暗がりの乙松

山本周五郎





 居合腰になってすーと障子を明ける、そのまましばらく屋内のようすを聞きすましてから、そっと廊下へ忍び出た。とたんに、
※(歌記号、1-3-28)きりぎりす
   袖もたもとも濡れ縁に
 隣の部屋から、さびた良い声で唄いだすのが聞えてきた。
「――またか!」
 野火のび三次さんじは舌打をして居竦いすくまった。
 ここは伊豆の修善寺、佐原屋さわらやという湯治宿の二階だ。まだ駈け出しの小盗人野火の三次は、江戸の仕事に足がついて、どうやら体が危くなってきたから、二三年旅をかけて腕を磨こうと、草鞋わらじをはいて入って来たのがこの湯治場であった。――この宿へ着いて十日め、早くもみかけためどが二つ。その一つは三日まえにこの佐原屋の二階の離室はなれへ泊りこんだ客の、ずしりと重い懐中ふところである、旅へ出ての手始め、三次は気負ってこいつを狙った。
 ところがここに妙なことが起った。というのは、宿の寝鎮まるのを待って、三次が自分の部屋をぬけ出すとたんに、隣の部屋で端唄を唄いだす者がある――それがまた不思議に三次の胆へびんと響いて、どうにも足が竦んでしまうのだ。今夜もこれで二度目になる、
「畜生」
 三次は口惜しそうに呟いた、「高の知れた端唄ぐれえが、なんでこんなに胆へこたえるんだか、ぜんてえ訳が分らねえ……」
 小首をひねる耳へ、嘲るように唄は続いた。よく聞けば箱根から先には珍しい薗八節そのはちぶしである、何ともいえぬ渋い節回し、
※(歌記号、1-3-28)……様を待つ夜の窓の笹
   露のけはいもあさましや
     麻の葉染めの小掻巻こかいまき――
 こっちが部屋をぬけだすのと同時に、符牒ふちょうを合せたように唄いだす相手。こいつぁ唯者でないぞと腕組みをした三次、
「まてよ。薗八節で文句はいつもきりぎりす、薗八節できりぎりす。どこかで聞いたことのある文句だぞ――」
 しばらくじっと考えていたが、不意に、
「あっ、暗がりの乙松だ」
 とひざを叩いた、「あいつだ、どうして今まで気がつかなかったろう、江戸であれほど評判を聞いていたのに――そうか、こんな処へふけ込んでいたのか」
 暗がりの乙松といえば、天保三年八月お仕置になった鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきちの二代目とまでいわれた大盗人である。鼠小僧が刑殺されて、ほっと息をぬいた諸侯や富豪の邸を狙っては、眼にも止まらぬ荒仕事をする有名な賊で、何十人という捕手に追われながら、いつも――薗八節できりぎりすを良い声に唄い残して逃げるというのが、奇を好む江戸っ児にやんや喝采かっさいされていた。それが三年ほど前からふっつり姿を見せなくなったと思うと、計らずもこんな処で三次の耳に止ったのである。
「それで分った」
 三次はうなずいた、「乙松も離室を狙っているんだ、それでおれのぬけ出るたんびに邪魔をしやがるに違えねえ。こいつぁ面白えぞ――そう分りゃあこっちも意地だ、まだ駈け出しの三次が、みごと乙松を出抜いてみせようぜ」
 にやりと冷笑した野火の三次は、まだ聞えている隣の唄へ、まるで挑みかかるようにあごをしゃくると、そのまま離室のほうへ、猫のように忍んで行った。
 隣の部屋の唄声がはたとやんだ。
「――馬鹿野郎」
 低い含み声が聞える、「とうとうやりゃあがったか、まだ若そうなやつだったが……」
 人の立つ気配がして、ぼーっと有明行燈ありあけの灯がかき立てられた。そして低く、ぱちりぱちりと何か打つ音がし始める……程なく、離室のほうで突然どたんとすさまじい物音、
「泥棒だ――!」
 と絶叫するのが聞えた。
「泥棒だ、泥棒だあっ」
 しんと寝鎮まった宿の内へ、びん! と響きわたる喚き、騒然とあちこちで客の起出る気配のする廊下を、野火の三次――あおくなって逃げて来た。
「しまった、しまった」
 と夢中で自分の部屋へ入ろうとした。そのとたんに、隣の部屋の障子が明いてすっと手が出る、素早く三次の腕をつかむと、
「若いの、こっちへ入んねえ」
 云いさま、ぐいと引入れて後手に障子をぴたりとす、顎をしゃくって、
「そこへ坐れ」
 と有明行燈の前の座蒲団を示した。


 年は四十一か二であろう、浅黒い顔に眉の濃い、眼にちょっと凄みはあるが唇元の緊まった品のある顔つき、宿の浴衣に結城ゆうきの藍格子の丹前を重ねて、夜具をはねた寝床の上へどっしりと坐ったところは、どうして立派な大所の旦那というかっこうである。
 枕もとには寝酒の支度ができていて、その向うに将棋盤があった。どうやら今まで独り指しをたのしんでいたらしい。
「まあ一杯やんねえ」
 男は落着いた手つきでさかずきをさした。
「へえ――」
「落着かなくちゃいけねえ、もうすぐあらために回って来るぜ。さあ」
「頂戴いたします」
 三次は盃を額へもっていった。男は酒をいでやりながら、じっと三次のようすを見戍みまもっていたが、飲終って返す盃をぜんの上へ置くと、将棋盤を二人のあいだへ引寄せて、
「お前指せるか」
「へえ、ほんの真似だけで」
「検めの眼眩めくらましだ、真似でいいからやんな、ちょうど寄せにかかるところで、こっちゃあこの角を切っていく手だ……おっ、来たぜ」
 手を読む暇もなく三次は角道を止めた。
 廊下をこっちへ、がやがやと人声が近づいて来る、部屋をひとつひとつ検めているらしい、男は手酌で一杯やると、
「うーむ、止めたか」
 と仔細しさいらしく腕組をした。そこへどかどかと跫音あしおとが近づいて来て、
「ええ御免くださいまし」
 声をかけながら障子を明けた。宿の亭主をはじめ七八人の男たちが、向う鉢巻に尻端折り、六尺棒を持ってずらりと並んだ。
「おやおや、たいそうな出立だな」
 男は振返って、「何かあったのかえ――?」
「お騒がせ申して相済みません、いま向うの離室へ泥棒が入りましたので、順繰りに見回っているところでございますが」
「そいつぁ物騒な、何か盗られなすったか」
「いいえ、幸いとお客様が早く気付いたので、べつに盗まれた物はありませんが、どうやら外から入った賊ではないようすゆえ、念のために検めておりますので」
「そうかえ、こっちゃあまたさっきから将棋に夢中で何も知らなかった」
 男は部屋を指さして、「かまわないからこの部屋も検めていっておくれ」
「とんでもない、梅田屋うめだやの旦那のお部屋まで検めるには及びません、ちょっとお耳に入れていただいたばかりで――へえ御免くださいまし」
「そうかい、それは御苦労だったな」
 亭主は慇懃いんぎんに挨拶をして立去った。
 どうなることかと、腋の下へ冷汗をかいていた三次は、検めの人声が遠ざかり、やがて階下へ消えて行くと、いきなり座蒲団から滑下りて両手をついた。
「ありがとう存じます、お蔭で危いところを助かりました、暗がりの親分――」
「何だと?」
 男の眼がぎらりと光った。
「お怒りなすっちゃあ困ります」
 三次は声をひそめて、「あっしが仕事をしようと、部屋をぬけ出すたびにお唄いなすった薗八節、しかも文句はきりぎりす……三年まえに江戸から足をお抜きなすった、暗がりの乙松親分が御自慢の唄、江戸八百八町、今でも知らねえ者あごさんせん」
「そうかえ。薗八のきりぎりす、そんなに名が通っていたかえ、そいつぁ大笑いだ」
「あっしゃあまだ駈け出しで、野火の三次という者でござんすが、――改めて親分にお願えがござんす」
「何だかいってみねえ」
「こんなけちな青二才でお気にゃ召しますめえが、どうか子分にしてやっておくんなさい、お願え申します」
「ふっふ、いまの腕でか――?」
「今なあまったくどじを踏みやした、その代り今度は外れっこのねえ仕事をお眼にかけやす、それを手札代りにどうか」
「そりゃあこの土地か」
「へえ、つい街道向うでござんす」
 相手はぎろりと三次を見たが、
「おらあ血を見るなあ御免だぜ」
「あっしも江戸育ちでさあ、けっしてそんなぶまなこたあ致しやせん」
「そうか、じゃあ何だ、とにかくお前の腕を見せてもらうとしよう、話ゃあそれからだ。――おっと三の字、断っておくがおいらここじゃ梅田屋で通っているんだぜ」
「承知でござんす、梅田屋の旦那」
「ふっふっふ、まあ忘れねえように頼む」
 暗がりの乙松、ではない梅田屋は、つやの良い顔を崩しながら愉快そうに笑う、三次は冷えた酒をぐっとあおった。


 とっぷり暮れた空に夕月がかかっている。
 風のない初夏の黄昏たそがれすぎ、西伊豆の山々もすっかりくろずんで、遠く近く灯がまたたき始めている。修善寺の湯治場から南へ十丁あまりはなれた、とある丘のふところで、さっきから身を寄せ合ったまましめやかに話しふけっている若い男女があった。
 娘のほうは十六か七であろう、襤褸つづれの野良着こそ着ているが、色の白い丸ぽちゃの愛くるしい顔だちで、星のように潤みをもった眼がじっと男の横顔をみつめている。
「聞くまではおらも知らなかっただ」
 娘はつぶやくように云った。「ずっと前っから家の苦しいこたあ察していたが、まさかこんなことになろうとは……」
「お主の聞違えじゃあるまいの」
 若者の声は慄えている。
「聞違えすることかよ、茂吉もきちさ。現に今日、父さんが二百両という金を持って帰っただ、あれが姉さの身代金だと云うだ」
「姉さんはどこへ行っただか」
「沼津の女衒ぜげん藤兵衛とうべえとやらいう人が連れて、江戸の新吉原とかへ売られたと聞いただよ、おらもうそれを聞いたら姉さが可哀そうで、可哀そうで飯ものどへ通んねえだ」
「とんだことになったのう」
「姉さは家のために身を売らしっただに、妹のおらが安閑としてこんな……」
「何を云うだ」
 若者はいたわるようにさえぎった、「おぬしはまだやっと十七でねえか、どっちが身を売るとなりゃ、済まぬ言分だが姉さんの行くが順当だ、――こんな時おらにもっと甲斐性かいしょうさえありゃ、なんとかして切抜けるだに」
「茂吉さ、そんなこと云わねえでくろ、おらこそ茂吉さに済まねえと思ってるだ」
「何が済まねえことがあるだよ」
「お女郎の姉さなどもつようになったおらを嫁にもらったら、世間できっと何ぞかぞ云うに違えねえ、それを考えるとおら……」
「おいねさ」
 茂吉は思わず娘の手を握った、「おぬし、いまからそんな心配してどうなるだ、たとえ世間が何と云おうと、家のために身を売った姉さんなら立派なものでねえか、おらあ大威張りでお主をもらってみせるだ」
「じゃあ嫌やしねえだの?」
「お稲さこそおらを忘れるでねえだぞ」
 娘は身をふるわせながら、とびつくように男のくびへ手を回した。むせるような女の肌の匂いに男は胸をおののかせつつ、ひしひしとお稲をたくましい両腕で抱緊めた。――若草の伸びる甘いそそるような匂いが、昼のほど良く蒸れあがった土の香ともつれあって、若い二人を忘我の境へ置去るのだった。
 この丘を北へ、だらだらと下ったところに、土蔵二戸前、別棟のうまやを一棟も持った大百姓らしいひと構えがある――修善寺から裏道伝いにやって来た野火の三次と梅田屋の二人。三次は丘下の杉林の中に足をとめて、
「あの家でござんす」
 と指さした。
「なんだえ、仕事というのは百姓家か」
「百姓は百姓でも上畑かみはた嘉兵衛かへえといって、この界隈かいわいじゃ名の知れた物持でござんす」
「お前ひどくくわしいの」
「めどをつけるからにゃ洗ってありまさあ、しかも今日はちょいとまとまった現金なまが入っているはず、親分などが御覧なすったら、ほんの悪戯仕事かも知れませんが、まあお目見得の手土産代り、どうか見てやっておくんなさい」
「まあやってみろ」
「へえ、ちょいと御免をこうむります」
 三次はすっと杉林を出て行った。
 そこから百姓家の母屋までは、歩数にしてほんの十二三歩だが、こっちはこんもり茂った杉林の暗がりで姿を見られる心配はない。三次は百合畑の脇から横庭へぬけて、すっと土間の中へ入って行った。
 静かな宵だ、どこか近くに用水堀でもあるらしく、蛙の声が澄んで聞える。梅田屋は懐中から『夜の梅』という口中薬を取出して、ぷつりと前歯でかみ割りながら
「――良い宵だの」
 と独言を云った。
 待つほどもなく、家の中から影のようにぬけ出して来た三次は、音もさせずに素早く杉林の中へ戻る、――古薩摩の胴巻包をぽんと叩いて、
「親分、上首尾でござんした」
「空巣だな――」
「親爺ゃあ湯治場へ女房を迎えに行った留守、ちゃんとときを計った仕事でござんす――どうかお納めなすって」
 と梅田屋へ手渡をした。
「だいぶ重いの」
 乙松はにやりと笑って、「まさか礫じゃあるめえの」
「切餅が四つあるはずです」
「もらっておくぜ」
「最初からそのつもりでさあ――お! 帰って来たようすですぜ」
 丘の向うから人の来るのが見える。
「逃げやしょう、親分」
「まあ待ちねえ」
 梅田屋は静かに制した。


「ど、どうなさるんで」
「急ぐにゃ及ばねえ、まあ落着け」
 梅田屋は胴巻を納めて、「盗人をするたのしみはなあ三次、仕事をした後味をじっくり噛締めるところにあるんだぜ」
「何だか、あっしにゃ合点がいかねえ」
「空巣をくすねてそのままずらかるなんざあ、田舎出来の小泥棒でもするこった。盗んだ後で家のやつらがどんな慌てかたあするか、そいつをこうゆっくり眺めてる気持が分らなけりゃ、本当の商売人たあ云われねえ」
 三次は気圧されて黙った。
「見ねえ、帰って来たのは娘だ……」
 梅田屋はあごをしゃくった。
 丘の斜面を娘が一人、家が気になるようすで小走りに下りて来る、やがて土間から入ったと思うと、間もなく部屋の障子へぽーっと行燈あんどんの灯がさしてきた。
「お前大名屋敷へ入ったことがあるか」
 梅田屋が低い声でいた。
「とんでもねえ、まだそんな……」
「ふっふ。まあ聞きねえ、何と云っても後味の良いなあ大名屋敷だ、ふだん偉そうに四角張ってる侍どもが、時化しけを喰ったいわしみてえに眼の色を変えて、刀あ捻くりながら駈回るざまあ――まったく堪らねえ茶番だぜ」
「よっぽどおやんなすったでしょうね」
「それほどでもねえがの、盗人をするんなら大名か大所の金持だ、日頃のさばってる連中があおくなって騒ぐところを、こうじっと見ている気持ゃあ……おや」
 梅田屋は向うを見た、「どうやら親たちが帰って来たようだぜ」
 街道口のほうから、五十あまりになる百姓夫婦が帰って来た。ちょうどその時、娘は灯を入れた座敷の障子を明けひろげていたところで、
「お父つぁんおっ母さんお帰り」
 と声をかけた。
「おお今帰ったぞ」
 主人の嘉兵衛は縁先へ回って、「おっ母あが途中で足を痛めたでの、もっと早く帰るつもりがすっかり遅くなっただ」
「おっ母さん塩梅あんべえはどうだね」
「ありがとうよ、ちっとべえ辛かったっけ、今あもう何ともねえだよ、どっこいしょ」
 縁先へ腰かける母親を、娘は座敷へ援けあげ、父親へもともに座蒲団を取って出した。嘉兵衛はどっかり坐りながら、
「留守に誰も来なかったか」
「二本松の茂吉さが来ただよ、今日おっ母さんが湯治から帰ると聞いたで、見舞に鶏卵を持って来てくれただ」
「そうか、そりゃあ済まなかったの」
 嘉兵衛の妻おひでは、蒼白めた顔でしげしげと家の内を見回していたが、やがて灯火から顔を外向けてそっと袖口を眼へ押当てた。
「どうしただお秀」
 嘉兵衛がみつけて、「おめえ泣いているだな――」
「お父つぁん、おらあ済まねえだよ」
「何を云うだ、お秀」
「不幸続きのあげくがおらの長患いで、とうとうおきぬを泥の中へ沈めてしまった、それを思うとおらあ――自分の体の治ったのが恨めしいだ」
「馬鹿なことを云うもんでねえぞ」
 嘉兵衛はいたわるように云った、「お絹が身を売ったなあおめえのためじゃあねえ、もとはといえばみんなおらの向うみずが祟ったことだ」
 この付近で『上畑』といえば、田地山林の五六十町歩もある大百姓であった。
 前代の嘉兵衛までは代々名主を勤め、韮山にらやま代官の竿入さおい(年貢改め)にも与ったほどの家柄だったが、いまの嘉兵衛が人の口車に乗って、葡萄の酒造りという新奇な仕事に手を出し、大掛りに葡萄の栽培を始めたのが不運のつき始め、失敗に次ぐ失敗を重ねた結果、十年あまりのあいだに田地山林は手放す、屋敷の地所まで売って今は、この家構えさえ年貢や借金の抵当かたに取られている始末になっていた。――しかもそのうち、大口の借金が今日に迫った返済で、のっぴきならぬ土壇場というありさまである。
「おめえが今さら泣くよりも、お絹のやつが自分から――おらを売ってくれろと云われた時にゃ、男のおらが……はらわた※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)かきむしられるような思いだっただ」
 嘉兵衛は涙を押拭って、「だがのうお秀、お絹に煮湯を呑んでもらったお蔭で、二百両という金が手に入っただ。これで――今夜来る野村屋のむらやの借金を返し、あとの残りで作るぐれえの田地は取返せるだ、これから親娘三人が精一ぺえ働いて、一日も早くお絹を請出そうしまた、お稲と茂吉つぁんの祝言もあげる段取もつけるべえさ、何もかもこれから良くなるだぞ、分っただか、お秀よ」
 嘉兵衛は悲しみの中にも、新しい希望を妻に与えようとして笑顔をみせた。


 このありさまが手に取るように見える、せきあげる夫婦の声さえ痛いほど耳へ入ってくる杉林の中で、――三次は堪らず、
「親分、もうたくさんだ」
 と音をあげた、「もうたくさんだ親分、どうか逃げさしておくんなさい」
「弱音を吐くな」
 梅田屋は三次の腕を掴んで、「芝居はこれから面白くなるんだ。見ろ、蛙の遠音に宵月、書割からして本註文だ、まあ落着いてとっくり見物しねえ」
「だ、だってあっしゃあもう」
「うるせえ、いっぱし商売人になろうてえ者が、こんな愁嘆場にせてどうするんだ、そんな度胸で暗がりの乙松の子分になれると思うのか」
「――へえ」
 ぐいと掴みあげる梅田屋の腕力に、三次は詮方なく顔を振向けた。
 二人が問答をしているあいだに、提燈ちょうちんを持った中年の男が一人、この家の縁先へ訪れていた。――これが今、嘉兵衛の話していた野村屋という借金取りであろう。
「今晩は、お約束で野村屋から参りました」
「おおこれは御苦労さんで」
 嘉兵衛は急いで起上った、「さっきからお待ち申していました、いま出しますで、どうかそこへお掛けくだせえまし」
「お敷きなさって」
 と妻の押しやる座蒲団へ、野村屋の手代は会釈しながら腰を下した。――嘉兵衛は疲れた足取で仏間のほうへ去る、と間もなく……どしんというひどい物音がして、
「た、た、大変だっ」
 と嘉兵衛の凄じい悲鳴が起った、「お稲、お稲、ちょっとここへ来う!」
「あい、どうしただか」
 娘がくりやから転ぶように走って来た。
いしゃあ、こ、こけえ手をつけやしねえか」
「いんえ寄りもしねえだよ」
 妻のお秀が不安におののきながら乗出した。
「お父つぁん、どうしただね」
「金が、金が無えだ、ここへしまっといた金が無くなってるだ。この仏壇の抽出ひきだしへ入れて、上へ過去帳を載せて置いたことまでちゃんと覚えているだに――あ、そういえばここへ過去帳が落ちてるだぞ」
「げえっ! それじゃあ……」
 妻も娘も仰天して声を呑んだ。
 嘉兵衛は狂気のように部屋の中を走り回った。もしや他へ納い忘れはしなかったか、箪笥たんすの中は? 手文庫は?――しかしどこからも金は出てこなかった。上りがまちへ来て、ふと気付く板敷に歴々ありありと残る草履の足跡、
「泥棒だ、泥棒が入っただ」
 嘉兵衛はしゃがれ声で娘のほうへ振返る、「お稲、おめえ家を明けやしなかったか」
「……でも、ほんのちょっくらだに」
「明けたか、家を明けただか、おめえ家を空っぽにしただか、お稲!」
「か、勘忍してくろ父さん、おら、おら、ほんのそこまで茂吉さを送って行っただけだに、ほんのちょっくら――」
「何がちょっくらだ、お稲、おめえ――姉さはじめおらやおっ母あを殺しちまっただぞ」
「お父つぁん」
 お稲はわっとそこへ泣崩れた。
 野村屋の手代は、このようすをさっきから見やっていたが、やがて一度消した提燈へ灯を入れて起上った。
「お取込みのようですが、約束の物は返していただけますかね」
「ああ野村屋さん……」
 嘉兵衛はどかりと坐った、「今お聞きのとおりじゃ、娘を売って拵えた二百両の金を、たった今の間に盗まれてしまいましただ、そちらへお返し申す金どころか、親娘三人――明日から生きる方途さえ失くしてしめえました」
「そりゃあどうも」
 野村屋の手代は冷やかに云った、「とんだ御災難でございましたな。帰って主人にそう申し伝えますが、しかし――約束は約束ですからお返し願えないとすると、明日この屋敷は明け渡していただかなければなりません、どうかそのおつもりで、今夜のうちに荷物をまとめておいてください」
「そ、それじゃ……こんな災難の中で、この家屋敷を明けろとおっしゃるだか」
阿漕あこぎのようかは知れませんが、私どもでも商売でございますからな。貸した金が取れなければ抵当をいただくより致しかたがございません、どうかそのおつもりで」
 そう云い棄てると、なおも云いすがろうとする嘉兵衛の声を振切るようにして、野村屋の手代はさっさと街道口のほうへ立去ってしまった。


 お秀は泣くことも忘れて、石のように身動きもしなかった。嘉兵衛は茫然と、宙をみつめたまま肩で息をついている――娘のお稲だけは、投出された濡雑巾のように、畳の上へうち伏して泣咽なきむせんでいた。
「駄目だ、これで何もかもおしめえだ」
 やがて引裂けるように嘉兵衛が云った、「これ……お秀、お稲も来う」
 お秀は放心したように振向く、娘は泣きながら父のほうへすり寄った。
「もうどうにもしようがねえだ、二人とも覚悟をきめてくれ、お秀、死んでくれ」
「おらも、いっそそのほうがいいだ」
 妻はうめくように答えた。
「死ぬべえ、父つぁん、三人して死ぬべ、おらたちゃあ、こうなる運だっただ――ただ、可哀そうななあお絹だ、おらたちが死んだと聞いたら……」
「お秀――」
 嘉兵衛は思わず妻の体を抱寄せた。せきを切ったように、夫婦は相擁して泣崩れた。
 始終のようすを、杉林の中からじっと見戍みまもっていた野火の三次は、次第に色も蒼白め、いつか全身をぶるぶると慄わせていたが、もう我慢ができぬというふうにきっと振返った。
「――親分」
「なんだ」
「一生のお願えだ、いまの、いまの金をあっしに返しておくんなさい」
「なんだ金を返せ?」
 三次は思切った口調で云いだした。
「おらあたった今夢から覚めたんだ。今までおらあ盗みをしてきた、半分は欲だ、半分は自棄やけだ、また堅気のけちな米喰虫でつまらなく終るより、いっそ鼠小僧のような大盗人になって、わっと世間から騒がれて死にてえ……そんな見栄も手伝っていた。だがおらあ、今夜という今夜こそ、自分の仕事がどんなにむごいものかってえことを知った。盗むこっちゃあどうせ酒か博奕ばくちに遣っちまう金が、あそこじゃ親娘三人を生かすか殺すかの楔になっている。こんな、こんな酷え業たあ知らなかった」
 三次の眼からぽろぽろと涙が落ちた。しかし乙松の梅田屋は眉も動かさない。
「どうかその金を返しておくんねえ」
 三次は続けた、「親分も江戸じゃ鼠小僧の二代目とまで云われなすった義賊、まさかこんな金ゃあお取んなさるめえ、どうかその金を」
「馬鹿野郎、つまらねえことを云うな」
 梅田屋はせせら笑った、「おいら義賊だ? ふっふふふ、世迷言もいい加減にしろ、世中にゃ泥棒はいるが、『義』の付く泥棒はいねえ、人様の物を盗んで鼻糞ほどの施しをしたって何が義賊だ、泥棒をするやつぁしたくってするんだ、世間の毒虫、人界の芥屑、外道、畜生と相場あきまってらあ。この乙松あな、しみったれた施しをして自分の悪事の尻拭いをするような、けちな野郎たあ種が違うんだ」
「それじゃ、いまの金は、返してはおくんなさらねえのか?」
「当りめえよ、盗人が一度懐中へ入れた金だ、手前っちが逆立できりきり舞をしても返すこっちゃあねえ、面あ洗って出直してこい」
 野火の三次がぎゅっと唇を噛む。
「どうしても、いけませんか」
くでえ!」
「――野郎!」
 喚いたと思うと、掴まれた腕をぱっと振放す、不意をくらって乙松の体が傾く、隙、三次は右手にぎらりと短刀どすを抜いた。
「抜きゃあがったな」
「腕ずくでも!」
 だ! と跳びかかって来る、相手はとっさに体を捻って、三次の利腕を逆に、ぐいと引っ手繰って足をからむ。
「くそっ! むっ」
 捨てばちの強引、三次は腰を落して、相手の体勢を利用、猛然と突っかけた。梅田屋の足が杉の根にかかる、斜面で足場が悪いから、あおのけさまにだあ! と倒れた。折重った二人、三次は左で相手の喉を絞めながら、短刀を逆手に胸を狙って、た!
「ま、待て」
 突下すひじを必死に支えた梅田屋、「待て、三次――金ゃあ返してやる」
「何だと?」
「金ゃあ返してやるよ、それ」
 梅田屋は懐中から胴巻を掴み出すと、ぽんと向うへほうり投げた。三次は油断なくじりじりと腕を引いたが、相手に敵意のないのを見届けると、ひらりと跳退いた。
「そう、出てくださりゃ、お手向いはせずに済んだのだ、それじゃあいただきますぜ」
 あえぎながら胴巻を拾う、「これで人殺し兇状だきゃあ助かった、御免ねえ」
 云い捨てざま、三次は杉林をとび出す、百合畑を駈けぬけて、いきなり母屋の縁先へ現われた。――胴巻を、相擁して泣いている夫婦の前へ、ぽんと投出す、
「お二人さん」
 と声をかけた。


 突然声をかけられて、びっくり振返ると見馴れぬ若者が立っている――しかも、眼の前へ投出された胴巻、嘉兵衛は、
「――あっ!」
 と仰天した。
「どうか勘弁しておくんなさい」
 三次は縁先へ手をついた、「あっしゃあ野火の三次という盗人でござんす、こんな事情があるとも知らず、大事なお金を盗みましたが、いまあそこの杉林の中で仔細のお話を伺い、あっしゃあ生れて初めて眼が覚めました、ただ今限りぷっつり悪事から足を洗います、きっと真人間になりますからどうか勘弁しておくんなさい――中のお金にゃびた一文手はつけてござんせん、どうかお納めなすっておくんなさい」
 嘉兵衛は聞く心もそぞろに、顫えながら胴巻を解いて見たが、転げ出た金包を見るなり、狂ったように躍上って、
「おお戻った、戻った、金が」
 と歓喜の叫びをあげた、「二百両、手つかず戻った、お秀、お稲、金が戻った、金が戻ったぞ、もうこれで……」
 わっと、燃上るような親娘の狂喜を、涙の滲み出る眼で見やった三次は、――手早く懐中から財布を取出すと、
「それから、ここに三十両ばかりござんす、こりゃあ博奕でもうけた金、けっして御迷惑にはなりませんから、どうかお遣い捨てなすっておくんなさい」
「まあお前さん、そんなことを」
 慌てて嘉兵衛が出て来るのを、三次は素早く二三間とび退いて、
「蔭ながら、御繁昌を祈ります」
 と云うとそのままきびすを返して百合畑の中へ、逃げ込んで来ると、梅田屋の乙松は――杉林のはずれに腕組をしてたたずんでいた。
「親分――じゃあねえ梅田屋さん」
 三次の眼は活々と輝いている、「あっしゃあ、生れて初めて、腹の底からさっぱり致しました。お前さんにも子分にしてくれと頼んだが、改めて今取消しだ」
「――ふふ、そうかえ」
「会わねえ昔と思っておくんなさい、これでお別れ申します」
「どこへ行くんだ」
 三次は答えずに歩きだした。
 梅田屋はその後姿を見送っていたが、――嘉兵衛親娘の歓喜する声を聞くと、にっこりうなずいて杉林を出る、足早に三次の後を追いはじめた。丘の上の道は左へ曲って、修善寺へ通う裏街道へと続いている――中天へ昇った月がよくえて、道傍に咲いている雨降り牡丹ぼたんの花が、白く夢のように浮いて見えた。
「どこへ行くんだ、若いの」
「どこへ行くって?」
 三次が足を止めた、「どこへ行くもんか、これから三島の御番所へ自訴して出るんだ」
「一年や二年じゃ帰れねえぞ」
「五年が十年でもいい、おらあ立派に年貢を納めて綺麗きれいな体になってくるんだ、おらあこれから新規蒔直まきなおしに始める気だ、あばよ」
「未練はねえか」
「冗談じゃあねえ、おらあ嬉しくって何だか足が地に着かねえくれえだ。お前にゃ来いとは云わねえが――まあ達者でいなせえ」
 振切るようにして三次が行こうとする、梅田屋はそのようすを覓めていたが、
「ちょっと、ちょっと待った」
 と呼止めた。
「まだ何か文句があるのかい」
餞別せんべつを忘れていた」
 梅田屋は紙入を取出して、そのまま三次の手へ渡す。
「若いの――」
 とかたちを改めて云った、「お前さんの改心は本物だ、そこまで腹が定ったら今さらお仕置を受けるまでもない、わずかばかりだがその金を持って京へお出で、たこ薬師下る所に桶屋おけやがある、武蔵屋政吉むさしやまさきちという家だ、そこを訪ねて行けばお前さんを立派な堅気にしてくれるだろう、牢屋ろうやで五年お勤めをする気で、みっしり桶屋を稼ぐがいい、――分ったか」
 言葉つきまでがらりと変った相手のようすを、いぶかしそうに見返った三次。
「その桶屋というのは何者ですえ?」
「武蔵屋政吉、素性を洗えば『暗がりの乙松』という人さ」
「げえっ……?」
 三次は反った、「そ、それじゃあ、お前さんは乙松親分じゃねえのですか」
「昨夜宿の亭主が云ったのを聞かなかったかえ、私は沼津の酒問屋で、梅田屋宗兵衛そうべえという若隠居さ」
 男はそう云って、すごみのある顔に和やかな微笑を浮べた。
「それでもあの薗八節は?」
「ああ、あれかえ」
 梅田屋は笑いだした、「あれはね、今から三年前の秋、妙な機会きっかけで暗がりの乙松と知合いになり、その時あれから教えてもらったのさ――乙松が京へ行ったのもその時のことで、今では職人の五六人も使って立派に暮しているそうだ。私のつまらぬ洒落しゃれっ気が、それでもあの人を堅気にしたと思うと、まんざら悪い道楽じゃあなさそうだね」
「といいなさるのは……」
「商売人と見りゃ近づいて盗んだ跡の愁嘆を見せるのが私の道楽さ、はははは」
 梅田屋宗兵衛のことばは、温かく力強く三次の胸へ滲込んでいった。
「さあ行こう、京へのぼって手に職がついたらそう云ってよこすがいい、店を出すくらいの金は都合してあげよう」
「…………」
 三次は無言のまま、万感あふれ出る眼で、じっと梅田屋宗兵衛の横顔を覓めた。――遠音の蛙。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
   1936(昭和11)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
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