改訂御定法

山本周五郎





「だんだんお強くなるばかりね」
「そう思うだけさ」
「初めのころはいつも二本でしたわ」
きらわれたくなかったんだろう」
「うまいことおっしゃって」河本佳奈かなは上眼づかいに彼をにらんだ、「それならいまは嫌われてもいいんですか」
「それほどの自信もないね」と云って中所直衛ちゅうしょなおえは佳奈のぜんを指さした、「さかながさめてしまうよ」
「お給仕をしたり喰べたり、そんなきような芸はできません、お酒が済んだらごいっしょにいただきます」
「だんだん昔の生地きじが出るな」
「なにがですか」
磯村いそむらへいってからはおしとやかになっていたじゃないか、まゆった顔をいつもうつ向けにして、し眼づかいで、立ち居もおっとりとしなやかで、大助になにか云うにもあまったるい、蚊の鳴くような声をだしていたのにな」
「もの覚えのおよろしいこと」
「あのおてんばな佳奈が、人の女房になるとこんなにも変るものかと」
「思いもしないくせに」佳奈はまたにらんで云った、「わたくしが磯村へとついでから、あなたがいらっしたのはたった三度よ、それも一度は磯村の葬礼のときでしょ、わたくしがあまったるい声をだしたかどうか、そんなことがあなたにわかるものですか」
「もの覚えがいいんでね」
「あなたこそ昔どおりよ、ほかの人にはやさしいのに、わたくしに向うと意地わるばかりなさる、直衛さまはしんから佳奈がお嫌いなんだって、小さいときから幾たび思ったかしれませんわ」
「それでも嫁には来る気になった」
「来いと仰しゃったのはあなたよ」
「礼を云うのがおくれたかな」
 佳奈は直衛の顔をみつめ、どうしようもないというふうにかぶりを振った、「――どうしてあなたはそう、わたくしだけに意地わるを仰しゃるの」
「嫌いだから、だろうね」直衛は笑いもせずに盃をさしだした、「手が留守だよ」
 これは春の終るころ、二人の縁談がまとまった二十日ほどのちのことであった。中所直衛も結婚した妻に死なれ、佳奈も磯村大助に嫁して二年、良人おっとに死なれて実家へ戻っていた。佳奈の兄、河本宗兵衛が直衛と古くから親しいばかりでなく、両家は相互にしげしげと往来し、殆んど親族以上のつきあいを続けてきた。直衛と佳奈は周囲の人たちに、初めから結婚するものと思われていたが、当代の藩主になって御定法の改廃が行われたとき、直衛が頑強がんきょうに反対し、そのため甲斐守教信かいのかみのりのぶうとまれて、御代代実録という、藩史編纂へんさんの頭取に左遷された。中所はこの藩の筋目の家で、祖父の三衛かずえは城代を勤め、父の兵衛は二十九歳から四十一で死ぬまで、名君といわれた先代、信濃守教員しなののかみのりかず側用人そばようにんを兼ねていた。直衛は十八歳で家督をし、二十三歳で「連署」になった。これは家老になる序席なのだが、二年のちに藩法改新の問題がおこり、閑職に追われてしまったのであった。
 河本家は四百石の大寄合よりあいであるが、宗兵衛は三年まえから町奉行ぶぎょうを勤めている。としは直衛と同じ三十二歳、妻のほかに二人の子があった。御定法が改新されて以来、七年間に町奉行の交代が宗兵衛でもう三度めになる。新法では町人や百姓にいろいろな権利が与えられているため、それらの訴訟が多く、町奉行は困難な役になっていたのだ。――磯村へ嫁した妹の佳奈が、良人の大助に死なれて実家へ戻ったのは、大助の弟が磯村の家を相続することになり、彼には婚約者があったからである。そうでなくとも、子供がないのに磯村で一生を終る気はなかったろう。佳奈は兄をくどいて河本へ帰った。そのことはまもなく中所家にもわかり、暫くして直衛から再婚の話がもちこまれた。直衛も編纂所頭取になった年に結婚し、これは一年とちょっとで妻に死なれた。初尾というその妻は山田氏の出で、結婚したのが十七歳の冬、死んだのが十九歳の春で、やはり子には恵まれなかった。
 ほぼ月に三度ぐらいの割で、直衛と佳奈の二人は、比野川畔にある料亭「難波」で会い、夕食をともにした。もちろん河本宗兵衛の了解のうえであるが、佳奈は人に見られるとうるさいからと云い、極端なくらい用心していた。
「ばかだね、佳奈らしくもない」と直衛は笑った、「ちゃんと縁談もまとまっているし、私と佳奈とは幼な馴染なじみだ、人に気兼ねをするような理由はなにもないじゃないか」
「との方はそれでいいでしょうけれど、女はそうはまいりません」
「なぜ女はいけないんだ」
「あなたも結婚のご経験があるし、わたくしも良人を持ったからだですもの、こんなふうに二人だけでっているところを見られたら、なにをしているのかと思って、どんな疑いをうけるかもしれませんわ」
「ほう、そうですかね」直衛はきまじめに首をひねった。
「結婚の経験のある男女が、二人っきりで食事をしていると、なにをしているのかと疑われますか、そいつは気がつかなかったが、――ぜんたい、どんなことをしていると疑われるんですか」
 佳奈はさっと赤くなった。
「そうね」と佳奈は赤くなった顔をそむけながら云った、「――きっと隠れんぼでもしていると思われるんでしょ」
 直衛は下唇を上へ押しあげながら、小さく首を振った、「その返辞の中へうまく自分を隠したな、狡猾こうかつだ」
「わたくしがなにを隠しまして」
「自分自身をぜんぶさ、酒がないよ」
「憎らしいお口だわ」
 佳奈は直衛の眼をとらえてにらみつけた。秋のなかばになると、佳奈は「難波」で逢うことを拒みだした。料亭の人たちにもへんな眼で見られるようだし、あによめも皮肉なことを云う。これからは河本の家か、直衛の家で逢うことにしたい、というのであった。
祝言しゅうげんをすれば世帯しょたいじみてしまうんだ」と直衛は云った、「家庭の煩瑣はんさなきずなからはなれ、二人だけでのんびり食事のできるのはいまのうちだからな、他人の眼なんか気にするのはばかげた話だよ」
「との方ならそれで済むでしょうけれどね」
「そう男と女の差別をつけるのは佳奈らしくないぞ」と直衛は云った、「――覚えているが、佳奈が十一か十二のときだったろうな、男ばかりが特にいばる理由はない、なぜかといえば、男と女の違いは」
「このとおりよ」佳奈は赤くなり、合掌してみせながらさえぎった、「どうぞその話はやめて」
「ははあ」と直衛は微笑した、「自分でも覚えていたとみえるな」
「そういうお口の達者なところを、御定法改新のときにどうしてもっとお使いにならなかったのですか」佳奈がやり返した、「編纂所頭取などという隠居じみたお役になってからでは、せいぜいわたくしをへこませるだけじゃあございませんの」
 こんどは直衛が片手で口を押えながら、ぴしゃりと云った。
「それで勘弁してくれ、あのときは若かったので、むきになって正面から議論を吹っかけ、そのため老人たちにうまくたいかわされてしまった、いや、こっちが左遷されたという結果が、そのまま重職諸公に躰を躱されたことになるのさ」と直衛は云った、「――あれだけは一生の不覚だった、あやまるよ」
「まさかわたくしにではないでしょうね」
「それは佳奈がご存じさ、――次の十五日にまた逢おう」
「このわたくしの部屋か」と云って佳奈はやさしく直衛を上眼づかいに見た、「御殿下ごてんしたのあなたのお屋敷でね」
 それは室町の河本家の、佳奈の居間で食事をしたときのことであるが、この会話が終らないうちに、佳奈の兄の宗兵衛があらわれ、なんとなくその席に加わった。邪魔をしてもいいかな、と云いながら坐り、妹がれた茶にも手はつけず、ぼんやりと二人の話すのを聞いていた。いくらきょうだいの仲でも、婚約者と同席ではぐあいが悪いのだろう、やがて佳奈は用ありげに立って座をはずした。
「そうだ、頼もうと思ったまま忘れていたが」と直衛が云った、「河本家に玄斎げんさい日録というのを書いた人がいるか」
曽祖父そうそふだろう」と宗兵衛が答えた。
「その人の書いたものがほかにまだある筈なんだ、たしか閑窓かんそう夜話とかいうんだがね」
「私は知らないが、あるかもしれない」
「あったら貸してもらいたい、峻学院しゅんがくいん(伊予守教清)さまの御事蹟について、閑窓夜話になにか記事があるらしい、玄斎日録にそう書いてあるのをみつけたんだ」
「捜してみよう、いそぐのか」
 直衛はちょっと眼を細めた。宗兵衛の顔になにかおちつかない色があるのを、初めて認めたのである。
「どうしたんだ」と直衛がきいた、「なにか心配ごとでもあるのか」
 宗兵衛はけげんそうな眼をし、「どうして」と反問した。
「こっちが知るものか」と直衛は云った、「いつもの河本とは人が違っている、なにか困っていることでもあるんじゃないのか」
矢堂玄蕃やどうげんばは知っているな」
「その話はよそう、玄蕃のことなら聞くまでもない」直衛は茶碗を取ったが、それにはもう茶はなくなっていたので、そのまま元へ戻した、「どこかへ飲みにいくか」
 宗兵衛は不決断に首を振った。


 役所へは毎日出仕するが、直衛のする仕事は殆んどなく、午前ちゅういればあとは帰ってもよかった。版におろすとき稿閲を求められるけれども、責任者がちゃんといるので、彼が見る必要はない。頭取としての形式だけだから、たいていはそのまま係りへ戻すのが例であった。そんな生活では頭も躯もなまってしまう、直衛はなにかの足しになるだろうと思って、去年の夏から剣術の稽古けいこを始めた。藩校の精士館では念流を教えてい、彼は十二歳から二十歳まで、大沼三郎兵衛についてまなんだ。太刀捌たちさばきに独特のえがあり、十八歳で首席に抜かれたが、そのためかえって興味を失い、わざと成績を落して次席にさげられ、二十歳で退校するまでその席を動かなかった。――去年また稽古を始めたのは、退校してから十年とちょっとになるわけで、むろん一般の門人とは別科の扱いであり、教えるのも三人の助教が担当した。三日に一度ずつかよい、三十日ばかりは躯が痛んだけれど、調子が出はじめると本領があらわれ、助教たちは扱いかねるようになった。別科の稽古に来るのは、いちど精士館を出て、すでに役付きになった者が多く、躰調をととのえるくらいが目的であって、本科の若者たちはこれらを「養老組」と呼んでいた。
 これらの中に矢堂玄蕃がいた。矢堂も筋目の家柄であったが、先代の玄蕃が役目の上の失策で罰せられ、五百石の家禄も二百石に削減されてしまった。いまの玄蕃は二十五歳で家督を相続し、屋敷地割方肝煎きもいりという殆んど有名無実のような役についていた。つまり家臣の住居に変動がある場合、その土地の選定や家屋の建築に立会うのだが、この藩のように狭い城下ではそういうことは極めてまれであったし、たとえそういう例が出たにしても、現実には普請奉行が担当するので、矢堂は単に名目上の立会いをするにとどまっていた。彼は二十九歳になるがまだ妻をめとらない。両親は亡く、古くからいる家扶かふ下僕げぼくらとくらしながら、いつとなく側女そばめのような者を引入れ、子供まであるという噂も伝わっていた。
 去年の秋、直衛が精士館へかよい始めてから三十日ほどしたとき、矢堂から初めて稽古の相手を求められた。ときたま顔は見ているが、いやな噂があるし、人柄が好ましくないので、同じ道場で稽古をするような場合にも、それまで口をきいたことはなかった。――それからのち、顔が合うと三度に一度ぐらいは相手になった。矢堂の太刀筋には癖があり、勝ちみにするどいわざをみせる。直衛はたいてい負けて引くが、彼がしいて勝ちを取ろうとしないことはわかるとみえ、しかも、それで屈辱を感ずるというより、くみしやすいと思いこんだらしく、或るとき稽古の帰り、強引に直衛を酒席へさそった。直衛は四たびくらいまでつきあったが、それからあとはどんなにさそわれても断わった。――矢堂の酒はだらだらとながく、酔うと給仕の女にからんだり、くどぐちを並べたりするうえに、どの店にも勘定をめているようすで、少しも酒がたのしくないばかりか、こっちまでがうらさびれた気持になるだけであった。
 河本宗兵衛が玄蕃の名を口にしたとき、直衛はあとを聞かなかった。というのは、それより半月ほどまえ、城下の要屋かなめや喜四郎という商人が、借財不払いの件で矢堂を町奉行へ訴えた、ということを聞いたからである。一商人が藩士を訴えるなどということも、ゆきすぎた御定法の改新によるものだし、これまで同様の紛争で町奉行は幾たびも苦杯をなめてきた。いままたそんな事件が起こっても、おれの知ったことではないぞと直衛は思った。――ところがそうはいかなくなったのだ。河本家で佳奈と食事をしてからほんの二三日あと、朝起きた直衛が裏庭の井戸端で洗面していると、ふいに河本宗兵衛があらわれた。たぶんここだろうと思って、表から案内なしにまわって来たのだという。なにか用かときいたら、佳奈と祝言する日をきめてくれと答えた。
「祝言の日どりだって」直衛はちょっと眼をみはった、「それで朝のこんな時刻にやって来たのか」
「それだけでもないんだ」
「はっきりしてくれ」直衛は宗兵衛の眼をみつめた、「――どうしたんだ」
 宗兵衛は眼をそらし、下唇を強く噛んだ。直衛は黙って、なおその眼で宗兵衛の眼を追った。宗兵衛はいちど大股おおまたに井戸端からはなれ、すぐに戻って来て急に眼をあげた。
「勝手なことを云うようだが」と宗兵衛が云った、「組み太刀を一と手頼めないだろうか」
 直衛は彼の表情を見まもってから、「いいだろう」と云って家士を呼び、刀を持って来るようにと命じた。そのあいだに直衛は、宗兵衛の右手を見て、朱墨が付いているぞといい、それから表情をひきめた。
「おい、遠廻りはよせ」と直衛は云った、「組み太刀をしたくて来たんじゃないだろう、祝言の日どりでもない、肝心な用はほかにある筈だ、そうじゃないのか」
 宗兵衛はあいまいに片手を振り、空を見あげた。家士が刀を持って来、直衛はそれを左手に受取ったまま、宗兵衛の顔を見まもっていた。
「じつは矢堂玄蕃の吟味で困ったことになっているんだ」と宗兵衛が云い、直衛が遮ろうとするのに手をあげて続けた、「いや、玄蕃個人の問題ではなく、こんどのことで改新御定法そのものが壁につき当ってしまったんだ」
「こんなところではしようがない、おれの部屋へゆこう」と云って直衛は刀をみせた、「それとも組み太刀をやるか」
 宗兵衛は眼で否と答えた。直衛は大股に庭のほうへあるきだした。着替えをした直衛が居間へはいってゆくと、宗兵衛は茶托へ茶をちょっとそそぎ、それで懐紙を濡らして、指に付いた朱墨を拭いていた。
「要屋のしょうばいは知っているな」と直衛が坐るのを待って宗兵衛が云った、「呉服、染物、什器じゅうきのあきないに、両替と質屋をやっている」
「表向きはな」と直衛が云った。
「金貸しもやっているという噂だが、これは証拠があがらない」と宗兵衛が云った、「要屋は小商人や貧乏な者は相手にしない、武家なら二百石以上、商人なら土蔵持ち、農家も地主でなければだめだ、そういう者は借財していることを内密にするから、公式には誰も証言しようとしないんだ」
「御定法の改新まえなら、踏込んでいって帳簿を押収することができた、もちろん」と云いかけて直衛は手を振った、「まあいい、あとを聞こう」
「それで、矢堂に対する債権も、時貸し金から時服、什器といろいろあって、その合計は百八十両あまりになっている」
 直衛が唇をめた、「――幾らだって」
「百八十両と三分幾朱かだ」
 直衛は右手の食指をまっすぐに立て、鼻の上へ静かに近よせて当てた。すると左右の眼の瞳孔どうこうがまん中へ寄り、そこで止った。
「こういうことができるか」と彼は云った、「こういうふうに両方の眸子ひとみを寄せておいて、猫蜂ねこはちとんぼきりぎりすの親方って、云うんだ」
 宗兵衛はむっと口をつぐんだ。
「云っているあいだ両方の眼が寄っていれば勝ち、はなれれば負けさ」と直衛は云った、「ためしてみろ、なかなかむずかしいぞ」
「いまおれをからかってどうしようというんだ」
「これを殿に教えたことがあるんだ、七つか八つで、御学友にあがっていたときだったがね」と構わずに直衛は云った、「すると、いま城代になっている朝倉さんが、まだ江戸家老で御養育係を兼ねていてさ、これをみつけて怒った――若ぎみがやぶにらみにでもなったらどうするかって、たいへんなけんまくなんだ、ところでそのあとで注意してると、朝倉さん自身が陰でこっそりこれをやってるんだな、指をこうやりながら口の中で、猫蜂とんぼきりぎりすの親方ってさ」
 宗兵衛は怒りの眼つきで直衛をみつめ、直衛もその眼を見返していたが、やがて失望したように肩をゆりあげた。
「よし、あとを聞こう」
「話す気がなくなったよ」
「冷静になれたわけさ」直衛は右手で着物の左のたもとをぴんと伸ばした、「それとも、いやなら聞かなくってもいいんだぜ」
 宗兵衛は気をとり直すという口ぶりで、また語りだした。要屋の訴えを正式にとりあげれば、矢堂玄蕃を処罰しなければならない。それでは藩の面目にかかわるので、借財の三分の二を重職から要屋へ支払って、訴訟をとりさげにするようにという内交渉をした。けれども要屋は御定法をたてにとって、どうしても正式なさばきを願う、と云ってきかないのだそうであった。
「わかった」直衛は宗兵衛の言葉を遮って反問した、「その辺で結論に移ろう、町奉行はどうしようというんだ」
「重職評定を五回やったが、結局、――矢堂に詰腹を切らせるよりほかはないだろう、ということになった」
「河本はそれを承知したのか」
「町奉行一人の責任では裁ききれないところにきてしまった、ということなんだよ」
 直衛は立ちあがった。


 立ちあがった直衛は縁側へゆき、腕組みをして庭を見た。そのように腕組みをしてまっすぐに立つと、背丈がずっと高くみえる。彼はなにかをみつけたように眼をほそめて、「野木瓜のぼけに実がなったな」とつぶやき、そのままの姿勢で、だめだと云った。
「矢堂に詰腹を切らせることは、藩の面目を守るどころかまったく威信を失ってしまうだけだ」
「おれも評定の席でそう主張したよ、そんなふうに事をごまかすのはあとに災いの根を残すばかりだとね、しかし、ではどうするかと問い返されて、こうすればいいという思案がないんだ」
「あるさ」と直衛が云った。
 宗兵衛は眼をあげた。直衛はこっちへ背を向けて立ったままである。宗兵衛は次の言葉を待ったが、直衛はなにも云わなかった。
「あるというと」と宗兵衛がきいた、「どういう方法だ」
 そこで直衛は向き直り、こっちへ来て坐った。
「おれに任せてくれればやってみせる」
「任せろとは、なにをだ」
「裁きだ」と直衛は云った、「どういう資格でもいい、おれに裁きを任せてくれれば藩の面目の立つようにやってみせる」
「おれではいけないのか」
「誰でもいけない、この中所直衛でなければだめだ」
 宗兵衛は詮索せんさくするような眼つきで、直衛の顔をみつめながら云った、「御定法にやりをつけるつもりじゃあないだろうな」
 直衛は頬笑ほほえんだ。彫ってみがきをかけたような、はっきりした頬笑みかたであった。
「そういうつもりか」と宗兵衛が云った。
「どういうつもりもない、おれなら裁きをつけてみせるというだけだ」と云って直衛は片手をゆっくり上へあげた、「しかし、むりに買って出るわけじゃないぜ」
 宗兵衛は考えてからきいた、「どうすればいいんだ」
「城代の朝倉さんに相談するんだな、御定法も曲げず、藩や家中かちゅうの名聞もきずつけずに裁きをつける、おれならそれができる、そう云えばいいだろう」
「今日は出仕か」
「非番だ、精士館へゆくかもしれないが」
「ここにいてくれ」と宗兵衛が云った、「十時から最後の評定がある、矢堂詰腹の案はその席で決定するだろう、そのまえに御城代と会って相談するつもりだ」
「早くしろよ」と直衛は感情のない口ぶりで云った、「詰腹なんぞ切らせたら取返しのつかないことになるぞ」
 宗兵衛は去り、直衛は朝食をたべた。
 食事のあと、庭へおりていって、彼は野木瓜を見た。庭木の木瓜ではなく、野生の木瓜で、丈は高いので一尺五寸くらいだし、枝も極めて細い。亡くなった妻がどこからか移したもので、春には朱色の花がみごとに咲く。この実を塩漬けにするとかおりのよい箸休めになる、と云っていたが、妻の生きているうちには一つか二つしからなかった。さっきそれが実を付けているのをみつけたので、そこへいって数えてみると、蜜柑みかん色をした実が二十八個もなっていた。――梅の木を持たない農家では、青いうちに漬けて梅干の代りにする、とも亡き妻は云った。直衛はその一つを枝から千切ってみた。色は美しいが石のように固く、甘酸あまずっぱいような強い香りを放った。
「漬けるには青いうちだと云ったな」直衛はそっと呟いた、「青いうちに摘むか」
 彼がその実を握ったまま居間へ戻るとすぐに、朝倉摂津せっつから迎えの者が来た。会いたいからすぐにという口上である。直衛はかみしもをつけず、はかまだけはいていった。摂津はもう七十五か六になるだろう、直衛は七歳のとき若ぎみの学友として江戸屋敷へ呼ばれ、十歳まで勤めて帰藩したが、江戸にいるあいだずっと、御養育係の朝倉ににらまれどおしであった。当時はただ性が合わないんだと思っていたけれども、あとで考えてみると自分のほうが悪かった、ということに気がついた。――先年、御定法改新の会議にも、朝倉とは正面から対立し、独りで頑強にねばりとおしたが、そのときまた考え直して、江戸勤めのときも自分が悪かったのではなく、朝倉のほうが偏狭へんきょうだったのだと思った。
「今日は用心しろよ」と彼は自分に云った、「怒らせたらおしまいだぞ」
 朝倉邸へ着いて、案内されたのは摂津老の居間であり、河本宗兵衛もそこにいた。
「時刻がないからすぐ用談にする」と摂津は直衛の顔を見ずに云った、「矢堂玄蕃の件についてなにか意見があるそうだな」
「矢堂の件について、特に意見はございません」
 宗兵衛は吃驚びっくりしたように直衛を見た。摂津も初めて眼をあげた。老人の灰色になった眉の下で、その眼が怒りをあらわしていた。
「意見はない」と摂津は反問した、「では河本に話したのはなんだ」
「私は玄蕃の御処致について、或る噂を耳にいたしました」と直衛は答えた、「単なる噂とは存じましたが、いかにも姑息こそくであり、後難を残すやりかたなので、河本をたずねて事実をたしかめたのです、役目の秘事ですから河本はなかなか語ろうとは致しません、私はやむなく中所が筋目の家柄であり、家中の大事は知る権利があると」
「わかったわかった」摂津は膝の上で扇を鳴らした、「いまさら河本をかばうことはない。いいから要点を申せ」
「玄蕃の裁きはお白洲しらすでつけるべきだ、と私は申しました」と直衛は答えた、「――新しい御定法には、たとえ百姓町人なりとも、家中の侍に不正があれば訴え出ることができると明らかにしるしてございます、したがって玄蕃の件もお白洲で裁かぬ限り、藩の名分が立たぬと存じます」
「自分なら裁きをつけると申したか」
「申しました、私なら御定法にももとらず、家中の面目にもきずをつけずに裁くことができます」
「その方法は」と摂津がきいた。
「ここでは申上げられません」
 摂津の眼がすっと細められた。こいつなにかたくらんでいるな、とでも云いたげな眼つきであった。
「もう刻限が迫っております」と宗兵衛が脇から云った、「私は先に登城しなければなりませんが」
 摂津はうなずいた。宗兵衛は直衛の眼を見て、いそぎ足に出ていった。
「どう裁くのか」と摂津がきいた、「その段取りも聞かずに任せられると思うか」
「信じていただけないのなら、むりにお願いは致しません、私は役目違いなのですから」
 老人は扇を開いたり閉じたりしながら、口の中でなにか呟いた。直衛をののしっているか、自分の癇癪かんしゃくおさえようとしているらしい。直衛は発句でも考えているような、はてな、とでもいいたげな表情で庭のほうを眺めていた。
「きさまの強情は少しもなおらないな」と摂津がやがて云った、「よし、きさまに確信があると申すなら任せてやろう」
「お役はいまのままですか」
「この件だけについて町奉行を命じよう」
 直衛は微笑して、「この件だけ、ということをお忘れにならないで下さい」
「どうしてだ」
「町奉行などに据置かれてはたまりません」
 摂津は口をあき、どなりつけようとしたらしいが、直衛は辞儀をして、すばやくうしろへさがった。
 朝倉邸の帰りに、彼は河本家へ寄り、佳奈を呼んで、話があるから「難波」へ来てくれと云い、反対しようとする佳奈には構わず、さっさとそこを出て比野川のほうへ向った。ちょっとおくれて、佳奈が難波へ着いたとき、直衛は菓子をつまみながら茶をすすっていた。
「まず用件を片づけよう」佳奈が坐るなり彼は云った、「佳奈の持参金は幾らくらいだ」
 坐って、いま褄先つまさきを直していた佳奈は、そのまま手を止めて、不審そうに彼を見あげた。
「なんと仰しゃいました」
「さあさあ」と直衛はせきたて、「気取ることはない、幾らだ」
「そういう物を持ってゆかなければならないのですか」
「一般のしきたりじゃないか、多少にかかわらず女が嫁にゆくときには金を持ってゆくんだろう」
 佳奈は表情をひきしめた、「あなたはそれを当てにしていらしったんですか」
「当てにしていたわけじゃないが、当てにしなければならなくなったんだ」と直衛は云った、「じらさずに云ってくれ、幾らだ」
「わたくしは存じません」佳奈はそっぽを向いた、「そういうことは親がしてくれるものでしょう、わたくしには親がありませんから、どうぞ兄にでもきいて下さいまし」
「河本には云えないんだ」
「お話というのはそのことでしたの」
「河本が祝言の日どりをききに来た、そのことも相談したいが、差当っては持参金のことが知りたいんだ」
「わたくしそんな物を持ってゆかなければならないような弱みはございません、ほかにお話がないのならこれで失礼いたします」
 直衛に止めようとする隙も与えず、佳奈はすばやく立って出ていった。
「昔の性分がそっくり出てきたな」直衛はにやっと微笑し、手を叩きながら呟いた、「――相変らず怒った顔はきれいだ」
 女中が来て「お呼びですか」と云った。
「万平を呼んでくれ」と直衛が云った、「あるじの万平だ」


 それから三日のあいだ、直衛は町奉行所へかよい、宗兵衛と共に要屋の訴状をしらべた。それには三年前からの売掛け代銀や、時貸しの金額が、月日順に詳しく記してあり、最後に「返済してくれと再三ならず督促したところ、刀を抜いておどし、店へ来てまであばれる始末だから、やむを得ず御定法にすがって訴え出た」という意味のことが書いてあった。直衛はその訴状の必要なところに、印を付けたり、なにか書き入れたりしたのち、これでよし、と云って微笑した。
「明後日からここの白洲で下吟味を始める」と直衛は宗兵衛に云った、「要屋の主人と番頭、手代二人か、――ここに署名している者たち三人を呼出してくれ、時刻は五つ半だ」
「下吟味からやるのか」
「たっぷりとな」直衛は右手で左の腕をしごいた、「腕が鳴るということは本当にあるもんだな」
「玄蕃はどうする」
「お預けか、謹慎か」
「柳田左門どのにお預けちゅうだ」
「彼はそのままでいい、おそらく、白洲へ呼出すのは一度か二度で済むだろう」そう云ってちょっと考えてから、直衛は宗兵衛を見た、「そうだな、城代にはずっと出てもらおうか」
「下吟味にか、どうして」
「吟味に重みをつけたいからさ」と直衛はあっさり云った、「終りの二回くらいは他の重職にも列席してもらうつもりだ、少なくとも三人以上はね」
 宗兵衛はあきれたような眼つきをした、「――いったい中所はなにを考えているんだ」
 直衛は声を出さずに笑ってみせ、頼むよと云って席を立った。そして刀架から自分の刀を取りながら、急に思いだしたように振返って、佳奈べえはどうしているかときいた。
「どうもしていないが」と宗兵衛は答えた、「なにか用でもあるのか」
「いや」直衛は首を振った、「なんでもない、ちょっときいてみただけだ」
 そして彼はそこを去った。
 中一日おいて九月十二日、午前十時に白洲がひらかれた。朝のうち降っていた小雨はやんだけれども、空は雨雲でおおわれていて、いつまた降りだすかわからないような空模様であった。――直衛は書役かきやくを三人にし、要屋の主人、番頭、手代ら一人ずつの口書を、分担して取るように命じた。刻限まえに朝倉摂津も来たが、ひどく不機嫌で、下吟味などにどうして自分が陪席しなければならないのかと、直衛に向って文句を云った。
「下吟味というのは名目、これはもうお裁きなのです」と直衛は答えた、「だから、そこのお白洲を使うわけです」
「なんのためにそんな細工をする」
「このお裁きは私がお受けをし私の方法でおこないます」と直衛は云った、「なんに限らず、お裁きについてのお口出しは無用に願います」
 そして摂津には構わず、与力の席や白洲の人配りなど、こまかいことに詳しい指図さしずをした。同心や警護の下役人たちの数は、これまでに例のないほど多く、城代家老が臨席するというので、白洲にはおもおもしい緊張がみなぎっていた。――こういう手のこんだ準備をしたにもかかわらず、吟味は殆んど四半ときもかからずに終った。その経過を記すと、定刻に要屋の主従三人が出頭して白洲に並び、諸役人と中所直衛が着座し、城代の朝倉摂津があらわれて、当番与力が三人を呼びあげると、直衛は要屋の主人に「台帳を呈出しろ」と云った。要屋喜四郎は六十一歳、固太りのがっちりしたからだで、髪もまゆも青年のように黒く、厚い唇や大きな鼻が、あぶらぎった顔に精力的な印象を与えた。眼は尋常のようにみえるが、それは火の上に膜を張ったような感じで、ときにその膜の下からいかにも剛腹な、するどい光が放たれるのであった。彼は「訴状に詳しく記してあるし、その点は河本さまのお調べが済んでいるから、台帳をご覧に入れる必要はないと考える」と答えた。
「必要があるかないかは奉行の思案によるものだ」と直衛は穏やかに云った、「明日、同時刻に台帳、諸帳簿、証文など、この件に関する書類をとりそろえてこのお白洲に出頭するように、――今日の吟味はこれまで」
 そう云うと、直衛は席をさがって朝倉老に低頭した。控え所へ戻ると、朝倉摂津が待っていて、どういうつもりだと噛みついた。直衛は朝倉老の眼を黙って見返したが、なにも答えずに河本宗兵衛のほうへゆき、明日も白洲の威儀は今日のとおり、と伝えた。
 明くる日の白洲では、訴状と諸帳簿、また証文の一つ一つを照合するという、面倒なことをやり、それが済むと、各項目について詳細な訊問を始めた。時服一と揃えとあれば、その反物の名柄から染め色、原価と売価、仕立て賃などまで問い詰めるので、要屋主従はたちまち返答に窮した。
「そのような些末さまつなことまで御訊問とは存じませんので」と要屋喜四郎が答えた、「控えの帳簿をしらべませんければお答えが申上げかねます」
 直衛は要屋の顔をみつめたまま、深く息を吸い、静かに吐きだしてから、云った、「――昨日、そのほうに台帳、諸帳簿、証文など、この件に関する書類をとり揃えて持参するようにと、申しつけた筈だが」
 要屋主従は平伏した。
「そのほう奉行の申しつけをなんと心得る、おのれの雇人がぐちでもこぼすと心得たか」直衛の声は低くやわらかであった、「――要屋喜四郎、返答を聞こう」
 要屋は額をむしろにすりつけて詫びた。
「よし」直衛は頷いた、「お上に手数をかけ、大切な御用の暇を欠かせたことは不届きであるが、このたびは許してつかわす、次の吟味は十五日の同刻、怠慢があってはならんぞ」
 そして、今日はこれまでと云い、席をさがって朝倉城代に低頭した。
「おどろいたな」控え所で待っていた宗兵衛が云った、「いったいなにを考えてあんな面倒なことをするんだ」
「朝倉老はごきげんだったか」
「だったろうね、かんかんになってものも云わずに出ていったよ」
「そのうちには慣れるだろう」
「十五日にも今日のような吟味をするのか」
「初めに云わなかったか、たっぷりとな、って」と直衛は云った、「忘れないでくれよ」
「そんな意味だとは知らなかったね」
「じゃあいまわかったわけだ」
「いい気持らしいな」
「そうでなくってさ」と云って直衛はにやっと笑った、「佳奈によろしく伝えてくれ」
 その佳奈が、御殿下ごてんしたにある中所の屋敷へ来て待っていた。小菊の模様を散らした元禄袖げんろくそでの常着に、秋草を染めた白地の半幅帯という略装で、直衛が帰ったとき、客間で古瀬戸のつぼに紅葉した山はぜけていた。直衛は着替えた袴の紐を緊めながら出てゆき、活けている佳奈の姿を、立ったままうしろから眺めていた。佳奈は振向きもせず口もきかなかったが、やがて活け終ると、暫く見まもっていて、その姿勢のまま、いかが、と問いかけた。
「葉の色が少し派手はですぎたでしょうか」
「まあそんなもんだろう」
「ご挨拶ですこと」と云って佳奈は初めて振返った、「――なにを見ていらっしゃるの」
「その着物さ」直衛はまだ佳奈の姿を眺めながら坐った、「めかしているじゃないか、どうしたんだ」
 佳奈は直衛をにらんで身のまわりを片づけ、茶をれるからと立っていった。直衛も立ちあがって縁側へ出てゆき、腕組みをして、冷たい板を素足で踏みながら、縁側をぼんやりとったり来たりした。茶の支度ができた、と云う声で振返ると、家扶の畠中重平であった。直衛は頷いて居間へいったが、畠中がついて来て、佳奈の姿はみえず、机の脇に茶の支度ができていた。
「河本のお嬢さまがこれを」と畠中が袱紗ふくさ包を差出した、「お渡し下さるようにと仰しゃいました」
 直衛は受取りながら、いぶかしそうに畠中を見た。
「お嬢さまはいまお帰りなさいました」
 直衛が頷くと、畠中は去った。なんだ、と口の中で呟きながら、直衛は袱紗をあけた。出て来たのは白紙の包で、表に「持参金」と書いてあり、中に十五両はいっていた。手紙もなにもない、その金包だけであった。
「おまえらしいな、かな公」と直衛は微笑しながら呟いた、「気にいったぞ」
 十五日の白洲でも、前回と同じ煩瑣はんさな調べが続いた。時貸し三両とあれば、その貨幣の内容をただす。小判か、銀か、小粒か。また手文庫一具とあれば、その形や塗り、仕入れ先はどこで、元値は幾らか、といったぐあいであった。三年と幾カ月かにわたる借財の、一カ条ごとに、まるで畳の目を数えるような吟味をするので、半年分を終るのがやっとのことであった。――このあいだ、要屋主従の答弁は、三人の書役によって詳しく記録されたのはもちろん、直衛も矢立を側に置いて、訴状の要所へしばしば書入れをした。十二時に半刻の休息をし、四時の太鼓を聞いて調べを終りにした。
「明日、同刻に次の吟味をする」と直衛は云った、「今日はこれまで」
 朝倉城代は直衛の辞儀を待たずに座を立ち、これ以上の渋面はないだろうと思われるような渋い顔で、荒あらしく奥へ去った。


 下吟味は前後九回、要屋主従はもちろん、立会う役人たちまでがうんざりし、くたびれはてたというようすを隠さなくなった。月も変って十月となり、ちょうど一と月目に当る十二日に、裁決をする、と直衛は要屋に申し渡した。
 朝倉城代は例のとおり先に帰ったものと思ったが、控え所に戻ってみると、宗兵衛と共に老人が待っていた。
「ちょっと坐ってくれ」と宗兵衛が呼びかけた、「要屋から願いが出されたんだ」
 朝倉老は直衛が坐るのを、冷たい眼で睨みながら、膝の上でやかましく扇子を開いたり閉じたりしていた。
「訴えの取下げか」と直衛がきいた。
「どうしてわかった」
「そろそろくるころだと思っていたよ」と直衛は云った、「条件はどうだ」
「ちょっと待て」と朝倉摂津が云った、「そろそろくるころとは、どういう意味だ」
「どういう条件だ」と直衛は宗兵衛にきいた。
「おれがきいているのだ」と摂津は怒りを抑えた口ぶりで云った、「そのほうは要屋が取り下げにくるのを待っていたのか」
 直衛は向き直り、袴の膝に両手を置いて城代を見た、「どのような理由がありましょうとも、この裁きにはお口出し無用と申上げました、もしまた御不満なら、ただいまからでもお役御免にしていただきます」
 摂津の顔が赤黒くなり、ぎらぎらする眼で直衛を睨みつけたが、とつぜん立ちあがると、扇子で袴をぴしりと打って出ていった。
「ひどいやつだ」と宗兵衛が云った、「なにも怒らせることはないじゃないか」
「それより要屋の条件を聞こう」
「初めにこっちの出した案だ」と宗兵衛は太息といきをつきながら云った、「全額の三分の二を貰えば訴訟を取りさげたいと云っている」
「そいつを待ってたんだ」
「一と月がかりで、あんな手数と時間をかけてか」
「はねつけるんだよ」
 宗兵衛はなにか云いかけたが、黙って直衛の顔を見まもった。
「その願い出は記録しておいてくれ」と直衛は立ちあがりながら云った、「十二日までにあと五日ある、はねつけられた要屋はなにか手を打つかもしれない、頭がよければそんなことはしないだろうがね、――また、老職のほうでおれに圧迫をかけるかもしれない、なにしろ穏便第一だからな、しかしおれは断じてひかないぞ」
「おれはだんだん心配になってきた、中所はこの裁きになにかをけているようだ」と宗兵衛が不安そうに云った、「要屋の件を裁くだけでなく、ほかになにか目的があるんじゃあないのか」
「改新された御定法にはゆきすぎがある」と直衛は答えた、「そのため町奉行が幾たびも苦境に立たされたことは知っているとおりだ、しかし、いったん触出ふれだされた法令をそうたやすく変えることはできない、御改新を阻止し得なかったのはおれにも責任があるから、この要屋の裁きを利用して、新しい御定法にはっきりした威厳と基準を与えようと思うんだ」
「それならなおさら、少なくとも朝倉さんぐらいには相談すべきじゃあないか、独りで責任を負ってもし失敗したらどうする」
「万に一つもそんな心配はないよ」と云って直衛は声を出さずに笑った、「くよくよするな、見ていればわかるさ」
 宗兵衛は信じかねるように首を振り、御諚書ごじょうしょはいつ書くのかときいた。
「そんなものは書かない、まず精士館で二三日、みっちり躰力をつけることにするよ」
 御殿下の家には佳奈が来ていた。
「珍しいな、なにか用事か」
「お着替えをなさいな、いまお茶を淹れて、それこそ珍しいお菓子をさしあげますから」
「えーと」直衛はなにか云いかけたが、まあいいと片手を振った、「菓子よりも今日は酒を飲みたいんだがね」
「こんな日中からはいけません」
「もう一と月も飲んでいないんだ」
 佳奈はかぶりを振った。
「吟味も今日で終ったし、かな公と祝言の日どりもきめたいんだ」
 佳奈はまたかぶりを振り、早くお着替えなさいまし、と云って奥へ去った。直衛は眼を細くし、やっぱり昔の佳奈だな、と心の中で呟いた。着替えをするとき若い家士に、酒の支度を命じたが、家士は微笑しながらなま返辞をするばかりで、承知したとは云わなかった。ぬいだ物を片づけて家士が去ると、佳奈が茶と菓子を持って来た。
「佳奈はこの家を占領したのか」と直衛が云った、「おれの云うことをきいてくれなくなったぞ」
「昼間からお酒はいけません」と佳奈が答えた、「これを召上ってみて下さい」
 杏子あんずくらいの大きさで、色も熟れた杏子色のなにかの果実が、平皿ひらざらの上に三つ並んでいた。箸が添えてあるので、その一つをべてみると、木でも噛むように固くて、ちょっと歯の立たない感じだった。
「なんだ、これは」直衛は口の中のそれを箸でつまみ出して、眺めた、「噛めやしないぞ」
「そんなことがあるもんですか」
「じゃあ喰べてみるさ」
「さっき一ついただいたんですよ」と云いながら、皿の上の一つを取って口に入れた、「あらおかしい、どうしたんでしょう」
 彼女もすぐに口から出してしまった。
「いったいこれはなんの実だ」
「お庭の木瓜ぼけの実よ」と佳奈は云った、「先月のいまごろでしょうか、お留守にみつけて、あんまりみごとだから摘み取って、砂糖漬けにしてみたんです」
 ところがどうしてもやわらかにならないので、今日は半日がかりで煮てみた。ちょっとまえに一つ喰べたら、固いことは固いけれども喰べられたし、特殊な風味があってうまかったのだ、と佳奈は云った。――宗兵衛が要屋のことで相談に来たとき、直衛もそれをみつけ、亡くなった妻の初尾が、塩漬けにするといい箸休めになる、と云ったことを思いだしたものであった。
「塩漬けにするということは聞いたが」と云いかけて直衛は佳奈の顔を訝しげに見まもった、「――おどろいたな、留守に来てそんなことをしていたのか」
「ですから珍しくはないんですのよ」
「家の者はなにも云わなかったぞ」
「畠中さんのしつけがよろしいからでしょ、わたくしは口止めなんかいたしませんでしたわ」
「だろうと思うよ」と云って直衛は木瓜の実を指さした、「お手並は拝見したから、酒にしてもらってもいいだろうね」
「そんなにあがりたいんですか」
「一と月も飲まないって云ったろう」直衛はまじめな顔つきをしてみせた、「ようやく吟味も終ったし、珍しくかな公も、いや、かな公は珍しくはなかったのか」
かな公はやめて下さい、わたくしそう呼ばれるのがなにより嫌いなんです」
「自分でそう呼べと云ったんだぞ、十一か二のときだったな、男と女と差別はない、ただ違うところは」
「お酒の支度をするように申します」
「そのあとは省略しよう」直衛はにやっと笑った、「そのとき佳奈は、これからあたしのことをかな公と呼んでくれって」
「嘘ばっかり」佳奈は直衛をにらんで立ちあがった、「お酒の支度をするように伝えてまいります」
「佳奈がしてくれるんじゃないのか」
「祝言の日どりもうかがわずにですか」
「それをきめようと云った筈だぞ」
「わたくしがいそいでいるなんてお思いにならないでね」佳奈はにこっと笑い返した、「縁談はほかにもあるんですのよ」
「持参金は返さないぞ」
 佳奈はなにも云わずに出ていった。
 まさかそのまま帰ってしまおうとは思わなかったが、若い家士が二人、酒肴しゅこうの膳をはこんで来て給仕に坐ろうとするので、佳奈はどうしたかときくと、お帰りになりましたと答えた。
「怒っていたようか」
「木瓜の実は失敗したと仰しゃって、舌を出して笑っていらっしゃいました」と家士は云った、「そうして、あれをすっかりまとめて、持ってお帰りになりました」
 直衛は声を出さずに笑った。
 明くる日、彼は精士館へいった。宗兵衛に向って、躰力をつけると云ったが、それは誇張ではなく、要屋の訴訟の裁決に当って、彼には実際その必要があったのである。精士館の控え所で稽古着に替え、別科の道場へ出てゆくと、若い藩士が五人、めんをつけない稽古着でやって来て、直衛を半円に取巻いた。
「中所さん」と中の一人が呼びかけた、「あなたにうかがいたいことがあるんですがね」
 直衛は五人の顔を順に見やり、穏やかな声で、なんですかときき返した。
「あなたは要屋の件で裁きをなさるそうですが本当ですか」
 直衛は黙って頷いた。
「すると」その若侍は続けた、「矢堂玄蕃がお白洲へ呼び出される、というのも事実なんでしょうか」
 直衛はまた、黙って頷いた。その若侍は他の四人と眼を見交みかわした。すると左の端にいた一人が前へ出て来た。
「私は岡倉小太夫という徒士組かちぐみの者です」とその若侍は云った、「――失礼かもしれませんが、矢堂を白洲へ呼び出すことはお考え違いじゃあないでしょうか」
 直衛はかれらを押しのけ、黙って自分の竹刀しないを取りにいった。


 岡倉という若侍と他の四人は、あとからついて来た。直衛は面と籠手こてを左手に抱えたまま、右手に竹刀を持って向き直り、もういちど五人の顔を順に眺めた。
「私のうかがう意味がおわかりですか」と岡倉小太夫が云った、「矢堂は放埓ほうらつ者かもしれませんが藩士です。それを白洲へ呼び出して、商人などと並べてさばきにかけるということは、家中かちゅうぜんたいの面目にかかわると思うんですがね」
 直衛は静かな口ぶりで反問した、「おまえたちはめしを食うのに、箸を使うか指を使うか」
 岡倉はれの四人と眼を見交した。
「それは、――」と岡倉が用心ぶかく云った、「物によっては指でつまんで喰べることもあるでしょう」
めしを喰べるのに、ときいているんだ」
「それとこれとなにか関係でもあるんですか」
「訴えられた人間を呼び出さずに裁きをしろというのは、客の面前で箸を使わずにめしを喰べろと云うようなものだ、たとえ侍たりとも、不正無道なおこないがあれば訴えることができると、御定法にはっきり示されている以上、矢堂を呼び出さずに裁きはできない」
「それはそうでしょうが」と岡倉は直衛の言葉をさえぎって云った、「あなたは御定法の改新には反対だったのでしょう」
 直衛は相手の眼をするどくみつめながら云った、「それを覚えているなら、おれがどんな裁きをするかも想像はつくだろう、もし想像しなかったのなら、これから想像してみるんだな」
 そして彼はそこをはなれようとしたが、ふと振返ってかれらを見た。
「ひと汗ながしたいんだが」と直衛は云った、「誰か相手にならないか」
 岡倉がすぐに「私がお相手しましょう」と云って、表道場のほうへ走ってゆき、竹刀を持って戻った。
「面や籠手はつけないのか」
「これでいいです」と岡倉が答えた、「そちらはどうぞおつけ下さい」
 直衛は道具をつけた。二人は作法どおりに竹刀を合わせ、立ちあがって左右にひらいた。とたんに直衛が踏み込んだとみると、岡倉の竹刀が生き物のように彼の手からはなれ、道場の羽目板まで飛んでいって床の上へ落ちた。その人けの少ない別科の道場の、しんとした空気の中で、床へ落ちた竹刀の乾いた音が、おどろくほど高く聞えた。
「もう一本」と岡倉がおじぎをして云った、「お願いします」
「いやだ」直衛は他の四人を見た、「ほかに誰か出ないか」
 四人はすぐに表道場へ走っていった。岡倉は顔を赤くして自分の竹刀を拾いにゆき、そのまま羽目板を背に坐りこんだ。四人は道具を持って戻り、一人が身支度をすると、竹刀をおろし、片膝を突きながら、「渡辺孫次郎」と名のった。次が砂田慶之助、続いて江原次三郎、渡辺十兵衛と、四人が四人とも初太刀で竹刀をとばされてしまった。
「ぜひ私にもう一本」と岡倉小太夫がとびだして来た、「お願いします」
 直衛は「道具をつけろ」と云った。岡倉は道具を取りにゆき、戻って来ると、そのあとから六七人の若侍たちが、道具を外した稽古着姿でついて来て、羽目板を背に並んで坐った。岡倉はしっかりと面籠手をつけ、作法どおりに竹刀を合わせ、立ちあがった瞬間、全身の力をこめて、絶叫しながら躰当りをくれた。すばらしい気合で、直衛のからだはすっとんだかとみえたが、すっとんだのは岡倉自身で、直衛はふわっと左へよけたまま向き直り、岡倉が「まいった」と叫んだ。誰の眼にもとまらなかったが、すっとぶときに胴を取られたのである。
「まだだ」と直衛が云った、「いまのは一本にならない、さあ」
 岡倉は竹刀を取り直したが、すぐに首を振り、膝を突いてめんをぬいだ。
「まいりました」と岡倉は竹刀を斜にして低頭した、
「この次にまたお願いします」
 そして立ちあがり、直衛の眼をみつめながら近よって来た。
「この手合せでは負けましたが」と岡倉は云った、「要屋の裁きのしようによっては、改めてご挨拶にまいるつもりですから、どうぞお忘れにならないで下さい」
 直衛は黙って頷き、道具をぬぎにかかった。
 十二日までに、三人の老職が中所家へたずねて来た。いずれも裁決をどうするか、という懸念のためであったが、直衛はどの老職にも、「当日お立会い下さい」と云うだけで、どう裁くかについては一と言も語らなかった。そのほかには御用商人の大橋屋茂兵衛が、夜になってから枡屋ますや和助といっしょにやって来た。大橋屋は全般の御用、枡屋はお金御用達で、これもまた要屋の裁きがどうなるかについて、直衛のはらを打診するつもりのようであった。さすがに口には出さなかったし、直衛も気づかないふうをよそおいとおし、二人はわずかな時間いただけで帰った。
 十日の夕方には河本宗兵衛が妹を伴れて来た。佳奈はあとから、召使の少女と来たのだが、いろいろな訪問客のあることを聞いたのだろう、裁決の済むまで佳奈に手伝わせよう、というのであった。そんなに騒ぐほどのことはないと云ったが、直衛はしいて断わらなかった。
「いいだろう」と彼は頷いた、「どうせまもなく祝言をするんだから、自分の居間でも片づけておくんだな」
「もう片づいていますわ」あとから来た佳奈は、茶を持って来ながら云った、「箪笥たんすとか長持のようなかさ張る品は、とっくにこちらへ運んであります、ご存じなかったんですか」
 直衛は彼女の顔を見まもった、「――それも留守のあいだにか」
「お留守のあいだにです」
「ほかにも縁談があった筈じゃないか」
「あなたが落胆なさってはお気の毒だと思って」と云って佳奈はあやすように笑った、「これで安心なすったでしょ」
 宗兵衛が睨みつけ、佳奈は知らん顔で二人に茶をすすめると、気取った身ごなしで出ていった。直衛が見送っていると、佳奈は襖のところでちらっと舌を出した。
「すっかりこけが落ちたな」と直衛は呟いた、「これで芯から元のかな公だ」
こけが落ちたとはどういうことだ」
「磯村の妻というこけさ、おれは元の佳奈になるのを待っていたんだ」
「あいつはいつもかな公だったよ、男に生れてくればよかったって、父は死ぬまで嘆いていたがね、――ときに」と宗兵衛は言葉を改めた、「このあいだ精士館で、若い連中と立会って五人もやっつけたそうだな」
「一人は二度だから六人だ」
「どうしてそんなことをしたんだ、負けてやらないまでも勝負のつけようはあったろう、かれらはこんどの裁きに不満をもっている、ことによると一と騒ぎおこるかもしれないぞ」
「それで条件が揃うわけさ」と直衛は微笑した、「城代はじめ重職諸公、家中の若い連中から商人たち、そしておそらく、城下の住民の多くが十二日の裁決に注目するだろう、あけてびっくりかもしれないが、裁きの効果の大きいことは疑いなしだ」
 宗兵衛はなにか云いかけたが、思い返したとみえ、首をそっと振りながら、膝の前にある茶碗を取った。
「大丈夫かと念を押したいんだろう」と直衛が云った、「心配するな、大丈夫だよ」
 そして十二日になった。
 裁きの席はものものしかった。朝倉城代はじめ二人の家老と、連署の重職三人、書役三人には一人ずつ与力が付いた。要屋主従は白洲の砂利じゃりの上だが、その日初めて、矢堂玄蕃が出頭し、これは同心二人に付添われて縁側に坐った。もちろん無腰であるが、衣服も新しいし、髪も結い直しひげっていた。つくばい同心や手先の人数も、これまでのほぼ倍はいるようで、裁きの始まるまえから、白洲には重苦しいほどの緊張感がみなぎっていた。
 直衛の訊問は要屋に集中した。一と月にわたって吟味した訴状の内容を、また初めから順に読みあげ、要屋の確認を求めた。白洲には不満とだれた気分が動きだした。ものものしい緊張の中で、なにか異常な場面が展開するだろうと期待していたのに、同じことの繰り返しが始まったからであろう。列席の重職たちも要屋主従も、その他の役人たちまでが、それぞれ違った意味で失望し、うんざりし、退屈しはじめたようであった。
 中所直衛は、そんな空気がひろがるのを承知のうえのように、念を入れて訴状の再確認を終り、さて、と云って要屋主従を見た。
「以上はこれまでの吟味によって、一条ずつ詳しく取調べたものであるが、改めて、事実に相違ないかどうかを聞きたい」直衛は訴状を巻いて膝の脇に置きながら云った、「要屋のあるじ喜四郎、返答を申せ」
「これはご念の入りました仰せ」喜四郎は両手をおろし、直衛を見あげながら答えた、「こんにちまでたび重なるご吟味にも明らかなるとおり、差出しましたる訴状の始終、いささかたりとも事実に相違するところはございません」
「しかと相違ないか」
「些かもまぎれはございません」
 直衛は扇子を取って膝に置いた、「ときに、奉行はまだ不案内であるが、要屋の業態を聞こう」
 喜四郎は番頭に振向いた。番頭の五助が両手をおろし、おそれながら私より申上げます、と云いかけたが、直衛は制止し、あるじ喜四郎から聞こうと云った。
「申上げます」と喜四郎がむっとしたように答えた。
「これもご吟味のはじめにお答え申しましたが、業態はお届けのとおり、呉服太物ふともの、家具什器じゅうきの販売にございます」
「そのほか役所に届け出でず、陰にて営むしょうばいはないか」
 要屋喜四郎はちょっと口をつぐんだ。
「この裁きにはほぼ三十日の時日をかけている」と直衛は云った、「そのあいだ奉行はお白洲の砂利を眺めていたわけではない、要屋についてよからぬ噂があるため、手をつくして探索し、事実の有無を調べていたのだ」
 白洲の砂利を眺めていたわけではない、というところでは、重職たちのあいだに忍び笑いが聞えた。直衛はふところから一綴の書き物を取り出し、それをぱらぱらとめくりながら言葉を続けた。
「そのほうは家業のほか、ひそかに高利をもって金貸しをしている、ここに」と彼は手に持った書き物を指で叩いた、「その事実と証人の口書が取ってあるが、これについて申し開きがあるか」
「おそれながら」と喜四郎は力のある声で云った、「このお白洲は差上げました訴状についてのお裁き、私の業態についてのおとがめは筋違いかと存じますが」
「金貸しをしているかおらぬか」と直衛はやわらかな口ぶりで云った、「まずその返答を聞こう、番頭、手代どもとも相談のうえ、はっきりと申せ」
 喜四郎はむしろの上で五助のほうへ振向き、手代の平吉、正次らも首を寄せた。なにをささやきあっているかむろん聞えないが、相談はすぐにきまり、喜四郎は両手をおろした。
「お答え申上げます、おそれながらしょうばい上の縁によって、ときに金の融通を頼まれ、やむなく用立てることはございます」と喜四郎は云った、「これは私ども商人に限らず、自分にたくわえがあり友人知己に頼まれれば、どなたでもなさることだと存じますが」
「奉行がきいているのは、そのほう家業のほかに金貸しをしておるかどうかということだ、否か、応か、それだけを聞こう」直衛は持っている書き物をあげてみせた、「――友人知己に頼まれて、ときによんどころなく用立てるのと、初めから利息をきめ期日をきめ、期日に返済できぬ場合の処致まできめるのとは、まったくその意味が違うぞ、そこをよく思案のうえ答えるがよい」
「おそれながら」と番頭が云った、「それにつきましては主人はなにも存じません、この五助より申上げますが」
「返答は喜四郎から聞く」
「主人はなにも存じません。この五助いちにんにて致しました」と五助は押して云った、「初めは主人の申上げましたとおり、よんどころなく用立てたものでございますが、無利子では気の毒と借りぬしも云いますし、あきんどとして銀をただ遊ばせておくのも商法の道にはずれますので、しぜん多少の利息をいただくということになったようなしだいでございます」
「わかった」直衛の声は依然としてやわらかであった、「すると、そのことについてはあるじ喜四郎はなにも知らぬと申すのだな」
「申上げましたとおりにございます」
「要屋の銀を番頭の一存にて貸し、その利息によって高額な収益を得ていながら、あるじ喜四郎にはなにも知らせなかった、また、要屋の主人である喜四郎がその事実を些かも知らずにいた、と申すのだな」
 番頭の五助は黙って平伏した。
「では、矢堂玄蕃への訴状に戻るとしよう」と云って直衛は、持っていた書き物を置き、もういちど訴状を取りあげた、「――要屋喜四郎、そのほうがこの訴状によって、百八十両三分二朱の借財不払い、ならびに脅迫と暴行の理由で矢堂を訴え出たのは、事実とは認めがたいぞ」
「なんと仰せられます」
「いま番頭の五助が申したな、あきんどとして銀をただ遊ばせておくのは商法の道に外れると、――そのほうはあきんどだ、あきんどは銀を生かして使い、利によって家業を営むものだ、されば返済不能な銀を貸す筈もなし、品物を貸し売りすることもない筈だ、矢堂玄蕃の家禄かろくは二百石であるが、実収が百五十石あまりであることも知っているであろう」
 喜四郎はなにか云おうとしたが、すぐに思い止まって、直衛の言葉が理解できないかのように小首をかしげた。
「そのほうが商人であり、この城下で家中の諸屋敷へ出入りしているからには、表高と実収との差ぐらい知らぬ筈はない」直衛の口ぶりはまだ穏やかさを変えなかった、「したがって、矢堂玄蕃に百八十両という多額な借財を返済するちからのないことも、わかっていた筈だ」
「仰せではございますが、帳簿もごらんにいれ証文もごらんにいれました、いまさらご不審とは心得がとうございます」
 喜四郎の顔には不敵な表情があらわれ、その声にもがんとして動じない力があった。


「心得がたいと申すならたずねるが」直衛は一語一語ゆっくりと云った、「返済するちからのない者に多額の金品を貸す以上、なにかこれぞという目安があったであろう、いったいなにを目安に貸したのか」
「目安とはいかなることでございましょうか」
「繰り返して聞かそう、商人は資金を動かし、その利によって生活をするものだ、これならば利益があるという目安がついてこそ、金品を貸しもするであろう、返済する能力のない矢堂にこれほど多額の金品を貸したのは、なにを目安にしたのかとたずねるのだ」
「お言葉を返すようですが」と喜四郎は云い返した、「なるほど商人は利によって生業なりわいを立てる者です、けれどもそればかりでもしょうばいは成り立ちません。土台になるのは信用というもので、いま現銀がなくとも、相手を信用すれば掛け売りも致すのがしょうばいの通例でございます」
「そうか」と云って直衛はうなずき、膝の上で扇子をなんの意味もなく動かした、「――すると、矢堂玄蕃には信用して貸したのだな」
「仰せのとおりでございました」
「ではどうして彼を訴え出たのだ」
 喜四郎はすぐには答えなかった。
「矢堂を信用して貸したのなら」と直衛は繰り返した、「なぜ彼を奉行に訴えたのだ」
「信用というものは無限ではなく、必ず限度がございます」
「人を信ずるということに限度はない、と奉行は考えるが、そのほうは商人、ここまでは信用するが、ここから先は信用しないという限度がある、そういうことだな」
「さようお考え願って差支さしつかえございません」
「その限度をきめるのを目安と云おう、矢堂に百八十両余まで貸した目安はなんだ」
「信用にも限度があると申上げましたことで御了察を願います」
「奉行はそのほうの目安をきいているのだ」
「さようなものはなかったと、申上げるよりほかにお答えはございません」
「そうか」直衛は持っていた訴状と、証文の束を取って投げだした、「では申し聞かせるが、そのほうの訴えは事実無根だぞ」
「それは仰せともおぼえません」喜四郎はけしきばんだ、「私のほうには証拠の帳簿もあり証文もございます。それをただ事実無根だと仰せられても、私には理解がつきかねます」
「おかみの眼をかすめて金貸しをしながら、それは番頭いちにんの仕業しわざであるじ喜四郎がなにも知らぬ、ということも奉行には理解できない」直衛の言葉はまだ穏やかであった、「また、この訴訟の初めに、三分の二を支払うから訴えを取りさげるよう、さる方から交渉したところ、そのほうはたってお裁きをと申し立てた、しかし奉行が下吟味を続けるうち、こんどはそのほうより三分の二の支払いで訴えを取りさげたいと願い出た。金貸しの件といい訴訟のことといい、そのほうの仕方にはうろんなところが多い、帳簿も証文も、謀版謀書のできないものではないのだ、矢堂玄蕃に対する訴えは事実無根と認めるぞ」
「その証拠がございますか」喜四郎はあとへはひかなかった、「私の差上げました証拠が事実無根とおっしゃるなら、これが事実無根であるという証拠を拝見したいと存じます」
「よし、見せてやろう」直衛は頷いて、縁側に控えている矢堂玄蕃のほうを見、そのうしろにいる同心に呼びかけた、「――矢堂どのの刀を持ってまいれ」
 同心の一人が重職たちのほうへ眼をやり、それから立ってさがっていったが、すぐに、一とふりの刀を持って戻り、直衛に渡した。直衛は座をすべり、懐紙を口にくわえて、静かに刀を抜いた。さやを左に置き、刀を垂直に立ててその切刃を見た。切先きっさきから鍔元つばもとまで。次に表と裏をうち返して、ゆっくりと眺めてから、咥えていた懐紙を口から取り、その白刃を要屋のほうへ、さしかざして見せた。
「この刀を見ろ」と直衛は云った、「一点のくもりもなくきずもないこの刀を、そこからよくよく見ろ」
 要屋主従は手をおろしたままで、不安そうにその刀を見あげた。
「刀は武士のたましいという」直衛の声はやはり静かであり、相手をなだめるようなやわらかみを帯びていた、「――そのほうどもには侍のから念仏と聞えるかもしれぬが、これは武士のたましいであり、武士のまことに武士らしさをあらわすものだ」
 彼はさしかざしていた刀をさげ、それを持ったままで、こぶしを膝へ置いて続けた、「――武家に生れた男子は、およそ七歳にして切腹の式をまなぶ、そのとき彼はその家の子ではなく、藩家の臣に加えられるのだ、もはやおのれというものはない、身も心も藩家にささげ、いったん大事に当面すれば一命をして責任をはたさなければならない、七歳にして切腹の法をまなぶのはそのためだ」
 侍は糸もつむがず、田も作らずかんなも持たず、代々その家禄によって生活をする。それは、主君と藩に仕え、領民の安泰をまもることが本分だからだ、侍の生きかたは、善と悪との差別なく藩家と領民につながる、善事をすれば藩家と領民の誇りとなり、悪事をすればすなわち藩家と領民の恥辱となる、つねに威儀を崩さず、独りいても容態を慎むのはそのためであり、そのこころざしに誤りのないことを証明するものは刀だ。
「刀は人をるためにあるのではなく、おのれの志操をまさしく保つことのあかしとしてあるのだ」と直衛は柔和な口ぶりで云った、「もういちどよくこの刀を見ろ」
 直衛はまた刀をさしかざし、呼吸五つほどしてから、拳を膝へおろした。
「矢堂玄蕃は侍だ、しかもこの藩では筋目の家柄に当る」と彼は続けた、「――筋目の家柄に生れた侍が、商人から金品を借りて返さず、返済を迫られて暴行をする、などということがある道理はない、要屋喜四郎、そのほうの訴えはまったく事実無根である」
 直衛は元の座に直って云った、「業態にも不審があるうえに、かような根もなき訴えをするとは不届き極まる仕方だ、重罪をも申付けるべきところ、上のお慈悲によって、主従四名に三十日の入牢にゅうろうを申し渡す、立て」
 直衛は片手を振り、つくばい同心たちは納得のいかない顔つきだったが、要屋主従をせきたてて白洲から去った。直衛は持っていた刀を、懐紙で念入りにぬぐい、鞘におさめた。
「矢堂家に明寿みょうじゅがあるとは、少年のころから聞いていました」と直衛は縁側にいる矢堂玄蕃に向って云った、「――いつかはいちどは拝見したいと思っていたが、このようなときに拝見できるとは思いませんでした、――みごとなお伝えぶり、失礼ながら感服いたしました」
 そして同心を呼んで刀を渡すと、座をすべって両手をおろし、朝倉城代の眼を見あげながら、これで裁決を終ると述べ、すばやく立ちあがってその場を去った。
 控え所には宗兵衛がいて、むろんいまの裁きを聞いたのだろう、吃驚びっくりしたような顔で呼びかけたが、直衛は「あとであとで」と首を振り、麻裃あさがみしものまま役所から出ていった。彼はまっすぐに御殿下の家へ帰り、出迎えた若い家士に佳奈はまだいるかときき、返辞も待たずに、すぐ酒の支度をしてくれと命じた。若い家士はなにか云いかけたが、彼は酒だとどなって居間へはいり、着物をぬぎすてるとそのまま風呂舎ふろやへいった。水を浴びるつもりだったが、き口の戸をあけて佳奈が顔を出し、湯かげんはどうかと呼びかけた。
「おどかすな」と直衛は云った、「びっくりするじゃないか、なにをしているんだ」
 佳奈は両手をひろげた、「お風呂をたいていたんですわ、なにをしているとお思いになったんですか」
「気にするな」直衛は風呂桶のふたを取った、「すぐ酒にするからなにかうまい物をこしらえてくれ」
「はい」と云って佳奈はにこっと笑った、「今日だけは、はい、と申上げますわ」
「やさしくなることもできるんだな」
「おだてないで下さい、女はすぐにつけあがると云いましてよ」
「うまい物を頼む」と直衛は云った。
 ざっと流して出ると、佳奈が待っていて着物を着せた。裁きのことをなにかきくかと思ったが、もちろんそんなことは口にせず、やまどりが手に入ったから、あぶり焼きとおわんにしましたと云った。
「すまないが」と直衛は裸の背中を向けた、「ここをちょっといてくれ」
 佳奈はふきだしながら、近よって来て、どこですかと指を当てた。もっと上だ、ここですか。その右だ、いやちょっと下の、いやその左だ、と直衛は身をもじらせ、佳奈はくすくす笑いながら掻いた。
 居間には酒肴の膳が据えてあり、若い家士が給仕に坐っていた。直衛は彼にさがれと云い、手酌で飲みだしながら、かな公はまた逃げだすんだな、と思った。幾たびその手をくったろう、比野川の「難波」で一度、いや二度だったかな、その次は、――と頭をひねっていると、佳奈が盆を持ってはいって来た。
やまどりですけれど」と坐りながら佳奈が云った、「まだ早うございましたでしょうか」
「佳奈という人にきいてくれ」と直衛は云った、「酒にもさかなにも時刻がやかましいんだ、うっかりすると叱られるからな」
「もの覚えのおよろしいこと」と云って佳奈は盆の上の皿と椀を膳へ移した、「では、その人にはないしょに致しましょ」
「いいなかまになれそうだな」直衛は唇だけで笑い、盃を干して佳奈に渡した、「かために一つ進上しよう」
 佳奈は坐り直して、その盃をすなおに受け、直衛が酌をすると、唇のあいだからちらっと舌を出した。


 ほぼ半刻はんときのちに、矢堂玄蕃がたずねて来た。直衛は彼を客間にとおさせてから、佳奈の給仕でなお暫く飲んだ。
「お椀がさめてしまいました」と佳奈が云った、「召上らないんですか」
「盃であと三つ」と直衛が云った、「そのくらいがしおどきだろうな」
 佳奈は黙って酌をした。矢堂を客間に待たせておくのは、時を計っているのだと推察したようだが、佳奈はそんなけぶりもみせなかった。
「さて」とやがて直衛は盃を置いた、「――裁きをつけるかな」
 そして立ちあがった。
 客間へゆくと、昏れかかった片明りの中で、矢堂玄蕃がしんと坐っていた。出してある茶にも手は付けないようで、袴の上に両手を置き、折れるほど首をうなだれていた。直衛は折目ただしく坐り、待たせて済まなかった、と云った。矢堂は俯向うつむいたままで、柳田家へのお預けが解けて帰宅したこと、すべては直衛の裁決によるもので、礼の云いようのないことなどを、聞き取りにくいほど低い声で云った。
「あなたの裁きをうかがいながら、私がどのように思ったかは申しますまい」と矢堂は続けた、「ただ、――明寿の刀に一点のくもりもきずもないと云われたとき、自分が裸にされたように感じました、身の皮をがれたような気持でした」
 直衛はなにも云わず、矢堂のほうに眼も向けなかった。
「いまになってかようなことを申すのは、みれん極まるはなしですが」と矢堂は自分の膝をみつめながら云った、「――これをしおに、侍らしい人間になってみたい、新しくやり直してみたいと思うのですが、御助力が願えるでしょうか」
 直衛は暗くなってゆく庭のほうを見たまま、かなり長いあいだ口をつぐんでいた。なんの表情もないその横顔を、矢堂玄蕃はとりすがるような眼つきで見まもってい、やがて、直衛はゆっくりと矢堂のほうへ振向いた。
「私は祖父から、こういうことを云われました」と直衛は云った、「――侍も人間であるからには、人間としてのあやまちや失策のないことは望めない、けれども、侍としてゆるすことのできないものが二つある、――一つは盗みをすること、一つは死にどきを誤ること、この二つは侍にとって、理由のいかんにかかわらずゆるすことはできない、ということでした」
 矢堂はびくっとして直衛の顔を見た。まるで平手打ちでもくったような眼つきで、同時に、膝の上の両手を強く握り緊め、また折れるほど首を垂れた。
「わかりました」と矢堂は囁くような声で云った、「みれんなことを申して恥入ります、どうかお忘れ下さい」
「お帰りなら待って下さい」と云って直衛は立って出てゆき、すぐに、紙包を持って戻ると、それを矢堂の前に差出した、「――この中に要屋へ返済する分がはいっています、帰りに要屋の店へ置いていって下さい」
「これは」と矢堂は眼をみはった、「いや、こんなことをしていただく筋はありません」
「持っていって下さい」と直衛は相手の言葉を遮って云った、「かりは借です」
 矢堂は黙って両手をおろした。その姿をじっと見てから、直衛は「失礼」と云って立ちあがった。――矢堂玄蕃はそのまま、居間へ戻ると誰もいなかったが、直衛が手酌で二つ飲むと、佳奈が燗徳利かんどくりを盆にのせてはいって来た。
「持参金だなんて」と佳奈は酌をしながらやさしくにらんだ、「――本当のことを仰しゃって下さればいいのに」
「立聞きは無作法だぞ」
「ずっと安心いたしました」と佳奈は云った、「わたくしのはべつとして百八十両あまり、こんなに御内福とは存じませんでしたわ」
「あさはかだな」直衛は酒をすすって、一種のめくばせをした、「あれは借りた金だよ」
 佳奈はけげんそうな眼をした。
「持参金の話のときさ」と直衛は微笑しながら盃をあげた、「――かな公が帰ってから、難波の亭主を云いくるめたんだ」
「嘘ばっかり」と佳奈が云った、「噂では吝嗇けちなことで有名だというじゃございませんの」
「ものは使いようさ、良薬は毒から作るというくらいのものだ」
「本当に難波からお借りになったんですか」
「五年がけでね」と云って直衛はそっぽを向いた、「あとはかな公に頼むよ」
 佳奈は黙っておじぎをした。
「よし」と直衛は頷いた、「月が変ったらすぐに祝言をしよう」
 明くる朝、直衛はまだ寝ているところを河本宗兵衛に起こされた。彼が洗面をし、常着に着替えて出てゆくと、宗兵衛は坐っていたのを立ちあがり、すぐにまた坐った。灰色になった顔がこわばり、手の置き場のないように、膝の上で重ねたり、拳を握ったりした。
「早いな」と直衛が云った、「ゆうべはおそくまで佳奈に済まなかった」
 宗兵衛は首を振り、ちょっとどもりながら云った、「――矢堂玄蕃が切腹したぞ」
 直衛は眼をそむけながら反問した、「うまくやったか」
「うまく――」と云いかけて宗兵衛は眼をみはった、「中所は知っていたのか」
「ほかに始末のつけようがあるか」
「それは、しかしそれならなぜ」と宗兵衛はせきこんで云った、「初めに詰腹を切らせようというのをどうして止めたんだ、裁きのあとで切腹することがわかっていたのなら、白洲で恥をさらすことはないではないか」
「人間の命ほど大事なものはない」直衛は言葉を選み出すような口ぶりで云った、「人間の命ほど大事なものはないが、その命は世の中ぜんたいのつながりと切りはなすことはできない、世間の道徳や秩序をふみにじって我欲をとおす者は、おのれでおのれの命を打ち砕くようなものだ、矢堂玄蕃はみずから自決の道をあるいた、おそかれ早かれ玄蕃の自決はまぬがれなかっただろう、けれども、詰腹を切らせることは間違いだ、要屋の訴えはどうしても白洲で裁かなければならなかったのだ」
「そこにも問題がある、要屋主従に三十日の入牢を命じたことは、重職がたでも不当だといって」
 直衛は片手をあげて制止した、「――おれの裁きの要点はそんなところにあるのではない、要屋がなにを目安に、あれだけ多額な金品を貸したか、ということをはっきりさせたかったのだ」
 宗兵衛は眼をしばだたいた。
「要屋が金品を貸したのは、矢堂個人にではない、わが五万二千石の藩が目安だったのだ」と直衛は云った、「新しい御定法によって、いざとなればどんな多額な貸も取り戻せる、それを目安に貸した、ということをはっきりさせたかった、――これをしなければ、御定法のゆきすぎに乗じて、今後も家中の者が同じような穴に落される危険が充分にある、おれはその危険を除きたかったのだ」
 宗兵衛は黙ったまま頷き、また頷いた。
「おそらく、要屋主従はこの意味を察したであろうし、城下の商人どももりるであろう」と直衛は云った、「――喜四郎と番頭手代らは、十日ほどしたら帰宅させることにしよう」





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「文藝朝日」朝日新聞社
   1962(昭和37)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年9月26日作成
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