あすなろう

山本周五郎





 うすよごれた手拭で頬冠ほおかぶりをした、百姓ふうの男が一人、芝金杉のかっぱ河岸がしを、さっきからったり来たりしていた。日はすっかりれてしまい、金杉川に面したその片側町は、涼みに出た人たちでにぎわっていたが、誰もその男に注意する者はなかった。やがて、「灘久」と軒提灯ちょうちんのかかっている、かなり大きな居酒屋から、職人ふうの男が出て来、それを認めたこちらの百姓ふうの男が、すばやく近よっていった。二人は並んで歩きだし、百姓ふうの男がなにか訊いた。片方は首を振った。二人はなおもささやきあったが、町木戸のところで引返し、こんどは百姓ふうの男が、「灘久」の繩暖簾のれんを分けてはいっていった。


「おめえ少し饒舌しゃべりすぎるぜ」
「これも女をものにする手の一つさ」若いほうの男が云った、「冗談じゃあねえ、あにいだってゆんべは結構しゃべったじゃあねえか」
「ちえっ、ゆんべだってやがら」年上のほうの男は右手の指の背で鼻をこすった、「おれがゆうべなにを饒舌った」
「この辺の生れで、なんでも大きなおたなの二男坊だったとか、二階造りの家に土蔵が三戸前もあったとか、小さいじぶんからあばれ者で、近所の者はもちろん、可愛かわいい妹までいじめてよく泣かしたとか」
 年上の男は笑いながら首を振った、「でまかせだ」
「本気で云ってたぜ」
「でたらめさ、酔ってたんだ」と年上の男は酒をすすってから云った、「生れたのは宇田川町、うちは小さな酒問屋だった、くらというのは古い酒蔵が二棟で、一つは半分こわれかけていたっけ、子年ねどしの火事できれいに焼けちまったそうだがね」
「すると、うちの人たちは」
「酒が来たぜ」
 小女こおんな燗徳利かんどくりを二本、盆にのせて持って来た。年上の男がさかなを注文し、若いほうの男は酒を調合した。いている徳利へ、新しい徳利の酒を二割がた移し、脇に置いてある土瓶どびんから薄い番茶をぎ足すのである。つまり番茶を二割がた混ぜたうえで、その酒を飲むのであった。
「おめえはふしぎなことをするな」と年上の男が云った、「そんなものを飲んでうめえか」
「松あにいは知らねえんだ、尤も初対面から三日しかっちゃあいねえからな」と若いほうが云った、「こいつは番太のじじいに教わったんだが、こうして飲むと中気にならねえっていうんだ、茶が酒の毒を消すんだってよ、じじいは八十まで丈夫で、いつも安酒を絶やしたことがなかったが、現に中気にもならず胃を病んで死んだよ」
「するとおめえも、中気になる年まで生きてるつもりか」
「百までもな」と若いほうはやり返した、「生きられるだけ生きてたのしむつもりさ、たのしく生きる法を知ってる者には、この世は極楽だぜ」
「人を泣かして、てめえだけ極楽か」
「あにいは知らねえ、女ってものは泣くのもたのしみのうちなんだ」と若いほうは云った、「――おらあこれまでに、そうさ、十五人ばかり女をものにし、たのしむだけたのしんでから売りとばした、おかしなことに、どの一人とも夫婦約束はしなかった、夫婦にゃあならねえと初めから断わったもんだ」
 この店の広い土間には、差向いに六人掛けられる飯台が三つ、四人で掛けるのが三つ、左右の壁に添って、片方だけに七八人掛けられるのが二つあった。――いま忙しい時がひとさかり過ぎたところで、この二人のほかに、三人組と二人組の客があり、べつの飯台に百姓ふうの男が一人いた。その男はもう半刻はんとき以上にもなるのに、突出しの小皿を前に置いたきり、一本の酒をめるように、大事に啜りながら、ときどき松あにいと呼ばれる男のほうを、すばやい眼つきでぬすみ見していた。――三人組と二人組の客たちは、どちらも相当に酔って、高ごえで話したり笑ったり、ときには唄をうたったりするので、こっちの二人はしばしば話をさえぎられた。
「おれがこんな人間になったのも女のためなんだ」と若いほうが云っていた、「男ってものは赤ん坊からだんだん育ってゆくだろう、五つの年には五つ、十になれば十ってぐあいにさ、ところが女はそうじゃあねえ、女ってやつは立ち歩きを始めるともう女になっちまう」
「男だって生れたときから男だろう」
「そうじゃあねえんだ」若いほうはそこからうまい言葉をみつけだそうとでもするように、持っている盃の中をじっとみつめた、「いろけづく、――でもねえな」と彼は首をひねってから、考え考え云った、「つまりこんなふうなんだ、男にはねえが、女にはおませな子っていうのがあるだろう、女の子はこんなちっちゃなじぶんからへんにしなを作ったり、横眼で人を見たりすましたりするが、おませになるともうおとなとおんなじだ、いろっぽいところも小意地の悪いところも、男にちょっかいをだすところまでおんなじなんだ」
「いやなやつだな、おめえは」
「松あにいは知らねえか」
「おれは文次ってんだ」と年上の男が云った、「なにを聞き違えたか知らねえが、名まえは文次ってんだから覚えといてくれ」
「おかしいな」と若いほうが云った、「初めにおれが政だと名のったら、あにいはたしか」
「文次だ」と彼は押っかぶせるように云った、「職は指物師さしものし、名めえは文次、わかったか」
「わかったよ」と政はうなずいた。
「それで」と文次が促した、「おれがなにを知らねえって」
「なんだっけ、ああ――」政は一と口啜ると、飯台へ片肘かたひじを突き、文次を斜から見あげるようにして云った、「あにいは小さいじぶん、女の子にちょっかいをだされたことがねえかっていうんだ」
「ねえな」と文次は答えた、「おれのほうから乱暴をして泣かしたことはあるが、女の子にちょっかいをだされたなんて覚えはねえ」
「おれは幾たびもあるんだ、いちばん初めは四つの年だ」彼は追憶を舐めるような口ぶりで云った、「相手は同じ町内の娘で、年は六つか七つだったろう、増上寺の境内へ遊びにいって、竹やぶの中で仰向きにされて押っぺされた、そのとき背中で竹の枯葉がごそごそ鳴ったのと、竹の葉の匂いがしたのをいまでもよく覚えているよ」
 文次は無感動に聞いていた。
「その娘には何度もそんなことをされたが、何度めかに町内の筆屋の路地で、炭俵へこうっかかったまま押っぺされているところをおふくろにみつかった」政は肱を突いた手で頬を支えながらくすっと笑った、「――おふくろにこっぴどく叱られたっけ、こっちはなんにも知っちゃあいねえ、ただその娘の云うなりになってたんだが、おふくろに叱られてからそれが恥ずかしいことで、人に知られては悪いんだってことに気がついた」
「四つや五つでか」
「四つの年の夏だったよ」
「おめえはいやなやつだ」文次は顔をしかめた。
「おれがか」政は身を起こした、「おれはなんにも知らなかったんだぜ」
「突きとばしてやれ」と文次が云った、「四つだって男だろう、そんなことをされたらはり倒すか突きとばしてやればいいんだ」
「それがそうはいかねえんだ、こっちはわけがわからねえのに、相手はおとなみてえになってる」政は唇を舐めた、「――おれがぐれ始めて、娘をひっかけるようになってから気がついたんだが、六つか七つでいながら、そういうときに云ったりしたりすることはおとなとおんなじなんだ、ほんとだぜ」
 小女が肴の皿を持って来て置き、あいている皿や小鉢を重ねて、脇のほうへどけ、酒の注文を聞いて去った。
「いちどこんなことがあった、これはいま云った筆屋の娘で八つくらいだったかな、いい物を見せてやるから来いって云うんだ」政は一と口啜って続けた、「そうよ、慈光院の裏に空地あきちがあって、隅のほうに高さ三尺ばかりの笹やぶが茂ってる、その中へれこんだと思うと、その娘が坐って、両足をこう、ぱっと左右へ」
「どこかで聞いたような話だぜ」
「まあさ」と政はなお続けた、「まあそれはいいんだ、それはよくあることかもしれねえが、おれの云いてえのはそのときの娘の眼だ、こうやってぱっとひろげてから、おれの顔をじいっとみつめてやがる、ひろげて見せるだけじゃあねえ、それを見ておれがどんな顔をするか、ってえことに興味があったんだな、ずっとあとで、そういうまねをすることの好きな女にたびたび会ったが、そういう女たちと、八つの娘の眼つきが殆んどおんなじなんだ、ほんとだぜあにい」
「それで、つまり」と文次が云った、「女は子供のときから女だってえわけか」
「現にこの身でぶっつかったことなんだ」
「ほんとだぜ、か」と文次は首をゆっくりと振った、「おめえはいやなやつだ」
 三人組の客が勘定を命じ、そこへ四人伴れの客がはいって来た。その四人はもうひどく酔っていて、三人組が去ったあと、却って店の中はそうぞうしくなった。二人組の客はいちど口論を始めたが、喧嘩にはならず、互いに慰めたりなだめたりしながら、また仲よく飲み続けていた。
「くどくってね、へっへ」と政が話していた、「女をくどくなんてばかなこった、へたにくどいたりするから女は用心しちまうんだ、女をものにしたかったらからだを責めりゃあいい、いきなり抱きついて口を吸う、いやだって云ったらもういちどやる、二度、三度とやりゃあ女は黙っちまうもんだ」
「子供をだますようなもんか」
ただしみんながみんなじゃあねえぜ、中にゃあ田之助が裸で抱きついたって、石みてえにびくともしねえ女がある、そいつを見分ける眼がねえとしくじるんだ」
「おめえはしくじらねえんだな」
「そんなのには手を出さねえからな」
じょうにほだされるこたあねえか」
「初めから夫婦にならねえと断わるくれえだぜ」と云って政は可笑おかしそうに含み笑いをし、文次のほうへ半身を近よせた、「――面白おもしれえんだ、あにい、女をものにしていよいよそうなるだろう、するとな」そこで彼はまた含み笑いをした、「或る女はどうしても口を吸わせねえ、これだけはきれいにして嫁にゆきてえ、って云うんだ、またべつの女は乳にさわらせねえ、乳だけは亭主になる人へきれいなまま持ってゆきてえ、って云うのよ」
「その次はへそか」
「嘘じゃねえってば」と政は口をとがらして云った、「口だけはとか、乳だけはとか、嫁にゆくときの自分の気慰めだろう、どうしても触らせねえ女が幾人かいた、けれども、肝心なところをけた者は一人もなかった、ほ、いやこいつは正真正銘のことなんだよ」
「どっちでもいいが、ほんとだとすれば罪な野郎だ」と文次が云った、「そうやって女をものにして、たのしむだけたのしんだあとは売りとばすか」
「それも女のおかげさ、四つか五つから女の子にちょっかいをだされて、十四五になるともう女のほかになんにも興味が持てなくなっちまった」政はなんの感情もない微笑を唇にうかべた、「どんなに惚れた女でも、ものにしちまうともうそれっきりさ、すぐに次の女が欲しくなり、その女をものにするためにこっちの女を売る、考えてみればなさけねえようなもんだ、まったくのところ、自分で自身がなさけなくなるときがあるよ」
「今夜また一人やるとか云ってたが、そういう口でうまく騙したんだな」
「本当になさけなくなることがあるんだ、あにいにゃあそんなこたあねえか」
「今夜はなさけなかあねえんだな」
ごうってもんかもしれねえ」
「あまえたことを」と文次が云った。
「暫く土地を売って、息抜きがしてえんだ」と政は遠くを見るような眼つきで続けた、「その娘は二十六になる、下に妹が二人あって、その二人は嫁にいっちまった、姉のそのおむらというのはいちばん縹緻きりょうよしなんだが、縁不縁というやつか、今日まで売れ残っていたんだ」
「ひっかけるにゃあもってこいか」
「息抜きがしてえって云ったろう、その娘は百両持って来る筈だ」と政は続けた、「うちは大店おおだなだし、二十六にもなる娘を嫁にやるとなれば、軽くやっても二百両や三百両はかかるだろう、それを百両で片がつくんだし、娘は初めて男の味を知るわけだ」
「礼でも云ってもらいてえか」
「木更津に遠い親類がいるんだよ」政は徳利を振ってみて、残り少ないのを盃に注ぎながら云った、「そこへいって半年か一年、のんびりくらして来てえと思うんだ」
「ひとくちに百両って云うが、いくら大店だって百両は大金だ、娘なんぞに持ち出せるようなところへ放って置きゃあしねえぜ」
「それが金を扱うしょうばいなんだ、質と両替を兼ねているんでね、五百両ぐれえの金なら、いつでも手の届くところにあるんだ」
「質と両替だって」
「金杉本町じゃあ一番の店構えだ」
 文次がなにか云おうとしたとき、向うで一人で飲んでいた百姓ふうの男が、こっちへやって来て政に呼びかけた。
「いい景気らしいな政」とその男は云った、「なんでそんなに儲けた」
和泉いずみ屋の親分ですか、ちっとも気がつかなかった」と政はきげんを取るように云った、「お掛けんなりませんか」
「願いさげだな」男は眼の隅で、文次をぬすみ見ながら、云った、「おめえの酒は女っくせえ、しゃれて云えば女の涙で塩っかれえからな、――伴れがあるようだが友達か」
「ええ、指物職でね」
「名めえは文次だ」と文次が云った、「住居は京橋白魚河岸の吉造だなで、年は二十九、ほかに訊くことがあったら云ってくれ、答えられることならなんでも答えるぜ」
「そうむきになるなよ、親方」と男は皮肉に云った、「怒るとせっかくの酒がまずくなるぜ」
「あにい」と政は文次に一種の手まねをし、頭をさげながら云った、「たのむよ」
 文次はそっぽを向いた。
「そうだ、そのほうがいい」と男は云った、「こんなところで男をあげたって三文の得にもなりゃあしねえ、政、――邪魔あしたな」
「とんでもねえ、親分」
「よしゃあがれ、てめえに親分なんて呼ばれるほど落ちゃあしねえや、こんど親分なんて云ったら承知しねえぞ」
「黙ってろよ」と文次が政に顎をしゃくった、「ふところに十手を呑んでれば天下さまだからな」そして男に云った、「おまえさんのこっちゃあねえぜ、和泉屋の親分」
「ありがとうよ」と男は冷笑した。
 男は元のところへ戻って勘定をし、そのまま外へ出ていった。小女が酒を持って来、政はまた茶と調合しながら、いったいどうしたことだと文次に訊いた。
「あんなに突っかかってよ」と政は云った、「先はなんにも云わねえのに、こっちから突っかかるなんて気が知れねえ、おらあはらはらしちまったぜ」
「岡っ引はでえきれえだ」文次は土間へ唾を吐いた、「世の中に岡っ引くれえ嫌えな者はありゃあしねえ」
「なにかあったのか」
「この干物はまずいな」文次は箸で肴を突つき、「こいつはくさやの」と云いかけて、その言葉を刃物ででも断ち切るように、ぴたっと唇をひきむすんだ。
 政も同時に「これはくさやの」と云いかけ、文次が急に口をつぐんだので、彼もあとは云わずに文次を見た。すると、文次はその不審そうな政の眼に気づいて、てれたような、どこかあいまいな微笑をうかべた。
「よせよ」と文次は云った、「そんなんじゃあねえぜ」
「なにがさ」
「嫌えな十手のあとでくさやに気がついたから、いやなこころもちになっただけだ」
「十手とくさやと縁があるのか」と云って政も思い当ったのだろう、丈夫そうな黄色い歯を見せて笑った、「――そうか、くさや三宅みやけ島かどっかで、流人るにんが作るって聞いたっけ」
「おれは悪い野郎だ」文次は続けて二杯飲んだ、「生れつきの性分なんだろう、手に負えねえ乱暴者でしょっちゅうまわりの者を泣かした、いちばん好きなやつ、可愛いやつほど虐めたもんだ、どういう気持なんだかわからねえ、いちばん可愛い妹の巾着きんちゃくから銭をくすねたり、大事にしている玩具をこわしたりしたもんだ、そうして親に叱られるとうちをとびだし、どっかの物置とか、薪小屋なんぞへもぐり込んで寝て、二日も三日もうちへ帰らねえ、そんなことを数えきれねえほどやった」
「それが」と彼は手酌で一つあおって続けた、「うちで綿の厚い蒲団にくるまって寝るより、そうやって物置なんぞで寝るほうがおれにはうれしかったんだ、――おやじもおふくろもいい人だったし、兄貴や妹たちもいいきょうだいだった、ところがおれだけはそんな性分で、それをどうしようもなかった、自分で自分がどうにもならなかったんだ」
「わかるよ」と政がまじめに頷き、大事そうに盃の酒を舐めた、「それじゃあ岡っ引が嫌えな筈だな」
「十四の年にうちをとびだした」と文次は云った、「それからこっち、岡っ引とか十手なんぞがむやみに憎くなった、悪い事をする人間はある、だがたいてえは気の弱いやつか、どうしようもなくってやっちまうんだ、やったあとでは自分で自分の骨を噛むほど後悔するんだ、おめえだってそうだろう」
 政は黙って自分の盃を見まもっていた。
「気違えはべつだ」と文次はなお続けた、「しかしまともな頭を持っていて、それでも悪い事をする人間は可哀かわいそうなんだ、悪い事をするたんびに、十手でなぐられ捕繩とりなわで縛られるより、もっともっと自分で自分を悔んでるんだ、――おれだってまともな性分に生れたかったよ、あたりまえに女房を貰って家を持ちてえ、一日の仕事から帰ると湯へいって汗を流し、女房子といっしょに晩めしを喰べてえ、それが人間に生れて来たたのしみってえもんだ、そんなふうにして飲む一本の酒は、料理茶屋で十両使って飲む酒よりうめえだろう、それがおれにはできなかった、おれにはそうすることができなかったんだ」
 四人伴れの客は、さっきから唄をうたいだし、皿小鉢を叩きだしたので、小女がよしてくれと止めにいった。一人がいきなり立ったが、伴れがなだめて皿小鉢を叩くのはよした。けれども唄のほうは代る代る、もっと高ごえでうたい続けた。そこへ二人伴れと三人伴れの客がはいって来、さっき口論をした二人伴れが出ていった。
「こんなことを云うのはへんだが」と政がそっと云った、「よかったらあにい、おれたちといっしょに木更津へいってみねえか」
「どうして」
「木更津にだって指物師の仕事はあるだろう、半年でも一年でも江戸をはなれて、田舎ぐらしも気が変っていいもんだぜ」
「おれの話がそんなふうに聞えたか」
「今夜十時に、百両持って娘が来るんだ、芝浜から出る木更津船には二人分の船賃も払ってある、あにいの分さえ払えばそれで木更津へゆけるんだよ」
「その娘のことを諦めるか」
「どうして」
「おらあかどわかしの片棒をかつぐなあまっぴらだ」と文次が云った、「尤も、百両というのも怪しいし、娘の来るっていうのも怪しいがな」
「嘘じゃねえ正真正銘だってば」
「本金杉で質両替っていえば徳銀だろう」と文次が云った、「あれだけの物持のうちの娘が、こんな見えすいた手に乗るたあ思えねえ、案げえおめえのほうで一杯くわされてるんじゃあねえのか」
「じゃあためしてみねえな」と政はむっとした口ぶりで云った、「この向うに天福寺ってえ寺があるだろう」
「天福寺は知ってる」
「その境内に大きなひのきがあるが、そこで十時におち合う約束なんだ」
「おめえは間違ってる」
「まちげえなしだってばな」
「間違ってるよ」文次は二杯続けて呷った、「あの木は檜じゃあねえ、あすなろうっていうんだ」
「なんだ、木の話か」と云ってから、政は文次を見た、「――あすなろう、へんな名じゃあねえか、初めて聞いたぜ」
「小せえときはひばっていうんだ、檜に似ているが檜じゃあねえ、大きくなるとあすなろうっていう、あしたは檜になろうっていうわけさ、ところがどんなに大きくなってもあすなろう、決して檜にゃあなれねえんだ」
 政は眼を伏せ、なんの意味もなく、茶のはいっている土瓶を指で突ついた。
「おれたちみてえだな」と政がつぶやいた。
 文次が彼を見た、「なんだって」
「あにいもいま云った、まともなくらしがしてえって」と政は力のない声で云った、「おれだってそう思わねえこたあねえんだ、それがどうしてもそうはいかねえ、――ちょうど、あすなろうみてえに、この世じゃあまともなくらしはできねえようだ」
 文次は笑ったが、すぐに笑いやめ、政のほうへ身をのりだした。
「そう気がついたら徳銀の娘を諦めろ」と文次は云った、「おめえはまだ若え、この辺で立直れば深みへはまらずに済むぜ」
「それができればとっくにやってるさ」
「いっしょに木更津へゆこう」と文次は感情をこめて云った、「ぐれた同志だからお互えが力になれる、田舎へいって地道にかせいで、よごれた躯をきれいにしようじゃねえか」
「あにいにそんなことを云われようたあ思わなかったな」政は渋い顔をした、「せっかくだがそいつはだめだ、娘はもうのぼせあがって、おれとならどんな苦労でもする気になってるし、なにしろ百両ってものが付いてるんだからな、そんな大金を手にするのは生れてこのかた初めてなんだから」
 そのとき店へ、三人の男がはいって来た。一人は四十がらみで、目明しとすぐにわかる風態ふうていであり、他の一人はさっきの百姓ふうの男、もう一人は職人のような恰好をしていたが、店へはいって来るなり、目明しとみえる男が「みんな静かにしろ」とどなった。その声の異様なするどさに、騒いでいた四人伴れをはじめ、みんなが話をやめて振向いた。すると、目明しとみえる男は、ふところから十手を出してみせた。
「御用である」と男は云った、「みんなそこにじっとしてろ、動くんじゃあねえぞ」
 政は文次を見た。文次はやんわりとした動作で、立ちあがった。


「その野郎」と目明しふうの男は、十手を文次に向けながら叫んだ、「動くなと云ったら動くな、じっとしていろ」
 文次は振向きもせず、躯が宙にでも浮いているような、軽い、なめらかな動作で、すっと板場のほうへ消えていった。極めてなめらかではあるが、板場と店とのあいだに掛っている繩暖簾のれんの向うへ、彼の姿が消えたとき初めて、それがどんなにすばやく、的確な動作であったかがわかった。
 目明しふうの男は呼子笛をするどく吹き、他の二人は文次のあとを追った。板場では二人のわめく声がし、店の客たちは固くなって、それぞれの飯台に向ったまま、しんと息をころしていた。目明しふうの男は政の側へ来、彼の肩を十手で押え、「動くなよ」と云って、板場へはいっていった。
「金さんだいじょぶよ」と小女の一人が、あとから来た二人伴れの客の一人に云った、「あんたふるえてるじゃないの、飲んでたってだいじょぶよ」
「おれがふるえてるか」
「ふるえてるわよ」と他の小女も云い、小さな肩をすくめて含み笑いをした、「そら見なさい、お猪口ちょこが持てないじゃないさ」
 客の伴れが笑って云った、「ふるえるのは金公の持病だ、酒の中毒でな、酔えばすぐにおさまるんだ、なあ」
「よしゃあがれ」金公と呼ばれた男が云った、「おらあふるえてなんぞいやあしねえや」
 政は飯台にもたれたまま、そっと自分の両手を見た。顔には血のけがなかったし、手指はひどくふるえていた。指をひろげると、右手の中指と薬指とが、ふるえのために触れあうほどであった。
 板場は静かになっていた。裏手のほうで三度ばかり呼子笛が聞えたが、三度めのはかなり遠く、そのあとは聞えなかった。客たちがほっとすると、仕切の繩暖簾から、この店のあるじが顔を出して、「お騒がせしまして済みません」とおじぎをした。
「どうぞ召上っておくんなさい、もうそうぞうしいこともないでしょうから」
「いまの男はどうした」と三人伴れの客の一人が訊いた、「うまくつかまったか」
「どうですかね」とあるじが答えた、「なにしろすばしっこい男で、あっしの脇をぬけて裏口へ出ていったんだが、まるっきり煙でもながれてくようなあんばいでしたよ」
「帰ってもいいのかな」と向うから客の一人が云った。
「済みませんが待っておくんなさい」とあるじが云った、「誰も動かすんじゃあねえって云ってましたから、どうかもうちょっとそのままでいておくんなさい」
 そして、もういちどおじぎをして、あるじは板場へ戻った。
「ひでえめにあうぜ」と客の一人が云った、「人間なんてどこでどんなめにあうかしれたもんじゃあねえ、かかあの親類が来ていて、今夜はおらあもうけえっていなくちゃあいけねえんだ」
「また始めやあがる」とその伴れの一人が云った、「こいつは口を開けば嬶だ、どうしてそんなに嬶が気になるんだ」
「気になるなんてなまやさしいもんじゃねえ」と他の一人が云った、「こいつはかみさんに惚れてやがるんだ、いっしょになって十年の余もつてえのによ、いやなやつさ」
 政は手酌で一つ飲んだ。
 ――どうしよう。
 恐怖と混乱した気持が、彼の表情にそのままあらわれていた。追い詰められ断崖の端に立って、逃げ場のないことに狼狽ろうばいしているような顔つきであった。まわりの客たちはしだいに陽気さをとりもどし、店の中は器物の音が賑やかに、話したり笑ったりする声を縫って、小女たちの注文をとおすきんきんした声も聞えだした。政にはなにも耳にはいらないらしい、彼はからの盃を持ったまま、幾たびも太息といきをつき、幾たびも自分の手をみつめ、また、寒さでも感じるように絶えず衿をかき合せていた。
 どのくらい刻が経ってからだろう、肩に手を置かれて、政は殆んどとびあがりそうになり、妙な声をあげながら振返った。彼が和泉屋の親分と呼んだ、百姓ふうの岡っ引が来てい、彼の脇、――文次が掛けていた反対の側へ腰を掛けた。
「どうするんです、親分」政はどもりながら云った、「あっしはなんにも知りませんよ」
「取って食うわけじゃあねえ、まあおちつけよ」岡っ引は振向いて小女を招き、水を呉れと云ってから、ふところに突込んであった手拭を出して汗を拭いた、「――政、おめえいまの男とどんな関係があるんだ」
 政は口をあいたが、すぐには声が出ないようすで、あいた口を閉じ、唾をのみこみながら、強く頭を左右に振った。
「なんにも、関係なんかありません」とようやく政は答えた、「ただ、さそわれたからいっしょに飲んだまでです」
「おめえはうすっきたねえ悪党だ、悪党の中でもいちばんうすっきたねえどぶ鼠だ」と岡っ引は云い、小女の持って来た湯呑の水を飲んで、とんと、湯呑を飯台の上へ置いた、「――てめえみてえな野郎にだまされる女も女だが、五躰揃ったいちにんめえの男が、弱い女を食いものにして、女に泣きをみせて生きてゆくたあ、聞くだけでも肝が煮えるぜ」
 政は黙って低く頭を垂れた。他の客たちはまた静かになり、眼を見交みかわしたり、ささやきあったりしていた。
「御定法ではてめえを引っくくるわけにゃあいかねえ、それが残念だ」と岡っ引は続けた、「本来なら押込み強盗より罪が重いんだ、おらあできることならてめえを八つ裂きか、のこぎり引きにでもして殺してやりてえくれえだ、いつかおれの手で、きっとそうしてやりてえと思ってるんだぞ、政、聞いてるのか」
「へえ、ええ」政は吃驚びっくりしたように顔をあげ、いそいで、何遍も頷いた、「聞いてます、ええ、ちゃんとこうして、うかがっています」
「おい、おまえさんたち」岡っ引は客たちに向って云った、「こいつは見世物じゃあねえんだぜ、みんな飲み食いに来たんだろう、そんなら飲んだり食ったりしてえるがいい、こっちに気を使うこたあねえんだぜ」
 客たちは顔をそむけ、急に思いだしたように、徳利や盃を取った。そこへ小女が、酒とさかなの小皿を盆にのせて持って来、岡っ引の前へ並べた。
「帳場からです」と小女が云った、「どうぞ召上ってくださいましって」
「水をもう一杯くんな」と岡っ引は云った、「大きい湯呑のほうがいいぜ」
 小女は去った。
「政、――」と岡っ引は云った、「四光しこうの平次とどんな仕事をした」
 政はにおちない顔で相手を見た、「四光の平次ですって」
「しらばっくれるな」
「知りませんよ、あっしはそんな人間は見たこともありません」
「しらばっくれるなってんだ」岡っ引の上唇がまくれて、たばこやにの付いた歯が見えた、「てめえが昨日からいっしょだったことは、ちゃんとこの眼で見ているんだぞ」
「だってあっしは」と云いかけて政は眼をみはった、「――いまの、文次ですか」
「四光の平次だ」
「だってあれは、京橋白魚河岸の、指物師さしものしで」
 小女が大きな湯呑を持って来、岡っ引の前へ置いて去った。岡っ引は並べてある酒と肴の皿を押しやり、水を二た口、喉を鳴らして飲んだ。
「あいつは左の腕に、花札の四光の刺青いれずみをしている、それで四光の平次と云われてるが、二人も人をあやめた凶状持ちだぞ」
「二人もあやめた」
「一人は藤沢宿じゅく、もう一人は川崎、どっちも十手を預かる御用聞だ」岡っ引は片手を伸ばして政のえりつかんだ、「――さあ吐いちまえ、てめえ平次とどんな仕事をした」
「知らねえ、あっしゃあなんにも知らねえ」
「番所へしょっぴこうか」
「おらあ、あっしは三日めえに品川のます屋で会った、ほんとです、初めて升屋で会って、向うからさそわれて飲みだしたんで、それからずっと酒のつきあいをしていただけです、嘘はつきません、本当にそれっきりのつきあいなんです」
「泊ったのはどこだ」岡っ引は掴んだ衿をねじりあげた、「野郎、ごまかすと承知しねえぞ」
「さいしょは品川の万字相模さがみ」と政は喉の詰った声で云った、「ゆんべは高輪たかなわの松葉屋という安宿です」
「今夜はどうする手筈だった」
「なんにも」と政は首を振った、「まだなんにも相談しちゃあいません、相談する暇がなかったんです」
「平次の荷物は松葉屋か」
「知りません、ずっと手ぶらでした」
「まちげえはねえだろうな」
 政が頷くと、岡っ引は衿を掴んでいた手を放し、湯呑の水を飲んだ。彼は他の客たちを横眼で眺め、政はふるえながら衿をかき合せた。
「平次はなにを饒舌しゃべった」岡っ引は向き直って政に云った、「いまどんなことをしているか、これからなにをしようとするか、平次の饒舌ったことを残らず話してみろ」
「これってほどのことは云いませんでした」と政は頸を撫でながら、思いだそうとするように頭を片方へかしげた、「あっしの聞いたのは、宇田川の生れで、うちは酒問屋だったって、なんでも十二三からぐれだしたあげく、長いこと上方かみがたから越後えちごのほうとか、指物職をしながらいろんなところをまわり歩いたが、親きょうだいの顔が見たくなって帰って来た、そんなことを云ってました」
「親きょうだいに会ったと云ったか」
 政は首を振った、「その宇田川町の家が子年ねどしの火事できれいに焼けちまって、親たちのゆくえも知れねえっていう話でした」
「なんていう屋号だ」
「さあ、なんて云いましたか」考えてみてから、政は答えた、「そいつは聞かなかったようだな、ええ、屋号のことは云いませんでしたよ」
「白魚河岸の長屋ってのは」
「そう云うのを聞いただけです、いまになってみると嘘かもしれませんが」
「それでみんなか」
「これで残らず申上げました」
「隠しだてをしてあとでばれるとお繩にするぞ」と岡っ引は云った、「平次は人殺し凶状、ちっとでもてめえにかかりあいがあれば、これまでの罪をきれいに背負わせてやるぜ」
「ええ、そうして下さい」政は弱よわしく答えた、「あっしにもし罪があるなら、いつでもお繩を頂戴しますよ」
 岡っ引は唇をひき緊め、いまにも唾を吐きかけそうな顔で、きっと政を睨みつけたが、ようやく舌打ちをして立ちあがった。
「もう一つ云っておく」と岡っ引は歯と歯のあいだから云った、「こんど平次に会うか、いどころがわかったら知らせるんだ、いいか、きっと知らせるんだぞ」
「わかりました」と政はきまじめに答えた、「そんなことがあったらきっと知らせにあがります、きっとそうしますよ」
 岡っ引は出ていった。
 このあいだに三人伴れの客がはいって来、一と組が勘定をして出ていった。かれらは高ごえに話しだしたが、政のほうは見なかったし、いまの出来ごとには触れないように、つとめて話題を避けているのが感じられた。
「いやなやつ」と小女の一人が政のほうへ来て云った、「親分づらをしていばりくさってさ、あたしあいつ大嫌いだわ、気にすることなんかないわよ政さん」
「なんでもねえさ」と政はうす笑いをもらした、「あのしょうばいは嫌われるからな、ときどきいばりたくなるんだろう、へえへえしていりゃあごきげんなんだから、あめえもんさ」
「これ飲みなさいよ」小女は岡っ引の前に置いた燗徳利を取って、政のほうへ差出した、「おかみさんにうるさいから持ってゆけって云われたのよ、いつもならあたりまえなような顔で飲むくせに、今夜は珍しく手をつけなかったわ、お酌しましょう」
「いま何刻ごろだろう」政は酌を受けながら訊いた、「五つ(午後八時)になるかな」
「いま天福寺で五つが鳴ったばかりよ」と云って小女はびるような眼をした、「これ、あったかいのと取替えて来ようか」
 政はそっと小女の手にさわった、「おめえもそういうことに気がつくようになったんだな、縹緻きりょうもぐっとあがったし、気がもめるぜ」
「うそよう」小女は政の手を叩いた、「政さんはすぐ、それだもの、あたしみたいな田舎者は本気にしちゃうわよ」
「初ちゃん」と向うから小女の一人が呼んだ、「こちらでお呼びよ」
「やいてるのよ」と肩をすくめ、初と呼ばれたその小女は、政からはなれながら囁いた、「あったかいのを持って来るわね」
 政は頷いて盃を口へもっていった。
「彼岸にはぜを釣るみてえだ」と彼はひとりごとを云った、「向うからくいついて来るんだから世話あねえや、あの文次に逃げられてどうしようかと思ったが、これでこの勘定もしんぺえなしか、いい辻占つじうらだぜ」


 櫛形くしがたの月が空にかかっていた。天福寺の本堂が影絵のように見え、風はないが海が近いので、空気にしおの香がかなりつよく匂っていた。寺の裏にあるその空地は秋草がまばらに茂ってい、虫の鳴く音がやかましいほど高く聞えた。――空地のほぼ中央に、さしわたし二尺あまりのあすなろうの樹があり、その脇に、小舟をあげたのが伏せてあった。舟は古く、すっかり乾いていて、底板が一枚がれ、その穴から草の穂が伸びていた。
 空地へはいって来た政は、片手に持った風呂敷包ふろしきづつみを、その小舟の底の端へ置き、片手で底板を押してみた。すると、その板はひとたまりもなく、もろい音をたてて裂けた。
「そういうことか」と彼は舌打ちをした、「もう勤めあげたってわけだな」
 政は月を見あげ、あくびをして、うしろ頸にとまった蚊を叩いた。
「いよいよとなると、ちっとばかりこころぼそくなるな」と政は独りごとを云った、「――生れてっから芝をはなれたことがねえんだからな、木更津か、……天気の日には芝浜からぼんやり見える、海の向うといってもほんの一とまたぎだそうだが、――そこでくらすとなるとこいつ、やっぱりちっとこころぼそいような気持になるな」
 政のまわりで、虫の音が急にやみ、あすなろうの樹のうしろから、誰か出て来た。
「ええ」と政はとびのいた、「ええ吃驚した、おどかすな、誰だ」
 出て来た男は「しっ」と手を振り、藍色に染めた頬かぶりをとった。あまり明るくない月の光で、それが文次だということがわかった。
「お、あにい」政は仰天ぎょうてんしたように一歩さがった、「おめえどうして、こんなところへ」
「大きな声を出すなよ」と文次が云った、「おめえさっき、ここで徳銀の娘と逢うって云ったじゃあねえか」
「そりゃあ云うことは云ったが」
「疑わしけりゃあ来てみろとも云ったぜ、まあおちつけよ、まだ暇はたっぷりあるぜ」
 文次は伏せてある小舟の端の、風呂敷包をどけて、そこへ浅く腰を掛けた。
「そいつはがらっといくぜ、あにい」
「ここんとこは大丈夫さ、そっちは脆くなってるがね、おめえも掛けねえか」
「だってあにいは」と云いながら、政は文次の脇へかがんだ、「いまあにいは、こんなところでぐずぐずしていちゃ危ねえんじゃあねえか」
「気にするな」と文次は云った、「あんな駆けだしの岡っ引に捉まるようなどじじゃあねえや、それとも、おれがここにいちゃあまずいか」
「そんなこたあねえ、まずいなんてこたあねえが」政はちょっと口ごもった、「――じつを云うと、あの岡っ引にだめを押されたんだ」
「あいつが、戻っていったのか」
 政は頷いた、「正直に云うが、あにいのことはすっかり聞いた、おっ」と政は片手をあげ、その手先を振りながらいそいで云った、「おりゃあ知らねえ、おれの知ったこっちゃあねえ、おらあただ聞いただけなんだから」
「そうあわてるなよ」と文次がさえぎった、「それより野郎はどうだめ押しをしたんだ」
「あにいに会うか、いどころがわかったらきっと知らせろ、さもねえときゃあかかりあいにしてひっ括るってよ」
 文次は低く笑った、「いいじゃあねえか、おらあ現にこうやってここにいるんだ、すぐ知らせにいったらどうだ」
「冗談じゃあねえ、ばかにしなさんな」政はすねを叩き、そこをぼりぼり掻きながら立ちあがった、「いくらおれがなんだって、あにいをすほど腐っちゃあいねえつもりだ」
「三日酒の義理か、あんげえ堅えところがあるんだな、そいつあ知らなかったぜ」と云ってから急に頭を振った、「いや、そうじゃあねえ、危なく感じ入るところだったが、おめえがしにいかねえわけはほかにある、おい政、ごまかすな」
「かたなしだな」と政は太息をついた、「あっちじゃあしらばっくれるなと云われ、こっちじゃあこっちでごまかすなか、ぜんてえどんな弱いしりがあって、おれがあにいをごまかすんだ」
「徳銀の娘よ、名はおひろと云ったけな」
「おむらだよ」と政が云った、「おむらがどうして」
「おめえたちは今夜ここでおちあって、船でいっしょに木更津へ逃げるんだろう」と云って文次は頬の蚊を叩いた、「――とすりゃあ、岡っ引のところへ駆込むわけにゃあいかねえ、いけば木更津ゆきがおじゃんになるからな、どうだ、図星だろう」
「そうか」と政は考えてみてから云った、「そいつは気がつかなかった、なるほど、そういうことになるか」
「そりゃあまあいいや」文次は持っている手拭で、うるさそうに蚊を払い、「そいつあいいとして、相談があるんだ」とゆっくり云った、「こりゃあほんの相談なんだが、おめえ聞いてくれるか」
「木更津へいっしょにゆくって話か」
「おれとおめえと、二人でだ」文次はさりげなく立ちあがり、ぶらぶらったり来たりしながら続けた、「おれもよごれた人間だが、おめえもずいぶん罪なことをやって来た、女に金を持ち出させ、さんざんなぐさんだうえ売りとばす、おむらという娘も同じようにりょうってしまえば、また次の娘にかかるだろう、いつまでもそんな罪を重ねていればろくなことはありゃあしねえ、そういう女たちの怨みだけでも、畳の上で死ねやしねえぜ」
「その話はさっきも聞いたよ」と政はむっとした口ぶりで云い返した、「断わっておくがね、あにい、おらあ生れつき強情っぱりで、人の意見なんぞ聞いたこともねえし、意見なんぞされればよけえ強情が張りたくなるんだ、どうかおれのこたあ放っといてくんな」
「――だろうな、だろうと思うよ」と文次はまたゆっくりと云った、「やることは違っても、おれたちの性分にゃあ似たところがある、たぶんそんなこったろうと思ったが、相談するだけは相談してみたかったんだ」
「ほかのことならともかく、そいつだけあ勘弁してくれ、それだけあできねえ相談だ、もうその話はやめにしてもらうぜ」
「わかったよ、そう云うものをどうしようがある」文次はふところへ手を入れながら、さりげない足どりで政のほうへと近よった、「おめえの気持がわかればいいんだ、もう話すこたあねえさ」
 文次の手がさっと政の胸へはしった。
「なんだ」と政が吃驚した、「いきなり人を小突いたりして」
 片手で胸を押えながら、そこまで云うと政は「う」と息を詰らせた。文次の右手がもういちど政のからだへとび、政は「うう」とうめきながら、前へよろめいた。がくんと、片方の膝が曲って地面へつき、立ち直ろうとしたが、前のめりに倒れて、両足をちぢめた。
「なんの恨みだ」と政がくいしばった歯のあいだから云った、「おれがなにをした」
「堪忍しろ、政、こうしなけりゃあならなかったんだ」
「わけを聞かしてくれ」
「生涯に一度、いいことがしたかった」文次は跼んで、持っている匕首あいくちの刃を、草の葉へこすりつけた、「これまでの罪を償うたあ云わねえ、こんなことで罪がせるたあ思わねえが、もうおれも運が尽きた、こんどはどうあがいてもだめだろう、どうせなくなる命なら、生涯に一度、人だすけがしたくなった」
「これが」と政はきれぎれに云った、「どうして人だすけだ」
「あの娘をたすけてやりたかったんだ」
「聞えねえ」
「それにおめえだって、罪を重ねて生きているより、このへんでおさらばをするほうが安楽だ」と文次は云った、「おれもおめえも、しょせんいちど死ななけりゃあ真人間にゃあなれねえ、おたげえにさんざ勝手なことをして来たんだ、いっしょにこの世をおさらばとしよう、なあ政、わかるだろう」
「聞えねえ」と政は身もだえをした、「おれにゃあ、よく聞えねえよ」
「おめえ一人はやりゃあしねえ」文次は政の側へいって跼み、相手の耳へ口をよせて云った、「――政、おれもあとからすぐにいくぜ」
 政の両手が文次の腹へとんだ。文次が膝を突くと、もう一度、政の手がひらめき、同時に、文次もまた政の胸を刺した。政は喉をごろごろ鳴らし、仰向きになったが、すぐに上半身だけ横になり、匕首を持った両手が、静かに草の上をすべって伸びた。――そのとき寺で、四つ(午後十時)の鐘を打ち始めた。鐘楼は本堂の向うにあるのだが、鐘の音はかなり高く、空地ぜんたいをふるわせるように聞えた。文次は手拭をまるめてふところへ入れ、傷口の血を止めると、着物の上から押えながら、静かに立ちあがった。
「こいつが、こんなことを」と彼はつぶやいた、「こんなことをしようとは、思わなかった、うまくめられた、しゃれた野郎だ」
 そのとき寺の脇から、提灯の光が一つ、半分は袖で隠されて、こっちへ近よって来た。文次は頭を振り、眼をそばめて、それが提灯の火であり、その光に照らされて見えるのが、娘の顔だということを知ると、あっといって右手を前へ出した。
「いけねえ、おひろ」と彼は叫んだ、「こっちへ来ちゃあいけねえ、そのままうちへ帰るんだ」
 娘はいちど立停ったが、すぐ足早にこっちへ来た。
「あんた、だれ」と娘が訊いた、「政さんじゃないわね」
「ここへ来ちゃあいけねえ、早く帰るんだ」
「あの人はどうしたんです、政さんは」娘はせきこんで訊いた、「あんた政さんと会ったんでしょ、どうしてあの人は来ないの、なにか間違いでもあったんですか」
「おまえさんは騙されてる」と文次は顔をそむけながら云った、苦痛のため言葉が切れ、あとを続けるまえに、彼は深い呼吸をした、「――あいつはおまえさんを騙して、百両という金を持ち出させ、いっしょに木更津へ逃げようと云った」
「これはあたしのお金なのよ、お嫁にゆくときに持ってゆくことになっていた、あたしのお金なのよ」
「ああ」文次は首を振った、「あいつは、おまえさんを女房にはしない、その金のあるあいだは遊んでいて、金がなくなればおまえさんの身を売っちまうんだ」
「あんたは誰なんですか」
「誰でもねえ、そんなことはどっちでも、おまえさんはうちへ帰るんだ」文次は歯ぎしりをして空をふり仰ぎ、そのままで云った、「あんな人間の屑みてえなやつにかかわっちゃあいけねえ、あいつのことは諦めて、早くここから」
「あ、――」娘は提灯をかかげて文次を見、口をあけて、それから、するどく叫んだ、「あんた兄さんじゃないの」
「違う」文次は顔をそむけながら首を振った、「おらあそんな者じゃあねえ」
「いまあんたはおひろって呼んだわ」と娘は云った、「どうしてその名を知ってるのよ、あたしは躯が弱かったので、十四の年におむらと名を変えたのよ、あんたは兄さんだわ、あたしが十二の春に家出をした文次兄さんよ、そうでしょ」
 文次はよろめき、片手であすなろうの幹につかまって、危うく身を支えた。
「ちがう、おらあそんな者じゃあねえ」
「顔を見せて、顔をよく見せてちょうだい」
 娘は提灯をもっと近よせた。そしてとつぜん、片手で鼻をおおうと「血だわ」とふるえ声で云って脇へとびのき、なにかにつまずいてころびそうになった。抱えていた小さな包が落ち、提灯もとり落しそうになったが、そのとき初めて、そこに横たわっている死躰したいをみつけた。
さわるな」と文次が云った、「触ると身のけがれだ、着物もよごれるぞ」
 娘は死躰を見おろしていた。口の中で「政さん」と云ったが、舌がつって殆んど言葉にはならなかった。全身が誰かの手で揺すぶられるようにおののき、膝ががくがくした。娘は口をあいてあえぎながら、そっと片手を伸ばし、死躰の顔へ当てがっていたが、やがて、なにかを切り裂くように、喉をしぼって悲鳴をあげ、うしろさがりに、死躰からはなれた。
「死んでいる、あの人は死んでいる」娘はふるえながら、振返って文次を見た、「――あんたが殺したのね」
「そいつは悪党なんだ」
「どうしてなの、どうしてあの人を殺したの」
「おれもいっしょにいくんだ」文次は胸を押えた手に力を入れた、「おれもあいつも、この世ではまともに生きることのできねえ人間なんだ」
「あたしこの人が好きだったのよ」
「おめえは知らねえんだ」
「知ってるわ、みんな知ってるわ」と娘は乾いた声ではっきりと云った、「この人がどんないけないことをしたか、世間でこの人をなんて云ってるか、あたしちゃんと知ってたわ、でもあたしはこの人が好きだった、あたしならこの人をまともな人間にしてあげられると思ったし、そうでなくっても、この人のためならどんなに苦労してもいい、どんな悲しいおもいをしてもいいと思ってたのよ、それを兄さんは殺しちゃったのね」
「ちがう」と文次は首を振った、「おらあおめえの兄なんかじゃあねえ」
「あんたは昔からひどい人だった」と娘は構わずに続けた、「小さいときから手に負えないことばかりして、うちじゅうの者がいつも肩身のせまいおもいをしていたわ、そればかりじゃない、あんたはあたしのお小遣こづかいをぬすんだり、あたしをいじめて泣かしたり、あたしの大事にしている人形を幾つもこわしたりしたじゃないの、忘れやしないでしょ」
 そこで娘は泣きだしたが、言葉はもっと冷たさときびしさを増した。
「あたしこの人が好きだった」と娘は叫ぶように云った、「生れて初めて好きになった人なのよ、二十六になるまで男の人なんか見るのもいやだったのに、この人だけは、生れて初めて恋しいと思ったのよ、――それを兄さんは殺してしまった。昔あたしの大事にした人形を壊したように、兄さんはこの人まで殺してしまったのね、あんまりじゃないの」
「人ちげえだ、おらあおめえの兄なんかじゃあねえ」
「そうよ、兄さんなんかであるもんですか」と娘は云った、「あんたはただの悪党、ただの人殺しだわ、誰よりもむごい、血も涙もない人殺しよ」
 文次はあすなろうからはなれ、力のぬけた足をかばうように、よろめきながら、ゆっくりと歩きだした。
「どなたか来て下さい」と娘はつんざくように絶叫した、「ひとごろし、――誰か来て下さい、人殺しですよう」
「おらあ兄きじゃあねえ」と歩きながら、文次はうわごとのように呟いた、「そんな者じゃあねえ、人ちげえだ」
 傷は痛まなくなったようだ。けれども出血は止らないとみえ、歩いてゆく足跡が、一歩ずつ血に染まった。
「木更津だったな」と彼はまた呟いた、「船賃も払ってあるって云ったっけ、――待ってくれ、政、いっしょにゆこうぜ」
 娘はまだ叫んでい、やがて、文次の去ったほうから、幾つかの提灯の火が、こちらへ駆けつけて来るのが見えた。


 空は白みかけていた。波の音もしない芝浜は、いちめんに濃い乳色の霧に包まれ、ときどき波のよせる音が聞えるほかは、海も、なぎさも見わけがつかなかった。夜釣から帰った漁師が五人、船をあげ終ると、一人が砂浜の上になにかみつけ、れの四人を呼んだ。かれらは集まっていってなにかを取囲み、一人が高い声で、べつの船の漁師を呼んだ。霧が濃いので、かれらの動きは影絵のようにしか見えないが、やがてその人数はしだいに多くなり、なにか云いあう昂奮した声が聞えた。そのうちに、中年の漁師が二人、こっちへいそぎ足にやって来た。
「やくざの喧嘩だな」と一人が云った、「どっかこの近所でやって、ここまで逃げて来て死んだんだろう」
「おい気をつけろ」と伴れが地面を指さして云った、「そこはよごれてるぞ、そら、こっちもだ、踏まねえようにしろよ」
 初めの漁師は脇へよけ、注意ぶかく歩きながら云った、「番所で面倒なことがなけりゃあいいがな」
 二人は霧の中を歩み去った。





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
   1960(昭和33)年8月〜9月
※「ゆんべ」と「ゆうべ」、「しゃべった」と「饒舌しゃべった」、「肘」と「肱」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年9月26日作成
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