山本周五郎





 そのあしたちは一日じゅうおおきなしいの樹のうっとうしい陰で風に揺られていた。
 将監しょうげん台と呼ばれる丘の突端をめぐって、にわかに幅をひろげる川は、東へと迂曲うきょくしながら二十町あまりいって海へ注ぐ。川幅がひろがって大きく曲る左岸の、えぐったように岸へ侵蝕しんしょくしたところによどみがあり、そのみぎわに沿って葦は生えていた。うしろはもろくなった粘土質のあまり高くないがけで、その上にはずんぐりと横に伸びた古い椎の樹が七八本並び、篠竹しのだけ灌木かんぼくが繁っている。淀みはもとかなり深かったのだが、流れてくる土砂や朽葉などが沈積するのと、絶えずぼろぼろ崩れ落ちる崖土とで、岸のほうからしだいに浅くなり、水のれる冬期にはかなり広く醜い川床があらわれる。しかし泥は深いうえにまだ柔らかく、水藻がよく繁殖するので、魚たちは産卵のために好んでそこに集った。
 その岸は北に向いていた。また上からは椎の樹立の黒ずんだ枝葉や叢林そうりんがのしかかっているため、いつも暗くじめじめして、空気は湿った黴臭かびくささに満ちていた。みぎわの葦は日光に恵まれなかった。茎は細く色も浅くなよなよしていて、葉の繁る頃には少しの風にもよろめきそよいだ。愚なよしきりは羽を休めようとしてしばしば振落され、弱い茎を折ってはおお騒ぎをしてどこかへ飛んでいった。……そこでは時間が想像も及ばないほど退屈に、のろのろと経っていった。なにごとも起らなかった、まれに川獺かわうそが魚を追いこみでもして激しい水音を立てるほかは、いつもしんと陰鬱にひそまりかえっていた。
 秋にはいったある朝、空は明るんでいるが地上はまだ暗く、川面に霧が立ちはじめているとき、ひとりの若い女がこの岸へ下りて来た。篠竹や木の根を手がかりに、崖土を踏み崩しながら。女は美しかった、だが清楚とか純真とかいう感じとは遠く、どこかに不道徳な匂いさえする美しさだった。眉も額の生えぎわもりこんであった。きめのこまかなひき緊った肌は、不断のていれのよさを思わせる、唇は乾いていた。眼は大きく眸子ひとみは澄んでいるが、人をそそるような悩ましげな光を帯びていた。はなだ色の地に秋草を染めだした帷子かたびらの着かたも、じみな藤どっこの博多の帯の締めかたも、胸乳や腰の線を巧みに生かして、きりっとしながら崩したふうがみえる。……女はみぎわに来てかがんだ。それから抱えていたはこひざの上に置いた。さしわたし五寸ばかりの円い螺鈿らでんの筐で、紫の丸紐まるひもが打ってある。女は紐を解き、蓋をあけて、中から鬱金うこん木綿に包んだ物をとりだした。ちょっとためらったのち、女はそれをひろげた。くるんである綿をのけると、古い漢鏡が一面でてきた。……女は古鏡のおもてを拭いて、そこにうつる自分の顔をみつめた。
 霧は濃くなって、川波の上を低くゆるやかにいはじめた。空には赤みがさし、霧を透して高く鳥の渡るのが見えた。……鏡をみつめる女の表情が変った。きわめて僅かな時間に、眼のまわりにかさがあらわれ、それが顔つきぜんたいに深い陰翳いんえいを与えた。眸子ひとみは大きくなり、きびしい光を帯びて耀かがやいた。「いただいてまいります」女はこうつぶやいて、鏡を元のように包み、ふところへしまった。そしてたもとから一通の封じ文をとりだし、筐の中に入れて蓋をした。紫の紐を結ぶとき女の手はふるえ、眼からなみだがこぼれ落ちた。
 霧はいよいよ濃くなり、条をなし、渦を巻いて川しものほうへと揺曳ようえいしている、微風が立ちはじめたのだ。澄んだ声で鳴きながら、一羽の鶺鴒せきれいが葦の上をかすめ、淀みのかなたへ飛び去った。
 みぎわの土の上に筐を置いて、女は立ちあがった。川面を見た。乾いている唇をなめ、つよく歯でみしめた。それから穿き物のまま片足を水の中へ入れた、そしてもう片方の足を。右手で裾をつかんだ、僅かに白いはぎがあらわれた、ふた足、み足。水は脛についた。女の顔がひきつり、それが誇りがましい、そしてひじょうに美しい微笑になった。霧が巻いてきて、女の半身を包み、渦を描いた。岸から十五尺、水はやがてその腰を浸した。霧はいよいよ濃く、かつ厚みを増した。女の姿は幻のように薄くなり、やがてまったくかき消された。……みぎわの葦が淀みの端のほうから揺れだした、風が出たのである。霧のながれは速くなり、巻きあがったり千切れたりした。ほんの一瞬間、女の姿が見えた。半身を水に浸し、こちらへ背を向けて、なおしずかに川心のほうへ入ってゆくのが、……しかし霧はたちまちその乳色の条で女を押包んだ、もはやなにものも見えなかった。
 葦はしきりに揺れそよいだ、互いになにごとかささやき交わすかのように、葉と葉を触れあわせてさやさやと鳴った。川上へ去った鶺鴒が、その波を描くようなせかせかした飛びかたで戻って来、葦の間へ隠れたとみると、まるで思いもつかぬ処から舞い立ち、するどく鳴きながら川中のほうへ消えていった。葦はさやさやと、いつまでも飽きずに、なにごとか囁きあっていた。


 将監台の上も霧だっていた。丘の中どころに、樹立に囲まれた広い草地がある。草地の端に若い武士がひとり立っている、顎骨あごぼねのはっきりした、眉の濃い、眼の明るい、意志の強そうな顔である。彼は千神市蔵せんがみいちぞうといって、その藩の勘定奉行所に勤めている、食禄しょくろくは三百石、位置は物頭格で年は二十七歳だった。……彼はもう四半ときもそこで待っていた。刻限は過ぎている、帰ってもよいのだが、その決心がつかない、もうしばらくと思う。ここでは霧がほとんど動かない、頭上はすっかり明けて、橙色だいだいいろに染った雲が鮮かに見える。市蔵はふと振返った、眉があがった、坂道を登って来る忙しげな足音が聞えたのである。市蔵は刀のさげ緒をとってたすきをかけ、はかま股立ももだちを絞った。そのとき草地の東端へ、樹立の中からひとりの若侍が走せつけて来た。彼は同じ藩のさむらいで菅野又五郎すがのまたごろうという、蒼白あおじろせて、とげとげした、絶望的な顔つきで、ひどく血ばしった眼をしている。唇は白く乾き、走って来たからだろう、苦しそうにあえいでいた。
「刻限に遅れた、すまない」又五郎はこう云いながら、はいていた草履をぬぎ、むぞうさに刀を抜いた。「……いざ」
 市蔵は黙って相手の動作を見ていた。それから刀を抜いた。又五郎は焦点の狂った眼でこちらを見、刀を中段につけたまま「いざ」と、もういちど叫んだ。市蔵はしずかに刀を持直したが、すぐ下へおろした。
「どうした千神、なぜ刀を下げる」
「そっちにはたし合いをする気持がないからだ」
「ばかなことを云うな」
「見たままを云うんだ」千神市蔵はおちついた眼で相手を眺めた。「そこもとには勝負をする気がない、このはたし合いはそっちから挑んだものだ、そっちに勝負をする気がなくなれば、おれにはもともと用のないことだ」
「どうしてそれがわかる」又五郎の白く乾いた唇がまくれて、歯が見えた。「おれに勝負をする気がないとどこを証拠に云うんだ」
「ともだちだからだ……」
 又五郎の眼に驚愕きょうがくの色がはしった。市蔵は刀にぬぐいをかけ、しずかにさやへおさめた。又五郎のうけた感動はなみたいていなものではなかったようだ。彼はなおなにか云おうとした、一歩、前へ出た。しかしそれが精いっぱいだった。彼はすぐ刀を投げだし、草の上へ坐って両手で顔をおおった。市蔵はそっちへ近寄っていった、上から友を見た。
「正直に、ひとこと云え、菅野、なにかあったのか」
「おまえが正しかった」又五郎は呻くようにこう答えた。
「おれはだまされていたんだ、女は逃げてしまった」
 市蔵は眉をしかめた。それから身を跼め、しばらく友の横顔を見ていた。又五郎は面を掩ったまま、忿おこっているというよりは虚脱したような調子で続けた。
「あいつはおれの誇りを食い名を食った、おれを世間からぎ、友達からさらった、おれにはもう一滴の血も残ってはいない、骨だけだ、それで、あいつは逃げた」
「たしかなのか、逃げたということは」
「証拠がある、しかし、云えない」
 市蔵は考えるふうだった。しかしすぐに手を伸ばして友の肩を押えた。
「帰って寝るがいい、菅野、あとでゆくよ」
「…………」
「云っておくが絶望するな、そこもとは見た、味わった、経験したんだ、もし立ち直ることができれば、この価値は小さくない、騙すより騙されるほうがましだ、ことにさむらいとしてはだ、……これで済めば安いぞ、菅野、あとで会おう」
 千神市蔵は去っていった。樹立までゆかないうちに、霧が彼の姿を押包んだ。……又五郎は同じ姿勢でながいこと坐っていた。
 日が高くなってから、組町という処にある小さな住居へ、又五郎は帰って来た。その城下では『お小屋』といわれて、ごく軽い身分の侍たちの住む区域だった。部屋の数は三つしかない。十坪の庭まわりに板塀いたべいがあり、屋根は杉皮でいてある。建物は古く、風雨にさらされてしらちゃけ、はしゃいで、木理が彫ったように浮き出ている。侍の住居だということを示すだけのように、下僕の住む小屋が別にあるが、これはひと間ぎりで床も低く、商家などなら薪小屋にも使い兼ねるような粗末なものだ。……食事のしたくをして、とぼんとたばこを喫っていた老下僕の清兵衛せいべえは、主人の帰って来たけはいを聞きつけ、慌てて漂っている煙を手でき消しながら立った。又五郎は刀を右手にさげ、喪心したように部屋へはいって来た。
「飯はいらない」彼は下僕からそむきながら膳部ぜんぶの前に坐った。「酒があったら欲しい」
「みてまいりましょう」
 清兵衛はもう曲りかけた腰を伸ばしながらくりやへ出ていった。又五郎は仰反に身を倒した。


 夜半すぎから眠らずに駈けまわった、その疲れと気力の消耗のためだろう、冷のまま湯呑茶碗で三杯ばかりあおると、頭がくらくらして飲めなくなった。彼は立って、隣りの六じょうへはいった。調度らしい物のなにもない、がらんとした部屋の中に、そらぞらしいほど明るく爽やかな朝の日光がさしこんでいた。渋色になった古畳の上に団扇うちわが一つ、せた水色の腰紐がひとすじ落ちている。去っていった女のあわただしい立ちざまを示すかのようだ。彼は手枕をして横になり、眼をつむった。
 女を知ったのは二年まえである。名はしほといった。かたちばかりに切花を売っているので『花屋』といわれるが、じっさいは酒と女を置き、小部屋あそびをさせる、しほはそういう家の女だった。おと年の夏、五人ばかりで舟を雇い、川狩りをした帰りに、舟で飲んだ酒の余勢でその家にあがった。彼には初めての経験だった。しほが眼ざとくそれを察して、自分から彼の側に来て坐った。
 小さなうす暗い部屋へつれてゆかれ、二人きりで酒の膳を前にした、彼は酔っていた。女の眼がしきりに唆るような動きかたをした。
「あなたもやっぱりおんなじ男ね」女は彼の手から身をすりぬけながら云った。「なぐさみものとしてしか女をごらんになることはできないんですか」
「おれはそんな人間じゃない」
「それもおんなじだわ、男ってみんなそう云うのよ、はじめのうちだけね」
「おれにはわからない、どうすればいいんだ」
「あたしを迷わせてちょうだい、あなたも迷ってちょうだい、それまでは、いや」
 彼は明くる夜ひとりでその家へいった。それから繁しげ通いだした、女は色いろな面を見せた。茶をてたり、花を活けたり、泥のように酔っているとも思えない狂態を示したりした、だがからだはゆるさなかった。ひきつけるだけひきつけておいて、とつぜん笑いだしたり、石のように冷酷になったりした。古風なてくだであったが、女はあとで告白した――本気になってはいけないと思って、もがけるだけもがいてみたのよ。
 契ってからさらに深くなった。男も女も不義理がかさんだ、きまりきったなりゆきである。彼は二百五十石の納戸役だったが、御用の金に手をつけたのが知れて、おもて沙汰になろうとした。そのとき千神市蔵が金を出してもみ消してくれたが、しかし役目は解かれた。……役の手当が無くなり、融通が止った。扶持米ふちまいをかたの借金の質ぐさもながくは続かない、物を売りだした。女も無理を重ね、二人ともゆき詰った。どん詰りになって、女は彼の家へ逃げ込んだ。女の家から人が来た。彼は酔って応対した、彼らは二人から絞れるだけ絞ったはずだ、自分はしほを正妻として迎えたのである。菅野又五郎の妻に対して指一本でも触れたら、……その挨拶はもう市井無頼の徒と差別がなかった、それから小粒を一つ投げだしてこう云った。
「おまえもむだ足ではつまるまい、まあ帰りに一杯やってゆくがいい」
 女の家からはもうなんとも云って来なかった、だが仕返しの手は別のほうに伸びた。彼は支配役に呼びつけられ、家禄かろく屋敷召上げという達しを受けた。格別のお慈悲をもって小屋を賜わり、捨て扶持二十石を下さる、向後は身を慎むようにということだった。預かっていた三人の足軽も返し、めぼしい家財を売って、お小屋へ移った。ついて来たのは老下僕の清兵衛ひとりだった。
「これで世間に気兼ねがなくなった」彼はさばさばしたというふうに笑った。「竹の柱にかやの屋根、恋のゆくさきは昔から定っている、どうなるものでもないかみしもを衣て、さようしからばと非人情な固苦しい暮しをしても一生、好きあった二人が誰に遠慮もなく差向いで、朝酒まろ寝の好きな暮しも一生、どうせ死ぬまでの一生だ、生きられるかぎり人間らしく生きようじゃないか」
 情事は互いが零落するほど刺戟しげきが強くなる。それを唆るものは酒だ、二人は絶えず飲んだ。女は境遇に教えられて、快楽が適度に制限されなければならないことを知っていた、それが倦怠けんたい弛緩しかんから二人を守った。……もちろん生活は詰るばかりだった。菅野家重代のものだという漢鏡だけ残して、恥かしいような物まで売った、女はとうに裸になっていた。
 千神市蔵がとつぜん訪ねて来た。女と別れること、生活をたて直すこと、飾らない言葉でずばずば意見をした。
「やるだけやったではないか、しかしもうたくさんだ、どんなことにも切というものがある、もう切をつけなくてはいけない」
「冗談じゃない」又五郎は笑った。「おれたちの生活は始ったばかりだ、もちろん形式と体面だけで生きている貴公たちには、人間らしい生きかたはわからないだろう、黴臭い役部屋や、裃や大小を命の綱にしている貴公たちには……」


「そうだ、おれにはわからない」市蔵はしずかにこう云った。「生活というものはなにかを生みだすものだと信じている、そこもとたちの暮しは生活とはいえない、これは耽溺たんできだ、なにものをも生まず、働かず、快楽に溺れて恥じないのは禽獣きんじゅうに等しい」
 隣りには女がいた。市蔵の声には遠慮がない、聞えていることはたしかだ、又五郎は泣くような声ではたし合いを要求した。
 ――そして女は逃げた。又五郎はいま白じらとした気持でそう考える。救いようのない貧窮、安逸と懶惰らんだに馴れた女にはそれだけでも耐えきれなかったろう、はたし合いが事実になれば、結果のいかんにかかわらず係り合はまぬかれない、逃げるのは当然だ。
 二年間を回想して、彼はいま索漠たる虚無の感に圧倒される、それは深酒のあとの精神衰弱に似ている、ちからのない絶望感と、疲労と、自己厭悪えんお、忿りも悲しみもない、それがむしろ彼をおどろかせる。……さしこんでいた日光が窓の外へ去り、涼風が立った、彼はおもくるしい不健康な眠りにおちていった。
 午後になって千神市蔵が訪ねて来た。半刻ほど話して去ったが、その僅かな時間が二年間の友情の空白をうずめた、女のことには一言も触れなかった、はたし合いのことなどはまるで無かったような感じだった。
「久しぶりでいちどゆっくり飲もう」
 帰るとき市蔵はそう云った。中二日おいて、松尾まつおという老女と弥生やよいという妹をれて市蔵が来た。酒やさかなの材料や道具などが運ばれて、松尾と弥生が厨におりた。そのうち旧友たちが五人やって来た、むろん市蔵の計らいである、みんなきのう別れたばかりのように隔てのない、うちとけた態度だった。宴が終ってから、市蔵はしばらく老女を置いてゆこうと云った。
「まるでおんな手がないのも不自由だ、松尾ならそこもとも古くから知っている、遠慮はいらないから使ってくれ、本人も承知だ」
 辞退したが、結局は好意を受けた。松尾は弥生の乳母で、そのまま現在まで千神家に仕えてきた女である、明るいてきぱきした気質で、少しうるさいほど起ち居がまめだった。
 これはいい意味の目付だ、又五郎がそう気づいたときには、すでに新しい明けれが動きだしていた。朝起きると、枕元には衣服と袴が置いてあった、ずいぶん袴など着けたことがない、したがってきちんと穿いた気持は清すがしかった。三日にいちどずつ松尾が剃刀かみそりを取って月代さかやきをあたってくれた、肌衣は毎日とり替えられた、狭い家の中は掃除がゆき届いて、香が※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)かれたり、床に花が活けられたりした。……朝酒のながい習慣も、松尾には云いだしにくかったし、ときたま眼をかすめるようにして飲んでも、おちつかないし、相手なしではうまくなかった。
 百日ほど経った。彼は肥えて、血色がよくなった。このあいだに旧友たちは代る代る訪ねて来たし、彼を招いて幾たびも会食の席が設けられた、それから千神市蔵が講尚館道場へ伴れだして竹刀しないを握らせた。
「ふしぎなほど鈍っていないね」彼がひと汗かいて道具をぬいだとき、眺めていた市蔵が笑いながらこう云った。「さっき面から胴へ切り返したさばきなんか堂々たるものじゃないか、これなら春の総試合には出るんだな」
「冗談じゃない、まるっきりみえないよ」
「ひとつ叩かれてみよう」
 市蔵は立って道具を着けた。三本たちあって二本とられた、しかし又五郎の取った一本はたしかなものだった、それが彼に云いようのないよろこびと自信を与え、ほとんど涙ぐんだ。
 年が改まった、ひなの宵節句に、彼は千神家へ招かれた、客は彼ひとりだった。母堂や二人の妹たちが心をこめて接待してくれた。そのあと、差向いで酒を飲みながら、市蔵がしずかに彼の眼を見、さりげない調子で女のことを訊いた。彼はごくしぜんに苦笑した、ごくしぜんに……。
「だが、それはたしかなのか」
「たしかだ、あれは機会を待っていたんだ、うちに重代の古鏡があった、売り食いも底をつきかけたとき、道具屋が二十金で買おうとせびった漢代の珍しい品だそうだ。重代の家宝というのでつい売りそびれていたが、あれはそいつを持って逃げた、おかげで支払いも済んだことになる」
「気持にもあとくされはないか、もういちど逢うようなことがあっても……」
「灰には火はつくまい、きれいに燃えきった」
「けっこうだ、そこで相談がある」市蔵は盃を置いた。「そうはっきりしたら勤めに出ないか、おれの役所で書役に空席がある、どうだ」
「承認されるだろうか」
「風当りは強いだろう、だがいずれにしてもあがない無しというわけにはいかない、問題はそこもとの辛抱いかんにある」
 又五郎は少し考えさせてくれと答えた。


 それから一年のち、又五郎は勘定役所での恪勤かっきんを認められて元締方の量目預かりにあげられ、その役を三年勤めた。仕事は年貢や運上収納の監察が主で、事務そのものも微妙だし、納税者との関係もむつかしいことが多かった。ことに大きな地主や富商たちとは伝統的なくされ縁がある、彼はきわめて巧みに、彼らと自分とを不即不離の状態に置いた、関係を断ちもしなかったし、情実にまきこまれもしなかった。それだけのことでさえ、一般の納税者には『公平』という印象を与えたのだろう、彼の評判はよく、収納の成績はあがった。
 三十一歳になったとき、又五郎は二百五十石の元高と家格を復活され、勝手方元締りにかれて、新たに屋敷をもらった。……これは例のまれな出頭だった。かつての情事のゆえに、零落のゆえに、そしてそこから立ち直ってきた勇気のゆえに、人びとの彼に対する信頼は深かった。彼はそれを知っていた、もはや酒は飲まなかった。おおやけの宴席でも、初めの一杯をあけるとさかずきを伏せた、どんな重役とのつきあいにも茶屋でいりは避けた。そして屋敷へ帰ると、ひそかに貯蓄の計算をした。
 勝手方元締りを命ぜられて二年、三十三歳になったときである。彼は市蔵を訪ねて「ちょっとつきあってもらいたい」と云い出した、そしてまっすぐに将監台へいった。早春のことで、樹立はまだ裸だし、草地も荒涼と枯れていた、又五郎は友とその草地の上へ来て立った。……彼はしずかにあたりを見まわし、それから市蔵の眼を見た、市蔵はうなずいた。それは「なにも云うな、わかっている」という表情だった。
「そうだ、云うことはない」又五郎は頭を垂れた。
「そこもとのしてくれたことを、言葉で表現することはできない、ひとりの人間が、世間的にも自分のなかでも、あれほど落魄らくはくし堕落しながら、そこから立ち直るなどということは奇蹟きせきに近い、しかしおれはこう思う、おれの落ちこんでいたあのような状態のなかで、『ともだちだから』というひと言を聞くことができたら、どんな人間でも立ち直るちからを与えられるだろう」
「その関係は相対的なものだ、そこもとはおぼれかけ、おれは陸の上にいた、おれには浅瀬が見えていた、それだけのことだ」
 又五郎は黙ってふところから袱紗包ふくさづつみをとりだし、友の手へ渡しながら「納戸役のとき不始末を救ってもらった金だ」と云った、市蔵はなにも云わずに受取ってふところに入れた。
「おれはふしぎに思う」将監台から伴れだって去りながら、又五郎は述懐するようにこう云った。「人間を慰め、ちからづけ、世の中を美しく楽しくしてくれるものは、女性と、酒だ、どちらも人間生活を豊かに、生き甲斐がいあるものにするためには欠かすことができない、それにもかかわらず、その二つのものが時に人間を堕落させ破滅させるのはなぜだろう」
 市蔵はなにも云わなかった、又五郎もあとは続けなかった。
 その年の秋に彼は結婚した。相手は槍刀奉行のむすめで、いちど他へ嫁して不縁になった女だった。彼にとって、結婚はすでに事務の一つだった。家には妻がなければならない、家政を任せ子を生ませるために、情熱や理想や夢は遠く去っていた。祝言のとき、彼は精しい計算書を作って、費用はすべてを妻の実家と折半にした、義父は渋い顔をして割前を払ったが、婿がそれほど『しまつ屋』になったことを誇り、それを吹聴した。
 五年のあいだに子供が三人生まれた、みんな男だった。良人おっとから愛されていないことを知っていた妻は、初めて主婦の位置と権利を握り、そして肥って、子供たちを溺愛した。なぜなら、良人は将来のためにそれ以上子を生むことを欲せず、彼女を近づけなくなったから、そのためにちょっとした問答があった。
「そういうことは不しぜんではないでしょうか」
「それが人間生活だ、しぜんのままに従うのは禽獣草魚だけだ。田や畑は、しぜんに任せると役にも立たない雑草に掩われてしまう。人間は撰択し、刈り、抜き、制限する。これは反自然だが、人間を利益し進歩させる」
「わたしには理屈はわかりません、けれどわたくしたちほどの身分なら、もう二人や三人は育てるのが普通だと思います」
「おまえは計算を忘れている、長男は家を継ぐが、二男以下は養子にゆくか、部屋住で一生を終らなければならない、それは当人の不幸ばかりでなく、世間の無要な負担になる、武家で家を分けるだけの蓄財なしに子を生むのは不徳義だ、いちどよく計算をしてみるがいい」
 妻は三人の子供たちを溺愛することで不満を柔らげ、同時に自分を保証しようとした。
 彼はこのあいだ郡目付を二年やり、勘定奉行所の役所取締りに出世した。千神市蔵が勘定奉行になった跡を襲ったのである。食禄は三百二十石になり、足軽も七人預かっていた。そしてそこで三年勤めてから、こんどは用人格にあげられ、役料百石を加えられて江戸詰を命ぜられた。……これも異数の出頭である、そのとき彼はひげを立てようと決心した。


 風が渡ると葦たちは波をうって光りながら揺れそよいだ。
 かつては淀みの岸に沿って、まばらに弱よわしい茎を伸ばしていたのが、拡げるだけ根を拡げ、すでに淀みの半ば以上を掩いつくしている。またそこには幅六尺ばかりの水路が縦横に切拓きりひらいており、秋から冬にかけて葦刈りや鴨猟かもりょうの舟が往来した。……端から絶えずはらはらと崩れていた岸は、そのためにずっと後退し、なぞえに低くなった。巨きな椎の樹は一本だけ残して伐られ、篠竹や灌木の茂みは畑になっている、したがって今はみぎわも明るく、陰鬱な眺はみられなくなった。
 夏にはまれな淋雨があがって、空いっぱい眼にしみるほど鮮かな碧色に晴れた朝、ひとりの老人が釣竿と魚籠びくをさげてこのみぎわに現われた、菅野又五郎であった。生麻の帷子の着ながしで、脇差だけ差した腰に、高価な莨入たばこいれが揺れていた。見たところ彼はすべてに満足した隠居というふうだ。過去に良心のとがめもなく、現実に不安もない、道徳も秩序も彼を護ってくれるし、世間はその功績と権威を認め、尊敬をはらっている。たしかに、彼は満足した老人であった。だがすべてに満足しているわけではない。口髭は白いが髪毛はまだ黒くてたっぷりある、顔色もつやつやしているし、固肥りの体は弾力と精気に満ちている。彼はその年の春に御用頭を辞し、家を長男に譲って隠退した、しかしそれは国家老の席を獲るための予備手段であった。隠退すれば多年の功労によって年寄役に任ぜられる、それは国家老格で藩政の監察官に当る。彼だけの経験と才能を活かせば、そこから国家老の席へ手を伸ばすことは困難ではない、……彼にはもっともそぐわない魚釣りなどを始めたのも、世俗の野心を棄てたとみせる姿勢にすぎなかった。
 彼はみぎわに腰をおろし、釣竿を垂れた。岸は北へ向いているし、椎の樹の影がおちるので涼しかった、風もよくとおり、葦がさやさやと揺れわたった。
 やがて煙草が喫いたくなって、持っていた竿を土に突き刺そうとした。そこは柔らかい粘土質で葦の根が張っているだけだ。突き刺した竿は反抗を受けた、しかし葦の根ではない、空洞を打つような手ごたえである。彼はこころみに竿の根元で土を掘ってみた、するとさしわたし五寸ばかりの、円い筐のような物が出てきた。……ぜんたいにもろくなり、朽ちかけている、だが昔は螺鈿らでんづくりであったらしく、処どころ青貝が剥げ残っているし、腐って見るかげもないが打紐の切端もある。彼は興味を唆られた、釣竿を別の処へ突き刺し、坐り直して、半ば欠け毀れている蓋を取った。中には一通の封書がはいっていた。……彼はしばらく考えた、それが良心に恥じない行為であるかどうか、万一あばかれたとき自分を不利にするおそれはないかどうか、それから安心して、その封書をとりあげた。
 どれほどの年月を経たものだろう、筐が螺鈿であったために、辛くも形が遺っているというだけだ。湿気と、ながい時間の経過とが、それを一枚の板のようにしていた。彼は辛抱づよさと丹念さとで、少しずつ端から剥ぎほぐしていった。それはごく下手な、かな文字で書いた女の文であった。しかしすっかり墨が散っていて、始めのほうはまったく読めない、中ごろから以下もとびとびに、左のような数行の意味を判読できるだけだった。
 ……まる二ねん、七ひゃく余じつ、せけんもひとめもなく、よるもひるもなく、おもうままにちぎり申しそろ(不明)わたくしは身ひとつ、あなたさまはなにもかも、おいえも名も、おみうちも、ご朋友もおすてくだされそろ、あるにかいなき身に、このほうのそらおそろしく、みほとけのおんばちも思われ、冷たき汗に肌をひたし候ことも、しばしばにござそろ(不明)
 ……身もこころも、もえ尽しそろ、世のつねのおんなには、三生にもまさるほど、よろこびもたのしみもあじわい尽しそろ、このうえにいかなる日か候べき(不明)おだまきのひとつわざ繰りかえしても、もはや火は燃え申すまじ、このよろこびのうちに身をはててこそ、恋のすえとぐるみちと存じそろ(不明)
 ……あわれ、このようなる恋の候いしや、このようなる、よろこばしき死の、候いしや、七生を地獄にけし身の、来世の願いはなし、かたみにはご家宝の、……
 彼はとつぜん顔をあげた、釣竿のさきの鈴がリリリと鳴りだしたから。浮子うきが水面を走り、竿がたわんだ、彼は手紙を投げて竿を取った。合せると、当りは強かった。精しい技術を知らないので、半ば夢中で立ち、竿を振った。逃れようとする魚のけんめいな運動が、彼の手へひどく直接に響いてくる。糸から竿を伝わるのではなく、手でじかに魚を掴んでいるような感じだった。……淋雨のあとで水嵩が増していた、水も濁っていた。ひき寄せられた魚が、その濁った水の中に姿を見せた。魚は飜転し、頭を振り、尾で水を叩いた、そのときうろこが金色に光った、鯉だ。しかしまったくふいにみち糸が切れ、竿が軽くなった。急に二度ばかり水音をさせ、そして深みへ逃去った。
 彼はしばらく棒立になっていた。それから苦笑しながら、汗を拭いた。釣る気もない竿へそんなおお物のかかったこと、まるで子供のように自分が昂奮こうふんしたこと、どちらも思いがけなく可笑おかしかった。――こんなことが病みつきの元になるのだな、彼はそう思いながら、糸とはりをつけ直し、こんどはかなりいきごんでそこへ坐った。なぜとはなしに、いま逃がしたような魚がもういちどかかりそうに思えたから。……糸を垂れ、ほっと吐息をついた、そこで読みさした手紙のことに気がつき、振返って見た。どこにも見あたらなかった、立ってみた。
「ここへ置いたんだが」こう呟きながら眺めまわした。そしてそれが水の上にあるのをようやく発見した、手紙は水路を流れていた、さっき立つとき落ちたのであろう。彼は竿を伸ばしてみた、もう届かなかったし、それ以上の手段をとるほど興味のあるわけではない、彼は坐った。
「どんな女からどんな男へ宛てたものだろう、遺書のようでもあったが、どうしてこんな処に埋まっていたのか、……女はどうしたか」
 遠い記憶のなかでなにかくすぶるものがあるようだ、しかしそれがなんであるかはわからない、彼は手紙の文字を思いかえした。まったく断片的でとりとめのないものだ、けれどもぜんたいにあふれている恋のよろこび、凱歌がいかにも似た激しい恋のよろこびが、そして文章と字のつたなさが、彼に深い印象を与えた。もちろん、それはそれだけのことである、彼の意識はそんなものの上にながく留ってはいなかった。やがて腰から莨入をぬき、燧袋ひうちをとりだした、彼は国家老就任のときの華やかな祝宴と、その費用を計算しはじめた。
 しきりに風がわたり、葦たちはさやさやと鳴りそよいだ。片向きに波をうって、光りながら、互いになにごとか囁き交わすかのごとく、やみまなくさやさやと揺れそよいだ。





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「週刊朝日」朝日新聞社
   1947(昭和22)年6月22日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年11月27日作成
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