山本周五郎





「おい牧野、起きないか」
「勘弁してれ、本当にもう駄目だ」
「……仕様がないな」
 起しあぐねて兵馬へいまは振返った。
「ちょっと手をかして呉れ小房こふさ、どうしても動きそうもないぞこれは」
「兄上さまがお悪いのですわ」
 小房はやさしく兄をにらんだ。
「幾らお止めしてもきかずに面白がってお飲ませなさるのですもの、こんなにお酔わせして了って、……きっとお苦しいわ」
「己もこんなに酔わせるつもりはなかったさ」
 兵馬は妹の非難をそらすように、酔い倒れている牧野辰之助を抱き起しながら、低い声で云った。
「なんだか今夜は妙に、牧野がなにか話しだしそうな気がしたものだから、酔わせれば楽に云えるだろうと思ってつい度を過して了ったんだ」
「なにか御相談ごとでもお有りでしたの」
「相談という訳ではないが、……なんだかそんな風に思えたので、……つまり」
 兵馬は妙に口籠くちごもって了った。小房はそれではっとしながら、慌てて寝衣をひろげ、辰之助の肩へと着せかけた。
「灯は持って行ってあるな」
「はい」
「では運んで行ってやろう」
 着替えをさせた辰之助の体を、兵馬は担ぐようにして次の間へ運び込んだ。
 はしたかねと共に酒席の後片付けをしてから、酔い覚めの水を持って小房が寝所へ入って行くと、暗くしてある有明行灯ありあけあんどんの光の下で、辰之助がふっと夜具の中から笑顔を見せた。
「すっかり御迷惑を掛けて了いました」
「いいえかえってわたくし共こそ、……兄の悪い癖でとんだ御迷惑をお掛け致しました、お苦しゅうございましょう」
「なに本当はまだ酔ってはいないのです」
 辰之助は笑って見せながら、
「ああしないと兵馬はいつまでも飲ませますからね、酔った真似をしただけですよ。然し拙者も、兵馬のお蔭で段々と強くなりました」
「お水を召上るとお楽になりますわ」
「有難う、なに酔ってはいないんですから」
 そう云いながら、辰之助の眼は微笑したまま自然と閉じて了った。
 日頃から兄の面倒をみている小房には、顔色と呼吸の匂いで辰之助の悪酔いをしていることはすぐに分った、なんでもない風を装っているが、恐らくどうしようもないほど苦しいに違いない。……小房はそっと立上ると、耳盥みみだらいに紙を敷いたのを持って来て枕許まくらもとへ置いた。
 辰之助は荒い寝息を立てて眠っている。
 小房は脱ぎ捨てた辰之助の衣服をたたみながら、暫く寝息をうかがっていたが、どうやらそのまま眠るらしい様子なので、灯の具合を直してから静かに部屋を出た。
 もう既に大きないびきをたてながら眠っている兄の様子をみて、自分の寝間へ引取ってからも、小房はなかなか寝つかれなかった。
 ――なにか話したい様子だった。
 そう云った兄の言葉が、頭のなかで生物のように躍っている。
 幼いときから兄と同じように馴れ親んで来た辰之助との数々の思い出が、いつか、渦の中に集まる木葉のように、小房の胸のなかでひとつの感情を中心にくるくると廻り始めていたのである。それが今しがた兄の口から、辰之助がなにか話したい様子だったと聞かされたとき、自分でも思い懸けなかったほど鮮かな生々しさで意識の表面へ浮かび上って来たのだ。
 ――兄上さまも待っていて下すったのだ。
 はっきりそれが分ったことの嬉しさと、既に辰之助が自分に申込をする時期が来ているのだという自覚とが、今の小房にはまるで想像もしなかったことが現前したような感動であった。
 牧野辰之助は藩の老臣の子である。
 父の与吉右衛門は八百七十石の年寄役で、寛永武士型の一徹な性格だったが、家中の人望は篤く、若い頃から藩政の重要な位地にあって活躍し、現在では福田の新城に城代として赴任している。……辰之助はその一人息子で、母は十年まえに死し、父が福田へ赴任し去ってからは、この鶴岡城下の家に僅かな召使と住んでいた。
 この頃眼に見えて兄妹を訪ねることが多いのも、父の留守で家が淋しいという理由もあったであろうが、小房が、それを或る無言の表白と受取ったのもまた自然のことに違いない。


 小房は眠れぬままに同じことを幾度となく繰返し考えていた。
 十二時ここのつの鐘が聞えて来た。
 もう眠らなければと思い直して、かわやへ立った小房が、手を洗おうとして小窓を明け、ふと眼をあげたとき、庭前にある柿の古木の上に人のうずくまっている姿をみつけてはっと息をひいた。
 ――賊だ!
 そう直覚したのである。
 その柿の木は五十年の古木で、地上九尺のところから二股ふたまたに分れ、ひと枝は屋根の上まで伸びている。怪しい人影はその大枝の上にぴったり身を伏せ、然も少しずつ屋根の方へい寄って行く様であった。
 ――引窓から忍び入るつもりなのだ。
 小房はそっと引返した。
 そして手早く帯を締直すと、長押なげしに架けてあった薙刀なぎなたを取下ろし、さやを払って静かに庭へ出て行った。……賊に忍び込まれることは武家にとって恥辱とされている、兄を呼起すまでもなくひとおどしに逐い払うつもりなのだ。
 足音を忍ばせて柿の木の下へ。
 怪しい人影はまだ枝の上に蹲っていた、小房は静かにその大枝の下へ近寄ると、薙刀を中段に構えながら、
「……曲者!」
 と鋭く叫んだ。
「下りて参れ、神妙にせぬと斬り捨てるぞ」
「あ、……待った」
 さっとひと薙ぎ、脅しの空打をくれた。……樹上の人はあっと叫びながら、
「待った、拙者です、小房どの危い」
「……あ!」
 と云って跳退く小房の前へ、するすると降りて来たのは正に辰之助であった。
「まあどう致しましょう、わたくし少しも存じませんで、……どうぞお赦し下さいませ」
「いや拙者の方こそ驚かせて失礼しました」
「でも今時分、どう遊ばしましたの」
「……是なんです」
 辰之助は苦笑しながら、片手に持っていた熟柿を差出した。ふところにも有るらしい。
「さっきは酔わないと申上げたが、実はどうもひどく悪酔いをしていた様子で、……ますには熟柿がいいと云われていたのを思い出したものですから、そっと脱出して来たという訳です」
「まあそれならひと言そうおっしゃって下されば」
「いや、自分で採りたかったのですよ、……ずいぶん長いことこの木にも登りませんでしたから」
「そんなにお酔いになっている時に危いではございませんか、し墜ちでもなすったらどう遊ばします」
「はははは」
 辰之助は低く笑った。
「いつかもそう云って叱られましたね、あれはたしかまだ元服まえのことだ、……まだ実の青い時分に登って採ったら、貴女はたいそう怒って」
「まあ、あんなことをまだ覚えていらっしゃいまして」
「家では小言を食ったことのない方ですからよく覚えていますよ、……青い実を採るような者には熟してからも遣らぬ、たしかそう云って怖い眼をしたでしょう」
「でも熟してから差上げましたわ」
「今度だけは堪忍してあげる、きつい眼で睨みながらそう云われたのを覚えていますよ。……あれ以来、柿を手にする度に、じっと見ていると貴女がどこかで『堪忍してあげる』と云っているような気がしたものです」
「ほほほほ」小房はあまく笑い声をたてた。
「恥かしゅうございますわ、わたくしずいぶんおてんばでございましたから」
「今夜の薙刀も当分忘れられないことでしょう」
「もうおゆるし下さいませ、わたくし」
 小房の声をさえぎって、
「誰だ、何者だ」
 と明いている雨戸の隙から兵馬が喚きたてた。
「拙者だよ、……辰之助だ」
「なんだ牧野か、今時分なにをしているんだ」
「なに、柿を採っていたんだ」
 辰之助は小房の方へ振返った、小房は肩をすくめてそっと笑った。
 兵馬はまだ寝呆けているのか訳が分らぬという様子でなにやら喚いていた。


「どうした、気分は直ったか」
「うん、どうも……」
「ふふふふ顔色が悪いぞ」
 あくる日、城中へ登ってから、午過ぎまで辰之助の顔を見なかった兵馬は、退出する少し前にようやく休息所で出会った。……果して彼は蒼白あおじろい重苦しげな顔をしていた。
「なにしろ、少し飲み過ぎたよ」
「昨夜はばかに調子よくやったからな、己はまたなにか話があるので、元気づけに飲みでもするのかと思ったくらいだ」
「うん、少し話もあったのだが」
「矢張りそうか」
 兵馬は微笑しながら、
「そんならどうだ、今夜またちょっと家へ寄らないか、聞くべき事があるなら己も早い方がいい、寄るなら待っているが」
「寄るとすぐに酒だからな」
「それでは酒抜きにしよう、ゆうべは折角支度をした食事が無駄になったと云って小房のやつ悄気しょげていた、今夜は飯だけにしよう」
「それが当にならぬから」
「ばかなことを、己だってそう毎晩やりはしないよ、では待っているぞ」
 辰之助は暫く考えていたが、
「では寄ろう、然し今日は少し御用がたてこんでいるから退出が遅れるかも知れぬぞ」
「いいとも、その代り飯を食わずに来るんだぞ、支度をして待っているからな」
 そう云って別れた。
 ――これでいよいよ話が決る。
 兵馬はそう思って心が軽くなった。
 彼はいつ辰之助が妹に求婚するかと、ながいあいだ待っていたのである。牧野家は八百七十石の老臣格だし、自分たち走川家はせがわけは三百石そこそこの馬廻りで、家柄にはかなりの差があったけれど、父親同志の親交がそのまま彼等まで持越されて、幼少の頃から殆ど親族同様の往来をして来た。
 兵馬は二歳の年長であったが、昔から辰之助に深く傾倒して、彼こそ未来の国老たるべき人物だと固く信じていた。
 そしてその信頼はいつかしら、辰之助と妹と結び着けて考えるようになったのである、……兵馬は妹を愛していた、彼流儀の誇張した云い方をすれば「宝玉」のように大切な妹である。
 ――小房を仕合せにするためなら。
 自分はどんな事でもしてみせると口癖のように云っている。そういう妹だからこそ、彼が辰之助とめあわせようと考えたのは当然だろう。……そのうえ彼は、いつか辰之助の眼のなかにありありと妹に対する愛情が耀かがやいているのを見たのだ。
 ――よし、牧野は必ず求婚する。
 兵馬はそう決めていたのだ。
「小房、今夜も客だぞ」
 家へ帰るなり、兵馬は元気な声で云った。
「だが酒は抜きだ、飯だけにするからうんと馳走をこしらえて呉れ」
何誰どなたさまがおいでになりますの」
「牧野だよ」
 兵馬ははかまほうり出しながら、
「あいつ矢張り話があったんだ、飲み過ぎてきっかけがなくなったらしいぞ、案外気の弱いところがあるからな」
「それでは急いでお支度を致しましょう」
「客間を少し飾ったらいいだろう、牧野は花が好きだからなにか活けるさ、香も※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)いて置く方がいいな、それから……酒は抜きだがまるで無しという訳にもいくまい」
「いけませぬ」
 小房は叱るように遮った。
「兄上さまはおさかずきを持つともうお終いですもの、今夜は一滴もなりませんわ、牧野さまが御迷惑をなさるばかりですから」
「よし、幾らでも牧野の贔屓ひいきをしろ、どうせ……」
 云いかけて兵馬はぶるると首を振った。
「まあ宜い、おまえに任せる」
「その代り御馳走は沢山致しますわ」
 小房はいそいそと立って行った。
 ゆうべの今日である、辰之助がどんな話を持って来るか、むろん彼女にも察しはついていた。……いよいよ自分の運命が定るのだ。
 小房は恥しいほど胸がふるえるのを感じながら、辰之助の好きな白菊の一輪をかやの中に活けた。柱懸けの一節切ひとよぎりにはあけびつる※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した。そして香のかおりがしっとりと客間の空気にしみわたって、辰之助が訪れてきたときには、心を籠めて薄化粧を終っていた。


「腹が減ったろう、まあ坐って呉れ」
「なんだか、まだ酒が残っているようだ」
「そんなものは食べれば直る」
 兵馬はずかずか自分の席に坐った。
「飯を先にしような」
「うん、……それもいいが」
「飯が先だ、己はもう我慢がならぬ、おい小房、どしどし持って来て呉れ」
 辰之助もようやく座に着いた。
 小房は化粧をした顔を見られるのが恥しく、面を伏せたまま膳部ぜんぶを運び始めた。……辰之助の眼は、小房の美しさを見て明かに驚きの色を表わしたが、然しすぐまぶしそうに視線を外らした。
「どうしたんだ、ばかに今夜は固くなっているじゃないか」
「そんなことはないさ」
「さあやろう、小房の自慢の汁だ」
「……馳走になります」
 辰之助がはしを取ろうとしたとき、家士の吉二郎が足早にやって来て、
「申上げます、牧野様お宅より急ぎのお使者でございます」
 と知らせた。辰之助は箸を置いて、
「すぐ参る。……ちょっと失礼するぞ」
 と立って行った。
 急ぎの使者と聞いて、兵馬と小房はなにか不安なものを感じながら待っていた。辰之助は間もなく戻って来たが、元の座には着かずに立ったままで、
「折角の御馳走だが、拙者は頂戴している暇がなくなった、これで失礼させて貰う」
「どうしたんだ、何事が起ったんだ」
「福田から早馬の急使だ、父が危篤だと云う」
「え」
「なに与吉右衛門殿が……」
「もう間に合わぬかも知れぬという使者の口上だ、小房どの……折角のお手料理を頂かずに参るのは残念ですが、お許し下さい」
「いいえそれより一時も早く」
「そうだ、飯などはいつでも食える、急いで行くがいい、……然し夜道だから充分気をつけて呉れ」
「有難う、ではいずれ又」
 辰之助は蒼惶そうこうと去った。
 玄関まで見送って、元の部屋へ帰った兄妹は、みごとに配られた食膳を前にして云いようのない寂しさに襲われた。
「とんだ事が出来た」
 兵馬は暗然と手をひざへ置いた。
「間に合えばよいが」
「本当に。……福田まで馬で、どのくらいかかりますの」
「乗継ぎにやっても明日の朝になるだろう」
 小房は胸のなかでそっと、
 ――どうぞ途中御無事であるように。
 と祈った。
 それから三日めに辰之助からの便りがあった。与吉右衛門は死んだ、遂に臨終には間に合わなかったが、安らかな往生であったそうだということ、……また後始末と、父の後任が着くまで当地に留まるが、月の終りには帰れる筈だと書いてあった。
「さぞお力落しでございましょうねえ」
 小房は涙を抑えきれなかった。
「牧野は親思いだからな、急病だったのだろうが、看病もせずに死なれてはさぞ心残りなことだろう……思い遣られる」
「おくやみの手紙を差上げましたら」
「うん書こう、おまえも書け」
 兄妹は心を籠めた哀悼のことばを送った。
 その返辞はなかった。
 与吉右衛門の後任は月を越すまできまらなかった、そして一応、城代加役の原六郎右衛門が当分のあいだ代理を勤めることに決定して、ようやく辰之助は鶴岡へ帰って来た。
 帰るとすぐ葬儀が行なわれた。
 主君からも弔使が立ったほどの盛儀で、半月ほどはゆっくり話をする機会もなかったが、やがて三七日の忌も明け出仕も元の通りになったのに、どうしてか辰之助は走川家へ訪ねて来る様子がなかった。
 小房は折々心配そうに、
「牧野さまはどうなすったのでしょう、まだお取込みなのでしょうか、……お帰りになってからまだ一度もお見えになりませんのね」
「なにそのうちやって来るだろう」
 兵馬は努めて何気なさそうに云った。
「城中では会っているが、元気でやっている、近いうちに馳走のし直しをして招くとしよう」
「それが宜しゅうございますわ、もう雁が出はじめましたから、お好きな串焼をどっさり御馳走致しましょう」
「そうだ、明日にでもそう云って置こう」
 けれど実は、兵馬は城中でも絶えて辰之助に会う機会がなかったのである。……然も、このあいだに、一再ならず不愉快なうわさが耳についていた。
 ――牧野は妙な女を家に入れているそうだ。
 という思いもかけぬ風評が。


「今日は少し話があって来た」
「ようこそ。……葬儀の折にはまた色々な面倒を掛けて済まなかった。さあ是へ」
 辰之助は灯を置き替えながら、兵馬を上座へ招じた。
「毎日、訪ねようと思いながら、父の後始末でなにかと御用が多く、つい礼にも参らずにいたが……」
「そんな他人行儀は止そう」
 兵馬は一本調子に云いだした。
「今日は腹を割って話に来たのだから、貴公もその積りで腹蔵のない返辞を聞かせて呉れ、いいな。……そこで単刀直入だ、貴公も御尊父の逝去せいきょでいよいよ家督をすることになるだろうが、それについて、妹の小房を嫁に貰っては呉れないだろうか」
「それは、……兵馬、……」
 辰之助は唖然あぜんと眼をみはった。
 唖然と、……正にそれは唖然としたと形容するより他に云いようのない表情だった。
 兵馬は逆に驚いた。
「牧野、貴公まさか」
「いや待って呉れ、それは、……それは全く思い懸けない話だ、小房どのを妻に」
「思い懸けないって?」
 兵馬は声の震えるのを抑え切れなかった。
「思い懸けないとはこっちで云うことだ、貴公は小房を。……いや待て。……牧野、己はそうだとばかり思っていたぞ、己は貴公が」
「それは困る、そう思われていようとは少しも知らなかった。なるほど貴公たちと拙者とは幼な馴染で、殊にこの数年来は身内のように親しくして来た、然し拙者としては元よりそんな気持はなかったのだ」
「では、……では牧野」
 兵馬は思わず膝を進めた。
「いつぞや、折入って話があると云ったのはなんだ、あのときの話というのはなんだ」
「いやあれは別だ」
「別でもいい、改めて聞こうではないか、それとも今となっては話せないことか」
「……話そう」
 辰之助は暫く黙っていたが、やがて静かに面をあげて云った。
「実は、まえから困った事が出来て、貴公の助けをりようと思っていたのだ。……小房どののことを云われたのでなんとも話しにくくなったが、それとは別に聞いて貰う」
「心得た」
「貴公はあきれるだろう、恥を忍んで云うが拙者には女がある」
「牧野!」
若気わかげあやまちだった、魔がしたのかも知れない、ふとしたはずみに足を踏み外したのが、取返しのつかぬ事になった」
「子供が出来たのか」
「今年で三歳になる、……然も男子だ」
 辰之助は蒼白あおざめた額を垂れたまま、
「子の出来ぬうちなら、なんとか始末のしようもあったろうが、もう取返しはつかない、父はあの通りの性質だし、若し是が世評にでものぼったらどうなるかと、この三年というもの薄氷を踏む心持で暮して来た。……話というのはこの事だ、貴公に打明けたうえなんとか父に諒解りょうかいを求めて貰おうと思って、幾度も口まで出かかったまま云いそびれていたのだ」
「相手の女は何者だ」
「以前家で召使っていた娘だ」
「召使などに、牧野、……貴公が、……」
 兵馬は震えて来る拳をでながら、
「見損なったぞ牧野!」
 と声を励まして云った。
「己は貴公を未来の国老だと思っていた、庄内藩に第一の人物だと思っていた、己ばかりじゃない、小房だって……そう信じていた、今だから云うが、己たちは、己も小房も、いつか貴公が求婚して呉れるものと思って待っていたんだ、否! なにも云うな、そう思ったのは己たち兄妹の眼が狂っていたんだろう、ばかな夢を見ていたのだ、然し……然しなあ牧野、人間は口に出してそれと云わなくとも、……心で、……眼の色で、人を殺すことがあるんだぞ」
「許して呉れ、拙者は」
「知らなかった。そうだ。そう云って了えば貴公はそれで済む、……然しそれで済まぬ者がいることを忘れないで呉れ」
走川はせがわ……」
「邪魔をした」
 兵馬は声を震わせながら立った。
 なんという意外な結果であろう、……妙な女を引入れているという世評は事実だった。然もその女との卑しい情事のあいだに、彼は恬然てんぜんとして兄妹の好意をぬすんでいたのだ。
 ――あの眼が、あの眼が。
 妹を見るときの辰之助の眼が、あの眼のなかに耀いていたものが、愛情ではなかったというのか。
 ――見損った。
 兵馬は思わず呻吟しんぎんした。


 家に帰ってからも、妹の前を逃げるようにして居間へ引籠った。……今夜牧野を訪ねるということは云ってあった、小房が様子を知りたがっていることは痛いほどよく分る。
 ――だが云えるか、云えるか是が。
 兵馬は笑いたくさえ思った。
 辰之助をひとすじに信じて来た自分の愚直さを、道化のような鈍さを、ありたけの声で笑いとばしたかった。
 小房はなにもかなかった。
 話さぬことは聞かぬといういつもの態度ではない、鋭敏な乙女の感覚は、兄の表情から事の始末を察したのである。……むろん理由は分らない、然し待っていたことがあだになったというだけはたしかだ。
 兵馬はすっかり無口になった、酒も飲まなくなった。小房の方が却って見兼ねたように、
「今夜はお酒を召上りません? お美味いしそうなつぐみが買ってあるのですけど、……なんだか沈んでいらしって淋しいわ」
 なるべく明るい調子で云っても、
「酒は止そう」
 と答えはいつも同じだった。
 こんな状態を続けていてはいけない、事情をよく話して妹にはっきりあきらめをつけさせなければと、兵馬はなんども思うのだが、……ふとすると庭にたたずんで、まだ実の落残っている柿の木のこずえを、しょんぼり見上げていたりする小房の姿を見ると、とてもそんな残酷な話を切出す勇気は持てなかった。
 霜月に入った或る日。
 兵馬は城中の遠侍で、近習番の者が四五人して辰之助の噂をしているのを聞いた。
「そいつは思い切った左遷だな」
「大鳥嶽の鉱山かなやま役所とは牧野も気が付くまい、あれだけ藩の人望を背負っていたのが詰らぬことになったものさ」
「結局……慎むべきは女だよ」
「正式に願いも出さなかった女に子を生ませ、今になって妻子の届出をするなんて下手なことをしたものだ、聞けば召使いだということではないか、……くだらぬ」
うまく始末をすればなんでも無かったのに」
「才子案外に馬鹿正直だぞ」
 兵馬はさすがに驚いた。
 ――辰之助が大鳥嶽へ左遷される。
 大鳥嶽とは羽前と越後との国境にある銀山で、庄内藩が幕府から預っているものだが、その役所詰になる者は老朽か無能者と相場が定っていた。
「なにしろ岡島国老が真先にそう主張したというのだから、もう牧野の一生もこれでけりがついたも同様だ」
「お蔭で代りにのし上る者が出来るだろう」
「運不運は分らぬものだ」
 そこまで聞くと、もうあとは耳をおおいたい気持で兵馬は立った。
 国家老の岡島大学は牧野家の遠縁に当り誰よりもあつく辰之助の引立て役になっていたのである、その大学が先に立って左遷を主張したとすれば、辰之助の将来は全く葬られたも同じことだった。
 ――然し、自ら招いた事だ。
 兵馬はそれ以上なにも考えまいとした。
 ――小房にとってもその方がいい。
 そう思った。
 それから四五日経って、辰之助が大鳥嶽へ出発したということを聞いた日の夕景である、……兵馬が下城して来ると、小房が待ち兼ねていたように、
「……お客来でございます」
 とささやくように云った。
「客だと、誰だ」
「女の方ですわ、兄上さまにお会いしてから申上げると云って、お名前も用事もおっしゃいませんの」
「誰だろうな」
 兵馬は不審に思いながら、出仕姿のまま客間へ入って行った。
 灯に外向いて、一人の女が悄然しょうぜんと坐っている、年は二十二三であろうか、武家風には装っているが、どこかそぐわぬところのある体つきだし、ちらと兵馬の方を見上げた眼は、おびえた者のようにふるえていた。
「拙者が走川兵馬です、お待たせしました」
「……お留守に上りまして」
「なにか御用ですか」
「はい、是非……申上げなければならぬことがございまして」
 女は健康そうな円い膝の上に、肉付のいい指をきちんと重ねながら云った。
「伺いましょう、どんな事です」
「牧野様の若旦那さまのことに就きまして」
「……牧野がどうかしたのですか」
「わたくし、少しも存じませんでした」
 そう云って、急に女は眼を押えた。……嗚咽おえつがつきあげて来たのだ。
「わたくし、琴と申します」
「…………」
「若旦那さまは、わたくしを、妻だとおっしゃっているそうでございます。わたくしの産んだ子を、御自分のお子だと、お上へお届けになったそうでございます。……嘘なのです、みんな嘘でございます」


 兵馬は色を変えた。
「嘘とはどういう訳です、なにが嘘なんですか」
「わたくしは亡くなった大旦那さまの側女でございました、産んだ子は大旦那さまのおたねでございます」
「なに、なに、……それは、……」
「なによりの証拠はこれを御覧下さいまし」
 女はそう云って懐中から一通の書面を取出した。……兵馬が奪い取るようにして見ると、上書は辰之助に宛ててあり、裏には「父」と一字だけ印してあった。
 封が切ってあるままに取り出して読むと、

冠省……医師の診立てにて、最早ながくは存命覚束おぼつかなしとのことゆえ、取急ぎ一筆申遺し候。其許そのもとの母死してより既に十年余日、其間再三にわたって後婦を勧むる者有之候えど、父は亡き妻のこと忘れ難く其許の成人をのみ希望に固く節操を守り続け候。……さりながら、人の身ほど過ち易きはなく、五年以前福田城代として赴任し来りしより幾許いくばくもなく、ふとした心の緩みより召使いの琴に手をつけ申候。この不始末、若年の其許に申聞け候は汗顔とも慚愧ざんきとも申すべきよう無之これなく、唯々愚しき父を御憫察びんさつのほど願入候。さて臨終に申遺すは琴の身上に候、近年健康勝れざりし父は、心を籠めたる琴の世話にて如何許か老年の心なぐさみ候いしぞ、親子の垣を取除きて、哀れなる友として父の心情をお掬取くみと可被下くださるべくば、なにとぞ我が亡き後、琴の身上たちゆくようお計い有之たく世に知られて家名の恥辱と相成ること無きよう、其許の御一存に任せ候まま呉々も宜しく御願い申上候。……くどくは候えども、幼児松二郎は其許にとっても血筋なり、母子とも不憫の者に候えば返す返す身上の事頼入り候。

 兵馬は茫然と息をのんだ。
「わたくしは若旦那さまの仰せのままに、ただ松二郎さまをお育て申上げるためお屋敷へお供をしたのでございます」
 琴はむせびあげながら云った。
「ただそれだけでございます、そして今日まではなにも知らず、いずれ若旦那さまはこちらのお嬢さまと御祝言あそばすものと存じて居りました、……お嬢様とのことは、亡くなった大旦那さまから常々うかがって居りましたから、……それが、今日になって、若旦那さまがわたくし共を御自分の妻と子のようにお届けあそばし、そのために遠い鉱山かなやまとやらへいらっしゃると聞きまして、取る物も取りあえずこちらへ上ったのでございます」
「よく来てくれました」
 兵馬は遺書を巻き納めながら、
「こんな事情があろうとは知らぬものだから、拙者も牧野に無礼なことを云ったのです、……見損ったなどと、……拙者こそまるで盲目同様でした」
「それで若旦那さまのお身上は」
「これから御家老を訪ねてみます、事情が分ればなんとか方法は立つでしょう、……小房」
「はい」
「馬の支度をさせてくれ」
 兵馬は立って、
「貴女は人眼につかぬよう屋敷へ帰っていて下さい、牧野のことは拙者が引受けました、どうか他言をなさらないで」
「承知致しました」
 兵馬は遺書を懐中にすると、走るように玄関へ出て行った。……馬の支度は出来ていた、むちを取ってとび乗ると、
「小房……よかったなあ」
 と低く云った、「己は岡島国老を訪ねる、次第に依っては牧野の後を追うことになるだろう、家の事を頼むぞ」
「はい。あ……兄上さま」
 兵馬はもう馬を駆っていた。


 遺書を読み終った岡島大学は、そのまま黙って暫く宙を睨んでいた。
 銀色の鬢髪びんぱつかすかに震えている、ひき結んだ唇にも、しわを畳んだ赭顔あからがおにも、火桶ひおけの上にさし伸ばした拳の動きにも……老人の心を大きくった感動の色が歴然と刻まれていた。
「お分り下さいましたろうか」
 兵馬はまだ息をはずませながら、
「牧野に過失はなかったのです」
「…………」
「過失どころか、父親のために自分の名を葬ろうとしているのです。……与吉右衛門殿がその女に不憫をかけられた気持も、世間には例の多いことで、声を大にして責めるほどの過ちではございますまい」
「…………」
「しかし与吉右衛門殿はあのような御性格で、それをことごとく恥じて居られた、むろん恥じて居られたのは名聞を思ってのことで、琴女に対しては実に汚れのない、ひと筋の愛情をもって居られました、……それは遺書によく表われていると思います」
「それで、……どうせいと云うのか」
「牧野の左遷をお取消し下さい」
「…………」
 大学はぎろりと眼を光らせた。
「事情がお分り下されば牧野を左遷する理由はありません、あれだけの男を鉱山役所へ追い遣るのは御家のためにも損失です」
「……辰之助が帰ると思うか」
 静かな声だったが、兵馬は胸を撃たれたように息を引いた。……大学は火桶の上で手をみながら低い声で云った。
「辰之助を呼戻すには、仔細しさいを明かにしなければならぬぞ、……それでもよいか」
「なにか、しかしなにか方法が」
「無い、あるなら申してみい」
 兵馬はぎゅっと唇をんだ。大学は軽くせきをしてから、
「牧野の身分で側女の一人くらい。子を産ませたとてそれほど恥ずべきことでないのは事実だ、けれど彼はそれを恥じたのだ、与吉右衛門はそういう男だった」
「しかし辰之助の将来を叩きつぶしてまで隠し了せようとは思っていなかった筈です」
「恐らくそうであろう、だが辰之助は自らそれを望んだのだ、いま呼び戻されて帰るほどなら、そのまえに方法を考えぬ彼ではない、……そうするのが最善とみたからしたのだ」
「では、このまま黙って見ていろとおっしゃるのですか」
 兵馬ははかまつかんで云った。
「あれほどの男を、あらぬ汚名にさらしたまま捨てて置くのですか、事情がすっかりわかっても、御家老はそうしろとおっしゃるのですか」
「汚名だと思うか、兵馬。……事情はおまえが知っている、わしも知っている、恐らくおまえの妹も知っているであろうが」
「……は」
「時が来れば珠玉は自ら光を放つぞ」
 大学は微かに頬笑をうかべて云った。
「ただ一つおまえの為すべき事がある」
「……はっ」
「おまえの妹を辰之助に遣れ、与吉右衛門も望んでいた。おまえが行って仔細を話せばもう否とは云うまい、但し、表向には数年待つのだ」
「御家老、追いつけましょうか」
「向うはかちだ、恐らく温海の宿に泊っているだろう、これから馬で飛ばせば、朝までには追い付ける」
 兵馬は莞爾かんじとして手を突いた。
「お口添えだと申しても宜しゅうございましょうか」
「役に立てるがよい」
かたじけのうございます、御免」
 よみがえったように立った。
 これでいい、国老に仔細を通じて置けばいずれは運の打開する時が来るであろう、こうなれば一時も早く追い付いて小房との婚約を承知させる事だ。
 ――いやとでも云ってみろ。
 そのときこそ。
 と勇躍して、馬をきながら門を出ると、思いがけぬ夜寒の風のなかに、小房の待ち兼ねている姿をみつけた。
「小房ではないか、どうしたのだ」
「……兄上さま」
 小房は走り寄って来て、
「牧野さまを追っていらっしゃいますの?」
「行くとも、これから夜道を飛ばして、おまえの談を決めて来るんだ」
「では是を……」
 小房はそう云いながら、抱えていた枝付きの熟柿を差出した。
「是を牧野さまに差上げて……」
「柿、こんな物をどうするんだ」
「差上げて下されば分りますの」
 それを見れば、辰之助さまの心に通ずる二人だけの言葉がある筈だ、百千の文字よりも深く、自分の心を知って貰える筈なのだ。
「よし預った、必ず渡すぞ」
「お気をつけて」
「吉報を待っていろ、さらばだ」
 兵馬は鞭をあげた。……小房は夜風のなかに、遠ざかり行くひづめの音を聞きながらいつまでも立ち尽していた。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「現代」
   1939(昭和14)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
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