三年目

山本周五郎




一の一


「……どなたです」
 そう云ってのぞいた顔を見て友吉ともきちはまごついた。家を間違えたのかと思って慌てて左右を見回したが、間違えるはずはなかった。
「ここに角太郎かくたろうという職人がいたはずなんですが、引越しでもしたんでしょうか」
「さあ……角太郎さんねえ」
 四十がらみの実体じっていな男だった。「……聞いたことのねえ名だが、おとよ……おめえ角太郎さんてえ人を知ってるか」
「そんな人は知らないねえ」
 障子の向うで面倒くさそうな声がした。
「私どもはこの三月に移ってきたんだが、そのまえには吉兵衛きちべえという同業の担ぎ呉服がいましてね、その男は一年ばかりここにいましたよ」
「そうですか。……そりゃあどうも、とんだお邪魔を致しました」
 友吉はとぼんとした気持で路地を出た。
 旅合羽がっぱに草鞋ばきで番傘ばんがさをさしている。そのちぐはぐな恰好をそっくり写したような気持だった。……箱根を越すときからぶっ続けの雨は、江戸ではもう半月以上になるという、七月二十日だというのにあわせを着てもいいほどの冷えかたであった。
「どうしたんだ、角のやつ」
 京橋八丁堀の裏街、暮れかかる道の上は足の甲を越すほど雨水がまっていた。
「いくらたよりをしねえ約束だって、引越し先くれえ知らせてよこさねえ法があるか、……どこへ越しやがったんだろう」
 友吉は舌打ちをしながらつぶやいた。
 張詰めてきた気持が一時に崩れて、けじめのつかない、がっかりした頭のしんに、……ふとお菊の美しいが大きく描き出された。
「よう、友さんじゃあねえか」
「……え!」
「やっぱりおめえか、どうしたい」
 風呂帰りであろう、浴衣に平絎帯ひらぐけで手拭を持った三十七八の男が、傘を傾けながらやって来る。……友吉にとっては親方筋に当る大工の棟梁とうりょうの息子で、仁太郎にたろうという道楽者だった。
「ああこれは、堀の若棟梁でございましたか」
「ずいぶん久しぶりの対面じゃねえか、なんだか上方かみがたへ行っていたってえが、いま帰って来たのかい」
「へえ、まだこんな恰好なんで」
「そうかい、それでおめえ……これから角のところへ行くつもりなんだろうが、角はいねえぜ」
「若棟梁はご存じですか」
「角はおめえお菊さんと夫婦になって、二年めえにもとのところは引越しちまった、なんでも今は深川辺にいるってえこったぜ」
「角が……お菊さんと……」
 友吉は足が震えるのを感じた。……仁太郎はふと往来なかだということに気付いたようすで、「どうだ友さん、久しぶりで会ったんだ、どこかで浴衣にでも着替えてひと口付合わねえか、……どっちにしてもその恰好じゃしようがあるめえ、いい家があるぜ」
「ありがとうござんすが……」
 お菊と角太郎が夫婦になったという、友吉にとっては信じられないことであったが、いま現に家を尋ねてすかを喰ったばかりなので、もしやという鋭い疑いが胸へつきあげてきた。……それで彼は仁太郎と付合う気になった。
 ――くわしいことが聞けるだろう。
 そう思ったのである。
 桜橋の河岸かしっぷちに『川卯かわう』という、ちょっと名の売れた小料理屋がある、仁太郎は馴染とみえていい顔だった。そこで友吉は旅支度を脱ぎ、ざっと風呂をあびて、さっぱりしたからだに浴衣を引掛け、堀の見える二階の小座敷で仁太郎とさかずきを取合った。
「ぜんたい友さん、おめえどうして上方へなんぞ出掛けてったんだね」
 銚子ちょうしを二本、ほろっときはじめたところで仁太郎が話を誘いだした、「……日に四匁かせぐ職人は百人に一人といわれてる、おめえはその百人に一人の稼ぎ手だ、そいつが、広田屋の亡くなるのと一緒にふいっと上方へ行ったのは訳があるだろう」
「ええ、それにはちょいと身の恥を話さなくちゃあならねえんですが」
「おっと、盃は置かねえことにしよう」
「じつはこうなんです」
 仁太郎の云うとおり友吉はいい職人だった。五郎兵衛町の広田屋伊兵衛という大工のもとで、子飼いからずば抜けた腕を発揮し、十七歳の時にはすでに一人前の手間取りになっていた。……広田屋は当時左前で、友吉とその弟分の角太郎という二人しか職人をもっていなかったが、伊兵衛は友吉を一人娘のお菊の婿にして、やがて広田屋を盛返そうと考えていた。

一の二


 ところが三年まえの春、伊兵衛は普請場で大怪我をしたのがもとで、ついにはかないことになってしまった。……そしてその臨終に、お菊と友吉と夫婦になって、もう一度広田屋の名を盛返してくれと遺言したが、さらにそれへ付加えて、
 ――だが、それには友吉に頼みがある。
 と苦しい息の下から云った。
 ――友吉はいい職人だ、けれどもたった一つのきずは手慰みをする、おめえは隠していたつもりだろうがおらあ知っていた。
 場合が場合だけに、友吉は匕首あいくちを胸へ突込まれたような気がした。事実……彼はその二三年来ひそかに博奕ばくち場へ出入りしていたのだ。
 ――お願いだ、友吉、叱るんじゃねえ、死んでいく伊兵衛が心からのお願いだ、どうか今日限りさいころは捨ててくれ。
「あっしは、そのとき、……泣きました」
 友吉はぐっと酒をあおった、「……そうです、泣いて親方に約束しました。この場限り博奕はめます、二度と賽ころに手は触れませんと」
「広田屋はさぞ喜んだろう」
「喜んでくれました、そして……その晩に亡くなったんです、あっしは親方の喜んで死んだ顔を見て、こいつぁ性根を入替える時だと思いました、それで上方へ立つ決心をしたんです」
「そりゃあまた、どうしてだね」
る仲間のいる江戸から離れて、さっぱりと賽ころの汚れを洗ってきたかったんです、三年も足を抜きゃ仲間とも縁が切れる、それから新規き直しに始めるつもりでした」
「そうだったのか、そんな入組んだ訳があったのかい」
 仁太郎は友吉の盃に酒を注いだ。……とっぷり暮れた窓の外は、依然として滅入るような雨の音だった。
「それでなにか、そのときお菊さんのことはどうなってたんだね」
「広田屋が御存じのような訳ですから、一時店を畳んだうえ、八丁堀の角太郎の家へあっしの帰るまで預かってもらったんです」
「すると、……その留守の間に、角とお菊さんができちまってたんだな。ひでえ野郎があるもんだ、おめえが上方へ立ってから半年もしねえうちのこったぜ」
「そいつは本当のこってしょうか」
「お菊さんは評判の小町娘だったから、うわさも相当派手だった、恥をかくのがいやでなかったら誰にでもいてみねえ、丸髷まるまげに結ったお菊さんが買物に出歩く姿ぁ阿娜あだなもんだったぜ」
 友吉は二三杯呷りつけた。……びしょびしょと小歇こやみもなく降る雨の音が、ささくれだった神経にいらいらと響く。
「二人はどこにいますって?」
 友吉が突掛るように訊いた。
「よくは知らねえが深川のほうで見かけた者があるってえ話だ、さすがに大川のこっちにゃ住めなかったんだろう、……自然うちの建場にゃあ角は来ねえから」
「若棟梁、酔ってもようござんすか」
「よかったらどこかへ繰込もう」
「いえそれには及びません」
 友吉の眼は粘るような光を帯びていた。
 茅場町かやばちょうの山崎屋という宿の二階で、友吉はそのあくる朝を迎えた。……仁太郎は自分の家へ草鞋を脱げと勧めた。そうすれば堀一家の兄哥あにい分として今後の面倒をみようと云う、だが友吉は断って別れた、先のことなんかどうなろうとかまわない気持だった。
 久しく呑まなかったところへ深酒で、頭の芯が割れるように痛かった。運ばれた飯には手をつける気もなく、窓からぼんやり、今日も降り続く雨の街を見ていると、やはり考えは一つことに落ちていった。
 ――そんなはずあねえ。
 いくら考えても信じられなかった、信じられない後から、しかし疑いは執念しつこきあがってくる、次から次へと色々な場面が空想される、それはまったく身の震える空想だった。
 ――いけねえ。こんなことを独りで考えていたってしようがねえ、二人を捜すのが先だ、捜し出してたしかめてからのこった。……なに深川がどれほど広いもんか、きっと捜し出してやる。
 友吉は迎え酒を呷ってから宿を出た。
 大川の水は茶色に濁って、ほとんど岸にあふれかかっていた。新大橋には蓑笠みのかさを着けた人々が大勢出て、通行人の制限をやっていた、橋が落ちそうだというのである。じつのところ、渡って行く友吉の足の下で、橋はぶるぶると身震いをしていた。
「今夜の上げ潮が危ねえぞ」
櫓下やぐらしたから先は土間へ水がついてるそうだ」
 水見に来たらしい人々のあいだに、そんな言葉が交わされていた。……降り続く雨で、本所、深川一帯は、もう四五日まえから、洪水の危険に迫られていたのである。友吉はそんなことを聞きながら橋を渡った。

二の一


 夕方の満潮が危ないといわれていたのに、その夜はかえって水が低くなった。
「こういうなが雨の時には、けっして洪水おおみずにはならねえものだ」
 そう云って経験を語る老人もいた。
 しかし新大橋は暮れがたに通行を止められてしまった。……永代橋はまだ渡れたが、友吉はそのまま深川で宿を取った。一日中歩き回って、濡れて、疲れて、躰は襤褸切ぼろきれのようにくたくただったが、気持は逆に鋭くなるばかりで、呑んで寝たにもかかわらず、朝まで眠れなかった。
 その翌日も一日無駄に終った。
 大工建場とか、棟梁の家々を尋ね回ったが、角太郎らしい者はどこでも捜し当らなかった。……雨に濡れ、水の溢れた道をむなしく戻りながら、友吉の心はますますとげをもちはじめた。
 ――ふん、みじめなざまぁどうだ。
 自分で自分をののしった。やりきれない気持だった。昨日の宿へ帰ろうとして、八幡前まで来たとき、小料理の軒行燈のきあんどんをみつけた友吉は、誘われるようにその軒をくぐった。……水の不安で客もないらしい、ひっそりした奥から出て来た女が、
「いらっしゃいまし」
 と云ったとたんに、
「……あら、まあ珍しい、友さんじゃありませんか」
 薄化粧をした顔を驚きでいっぱいにした女、友吉にはちょっと思い出せなかった。
「お忘れになったの、薄情な人ねえ、五郎兵衛町のおたなの裏にいたおよねですよ」
「ああ、あのお米ちゃん」
「ようやく思い出したのね、ま、とにかくどうぞ、お二階にしましょうね、ゆっくりしてらしっていいんでしょ」
 珍しいのと不思議のたて続けで、あまりいい好みではない二階の小座敷へ案内した女は、酒肴さけさかなを運ぶ間も惜しそうに話しかける。……広田屋の裏長屋にいた舟八百屋の娘で、ちょっと器量がよかったのと誰とでも気軽に冗談を云う明るい性質から、一時は界隈かいわいの若者たちにずいぶん騒がれたこともあった。
「あたしにもいただかしてよ」
 女は催促するように盃を差出した。
「この五六日水騒ぎでお客はばったりなの、すっかりくさってたところだわ、お馴染がいに今夜は酔わせてもらっていいでしょ」
「べつに酌はしねえから、勝手にやってくんな」
「御挨拶だこと、でも友さんは昔からそうだったわ、ひとがやきもきしているのに、いつだって外方そっぽを向いてどこを風が吹くかという顔だったわね、いま考えても憎らしいわ」
「なんだ、変なところで嬉しがらせを云うぜ、あの時分はおいらなんざ見向きもしなかったくせに」
「嘘にもそんなことを云わないでちょうだい、あたしが友さんをどんなに想っていたか、ちゃんと知ってたはずじゃありませんか」
「へええ、そいつは初耳だな」
「とぼけたって駄目よ、いつか杵屋きねやさんの土蔵の裏で、あたしを泣かせたこと忘れたの?」
 四五杯たて続けの酒で、女はもう少し酔ったようすだった。……云われてみればそんなこともあった、こっちはてんでそんな気持はなかったので、そぶりや※(「目+旬」、第3水準1-88-80)めまぜで心を通わせようとする娘を、ただうるさいとばかり思っていたが、いつか町内の杵屋という質屋の土蔵裏で、お米が恋文を渡そうとしたとき、一本気から手厳しくたしなめたことがある。
 ――いいわ。
 そのときお米は泣きながら云った。
 ――友さんに嫌われたらおしまいよ、あたしもう駄目な女になってやるわ。
「あのときあたし、本当にくるわへでも身を売っちまおうかと思ったのよ、……ませていたのね、あのときあたしは十六だった、友さんが十八ね、……二つ違いは縁が無いっていうけれど、本当だったわ」
「あれから間もなく引越したようだったが、ここにはいつ頃から来ていたんだ」
「この家へ来たのはつい先月よ、ずいぶん苦労をしたわ、おとっさんもおっかさんも死んだし、今では寒烏の一羽っきりで気楽だけれど、その代りなんの張合いもありゃしない、この頃は昔のことばかり考えているのよ。……あら、しゃべっていてすっかりお酌を忘れた、ごめんなさい」
「そいつはもう空だぜ」
「おや本当、こんなのってあるかしら」
 お米は笑いながら立って行ったが、戻って来るといきなり、
「自分の話で夢中だったけど、友さん」
 と大きな眼をして云った、「……あなたのほうはいったいどうしたの、あたしは友さんがお菊さんと夫婦になって、広田屋さんの跡を取るんだって聞いていたのに、あれは噂だけだったのかえ」
「どうしてそんなことを訊くんだ」
「だってお菊さんが角太郎さんと御夫婦になってるんだもの、あたしびっくりさせられたわよ」

二の二


「おめえ……」
 友吉はぐっと自分を抑えながら、「……あの二人が夫婦になったのを知ってるのか」
「あたしゃこんな稼業をしているので、恥かしいからまだ口はきかないけれど、二人で八幡様の裏に所帯を持っていますよ」
「……八幡様の裏っていうと」
「この先を左へ曲って行けばすぐの、大きな銀杏いちょうの木があってその路地の奥、狭いけれど二階造りでちょっといきな家だわ」
 友吉は酔いがめてきた、それで呷るように呑んだ。……もうお米の話も耳に入らず、とびだしたい気持を抑えるのが精いっぱいであった。
 ――やはり本当だったんだ。
 ざまあみろという声が、頭の芯で何度も聞えた。……三年まえの春が思い出される、上方へ立つ友吉を鮫洲さめずまで送って来た角太郎は、いよいよ別れるというときになると、愚直な顔に涙をうかべて、
 ――兄哥、お菊さんはたしかに預かった、どんなことがあっても兄哥の帰るまでは大切に預かっている、どうか安心して行ってくんな。
 そう云って泣き笑いをした。
 角太郎は友吉より一つ上の二十三だった、腕も達者というほうではなく、男ぶりもぱっとしない、ただ愚直で、間違いのない仕事をするだけが取柄とりえであった。……どんなことがあっても大切に預かっている、そう云ったときの、いかにも実意のありそうな泣き笑いが、友吉にはいま却って嘲弄ちょうろうするように思い出されてきた。
 ――畜生、あの顔でだましゃがったか。
 雨の街へ出たとき、友吉の心はもうずたずたになっていた。そして、四五間行った町並に古道具屋があるのをみつけると、ふらふらと店へ入って匕首を一本買った。
「……中川の水門が壊れたそうだぜ」
「もういけねえ、洲崎の波除けも崩れて、入舟町あたりは水が床へついたそうだ」
 道を行く人声はさっきから物々しくざわついていた。その付近も低いところには水が来ていた……暮れがたの鈍い光をうつして、どこからどう押して来るとも知れず、じりじりと、眼に見えぬ速度で、次第に盛上っていく水の姿は、まるで生物のような根強い力を持っていた。
 荷車へ家財道具を積んで逃げる者が幾組も通った、大きな包みを背負って女房子をきたてて行く者もあった。また一方では、
「大丈夫だ、安永あんえいの水のときもここはからなかったんだ、今は上げ潮だからこんなだが、見ていねえ、もう一ときもすれば退いちまうにきまってるから」
 そう云って、気早に逃げだすのをわらっている人々もある、古くから住んでいる人たちはみなその組だった。
 友吉は水を踏んで行った、教えられた大銀杏のところで右へ入る路地がある。ふところから手拭を出して頬冠りをした、端折った裾をきっちり帯へはさんで、匕首はいつでも抜けるように左のたもとへ入れた。……路地の中はくるぶしを浸す水で、もう溝板どぶいたが浮いている、逃げ支度をしている家もあり、畳をあげている家もあった。友吉はその騒ぎを遠い国のことのように聞きながら、なかば夢中で二階家の前まで来ていた。
 障子に灯がさしていた。
 声は聞えないが、なにか片付けているらしい物音がする、荷物を運び上げてでもいるのか、時々二階の窓の障子へ人影がさし、階段を上り下りする気配がした。
 友吉は格子戸を明けた。
「……ごめんください」
「…………」
「ごめんください、角さんはお宅ですか」
 はいという返辞が二階でして、足早に下りて来た者がある。……友吉は灯をけるようにしてじっと見ていた。
 下りて来たのはお菊だった。
 あのときが十八、だからもう二十一の、すっかり成熟した女になっている、きっちりと帯に緊められた腰のくびれも、浴衣の胸の弾力のあるふくらみも、たすきをかけてあらわになった二の腕の白さも、女のさかりの魅力が匂うようである。……友吉の眼は鋭く、お菊の髪が丸髷なのを凝視していた。
「どなた、船定ふなさださんからですか」
「…………」
「うちはまだ帰って来ませんが、なにか」
 と覗くはなへ、友吉は濡れ足のままずいと上って頬冠りをった。
 お菊は不審そうに友吉を見た。そして、誰だかということが分り、相手の眼の猛々たけだけしい光を見ると、
「……あっ、おまえは」
 愕然がくぜんと叫びながら、たじたじと後ろへよろめいた。友吉は襲いかかるようにとび込んで、女の右手をぐいとつかみながら、
「友吉だ、驚いたか」
 と歯のあいだから絞り出すように云った。

三の一


「友さん、なにをするの」
 女は本能的に危険を感じた。
「待っておくれ、これには訳があるのよ」
「どれに訳があるんだ、この丸髷にか」
「あ、あれ、誰か!」
 女のあげる悲鳴が友吉をしかけた。
「うるせえ、じたばたしても追付かねえぞ」
 力任せに引据えると、手に当った腰紐こしひもで女を後ろ手に縛り、手拭でがっちりと猿轡さるぐつわませた。……女は大きくみひらいた眼で、祈るように友吉の眼を見上げていた。
「よくも、……よくもおいらを騙しやがった、こんなこととは知らねえから、おいらあ上方で三年、ひと口の酒も呑まず稼いでたぞ」
「…………」
「広田屋の名を盛立てるにも、二人で所帯を持つにも先立つ物は金だ、白粉おしろいの匂いもがずべてえ物も我慢して、三年のあいだ貯めた金が三十両、腕一本で稼ぐには血のにじむ苦労をしてきたんだ、……それを、帰ってみりゃあこのざまだ、てめえたちゃ二人で、さぞこのおれを笑い草にしていただろう」
「…………」
「おいらも自分で自分が可笑おかしいや、可笑しくって堪らねえや」
 友吉は痙攣ひきつったように笑いだした。
「てめえたちが夫婦になったと聞いても、ここへ来るまでは信用ができなかった。それをうちはまだ帰らねえ……ぬけぬけと云ゃあがったな、これ見よがしの丸髷を眼前へさらしゃがったな、それでやっと騙されたことに気がついたほど、おいらあ間抜けの金看板だ」
「…………」
「古い台詞せりふだが、重ねて置いて四つにするんだ、死んだ親方もこいつは勘弁してくださるだろう、二人一緒にするのを慈悲だと思え」
 友吉はそれだけ云うと、お菊を抱上げて次の間へ行き、明いている戸棚の中へ押込んでふすまを閉めた。……お菊はされるままになっていた。
 路地には急に人声が高くなった。
「ああいけねえ、下駄が浮きだしたぜ」
「甚兵衛さん、おめえ逃げねえのか、こいつは並大抵の水じゃ無さそうだぜ」
蓬莱ほうらい橋が渡れたってさ、おまえさん、早くその荷物を持って出ておいでよ」
 そういう声に入り交って、ざぶざぶと水の中を歩く音が聞えた。どうやらひざあたりまで浸かってきたらしい。鋭い赤子の泣声が起り、どこかで犬が悲しげにえた。
 友吉は台所へ行ってみた、酔いが醒めそうで、なんとも云いようのない、酸っぱい悲しさと、怒りと、口惜くやしさが胸を緊めつける、……隅のほうに一升徳利があるのをみつけた、振ってみると半分がた残っていた。それを提げて六畳へ戻ると、いきなり徳利へ口を付けて呷った。
「角さん、角さん」
 二三軒先から誰かが呼んだ。
「いねえのかい角さん。おかみさん、……もう駄目だぜ、いまのうちに逃げねえと手後れになるぜ。……おかしいな、いねえのかな」
「角さん、お菊さんたら」
 女の声も聞えた。
 友吉はひょいと冷笑した、それからまた酒を呷りつけた。味もなにも分らない、ただのどをごくごくと冷たく落ちてゆくのが快かった。……路地内の騒ぎはいつか遠のいていた、ただどこかで人の呼び交わす切迫した声だけが、刻々に近づきつつある大きな危険を感じさせた。
 徳利がほとんど空になりかかったとき、友吉はひょいと聞耳を立てた。
 ざぶざぶと水音が近づいて来る。
「……お菊、……お菊、……」
 と呼ぶ声が聞える。
 友吉は徳利を投出して、片手を左の袂へ入れながら片膝を立てた。……格子があいて、水音をさせながら誰か土間へ入って来た。
「お菊、……どうした、いねえのか」
「いるから上って来い」友吉が叫んだ。
「誰だ、船定の吉さんか」
 そう云いながら上って来たのは、濡鼠のようになった角太郎であった。……彼は人違いをしたようすで、
「吉さん、落着いてちゃあいけねえ、舟はそこまでいて来てあるんだ、お菊は……」
 云いかけて、ぷっ、と口をつぐんだが、角太郎は聞えるほど息をひきながら、
「あっ、おめえ兄哥、……兄哥か」
「おれだ、友吉だよ」
「い、いつ、いつ帰って来た」
「そんなこたあどっちでもいいや、おいらの顔を見たからにゃ、……てめえ覚悟はいいだろうな」
「兄哥!」
「うるせえ、てめえのような畜生に兄哥と呼ばれる覚えはねえ」
「待った、待ってくれ兄哥、おめえまさかお菊さんを」
 云いかけて、角太郎は脱兎のように二階へ駈登った。

三の二


 風呂敷包みにした荷物が三つ四つ、行燈の光にわびしく照らされている、ひと間っきりの二階には求める女の姿はなかった。
「お菊さん」
 うめくように叫ぶ、うしろから、追ってあがった友吉がだっと躰当たいあたりをくれた。
「あっ、兄哥……待ってくれ」
「音をあげるな」
「話が、話があるんだ」
 角太郎は友吉より力があった。
「話せば分ってもらえるんだ、こうするより他にしようがなかったんだ、待ってくれ」
「まだ云ゃあがるか、畜生」
 ともすれば反対に、捻伏ねじふせられそうになる、友吉はぎらっと匕首を抜いた。
「あっ、危ねえ」
 角太郎は跳退く拍子に、包みへ足を掛けてだっとのけさまに倒れる、友吉はそいつへ躰ごと組付いた。……角太郎は死力を出して友吉の右手を掴み、匕首を自分の躰の下へ押込んだ。そしてほとんど畳を噛むようにして、
「兄哥……おめえ」
 と哀しげに叫んだ、「おめえ……三年まえ、鮫洲でおいらの云ったことを、忘れたのか」
「今さらなにを云ゃあがる」
「あのときの約束を忘れたのか兄哥、おらあ覚えてるぜ、おめえは忘れたかも知れねえが、云ったおらあ覚えてるぜ」
 振仰いだ眼からは、涙が溢れていた。
 あのときの眼だった。……あのときと同じ愚直な顔だった、頓智も云えず洒落しゃれを聞いても分らない、愚直一方の角太郎の顔だった。……どんな弁解も信じられなくなっていた友吉だったが、その眼と、その言葉には思わず水を浴びたようにはっとした。
「おらあ云ったはずだ、たとえどんなことがあっても、お菊さんは大切に預かっているって、……兄哥、おらあ人間が鈍だからへまをやらねえたぁ云わねえ、けれども兄哥とした約束だけは守ってきたぜ」
「そんならお菊となぜ夫婦になった、たよりもしねえでなぜ家を引越した、お菊に丸髷を結わせて、なぜおいらを世間の嗤い者にしたんだ」
「そりゃみんな堀の若棟梁のためなんだ」
「なんだ、堀の仁太郎がどうしたと」
「若棟梁がお菊さんをめかけにしようとしたんだ、兄哥は立ったあとで知らなかろうが、亡くなった親方は堀に借金があった、その金をかせにどうでもお菊さんを妾に出せと云うんだ」
 友吉は殴りつけられたように思った。
「兄哥が帰って来て、広田屋を盛返すためには堀一家と喧嘩けんかはできねえ、しようがねえからお菊さんと相談のうえ、二人が夫婦になったと見せることにしたんだ、おらあ鈍だからそれより他には智恵がなかった、兄哥さえ帰ってくりゃあどうにかなる、そう思ってしたんだ。……引越したのを知らせなかったのも、おめえに心配をかけたくねえからだ、おいらもお菊さんも、蔭膳かげぜんを据えて待っていたんだぜ」
 友吉は低く呻きながら起上った。――そうか、あの仁太郎がもとか。
 持っていた匕首を投出すと、いきなり友吉は階段へとんで行った。いつそんなに出たものか、水はもう階段を六分がた浸していた、友吉はくるくると裸になって、その水の中へとび込んだ。
 畳が浮き、箪笥たんすが浮いていた。友吉は夢中で戸棚の見当を捜した、狭い家の中なのに、水で浸るとまるで見当が狂う、二度まで息をきに水面へ浮んだが、三度めにやっと襖へ手が掛った。
 ――生きていてくれ。お菊。
 友吉は水の中で襖を蹴破けやぶった。それから手を伸ばしてお菊の腕と思えるところを掴んだ。けれどもう息が詰って、胸が引裂けそうだった、脳がくらんできた。
 ――お菊、お菊。駄目だ、友吉は息を吐くためにもう一度水面へ浮いた、そしてすでに、水が天床とすれすれまで上っているのを知った。
「兄哥、兄哥ッ」
 角太郎の狂気のような声を聞きながら、四度潜った、神の加護か、浸入する水の力で、お菊の躰が戸棚から押出されていた。友吉は夢中で抱込むと、流れる雑作のあいだを掻分かきわけながら、階段口のほうへ泳いで行った。
「……角!」
「兄哥」
「手を貸せ、お菊さんだ」
 角太郎の手へお菊を渡すと、気のゆるみで友吉はずぶりと水の中へ沈んだ、しかしすぐに階段へつかまって、肩で息を吐きながら二階へ這上はいあがった。
 角太郎は匕首を拾ってお菊のなわめを切り放した、友吉はすり寄ってお菊の肌へ手を差入れた、温みがあった、角太郎が手早く包みを解いて、縮緬ちりめん浴衣を一枚取出した、友吉は眼をつむって、お菊の濡れた着物を取替えた。それから、包み一つを引寄せ、その上にお菊を俯向うつむけに寝かして、力いっぱい背中を叩きながら、
「お菊、……お菊……お菊」
 と懸命に呼び続けた。……角太郎はその間に屋根へとびだして、
「兄哥、おいらあ舟を持って来るぜ、表の銀杏へつないでおいたんだ、もしあれが流されていたら、済まねえがおれたちゃ……」
「済まねえなあおれだ、見て来てくれ」
「じゃ分ってくれたんだね……兄哥」
 角太郎は振返って泣き笑いをした、「……おらあ鈍な生れつきだ、兄哥にとんだ心配をかけちまって済まねえ、勘弁してくんな」
「角……生きるも死ぬも三人一緒だ、おいらの馬鹿を笑ってくれ」
「おらあ……」
 泣き笑いを残したまま、角太郎は屋根伝いに跳んで行った。
 そのときお菊が水を吐いた。――しめた。
 ぐいぐいと、鳩尾みぞおちのところを手でむようにしながら、なおも背中を叩くうちに、二度、三度とおびただしく吐いたが、やがて低く呻き声をあげながら起上ろうとするようすを見せた。
「お菊、気がついたか、友吉だ」
「……ああ」
「分るか、おいら、友吉だ、友吉だぜ」
 抱起す手へ、お菊は力の抜けた自分の手をそっと絡んだ、濡れて、紙のように白い顔へ、にっと微笑がうかんだ。
「……友さん」
「なにもかも分った、お菊、おいらが馬鹿だった、堪忍してくれ」
 お菊の手が弱々しく友吉の指を握った、大きく瞠いた眼からほろっと涙が落ちて、むせびあげるような声で云った。
「友さんたら……あたしを、あんな処へ入れたまま、忘れたりして、……駄目よ」
「……お菊」
「あたし、こわかったわ」
 半分は泣声だった、そして懸命に笑おうとしたが堪り兼ねて、いきなり友吉にすがりつきながら叫ぶように云った。
「待ってたのよ……友さん」
 わっと泣くお菊の手を、無言の謝罪をめて友吉は握りしめた。すり寄せた頬と頬、二人の涙の温かさが、二人のあいだにあった三年の月日をいっぺんに取り戻した。……窓の外へ、角太郎のぐ舟の櫓音ろおとが近づいて来た。
 天明元年七月二十二日の夜のことであった。





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「雄弁」大日本雄辯會講談社
   1941(昭和16)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2025年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード