三十二刻

山本周五郎





「到頭はじめました」
「そうか」
長門ながとどのでも疋田ひきだでも互いに一族を集めております。大手の木戸を打ちましたし、両家の付近では町人共が立退きを始めています」
「ではわしはすぐ登城しよう」
「いやただ今お触令がございまして、何分の知らせをするまで家から出ぬようにとのことです。騒動が拡がってはならぬという思召おぼしめしでしょう。しかし用意だけはいたしておきます」
 父と兄とが口早に話している隣の部屋から、娘の宇女うめが間のふすまを開けて現れた……面長のおっとりとした顔だちであるが、今は色もあおざめ、双眸ひとみにも落着かぬ光があった。
「兄上さま、ただ今のお話は本当でございますか」
「いま見てきたところだ」
「疋田でも一族を集めておりますの?」
「それをいてどうする」
 父の嘉右衛門かえもんにらみつけるのを、宇女は少しも臆せずに見返して、
「次第によってはわたくし、すぐにまいらねばなりません」
「なにを馬鹿な、おまえは疋田を去られたのだぞ。どんなことが起ろうと疋田とはもうかかわりはないのだ。いいから向うへ退っておれ」
「わたくし疋田の妻でござります」
 宇女は平然と云った。
「……おしゅうとさまの仰付けで一時この家へ戻ってはおりますが、まだ主馬かずまから離別された覚えはござりませぬ」
「理屈はどうあろうと、嫁した家から荷物ともども実家へ戻されれば離別に相違あるまい、この方に申分こそあれ、疋田に負うべき義理はないのだ、動くことならんぞ」
「宇女……退っておれ」
 兄の金之助きんのすけがめくばせをしながら云った。宇女はもういちど父の顔を見上げた。そして落着いた声で、
「父上さま、宇女は疋田の嫁でござります」
 そう云って静かに立った。
 嘉右衛門はぎろっとその後姿を睨んだが、それ以上なにも云おうとはしなかった。金之助は家士を呼ぶために立っていった……このあいだに自分の居間へ入った宇女は、手早く着替を出して包み、髪をでつけ、懐剣を帯に差込むと、仏間へ行って静かに端座した。
 宇女が疋田家へ嫁したのは去年、寛永十七年の二月であった……疋田は秋田藩佐竹さたけ家の老職で二千三百石だし、宇女の家は平徒士かちで二百石余の小身だったが、疋田の嗣子主馬が宇女をみそめ、たっての望みで縁が結ばれたのである。嘉右衛門は初めから反対だった。身分が違いすぎるのと舅になる疋田図書ひきだずしょが権高な一徹人で、この縁組をなかなか承知しなかったという事実を知っていたからである。しかしついには主馬の懇望が通って祝言が挙げられ、宇女は疋田家へ輿入こしいれをした……良人おっとは愛してくれたけれども家格の相違に比例して生活の様式も違うし、そのうえ家士と小者を加えると八十人に余る家族なので、異った習慣に馴れつつこの人数の台所を預る苦心は大抵のことではなかった。
 良人の主馬は中小姓であった。そして新婚半年にして、主君修理太夫義隆しゅりだゆうよしたかに侍して江戸へ去った。参勤の供だから一年有半の別れである。出立の前夜、彼は妻を呼んで云った。
 ――初めての留守だ、父上と家のことを頼むぞ。
 その他にはなにも云わなかったが、良人から初めて聞く「頼む」という言葉は、宇女の心を強く引緊めた。
 舅の図書とはそれまでほとんど接触がなかった。別棟になっている彼の居間へ朝夕の挨拶に出るだけで食事も身辺の世話も若い家士たちがしてきたのである……それが、主馬が江戸へ出立すると共に、急に宇女に命ぜられるようになった、なぜそうなったかということは間もなく分った。つまり初めから宇女を嫌っていた図書は、主馬の留守の間に彼女を疋田家からおおうとしたのである。そして宇女がそう気付くより先に、図書はそうする口実を握ってしまった。
 ――家風に合わず、主馬が帰藩のうえ仔細しさいの挨拶をする。
 という口上で、その年の霜月に実家へ帰された。数日後には持っていった荷物も返されてきた。
 怒った嘉右衛門が何度も交渉したが、疋田ではすべて主馬が戻ったうえでと云って退かない。またそれを押切ることのできない身分の懸隔もあって、離別とも、一時の別居ともつかぬ形のまま年を越し、すでに弥生やよいなかばの今日に至っているのであった。
「母さま、宇女は疋田へ帰ります」
 彼女は仏壇に香を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)いて合掌した。
「家の事を頼むと云って、良人は安心して出府いたしました。いま疋田には大変な騒動が起っております。わたくしこれからまいりますが、今度はもう戻ってはきません。お別れでございます」
 眼を閉じて、ややしばらく頭を垂れていたが、やがて立上ると、包を背にくくりつけ、長押なげし薙刀なぎなたを取下ろして玄関へ出ていった。
「……宇女」
 金之助がそっと追ってきた。
「やはり行くか」
「兄上さま」
 宇女は振返って兄を見上げた……微笑さえ含んだ静かな眼であった。金之助も愛情のこもった眼で妹をみつめながらうなずいた。
「よし行け、骨は拾ってやるぞ」


 将監台下にある疋田家は沸返っていた。
 家士に鎧櫃よろいびつを背負わせた老人や、具足を着け、大槍を担いだ若武者や、騎馬で乗りつける人々が、八文字に押開いた表門の中へきびすを接するばかりに吸込まれていく……その度に、門前から奥まで到着した人の名が呼上げられ、高々と歓声があがった。
 老いも若きも、みんな息を弾ませ、眼を輝かしていた。
「よう来たな、玄蕃げんば腰が伸びるか」
かせ、わしが来ずに戦ができるか。お主こそ老眼であやまちすなよ」
伝七でんしち、功名競べだぞ」
「なにを、長門の首は拙者のものだ」
 そんな応酬が元気に飛んだ。
「すぐに奥へお通りください。すぐに奥へ……」
 家士たちが連呼していた。
 壕をめぐらしたこの屋敷は広さ三町歩に余る。厚さ三尺もある築地塀ついじべいが三方を囲み、背後は将監台の叢林そうりんがけになっていた。構の中には百坪足らずの母屋が鍵形に延び、高廊架で別棟の隠居所と通じている。武庫が三棟、厩二、家士長屋三、他に小者部屋、物置作事場などの建物がある。作事場は疋田家が藩から委托された火薬製造所であって、その改良研究が図書の任務の一になっていた……これらの建物のほかは、ほとんど菜園であった。
 乗着けてきてつながれた馬は、厩前うまやまえから武庫の方まではみだし、たかぶったいななきやひづめで地面を蹴立けたてる響きが、右往左往する家士や小者たちの物々しいざわめきを縫って、屋敷いっぱいに異常な緊張感をみなぎらせた……到着した人々はただちに広間へ通った。全部で六十人を越したであろう、一刻足らずの内に疋田一族はほとんど顔がそろった。
 疋田図書が出てきた。
 彼は五十九歳で、一寸も厚みのある白髪まじりの濃い眉と、並外れて巨きな眼とが、色の黒い骨張った顔をひどく圧倒的なものにしている。背丈は六尺一寸。「図書どのが高下駄を穿いて傘を差すとお城の門につかえる」と云われたくらいであった。
「いずれも、早々に御苦労なことじゃ」
 座につくとすぐ、彼はよく徹る力のこもった声で云った。
「かねて承知の通り、山脇長門やまわきながと悶着もんちゃくの間柄であったが、このたびついにかような事に相成ってしまった。お上のお留守中ではあり、堪忍のなる限りはしてきたのだが、これ以上の忍耐は卑怯ひきょうそしりをまぬかれない。この白髪首をけて武道の面目を立てるつもりじゃ」
「だが、よく聞いてもらおう」
 図書は一座を見廻して続けた。
「……このたびの事は長門とわしの喧嘩けんかじゃ、一族おのおのにはなんの関り合いもない。こうして駈込んでくれたのは過分に思うが、どうかおのおのにはこのまま立退いてもらいたい」
「なにこのまま帰れと仰有おっしゃるか」
「成り申さぬ、さようなこと不承知じゃ」
「我等は妻子と水盃みずさかずきをしてきたのじゃ」
「不承知でござるぞ」
「我等は一歩も動きませんぞ」
 一時に皆が騒ぎだした。
 しかし図書は黙ってその鎮るのを待っていた……彼には一族の人々の気持がよく分っている。彼等が図書のため、疋田家の名聞みょうもんのために死のうとしてきたことはたしかだ。しかしその他にもう一つ理由がある。それは秋田藩にける廻座まわりざと家中との長い反目不和であった。
 佐竹家はもと常陸ひたちの地で四十万石余を領していたが、秋田へ転封されるに当って半地の二十万五千石に減ぜられた……その時、水戸時代に佐竹へみつぎしていた近国の大名十九人が、その城地を捨てて新たに秋田へ随身してきた。この人々を「引渡し廻座」と称し、家中譜代とは別格に待遇されていた。譜代の家臣たちからみれば、しかし彼等はもと降参人である。伊達だて上杉うえすぎや、北条ほうじょう里見さとみなどの諸勢力にねらわれることを怖れ、佐竹の翼下に庇護ひごを乞うた人々である。佐竹が秋田へ移封されるに当って、もし随身しなければ改易離散に及ぶ運命にあったのだ。
 ――たかが食客同然の者ではないか。
 家中の臣にはそういう肚があった。
 ところでこれに対して廻座の人々には、自分たちがかつては、小さくとも一城の主だったという矜恃きんじがある。それで廻座という別格の位置を楯に横車を押す事が多かった。


 山脇長門は廻座の胆入格きもいりかくであり、疋田図書は譜代中での名門である。二人は互いの性格が合わぬだけでなく「廻座」と「譜代」と、対立する勢力の代表的位置のために、長いあいだ悶着を繰返してきた間柄にあった。
 それがついに来るところへ来たのだ。
 廻座の者は政治に参与することを許されていない。これはその格別の位置によるものであるが、それが長いこと彼等の不満の種であった。政権を与えられない格別の待遇は床の飾物だ。そこで彼等は参政の権利を持とうとしはじめた……むろん譜代の人々は反対である。なかんずく疋田図書は矢表に立って、廻座の特殊な位置を説き、はっきり譜代とのけじめをつけた。
 ――廻座は幕府に於ける外様である。幕府の政務が譜代の手にあるが如く、お家に於ても政治は譜代の者が執るべきである。
 図書の説は、主筋の佐竹一門もこれを推すところとなり、廻座一統の希望は潰滅かいめつした……長門と図書との争いはこれで爆発した。喧嘩けんかというものは理屈で始って腕力に終る。長門は憤懣ふんまんを暴力に訴えた、図書もまた避くべからずとみて、ついに受けて起ったのである。
「まず落着け、みんな鎮ってくれ」
 図書はやがて声を励して云った。
「おのおのが図書のために死んでくれようという心はかたじけないが、一族の助力を借りたと云われてはわしの面目が立たぬ」
「しかし長門でも一族を集めておりますぞ」
「向うは知らぬ。図書には図書の考えがある。おのおのには察しがつくまいか……この争いが拡がれば、廻座と譜代との全部に波及する。お家が二手に別れて争闘に及んだらどうなるか、この争いはどこまでもわしと長門の間で喰止めなくてはならん。疋田一族でこの理屈の分らぬ者はあるまい」
 今度は誰もなにも云わなかった……図書はにっと唇で微笑しながら、
「わしは初めからこの白髪首をけている。この首一つで廻座の幾人かを冥途めいどさらっていければ安いものじゃ。相手の多いほど首の値打も増す訳じゃでの。そうであろう」
 図書の真意は分った。こうなるとてこでも動かぬことは知れている。もう引揚げるより他にない。人々はそう悟った……図書はその気配を見て取ったので、すぐ銚子ちょうしと土器を命じて別盃を交わし、猶予なく人々を退去させた。
「わしの意のあるところを家中へ伝えてくれ、例えどのような仕儀に及ぼうとも、決して手出しをしてはならぬと。よいか、おのおのの力で固く押えてもらわねばならんぞ」
 江戸にいる主馬にもなにか遺言があるかと思ったが、その事にはついに一言も触れなかった。
 かくて一族の人々は去った。
 表門が閉された……裏も脇も、通用口も、みんな厳重にかんぬきが入れられた。家士五十三名、小者十八名、他に十二名の奴婢おんなはとっくに逃がしてあったので、図書ともに七十二名が立籠たてこもった訳である……図書は敵をこの屋敷へ引付け、機をみて一挙に決戦する考えであった。幸い邸内には充分の火薬があるし、家士たちの多くは火術の心得があるから、多勢の敵を引受けるには、防御にも決戦にも非常な強味である。備えは手早く固められた。小者たちがってきた茨や青竹で逆茂木が作られ、築地塀の内側へ結込まれた。表門を除いた各門には防材を組み、石を積上げて侵入に備えた。
 図書は書類の整理を終ろうとしていた。
 襖や障子を取払い、什器じゅうきを片付けた家の中はがらんとして、庭の若葉の光が青々と板敷に映じている……まだ武家屋敷では畳を用いていなかった時代で、床板は黒光のするほど磨きこまれている。その板敷へ青々と映ずる若葉の色は、図書にとって毎年のけざやかな、生々とした眼のよろこびであった。
「申上げます」
 若い斎田小五郎さいだこごろうが庭前へ走ってきた。
「……なんだ小五郎」
「山脇の使番が表御門へ馬を寄せました」
「来おったか」
 図書は立って玄関へ出ていった。
 小具足を着けた若武者が一騎、表門の外に馬を乗着けていた。彼は図書が玄関へ出てきたとき、馬上に身を起して弓を執直し、羽黒の矢をつがえてひょうと射かけた。矢は玄関の左の柱に突立ってぶるぶると震えた……宣戦の矢である。若武者はそれを見届けると、馬首を回して疾駆し去った。
六郎右衛ろくろうえ
 図書は控えている家扶に向って、
「皆の者に盃をとらす。庭へ集れと云え」
 そう云って奥へ入った。
 戦備を終った者たちは、武装に改めて参集した……図書は精巧の鎧直垂よろいひたたれに伝家の腹巻を着け、拝領の太刀をいて、床几を書院に据えさせた。家士は上に、小者たちは縁下に、人数が揃うと図書から順に別盃さかずきが廻された。さかなには十八歳になる槁田藤三郎こうだとうさぶろうが起って平家を朗詠しながら舞った。
 そして、いよいよ合戦を待つばかりとなった。


 死を前にして、しかもまだその期の来ない、僅な時間は怖しいものだ。恐怖と気臆れは、そういうとき人の心に忍込む。図書はそれを知っていた。そして恐らく、小者たちの中から少数の逃亡者が出るであろうと考えていた……しかしその心配はなかった。五手に別れて部署に就いた人数は、ようやく迫る黄昏たそがれの光のなかで、落着いた。そして明るくさえある声で呼交わしながら、元気に動き廻っていた。
 ――うん。
 図書は心の内で微笑した。
 ――これなら存分にひとあてできるぞ。
 けれどその時、鉄砲組の速水左右助はやみそうすけが、血相を変えて意外な報告に駈けつけてきた。
「申上げます。一大事でござります」
「落着け、どうしたのだ」
「火薬が水浸しになっております」
「なに、火薬がどうしたと」
 図書はぎょっと色を変えた。
「何者がいたしましたか、倉前に揃えました分も、倉の中に有る分も、すっかり水浸しにしてしまいました。一発分も使える薬がございません」
「六郎右衛、見てまいれ」
 家扶がすぐに左右助とともに走っていった。
 戻ってきた六郎右衛門から、それが事実だと聞くと、図書は沈痛な呻き声をあげた……攻防共になくてはならぬ鉄砲だ。その火薬がいまは一発分も残らず水浸しだとすれば、戦わずしてまず最も重要な武器を喪ったことになる。善き決戦の機をつかむべき、その機会の選択力もまた、図書の手から奪取られたのだ。
「外から入込んだ者はございません。曲者はお屋敷内にいて、先ほどのお盃のあいだにやったものと思われまする」
「屋敷内にさような痴者しれものが居ると思うか」
「かような事が出来しますれば、どのような事をも考えなければならぬと存じます。ことに小者たちの中には新参者も居りまするし」
 六郎右衛門の言葉が終らぬうち、
「……御執事」
 と叫びながら兵粮番小者がはせつけてきた。
「御執事まで申上げます。誰か庫屋の酒瓶を打壊した者がござります。過失ではござりません。五瓶とも石で叩割りましたので、酒は全部流れてしまいました」
 茫然として、六郎右衛門は図書の顔を見た。図書は静かにうなずきながら、
「よし、分っている」
 と低い声で云った。
「……わしが壊せと申付けたのだ。勝祝いをする戦ではない。酒は不用だからそうさせたのだ。戻っておれ」
「はっ」
 小者はただちに走り去った。
 六郎右衛門には図書の心が分った。家士たちの気持を動揺させないためにそう云ったのである。しかし……火薬といい酒瓶といい、こう続けさまに変事が起るようでは、もう屋敷内に敵と通謀する者があることは疑いない。
如何いかが……如何計いましょう」
「なによりもまず」
 そう云いかけて、図書の眼はふと奥の方へ向いた……静かに奥から、一人の女が出てきたのである。図書の巨きな眼は驚きのためにまばたきを忘れたようになった。
 宇女であった……彼女は黒髪を束ねて背に垂れ、白装束の腰紐こしひもをかたく締上げた凛々りりしい姿で、薙刀を右手に抱込み、敷居際まで進んでひざをついた。
「宇女ではないか」
 図書は噛付かみつくように叫んだ。
「誰の許しを得てこれへまいったぞ」
「はい思召に反くとは承知仕りました。けれど家の大事と承わり」
「ならん!」
 図書は片足で床板をはたと踏んだ、
「そちはもはやこの家の者ではない。よしこの家の者たりとも、今は女童の出る場合ではないのだ。出て行け」
「わたくしは疋田の嫁でござります」
 宇女は少しもひるまぬ眼で、舅の顔をじっと見上げながら云った。
「疋田の家の大事ゆえ、こなたさまの思召に反くのを知りつつまいったのでござります。良人主馬から去ったと申されぬ限り、わたくしここを一歩も動きはいたしませぬ」
「馬鹿が。この家に居る七十余人、今宵を限りに死ぬるのだぞ」
「承知のうえでございます」
 静かに、微笑さえうかべている宇女の面を、図書は烈火のように睨んでいたが……ふと、稲妻のように頭へひらめいたものがある。
「宇女、しかと返辞をせい、火薬を水浸しにしたのはそちであろう」
「はい」
「酒瓶を砕いたのもそうか」
「はい、わたくしがいたしました」
 家扶かふはあっと低く叫んだ、図書は拳で膝を打った。衝上げてくる忿怒を抑えることができないらしい。
「訳を申せ、仔細があろう申せ!」
「別に仔細はござりませぬ。義父上ちちうえさまがお申付けあそばすことを、わたくしが代っていたしたのでございます」
「わしがなぜ左様なことを申付けるのだ」
 宇女は答えなかった。答えずにじっと図書の眼を見上げていた……その刹那せつなである。すさまじい矢風と共に、一本の矢がひょうと空を飛んできた。そして、図書の肩をかすめて、後の壁へぷつっと突立った。
「あ、危い!」
 と六郎右衛門が叫ぶより疾く、宇女が身を飜えして図書の前へ立塞たちふさがった……続けざまに二の矢、三の矢、四の矢、ふつふつと飛んでくる矢の、二本までが宇女の袖を貫いた。


 射込んできた矢の二本までが、宇女の袖を縫い、一本は床板を削ってからからと鳴りながらはね飛んだ。図書は床几しょうぎに掛けたまま黙っていた。
 家扶の六郎右衛門は「おみごと」と云いたげな眼で、宇女の横顔を見上げていた。
「攻寄せたぞ」
「山脇が寄せたぞ、いずれもぬかるな」
「持場へつけ」
 家士たちの絶叫が聞え、わっというどよめきが屋敷の内と外とに巻起った……時に寛永十八年四月十九日とりの上刻であった。
 押寄せた山脇の人数は二百人を越していた。彼等は三方から取囲み、ときをつくって詰寄せたが、屋敷の中からは一発の銃声も一本の矢も飛ばず、また斬って出る様子もなかった。
 むろん、急戦を期してきたのである。夕闇の迫ると共に、先手の一部は築地塀を乗越え、敢然と邸内へ斬込んだ……しかしその人々は、塀の内側に逆茂木の結ってあることを知らなかった。それをむざと跳下りた者の多くは、切殺きっそいだ青竹に自ら突刺さってたおれたし、危くまぬがれた者も、待構えていた槍組の手で一人も残らず突伏せられてしまった。
 図書は書院の床几を動かずにいた。
 一台の燭が、色の黒い骨張った彼の横顔を、ちらちらと揺れながらあかく染めていた……その左側に宇女がいた。薙刀を伏せ、片膝をついたまま、これも石のように動かない。しかし全身の神経は図書の危険を護るために、弓弦の如く緊張していた。
「ここにいてはならん、退れ」
 図書はなんども繰返して云ったけれど宇女は返辞もせず、動く気色もなかった。
 やがて、西の脇門の方から、物を打壊す重々しい響きが聞えてきた……敵が築地塀を突き崩しに掛っているらしい。味方の加勢を呼ぶ声が起り、けたたましい喚声が邸内に飛び交った。
 ――あの火薬さえあったら。
 図書はさっきからその事を考えていた。ここで鉄砲が使えたら、引付けるだけ引付けておいて、つるべ討ちに浴びせ、怯む隙に斬って出て一挙に決戦することができたのに。
 ――なぜ火薬を水浸しにしたのだ。しかもこのおのれが命ずる事をしたという。
 わっという鬨声が西の脇門で起った。築地塀が突崩されたのであろう。重々しい地響きに続いて、味方の呼交わす鋭い叫び声が聞えた。
「六郎右衛、見てまいれ」
「はっ」
 縁下に控えていた家扶が走っていった。
 宇女は薙刀を持直した。危険が迫ったとみたのであろう。図書はその横顔にちらと眼をやったが、彼女の眉宇は静かで、呼吸も常に変らず落着いている。そして必死の決意だけが、薙刀を握るその手指にはっきりと現れていた。
 六郎右衛門がはせ戻ってきた。
「申上げます。西の脇御門に沿って六尺あまり、築地塀が突き崩されました。十二三名斬込んでまいりましたが、これを斬って取りましたので、後手は続かぬ模様でござります」
「穴はすぐ塞がねばならんぞ」
「防材を集めてやっております」
 その答の終らぬうち、裏門の脇に当って再び、築地塀を崩す重苦しい音が響きだした。そして、それと同時に、また二十人ほどの人数が塀を乗越えて邸内へ侵入してきた。
 聞く者の肌に粟を生ずるような悲鳴が起った……築地塀から跳下りた寄手の者たちが、前者の如く逆茂木に身を突貫かれたのである。そしてすかさず走寄る槍組の家士たちが、端からそれを討止めてしまった。
 ずしん……ずしん……ずしん。
 築地塀を突き崩そうとする響きは、運命の跫音あしおとのように、無気味な、圧しつけるような震動を屋敷中に伝わらせた。そこへはすでに防ぎの人数が詰め掛けているのだが、突崩されるのを待つ空虚な、そして※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)かきむしられるようなもどかしさ苛立いらだたしさに、みんな眼を光らせ、ぶるぶると総身を震わしていた。
 図書は不意にはたと膝を打ちながら、
「六郎右衛、水を持て」
 と叱りつけるように命じた。
 家扶が立つより早く、宇女が走ってゆき、金椀に水を満して戻った……図書は外向いたまま取って飲み、黙って残りを宇女に返した……そして宇女がその残った水を、いちど額まであげ、隠れるようにしてそっとすするさまを、彼は眼の隅から見ていた。
 ――水盃。
 そういう言葉が図書にふと思出された。
 ずしん……ずしんずし……ずしん。頭から圧えつけられるような響きはまだ続いている。西の脇門の方では卒然と打物の音が起り、走ってゆく人の跫音と、互いに呼交わす叫びとが闇を縫って聞えてきた。


 図書は再び眼の隅で宇女をぬすみ視した。
 切迫する死を前にして、彼女がいつまで耐えられるか、その落着いた態度の、どこから恐怖が仮面を破るか、それを見究めてやろうというような、冷酷な視線であった……しかし宇女は依然として色も変えず、その唇のあたりには、むしろ微笑んでいるかと思えるほど、平明な表情が表れていた。
 不意に四辺が静かになった。
 人々はどきっとした。築地塀を突き崩す音が止んだのである……押被さるような重苦しい響きがはたと止んだとたんに、量り知れぬひろがりを持った一瞬の静寂が、まるでそれに代る響音の如く邸内の人々を押包んだのである。
「……どうした」
 図書が思わず床几から立つと、物見にいた一人が走ってきて叫んだ。
「申上げます。寄手は人数をまとめて退陣仕りました」
「なに、陣払いだと」
「残っているのは見張りの者だけでござります」
 脇門の方の動揺も鎮っている。……ただ遠く、退却する敵のどよめきの声だけが、ひどくかけはなれた感じで聞えてきた。このあいだに三方から物見が走ってきた。報告はみな同じである。図書はしばらく考えていたが、
「油断なく警備を続ける。それから交代に食事を採るようにせい」
 そう云って、自分の円座に腰を下ろした。既にの上刻(午後十時)になっていた。
 攻撃を中止した敵は、逆襲に備えて二丁あまり退き、そこでかがりいて息を入れていた……図書は湯漬けを食いながら、六郎右衛門の調べてきた報告を聴いた。斬込んできた敵は五十七人、そのうち討取ったもの三十二、重軽傷のもの二十余人、これに対して味方は討死三名、浅手六名……これが二刻半の戦果であった。
 はたけの方で、小者たちが死体を片付けたり、敵味方の負傷者の手当をしたりするざわめきが聞えていた……図書は食事を終るとすぐ、家扶を従えて庭へ下りていった。みんな元気であった。表門脇の築地塀の一部が、外からの打撃でひどくゆがんでいたが、まだ急には崩壊しそうもなかった。西の脇門に沿って突崩された所には、防材と石とが積まれてあり、そこから斬込んでくる敵が、味方にとってどんなに討取り易いかよく分った。もしそれが二倍の広さであったら、恐らく防戦は困難なものになったであろう。
 母屋の裏手へ廻ると、宇女が小者たちを指図しながら何事かしていた……図書が食事にかかると共に、彼女はどこかへ去っていたのである。そっと近寄ってみると、そこにはおびただしいむしろが積んであり、それを水に浸している様子であった。……図書はしばらく見守っていたが、なんのためにそのような事をするのか見当がつかず、そのまま書院へと戻った。
 その夜はついに敵の攻撃はなかった。
 図書は家士たちを交代で眠らせ、自分も居間へ入って横になった。勝つべき戦ではない。例えば勝ったとしても命はないものときまっている。見苦しい死にざまさえしなければよいという考えが、横になるとすぐ体も心も伸び伸びとさせた。
 宇女はそれから更に半刻ほども姿を見せなかった。屋根の上へ誰か登った様子と、それを指揮する彼女の声が二三度聞えた。
 ――なにをしているのだ。
 そう思う気持が、図書の考えを再び宇女の方へ呼戻した。そして主馬が初めて彼女の話を持出した時の、大きな失望と怒りとが胸へよみがえってきた。
 図書にとって、主馬は大事な一粒種というだけでなく、自分のすべての希望を賭けた自慢の息子であった。幼少の頃からこれはものに成ると思ったのが、案の如くめきめき才能を伸ばし、若くして君側に抜擢されてあつく用いられた。もし国老の位置に就く日が来たら、おそらく佐竹一藩に又となき名老職となるであろう……図書はそのときのために、妻を選ぶにも念に念を入れたのである。家柄も才色も良人の位置にふさわしいものでなければならない。そして当時は事実、どんなに優れた条件を備えた嫁でも、主馬のためなら縁組ができたのである。それにもかかわらず……主馬は平徒士の娘などを選んだ。彼女は図書から主馬を奪取ってしまったのだ。
 ――疋田の子が、小身者の平徒士の娘などをめとる、そんな事が許せるか。
 ――わしは許さん。
 結局は主馬の強引な主張を通し、宇女を家に迎えてからも、図書の心にはその気持が抜くべからざるものになっていた。
「……およりあそばしましたか」
 そっとささやくような声がした。
 眠ったものと思って、宇女が忍んできたのである。黙って眼を閉じたままでいると、静かにふすまを衣せ掛け、部屋の敷居外へ退いて端座した。
 図書は初めから宇女を憎んでいた。彼は宇女がまるで格式の違う家庭に入って、失策と齟齬そごを繰返すのを冷やかに見ていた……そういう見方をすれば、日常の質素な身なりも、控えめな挙措動作も、習慣のつまらぬ喰違いも、すべて疋田家という家柄を傷つけるもののように思える。図書は自分の眼に狂いがなかったと信じた。
 ――平徒士の娘はやはり平徒士の娘だ。
 そう見極めをつけた彼は、主馬が江戸へ出府するのを待兼ねて、宇女を実家へ戻してしまったのである。


 図書のように育ち、図書のような性格の者は自分の思考を客観する習慣を持っていない。自分が善しとすることは他人にとっても同様だと思う。彼は息子の若き過を撓直したのだと信じ、宇女に対しては自分が解決の責任を執ると決めていた。それですべて片がついたものと考えて疑わなかった……だから、一家必死と定ったこの場合に、宇女が帰ってきたことは正に彼の意表を衝く出来事であった。単に帰ってきたことが意外なばかりでなく、火薬を水浸しにし酒瓶を砕き、狙矢の前に図書の楯となった態度など彼が「平徒士の娘」だと見ていた鑑識とはかなり懸隔たったものであった。
 ――だがどうして火薬を使えなくしたのか、なんのために酒瓶を砕いたのか。
 図書は同じ考えの上を往きつ戻りつしていた。
 僅な小競り合いがあっただけで、夜が明けた。
 敵は遠巻きにしたまま、時折り烈しく矢を射掛けるが、華々しく突込んでこようとはしなかった。……急戦を不利とみて、持久的に疲れるのを待とうとするらしい。またこのあいだに、新しい武器を調達していたことも、後になって分った。
 午になり、夜が来た。
 同じような状態である。時に小人数で塀際まで寄せてくるがひと矢当てるとすぐ退去ってしまう。そしてまた別の方面から同じ程度の攻撃を仕掛けてくる。明らかに奔命に疲らせる策である。開門して一戦を促す矢文が何本も射込まれたし、斬って出ないのを卑怯だとののしる声も聞えた……しかし味方の戦士は敵の四分の一に過ぎない。狭い街中へこの対数で出れば、昨夜の例とは逆に、待構えている敵の餌食えじきとなるだけである。
 ――あの火薬さえあったら。
 図書は又してもそれを思った。
 山脇勢が再び総攻めを開始したのは、更にその翌日の夕頃からであった……敵は疋田邸の正面にある民家の屋上に鉄砲を伏せていた。むろん邸内ではそんな事は想像もしなかった。三年以前から秋田藩では火薬の私蔵を禁じてあったので、疋田家が火薬庫を押えている限り鉄砲は使えないのである。しかし山脇長門は二日のあいだにそれを調達してきたのであった。
 戦は日没と共に始まった。
 書院の床几に掛けていた図書は、寄手の攻撃が今度こそ必死を期したものだということに気付いた。敵の焚く篝火は前夜に倍し、夕闇の空を赤々と焦がしている。寄せてくる動きも思切ったもので西側から侵入してきた一部はほとんど前庭の方まで斬込んだ……いぬの上刻(午後八時)になると、塀際へ取着いた一部が、三ヶ所で築地塀を崩しはじめた。そして同時に、まるで予想もしない武器が、ほのおを吐きながら飛来し、書院の軒に突当ってすさまじく炸裂した。
 それは火箭ひやであった……しかもかつて見たことのない新しいものだ。拇指おやゆびほどもある鉄の矢のさきに、火薬筒と油に浸した石綿が着けてある。的へ突立つと共に火薬筒が炸裂し、油綿の火を建物へ燃移す仕掛けになっている。
 ――火箭だ!
 図書がそう気付いて愕然がくぜんとしたとき、側に控えていた宇女が庭へとび下りていって、
「蓆を下ろして……水を!」
 と大きく叫んだ。
 すると屋根の上で答える声が聞え、土庇の上へ蓆が垂れてくるのと一緒に、ざあっと飛沫をあげながら水が流落ちてきた……火箭は続けざまに十四五本も飛んできたが、濡れた蓆にさえぎられて、いたずらに炸裂の火を吹散らすだけだった。
 宇女はすぐ元の場所へ戻った。
 図書は黙っていた。一昨夜、彼女が小者たちを指揮して、蓆を積上げては水に浸していた訳がようやく分った。こういう襲撃に寄手が火を使うことは定法である。図書はじめ誰もそれに気付かなかったのは初めから必死を期していたからでもあるが、若い宇女がその手配をしたという事は図書の心を強くうった。
 ずしん……ずしん。ずしん……ずしん。
 鈍く重い響音、三ヶ所で築地塀を突き崩す緩慢な重苦しい響きは、打物の音と叫喚とを圧倒して屋敷いっぱいに広がった……この三ヶ所の崩壊する時が、疋田一家の討死をする期である。家士たちの眼にも、今やその時の近づきつつあることがはっきりと表れていた。
 橋田藤吉はしだとうきち速水数馬はやみかずま(左右助の弟)和下軍兵衛わしたぐんべえの三人が走ってきた。彼等は縁下に揃って片膝をつきながら、
「開門をお許しください」
 と叱りつけるような声で叫んだ。
「踏込まれて、お屋敷内で死ぬのは残念です。斬って出ることをお許しください」
「築地はもはや四半刻も保ちません。寄手はすぐ踏込んでまいります」
「お許しください」
「斬って出させてください」
「ならん!」
 図書は押切って叫んだ。
「まだその期ではない。持場へ帰って下知を待て、死ぬ時は図書が先途をする。急ぐな」
 三人は歯噛みをしながら走去った。
 すると間もなく、書院の正面に当る塀の中へ、外から燃えさかる松明たいまつをばらばらと投入れてきた。活物のように、闇を跳って飛込む幾十本とない火は、そのまま庭へ散乱して篝のように、四辺を焦がした。
 ――なにをしようとするか。
 図書は思わず床几を立って広縁へ出た。
 敵はその機会をねらっていたのだ。図書が広縁へ出るとたんに、向うの民家の屋上に伏せてあった五ちょうの鉄砲が一斉に火を吹いた。
「あっ!」
 と悲鳴をあげながら、宇女が図書の前へ両手をひろげて立塞がった。しかしその刹那に、図書は大きく、
「危い!」
 と叫びながら、宇女の体を縁下へと蹴落した。そして自分は、右手で腰骨を押えながら、よろよろとそこへ膝をついていた……五弾の内一弾が、彼の腰骨を草摺くさずりはずれに射抜いたのであった。
 六郎右衛門の叫びで、三人の家士がはせつけた。宇女は突落されたとき足をくじいたが、皆と共に図書を抱上げて居間へ運んだ……図書は片手を振廻しながら、
「いかん、書院に置け。奥へ入れてはならん」
 と懸命に叫んだ。そして叫びながら、彼は凄じい地響きと共に築地塀が崩壊し、敵味方の挙げる決戦の鬨声を、昏迷こんめいする耳の奥でおぼろげに聞いた。


 図書が意識を取戻した時、側にいたのは宇女であった。
 明るい光が部屋いっぱいにみなぎっていた。どこか遠くで人の話し声が聞えた。まるではるかな過去からの声のように、遠くて静かな調子だった……図書の感覚には、崩壊する築地塀の地響きや、決戦の雄叫おたけびや、物具の撃合う鋭い音や、悲鳴や叫喚が生々と残っている。
 体中がまだそれらの響音で揉返しているようだ。それなのに、いま彼の周囲はまるで嘘のように静かだった。
「御気分は如何でございますか」
 宇女が顔を寄せながら訊いた……図書はこのなぞを解こうとするように宇女の眼を見上げた。決戦はどうなったのか、山脇勢はどうした。味方の者は?……しかし彼にはそう訊くことはできない。
「……六郎右衛は、どうした」
「はい、ただ今お客間で、角舘かくだて様からの御上使を接待申上げております」
「……角舘様……?」
 角舘には藩主修理太夫義隆しゅりだゆうよしたかの弟、佐竹義※(「宀/眞」、第3水準1-47-57)さたけよしともが一万石を以て分家している。そこから上使が来ていると聞けば、図書にもおよそ事情が分るように思えた。
「六郎右衛門を呼べ、御上使を受ける」
「御気分は大丈夫でござりますか」
「いいから呼べ」
 宇女は立っていったが、すぐに戻ってきた。図書は起直ろうとしたけれど、身動きをしただけで劇痛がひどく、そのためほとんど全身がしびれるかと思われた……宇女は下座へ退って平伏した。
 上使として来たのは角舘の御旗本頭、柿沢壱岐介かきざわいきのすけ、副役は沼内市郎兵衛ぬまうちいちろうべえ沢田源十郎さわだげんじゅうろうであった……三人とも具足に陣羽折で、上座に通ると図書の会釈を受けてから、壱岐介が、山脇長門との私闘について譴責けんせきの上意文を読みあげた。
「……但し」
 末尾に至って壱岐介は声を改め、
「長門儀、一族一門を集動して取詰めたるに、その方こと上をはばかり、固く門を閉して出でず、また御預けの火薬に水を注いで大事に至らざるよう手配をせし事、自分難儀の折柄、最も神妙の至と思召さる。追而江戸表より沙汰あるまで謹慎を命ずるもの也」
 作法通り上意の達が済むと、壱岐介は座を退いて図書の枕辺へ膝を寄せた。
「疋田どの、お舘より傷所の養生大切にせよとのお言葉でござるぞ……よく辛抱なすった。聞けば一家七十余人で山脇一族二百幾十人を支えること三十二刻、お預りの火薬には手も着けずとはさすがでござる。山脇は恐らくお取潰しであろうが、疋田家は武名を挙げましたぞ」
「御挨拶まことに恥入る」
 図書の声は震えていた。
「……このうえはただ、一日も早く切腹のお沙汰の下るよう、よろしくお計い願いたい。しょせん、初めより生きながらえる所存の図書ではござらぬ。この趣お舘様へしかとお伝えください」
「承わった。しかしまずくれぐれも養生を大切になされい」
 上使は帰っていった。
 色々な事が分った。築地塀を突き崩して雪崩れ込んだ山脇勢は、しかし厳重な逆茂木に阻まれ、死を期した疋田の家士の切尖を喰って幾度となく敗退し、決戦の期を得ずして夜明けを迎えた……そこへ、老臣たちからの急報によって、角舘から式部少輔しきぶしょうゆう※(「宀/眞」、第3水準1-47-57)が、自ら三百の兵を率いて到着したのである。味方にとっては救いであり、敵にとっては絶望の時であった。
 山脇の死者九十余、味方の死者三十二、傷者二十七という戦果を聴きながら……図書はひそかに上意文の「火薬」の条を反芻はんすうしていた。そればかりではない。もし酒があったなら、戦気を鼓舞された家士たちは、恐らく勢の趣くままに斬って出たことであろう……不思議な感動がいてきた。図書は全身の感覚で宇女の前に感謝したい欲望を感じた。しかし彼はそれを懸命に抑えつけながら、
「……六郎右衛」
 と叱りつけるように呼んだ。
「はっ」
「大橋へすぐ使いにまいれ、宇女が無事だということを知らせるのだ。案じているであろう、急いで行け」
かしこまりました」
「待て……」
 起とうとする家扶を呼止めて、
「……それから、宇女の荷物を、取戻すように計ってまいれ。よいか」
 宇女は病床の裾の方で、床板に平伏しながらそれを聞いていた。円い肩がかすかにふるえているのは泣いているためであろう。
 ――これで快く死ねる。
 図書は、かつて覚えたことのない、身も心も軽々とした感じで、宇女の背を見やりながらそう思った。外はいつか雨になっていた。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「国の華」
   1983(昭和15)年9〜10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2024年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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