源蔵ヶ原

山本周五郎




 市三がはいってゆくと、その小座敷にはもう三人来ていた。蝶足ちょうあしの膳を五つ、差向いに並べ、行燈あんどんが左右に二つ、火鉢が三つ置いてあった。
 瓦屋の息子の宗吉をまん中に、こっちが石屋の忠太、向うに左官の又次郎が坐っていた。市三はかれらにうなずいて、こっち側の奥の席へ坐った。宗吉がいま始めたところだと云い、又次郎が市あにいお先へとじぎをした。忠太はぶすっとした顔で、自分の盃を市三に差そうとし、気がついたのだろう、途中でやめて、こんどは燗徳利かんどくりを渡そうとした。
「置いとけよ」と宗吉がそれを止めた、「いま持って来るだろう」
「おれたちのしきたりはおかしいよ」と忠太は手酌で飲みながら云った、「盃のやりとりなし、酌のしっこなし、よそで人と飲むときにはまごつくばかりだ」
 女中が酒を持って来た。
「いい修業さ」と宗吉が云った。
「ええ」と女中が宗吉に振向いた。
「おめえじゃねえ」と宗吉が女中に云った、「さっきおやじに断わっておいたが、今日は相談ごとの集まりだから、さかなはここにあるだけでいいんだよ」
「はいわかってます」と女中が云った、「お酒のときは手を鳴らして下さい」
 女中が去ると、又次郎は自分の持っている盃を指さして、「よくわからねえんだが」とみんなの顔を見まわしながら云った、「――この酒、どういうことになるんだい、おらあからっけつで来ちゃったぜ」
「珍しいことを聞くもんだ」と忠太が云った、「いつもは胴巻にずっしり持ってるのか」
 又次郎は市三と宗吉の顔を見た。どちらも知らぬそぶりで、忠太の云ったことなど聞きもしなかった、というようにみえた。
のろがやって来て」と又次郎はつぶやくように云った、「ここへ早くこいって云うもんだから、おらあこのとおり仕事着のままとんで来ちゃったんだ」
「いいんだったら」と宗吉が手を振った。
「飲めよ」
「心配するな」と忠太が云った、「割前を取ろうたあ云わねえから」
 又次郎は口へもってゆきかけた盃を止め、忠太を見て、おめえのおごりかときいた。
「気になるのか」と忠太が反問した。
「ならなくってよ」と又次郎がやり返した、「おらあ、昔っからいつもぴいぴいだった、いまでもぴいぴいだ、けれども集まって飲むときに、割前を出さなかったこたあいちどもなかった筈だぜ」
「もう始めるのか」と宗吉がさえぎった、「おめえたち二人は顔を見るなりいつもそれだ、よく飽きねえもんだな」
 市三は天床を見あげたり、壁を眺めたりしながら、黙ってゆっくりと酒をすすっていた。それはまるで、その小座敷にいるのは自分ひとりだ、とでもいうふうにみえた。
「なんだかおちつかねえなあ」と又次郎は膝で貧乏ゆすりをしながら云った、「いま宗ちゃんは相談ごとの集まりだって云った、おれんところへ来たのろは、死んだおみつぼうのことで話があるって云ってたぜ、いってえどういうことなんだい、これは」
「お光ぼうの死んだわけがわかったんだ」と忠太が云った。
「だっておめえ、お光ぼうが大川へ身を投げて死んだってこたあ、誰だってもう知ってるじゃねえか」
「どういうわけで死んだかってんだ」忠太は口の中のなにかを吐きだすように云った、「人の云うことはよく聞くもんだぜ」
「わるかったな」と云って又次郎は宗吉に呼びかけた、「宗ちゃん、いまのはほんとの話かい」
「そうらしい」と宗吉は頷いた、「しかしその話は顔がそろってからのことだ」
「てえと、あとはのろと」
「泰二さ」と忠太が云った、「顔が揃うと云やあわかっているじゃねえか」
 市三が眼尻で又次郎を見た。又次郎はそれには気がつかず、なにやらとげのある悪口を呟きながら、手酌で飲んでいた。
「宗ちゃん、いまの口っぷりを聞いたかい」と又次郎は宗吉に呼びかけた、「忠太のやつあいつもああいうふうな、いきなり人のぼんのくぼの毛を引っ張るようなことを云うんだ、いつだっけか、お光ぼうが酒の肴を聞き違えたことがあったっけ、まぐろぬたと云ったのに浅蜊あさりぬたを持って来た、すると忠太のやつは鼻柱にしわをよせて、本所ほんじょじゃこのごろ浅蜊を鮪って云うようになったのかいってよ、――けっ、とっ替えろならとっ替えろでいいし、いやなら食わなきゃいいじゃねえか、なにもそんなひねくれたいやみを云うこたあねえや」
「そのときおれもいたよ」宗吉が云った、「なにも忠太に限っちゃねえ、人は虫のいどころで、結構いやみなことも云いたくなるもんだ、それよりおれが感心したのは、そのときのお光ぼうの受けかただった、あの少し大きな口を押えて、肩をすくめながらちょっと舌の先を出して、――あらいやだ、板場さんからもらったときは鮪だったのに、どこで化けたんでしょって、な」
「そうだっけ」又次郎はぐらっと頭を垂れた、「どこで化けたんでしょ」
 そのときのお光のようすを思い描こうとするのか、又次郎はじっと眼をつむった。
「額を手で押えて」と市三がそっぽを見たままで、独り言のように呟いた、「あ、いけない、って云うのが癖だったな」
「そのときちらっと舌の先を出すんだ」と忠太が付け加えた、「――又のやつはあんなことを云うが、ふしぎとおれのときには注文を聞き違える、酢の物ってえと塩焼、湯豆腐ってえと寄せなべ、――たまにはこっちもかちんとくらあ、どうしたんだと云うと、片手で額を押えて、舌の先をちらっと出して、あ、いけないって、――おれにゃああれがたまらなかった」
 表の店のほうも客がんできたのだろう、板場へ注文をとおす女たちの声や、客の話したり笑ったりする声が賑やかに聞えた。
「おれたちとはまる三年の馴染なじみだったな」
「まる三年と五カ月だ」と忠太が又次郎の言葉に朱を入れた、「なかま六人が揃ってはたちになって、その祝いに初めてこのうちへ飲みに来た」
「泰二は二十一さ」と又次郎が云った、「そのとき番になったのがお光ぼうだ」忠太は又次郎には構わずに続けた、「ひどく姉さんぶっているからとしをきくと、十六だって、――からだも顔もちまちまっとしていたが、十八より下たあみえなかったな」
「みんな一遍にいかれちゃった」と又次郎が云った、「それでみんなが、いやそうじゃねえ宗さんだ、宗さんが云いだして、誰もお光ぼうには手を出さねえって約束をしたっけ、どんなことがあっても手を出すなって」
「もしも約束をやぶってちょっかいを出したら」と忠太が切り口上で云った、「みんなで袋叩ふくろだたきにして大川へ放り込み、二度と御朱引き内の土は踏ませねえって、はっきり契約したし、みんなその約束を守って来た筈だ」
「おめえまるで」と又次郎がどもりながら云った、「まるで怒ってるようだぜ」
「ようだ、――へ」忠太は片方のまゆをぴくんとあげて舌打ちをした、「ようだもくそもあるか、おらあ、――まあいいや、おめえが相手じゃ肝が煮えるばかりだ」
 又次郎がなにか云おうとすると、宗吉がそれを遮って、ほくろはどこにあった、と誰にともなく問いかけた。
「泣きぼくろ」と又次郎が云った、「左の眼尻のここんところだ」
「上唇と鼻の脇とのあいだだ」と市三が云った、「泣きぼくろじゃねえ、あれは運のいいほくろなんだ」
「運のいい、ねえ」と又次郎。
「耳のうしろにもあったっけ」と宗吉が云った、「おれのおふくろとちょうど同じところだった、そう云ったら、それじゃあたしあんたのおっかさんの生れ変りかしらって、べらぼうめ、おふくろはまだ生きてらあ」
「その話をしていたよ」と忠太が云った、「若旦那に一生、顔向けがならないって」
 宗吉はなにかをまぎらわすように手を叩き、向うで女中の答えがした。そこへのろがはいって来た。
「おうさびいさびい」のろはわざとふるえ声で云いながら、市三の脇にある火鉢へいってかがみこんだ、「一朱おっことしたうえに財布さいふをかっさらわれたような心持だ」
「きまってやがら」と又次郎が云った、「少しあったまると、こんどは十文もうかったような心持になるんだろ」
「どうした」と忠太が呼びかけた、「やつはいたか」
「あとから来るよ」とのろが答えた、「仕事が残ってるが、そういうことなら一と区切りつけてゆこうってさ」
「おめえ饒舌しゃべったのか」と忠太。
「誰が、おいらがかい」と云ってのろは、軽薄らしく笑いながら首を振った、「とんでもございません、小判でつらあ張られたって饒舌るこっちゃあござんせんよ」
 女中が二人で酒を持って来、めいめいの膳へ置くと、あいている燗徳利をさげていった。
「なんだか妙だ」と又次郎が首をひねった、「なんだか妙なぐあいだぜ、忠太とのろとでなにかたくらんでるようじゃねえか、それとも宗ちゃんも市あにいも承知のうえか」
「うるせえな」と宗吉が云った、「少しおちついて飲めねえのか」
「これが性分でね、おちつくまではおちつけねえんだ」又次郎は手酌で飲み、つまみ物を喰べた、「お光ぼうが大川へ身を投げて死んだ、なぜ死んだかっていうわけがわかった、それでなかまがここへ集まった、――お光ぼうはおれたち六人の守り神みてえなで、誰も手出しをしちゃあいけねえってえ約束をした」
「今年の春まではな」と忠太が云った、「その約定は二月まで、泰二がお光ぼうと夫婦約束をするまでのこった」
「それだって、ほかの者が手出しをしねえって約定にゃ変りはねえだろう」と又次郎がやり返した、「泰二とお光ぼうの夫婦約束は、おれたちみんなが認めたんだ、泰二はだしぬいたんじゃなく、お光ぼうに話すまえにおれたちに相談した」
「そのとき」と忠太が証文に爪印つめいんすような口ぶりで云った、「いのちがけだって泰二が云ったのも覚えてるだろう」
「芝居がかっているようだがしんけんだった」と宗吉が云った、「ふだんはあんまり口もきかねえし、なにか云うにしても、木の枝を折っぺしょるように、ぽきぽきした云いかたしかできねえ、それが、――いのちがけなんだ、と云いだしたんでおれたちは一言もなかった」
「顔があおくなってたぜ」と又次郎。
「おりゃあしゃくだった、いまだから正直に云っちまうが、おれはしゃくだった」と忠太が低い声で云った、「いのちがけ、――おれだってお光ぼうにはれてたんだ、みんなとの約束がなけりゃあ、とっくに夫婦約束でもなんでもしていたろう、おれたちがごしょう大事に約束を守っているうちに、泰二のやつはこっそり爪を伸ばしてた、むっつりなんとかで、へんに堅えような人間ほどゆだんのならねえもんだって、おりゃあしまったと歯噛はがみをしたぜ」
「初めて聞いた」と宗吉が云った、「おめえがそんなに熱心だったとは知らなかったよ」
「めそめそしてみせればよかったのか」忠太は自嘲じちょうするように唇をゆがめた、「おれだって男のはしくれだ、泰二が先に話しだした以上、おれもと名のって出るわけにゃあいかねえ、その代りうろんなまねをしたらただはおかねえ、いのちがけだという言葉にこれっぽっちでもごまかしがあったら、そのままにゃしておかねえとにらんでたんだ」
 彼の口ぶりのとがめるような、訴えるような調子にひきこまれたのだろう、みんなは息をひそめて彼の顔を見まもった。
「恥をさらすようだが、おれは二人の逢曳あいびきを見た」と忠太は酒を啜ってから続けた、「四月の末から五月へかけて、三度、いや四たびだった、この店がひけたあと、源蔵ヶ原のもちの木のところでな、おれはこの眼でちゃんと見たんだ」
「おかしいな、二人は夫婦約束ができてたんだろう」と又次郎が云った、「そんならなにも、そんなところでこそこそ逢うこたあねえと思うがな」
「そのわけはのろが話す」と忠太が云った、「おれは自分の見たことを云うまでだ」
「宗ちゃん」と云って市三が、燗徳利を振ってみせた。
 宗吉が手を鳴らし、女中の答えが聞えた。いっとき、小座敷の中がしんとなった。表の店の賑やかな騒音が高まるように感じられた。「ははあ」又次郎が膳の数を眺めて、なにか、合点のいったように頷いた、「――いままでの話のようすといい、膳が五つしきゃねえところをみると、わけというのは泰二なんだな」
 誰もなにも云わなかった。女中がまた二人で酒を持って来、燗徳利を替えて去った。
「どうもおかしい」又次郎は首を振った、「みんなはなにもかも知っていて、おれ一人がつんぼ桟敷さじきにいるみてえだ、宗ちゃんはおちついて飲めって云うけれども、これじゃあいくら飲んだって酔やあしねえや」
「みんなが揃ったらって」云いかけて、宗吉は振向いた、「――来たようだぜ」
 女中となにか云う男の声がし、すぐに障子をあけて泰二が顔を出した。しまあわせ半纒はんてん、三尺帯をきちっとしめている、痩せてほおのこけた顔は、寒さのためか蒼白くこわばり、唇も紫色になっていた。
「やあ」と泰二は五人それぞれに頷きかけ、こっちへはいって障子を閉めた、「――おそくなって済まなかった、ちょっと仕事の区切りをつけていたもんだから」
「ここへ来いよ」と市三が自分の脇へ手を振った、「のろ、もうちっとそっちへ寄れ」
「いつでもこの伝だ」のろは膝をずらした、「のろ、あっちへいけ、へえ、のろ、こっちへ来い、へえ、なんてえこった」
「泰さん」と宗吉が云った、「断わっておくがおめえの膳はねえんだ、それにはわけがあるんだが」
 泰二はわかっているというふうに、こくんと頭をさげ、膝を固くしてうなだれた。市三だけが眼の隅で、それを見た。
「改まってわけということもねえだろう、話はお光ぼうのことだ」と忠太が宗吉のあとを継いで云った、「――お光ぼうがこのうちから暇を取って、いなくなったのは十月のことだ、それから五十日、どうしているか誰にもわからなかった、そうして十日まえに聞いたのは、大川へ身を投げて死んだっていうことだ、――ここにいる五人が知っているのはそれだけなんだ」
 又次郎は膝で貧乏ゆすりをしながら、手酌でせかせかと飲み、宗吉は腕組みをして自分の膳の上を見まもっていた。のろは酒好きではないとみえ、ときたま盃を取るが、一杯の酒をあけるのに、三くちか四くちかかった。
「まださびい」とのろは口の中で呟いた、「おっそろしくさびい晩だぜ」
 忠太はのろを睨んでから、言葉を続けた、「――おめえはおれたちとは立場が違う、お光ぼうとは夫婦約束をした人間だ、二月におれたちの前で約束してから今日まで、二人の中にはおれたちの知らねえことが幾らもあったろうと思う、とすれば、お光ぼうがどうして死んだのか、しかも大川へ身を投げるような、哀れな死にかたをどうしてしなければならなかったか、おめえなら知っているんじゃねえかと思う、もし知っているんなら、おれたちに聞かしてもらいたいんだ」
「ちょっと」と宗吉が腕組みの手を解き、その手を膝におろして云った、「おめえが返辞をするまえに云っておくことがある、――いいか泰二、ここにいるみんなが初めてこのうちへ飲みに来て、初めてお光ぼうに会ったとき、みんながお光ぼうを好きになった」
 おれもそのなかまの内なんだろうなと、のろが云い、忠太がまた睨みつけた。のろは首をすくめて、からの盃を啜った。
「みんなが好きになったので、誰もちょっかいを出さねえという約束をした」と宗吉は静かな口ぶりで、絵解きでもするように続けた、「――もし手出しをする者があったらこれこれと、みんなの同意で約定もした、人のことは知らねえ、たかが小料理屋の酌おんな、その場の座興だと思った者がいたかもしれねえ、だが、少なくともこのおれだけはしんけんだった」
 忠太もさっき同じようなことを云った。自分もしんから好きだったが、おめえに先を越されたので、歯ぎしりをして引込んだと。おれはそれを聞いていながら、おれ自身の気持をそっくり、忠太の口を借りて云っているような気がした。
「人の心の重さ軽さは比べようがねえ」と宗吉は続けて云った、「おめえが、いのちがけだと云い、忠太も同じおもいだったという、おれはその二人よりもっとお光ぼうが好きだった、市三も又ものろも、口には出さねえがおれたち以上にれていたかもしれねえ、けれどもおめえが先手を取り、みんなは二人の仲を守ってやろうときめた、わかるな」
 泰二はほんの僅かに頷いた。
「おめえたちが夫婦になるまで、どんな人間にもちょっかいを出させねえって、きざなようだが、おれたちは二人のうしろだてになったつもりでいたんだ」そう云って宗吉は片手で静かに膝を叩いた、「――これでおれの云うことは終りだ、さあ、こんどはおめえの番だぜ」
 泰二は咳をし、低くうなだれ、それから頭をあげて天床を見た。
「おれにもわからない」泰二は知らない言葉をさぐりだすような、しどろもどろな調子で云った、「あいつがどうして死んだか、どうして身投げなんぞする気になったのか、まるで見当もつかないんだ」
「逢曳きのときにも話は出なかったのか」と宗吉が云った、「源蔵ヶ原ばかりじゃねえ、お光ぼうがこのうちから暇を取って出たあとでも、幾度か二人で逢ったんだろう」
 泰二はゆっくりと宗吉の顔を見た。
「源蔵ヶ原だって」と彼は舌が鉛にでもなったような、まだるっこい口ぶりで反問した、「おれは知らないが、源蔵ヶ原って、いったいなんのことだ」
「いろはを順に読むことあねえ」と市三が冷やかに云った、「話を進めろよ」
「おれはほんとに知らないんだ、なんにも知らないということではみんなと同じなんだ」と泰二は確信のない調子で云った、「あいつがこのうちから暇を取ったわけも知らなかった、そう聞いたから小梅にあるあいつのうちをたずねてみたら、都合があってよそへ預けたと云うばかりで、おふくろさんはそれ以上なにをきいても相手にしなかった、おれはあいつが、どこにいるかも知らなかったんだ」
「焦げっ臭えな」と忠太が云った、「どっかでなにかくすぶってるようだぜ」
「そうかもしれないが、おれは」
のろ」忠太は泰二の言葉を遮って云った、「もういいぜ、おめえの話を聞かしてくれ」
「苦手だなあ、こいつは」のろはてれてうしろ首を叩いた、「おらあいつも追いまわしが役どころで、舞台のまん中に坐ったことがねえから、こういうことになるとてんからのぼせちまうんだ」
 宗吉が「のろ」と云った。
「いいよ、話すよ」のろは坐り直した、「泰さん、これからおれの云うことで、気にさわるような話が出るかもしれねえが」
「よけいなことはぬきにしろ」と忠太。
「わかったよ」とのろは云った、「それじゃ始めるが、お光ぼうはみごもってたんだ」
 泰二の口が力なくあき、その眼がそろそろとのろのほうに向いた。又次郎の貧乏ゆすりが止り、宗吉は自分の盃へ酒をごうとしたまま、疑わしげにのろの顔を見まもった。市三はそっぽを向いたまま動かず、忠太ひとりは血ばしったような眼で、泰二の表情をのがさじと睨んでいた。
「このうちから暇を取ったのも、小梅の実家から本所の親類のうちへ身を寄せたのも、みんなそのためだった」とのろは続けた、「おなかのよつきで、躯が小柄だから人の眼につく、それでこの店にもいられなくなったし、実家にも近所が遠慮でいられない、それが十月のことで、しかも相手の男と相談したが、世帯しょたいを持つあては当分ねえっていう、腹の児はもうむつきだ、小梅の実家には両親のほかにきょうだいが七人、寝たっきりのばあさんもいるというありさまだ、これだけ事が揃えば、身投げをするのもそんなにふしぎはねえだろう、――死ぬまえの晩のことだが、夜なかにしくしく泣きながら、二度も三度も男の名を呼んだそうだ」
 のろはそこで口をつぐみ、眼をつむった。泰二の顔はみじめに歪み、彼を睨みつける忠太の眼はぎらぎら光るようにみえた。
「――泰さん」とのろささやくように云った、「かんにんしてね、泰さん、――その親類のおばさんという人が、はっきりそれを聞いたそうだ」
 のろが話し終ると、小座敷の中は耳が痛くなるほどの、張りつめた沈黙におおわれた。すぐに、又次郎がなにか云いかけると、忠太がきっと泰二を睨んで、さあ、わけを聞こう、といどむように云った。
「わけと云ったって、おれにはなんにもわかりゃしない、だい一、あいつがみごもっていたっていうことからして、おれはいま聞くのが初めてなんだ」と泰二がふるえ声で云った、「おれにはとても本当のこととは思えない」
「もう少しましな云い訳はねえのか」
「お光がみごもっていたなんて」泰二は忠太の言葉など耳にもはいらないように、うつろな眼を天床へ向けながら、首を左右に振った、「――そんなことがある筈はない、もしそんなことがあったとしたら、おれに、――いや、嘘だ、それはなにかの間違いだ、のろはなにか聞き違えたんだ」
「云うことはそれだけか」と宗吉が穏やかに云った、「お光ぼうは死んじまったからなんにも云うことはできねえ、おめえは生きている、生きているおめえのほかに、本当のことを話せる者はねえんだ、夫婦約束までした相手が、身投げをして死んだんだぜ、泰二、こいつは冗談ごとじゃねえぞ」
 泰二の顔がさっと白くなり、頬の肉のひきつるのが見えた。
「それはおれの云いたいことだ」泰二はどもりながら云った、「それはおれの云いたいことだ、お光はおれが夫婦約束をした女だ」
「なぜ夫婦にならなかった」と忠太が云った。
「おれの」と泰二はまた吃った、「お光のほうの家族のこともあり、おれのほうもすぐにはどうにもならなかった、もう一年、いや、もう半年もしたらって、そう話しあっていたんだ、半年もしたらどうにかしようって、九月の末のことだ、本当に二人で相談しあったんだ、みんなが信じようと信じまいとおれの知ったこっちゃねえ、おれはお光と夫婦になるつもりだったし、嘘も隠しもねえ命がけで好きだったんだ、それを、そんな」唇がふるえて言葉が途切れた、「――子供ができて、世間に顔向けがならなくなって、身投げをして死ぬなんて、そんなことがあっていいもんか、おめえたちがなんのためにおれを呼びつけて、こんなけじめをくわせるのか知らない、けれども、いちばんつらいのはおれなんだぜ、みんなにとっては向う河岸の火事だろう、痛くもかゆくもないだろう、だがおれにとっては」
「泣き言を聞こうというんじゃねえ」と忠太がきめつけた、「どうしてこんなことになったか、おれたちは本当のわけが知りてえんだ」
「もういいだろう」と市三が云った、「云えねえものをくどくきいてもしようがねえ、この辺でけりをつけようじゃねえか」
「そうだな」と宗吉が云った、「そのほかにしようはねえらしい、出ようぜ」
 泰二は市三を見、宗吉を見た。のろが立ちあがり、他の三人が立ちあがった。
「立てよ」と忠太が泰二に云った、「外へ出るんだ」
 泰二が立ちあがり、市三からさきに、六人は外へ出た。宗吉が女中に、すぐに帰るから座敷はそのままで、と云い残し、かれらは泰二を中にはさんで表通りから横丁へはいり、狭いろじをぬけて空地あきちへ出た。三百坪ばかりの草原で、まわりはぎっしりと家が詰っているが、二つ三つかすかに灯が見えるばかりで、あとはただ黒い影絵のような眺めだった。そこはまえに源蔵ヶ原と呼ばれていて、三倍くらいも広かったが、いまはその名を知っている者もなく、子供たちはわけもわからずに「げんぞっぱら」と呼んでいた。空地のほぼ中央にもちの木がひねこびたような枝を張り、その一方がちょっと低くなって、雨のあとなどには水溜みずたまりができ、夏から秋にかけて、蜻蛉とんぼがよく群をなして集まるのが見られた。
 原へはいってゆく六人の足の音で、てた土がきしんだ。まもなく霜がおりるのであろう、空にある半月の光で、枯草の葉がきらきら光った。
「この辺でよかろう」と宗吉が云った。
 かれらは立停たちどまり、泰二をとり囲んだ。
「泰二、わかっているだろうな」と宗吉が云った。
 泰二はうなだれた、「約定のことならわかってる」
「ちょっと」と又次郎が口をはさんだ、「おれにもちょっと云わせてもらいたいんだが、昔の約定といっても、いまになってみれば子供っぽ過ぎると、泰二にだって口に云えないわけがあるんだろう、だから」
「子供っぽ過ぎるって」忠太がするどく反問した、「忘れたのか、おれたちのお光ぼうが身を投げて死んだんだぞ、子供っぽいもくそもあるか、人間ひとりが死んだんだぞ、いまになってくだらねえことを云うな」
 泰二はそこへ坐った。固くなっていた膝を折るとき、関節の鳴る音がし、坐ったあしの下で、凍てた枯草がかさかさと鳴った。
「さあ、やってくれ」と泰二が云った、「おれが悪かったんだ、どうにでもしてくれ」
 五人はしんとなった。泰二は坐った膝へ両手を突き、頭を低く垂れた。市三が眼の隅で忠太を見ると、まるでそれがはずみにでもなったように、忠太が前へ踏みだした。
「みんな」と彼は叫んだ、「おれから先にやるぜ」
 そして右手をこぶしにして振りあげ、左手で泰二の肩を押えた。そのとき、市三がすっと寄って、忠太の振りあげた右手をとらえ、ぐいとうしろへ引戻した。
のろ」と市三が云った、「もういいだろう、本当のことを云っちまえ」
 忠太は腕を振り放そうとしたが、市三は両手でつかんで動かさなかった。又次郎はおろおろとみんなの顔を見、宗吉がなんのことだと云った。
「ほんとのことを云おう」とのろが、いかにも待ちかねていたように云った、「さっきの話には出さなかった、出さなかったわけは市あにいが云うだろうが、泰さん、――それからみんなも聞いてくれ、お光ぼうが死んだのは大川へ身を投げたんじゃねえ、おなかの児をおろそうとして、その手当をしたばばあがやりそこなったのがもとで死んだんだ」
「放せよ」と忠太が身をもがいた。
「もうちっとだ」と市三が云った、「話は長くはかからねえ、じっとしてろ」
のろ」と宗吉が云った、「そんならなぜ、大川へ身投げをしたなんて云ったんだ」
「あとを聞いてくれ」とのろは云った、「おれがおっちょこちょいな人間だってことは、ここにいるみんなが先刻ご承知だ、たしかに、おれはおっちょこちょいだし、のろと云われてよろこんで追いまわされてる人間だ、のろ、忠太はそこに眼をつけたんだ」
「おれがどうしたって」と忠太。
「へたな口をきくな」と云って、市三は腕に力をいれた、「すぐに済むからじっとしてろ」
「おれがどうしたってんだ」
「自分で知ってるだろう」とのろは云った、「七月の下旬、おめえはこの源蔵ヶ原で、お光ぼうをてごめにしたそうじゃねえか、泰さんが来ているからと嘘を云ってさそいだし、そこのもちの木の下で、――かんにんしてくれって泣いて頼むお光ぼうをよ」
「じたばたするな」市三がもっと力をいれて忠太の腕をじあげた、「のろ、あとを続けろ」
「そんな非道なことでも児はできる、女ってなあ悲しいもんだ」とのろは云った、「おなかが眼立つようになって、お光ぼうがどんなに苦しんだか云うまでもあるめえ、泰さんには顔も合わせられねえ、人に気づかれては恥ずかしい、それで店から暇を取ったが、きょうだいの多い自分のうちにもいられねえ、本所のおばさんのところへ身を寄せたが、泰さんといっしょになるためには、おなかの児をどうにかしなくちゃならねえ、こどもを闇から闇へ消すのはたまらねえが、てごめにされてできたものだから堪忍かんにんしてもらう、そう思いきって近所のばあさんにかかった、――ところがその手当がしくじって、躯じゅうからっぽになるほど血を出して死んじまった、そして死ぬときに云ったんだ、泰さん、かんにんしてちょうだいって、――しゃがれた細い声でな、泰さんかんにんしてちょうだいって、おばさんという人が泣きながらそう云ってたぜ」
 みんなが息をのんだ。のろは手の甲で眼を拭き、泰二は口をあいて忠太を見た。彼の額が月の光で白く浮きあがり、空洞くうどうのようにあいた唇のあいだから、歯があらわに見えた。
「なんてえこった、とんでもねえ」と又次郎が云った、「もしもそれが本当なら、どうして身投げなんて、とんでもねえ話をこしらえたんだ」
「忠太は自分の罪をまじくなうために、泰さんを引張り出そうとしたんだ」とのろが云った、「おいらあのろだ、のろならだまして使えると思ったんだろう、おれにうまいこともちかけてきた、そこで市あにいに相談したところ、忠太の云うままになってろと云う、おれはおっちょこちょいだが、そう云われてははあと思った、それで忠太の望みどおりな筋書を仕上げたってわけさ」
「ひでえな、そいつはひでえ」と云って又次郎は足踏みをした、「こんなべらぼうなことを知っていて、なぜみんなは黙っていたんだ、おまけに泰さんをあんなにいじめるなんて、いってえどういうつもりなんだ」
「こうと約定をきめたなかまの前で、ことをはっきりさせたかったんだ」と云って、市三は掴んでいた忠太の腕を突き放した、「――なにか云うことがあるか忠太、のろの云ったことに間違いでもあるか」
「おれは」忠太は細い声で云った、「おれはお光ぼうが好きだった、――死ぬほど好きだったんだ」
「云うことはそれだけか」と宗吉が云った、「おれも又と同様なんにも知らなかった、市三からちょっとほのめかされたが、まさかこんなこととは考えもしなかった、忠太、いくらなんでもそいつはひど過ぎやしねえか」
「おれに云うことはねえ」と忠太がもっと細い声で云った、「ただお光ぼうが好き、死ぬほど好きで、どうにもならなかったんだ、けれども、みごもったっていうことは知らなかった、本当にそれは知らなかったんだ、もしそれを云ってくれたら」
「お光」と泰二はつぶやいていた、「――お光」
「本当のことがばれるのがこわかった」忠太は続けていた、「本当のことがばれたとき、みんなにどうされるかと思うと、寝ても眠れねえ晩が幾夜あったかしれねえ、お光ぼうがあの店からいなくなったとき、これでみんなにわかっちまうかと思った、だがなんのこともねえ、そんならいまのうちになんとかできるかもしれねえと思って、自分でやっちゃあ信用されめえから、うまくのろにもちかけたんだ」
 そこまで云うと、忠太は急に泰二の前へ膝を突いた。そして凍てた土の上へ両手をおろし、頭を垂れて泣きだした。
「おれはここで叩っ殺されてもいい、泰さん、済まなかった」と彼は喉を絞るような声で、泣きながら云った、「けれども本当だ、おらあ本当に、お光ぼうがみごもっていたことは知らなかった、本当に知らなかったんだ」
「云い訳にゃあならねえ」と又次郎が鼻の詰ったような声で云った、「こんなひでえ話ってあるもんじゃねえ、おれたちのなかまにこんな人間がいたなんて、おれにゃがまんがならねえぜ、みんな」
にせがねは初めっからにせがねよ」のろはそう云ってつばを吐いた、「おらあ市あにいに云われたから、へえへえって、こっちから忠太の思うつぼにはまってやってたが、本所で話を聞いたときゃあ、はらわたがずたずたになるような気持だったぜ」
 又次郎が市三に云った、「この野郎、どうしよう」
「約定どおりよ」と市三。
「待ってくれ」と泰二がしゃがれた声で、顔をあげながら云った、「今夜はこのまま、おれを独りにしてくれ、忠太のこともおちついてからにしよう」
「約定は約定だ」と市三が云った、「子供っぽいかもしれねえがけじめはけじめだ」
「宗ちゃん、頼む」と泰二が云った、「おれを独りにしてくれ、忠太のことも、なにもかもあとの話だ、今夜はこのまま、頼むからおれを独りにしてくれ」
「泰二」と市三が云った、「おめえそんなちょろっかなこって、おれたちが集まったと思うのか」
「忠太は死ぬほどお光が好きだったと云った」と泰二が云った、「てごめにしたうえ殺したも同然だが、それほど好きだった、ということは嘘じゃないだろう、おらあ聖人ぶるわけじゃないが、人間てなあみんな弱いもんだ、おれに甲斐性かいしょうがあって、もっと早くお光といっしょになっていたらこんなまちげえも起こらなかったかもしれない、おらあ頭がこんがらがって、いまはなにを考えることもできないが、今夜ここで忠太をどうしようということだけはよしてくれ、そんなことをしたってなんにもなりゃあしないんだ、頼むからおれを独りにしてくれ」
 宗吉が市三の腕にさわった。
「ひでえもんだ」又次郎がそっぽを向いて呟いた、「こんなひでえこたあありゃあしねえや」
「忠太」と市三が云った、「立てよ」
 忠太はうなだれて、まだ泣きながら口の中で云った、「いまやってくれ、おらあどうされたって構わねえ、ここでみんなの思う存分にやってくれ、いっそこのおれを」彼は悲鳴をあげるように叫んだ、「――ここで、叩っ殺してくれ」
「たくさんだ、もういい、たくさんだ」と泰二がひそめた声で云った、「頼んだろう宗ちゃん、おれを独りにしてくれないのか」
 こんどは市三が宗吉の肩を叩いた。
「立てよ、忠太」と宗吉が忠太に云った、「せわをやかせるな」
「泰さん」と忠太が呼びかけた。
 泰二は両手を膝に突き、うなだれたままなにも云わなかった。
「立たねえのか、忠太」と宗吉が云った、「せわをやかせるなと云ったろう」
「頼むよ」と泰二が云った。
「勘弁してくれ泰さん」忠太は片方の腕で顔をおおいながら云った、「――勘弁してくれ」
 市三が忠太の肩を叩き、忠太は弱よわしく立ちあがった。なんてえこった、と又次郎が云った。ほんとに、なんてこったろう。――市三と宗吉が、左右から忠太の腕を取った。又次郎は不決断に、忠太を見、振向いて泰二を見た。のろはせかせかと頭をいたり、泰二のほうを見たりした。忠太を中に、五人が去ってゆき、あとに泰二が独り残った。空の半月が薄雲に掩われ、源蔵ヶ原がいっとき暗くなった。
「お光」と泰二が云った。
 彼は凍てた土の上を、片手でいたわるようにそっとでた。
「お光」と彼は云った、「辛かったか」
 彼の喉へ嗚咽おえつがこみあげてき、全身がふるえだした。





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「週刊文春」文藝春秋新社
   1962(昭和37)年12月17日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年9月26日作成
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