桑の木物語

山本周五郎





 その藩に伝わっている「杏花亭筆記きょうかていひっき」という書物には、土井悠二郎についてあらまし次のように記している。
「土井右衛門、名は悠二郎。忠左衛門茂治の二男に生れ、わけがあって七歳まで町家に育った。八歳の春から幼君のお相手として御殿へあがり、ずっとお側去らずに仕えたが、二十一のとき致仕した。
 生れつき奔放にして無埒むらち、つねに奇矯のおこないが多く、宗眼日録そうがんにちろくには、勤めかたよろしからず、ということがしばしば挙げてある。致仕してのちは市中にかくれ、親族や旧知とも断って無為に一生を終ったという。
 また上屋敷の庭の奥に、いま大木になった桑の林があるのは、泰春院さまが少年のころ、彼のすすめによって植えられたと伝えられるが、このような進言をするところなども、彼の無埒な性分のあらわれであろう。――ちなみに宗眼日録は泰春院さま御一代の記録であって、御歴代の中興であると同時に、稀世きせいの名君といわれる侯の、生涯と治績とが詳述されてある。筆者は新泉にいいずみ宗十郎、のちに国老となり、宗眼と号した」
 以上が記事の概略であるが、はなはだかんばしくない。「生れつき奔放無埒」とか「勤めかたよろしからず」とか、だいぶてひどくやられている。大名屋敷の奥庭、――町家などでもそうだが、――桑の木を植えるなどというのは変っているが、それが奇矯というほどのことかどうか。いちがいに断言はできないだろう。
 また読者の便宜のために、同じ「杏花亭筆記」にある彼の祖父の記事を、その要点だけぬいて紹介しよう。
「土井勘右衛門、虚木と号す。浄松院さまのとき留守役(世襲)より側御用に召され、老職を兼ねて信任もっともあつく、浄松院さま御他界ののちは、世子の御養育に専念した。泰春院さまの英明果断の資質は、勘右衛門に負うところ多しともいう。――また他に評がある。彼は豪放磊落らいらくなれど、酒を好み、老年に及ぶまで遊里にでいりし、俗曲、俳諧はいかいに長じ、日常のようすには不拘束なことが少なくなかった」と。
 これにも「他の評」として一種の批判がつけ加えてある。重職であるうえに藩主の幼君の育て役といえば、相当な人格者でなければならない筈だが、酒好きで遊里にでいりして、日常が不拘束だとするとあまりめたはなしではない。――そしてこの点、悠二郎の「奔放無埒」と、なにか因果関係があるのではないだろうか。
 悠二郎は双生児であった。兄を左門松太郎という。武家では双生児を嫌うので、生れるとすぐ里子にやられた。杏花亭はただ「町家」と記しているが、詳しくいうと浅草六軒町にある「舟仙」という舟宿であった。
 父の忠左衛門はもの堅い性分で、留守役という社交的な勤めにいながら、酒も多くはたしなまず、たった一つ金魚を飼うという趣味のほか、碁将棋も知らないというふうだった。しかし祖父の勘右衛門はかなり道楽者だったらしい。杏花亭が記しているように、ずっと老年まで吉原や深川あたりでよく遊び、酒もつよいし、荻江一中などの俗曲にも通じていたし、虚木という号で俳諧にもだいぶ凝ったそうである。――そんな関係から「舟仙」をひいきにしたのだろう、よほど気にいったとみえて、あるじ仙吉は上屋敷の家へもちょくちょくきげん伺いに来た。またおつねという女房なども、季節の魚を持ったりして、台所へあらわれることが珍しくなかった。
 悠二郎を舟仙へあずけたのは祖父の勘右衛門である。父は反対であった。なんにしたところで武家の子をあずける環境ではない、母のかな女も眉をひそめたのであるが、虚木老はさも心得たというくちぶりで、
 ――こいつの相貌をみるに、どうもおれに似た道楽者になるらしい、だから舟宿などへあずけるのも、毒を以て毒を制する法である。
 こう云ったという。またのちには嫁に向って、嫁とはむろんかな女のことであるが、その嫁に向ってこう云ったこともあるそうだ。
 ――どうせ二男坊のことだ、つまらないようなところの養子にするより、いっそ当人がよければ船頭にでもなるがいいのさ、にんげん一生、あれはあれで気楽でもあるし、なかなかいきなしょうばいだからな。
 たぶん酔ったきげんででも云ったものだろうが、それにしても乱暴なはなしで、当時としては相当な自由主義者だったとみえる。――ともかく、彼はこうして舟仙へあずけられた。
 ――あまり大事に扱ってはいけない、たいていな悪戯は叱らぬように、なるべく野放しに育てろ。
 仙吉とおつねは虚木老からそう厳命され、そのいいつけどおりに育てた。乳母は葛西のほうの農家の者であった。――彼は赤子のじぶんから勾配こうばいが早かった。七月目にはもうお乳には眼もくれず、誕生まえに平気で強飯こわめしべた。うのも、立つのも、歩きだすのも、すべて一般よりは三割がた早かった。
「こんな赤ん坊っておら見たこともねえ」
 葛西から来た乳母はいつもこう云っていたそうだ。
「なんだってすばしっこくって、ちっとも眼がはなせねえ、寝たかと思ってちょっと立ったら、いつのまにかもう土間へおりて下駄をしゃぶってるだ、ほんとにこの子には胆煎きもいっちまうよ」
 這い歩きを始めるじぶんにはたいていの子が眼のはなせないものだ。しかし悠二郎のはとくべつだったらしい。乳母の云うとおり、なにしろすばしっこいのと桁外けたはずれなことばかりするので、まわりの者のおちつく暇がなかった。そのなかの一つに「梅干のたね」というのがある。それはまだやっと這い始めたころのことだが、ちょっとゆだんしているまに、鼻の穴へ梅干のたねを押し込んでしまった。鼻の両方の穴へ、梅干のたねを一つずつ自分でじこんだのである。そうして息が詰ったものだから、ひっくり返って、手足をばたばたさせて、あわを吹いた。
「まったくあのときばかりは寿命がちぢまりましたね、いま思いだしてもぞっとしますよ」
 おつねはずっとのちになってもしばしばそう云って身ぶるいをした。――とにかく慌てたらしい、いろいろして、ようやく鼻の穴になにか入っているのをみつけ、毛抜を持って来て、暴れるのを乳母に押えさせて、取り出そうとしてみた、が、その物はぬるぬる滑るし鼻の入口よりはるかに大きいので、どうやってみても出すことができない、そのうちに悠二郎はぐったりと青くなった。おつねはそれを横抱きにし、はだしで家をとびだして、花川戸の玄庵さんという医者まで夢中で走った。
 ――玄庵先生、うちの悠坊が。
 こう悲鳴をあげて駆けこんだとき、どういう拍子か悠二郎がくしゃみをして、そうして、ぎゃあと泣きだした。――そのくしゃみで片方の穴からたねがとびだしたのである。もちろん残った一つは玄庵さんが出して呉れた。玄庵さんもこれにはあきれてものが云えないと云ったそうだ。
 自分では全く覚えがないし、ほかにもずいぶんわる悪戯をしているが、さすがの悠二郎もこの話にだけはてれた。「気取ったってだめですよ、なにしろ鼻の穴へ梅干のたねなんだから」
 こう云われると絶対に頭があがらないのであった。
 祖父の虚木老はその後もずっと舟仙へあらわれた。ほぼ十日にいちどぐらいの割だろう、舟仙へやって来ると、二階で芸人たちを呼んでにぎやかに騒いだり、舟で吉原とか深川などの遊里へでかけたりした。――それでいつかおつねが女の子を生んだとき、老は頼まれて名づけ親になったくらいである。そのとき悠二郎は四つになっていたが、おみつと名づけられたその子を珍しがって、抱こうとしたり鼻を摘んだり、口や耳へ指を入れたりするので、少しのもゆだんができなかったそうである。
 祖父がしばしば来るのは、ひとつには孫のようすを見るつもりもあったらしい。だが悠二郎はそんな妙な「じじい」などには興味がなかったので、おちついて話したことなどいちどもなかった。――そんなことより遊ぶのでいそがしい、飯を食うひまも惜しいくらいいそがしかった。なにしろ家が舟宿で、隅田川があって、浅草寺が近いのだから、遊ぶに事を欠かないのである。食事と寝るときのほか、雨が降ろうと風が吹こうと、家の中で彼の姿をみることなど殆んどなかった。
 悠二郎は五つのときすでに近所じゅうでのがき大将であった。からだつきはせて小さかったが、知恵のまわるのとすばしっこいことは無敵で、たいてい年上の子と暄曄けんかをしても負けたことがない、――いつも着物はかぎ裂き、手足は泥んこ、どこかにひっき傷かこぶをでかしていないことはなかった。そうして晩飯のぜんで、片方の眼かなにか紫色にらした顔で、せかせか飯をかっこみながら云うのであった。
「ちきしょう、あの勝んべの野郎、みてやがれ、あしたとっつかまえたら……」
 こっちは花川戸から山の宿、今戸、橋場あたり、川を越しては小梅から向島へかけて、「舟仙の悠ちゃん」と、すっかり名がとおった。子供たちばかりではなく、その子供の親たちにまで知れわたり、またそういう親たちが苦情をもちこむので、仙吉夫婦もずいぶん交際がひろくなっていった。
「おらあ仲間うちからが高えと云われたもんだが、このごろは悠坊のおかげですっかり腰の低いにんげんになっちゃったぜ」
「ねんがらねんじゅうあやまってるんですものね、お客のみなさんもびっくりしているわ、親方のあいそがばかによくなったって、――つまり悠坊にしつけられたってわけね」
「よして呉れ冗談じゃねえ、おめえにまでばかにされりゃあせわあねえ」
 仙吉とおつねはよくこんなことを云って、くさったり笑ったりしたものであった。――こうして七歳になった年の秋、悠二郎はとつぜん生家の土井家へひきとられた。


 あとで聞くところによると、家へひきとると云いだしたのも祖父だったらしい。それも急に云いだしたことで、忠左衛門夫婦にはいやおうも云うひまがなかった。ことに忠左衛門はそれまでに二度か三度、ひそかに悠二郎のようすを見にいって、
 ――あれはもういけない、舟仙へ呉れてやるよりしかたがない。
 こう云って妻に首を振ってみせた。とうてい侍の家へいれるわけにはいかない、おまえもあきらめろと云ったそうである。
 生家へつれて来られたときの、彼の恰好は、相当ひとめをひくものであった。つい昨日まで川で泳いだり、蜻蛉とんぼを追いまわしたり、泥まみれで喧嘩をしたりしていたのである。それがいきなり着物をきちんと着せられ、生れて初めてのはかまをつけられ、腰にはこれも生れて初めての刀を差され、おまけに足袋まではかされた。髪もむろん武家ふうにきちっと結われているわけで、なにしろ躯じゅうが窮屈で息が苦しくって、今にも眼がまわってぶっ倒れそうな気持だった。
 彼はまっ黒に日にやけ、眼ばかりぎょろぎょろしていた。忠左衛門はちらと見るなり、眉をしかめてそっぽを向いた。かな女はさすが母親である、彼のそのあさましい姿に胸をうたれ、抱きよせてぽろぽろ涙をこぼした。――兄の松太郎はびっくりして、ぽかんと口をあいて、そうして坐ったまま少し後ろへ身をしさった。悠二郎はすばやくこれを見て取り、
 ――こいつはたいしたこたあねえ。
 こう思ってふんと軽侮の鼻を鳴らした。
 祖父はこのほかにも家扶かふの渡辺老人や、七人の家士や、下男女中たちにも彼をひきあわせた。悠二郎はかれらがみんなくみし易いことをみぬいた。父親はにがてらしい、家来のなかで黒板権兵衛というのも、ひげなんぞはやして団栗どんぐりまなこで、ちょっとゆだんができないかもしれない。――だがほかのやつらはなっちゃねえ、芥子からしのきいてそうなやつは一人もいやしねえ。悠二郎は張合のないような気持で、幾たびもふんと鼻を鳴らした。
 彼の新しい生活が始まった。そのなかでまいったのは、行儀作法というやつと学問であった。一日いっぱい着物を着て、袴をつけて、小さいけれども刀を差して、そうして歩くにも坐るにも、姿勢をきちんと正していなければならない。――眼を正面へ向けて静かに歩く、坐ったら胸を張って両手をひざに置く。言葉は明瞭簡単に要点だけ云い、決してむだ口をきかない。食事はおちついて、皿小鉢やはしの音をさせない、くちゃくちゃむなどはもってのほかである。もしこれらの禁を犯すと、すぐさま「悠二郎――」と、父の叱陀しったがとぶのであった。
「悠二郎きちんと坐れ、着物のえりを合わせろ」
「口をむすべ、男はむやみに笑うものではない」
「静かに歩け悠二郎、廊下は馬場ではないぞ」
 悠二郎、悠二郎、悠二郎。ならん、いかん、黙れ、坐れとひっきりなしである。いちどやりきれなくなってお祖父じいさんに訴えた、虚木老はにやにや笑って、「おまえ兄の松太郎をどう思う」と反問した。彼は言下に答えた、「あんな真桑瓜まくわうりのできそくないなんか小指でちょいですよ」
「しかしその松太郎は、おまえが降参したことをちゃんとやっているではないか」
 お祖父さんはとぼけたような顔でこう云った。
「するとできそくないの真桑瓜はおまえのほうじゃないのか」
 ひとからこんな侮辱をうけたことはなかった。もしそれがお祖父さんでなかったら、くたくたにのして今戸焼のかまん中へたたっこむところである。悠二郎は口惜しさのあまりぽろぽろ涙をこぼし、それをげんこでこすりながら云った。
「おいらあ、できそくないでも、真桑瓜でもありゃしねえ、なんにも、降参することなんか、ありゃしねえや」
「そうかな、本当かな」お祖父さんはまたにやにや笑った、「――怪しいもんだな」
 彼は発奮した。意地っぱりならひけはとらない、ちきしょうと、歯をくいしばって頑張った。――もちろんそれほど難行苦行というわけではない、慣れてしまえばよいので、おまけによく注意すれば手足を伸ばす隙は幾らでもある。父が役所へでかけたあと、母の眼の届かないところで好きなだけ息抜きをすることができる。またその点では彼はもともと第一流の才があったから、そういう時とところを発見し、それを利用するのにてまひまはかからなかった。
 学問のほうは茅野道之助という同藩の侍が、初め三十日ばかり素読を教えにかよって来た。
 ――土井へ帰るとすぐの頃で、まだ満足に坐ることもできなかった。それが机に向って、書物をひらいて、相手の読むとおりに、一字ずつ口まねをして読むのである。……字はむやみにごちゃごちゃしているし、読むことがまるっきりちんぷんかんである。足はしびれるし、眠くなるし、面白いのは欠伸あくびが幾らでも出ることだった。
「行儀を正しくしなければいけません」
 茅野先生は眼をぎょろっと光らせた。
「膝をしゃんとしなさい、欠伸はいけません、せっかく学問をしても、欠伸をするとそこからみんな出ていってしまいます」
 悠二郎はふんと思った。出たがっているなら出してやればいい、むりに詰め込んで置くことはないじゃないかと思った。
「おれはさっきから欠伸を二十くらいしちゃったけど、じゃもうみんな出てっちゃったかね」
 茅野先生は顔を代赭たいしゃ色にし、ものすごい眼つきでこっちをにらみ、そうしてえへんとせきをして、さっさと素続をつづけた。――三日、四日、五日、ますますいやになり退屈になるばかりで、茅野先生の熱心なのがふしぎだった。
「こんなの読んで先生は面白いのかい」
 どうも不審なのできいてみたのである。少しもわる気はなかったのだが、先生はひどく怒ってぱたりと書物をしめ、これは面白ずくでやっているのではない、とおそろしくいきまいたようなことを云った。
「これは学問です、孔子さまという聖人のおしえなのです、有難い、ごくまじめな、尊い学問です」
 そうして滔々とうとうとなにか饒舌しゃべりだした。悠二郎はこいつはいいと思った、云ってることはやっぱりちんぷんかんだが、同じちんぷんかんなら聞いてるだけのほうが楽だ。第一また先生の代赭色になった顔や、自分ではよっぽどもの凄いつもりなんだろう、ぎょろぎょろ光らせる眼だまや、活溌につばきをとばして動く口など、こっちから眺めているのは相当に面白い。
 ――小梅の勝んべも怒るとつらがあんな色になりやがった、……あの眼だまは誰に似てるかしらん、瓦屋かわらやの熊だろうか。
 こういう連想もいろいろいてくる。
 ――ずいぶんよく動く口だなあ、休みなしにぱくぱくやってやがら、……そうだ、お父つぁんの飼ってる金魚ってのをまだ見てねえぞ。
 これは素読なんてへんなものよりいい、これに限ると思ったので、それからは飽きてくるとこの手を使った。
「孔子っていつごろのにんげんだい」
「敬称をおつけなさい、孔子などと呼びすてにしてはいけません、聖人といわれるくらい偉大な方なのですから、――孔子さまは今から二千三百年ほどまえの方です」
 これにはびっくりした。先生がやまをかけてるんだと思った。そしてそれが少しも掛値なしの年数だと聞いて、こんどは本当にびっくりした。
「へえーおっどろいた、そんなに古いとは知らなかった、へえー、そんなかね、だけどそんなに古い学問をおれたちがならって、まだなにか役に立つことがあるのかい」
 茅野先生そのときは、いつもよりずっと濃い代赭色になった。それで悠二郎はこいつはいつもよりずっと長く楽しめるなと思い、思ったとおりゆっくり楽しむことができた。――茅野先生は三十日かよって来たが、それで辞職して来なくなった。卑怯ひきょうにも告げ口をしたらしい、悠二郎は父からこっぴどく叱られ、廊下の板の上へ半日坐らされた。
「明日から学堂へゆくのだ、学堂でふまじめなことをすると、このくらいのことでは済まぬぞ」
 そういうことで、兄の松太郎といっしょに上屋敷の中にある藩の学校へゆくことになった。
 学堂では茅野先生を相手にするようにはいかなかった。生徒は七歳から十二歳までで、おめみえ以上の者の子供に限り、三十四五人いた。おめみえ以下の者は、それぞれ学堂の教官の私宅で教わるのである。学堂には校長のほかに教官が五人いた。校長は相良税所さがらさいしょという名で、身分は中老、しらが頭のごく温厚なひとであった。教官たちも怒りっぽいのと、妙に四角ばっているのが眼障りなくらいで、まずたいしたことはないと思ったのであるが、なかに一人とんでもないやつがいた。
 そいつは花田欣弥きんやなどという、いやに優しいみたような、思わせぶりな名まえだし、色の白い眉の濃い、なかなかの美男子でもあった。ところがそれがくわせ者であった。学堂へ通学し始めてから三日めに、彼は悠二郎を廊下へ坐らせ、拳骨でこつんと額をこづいた。
 五日めには濡縁のうえへ坐らされた。それはごつごつした木の丸いのを並べた縁側で、坐ると向うずねの骨がごりごりして、今にも骨がおっぴしょれるかと思われ、痛さのあまりしまいには眼がちらくらしてきた。――こんちきしょうと歯をくいしばり、とうとう「よし」と云われるまで我慢しとおしたけれど、恨み骨髄に徹し、いつかきっとこの返報をしてやる、と、心のうちに誓いを立てた。……それからも庭へはだしで立たされたり、残されたり、毎日なにか罰をくわされ、隔日にいちどは例の濡縁に坐らされた。
 それは入学して三十日ばかり経ったある日のことだが、授業が終って帰ろうとすると、花田先生が彼に「残っていろ」と命じた。ちえっ、また残されか。こう思って、うんざりして、机の前に独りぽつんと残っていた。――すると、やがて花田先生が来て、菓子の入っている鉢をそこへ出しながら坐った。
「露月堂の栗饅頭まんじゅうだ、喰べろ」
 そして自分がまず一つ取った。悠二郎はごくっとのどが鳴り、口の中へなまつばが出て来た。しかし黙って、そっぽを向いていた。
「私はもう明日から授業をしない、二三日うちに国許くにもとへ立つんだ、――おまえともお別れなんだから、一つ喰べて呉れ、それから話すことがある」


「喰べたくありません、饅頭なんか、だい嫌いです」
 そっぽを向いたままこう云った。花田先生は手に取った饅頭を鉢へ戻し、暫くこっちの顔を見ていたが、やがて、「よし」とうなずいて坐りなおした。
「私はもう少しおまえの面倒をみたかった、いまおまえを置いてゆくのは残念なんだ、おそらく普通ではおまえのいいところがわかるまい、ただ手に負えない悪童ぐらいにみられるだろう、それがこころ残りなんだ」
 先生はこう云って少し声を低くした。
「これはまだ極秘のことなんだが、おまえは近いうちに若君の御学友にあげられる筈だ。あがる者は七人いるが、そのなかでおまえと新泉小太郎の二人には、私がいちばん望みをかけている、おまえと新泉は、それぞれの能力で若君のお役に立って呉れなければならない、ほかの者とは違う、自分には責任があるということを忘れずに、しっかりやって呉れ」
 悠二郎はいやな気持になった。現在でさえ堅苦しくって息が詰りそうなのに、若君のお相手になんぞあがったらどうしよう。とんでもない、これは断わらなければいけないと思った。しかし花田先生は自分に反感をもっている、このひとに頼んでもだめだと考えて黙っていた。
「これで話は終りだ、おまえには少し厳しくし過ぎたかもしれないが、その代り、――これをみろ」
 花田先生はこう云って、自分の袴の裾をまくって両足の脛を出してみせた。まばらに毛の生えた、やはり色白の向う脛に、両方とも二寸ぐらいの幅で、赤くれたような条が四五段ずつ痕になっていた。――なんのことかわからない、ことによるとそれが血脚気というものかも知れない、悠二郎はそう思った。そしてその栗饅頭を貰って、まもなく家へ帰った。
 あとで聞いたところによると、花田先生は国許の藩校の教頭を命ぜられたのだそうである。代りの中野健之助という教官が来たが、これは若いのに眼鏡をかけた、土色めいた顔の少しむくんだ、老人のように咳ばかりしている先生だった。――悠二郎がまわりの者を小突いたり、髪毛をひっ張ったり、いきなり頬ぺたへ墨をぬたくったりして騒がせても、眼鏡をかけたそのたるんだような顔でこっちをのぞいて、「どなたですか、どなたですか」などとうさん臭そうに云うだけであった。
 悠二郎のほうでもだんだんこつを覚えてきて、その頃からは罰をくうようなことも少なくなったが、その代りほかにひとついやなことが始まった。それは新泉小太郎との対立である、――はじめはそんな者のいることなどまったく知らなかった。みんなうすのろとんかちだと思っていたが、花田先生から自分と並べてその名を聞かされて以来、いったいどんな野郎だろうと注意するようになった。
 ……そいつはまるっこい躯で、頬ぺたが赤くて、眉毛と口のいやにきりっとした、なかなか男前なようすをしていた。いつも唇を固くむすび、しんとしたような眼で先生の講義をじっと聞いたり、おちついたいい声でいやに上手に本を読んだりした。
「結構です、たいへん結構です」
 先生はみんなにこう云って褒めた。どの先生も小太郎がひいきらしい。
「これは新泉の書いたものだが、字というものはこう書かなくてはいけない、順に廻してよく見ておくがよい」
 そんなことが毎日のようにあった。父親の新泉宗十郎は次席家老だそうで、だから先生たちは特にひいきをしているんだ。こう思ってみたが、花田先生の云ったことが頭にひっかかって、どうにも気になってしかたがない。
 ――近いうち若君の御学友にあげられるだろう、そのなかでおまえと小太郎の二人に、いちばん望みをかけている。
 極秘だというし、こっちはそんな窮屈な役はまっぴらだから、まだ誰にも云ってはないし、なるべくそんなことにならないように――つまり優良児童だと誤解されないように――つとめているのだが、一方ではどうしても対抗する気持が出る。おれだって花田先生には望みをかけられているんだぞ、こう云ってやりたい気持でむずむずした。
 だがしゃくに障るのは相手の態度である、新泉小太郎はこっちを無視していた。乙にすましかえってまるっきりこっちを見ようともしない。もともと無口のほうらしいが、二度か三度こっちから話しかけたのに「そう」とか「いや」とか云うばかりで、ぜんぜん相手にしないのである。喧嘩をふっかけてやろうと思ってもそんな隙がないし、――なにしろいまいましくって、毎日の通学が苦になるくらいだった。
 兄の松太郎とはふしぎなくらい関係がなかった。同じ家に住みいっしょに学堂へも通っていたのだが、満足に口をききあった記憶もない。双生児は性質も似るというが、そうとばかりはきまらないらしい。兄は幾らかぼけているみたように温和おとなしくて、学校へ行け「はい」剣術をやれ「はい」、勉強しろ「はい」食事だ、寝ろ、起きろ、――一日じゅうはいはいと云いなり放題になっていた。こっちはどうしたってそんなぐあいにはいかない、自分でもたまにはおちついていようと思うけれども、少しながく坐っていると眠くなるか、耳の中でせみが鳴くような気持になる。手足がむずむずし始め、躯のそこらがかゆくなって、つい知らず外へとびだしてしまうのである。
「悠二郎が来てから家の中がめちゃめちゃになってしまった」
 父はよくこう云って眉をしかめた。たしかにそうらしいが、責任がどっちにあるかは問題だと思う。なにしろ此処ここは浅草の家と違って、大川もなければ舟もなし、見世物も草の原も砂利山もなんにもない。庭はあることはあるが、へんてこな石だの芝生だの植込だの池だの、こけのついた石燈籠どうろうだの、それぞれが尺で計ったようにきっちりと、いやによそよそしく配置してあって、木の枝ひとつ折っても「こらっ」とどなられる。
「その枝はそこの樹蔭を生かすために伸ばしてあったのだ、それを折ってはまるでみられなくなるではないか、おろか者」
 池のふちにあるへんてこな岩の、肩のところに出っ張があった。かたちが悪いからそいつを金槌かなづちで欠いて取ったが、そのときも同じような小言をくわされた。それから踏石、――玄関の脇の木戸口から広縁まで、平ぺったい石がとびとびに置いてある。それを踏んでゆくようになっているのだが、そいつがひどくぞんざいで、一つは左へ次は右へというふうに、へんに曲って置かれてあった。おそらく意地の悪い人間か眼の狂ったやつの仕事だろう――よし、たまには善いこともしてやるさ、悠二郎はこう思って、そいつを一列にまっすぐに置きなおした。たいして大きくも厚くもないが、重いことはべらぼうに重かった。彼は汗だくになり、終ったときには足がふらふらした。
 ひとに知れない善行というものは気持のいいものだ、悠二郎は父がそれを発見したときの、驚きと嘆賞の声を想像し、疲れも忘れてぞくぞくした。――が、その結果はまるで予期に反したものだった。どう予期に反したかは云わないほうがいいだろう、……要するに彼は父の見ている前で、もういちど汗だくになって、その踏石を元のように置きなおさなければならなかった。
 庭の土を掘っていたら慈姑くわいが出て来た。山の手というところはきてれつなことがあるもんだと思って、掘れば幾らでも出て来るので、三十五六も掘りだしたら、そいつは水仙の球根だったので怒られた。また春さき庭の一隅にえたいの知れない芽が出た、きみの悪い色をしたやつがにょきにょき出たので、毒の草かなにかだと思って、きれいにひっこ抜いてやったところが、それは芍薬しゃくやくの芽だそうで、これにもいっぱいくわされた。
 金魚のときはもっとひどくやられた。
 父の居間のある広縁のさきに、水蓮を浮かせた大きな鉢がある、そいつは高さが二三尺に周囲が十二三尺くらいで、父はその中で金魚を飼っていた。薄い緑色に濁ったきたならしい水の中に、赤と白のまだらなやつが十尾ばかりいるらしい。水蓮の葉の蔭とか、濁った水を透して、いつもそいつらは妙にのたのたと、草臥くたびれたような泳き方をしていた。
「お父さまが大切にしていらっしゃるんですから悪戯いたずらをしてはいけませんよ」
 母は心配そうにくどくこう云った。――見ているだけならいいので、側へいっては眺めたのである。そいつらは大きくて肥えていた、なかには五寸よりもっと大きいらしい、頭のところが瘤々こぶこぶで、胴がまりみたいに肥えてひどくぶざまなのもいた。そいつらはらんちゅうとか獅子頭ししがしらとか云うので、育て方がひじょうにむずかしく、父の丹精は誰にもまねのできないものだったそうだ。……父はそいつらを御殿へ献上するので、いっそう大事にするということであるが、それはそうかもしれないが、悠二郎は父が案外な手ぬかりをしているのを発見した。それはなにかというと、父は大事にするあまり、金魚どものひれや尾が伸びすぎているのに気がつかない、だからそいつらは鰭や尾が邪魔になって、満足に泳ぐことができないのである。――まるで赤ん坊が振袖でも着たように、躯をくねくねさせ、のたのたした草臥れたような恰好で、重たそうにやっとこさ泳ぐのである。
 悠二郎はそいつらが可哀そうになった。そこではさみを持って来て、一尾ずつ捉まえて、その伸びすぎた鰭や尾をちょうどいいくらいに切ってやった。――そうして七尾めを切ってやっていたとき、団栗まなこの黒板権兵衛にみつかったのである。彼は殺されるような声で叫び、まず母がとんで来た、それから家扶の渡辺老、兄の松太郎、誰も彼もみんな、家じゅうの人間が集まって来たには驚いた。
「私たちだって髪毛や爪が伸びれば、切るんですから、金魚だって可哀そうじゃないでしょうか」
 こう説明したけれども父はむやみに怒って、とうとう三日のあいだ暗い納戸で謹慎させられた。


 悠二郎が若君の正篤まさあつと初めて会ったのは、明くる年の三月のことであった。――そんなことにならないように、自分ではかなり努力したつもりだったが、その甲斐かいもなく「御学友」にあげられてしまったのである。
 浄松院という先の殿さまは、六年まえに二十三歳で亡くなられ、若君はまだ任官こそしないが、そのときすでに六万三千石の藩主であった。生母は清香院といって、幕府の連枝れんしの松平の出であり、その実兄に当る松平外記が後見になった。――政治は合議制で、江戸と国許の全老職が参画し、そのなかで土井勘右衛門は若君の御養育を兼ねていた。
 若君はそのころ信太郎といったが、悠二郎たちは「若さま」と呼ぶように注意された。――若さまは大きい表御殿とはべつに、奥庭の高みにある日月亭に起居していた。そこはまわりに松や杉の林があり、花畑や広い芝生などもあった。いちばん高い丘へ登ると、西は溜池から赤坂台から山王の森などがひと眼だし、東は表御殿の屋根の間から、京橋方面の下町が眺められる。……またそこを西へ下り、かこいの笠木塀かさぎべいを越えると、一段ずつ果樹畑とか菜園などがあって、いちばん下は小さな流れのある谷底のようになっている。そこが屋敷境で、高い築地塀の向うは黒いような森の茂みだった。
 ――若君はおない年の八歳だった。蒼白あおじろいようなせた躯で、眉毛と眼の間のはなれた、ぼうっとした顔つきだった。動作ものろくさしているし、舌っ足らずな口をきくし、見ているとじれったくなるばかりだった。
 ――こんなのがばか殿になるんだな。
 悠二郎はこう思ったので、お相手などまじめにする気持がなく、たいてい独りでとびまわっていた。花田先生の云ったとおり、選まれたのは七人で、むろん新泉もその一人だった。――かれらは朝八時にあがり、午後三時にさがる。朝のうち講話と素読と習字をし、午後は剣術の型の稽古があって、そのほかは庭で遊ぶという日課だった。そして七日にいちどずつ休みがあった。
 悠二郎は素読も習字もいやだったが、講話と剣術は好きだった。講話というのは古今の名将勇士とか合戦物語などで、浅草寺の境内でやっていたつじ講釈に似ていた。それで、ことによると知り合かもしれないと思って、「先生は頓珍軒鈍斎とんちんけんどんさいってひと知ってますか」ためしにそうきいてみた。すると、それはどこのなに者だと聞くから、浅草の辻講釈だと云ったら、先生は怒って講話を途中でよしてしまった。
 御殿へあがりだして三度目の休みの日であったが、お祖父さんが「聖堂へゆこう」といって、朝早くいっしょに屋敷を出た。家へ帰ってから初めての外出である、それだけでも嬉しかったのに、聖堂へはゆかないで、浅草の舟仙へつれてゆかれたにはびっくりした。
「黙っているんだぞ、内証だぞ」
 お祖父さんはこう念を押した。
 舟仙では悠二郎を見ておつねが涙をこぼした。五つになったおみつは忘れたものか、くりくりした眼でこっちを眺め、側へ来ようとはしなかった。悠二郎は手早く袴をぬぎ着物をぬいで、「母ちゃん、おいらの着物出して呉れよ」こう云いながら髪の毛もほどいた。
「そいから頭も前のようにして呉れねえ」
「まあ坊ちゃんそんなこと仰しゃったって、まさかあなた」
「いいから好きなようにしてやれ」虚木老はこう云って笑った、「――半年も辛抱した息抜きだ、好きなように暴れて来い」
 筒袖の脛っきりの袷に三尺、頭もちょいとひっくくっただけの、実にさばさばした恰好になった。
「わあすげえ、こいつはすげえや」
 彼はとびあがって叫んだ。
「腰んとこが軽くって躯が浮いちゃいそうだ、屋根まで跳びあがれそうだ、わあすげえ、――母ちゃん、吉べえいるかい」
「舟は危のうございますよ」
 おつねがそう云ったときには、彼はもう土間から外へとびだしていた。――吉べえという若い船頭を呼びだし、舟を出させて向う河岸がしへいったまま、昼飯まで帰らなかった。そしてようやく帰ったときには、片方の眼のまわりを紫色に腫らし、頬ぺたに三条もひっ掻き傷ができていた。
「勝んべの野郎に貸しがあったんだよ」
 彼は茶漬をかきこみながら云った。
「小梅にゃもう一人いるんだけど、逃げちゃって出て来やしねえ、こんだ瓦屋の熊んとこへいくんだ、喧嘩じゃねえよ観音さまで遊ぶんだ」
 薬をつけてやる暇もなく、喰べ終ると箸をほうりだして出ていった。――虚木老は虚木老で深川あたりへでかけたらしい、三時すぎてから、いいきげんに酔って帰ったが、悠二郎はそれよりずっとおくれて、泥まみれになり、千切れた片袖をぶらぶらさせて帰って来た。
「その顔はどうしたんだ、冗談じゃない」さすがの虚木老もうなった、「――おれたちは聖堂へいったことになっているんだぞ、聖堂でおまえそんな、……冗談じゃない、だがまあ早く支度をしろ、帰りがすっかりおくれてしまった」
 舟仙を出るとき、おみつが門口から顔を半分のぞかせて、にっと笑いながら云った。
「悠ちゃんのあんちゃん、また来てね」
 悠二郎は黙ってさっさっと歩きだした。
 そのときは虚木老がうまいぐあいにごまかした。聖堂を出るとき石段でころんで、眼のまわりをそんなにし、また枸橘からたちの垣根で頬をひっ掻いたといった。信用したかどうか、父は黙っていたし、母もなんにも云わずに薬をつけて呉れた。
 それから月にいちど舟仙へ出かけた。また三社祭りとか両国の花火とか、四万六千日とか草市などの、なつかしい行事のあるときには、定った日のほかにもれて出て呉れた。
 若君と話をするようになったのは、その年の初秋のころだった。それまで若君は新泉にばかりくっついていて、彼などには眼もくれなかった。こっちはそのほうが有難い、暇さえあれば勝手にとびまわって、そのじぶんはもう広い上屋敷の隅から隅まで知っていた。――七月はじめから小太郎が出て来なくなった。病気だということで、若君のひどく淋しそうなようすが眼についた。悠二郎はそのとき初めて声をかけた。そうして若君の気をまぎらせてやろうと思って、耳へ口を押しつけてささやいた。
「魚をしゃくいにゆきましょうか」
 若君はけげんそうな眼をしてこっちを見た。
ふなだのえびだの獲れるんですよ、面白いぜ」
 ほかのやつらには内証だからと云って、しめし合せて、例の屋敷境の谷へ下りていった。若君は笠木塀を乗り越えるとき泣きそうになり、台地を跳び下りるときひざ擦剥すりむいた。動作がのろくさして不器用で、つい舌打ちをしたくなった。
「もっとてっとり早くしなくちゃだめですよ、擦剥いたとこなんかうっちゃっときなさい、番人にみつかるとたいへんなんだから」
 最後の菜園の、石垣を跳び下りると、その石垣のひとところ崩れた穴から目笊めざるを取り出した。
 ――若君は不安そうにまわりを眺めまわしていた。うす暗くてじめじめした、狭い谷底のような景色にびっくりし、また不安で気持がおちつかないらしい。悠二郎はさあこっちですよと云って、あしを掻きわけて流れのところへいった。幅三尺ばかりの、ほんの浅い泥溝どぶ川であるが、溜池ためいけに続いているので、そっちから小さな魚や川蝦がのぼって来るのである。悠二郎は慣れたようすで袴の股立ももだちをとり、はだしになって流れの中へはいると、たちまち小鮒を一尾すくいあげて来た。
「ほらね、獲れたでしょ、こいつはきんこってんだぜ、金色に光ってるだろ、金鮒ともいうけど、小梅のやつらはきんこってえんだ」
 彼は小鮒を五尾と川蝦を三つばかり獲った。若君にはまったく初めての経験で、そのときはただ驚くばかりだった。眼をまるくして、ばかにでもなったような顔をしていた。
 その翌日のことであるが、遊び時間になると若君が彼を呼んで、「若のところにも魚がいるよ」と云った。そこでいっしょにいってみると、小さな泉水に金魚が泳いでいた。――それはらんちゅうとか獅子頭とかいう例のぶざまなやつで、父の献上したものだということがすぐにわかった。悠二郎は急にきな臭いようないやな気持になり、脇のほうへ唾を吐いて、ちえっこんなの、と、しかめ面をして云った。
「こいつらはみんな片輪者ですよ、女の観るもんだぜ、こんなの面白いのかな、なっちゃねえな」
 若君は途方にくれたような顔で、しょげていた。
 二日ばかりして、彼はまた若君をさそってしゃくいにいった。三度めには若君のほうからゆこうと云いだした。面白くなったらしい、笠木塀を乗り越えるのも、台地を跳び下りるのも、番人が来たときの隠れ方も、だんだんいたについてきたし、自分でも流れにはいってしゃくうようになった。
「本当はこんなもんじゃないんだぜ、橋場の川へゆきゃあはやだの鯉っ子だの、こんなでけえのが山と獲れるんだぜ――おれなんか綾瀬川でなんべんも鯉を釣っちゃった」
「――そこへは、若もゆけるの」
「いかれやしねえさ、いけると面白いんだがな、芝居もあるし、観音さまにゃあ軽業もかかるしよ、ろくろっ首って見たことがあるかい」
「――若はいつか、……いつか、能を観た」
 そんなぐあいに話もするが、たいていちぐはぐで、悠二郎はいつも軽侮に堪えないという顔をし、それから気の毒になって、自分の楽しい経験を詳しく物語るのであった。
 新泉が出て来はじめると、若君はまた新泉をひきつけて離さなかったが、悠二郎にもうとくはしなかった。ただ二人がどうしても折り合えないということは察したとみえ、悠二郎には決して新泉の話をせず、新泉に悠二郎のことは黙っていたようだ。
 若君を屋敷からぬけ出させて、浅草界隈かいわいの面白いところを見せてやりたい。悠二郎はその頃からよくそう空想していた、もちろん空想するだけで、実際にやろうとも思わなかったし、そんなことが出来るとも考えなかった。しかしやがて機会がやって来て、その夢のような空想が実現できるようになったのである。


 若君が十二歳になった年、六月から八月いっぱい、本所の下屋敷ですごすことになった。躯が虚弱なので、医師と勘右衛門の主張で定ったらしい。女をひとりも置かず、侍もごく僅かで、学問も他の稽古もなく、七人のお相手と遊び暮していればよかった。――その下屋敷で、悠二郎は巧みに機会をつかみ、若君を外へぬけ出させたのであった。
 そこでは万事がゆるやかだった。養育係としては勘右衛門がいるだけだし、御殿の造りも、塀がこいも簡略で、隠れて出入する隙は幾らでもあった。たいていは若君に「気分が悪い」と云わせ、寝所へはいるふりをして出かけるのである。それにはお相手のなかの原精一郎というのを身代りに寝所へ寝かして置いた。精一郎はずぬけたくいしんぼうで、いつも一袋の菓子で買収することができたのである。――悠二郎はぬけ出るとまず舟仙へゆき、そこで若君にも着替えをさせ、そうしてほうぼう伴れまわった。舟仙の者には若君を友達の信太郎だと紹介し、かれらの前では「おい信ちゃん」などと呼んでみせた。若君のほうにはこっちを「悠公」と呼ばせ、それで幾分かは階級をつけるつもりだったが、どうしても若君はそれに慣れず、しまいまであいまいに「おい」とか「ちょっと」とかいうふうにしか呼ばなかった。
 悠二郎は小梅の勝んべをなぐるところもみせた。魚の釣り方も、池のかいぼりも、大川で泳ぐことも教えた。若君もだんだん身軽に動けるようになり、わる悪戯をして追っかけられるようなばあいでも、なかなかすばやく巧みに逃げられるようになった。――向島の長命寺の近くへいったときのことだが、寮めいたある家の側でふと思いだし、「ちょっと待ってな、たしかこの中だと思ったが、いまうめえ物を取って来てやるからな」
 こう云って悠二郎は、生垣の隙から庭の中へもぐり込んだ。そこでまえに桑の実を取ったことがある、少し季節がおくれているが、場所は慥かにそこだと思ってはいった、するとはたして大きな桑の木があり、り盛りは過ぎているが、黒い実がまだかなり残っている。――悠二郎は両手でそれを摘み取り、ふところへ入れてはまた摘み取った。と、とつぜん、
「この野郎、また庭を荒すか」
 こう叫びながら、下男のような男が棒を持ってとびだして来た。悠二郎はすばやく生垣の隙から外へぬけ、「早く早く」と、若君をつきとばすように逃げだした。――水戸屋敷のところまで息もつかずに走り、そこの土堤どての下で、ふところから桑の実を出して二人で喰べた。
「うまいねえ、こんなうまい物は初めてだ、これなんの実なの」
「桑の実さ、こいつを喰べると口ん中じゅう紫色になるんだ。ほら見てみな、ね」
「本当だ、若のもなってるかね」
 二人は互いに口や舌を見せあい、おはぐろを付けたようだと笑いあった。
 九月に上屋敷へ帰ると、若君は庭師に命じて桑を二本植えさせた。庭師はそんなものはお屋敷の庭へ植えるものではないと云い、なかなか承知しなかったが、若君がどうしてもきかないので、それでは内証ですからと云って、日月亭の裏のところへ二本植えた。
「こっちは若、こっちはおまえのにしよう」
 若君は悠二郎にこう囁いた。
「これから毎年二本ずつ植えるよ、そうしてたくさんになったら、家中の者みんなに食わせてやるのさ、みんなうまいのでびっくりするよ」
 明くる年も下屋敷でさかんにぬけ出した。
 その翌年からは十二月にも、ひと月だけ下屋敷ですごすことになり、夏とは違ったいろいろの経験をした。――桑の木は一年に二本ずつ植えてゆき、初めに植えたのは、三年めから実が生りだした。
 若君は十六歳の春、後見を解かれ、摂津守せっつのかみに任官して正篤と名のり、松平玄蕃頭げんばのかみの女で、十七になる順子よりこと結婚した。
「お祖父さまこんな乱暴なことがありますか」
 悠二郎は心から怒って、祖父に向ってこう詰問した。
「先殿もそのまえの殿も若死をなすっていらっしゃる。それはみんな早く結婚するためじゃありませんか、準斎先生も早婚はその者の躯にもよくないし、生れる子も劣弱になり易いと云ってますよ、そのくらいのことがお祖父さまにはおわかりにならないのですか」
「わかっているさ、――みんな、おそらく誰だって承知しているだろう」
「ではなぜ黙っているんです、どうして止めようとなさらないんです。向うは女の十七でいいだろうけれど、若さまは十六でもおくのほうじゃありませんか」
「だがこれだけは、どうにもならないんだ」
 そして虚木老は語った。五代まえから、ふしぎに藩主が若死をする、光覚院というひとから先代の浄松院まで、たいてい二十二か三で病死してしまう。そのころ大名の家では早婚が通例であって、名目だけにしても十三四で結婚するものさえ少なくはない。――そのためもあろう、同時に医者のみるところでは、躰質的な遺伝のようなものもあるらしい、室井準斎は浄松院をも診た医者であるが、若君信太郎の躰質に、父と共通した点が多いことを指摘している。
「人間の寿命はわからない、どんな名医にも人間の寿命を当てることはできまい、しかし五代も続いて早逝し、躰質が似ているものとすれば、――おそれ多いことだが、いちおう御短命とみなければならぬ」
 そこで問題になるのは継嗣けいしのことである。六万三千石の所領と、家名血統と、ひいては全家臣たちのためには、どうしても世子がなくてはならない。少しは愚かであろうと、弱かろうと、世継ぎだけは必要なのである。
「そんなばかなことがあるもんですか、幾らお世継ぎが必要だからって、そんな、――それじゃあまるで若さまのお命を、短いうえに短くするようなものじゃありませんか」
「人間は生きた年数だけで長命か短命かがきまるものではない」
 昂奮こうふんしている悠二郎を見て、虚木老はなだめるかのようにこう云った。
「土蔵の中で百年生きるのと、市中で三十年生きるのと、その経験したことを比較してみるがいい、どちらが長く生きたことになるか、――悠二郎、わかるだろう」
「いいえ、わかりません、それが若さまとなにか関係があるんですか」
 虚木老は苦笑して、勘のにぶいやつだとつぶやき、わからなければよく考えろと云った。
 正篤は表御殿へ移り、お相手役は解かれて、悠二郎と新泉とくいしんぼうの原と、三人があらたに側扈従そばごしょうとなった。――悠二郎はその当座しきりに、正篤に向ってそれとなく早婚のよくないことを説いた。明らかには云えないから、ほかに例をとって話したのだが、正篤もそれと感づいたとみえ、「おれのことなら心配しなくともいいよ」こう云って微笑した。
 順子姫の輿入こしいれは三月中旬に行われた。しかし正篤は表御殿で寝起きをし、やむを得ない行事のほかは奥へはゆかなかった。――そのことではかなりむずかしいゆくたてがあったらしい。正篤の母の清香院にとっては、順子は血縁つづきであり、またひじょうな気にいりで、その縁組も彼女の意志でまとめたものだといわれる。――もうひとつはやっぱり早く世継ぎも欲しかったろうし、寝所を奥へ移すようにと、かなりやかましい督促があった。そのあいだに立って、勘右衛門と室井準斎がいろいろとりなしをし、正篤の躯が不調だからという理由を主にして、ごく自然に延期していったもようである。
 その年も六月になるとすぐ下屋敷へ移り、早速またぬけ出しを始めた。舟仙ではみんな待ち兼ねていたが、なかでもおみつはこれまでにないよろこびようで、「おそろいの浴衣をこしらえといたのよ」などと云って、自分で浴衣や三尺を出して来て、側に付いていて世話をやいた。
「悠ちゃん、三尺はもっと下へ締めるものよ、信さんももう少し下になさらなくっちゃ、――そう、ええ、いいわ、わりと柄も似合うわ」
 そんなふうに大人びたことを云った。家のしょうばいがしょうばいだし、下町も浅草育ちだからませるのだろうが、去年から見ると背丈も伸び、顔だちも目だってきれいになって、十三という年より一つ二つ上にみえた。
なまを云ってやがら、自分で仕立てたわけでもねえくせにして、あっちへいってろよ、うるせえ」
「縫やあしないけど柄はあたしの見立てよ」
「道理で田舎っ臭えと思った、おめえなんぞまだそんながらじゃあねえよ、おしゃぶりでもしゃぶってあねさまごっこでもしているがいいのさ」
「いいわよ、気にいらなきゃ脱いで頂戴」
「お情けで着てやるよ、可哀そうだからね、母ちゃん、舟借りるぜ」
 正篤を促して河岸へとびだすと、おみつが追って来てまた世話をやいた。
「その舟はだめよ悠ちゃん、だめなのよ、こっちの舟にしなさいよ」
「黙ってろ、うるせえ、素人じゃねえんだ」
「偉そうなこと云うわね、そんならやってごらんなさいよ、いいお慰みだわ」
 二人の口喧嘩にはもう正篤も慣れている。仙吉夫婦も向うで笑いながら見ていた。――なにってやんでえ、こっちがよっぽどお慰みだと、もやいを解いて、さおを使って舟を川へ出した。もうよかろうと、艪臍ろべそをしめそうとしたが、そこが取れて無くなっているので唸った。
「どうしたの、がないの、悠ちゃん」
 河岸からおみつがそう叫んだ。
 その年は舟仙の家でよく遊んだ。大神楽だとか講釈師だとか、手品師とかおとしばなしとか俗曲などの芸人を呼んで、二階をぶっとおして近所の者も招いたりして、にぎやかに見物した。――もうそれまでに浅草寺の奥山で、その種のものはたいてい見ていたが、そういう座敷へ来る者の芸はまたべつの味があり、正篤はひじょうに楽しそうなようすだった。


 上屋敷へ帰る日が近づいてから、おみつは悠二郎と二人きりのとき、さぐるような眼つきで彼を見ながら云った。
「なんだか今年はようすがへんね、いつもと違って信さんをばかに大事にするし、外へ出てもあんまり乱暴なことしないじゃないの」
「おめえなんぞの知ったこっちゃねえよ」
「信さんだって迷惑そうだったわよ、いつかあたしに、今年は悠ちゃんへんだって、へんにうるさくするって、そ云ってたわよ」
 悠二郎はどきっとした。おみつのさぐるような眼から顔をそむけ、よし、そんなこと云やあがったら、あいつ、――などと云ったものの、胸がふさがるような思いで、おみつの側から逃げだした。
 その年は十月になって、思いがけない帰国の許しが出た。参覲さんきんいとまで正篤にとっては初めての国入りである。まだ一二年はその沙汰もあるまいと思っていたし、出立までの日数が少なかったので、家中はいっとき眼の廻るような騒ぎだった。――正篤は悠二郎に、こっちに残っていろと云った。おまえを江戸から離すのは可哀そうだし、おみつが淋しがるだろう、などとも云った。しかし悠二郎はてんで聞こうともせず、正篤に付いて出立した。
 国許にはちょうど一年いた。高い山が東と北に峰をつらね、城下の近くに瀬の早い川がながれていた。城は丘陵の上にあり、森のような樹立に囲まれているが、地盤が高いので眺望はひろく大きかった。
 悠二郎はその眺望にはまいった。雪をかむった山々の峰が、鋭くとがってはっきり見える、雨風にさらされた、灰色めいた、うらさびれたような町の家々、その向うをながれている川の、早瀬のところのあざやかに白い泡、そして遠くうちひらけている荒地や田には、一日じゅう溶けない薄氷が張っている、――どっちを見てもそんな景色で、見るたびに江戸が恋しくなり、気持が沈むのに降参した。
 花田先生とはゆくとすぐに会った。相変らず色白のおとこまえだが、少し肥えて態度もずっと穏やかになっていた。――新泉と二人でいちど遊びに来いと云われ、二人で訪ねて昼餉ひるげを馳走されたが、こっちへ来るとすぐ結婚されたそうで、やさしそうな妻女と小さな男の子がいた。
「うん、よし、いいだろう、だいたい思ったとおりだ」
 二人のようすを見て、花田欣弥は微笑しながらそう云った。新泉はそ知らぬ顔をしていたが、悠二郎はてれくさくなってくびでたりそらぜきをしたりした。おまえと新泉の二人に望みをかけている。と、いつか花田先生は云ったが、今の言葉はそれにつながるものに相違ない。とすればとんでもないはなしで、それどころではございませんと逃げだしたいくらいだった。
 一年の在国ちゅう、正篤の性格に一種の変化が起こった。
 あとで思い当ったことだが、帰国するとすぐ菩提所ぼだいしょの大竜寺へ展墓をし、それから間をおいてしばしば寺を訪ねた。その前後から気分にむらがではじめ、陽気に笑う日があるかと思うと、ひどく憂鬱に黙りこむ日が続く。するとまた急に元気になって、鷹巣山へ遠乗りをしようと云いだしたりした。――沈んだようすのときは顔つきまで暗く、蒼ざめて、眉をしかめて、なにか痛みを堪えてでもいるような、苦しげな表情になった。
「どうかなすったのですか、お躯のぐあいでも悪いのではございませんか」
 あるとき悠二郎がそうきいてみた。正篤は不意におどかされでもしたように、ぎょっとした眼つきでこっちを見た。それから唇をゆがめて笑い、頭を振りながら云った。
「いやなんでもない、――大丈夫だ、郷愁というのだろう、ときどき江戸へ帰りたくなる」
「はあ、それは、しかしそれだけでございますか」
「おまえ帰りたくないか」正篤はこう云って、脇のほうへ眼をそらした、「――江戸へ帰って、また舟仙へゆこう、みんな待っているだろう、今ごろおみつはなにをしているだろうな」
 悠二郎は身につまされ、ほっとすると同時に、せっかく忘れようとしているものを思いださせられて、いやな心持になった。
 これもそのじぶんのことだが、花田欣弥が靖献遺言せいけんいげんの講義をすることになった。だいたい五十回ばかりの予定で始めたのであるが、第一日の講義を半刻はんときほど聴いたとき、とつぜん「ああ」という奇妙なうめきのような声をあげた。――悠二郎はとっさに眼をあげたが、正篤は蒼ざめ、いつもよりもっと鋭く眉をしかめ、一種の捉えがたい歪んだ表情になっているのを見た。だが正篤は自分の声に自分でびっくりし、とまどいをしたように、「いやなんでもない、続けて呉れ」こう云ったのであるが、そのあとでも聴いているようすはなく、講義はそれきりでやめになった。――その後もときどき妙なことがあった、話をしていて急にちぐはぐな返辞をしたり、ふっと黙りこんでしまったり、いきなり外へ出ようと云ったりして、まわりの者をまごつかせた。けれどもそれは、ときたまのことであるし、かくべつ異常にみえるほどでもなかったので、悠二郎もたいして気にかけはしなかったのである。
 江戸へ戻ったのは翌々年の三月であった。そして参覲出府の式――国産の献上物を持って将軍に謁見えっけんすること――が済むとすぐ、正篤は軽い風邪をひいて寝た。旅の疲れも出たのであろう、長くて四五日と思われたが、そのまま五十日ばかり病間を出ることができなかった。
 悠二郎は殆んど詰めきりでおとぎをした。むろんお伽や宿直とのいはほかにもいたが、彼と新泉と原の三人はいつもお側去らずで、ことに悠二郎はその期間ずっと家へ帰らなかった。――新泉や原は五日にいちどずつ家へ帰るし、夜も正篤に云われれば部屋へさがって寝た。しかし悠二郎だけはそういうばあいでも宿直より遠くへは決してさがらなかった。……正篤もくどく「さがれ」とは云わなかった。二人きりになれば舟仙を中心にした話ができる、そのときだけは気が紛れるらしい、声をだして笑うことさえしばしばあった。
「あの話には驚いた、とうてい本当とは思えなかった」
 あるとき正篤はふと思いだしたというふうに、こう云って笑いながらこっちを見た。どうも顔の一点をじろじろ見て笑うので、悠二郎は例の如くてれて、なんの話ですかときいた。正篤は自分の鼻を指さした。
「おまえの鼻の穴がどうしてそんなに大きくなったかという話さ、おつねにすっかり聞いたんだよ」
「えっ、ああ――ああそればかりは」
「そればかりはと云ったって本当なんだろう」
「覚えがないんです」悠二郎は赤くなり、むきになって弁明した、「――ぜんぜんです、自分ではこれっぽっちも覚えのないことなんです。これだけは誰にも話さない約束だったんですが、……ひどいやつだ」
 正篤は笑って、そして激しく咳きいった。
 だが、こういう会話はだんだん少なくなり、正篤のようすは日の経つにしたがって憂鬱の色を増した。悠二郎の話を聞いて笑っても、それが心からの笑いでないことがわかる。沈んだ顔色をして、ともすると黙りこんで、ぼんやりどこかを眺めるというふうなことが多くなった。――病気が悪くなったのかと案じられたが、医者はむし恢復かいふくしつつあると云っていた。そのうち悠二郎はふと、正篤が国にいるじぶんから、幾たびもそんなようすをみせたことを思い出し、そこになにか理由があって、そうしてそれが現在まで糸をひいているのではないか、と、想像してみたりした。
 れがたから雨になったある夜のこと、ちょうどまた二人きりのときだったが、とりとめのない話がふととぎれて、どちらもいっとき、しんしんとひさしを打つ雨の音に聴きいっていた。そしてかなり経ってから、正篤は枕の上で仰向いたまま、喉にからんだような声でこう云った。
「悠二郎、おまえ浅草へはいつゆくんだ」
 それはもうたびたび云われることであった。悠二郎はさりげなく、いつものように答えた。
「もう本復ものないことですから、ごいっしょにお供を致します、独りでまいっても面白くはございません」
「そうではあるまい、浅草へもゆきたいが、おれの側を離れることができないのだろう」正篤の声はとげのある調子に変った、「――おまえは知っているのだ、それで、おれがいつ死ぬかもしれないと思って」
「なにを仰しゃるのですか」
 悠二郎はぎくっとし、慌ててさえぎろうとしたが、正篤は冷笑するように続けた。
「隠すことはない、おれも知っているのだ、大竜寺へ展墓にいったとき、寺の日鑑をみてすっかりわかったのだ、五代まえの先祖から、わが家の男子はみな若くて死ぬ、父上もお祖父さまもひいお祖父さまも、みんな二十から二十二三で亡くなっている、――おれに早く奥を迎えさせ、早く世継ぎのできるように強いたのも、母上や老臣どもがおれの短命だということを知っていたからだ、そうではないか、悠二郎」
 悠二郎には口がきけなかった。両手で袴をつかみ、頭を垂れ、こみあげてくる涙をけんめいに堪えていた。
「みんなには、おれの命よりも、世継ぎの有無のほうが重大だ、――たとえそのために、おれが寿命を早めることになっても、世継ぎをつくることができれば、そのほうがみんなのためにはよい、……そうではないか、悠二郎」


 悠二郎はそこへ手をついた。そうしてできるだけ静かな調子で云った。
「私は殿が若死をなさるとは思いません、御代々が御短命だからと申して、殿も御短命であるとは定りは致しません、私は殿は御長命でいらっしゃると信じております」
「おまえが信じるだけでおれの寿命が延びると思うのか」
「私はいつぞや祖父からこのようなことを聞きました」悠二郎は構わずこう続けた、「――人間は生きた年数だけで、長命か短命かがきまるものではない、土蔵の中で百年生きるのと、市中で三十年生きるのと、その経験したことを比較すれば、市中で三十年しか生きないほうが、事実は長命したといえるではないか」
 正篤は眼をつむり、息をひそめるようにした。悠二郎は言葉をつよめて云い継いだ。
「私は祖父の申すことがそのときはわかりませんでした。しかしもなく合点がまいったのです、殿の御身分としては、殿はこれまでにもかなり桁外けたはずれな御経験をなさいました、――庶民と同じ姿になって、浅草の見世物もごらんになり、大川へ舟を出して、自由に泳ぎもし釣りもあそばしました、向島から小梅あたりの悪童どもと、いっしょに遊んだり喧嘩けんかをしたり、……他の方々、御殿の中だけで成長なさる方々には、とうてい見も聞きもできない経験をなすっておいでです。そうではございませんでしょうか」
 悠二郎は思うことを的確に云えないもどかしさにあせり、肩を揺すったりせかせかと膝を撫でたり、そしてしきりにどもった。
「人間の寿命はそなわったものだと申します、仮にもし殿の御寿命が二十三までと致しましても、それまでにできるだけ広い多くの経験をなさり、充実したゆるみのない生活をあそばすとすれば、なすこともなく百年生きるより、はるかに、本当に生きたと申せるのではございませんか」
 正篤はいつか眼をあけて、暗い天床の一隅をじっと見まもっていた。更けた夜のしじまには、庇を打つ雨の音が、さむざむとひそかに聞えてくる。――悠二郎はもう言葉を選むひまもなく、おもいの口を衝いて出るままに云った。
「殿にもしものことがあれば、そのときは、悠二郎もお供を致します、決して、殿ひとりお死なせ申しは致しません、――人間はいつかはみんな死ぬのです、おそかれ早かれ、いずれはみんな死んでゆくのです、……殿、死ぬことをお考えなさいますな、大事なのは生きているうちのことです、できるだけ充実した生きかた、広く深いゆるみのない生きかたを考えましょう、そのときが来るまで、生きられるうちに充分に、生れてきた甲斐かいのあるように生きることを考えましょう」
「――わかった、よくわかった」
 正篤はやや長い沈黙のあとでこう云った。
「――生きられる限り生きよう、おまえの云うとおり、大事なのは生きることだ、悠二郎、――おまえだけは、どんなことがあってもおれから離れて呉れるな」
「どんなことがありましても」悠二郎はあかしを立てるように云った。
「――この世は申すまでもなく、あの世へも、決してお側を離れは致しません」
 正篤が手を伸ばした。その手を悠二郎は両手で受けた。雨は少しのやみまもなく、しんしんと庇を打っていた。
 医者の云ったとおり正篤の病気は順調によくなり、五月中旬にはとこばらいをした。そうして医者の進言もあり正篤の望みで、すぐ下屋敷へ静養のために移った。――まえのことがあってから、正篤はもう憂鬱なようすをみせず、寧ろ起ち居は元気になり、顔つきも明るく大胆になった。下屋敷へ移って四五日すると、
「悠二郎、暗くなったらでかけるぞ」
 こう囁いて、その日初めて、夜になって屋敷をぬけ出した。もう年も十八であるし、任官した藩主であったから、ぬけ出すにも以前ほど周囲の者に気をつかう必要はない。しかし正篤はそれでいい気になるというふうはなく、二日おき三日おきくらいにでかけ、夜もあまり更けないうちにきちんと帰った。
 おみつはもう十五歳で、みかけもすっかり娘らしくなったが、生来のませた気持はみかけよりずっと大人びていて、二人を弟かなんぞのように扱った。
「いい若いがなによ、たまにはなか(吉原)へでもいってらっしゃい」
 などと、きいたふうなことを云う。
「偉そうなこと云ってもだめよ、悠ちゃんなんか、梅干の種を鼻の穴じゃないの、――くやしかったら芸妓の情人いいひとでもつくってごらんなさい」
「なにょう云やあがる、こっちあ屋敷が本所にあるんだぜ」
 悠二郎はむきになって口を尖らす。
「お屋敷が本所だからどうしたのよ」
「べらぼうめ、本所から深川はひとまたぎだ、なあ信さん、こいつあなんにも知っちゃあいねえのさ、へ、可愛いもんさ」
「そんなら家へ伴れて来たらいいじゃないの、そんなお馴染があるんなら伴れていらっしゃいよ」
「べらぼうめ、こちとらあてめえのおっこちを見せまわるほど浅黄裏じゃあねえや、嘘だと思うんなら自分でいって聞いてみな、櫓下やぐらしたへいって当時こちらで信さんと悠さんに深間のおねえさんはどなたでござんすか、――こうきけば猫の仔でも教えて呉れらあ、ざまあみやがれ」
「そんならそっちへいったらいいじゃないの、こんな家へなんか来たって面白かあないでしょ、いらっしゃいよ、すぐ舟のしたくさせてあげるわ」
 おみつはくやしそうに唇を噛む。
「おう待ってました、松吉にそいって呉れ、門限があるんだから早いとこ頼むってな」
「云うわよ、なんでもありゃしないわ、そう云えばいいんでしょ」
「云えばいいのさ、さっさと頼むぜ」
「わかったわよ、どうせいいわよ、きれいな顔をしてたって蔭じゃあそんなことをしているんだから、家じゃあ母ちゃんもあたしも待ってたんじゃないの、今日は家でゆっくりして頂こうって、大騒ぎでいろいろ下拵えをして、芸人は誰と誰を呼ぼうかって、お父つぁんもいっしょに相談して、もういらっしゃるかしらってみんなで待ってたんじゃないの、それなのに」
「なんだ、泣くのか、こいつあ驚きだ」
 おみつは泣きだし、正篤はにやにや笑っている。悠二郎は途方にくれ、いまさら云いなだめるわけにもいかず、さりとてそのまま立てもせず、ごまかそうとして、てれて、うろうろして、ついにはおつねの助けを求める。
「どうしてそうなんだろう、顔を見るとすぐ喧嘩なんだから、――おまえが悪いんだよ、なんだねばかばかしい、自分でへんなこと云いだしたんじゃないの、だから悠さんにからかわれたんじゃないか、嘘だよあんなこと、からかわれてるんじゃないか、ばかだねこのひとは」
「いいわよ、拵えといたおさかなみんな猫にやっちゃうから」
「猫がまっぴらだとさ」
「およしなさいったらねえいいかげんに、おみつは下へ来てお呉れ、煮物をみてて呉れなきゃあ困るよ」
 そんな口諍くちあらそいは番たびのことだが、もちろんすぐにからっと仲なおりができてしまう、二人が帰るときなどは外まで送って出て、「ちょっと待って、衿が曲ってるわ」などと悠二郎の着物のどこかしら、引いたり下げたり、なにかしなければ気が済まないらしい。
「信さんはきちんとなさるのに、どうして悠ちゃんはこう着かたが下手なんでしょう、ちょっとじっとして、だめよそんなに動いちゃあ」
「うるせえな、曲ってたっていいよ」
「よかあないわよ、ちょっと待ってよ、ここんとこ、あらいやだ、これ下から着なおさなくちゃだめだわ」
「なにょう云ってやんだい、あばよ」
 しょうのないひとね、おみつは眉をひそめて、小走りに少し追って、正篤へは丁寧におじぎをしてあいそを云うのであった。
「どうぞまたおいで下さいまし、お待ち申しております」
 舟仙の二階で遊んで帰るときはそのままだが、外へ出るときはたいてい職人の恰好であった。小梅から向島のほうもよく歩き、桑の実を取って庭番にみつかって息を限りに逃げた、あの生垣の側も通ってみた。
「お庭の桑はどうしたでしょう、たしか六本くらい植えたんでしたね、――八本だったかしら」
「あれからもう七年経ってるじゃないか、一年に二本ずつ植える筈だったろう、おまえ忘れていたのか」
「じゃあずっと、あれから、二本ずつですか」
「おれのと悠二郎のと、……上屋敷へ戻ったらみにゆくがいい」
 その年は久しぶりで小梅の勝んべに会った。三社祭りの雑沓ざっとうのなかで、悠二郎が呼びかけると彼は赤い顔をし、おと年から下谷竹町の左官屋へいっていると云った。
「今戸の瓦屋の熊を知ってるね、あいつ板前になるんだって、いま中洲の百尺で皿洗いをやってるよ」勝はこんなことを云って、それから眼をしばしばさせながら、「――おらあ聞いたけど、悠ちゃんも信さんもお侍の子なんだってな」
 綾瀬川でその年は正篤が五百匁あまりの鯉を釣った。またおみつの案内で水神へ舟でゆき、そこの百姓家のような小さなうす暗い茶屋で川魚料理を喰べた。
 九月になってもなく上屋敷へ帰ると、すぐさま悠二郎は日月亭の裏へいってみた。正篤の云うとおり、今年の春あたり植えたらしい二本を入れて、数えてみると十四本あった。初め植えたのは丈も九尺あまりになり、正篤が手入れを禁じてあるので、枝を四方へ伸ばせるだけ伸ばしていた。
「こんなものを、どうせ、始末におえません、見るたびにどうも、なんとも」庭師の老人はしきりにこぼしていた、「――どうしたってお庭にくもんじゃございません、いまに爺いが叱られるに定っています」
 正篤はなにも云わず微笑していた。
 まだ下屋敷にいるときから、悠二郎は諄く正篤に念を押した。今年こそ奥からやかましく云われるに違いない、しかし決して譲歩なさらぬよう、自分は祖父や準斎のほうを説得するから、あなたは奥に対してきっぱりした態度をとって頂きたい。早婚の害はとりかえしがつかないという、二十までは決して奥の寝所へははいらぬように。――正篤は約束した、そうして上屋敷へ戻った日の夜、改めて正篤のほうからその約束を繰り返した。
「決して譲歩はしない、大丈夫だ」


 おれはまずおれ自身を生かしてゆく、そしてもし寿命がゆるすなら、世継ぎには健康な血統をのこすようにしたい。正篤はこう云って、さらに次のように続けた。
「おれはおまえのおかげでいろいろ世間を知ることができた、商人あきんどや日雇い人足や職人たち、そのほか一般の町家の暮しをずいぶん見てきた、――そしてそのときの政治が、善ければいいように、悪ければそのまま悪く、直接あの者たちの暮しにひびくことも、おぼろげながらわかるように思う、……今年の冬もいこう、来年も再来年も、いとまのある限り見てまわろう、おれは今年は、初めて、――自分が六万三千石の領主だということに気づいたよ」
 悠二郎はびっくりした。やっぱり血というものは争えないと思い、ただ面白がっているだけの自分にてれて、独りで赤くなった。
「そのときがきたら、おれは自分で藩政をみる、まだそのときではない、だがそのときがきたら、――悠二郎、おまえと新泉がおれの両の腕になるんだぞ」
 奥からは強硬な話が幾たびもあった。いつかは表の寝所へ、生母の清香院が自分で迎えに来たそうである。そのときは悠二郎は宿直にいなかったが、清香院の泣き声が焼火しょうかの間まで聞えたという。――勘右衛門はすでに養育係を解かれ、老職の席だけはあるが、隠居づとめのような気儘きままな身の上で、そのころはもうあまり外出もせず、家で暢気のんきに酒を飲んでいるというふうだった。それでも悠二郎が頼むと奥御殿へいって呉れた。……医者の室井準斎は奥や他の老職たちの間にはさまって、かなり苦しい立場らしかったが、これも勘右衛門と口を合わせて、正篤の健康を楯にねばりとおしたらしい、そして結局のところ延期ということに定ったのであった。
 その年の十二月も下屋敷へいった。明くる年の夏、そしてその十二月も同様である。ただ遊びかたが段々に変り、芸人を呼ぶとか、ものを喰べにゆくとか、芝居や見世物を観るなどということが少なくなった。――参覲のいとまが延びて、国へ立ったのはその翌年の二月のことであるが、それまで下谷から浅草、深川、本所あたりの、ごみごみした汚ない、長屋のような町ばかり選って歩き、人足などと並んで食事をしたり、彼等と酒を飲んだりした。
「長く生きられないとしたら、生きているうちに、せめて自分の領地だけでも、少しはましな政治がしてみたい」
 正篤はしばしばこう云って溜息ためいきをついた。
「あんなにみんな困っているじゃないか、あれだけ働いて満足に暮している者がないじゃないか」
 それからまたこうも云った。
「第一番に重職の交替をやろう、新しい風をいれて、そうして思いきったことをするんだ」
 二月。国許へ立つとき悠二郎は残された。正篤には供のゆるしを得てあったのだが、間際になってその係りから云いわたされ、いやおうもなく江戸に残されてしまった。
「なにいいさ、久しぶりで悠くり遊ぶさ」
 勘右衛門はへらへら笑っていた。
「気が向いたら舟仙へでもいって、たまにはおつねに孝行をしてやるがいい、おまえまだ母ちゃんと呼んでいるのか」
「よして下さい、こっちはそれどころじゃありませんよ」
「ここで怒ったってしようがない。舟仙がいやならまた金魚の尾鰭おひれでも切ってやるさ、またそろそろ伸びているころだぞ」
 悠二郎はくやしがって歯ぎしりをした。
 残されたことがどうにもくやしい。新泉はもちろんくいしんぼうの原精一郎まで供をしていった。どうして自分だけ残されたのか、正篤の意志でないことはわかっている、おそらく誰かの邪魔だろう、正篤から自分を離そうと思うやつの策動に違いない。
 ――いったいどいつの仕事だろう。
 新泉かと幾たびも思った。しかし気性こそ合わないが、彼は新泉がそんな人間でないということを知っていた。まさか原のくいしんぼうではあるまいし、ほかに思い当る者はひとりもない。そこでまたふっと新泉の名が頭にうかび、慌ててまたうち消し、自分でもしまいにうんざりして、よし、そんならこっちは息抜きをしてやれ、と、ようやく肚をきめた。
 舟仙へもいったが、面白くはなかった。
「あら、信さんどうなすって」
「わからねえやつだな、このまえ来たとき云ったじゃねえか、殿さまの供をして国へいってるんだよ、なんど云やあいいんだ」
「そんなに怒らなくったっていいわよ、ただちょっときいただけじゃないの、そんなにもぽんぽん云わなくったっていいでしょ」
「うるせえ、あっちへいってろ」
 つまらないのでごろっと横になる。
「どうなさるの、でかけるんじゃないんですか」
「うるせえって云ってるだろう、聞えねえのか」
 三度ばかりいったけれど、たいてい二時間ばかりいると飽きて、つまらなくなって帰って来てしまった。ときには茶間に坐りこんで仙吉やおつねと話しもした。仙吉はおりおり勘右衛門へ挨拶にいくのでそっちの話もよく出た。
「このあいだは酒のお相手をして来たが、御隠居さまもめっきり弱くおなんなさいましたね」
「そうかなあ、おれは半月ばかり会わねえから、知らねえ」
「そのときも話が出たんですが、悠さん此処からお帰んなすったときずいぶんお困んなすったんですってね」
「なんだっておめえ当りめえよ、今まで野放しに育ったんだ、それこそ年じゅう裸で、好き勝手にとびまわっていたのが、着物をきちんと着て袴をはいて、腰にあ刀を差して行儀作法だ、……おまけにそれが悪戯ざかりの七つてえ年なんだから堪らねえやな」
「まったくね、あの日ここで支度をなさるとき、べそをかいてらっしゃるのを見て、あたし涙が出て涙が出てしようがなかったわ、夜中にひょいと眼がさめると眠れないのよ、いまごろどうしていらっしゃるか、あんまり窮屈なんで浅草へ帰りたがって泣いてでもいらっしゃりゃあしないかって、――なんども夢をみたわね、母ちゃんって、はっきり呼ぶのを聞いて眼がさめるの」
「帰っていらっしたに違えねえ、ちょっと表を見て来るからって、そうじゃねえ夢だってえのに強情をはりあがってよ、寒いのに表まで出てみやがったっけな」
「外はまっ暗でしんと寝しずまってるの、来たことは来たけれど、叱られると思って隠れてるんじゃあないか、――暗い道にはまっ白に霜がおりてる、悠ちゃん、悠ちゃんって、裏のほうまで呼んでまわったこともあったわね」
「もうそんな話はいいや」
 悠二郎はてれて起きあがる。
「久しぶりで肩でも叩こうか、母ちゃん」
 するとおみつがぷっとふきだす。
いやあねえ悠ちゃんたら、まるで取って付けたみたいじゃないの、ふだんすばしっこいくせにそんなことは気が利かないのね」
「黙ってろ、うるせえ、こっちあお祖父さんから云いつかってるんだ、さあ坐んなよ、母ちゃん」
勿体もったいない、よして下さいよ、肩が曲るわ」
「あたしが叩くわ、あたしならいいでしょ」
「こうすると男親ってものは分の悪いもんだな、二人でそうやっておふくろのおっ取りっこをして、いってえおらあどうなるんだ」
 こんななごやかな時間も、正篤がいないとまがもてず、なにか喰べても、酒を飲んでも面白くない。外へでかけても勝んべは左官、瓦屋の熊は料理屋の板前、むかしの遊び仲間はみんなそれぞれ職についている。どっちをみても自分ひとり置いてきぼりをくった感じで、だんだん家にひっこんでいるようになった。
 正篤は翌年四月に出府した。悠二郎は待ちこがれて、まるで恋人にでも逢うような気持で挨拶に出たが、正篤はただ祝いの言葉を聞くだけで、おそろしく冷やかな態度を示した。のこって話してゆけとも云わない、……側にいる扈従こじゅうたちを見ると、新泉も原もすました顔で、すっかり色が黒くなり、躯つきもたくましくなって、いかにも側近護衛といった身構えである。悠二郎はつき放されたような、淋しい気持で御前をさがった。
 正篤が出府するとすぐ、悠二郎に役目を解くという沙汰があった。おぼしめしで扈従の役を免ぜられる。追って沙汰あるまで身をいたわるように、――そういうことで、お手許てもとから二十金という御下賜があった。
 ――いよいよ重職の交替だな、それに相違ない、そのときしかるべき役にあげられるのだ、そのための待命というわけだろう。
 悠二郎はこう思って独り納得をした。
 五月になってはたして重職の交替が行われた。勘右衛門が正篤のうしろ楯になったらしい、かなり広い範囲にわたる交替で、いちじは家中かちゅうぜんたいが騒然となった。――詳しいことは彼は知らない、祖父が幾夜も御殿に泊りこみ、国許とのあいだにたびたび早の使者が往復した。それは約ひと月ほどかかり、梅雨あけと共にいち段落ついた。
 だが悠二郎にはなんの沙汰もなかった。
 新泉が父の宗十郎を襲名して側用人にあげられた。原精一郎が納戸奉行になったには驚いたしその他にもむかしの学友のなかから二人、ふだん「あの男は」と云われていた者で、悠二郎の知っている人間が三人も重役についた。
 そしてすべてが終ったとき勘右衛門が倒れた。
 虚木老はもう七十六歳で、三年ほどまえからからだが弱っていた。あれほど遊蕩ゆうとうの好きだったひとが、あまり外出もしなくなり、家で飲む酒の量も減るばかりだった。――そこへ重職交替の騒ぎで、不眠の奔走もしたものらしい、つまりその過労が原因となって、なにもかも結着し安心すると共にがっくり折れた感じである。
 病気は脳溢血のういっけつで、倒れると同時に意識をうしない、ほんの二時間ばかりして死んだ。――知らせを聞いて、夜も更けていたが、正篤が駆けつけて来たとき、すでに勘右衛門の息は絶えていた。


 正篤はまっすぐに病間へとおり、扈従も遠ざけて、遺骸とさし向いで半刻あまりすごした。みんな遠慮をしろと云われ、家族も隣りの部屋へさがっていたが、正篤がしきりになにかかきくどき、ときには声を忍んで嗚咽おえつするさまが、襖越ふすまごしにいたましく聞えてきた。――正篤は遺族にはかくべつ言葉もかけず、とくに悠二郎など眼にもつかぬようすで、弔問が終るとさっさと帰ってしまった。
 ――殿はどうしたのだろう、おれを忘れてしまったのか、それともなにかごきげんを損じたか、やっぱり誰かの策謀だろうか。
 彼はひじょうにじれ、気持のおちつく時がなかった。三度ばかり新泉を訪ねた、いちど殿におめどおりをしたい、うかがいたいことがある。ぜひとりなしを頼む。こう云って頭を下げて頼んだ、しかしそれはむだであった。
「殿は暫く待てと仰しゃる、いずれ沙汰しようから、それまで待つようにとの仰せだ」
 新泉の言葉が信じられなくなり、原にも、そのほか側近の知る限りの者に頼んだ。しかしついには、「今後かような取次ぎはならぬ」と云われたそうで、それからは誰も頼みをきいて呉れる者はなかった。
 ――お祖父さんも死んでしまった。
 せめて祖父でもいて呉れたら、不平を訴えることもできるし、慰めても貰えるであろう。だが今はもうそういう相手もない。父は老職で勘定奉行を兼ね、兄は左門となのって納戸方吟味役になっている。母はもちろん愛して呉れているが、おつねのようにじかな愛しかたではない、どこかに風のとおるような隙がある。――彼は自分が孤独だということをはっきり感じた。そしてどうにもやりきれなくなり、じりじりして外へとびだすが、どこにも気のまぎれるあてはなく、ついしぜんに舟仙へ足が向いた。
 それでもまだそのころは希望があった。正篤は待てという、追って沙汰をすると云うのである。そのうち本当に呼ばれるかもしれない、そういう希望もなくはなかった。――それが十月になって、ある日さっぱりと解決したのである。任免の衝に当る老職に呼ばれ、いよいよお召しかと胸をわくわくさせていった。ところがその老職は、「おぼしめすところあって今日より無役に仰せつけられる、御幼年よりの精勤を嘉賞あそばされ、お手許より金五十枚、御垢着おんあかつき、ならびに生涯三十人扶持ぶちを下しおかれる」
 こう云ってそれぞれの下賜品をそこへ出した。
 悠二郎は家へさがるとその足で、まっすぐに舟仙へゆき、まる三日のあいだ帰らなかった。酒を飲み、寝ころび、芸人を呼ぶかと思うとすぐかえらせ、夜中に起きあがって独りぶつぶつなにか云い、独りで冷酒を飲んだりした。
「三十人扶持の飼殺しか、くそうくらえ」
「どうしたの悠ちゃん、なにをそんなに苛々いらいらしているのよ、なにかあったの」
「うるせえ、おめえなんぞの知ったこっちゃあねえ」
「だって心配じゃないの、お酒ばかり飲んでるし、しじゅうじりじりしているし、お屋敷へは帰らないし、母ちゃんだってお父つぁんだって気をんでるわよ、ねえ、――云ってよ、なにか心配なことでもできたの、悠ちゃん」
「うるせえってんだ、いいから黙ってほっといて呉れ」
 四日めに家から家扶の渡辺老人が来た。父も母も案じているからいちど帰るように、なにか話もあるということで、とにかく老人といっしょに帰った。
「この不所存者」父はいきなりこう叱りつけた、「――家をあけて舟宿などへ逗留とうりゅうするとはなにごとだ、家名にかかわるとは思わないか、おろか者」
「さあおびをなさい、悠二郎、もうこれから決してこんなことは致しませんって」
 母が側からそうとりなした。しかし悠二郎は黙って、頭を垂れて、じっと身動きもしなかった。
「お祖父さまがあまやかして育てたからこのような無埒むらちなことをする、おまえも今年はもう二十一歳ではないか、まして部屋住の身であれば、いっそう身を慎み行いを正さなければならぬ、十日のあいだ部屋を出るな、謹慎を申しつける」
 彼はついにひと言も云わず、十日のあいだ部屋にこもっていた。このあいだつねに正篤の健康のことが頭にあったらしい、ときに兄と顔が合ったりすると、殆んど無意識にきいた。
「殿のごようすはどうですか、ずっとお丈夫ですか、病気などのごようすはありませんか」
 しかしそうきいたとたんに、よけいなことと思い、自分で自分に腹を立てた。
「ずっと御健康のようだ、このごろは少しお肥りになったようにみえる」
 そんなことを聞かされても、彼はもうどっちでもいいとそっぽを向き、ふきげんになって兄の側から離れるのであった。
 十日の謹慎が解けた日、必要な身まわりの物を持って、二度と帰らないつもりで、彼は家を出て舟仙へいった。
「暫く厄介になるよ」
 こう云って二階の端の、いつもの四帖半へおちつき、二三日は酒びたりになっていた。――めていればもちろん、酔っていても、ついすると正篤のことを想っていた。まだ信太郎といっていたころ、初めてこちらから話しかけ、屋敷境へ魚をしゃくいにいった。笠木塀を乗り越えるときの泣きそうな顔や、浅草界隈の話をしたとき、さもうらやましそうに、
 ――そこへは若もいけるの。
 こうきいた顔つきもありありと思いだせる。
 下屋敷へゆくようになって、うまくぬけ出して遊んだ日々のこと、見る物すべてが珍しく楽しそうで、いきいきと笑ったりとびまわったりした姿など、なにもかもが昨日のことのように新しい。
「だがみんな過ぎ去ったことだ、みんな夢をみたようなものだ、おれはこうして舟仙の二階に酔いしれている、そしてもうむかしの悠二郎じゃあない、みじめに忘れられ、捨てられてしまった人間だ」
 彼は幾たびもあの病間の一夜を思いだした。正篤が自分の短命であることを知って、初めてそれを告白したときのことである。
 ――自分は日鑑をみた、わが家では五代まえから男子がみな早世する、おそらく自分も二十二三までの命だと思う。
 冷やかな、そして棘のある、絶望的な調子であった。悠二郎は胸のつぶれる思いで、こみあげる涙を抑えながら、死ぬことなど忘れて生きることを考えるように、万一のときに貴方ひとりは死なさぬ、自分もあの世へ供をする、そのときがくるまでは生き甲斐のあるように生きてゆこう。言葉をつくしてこう云った。――正篤はわかって、感動して呉れた、悠二郎にはその感動が偽りだったとは思えない。正篤はそのときこう云いはしなかったか、
 ――よくわかった、おまえの云うとおり大事なのは生きることだ、生きられる限り生きよう、だがおまえだけは、どんなことがあっても側を離れて呉れるな。
 そしてその年の秋にはこうも云った筈だ。
 ――時期がきたらおれは自分で政治をみる、その時期がきたら、悠二郎、おまえと新泉と二人でおれの左右の腕になって呉れ。
 これらのことはみなごまかしだったのだろうか、その場かぎりの根なし言だったのだろうか。悠二郎はうめく、酒をあおって酔おうとする、しかしどうやっても胸はおさまらなかった。
「ばかばかしい、女の腐ったように、いつまでみれんがましくうだうだしているんだ」
 自分を嘲弄ちょうろうするようにせせら笑う。
「大名は威厳をつくらなくちゃあならねえ、おれにゃあ子供のときからの裏の裏まで知られている、そんな者に側にいられちゃあ威厳もへったくれもねえ、邪魔なのはわかりきったこった、そこに気がつかねえのか唐変木め」
 だがそうつぶやきながら、彼の眼には涙がたまっていた。
 家から渡辺老人が三度ばかり来た。悠二郎はいちども会わなかった。すると十二月になってまもなく、父が渡辺老人を伴れて来て、正式に勘当すると告げた。
「土井とは縁を切り、御家臣帳からも名を削った、我が子でもなくもはや藩家の家臣でもない、おまえはおまえの好きにするがよい」
 悠二郎はなにも云わず、黙ってただ頭を下げた。父は仙吉夫婦にもそのことを告げたのであろう、おみつが駆けあがって来て、悠二郎の側へ坐って泣きだした。
「どうしたっていうの、いったいなにがあったの、悠ちゃん、あんた勘当なんかされちゃってどうするのよ、お願いだから謝って頂戴、すぐいって謝って頂戴、このとおりよ悠ちゃん」
「泣くこたあねえ、覚悟のうえなんだ」
「そんなこと云ったって、お家を出されてこれからどうするのよ、ねえ、あたしのお願いだから謝って頂戴」
「ほっといて呉れ、おれのこたあおれがするよ」
「それじゃ済まないから云うんじゃないの、そんなことしたら苦労するばかりじゃないの」
 おみつたもとで顔を押えながら泣いた。
「――悠ちゃんの苦労するのを見て、あたしが平気でいられると思って、……あたしがどんなに心配しているか、あんたわかっちゃあ呉れないの」
 悠二郎はそこへ寝ころんだまま、長いこと黙っておみつの泣くのを聞いていた。それからやがて眼をつむったまま、低い囁くような声でこう云った。
「おらあこの家で育った、生れるとすぐに来て、おめえのおふくろを母ちゃんと呼んで育った、大川の水も、観音さまの境内も、向島から小梅の端のほうまで、みんなおれの幼な馴染だし、喧嘩友達も大勢いる、ここがおれの故郷だ、――この家がおれの家だ、おめえのおふくろがおれの本当の母親だ」
 おみつはひとしきり激しく泣いた、「悠ちゃん」と叫んで、たもとで顔を包んだままそこへ泣き伏した。悠二郎はぐらぐらと頭を揺り、それからやはり低い声でこう続けた。
「おらあこの家の船頭になる、いつかお祖父さんが云ったそうだ、――当人がよければ船頭になるのもいい、あれはあれで気楽だし、なかなか粋なしょうばいだってよ、……おれにだって、猪牙船ちょきぶねぐれえげるからなあ」


「杏花亭筆記」にいう、致仕してのち市井にかくれ、親族旧知と断って、無為に一生を終った、というのはこの事をさすのであろう。彼は仙吉を説きおつねをくどいた。仙吉はそのとき初めて、祖父から悠二郎のためにといって、多額の金を預かっているとうちあけた。
「あれは野育ちだからどうせ侍ではおさまるまい、もししくじってころげ込むようなことがあったら、これで舟宿の株でも買ってやって呉れ、そういうことでこれだけお預かり申しました」
 仙吉はそこへ金を並べてそう云った。
 年があけるとおみつは厄年になる、悠二郎は強引におみつを嫁に欲しいと云い、誰にいなやもなく、押詰ってから祝言の盃をした。――披露は中洲の「百尺」でやった、舟宿なかまはもちろん、悠二郎は勝んべも熊も、むかしの友達でいどころのわかる限り集めて、そうして宴の終るまで賑やかに飲んだ。
 その前後に二度ばかり、土井の母が来たそうである、良人おっとに禁じられているからと、そっとおつねだけに会い、ゆくすえをくれぐれも頼むと云って、自分で縫った肌着や着物や、帯などを置いて去ったということだ。そして、それなり本当に土井とは往来が絶えてしまった。
「信さんはどうなすったのかしら、ちっともおみえにならないわねえ」
 まだ丸髷まるまげのおちつかないじぶん、おみつはふと思いだしてはそう云った。
「侍なんてあんなものよ、あいつはとんだ出世をしやあがった、もうおれなんぞに用なんかありゃしねえ、あいつのことなんざ忘れるがいいんだ」
「だってあんなに仲がよかったのに……」
 そんな会話が幾たびかあったが、やがて悠二郎は本気に怒った声でこうどなった。
「いいかげんにしねえか。こんどおれのまえであいつの名を云ったらぶんなぐるぞ」
 おみつはあっけにとられ、まじまじとこちらの顔を見まもった。そしてなにかわけがあると察したのであろう、それからは信さんの「」の字も口にしなかった。
 二年めの夏におみつは子を産んだ、女の子で、仙吉が「ならびにしよう」と云い、おなつと名をつけた。そのときちょうどいいきっかけだからと、仙吉夫婦は隠居して、家をそっくり悠二郎とおみつに譲った。――舟仙に猪牙船が七はいに釣舟が五はい、ほかに屋形船が三そうあり、川筋でも繁昌することではひけをとらなかった。
 おなつが五つの年に長男が生れ、おみつの望みで勇吉と名づけた。
「あんたのような気性に育って貰いたいの、もういちどゆうちゃんて呼べるのもうれしいわ、ねえ、いい名でしょ」
 おみつしおのある眼で、良人の顔をじっとみつめた。悠二郎はてれ、眼をぱちぱちさせて脇へ向いた。
「でもあんたのせっかちと、わる悪戯だけはごめんだわね、年じゅう泥んこの瘤だらけ傷だらけ、出れば喧嘩というのもまっぴらだわ」
「自分の玩具だと思ってやがる、世話あねえや」
 そのころからのことだが、正篤のうわさがときどき耳にはいった。武家の客たちの話すのも聞いたし、世間にも評判好きな者がいて、少し珍しいことがあると自分のことのように触れまわるから、坐っていてもしぜんいろいろなことが聞けた。――正篤は名君という噂であった、藩治に多くの功績をあげ、領民に慕われるばかりでなく、幕府のおぼえもいいらしい、躯も健康で、武鑑にはもう三人の子が載っていた。
 ――名君、あのときの信さんが、名君。
 悠二郎はほのかに懐旧のおもいにとらわれた。しかしすでに遠い思い出であり、もはや自分には縁のないひとであった。悠二郎は高い空をわたる風の音でも聞くような、一種のむなしいおもいで、そっと溜息をつき、窓の外へ眼をやった。
 勇吉の三つの年にまた女の子が生れた。
「おっ母さんよりよっぽど功者だぜ」
 仙吉はよろこんで、やっぱりならびだと、こんどはお初と名をつけたが、自分はその年の夏のはじめに、急性の腸を病んで亡くなった。
 ――ひどい痛みを伴う下痢で、しまいには赤いものを下したりして、ほんの十日ばかりのあっけない死にかただった。
 仙吉の初七日の済んだ、明くる日のことである。朝の九時ごろだったが、とつぜん原精一郎が訪ねて来たのでびっくりした。
くいしんぼうだよ、覚えているかね」
 原はこう笑って、こっちがまだ返辞もしないうちに、急ぎの使者なんだと、持って来た結び文をさしだした。すぐみて呉れと云うので、あけてみると正篤からの手紙だった。
 ――会って話したいことがある、むかしの気持ですなおに来て貰いたい、来るものと信じて待っている。
 こういう意味の走り書きで、署名はただ「信さん」とあり、宛名は「悠どの」としてあった。署名の「信さん」という字が、いきなりぎゅっと彼の心臓をつかんだ。むかしの気持でという、そのむかしの気持が全身によみがえり、飛び立つおもいで、彼はおみつをせきたてて支度をした。
 原とかごを並べて上屋敷へゆき、原の案内で、そのまま奥庭へはいっていった。――正篤は麻の帷子かたびらはかまはつけず、短刀だけ差した恰好で、日月亭の縁側に腰をかけていた。肥えたばかりでなく、筋肉質の逞しい躯になり、唇つきにも眼にも、ちからと意志の強さが表われていた。
「辞儀はぬきにしよう、久方ぶりだった」
「御堅固におわしまして、……」
 悠二郎はそう云いかけて絶句した。
「原はもうよい、さがって呉れ」
 正篤はこう云って暫く沈黙した。ひとばらいをしたのだろう、原が去るとそこには誰もいなかった。――正篤はかねて用意をしていたらしく、そこにあった小さな酒壺を取り、二つのギヤマンの足付の杯に、黒っぽい色の、濃いどろっとしたものを注いで、「おれの手作りの酒だ、おれも飲む、飲みながら話そう」
 悠二郎に杯の一つを与え、自分も自分のを持った。
「おまえおれに肚を立てたろうな、無情な主人だとうらんだであろうな、――あれほど約束したことを、いよいよの時になって反故ほごにし、あるかなきかのように扱った、怨むのが当然だ、もしおれがおまえの立場だったとしても、きっと肚を立てずにはいなかったと思う」
「正直に申上げます、御意のとおりでございました」
 悠二郎はこう答えて、幾らか反抗するように、杯のものをぐっと飲んだ。野趣のある香気の、ほのかに甘渋い味であった。
「おれは悠二郎を片腕に頼むつもりでいた、それにはいささかも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)いつわりはなかった」
 正篤は眼を伏せる姿勢でこう云った。
「しかしおれは考えたのだ、おまえはあまりに近し過ぎる、こちらは気がつかなかったけれども、下屋敷を二人でぬけ出したことは、新泉をはじめ多くの者が知っていた、知ってはいたが、勘右衛門に禁じられて、みな知らぬような顔をしていたのだ」
 悠二郎はそっとうなずいた。ちょっと意外ではあったが、云われてみればそのとおりである。あんなにしげしげぬけ出したし、原精一郎という買収した者もある、知れなかったと思うほうが、寧ろ不自然だと云わなければなるまい。
「二人はあまりに近し過ぎた、幼年から殆んど側を離れず、すべてに深入りをし過ぎていた、おれが藩政をみるばあい、相当てあらな事を、やらなければならぬ、一部に不平や非難のおこることは、必至だ、おれはそのときのことを思った……家臣の非難はそのまま藩主には向かない、必ず側近の者にゆく、おまえがもしおれの帷幄いあくにいれば、おれにもっとも近しい者として、おれの寵臣ちょうしんとして、家中の怨嗟えんさはおまえに集まるだろう、――おれはそうしたくなかった、おまえをそういう立場には置きたくなかったのだ」
 悠二郎は空になった杯を手に深くうなだれていた。胸がいっぱいになり、眼のうちに熱いものがあふれてきた。
「おまえを除外することは辛かった、おまえが肚を立て、怨むだろうこともわかっていた、しかしそれでもいいと思ったのだ、――おまえには怨まれても、そんな立場に立たせるよりいいと思ったのだ、……だが悠二郎、あれから十年のあいだ、おれはおまえを思わぬ日はなかった、いつもおまえが側にいるつもりでいたぞ、――見せるものがある、ついてまいれ」
 こう云って正篤は立ち、裏庭のほうへまわっていった。ついてゆくと、見覚えのある桑の木の前で立停り、こちらへ振返った。
「数えてみろ悠二郎、二人の桑だ」
 すぐにはその意味がわからなかった。しかし木の数を読んでゆくうちに、古い記憶がはっと思いうかび、危うく声をあげそうになった。――そうして一つ一つ、桑の木に手を触れながら、三十八本まで数え終ると、もはやがまんが切れ、そこへ棒立ちになって面をおおった。
「おれのと、おまえのと、毎年二本ずつ、あれからずっと、欠かさず植えてきた」
「――――」
「夏になって、実が生ると、おれは独りで此処ここへ来て、おまえに呼びかけながら、この実を摘んで喰べた――この実で酒をかもして、おまえに呼びかけながら、更けた寝所で独りそっと飲む癖もついた、おまえはいつもおれの側にいたのだ、わかるか、悠二郎」
 悠二郎の喉から嗚咽がせきを切った。すると正篤が近寄り、彼の手を取って、そうして自分もむせびあげた。
 ――会いたかったぞ、悠二郎。
 ――殿、お会いしとうございました。
 握られた手から手へ、互いのおもいは痛いほど鮮やかに通じ合った。やがて正篤は「もういい、もうこれでいい」と云い、懐紙を出して顔を拭くと、こんどは明るく笑いながら、桑の枝々を指さして云った。
「みろ、こんなに生ってる、久しぶりでいっしょに摘んで喰べよう、泣くのはよせ」
「もう泣いてはおりません」
「おれはこの木、おまえはそれだぞ」
「先刻のが桑の酒でございますか」
「帰りに持ってゆくがいい、ひとびんわけてある」
 二人は桑の枝に手を伸ばし、黒く熟れた実を摘んでは口に入れた。
「おれのほうのことは聞いたか」
「お世継ぎとひいさま、お三人もうけられたうえ、名君という御評判をうかがいました」
「悠二郎は子供は何人ある」
「男一人に女二人でございます」
「おみつとは相変らず喧嘩をするのか」
 悠二郎は口いっぱいに桑の実を頬張って、もごもごもごと、なにやらわけのわからない返辞をした。正篤もせっせと摘んでは喰べながら云う。
「舟宿の亭主も悪くはないだろう」
「残念ながらそのようでございます」
「うちあけて云えばそれもあったのだ」正篤は紫色に染まった唇で微笑する、「――さっき申したことも事実だが、もう一つはおまえを侍にさせたくなかった、屋敷勤めより、町住いのほうがおまえには似合っている。おみつと添わせて、気楽に一生おくらせたかった、おまえを水に放してやりたかったんだ」
「――見て下さい」
 悠二郎は聞えぬ態で、こう云って正篤のほうへ口をあけてみせた。正篤もおれのはどうだと口をあけた。二人は遠い日の向島の出来事を思いだし、互いの黒く染まった口を見ながら、両方でいっしょに笑いだした。――これはおろかしい所業である、三十にもなる男が二人、そんな子供だましなことをしなくてもいいではないか。たしかにそうだ、慥かにこれはおろかしい光景である。しかし二人にはそうして話すほかに、言葉をわすことができないのである、桑の実は古い思い出でかれらを結び、桑の枝葉は今、あまりに明らさまな感動を隠して呉れる。それなしには、二人とももっと恥ずかしい、やりきれない場面を演じなければならないだろう。
ようやく暇が出来るようになった」
 正篤は次の木に移りながら云った。
「これからは時々来るがいい」
「舟仙へもおいで下さるときがまいりましょうか」
 悠二郎も次の木へ移ってゆく、お互いに顔を見られたくないらしい、繁った葉の、暗がりの中から正篤が明るい調子でこう答えた。
「うんゆこう、いつか、もっとさきになって身に暇が出来たら、――おれは長命するぞ悠二郎」
「私がそう申上げた筈です」
「それよりもっとだ、勘右衛門よりなが生きをする、――聞えるか、おれは八十まで生きるつもりだぞ、聞いているのか、悠二郎」
 桑の葉が揺れ、悠二郎のなにやらもごもご答えるのが聞えた。正篤は摘み溜めた実を口へ入れ、すばやく指で眼を拭いた。





底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
   1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
   1949(昭和24)年11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年4月28日作成
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