山本周五郎





 布施半三郎はそのふちをみつけるのに二十日あまりかかった。
 加能川には釣り場が多い、雇い仲間ちゅうげんの段平は「三十八カ所ある」と云った。半三郎はひととおり見て廻ったが、自分の求めている条件に合うのは、その淵だけであった。――そこは七十尺ばかりの断崖だんがいの下にある。岩角や木の根をつたっておりるほかに道はない。対岸も同じような断崖で、淵はちょうど末すぼまりの袋のようになっている。川は右から曲って来て淵に入り、そのよどみをぬけると左へ曲って川下へ下っている。したがってその淵はまったく他から隔絶しているし、人の来る心配もないといってよかった。
 半三郎は満足そうにうなずいた。彼は断崖の下の平たい岩の上に立って、流れや淀みのぐあいを見たり、両岸のようすを眺めやったりした。
「申し分なしだ」彼は云った、「まるでおあつらえ向きだ」
 翌日、半三郎は支度をしてでかけた。
 釣道具は江戸から持って来てあった。袋へ入れた竿さお餌箱えばこ魚籠びくはなかった、彼の釣りには魚籠は要らないのである。雇い仲間の段平は、旦那が忘れたのだろうと思った。
「もし旦那」と段平は云った、「魚籠をお持ちなさらねえのですか」
 半三郎は「うん」といっただけで、振向きもせずに出ていった。
「おかしな旦那だ」段平はつぶやいた、「解せねえひとだ、どういうつもりだかさ――まあいい、おらの知ったこんじゃあねえ」
 段平は頭のうしろをき、手洟てばなをかんで、薪を割るために裏へまわっていった。
 城下町からその淵まで、約一里二十町ばかりあった。はじめの一里は殆んど田圃たんぼの中の平らな道で、あとは坂道になり、終りの五、六町は特に急勾配こうばいの登りだった。梅雨のあけたあとで、日は暑く、平らな道は埃立ほこりだっていたし、坂にかかると汗だらけになった。――そしてまた、竿と餌箱があるので、断崖をおりるのにも骨が折れた。
「こんなふうに触られるとくすぐったいだろうな、たぶん」
 断崖の途中で休みながら彼は呟いた。
「擽ったいかもしれないがね、おい」と半三郎は断崖に向って云った、「どうかおれを振り落さないように頼むよ」
 下へおりると川風があった、彼は初めて手拭を出して埃と汗を拭き、平らな爼板岩まないたいわの、日蔭になったところへ腰をおろして、すっかり汗のひくのを待った。それから竿の支度をし、岩の端へゆっくり腰を据えたとき、彼は岩を手で叩きながら云った。
「頼むぜ、きょうだい」
 そのとき魚が跳ねた。淵から三段ばかり上に棚瀬があり、水が白く泡立あわだって落ちている。魚はその棚瀬で跳ねたらしい。半三郎が眼をやると、また一尾、かなり大きな魚が跳ねて、棚瀬の向うへ姿を消した。
はやかな」と彼は云った、「川鱒かわますかもしれない、うん、いるんだな」
 半三郎の見込に狂いはなかった。半刻はんときばかりのあいだに、彼は二尾の大きな鮠と山女魚やまめを三尾あげた。彼は釣りあげた魚をすぐ水に放してしまう、魚を片手でそっと握り、釣鈎つりばりを外し、ちょっとその魚の顔を眺めてから、川の中へ投げ返すのであった。
 午後四時ごろまでに、半三郎は三十二尾釣って放し、満足して家へ帰った。仲間の段平は、旦那が手ぶらで帰ったので同情した。
「あの川にはいるんですがな」と段平は云った、「きっと場所がいけなかったんですな」
 半三郎はなにも云わなかった。
 翌日もでかけていった。爼板岩へ腰をおろすとき、彼はまたその岩をそっと叩いた。口ではなにも云わなかったが、いかにも親しげな「よう、きょうだい」とでもいうふうな叩きかたであった。その日はひるまでに十八尾釣れた。鮠、山女魚、それにあゆもあった。釣鈎を口から外すとき、魚たちは彼の手の中で活き活きと暴れ、渓谷の水の冷たさと、つよい水苔みずごけの匂いをふりまいた。
「なんだ、おい、またか」半三郎は一尾の鮠を握って云った、「おまえさっき放してやったばかりじゃないか、ばかだね、いま釣られたばかりでまた釣られるなんてまぬけなやつがあるかい、おい、しっかりしてくれ」
 彼はその鮠を放してやった。
 その鮠は水の中でひらっと腹を返し、見えなくなって、次にまた銀色の腹をひらめかせて、そしてすばやく底のほうへ消えた。すると、人間の白い裸躰らたいが、上のほうから流れて来た。仰向けにのびのびと水面へ伸び、流れに乗ってゆっくりと浮いて来たのである。
 半三郎はぎょっとした。
 初めはなんであるかわからず、溺死躰できしたいかと思い、手足で水を掻いているので、生きた人間だとわかった。そうして、それが眼の前へ来たとき、若い女だということを発見した。――爼板岩は高さ六尺ほどあるから、それが眼の前へ来たときには、全体をすっかり眺めることができた。小さな肩、胸のふくらんだまるみと、薄い樺色かばいろ乳暈にゅううん、ゆたかな腹部のえぐったようなくぼみと、それに続くたかまりの上の僅かな幅狭い墨色、広くなった腰から重たげな太腿ふとももへ、そうしてすんなりと細くしなやかに伸びている脚。両手は左右にひろげていた。――肌はまぶしいほどしろく、水が冷たいためだろう、ぜんたいが薄桃色にあかるんでいた。
 半三郎がそれらを見たのは殆んど一瞬のことであった。ほんの「一瞥いちべつ」というくらいのものであるが、その印象の強烈さは類の少ないものであった。
 半三郎はぎょっとし、そして両方の眼をつむった。眼をつむったうえに、両手で(そのつむった)眼を押えた。すると、持っていた釣竿が落ち、岩角で跳ねて、川の中へ落ちこんでしまった。彼は気がつかなかった、やや暫くそうしていて、やがておそるおそる眼をあけてみた。それから身をかがめて、淵の上下を眺めやった。――そこにはもうなにもいなかった、青澄んだ重たげな水が、表面にしわをたたみながら、ゆっくりと流れているばかりだった。
「幻か」半三郎は呟いた、「眼がどうかしたのか、いや、たしかに、……こんなに心臓がどきどきしている、きょうだい」彼は岩の面を叩いた、「いまのはなんだ、淵の主でも化けたのかい、頼むぜ、あんまり吃驚びっくりさせないでくれ」
 彼は暫くのあいだ茫然と、気でも喪失したように、岩の上からじっと水面を見まもっていた。
 竿を流してしまったから、その日は早く帰った。段平は旦那が今日も手ぶらで、おまけに竿も持たずに帰ったので首を振った。


 旦那が井戸端へゆくのを見送りながら、段平はまた首を振り、頭のうしろを掻いた。
「なにをしにゆくだかさ」と段平は呟いた、「魚は一尾も釣らねえ、おまけに竿までなくして来るなんてさ、あんな立派な竿をよ、へ、――」
 夕飯のとき、段平は客があったのを思いだした。彼は給仕をしながら旦那に云った。
「午めえに柏原さまがおめえになりました」
 すると半三郎は眼をつむった。半三郎は手に持った茶碗の飯を見ていた、はしを添えてまさにべようとしながら、炊きたての、香ばしい匂いのする麦飯をみつめていたが、段平にそう云われたとたん、彼はぎゅっと眼をつむったのである。それも、あまり強くつむったので、まぶた眉間みけんに深い皺が寄ったくらいであった。
「どうかなせえましたか」
 驚いて段平がいた。
「うん」半三郎が云った、「なんでもない」
「柏原さまがおいでなせえました」段平が云った、「えらくお気にいらねえあんべえで、どういうつもりだって、来るそうそうから毎日出てばかりいてなんのつもりだって、――旦那は御謹慎の都合でこのお国許くにもとへお詰めさされささったっちゅう」
「そんなことはない」半三郎が呟いた、「眼がどうかしたんだ、あるはずがない」
 段平は口をあいて旦那の顔を見た。
「へえ、――」と段平が云った、「すると御謹慎じゃあねえのですか」
「少し黙れ」と半三郎が云った。
 段平はへえと云った。へえ黙るべえ、と彼は思った。おらの知ったことじゃねえ、おとがめを受けるのは旦那だ、おらそう云うだけは云っただから、と心の中で呟いた。
 ――おかしな旦那だ、解せねえひとだ。
 布施半三郎は約一と月まえに江戸から移って来た。すぐに段平が雇われ、ずっと世話をしているのだが、勤めにも出ないし、同家中のつきあいもない。こっちから誰かを訪ねるとか、向うから誰か訪ねて来るなどということが絶えてない。また、ずばぬけた無口で、段平が話しかけてもろくすっぽ返事をしないし、用事のほかに話しかけることもない。しかも奇妙なことには、家の柱だとか壁だとか、庭の木だの石だのにはよくものを云う。犬や猫や、小鳥などにも機嫌よく話しかけるのであった。
 ――彼は謹慎の意味で国詰になったのだ。
 午まえに来た柏原図書ずしょはそう云った。図書という人は五百石ばかりの国許くにもと留守役で、半三郎とは遠縁に当るという。話によると布施は江戸邸の次席家老、半三郎はその一人息子だそうであるが、剣術と柔術がなみ外れて強く、おまけに癇癪持かんしゃくもちで、いつも喧嘩けんかばかりして始末におえない。前後五度ばかりも「しかり置」かれたり「謹慎」を命ぜられたりした。
 半三郎はそういういざこざを避けるために、庭木いじりや魚釣りを始めた。
 ――木や石や魚はおれにはらを立てさせない。
 彼はそういうのであった。もう二十八にもなるが、縁談が幾らあってもつっぱねるし、役に就かせようとしても承知しない。「私のことは放っといて下さい」というので、三年間の国詰を命ぜられた。謹慎の実がみえたら江戸へ帰らせてやる、というのだそうである。
 食事が済むと半三郎は段平を見た。
「なにか云ったか」
「柏原さまがおめえになりました」段平が云った、「今日の午めえに、柏原図書さまがおめえになって、えらくへえ不機嫌のあんべえで、いってえどんなつもりだかって」
「わかった」と半三郎が云った、「それはもう聞いた、同じことを二度云うな」
 段平はへえといって黙った。
 二日続けて雨が降った。三日めに半三郎は釣りにでかけた。江戸から持って来た竿は三本ある、流したのは安物であるが、中でもっとも調子のいい竿であった。彼は残りの中から一本を選み、すっかり手入れをして、でかけた。
「その」と段平が云った、「もしも柏原さまがおめえになったら、どんなあんべえに云ったらいいですか」
「釣りにいったと云え」
「その」段平が云った、「おらが考げえるに」
「釣りにいったと云え」
 そして半三郎は出ていった。
 淵へおりた彼は、爼板岩の上に釣竿が置いてあるので驚いた。四日まえに流した竿である、あのとき流した自分の竿だということはひと眼でわかった。半三郎はおびえたような眼つきで、慌てて周囲を見まわした。
 そこはいつものとおりだった。どこにも人は見えなかったし、どこかに隠れているようすもなかった。
「幻でも眼がどうかしたのでもない」と半三郎は呟いた、「あれは事実だった、あの……女は本当にいたんだ」
 あの裸の女は実在のものだった。それで彼の流した竿を拾って、此処ここへ置いたのに違いない、半三郎はそう思った。すると心臓が(あのときのように)どきどきと鳴りだし、顔が赤くなった。半三郎は自分をごまかすように、さりげなく釣りの支度をし、いつもの場所に腰をおろした。腰をおろすとすぐに、岩を叩いて云った。
「頼むぜ、きょうだい」彼は眩しそうな眼をした、「あんまりおどかさないでくれ」
 雨あがりで、水はまだ濁っていた。
 午まえは濁りがあって成績はよくなかった。午後になって濁りが薄くなると釣れだし、一刻ばかりのうちに十尾ほどあげた。むろん釣るそばから放してやるのだが、十何度めかに山女魚を放したとき岩の下から呼びかける声がした。
「なぜ魚を逃がすんですか」
 半三郎は「うっ」といった、そして同時に眼をつむった。
「ねえ」とまたその声が云った、「せっかく釣ったのになぜ逃がしてしまうんですか」
「――竿を有難う」と半三郎が云った。
「なんておっしゃったの」
「竿をどうも有難う」
「どう致しまして」その声は含み笑いをし、それから云った、「わたくしが悪かったんですもの、ずいぶん吃驚なすったようね」また含み笑いが聞えた、「わたくしも吃驚しましたわ、この淵は決して人の来ないところで、それで安心して泳ぎに来ていたんです、そうしたら釣竿が落ちて来て、眼をあいたらあなたがそこにいらっしゃるでしょ」声がとぎれて、それからまた云った、「なにか仰しゃって」
「いや」と半三郎が云った、「今日は、いつのまにそこへ――まえから来ていたのか」
「ええさっきから」とその声が云った、「向うから潜って来て見ていました、ちょうどあなたが鼻を擦っていたとき」
 半三郎はつい鼻を擦った。
「ねえ」とその声が云った、「いっしょに泳いで頂きたいんだけれど、いかが」
 半三郎は答えられなかった。


「ねえ」その声はしだいに乱暴になった、「あなた泳ぎを知らないんでしょ」
「知っているさ」
「じゃあいらっしゃい」その声が云った、「今日は大丈夫よ、ほら」
 水の音がして、岩蔭からすいと、女が向うへ泳ぎ出た。腰に巻いている赤い二布ふたのが、まっ白な太腿に絡まっていた。半三郎は眼をすぼめた、腰は隠れているが、あらわな胸のふくらみがひどく眩しい。女は手をあげて叫んだ。
「いらっしゃいよ、早く」女は云った、「そのくらいの勇気はあるでしょ、あなた」
 半三郎は立って帯を解いた。
「わあ嬉しい」女が叫んだ、「早くよ、早く」
 半三郎は下帯だけになり、岩の上からいさましく跳び込んだ。女は泳いで来て、半三郎が浮きあがると、頭を押えて沈めた。半三郎は水を飲んだ。女は絡まって来て、浮きあがろうとする彼を押えつけた。半三郎は息が詰り、女を振放して脇へ逃げた。ようやく浮きあがると、女は水を叩いて笑った。
「ああ面白い」と女が云った、「いじめてやった、弱いのね、あなた」
「いつもそうとは限らない」
「あたしを沈められて」女は笑った、「沈めてごらんなさいよ、沈められないでしょ」
 半三郎は泳いでいった。女は潜った。半三郎も潜って、水の中で眼をあいた。明るい暖色の青がひろがり、つい鼻先を一尾の魚がはしり去った。半三郎は脇へそれて浮きあがった。女は見えなかった。半三郎はまた潜った。それから用心して浮きあがって、女の浮いて来るのを待った。
 女は浮いて来なかった。おぼれたのでないことは慥かである、どこかへ隠れているのだろう。半三郎は待った。しかし女はいつまでも出て来なかった。
「おい」半三郎はどなった、「出て来ないか」
 彼は岩の上へあがった。
 四時ころまで釣りながら待ったが、女はついに姿をみせなかった。その夜、半三郎は奇妙なおちつかない感情に悩まされて、よく眠ることができなかった。眼の前にあの女のすはだかの姿がうかび、からだの膚には濡れたなめらかな女の肢躰の触感がよみがえってくる。水の中で絡みついた女の、柔軟でぴちぴちした肌の記憶が、あまりになまなましいので、幾たびも一人で赤くなったくらいであった。
「どういうつもりだろう」半三郎は呟いた、「ただからかっただけなのか、それとも恥ずかしくなって逃げたのか」彼は枕の上で頭を振った、「とにかく頓狂とんきょうな女があったもんだ、いったいなに者だろう」
 翌日、彼は一刻ばかりも寝すごした。段平は食事の支度をして待ったが、旦那が起きないので、旦那の起きるまで裏で米をいていた。寝すごしたにもかかわらず、起きて井戸端へ出て来た旦那は、まだ寝足りないようなふきげんな顔をしていた。
「お釣竿がめっかったようなあんべえですな」と段平が云った、「どけえか流れ着いてたですかえ」
 旦那は「うん」といっただけであった。
 おそい朝食のあとで、釣りにいったものかどうかと、半三郎はちょっと迷った。心のどこかに「またあの女に会いたい」という期待があったからである。彼が迷っていると、段平が来て云った。
「旦那、お餌のお支度ができました」
 半三郎は元気よく立ちあがった。
 だがその日、女は来なかった。れがた、いつもよりずっとおそく帰って来た半三郎は、いつもよりさらに不機嫌で、酒も倍くらい飲んだ。彼の酒は食事といっしょに飲みはじめ、終ってから半刻ばかり飲むのが常であった。それでも量は三合ほどであるが、その夜は殆んど定量の倍ちかく飲み、しきりに(段平にはわけのわからない)独り言を云った。
「ばか者」と彼はふいにどなった、「だらしがないぞ」
 段平は眼をいた。
「わしでごぜえますか」と段平は云った。
 半三郎は段平を見て、夢からさめたような眼つきをし、黙って立ちあがった。
 その翌日、半三郎は家にこもっていた。しかし次の朝には段平に餌掘りを命じ、ひどくそわそわとでかけていった。淵へおりてゆくと、女が待っていた。
 女は断崖の下の、日蔭になったところにいた。やはり緋色ひいろの二布を腰に巻いただけの裸で、いま川からあがったところとみえ、肌も濡れているし、足もとの岩にも水がまっていた。――断崖をおりるまで気がつかなかった半三郎は、女を認めるとさっと赤くなった。すると女も赤くなり、裸の胸を両手で隠すようにした。半三郎は眼をそらした。
「もう泳いだのか」と半三郎が云った、「まだ水が冷たいじゃないか」
「どうして昨日いらっしゃらなかったの」
 女の声はふるえていた。激しい感情を抑えるためにふるえるようであり、怒りのためにふるえるようでもあった。半三郎は振向いてみた。すると女は突然しがみついた。両手で力いっぱいしがみつき、危うく抱きとめた男の腕のなかで、がたがたとふるえた。
「きつく」と女が云った、「もっときつく抱いて、つぶれるほどよ」
 半三郎はそうした。濡れている膚の下に、火のような躰温が感じられた。そんなに強く抱き緊めても、女の躯のふるえは止らなかった。まるでおこりの発作のような、異常に烈しいふるえかたであった。そうしてやがて、そのふるえが止ったと思うと、女の躯からふいに力がぬけ、全身がやわらかく、溶けてしまいそうになった。
「おれは、漁師じゃあない」半三郎がしゃがれた声で云った、「おれは釣りをたのしむだけだ、漁師じゃないから、魚は要らないんだ」
「なにか仰しゃって」
「いや、なんでもない」半三郎は云った、「なんでもないよ」
 女はうっとりと溜息をついた。半三郎の胸にもたれ、彼の腕にすっかり身を預けて、そのままで、うっとりとささやいた。
「逢いたかったわ」
 半三郎はつよく眉をしかめた。
「名を訊いていいか」と彼は云った。
「いや」女は首を振った、「あなたがお付けになって、あなたの好きな名で呼んでちょうだい、それがあたしの名よ」
「おまえの小さいときからの名が知りたいんだ」
「いや、笑うから」
「云ってごらん」
ただこ」と女が云った。
ただこ」と半三郎が云った。
 女が泣きだした。半三郎は女を抱いたまま左右に揺った。そしてもういちど囁いた。
ただこ、――」


 二人は毎日のように逢った。
 雨の降らない限り、一日として逢わないことはない。女はいつも川上のほうから、棚瀬をすべって淵へ来た。そうして、淵を下のほうへくだって去るのである。淵から下のほうに、誰かが着物を持って待っているらしい。名はさだ、――ただこというのは幼いころ自分でなまって呼んだものだという。年は二十歳くらいだろう。……言葉つきや動作で、(わざと乱暴にしているが)武家そだちだということはわかる、しかしそのほかのことは、なにを訊いても答えなかった。
「あたしをただこのままにしておいてちょうだい」と彼女はいつも云った、「あなたは初めに、あたしの生れてきたままの、どこも隠さない――ありのままの姿をごらんになったわ、いまだって裸のままでしょ、これがただこよ」
「おれはすっかり知りたいんだ」
「これがあなたのただこよ」と彼女は云うのであった、「着物を着ておつくりをしたあたしは、もうただこではないし、あなたとは縁のない女だわ、ねえ、あたしをただこのままにしておいてちょうだい」
「どうしてもだめなのか」
「お願いよ、そんなお顔をなさらないで、あたしを困らせないでちょうだい」
 六月が過ぎ七月になった。
 このあいだに、柏原図書がしばしば来て、そのたびに段平があぶらをしぼられた。たとえ雇い仲間でも家来は家来である、主人がそんなに不取締りなのに黙って見ているやつがあるか、素行のおさまるように意見の一つもしてみたらどうだ。などと云われるのである。しかし段平にはどうしようもない、なにを云っても旦那はてんで受けつけないし、ちょっとくどく云えば「黙れ」とどなられる。そのうえ、旦那は悪所がよいをするわけではなく、下手くそな(一遍も魚というものを持って帰ったためしがない)釣りに凝っているだけなので、段平はかえって旦那のほうに同情するようになった。
「それでは柏原さまの旦那にうかがうだが」と段平はついに云った、「いってえうちの旦那の素行がどう悪いですかえ、博奕ばくちをぶつとか呑んだくれとか、新町へ入浸るとかいうならべつだが、ただへえ魚釣りに凝ってるだけじゃねえですか、それも一尾のだぼはぜせえ釣って来たためしがねえだで、殺生ちゅうことにもなりゃしねえだ、おらにゃあ意見なんてぶちようがねえですだよ」
 柏原図書は顔をしかめ、段平の無知をあわれむように手を振った。しかしそれ以来、柏原の旦那の足はしだいに遠のくようであった。
 七月になると、ただこのようすが変りだした。彼女は胸を隠すようになった、白いさら木綿もめんの半襦袢じゅばんを着、そうして腰の二布も緋色でなく、やはり白の晒し木綿に変えた。気分にもむらがでてきて、いっしょに泳ぎながら、ばかげてはしゃぐかと思うと、急に黙りこんで、彼をしみじみと眺めたり、溜息をついたりするのであった。
 彼女のこういう変化に、半三郎は殆んど気がつかなかった。或るときふとそれに気づいたが、いつから襦袢を着はじめたか、いつから二布を晒し木綿に変えたか、はっきりした記憶はなかった。
 ――どうして気がつかなかったろう。
 彼はただこに訊こうとして、口まで出かかったのをやめた。
 ――なにを訊く必要があるんだ。
 と彼は自分に云った。ただこは初めすはだかで彼の前にあらわれた、次に腰を二布で隠し、それから胸を隠すようになった。
 ――この事実だけで充分じゃないか。
 そうだ、充分だ。と彼は思った。
「いちどいっしょに食事をしよう」
 七月の中旬になったとき半三郎が云った。
「無理なこと仰しゃらないで」
「どうして」と半三郎は云った、「食事をするくらいのことがなぜ無理なんだ」
「あなたとは此処で逢うだけよ」
「もうこんなに秋風が立ってきた」半三郎が云った、「泳ぐのももう僅かなあいだだ、泳げなくなっても逢いに来るか」
「そのときのことはそのときよ、そのつもりなら九月だって十月だって泳げるわ」
「いっしょに食事をしよう」と半三郎は云った、「おれは知らないから、場所はそっちで選んでくれ、できるだけ早くだ」
「どうしても、――」
「どうしてもだ」
 そのとき二人は、爼板岩の上に並んで坐っていた。ただこは自分の(裸の)ひざへ眼をおとし、小麦色に焦けた、なめらかな膝頭をでながら、思い余ったように太息といきをついた。
 ――この方はもうあとへはひかないだろう。
 彼女はそう思った。半三郎の口ぶりは静かであるが、これまでとは違った調子があった。そうして、彼女自身のなかにはもっと強く、その要求を拒めない感情がそだっていた。
「もしかして」とただこは云った、「そのために、こうして逢うことができなくなるとしても、それでも――あなたは構わなくって」
「それはどういう意味だ」
「わからないわ」
「そんな心配があるのか」
「わからない」ただこは首を振った、「そんな心配はないと思うけれど、でもわからない、ああ、あたしもうなんにもわからないわ」
 彼女は両手で顔を押えた。半三郎は彼女の肩へ手をまわし、両の腕で乱暴に抱きよせた。ただこの躯は彼の腕の中で柔らかく、棉の実のように軽かった。ただこはふるえながら、半三郎の胸に凭れて云った。
「ねえ、もう少し待って下さらない、もう少し、――秋になるまで」
「同じことだ」
「もう少し待って下されば、すっかりいいようにしてお逢いしますわ」
「なにを」と半三郎はただこの顔を見た、「なにをいいようにするんだ、云ってごらんただこ、おれたちの邪魔をしているのはどんな事だ」
 ただこは彼の胸へ顔を隠した。
「云えないのか、おれにも云えないようなことなのか」と半三郎が云った、「よし、それならなおさらだ、おれはただこ一人が苦労するのを黙って見ているほど温和おとなしい人間じゃあないぜ」
「わかってるわ、あなたにはこわいところがあるわ」
「おれは待つだけ待った、初めて逢ってからまる一と月以上も経つのに、おれはただこのことをまだなにも知らない、もうたくさんだ」と半三郎は云った、「こんな状態はもうたくさんだ、ただこ、――いっしょに食事をするか」
「ええ、そうしましょう」
「いま此処できめてくれ、どこがいい」
 ただこは顔をあげて彼を見た。


 その翌日の午、二人は源ノ森の「蜂屋はちや」という料理茶屋で逢った。
 そこは城下町の西に当り、北野神社の境内に続いている。うしろを深い杉の森に囲まれ、千の池とよばれる池を前にして、掛け茶屋や料亭が並んでいるが、「蜂屋」はそのなかでもっとも構えが大きく、桟橋に屋根船などもつないであった。
 ただこは先に来て待っていた。それは別棟になった数寄屋すきやふうの離れで、二方に忍冬すいかずらの絡まった四つ目垣がまわしてあった。
 ただこはすっきりとせてみえた。藍色あいいろのぼかしに菖蒲しょうぶの模様の帷子かたびらを着、白地にやはり菖蒲を染めた帯をしめていた。化粧はしていないが、日に焦けた顔がいつもより小さく、爽やかにひきしまった感じで、帯をしめたためか、腰も細く、背丈がすっきりと高くみえた。
「そんなにごらんにならないで」とただこは眼のまわりを赤くした、「こんな恰好、――似あわないでしょ」
「きれいだ」と半三郎が云った、「きれいだよ」
「もう、ごらんにならないで」
「見やしないよ」半三郎は濡縁のほうへ出てみた、「舟が出せるんだな」
 ただこも出ていって、彼と並んだ。
「よければ舟で網をうって、捕った魚を舟の中で喰べることもできますわ」
「池の魚をか」
「加能川から水を引いてあるんです」ただこが云った、「だから川の魚がいろいろ捕れるんです」
「むかしから知ってるんだな」
「小さいじぶん父や母たちとよく来ましたわ」
ただこのじぶんか」
「ええ、ただこのじぶん」
 半三郎は片手をそっと彼女の肩へかけた。ただこは頭をかしげて、肩の上の彼の手へ頬をよせた。彼女の頬は熱く、冷たい髪毛には香油が匂っていた。
 食事はうまかった。鮎の作身と塩焼、牛蒡ごぼうと新芽の胡麻和ごまあえ、椀は山三つ葉とふな煎鳥いりとり銀杏ぎんなんの鉢と、田楽でんがくひたしといった献立だった。――今日は食事をするだけ、という約束で、ほかのことには話は触れなかった。そのくせ、ただこは彼の小さいじぶんのことを聞きたがり、いくら話しても、飽きずにあとをせがんだ。
あきれた方ねえ」とただこは笑った、「あなたの話は喧嘩と叱られたことばかりじゃありませんか」
「釣りをしていれば無事なんだ」
「それはそうよ、――」しかし彼女はふと眼を伏せた、「でも、こんなことになってみると、その釣りさえも無事ではなかったわけだわ」
「大漁だという意味か」
 彼女はあいまいに首を振った。眼を伏せたまま首を振るその動作は、いかにもよわよわしく、困惑しているようにみえた。だが、ただこはすぐに顔をあげ、彼を見て眼で笑いながら云った。
「だってあなたは、せっかく釣った魚を、いつも逃がしておしまいになるじゃありませんか」
「どう云おう」半三郎は笑おうとした、「困ったな、おれはこんなときうまくやり返すことができないんだ」
 ただこは乾いた声で笑った。自分で云った言葉に自分で「不吉」を感じたらしい、乾いたような声で笑いながらいそいで云った。
「それで手のほうが先になるのね」
「手が届きさえすればね」
 そのとき、池のほうで激しい水音がした。見るとすぐ向うの水面で、一羽のが暴れていた。長いくびをふりながら、翼でばたばた水を叩いている。傷でも負って苦しんでいるようにみえたが、よく見ると大きな魚をくわえていた。その魚が大きすぎてくちばしに余るのを、むりやりに呑み込もうとして、暴れているのであった。しかしもはや大きすぎたのだろう、魚はついに逃げてしまい、鵜は口惜しそうにそれを見送った。――それがいかにも口惜しそうで、「ちぇっ」と舌打ちをするのが聞えるようだったので、二人は思わず笑いだした。すると鵜は、その笑い声におどろいたように飛びたち、水面を低くかすめながら、源ノ森のほうへと飛び去っていった。
「いやだわ」ただこが笑いながら云った、「あの鵜はよっぽどしんまいなのね」
「そうらしいな」
「うちへ帰ってなんて云うかしら」
「黙ってるだろうね」
「そうね」とただこが云った、「――黙って、当分しょんぼりしているわね、きっと」
 二人は笑いやんだ。
 砂糖漬の杏子あんずで茶をのんでから、二人は別れた。こんどはただこが先に帰り、半三郎があとに残った。別れるとき、ただこはそっと彼に抱かれた。
「ではまた明日」ただこは囁いた、「あの淵でね」
「あの淵で」と半三郎が云った。
 ただこが去ると、彼は急に暑さを感じた。まるでただこが涼しさを持っていったように、むしむしと暑くなり、汗がにじんできた。彼は「はちや」と印のある団扇うちわを取り、寝ころんで池を眺めた。
 すると濡縁の向うへ、若侍が一人来て立った。木戸のほうから来て、そこに立ってこっちを見た。二十三、四歳の、蒼白あおじろせた、ひよわそうな若者であった。
「なんだ」半三郎が云った、「なにか用か」
 若者の顔がみにくくゆがんだ。
「いや」と若者は首を振った、「なんでもありません、失礼しました、誰もいないと思ったものだから、どうも、――」
 そして若者は木戸のほうへ去った。
 若者は四つ目垣の木戸をぬけると、母屋へはゆかずに、そのままへいに沿って裏へまわり、くぐり戸をあけて外へ出た。
「どうしよう」彼は立停った、「どうしよう」
 躯がふるえ、額から汗が流れていた。彼は右手に扇子を持ちながら、それで陽をよけようともせず、流れる汗にも気がつかないようすで、照りつける陽のなかを、そわそわと北野神社のほうへゆき、森を出て、鳥居前から駕籠かごに乗った。――駕籠屋は彼を知っているとみえ、丁寧すぎるくらいに挨拶をした。
「滝山へやってくれ」と彼は云った。
「へえ」と駕籠屋は云った、「滝山のお別荘でございますね、かしこまりました」


 半三郎のいつもゆく山道を、淵へおりずに四町ばかりゆくと、滝山という部落がある。そのまん中どころの、竹垣をまわした別墅べっしょづくりの屋敷の門前で、若者は駕籠をおりた。――それは藤江内蔵允くらのすけの控え家であった。藤江は藩の筆頭家老であり、若者はその長男で小五郎といった。
 門を入った彼は、すぐ左の柴折戸しおりどをあけ、若木の松林をぬけて、じかに母屋の縁側のほうへいった。そのとき縁側の向うから、若い侍女が鬢盥びんだらいを持って来かかり、小五郎をみつけて、吃驚したように会釈した。
「帰っているか」彼は云った、「奥だな」
 小五郎は縁側へあがった。
「はい、あの」と侍女は慌てた、「いまお知らせ申しますから」
「自分でゆく、おまえは来るな」
「それでも、あの」
「来るな」と彼はどなった、「来ると承知しないぞ」
 侍女は鬢盥を持ったまま立竦たちすくんだ。小五郎は足音あらく廊下をゆき、刀を取って持ちながら、右手の、障子のあいている座敷へ入ると、その隣りの部屋(やはりふすまがあいていた)へ踏み込んだ。そこにはさだがいた。汗を拭こうとしていたらしい、肌ぬぎ姿であったが、胸を浴衣の袖で隠しながら、こっちを見た。
 彼女の顔はするどくひき緊り、その眼は怒りのため燃えるようにみえた。
「みたよ」と小五郎が立ったままで云った、「蜂屋で男と逢っているところを、この眼で見たよ」
 さだは黙って彼をにらんでいた。
「なんとか云わないか」小五郎は云った、「おれは知っていたんだ、ずっとまえから、おまえは梅雨あけからこっち、泳ぎにゆくといって毎日でかけた、おれが来るといつも留守だ、それでおれは注意しだした、おまえは泳ぎゃあしない、泳ぐふりをして、毎日あの男と逢っていたんだ、違うか」
「よく御存じだわ」とさだが云った、「そのとおりよ」
「そのとおりだって」彼はふるえた。
「ええそのとおり、あなたの云ったとおりよ」
 彼は蒼くなった。彼はそういう返辞を聞こうとは予想もしなかった、彼は蒼くなり、かっとのぼせあがった。
「おまえは」と小五郎はどもった、「おまえは、正気でそう云うのか」
「そのおまえをよして下さい、わたくしまだ藤江内蔵允の妻ですから」
「父の妻だって」
「そして義理にもよ、あなたにとっては母の筈よ」
「このおれの母、――その汚らわしい女がか」
 さだは一瞬あっけにとられたように彼を見た。小五郎も「あ」という顔をした。さだの眼は突刺すようにするどかったが、その唇には微笑がうかんだ。ぞっとするほど冷たい、人をたじろがせる微笑であった。
「わたくしがまだといったのは、まだいまはという意味よ」さだは云った、「御心配には及びません、すぐにこの家を出てゆきますから、あなたはもうすぐ、この汚らわしい女を母と呼ぶ必要はなくなりますわ」
「口がすべったんだ、勘弁してくれ」小五郎はまた吃った、「気が立っているものだから、つい知らずあんな」
「いいえそうじゃありません、汚らわしい女と云われたから出てゆくんじゃありません、そうでなくとも、自分でなにもかも話してお暇を頂くつもりだったんです」
 さだは巧みに浴衣をひっかけて立ち、隣りの納戸へいって、箪笥たんすの音をさせはじめた。――小五郎は口をあけた。刀を持った右手をだらんと垂れ、納戸の物音を聞きながら、口をあけて大きくあえいだ。
「まさか、そんな」と彼は吃った、「出てゆくなんて、まさか、――本気でいうんじゃないだろうな」さだは答えなかった。
「そんなことはできない筈だ」と彼は云った。
 納戸で帯をひろげる音がした。
「そんなことができる筈はない」
 小五郎はふるえながら云った、「父はあんなに貴女あなたを愛している、結婚して三年このかた、父はなんでも貴女の云うままになって来た」
「あなたにそうみえるだけよ」
「なんでも云いなり放題だった、眉をおとさせない、歯を染めさせない、家政もみさせない、城下の屋敷がいやだといえば、すぐにこの控え家へ移ってくると、あの年で二里ちかい道を毎日お城へかよっている」小五郎はそう云った、「しかも父は不平らしい顔もしないし、元気でわかわかしくさえなった」
「そうみえるだけよ」納戸からさだが云った、「本当のことを知らないから、あなたにはそうみえるのよ」
「私だけじゃない、父を知っている者は誰でもそう云っている、まえの母に死なれてから、父はすっかり老いこんでいた」と小五郎は云った、「老いこんでいたときの父といまの父とでは、まるで人が違ったようだと誰でも云っている、それが嘘でないことは貴女にもわかる筈だ、そしてそれはみんな貴女のためなんだ、三十も年の違う貴女がいてくれるからだ」
 納戸で帯をしめる音がした。きゅっきゅっという帯をしめる音が、まるで彼女の返辞の代りのように聞えた。
「こういう父を置いて出てはゆけない、そんなことが人間にできる筈はない、それは自分がいちばんよく知っている筈だ」
「わたくし出てゆきます」さだが云った、「わたくしこのまま実家へ帰ります」
 彼女がぬいだ物を片づける音がし、箪笥を閉める音がした。
「あの父を置いてか、あんなに貴女を愛している父を、――」と小五郎が云った、「父がどんなになるかわかってもか」
 さだが納戸から出て来た。
「父は、父が、父を」とさだは云った、「あなたはお父さまのことばかり仰しゃるけれど、本当にお父さまのためを思うなら、わたくしが出てゆくのをよろこんであげなければならない筈よ」
「父のためによろこべって」
「口では云えないいろいろなことがあるわ、でもお父さまにはわたくしが重荷です」とさだは云った、「わたくしの云うなりになっているようにみえるのも理由があるし、元気でわかわかしくみえるのにも理由があります」
「それを聞こう、その理由というのを聞かせてくれ」
「云えません」さだは首を振った、「夫婦のなかのことは他人には云えません、ただ、三十以上も年下の妻をもっていることが、お父さまのからだにも心にもどんなに重荷であり、どんなに大きな負担だかということを、――三年間いっしょに暮して来たわたくしが、それをいちばんよく知っている、ということだけ申上げます」
「その言葉をそのまま信じろというのか」
「わたくしがいなくなればお父さまはほっとなさいます」
「そしておまえも」小五郎はまたかっとなった、「おまえ自身も、あの男といっしょになってほっとしようというのか」
 さだの眼がきらっとし、その唇にまた(あの)微笑がうかんだ。彼女は小五郎の眼をまともにみつめながら云った。
「それがあなたの本音ね」
「なんだって、――」
「それがあなたの本音よ」とさだは云った、「さっきから云っていることはお父さまのためじゃなく、みんなあなた自身のためよ、わたくしをけまわしたり、汚らわしい女だときめつけたのはあなたの嫉妬しっとだし、出てゆかないでくれというのはあなたの未練よ」
 小五郎の持っている刀が、小刻みに鞘鳴さやなりをした。


「あなたは気のよわい、卑怯ひきょうな人よ」とさだは云った、「あなたはわたくしを愛していた、わたくしを愛していたのに、お父さまがわたくしを欲しいというと、お父さまに自分のことが云えないで、わたくしのところへ来て、父の妻になってくれ、などと云った」
「だって、だって」彼はひどく吃った、「それならなぜ、おまえは、断わらなかった、おまえは承知したじゃないか」
「あなたはわたくしをお責めになるの」
「おまえは断わることができた筈だ」
「十六歳の娘のわたくしに」とさだは云った、「百石足らずの作事奉行の娘で、ようやく十六になったばかりのわたくしに、千石の筆頭家老の申し込を断われと仰しゃるんですか」
「しかしいま、いまおまえは、あの男のところへ出てゆこうとしているじゃないか、おまえにそんな勇気があるなら」
「そのおまえというのをよして下さい」さだは殆んど叫んだ、それから云った、「――いまこうする勇気が出たのは、わたくしが十六歳でなく十九歳になったからです」
「あの男のためにと云わないのか」
「あなたのためよ、あの方には関係はありません」
「おれの、――」と彼は吃った、「おれのためだって」
「あなたはずっとわたくしにつきまとっていました、自分で父の妻になってくれと頼みながら、わたくしが藤江家にとついで来てからもあきらめることができない、一日じゅう暇さえあればつきまとっている、お父さまに気づかれてはいけないと思って、それでわたくしこっちへ移ったんです」
「そんなことは嘘だ、おまえのでたらめだ」
「お父さまに気づかれてもいけないし、なにかまちがいでも起こったら取返しがつかないと思ったからです」とさだは云った、「それでもだめ、あなたはやっぱり来る、この控え家へまで、用もないのに三日とおかずいらっしゃる、もういや、もうたくさん、わたくしこの家を出てゆきます」
「藤江の家名や父の面目をつぶしてもか」
「あなたが初めに、三年まえに」とさだは云った、「お父さまにではなく自分の妻になれと仰しゃっていたら、決してこんなことにはならなかったでしょう、あなたにはそれを云う勇気がなかった、そしてこの場になっても、家名や面目などでわたくしを抑えようとなさる、あなたは卑怯のうえに狡猾こうかつだわ」
「云いたいことを云え、だが、――この家からは決して出さないぞ」
「そこをとおして下さい」
「出してやるものか、断じてだ」
 さだは静かに前へ進んだ。小五郎は立ちふさがった。しかし彼女がそれをよけて、次の座敷へゆくと、うろたえたようにあとを追った。
「待ってくれ」小五郎は云った、「せめて、せめて父上が帰ってからにしてくれ」
 さだは廊下へ出た。
「待たないのか、本当に出てゆくのか」
 さだは玄関のほうへゆきながら、召使の名を呼んだ。侍女が返辞をして出て来た。すると小五郎が喚いた。
「おのれ、出るな」
 侍女はふるえあがって、そのまま部屋へ引込もうとした。さだが振返った。
「義兵衛に云っておくれ」とさだは侍女に云った、「表へ乗物をまわすように、いそぐからすぐにと云っておくれ」
 侍女は小走りに走った。
「どうしても出るのだな」小五郎は逆上したように云った、「もういちど念を押す、どうしてもここを出てゆくつもりか」
 さだは玄関へ出ていった。
「よし、できるならやってみろ」
 小五郎は追っていった。彼の前袴まえばかまはさんであった扇子が落ちた、彼は玄関へ出て、刀を左の手に持ち替えた。
「できるならやってみろ」と彼は逆上した声で叫んだ、「おれはこの家から生かしては出さない、おれはきさまを斬る」
 さだが振向いて彼を見た。
おどしだと思うと間違うぞ、おれにはきさまを斬っていい理由があるんだ」小五郎は刀の柄に手をかけた、「おれは不義の証拠をつかんでいる、不義者を成敗するのは武家の作法だ、さあ、――出るなら出てみろ」
 玄関の向うへ駕籠がおろされた。
「履物をおくれ」とさだが云った。
 陸尺ろくしゃくの一人が草履を取って入って来た。さだは式台へおりた。すると小五郎が刀を抜いたので、陸尺は吃驚して外へとびだした。
さだ、――」小五郎が叫んだ、「斬るぞ」
 さだはもういちど彼に振向いた。
「どうぞ」とさだが云った。
 小五郎は刀を振上げた。刀がぎらっと光った。さだは草履をはいた。小五郎は振上げた刀の柄へ左手を加え、大上段に構えて式台へおりた。さだはおちついて草履をはき、静かに玄関を出た。
 小五郎は棒立ちになっていた。彼の大上段に振上げた刀が、ぎらぎらと光りながらこまかくふるえた。
 陸尺が引戸をあけ、さだは駕籠の中へ入った。陸尺は彼女の草履を取り、それから棒に肩をいれた。――小五郎は見ていた。駕籠はあがり、それから静かに門のほうへ出ていった。門を出て、ゆっくりと左に曲り、そうして見えなくなった。小五郎の腕が力なくさがり、刀の切尖きっさきが式台の板へ触れそうになった。
「どうしよう」と彼は呟いた、「どうしよう」
 彼は刀を(ぬぐいもかけずに)鞘へおさめた。そのとき道のほうで呶号どごうが聞えた。
 千切れるような叫びと呶号の声が――
 小五郎は足袋はだしのままとびだした。とびだしていって門の外へ出ると、二十間ばかり向うに駕籠が見えた。その駕籠が殆んどほうりだされ、二人の陸尺が道傍みちばたへとびのくのが見えた。陸尺たちは竹藪たけやぶの中へとび込んだ、駕籠は道の上に斜めに置かれ、そこへ奔馬が突っかけて来た。たてがみを振り乱し泡をんだ馬が、狂ったようにひづめで大地を叩き、うしろに土埃つちぼこりを引きながら殺到して来て、蹄を駕籠に突っかけた。小五郎は「ああ」といった。
 馬は前肢まえあしを駕籠に踏み込み、駕籠といっしょに転倒した。濛々もうもうと舞い立つ土埃がそれを包んだ。馬はするどくいななき、二度ばかり四肢をはねあげ、そして起きあがるとともに、もと来たほうへ疾駆していった。――陸尺が道へとびだして来、二人で駕籠を起こそうとした。そこへ小五郎が走っていった。駕籠は潰れていて、起こそうとすると屋根が取れた。
さだただこ」小五郎が叫んだ。
 彼はこわれた引戸を外そうとした。
「よけられなかったのです」陸尺の一人が云った、「あんまりいきなりだったもので、どうよける法もなかったのです」
 引戸が外れた。さだの躯は坐ったままねじれ、上半身が仰になっていた。ねじれた躯の帯の上が血に浸り、その部分がみるみるひろがるようであった。
ただこ」小五郎はがたがたとふるえた、「聞えるか、ただこ、私だ」
「迎えに来て下すったの、あなた」とさだは云った、「迎えに、――うれしいわ」
 彼女の眼はうつろだった、空虚な、瞳孔どうこうのひらいた眼で、そこにいる誰かを求めでもするように、空を見た。
「あたし、なにもかも、いいようにして来ましたわ」彼女は嗄れた声で囁いた、「――なにもかも、……さあ、まいりましょ、あたしに、あなたの、そのお手を、かしてちょうだい」
 さだは手を伸ばした。まるで誰かの手を求めでもするように、しかし伸ばした手は途中で落ち、その頭はぐらっと左へ傾いた。――さだの呼吸が絶えた。


 淵には九月の、乾いて冷える風が吹いていた。半三郎は爼板岩の上で、釣糸を垂れていた。
「おい」と彼は爼板岩に云った、「今日もだめか、え、――頼み甲斐がいのないやつだ、おまえ頼み甲斐がないぞ」
 半三郎は向うを見た。向うの断崖の裂け目には、実生みしょうの小松や、かえで黄櫨はぜなどが枝を伸ばし、すすきが茂みをつくっていた。川下から風が吹きあげて来ると、それらがつぎつぎに、互いになにか囁きあうかのように、つぎつぎに揺れていった。芒は穂をぬき、黄櫨の葉は鮮やかに紅く染まっていた。
「あいつはぬけ作だ、段平のやつは」彼はまた爼板岩に云った、「あいつは、捜しようがねえですだよ旦那、などと云やあがった、――おい、聞いているかきょうだい、段平のぬけ作は、さだなんて名めえは幾らでもあるだ、すぐ向うの筆屋の娘もそうだし、その娘のばあさまもさだっていうだ、もしもなんなら、旦那がお順繰りに一人ひとり見て歩くがいい、おらはお顔もお姿も知らねえですだで、逆立ちしたって捜し出せやしねえだよ、……あいつはぬけ作のうえに人情のない野郎だ、そう思わないかきょうだい」
 彼は手で爼板岩を叩いた。
 蜂屋で逢って以来、ただこは姿をみせなかった。この土地に知人のない彼は、人に訊くこともできず、また、人に訊けることでもなかった。城下町をどれほど歩きまわったことだろう、――ただこは淵へも来ず、その姿をみせもしなかった、そうしてもう、七十日ちかい日が経っていた。
「あの日のおまえはきれいだった」半三郎は水を眺めながら云った、「本当にきれいだったよ、ただこ
 彼の眼がうるみ、声がふるえた。
「おまえあのとき、また明日、――って云ったろう、また明日、あの淵でって云ったじゃないか」彼は眼をつむり、そうして囁いた、「どうして来ないんだ、どこへいってしまったんだ、ただこ、おまえいまどこにいるんだ」
 半三郎の持っている竿がしなった。もっと大きく撓い、水面で魚が跳ねた。彼はその撓う竿を持ったまま、頭を垂れた、低く頭を垂れて、そして口の中で囁いた。
ただこ、――」
 水面で魚のはねる大きな水音がした。





底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
   1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「講談倶楽部」博文館
   1954(昭和29)年8月号
※初出時の表題は「美女ヶ淵」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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