秋の駕籠

山本周五郎





 魚金の店は北八丁堀の河岸にあった。二丁目と向き合った角で、東と南の両方から出入りができた。魚金は一ぜんめしと居酒を兼ねた繩のれんであるが、造作もちょっと気取っているし、いつも掃除がゆき届いていて、さっぱりとした洒落しゃれた感じの店であった。板場のほうは主人の金助が受持ち、店は娘のお梅が二人の小女こおんなを使ってやっていた。
 金助は四十五であった。彼はもと深川で魚屋をしていたが、お梅が八つになったとき女房に死なれ、まもなくこっちへ移って来て、このしょうばいを始めた。がっちりと骨太に肥えた、あから顔のぶあいそな、そしてひどく口の重い男であるが、気の好い情にもろい性分であった。
 ――おれはもうけるのは二の次だ、と金助は云っていた。めし屋などへ来る客は独身の者が多い。だから家庭的なものに飢えている、美味うまいに越したことはないが、親身な家庭的なものがべたいだろうし、家庭的な気分が欲しいものだ、この魚金はそういう店にするんだ。
 誰でも考えることかもしれない。が、金助はそれを実行し、その気構えをいつまでも忘れなかった。
 娘も父親によく似た性分であるが、八つの年から片親で、おまけにこういうしょうばい柄(女の子だけに)早くからませていた。顔だちもからだつきもきりっとしていた。背丈は五尺そこそこで、まず小さいほうであるが、胸や腰のあたりにまだ固そうでいながら、十八という年の柔軟さと、匂やかないろけがあふれていた。色の白いきめのこまかな肌で、おもながの顔に眼が大きく、眉毛がやや尻下りであった。左の唇の下に黒子ほくろがあって、客に向ってそれを教えながら、――これ食いたしんぼの黒子よ、あたしをお嫁にする人はあたしに食わせることで追われるんですって、気の毒みたいだわ、と云うのが口癖であった。
 店の土間には五人ずつ並べる飯台が四つ、坐って飲むための四帖半の小座敷が一つあった。二方の壁には品書などはなく、片方に桜井秋山の山水、片方に師宣の肉筆の風俗画が懸けてある。秋山はそのころ流行の画家であり、師宣の肉筆は浴後の美人で、むろんどちらもさして高価な品ではないが、そんな店には似合わない飾付であった。
 二人の小女、おそめとおよのはおない年の十五であった。おそめのほうが縹緻きりょうがよかった。およのは本当の名はちよのというのであるが、それを嫌って、自分から『よの』と呼ぶことにきめた、つまりそのほうが上品に聞えるというわけで、当人自身も(客たちはだぼはぜと云っていたが)つねにできるだけ上品にふるまおうと努めていた。
 魚金は朝五時から夜十時まで店をあけていた。もっとも客のたてこむのは食事どきと、宵からあとのことで、そのほかはひまだから、小女たちは随時にからだを休めることができた。お梅もちゃんと身じまいをするのは夕方からで、それまでは髪もでつけたままだし、わざと作らない身装みなりで客の給仕をした。それは、食事だけの客には飾らないのが本当だ。と金助が主張するからであった。
 二百二十日も過ぎて、にわかに秋めいてきた或る朝。ひとわたり客が来て去ったあとのことだが、顔色のえない若者が一人、ぬっと入って来た。彼は縞の単衣ひとえに三尺をしめ、ふところ手をしていた。
「あらいらっしゃい中さん、おひとり」お梅がにっと笑いかけた、「ばかに早いじゃないの、六さんはどうなすって」
「――一本つけてくれ」
 若者は云った。娘のほうは見もしなかった。ふところ手のまま飯台へひじをついて、むっとふくれた顔をしていた。お梅は不審そうな眼をした、しらべるような眼で、横から若者の表情をうかがって、そして云った。
「また喧嘩けんかをしたのね、朝っぱらから酒だなんてきまってるわ」
「酒をつけてくれってんだ」
 若者はそっぽを見たまま云った。娘はなにか云い返そうとした、けれども右手で誰かを呼ぶような身振りをし(「しようがない」とでもいうように)のれん口から板場へ入っていった。二人の小女は奥で朝食を喰べていた、店にはほかに客はなく、拭き込んだ飯台に外からの光りが映って、冷たそうに光っていた。若者は顔をゆがめて舌打ちをした。それから口の中で低くつぶやいた。
「ちぇっ、しゃくに障る、強情な野郎だ」
 娘が膳を運んで来た。
「おさかながないんだけれど、なにかこしらえましょうか」
 若者は黙っていた。
「かきたまお好きだったわね、かきたまに海苔のりかかでも作りましょうか」
「いらねえよ、そんなもの」
 若者は膳の上から徳利を取った。
「どなることはないでしょ」お梅は悲しそうな眼つきをした、「自分たち同志で喧嘩をして、あたしにとばっちりをくれることはないわ、あたしなんにも知りゃあしないじゃないの」
「どなったわけじゃねえ」若者は手酌で四五杯、続けさまにあおった、「っといてくれってんだよ」
「あんたたちどうしてそう喧嘩をするんでしょ、いっそべつべつになっちまえばいいんだわ」
 娘は板場へ入っていった。金助はいましがた買出しにでかけたあとだった、お梅は鰹節かつおぶしをかき、海苔をあぶってみ、その二つを混ぜて醤油をかけた。いわゆる海苔かかであろう、それから小鍋こなべでだし汁を沸かしながら、ねぎを刻み、卵の自身をわんに溶いて、かきたまを作った。以上のことを手まめにやりながら、お梅は若者に向って云い続けた。
「四年も五年も一緒にかせぐし、寝起きからなにから一緒にしていて、ふだんは実の兄弟より仲が良いくせに、いつもつまらないことですぐ喧嘩をするのね、あんたもあんただけれど」お梅は店のほうへ来ながら云った、「だいたい六さんが悪いわ、あんたの性分がわかっているのにちっともしんしゃくしないんだもの、あのひとには譲るってことができないんだから」
「うるせえ、よけいなことを云うな」若者がお梅をにらみつけた、「六助はおれの友達だ、おれの友達のことを悪く云うつもりか」
「なにもあたし、悪くなんか、あたしただ」
「六助はいい人間なんだ」若者は椀を取りながら云った、「おめえなんぞ知ったこっちゃねえや」
 お梅の眼に涙があふれてきた。お梅は黙って板場のほうへ去った。それは愛する者にすげなくされた娘の、哀しくやるせなげな姿に似ていた。そういう情合がかなりあらわに感じられた。若者は酒を二本飲み、飯を喰べて帰った。お梅はしまいまで給仕をしたが、ひと言も口をきかなかった。そして若者がたち去ると、あとからそっと往来へ出て、うしろ姿を見送った。若者は気のぬけたような歩きぶりで、弾正橋の手前を右へ、越中堀に沿って曲っていった。
 お梅が店の中へ戻ると、待っていたように、また一人の若者が入って来た。無精髭ぶしょうひげの伸びたたくましい顔で、躯も逞しく肥えていた。彼は縞の単衣にひらぐけをしめ、裾の片方を端折り、肩に手拭をひっ掛けていた。
「お早う」と彼はお梅に云った、「済まないが酒をつけてくれないか」
「いらっしゃい、いま中さんが帰ったとこよ」お梅は元気そうに微笑した、「また二人で喧嘩したんでしょ、中さんたらいきなりひとをどなりつけたりして、あたしがさも悪いみたいにけんつくをくわすんだもの、あのひとすっかりいけなくなったわ、まるっきりせんのようじゃなくなったわ、もう少しであたし」
「済まないがやめてくれないか」彼は穏やかにさえぎった。
「中次はおれの友達だからな、おれの前で友達のことを悪く云うのはよしてもらいたいんだ」
 お梅はきっと唇をんだ。それから両手を握り緊めて、ゆっくりと板場のほうへゆきながら、歯と歯の間で呟いた。
「いつもこれなんだから、いいつらの皮だわ」


 六助と中次は棒組の駕籠かご屋であった。かれらは南八丁堀二丁目の、与兵衛店という裏長屋に住んでいた。
 六助は肥えていた。年は二十七であるが、うっかりすると四十くらいにみえた。固ぶとりで毛深くて、あぶら性で、太い眉毛や大きな眼や鼻のまわりに、いつもあぶらを浮かせていた。唇は厚いが、両端がひきしまっていて、形はかなり良かった。北八丁堀の「魚金」のお梅などは、六さんの唇を見ていると吸いつきたくなる、と云うぐらいであった。尤もそれは六助をてれさせ、同時に中次の妬心をそそるのが目的らしいが、……彼の顔は髭だらけであった。顔の下半分が黒くて硬い毛に埋まっていた。しかし彼はそれをらなかった。毎朝いちど、はさみで二分くらいに刈るのであった。
 ――どうして剃刀かみそりを使わねえんだ、初めのころ中次がそう云った、――なぜそんなに不精ったらしくしておくんだ、はったりを利かせるつもりか。
 六助はにやにや笑って、それからゆっくりと答えた。
 ――これにはわけがあるんだ、これをきれいに剃るわけにはいかねえんだ。よっぽどの事がねえ限り、こいつはこのくらいにしておかなくちゃならねえんだ。
 そして胸毛をでた。胸毛は熊のように濃かった。またすねの毛とくると信じられないほどであった。夏になると、そのみっしり生えた脛毛の中でいつも二三びきの蚊が悲鳴をあげていた。蚊たちは血を吸いにもぐり込むが、脛毛のやぶがあんまり密なので、それにひっかかって脱出することができなくなるのであった。六助はきげんのいいときには、毛をかきわけてかれらを逃がしてやるのを楽しみにした。
 中次は肥えてもいずせてもいなかった。色が浅黒く、いなせな顔だちで、年は六助と同じであるが二つばかり若くみえた。うけくちの唇の片方を少しゆがめ、けむったいような眼をする癖があった。そうすると苦みばしった好い男ぶりにみえた。「魚金」のお梅は彼に熱をあげているが、中次のそんな表情を見ると、胃のところを鳥の羽根で撫でられるような気持になる、と云うくらいであった。彼はきれい好きで、毎日きちんと剃刀を当てるし、三日にいちどは髪結い床へゆくし、あかじみた物など決して身につけるようなことはなかった。
 六助は動作がゆっくりしていた。話しぶりものんびりしていた。怒っているときでも、動作や言葉づかいに変りはなかった。よほど怒ったときでもふくれるだけで、大きな声を出すようなことはなかった。
 中次はせっかちでもなく、悪くおちついてもいなかった。少しかんが強くて、無口で、怒りっぽいところがあった。怒るとむきになってどなった。暴力をふるうのが嫌いなので、いっそう激しくどなるようであった。
 二人は与兵衛店の、堀のほうから数えて七軒めと八軒めに住んでいた。二人で七軒めにいるときもあるし、八軒めにいるときもあった。また七軒めと八軒めとに、分れて住んでいることもあった。分れているときは喧嘩をしているので、そうなるとお互いに口もきかず、稼ぎにも出ずに遊んでいた。しかしそれは長くは続かなかった。二人ともほかに友達はないし、これという道楽もなかった。将棋と釣りが好きであったが、それは二人いっしょでなければ面白くなかった。たいてい五日か七日、長くとも十日くらいで仲直りをした。仲直りをするとどちらかがどちらかと一緒になった。六助が中次のほうへ移ることもあるし、その反対のこともあった。そのためには、どっちか一軒はいつもけておかなければならなかった。家主の与兵衛は初めのうちはこの関係を知らなかったので、或るときその一軒を貸そうとしたことがあった。すると二人がやって来て怒った。
 ――おまえさんは家主のくせにそんな生木を裂くようなまねをしていいのか。
 与兵衛には意味がわからなかった。
 ――考げえてみろ、とかれらは云った、今は一緒にいるけれど、また喧嘩をすれば分れなければならない、そのとき隣りが空いていないとすれば一人はどこかよそへゆく勘定だから、つまり生木を裂くわけだろうじゃないか。
 与兵衛は初めて了解した。けれども家主の立場としては、たとえ長屋の一軒にもしろ唯で空けてはおけなかった、そこで両者は相談をし、空いているときでも、二軒分の店賃を払うということで落着した。
 二人は小ざっぱりと暮していた。食事は三度とも外で(殆んど魚金のことが多い)済ませ、家では煮炊きをしなかった。勝手には水瓶みずがめもないし、もちろん鍋釜なべかまも、その他の食器もなかった。古道具屋で買った箪笥たんすがひとさおと、ちょっとした将棋盤と、それから掃除用の品があるだけだった。二人とも潔癖で掃除だけは欠かさなかった。水は使わないので、乾いた雑巾でつや拭きをするのであるが、上りがまちから敷居、柱、勝手のあげ板など、拭きこまれていいつやが出ていた。
 かれらは京橋の北詰で辻待つじまちをした。雨の日でもそこへゆけば、駕籠が空いている限り二人はそこで客を待っていた。
 駕籠は五郎兵衛町の「駕籠庄」で借りた。二人はもと駕籠庄に雇われていたが、金持や成上り者は客に取らなかった。威張っている人間や気障きざなやつも客にしなかった。つまり客選びがひどいので、(その点二人は気が合ったので)店としては具合が悪く、親方に受人になってもらって辻駕籠を始めたのであった。二人はしょうばいにも潔癖であった。どこまで幾らと駄賃を定めるとそれ以上は客から一銭も貰わなかった。心付を出す客があると怒った。
 ――おれたちは堅気の稼ぎ人だ、道中の雲助とは違うんだ、みさげたまねをするな。
 そしてやはり金持や成上り者は乗せなかった。
 かれらはその言葉どおり「堅気」であった。博奕ばくちもしないし酒でぐれることもなかった。ごくときたま遊里をのぞくらしいが、そのたびに自分たちは女性にはもてない、という信念をたしかめるばかりであった。遊里の女性たちのなかには、相当にかれらに実意を示す者がいた、しばしば相当以上の者がいたが、二人の信念は少しも変らないのであった。
 ――女に好かれるわけがねえや。
 中次も六助もそう信じていた。したがって「魚金」のお梅がいくら中次に熱をあげても、中次のほうでは感じないのであった。お梅が自分に熱をあげているなどとは、爪のさきほども気がつかないようであった。


「どうしたのよいったい、いつまで遊んでるつもりなの」お梅が云った、「もう半月にもなるじゃないの、いいかげんに仲直りをしたらいいでしょ」
「そうしたいんだ」と六助が云った、「おれはもう飽き飽きしちまった、なんにもすることがないんで退屈で退屈でしようがないんだ」
「だからさっさと仲直りをすればいいじゃないの」
「それがさ」六助は頭を振った、「おれはそうしたいんだが、あいつの顔を見ると舌が動かなくなっちまう、またあいつも退屈しきって、身をもて余しているくせに、おれの顔を見るとむっとそっぽを向いちまうんだ」
「両方で意地になってるんだわ、ばかばかしい」お梅は六助に酌をした、「いったい喧嘩のもとはなんなの、こんどはなにがもとで喧嘩になったの」
 夜であった。外は雨が降っていた、午前から降りだした雨が、そのまま時雨のように陰気に降り続いていた。魚金の店も静かで、六助のほかにもう一人しか客はなかった。四十ばかりになるその客は、小座敷で飲んでいた。およのに酌をさせて、およのをからかいながら、もうすっかり酔っていた。
「お世辞を云うわけじゃないがね」その客の云うのが聞えた、「お世辞じゃないが、おまえさんは男に好かれるよ、ええ、好く好かれるは顔かたちじゃないからね、これは気分のものだからね、本当ですよ、あたしゃお世辞は云いません、およのちゃんのようなひとは……」
「つまらない話さ」六助は不味まずそうに酒をすすった、「愚にもつかない、他人さまには聞かせられないようなばかげたことさ」
「そうでないことはないじゃないの」
「それにしてもさ」と六助が云った、「子供じゃあるまいしいい若い者が、雷獣はひっくそうだ、なんて、あんまりばかげているじゃないか」
「あらどうして」お梅は云った、「雷獣ってかみなりさまの落ちるとき一緒に落ちて来るあれでしょ、あれなら六さんひっ掻くわよ」
「ひっ掻きゃしないんだ」
「だってみんなそう云うわよ、あたしだっていつかお日枝ひえ様の山へかみなりが落ちたとき見にいったら、巨きな御神木が裂けて、がりがりひっ掻いたあとがいちめんについているのを見たわよ」
「ひっ掻きゃしないんだ」六助は辛抱づよく云った、「かみなりと一緒に落ちて来もしないんだ、もともと雷獣なんてものはいやしないんだよ」
「どうしていないの」
「どうしてって、いないからいないのさ、雷獣だなんて、つくり話に定ってるじゃないか」
「あらいやだ、それじゃあお日枝様の御神木のあれは誰がひっ掻いたの」
「誰がって」六助はお梅を見て、ぐっと渋いような顔をした、「どうしてそう、ひっ掻くことにこだわるんだ、誰がなんのために御神木なんぞ……まあお聞きよ、本当はこうなんだ」
「それは聞かないでもらいたいね」と小座敷の客がおよのに云った、「店の名がわかるとすぐ旦那なんて云われるからね、あたしは旦那あつかいをされるのが、なにより嫌いなんですよ、ええ、お世辞じゃないがおよのちゃんなんぞとこうやって気楽に飲みたいからこそ、このうちへも来るんでね、いいえお世辞じゃないけどさ、いそと呼んでもらいましょう、五十と書いていそとよむあのいそ、店の名はね、それはひとつ聞かないようにね、ええ」
 おそめが酒のかんをして、六助のところへ持って来た。お梅はそれを受取って、六助に酌をしながら云った。
「そうかしら、あたしはそう思えないけれど、でもそれ……誰が云ったの」
「おれの親父が云ったんだ、おれの親父はなんでもよく知っていたんだ」六助は眼をすぼめて、まじめな口ぶりで云った、「しょうばいは石工だったが、石工としても土地では腕っこきといわれたものなんだが、ずいぶんいろいろな本を読んで、……親父は字もうまかった、神主の丹波さまもかぶとをぬぐくらい、親父はもの識りで頭がよかった、どうかして死ぬまでに本を一冊書きてえ、と云った、どうしても書くんだと云ってた、そのことでいつも頭がいっぱいだったらしい、絶えず癇癪かんしゃくを起こしたり酔っぱらったりしていたもんだ、三十五の年に、胃が破けて死んじまったが……」
「じゃあ本は書かなかったのね」
「書かなかったよ」
「いったいどんな本を書くつもりだったの」
「それがさ」六助は両手でさかずきを包んだ、「なにを書くつもりだったか、誰にもわからなかったが、親父は酔っぱらうといつもこう云ってた、書きたいことはここ――自分の額を指でたたくんだ……ここに詰っている、いっぱい詰っているんだ、紙と筆と暇さえあれば書けるんだ、なにを書くのかって、ふん、おめえたちの知ったことじゃあねえさ、こう云ってた……ときによると、神主の丹波さまもなにかしら古い事を聞きに来るくらいだったが、親父の云うことにはいつも感心してた、ただ一つだけ、神や仏などというものもない、ということだけは承知しなかったがね」
「あら、神仏もないって云うの」
「そうなんだ、雷獣なんてものもないし、竜とか鬼とか、魔なんてものもない、狐や狸が化けるってこともないし、幽霊だの怨霊おんりょうなどというものもない、神や仏などもありゃしない、みんな人間のばかな頭で考えだしたもんだ、みんな作り話だ、ってな」
「じゃあ、あんたのお父っさんてひと、ずいぶんつまらなかったでしょうね」お梅は同情の太息をついた、「わかるわ、あたし、どうしてあんたのお父っさんがいつも癇癪を起こしたり、酔ってばかりいたかってことが」
「おれの親父がつまらなかったろうって」
「そうよ、そんなになにも無いってことがわかったら、世の中なんてつまらないじゃないの」お梅は酌をしながら云った、「それもいいけれど、そんなことであんたと中さんが喧嘩するなんてもっとばかばかしいわ、だいたい六さんが大人げなくってよ、あんな女の腐ったみたいなにやけたひとを相手になにさ」
「今夜はいやにずけずけ云うな、そんなふうに云っていいのか」
「だってそうなんだもの」お梅はじれったそうに云った、「いつもむっつり、煮えたも焼けたもわからないような顔で、まるで女の腐ったみたいよ、銀流しだわあのひと」
「済まないが勘定をしてくれ」
「あら、また怒ったの」
「帰るから勘定してくれっていうんだ」
「怒るんなら怒んなさいよ」お梅は立ちながら云った、「半月も喧嘩をしているくせに、ちょっとなにか云うとすぐおれの友達だって、そんなに友達おもいなら喧嘩なんかしなければいいじゃないの、いくらでも云ってあげるわ、中さんなんか女の腐ったみたいでいやみでにやけた銀流しよ、あんなひと大嫌いだわ」
 そして帳場のほうへ去った。
「ほんとですよ、お世辞なんか云わないよ」小座敷で男が云っていた、「あたしはおよのちゃんに首ったけだよ、お世辞ぬきで本当におまえさんとひと苦労してみたいね、ええ、ほんとうですよ」
 六助はおそろしく苦い顔をして、残りの酒をぐっとあおり、手の甲で口のまわりを拭いた。すると、伸びている濃い髭が、じゃりじゃりと音を立てた。お梅がこっちへやって来た。
「ひでえことを云う娘だ」
 六助は外へ出ると少しよろめいた。
「ひでえ娘だ」傘をひろげながら、彼は口の中で呟いた、「だんだん口が悪くなる、まえにはあんなじゃなかった、まえには、去年だってもっと温和おとなしかった、おと年はもっとすなおだった……どうすればあんなになるのだろう、中次のことを好いてると思ったのに、……わけが知れねえ」


「どういう気持なのか」と六助は首を振った、「どんなこころもちなのか、銀流し……」
 明くる日の夕方であった。長屋の七軒めの家で、六助は独りで酒を飲んでいた。もちろん食器もなにもない、みんな魚金から届けて来たものであった。二人が稼ぎを休んでいて、食事どきに店へゆかなければ、魚金のほうから届けて来るのが、定りになっていた。今日は届けに来たおそめに酒の追加を命じ、彼はもう五合ばかりも、冷のままで飲んでいた。けれども、そのために昨夜のことにこだわっているわけではなかった。酔っているために独りでお梅にからんでいるのではなかった。ただしぜんと口に出るのであった、ほかにはこれといってからむものがない、生活はつねに単純に割りきっていた。あとでむしゃくしゃしたり、いつまでも頭にひっかかるようなことは決して残さない習慣であった。中次のことを思うのがやりきれないとすれば、お梅の毒舌にからむよりしかたがないのであった。
「――いるか」
 外で声がした。そして障子に人の影が映った。この長屋の家には入口がない。土間の付いた入口というものがなかった。六帖ひと間の、路次に面して障子があって、出入りはそこからするのである。その右にある腰高障子は勝手口だが、どっちから出入りするにしても、履物は戸外へ置くことになるし、雨の日や寝るときには勝手へ上げるのであった。
「――いるか」
 外でもういちど呼ぶ声がした。こんどは少し高かったので、六助は「おい」と答えた。答えて、障子に映っている影を見て、彼は顔を崩しながら大きな声で云った。
「あけて入ってくれ、一杯やってるところなんだ」
 障子があいて、中次が顔を見せた。
「やってるのか」
「このとおりさ」と六助はうきうきと云った、「まあこっちへ来てつきあってくれ」
はらが立ってしょうがねえ」
 中次はあがって、障子を閉めて、六助の脇へ来て坐った。やっぱり酔っているらしい、顔色があおざめ、眼がとろんとしていた。その眼で彼は六助を見た、六助のほうでも飢えたようにそれを見返した。そして、それで仲直りのできた証拠のように、二人は同時に眼と唇で笑った。
「まあ、これで一つやってくれ」
「おらあ肚を立ててるんだ」中次は盃を受取りながら云った、「癪に障ってしょうがねえんだ」
「なにをそんなに怒ってるんだ」
「お梅のやつよ、あの魚金の娘のやつよ」
「聞いたか、あれを」六助が云った、「そいつをぐっとやってくれ、まあもう一つ、……おめえ聞いたのかあれを」
「だから肚が立つのよ、いつもは猫をかぶってやがって、ひと皮むけばげじげじ閻魔えんまときやがる」
「げじげじ閻魔だって」
「いつも無精髭を伸ばしてるし、胸からなにから毛むくじゃらで、おまけに二人の喧嘩でおっかねえ顔をしているから」
「ちょっと待ってくれ」六助は眼をすぼめて云った、「そいつは、まさか、よもや、おれのことじゃあねえだろうな」
「おめえのことよ」中次は盃を持った手で自分のひざを叩いた、「よそのやつのことなら怒りゃしねえ、おめえのことを云ったから怒ったんだ、おめえのことをそんなふうに云ったから」
「おれのことをだな、お梅が」
「げじげじ閻魔ってよ」
 六助はふくれた。自分でもふくれたのがわかった。中次は友の顔を見てうなずいた、友の顔がふくれたのは怒ったので、怒るのが尤もだという頷きようであった。
「ふざけた娘だ」六助は云った、「こうなると云ってやらなくちゃならねえ、おめえにはおれのことを悪く云い、その口でおれにはおめえの悪態をつく、ようし、ひとつこれからいってとっちめてくれよう」
「おれの悪態をついたって」
「癖になる」六助はひょろひょろと立った、「でかけていって、ひとつぎゅっというほど」
「おれのことをなんて云ったんだ」
「どうせでまかせよ」六助は口を外らせ、腕を貸して中次を立たせた、「女なんてものはおめえ、あとさきの考げえなしにものを云うもんだ、……けれども、こんどばかしは勘弁がならねえ」
「そうだ、こいつばかりは勘弁ならねえ」
 二人はれだって外へ出た。歩きぶりでひどく酔っていることがわかる、外はさびた紫色にたそがれていた。勝手口からの煮炊きの匂いや物音や、子供たちの騒いでいる路次をぬけ、八丁堀の河岸っぷちへ出ると、そこだけ明るい水面から、冷えた夕風が吹きあげて来た。魚金はつい向う岸に見えるが、そこへゆくには長方形の他の三辺を廻らなければならなかった。二人はもつれるような歩きぶりで、真福寺橋を渡り、そこを右へ白魚橋を渡り、またすぐに弾正橋を渡った。そして、黒ずんでゆく黄昏たそがれのなかで、早くも掛け行燈あんどんの灯が、橙色だいだいいろにうるみだした、魚金の店へと入っていった。……店の中は夕食の客で混雑していた、二人で掛けられる場所はなさそうであった。そこでかれらは客と客との間をぬけてゆき、小座敷へとあがった。二人が入って来たときから、おそめとおよのは眼をみはったり、なにかささやいたりした。お梅は見向きもしなかった。
「ねぎまにさばの塩焼で御飯ですね、はい」
 などと他の客に掛りきりであった。
「なんにしますか」
 およのが注文を聞きに来た。笑いたいのをがまんしている顔つきであった、注文を聞いて去るときにはいそいで前掛で口を押えた。二人はむっとして、さらに肩をいからかした。
 二人は黙って飲んだ。もう酒は不味まずいし、飲みたくもなかったが、飲むよりほかにしようがないのであった。客は絶えず出入りしていた。そのうちに一人、四十五六になる商人風の男が入って来た。その男はこっちの小座敷へ来ようとしたが、お梅になにか云われ、しぶしぶ飯台のほうへ腰掛けた。
「あいつはいってえなんだ」中次が云った、「この頃ちょくちょく此処ここへ来るが、きざなことばかり云う妙な野郎だぜ」
いそってえ名前だそうだ」六助が云った、「ゆうべは四十くらいにみえたが、今夜は五つ六つ老けてみえる、自分では大店おおだなの旦那らしいことを云っていたっけ」
 中次はふんと云った。六助は眼をすぼめ、盃を口まで持っていったが、眉をしかめて下へ置いた。まもなくお梅が酒を運んで来た。お梅は二人に気づかれないように、そっと来て、燗徳利かんどくりと小皿の載った盆をそこへ置き、いたずらっぽい眼で二人を眺めながら、にこりと笑って云った。
「いらっしゃい、よかったわね」
 二人はぎくりとした。そしてお梅を見て、お梅の笑い顔を見て、二人ともいっぺんにてれたような表情になり、殆んど同時に、ひょいと頭を下げた。
「やあどうも」と六助が云った。
「いろいろどうも」と中次が云った。異口同音だったので、お梅がぷっとふきだした。二人も笑いだした。
「いろいろ心配させちまって」六助が元気な声ですなおに云った、「どうも済まねえ」
 中次も「済まねえ」と云い、二人でもういちど頭を下げた。かれらはお梅の笑い顔を見たとたんに、了解したのであった。どうすれば二人を仲直りさせられるか、お梅は知っていたのである。そして、二人はお梅の思う壺にはまったのであった。
「なるほど、そうばかりでもないもんだ」六助は首を振りながら呟いた、「女だといっても、あとさきなしにでたらめを云うとも定らないもんだ」


 二人は陽気になった。鼻についた酒がまた美味くなり、飲めるようになった。半月間のお互いにまっていた話題を楽しみながら、二人はさらに飲み続けた。もちろん酔いに酔った、平生は節度を守り、きちんと暮すのを好んでいたが、その夜は羽目をはずしてもいいのであった。
「あたしは気にいりましたよ、ええ、お梅ちゃんから聞いてましてね、友達というものはそうなくちゃあならない、お世辞じゃないがいいもんですな、じつにいいもんですよ、ええ」
 六助は眼をすぼめた。いつのまにどうしてそんなことになったか、例のいそという商人風の客が、二人の席へ来て坐っていた。
「どうしたんだこれは」六助は中次を見て云った、「この人はいつ此処へ来たんだ」
「箱根までゆくんだ」中次がもつれる舌で答えた、「通し駕籠で箱根までよ、おれとおめえとで、駄賃は五両だ」
「箱根がどうしたって」
「まあまあ、一つぐっとやって下さい」いそという男が云った、「話はもう定ったんだから、おまえさんたちの仲の良さにれちまってね、ちょうど遊山旅に出たいと思ってたもんだから、どうせなんならおまえさんたちの駕籠でゆきたいと思ってさ、いいえお世辞じゃない本当ですよ、まあ一つぐっと」
「わけがわからねえ」六助は首を振った、「通し駕籠で五両、……箱根まで、……ういっ」
 じつのところ六助はわけがわからなくなった。暗闇や、八間の灯や、人の顔がちらちらし、器物の音や、誰かの話したり笑ったりする声などが、遠くなり近くなったりして聞えた。そして、やがて、それが混沌と重なり合って、子守り歌のように彼をあやし、彼の意識をくらましてしまった。
 明くる日、六助は猛烈な宿酔ふつかよいのために、一日じゅう苦しみとおした。べらぼうにのどが渇き、頭が割れるように痛み、ちょっとでも起きようとすると天地が逆転するような眩暈めまいにおそわれた。中次は早くから起きたらしい。六助の世話をしたり、どこかへ出かけたり、帰って来たと思うとまた出ていったりした。このあいだに中次は、六助に向っていろいろなことを云った。六助にはよくわからなかった。苦しさのためにそれどころではなかったが、そのなかで箱根とか、五両とか、通し駕籠とかいう言葉だけは聞きとることができた。宿酔は灯がつくと治るという。本当かどうか、六助の宿酔も日が暮れると治った。そこで初めて、箱根ゆきのことをはっきり聞いた。
「案外だが人の好い旦那らしい」と中次は云った、「ちょうど湯治にでもゆきたいと思ってたところだから、二人の仲直り祝いに稼がせてやろう、よかったら二三日湯につかって来るがいい、という話なんだ」
「うますぎる」六助が浮かない顔で云った、「垢だらけの足で桐の駒下駄を貰うような心持だ」
「だって初めにおめえが承知したんだぜ」
「冗談いっちゃいけねえ」
「おめえが承知したんだ」中次は云った、「お互いに二十日ちかくも遊んですっからかんだ、五両なら悪くはねえ、初めての長丁場だが、肩代りなしに二人でやろうってよ」
 中次はもう手配を済ませていた。駕籠庄へいって切手を作って貰い、小遣も借りて来ていた。駄賃を先にれとも云えないので、途中の入用に二分借りたのであった。
「おらあ酔っていてなんにも知らねえ、そう云われてもまるっきり覚えがねえ」
「じゃあどうするんだ」中次は声をとがらせた、「明日の朝五時に弾正橋のたもとでおち合うことになっている、旅切手も取り、親方から小遣も借りてあるんだ、けれどもおめえがいやだと云うんなら御破算にしてもいいぜ」
「怒るのは勘弁してくれ、いやだと云うんじゃねえんだ、おめえが承知ならそれでいいんだ、ただ話のうますぎるのが気になっただけなんだから」
「おらあ無理にゆこうたあ思わねえんだ」
「わかったよ」六助は閉口して云った、「あやまるから機嫌を直してくれ、そして明日はひとつ、気持よくでかけるとしよう」
 中次は「うん」と云ったが、機嫌は直らないようであった。六助の渋るのをみて、彼もまたいやきがさしてきた。本来なら断わる仕事であった。いそという客もじつをいえば気にくわないし、五両という駄賃も莫大すぎた。喧嘩のために半月以上も遊び、すっからかんになっていたのと、たまにはそのくらいの金を持ってみたいという気持から、つい引受けたのが、今になってみると逆に不愉快でいまいましくなった。
「六郷から向うは初めてだな」六助が励ますように云った、「金を貰って遊山旅をするようなもんだ、しょうばい冥利みょうりってものだぜ」
 中次は「うん」と云うだけであった。
 翌朝の五時、二人は弾正橋でいそという客とおちあい、箱根へ向って出発した。気分は重かったし、大森で早めの昼食をするとき、二人は客がかなりな金を持っているらしいことについて、囁き合った。
 肩に当る感じでわかるという、金五十両から上は間違いなくわかる、なかには十両でも「肩へこつんとくる」と云う者もあるが、そのときの感じではかなりな額らしかった。
 ――このくらいか、六助は指を二本みせて眼でいた。中次は考え深そうに首を振り、そっと指を三本だしてみせた。そして、二人はお互いに不吉な予感におそわれた。
 その日は神奈川泊りにした。第一日だから、ということだったが、宿へ着くとすぐ、客は二人に金を預けた。
「お世辞じゃないがおまえさんたちをねらう泥棒もいまいからね」いそという客は云った、「草津へいったときには自分が持っていてさ、二百両ばかりだったがそっくりやられましたよ、ええ、だからこんどは箱根まで頼みたいと思いましてね」
 そして胴巻を預けられた。預かるについて、念のために数えてみたところ、大判で四百両、小判で五十両あった。もちろん封まで切りはしないが、六助と中次はわれ知らず眼を見合せた。その多額な金は、二人から不吉な予感を除いてくれたばかりでなく、浮かない気分からも解放してくれた。草津のときは二百両も盗まれたという、またこれだけの金をむぞうさに預ける。こんなことが大店の旦那でなくて誰にできるだろうか、悪人やいかがわしい人間に、そんなおうようなことができるだろうか。
「人はみかけによらねえものだ」六助があとで云った、「みかけだけで人を判断するのはよくないもんだ」
 中次は頷いて、満足そうに太息をついた。
 旅は快いものになった。客は(魚金にいるときとは別人のように)無口で、むだなことを殆んど云わなかった。二人にとってはそれはなによりも有難かった。二人は初めて見る野山の景色を眺め、家並や人の変った風俗に興じ、正しく六助の云うように「しょうばい冥利」を楽しむことができた。まだ昼のうちは残暑も感じられるが、江戸市中とは比較にならなかったし、渡って来る風はまったく秋であった。二日めは藤沢の西の、南湖という間の宿で泊った。
「大山へ登る道だったな、藤沢は」
 宿で泊った夜、二人はそんな話をした。
「そうよ」六助が云った、「あそこには有名なくるわがあるんだ、大山まいりをする手合はそこで遊ぶのを楽しみにするものらしい」
「それはお詣りのあとのこった」と中次が云った、「道了様は荒神だから、遊んだ人間なんぞ登ると大変なことになるんだ」
「どっちでもいいけれども、道了様てえのはおめえ小田原だ、大山はたしか阿夫利神社ってんだぜ」
「そうかい、へえ」中次はつんとした、「大山はあぶり神社ってのか、あぶり神社、へえあぶり出しでも売るのかい」
 六助は黙った。雷獣の件もそうだが、中次はものを識らないくせに、間違いを訂正されたり教えられたりするとすぐに怒る。六助のほうにはわる気はないのだが、中次としては自尊心を傷つけられるらしい。二人の喧嘩の九割まではそういう問答から始まるのであった、六助はそれで話を打切りにし、寝返りを打って眠った。
 三日めには馬入川を越して平塚、大磯から小田原までと思っていたが、花水橋というところでいやな事が起こった。代官所の下役人が道に出ていて、客が訊問じんもんされたのである。
「どこのなに者であるか、商売はなにか、どこへなに用でゆくか」
 そんなことを、妙になまりのある言葉でくどく聞き、六助と中次も切手を調べられた。訊問の仕方がひどく諄いので、二人は中っ肚になったが、いそという客はさすが商人らしく、へいへいとどこまでも温順丁寧に答えていた。……そんなことで時間をつぶし、その日はまだ早かったが大磯で泊った。
 明くる朝、五時に宿を立って、鴫立沢しぎたつさわという処へさしかかったときのことである。そこは海のほうにこんもりと松林があり、西行堂というお堂が建っている。心なき身にもあはれは知られけり……と、その昔西行法師が歌をんだ処だというが、ちょうどそこの処で、うしろから駕籠が二ちょう、こっちを追い越して停ると、中から男が二人現われて、
「その駕籠、おろせ」
 と喚きながらこっちへ来た。喚いたのは役人らしい、はかまをはき足拵あしごしらえをして、刀を差していた。三十二三だろうか、町同心といった風で、眼つきはするどいがにがみばしった顔つきの、なかなか好男子だった。もう一人は商家の番頭とみえる、四十五六になる肥えた男で、逆上したようなまっ赤な眼をしていた。
「中の者出ろ」同心態の男がこっちの駕籠の脇へ来て云った、「これへ出ろ」
「いったいなんですかい」中次が癇に障ったように云った、「この客はあっし共の知合で、江戸から箱根へおいでになる途中」
「きさまは黙れ、中の者に用があるのだ」と同心態の男はどなり返し、ふところから朱房の十手を出した、「もはや※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれぬぞ、紬屋藤吉、てまをかけずに出てまいれ」
 いそという客が出ようとするので、六助が雪駄をそろえてやった。すると、役人のうしろにいた男が、出て来る客を見るなり、あっと云って指さしをした。
「こいつです、この男です、ええもう間違いはございません、この男でございます」
「なにが私でございますか」客は不審そうに反問した、「私は江戸日本橋槇町で、京呉服の店を営んでいる山城屋五十平という者でございますが」
「こういうしらじらしいことを」
「いや宜しい」役人は男を制した、「こやつが紬屋藤吉だということは自分がよく承知している、ひとまず番所へいてまいろう、……藤吉、御用であるぞ」
 役人は十手を自分の額にかざしてみせた。つまり法が発動されるという意味で、当今の令状呈示より尊厳な作法であった。いそという客は温順に頭を下げた。
「宜しゅうございます、どこへでもまいりましょう」おちついた声で云った、「なにかのお間違いと思いますが、調べて頂けばわかることで」
「神妙である、歩け」
 役人は十手で道の向うを示した。
「ちょっと待っておくんなさい」六助が狼狽ろうばいして云った、「あっし共はその人を江戸から通しで乗せたんですが、へえ、箱根まで通し駕籠で、駄賃は五両という」
あきらめるんだな」役人は歩きだしながら云った、「こいつは紬屋藤吉といって、あんまり利巧でもないくせに口だけはずばぬけてうまいぺてん師だ」
「ぺてん師」六助は眼をいた、「まさかそんな、しかし、その、本当ですか」
「これにいるのは小伝馬町の米村と申す太物問屋の手代、こいつに大きくひっかけられた被害者の一人だ」役人は歩きながら、ふとこっちを見た、「きさまたちもくわされた組らしいな、駄賃は五両と云ったのか」
「しかしそれにはちょいと訳がありますんで、へえ、あっし共の仲直りの祝儀という」
「江戸の人足にも似合わない」役人は皮肉に微笑した、「どんなわけがあるにしろ、箱根まで五両とは法外な駄賃だ、それをまに受けるとはきさまたちのほうがどうかしているぞ」
 六助は「ぎゃふん」と云いたかった。役人の言葉はそう云わせるような調子だったし、六助としてはまさにそう云いたいような気持だった。
「そうするとどうなるんですかい」中次が肚を立てたように云った、「あっし共はまだ一文も貰っちゃあいねえ、此処まで手弁当で来て、江戸へ帰る小遣にも困ってるんですがね」
「諦めるんだな」役人は笑った、「欲にひっかかった罰だ、これからは気をつけるがいい」
 六助と中次は茫然と立停った。
 役人と米村の手代という男とは、いそを伴れて、(あとから二挺の駕籠も一緒に)大磯のほうへ去っていった。そっちに代官所でもあるらしい、……こちらの二人は道の上に駕籠を置いたまま、ながいこと気の抜けたように立っていた。
「しょうがねえ」やがて六助が云った、「帰るとしようか」
 中次は頷いて、先棒のところへいったが、そこで六助のほうへ振返った。六助もそっちを見ていたが、とたんに二人一緒に云った。
「おめえはおれを悪く思ってるんだろう」
 異口同音であった。お梅がいたら笑うところだろうが、お互い同志ではくさるばかりである。二人とも顔をしかめて、無精ったらしく駕籠を担ぎあげた。むろん空駕籠であるが、担ぎあげたとたんに、ずんと肩に重みのかかるのが感じられた。
「おい、へんじゃねえか」
 中次が云った。六助もへんだなと思ったところで、「うん」と云った。が、とたんにおっとばかり高い声をあげた。
「金だ、きょうでえ、あの客の金だぜ」
 中次もあっと叫び、慌てて駕籠の中を調べた。すると敷物の下から例の四百五十両、ずっしりと重くふくれた胴巻が出て来た。二人はぎょっとして眼を見合った。
「追っかけよう」六助が云った。
「しかし」と中次が云った、「まさかぺてんのかかりあいになりゃあしめえな」
「なっても因果だ、いそげ」
 二人は駕籠を担いで走りだした。正金で四百五十両、そのままずらかることもできた。江戸からこの大磯まで手弁当、帰りの銭にも困っているのに、「このまま逃げたら」という考えさえうかばない、むしろ返すことにのぼせあがって、それこそいっさんに追っていったのである。
 それから約半刻はんときのち。二人は空駕籠を担いで、平塚の宿のほうへと歩いていた。二人とも崩れるようなにこにこ顔で、気も浮きあがるというようすだった。
「禍い転じて福となるってのはこのことだな」六助が云った、「あの米村の手代って人はよっぽど嬉しかったらしい」
「金がそっくり返ったんじゃねえか」中次はわざと冷淡そうに云った、「諦めていた金がそっくり返ったんだ、このくらいのことはあたぼうだ」
「だっておめえ十両だぜ、箱根までいって五両、それが倍になったんだ、盗めば首の飛ぶ高だぜ」
「驚くにゃあ当らねえ」中次が云った、「五両が十両になるのもあたぼうだ、事の起こったのがおめえ大磯じゃねえか」
「大磯ならどうしてあたぼうだ」
「大磯は曽我兄弟に縁のある土地だろう、とすればおめえ五りょう十りょうだ」
「この野郎」と六助が喚いた。
「ざまあみろ」と中次が笑った。街道には馬の鈴が平穏に聞えていた。





底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
   1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
   1952(昭和27)年12月号
※「不精」と「無精」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード