お
「――まあいやだ、いやあねえ」
独りでそんなことを
或る気分としては眼をそらしたい。
――いやあねえ。
こう思うのはそのままの実感である。
「――ふしぎだわ、女の躯って、……どうしてかしら、ほんとにいやだわ」
いやだと云いながら、しかも一方では、いくら眺めても眺め飽きないのである。
「――なにをしているんだ、またそんな恰好で、肌をいれたらどうだ、風邪をひくじゃないか」
父親に叱られて、はっとして、そのくせ自分でもわざとらしいほどおちついたすましようで、ゆっくりと着物の袖へ手を入れる。毎々のことだがこれもじつは恥ずかしい。母親がはやく亡くなったせいだろう、まえには父親のほうで気にして、髪結いにゆけとか、
――母親がいないと娘はじじむさくなるって、世間ですぐに云われるんだから、……いっそ白粉をつけないならつけない、つけるなら娘らしくちゃんとつけるがいい。
――今日はこれでいいのよ、今日は白粉ののりが悪いんだもの……それに天気がこんなでくさくさしているのよ、こんな、……白粉なんかどっちでもいいわ。
――それじゃあ済まないんだ、女の髪化粧というものは世の中の飾りといってもいいくらいで、うす汚ない
この種の問答が幾たびかあった。
――まあいやだ、世間の飾りだとか人の眼をたのしませるなんて、あたし聞くだけでも胸がむかむかするわ。
お孝は
――あざやかだね、眼がさめるようだね。
そんなふうに云っているのがわかる。くち上手な者の百千言よりも、良人のそういう眼つきのほうが含みがあってよほどうれしい。またおたみを
――げんきんなものだ。
父親がそう思っているような感じである。気の勝ったお孝には恥ずかしいが、いろいろな面で云って恥ずかしいが、どうしたって鏡に向うことが多いし、その時間が長くなるのは、これは自分でもいまさらどうにもならない。――春が来て花が咲くようなもんだもの、いいじゃないの。などといっそ肚を据えたかたちであった。
「どうするの、お
「――時三はあした休みじゃあないのか」
「いやよ、あしたは六
「――まるっきり独り占めだ」
「いいじゃないの夫婦ですもの、お父つぁんの御亭主じゃあるまいし、……その代り今夜はおいしい物をおごってあげるわ、お父つぁんの大好きなおいしい物、ね、いいでしょ」
――野のふぜいですな、よくうつしましたな、どうもなんとも云えぬふぜいですな。
――菊はこう作るのが本筋である、乱菊、これが自然である、染井のなどは邪道であって、あれなどは花を片輪にしたものである、おれとしてはこれなら飲める。
菊を飲むわけではない。菊をさかなにして酒をやろうというのである。そこで植辰がわでは花壇の要所とおぼしき処々へ茶店を設けた。そのうちに四つ五つ小座敷のあるのも建て、そこではちょいとした女などもいるし、きどったような料理などもできる。……お孝は時三といっしょにその茶屋のひと間を借りて、持って来た重箱を開いたり、またその
「あたしこのごろ死ぬのがこわくてしようがないの、ねえ、あんたそう思わなくって」
「――躯のぐあいでも悪いのか」
「そうじゃないの、死ねばあんたと別れ別れにならなくちゃならない、顔も見られないし話もできなくなるわ、そう思うと死ぬのがこわくてこわくて、胸のここらへんに固い石のような物が詰ってくるのよ」
「――だっていつかは、……そいつばかりはしようがないだろう」
「だからそう思うの、いつかは死ぬんだから、せめて生きているあいだ、生きてこうしているあいだだけは、紙一重の隙もない夫婦でくらしたい、これまでのどの御夫婦にもできなかったくらいに、……あたしあんたにできるだけのことをするわ、ねえ」
お孝は良人の
「身も心もあんたの思いのままよ、あんたのためならどんなことでもしてあげてよ、ねえ、だからあんたもいつまでも変らないであたしを可愛がってね、よそのひとに気をひかれたり、あたしに隠れて浮気なんか決してしないでね、ねえ、よくって」
「――私にはそんなはたらきはないらしい、だいいち先方で相手にしないよ」
「うそうそ、あんたにはおんな好きのするところがあるわ、あんたを見ているとなにか世話をしたくなるの、男ぶりだけじゃなくひとがらがそうなんだわ、おたみだってあんたを見るときの眼つきはべつなんだもの」
「――ばかなことを」
時三は眉をしかめ、顔をそむけた。
「あら本当よ、
「――いったいどうしたんだ、今日は」
時三はこんどは不審そうにお孝を見た。
「――へんなことばかり云って、本当にどこかぐあいでも悪いんじゃないのか」
「ぐあいなんか悪くはないわ、それにちっともへんなことなんて云やしなくってよ、あんたにはあたしの気持がわからないからそんなふうに聞えるんだわ、そうよ、あたしのことなんて、……あんたはちっとも思って呉れてやしないんだわ」
「ばかなことばかり云って、わけがわからない」
こう云いかけるまにお孝は
結婚してから約半年めのその日が、お孝の気持にかなりはっきりと一種の転機を与えた。それは良人が自分にとって絶対にかけがえのないひとだということ、もし良人がよその女に心をうつしでもしたら、本当に自分は死んでしまうだろうということであった。……結婚した女ならそう思わない者はないだろう、ごく普遍的な感情であるが、お孝のばあいはそれがやや極端であった。
下町そだちはいったいにませるものだが、お孝は珍しいくらいおくで、その年の三月、二十歳で時三を迎えるまで男などに気をひかれた覚えは殆んどなかった。家は三代続いた袋物商で、
お孝の母はいねといって、お孝の九つの年に亡くなったが、家つきの娘で、伊兵衛は店で育って婿になおったのである。いねはお孝よりずっと
妻が亡くなってから、当然あとのはなしがいろいろ出た。しかし伊兵衛は柔和にうけながすばかりで、どうしてもあとを貰おうとはしなかった。……お孝にはやく婿を取らせようという、周囲の人たちの気持には、そうしたあとで伊兵衛を隠居させ、しかるべきのちぞえを持たせようという、含みがあったのである。
――ねえお父つぁん、どうしておっ
十二三のお孝はそんなことをよく云った。それから暫く経つと、
――ねえ、本当に釣りにいったの、よそへ泊ったんじゃないの、ねえ、本当に釣りにいったの。
こんなぐあいにうるさく云って、しまいにはいっしょに付いていったことも幾たびかあった。伊兵衛はその頃からお孝と小田原町の家へ移り、飯炊きの老婆と女中を使って、
寒橋というのは小田原町から
家から近いので、眠れないときなどは、熱い湯茶を持ってゆき、父のそばに身を
――躯のぐあいのいいときには、おっ母さんも茶や弁当を持って来て呉れたもんだ。
伊兵衛はときにそんな話もした。
――目黒から来たおとりという女中がいて、それに持たせて来るんだが、……おまえが今そうしているそこんところに跼んで、いつまでも私の釣るのを見ている、……おとりは眠いさかりだから迷惑なはなしだ、よくいねむりをしたっけ、……そうするとおっ母さんも笑いながら、しかたなしに帰ってゆくんだが、……その笑い声がまだ耳にのこっているようだ。
お孝にもそのようすが見えるようだった。病弱な母と温和で実直な父との、互いに
――お父つぁんがあとを貰わないのも、よそに好きな人をつくったり、浮気をしたりしないのも、亡くなったおっ母さんが忘れられないからだ、二人はそんなにも愛しあっていたんだ。
お孝はそう思った。世間では男は浮気で悪性と定説になっている、そういう事実も見たり聞いたりする。父のような人はおそらく
結婚して半年めぐらいからの、良人に対する激しい愛着心は、うがって云えばその反動でもあろう、発育のおくれていた躯や心が、にわかに生き生きと成長し始めたためもあろう。いずれにせよ、男と女の愛情というものが、身を
一年と経ち二年と経った。
時三が来てまる二年めの五月、父の伊兵衛がとつぜん吐血して倒れた。医者は胃に
「それはおたみにさせるからいい、おまえはそっちにすることがあるんだろう、構わないからそっちのことをして呉れ」
こんなふうに云って、なるべくお孝の手を避けようとした。
「へんねえ、なんだかへんだわ、まさかと思うけれど……どうしたのかしら」
「へんなことはないさ、おまえは私のこともしなくちゃあならないし、おたみならかかりっきりになれるからさ、……動けない病人には看病の手の替ることがいちばんいやなものらしいよ」
「それはそうかもしれないけれど、でも……」
お孝は良人とそんなことを話しながら、ひとつ頭にひっかかるものがあった。それは去年おたみに縁談があって、又とないくらい良縁だったのをおたみが断わった。……おたみは南千住に家があり、十五の年から奉公に来ている。お孝より一つ下で、気はしもきくし縹緻も悪くない、いわゆるおかめ型のぽっちゃりした、躯つきも小柄な
――あたし一生お孝さんのそばにいたいんです、お嫁にゆくのなんかいやなこってすわ。
こう云い張っていた。しかし去年のときはもう二十にもなるし、断わる理由がどうにもわからなかったのである。お孝は冗談のように、
――あんたが好きだからよ。
などと良人に云ったことがある。それには時三が婿に来てから、おたみのようすがどことなくなまめかしくなり、時三になにか云われたりするとふと顔を赤くしたり、またしおのある眼つきでじっと見たりした。……いつか六間堀へ菊見にいったとき、思わずそのことを良人に云って、不愉快そうにそっぽを向かれたことがあるが。……父が病気になってからのようすを見ると、やはりそこにあたりまえでないものがあるような感じで
「いいじゃないか、お父つぁんが気にいってるんだから、おたみだっていやいやしているんじゃあないし、気を
「あたしってやきもちやきなのかしら」
「あっさりしているほうじゃあなさそうだな」
「――憎らしい、あんたのせいよ」
「またそれか、よく飽きないものさ」
「だって本当なんですもの、あんたといっしょになるまえには夢にもこんな気持は知らなかったわ、こんな気持って、……本当に自分でもいやよ」
あんたのせいよと云う言葉は無根拠ではなかった。時三は日本橋槇町の「松葉屋」という、やはり袋物商をしている家の二男で、男ぶりもいいし職人はだで、近所の娘たちにずいぶん騒がれたというし、稽古にかよっていた歌沢の若い女師匠とは、かなり深いつきあいがあったということを聞いている。……もちろん結婚するまえにきれいに片がついていたらしいが、いっしょに生活してみると、そういう事実があったろうということが、お孝にはよくわかった。
時三は田村へ来てからも、店に坐るよりは仕事をするほうを好んだ。店は他吉という番頭に任せて、自分は一日じゅう仕事場にこもっている。あいそっけはないし口数は少ないし、いつもむっとしたような顔をしているが、そこにちょっと説明のつかない強い魅力があった。……一手にひきうけて世話をしてやりたいとか、思いっきり
――これがおんな好きのするっていう型なんだわ、いちばん危ない型だわ。
お孝は自分の身にしみてそう思った。
結婚してまる二年も経ち、疑わしいようなことはいちどもなかった。良人が誠実であるということは
――みんなあんたのせいよ。
お孝としてはこう云うよりほかに立つ瀬がなかったのである。
伊兵衛は九月の下旬にとこばらいをした。
そのちょっと前のことであるが、或る夜ふっと眼がさめると、いつも点いている
「――だあれ、おたみかえ」
と声をかけた。ぶっつかってはいけないと思ったからだ。すると向うは気がつかなかったとみえ、よほどびっくりしたようすで、
「――私だ、……どうしたんだ」
へんにうわずった声で時三が答えた。
「あんたなの、暗くってわからなかったわ」
「――どうしたんだ、そんなところで、……なにをしているんだ」
「ばかねえ、こんな時刻になにをするわけがないじゃないの」
お孝は低く笑いながら、
「ああ気をつけてね、行燈が消えててよ」
こう云って良人とすれ違った。もういちどはもとの常磐津の師匠が病気だというので、四五人の稽古友達とみまいにゆくことになった。おたみの手がはなせないので、みまいの品を持って独りででかけたが、帰りにはみんなで夕飯をすることになっていたから、念のため采女町の店へ寄った。
「たぶん日本橋の花川だと思うの、お文ちゃんもよんちゃんもいける口だから少しおそくなるかもしれないけど、……もし早かったら槇町へちょっと顔出しして来ますからね」
良人にこう断わっていった。
師匠の家は
音頭取りはお文ちゃんであった。お孝とは隣りづきあいの幼な友達で、家は佐野庄という大きな足袋屋、お孝より二年はやく婿を取って、もう三人の子持ちだった。
――亭主なんてのさばらしちゃだめ、暴れ馬を扱うこつでやるのよ、がっちり
こんなふうに威勢がいい。女中のおたみもお文ちゃんが世話をして呉れたものだ。……なにがさてみんな二十二三の若い世帯持ちで、いっぱし世間の味を知ったつもりでいるのだから、少し酒がはいると一座は壮観を呈してきた。お孝もいくらか飲める口ではあるが、あまりにみんなの話が
時刻はまだ早かった。外へ出て風に当ってみるとさしたることもない、槇町へゆこうかと思ったが、それも
このときはどきりとした。おたみは泣いているらしい、良人は腕組みをし、うなだれて、なにか低い声で話していた。ほんの一瞬のことだったが、お孝は足が
――いいから家へあがれ。
というような合図をした。そのおちついた眼つき、少しも慌てたようすのないそぶりでお孝はほっとし、黙って家へはいったが、着替えをするときもまだ胸がどきどきしていた。
「お父つぁんに叱られたんだ、おまえは知らないつもりでいるほうがいい」
あとから来て時三はそう云った。
伊兵衛がとこばらいをしてから、おたみのようすがどことなく変ってきた。いつも浮かない顔をしていて、これまでついぞないことだが皿小鉢を
そうしておたみは十月の末になって、躯の調子が悪いからと、急にひまを貰いたいと云いだし、ひきとめる手を振切るようなぐあいに実家へ帰っていった。
「どうしたんでしょ、七年もいて家の者も同様にくらして来たのに、なにが気に障ってあんなふうに出ていったのかしら」
「――急に嫁のはなしでもあったんだろう」
時三はこう云っていた。
「――どうせ死ぬまでいる者じゃなし、いつかは出てゆくんだから、私の病気もおちついたところだしいいじゃないか」
伊兵衛もこう云うだけだった。お孝は多少にくらしいと思ったが、そのままにしておけないので、嫁にゆくゆかぬはともかく、かねて予算していただけの品物を買い
半月ばかりして女中のはなしが出たが、子供でも生れるまでは用もないので、お孝は自分でやってゆくことにきめた。
「それにしてもへんねえ、あたし赤ちゃんが出来ない躯なのかしら」
「子供なんか急ぐことはないよ」
「だっていやなのよ、友達に会うときまってからかわれるんですもの、……あんまり仲がよすぎるんだとか、お迎えが激しすぎるんだとかって、ねえ、本当にそんなことってあるのかしら、仲がよすぎると、……あらいやだ、へんなこと云いだしちゃって、あたしどうかしてるわ」
「独りではしゃいで独りで赤くなってりゃあ世話あねえや」
「いいじゃないの、おたみがいなくなってから初めてしみじみした気持になれたんですもの、初めて夫婦さし向いって気持なんですもの、これで早く赤ちゃんが出来れば申し分ないんだけれど、……あたしどこか信心してみようかしら」
年があけて正月の二十日に、常磐津の師匠の総ざらいがあった。毎年の例で、三十間堀の「
「さあこれからお師匠さんのとこあげ祝いよ」
などと気勢をあげた。弟子たちの家からも祝いのお重や
「お孝さん、ちょっと」
「どうした、あんたの旦つく、この頃はおとなしくしている」
お文はわざとそういう口をきく、奮闘したあとで酒がはいって、酔ってもいるらしい、白粉の
「この頃っていったって、うちじゃあいつも同じことよ、たいしたこともなしだわ」
「そんなこと云ってるからいけないんだ、あんたは旦つくに
お孝はあっけにとられた。お文がそんなに酔っているのかと、つい笑いながら顔を見なおした。お文はそれをどう取ったものか、ひどくいきごんで云い続けた。
「おまけにお孝さんときたら、あとから着物や、
「――おたみって、おたみがなにか……」
「あたしに隠してどうするの、おたみを世話したのはあたしじゃないの、あたしお孝さんに申しわけがなくって、だからよけい肚が立って、南千住までいってそ云ってやったわ、……もう決して若旦那には会いません、赤ちゃんを産んだら田舎へひっこんでくらしますって、……神妙な顔で泣いてたけど、心のなかでなにを考えてるか知れたもんじゃないわ、いつも云ってるでしょ、旦つくにはがっちり轡を噛ませて、手綱をぎゅうきゅう緊めていなければいけないって、……あんたは甘いから……」
お孝はもう聞いてはいなかった。躯がぐらぐらして、倒れそうな気持で、やがて激しい嘔きけにおそわれて座を立った。
それから五日五晩お孝は思い惑った。
お文の話しぶりはずばりとしていて、思い違いではないかという隙が少しもなかった。要約するもしないも、良人とおたみがそういう仲になり、おたみがみごもったので実家へ帰った。それだけの事実をはっきり事実として語っている。南千住の家まで訪ねてゆき、そこでさんざん怒って、おたみが泣いて
――本当だろうか、……いやそんな筈はない、あのひとがおたみにそんなことをする筈がない。
そう思えば思うほど、お孝にも幾つか疑わしい記憶がよみがえってきた。有明行燈の消えていた夜のこと、袖垣の蔭で良人と二人きりでおたみが泣いていたこと、それから良人が来てからのおたみのなまめいたようすや、じっと良人をみるしおのある眼つきなど。
そうしてとうとう耐えかねて、六日めの夜になって、お孝は良人にそのことをきいた。この瞬間に自分の生き死にがきまるという気持であった。
「本当のことを云って頂戴、あたしおちついて聞くから、……ねえ、決して騒いだりなんかしないから、本当のことを聞かして頂戴」
時三は黙って自分の膝を見ていた。こころもち額が白くなったようである、それからやや暫くして、
「――済まない、勘弁して呉れ」
「いいわよ勘弁して呉れなんて、いいのよそんなこと」
お孝は慌てて笑いながら
「本当のことがわかればいいの、それで、……おたみはいつごろお産するの」
「――今年の五月だったと思うが……」
「そう、五月ね、それを聞いておかなくっちゃあ、……だって知らん顔をしているわけにはいかないでしょ、お産するとなればいろいろ、……あたしとしたって、してあげなければならないことがあるし、……でもわかってよかったわ、あたしちっとも知らなかったんですもの、よっぽどばかでぬけてるのね」
「――お孝、おれが悪かった」
時三は顔をあげてお孝を見た。きれいな澄んだ眼に涙が
「――魔がさしたんだ、……まちがいだったんだ、本当に悪かった、勘弁して呉れ」
「いいわよ、もういいのよ、誰にだってまちがいということはあるわ、あたしだって、……あら、お父つぁんが呼んでるんじゃないかしら」
お孝はあたふたとそこを立った。
良人の前ではとうとう泣かずに済んだ。恨むこともできなかった。そしてそれから二三日は気分も明るく、ふだんと同じように笑ったり、陽気にお
「お孝、どうした、どうしたんだ」
こう呼ばれて我にかえると、自分が良人に抱き起こされていた。お孝は頭を振り、笑おうとした。なんでもないのよ、こう云おうとして、抱いている良人の手のぬくみを肩に感じたとき、蛇にでも触ったように、総身を震わせ、叫び声をあげて良人の手をすりぬけた。
「――お孝、いったいどうしたんだ」
「あっちへ、……あっちへいって、……なんでもないの、あたしだいじょぶよ、……あっちへいって」
全身の震えで揚板ががたがたと鳴った。時三は暗がりのなかでじっとこちらを見つめていたが、やがて黙ってお勝手を出ていった。
それからお孝の苦しみが始まった。その苦しさは
「――ああ、……ひどい、……あんまりひどい」
肩で
「――なによ、このくらい、ざらにあるこっちゃないの、平気じゃないの」
泣きながらこんなことも云ってみる、しかしそう云いながらまた身をもだえ、転げまわって、絶叫したいような衝動に駆られるのであった。
その日は朝から南風が吹いて、気持の悪いほど暖かかったが、風がおちてからも気温が高く、花でも咲きそうな陽気だった。このところまた胃の調子がいけないらしく、沈んだ顔色をしていた父が、その夜は気分がいいとみえて、夕食のときには久しぶりに釣りの話などした。
「こんな晩はあなごがくうんだがな、……しかし海ばかりやって来たから、今年はひとつ
「親父のは口ばかりですよ、釣りにゆくんじゃなくって酒を飲みにゆくんですから」
「いや釣ったものをそこで作って飲むのが釣りの
お孝は二人の話を聞きながら、寒橋の夜の
父が寝て、良人が寝てから、暫く解き物をしていたお孝は、ふいと誰かに呼ばれるような気持で、膝の物を押しやって立ち、音を忍ばせて裏口から外へぬけだした。……十一時ごろだろう、近所は戸を閉めて寝ていたが、ところどころ灯がもれ、楽しそうな話し声の聞える家もあった。まっすぐに河岸へぬけ、寒橋の、いつも父の坐る崩れた石垣のところへいって
川上の
「――おっ母さん」
お孝はそっと呼んだ。父親がそこに釣糸を垂れている、母が女中に茶や弁当を持たせて来て、父のそばへいって跼む。
――来なくってもいいのに、風邪でもひいたら困るじゃないか。
――でも寂しくって、……寝られなかったから来てみたのよ、お茶をあがったら。
――済まないな、ちょうど欲しいところだった、おまえそうしているならこれをちょっとひっかけているがいい。
――あらいいのよ、それじゃああんたが寒いわ。
父と母とのこんな会話が、現にそこでとり交わされているように、ありありと聞える気がした。父と母との穏やかな、まじりけのない温かな愛情、お互いに劬りあい相手に誠実であった愛情、……それがそのまま、寒橋の岸のその石のところに、そのまま現に残っている、二人の愛情は今でもそこに生きている、そこに、その石の上に、……お孝にはそれが眼に見えるように思えた。
「――おっ母さん、あたし苦しいの、生きているのが辛いのよ、ねえ、……おっ母さん、あたしどうしたらいいの」
お孝は暗い水を
「――こんなに苦しいのに、あのひとが憎めない、憎いんだけれど離れられない、まえよりもあのひとが恋しくって、それでそばへ寄られると鳥肌の立つほどいやで、……独りになると死ぬほど苦しくなるの、ねえ、どうしたらいいの、教えて、おっ母さん、ねえ、あたしどうしたらいいの」
たぷたぷと岸を打つ波の中から、母の顔がすっと浮きあがり、手招きをしながらこう云った。
「――おいで、お孝、こっちへ、おっ母さんのほうへおいで……」
お孝はぞっと総毛立った。あまりにはっきり聞えたからである。そして後ろへさがろうと思いながら、ふらふらと逆に足が前へ出たとき、強い力で激しく肩を抱き緊められた。
「ばかなまねをするな、お孝」
耳もとでこう叫ばれ、はっとして、身をもがいてその手を振放した。
「なによ、なにがばかなことよ」
お孝は髪へ手をやりながら云った。
「むしむしして頭が痛いから、ちょっと川風に当りに来たんじゃないの」
「――お孝……」
時三は大きく喘ぎながら、ごくっと唾をのみ、片手を妙なぐあいに振って、それからしゃがれたような声で云った。
「すぐ帰って呉れ、お父つぁんが悪くなったんだ、おれはこれから医者へいって来る」
「――お父つぁんが、どうしたんですって」
「また血を吐いたんだ、まえよりたくさん吐いた、すぐ帰って、濡れ手拭で胃のところを冷やしていて呉れ、医者を呼んで来るから」
「――お父つぁんが」
こう云いながらお孝はもう駆けだしていた。
良人がなにか叫んだようだった。けれどもお孝はなかば夢中で走り、家へ着くまでに二度も転んで、片方の膝をひどく
「お父つぁんどう、……苦しい、いまうちでお医者へいったからすぐ来るわ、少しの辛抱だからしっかりしててね」
「――大丈夫だ、もう苦しくはない」
伊兵衛は眼だけをこちらへ向けた。
「――それよりお孝、おまえに話がある、もっとこっちへ寄って呉れ」
「だっていま話なんかしちゃだめよ、お医者の来るまで静かにしていなくっちゃ」
「いや聞いて呉れ、いま話さなくっちゃあ話すときがないんだ、……私は、お孝、……おまえにも済まない、時三にも済まない、……いいか、うちあけて云うが、お孝、……おたみが産むのは私の子なんだ、時三のじゃあない、おたみはこの伊兵衛の子を産むんだ」
ああとお孝は息をのんだ。
「時三は私を
「――お父つぁん」
お孝はとつぜん父の手を握り、その手に頬ずりをしながら泣きだした。
「――うれしい、お父つぁん、うれしいわ、あたしうれしい」
そしてまるで笑うような声で遠慮もなく泣いた。伊兵衛は眼をつぶって、そっと
「おまえが苦しんでいることは、私はよく知っていた、……さぞ辛かったろう、身も世もない思いだったろう、……だが事情がわかってみれば、私のあやまちだということがわかれば、もうその苦しさもなくなる筈だ」
お孝はまだ泣きながら、自分の涙で濡らした父の手の上で頷いた。
「人間は弱いもんだ、気をつけていても、ひょっと隙があれば、自分で
父の言葉をはっきり聞きとめようとしながら、お孝はもう幸福とよろこびで頭がいっぱいになり、躯が溶けるような思いで泣き続けた。
「――約束だから、この話は、おまえの胸ひとつにしまっておいて呉れ、……みんながそのつもりでいるんだから、時三にも云っちゃあいけない、わかったな」
伊兵衛はこう念を押して口をつぐんだ。
それからほんの僅かして医者が来た。けれども手当てにかかる暇もなく、また大量な吐血があり、
「そんなことはないよ、ゆうべなんか
良人はそう云って笑ったが、自分ではそうは思えない、慥かに一晩じゅう眠れなかったようで、昼になると疲れて眠くてしかたがなかった。
三七日には寺で法事をしたあと、金六町の「菊屋」で客に接待をした。みんなで三十人ばかりだったが、諸事たなうちの者が奔走するので、お孝は坐って挨拶だけしていればよかった。……接待が済んで、いちど店へ寄り、小田原町へ帰る頃にはすっかり
留守番の者もかえし、二人だけになって、ほっと息をついて顔を見合せたとき、お孝は
「たいへんだったわね、疲れたでしょ、なにもかもあんた一人にして貰って、……本当に悪かったわ、……ごめんなさいね」
「自分の親のことじゃないか、おまえに礼を云われることはないさ」
「お父つぁんうれしかったと思うわ、なんにも心残りはないし、こんなにして貰って、生みの子にだって出来ないことをして貰って、本当に安楽に死ねたと思うの」
「そんなことがあるもんか」
怒ったようにこう云って、時三はふと脇へ眼をそらした。二十日あまりの心労が出たものだろう、頬が少しこけて顔色も悪い。彼はいったん脇へそらした眼を伏せ、湿ったような低い声で呟いた。
「私は心配のかけっ放しだった、これから少しは孝行のまねごともしようと思っていたんだ、……いま死なれちゃあどうしたって気持が済まない、おれは
「いいえそうじゃない、あたしみんな知ってるの、お父つぁんはあんたにお礼を云ってるわ、あたしだってどんなにうれしいかわからない、うれしくって、……どうお礼を云っていいかわからないわ」
お孝は
「――みんな知ってるって、……いったい、なにを知ってるんだ」
「おたみの産む子が誰の子だかっていうこと、あの晩あんたがお医者へいったあとですっかり話して呉れたの、あんたがお父つぁんの恥を身に衣て、自分のまちがいのようにとりつくろって、おたみにまでそう云い含めて呉れたということをよ、……あたしばかだから、そうとは気がつかずにあんたを
「――お父つぁんが、そう云ったのか、お父つぁんが、おたみの産む子は、……お父つぁんの子だって」
「あんた、堪忍して」
お孝は良人の胸にしがみついて、ふるえながら頬を良人の胸にすりつけた。
「あたし自分のことしか考えなかった。可愛がられることばかり思って、あんたの身になってみる気がなかったの、お父つぁんがそ云ったわ、……人間は弱いもんだって、夫婦はお互いに許しあい、劬り助けあってゆくもんだって、……あたしようやく大人になったような気がするの、おたみのことがもしあんたのまちがいだったとしても、こんどは、その半分はあたしの責任だと思うことができるわ、ねえ、……あたしこれからいい妻になってよ、だから堪忍して、……これまでのことは堪忍して頂戴」
そうして甘く
「おたみが子を産んだら、うちへ引取って育てさせてね、……あんたには済まないけれど、あんたの子にして、……そうすれば、貰い子をすれば、子供が出来るというから、あたしにも赤ちゃんが出来るかもしれないわ」
「――もしおたみが放したらな」
「おたみはこれから嫁にゆく躯ですもの、わけを云えば放すわよ……ふふ」
お孝は泣き声で含み笑いをした。
「お文ちゃんがむくれるわね、いつか云ってたとおりになるんだもの、……あんたはいまにその赤んぼも引取るっていうんでしょって、……これだけは本当のこと云えないんだから、あのひときっとまっ赤になって怒るわよ」
その晩は絶えて久しく、そして二人がいっしょになってから初めて、夜具は一つしか敷かれなかった。……桃の節旬も近いというのに、春寒というのだろう、珍しく冷える夜で、火の番の
夜半をずっと過ぎてから、時三がそっと起きて来て、物音を忍ばせて仏壇の前へゆき、そこへきちんと坐って、頭を垂れた。
「――有難う、お父つぁん」
彼は低い声でこう囁いた。
「――もうこれっきりです、決してもうあんなことはしません、見ていて下さい、……私はきっとお孝を仕合せにします」
彼は腕で眼を