しじみ河岸

山本周五郎





 花房律之助はその口書の写しを持って、高木新左衛門のところへいった。もう退出の時刻すぎで、そこには高木が一人、机の上を片づけていた。
「ちょっと知恵を借りたいんだが」
 高木はこっちへ振返った。
「この冬木町の卯之吉殺しの件なんだが」と律之助は写しを見せた、「これを私に再吟味させてもらいたいんだが、どうだろう」
「それはもう既決じゃあないのか」
「そうなんだ」
「なにか吟味に不審でもあるのか」
「そうじゃない、吟味に不審があるわけじゃない」と律之助は云った、「私はこの下手人のお絹という娘を見た、ろう見廻りのときに見て、どうにもにおちないところがあるので、こっちへ来てから口書を読んでみた」
 高木は黙って次の言葉を待った。
「それから写しを取ってみたんだが」と律之助はそれをひらいた、「これでみると娘の自白はあまりに単純すぎる、自分の弁護はなにもしないで、ただ卯之吉を殺したのは自分だ、と主張するばかりなんだ」
「あの娘は縹緻きりょうがよかったな」
「読んでみればわかる、これはまるで自分から罪をようとしているようなものだ」
「おれに読ませるんじゃないだろうな」
「まじめな話なんだ」と律之助は云った、「私に再吟味をさせてくれ、申し渡しがあってからでは無理かもしれない、しかしいまのうちなら方法がある筈だ、たのむからなんとかしてくれないか」
 高木はいぶかしそうな眼で彼を見た。
「なにかわけがあるのか」
「それはあとで話す」
「ふん、――」と高木は口をすぼめた、「あの係りは小森だったな」
「小森平右衛門どのだ」
「彼はうるさいぞ」と高木は云った、「彼は頑固なうえにおそろしく自尊心が強い、もし自分の吟味に槍をつけられたことがわかりでもすると、どんなたたりかたをするかもしれないが、いいか」
 律之助は微笑した。
「それでよければ、考えてみよう、但しできるかどうかは保証しないぜ」
 律之助は安心したようにうなずいた。
 花房律之助はこの南(町奉行所)では新参であった。彼は町奉行所に勤める気はなかったし、父の庄右衛門も同じ意見だった。しかし父が死ぬときの告白を聞いて、彼は急に決心をし、母の反対を押し切って勤めに出た。死んだ父は二十年ちかいあいだ、町方と奉行所で勤め、死ぬまえの五年は北町奉行の与力支配であった。そのおかげがあったかもしれない、役所は南だったが、律之助は年番(会計事務)を二年やり、次に例繰れいぐり(判例調査)、牢見廻りというふうに、短期間ずつ勤めたうえ、つい七日まえに吟味与力を命ぜられた。――高木新左衛門は父方の従兄に当る、年は五つ上の二十九歳であるが、早くから南に勤め、吟味与力として敏腕をふるった。現在では支配並という上位の席におり、人望もあるし、信頼されているようでもあった。
「保証できないと云ったが、あれなら大丈夫だ」と律之助は自分につぶやいた、「あれならきっとなんとかしてくれるに相違ない」
 組屋敷の自宅に帰った彼は、もういちど、丹念に口書の写しを検討した。
 事件はこうである、――いまから二た月まえの七月七日、ちょうど七夕の夜であったが、深川冬木町の俗に「しじみ河岸」と呼ばれる堀端の空き地で、夜の十時ごろに殺人事件が起こった。殺されたのは卯之吉といって、二十五歳になる左官職。殺したのはお絹という二十歳の娘であった。兇器は九寸五分の短刀、傷は肩と胸と腹に五カ所あり、胸の傷が心臓を刺していて、それが致命傷だった。
 娘は差配の源兵衛に付添われて、十一時ごろに平野町の番所へ自首して出た。そして明くる朝、八丁堀から町方が出張して訊問じんもんしたところ、すらすらと犯行を自白したので、口書を取ったうえ小伝馬町へ送った。――卯之吉は冬木町の源兵衛だなに住み、伊与吉という父親がある。お絹も同じ長屋の者で、勝次という父と、直次郎という弟があった。勝次は四十八歳、三年まえから中風で寝たきりだし、弟の直次郎は白痴であった。お絹はかなり縹緻がいいのに、二十まで未婚だったのはそんな家庭の事情のためだろう。気性もおとなしそうであるが、ちょっと陰気で、しんのつよい、片意地なところがあった。
 町奉行での係りは、吟味与力の小森平右衛門だった。小森も南では古参のほうだし、相当に念をいれて調べているが、お絹が口書のとおり繰り返すばかりなのと、ぜんたいがあまり単純なのとで、それ以上に詮索せんさくしようがないようであった。
 お絹は卯之吉に呼びだされ、無理なことを云われたので、かっとなって、夢中で男を刺したという。殺すつもりはなかったし、刺したのも夢中であるが、自分のしたことに間違いはないから、早くお仕置にしてもらいたい、と云うのであった。
 ――無理なことを云われたというが、それはどんなことだ。
 こう訊問したが、お絹はただ「無理なことです」と云うだけであった。
 ――その事情によってはお上にも慈悲があるが、ただ「無理なこと」ぐらいで人間ひとり殺したとなると、死罪はまぬかれないぞ。
 小森はこう問い詰めた。しかしお絹は、どう無理かということは、話しても旦那方にはわかってもらえないだろう、自分は覚悟をきめているから、もうなにも訊かないで早くお仕置にしてもらいたい。そう繰り返すばかりであった。
 もちろん、小森は必要な証人を呼んで調べている。差配の源兵衛や、相長屋の者たち、また地主であり付近一帯の家主で、質と両替を営んでいる相模屋儀平(出頭したのは番頭の茂吉であったが)など――だが、これらの証人たちからも、お絹に有利な陳述はなに一つとして得られなかった。
 つまるところ、「この娘は下手人ではない」という律之助の直感以外に、反証となるような材料はまったくないのである。
「おれにはむしろそこが大事なんだ」律之助は写しをしまいながら呟いた、「なに一つ反証らしいもののないこの単純なところが、――ここになにかある、必ずなにか隠されている、おれにはそれが感じられるんだ」
 それから彼は眼をつむって、祈るように呟いた。
「お父さん、――」


 明くる日、――高木新左衛門は律之助をつれて小伝馬町の牢へゆき、囚獄奉行の石出帯刀たてわきに彼をひきあわせた。高木はなにも云わなかったし、律之助もよけいなことは訊かなかった。
 石出帯刀は高木と雑俳のなかまだという。三十一二で、からだの小柄な、すばしこい顔つきの、はきはきした男だった。
「そうですか、花房さんの御子息ですか」帯刀は好意のある眼で律之助を見た、「私も花房さんはよく知っています、いろいろ教えてもらったりお世話になったりしたものです、まだお若かったのに残念でしたね」
 律之助は簡単に自分の頼みを述べた。
「いいでしょう」と帯刀は云った、「ゆうべ高木からあらまし聞いて話したんですが、もしこんどの勘が当って、吟味がひっくり返りでもすると、――もちろんその自信があるわけだろうが、新任のあんたにとっては兜首ですよ」
 律之助は黙っていた。
 ――私はそんなものが欲しいんじゃありません、まるでべつのことのためにやるんです。
 彼は心の中でそう呟いたが、口には出さなかった。
 帯刀は志村吉兵衛という同心を呼び、律之助をひきあわせて、必要なことに便宜をはかれと命じた。もう話ができていたのであろう、吉兵衛はすぐに、「どうぞ」と云って案内に立った。
「私はさきに帰るよ」高木が云った、「役所のほうはうまくやっておくが、できたら日にいちど顔だけは出してくれ」
 律之助はそうすると答えた。
 案内されたのは詮索所であった。それは二間四方の部屋で、左右がどっしりと重い栗色になった杉戸、うしろがふすまで、前に縁側があり、その下が白洲しらすになっている。――律之助が入ってゆくと、もうその娘は白洲に坐っていた。彼女の右につくばい同心、うしろに牢屋下男が二人いた。
「二人だけで話したい」と律之助は志村に云った、「どうかみんなここを外してくれ」
 志村は承知し、かれらは去った。
 二人だけになるのを待って、律之助は縁側へ出て坐った。
「私を覚えているか」と律之助が娘に云った。
 お絹はゆっくりと顔をあげた。
 鼠色の麻の獄衣に細帯、髪はひっつめに結ってあり、もちろん油けはない。躯はほっそりしているが、働き続けてきたので肉付はよく、腰のあたりが緊ってみえた。おもながの、はっきりした眼鼻だちで、顔色もえているし、眼もおちついたきれいな色をしている。
「はい、――」とお絹は云った、「見廻りにいらしったのを知っています」
「私はこんど吟味与力になった」
 お絹は彼を見あげた。
「それでおまえの事件を再吟味するつもりだ」
「どうしてですか」とお絹が云った。
「本当のことを知りたいからだ」
「あたしはみんな申上げました」
「私は本当のことを知りたいんだ」
「あたしはすっかり申上げました」
「いや、そうではない」と律之助は云った、「大事なことが幾つかぬけている、それをこれから訊くから正直に答えてくれ」
「どうしてですか」
「どうしてかって」
「あたしは小森さんの旦那に残らず申上げましたし、卯之さんの下手人はあたしだって、ちゃんともうわかっているんですから、それでいい筈じゃないでしょうか」
「よく聞いてくれ」と彼は云った、「私たちの役目は、下手人を捕まえて仕置をすればいいというんじゃあない、まず誰がまちがいのない下手人であるかを押えることなんだ」
「ですからあたしが、たしかに自分でやったと」
「それなら訊こう、口書によるとおまえは夢中で卯之吉を刺したという」と彼は云った、「殺すつもりはなかったが、無理なことを云われたのでかっとなり、夢中で刺してしまったと云っているが、これは嘘か」
「――どうしてですか」
「おまえに訊いているんだ」と彼は云った、「夢中でやったというのは嘘で、初めから殺すつもりだったんじゃないのか」
「そんなことは決してありません、殺すつもりなんかあるわけがありません」
「それは慥かだね」彼は念を押した。
 お絹は慥かですと答えた。
「では訊くが短刀はどうしたんだ」
 お絹はぼんやりと彼を見あげた。
「あれは七夕の晩だった」と彼は云った、「それで卯之吉が呼びに来たんだろう、呼びに来られて出てゆくのに、なんの必要があって短刀なんぞ持っていったんだ」
 娘は片方の頬で微笑した。それは明らかに当惑をそらす微笑であった。
「答えなくってもいいよ」と彼は云った、「次に、おまえは娘の腕で親と弟をやしなって来た、親は寝たっきりだし、弟は白痴だという」
「ちがいます、直は馬鹿じゃありません」お絹はきっとなった、「七つのとき蜆河岸しじみがしで頭を打って、その傷が打身になっているだけです。それが治ればちゃんとした人間になるんです、直は決して馬鹿なんかじゃありません」
「それは悪かった、あやまるよ」
 お絹は眼をみはった。与力の旦那に「あやまる」などと云われて、よっぽどびっくりしたのだろう、眼をみはると同時に口があいて、白くて粒のこまかいきれいな歯が見えた。
「白痴と云われても怒るほど、弟おもいなんだな」と律之助は云った、「しかしそれならなおのこと、寝たきりの親や、そういう弟のことを考える筈だ、もしおまえが死罪にでもなるとしたら、あとで二人はどうなると思う」
 お絹は答えなかった。
「二人のことは構わないのか」
「それはいいんです」とお絹は云った、「だってもう、あたしはこんなことになってしまったんですから」
「二人が乞食になってもか」
「乞食なんかになりゃしません」
「なぜだ、――」
 お絹の緊張した顔に、一瞬、やすらぎと安堵あんどの色があらわれた。それは僅か一瞬のことではあったが、律之助は誤りなく見てとったと思った。
「よし、これも答えなくっていい」と彼は云った、「次にもう一つ――卯之吉が無理を云ったそうだが、どんな無理だか聞かせてくれ」
「それも小森さんの旦那に云いました」
「私が聞きたいんだ」
「口書に書いてあるとおりです」
「自分で云えないのか」と彼が云った、「すると卯之吉は、おまえを手籠てごめにでもしようとしたんだな」
 お絹の顔が怒りのために光った。
「誰が、誰がそんなことを云ったんですか」
「手籠にしようとしたのか」


 お絹は怒りの眼で律之助をにらんだ。
「あの人は」とお絹はどもった、「卯之さんは、そんな人じゃありません、卯之さんは、間違ったってそんなことをする人じゃありません、町内の者なら誰だって知っています、嘘だと思ったら聞いてみて下さい、誰だってみんな知っていることですから」
「わかった、よくわかったよ」
「そんなことを云われたの、初めてです」お絹はまだ云った、「八丁堀の旦那だって、小森さんの旦那だって、そんないやなことは云いませんでしたよ」
「いやなことを云って済まなかった、勘弁してくれ」
 律之助は微笑しながら云った。
 お絹を牢へ戻し、帯刀に礼を述べてから、律之助は南の役所へ帰った。そうして、卯之吉の検死書(傷の見取図が付いている)をしらべ、それから倉へいって、兇器の短刀をしらべた。それは白鞘しらさやの九寸五分で、近くの路上に落ちていたという鞘には、乾いた土がこびり着いていた。中身は血のりがついたままなので、むろん鞘におさめてはなかった。なかごを見るほどの品ではない、しかしどうやら脇差をちぢめたあげものらしい、それが彼の注意をひいた。高価な品ではないが「あげもの」ということが仔細しさいありげに思われた。
 翌日、彼は蜆河岸へいった。
 永代橋を渡って深川に入り、かみノ橋から堀ぞいにゆくと、寺町を過ぎてはまぐり町、冬木町と続いている。蛤町には井伊家の別邸があるが、その地はずれから冬木町へかけて、河岸通りも裏もひどく荒廃した、うらさびれたけしきであった。寺町と蛤町の角に、三棟の土蔵の付いた大きな商家がある、店先の暖簾のれんに「相模屋」と出ているが、これがこの辺一帯の地主であり、家主であり、質両替を営んでいる店だろう。土蔵造りの店のうしろに、住居らしい二階建の家が見え、まわした黒板塀くろいたべいをぬいて、赤松の枝がのびていた。
 それは荒れ朽ちた周囲のけしきの中で、いかにも際立って重おもしく、威圧的にみえた。
 律之助はちょっと相模屋の前で足を停めた。店へ寄ってみたいようなようすだったが、また歩きだし、亀久橋のところまでいって、そこで遊んでいる子供たちに、蜆河岸を訊いた。
「そこだよ」と八つばかりの子が云った、「そこを曲ったとこの堀端をずっと蜆河岸っていうんだよ」
 四つ五つから七八歳までの子が七人、ほかに十歳ばかりの、妙な男の子を取巻いて、どうやらみんなでいじめていたところらしい。いちばん大きなその子は、業病でも患っているように皮膚が赤くてらてらしてい、ぼさぼさの髪毛も眉毛も、乾いた朽葉色でごく薄かった。みなりのひどいことは他の子供たちと同様であるが、だらっと垂れた唇はよだれだらけだし、紫色の歯齦はぐきと、欠けた前歯がまる見えであった。
 律之助はぞっとしながらも眼をそらし、いま教えてくれた子に向って笑いかけた。
「有難うよ、坊や」と彼は云った、「おまえ年は幾つだ」
「おらか」とその子が云った、「おらあはたちだよ」
「幾つだって」
はたちだよ、十九の次の二十歳はたちさ」
 他の子供たちがわっと笑った。子供らしくない嘲弄ちょうろうの笑いであった。律之助は口をつぐんだ、するとその子がまた云った。
「おじさん役人だろう」
 律之助はその子を見た。
「なんの用があるのか知らねえが気をつけたほうがいいよ」とその子が云った、「この辺の者は命知らずだからね、役人なんかがうろうろしてると、なにをするかわかったもんじゃねえ、本当だぜ」
「本当だぜおじさん」とべつの子が云った、「ほんとに足もとの明るいうちにけえったほうがいいぜ」
 律之助は苦笑したが、心の中ではすっかり戸惑い、そしてこみあげる怒りを抑えるのに骨を折っていた。
 ――この子供たちを怒ってはいけない。
 彼はそう自分に云った。
 ――子供たちに罪はない、こいつらは自分の云っていることを理解していないんだ。
 彼はふところから銭嚢ぜにぶくろを取り出した。子供たちはぴたっと口を閉じ、眼を光らせて彼の手もとを見た。彼は文銭をあるだけ出して、さきの子供の手へ与えた。
「みんなで菓子でもべろ」と律之助は云った、「おじさんは役目でしかたなしに来たんだ、あんまりいじめないでくれ」
 子供は不信の眼つきで、すばやく、ぎゅっとその銭を握った。
 そのとき向うで「伝次」というするどい女の声がした。低い傾いた家の軒下に、長屋のかみさんらしい女が(みな赤子を抱くか背負うかして)三人立っていた。
「返しな、伝次」と女の一人が叫んだ、「乞食じゃあるめえし、見ず知らずの他人から銭を貰うやつがあるか、返しな」
「みんなこっちい来う」とべつの女が叫んだ、「こっちい来て遊べ、みんな、倉造」
「返さねえか伝次」まえの女が喚いた、「返さねえとうぬ、手びしょうぶっくじいてくれるぞ」
「そう怒らないでくれ」
 律之助は女たちのほうへ近よっていった。
「いま道を教えてもらった礼にやったんだ」彼は穏やかに云った、「ほんの文銭が四五枚なんだから、――可愛い子だな」彼は女の抱いている赤子をのぞいた、「丈夫そうによく肥えているじゃないか、もう誕生くらいかな」
 女は「へえ」といった。それからまた「伝次」ととげのある声で喚いた。
「なに云ってやんだ、べえーだ」その子は向うで舌を出した、「これはおらが道を教えておらが貰った銭だ、返すもんか」
うぬ、この畜生ぬかしたな」
「おっかあのくそばばあ」その子は云った、「おらこれで芋買って食うだ、勘兵衛の芋買って一人で食うだ、へーん」
 さあみんな来いと云うと、その子は亀久橋を渡ってとっとと駆けてゆき、ほかの子供たちもそのあとを追っていった。
「悪かったようだな、銭などやって」と律之助が云った、「ほんの礼ごころだったんだが」
 女はなにも云わなかった。三人とも黙っていたが、手で触れるほどはっきりと、敵意が感じられた。本能的で、あからさまな敵意だった。
 ――まずい出だしだ。
 彼はそこをはなれた。
 蜆河岸は狭い掘割に面して、対岸には武家の別邸とみえる長い塀があり、塀の中にはしいやみずならが、黒く葉の繁った枝をびっしり重ねているので、建物はまったく見えなかった。――道に沿って右側に空き地がある、おそらくそのどこかで兇行がおこなわれたのだろう、律之助はその空き地のほうへ入ろうとした。すると、すぐうしろで声がした。
「おいたん、おいたん」
 彼は驚いてとびあがりそうになった。


 振返ると、そこにあの妙な少年が立っていた。
「ああおまえか」と律之助が云った、「どうした、みんなといったんじゃないのか」
 少年は首を振り、固く握っている右手のこぶしを、彼のほうへ出してみせた。やはり口をあけて涎を垂らしたままだし、眼やにだらけの眼はいかにも愚鈍らしく濁っていた。
 ――お絹の弟じゃないか。
 律之助は初めてそう気がついた。
「おいたん、こえ、ね」少年は云った、「ね、おいたん、こえ」
「なんだ、なにか持ってるのか、なんだ坊や」
 少年は固く握った拳をさしだし、そろそろと指をひろげた。そこにはつぶれてぐしゃぐしゃになった、小さな生菓子があった。
「いい物持ってるな」と彼は云った、「どれどれ、ほう、――鹿子餅か、洒落しゃれたものを喰べてるんだな」
「もやったんだよ」少年が云った、「またもやうんだよ、ね、みんなが取ようとしっかやね、おいたん怒ってくんか」
「よしよし怒ってやるよ、坊や」と彼は云った、「おまえ直っていう名前か」
「直だないよ」少年は首を振った、「あたい直だない、直は馬鹿だかやね、あたい馬鹿だないよ」
 少年はずっとついてまわった。
 律之助は少なからずもて余した。云うこともよくわからないし、向うで遊べといっても側からはなれない、彼の歩くあとから、どこまでもついて来た。――それから、差配の源兵衛に会って、当夜のことを訊いたあと、お絹と卯之吉の住居へ案内させた。七側ななかわ並んでいる長屋で、卯之吉の住居は西から二タ側めにあり、お絹のほうは六側めにあった。そのときも少年はまだつきまとっていたが、それは(源兵衛の話で)やはりお絹の弟の直次郎だということがわかった。
 源兵衛は五十一二歳の、躯の小さな、固肥りの毛深い男だった。濃い眉の下の細い眼がするどく、態度は卑屈で、絶えずぺこぺこと頭を下げる。こんな人間が店子たなこなどにはてきびしいのだろう、律之助はそう思ったが、じっさい長屋の者たちのようすには、それがよくあらわれていた。
「なんでございますか、その」と源兵衛は別れ際に云った、「あの件でなにかまだ、その、御不審なことでも、――」
「うん、ほんのちょっとしたことだが」と彼はさりげなく云った、「一つ二つ納得のいかないところがあるんでね、たいしたことじゃないが」
「すると、旦那が御自分で、お調べなさるんですか」
「そのつもりだ」と彼は答えた。
「それはどうでしょうかな」源兵衛は横眼ですばやく彼を見、ためらうように云った、「こんなことを申してはなんですが、この辺のにんきの悪いことはもうお話のほかでして、土地に馴れたお手先衆でも、うっかりすると暗がりから棒をみまわれるくらいですから」
「そうらしいな」
「よけいなことを申上げるようですが、馴れた方にでもお命じなすったほうが御無事かと存じますが」
「なに、それほどのことでもないんだ」
 律之助は軽く云いそらした。
 彼は三日続けて冬木町へかよった。二日休んで、そのあいだの見聞を整理した。それだけでみると、まるっきり得るところなしであった。三日間に会って話した人間は、男女九人だったが、かれらはなにも語らない、誰も彼も云いあわせたように、「へえ」とか「そんなようです」とか「知りません」などと答え、少しくどく問いつめるとその返辞さえなくなり、木偶でくのように黙りこんでしまうのであった。
 彼の知りたいのは左の三カ条であった。
 ――お絹と卯之吉は恋仲ではなかったか。他にお絹にいいよっていた者はないか。
 ――当夜、二人のほかに誰か見かけなかったか。
 だが、どの問いにもはっきり答える者はなかった。
 役人に対するかれらの敵意の激しさは、初めの日に経験した。子供たちまでが(むろん親や周囲の影響だろうが)敵意を示し、嘲弄するといったふうである。律之助は整理した記事を検討しながら、幾たびも溜息ためいきをついた。しかし、お絹は下手人ではない、という直感だけはますます強くなった。
「かれらはなにか知っている」と彼は自分に云った、「言葉を濁したり、とぼけたり、急に黙りこんだりするのがその証拠だ、あれは反感や敵意だけじゃない、慥かになにか知っているからだ」
「おれはそいつをつかんでみせるぞ」と彼はまた云った、「おれのこの手で、必ず掴みだしてみせるぞ」
 次にでかけた日は雨が降っていた。
 律之助は卯之吉の父親に会った。伊与吉は植木職(手間取りだったが)なので、晴れている日はかせぎに出るため、それまで会う機会がなかったのである。――伊与吉もまたあまり話はしなかった。せて骨ばった躯つきの、気の弱そうな老人だったが、死んだ卯之吉の孝行ぶりを自慢したり、その子に死なれた老いさきのぐちを、くどくどとこぼすばかりで、こちらの肝心な質問になると、殆んど満足な答えをしないのであった。
「私は下手人はほかにあると思うんだ」と律之助は繰り返した、「私は本当の下手人を捜しだしたいんだ、おまえだって自分のせがれを殺した下手人がほかにあるとすれば、そいつを捜しだしたいと思うだろう、そうじゃないか」
「へえ」と伊与吉は眼を伏せた、「それはまあ、なんですが、べつにそうしたからって、死んだ卯之吉が生きけえって来るわけじゃあねえし」
「じゃあ訊くが、下手人でもないお絹が、お仕置になるのも構わないのか」
「お絹ぼうは」と伊与吉が云った、「下手人じゃあねえのですか」
 律之助は絶句した。伊与吉の仮面のように無表情な顔と、その水のように無感動な反問とは、殆んど絶望的に、人をよせつけないものであった。伊与吉の家を出た彼は、蜆河岸へいってみた。
 雨はさしてつよい降りではないが、そこはひっそりとして、掘割のつなぎ船にも人影はなかった。彼は空き地へ入ってゆき、そこにたたずんで、あたりを眺めまわした。
此処ここでなにかがあった」と彼は口の中で呟いた、「口書に記された以外のなにごとかが、――この雑草どもはそれを見ていた」
 空き地にはところまだらに雑草が生えていた。そこはかつて砂利置き場にでも使ったのか、いちめんにこいしがちらばっていて、その合間あいまにかたまって草が伸びている。もう晩秋のことで、みな枯れかかって茶色にちぢれ、なかにはすっかり裸になって、白くさらされた茎だけになったのもある。そうして、それらは雨に打たれながら、近づいている冬の寒さをまえに、ひっそりと息をひそめているといったふうにみえた。
「おまえたちは見ていたんだ」と彼は草を眺めながら云った、「七夕の夜ここでなにがあったかを、――おまえたちに口があったら、それを云うことができるんだのにな」
 さしている傘に、雨の音がやや強くなった。律之助はやがて源兵衛店のほうへ戻った。
 その日はお絹の父に会い、そのほかに三人の者と話してみた。お絹の父の勝次は寝たきりだし、舌がよくまわらないので、まとまったことはなにも聞けなかった。しかもそばに直次郎がいて、絶えまなしに話しかけ、菓子を出して来て自慢そうに喰べたり、着物をまくって向うずねの古い傷あとをみせたり、四つか五つの子供のように、玩具を持って来て「いっしょに遊ぼう」とせがんだりする。それを飽きずに繰り返すので、律之助はうんざりして立ちあがった。
 他の三人との話も、このまえと同じように徒労だった。一人は土屋の人足、一人はぼて振、もう一人は御札売りだったが、ちょっとでも事件に関係のある話になると、みな敏感に口をそらして、そらとぼけた返辞しかしないのであった。
「へえ、さようですか、私はちっとも存じませんな」
「なにしろ稼ぎに追われて、長屋のつきあいなんぞしている暇がねえもんだから、へえ」
「あっしは引越して来たばかりで、そういうことはまるっきりわかりません」
 では引越して来たのはいつだと訊くと、「まだ三年にしかならない」という、すべてがそんな調子だった。
 ――お絹自身が下手人だと主張するくらいだから、そう簡単にはゆかないに違いない。
 律之助はそう覚悟してかかったのだが、この抵抗の強さには少なからずたじろいだ。それまでにわかったことは、卯之吉とお絹が恋仲でないにしても、かなり親しくしていたということ。また卯之吉は二十五にもなるのに、やむを得ないつきあい以外には酒もあまり飲まず、女遊びなどもしないので、なかまから変人扱いにされていた。などというくらいのことだけであった。
「二人を恋仲だったとしよう」雨のなかを歩きながら、律之助は呟いた、「そこへ誰かが割込んで、お絹の奪いあいになった、そうしてその男が卯之吉を殺した、――これがもっとも有りそうな条件だ、しかし、そうではない、二人が恋仲だったとすれば、卯之吉を殺されたお絹は相手に復讐ふくしゅうするだろう、恋人を殺されたのに、自分が下手人などとなのって出るわけがない、どうしたってそんな理由があるわけがない」
 彼は河岸っぷちで立停った。
「父さん」と彼は呟いた、「こいつは私の勘ちがいかもしれませんね」
 はがね色によどんだ堀の水面が、やみまもなく降る雨粒のために、無数のこまかい輪を描き、そして陰鬱な灰色にけぶっていた。――彼はややしばらく、茫然ぼうぜんとその水面を眺めていたが、ふと、うしろに人のけはいがしたように思い、振返ろうとするとたん、うしろからだっと、猛烈な躰当たいあたりをくらった。


 躰当りをくった瞬間、律之助の頭のなかでいつかの悪たれ共の言葉が、閃光せんこうのはしるようにひらめいた。
 躰をかわす暇はなかった。反射的に振った右手で、偶然なにかを掴んだ。それは相手の着物のえりで、がっしと掴んだまま、堀の中へ落ちこんだ。相手もいっしょだった、相手は掴まれた衿を振放そうとしたが、躰当りをした勢いがついていたのと、律之助の引く力とで、とんぼ返りを打ちながら、いっしょに落ちこんだ。
 殆んど同躰に落ちて沈んだが、律之助は水の中で相手をひき寄せ、両足で相手の胴を緊め、もっと底の方へ沈めた。相手はけんめいに暴れた。二人はいちど浮きあがったが、そのとき彼は相手の横面を殴り、また水の中へ引き込んだ。
「助けてくれ」相手が悲鳴をあげた、「おら泳げねえ、死んじまう」
 そして「がぶっ」と水をみ、気違いのように暴れた。律之助はそれを強引に押し沈め、水の中で押えつけ、息をつきに浮いて、また押し沈めた。相手が暴れるので、彼もちょっと水を飲んだ。塩からくて、臭みのある水だった。――三度めに沈めると、相手の躯からすぐに力がぬけた。そこで律之助は浮きあがったが、脱力した相手の躯が重たくて、水面へ出るのに骨が折れた。
 浮きあがってみると、両岸に繋いである船から、四五人の者がこっちを見て、なにか口ぐちに叫んでいた。岸の上にも立停っている者がいた。
「綱はないか」と彼は叫んだ、「こいつおぼれているんだ、綱を投げてくれ」
「いま舟が来ます」とすぐそこに繋いだ荷足にたり船の上から、船頭らしい男が云った。
 の音がするので、振返ると、ちょき舟が一そうこっちへ近づいて来た。向う岸からぎだしたらしい、鉢巻をした半纒はんてん着の若者が、雨に濡れながら巧みに櫓を押している。――律之助は男の躯を支えながら、自分の腰が軽いので、刀をなくしたなと思った。しかし、水の中だから軽く感じたのであろう、両刀ともちゃんと腰にあるのがすぐにわかった。
「気をうしなってるだけだ」舟が来ると、律之助が云った、「ちょっと手を貸してくれ」
「へえ、あっしがあげます」と若者はかがんで両手を伸ばした、「旦那、大丈夫ですか」
「おれは大丈夫だ――いいか」
「よいしょ」若者は男を舟の上へ引きあげた。「おっ、こいつ六助じゃねえか」
 律之助も舟へあがった。
「知っている男か」と律之助が訊いた。
「蛤町の六助っていう遊び人です」
「遊び人――」彼は手拭を出して絞り、それで髪の水を拭きながら首をかしげた、「よし、平野町の番所へやってくれ」
 半刻はんときばかり経って、――
 律之助は番所へ着くとすぐに、番太の一人を相模屋へやって、着物を都合してくれるように頼み、他の二人の番太が六助の介抱をするのを視ていた。六助は気絶していただけなので、すぐに息をふき返し、多量の水を吐いた。そこへ相模屋から、番頭の茂吉が必要な品をひとそろえ持って来た。――相模屋は質両替をやっているし、近くに適当な店がなかったから頼んだのである。古いものでいいと断わらせたのだが、茂吉の持って来たのはみな新しい(ゆきたけは少し合わなかったが)品であった。
「おら、なにも饒舌しゃべらねえぞ」六助はいきなり云った、「石を抱かされたって、饒舌るこっちゃあねえ、さあ、どうでもしろ」
 そのとき律之助は着替えをしていた。そして番頭の茂吉がそばで手伝っていたが、それを聞いて不審そうに律之助を見あげた。
「これどういうことでございますか」と茂吉が訊いた、「あの男が、なにか致したのでございますか」
「いやなんでもない、溺れていたから助けてやっただけだ」
「然しなにか、いま」と茂吉が云った、「石を抱かされても饒舌らないとか申しましたが」
「酔ってでもいるんだろう」彼は帯をしめ終って、ゆきたけを眺めながら云った、「――結構だ、店の暇を欠かせて済まなかったな、私は南の与力で花房律之助という者だ、明日にでも店へ寄るから、代銀を調べておいてくれ」
「いえ、とんでもない、お役に立ちさえすれば、手前どもではそれでもう」
「明日ゆくよ」と彼は云った、「済まなかった」
 茂吉は帰っていった。それから律之助は、まだ横になっている六助のそばへいった。
「おい、――」と彼は云った、「ぐあいはどうだ」
 六助は黙っていた。年は二十七八、色の黒い骨張った顔で、わざとらしく月代さかやきを伸ばしている。ひげはきれいにっているので、月代はわざと伸ばしていることがわかった。
「おまえいま、なにも饒舌らないといばったな」と彼は云った、「石を抱かされても、なんぞとひどく威勢のいいことを云ったが、――つまり、なにか饒舌って悪いことがあるんだな」
「どうでもいいようにしてくれ」六助はふてたように云った、「おら、なんにも云わねえ、もう口はきかねえから、しょびくなりなんなり好きなようにしてくれ」
「この野郎」と番太の一人が云った、「てめえ旦那に助けて頂いたのに、なんて口をききゃあがるんだ」
「のぼせてるんだ」律之助は濡れた両刀を持って、上りがまちのほうへ来た、「うっちゃっとけばおちつくだろう、済まないが懐紙と手拭を三本ばかり買って来てくれ」
 彼はそくばくの銭を番太の一人に渡した。その番太はすぐに出ていった。彼は上り框に腰をかけ、土間の炉の火へ両手をかざした。
 この自身番は三カ町組合なので、町役二人に番太が三人であるが、町役はどこかにもめ事があるとかで、二人とも留守だった。「呼んで来ましょう」というのを、律之助はそれには及ばないと断わり、やがて買って来た懐紙と手拭で、刀の手入れをしながら、三人の番太と暫く話した。
 ――おれの勘は当ったぞ。
 彼は心の中でそう繰り返した。
 ――この男は誰かに頼まれた、誰かに頼まれておれを殺すか、少なくとも再吟味を妨害しようとしたんだ。
 なにも饒舌らない、というのがその証拠であろう。彼は初め考え違いをした。悪童たちの云ったとおり、住民たちの敵意から、そんなことをされたのだと思った。しかしそうではない、六助というその男は誰かに頼まれた。この再吟味を恐れる誰かが、六助に頼んでさせたことだ。
 ――こんどこそ慥かだ。
 と彼は心の中で叫んだ。
 ――おれはそいつをつきとめてみせるぞ。
 刀の手入れが済むと、律之助は話をやめて帰り支度をした。
「騒がせたな」と彼は云った、「帰るから駕籠かごを呼んでくれ」
 べつの番太がすぐにとびだしていった。
「この野郎をどう致しましょう」
「立てるようになったら帰らしてやれ」
「おっ放していいんですか」
「いいとも」彼は云った、「まさか銭をれてやることもないだろう」
 向うで六助が寝返りを打った。二人の番太はあいまいに笑った。かれらは事実を知らなかった、ただ溺れている六助が助けられたものだと信じ、それにしては腑におちないところがある、というくらいに思っているようであった。――やがて駕籠が来ると、律之助はなにがしかを包んで、そこに置いた。
「みんなで菓子でも喰べてくれ」
 そして彼は立ちあがった。


「それはいつのことだ」
「五日まえだ」
「で、――そいつを」と高木新左衛門が云った、「そのまま放してやったのか」
「うん」と律之助は頷いた。
「よけいなお世話かもしれないが」と高木が云った、「律さんのやりかたはおかしいよ、そんなふうに聞きこみをして廻るぐらいで、なにか出ると思ってるのかい」
「昨日借りた金のことなんだが」
「まあお聞きよ」と高木が云った、「たとえばその六助というやつをいためてみれば、頼んだ人間がわかる、というふうには思わないのかね」
「思えないね、そう思えないんだ」
「どうして」
「ちょっと口では説明できない」と律之助は云った、「どう云ったらいいか、――つまり、これは普通の探索という方法ではだめだ、自分の勘で当ってゆくよりほかにない、という気がするんだ」
悠暢ゆうちょうなはなしだな」と高木が云った、「それで望みがありそうかね」
「ありそうだね、六助という男の現われたのがその証拠さ、いちどはちょっとあきらめかけたんだが」
「断わっておくが」と高木が云った、「あの娘にはまもなく申し渡しがあるらしいよ」
 律之助は「あ」という顔をした。
「ことによると、五六日うちかもしれない、どうやらそんなような話だったよ」
「――慥かなんだな」
「らしいね、もう月番(老中)へ文届けを出したそうだから」と高木が云った、「とにかくそのつもりでやってくれ、いよいよとなったらまた知らせるよ」
 律之助は頷いた。
「それで」と高木が云った、「昨日の金がどうしたんだ」
「うん、あれは暫く借りておけるかどうか、聞いておきたかったんだ」
「いいだろう、おれがうまくやっておくよ」
 律之助は「頼む」と云った。
 役所を出た彼は、数寄屋橋のところで辻駕籠に乗り、深川へいそげと命じた。蛤町の堀に面した、正覚寺の門前で駕籠をおり、寺の中へ入ってゆくと、差配の源兵衛が迎えに出て来た。
「集まっているか」と律之助が訊いた。
「へえ」と源兵衛が答えた、「なかで日当に不服を云う者もありましたが、あらまし集まっております」
 律之助は頷いた。
 彼はまえの日、源兵衛に命じて、「日当を出すから」といい、お絹と卯之吉の相長屋の者を、その寺へ集めさせた。両方で三十一世帯、稼ぎ手の男には二匁、女には米三合というきめ(費用は役所から借りた)である。当時は腕のいい大工でも日に三匁がたいがいの相場だから、不服を云われる筈はなかった。
 かれらは本堂に集まっていた。だらしなく寝そべったり、やかましく話したり笑ったりしていたが、律之助が入っていって須弥壇しゅみだんの脇に坐ると、かれらも静かになり、こっちへ向いて坐り直した。
「今日、此処へ集まってもらった理由は、たいていわかっていると思う」
 律之助はそう口を切った。
 それから彼は事件の内容を詳しく話し、お絹が下手人である筈はないと主張した。二人が好きあっていたことは慥かである、しかし卯之吉にも父親があるし、お絹には寝たきりの父と、白痴の弟があるので、結婚はできないが、さりとて諦めてしまったようでもない。というのが、――卯之吉は二十五歳にもなるのに、まだ嫁も貰わないし、酒も飲まず、わる遊びもせずに稼いでいる。お絹もあたりまえならもっとみいりの多い、楽なしょうばいがある筈だ。たとえ身売りをしないまでも、あの縹緻なら相当な料理茶屋で稼ぐこともできるだろう、それをそうはしないで、手足を汚してその日稼ぎを続けて来た。聞くところによると石担ぎや土方までやったそうだ、――これは卯之吉に義理を立てていたのではないか。二人のあいだに「やがては夫婦になろう」という約束があって、卯之吉はそのために身を堅く稼いでいたし、お絹も浮いたしょうばいで楽をしようとしなかったのではないか。
「私はそうだったように思う」と律之助はかれらを見た、「みんなは相長屋だから、私よりも詳しく知っている筈だ、もしも私の想像がまちがいで、二人はそんな仲ではなかったと、知っていて云うことのできる者がいたら、そう云ってくれ」
 誰もなにも云わなかった。律之助が端のほうから、順々に顔を見てゆくと、みな眼を伏せたり顔をそむけたりした。
「よし、では私の想像が当っていたものとして続けよう」と彼は云った、「私は最近まで牢廻りを勤めていた、そして事件の内容は知らずにお絹を見て、こんな牢などに入るような娘ではないと思った、ちょっと信じられないかもしれないが、われわれのような役を勤めていると、ふしぎにそういう勘がはたらくんだ」
 それから彼は口書を読んだこと、その内容がどうしても腑におちないので、吟味与力になったのを幸い、再吟味の決心をしたこと。そして、お絹自身も真実を語らないし、冬木町の長屋をまわっても、誰一人として助力してくれる者のないこと、などを諄々じゅんじゅんと述べた。
「頼む、頼むから力を貸してくれ」と律之助は云った、「卯之吉のほかに、誰かお絹につきまとっていた者がある筈だ、お絹が下手人だとなのって出たには、なのって出るだけの理由がある筈だ、ほんのひと言でいい、奉行所の面目にかけても、決して掛り合になるようなことはしない、どうか頼む、思い当ることがあったらひと言でいいから云ってくれ」
 かれらはやはり黙っていた。かたくなに沈黙を守るというよりは、彼の云うことなどまるで聞いてもいなかった、というふうにみえた。
「だめか、――」と彼は云った、「貧乏な者には、貧乏な者同志の人情がある筈だ、相長屋の一人は殺され、一人は無実の罪でお仕置になろうとしている、それを黙って見ているのか、黙って指をくわえて見ているのか」
 大勢の者とひざをつき合せて語れば、なかに一人くらいは義憤に駆られて口を割る者があるだろう。多人数の前だと、常にない勇気を出してみせる者がよくある。律之助はそれをねらったのだが、やはり結果は徒労のようであった。
 ――なんという腰抜け共だ。
 彼は怒りのために胸が悪くなった。しかしけんめいにそれを抑えて云った。
「此処で云えなければ、私が訪ねていったときそう云ってくれ、頼むよ」
 そして差配の源兵衛に、日当を分配するように命じた。


 律之助は寺から出ていった。
 力のぬけた、だるいような気持で、冬木町のほうへ歩きだすと、寺の土塀に沿った横丁から、一人の若者がひょいと出て来て、こちらを見るなり立停り、それからすぐに、身をひるがえしてうしろへ走り去った。
 ほんの一瞬のことであったが、その若者の顔を律之助は見た。吃驚びっくりしたような眼と、伸ばした月代と、蒼黒あおぐろいような骨ばった顔を。
「六助だな」と律之助は呟いた。
 そして土塀の角までいって、その横丁を覗いたが、若者の姿はもう見えず、そこに四五人の子供たちが遊んでいるばかりだった。
 ――そして、その子供たちはいっせいにこちらを見たが、中の一人が「また来たのかい」とよびかけた。
「よう、――」
 と律之助は云った。それはいつかの、伝次というあの悪童であった。
「よう」と律之助は云った、「はたちのあにいか、どうした」
「そりゃあおらの云うこった」と子供は云った、「こないだあんなめにあったくせに、おじさんまだ懲りねえのかい」
 律之助は子供の眼をみつめ、それから云った。
「おまえ見ていたのか」
「いなくってよ」とその子供は云った、「いまだって六さんが逃げたのを見てたぜ」
「六助を知ってるんだな」
「知ってればなにか訊こうってのかい」とその子供は云った、「へっ」と彼は小賢こざかしく肩をしゃくった、「そんなまねしてると、こんどこそ本当に大川へ死骸が浮くかもしれねえぜ、悪いこたあ云わねえから、この辺をうろうろするのはもうやめたほうがいいぜ」
「手に負えねえ餓鬼どもだ」と、うしろで声がした。律之助が振返ると、しなびたような老人が立っていて、彼に会釈をした。
「わたしゃあ弥五という船番ですが」とその老人は云った、「よろしかったらわたくしの小屋でちょいとひと休みなさいませんか」
 律之助は老人の顔を見た。その老人は寺へ集まった者たちの中にいたようである。彼は頷いて「休ませてもらおう」と云った。
 その小屋は亀久橋の角にあった。腰掛のある一坪の土間と、畳三帖ひと間だけの雑な小屋で、老人はそこから、岸に繋いである船の見張りをするのだと云った。
「こんな狭い堀へ入る船だから、ろくな荷は積んじゃあいませんが、それでもうっかりすっと、なにかかにかやられるもんですから」と老人は云った、「なにしろこの辺の人間ときたら、いや、こっちもそんなことの云える柄じゃあございませんがね」
 老人は土間の焜炉こんろで湯を沸かしながら、おっとりした調子で自分のことを語った。――弥五郎というのが本当の名で、若いじぶんから船頭になった。結婚を二度したが、二度とも失敗し、それ以来ずっと独身をとおした。中年以後、水売りの船を三ばい持ったこともある、酒と博奕ばくちでそれも失い、足腰がきかなくなってから、この堀筋の頭たちの好意で、船番をするようになった、というように話した。
 律之助は黙って聞いていた。弥五は沸いた湯で茶をれ「お口には合わないだろうが」と律之助にすすめると、自分も茶碗を持って、畳敷きの上り框へ腰を掛けた。
「さっき寺でお話をうかがいました」と弥五は云った、「それで申上げるんですが、――旦那のお気持はよくわかりますが、もうお諦めなすったほうがいいと思うんですがな」
「――どうしてだ」
「どんなに旦那が仰しゃっても、みんなは決してお力にはなりません、たとえなにか知っているにしても、それを云う者は決してありゃあしませんから」
「つまり、――」と律之助は云った、「みんな誰かを恐れているというわけか」
「いいえ、自分たちがなにを云ってもむだだ、ということをよく知っているからです」
「どうして、なにがむだなんだ」
「われわれのような、その日の食にも困っている人間は、なにを云っても世間には通用しません」と弥五は云った、「仮に旦那にしたってそうでしょう、土蔵付きの大きな家に住んで、財産があって、絹物かなんぞを着ている人の云うことと、その日稼ぎの、いつも腹をへらしている人足の云うことと、どっちを信用なさいますか、いや、お返辞はわかってます」
 弥五は戸口を見て首を振り、「あっちへいって遊びな」と云った。律之助が見ると白痴の直次郎が戸口に立っていた。彼は律之助に笑いかけ、「あ、あ」といいながら、手に握っている菓子を見せた。
「旦那の仰しゃることはわかってます」と弥五は云った、「が、まあ聞いて下さい、私の十五のときのことですが、人に頼まれて賭場とばの見張りに立ったことがありました」
 弥五は賭場の見張りとは知らなかった。小遣い銭が貰えるので、云われるとおり見張りに立ったのだが、手入れがあって、みんな逃げたあと、彼一人がつかまってしまった。それから目明しに責められた。
 ――きさまの親分の名を云え。
 ――賭場へ集まった者は誰と誰だ。
 ちょうど賭博厳禁の布令の出たときであった。自分は知らずに頼まれたと云ったが、てんで信用しないし、拷問にかけると威され、恐ろしくなって、頼んだ男の名を告げ、その人に訊いてくれればわかると云った。するとその目明しは、――その男となにか利害関係があったらしい、――この野郎でたらめをぬかすな、といって殴りつけた。
「その目明しは云いました」と弥五は微笑した、「そういうことが云いたかったら、人のいないところで壁か羽目板にでも云うがいい、そうすれば痛いめにだけはあわずに済む、覚えておけってな、――まったくです」と弥五は微笑したまま云った、「わたくしゃあつくづくそうだと思いました、なにか云いたいことがあったら、壁か羽目板にでも向って云うに限る、そうすれば、少なくとも痛いめにはあわずに済む、――私だけじゃない、いつも食うに追われているような貧乏人は、多かれ少なかれ、みんな同じようなめにあって、懲りて、それこそ懲り懲りしていますからな、……へえ、連中からなにかお聞きになろうということは、わたくしゃあむだだと思うんでございますよ」
 律之助は頭を垂れていた。
「うんめえ、あ」と戸口で直次郎が云った、「おいたん、ね、こえ、うんめえ」
 律之助は茶碗を置いて立った。


「有難う、じいさん」と律之助は云った、「なるほどそんなこともあるかもしれない、私には、なんとも云いようもない、しかし、――」彼はちょっと口ごもった、「とにかくやってみるよ、たとえ世の中がそうしたものだとしても、それならなおさら、やってみる値打がありゃあしないか」
 弥五は微笑しながら頷いた。律之助は赤くなった。
「じいさんから見たら青臭いかもしれないが」と彼は云った、「とにかく、やるだけはやってみる、――お茶を有難う」
 小屋を出た彼は、そのまま蜆河岸へいった。いっしょに直次郎がついて来た。直次郎は例によってしきりに話しかけるが、彼は黙って、兇行のあった空き地へ入っていった。
 伝次たちがこの菓子を取ろうとするんだ、と直次郎がまわらない舌でいった。いつも取ろうとするんだ、「わからんな」が伝次たちには買ってやらないから、いつもおれのばかり取ろうとするんだ、と云った。
「ひどいもんだ」と律之助は呟いた、「――ひどいもんだな、じいさん」
 彼は枯れかけた雑草を眺めまわした。するとふいに、彼の頭の中でなにかがはじけた。彼は直次郎のほうへ振返って、その手に持っている菓子を見た。それは(いつかのと同じ)鹿子餅であった。
 ――家には玩具なんぞもあった。
 雨の日に訪ねたとき、直次郎はやはり菓子を喰べていた。玩具を出して来て、いっしょに遊ぼうとせがんだりした。
 ――玩具は新しかった。
 まだ新しかったようだ、と律之助は思った。どっちも不似合いだ、鹿子餅も玩具も。稼ぎ手のお絹は七十余日まえからいない、たぶん相長屋の者たちが、協同で二人をやしなっているのだろう、たぶんそうだろう。
「そうとすればなおさら、鹿子餅や玩具はおかしい」と彼は呟いた、「――待てよ」
 律之助は直次郎を見た。
「その菓子は誰から貰ったんだ」
「う、――」と直次郎はいった。
「いまなんとかいったようだな、誰かが伝次たちには買ってやらないって、――誰が伝次たちには買ってやらないんだ」
 直次郎の顔に苦痛と恐怖の表情があらわれた。それはいたましいほど直截ちょくさいに、苦痛と恐怖感をあらわしていた。
 ――口止めをされているな。
 と律之助は思った。よほど厳しく口止めをされたのだろう、いま訊いてもだめだ。彼はそう思って歩きだした、慥かに直次郎はその名をいった、うっかりして聞きのがしたが、慥かになんとかいった筈だ。
「思いだしてみろ」と彼は舌打ちをした、「――うん、思いだせないか」
 律之助は差配の家へ寄った。
 源兵衛は家にいた。源兵衛は日当の分配を済ませたといい、残った金を返した。律之助はそれを受取って、勝次と直次郎を誰が世話しているか、と訊いた。長屋の者が面倒をみている、と源兵衛が答えた。長屋の者だけかと訊くと、家主の相模屋でも助けていると答えた。主人の儀平が哀れがって、米味噌ぐらいはみてやれ、といったのだそうである。
「そうか」と律之助がいった、「相模屋が付いているんなら安心だな」
「ええまあ」と源兵衛はあいまいにうす笑いをし、それから急になにかをうち消すような調子で、「しかし旦那は渋うがすからな」といった。
 律之助は直次郎の言葉を思いだした。源兵衛が「旦那は渋いから」といった。その「旦那」が記憶をよび起こしたらしい。
 ――わからんな
 若旦那だ、と律之助は思った。
「ええと」と彼はいった、「相模屋には息子が二人いた筈だな」
「相模屋さんにですか、いいえ」
「二人じゃあない」と彼はまたいった、「するとあれはひとり息子か」
「清太郎さんですか」
「うん」と律之助はいった、「私はてっきり二人いるんだと思った」
 源兵衛は黙った。律之助は源兵衛を見た。源兵衛は黙っていた。律之助の胸はどきどきした。彼は「面倒をかけたな」といって、差配の家を出た。彼の頭は回転し始めた、さっきなにかがはじけたように感じたが、それからしだいに思考がまとまってゆき、中心がはっきりうかびあがって、それを軸にくるくると回転し始めたようであった。
 彼は平野町の番所へ寄った。そして、番太の一人を外へ呼びだした。
「おまえに頼みがある」と律之助はささやいた、「明日相模屋の清太郎をお手当にするから、逃げないように見張っていてくれ」
「若旦那をですか」とその番太は息をのんだ。
「そうだ」と彼はいった、「誰にもいうな、いいか、勘づかれないようにしろよ」
 その中年の番太は「へえ」といった。律之助はかみノ橋で辻駕籠に乗り、まっすぐに南の役所へいそがせた。役所へ着くと、梶野和兵衛という同心を呼び、相模屋清太郎の看視を命じた。和兵衛は「臨時廻り」が分担で、わけを話すとすぐに了解した。
「そいつは番太が内通しますね」
「それが覘いなんだ」と律之助はいった、「番太は町に雇われた人間だし、相模屋は土地の大地主で家主だからな、――これで清太郎が動いてくれれば、しめたものなんだが」
「逃げるようだったら縛りますか」
「高とびをするようならね」と律之助はいった、「しかし任せるよ」
「承知しました」
「なにかあったら家のほうへ知らせてくれ、夜中でも構わないからね」と彼は念を押した、「変ったことがなくとも、私のゆくまで見張りは頼むよ」
「承知しました」と和兵衛は云った。
 梶野和兵衛は手先を二人れてでかけた。律之助もいっしょに役所を出たが、堀端でかれと別れ、辻駕籠をひろって小伝馬町の牢屋へいった、石出帯刀は登城ちゅうであったが、志村吉兵衛がいて、彼が用件を話すと、すぐにその手配をしてくれた。
 頼んだのはお絹と話したいこと、そしてお絹との対話を、隣りの部屋で記録してもらうことであった。
「その役の者を二人控えさせました」と志村が用意のできたことを知らせた、「二人とも達者ですから、懸念なくお話し下さい」
 律之助は「よろしく」といって立った。
 詮索所へゆくと、もうお絹が坐っていた。ほかには誰もいず、狭い白洲は、黄昏たそがれちかい片かげりで、いかにもひっそりと、うすら寒げにみえた。お絹はこのまえと同じように、おちついた静かな顔をしていた。
「おまえに知らせることがあるんだ」と律之助は口を切った。


 お絹は黙って眼をあげた。
「おまえはこのまえ、父親や弟のことはもういいんだ、といったな」と彼はいった、「二人のことはもう心配はない、といったように思うが、そうじゃなかったか」
 お絹はけげんそうな眼をした。
「どうしてですか」と彼女はいった。
「稼ぎ手のおまえがいなくなったあと、寝たっきりの親や、あたりまえでない弟がどうして生きてゆくか、私はそれが心配だった」と彼はいった、「おまえは気にしていなかった、それで、なにかわけがあるのかと思った、稼ぎ手のおまえがいなくなっても、二人が安楽に暮してゆけるような、なにか特別な理由でもあるのかと思った、そうじゃあなかったのか」
 お絹の眼に警戒の色があらわれた。
「そうじゃなかったのか」と律之助はいった。
「どうしてですか」とお絹はいった。
「知りたいか」と彼はいった、「知りたくなければはなしはべつだ、おまえは自分からお仕置を望むくらいなんだから、親や弟は、乞食になろうと、飢死にをしようと構わないかもしれない」
 お絹の顔がゆがんだようにみえた。しかしなにもいわなかった、律之助も黙って暫く待ち、それから静かに立ちあがった。
「待って下さい」とお絹がいった。
 律之助は構わず歩きだそうとした。
「待って下さい」とお絹が叫んだ。
 律之助は振返った。
「お父つぁんや直がどうかしたんですか」
「聞きたいか」
「旦那はお父つぁんや直にお会いになったんですか」
「会った」と彼はいった、「まだ長屋にいることはいたからな」
「まだって、――どういうわけですか」
「わからないのか」
 お絹は黙った。律之助はまだ立っていた。
「親は寝たっきりの病人、弟は自分のことさえ満足にできない」と彼はいった、「それで稼ぎ手のおまえがいなくなって、あとがどうなるかわからないのか」
 お絹はこくっと唾をのんだ。律之助は立ったままで、お絹を見おろした。
「長屋の者たちに人情があったって」と彼は続けた、「みんな自分たちの暮しに追われている連中だ、雨が四五日降れば、自分の子に食わせることもできなくなる連中だ、十日や半月なら米味噌くらい貢ぐこともできるだろう、しかし、――五十日も七十日も、そんなことが続くかどうか、おまえにはよくわかってる筈じゃないか」
「それじゃあ」とお絹がいった、「お父つぁんや直は、どこかよそへゆくんですか」
「よそへだって、――」
「そうじゃないんですか」
「おまえは」律之助は坐った、「二人が閑静な田舎へでもいって、暢気に遊んで暮せるとでも思っているのか」
 お絹の顔がひきしまり、律之助を見あげる眼はおちつきを失って、不安そうな色を帯びてきた。
「長屋を出ることは慥かだよ」と彼はいった、「また、いざり車ぐらいは、長屋の者たちがこしらえてくれるようだ、直次郎だって、いざり車をくことぐらいはできるからな」
「嘘です」お絹が叫んだ、「そんなことがあるもんですか」
「どうして、――」
 お絹は黙った。
「どうして嘘なんだ」と彼はいった、「あの二人になにかほかのことができると思うのか、寝たっきりの病人を抱えて、直がちゃんと稼いでゆけるとでも思うのか、――冗談じゃない、直にはいざり車を曳くことはできるだろう、一文めぐんでくれ、ぐらいのこともいえるかもしれない、雨の降るときはお寺かお宮の縁の下へ入って」
 とつぜんお絹が叫び声をあげた。
「嘘です、嘘です、そんな筈はありません、旦那は嘘をいっているんです」
「そんな筈がないって」と彼はいった。
「そんな筈はありません」とお絹がいった、「どうしたって、どんなに間違ったって、お父つぁんや直が乞食になるなんて」お絹の眼から涙がこぼれた、「そんな、そんなひどいことがあるもんですか、そんなむごいことが」
「あったらどうする」と律之助はいった、「血のつながる親類でも、人殺しなどをした者が出れば、その家族とはつきあわなくなる、それが世間というものだ、まして他人同志のあいだで、そんな者の面倒をいつまでみてゆけると思うか」
「約束をしたんです、あの人は約束をしたんです」
「相模屋の清太郎か」
「あの人はちゃんと約束したんです」お絹は泣きだした。泣きながら彼女はいった、「お父つぁんや直は、一生安楽に暮させてやる、土地がいづらければ、どこか湯治場とうじばにでもやって、一生不自由のないように面倒をみてやる、相模屋の暖簾にけて約束するって」
「それで清太郎の身代りになったのか」
「あたしはもう、疲れてました、しんそこ疲れきってました」お絹はしゃくりあげながらいった、泣く児が泣き疲れて、うたうような調子で、お絹はゆっくりと続けた、「お父つぁんや直が、安楽に暮してゆけるなら、自分はどうなってもいい、卯之さんは死んじまったし、生きていたってしようがない、生きているはりあいもないし、もう躯も続かない、なんでもいいから休みたい、手足を伸ばして、ゆっくり、いちど休めたら、それでもう死んでもいいと思ったんです」
 律之助はなにもいわなかった。
「八つの年におっ母さんに死なれてから、あたしずっと働きとおしました」とお絹はいった、「お父つぁんに倒れられてからは、二人をやしなうために、自分は三日も食わずに働いたこともあります、でも疲れきっちゃいました、――お父つぁんがなんとかなったら、卯之さんといっしょになる約束でしたが、その卯之さんも死んじまったし、お父つぁんと直のことはひきうけてくれるというもので、それであたしは承知したんです」
「清太郎を呼んでやろうか」と彼がいった。
「あたしは約束は守ってもらえると思ってました」とお絹はいった、「二人のことは安心だし、この牢屋へ来てっから、生れて初めて、ゆっくり手足を伸ばして休めたし、――本当に生れてっから初めて、暢びり休むことができたし、もういつお仕置になってもいいと思っていたんです」
「清太郎を呼んでやろう」と彼はいった。
「あたしいってやります」とお絹はいった、「あたしも約束を守ったんだから、あの人も約束を守って下さいって、――あたしそういってやります、ええ、きっとそういってやります」


 律之助は高木新左衛門と酒を飲んでいた。
 三十間堀の船宿の二階で、外は雨であった。あけてある窓から、対岸に並んだ土蔵と、その上の、鬱陶しく雲に塞がれた雨空が見えた。
「清太郎は逃げようとしたのか」
「その晩、菱垣船に乗ろうとした」と律之助がいった、「それでしかたなしに、梶野は縛ってしまったらしい」
「ばかなもんだ」と高木がいった、「――しかし、お絹が口を割ったとすれば、居据ってしらをきるわけにもいかなかったろうがね」
「もちろん親が逃がしたのさ」
「殺したのは、――」
「二人が逢曳をしているのを見たんだ」
「ふん」と高木はいった、「金持のひとり息子か、……ああいう手合にはよくあるやつさ、大地主で、質両替商で、家主で、土蔵には金がうなっている、金で片のつかない事はないと思ってるんだ」
「おれはまいった」
「長屋の連中もつかまされたんだな」と高木がいった、「貧乏ということは悲しいもんだ」
「おれはまいったよ」と律之助はいった、「長屋の女房たちの露骨な敵意も、子供たちの悪童ぶりも、弥五の若いじぶんの話も相当なものだった、しかし、お絹が、――疲れた、といったときにはまいった」
「盃があいているぜ」
「あたしは疲れた、しんそこ疲れきってました、といわれたときには、おれは、――」と律之助は頭を垂れ、それから、低い声でいった、「お絹が罪を背負ったのはそれなんだ、親や弟が安楽に暮せる、卯之は死んだ、生きているはりあいがない、そういうことよりも、生きることに疲れきって、ただもう疲れることから逃げだしたいという気持で、――ああ、おれにはそれがよくわかった、おれはそのことだけでまいったよ」
「まいったのはもうわかった、盃を持てよ」
「まいったのがわかったって」
「盃を持ってくれ」と高木がいった、「まいったことはわかったから、もう一つのことを話してもらおう、――律さんはどうして、この事件を、そう熱心に再吟味する気になったのか、わけはあとで話すと、いつかいった筈だぜ」
「一杯ついでくれないか」
「重ねてやれよ」高木は酌をした。
「こうなんだ」
「もう一つ、ぐっとやれよ」
「こうなんだ」と律之助がいった、「――父が死ぬときに、遺言のようなことをいった、父の誤審がもとで、無実な者を死罪にしたことがある、誤審ということがわかったのは、三年もあとのことだったそうだ、父はそれ以来、良心に責められて、一日も心のやすまるときがなかった、もともと、人間が人間を裁くということが間違いだ、しかし世間があり秩序を保ってゆくためには、どうしたって検察制度はなければならないし、人間が裁く以上、絶対に誤審をなくすこともできないだろう、――父はそういった、自分の誤審は殆んど不可抗力なものだった、それは同僚も上司も認めてくれたが、それでも良心はやすまらなかった、無実の罪で死んだ者のために、いつも冥福を祈りながら、とりかえしのつかない自分の罪に、夜も昼も苦しんだ、父はそういった、――だから、おまえだけはこの勤めをさせたくないって」
「しかもすすんで勤めに出た」
「すすんでね」と律之助は窓の外を見た、「もしできるなら、父の償いがしたい、一つでも償いをして、死んだ父にやすらかに眠ってもらいたい、そう思ったのでね」
「それは、知らなかった」と高木はいった、「そういうことなら、今日の酒は、二重の祝杯ということになるじゃないか」
「どうだかな」
「なにか不足があるのか」
「お絹は牢屋のほうがいいといった」と律之助はいった、「――長屋へ戻れば、お絹はまた稼がなければならない、寝たっきりの親や、白痴の弟を抱えて、――」
「しかし、やがては、おちつくところへおちつくさ、それは一人のお絹の問題じゃあない」
「慥かにね、――」と彼はいった。
 律之助は窓の外を見ていた。雨の三十間堀へ、とまを掛けた伝馬船が一艘、ゆっくりと入って来るのが見えた。





底本:「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」新潮社
   1983(昭和58)年1月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
   1954(昭和29)年10月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード