ、なあ若い衆。――だが」
「――――」
「おめえも見たところ堅気じゃあ無さそうだ。つまらねえ詮議せんぎは止めにして、気持よく呑んだら行って貰おうぜ」
「下らねえ事を訊いて悪かった」
 正吉は素直に云った、「――同じ所と聞いたんでつい舌が滑ったんだ、気を悪くしねえでくれ」
「分りあいいのよ」
「御馳走になるぜ」
 正吉は亭主の酒をあっさり呑んだ。――そして手早く勘定を済ませると、
「縁があったら又会おう」
 と外へ出た。
 居酒屋の亭主が長崎と聞いて、正吉は更に更に帰心をそそられたのである、そして、さっきいたちの辰次郎が来て話した「拵え博奕ばくち」の事を思いだしたのだった。
「もう一度だけだ、今夜っきりでおさらばなんだ、これ一度だけやろう」
 正吉はそう決心した。――場所は横網の葉名家はなやと聞いている、それはこれまでも仲間が度々使った小料理屋で、むろん正吉もよく知っていた。


 横網の河岸かしを五六間入ると、大きくはないが二階造りで、表に「葉名家」と軒行燈が出ている。――ようやく十時よつになったばかりであろう、間に合ってくれれば宜いと、勝手知った庭口から入った。
 その時であった、右手の闇から一人の男がぬっと出て、
「何方様でござんすか」
 とこっちを覗きこんだ。
「おらあ……」
 と云いかけて正吉はぴたりと足を止めた、こっちを見込んだ相手の身構え、右手をふところへ入れて腰を浮かした恰好、――ひと目で岡っ引と分る。
 ――しまった、手が廻っている。
 そう思うのと、
「御用だ!」
 と相手の跳びかかるのと同時だった。
 正吉は体を捻って、十手の一撃を避けざま、だっと相手に体当りをくれると、身を飜えしてへい外へとび出した。
「うぬ待ちあがれッ」
 岡っ引は追いながら呼子よぶこを吹いた、えた寒気をつんざいて鋭い笛の音が流れた。
 ――つかまってなるか、どんな事をしたって一度長崎へ帰るんだ、ひと眼おっかさんに会うんだ、どんな事をしたって。
 正吉は夢中で逃げた。然し笛の音は左から右から、前と後と相呼応しつつ、袋を絞上げるように迫って来る、余程の厳しい手配らしい。――正吉は本所御蔵の堀へ抜け、小泉町の方へ引返して両国へ出ようとした、然し表通りへ出る前に、行手を御用提灯ぢょうちんさえぎられた。
 ――駄目か。
 咄嗟とっさに戻ってくると、其方からも七八人の人影、絶体絶命である。
 ――畜生!
 呻くと、咄嗟に右手の黒板塀へとび付いてさっと中へ乗り越えた。――したたかに腰を打って、そのまますくんでいると、塀の外をばらばらと人の走り去る足音が遠のいて行った。正吉は凍てついた土の上に、暫くは身動きも出来ず息を喘がせていた。
 ――助かった。
 呼子の音が聞えなくなった時、正吉は生き返ったように呟いた。
「今夜の様子はちっと妙だ、おいら仲間を狙うにしちゃあ厳重過ぎる、――きっと他に大きな捕物があったに違えねえ。その巻添えを食ったんだ……あの様子じゃあお紋のやつも、橋場も辰も、恐らくお繩になっただろう、――みんな年貢の納め時なんだ」
 正吉は静かに身を起した。
「だがおらあ逃げる、石にかじりついたって逃げてみせる、そして長崎へ……」
 とつぶやいた時、ふいっと或る考えが頭に浮かんだ。――それは恐ろしい考えだった。正吉はぶるっと身顫いをして、……いけねえ、駄目だ! と自分を叱りつけた。だが他にどうする。
「船は明日の朝七時むつはんに出るんだ」
 正吉はじっと四辺あたりを見廻した。金に飽かした小庭の結構、木の香も新しい寮造りの二階建てだ。然も――幸か不幸か、まるでここから入れといわんばかりに、縁側の戸が一枚明いたままになっている。
 正吉は半ば夢中で、ふらふらとそこから中へ忍び込んだ。
 ――到頭やった。どんなに落魄おちぶれても、盗人だけはしずに来たが、今夜という今夜あどたん場だ。ええ! どうなるものか。
 度胸を定めた正吉は、ふところの短刀を抜いて、縁側から座敷の方へ進んで行った。家内は森閑として音もない、さすがに胸が裂けるかとばかり騒いで、膝頭はがくがくと震える。まだ新しい建物なので、どんなに足音を忍ばせてもきしみが立った。
 ――くそっ、みつかったら短刀でひとおどしやる迄だ。
 自分をしかけながら、主人の居間と思われる部屋の表へ来ると、廊下へかがんで静かに障子を引き明けた。――そして一歩中へ入った、その刹那せつな! 正吉はいきなり闇の中から向うずねがっと払われて、
「あっ、つー※(感嘆符二つ、1-8-75)
 叫びながら顛倒てんとうした、直ちにはね起きようとする、隙も与えず、背中からがっしと馬乗りに押えつけられて了った。
 ――もう駄目だ!
 と直感した時、猛烈な咳が襲って来て、捻伏せられたまま体に波を打たせて咳き入った。
「誰か燈を持って来い、泥棒だ」
 馬乗りになった男が叫んだ。
 二度三度叫ぶのを聞きつけて若いはしためが二人、手燭てしょくを持って駈けつけて来た。主人と見える男は正吉の手から短刀をもぎ取ると、――ひどく咳き入っていて逃げる様子もないと見たか、正吉の上から体を退けて、
「燈をこっちへ見せてくれ」
 と、慄えている婢に云った。


「あっ、おまえは……」
 手燭の光に、俯伏うつぶせになった正吉の顔を見るなり、主人はさっと色を変えた。――そして振返ると、恐ろしそうに慄えている婢たちに、
「もう宜い、少し私に考えがあるから、おまえたちは向うへ行っておいで」
「あ、あの――自身番へお届けを」
「届ける時には私がそう云う、黙って向うへ行っているんだ」
 婢たちは足も地につかぬ様子で、そそくさと廊下を去って行った。――主人はその足音を聞きすましてから、暫くのあいだ正吉の姿をみまもっていたが、やがて底力のある声で、
「正吉、――顔を挙げたらどうだ」
 と云った。正吉の体がぴくっと痙攣ひきつった。波打っていた背中が停まった、――正吉は恐る恐る顔をあげた、そして手燭の光に照された主人の面を、白痴のような眼で暫くみつめていたと思うと、突然、
「あっ、だ、旦那!」
 絶叫して跳ね起きる、とたんに主人はその肩を掴んで突き倒し、背中を足で踏みつけながら、
「分るか、この私の顔が分るか。この恥知らずの犬め、――筑紫屋茂兵衛にあれだけ煮え湯を呑まして置いてまだ足らず、押込みにまで這入はいるとは畜生にも劣った人非人め」
「ま、間違いでございます、だ、旦那」
 正吉は腸を絞るように叫んだ、――なんという運命の皮肉さであろう。退引のっぴきならぬどたん場に迫られ、初めて犯す罪の――入った家は筑紫屋茂兵衛の寮であったのだ。
「出て行け、出て失せろ」
 茂兵衛は正吉の背を蹴放した。
「この手で繩にかけてやるのもけがらわしい。早くここから出て失せろ。――この茂兵衛はな、今日が日まで貴様のことを、しや真人間になって帰る日もあろうかと、自分のせがれを一人失くしたよりも辛い気持で待っていたのだぞ」
「――――」
「茂兵衛はそれでも宜い。だが……可哀そうなのはお美津だ、貴様の方では覚えてもいまいが、お美津は貴様を忘れることが出来ず、――今では半病人のようになってこの寮に暮しているのだ。……お美津はまだ、貴様がきっと自分のところへ戻って来ると信じているのだぞ、それなのに――貴様は、貴様は……」
 正吉は畳に伏したまま体を弓のように曲げた、ごぼごぼと無気味な音がして、正吉の口からぱっと血潮がほとばしった。――茂兵衛はさすがにぎょっとした。そして手燭の光で改めて正吉の姿を見直した。余りにも変り果てた相貌、余りにも変り果てた姿だった。
「――正吉!」
「旦那さま、……」
「貴様そんな重い病気なのか」
「罰でございます、天道さまの罰が当ったのでございます。旦那さま、正吉は、こんな姿になりました」
「そんな体でどうしてまた」
「――長崎へ、帰りたかったのです」
 正吉は袖で口を拭いながら云った。
「お袋にひと眼会って、死のうと、――二両の旅費が欲しさに、初めて忍び込んだのがこの家……正吉は今夜こそ、初めて、天罰の恐ろしさを、知りました。――おゆるし下さいとは、とても申上げられません、どうか旦那さま、正吉をこのまま見逃して下さいまし」
「――――」
「何も仰有おっしゃらずに、お見逃し下さいまし」
 茂兵衛は黙って正吉の横顔を見ていた、――そして暫くすると、用箪笥ようだんすの方へ立って行って、金包を拵えて戻ってきた。
「是を持って行け」
 ばたりと投げ出した。
「え?――」
「貴様にるのではない、長崎で待っているお袋さんに遣るのだ、……お美津は今夜、小梅の越後屋の寮に長唄の納めざらいがあって出掛けたが、もうそろそろ帰る時分だ、彼女あれにだけは貴様のその姿を見せたくない――それを持って早く出て行け」
 正吉は無言で金包を押戴いた。
「長崎は暖い土地だ、生れ変った気で養生をしてみろ。そして一度でも宜い、人間らしくなった姿を見せてやってくれ」
 誰に見せろとは云わなかった、――正吉は歯を食いしばって嗚咽おえつを忍んだ。
 茂兵衛は裏木戸まで送って来て、印入りの提灯を与えた。――追われる身には何よりの贈物である。正吉は無言で受取り、千万の言葉をめた会釈を……たった一度。よろめく足を踏みしめ踏みしめ、こがらしの中を両国の方へ――。


「おや、おめえさんまた来たのか」
 さっきの居酒屋だった。
「今度は良いのを頼むぜ」
 正吉は悲しげな微笑を浮べて云った。
「このまま会えるかどうか分らねえ親方に、商売物の酒をおごられっ放しじゃあ気が済まねえ、――それに祝って貰いてえ事もある」
「何か良い目でも出たのかい」
「おらあ明日の朝長崎へ帰るんだ」
 亭主は燗をつけながらじろりと見た。――厭な眼つきだった。
「さっきはそんな景気じゃあねえようだったなあ」
「だから祝って貰いに来たのよ」
「そいつあ豪気だ、――おかを行くかい」
「船だよ。おっと来た」
 亭主が燗徳利とさかずきを二つ持って来るのを、待ち兼ねたように正吉はした。
「さっきのお返しだ」
「そう云われちゃあ恥入りだ、貰うぜ」
「海上無事を祝ってくんねえ、――明日の朝あもう江戸ともおさらばだ。十二年振りに帰る長崎、変ったろうなあ、眼をつぶると見えるようだぜ」
「さあ返盃だ――」
「おらあいけねえ、いまの先断ったばかりだ、おらあこれから生れ変るんだ、故郷へ帰って始めっから遣り直すんだ、何も彼もこれからなんだ」
「そいつあ良い思案だ、けれども容易たやすく出来るこっちゃあねえ」
「そうだ、人間一匹生れ変るなあ容易いこっちゃあねえ、けれどもおらあやるんだ、例え嘘にでも、一度だけあ真人間の姿を見せてあげてえ人がある」
「分ってるよ、恋人これだろう」
「そうじゃあねえ、昔は知らず今はそう云っちゃあ済まねえ人だ。――ああ、今夜は色々な事があった、二十四の今日までをひとまとめにしたよりも、もっと変った事ばかり起った」
 然し正吉はそう云うことをもう少し待った方がよかったのである、――運命の操る糸は眼にこそ見えね、因果の律は不思議なほど緊密に巡って来る。その夜の最後の事件は、それから四半刻も経たぬうちに起った。
 亭主に頼んで雑炊を拵えて貰っていると、土間の横手の油障子が手荒く明いて、どかどかと入って来た人の気配。
「――奥を借りるぜ」
 と云うのを見た亭主が、
「あ! いけねえ、裏から……」
 慌てて手を振る様子に、正吉がひょいと振返って見ると、無頼者態ならずものていの男が三人、――ひとりの娘を手取り足取り奥へ担ぎ込もうとするところだった。――正吉は咄嗟とっさにこの居酒屋の素性を覚った、亭主の様子が尋常でないと思った筈、ひと皮けば、こんな荒仕事の地獄宿なのだ。
「助けて、助けてーッ」
 ひらき戸から奥へ消える時、店にいる正吉をみつけたかして娘がきぬを裂くように叫んだ。――正吉は亭主の方へ振返った、亭主はそ知らぬ顔で小鍋こなべの下をあおいでいる、正吉はすっと立って行った。
「何処へ行くんだ!」
 喚く声に、振向いて見ると亭主が、右手に刺身庖丁ぼうちょうを持って突っ立っていた。――正吉はにやりと笑いながら、土間に落ちていた花簪はなかんざしをひょいと拾って、
「可哀相に、綺麗きれいな簪が泥だぜ、――親方」
 静かに云って、銀のびろびろの震えている簪を、珍しい物でも見るように、くるくる廻しながら戻って来た。
「ふん。ひと晩に簪の二つや三つ、泥まみれになるのは江戸じゃあ珍しかあねえ」
「全くよ、珍しかあねえ」
「だから見ねえつもりでいな、若いの」
 と亭主がおさえつけるように云う、刹那、正吉の足がたっと亭主の股間こかんを蹴上げた。
「うっ! や、野郎ッ」
 呻きながらかがむ奴の、手から、刺身庖丁を奪い取った正吉、ばっと上へ跳上がると、ひらき戸を蹴放して奥へ踏み込んだ。とっつきの部屋の中から物音を聞いて、
「誰だ、権兄哥ごんあにいか」
 と障子を明けて覗く、その喉元のどもとへ、正吉はいきなり刺身庖丁を突っ込んだ、
「ぎゃッ」
 悲鳴と共にのめる奴を、突放してとび込むと、部屋の中に娘をはさんでいた二人が、あっと云って立上る、のっけへ、庖丁を構えたまま、正吉が体ごと叩きつけるように突っかけた。
 捨身の庖丁にしたたか胸を刺されて、一人がだあっふすまもろ共倒れる。その脇から、残った一人が短刀を抜きざま正吉の脾腹ひばらへひと突き、
「――野郎!」
「あッ」
 と正吉、振返りざま其奴の脇下へ、骨も徹れと庖丁を突っ込んだ。
「だ、誰か来て呉れ、むーッ」
 無気味に喚きながら、仲間の上へ折重って倒れる。――正吉も脾腹の傷に耐えかねて、思わずよろよろとなったが、
「助けて、助けて下さいまし」
 と云う娘の声に、はっと気を取直して走り寄ると、手早く娘のいましめを切り放した。――とそのとたんに娘が、
「あ、おまえは正さん」
 と仰反のけぞるように驚いて叫んだ。
「え――※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 ぎょっとして眼をみはる正吉、
「あたしを忘れたの正さん」
「――あッ」
「お美津よ。逢いたかった」
 叫ぶように云って、狂おしくすがりつく娘の顔、正吉は息も止るかとおどろいた。なんという不思議な運命であろう、それはまぎれもない筑紫屋の娘お美津であった。
「――逢いたかった、逢いたかった」
「お美津さま!」
 正吉も我を忘れて抱緊めた。


 歓びと哀みと、悔恨と謝罪との入混った愛着の情が、まるで烈火のように正吉の身内を痺れさせた、――然しそうしている場合ではない。
「ここは危い、早く表へ!」
 と云って、お美津を抱き起した正吉は、傷手いたでを堪えながら裏口から外へ出た。
 こがらしの吹く闇の街を五六丁、足に任せて走った。――お美津はその夜、越後屋からの帰りを襲われ、付添いの下男を蹴倒されたうえ、あの地獄へ掠われて行ったのだと云う。
「あたしもう死ぬ覚悟でいたわ」
「ここまで来ればもう大丈夫です」
 正吉は暗い街辻で喘ぎながら足を停めた、脾腹の傷を覚られまいとする苦しさ、着物の下を伝わって血は流れ続けている。
「ここからは寮も近い、お美津さま、早く貴女は帰って下さい」
「あたしが独りで帰ると思って?」
 お美津はすり寄って、
「あたしは厭、おまえと一緒でなければお美津は生きる甲斐かいもないのよ。正さん、――あたしがどんなに待っていたか、おまえは知らないでしょう」
「…………」
「ひどい、ひどい、正さん」
 脾腹の傷より、もっと烈しい痛みが、きりきりと正吉の胸をえぐるのだった。――いけない、正吉は強く頭を振った、「お美津にだけはそんな姿を見せたくない」そう云った茂兵衛の言葉が、鋭く鋭く思い出された。
 耐え難そうにむせびあげるお美津から、正吉は静かに身を離しながら云った。
「お帰り下さい、お美津さま」
「――――」
「正吉も長崎へ帰ります、そして――真人間に、昔の正吉に生れ変って来ます。私は、悪い夢を見ました」
「正さん!」
「此の世にあるとも思えない、悪い夢でした。けれどその夢もめました、故郷へ帰って、この汚れた体を浄めて来ます。きっと、きっと真人間の正吉になって帰ります」
「いけない。一緒に来て、正さん」
「左様なら、正吉を可哀そうな奴だとあわれんで下さい、――左様なら」
「待って、待って、正さーん」
 追い縋るお美津の手を振切って、正吉はよろめきよろめき走り去った。――ふところへ入れた右手には、さっき居酒屋の土間で拾った、お美津の花簪をしっかりと握りながら。……高く高く凩のゆく空を、またしても雁の群が、びょうびょうと鳴きながら西の空へと渡っていた。

 その明くる朝。
 ようやく明けたばかりの江戸橋の船着場に、雪のような白い霜を浴びて、一人の男が死んでいた。それを発見したのは、その朝そこを出帆する長崎船「八幡丸」の船頭だった。
 死体の男は脾腹に無残な傷を受けていたが、しっかりと胸へ押当てた手には、美しい花簪をひとつ固く固く握り緊めていた。――集って来た人たちは、男のみすぼらしい身状みなりと、哀れな死に態と、美しい花簪と謎のような取合せについて、思い思いの話題を拵え合っていた。けれどその死顔が、いささかの苦痛の影もなく、名僧智識の大往生にも似た、安楽の頬笑をうかべていた事に気付いた者はなかった。
 天保十一年十二月十七日朝の七時むつさがり、長崎船の八幡丸は、この奇妙な死体の横たわっている岸を離れて、貝の音も勇ましく、すばらしいぎの海へと船出して行った。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング増刊号」大日本雄辯會講談社
   1937(昭和12)年8月
※「七時」に対するルビの「むつはん」と「むつ」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2021年8月28日作成
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