艶書

山本周五郎





 岸島出三郎きしじまいでさぶろうはその日をよく覚えている。それは宝暦ほうれきの二年で、彼が二十一歳になった年の三月二日であった。よく覚えている理由は一日に二つの出来事があったからで、その一つは道場の師範から念流ねんりゅうの折紙をもらったこと、他の一つは新村家にいむらけの宵節句に招かれたこと、そうしてその宵節句の席で、彼は(不明の人から)艶書えんしょをつけられたのであった。
 岸島の家は老職で、代々「加判かはん」という役が世襲になっている。一般に「加判」は老職連署のことであるが、この藩では監査という含みがあり、公文書を検討しこれを認証する意味をもっていた。それも近来は形式的な役目になっているが、事のあった場合には責任を問われるので、まるっきり閑職というのでもなかった。――三男はたいてい暴れん坊ときまっているようだが、出三郎は幼いころからのんびりしたおとなしい子であった。長兄の和兵衛わへえは短気だし、次兄の林二郎りんじろう癇癪持かんしゃくもちで、二人はたえまなしに喧嘩けんかしていた。おもしろいのは父の元右衛門もとえもんも強情で一徹だったから、しばしば喧嘩は三人に発展する。父子おやこ三人がまっ赤な顔になり、唾をとばしてわめきあったりどなりあったりする。なかなかの壮観であるが、三男の出三郎だけは決してそのなかまに加わることはない。彼は脇のほうで黙って、びっくりしたような眼つきで眺めているばかりだった。
 ――生きているのか死んでいるのかわからないやつだ。
 父の元右衛門はよくそう云って舌打ちをした。すると母のかな女は悲しげに云うのであった。
 ――こんなにおとなしいのは一生部屋住みでいるように生まれついたからではないでしょうか、わたくしにはそんなふうに思えて、可哀そうでしようがございませんわ。
 母親の予感というものはばかにならない。次兄の林二郎は十五歳のとき原田又左衛門へ養子にいったが、出三郎には思わしい縁もなく、二十一歳という年を迎えてしまった。
 そのまえの年、宝暦元年(十月改元)の二月に長兄が結婚し、同じ十月に父が病死した。それを機会に出三郎は母屋から出て、邸内の別棟の住居に移ったのであるが、それはもと足軽長屋だったのを建て直したもので、八じょうと六帖に長四帖の板の間があり、勝手もついていた。うしろには井戸、井戸端からすぐ向こうに隣りの新村邸の生垣が延びていて、新村家じまんの梅林がよく見えた。――彼はむろん炊事はしない。三度の食事や茶には母屋から知らせに来る。朝食あさしょくがすむと弁当を持って、立志館りっしかんという藩校と、求真堂きゅうしんどうと呼ばれる念流の道場へ通い、また兄の用事を手伝うというのが日課である。もっとも兄の用事は公務多忙のときで、これは年に二三回のことにすぎなかったが、――
 さて彼は三月二日に、求真堂の師範から流儀の折紙をもらった。もらわずに終わる者よりましだろうが、二十一歳という年では決して早くはない。師範はそのとき次のようなことを云った。
「そのもとは精勤であるし、手筋も晩成型のようであるから、今後なお勉励すれば腕前はさらに上達すると思われる、どうか怠りなく修業を続けられるように」
 出三郎は心の中で「どういたしまして」とつぶやいた。彼はもともと剣術が好きではなかった。求真堂へ入門したのも長兄の命令で、剣術でもやったら少しはしゃっきりするだろう、という意見からであった。その兄も結婚し家督相続をしたいまでは、もう彼のことなどに関心をもっていないようだし、まったく予期しない「折紙」などもらったことではあり、自分ではもう道場をやめる決心をしたのであった。
「御期待にそむくようで恐縮ですが」と出三郎は云った。
「じつは家事の都合がありますので、残念ながら今日限り退門させていただきます」
 師範はいい顔はしなかった。だがむりにひきとめたいというようすでもなかった。そうして、彼は帰宅してもそのことは誰にも(母にさえも)黙っていた。それには理由があったのであるが、――
「これでよし」と出三郎は手をこすりながらひとり言を云って、「ついでに藩校のほうも退学しよう、そしてこれからは矢立やたてと帳面を一冊と弁当を持って、毎日ゆっくり歩きまわるんだ、しめたぞ」
 そしてその夜、彼は新村家の宵節句に招かれた。
 宵節句の招待は毎年の例であった。新村は隣り屋敷で、家格は岸島よりやや低く、あるじ勘右衛門かんえもんは七百二十石の中老を勤め、夫婦のあいだに二男一女があり、末娘の七重ななえと出三郎とは幼なじみであった。家族同士も往来しないことはないが出三郎と七重とが両家の交際を代表しているようなものであった。――七重は彼に似て(これまた末っ子にもかかわらず)おっとりと無口なたちで、兄たちとは年もはなれているし、ほかにまだ友達のないじぶんは、庭のすみなどでしょんぼりとひとりで遊んでいるというふうであった。髪の毛が少しあかく、まる顔のおちょぼ口で、眼はいつも泣いたようにしっとりしているし、ふっくらとした頬には水蜜桃すいみつとうのようなこまかい生毛うぶげが生えていて、笑うと唇の両はしにえくぼがよれた。
 ――あたくちあなゑというのよ。
 彼女は初め自分の名をそう教えた。舌っ足らずになまったのだろう、のちには直ったけれども、初めのうちはわからなくて出三郎はどう呼んでいいか当惑したものであった。
 両家の庭境は笠木塀かさぎべいになっているが、一部だけ柾木まさきの生垣のところがある。二人はその生垣の間をぬけて、どちらかの庭へ入って遊んだ。二人ともほとんど口をきかない、誇張していえばつんぼおしのようなぐあいで、ちょっとした手まねや身ぶりや、簡単なめくばせなどで充分に用を弁じた。これはお互いが成長するにしたがって幾らか違ってはきたが、根本的には変化がないといってもいい。新村夫人のせきじょなどは、しばしば不審そうな眼つきで、二人を見くらべながら云うのであった。
 ――あなたたちってまったくへんよ、なんにも云わないのにお互いの気持がそんなによくわかるなんて、まるで暗号ででも話してるみたようだわ。
 彼が宵節句に招かれることは、母親のかな女だけしか知らなかった。父や兄たちにはずっと内証だった、知っていたら許されなかったばかりでなく、たぶんあたまから叱りつけられ、軽蔑けいべつされたことであろう。ひな祭りだから集まるのは女性ばかりだし、そんな席へ武家の男子たる者がのこのこでかけてゆくなどということは、まったく常識はずれだったからである。


 その夜は珍しく、彼のほかにもう一人男の客があった。名を笠井忠也かさいちゅうやといい、父の十兵衛は九百五十石の老職である。出三郎とは求真堂の同門で、年は二十五歳、剣術も学問もあまり出来はよくないが、社交上手とでもいおうか、性格ははでで調子がよく、新柳町の花街かがいではなかなかの遊び手だといわれ、いろめいたうわさが絶えなかったし、出三郎などもそのうちの幾つかが事実であることを知っていた。
 ――笠井は家が裕福だし、一人息子だし、男ぶりがいいときているからかなわないよ。
 青年たちはそう評しているが、しばしば忠也に馳走されるので、悪口を云う者はあまりなかった。
「珍しいところで会いますねえ」忠也は出三郎を見てあいそよく笑った、「聞きましたよ今日、折紙をもらったそうじゃありませんか」
 出三郎はあいまいに口を濁した。
 招かれた娘たちは六人。――一人だけ知らない顔がみえたがあとはみな出三郎と顔なじみであった。毎年の例で新村家じまんのなれずしと白酒が出、娘たちがそれぞれに芸ごとをした。琴はこの家の七重と井口かしこ、鼓は永田松枝、仕舞しまいは藤井かなえ、そうして新顔の娘は大場いねといい、これは三げんをみごとに弾いた。永田松枝の従妹いとこに当たる永田幾代と、縹緻きりょうでは群をぬいている三波ふみとはなにもしなかった。二人だけはいつも見ているばかりである。笠井忠也は知らないから、「なにかやれ」とくどくすすめた。
「わたくしたちだめなんですの」永田幾代が赤くなって云った、「二人とも本当の芸なしなんですもの、ねえ三波さま」
 三波ふみはにやにやしながらうなずいた。この娘はずばぬけて美しいが、頭の悪いほうでもひけはとらない。忠也がなおしつこくせがむと、やはりにやにやしながら云った。
「あたし手毬てまりなら誰にも負けないんだけれど」
 娘たちは笑いだし、忠也がけげんな顔をしたのでさらに笑いくずれた。
 それから歌留多かるたになったが、出三郎は二度だけつきあって先に帰った。忠也の座持ざもちがいいので、娘たちはすっかり興に乗り、いつ宴が終わるかわからないからである。七重は脇玄関まで送って来て、なにやら気づかわしそうに云った。
「お気を悪くなさいまして」
「いやべつに」と彼は七重を見た、「もうおそいですから、兄にみつかるとね」
「それで安心いたしましたわ」
 七重は微笑しながらうなずいた。彼女の頬にえくぼのよれるのを見て、出三郎も微笑しながら別れを告げた。
 家へ帰った彼は、母の部屋へちょっと寄って、すぐに自分の住居へ入った。行燈に火をいれ、着替えをしながら、出三郎は部屋の中を眺めまわして溜息ためいきをついた。新村家のはなやかなつどいとはおよそかけはなれた、湿っぽくて陰気な、うらかなしいけしきである。
「これがおれのついの棲家すみかだ」彼は溜息をつきながら呟やいた、「おれはこの部屋で年をとり、やがていつかは兄の家族の誰かにみとられて、この部屋で死ぬんだ」
 白酒の酔いで幾らか感傷的になっていたのかもしれないが、笠井忠也の陽気でこだわりのない性分や、娘たちを興がらせる巧みな遊びぶりを思い、あの娘たちの誰とでも結婚できるし、黙っていても九百五十石の老職になれるのだ、などと考えると、うらやましいよりはむしろ哀しいような、泣きたいような気分になるのであった。
 脱いだ着物をたたんでいると、たもとの中から一通のふうぶみが出て来た。
「なんだ」と出三郎は手に取って眺めた、「手紙じゃないか、――おかしいな」
 おもてに「いでさま」と女文字で書いてある。彼は行燈のそばへ寄って封をひらいた。よんでみると恋文であった。
 ――自分はずっとまえからあなたが好きであった、初めは単純な気持で、あなたのことを想っても楽しく好ましい気分になるだけであった、生涯きょうだいのようにおつきあいができればいい、というふうに考えていたのであるが、少しまえからはあなたにお会いしても苦しく、お会いしなければなおさら、ただもう悩ましく辛い時間ばかり続くようになった。あなたはもちろん御存じないだろう、自分もお会いすればなにも云うことはできない、けれどもこのおもいを一生胸に秘めたまま終わらせるのはあまりに悲しいので、不躾ぶしつけではあるけれど手紙に書いてさし上げる気になった。あなたにお渡しする機会があるかないかわからないが、もしお手に取るときがあったら、こんな娘がいるということを思って、あわれんでやっていただきたい。
 そして最後に「恥ずかしいからわざと名は書かない」ということが記してあった。
 読み終わったとき、出三郎の顔は赤くなっていた。胸がどきどきし、ひどく口がかわいた。「誰だろう」と呟やき、もういちど読み返した。誰だろう、その着物の袂に入っていたのだから、新村家にいた娘たちの誰かに相違ない。
「七重だろうか、いやそうではない」と彼は首を振った、「渡す機会があるかないかわからないと書いてある、七重ならそんな機会はいくらでもある、井口のかしこという娘はまえから新村でよく会うが……しかしいちばん親しいのは永田の松枝だろう、けれどあの娘は縁談が定っているはずだ」
 こんなふうに考えているうちに、出三郎はふとぎぎっとし、おちつかない眼であたりを見まわした。
 ――悪戯いたずらをされたんだよ。
 そういう声が聞こえたように思ったのである。もちろん心の中の声だが、まるでそこに誰かいて、うしろからそっとささやきでもしたような感じであった。彼は急に興冷めた気持になり、渋い顔をして手紙を投げだした。
「まあそんなところでしょう」と彼は自分に云った、「こんな部屋住みの、こんな気のきかない人間に、本気で恋をするような娘があるわけはない、まあうぬぼれないほうがいいでしょうな」
 しかし実際にはそう簡単に割り切れるものではない。本当にそういう娘がいて、自分のために悩んでいるという気もする。同時にそれが誰かの悪ふざけで、当人は共謀者(あるとすれば)といっしょに、どこかでくすくす笑っているようにも思えた。
「そうだ、七重に話してみよう」やがて、眠れない寝床の中で彼はそう呟やいた、「七重に話してみれば見当がつくかもしれない、少なくとも悪戯かどうかくらいはわかるだろう」
 明くる朝。――
 井戸端で顔を洗っていると、生垣越しに七重の姿を認めた。彼女は紫色の地にこまかく花を染めだした振袖を着、金茶色の帯をしめ、髪にはかんざしがきらきら光っていた。まるですぐ外出でもするような姿で、梅林の中に立ってどこかを眺めている。――きれいだな。出三郎はそう思いながら、両手を口に当てて鳩の鳴き声をまねた。それがお互いを呼ぶときの合図で、七重はすぐに聞きつけ、こちらを見て微笑すると、静かに林をぬけて近づいて来た。


 ゆうべの礼を云ってから、出三郎はまぶしそうに彼女を見た。
「どこかへでかけるんですか」
「これ――」と七重は振袖の手を左右へひろげ、そして微笑しながら首を振った、「いいえ、ちょっと着てみただけなんです、早く起きてしまって退屈だったものですから」
「たいへんきれいだ、わからないけれど」
「うれしいわ」と七重は彼を見た、「初めてですわね、きれいだなんて云ってくだすったの」
 出三郎は眼をそらした。七重の視線がいつになくきらきらするようで、どうにも見返すことができなかったのである。それから彼はふと思いだしたように、「見てもらいたい物があるからちょっと待っていてくれ」と云い、家へ入って艶書を取って来た。
「笑わないでこれを見てください」出三郎はそう云いながら、その手紙をさし出した、「ゆうべ帰ってみたら袂の中に入っていたんです、かまわないから読んでください」
 七重はさっと赤くなった。赤くなりながら両手をうしろへまわし、その手紙のほうは見ずに云った。
「それ、お手紙なのでしょ」
「そうです、ひと口にいえば艶書です。もっとも書いてある文句を信ずればですがね」
「だって」と七重は口ごもった、「信ずればって、どうしてですの」
「だってわかるでしょう」と彼は云った、「私のような部屋住みでくすぶっている人間に、本気で恋文をつけるような者がいるはずはない、ゆうべ来た人たちの誰かの悪戯だと思うんです、あなただってそう思うでしょう」
 七重はなにか云いそうにしたが、云いかねたようすで、ただそっと首を振った。
「読んでみてください」と彼は云った、「そうすれば筆癖で誰だかわかるでしょう。わかってもべつにどうもしやあしませんよ、悪戯だということをたしかめればいいんですから」
「いいえ――」七重はうしろへさがった、「わたくしにはできませんわ、そんなこと、わたくしいやでございます」
 いちど赤くなった七重の顔が、このとき額のあたりからあおざめ、唇をかみながら、怒りのようなまなざしでこちらを見あげたと思うと、出三郎の呼びとめる暇もなく、身を翻がえすようにして去っていった。
 ――これはいけない、怒らせてしまった。
 出三郎は舌打ちをした。梅林のかなたへ小走りに去ってゆく七重の、鮮やかに白い足袋の色が、あたかも彼女の怒りを代弁するかのように思われる。彼はもういちど舌打ちをし、持っている艶書を袂へ突っ込んで、がっかりしながら家へ入った。
「お互いの仲だからいいと思ったんだが」と彼は呟やいた、「幼なじみだから笑って見てくれると思ったんだが、――やっぱり年ごろの娘に恋文を読めなどというのは、悪かったかもしれない」
 ばかなことをした、と彼は自分をののしった。ことによるとこれで七重との長い友情もだめになるかもしれない。おそらくもう七重は自分とは会わなくなるだろう。彼はそんなふうにも思った。
 しかし実際にはそんなことはなかった。
 四五日経ったある日、庭で見かけたので呼んでみた。だめだろうと思いながら、鳩の声をまねて呼ぶと、七重はすぐに聞きつけて振り返り、微笑しながらこっちへ近づいて来た。出三郎はほっとして、おじぎをしながらあやまった。
「いいんですのよ」と七重はやさしく云った、「そんなに怒りはしませんわ、でも、これからあんなことなさらないでね、他人のふみを読ませるなんて、あなたにも似合わないことですわ」
「あなたでなければあんなことはしなかったんだが」と彼はもういちど低頭した、「もちろん、もう二度とはしませんよ」
 七重は微笑しながらうなずいた。
 出三郎は立志館へも退学届けを出した。家人には内証である。そうして毎日、兄嫁のこしらえてくれる弁当を持ち、一冊の帳面と矢立を風呂敷に包んで家をでかけ、夕方までひとりで歩きまわった。――出三郎は少年じぶんから、地誌伝説の類に興味をもっていた。いつかおりがあったら領内をまわってそれらの資料を集めてみたいと思っていたが、こんどようやくその望みが達せられたわけである。
 部屋住みとなれば時間は余るほどある。年に二三回、兄の用事を手伝うほかは、べつに束縛されることもない。小遣こそ不自由であるが、そんなふうに歩きまわる分には、誰から小言を云われる心配もなかった。
 五月になってから、彼は七重に縁談が定った、ということを聞いた。もう十七だから、それだけならふしぎはないのだが、相手が笠井忠也だというので驚いた。
「それはだめだ」出三郎はひとりで首を振りながら呟やいた。
「それはいけない、ほかの娘ならともかく、七重にあの男はいけない」
 彼は忠也に隠し子のあることを知っていた。
 忠也が新柳町の花街かがいで遊ぶことはまえに記したが、そこの「稲村」という料亭の娘が忠也の子を産み、すでに三つになるし、笠井家から月々の手当がいっているということを、出三郎は知っていたのである。
 ――知らずに嫁にいって、あとでわかったら、七重はどんなに苦しむだろう。
 そう思うと出三郎にはたまらなかった。
「話さなければならない」と彼は自分に云った、「そのうえで七重が嫁にゆくならいいが、知らないままでやっては可哀そうだ、おれがその事実を知っていて話さないという法はない」
 彼はそう決心した。他人の秘事をもらすことがいいか悪いか、そんなことは考えもしなかった。そしてすぐに、七重に会うために庭へ出ていった。
 かなり久しく呼びあわなかったので、鳩の鳴きまねにもうとくなったものか、七重が出て来たのは三日めのことであった。それはけぶるような五月雨さみだれの午後で、新村邸の梅林には、雨にぬれたこまかい葉蔭に、うれた梅の実が点々と眺められた。七重は菖蒲あやめの模様の着物を着て、素足に高足駄をはき、かさの蔭から微笑しながらこっちへ来た。出三郎は身ぶるいをした。さしている傘の紺色に染まって、七重の顔はあやしいほど美しかった。におやかに微笑したその美しい表情を見たとき、彼は自分が七重を愛していることに気づいた。
 ――そうだ、おれは七重を愛していた。
 出三郎は心の中でそう叫んだ。
 ――ずっとまえからおれは七重を愛していたんだ、笠井の秘密を告げようと思ったのは、七重のためではなく嫉妬しっとかもしれない、そうだとすれば話すのは卑劣だ。
 出三郎は背筋が汗ばむのを感じた。
「ずいぶんおめにかかりませんのね」七重が近づいて来ながら云った、「わたくし幾たびもお呼びいたしましたのよ」


 出三郎は苦しそうに笑いながら云った。
「おめでとう、お輿こし入れだそうですね」
「まだ早いからって断わったんですけれど」と七重は云った。
「向こうでは待てないっておっしゃるし、兄もしつこくゆけって云うものですから、とうとう承知してしまいましたの」
「ではまもなく祝言ですね」
「この二十八日ですって」七重はじっと彼の眼をみつめた。
「――お呼びになったのはそのことですの」
「ええ、まあ、――そうです」
 出三郎はまた背筋の汗ばむのを感じた。言葉がのどまでつきあげてくる、話してしまえ、いやだめだ、話すほうがいいぞ、だがそれは卑劣だ、そんな自問自答が、頭の中でくるくると渦を巻くように思えた。
「もうこんなふうにしておめにかかれなくなりますからね」と彼は眼をそらしながら云った、「最後にひと言だけ……お別れにさし上げたい言葉があったんです」
 七重は彼をみつめたままうなずいた。
「世の中には苦しいことや悲しいこと、辛いことやけがらわしいことがたくさんある」と彼は云った、「あなたも結婚すれば、どうしてもそういうことを経験しなければならない、そういうとき絶望したり、やけになったりしてはおしまいです、人間にもそれぞれ弱点がある、醜い、いやらしい面が誰にだってあるものです、苦しみや悲しみや、醜さやいやらしいことを経験し、そういうものに鍛えられて、はじめて人間はおとなになってゆくんです、わかりますか」
 七重の眼に涙がうかんできた。彼女はその(涙のうかんだ)眼で、なお出三郎をみつめながらうなずいた。
「もういちど云いますが、世の中には美しいことばかりは決してないものです、どうかそれを忘れないでください」出三郎はこう云って七重に微笑してみせた、「自分が若いくせにこんなことを云う資格はないだろうが、七重さんとは長いつきあいだったし、餞別せんべつにさし上げる物もないものだから」
「ありがとうございます、おっしゃっていただいたことは忘れません」七重は指で眼をおさえながら云った、「――うれしゅうございますわ」
 出三郎は彼女の姿をじっとみつめた。たっぷりある重たげな髪、ふっくらとした頬、小さな肩から豊かな胸となり、腰から脚へとながれる、つややかに柔軟な線。
 ――早く忘れることができればいいが。
 胸にするどい苦痛を感じながら、そう思って彼は眼をそらした。
 七重の婚礼には兄夫婦が出た。むろん、部屋住みで独身の彼などに出席できるわけはない、彼は二十八日の夜をひとりで祝杯をあげた。兄が酒を飲まないので、ふだん家には酒がない。彼は母に頼んで少しばかり買ってもらい、自分の部屋へぜんを運ばせて、七重の幸福を祝って飲んだ。
 日がたち月がたった。
 秋の彼岸に七重が訪ねて来た。実家に来たついでに寄ったのだそうだが、出三郎は資料集めに出ていて会えなかった。
いでさんがいないので残念がっていましたよ」
 母がそう云った。彼は無関心をよそおっていた。一日も早く忘れたいと思うし、また他人の妻になった姿などは見たくない、会わずにすんでよかったと、ほっとしたくらいであった。
 明くる年の夏のはじめに、出三郎は思いがけない知己を得た。
 彼には立志館の先輩であり、兄には旧友の定高半兵衛さだたかはんべえという男がいた。定高はやはり老職であるが、半兵衛は実子ではなく、林久太夫はやしきゅうだゆう(留守役三百石)の三男から養子に入ったものであった。立志館でも俊才といわれたし、求真堂でも師範をしのぐと評された。三年まえ藩侯の側近へあげられて、江戸、国許くにもとともおそばらずだったが、そのとき展墓てんぼのため(理由はほかにあった)帰国したといい、兄の和兵衛を訪ねて来たついでに、出三郎の住居をのぞいたのである。
 出三郎はすっかりまごついた。
 定高半兵衛ともある者が、わざわざ彼の住居などへ来ようとは、まったく思いがけなかったからである。だが相手は気軽にあがりこみ、こちらの挨拶など聞きながして、部屋の中を見まわしながら云った。
「人から聞いたんだが、郷土誌の資料を集めているそうじゃないか」
「いや、それは」出三郎は狼狽ろうばいした、「それはそんな、たいそうなものじゃないんです、ただ暇つぶしにやっているだけで」
「書いたものがあるんだろう、ちょっとみせてくれないか」
 出三郎は赤くなってこばんだ。しかし半兵衛はそれが目的で来たらしく、さっさと立って部屋の一隅へゆき、そこの机辺きへんに置いてある筆記類を、自分で取って見ようとした。
「待ってください」出三郎もしかたなしに立っていった、「そんなにおっしゃるならごらんにいれます、まだ始めたばかりですし、本当に自己流のつまらないものなんですが」
「つまらないかどうかはおれが判断するよ」
 半兵衛は無遠慮に云って、彼のさし出す筆記をたんねんに見ていった。
 ――どうしてこれがわかったろう。
 出三郎はにおちなかった。あとでわかったのだが、半兵衛は藩政の広汎こうはんな改革を計画し、そのために領内全般へ、ひそかに下調査の手をのばしていた。その調査網に、出三郎の行動がひっかかったというわけである。……これは後日わかったことで、そのときは知らないから、出三郎はまるで化かされでもしたような気持だった。
「すまないが水をくれないか」と半兵衛がそこへ坐りながら云った、「あっちで酒を飲んだものだから喉がかわいてしようがない」
「ここには本当に水しかないんですが、茶をいれて来ましょうか」
「そいつを頼もう、茶のほうがいい」
 おちついて筆記を見るつもりらしい、出三郎は母屋へ茶を取りにいった。
 半兵衛はすっかり見終わってから、紙と筆を求めて次のような項目を書いた。「林相りんそう」「土壌」「空閑地くうかんち」「水利」というのである。彼はそれを出三郎にわたして云った。
「すまないが在々をまわるついでに、これだけのことを調べてくれないか、費用はおれが持つよ」
「いや、そんなものはいりません」
「部屋住みのくせに負け惜しみを云うな」半兵衛は紙入からなにがしかを取り出し、懐紙に包んで机の上に置いた、「おれもそう融通がきくわけじゃないから、半年ごとにこれだけとめよう、それでやってくれるか」
「お役にたつかどうかわかりませんが」
「役にたつようにやるのさ」半兵衛はにやっと笑った、「――こういう人のためにもね」
 そして机の上を指さした。そこに一通の手紙が置いてあった。出三郎はどきりとした、それはいつかの艶書だったのである。
「その筆記の中にはさまっていたんだ」
「お読みになったんですか」
「好奇心が強いんでね」半兵衛はからかうように笑った、「兄貴は知らないんだろう、相手はどういう人なんだ」
「冗談じゃない、それは誤解ですよ」
 出三郎はへどもどしながら、その艶書のいきさつを手短かに話した。半兵衛は信じかねるようだった。艶書をつけられたのは一通だけで、その後は(機会のないためかもしれないが)まったくそんなことがないのだから、誰かの悪戯いたずらだということはほぼ確実である。彼はそう説明したのだが、半兵衛はそうは思わないようであった。
「おれはそうは思わないな、おれにはどっちでもいいが」と半兵衛は云った、「この文章はふざけて書いたものじゃない、文章というやつはなかなかごまかせるものじゃないよ、――しかし、これだけ想われていて、相手の見当がつかないというのは迂愚うぐなるもんだね」
「自分でもそう思いますよ」
「女遊びをしたことがないんだろう」半兵衛はこう云って立ちあがった、「おれがこれから新柳町をおごってやる、兄貴にそう云って着替えて来いよ」
 断わっても承知しないらしい。出三郎はかなり迷惑だったが、しかたなしに母屋へ着替えにいった。


 つれてゆかれたのは、新柳町の「角万かどまん」という料亭であった。角万は第一流で、おもに藩の重役とか大商人などを客にしている。松屋川の河岸かしに面して、別棟になった離れ屋も三棟ばかりあった。半兵衛は芸妓げいぎを五人あげ、「この男はまだ女の肌を知らないんだ」などと云って出三郎を紹介した。
「この中でわれこそと思うやつは口説いてみろ、口説いてものにしたら褒美をやるぞ」
 おんなたちはきゃあっと声をあげ、いっせいに出三郎を取り巻いた。彼はほとんど逆上したような気分になり、虚勢をはる元気もなく、小さくなって酒ばかり飲んでいた。
 半兵衛は七日ばかりいて江戸へ帰った。
 おどろいたことには、半兵衛の包んだ金は二両あった。もし半年ごとにそれだけくれるとすれば年に四両である。出三郎は少なからず昂奮こうふんした。彼が兄から支給される小遣は(もちろん小遣だけであるが)一年に二両二分と定っている。そこへ四両というものが入るとすれば相当な高で、これは彼が昂奮するのも無理はなかった。
「なにが仕合せになるかわからないものだ」と出三郎は自分に云った、「合わせて年に六両二分といえば、ちょっとした御役についたも同様だからな、おまけにこっちの道楽のついでに出来る仕事なんだから、しかし、……彼はどうしておれの資料集めを知ったんだろう」
 その点がまだ腑におちなかった。そして四項目の調査もなんのためのものかわからなかったが、かくべつ知る必要もなさそうなので、そんなことは考えないことにし、(こんどは)たいそう豊かな心持で領内をまわるようになった。
 年が明けて宝暦四年の三月、参勤さんきんのいとまで帰藩した長門守宗寿ながとのかみむねとしとともに、定高半兵衛も帰って来た。
 出三郎は三日ごとに定高邸へいった。それまでに調べた事項が、半兵衛の要求に合っているかどうか、とくに「土壌」の項に自信がなかったので、その意見が聞きたかったのである。半兵衛は結構だと云った。
「稲田を麦作に使えないかと思ったんだ、稲を苅ったあとの田を、半年も遊ばせておくのはもったいないんでね」半兵衛は彼の調書を見ながら云った、「肥料をべつにして、土質がどうか知りたかったんだが、これでいい、これからもこの方針でやってもらおう」
 そうして、ふいにこちらの眼をみつめてから云った。
「艶書のぬしはわかったかね」
 出三郎は返辞をせずに調書を片づけた。
 明くる年の二月、藩主といっしょに出府しゅっぷするまで、半兵衛はしきりに出三郎を「角万」へつれだした。半兵衛の遊びぶりは相変わらずで、よくいえば豪放というのだろうが、あんまりずけずけと露悪的なので、出三郎はいつも辟易へきえきするばかりである。それでなるべく避けようとするが、半兵衛はおもしろがってでもいるようなぐあいで、巧みにつかまえてはつれ出すのであった。
 七重の消息はほとんど聞かなかった。いちど「角万」の廊下で笠井忠也に会ったことがある。泥酔して、芸妓に支えられながら、手洗いにでもゆくようすであったが、出三郎をみつけるとあいそよく笑いながら、ひょろひょろと寄って来て、肩を叩いた。
「これは驚いた、こんなところであんたに会おうとは思いがけない」忠也はなれなれと云った、「どうです、私の座敷へ来ませんか、いっしょにひとつ盛大に」
 出三郎はつれがあるからと断わった。忠也は醜い顔になっていた、相貌が変わったわけではなく、ぜんたいの印象がよごれて、腐ったにおいでも発散するような感じだった。
「あんたは堅いんだってな」と忠也はあいそ笑いをした、「あんたのことは七重から聞いたよ、まじめで堅い人物だって、こんなところで会ったなんて云っても信用しないだろう」
 出三郎は黙っていた。
「あれも堅い女だ」忠也は続けた、「いつまでも堅くてまじめで、おまけに病気ばかりしている、丈夫そうなからだをしているくせにね」
「病気をなすってるんですって」
「秋になったら林田の温泉へでもやってやろうと思うんですがね、躯の弱い女房なんて持つもんじゃない、本当ですよ、子供も生めないとなると問題ですからね」
 忠也は芸妓の肩を抱いたまま、ひょろひょろと廊下の向こうへ去っていった。
 それ以来なにか噂はないかと思って、母や兄嫁の話に注意していたが、やはり七重の消息は聞けなかった。忠也は「子供も生めないとなると問題だから」と云った。笠井には老夫婦がいるから、たしかにそれは問題になるだろう。まして忠也には隠し子がある、「稲村」の娘に産ませた男の子は、もう五歳になるはずであった。
「噂のないのは無事にいっている証拠だろうが」と出三郎はひとりで重く溜息をつくのであった、「しかし病気ばかりしているというのはどういうわけだろう、もしかして隠し子のことがわかって、それが原因でまいってしまったのではないだろうか」
 秋になったある日、出三郎は新村邸の庭で七重の声がするのを聞いた。まぎれもなく七重の声のようだったので、胸をおどらせながら井戸端へ出ていった。しかし、生垣のそばまでいってみても、誰の姿も見えなかった。彼は両手をまるめて口に当て、そっと鳩の鳴きまねをした。初めは低く、しだいに高く、……ほっほう、ほっほうとやった。するとふいに生垣のすぐ向こう側で一人の女の子が立ちあがった。そこの生垣の蔭で、しゃがんでなにかしていたらしい、六つばかりになる、まる顔の、可愛い女の子であった。
「小父さんお上手ね」と女の子はびっくりしたような眼でこちらを見あげた、「それなんのまねなの、ふくろうだわね」
「ああ――」彼はうなずいた、「あなたは誰、新村さんのお嬢さんですか」
「ええ、あたくしたあちゃんよ」
 そして眼を細めてにこっと笑った。


 この子の声を聞き違えたんだな、と出三郎は思った。新村では長男の立之助たつのすけに二人子供があった。上の男の子は知っていたが、これは二番めの子なのであろう。七重とは血が近いし、それに女の子だから、声が似ていてもふしぎではなかった。
たあちゃんは七重叔母さん知ってるでしょう」と彼はきいた、「このごろ叔母さんはいらっしゃいますか」
「いいえ、叔母たまはいらっしゃらないわ」
たあちゃんは叔母さまの家へゆかないの」
「いちどだけ」とたあちゃんは云った、「笠井たまのおばあたまこわいのよ、たあちゃんのことにらむの、だからたあちゃんいかないのよ」
 出三郎は暗い気持になった。
 幼い子供は敏感に人をみる。出三郎は笠井の人たちを知らないが、そのときの「にらむからこわい」という表現は、笠井の老夫人を活写しているように思え、七重がいつもそういうふうににらまれているのが見えるようであった。
 だが彼が案じたほどにもなく、そのまま月日がたっていった。
 宝暦八年、出三郎が二十七歳になった年、定高半兵衛が近習頭きんじゅうがしらをしりぞいた。長門守宗寿が在国ちゅうで、老職に転ずるのかと思ったがそうではなく、無役になったのである。――出三郎は例のように「角万」で馳走になりながら、半兵衛自身からそれを聞いた。
「しかし無役というと、どういうことなんですか」
いでさんだけに話すんだがね」と半兵衛は云った、「おれが城代家老をねらっているのを気づかれたんだ」
「城代家老ですって」
「定高は三代まえに城代を勤めたことがある、資格はあるんだ」と半兵衛は云った、「いまの重職組織はてんでなっていない、ざるで水をくむみたように大事なものをみんなこぼしっ放しだ、その弊害はあらゆる面に出はじめている、このへんでなんとかしないと救いがたいことになるだろう」
「すると――」出三郎が云った、「無役になったのはどういうわけです」
「彼ら(というのは現重職の一部だが)、彼らはおれのねらっているものに気づいた、ばかなはなしさ、おれはほぼ十年まえから工作している、出さんに頼んだ調査もその中に含まれているし、三十二というこの年まで結婚しないのもそのためさ、ところが彼らは今になって気がついた、そうしてあわて――たんだろう、おれを年寄肝入としよりきもいりに据えようと企らんだ、冗談じゃない、ここへ来て、そんな手にはめられてたまるもんか、おれは先手を打って、病気退職の願いを出したというわけさ」
「よくお許しがありましたね」
「ばかだね――」半兵衛はびっくりしたような眼をした、「よくお許しが出たって、こんなことが事情を御存じなしに許されると思うのかい」
「すると、殿もそのことは」
「おれは十年まえから工作していると云ったろう、聞いていなかったのか」半兵衛はこう云ってさかずきをさした、「まあ飲もう、あの艶書のぬしの健康を祈ってね」
 その年の六月に竹内式部たけのうちしきぶの事件が起こって、世間がかなり騒がしかった。式部は越後の人で垂加すいか流の神学軍学をよくしたが、その説くことが皇室を尊崇しするどく幕府を難ずるので、ついに捕縛されたうえ、同じ七月には式部とは共謀の嫌疑で十七人の公卿くげも罰せられた。
 ――幕府顛覆てんぷくの陰謀があった。
 そういう評判がひろまり、世間はいちじ相当な不安と緊張におおわれた。
 九月になってまもないある日、半兵衛は出三郎を掬水楼きくすいろうへ誘った。そこは城下町から南へ二十町ばかりはなれた、やはり松屋川にのぞんだ料理茶屋で、こいの料理が名物だし、離れ座敷には滞在する設備もあって、保養にくる客も少なくなかった。周囲は樹の多い丘や草原がひらけてい、松屋川の流れもようやく広く、眺望もよし閑静なことでも知られていた。
「今日はまじめな話しがあるんだ」
 盃が少し進むと、半兵衛はこう云ってこちらを見た。彼は(無役になってから)かなり肥えて、頬もまるくなり、まぶたがはれぼったくなっている。しかしそのはれぼったい瞼の下の双眸そうぼうは、さえた、するどい光りを放っていた。――日のくれるのが早い季節で、あたりはすでに黄昏たそがれの色が濃くなり、松林のすぐ向こうに見える川の水面だけが、いかにも秋らしく、鉛色に寒ざむと光っていた。
 出三郎は次の言葉を待った。
「どうやら時節がやって来た」と半兵衛が云った、「時日はまだはっきりしないが、おそくとも殿とのが出府されるまえに定るだろう」
「つまり城代家老就任ですね」
「そして岸島出三郎は郡奉行こおりぶぎょうだ」
「――なんですって」
いでさんが郡奉行だというのさ」
「冗談じゃない」出三郎はむっとした、「人をからかわないでください」
「まじめな話だよ、まあ一杯」
 半兵衛は盃をさした。そのとき渡り廊下を渡って、二人の女中が酒肴しゅこうを運んで来、一人が行燈に火を入れた。
「障子を閉めていってくれ」と半兵衛が云った、「それから呼ぶまでは来なくともいいよ」
 女中たちは承知して去った。
「このまえおれは、現在の重職組織がなってないと云った」と半兵衛は続けた、「しかし組み直さなければならないのは重職だけじゃない、おもだった奉行や各役所なども改組の必要がある、とくにこんどおれが政治を始める場合に最も重要なのは農業政策で、これには非常な困難が伴うが、なんとしても成功させなければならない」
「それならなおさら、私などに勤まる役じゃないですよ」
「いや勤まるんだ、出さんこそ最も適任者なんだ」半兵衛はてのひらを返して前に出しながら云った、「出さんは郷土誌の資料を集めるために領内をまわった、七年という年月、在々村々を歩きまわって、その土地土地の伝説や、人情風俗を自分の眼と耳で観察した、おれの頼んだ四項目を加えて、これらの記録は領内事情の正確な一覧表といえるし、出さん自身の経験はもっと直接に郡奉行として役にたつ、そう思わないか出さん」
 出三郎はちょっと返辞ができなかった。手に持った盃をみつめ、不決断にややしばらく黙っていた。
 ――引き受けるか、いや危ない、自信がない、では生涯部屋住みで終わるか、足軽長屋を建て直したあの薄暗い家で、陰気くさい老人になり、そうして兄たちの家族の誰かにみとられて死ぬつもりか、いやそれはいやだ、できることならそれだけはごめんこうむりたい、それなら……。
 こんなことを考えながら、やがて思いきったというふうに眼をあげた。
 すると半兵衛が手を振った。
「しっ、来たらしい」と彼はささやいた、「来たとすればしめたものだぞ」
 出三郎は息をのんだ。理由はわからないが、なにか異常なことが起ころうとしているらしい、それは半兵衛の態度ですぐにわかった。彼は黙って手まねをし、すばやく刀の下緒さげおを取ってたすきをかけ、また鉢巻をした。手まねは、「おまえもこうしろ」という意味である。出三郎はどきりとしながら、切迫した半兵衛の動作に誘われるように、これも手早く襷をかけ鉢巻をし、はかま股立ももだちをきっちりと絞った。
「おれの首をねらってるんだ」と半兵衛はささやいた、「踏み込んで来たら出さんは庭へとびだしてくれ、敵の退路を断つんだ、斬合きりあいはおれが引き受けるから安心しろ」


 その離れは川に面して広縁があり、左は渡り廊下、右へかぎの手に曲がると手洗い場になっている。うしろは本床ほんどこと違い棚で、こちらから襲われる心配はなかった。
 半兵衛は左手のふすまを指さした。そこは長四帖で、そっちから渡り廊下の手前を庭へ出ろというのらしい、出三郎はうなずいた。
 庭先に足音がした。草鞋わらじか足袋はだしなのだろう、湿った土を踏む音が、ひたひたと近づき、そこでとまった。一人や二人ではない、いちど軒先でとまると、左右へ分かれるのが(その気配で)わかった。
 半兵衛は気合を計っていた。顔色にも、態度にも動揺したふうは微塵みじんもない。
 ――彼は求真堂で師範をしのぐといわれた。
 出三郎は自分の昂奮こうふんをしずめるようにそう思った。自分も「折紙」をもらっている、もう七年もまえのことだが、ともかく折紙をもらうところまではいったのだ。
「定高半兵衛、いるか」
 広縁の向こうで声がした。半兵衛はと歩み寄り、障子をさっと左右にあけ放った。
「半兵衛はおれだ、待っていたぞ」
 広縁の向こうに、覆面をした黒装束の男が五人いた。外はもうほとんどくれて、こちらからさす燈火ともしびの光りが、左右にひらいた五人の姿を照らしだした。出三郎はたしかに五人と数え、彼らが一斉に抜刀するのを見ながら、隣りの長四帖へとびこんだ。
 彼が渡り廊下から庭へおりるとき、広縁を踏む乱れた(重々しい)足音と、つんざくような掛声が聞こえた。出三郎はかっと頭へ血がのぼり、喉頭のどへ固い玉のような物が詰まるのを感じた。足ががくがくし、眼はかすみでもかかったように、ぼうと視界が(ほんの短い瞬間ではあったが)くらくなった。
 ――くそっ、しっかりしろ。
 彼はつまずきながら庭先へ廻った。
 広縁に一人倒れ、広縁の下にもう一人、半身を沓脱くつぬぎ石にもたれて、居眠りでもしているように倒れているのが見えた。いまのまに二人斬ったらしい、出三郎はそれを見たとたんにぐっと躯へ力が入るのを感じた。
「出さん頼むぞ」半兵衛が叫んだ、「こいつら、一人も逃がすんじゃない」
 半兵衛は座敷のまん中に立っていた。
 敵は左に二人、右に一人、みな刀を青眼せいがんにつけたまま、斬り込むすきをねらっていた。食膳の一つが飛ばされて、わんや皿小鉢が散らかっている中に、もう一つの膳は(それは出三郎のであったが)元の場所にきちんと据えられてあった。
 出三郎は唾をのんだ。唾はうまくのみこむことができた、喉に詰まった玉のような物はもう感じられないし、呼吸もしっかりしてきた。彼は刀を抜きながら叫んだ。
「助勢しましょうか」
 その瞬間、まるで出三郎の声に突きのめされるかのように、左側の一人が絶叫しながら斬り込んだ。刀を上段にあげ、おがみ打ちの姿勢で、跳躍しながら踏み込んだが、半兵衛は少し身をひねっただけで、手にある刀がひらめいたと思うと、斬り込んだ相手はすっとんでゆき、襖といっしょに長四帖へ倒れた。
 半兵衛は右へ一歩、そっちへ刀を振るとみると、身を翻えして逆に左へさっと跳んだ。そこにいた一人は打込みの動作を起こしたところで、突きの姿勢になる瞬間に半兵衛の刀が頭上をおそった。その男はひっという声をあげ、ひじで頭をかばいながら身をひねった。半兵衛の刀はその男の覆面を切りさき、むきだしになった男の半面が燈火とうかに照らし出された。ほんの刹那であったが、出三郎はそれが笠井忠也の顔であるように思え、「あっ」とわれ知らず声をあげた。
「いけません、その男は斬らないでください」
 だがおそかった。出三郎の叫ぶより早く、半兵衛の二の太刀たちはその男の太腿ふとももをするどく斬りはなっており、そして、その男が(太腿を斬りはなされて)横さまに顛倒てんとうしたときには、半兵衛はすでに残る一人を広縁まで押し詰めていた。
 ――すばらしい、なんという腕だ。
 出三郎は自分がいま叫んだことも忘れ、舌を巻くおもいで半兵衛を眺めた。
「うしろがないぞ」と半兵衛が云った、「死ぬのがいやなら刀を捨てろ」
 相手は広縁の端まで詰められていた。左へも右へもかわせない。半兵衛の刀の切尖きっさきが、鼻梁びりょうのまん中をぴたりと押え、一呼吸ごとにぐいぐいと圧迫している。彼の口から(ときをおいて)瀕死ひんしの人のようなあらい息のもれるのが、出三郎に聞こえた。
「刀を捨てろ、さもないと――」
 半兵衛がもういちど叫んだ。とたんに、相手は足を踏みはずし、「わっ」というような声をあげながら庭へ転落した。
「逃がすな出さん」
 もちろん、出三郎は走せつけた。相手はどこかをくじいたとみえ、躯をねじりながら、刀を投げだしてうめいた。
「斬れ」とその男はわめいた、「斬ってくれ」
 出三郎は刀をつきつけたまま半兵衛を見た。半兵衛は広縁からのぞいて見ながら「縛ろう」と云った。
「ほかの四人が助からない場合に生き証人として必要だ、そいつの襷で縛ってくれ」半兵衛は懐紙を出してたんねんに刀をふき、さやを拾っておさめながら云った、「おれは役所と医者へ人をやるようにいって来る。縛るのは簡単でいいぜ」
 そして彼は渡り廊下の向こうへ去った。
 ――これだけの騒ぎに誰も気がつかないのか。
 出三郎は不審に思ったが、そのときはじめて、母屋のほうの二階で三味線や太鼓のにぎやかなはやしが聞こえた。いつそんな鳴物が始まったかまったく気がつかなかった、こちらは離れているし、時間もごく短いあいだの出来事だから、あのにぎやかな囃しでは気がつかないのも当然であろう。
 ――出三郎はその男の襷をはずし、両手をうしろへまわして縛った。鳴物の音に気がつくとともに、負傷者のうめき声や、苦しそうな呼吸も聞こえはじめた。
「ああ――」と出三郎は身ぶるいをした。
「笠井忠也が」
 彼は汚れた足袋のまま座敷へとびあがっていった。
 覆面を切りさかれた男は両脚を投げだし、右の太腿を両手でつかみながらうなっていた。そのまわりはいちめんの血である。「笠井じゃないか」出三郎はこう云ってのぞいた、男はこっちを見あげた。紙のように白い、やせたゆがんだ顔である。馬廻うままわりなにがしとかいう若者で、笠井忠也ではなかった。しかしその男は云った。
「笠井はあっちです」
 舌がもつれるのでよく聞こえなかった。
「初めに斬られて」とその男は云った、「庭へ落ちたはずです、庭へ落ちるのを見ました」
 出三郎はすぐに引き返した。


 沓脱ぎ石にもたれて、居眠りをしているような男が、笠井忠也であった。胴をやられたらしい、左手で脇腹を押え、石にもたれたままはっはっとあえいでいる。鼻をつくような血のにおいであった。
「笠井、しっかりしろ」出三郎は耳のそばでどなった、「いま医者が来るぞ」
 だが返辞もなし、聞こえたようでもなかった。
 半兵衛は女中や下男たちをつれて戻って来た。女中や下男たちは応急手当用の品(卵白とか焼酎しょうちゅうとか膏薬こうやくとかさらし木綿など)を持って来た。「助かりそうなやつから先にやろう」半兵衛はこう云って燭台しょくだいの火を増させ、自分で順に負傷者をみまわったうえ、それぞれ手当の指図をしながら、ふと気づいたように、
いでさんはもう帰ってくれ」と云った。
「帰るんですって」
「大目付と町奉行が来る、あとのことがあるからここでかかりあいになってはまずいんだ」
 あとのことというのは「郡奉行こおりぶぎょうになる」ことであろう。郡奉行になるとき、この件でかかりあいになっていてはまずい、というのに違いない。だが、刺客のうち生き残る者や、女中たちが知っている、いま帰ったところですぐわかるではないかと思った。
「そういうことはおれが引き受けるよ」半兵衛は笑いながら云った、「酒が途中だけれど初めからそのつもりだったんでしようがない、また飲み直すとしてともかく帰ってくれ」
「初めからそのつもりですって」
「出さんには悪いがね」半兵衛は出三郎の肩を押した、「さあ玄関まで送ってゆこう」
 出三郎は笠井忠也のほうを見た。
 ――このままいってしまっていいだろうか。
 ふと、七重の顔が眼にうかび、良心のとがめを感じた。だがもうどうしようもない(あの血の匂いでは)、おれなどがいたところでどうしようもない。彼は首を振って、半兵衛といっしょに広縁へ出た。
「彼ら(というのはいつか話した重職の一部だが)彼らはおれと殿とのあいだに黙契があるのを感づいた」と歩きながら半兵衛が云った、「それでにわかに硬論が起こって、おれを暗殺しようという説が強くなった、よろしい、そのほうが事は手っ取早い、そっちがその気なら機会を与えてやろう、こう思って、それで今日はわざわざ、この掬水楼きくすいろうまで来てやったのさ」
「来ることがわかるようにしてですか」
「筒抜けの筋があるのさ」
「恐るべき自信ですね」出三郎が云った、「しかしまさか、刺客の数までわかっていたわけではないでしょう」
「予定より二人多かったよ」出三郎はあきれたように振り向いた。
「筒抜けの筋があるんでね」と半兵衛は笑った、「ただびっくりしないで、これが十年がかりの仕事だということを思いだしてもらいたいな、十年といえば一と昔だぜ」
 出三郎には答える言葉がなかった。
「近いうちにまた会おう」玄関のところで半兵衛は云った。
「おれは出さんが好きだ、出さんのように自分を売りたがらない人間がおれは好きだ、今夜はすまなかったな、兄貴にも黙っていてくれよ」
 そして半兵衛は引き返していった。
 約半月のあいだ、城下ぜんたいが不安な暗い気分の下に息をひそめていた。出三郎も外出をやめ、夜になるのを待ちかねて、城から下ってくる兄の話しを聞いた。掬水楼襲撃という出来事は誇張して(噂というものがいつもそうであるように)伝えられ、半兵衛はほとんど英雄のように評された。もちろん、現在の重職陣には決定的な打撃であった。刺客五人のうち、即死二人、重傷して三日のちに死んだ者一人(笠井忠也)生き残った者二人であるが、その生き証人の口から、
「半兵衛暗殺」の計画が詳しく告白されたのである。
「ばかなことをするものだ」兄の和兵衛は話すたびに云った、「定高を斬ってどうしようというのだ、半兵衛がなんだというのだ、おかしなことを考える連中だ、みんな気でも狂ったに違いない」
 真相を知らない兄が出三郎にはおかしかった。
 城代家老の村山享書むらやまきょうしょが辞職し、末席の河井右京かわいうきょうがその代役に直った。それが十月はじめのことで、次に江戸の老職のうち三ぶんの二が交代し、国許では河井右京のほか全重職が(順次にではあったが)入れ替った。年が明けて二月、旧重職のうち五名が処罰された。村山享書は永蟄居えいちっきょ食禄しょくろく半減はんげん。野口行之助は改易かいえき和泉図書いずみずしょは親族預け、食禄三分の一減。笠井十兵衛は永蟄居、食禄半減。その他――ということであった。これがすむと、まだ半兵衛を無役のまま残して、長門守宗寿ながとのかみむねとしは参勤のため出府した。
 出三郎は最後の報告調書を持って、半兵衛をその家に訪ねた。三月になったばかりの、暖かい午後で、掬水楼からこっちずっと会っていなかったのである。
「やあ、あのときはありがとう、忙しくって礼にゆく暇もなかった」半兵衛はこう云って自分の頬を叩いた、「このとおりやせてしまった、なにしろ酒もゆっくり飲めなかったんだからな」
「城代家老はだめだったんですか」
「この夏だ、殿が在国ちゅうではまずいんでね」
「それはまたどうしてです」
「どうしてって、殿の袖に隠れて城代になった、などといわれるに定ってるからさ」と半兵衛は不敵に微笑した、「おれは五老職の処罰も殿が出府されたあとでやりたかったんだ」
 出三郎は半兵衛の自信の強さに圧倒されるようであった。調書をわたして帰るとき、半兵衛は玄関まで送って来て云った。
「夏にまた少し役替えがある。おれが城代に直ってからだがね、そのときは頼むよ」
 出三郎にはちょっとその意味がわからなかった。
「忘れちゃあ困るな、郡奉行だよ」半兵衛はこう云って、それから少し声をひそめた、「もしあの艶書のぬしが待っているんならそう云うんだね、もう部屋住みではなくなる、まもなく結婚することができるってさ」
 そして半兵衛はくすくす笑った。
 ――つまらないことをいつまでも覚えている人だ。
 出三郎はこう思いながら家へ帰った。
 だがそれは「つまらないこと」ではなかった。家へ帰った彼が自分の住居のほうへゆこうとすると、母が呼びとめて一通の手紙を渡した。つい今しがたまで七重が来ていて、帰りしなにその手紙を母に託したのだという。
「いまどうしているんですか」出三郎は手紙を漫然と眺めながらきいた。
「御病気がすっかりなおって、医者はもう大丈夫だと云ったそうで、はじめて今日外へ出てみたのですってよ」
「病気がって」出三郎は不審そうに母を見た、「あの人は病気してたんですか」


「あら、あなた御存じなかったの」
「知りませんとも」
「笠井家を離縁されて戻ってから、ずっと寝ついていらしったんですよ」
「離縁ですって」出三郎は思わず高い声をあげた、「笠井を離縁されたんですか」
「それも知らなかったの、まあいやだ」
「いつです、それは」
「去年の六月かしら」とかな女は記憶をたどるように云った、「そう、六月でしたよたしか、あなたもむろん知っておいでだと思ってましたがねえ」
 それでは掬水楼のときにはもう彼女は笠井にいなかったのか、と出三郎は思った。そうとは知らないので、彼女のために笠井を助けようと思った。彼女になげきをみせないために、忠也を死なせたくないと思ったのだが。
「ああそれから」とかな女は云った、「そのお手紙に書いてあるだろうけれど、今夜の宵節句に来ていただきたいっておっしゃってましたよ」
 出三郎はぐっと胸が熱くなった。
 ――宵節句。
 久しく途絶えていた新村家の宵節句。数えてみれば八年になる、彼は胸が熱いものでいっぱいになり、全身が柔らかなやさしい感情にとけてゆくように思った。――自分の住居へ帰ると、すぐに手紙をあけてみた。母の云ったとおり宵節句の招待であったが、
 ――今夜は久しぶりでゆっくり話したい、聞いていただきたいこともあるから、ほかには誰も呼ばない、客はあなたお一人だからぜひ来てくださるように。
 ということが書いてあった。
 その手紙を読みながら、彼はふとその文字に見覚えがあるような気がした。そして同時に、「艶書のぬし」という半兵衛の言葉を思いだした。
「まさか」と彼は呟やいた、「まさかそんなことが」
 出三郎は立っていって、机のひきだしをあけ、あのときの艶書をさがした。捨てた記憶はない、ひきだしの中へ突っ込んだように思う。しかしひきだしにはなかった。彼は郷土誌の記録や、筆記帳を取り出し、一冊ずつ入念にめくっていった。すると、ごく初期の筆記帳の中からそれが出て来た。半兵衛にみつかったとき、その帳面にはさんだものであろう。――彼はすぐにその艶書をひらいて、七重の手紙と比べてみた。
 筆跡は似ているようでもあり、似ていないようでもあった。八年という年月がたっているから、同じ人の文字でも変わるのが当然である。むしろ七重のは、艶書のそれよりも幾らか下手にみえた。出三郎はふと思いついて、その二通を裏返しにし、日に透かして裏から比べてみた。筆癖ふでぐせは裏から見るとはっきりすることがある、彼は資料集めをするときに、よく古文書を同じ方法で判別したことがあった。
「似ている字もある、のくずし方はそっくりだ」と彼は呟やいた、「特徴のあるくずし方だし、さまという字はぴったりだ……しかしはっきり同じ筆跡だとはいえないな」
 約半ときばかり、彼は熱心に比べてみたのち、なにもいまめることはないと思って、その手紙を片づけた。
 夜七時という指定の時刻に、出三郎は新村家を訪ねた。新村家の人たちとも久しぶりなので、客間でしばらく話してから、七重にうながされて彼女の部屋へいった。雛段ひなだんはまえの半分にも足りないほど小さく、雛の数も少なかった。七重は段の上の雪洞ぼんぼりあかりをいれながら、「たいていな雛や道具はめいたみにやってしまったのだ」と云った。
たあちゃんというんでしょう」と出三郎が云った「いつか話をしたことがありますよ」
「そうでございますってね、あなたが上手にふくろうの鳴きまねをなすったって申しておりましたわ」
 七重は健康そうにみえた。長患らいをしたあとのようでもなく、胸や腰のあたりは豊かにまるく、膚もつやつやとして血色がいい、顔つきなどは昔のままで、嫁にいった人とは思えないし、二十四という年よりは三つ四つも若くみえた。
「私は今日まで知らなかったのだが、笠井と不縁になったんだそうですね」
「はい、去年の六月でございました」
「なにが原因ですか」
「表むきは子が産まれないからというのですけれど、本当はよそに隠し子がおりましたの」と七重は寂しげに頬笑んだ、「笠井がよその方に産ませた男のお子で、わたくしが嫁にまいるずっと以前からの方でしょう、そのお子がもう十歳にもなるとわかったものですから」
「笠井がそう云ったんですね」
「いいえおかあさまからうかがいました」
 そう聞いたとき、出三郎はふとたあちゃんの言葉を思いだした。「おばあさまはにらむからこわい」という言葉を。
「わたくしはじめから笠井の御両親にはお気にいられていないようでしたの」七重は云った、「ことにおかあさまには、わたくしのすることがなにもかもお気に召さないようで、……それで隠し子のことなどをお話しなすったのでしょう、わたくしもそれで辛抱がきれましたから、お願いして実家さとへ戻ることにいたしましたの」
「あなたのほうから望んだのですね」
実家さとでは兄も母も反対でしたけれど、わたくしそれなら死んでしまうからと申しましたわ」七重はこう云って微笑した。すると唇の両端にえくぼがよれた。
「笠井があんなことになって、今では兄や母もよく戻ったなんて申します」と七重は続けた、「でもわたくしはかえって悪いような気がいたしますわ、あのまま笠井にいれば、不幸になった御両親のお世話もできたし、よそにいるお子を引き取ってめんどうもみてあげられたのですから」
「いや、そうはさせません」と出三郎が云った、「私がそんなことはさせませんよ」
 七重は眼をみはって彼を見た。出三郎の口ぶりがあまりに強かったからである。彼は坐り直して、七重の顔をじっとみつめた。
「隠さずに答えてください、七重さん、八年まえの宵節句に、私の袂へ手紙を入れたのはあなたでしょう」
 七重はさっとあおくなり、激しく頭を振りながらどもった。
「いいえ、いいえそんなことは」
「正直に云ってください」彼はさえぎってたたみかけた、「今日の手紙とあのときのを比べてみました、両方を並べて筆跡を比べてみたんです、それでもあなたは違うと云うことができますか」
 七重は身をふるわせ、なにか云いかけたが、両手で顔をおおって彼からそむいた。
「やっぱりそうだった、やっぱり」
 出三郎はうめくように云い、眼をつむりながら深く息を吸った。
「私はよく覚えている、私はいまはっきり思いだすことができる」彼は眼をつむったまま云った、「あの明くる朝、あなたはずいぶん早くから庭へ出ていた、あなたは待っていたんだ、梅林のところで、私が鳩の鳴きまねをするのを待っていたんだ」
 七重はこらえかねたようにむせびあげた。くくとむせびあげながら、両手で顔をおおったまま云った。
「わたくし、晴着を着ておりました」
「そうだ、こまかい花模様のある晴着で、美しく髪化粧をしていた」
「ええ、わたくし申してしまいます」と七重はおおった手の蔭から(泣きながら)云った、「わたくしあなたのお返辞がうかがえると思いました、それで早く起きて、晴着を着て、髪をあげ化粧をして、待っていたのですわ」
「そうとは知らないものだから、私はあなたをおこらせてしまった」
「あなたは悪戯いたずらだとおっしゃいました、あのとき七重がどんな気持になったか、あなたにおわかりになるでしょうか」七重はむせび泣きながら云った、「わたくし、あなたも七重を好いていてくださるものと思っておりました、ですから手紙をみればすぐにわかっていただけると、信じていたんですわ、それなのにあなたは、誰かの悪戯だっておっしゃいました、わたくし、死んでしまいたいと思いました」
「私はあなたが好きだった、好きというだけでなく、愛していたんです」と出三郎がささやくように云った、「あんまり身近だったし長いこと親しみすぎていたので、愛していることが自分にわからなかった、そしてあなたが笠井へゆくと定ったとき、はじめてそれがわかったんです」
「いまになって」七重が苦痛の呻吟うめきのように云った、「いまになってそんなことをうかがうなんて、あんまり悲しゅうございますわ」
「いや、今だから云えるんです」七重さん、と呼びかけて、出三郎は静かに彼女のほうへひざを寄せた。
「あの恋文があなたからだとわかっても、私は部屋住みの身でどうしようもなかった、しかし今はうちあけることができる、あなたを愛していると、今ならうちあけることができるんです」
「七重が出戻りの、こんなおばあさんになってからですの」
「あなたは少しも変わってはいない、八年まえの今夜と同じ七重さんです」と彼はささやいた、「笠井ではなにも貴女を変えることはできなかった、あなたは昔のままのあなただ、嘘だと思ったら自分をよく見直してごらんなさい、それから鏡をよく見るんです、本当に好きあった同士でなければ、いっしょに暮らしても人間は変わらないものなんですよ」
「そう思ってくださいまして、いでさま」
「自分がいちばんよくわかるはずです」
「本当にそう思ってくださいますのね」
「七重さん」彼は手を伸ばして、そっと彼女の肩を抱いた。
「私はまもなくお役につくことができます、そうしたらね」
 七重は彼にもたれかかった。やわらかくもたれかかって、(こんどはあまやかに)低く泣きはじめた。出三郎はその耳へ口をよせてささやいた。
「私がお役についたら……わかりますか、お役について、その時期が来たら――」
 七重の泣き声であとは聞こえなかった。七重はいま出三郎の胸にもたれ、よろこびに酔ったような声で泣き続けた。――雛段の雪洞がかすかにまたたいていた。





底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
   1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「小説倶楽部」桃園書房
   1954(昭和29)年5月号
※「燈火」に対するルビの「ともしび」と「とうか」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年6月26日作成
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