内蔵允留守

山本周五郎





 岡田虎之助は道が二岐ふたまたになっているところまで来て立ちどまり、じっとりと汗のにじみ出ている白い額を、手の甲で押し拭いながら、笠をあげて当惑そうに左右を眺めやった。……その平地はなだらかな二つの丘陵のあいだにひらけていた。八月すえだというのにけつくような午後で、人の背丈ほども伸びた雑草や、遠く近く点々と繁っている森や疎林のうえに、ぎらぎらと照りつける陽ざしは眼に痛いほどだった。ところどころ開墾しはじめた土地が見えるけれど、大多分はまだ叢林そうりんはびこるにまかせた荒地で、ことに平地の中央を流れる目黒川は年々ひどく氾濫はんらんするため、両岸にはあか砂礫されきの層が広く露出していた。
「……さて、どう捜したものか」途方にくれてそうつぶやいたとき、虎之助はふと眼をほそめて向うを見た。白く乾いたほこり立った道を、こちらへ来る人影が眼についたのだ、筍笠たけのこがさを冠り、竹籠を背負っている、付近の農夫でもあろうかと思っていると、近寄って来たのは十七八になる娘だった、虎之助は側へ来るのを待って、
「少々ものをたずねる」と、声をかけた。
「……はい」娘は笠をぬいだ。
「このあたりに別所内蔵允くらのすけ先生のお住居があると聞いてまいったが、もし知っていたら教えてれまいか」
「はい、存じて居ります」娘は歯切れのいい声で、「……先生のお住居でしたら、あれあの森の向うでございます、彼処にいま掘り返してある土が見えましょう、あの手前を右へはいった森の蔭でございます」
かたじけない、足を止めて済まなかった」虎之助は会釈をして娘と別れた。
 彼は近江おうみ蒲生がもう郡の郷士の子で、幼少の頃から刀法に長じ、近藤いつきという畿内では指折りの兵法家の教えを受けていたが、この夏のはじめに皆伝を許され、これ以上は江戸の別所内蔵允どのに就いて秘奥を学ぶようにと、添書を貰って出て来たのであった。……別所内蔵允は天真正伝流の名人で、かつて将軍家光から師範に懇望されたこともあるが、既に柳生、小野の二家がある以上は無用のことだと云って受けず、その気骨と特異の刀法を以て当代の一勢力を成していた。虎之助はむろんその盛名を聞いていたから、勇んで江戸へ来たのであるが、そのときすでに内蔵允は道場を去り、目黒の里に隠棲した後であった。それで旅装を改める暇もなく、直ぐに此処ここへ尋ねて来たのだが、予想したより辺鄙へんぴな片田舎で、何処どこをどう捜してよいか見当もつかなかったのである。
 教えられたとおり四五町あまり行くと、右手に土を掘り返したかなり広い開墾地があって、半裸になった一人の老農夫が、せっせとくわを振っていた。虎之助は念のために、その老人に声をかけて道をたしかめた。
「そうでございます」老人は鍬をとめて振返った、「……それは此処をはいって、あの森沿いの窪地くぼちへ下りたところでござりますが、先生はいまお留守のようでござりますぞ」
「お留守、……と云うと」
「此処へ移ってみえたのが二月、それから五十日ほどすると、ふらっと何処かへお出掛けになったきり、いまだにお帰りがないようすでござります」
「然し門人なり留守の方がおられよう」
「門人衆という訳ではありませんが、先生のお留守に来た御修業者が五人、お帰りを待って滞在して居られますようで、ひと頃は十四五人も居られましたがな、いまは五人だけお泊りのようでござります」
「老人はこの御近所にお住いか」
「はい、あの栗林の向うに見えるのが、わたくしの家でござります」
 虎之助は老人に礼を云って、小径こみちへ入った。……ようやく尋ね当てたのに、此処でもまた其の人は留守だという、然し同じように尋ねて来た修業者たちが、内蔵允の帰宅を待って滞在しているというのなら、自分も待たせて貰えるであろう。そう思いながら、草の実のはぜる細い小径をたどって行った。杉の森について百歩ほど入ると、左手に閑雅に古びた木戸があり、「別所内蔵允」と書いた小さな名札が打ちつけてある。それを入って、竹籔たけやぶに囲まれた道をなだらかに窪地へ下りると、一棟の貧しげな農家が建っている。そしていましも、その前庭になっている広場で四五人の壮夫が、矢声烈しく木剣の試合をしていたが、虎之助が笠をとりながら静かに近寄るのを見ると、一斉に手を控えて振返った。


「……なにか御用か」
 色の浅黒い、いわおのような肩つきをした大きな男が、虎之助の方へやって来た。左の眉尻に指頭大の黒子ほくろがある、彼は虎之助が鄭重ていちょうに来意を述べるのを、みなまで聞かず、手を左右に振りながら、
「ああ駄目だ駄目だ」と、さも面倒くさそうに云った、「……せっかくだが先生はお留守だ、また改めて来るがいい」
「御不在のことは承知です」無作法な挨拶に虎之助はむっとしたが、それでもなお静かに続けた、「然し貴殿方もお帰りを待っておられるとのことゆえ、できるなら拙者もお住居の端なり、置いて頂こうと存じてまいったのです」
「いかにも、我々もお帰りを待っているには相違ない、然し此処はお救い小屋ではないからな、そうむやみに誰でも彼でも転げ込むという訳にはゆかんぞ」
 まるで喧嘩腰けんかごしの応待だった。
「ではなにか条件でもございますか」
「されば、別所先生はそこらに有触れた町道場の師範などとは違う、先生のむちを受けようとするには、少なくとも一流にぬきんでた腕がなくてはならん、だから、もしたってお帰りを待ちたいと申すなら、我々と此処で一本勝負をするのだ、そのうえで資格ありと認めたら、我々の門中へ加えて進ぜよう」
「それは先生のお定めになった事ですか」
「いいえ違いますぞ」ふいにそう云う声がして、向うから一人の老人がやって来た、恐らく此の家の老僕であろう、六十あまりの小柄なからだつきで、鬢髪びんぱつはもう雪のように白かった、「先生はお留守にみえた方は、どなたに限らずお泊め申して置けとおっしゃってござりました」
「うるさい、おまえは黙っておれ」黒子の男は暴々あらあらしくさえぎった、「……例え先生がどう仰しゃってあろうと、こうして神谷小十郎が留守をお預かり申すからは、詰らぬ者をひき入れる訳にはまいらんのだ、我々と此処で立合うか、さもなくば出直して来るか、いずれとも貴公の心任せにされい」
「その生白い面ではよう勝負はせまいて」そうののしる者があった。
「おおかた草鞋わらじ銭でも欲しいのじゃろ、そんなら二三文呉れて追い払うがいい」
 向うにいる連中が悪口を叩いた。虎之助はあきれた、そして怒るよりもむしろ笑いたくなった、こんな相手と押し問答をしてもしようがない、「では、また改めてまいるとしましょう」そう云って彼はしずかにきびすを返した。
 遠慮もなくののしわらう声を聞流して、森蔭の径を戻って来ると、先刻の老農夫はまだせっせと鍬を振っていた。虎之助は礼を述べて行過ぎようとしたが、その老人は鍬の手を休めながら、
「どうなされました」と不審そうにいた、「……先生のお帰りをお待ちなさるのではなかったのですか」
「その積りでいったのだが」
「暴れ者になにか云われましたか」老人は案の定という笑い方をした、「……あのやまだち共は手に負えぬ奴等じゃで、まあ喧嘩もせずに戻って来られたのがなによりでござりましょう」
「御老人も知っておられるか」
「留守番の弥助どのからよく聞きまするし、此の辺をのし歩くので顔もよく存じております、あのようなあぶれ者がえるばかりで困りものでござります」
 虎之助は去ろうとしたがふと、
「御老人」と思いついて云った、「……実は、先生のお帰りまで待ちたいので、ぜひこの付近に宿を借りたいと思うのだが、むろん雑用は払うしどんな家の片隅でもよい、置いて呉れるところは有るまいか」
「御覧のとおり此の辺はまるで人家もなし、さようでございますな」老人は眼を細めて四辺を見やったが、「……もし貴方あなたさまさえ御辛抱なさるお積りなら、汚のうございますが私の家にお泊りなさいませぬか、孫と二人暮しでお世話もなにも出来ませぬが、それで宜しかったらお宿を致しましょう」
「忝ない、そう願えれば此の上もない仕合せだ、決して迷惑は掛けぬから頼む」
 こうして思い懸けぬところで宿は定まった。
 老人の家はさっき教えられた通り、其処から荒地つづきに、二反ほど北へ入った栗林の中にあった。内蔵允の屋敷に近いから、帰宅すれば直ぐに分るだろうし、また老人と留守番の下僕とが往来しているようすなので、旅からの消息も聞くことができるであろう。これなら留守宅に待つのと同じことだ。虎之助はほっとしながら老人の家へ向ったが、栗林のあいだの道を、農家の前庭へ出たとたんに、右手の洗場から立って来た一人の娘と顔を見合せ、両方でおやと眼をみはった。さっき道で内蔵允の家を教えて呉れた娘である、虎之助は直ぐに老人が孫と言ったのはこの娘だということに気づいた、それで、静かに笑いながら会釈した。
「思わぬ御縁で、今日からこちらへ御世話になることになりました、岡田虎之助という者です」
 娘は僅かに頬を染めながら、けれども歯切れのいい口調で答えた。
「ようおいでなされました、わたくし奈美と申します」


「お客さま、御膳ごぜんのお支度ができました」
 虎之助はそう呼ばれてようやく眼を覚ました。……だいぶ寝過したらしく、強い陽ざしの反射が部屋の中でもまぶしく感じられる。骨が伸びると云いたいほどの熟睡の後で、躯じゅうに快い力感がよみがえっているのを感じながら、虎之助は元気よく起きて洗面に出た。
「あんまりよくお睡りになっているので、お起こし申すのがお気の毒でございました」
「よく寝ました、ずっと旅を続けて来たのでいっぺんに疲れが出たのでしょう、ああ、栗がよく実っていますね」
「わせ栗ですから、もう間もなくはぜますでしょう」
 娘は手水盥ちょうずだらいに、川から引いた清洌せいれつな水をみ、甲斐かいがいしく虎之助の洗面の世話をしながら、この付近が栗の名産地であることを語った。……年はまだ十七八であろう、肉付のきりっと緊った、どちらかというと小柄な躯で、熟れた葡萄のように艶々つやつやしい表情の多い眸子ひとみと、笑うと笑窪の出る豊かな双頬がたいそう眼をいた。昨夜聞いたところに依ると、老人の名は閑右衛門、豊島郡の方に古くから百姓を営んでいたが、去年隠居をして孫娘と二人此処へ移って来た。隠居はしたが労働が身に付いているので、安閑と遊んでいることができず、果樹を育てたり、少しずつ耕地の開墾をしているのだということだった。――死ぬまでには一町歩もひらけましょうかな。老人はそう云って笑った。
「お祖父じいさんと二人きりでは淋しくはありませんか」
「ええ淋しゅうございますわ」奈美は素直にうなずいた、「……ですから、岡田さまがいつまでも泊っていて下さるといいと思いますの」
「別所先生がお帰りになるまでは、三月でも半年でも御厄介になっていますよ」
「嬉しゅうございますわ」娘は大きく眼を瞠りながら、「……先生のお留守宅にいやな浪人たちが来ていますでしょう、お祖父さまと二人きりですから心配でしようがなかったのですけれど、岡田さまがいて下されば安心ですわ」
「それでは番人という役ですね」
「いいえ、いいえ、そんな積りで申したのではございませんわ、ただ心丈夫だと思ったものですから」
「やっぱり同じことですよ」笑いながら二人は家に入った。
 夏菜の汁と粟飯との朝食が済むと、娘は支度を改めて荒地へ出ていった。……独り残った虎之助は、さてなにをするという事もなく、縁先へ出てぼんやり野の方を見ていたが、やがて立上ると、家の周囲を見に出掛けた。
 焚物たきものの積んである小屋や、穀物の納屋、雑具小屋、その後ろは蔬菜畠そさいばたけで、裏手はよく手入れの行届いた梨や柿や葡萄や、梅、桃、杏子などの果樹がすくすくと枝をひろげている。地内は何処を見ても入念に除草がしてあって、とても老人と娘の二人きりの仕事とは思えない。殊に果樹の林と母屋と納屋と畠の配置には、口に云えない美しい落着きが感じられた。……有るべき物が、有るべき場所に有るべきようにある。果樹の枝のそろえ方も、畠のうねのつけようも、ゆったりと落着いていながら少しも無駄のない、統一された主人の意志をよく表現していた。――百姓というものはすさまじいものだな。虎之助は本当に「凄まじい」という感じを与えられたのであった。
 それから暫くなにか考えているようだったが、やがてそこを離れると、雑具小屋の中から一ちょうの鍬と古びた筍笠を取出して来た、そして裾を端折り、たすきを掛けてから、笠を冠って荒地の方へ出て行った。……閑右衛門老人は昨日の場所で荒地を耕していた。娘の奈美は老人が掘り返す側から、雑草を引抜いて捨てている、強くなった残暑の陽ざしに、二人ともびっしょり汗に浸っていた。
「やあ、その恰好はどうなさいました」
 老人は虎之助の異様な姿を見てあきれた。
「お手伝いをしたいと思いましてね」
「それは御殊勝なことですが」老人は微笑した、「……然し、眼で御覧になるほど百姓仕事は楽なものではございません、慰み半分になさるお積りならお止しなさいまし」
「いや慰みの積りではない、遊んでいては躯がなまくらになるので、力仕事をして汗を出したいのです、邪魔にならぬようにするからどうか手伝わせて下さい」
「それならまあやって御覧なさいまし、だが三日も続きますかな」
「まあお祖父さま」
 娘はとがめるように眼で制した。……虎之助はその間に、もう力をめて、雑草の蔓った荒地へ鍬を打下ろしていた。


 三日も続くかと老人が云った。
 その三日めに、虎之助の全身の骨が身動きもならぬほど痛みだした。幼少から武芸で鍛えた躯である。たかが土を掘り起こすくらいどれほどのことがあろうと思っていた。然し、いざやってみると、老人の言葉の正しいのに驚かされたのである。なにしろ鍬がてんで云うことをきかなかった、つよい雑草の根の張った地面は、虎之助の渾身こんしんの力を平然とはね返してしまう、老躰の閑右衛門にはごく楽々と出来ることが、彼の壮年の力量をまるで受付けないのだ。
「お躯が痛むでしょう、いやお隠しになっても分ります」三日めの朝老人が笑いながら云った、「……こんなことは貴方さまには無理でございますよ、まあ意地を張らずに是れでお止めなさいまし」
「まあもう少し頑張ってみましょう」虎之助は歯を食いしばって出掛けた。
 苦しい一日だった、老人の言葉を押して来たことを何度も後悔した、けれど頑張った、もう意地ではない、彼は土に戦を挑んだのである、自分が負けるか土を征服するか、倒れるまでは鍬を手から放すまい、そう決心したのである。……ひるが過ぎてからだった。
「岡田さま、ごらんなさいまし」と老人が鍬を休めて云った、「……やまだち共が水浴びをして居りますぞ」
「なるほど……」それどころではなかったが、虎之助は眼をあげて見た。
 二町ほど離れた目黒川の河原で、別所家の留守宅にいた浪人たちが、たくましい裸をさらして水浴びをしたり、かわらへ寝転がったりまた相撲を取ったりしているのが見え、遠慮もなく喚きちらす声が聞えた。
勿体もったいないものでございますな」老人が独り言のようにつぶやいた、「……あんな立派な躯をした男たちが、詰らぬ木剣いじりをしたり、水浴びをしたり、大飯を食ってごろごろ寝ているとは、一体あの男たちは世の中をどう考えているのでしょう」
「武術の修業は詰らぬものか、御老人」
「そう仰しゃられますと、まことにお答えに困ります、私は百姓でございますから自然と考え方もかたくなになるかも知れませんが」老人は再び仕事を始めながらそう云った、「もう徳川さまの天下は磐石でございます、主持ちのお武家がたは格別、浪人衆は刀を捨てるときでございましょう、今は剣術のうまい百人の武士より、一人の百姓が大切な世の中になっております」
「ではもう兵法などは無用だと云われるのか」
「私の申上げた言がそのように聞えましたか」
 虎之助は老人を見た、老人はゆっくりした動作で、然もひと鍬ひと鍬を娯しむもののように土を掘り起こしている、その姿はいかにもしっかりと大地に据って見えた。虎之助などの若い観念では、窺知きちすることさえできない大きな真実が、老人の五躰から光りを放つように感じられた。
「あれ」除草していた奈美がそのときふいに声をあげた、「あの人たちがこちらへ来ますわ」振返ってみると、水浴びをしていた浪人たちが、声高になにか笑いののしりながら此方へ来るのが見えた。
「お祖父さま、またいつかのように乱暴をするのではないでしょうか」
「相手にならなければいい、構わなければまむしまぬという、知らん顔をしておいで」
「よう……」果して、近寄って来た彼等は、大きな声で無遠慮に呼びかけた、「よく精を出してかせぐのう百姓」
「待て待て、見慣れぬ奴がいるぞ、その男はなんだ爺、貴様のせがれか」
「それとも娘の婿か」
「おいそっちの男」と先日応待に出た神谷小十郎と名乗る男が、角張ったあごをしゃくりながら呶鳴どなった、「貴様は眼が見えんのか、武士の前へ出たら冠物をとるくらいの作法は知っておるだろう、笠をとって挨拶しろ」
「そうだ、笠も脱がぬとは無礼な奴だ、やい土百姓、笠をとらぬか」
 娘は気遣わしそうに虎之助を見た、虎之助は鍬を休めて静かに笠を脱いだ。小十郎は意外な相手なのであっと云った。
「なんだ、貴様はこの間の」
「さよう、その節は失礼仕った」虎之助は微笑しながら、「……お留守宅を断わられたので、致し方なくこの老人の家に厄介になっております、諸公は水浴びがお上手でございますな」
 浪人たちは息をのんだ。……そして一人がなにか云おうとした時、虎之助は再び笠を冠り、鍬を執って静かに土を起こしはじめた。


 陽ざしにも風にも次第に秋の色が濃くなった。別所家の留守宅からはときおり老僕の弥助が話しに来た、内蔵允の消息はまるで無い、北国筋を廻っているのだろうというのも、弥助老人の想像でしかなかった。然し虎之助は、自分の気持がいつか少しずつ変ってきたことに気づいた、内蔵允に秘奥を問おうとする目的は動かないが、それよりも先に、そしてもっと深く、閑右衛門老人から学ばなければならぬものがあるように思う……、それが何であるかという事は口では云えない、然し老人の静かな挙措や、なんの奇もない平板な話題のなかに、虎之助が求めている「道」と深く相繋あいつながるなにかが感じられるのだ。故郷にいたとき師の近藤斎が、よくこういうことを云った。およそ此の道を学ぶ者にとっては、天地の間、有ゆるものが師である、一木一草といえども無用に存在するものではない、先人は水面に映る月影を見て道を悟ったとも云う、この謙虚な、たゆまざる追求の心が無くては、百年の修業も終りを完うすることはできない。虎之助はいつもその言葉を忘れなかった、そしていま老農夫閑右衛門の中に、師の言葉の真実を彼は認めたのである。内蔵允のむちを受けるまえに、この老農夫と出会ったことは仕合せであったという気がするのだ。
 十三夜の宵であった。川原の月が美しかろうというので、虎之助ははじめて奈美と一緒に、老人の許しを得て家を出た。すっかり穂になったすすきの原には、もう夜露が光りの珠を綴っていた、径の左右はあふれるような虫の音であった。
「岡田さまのお国はお遠くでございますか」
「近江です、近江の蒲生というところです」
 そう云いながら、虎之助はふと、もう二十余日も一つ家に暮していて、まだ故郷の話もしていなかったことに気づいて驚いた。何処へいってもず訊かれ、またこちらからも語るべきことを、閑右衛門の家ではまるでその折がなかった。老人の人柄だ。虎之助はそう思った、老人は気づかぬところに、そうしたふところの広さを持っているのだ、彼はまた一つ、閑右衛門の心をのぞき見たように思った。
「お母上さまはお達者でございますか」
 父親は、兄弟はと、もつれた糸がにわかにほぐれだしたように、娘は次々と質問を始めた、今日まで訊きたいと思っていたことが、一時に口へのぼったのである。
 二人は川原へ出ていた。虎之助は奈美と並んで、川原の冷たいこいしの上に腰を下ろしながら、亡き父の事、達者ではいるがひどく子煩悩な母の事、孝心のあつい弟思いの兄の事などを、問われるままに語った。……夜の流れの誘いか月の光りの悪戯いたずらか、或いはまた、娘と二人きりで話すという初めての経験のためか、そうして話していることが、次第に虎之助の心の底に温かい感動を呼び起こしてきた。彼は若かった、しかし二十五歳になる今日まで、武道一筋に修業してきたため、曽て女性というものに意識を奪われたことがない、それがいま沸然と、心の底に鮮やかな血の動きを感じたのである、もっともそれは極めて短い刹那せつなのことだった、生れてはじめて呼び覚まされたその新しい感動に気づくが否や、虎之助の脳裡にはまざまざと閑右衛門老人の眼が映った。快く二人づれで外出することを許した老人は、なにを考えていたろうか。いけない。虎之助は水を浴びたように、こぶしを握りながら立ち上った。
 彼が水を浴びたように感じたのは、然しもっと別の感覚からきたものだったかも知れない、それは虎之助が立ち上ったのと殆んど同時に、とつぜん四五人の人影が二人の前へ殺到して来たからである。たしかめるまでもなく、それは神谷小十郎はじめ例の五人の浪人たちだった、虎之助は娘をうしろにかばった。
 五人は二人の前に半円を作って立った。
「ふん……」神谷小十郎が白い歯を見せながら、「こんなところで野出合いか、我等と勝負する力はなくとも、百姓娘をたぶらかすことは得手だとみえる、当節は武士も下がったものだ」
「いや武士ではあるまい、この生白い面を見ろ、此奴はおおかた世間の娘をだまして歩くかどわかしであろう」
「いかにもそのくらいのあぶれ者だ」一人がぺっと唾を吐いた。
「やい、なんとかえろ、返答あるか」
 虎之助は黙っていた、黙ってはいたが、衝き上げてくる忿怒いかりの血はどうしようもなかった。彼等の現われる直前に起こった烈しい自責の念は、そのはけ口を求めていたようなものである。彼は右側に近くいる一人が、手頃な太さの柳の枝を持っているのを見ながら、
「返答は是れだ」そう叫ぶや否や、彼をねらっていた男の手から柳の枝を奪い、その面上を発止と一撃した。打たれた男は勿論、五人はあっと叫びながら半円の影を拡げた。「止せ、慌てることはないぞ」五人が一斉に抜こうとするのを、虎之助は微笑しながら制止した。
「こんな場所ではお互いに充分な立合いはできぬ、また気弱な娘をおどろかすこともあるまい、娘を送り届けてから場所を選んで充分にやろう」
「その手に乗るか、逃げる気だろう」
 そう叫ぶ男の面上で、烈しく柳の枝が二度めの音をあげた。今度のは前のよりも痛烈だったとみえて、打たれた男は絞り出すような叫び声をあげながら、脇の方へよろめき倒れた。それと見て、四人はさっと左右へひらきながら抜刀した。虎之助は柳の枝を青眼につけながら、
「奈美どの、家へお帰りなさい」と叫んだ、「貴女がいては働きにくい、拙者のことは心配無用です、先に家へ帰っていて下さい」
「岡田さま……」
 娘はなにか云いたげだった、然し虎之助の言葉を了解したのであろう、身軽な動作ですばやく草原の方へ走り去った。


 彼等は動けなかった。……娘が走りだすのを見て娘のいるうちにかかるべきだったと気づいた、それで一人が跡を追おうとした。然し虎之助の青眼につけた柳の枝は五人の気と躰を圧してびくとも動かさなかった。虎之助は微笑しながら、
「貴公、神谷小十郎と云ったな」と静かに眼をやった、「別所先生の鞭を受ける資格がいずれにあるか試してやる、此方は柳の枝だ、打っても命に別条はないから安心して斬って来い」小十郎の足下で川原の礫が鳴った。けれども五本の白刃は月光を映したまま動かない。「小十郎、臆したか」虎之助が叫んだ、わっという呶声が神谷小十郎の口から発した、礫を蹴返けかえす音と、矢声とが、夜のしじまを破った、白々とえた川原に影が走り、刃が空へ電光を飛ばした。
 勝負は直ぐについた、強く面を打たれて、眼がくらんだ三人が倒れると、神谷小十郎と残った一人は、踵で背を蹴るような勢いで逃げだしてしまった。虎之助はそれを見送っていたが、やがて倒れてうめいている一人の側へ近寄り、柳の枝をその躯の上へ投出しながら、
「さあ返すぞ」と笑いながら云った、「……貴公がよい物を貸して呉れたので、誰にも怪我がなくて仕合せだった、帰ったら小十郎に云え、彼とはまだ勝負がついておらぬ、改めて立合いにまいるからと、忘れずに云うんだぞ」
 相手は息を殺して動かなかった。虎之助はそのまま何事もなかったように川原をあがった、すると直ぐそこの叢林の中から、「岡田さま」と云って奈美が走り出て来た。虎之助は立止ってじっと娘の眼をみつめた。奈美の眸子は、なにか訴えたげな烈しい光りを帯びていた。
「お祖父さまには内証ですよ」
「……はい」
「では帰りましょう、冷えてきました」
 奈美は頷いてそっと虎之助の方へ身を寄せて来た、娘の黒髪に、小さな露の珠が光っているのを虎之助は認めた。
 その明くる早朝であった。声高な人の話し声に眼を覚まされた虎之助は、声の主が別所家の留守宅の弥助老人だと分ったので、急いで着替えをして出た。もしかすると内蔵允の消息があったのかも知れない、そう思ったのである。手早く洗面を済ませて戻ると閑右衛門が独り縁側で茶を啜っていた。
「お早うございます、いま弥助どのが見えていたのではありませんか」
「いま帰ってゆきました」老人は可笑おかしそうにのどで笑った、「……面白い話を聞きましたよ、お留守宅にいたあの浪人共が、ゆうべ夜中に銭をさらって逃げたということでございます」
「……銭を掠って」虎之助は眉をひそめた。
「留守中に修業者が来て、路用に困る者があったら自由に持たせてやれと、通宝銭がひと箱置いてあったのです、今日まで一文も手を付けた者は無かったのですが、あのやまだち共、それを掠って逃げたのだそうでございます」
「なんと、見下げ果てたことを」
「いや、あれがこの頃の流行でございますよ」老人は茶碗を下に置き、眼を細めて栗林の方を見やりながら云った、「別所先生を尋ねて来るお武家方で、本当に修業をしようという者がどれだけあるか、多くは先生から伝書を受け、それを持って出世をしよう、教授になって楽な世渡りをしよう、そういう方々ばかりです」
「それは先生が仰しゃったのか」
「百姓にも百姓の眼がございます」老人は静かに片手でひざでながら、「……たとえば岡田さま、貴方にお伺いいたしまするが、貴方さまはなんのために先生を尋ねておいでなさいました」
「それはもちろん、先生に道の極意をたずねたいためだ、刀法の秘奥を伝授して頂くためだ」
「ふしぎでございますな」老人は雲へ眼をやった、「……私どもの百姓仕事は、何百年となく相伝している業でございます、よそ眼には雑作もないことのように見えますが、これにも農事としての極意がございます、土地を耕すにも作物を育てるにも、是れがこうだと、教えることのできない秘伝がございます、同じように耕し、同じたねき、同じように骨を折っても、農の極意を知る者と知らぬ者とでは、作物の出来がまるで違ってくる、……どうしてそうなるのか、……口では申せません、また教えられて覚えるものでもございません、みんな自分の汗と経験とで会得するより他にないのでございます」
「岡田さまは若く……」と老人はひと息ついて続けた、「……力も私より何層倍かお有りなさる、けれども鍬を執って大地を耕す段になると、貴方さまには失礼ながらこの老骨の半分もお出来なさらぬ、行って御覧なさいまし、貴方さまが耕したところは、端の方からもう草が生えだしています、渾身の力で打込んだ貴方さまの鍬は、その力にもかかわらず草の根を断ち切っていなかったのでございます、どうしてそうなるのか、どこが違うか、口で申せば容易いことでございましょう、けれど百姓はみな自分の汗と血とでそれを会得致します」
「…………」
「先日、岡田さまは私の言葉をとがめて、兵法は無用のものかと仰しゃいました」
 老人は暫くして再び続けた。
「仰せの通りです、若し耕作の法を人の教えに頼るような百姓がいたら、それはまことの百姓ではありません、いずれの道にせよ極意を人から教えられたいと思うようでは、まことの道は会得できまいかと存じます、銭を掠って逃げたあの浪人共が、そのよい証拠ではございませんか」
 虎之助の背筋を火のようなものが走った。言葉や姿かたちではない、静かな、噛んで含めるような老人の声調を聴いているうちに、彼はまるで夢から覚めたように直感したのだ。
 ――此の人だ、別所内蔵允はこの人だ!
 そう気づくと共に、虎之助は庭へとび下りて、土の上へ両手を突いた。
「先生……」
 老人は黙って見下ろした。
 虎之助は全身の神経を凝集してその眼を見上げた。かなり長いあいだ、老人は黙って虎之助の眼を瞶めていたが、やがてその唇ににっと微笑を浮めた。
「内蔵允は留守だ」
「先生!」虎之助は膝をにじらせた。
「いやいや、もう二度と帰っては来ないかも知れない、それでもなお此処に待っているか、虎之助」
「私に百姓が出来ましょうか」
 虎之助は悦びにふるえながら云った。老人は愛情のこもった温かい眼で見下ろしながら、しずかな力のある声で、
「道は一つだ」と云った、「……刀と鍬と、執る物は違っても道は唯一つしかない、是れからもなに一つ教えはせぬぞ、百姓は辛いぞ」
「先生……」
 虎之助は涙の溢れる眼で、まばたきもせずに老人の面を見上げた。師を得た、真の師と仰ぐべき人を得た、自分の行く道は決った。今日まで四六時ちゅう縛られていた、「兵法」の殻から、彼はいま濶然かつぜんと脱出した気がする。道は一つだ、無窮に八方へ通じている、それが大きく、のびのびと眼前に展開されたようだ、そして彼はその大道の一端に、確りと立上ることのできた自分を感じた。
「お祖父さま、岡田さま」奈美が奥から出て来てそう云った、「……御膳のお支度が出来ました」





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「キング」大日本雄弁会講談社
   1940(昭和15)年11月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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