その頃
芭蕉の門に入ったばかりで、貧窮のどん底時代だった、外へ出る着物も夜の
同門の親友、
或時、其角の貧乏を聞かれた井上相模守侯が、
「榎本にも邸へ出入をするよう、言ってみたらどうか」
と嵐雪に相談した。勿論、嵐雪は非常に悦んで、すぐに茅場町へとんで行った。ところが其角は一向に嬉しくなさそうで、
「まあお断りをしよう」
と言う。
「何故だ、こんな貧乏が続いては、ろくな勉強もできぬではないか」
「ばかなことを――、天地自然が金で購えるか、春秋四季変化の妙諦を極めるのに、貧乏で悪い理由はあるまい、それに」
と其角は苦笑しながら、
「私は大名の為に
「――――」
嵐雪もそう言われては致方がないので、侯の邸へ帰ってその通り復命した。井上侯はもとより蕉門の俳諧に通じ、芸道に理解のある人であっただけ、其角の言葉がかちんと
「そうか、大名の為に俳諧はせぬと言ったか――」
と少々不愉快な顔をした。
そんな事があって間もなく、深川松川町の
興行は七つ(午後四時頃)から始まって夜の五つ(午後八時頃)に終り、それから酒が出たので、其角が佐野屋の邸を辞したのはもう四つ(午後十時頃)を過ぎた時分だった。
「
と喜左衛門がすすめるのを断って、
「春寒の夜風で、酔を
そう言って外へ出た。
浅春二月中旬の、どこかうるんだ空に、もうろうと薄月がかかっていたし、川面を吹渡ってくる風も、潮の香を含んで快かった。歩きだしてから
「待て待て、町人待て!」
と声をかけられた。
「何か御用か」
其角も若かったし、未だ酔が充分に廻っているから、弱味を見せまいとして、
「ふふふふ大分強そうな口を利くな、
「文句を吐かせば遠慮なく斬って棄てるぞ、早く裸になれ!」
一人が白刃で其角の頬をぴたぴたと叩く、其角すっかり毒気をぬかれたが、
「冗談おっしゃってはいけません、私は御覧の通りの貧乏俳諧師、逆さにふるったって
「ええ、ぐずぐず申すか!」
気早な一人が、いきなり其角の胸倉を取って、刃をどきどきする
「網にかかった獲物なら、大名乞食の差別はない、尾羽根まで
「お、お待ちください、脱ぎます」
すっかり酔の醒めた其角は、手早く帯を解いて着物を脱いだ。
「何だ、未だ残っているではないか」
「これは
「いかん、そいつも脱げ」
「こんな姿では歩いて家へは帰れません、何とかして頂かなければ困ります」
「よしよし、良い工夫をしてやる」
賊の一人がそう云って向うへ行った。丁度そこへ戻りとみえる
「駕籠屋」
と呼止めた。見ると手に手に白刃を提げた怪しい者達、吃驚して逃げようとするのを、早くも前へ廻って引戻した。
「へえ、どうか生命ばかりは――」
「生命を貰おうと言うのではない、この裸を一人乗せて行くのだ」
「そんな事ならお安い御用で」
「早くしろ」
其角はその駕籠へ乗った。
「どちらまで……」
「黙って
賊が答えた。其角が駕籠の中から、
「茅場町へ帰るのだが」
と言ったが、誰も返辞をしない、駕籠は調子よくあがった。
駕籠は右へ曲ったり左へ折れたりしながら長いこと進んで行った。左右には例の賊がついているらしく、お頭がどうしたとか、昨夜は若い娘の生胆をぬいたとか、今夜の
――これはどうやら賊の家へ連れて行かれるらしいぞ。
と思ったから、折があったら救いを呼ぼうと、外の気配を伺っていると、番所へでも来たらしく、
「これこれ、この夜陰にいずれへ参られる」
「はい、実は急病人でございまして、医者の
其角が伸上って、助けてくれ! と叫ぼうとしたとたん、駕籠の垂の間から、すっと白刃が出て、其角の
こうして、三五度も木戸や番所で咎められながら、遂に救いを呼ぶ機会もなく、やがて一刻あまりも乗り続けた後、駕籠はどしんと荒々しく下へ置かれた。
「出ろ!」
と言う声に、其角が恐る恐る駕籠を出て見ると、
樹立をぬけると立派な玄関構え、そこにも熊の皮の胴巻を着け、山刀をぼっこんだ大男がいて其角を受取った。玄関から廊下へ出て、幾曲りもした後、やがて
上段には面を
「これ、そこの裸の男」
其角が末席に座ると、上段にいる頭領らしい男が声をかけた。
「貴様は幸運な奴じゃな、今宵は
其角は胴顫いの出るのを止めることができなかった。
と――その時、
「ひ――!」
と言う若い女の悲鳴が聞えてきた。すると上段にいる頭領は愉快気に、
「
「はっ」
手下の二人が立って、次の間の襖をさっと左右へ引明けた。其角はひと眼見るよりあっと叫んで眼をつむった。
次の間には大きな炉が切ってあって、火が烈々と燃えている、その火の上へ、天井から鉄の鎖で縛りあげられた半裸体の女が、逆さ
「ひ――!」
喉も裂けよと悲鳴をあげて、白い手足を蛇のようにのたうつ女。烈火の
「はははは、よいざまじゃな」
頭領はあざみ笑いながら盃をあげた。
「裸の男、どうだ、よい心地であろうが、貴様もすぐにあのようにしてやる、ま酒でも参るが宜いぞ」
手下共は女を急きたてて、其角の前へ酒と山海の珍味を並べ、厭がるのを無理強いにぐんぐん呑ませた。
「ところで裸坊主、我らの慈悲として、気に入った芸をして見せる者は、生贄の責を免じてやる定だが、貴様何か芸はできるか」
「はい」
其角は顫えながら、
「私は俳諧師でございますから、俳諧をよむことはできますが、外に芸と申しまして別に何も――」
「俳諧――? 俳諧とは何じゃ」
「深く説明致しますとむつかしゅうございますが、発句の例をとって申しますと、十七字の中へ森羅万象を
「面白い、それをひとつやって見ろ、気に入ったら生贄を免じてやるぞ」
「はい」
其角は
「どうした、
「は、唯今」
苦案に苦案を重ねて一句を得た。
「一句浮びました」
「よしよし、そこで披露してみろ」
其角は厳かに手を膝へ置いて詠んだ。
霜を見る蛙は百舌 の沓手かな
「なる程」
頭領は頷いた。
「百舌の早贄にかかったので、蛙が霜に逢うというのだな、面白い」
と盃をあげたが、
「だが、百舌の早贄などとは、この座に当つけた心持があって不愉快だ、折角だが助けることはできないぞ」
「な、何故でございます」
「何故も風もない、それ、そやつを生贄にかけるのだ」
言下に立上る賊共。
「ま、待ってください」
立上る其角、四五人の荒くれが取って押えると、いきなり頭から黒い布を冠せた。脱れようと必死に争ったが、ずるずると引摺って行かれる其角、かっかと燃える烈火のほてりを感じたまま、遂に気を喪ってしまった。
それから随分ながい刻が経った。夢から醒めるように、其角は自然と目覚めた。
「おや!」
と思って起上ると、自分は茅場町の裏店のひと間に、破笠と並んで寝ている。夜の衾も共同の物だし、着物も佐野屋へ出掛けた時のままである。悪夢か――狐狸に化かされたのか、余りの不思議さに、
「破笠、破笠ちょっと起きてくれ」
と友達を揺り起した。
「おれは全体どうしてここに寝ているのだ」
「何を
破笠は眼をこすりながら、
「ひどく酔って帰ってきて、家の前のところでぶっ倒れたじゃないか」
「何刻頃のことだ」
「大分おそかったぞ、何でも浄願寺の鐘が九つ(十二時頃)を打って暫くしてからだった」
「一人で帰ったのか」
「そうさ」
其角はうーんと唸った。
あの
――分らない。
破笠が
それから三日後のこと、其角は芭蕉の家で偶然四五人の客と同座した。
すると未知の客の一人が、
「こういうのを一句、最近得たのですが」
と言って筆紙を取り、すらすらと一句認めて芭蕉に差出した。芭蕉は暫く口の内にその句を誦していたが、
「どうだ」
と言って其角に渡した。
「拝見致します」
其角は膝を正して受けた。見ると意外!
「あ! これは」
と見上げると、相手は微笑しながら、
「名乗り申そうか、拙者は井上相模守」
「や」
振返ると芭蕉も顔をほころばせている。相模守はにこにこしながら、
「大名の為には俳諧をせぬという尊公に是非一句
「ではあの山賊の頭領が――?」
「いや!」
侯は頭を振って、
「拙者は手下の賊で、尊公に酒を呑ませた方だ、ここにいる三人は、尊公を生贄にしようと手籠にした賊じゃ」
「はははは、ま許せ!」
三人も高く笑った。其角は膝をすすめて、
「ではあの、上段にいた方は?」
「他言無用だぞ」
相模守は声をひそめた。
「当上様だ」
「え? 将軍家」
其角は
将軍家綱が、戯れに催した『百鬼夜行』の酒宴は有名である。其角の導かれたのはその内の『山賊』の催しであったらしい。市中から有ゆる芸人を誘拐し、それぞれ懸命の芸をさせて楽んだものである。井上相模はそれを良い機会に、若い其角を一ぱいはめたのであった。