おばな沢

山本周五郎





 節子が戸田英之助と内祝言のさかずきをとり交したのは、四月中旬の雨の降る日であった。
 縁談のきまったのは去年の十月で、今年の三月には結婚する筈であったが、正月になって節子が風邪をひき、それがなかなかはっきりしないと思ううちに、午後から時間をきって熱があがるとか、かるいせきが出たり、胸がいやなぐあいに痛いとか、また肩がひどく凝って、からだがぬけるようにだるいとかいったふうに、だんだん調子が悪くなるばかりだった。
 そこで御城詰めの和田玄弘という医者に診察してもらったところ、これは労症にちがいないということで、にわかに薬も療法も変り、二十日ばかりは手洗いに立つことも禁じられた。
 当分は結婚などできまいというので、いちど戸田のほうへ取消しの相談をしたが、英之助は病気のなおるまで待つといって、そのはなしは受けつけなかった。そうしてほどなく、彼は尾花沢の番所支配を命ぜられ、いよいよ出張ということにきまって、内祝言の盃だけでもと熱心に申し出た。
 ――節子も半日くらいは起きていられるようになり、戸田のほうからこちらへ来るということで、その日ごく内輪だけの式が行なわれたのであった。
 英之助は、すぐ出張しなければならないので、盃の済んだあとゆるしを得て、節子の病間へゆき、そこでしばらく話をした。
「この部屋を見るのは初めてだな、ここで寝ていらっしゃるんですね」
 彼はなつかしそうな眼で、幾たびも部屋の中を眺めまわした。そこは彬斎さんさいといった祖父が老後に使っていた部屋で、風とおしがいいのと日がよく当るのとで、医者がすすめて病間にしたものである。
 障子の外は濡縁になっており、向うは卯木うのきの生垣をまわして、広庭と仕切りができている。ちょうどその生垣の卯花がさかりで、まだ小さい若葉の緑とまっ白な花とが、雨に濡れてひときわ鮮やかに見えた。
相良さがらがいつかあなたに申し込んだことがあるそうですね」
 話の合間に、彼はとつぜんこう問いかけた。
「御両親は承知なさろうとしたのに、あなたがいやでお断わりになった。そういうことを聞いたんですが、本当ですか」
「――さあ、そんなこともあったようですけれど」
 節子は、とまどいをしたように眼を伏せた。
「――わたくしもう、よくおぼえておりませんですわ」
 相良とのいきさつは、彼は知っている筈である。現にいちど彼はそういう意味のことを云ったことがあった。今になってどうしてきゅうにそんなことをきくのだろうか、――節子のほうから逆にそう反問したいくらいだったが、英之助はそのまま話を変えた。
「こうして見ると顔色もいいし、病気をしているようには思えませんね。しかし疲れていらっしゃるなら横になって下さい」
「いいえ、わたくし大丈夫でございます」
「そりゃあ大丈夫ですとも、これは催促病気というくらいで、あなたぐらいの年頃にはよく出るんです。あせらずに気をゆったりもって、できるだけわがまま勝手にしていればなおるものなんです。心配することなんかないですよ」
「――催促病気とはなんでございますの」
「いや、それはそのうちにわかりますよ」
 彼はこう云って、少年のように明るく、八重歯の出る邪気のない顔で笑った。


 尾花沢へいった英之助は、十日にいちどくらいのわりで手紙をよこした。神経のこまかくゆきとどいた、愛情のあふれるような手紙で、節子は初めそらぞらしいような気持さえした。
 しかし三通となり五通となるにしたがって、意も情もつくした巧みな書きぶりと、いちずな愛の訴えにひきいれられ、こんどは反対に手紙の来るのを待つようになった。
 尾花沢からは定期的に城へ連絡があるらしい。英之助の手紙は、そのとき使いの者が届けるので、ときには山の珍しい花なども添えてよこした。
「むかしから、戸田にはそういうところがあった、少しいやみだね」
 兄の泰馬が、いちどその花を見てこう云った。そばにいた母が不審そうに、いつものおっとりした口ぶりで、
「いやみなことはありませんよ、節子はまだ病人で寝たり起きたりしているんですもの、戸田さんがおみまいに花を下さるのはあたりまえじゃないの」
「それにはそれでやりかたがあるんですよ、しかし、……まあいいでしょう」
「お兄さまのおっしゃりたいことは、節子にはよくわかっていますわ」
 節子はわきを見ながら云った。
「――お兄さまはこの花の贈りぬしがお気にいらないのよ、これが戸田さまでなく、べつの方ならそんなふうには仰しゃらないでしょう」
 泰馬はこっちを見た。へんにむきな眼つきであったが、そのまま気を悪くしたように立っていった。暢気のんきな母はかくべつなにも感じないらしかった、けれども節子は神経がいらいらし、自分の顔が硬ばってくるのが自分でわかった。
 兄は英之助を嫌っていた。節子はそう思っていなかったが、戸田との縁談がきまってから、そのことがはっきりしだした。
 兄は相良桂一郎が好きだったのである。節子が相良の求婚を断わり、戸田と結婚することに不満なのだ。口にだしては云わないが、このごろのそぶりにはよくそれがあらわれていた。
「尾花沢ではなにがありますの、お母さま」
「――なにがって、なあに」
「だって、これまであそこには三人か五人、足軽くらいの人がいるだけだったのでしょう、それなのに番所を建て増したり、御弓組を二十人もつれて戸田さまがいらしったり、まるでなにか騒動でもあったようじゃございませんの」
「母さんはなんにも聞いていないけど、あなたどうしてそんなこと知っていらっしゃるの」
「お手紙に書いてありましたのよ、お父さまからお聞きになって御存じかと思っていましたわ、そうじゃございませんでしたの」
「いいえ、母さんは知らないことよ」
「まあ困った、どうしましょう」
 節子は当惑げに肩をすくめた。
「お手紙には決してひとに話してはいけない、たいへんな秘密な事なのだからと書いてございましたの、お母さま御存じでなければお聞きするんではございませんでしたのに、どうぞないしょにして下さいましね、お母さま」
「母さんは云やあしませんよ、そんなこと、それよりこのお花どうなさる、根があるからお庭へ植えましょうか」
 母は気にするようすもなく、安穏あんのんな顔つきで立っていった。
 節子は独りになってから、英之助の手紙をとり出して読みなおしてみた。七通あるうちの四通めから、尾花沢の生活ぶりが少しずつ書いてある。ごく断片的で、どことなくぼかしたような筆つきであるが、彼が二十人の弓組を支配していること、増築した番所がほんの仮小屋で、冬になったらさぞ寒いだろうということ、勤務というほどのものはないが、絶えず危険に備えていなければならないことなど、そうしてこれらの事は決してひとに話さないようにと、くどく念が押してあった。
 父の三郎左衛門は筆頭年寄役だし、兄は奉行職寄合所の考査役だから、藩の重要な事は知っていなければならない。
 もちろん知っていても家庭などでそんな話をするわけはないが、出入りの人も多いし言葉の端はしや動静で、どうしたってわからずにはいないものだ。――
 それが尾花沢については、英之助が支配になってゆくまでわからず、彼が出張して八十日ちかく経っているのに、なにひとつ知ることができないのである。
 尾花沢は大仏山のけわしいみねつづきで、隣藩との境界に当り、古くから番所があった。節子が幼いころ聞かされた話によると、そこには奥の知れぬ深い峡谷や、野獣のんでいる原始林などがあり、またその峡谷の一部にはふしぎな土民がいて、これまでどの領主にも従わず、世間へも出ずに生活している。そういう伝奇的な感じのつよいものであった。
 ――そんなような処で、いったいなにが起っているのだろうか、絶えず危険に備えているとはどんな意味なのだろうか。
 事情がてんでわからないと、手紙の書きぶりが不吉なことを暗示するようで、節子はだんだんと不安なおちつかない気持になっていった。


 七月の下旬、季節はもう秋にはいったわけだが、その年はじめてという暑い日の午後、英之助がまえぶれもなく訪ねて来た。
 彼は日にやけて、かなり肥えていた。頬や肩などにこりこりと肉が附いて、全身に活気が充満しているようにみえた。休暇を三日もらったのだそうで、その日はすぐ帰り、翌日とその次の日と続けて来た。
 節子は手紙のことを聞きたかったが、彼はさりげなく躯をかわして、もっぱら山の風物やそこの生活ぶりを話すばかりだった。
「その森のすごいことときたら、ひのきや杉なんぞの千年も経ったかと思うやつが、幹や枝をびっしり重ねて繁っていて、その中にしぜんと枯れたのや落雷で裂けたのが、白くさらされて、まるで巨人の骸骨かなんぞのように、こう、しんと立っているんです、まるで神代の眺めといった感じですね」
「そういうところに棲んでいるのではございませんの、あの古くからいる、土民とかいう人たちは」
 節子がこう聞くと、英之助は警戒するように顔をひきしめた。うっかりしたことは云えないという眼つきで、言葉をぼかした。
「それはわからないんですよ、その森から峡谷の奥へかけて、どこかにいるらしいんだが、その場所はどうしてもみつからない、尾花沢の口のところに樵夫きこりの部落がありましてね、小屋が七、八戸あるだけの小さな部落なんだが、なかには数代もまえから、そこで暮している者もあるんですが、かれらもその土民たちがどこに棲んでいるか、まだ見たことがないそうです」
「――その人たち、なにか悪いことでも致しますの」
「さあ、悪いことと云って、そうですね、……まあとにかく御領内にいて法令に従わないだけでも、罪は罪でしょうからね」
 英之助は、そこでまた巧みに話をそらした。結局はっきりしたことはわからずじまいであったが、いずれにせよ、その土民たちに関係があることはたしかだと思えた。三日目のれがた、帰るときになって、彼はたもとから紙に包んだ金をとり出して節子に渡した。
「こんどの出張で、特にこれだけお手許てもとからさがったんです、ほかの者には知れぬようにということですから、どなたにもないしょで預っておいて下さい」
「でもそれは、お家のほうへお預けなさるのが本当ではございませんの」
「いやあなたに持っていて頂きたいんです、今後もときどきさがるらしい話しでしてね、実を云うと母には浪費癖があるんですよ」
 英之助はあまえるように眼で笑った。
「――いつかあなたが戸田へ来て下さるときまで、あなたの手で預っておいて貰いたいんです。またさがったら持って来ますから、しかし誰にも話さないように願います」
 節子はその二十五金の包みを、自分の用箪笥ようだんすの中へしまった。
 英之助が尾花沢へ去ってから、節子は預った金にふとこだわりを感じた。彼には母親と十七歳になる昌次郎という弟がいる。戸田は物頭格で食禄しょくろくも多くはない。彼は節子との結婚で、その点をかなり気にしている。節子がぜいたくにそだったからというのではなく、節子を愛するために貧乏をさせたくないというのである。
 この金を預けたのもそういう気持から出たことであろう、同時にそれで自分の誠意を示し、節子の心を絶えず自分につないでおこうという、彼らしい弱気な考えの含まれていることも、これまでの経験で節子にはよくわかった。
 ――もしこんなことがわかったら、戸田のお母さまは不愉快になるに違いない、こんど来たらよく話し合って、あちらへ預けるようにして貰おう。
 内祝言の盃をしたとき、節子は彼の母親に会っている。色の浅黒い小柄なひとで、ちょっと片意地らしい眼をしていたが、身分の差ということが気になるとみえ、必要以上に卑下した態度で、しきりに座のとりもちをした。……そのとき節子は、英之助にも同じような性質のあることを感じて、欝陶しく胸のふさがるのを覚えたのであるが。
 いまその人を思い、その人に秘密を持つことを考えると、どうにも気持がおちつかなかったのである。


 病気のほうは四月から順調であったが、八月になってまもなく、午睡ひるねをしたときちょっと風邪をひいたのがたたって、また熱が高くなり、胸の痛みと食欲不進と、全身のぬけるようなけだるさがぶり返した。
「気候の変りめということもあるには違いないが、それよりも病気に対する油断でしょうな、この病気ばかりは医者や薬より、まず本人とまわりの者の用心が大切です」
 和田玄弘はこう云って、当分はまた安静に寝ていることを命じた。
 兄の泰馬は怖い顔で、枕許へ来てながいこと小言を云った。妹に向うと特にそうであるが、愛情やいたわりをやさしい言葉で表わせない、わざと怒ったりふきげんになるのが、いつもの兄の癖であった。
「仮の盃にしても、あんな祝言などをするのがまちがっていたんだ、二、三年はむりだと医者がはっきり云っていたじゃないか」
「――だって、お兄さまだって強いて反対はなさらなかったわ」
「おれが反対したところで、悪くとられるにきまっているさ。おれがなにか云えば、お母さまもおまえも、すぐ相良をひきあいに出すんだ」
「――でも本当にそうなのですもの、お兄さまは今だって節子を相良さまへお遣りになりたいのでしょ」
「そんなことを云ってるんじゃない、もっと病気に対して本気になれというんだ、これは胃が悪いとか頭痛がするなぞという簡単なものじゃないんだぞ」
「――おおげさに仰しゃるのね」
 節子はむきになった兄をなだめるように、手を伸ばしてはかまに附いている糸屑いとくずを取ってやりながら云った。
「――そんなに心配することはないですってよ、世間では催促病気というくらいで、我儘わがままにじっとしていればすぐなおると云ってましたわ」
「誰だそんな卑しいことを云ったのは」
 泰馬は眼をとがらせた。
「――卑しいって、なにが卑しいんですの」
「いま云ったなになに病気とかいうやつさ、そんな品の下ったことを云うとわらわれるぞ、おまえは案外なばかだ」
 節子はむっとした。なぜそれが品の下った卑しいことなのか、意味を知らない彼女には兄の云いかたのほうが不愉快で、
「――もうようございます、お兄さまの気持はよくわかっていますわ、戸田へお嫁にゆくときまってから、節子はばかなんですから」
「まったくだ、おまえは底が抜けてるよ」
 泰馬は憎らしそうに云って立っていった。
 ――どうしてあんなに、戸田をお嫌いなさるのかしら、そんなにも相良さまがお好きなのかしら、自分が結婚するわけでもないのに、もうさっぱりして下すってもいいころだわ。
 節子も昂奮して、暫く心がおちつかなかった。
 兄が英之助を嫌いだしたのは、節子との縁談がきまる前後からのことで、そのまえにはそんなことはなかった。もともと兄と戸田と相良とは藩の学寮からの友達で、少年じぶんから親しく往来し、かれら二人が訪ねて来ない日はないくらいだった。
 節子もその仲間にはいって、家で遊んだり、野山や川へれていって貰ったりしたものだが、その当時から相良よりも戸田のほうが好きであった。
 相良の家は代々の大寄合で、桂一郎は少年時代から「長方形」といわれる長い角ばった顔つきをしていた。
 ――相良さんはいつでも半分怒っている。
 節子は幼いころそう云って、父母や兄から適評だと笑われたものであるが、たいてい可笑おかしいことがあっても、桂一郎は歯をみせて笑ったためしがない、口を一文字にして気にいらないのをがまんしているといったふうな、なにかしらしんのある顔つきをしていた。
 一昨年の九月の十五夜は、泰馬が家で、月見の宴を催した。兄の役所の者や友人たちが集まり、かなり騒々しい酒宴になった。節子はようすをみはからって、いいころに自分の部屋へ退却したが、そのあとを追うように、泥酔した英之助がよろけ込んで来た。
 ――助けて下さい、死にそうです。
 彼はこう云ってそこへ倒れ、頭をぐらぐらさせながら苦しそうにあえいだ。節子は水を注いで飲ませ、薬を取りに立とうとした。すると彼は哀願するように、片手をさし伸ばしながらこちらを見た。
 ――いやここにいて下さい。薬なんかいりません、少しこうしていればなおるんです。心ぼそくってしようがないんですから、済みませんが暫く側にいて下さい。
 節子は彼の手を握ってやった。彼は眼をうるませ、いかにも安心したように、大きく深い吐息をついた。
 ――そんなにお苦しくなるまで召上るものではございませんね、少しは加減して召上ればよろしいのに。
 ――そうなんです。よく承知しているんですが、ついやり過して後悔するんです、どうしてこうだらしがないのか、――いつも失敗ばかりして、恥ずかしい思いばかりして、われながらあいそがつきますよ。
 節子は握った手を、そっとでてやった。泣かされて帰った子供が、母のひざで安心してあまえている。そういう感じが節子をとらえ、切ないような気持にさせた。彼は半刻はんときばかりそうしていた、自分の孤独な性分や、母と折合えない淋しさや、生きることがいかに退屈であるか、などということを云い続けた。
 ――ときどきふっと死にたくなる、夜中に起きて刀を抜いて、独りでじっとその刀をみつめるんです、すると光った刀の表面が透けてきて、その中に無限のように深い空間がみえる、……ああ、あなたにわかるでしょうか、人間の生きることが無意味であるように、死ぬことさえも意味がない、ではどうしたらいいか、……云って下さい、こんなとき私はどうしたらいいでしょう。
 自分を救って呉れるものは愛情だけである、お互いの魂のぴったり触れ合った、まじりけのない愛情。それだけはなにものにも破壊されず、死でさえも滅ぼすことができない、自分を支え自分を生かして呉れるのはそういう愛情だけである。
 ――そんなことも云った、全身ですがりつき、身をすり寄せるような、いじらしいともいいたい口ぶりであった。
 相良から縁談が来たのは去年の春のことで、両親も兄もひじょうな乗り気だった。節子は断わった。そうして夏の末に戸田から話があると、形式的に四、五日の余裕をもらったが、実はもうゆく気持になっていた。
 ――戸田の孤独で淋しがりな気性は、自分でなければ理解ができないだろう。
 節子は十五夜の酒宴のときからそう思っていた。彼を支え、彼を励まし、彼を愛情で包み、生きるちからを与えてやるのは、自分をいてほかにはない。そう思っていたのである。兄の泰馬はあたまから反対で、おまえは黒と白の見わけもつかない盲人だ、などという失礼なことまで云った。


 兄は戸田がなぜいけないか、という理由は云わなかった。云う根拠もなかった。友達ならいいが、妹を嫁に遣る人間ではない。そのくらいの考えだったのである。
 その後も英之助はよく来た、節子が承知したことを望外のことのようによろこんでいて、そのよろこびを訴えるようなまなざしで、いつもじっとこちらの顔を見た。
 ――相良に気がとがめるようで……。
 英之助はそんなふうにささやいたこともあった。
 兄も彼が来ればかくべつ粗略にするというわけではなく、よく話もするし、食事や酒を出すことも珍しくはなかった。そのくせ彼との結婚問題だけは、今でも気にいらないようすなのである。
 兄と口あらそいをした翌日の朝、節子が朝のかゆをたべ終ったとき英之助が来た。
「また寝ていらっしゃると聞きましてね、城へ来る使いの者に代ってもらって、お顔だけ見にちょっとお寄りしました、すぐ帰ります」
 彼は八重歯ののぞく白い歯をみせて、明るくいっぱいに笑ったが、心配し不安に駆られているようすは隠せなかった。
「きっと不摂生をしたんでしょう、女のひとは神経がこまかいようでいて、自分のことになるとまるで投げやりになるんだから、山にいてもそれだけがいつも心配なんです」
「このまえはそうは仰しゃいませんでしたわ――」
 節子はつい可笑くなって微笑した。
「いやそれはあなたの聞き違いですよ、私はそんなに気にやむ必要はないと云ったので、決して不養生をしていいとは云やあしません、お願いしますよ、どうか気をつけて下さい、さもないと山にいられなくなりますから」
 彼は熱のあるような眼でこちらをみつめ、すり寄って来て手を出した。節子は微笑しながらその手を握った。
「――節子さん」
 低く押えつけたように囁いたと思うと、彼の眼がふいにきらきらと光り、握っている手の指が痙攣けいれんした。一種の本能的な直感で、節子はあっと叫びそうになった。しかしそのまえに英之助が上からかぶさり、片方の肩をつよく抱かれた。
「――堪忍して下さい」
 彼はすぐに離れ、坐りなおして頭を垂れた。眼の中で火花が飛んだような気持だった。節子は掛け夜具を額までひきあげ、そっと自分の唇を拭いた。
「――堪忍して下さい、前後を忘れたのです、日も夜も、眠っていても、いつもあなたのことを思っていました。あなたの御病気が重くなるような気がしてならない、万一のことがありはしないかと、そう思うといても立ってもいられなくなる、毎日そんなふうなんです」
 彼は低い声で、胸苦しそうに囁やいた。
「――だんだん不安になるばかりなんです、節子さん、私たちは本当に結婚することができるでしょうか」
 節子は、掛け夜具の中から云った。
「――そんな心配はなさらないで、……わたくしきっと丈夫になります、でも、こんなことをなすってはいけませんわ」
「――いけませんでした、もう決してしません、あなたが戸田へ来て下さるまでは」
 英之助はこう云って紙の音をさせていたが、つと夜具の下へなにかを押し入れた。
「これだけまた預っておいて下さい。急ぎますからこれで失礼します」
 また金だと思った。話して断わらなければならないと思ったが、どうしても顔を出すことができなかった。――英之助はもういちど挨拶をして立ちかけ、ふと思いだしたように、
「ちょっとお耳にいれておきますが、尾花沢の総支配をしているのは相良です、私は彼の部下というわけなんです、いつか彼のことを聞いたのは、そういう理由があったんですよ」
 節子はなぜともなく、どきっとした。
「しかし相良とはうまくやって来ました、これからもどうやらうまくゆきそうです、どうかお大事に、暇をみてまたお伺いします」
 掛け夜具をかぶったまま挨拶をし、彼の足音が聞えなくなるまでそうしていた。
 その日は一日じゅう唇が気になった。いくら拭いてもそこが濡れているようで、別に汚いという感じではなく、ただきみが悪くてしかたがなかった。だがそれより気になったのは、相良が尾花沢の総支配だということである。そんなこともあるまいが、いわば二人は恋がたきで、感情のもつれや疎隔はまぬかれないであろう、ことに場所がそんな場所だから、どんな機会にまちがいが起るかもしれない。
 ――相良という人はそんな人ではない、そんなことを根にもって相手をおとしいれるような、めめしい人では決してない。
 節子は自分でこう慰めながら、それでも数日はともすると不安におそわれ、躯の調子もずっといけなかった。


 兄が横目附になったのは十月で、それを機会にかねて婚約ちゅうの人と結婚をし、にわかに家の中がにぎやかになった。向うは次席家老の茶谷忠右衛門という人の二女で、名を宇知といい年は節子より二つ下の十七だった。大柄なふっくらした躯つきで、年を聞かなければ十九か二十くらいにみえる。気性も明るく、一日じゅうどこかで笑いごえが聞えるというふうだった。
 そういうごたごたが影響したものか、節子はその月末に血を吐き、十日あまり口もきけないほど病気が悪化した。
「どなたにも仰しゃらないでね、お母さま、またあの方に聞えると、むりをしておみまいにいらっしゃるから、お願いよ、お母さま」
 節子は高い熱のなかで繰り返した。
「誰にも云うもんですか、わかってますよ、云う筈がないじゃないの」
 母はこう約束した。もちろん他人に話すわけはないのだが、このあいだに英之助は二度もみまいに来たのである。親たちが会わせもせず、そう告げもしなかったので、節子はまるで知らなかった。
 十二月のはじめ、すっかり熱がさがって、気分もよくなったとき、訪ねて来た英之助に会い、彼の話でそのことがわかったのである。
 医者の注意で、面会は三十分と限られていたから、二人で話したのはほんの短い時間にすぎなかった。
「相良さまとは故障はございませんの」
 節子は、まずいちばん気になることを聞いた。
「ええ、まあまあ、なんとかやってますよ」
「なにかいやなことがあったのではございませんの」
「あなたは病気をなおすことだけ考えて下さい、私の問題は私がやります、そんな心配は決してしないで下さい」
 彼は涙ぐむような眼でこう云った。節子は彼のようすが違っているのを見た、いくらかせたようだし、顔色もえない。山でなにかあったに相違ないと思い、節子はかなりきつい調子で、いったい、尾花沢でなにが行なわれているのか、危険とはどんな種類のものかということをきいた。
「どうぞ本当のことを聞かせて下さいまし、なにも知らずに心配するよりは、知っていてがまんするほうが気持が楽ですわ、そうでないとわたくしもう、不安で不安で……」
「よろしい話しましょう、これは藩の厳重な秘事なんですが、あなたには知っておいてもらうほうがいいかもしれない」
 彼はこう云って話しだした。
 時間がないためごく簡単ではあったが、それはかなり重大な意味のあるものだった。ずっと昔から大仏山のどこかに砂金鉱があるといわれていた。まえまえから領主の変るたびにずいぶん捜していたらしい、こんども三代まえに移封して来てから、ときには江戸から専門家まで呼んで手を尽して探ったがわからなかった。――
 それが去年の冬のかかりに、ほんの偶然なことから発見のいとぐちがついた。城下に、丸庄という呉服雑貨商がある。古くから地つきの富豪で、藩の金御用を勤めていたがその店でひそかに砂金の売買をしていることがわかり、あるじを調べたうえ、店へ売りに来た男を捕え、その所在を知ることができたのである。
 場所は尾花沢から暗闇谷といわれる谿谷けいこくへさがったところで、三百尺もある断崖だんがいに、つたかずらで猿のかようほどの桟を渡し、それを伝ってなお谷へ下るという、まったく孤絶した位置にあった。砂金の鉱脈は露頭といって、がれに添って表面に見えている、しぜんに崩れて谿流に洗い去られたり、また採り尽されたりしたらしく、もうあまり豊富とはいえなかったが、それでも相当な量を見積ることができた。
 藩では極秘のうちに手配をし、尾花沢の番所を増築して、最少限の人数で今年の雪溶けから仕事を始めた。十日にいちどずつ城へ使いが来るのは、つまり採った砂金を運ぶためだったのである。
 採鉱のほうはわりかた順調であったが、現場には絶えず不穏な影がつきまとっていた。あの伝説的な土民の一群――丸庄で捕えられた男はその一人であるが、――かれらはその砂金鉱を自分たちの財産だと信じていた。かれらは七百年の昔からそこを守り、そこから採った金で生活して来た。先祖代々いかなる領主にも屈せず、その踪跡そうせきを知られることもなく、原始林と人跡の絶えた峡谷の奥を転々し、なにものにも束縛されない自由な年月をすごして来た。
 かれらは今その財宝を奪われている。何百年という遠い昔から、かれらの所有でありかれらが守り、かれらに自由と解放の生活を与えた、その唯一のものが奪われつつある。
「かれらがどんなに恨んでいるかおわかりでしょう、そこはかれらの所有なのですから、仮に私がかれらの立場になったとしても、決して黙って見ていはしないですよ」
 英之助はこう云って、言葉を区切って、また次のように続けた。
「仕事をはじめてからもう十三人もやられています。六人は死にました。かれらは叢林そうりんがけの蔭から弓で射るのです。ひじょうに敏捷びんしょうです、猿のようにすばしこい、まだかれらの姿は誰も見たことがありません、――先月の中旬のことですが、番所の武器庫から、弓十二張と、矢が二十束ほど盗まれました、その補給のために私が城下へ来て、そうしてあなたのお悪いことを知ったんです」
「――今でもその人たち、そんなふうに、絶えずみなさんを狙っていますの」
「こっちが金を採ることをやめるまではね、かれらにとっても軽い問題じゃないんです、かれらにとっても死活に関することなんですから」
「よさないか戸田、ばかなことを云うな」
 とつぜんそう云いながらふすまがあき、兄の泰馬がするどい眼でこっちを見た。
「極秘も極秘だが節子は病人じゃないか、ようやく少しおちついたところへそんな話をして、また悪くでもなったらどうするんだ」
「お兄さま違います。節子がむりにお願いしたんですわ、そうでもないと不安で」
「おまえは黙っていろ、ものにはけじめということがある、どうせがまれたからといって藩家の秘事を、しかもこんな病人に向って饒舌しゃべるという法があるか、もう時間も過ぎている、戸田、帰って呉れ」
 泰馬は仮借しない態度で英之助の立つのを待っていた。そうしてまるで追いたてるように、彼を先にして去っていった。


 英之助の話は節子には刺激がつよ過ぎた。しかし病気にはさしたる影響はなく、かえって気持がしゃんとなったようにさえ感じられた。しっかりしなければいけない、あの方はそんな危険なところにいらっしゃる、本当なら今こそおそばにいてあげなければならないのだ。
 ――私たちは本当に結婚できるでしょうか。
 英之助のそう云った意味が、節子には初めて理解ができた。眼をつむると見える、岩の蔭、やぶの茂み、断崖の上に、野獣のように身をひそめている人間の姿が。……弓に矢をつがえ、息をころして、桟道を通る人を狙っている。その矢表に英之助がいる、彼は気づかない、足もとを見ながら、部下の者を指揮しながら、その矢の正面をゆっくり歩いてゆく。――弓はきりきりと絞られる、狙いに狂いはない、彼はそこに来た。そして弓弦ゆづるが鳴る。
「――ああっ」
 節子は思わず声をあげ、身ぶるいをする。自分の描いた空想の矢が、戸田の胸へ突き刺さる音まで聞えるようだ。
 ――あのときの言葉はなにかの前兆かもしれない、本当に結婚はできないのかもしれない。……こうしているまにも、あの方は土民の矢に当って死んでいるのではないだろうか。
 そんなふうな妄想もうそうがしつこく胸を占め、じっと寝ているに耐えないような気持になる。早く病気をなおして、尾花沢を訪ねてゆこう、……そう思うようになったのは、その前後からのことであった。
 手紙はその後ぱたりと来なくなった。
 兄にどなられたので怒ったのか、それともすでに雪の季節にはいって、城へ連絡がなくなったのか、どちらかわからない。
 もしかすると本当に土民の矢で不幸なめにあい、自分だけが知らずにいるのではないか。――人間はこんなばあいに不幸な予想ほど信じたくなるものだ、節子は病床で少しもおちつかず、あに嫁の苦労のない笑いごえなどを聞くと苛々した。
「おねえさまに静かにして下さるように仰しゃってよ、お母さま、あの声ぴんぴんして、頭に響いていやだわ」
「そんなことが云えますか、そんなに響くほどじゃないじゃないの、小姑根性とか鬼千疋とか、すぐに云われるのはそういうことなのよ」
「だって節子が寝ているのを知っている筈でしょう、この家の人になればこの家の者のことも少しは考えて頂きたいわ、おねえさまがいらしってからお母さまもお変りになったのね、節子のことなど誰も心配して呉れる者はいないんだわ」
「そんなことをお云いだってあなた、……節子さんは神経を立てすぎるのよ、そんな、母さんがあなたのことを考えないわけがないじゃないの」
「わたくし尾花沢へいくわ、春になって雪が消えたら、どんなことしたって」
 節子は母からそむいて、涙をこぼしながら云った。
「お父さまやお兄さまがどんなに反対なすったって、道があけて、動けるようになったら、わたくし独りで尾花沢へゆくわ」
 母の気心が変ったと云ったのは、もちろんそのときのはずみである、暢気でものにこだわらない母は、節子の病気にもさしておろおろするようすはなかった。嫁に対しても同様である、気にいっていることはたしかだが、とくべつひいきするというわけでもない。
 それはわかっていたけれども、小姑根性とか、鬼千疋などと云われたことは、節子の身にすれば相当に痛かった。悲しいような口惜しいような、自分がまったく孤立したような思いで、すぐにも尾花沢へとんでゆきたいという衝動に駆られることがしばしばであった。


 医者がびっくりするほど、病気は好調を続け、二月には起きて家の中を歩いたり、身のまわりを片づけたりするくらいになった。
 その月の下旬に、泰馬が尾花沢へ巡察にいった。横目附としての出張である。節子はいっしょにれていって呉れと頼んだ、泣いて頼んだのであるが、山にはまだ雪があるし、道もまだ悪いし、医者が承知しないので、結局その希望はいれられなかった。
「これから役目で月に一度ずつ出張しなければならない、道が乾いて躯の調子さえよかったらいつでも伴れていってやる、だからこんどは待っておいで」
 泰馬はこう云いなだめて立っていった。
 兄がでかけたのと入れ違いだったろう、その翌日に思いがけなく英之助が来た。まったく思いがけなかったことで、節子はわれ知らず声をあげた。彼はすぐ山へ戻るからと云い、泥まみれのまま庭から縁先へまわって来た。節子は彼を見るなり胸が熱く、躯じゅうの血が音を立てて流れるような、激しい動悸どうきを感じた。
「気のせいか少しお肥りになりましたね、お顔の色もいい、安心しました」
 母が去るのを待ちかねたように、彼はこう云ってじっとこちらをみつめた。いきなり抱き緊めたいという欲望を、けんめいにがまんしているようすである。眼が涙でいっぱいになり、それをごまかすために口早に話した。
 節子はなんども深い息をついた。躯の中でとつぜん火の燃えるような感じがし、それが急に氷のように冷えたりする。彼の話す声はあらゆる神経にしみわたるようで、しびれるような、うっとりするような、快い安堵あんどのなかに節子を浸した。
「相良さまとは、この頃いかがですの」
 彼の話の合間をみてこうきいた。
 英之助はすぐに返辞をしなかった、雪にやけた特有の黒い顔で、ふと眉をしかめ、少しまをおいて、こちらをじっとみつめながら、
「あなたは私を信じて呉れますか」
「――だって、どうしてそんな、……節子はいつもお信じ申していますわ、どうしてそんなことをおっしゃいますの」
「信じて下さい、あなただけは」
 彼はどこやら悲痛な口ぶりでこう囁いた。
「私は気の弱い人間です、利巧でもないし剛胆でもない、あなたに信じられなくなったら生きてはゆけません、私には今あなたが唯一の柱なんです、わかって呉れますか」
「ええわかります、どんなことがあっても、節子はあなたをお信じ申しますわ」
「なにかいまわしいうわさがお耳にはいるかもしれません、あなたがびっくりするような、不愉快な評判がたつかもしれません。――たぶんそんなことはないでしょう、なにごともなしに済むと思いますが、……もしそんなことがあっても、あなただけは私を信じていて下さい、私はこれをお願いしたかったんです」
 彼はにっと作り笑いをした。気弱そうな、淋しげな笑いかたである、そのうえあんなに白かった歯が少し汚れているので、なにかしらいたましく、うら悲しげな感じさえした。
「またこれだけ褒賞がありました、御迷惑かもしれないが預っておいて下さい」
 別れ際になって彼はまた金包みを渡した。
「こんど伺うときにはもっとよくなって頂きたいですね、予定はつかないが、四月のあの日には必ずまいります、どうぞ大事に」
 もういちど笑ってみせて、元気な足どりで彼は去っていった。
 節子はこんどはすなおに金が受取れた。彼の母のほうへ預けさせようなどとは思わなかった。自分と英之助とはもう離すことはできない、自分は彼を信じ、彼の望むようにしていればいい。節子は静かな安定した気持でそう思っていた。
 ――四月のあの日には必ず来ます。
 彼の言葉はいつまでも耳に残った。その声の余韻までがなまなましく聞え、ふっと血の騒ぐこともたびたびあった。節子は母に隠れて、彼のために肌の物を少しずつ縫った。三月には兄といっしょに尾花沢へゆこう、彼はどんなによろこぶだろうか、そのときまでどうか病気がおちついていて呉れるように、――彼が子供のように狂喜するさまを想像しながら、そしてこれまでになく躯のぐあいを気にしながら、節子はひまをみては針を手にした。
 兄はないしょにするつもりらしかったが、あに嫁のふとした口からもれた。泰馬が三月十一日に二回目の出張をするという、節子は気づかないふりをして、ひそかに身のまわりの準備をしていた。
 節子のやりかたは成功した。十日の夜、父母と兄のいる前で、自分も明日いっしょにゆくこと、支度もすっかりできたということを告げると、三人とも絶句したような顔で、暫くなにも云えないふうだった。
 それからちょっと異議が出たけれども、初め意表を突かれたのと、こちらの決心の固いのを察したらしく、わりかたすらすらと望みをいれて呉れた。
 同伴といっても兄は役目の出張なので、途中はうしろから離れてゆかなければならない。節子は駕籠かごに乗り、下女と二人の下男が供に附いて、まだほの暗いうちにでかけ、先に城下はずれへいって待っていた。
 ――幸い好天気で、暖かないい日和だった、野道にかかると麦畑がうちわたしてみえ、さかりの桜や梅や、杏子あんずの花などが、眼の向くところに華やかな色彩を綴っていた。……城下町を流れる川の上流だという、石ころの河原の広い川を渡り、げんげの咲いている丘の上で弁当をつかい、その日はまだ昏れないうちに樫田村というところの、古めかしい庄家の家で泊った。
「どうだ疲れたか、躯の調子はいいか」
 駕籠をおりるとすぐ兄がようすをみに来た、男たちだけならその日のうちにゆける、そんなところで泊るのは節子ひとりのためなのだが、泰馬は少しもそんな顔をしなかった。
「ゆっくり眠っておくんだよ、明日はもう道のりは僅かだが、山にかかるし駕籠も変るからね、薬を忘れずに飲んでおくんだぜ」
 そして気遣しげに顔色をじろじろ見ていった。寝るときにもいちど来たが、節子は眠ったふりをしていたので、安心したように、そおっと抜き足で去った。
 明くる日はすぐ登りにかかり、猿の茶屋というところで山駕籠に乗り換えた。そこから右手に谷峡の凄いような森林が、深く遠くひろがっているのが眺められた。
 話に聞いた原始林というのであろう。薄い朝霧をこめて黒ぐろと繁り、遠いかなたは谷峡の奥へと消えている。そのなかにところどころ、白く枯れた巨木が見えるのは、英之助が巨人の骨のようだと云ったそれに違いない。
「まあ美しいこと、本当に神代の景色というほかにないわね、お兄さま」
「――うがったようなことを云うね」
「だってこの世のものとは思えませんわ、神々しくって、そしておごそかに静かで」
 節子は頭がしんとなるような、壮厳な感動にうたれて、兄がせきたてるまで、眺めまわしていた。
 けわしい山道にかかり、なんども絶壁の端のようなところを通った。そういう場所では遠く下のほうに城下町が見えそれが一度ごとに遠く小さくなっていった。
 ――勾配こうばいは急になるばかりで、石ころや岩のごつごつした滑りやすい道は、裸の崖や叢林の下をうねうねと迂曲し、いたるところで水が音を立てて流れていた。
「大丈夫か、苦しくはないか」
 兄は戻って来ては心配そうに覗いた。
「遠慮はいらないんだよ、辛かったら休んでもいいんだぜ、むりをするなよ」
 節子は元気に笑ってみせた。駕籠に乗るというのも、さほど楽なものではない。かなり疲れていたが、気持はもう飛ぶようで、少しのまも休むのは惜しかった。
 峠の頂上へ出たところで、道は枯れた叢林の中を右へ折れた。まっすぐゆけば隣藩になるそうで、明るくうちひらけた平野の一部がちょっと見えた。本道から三十間ばかり、細い道をだらだら下りてゆくと、木の柵をまわした番所の建物の前へ出た。
 ――節子は駕籠から出たとき、ひどく昂奮していて、下女のそろえて呉れる草履がなかなかはけなかった。杉林に囲まれた番所は古いが、そこから一段さがって新しい建物がある、それがこんど急造した小屋なのだろう。
 ――あそこに暮していらっしゃるのだ。
 その人はそこにいるのだ。こう思うと胸苦しいほど動悸が高くなり、頭がくらくらするようだった。
 泰馬はまっすぐ番所へはいっていった。節子はあたりを眺めながら暫く息をつき、動悸のおちつくのを待ってはいっていった。
 ――そこは暗い土間で、奥の左右に障子を立てた部屋があり、つき当りは杉戸になっていた。その土間に兄のうしろ姿と、こっち向きに相良桂一郎が立っていた。
 二人は顔をつき合わせるようにして、低い声でなにか話していた。久しぶりに見る相良は寝くたれたような身なりで無精髭ぶしょうひげを伸ばし髪も乱れたまま、ひどく憔悴しょうすいした顔をしていた。節子がはいってゆくとすぐ、相良は黙ってこちらへ目礼して、泰馬になにか囁いた。――兄は振向いてこっちへ来た。そして節子の肩へ手をかけながら、
「出よう」
 と云った。
「悪いときに来た、戸田には会えない」
「――どうしてですの、お兄さま」
「わけはあとで話す、とにかく出よう」
「――なにかありましたのね」
 節子はじっと兄の顔を見あげた。
「――あの方、おけがをなすったのでしょう」
 節子は兄の手を払いのけ、すばやい動作で相良の前へいって立った。泰馬は叱りつけるように、
「節子」
 と叫んだが彼女は刺すような眼で相良を見、そして云った。
「戸田はどこにおりますの、相良さま、会わせて下さいまし、わたくし戸田の妻でございます」
 相良の眉がしかみ、唇がゆがんだ。しかし静かな眼で節子を見まもり、やがて頷いて、どうぞこちらへと奥へ導いた。土間の左がわのいちばん端へゆき、その障子を明けると、彼は身をひらいてこちらへという手まねきをした。
 節子は穿物はきものをぬいであがった。一方に切炉のある板間があり、その三方に畳が敷いてある。炉の右がわに夜具をのべて、そこに人が寝ていたが、顔に白い布がかぶせてあるのを見て、節子ははっと息が詰った。――顔にかけてある布のぞっとするような白さ、横たわったまま微動もしない躯の怖しい沈黙。……節子は喘ぎ、両手をついて身を支えた。血がぐんぐん冷えてゆき、眼が廻って、今にも倒れそうになったのである。
「土民に弓でやられたのです、今朝まだ暗いうちでした、お気の毒です」
 相良が夜具の裾をまわって来て、向うの枕許へ静かに坐った。
「独りで出ては危ないと、いつも注意してもいたんですが、今朝も部屋にみえないので、心配してみにゆくと、この下のねぶが沢というところに倒れていました。矢は心臓のまん中に当っていましたから、おそらく即死でしょう、私がみつけたときはもう冷たくなっていました」
 節子は唇をんだ。相良の話を聞きながら、頭のなかではまったくべつな幻想が動いていた。
 夜明けの暗い坂道がみえる。こっちの藪の蔭に相良がひそんでいる、彼は弓に矢をつがえ、息をひそめて、暗い道のかなたをじっとうかがっている。未明の霧がゆれ、誰かが坂道を登って来る、それはしだいに近くなり、やがて英之助だということがはっきりする。
 藪の蔭にいる人間は身構えをし、きりきりと弓をひき絞る。英之助はなにも知らない、足もとに気をとられて、ゆっくりと登って来る、間合は絶好だ。狙いも慥かである、そして弓弦が鳴る。
「――ああっ」
 節子は声をあげた。幻想はいつかのものとそっくりであるが、もの蔭にひそんでいる人間だけが違う、いま節子に見えるのは土民ではない、それは相良桂一郎であった。
「あなたは、そのとき、……戸田の死体をみつけたとき、あなたのほかに誰かいっしょにいらしったのですか」
 殆んど問罪の調子でこうきいた。
「いや私ひとりでした」
「まだ暗いうちと仰っしゃいましたわね」
「そうです、ほのかに明るいくらいでした」
「そしてその矢は、戸田を射た矢は、土民のものでございましたか」
 相良はぎょっとしたようにこちらを見た。節子はその眼を放さずみつめながら、たかぶってくる感情を抑えて続けた。
「いつか番所の武器庫から、弓と矢が盗まれたと聞きました、戸田を射た矢は、もしかするとそのときのものではございませんか」
「――そうでした」
 相良は眼を伏せてそっと頷いた。
「――彼を射たのは番所の矢でした」
「ああやっぱり」
 節子は叫んで、歯を噛みしめながら眼をぎらぎらさせて相手を見た。全身がひき裂けそうな感じである。そこに戸田を殺した人間がいるではないか。そんな早い時刻に、戸田が部屋にいないことを、どうして彼が知ったのか、どうして彼だけが心配して、彼ひとりで捜しにでかけたのか。部下も大勢いるではないか、捜すならなぜ部下たちに命じなかったのか。
「わたくしにはわかります」
 節子はふるえながら云った。
「わかっています、誰が戸田を殺したか、土民などではありません、いいえ決して、もっと身近な、もっと卑しい、そして」
「――節子、やめろ」
 うしろで泰馬の叫ぶ声がした。
「そして正直らしい顔をしている人です、それは、今そこにいる」
「黙れ、黙れ節子」
 兄がうしろからとびつき、片手で節子の口をふさいだ。しかしその必要はなかったのである。節子は気力をつかいはたしていた。兄が手で塞がなくとも、あとの言葉は出なかったであろう。泰馬の腕で抱えられたとたん、彼女は眼がくらみ、なにもかもわからなくなった。


 山の番所で十日ほど寝たうえ、途中を休み休み、三日がかりで城下の家へ帰った。
 それから一年は殆んど起きることができなかった。秋のはじめ、ちょうど去年と同じころに喀血かっけつして、冬いっぱい重態が続いた。春さきに医者から「これはいけない」と云われたこともあったそうである。
 ――しかしその期間も頭だけは冴えていた、自分でもこわいくらい意識は慥かで、はっきりとものの判断ができ、また空想力も活発であった。
 節子はいつも英之助を想っていた。彼の哀れな性格と、不幸な死を思い、そしていつも独りで泣いた。
 ――あの方を殺したのは相良桂一郎だ。
 それはもう動かない事実だと信じた。
「――戸田は味方の矢で死んだ、その矢を射たのは相良桂一郎である、しかもその事実をはっきりさせる法はない」
 病気が危機をぬけたのは明くる年の秋であった。二年つづけて同じ時期に喀血したので、その前後は厳重なくらいに用心した。だが、じっさいそのころから恢復かいふくに向い、冬にはいると眼立って肥えはじめた。
「喀血したのが却ってよかったのかもしれない。しかし肥るということは、それだけでは安心できる兆侯ではないので、今後も油断は禁物です」
 和田玄弘はそう云ったが、ようやくこっちのものになったという、安堵あんどの色を隠すことはできなかった。
 十一月のはじめに雪が降った。その雪を寝床の中から眺めていると、母が来て、
「相良さまがみまいにいらしっているが」
 と云った。
 節子は危うく叫びそうになり、色を変えて壁のほうへ眼をむけた。
「こんど尾花沢のお役目が解けて、昨日こちらへ帰っていらしったのですって、ちょっとみまいを云いたいと仰しゃっているのだけれど」
「おめにかかりたくありません、お断わりして下さい」
「おみまいの品も頂いたし、ちょっとお会いするだけでいいのだがね、そのまま御挨拶だけすれば」
「もう仰しゃらないで、お母さま」
 節子は不作法に母の言葉を遮った。
「相良さまには決しておめにかかりたくありません、おみまいの品もお返しして下さい。もう二度と訪ねて来ないように仰しゃって下さい」
「そんなあなた、そんなことを節子さん」
「いいえもういや、なにも仰しゃらないで、わたくし死んでしまいます」
 相良のことをそれ以上云われると、本当に死んでしまうような気持だった。母は途方にくれたことだろう、しかし節子は掛け夜具の中へ顔を入れ、口惜しさと憎しみとで、半刻あまり泣きやむことができなかった。
 れ方になって、もう燈をいれる時刻だと思っていると下城したばかりの身なりで兄がはいって来た。
「相良がみまいに来たのを断わったそうだな」
 彼は坐るとすぐにこう云った。雪の中を帰って来たためだろうか、とりはだの立つようなこわい顔で、眼が怒っていた。
「おまえまだあのばからしい誤解がとけないのか、山で口ばしったあの無礼な想像がまちがいだったとまだわからないのか」
「――まちがいでも誤解でもございません」
 節子もするどいような眼で兄を見た。
「――戸田を殺したのはあの方です、誰を云いくるめることができても節子をごまかすことはできません」
「よし云ってみろ、それだけ信ずるには理由があるだろう」
「――ございます、理由ははっきりしています、自分で云うのはいやですけれど、節子は相良さまを断わって、戸田へ嫁にゆくことを承知しました」
「相良がその恨みでやったと云うのか」
「戸田がいつも申しておりました、尾花沢で戸田はあの方の部下です、どうかしてうまくやってゆきたいと、いつも申しておりましたし、しまいまでうまくはゆきませんでした。わたし戸田からみんな聞いております」
「それは戸田の曲言だ、それだけで相良が殺したという理由にはならない」
「――では、ではお兄さまには」
 節子は声が詰り、躯がふるえた。
「――相良さまの、したことでないという、証拠がございますか」
「おまえの用箪笥の金をさきに聞こう、紙に包んで三つ、合わせて金七十枚ある、おまえが重態になったとき、お母さまがそこに隠してあるのをみつけた、あれはどういう金だ」
 節子は睡をのんだ。固い物がのどへこみあげて来て、すぐには口がきけなかった。あれは秘密に預った金である。ひとには云わない約束であった。しかし今は云わなければならない、――節子はこう思って、英之助から預った事情をはっきりと語った。
「そんなことは嘘だ、そんなことはありはしない、おまえはなにも知らないんだ」
 泰馬は怒っていた態度をやわらげ、こんどはずっとおちついた調子で云った。
「おまえがいちばん不審なのは、あんな時刻に戸田が、どうして一人で外へ出たか、なぜ相良がそれに気づいて捜しに出たかという点だろう」
「一人で出ることが危険だということは、戸田がいちばんよく知っていたと思います」
「それを知っていて、彼は出なければならなかった。夜中か、明け方の暗いうちに、どうしても一人で出る必要が戸田にあったのだ」
 泰馬は声をひそめて、囁くように云った。
「戸田はひそかに砂金を盗み、それを城下で金に替えていた、相良がそれをみつけた、意見をしてやめさせたが、隙を狙ってはまたやる、命が危いぞ、金には代えられないぞ、こう云ったがどうしてもやまない、砂金は僅かなことだ、どうでもいい、相良は彼の身を心配した、彼自身のために、そうしてそれよりも彼が、おまえの良人おっとになる人間であるから」
「――――」
「あの朝とうとうその時が来た、戸田はまたぬけ出した、そう気づいて相良がみにゆき、彼の死体を発見した、そして彼の袂の中にはいっていたひと包みの砂金を隠し、番所へ急を知らせたのだ」
「――――」
「誰にでも聞くがいい、尾花沢へいっていた者で、お手許から特に褒賞などさがった例はない、おまえの預った金は、彼が砂金を売ったものだ。だからこそ、ひとには秘密だと念を押したのだ」
 節子は眼をつむり、歯をくいしばって、わなわなとふるえながら黙っていた。
「相良は黙っていた。おれにも初めはひと言も云わなかった。くどいほど問い詰めてようやくうちあけたが、ほかに知っている者は一人もない、――相良はかたく沈黙を守っている、これからも口にするようなことはないだろう、……古い友情のために、そしてそんなにも彼を信じているおまえを、悲しませないために」
 節子が泣きだしたのは、兄が去っていったあとのことである、心配してみに来た母にもいってもらい、夜具をかぶって、身をふるわせて、声を忍んで泣いた。
「――可哀そうな戸田さま」
 泣きながらそう囁やいた。
「――節子に貧乏をさせたくなかったのね、節子をよろこばせて、節子の心を絶えずひきつけておかなければ、安心することができなかったのね、あなたをそんなふうにしたのはわたくしよ、堪忍して下さいましね」


 泰馬の話は疑う余地はなかった。なにもかもあまりに明瞭である、けれども節子は却って心がおちつき、なにかしら重い荷をおろしたような、割切れた楽な気持になった。顔つきも明るくなり、あに嫁ともすっかりなじんでいっしょに声をあげて笑うようなことも、珍しくはなくなった。
「――とうとう結婚できませんでしたわね」
 独りでいるときには、そこにいる人を見るような眼で、微笑しながらよくそう囁いた。
「――節子の躯ももう結婚はできないでしょうって、わたくし持仏堂を建てて頂きますの、お輿入こしいれの費用では足りませんかしら、……でもよろしいわ、一生のあまえ納めにおねだりするつもりよ」
 その人はうなずき、静かな邪気のない顔で笑う、白いきれいな八重歯がみえる。節子はぽっと赤くなり、幻の人をやさしくにらむ。
「――いつかあんなことをなすって、いけない方ね、わたくし一日じゅう、お母さまのお顔が見られませんでしたわ」
 片手でそっと唇を撫で、眼をつむって、うっとりと節子は囁くのであった。
「――たったいちど、一生のうちのたったいちど、……節子は死ぬまで忘れませんわ、あなた、持仏堂が出来たら、わたくし一生そこで、あなたのお位牌いはいを守ってくらしますの、……仏と尼の結婚、これも楽しくはございませんかしら」
 節子が結婚できない躯だということで、誰よりも父の三郎左衛門がふびんに思ったらしい。彼女の頼みはそのままいれられて、雪が消えるとすぐ工事にかかった。加賀のほうから伊与四郎という番匠を呼んだが、ひどく丹念な職人で、日数が倍ちかくもかかり、出来あがったのは十月の中旬であった。
 かたちばかりであるが、菩提寺ぼだいじから僧を招いて落慶供養をすることになり、節子は相良桂一郎を招待した。
 持仏堂は広庭の南の隅に寄って建てられた。そこは芝生の小高い丘のようになっていて、うしろは松とくぬぎの林に囲まれ、前に立つと密生した松林のかなたに、泉水のある広庭の一部と母屋おもやの屋根が見える。――その日は早くから、節子は持仏堂のほうへいった。六畳二間に四畳半だけの、小さな住居が附いている、その濡縁に出て、念珠じゅずを手にして庭を眺めていた。
 手紙で時刻を云ってやったので、供養の始まる半刻まえ、庭を横切って相良桂一郎がやって来た。彼は今日はひげり跡の青い、「長方形」のきりっとした顔で、袂から念珠を出しながら、静かに丘を登ってこちらへ来た。
 節子は胸の中を風の吹きとおるような、爽やかな気持で彼の眼を見あげた。
「――ようこそおいで下さいました、どうぞここからおあがり下さいませ」
「まだしかし、どなたも……」
「――相良さまお一人だけ、さきに来て頂きましたの」
 節子はしんとした調子で云った。
「――わたくしおびを申さなければなりません。そうして、……あの位牌に代って、お礼も申上げなければなりませんの」
 相良は眼を伏せた。しかし節子は明るい声で、心をこめてこう云った。
「――相良さま、兄からすっかり聞きました、戸田もわたくしも愚かでございました。どうぞおゆるし下さいまし、……なにもかも、有難うございました」





底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
   1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1949(昭和24)年12月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年9月27日作成
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