「……どなたです」
そう云って
「ここに
「さあ……角太郎さんねえ」
四十がらみの
「そんな人は知らないねえ」
障子の向うで面倒くさそうな声がした。
「私どもはこの三月に移ってきたんだが、そのまえには
「そうですか。……そりゃあどうも、とんだお邪魔を致しました」
友吉はとぼんとした気持で路地を出た。
旅
「どうしたんだ、角のやつ」
京橋八丁堀の裏街、暮れかかる道の上は足の甲を越すほど雨水が
「いくら
友吉は舌打ちをしながら
張詰めてきた気持が一時に崩れて、けじめのつかない、がっかりした頭の
「よう、友さんじゃあねえか」
「……え!」
「やっぱりおめえか、どうしたい」
風呂帰りであろう、浴衣に
「ああこれは、堀の若棟梁でございましたか」
「ずいぶん久しぶりの対面じゃねえか、なんだか
「へえ、まだこんな恰好なんで」
「そうかい、それでおめえ……これから角のところへ行くつもりなんだろうが、角はいねえぜ」
「若棟梁はご存じですか」
「角はおめえお菊さんと夫婦になって、二年めえに
「角が……お菊さんと……」
友吉は足が震えるのを感じた。……仁太郎はふと往来なかだということに気付いたようすで、「どうだ友さん、久しぶりで会ったんだ、どこかで浴衣にでも着替えてひと口付合わねえか、……どっちにしてもその恰好じゃしようがあるめえ、いい家があるぜ」
「ありがとうござんすが……」
お菊と角太郎が夫婦になったという、友吉にとっては信じられないことであったが、いま現に家を尋ねてすかを喰ったばかりなので、もしやという鋭い疑いが胸へつきあげてきた。……それで彼は仁太郎と付合う気になった。
――
そう思ったのである。
桜橋の
「ぜんたい友さん、おめえどうして上方へなんぞ出掛けてったんだね」
「ええ、それにはちょいと身の恥を話さなくちゃあならねえんですが」
「おっと、盃は置かねえことにしよう」
「じつはこうなんです」
仁太郎の云うとおり友吉はいい職人だった。五郎兵衛町の広田屋伊兵衛という大工のもとで、子飼いからずば抜けた腕を発揮し、十七歳の時にはすでに一人前の手間取りになっていた。……広田屋は当時左前で、友吉とその弟分の角太郎という二人しか職人をもっていなかったが、伊兵衛は友吉を一人娘のお菊の婿にして、やがて広田屋を盛返そうと考えていた。
ところが三年まえの春、伊兵衛は普請場で大怪我をしたのが
――だが、それには友吉に頼みがある。
と苦しい息の下から云った。
――友吉はいい職人だ、けれどもたった一つの
場合が場合だけに、友吉は
――お願いだ、友吉、叱るんじゃねえ、死んでいく伊兵衛が心からのお願いだ、どうか今日限り
「あっしは、そのとき、……泣きました」
友吉はぐっと酒を
「広田屋はさぞ喜んだろう」
「喜んでくれました、そして……その晩に亡くなったんです、あっしは親方の喜んで死んだ顔を見て、こいつぁ性根を入替える時だと思いました、それで上方へ立つ決心をしたんです」
「そりゃあまた、どうしてだね」
「
「そうだったのか、そんな入組んだ訳があったのかい」
仁太郎は友吉の盃に酒を注いだ。……とっぷり暮れた窓の外は、依然として滅入るような雨の音だった。
「それでなにか、そのときお菊さんのことはどうなってたんだね」
「広田屋が御存じのような訳ですから、一時店を畳んだうえ、八丁堀の角太郎の家へあっしの帰るまで預かってもらったんです」
「すると、……その留守の間に、角とお菊さんができちまってたんだな。ひでえ野郎があるもんだ、おめえが上方へ立ってから半年もしねえうちのこったぜ」
「そいつは本当のこってしょうか」
「お菊さんは評判の小町娘だったから、
友吉は二三杯呷りつけた。……びしょびしょと
「二人はどこにいますって?」
友吉が突掛るように訊いた。
「よくは知らねえが深川のほうで見かけた者があるってえ話だ、さすがに大川のこっちにゃ住めなかったんだろう、……自然うちの建場にゃあ角は来ねえから」
「若棟梁、酔ってもようござんすか」
「よかったらどこかへ繰込もう」
「いえそれには及びません」
友吉の眼は粘るような光を帯びていた。
久しく呑まなかったところへ深酒で、頭の芯が割れるように痛かった。運ばれた飯には手をつける気もなく、窓からぼんやり、今日も降り続く雨の街を見ていると、やはり考えは一つことに落ちていった。
――そんなはずあねえ。
いくら考えても信じられなかった、信じられない後から、しかし疑いは
――いけねえ。こんなことを独りで考えていたってしようがねえ、二人を捜すのが先だ、捜し出してたしかめてからのこった。……なに深川がどれほど広いもんか、きっと捜し出してやる。
友吉は迎え酒を呷ってから宿を出た。
大川の水は茶色に濁って、ほとんど岸に
「今夜の上げ潮が危ねえぞ」
「
水見に来たらしい人々のあいだに、そんな言葉が交わされていた。……降り続く雨で、本所、深川一帯は、もう四五日まえから、洪水の危険に迫られていたのである。友吉はそんなことを聞きながら橋を渡った。
夕方の満潮が危ないといわれていたのに、その夜は
「こういうなが雨の時には、けっして
そう云って経験を語る老人もいた。
しかし新大橋は暮れがたに通行を止められてしまった。……永代橋はまだ渡れたが、友吉はそのまま深川で宿を取った。一日中歩き回って、濡れて、疲れて、躰は
その翌日も一日無駄に終った。
大工建場とか、棟梁の家々を尋ね回ったが、角太郎らしい者はどこでも捜し当らなかった。……雨に濡れ、水の溢れた道を
――ふん、みじめなざまぁどうだ。
自分で自分を
「いらっしゃいまし」
と云ったとたんに、
「……あら、まあ珍しい、友さんじゃありませんか」
薄化粧をした顔を驚きでいっぱいにした女、友吉にはちょっと思い出せなかった。
「お忘れになったの、薄情な人ねえ、五郎兵衛町のお
「ああ、あのお米ちゃん」
「ようやく思い出したのね、ま、とにかくどうぞ、お二階にしましょうね、ゆっくりしてらしっていいんでしょ」
珍しいのと不思議のたて続けで、あまりいい好みではない二階の小座敷へ案内した女は、
「あたしにもいただかしてよ」
女は催促するように盃を差出した。
「この五六日水騒ぎでお客はばったりなの、すっかりくさってたところだわ、お馴染がいに今夜は酔わせてもらっていいでしょ」
「べつに酌はしねえから、勝手にやってくんな」
「御挨拶だこと、でも友さんは昔からそうだったわ、ひとがやきもきしているのに、いつだって
「なんだ、変なところで嬉しがらせを云うぜ、あの時分はおいらなんざ見向きもしなかったくせに」
「嘘にもそんなことを云わないでちょうだい、あたしが友さんをどんなに想っていたか、ちゃんと知ってたはずじゃありませんか」
「へええ、そいつは初耳だな」
「とぼけたって駄目よ、いつか
四五杯たて続けの酒で、女はもう少し酔ったようすだった。……云われてみればそんなこともあった、こっちはてんでそんな気持はなかったので、そぶりや

――いいわ。
そのときお米は泣きながら云った。
――友さんに嫌われたらおしまいよ、あたしもう駄目な女になってやるわ。
「あのときあたし、本当に
「あれから間もなく引越したようだったが、ここにはいつ頃から来ていたんだ」
「この家へ来たのはつい先月よ、ずいぶん苦労をしたわ、おとっさんもおっかさんも死んだし、今では寒烏の一羽っきりで気楽だけれど、その代りなんの張合いもありゃしない、この頃は昔のことばかり考えているのよ。……あら、しゃべっていてすっかりお酌を忘れた、ごめんなさい」
「そいつはもう空だぜ」
「おや本当、こんなのってあるかしら」
お米は笑いながら立って行ったが、戻って来るといきなり、
「自分の話で夢中だったけど、友さん」
と大きな眼をして云った、「……あなたのほうはいったいどうしたの、あたしは友さんがお菊さんと夫婦になって、広田屋さんの跡を取るんだって聞いていたのに、あれは噂だけだったのかえ」
「どうしてそんなことを訊くんだ」
「だってお菊さんが角太郎さんと御夫婦になってるんだもの、あたしびっくりさせられたわよ」
「おめえ……」
友吉はぐっと自分を抑えながら、「……あの二人が夫婦になったのを知ってるのか」
「あたしゃこんな稼業をしているので、恥かしいからまだ口はきかないけれど、二人で八幡様の裏に所帯を持っていますよ」
「……八幡様の裏っていうと」
「この先を左へ曲って行けばすぐの、大きな
友吉は酔いが
――やはり本当だったんだ。
ざまあみろという声が、頭の芯で何度も聞えた。……三年まえの春が思い出される、上方へ立つ友吉を
――兄哥、お菊さんはたしかに預かった、どんなことがあっても兄哥の帰るまでは大切に預かっている、どうか安心して行ってくんな。
そう云って泣き笑いをした。
角太郎は友吉より一つ上の二十三だった、腕も達者というほうではなく、男ぶりもぱっとしない、ただ愚直で、間違いのない仕事をするだけが
――畜生、あの顔で
雨の街へ出たとき、友吉の心はもうずたずたになっていた。そして、四五間行った町並に古道具屋があるのをみつけると、ふらふらと店へ入って匕首を一本買った。
「……中川の水門が壊れたそうだぜ」
「もういけねえ、洲崎の波除けも崩れて、入舟町あたりは水が床へついたそうだ」
道を行く人声はさっきから物々しくざわついていた。その付近も低いところには水が来ていた……暮れがたの鈍い光をうつして、どこからどう押して来るとも知れず、じりじりと、眼に見えぬ速度で、次第に盛上っていく水の姿は、まるで生物のような根強い力を持っていた。
荷車へ家財道具を積んで逃げる者が幾組も通った、大きな包みを背負って女房子を
「大丈夫だ、
そう云って、気早に逃げだすのを
友吉は水を踏んで行った、教えられた大銀杏のところで右へ入る路地がある。ふところから手拭を出して頬冠りをした、端折った裾をきっちり帯へはさんで、匕首はいつでも抜けるように左の
障子に灯がさしていた。
声は聞えないが、なにか片付けているらしい物音がする、荷物を運び上げてでもいるのか、時々二階の窓の障子へ人影がさし、階段を上り下りする気配がした。
友吉は格子戸を明けた。
「……ごめんください」
「…………」
「ごめんください、角さんはお宅ですか」
はいという返辞が二階でして、足早に下りて来た者がある。……友吉は灯を
下りて来たのはお菊だった。
あのときが十八、だからもう二十一の、すっかり成熟した女になっている、きっちりと帯に緊められた腰のくびれも、浴衣の胸の弾力のあるふくらみも、
「どなた、
「…………」
「うちはまだ帰って来ませんが、なにか」
と覗くはなへ、友吉は濡れ足のままずいと上って頬冠りを
お菊は不審そうに友吉を見た。そして、誰だかということが分り、相手の眼の
「……あっ、おまえは」
「友吉だ、驚いたか」
と歯のあいだから絞り出すように云った。
「友さん、なにをするの」
女は本能的に危険を感じた。
「待っておくれ、これには訳があるのよ」
「どれに訳があるんだ、この丸髷にか」
「あ、あれ、誰か!」
女のあげる悲鳴が友吉を
「うるせえ、じたばたしても追付かねえぞ」
力任せに引据えると、手に当った
「よくも、……よくもおいらを騙しやがった、こんなこととは知らねえから、おいらあ上方で三年、ひと口の酒も呑まず稼いでたぞ」
「…………」
「広田屋の名を盛立てるにも、二人で所帯を持つにも先立つ物は金だ、
「…………」
「おいらも自分で自分が
友吉は
「てめえたちが夫婦になったと聞いても、ここへ来るまでは信用ができなかった。それをうちはまだ帰らねえ……ぬけぬけと云ゃあがったな、これ見よがしの丸髷を眼前へ
「…………」
「古い
友吉はそれだけ云うと、お菊を抱上げて次の間へ行き、明いている戸棚の中へ押込んで
路地には急に人声が高くなった。
「ああいけねえ、下駄が浮きだしたぜ」
「甚兵衛さん、おめえ逃げねえのか、こいつは並大抵の水じゃ無さそうだぜ」
「
そういう声に入り交って、ざぶざぶと水の中を歩く音が聞えた。どうやら
友吉は台所へ行ってみた、酔いが醒めそうで、なんとも云いようのない、酸っぱい悲しさと、怒りと、
「角さん、角さん」
二三軒先から誰かが呼んだ。
「いねえのかい角さん。おかみさん、……もう駄目だぜ、いまのうちに逃げねえと手後れになるぜ。……おかしいな、いねえのかな」
「角さん、お菊さんたら」
女の声も聞えた。
友吉はひょいと冷笑した、それからまた酒を呷りつけた。味もなにも分らない、ただ
徳利がほとんど空になりかかったとき、友吉はひょいと聞耳を立てた。
ざぶざぶと水音が近づいて来る。
「……お菊、……お菊、……」
と呼ぶ声が聞える。
友吉は徳利を投出して、片手を左の袂へ入れながら片膝を立てた。……格子があいて、水音をさせながら誰か土間へ入って来た。
「お菊、……どうした、いねえのか」
「いるから上って来い」友吉が叫んだ。
「誰だ、船定の吉さんか」
そう云いながら上って来たのは、濡鼠のようになった角太郎であった。……彼は人違いをしたようすで、
「吉さん、落着いてちゃあいけねえ、舟はそこまで
云いかけて、ぷっ、と口を
「あっ、おめえ兄哥、……兄哥か」
「おれだ、友吉だよ」
「い、いつ、いつ帰って来た」
「そんなこたあどっちでもいいや、おいらの顔を見たからにゃ、……てめえ覚悟はいいだろうな」
「兄哥!」
「うるせえ、てめえのような畜生に兄哥と呼ばれる覚えはねえ」
「待った、待ってくれ兄哥、おめえまさかお菊さんを」
云いかけて、角太郎は脱兎のように二階へ駈登った。
風呂敷包みにした荷物が三つ四つ、行燈の光に
「お菊さん」
「あっ、兄哥……待ってくれ」
「音をあげるな」
「話が、話があるんだ」
角太郎は友吉より力があった。
「話せば分ってもらえるんだ、こうするより他にしようがなかったんだ、待ってくれ」
「まだ云ゃあがるか、畜生」
ともすれば反対に、
「あっ、危ねえ」
角太郎は跳退く拍子に、包みへ足を掛けてだっと
「兄哥……おめえ」
と哀しげに叫んだ、「おめえ……三年まえ、鮫洲でおいらの云ったことを、忘れたのか」
「今さらなにを云ゃあがる」
「あのときの約束を忘れたのか兄哥、おらあ覚えてるぜ、おめえは忘れたかも知れねえが、云ったおらあ覚えてるぜ」
振仰いだ眼からは、涙が溢れていた。
あのときの眼だった。……あのときと同じ愚直な顔だった、頓智も云えず
「おらあ云ったはずだ、たとえどんなことがあっても、お菊さんは大切に預かっているって、……兄哥、おらあ人間が鈍だからへまをやらねえたぁ云わねえ、けれども兄哥とした約束だけは守ってきたぜ」
「そんならお菊となぜ夫婦になった、
「そりゃみんな堀の若棟梁のためなんだ」
「なんだ、堀の仁太郎がどうしたと」
「若棟梁がお菊さんを
友吉は殴りつけられたように思った。
「兄哥が帰って来て、広田屋を盛返すためには堀一家と
友吉は低く呻きながら起上った。――そうか、あの仁太郎が
持っていた匕首を投出すと、いきなり友吉は階段へとんで行った。いつそんなに出たものか、水はもう階段を六分がた浸していた、友吉はくるくると裸になって、その水の中へとび込んだ。
畳が浮き、
――生きていてくれ。お菊。
友吉は水の中で襖を
――お菊、お菊。駄目だ、友吉は息を吐くためにもう一度水面へ浮いた、そしてすでに、水が天床とすれすれまで上っているのを知った。
「兄哥、兄哥ッ」
角太郎の狂気のような声を聞きながら、四度潜った、神の加護か、浸入する水の力で、お菊の躰が戸棚から押出されていた。友吉は夢中で抱込むと、流れる雑作のあいだを
「……角!」
「兄哥」
「手を貸せ、お菊さんだ」
角太郎の手へお菊を渡すと、気のゆるみで友吉はずぶりと水の中へ沈んだ、しかしすぐに階段へ
角太郎は匕首を拾ってお菊の
「お菊、……お菊……お菊」
と懸命に呼び続けた。……角太郎はその間に屋根へとびだして、
「兄哥、おいらあ舟を持って来るぜ、表の銀杏へ
「済まねえなあおれだ、見て来てくれ」
「じゃ分ってくれたんだね……兄哥」
角太郎は振返って泣き笑いをした、「……おらあ鈍な生れつきだ、兄哥にとんだ心配をかけちまって済まねえ、勘弁してくんな」
「角……生きるも死ぬも三人一緒だ、おいらの馬鹿を笑ってくれ」
「おらあ……」
泣き笑いを残したまま、角太郎は屋根伝いに跳んで行った。
そのときお菊が水を吐いた。――しめた。
ぐいぐいと、
「お菊、気がついたか、友吉だ」
「……ああ」
「分るか、おいら、友吉だ、友吉だぜ」
抱起す手へ、お菊は力の抜けた自分の手をそっと絡んだ、濡れて、紙のように白い顔へ、にっと微笑がうかんだ。
「……友さん」
「なにもかも分った、お菊、おいらが馬鹿だった、堪忍してくれ」
お菊の手が弱々しく友吉の指を握った、大きく瞠いた眼からほろっと涙が落ちて、
「友さんたら……あたしを、あんな処へ入れたまま、忘れたりして、……駄目よ」
「……お菊」
「あたし、こわかったわ」
半分は泣声だった、そして懸命に笑おうとしたが堪り兼ねて、いきなり友吉に
「待ってたのよ……友さん」
わっと泣くお菊の手を、無言の謝罪を
天明元年七月二十二日の夜のことであった。