柘榴

山本周五郎





 真沙は初めから良人おっとが嫌いだったのではない。また結婚が失敗に終ったのも、良人の罪だとは云えない。昌蔵のかなしい性質と、その性質を理解することのできなかった真沙の若さに不幸があったのだと思う。
 松室の家は長左衛門の代で、中老の席から番がしら格にさげられ、更にその子の伊太夫の代で平徒士ひらかちにおちた。長左衛門は癇癖かんぺきたたって刃傷にんじょうしたためであるし、伊太夫は深酒で身を誤った。二代で中老から平徒士までおちるのはまれだと云っていいだろう。昌蔵は祖父がまだ中老だった頃の矢倉下の屋敷で生れ、九間町のお小屋で幼年時代を、そして十一の年からは御厩おうまや町の組屋敷の中で育った。――階級観念のかたくなな時代に、こうして転落する環境から受けるものが、少年の性質にどういう影響を与えるかは云うまでもあるまい。それに元もと祖父や父の感情にもろい血統の根もひいていたことだろうし、不幸はすでに宿命的だったという気もするのである。
 生家の井沼は代々の物がしら格上席で、父の玄蕃げんばは御槍奉行を勤めていた。真沙の上に真一郎、源次郎という兄があり、彼女はおんなの末っ子であるが、父の人一倍きびしいしつけで、ごく世間みずな融通のきかない育ち方をしたようだ。松室との縁談は戸沢数右衛門という中老から始まり、父には難色があったようだが、「松室の将来は自分が面倒をみるから」こういう戸沢中老の一種の保証のような言葉があってまとまったらしい。勿論もちろんこれは結婚が不幸に終ったあとで聞いたことだし、そのために戸沢中老に責をかずけるようなものではないけれども。――真沙は結婚という現実よりも、自分のために作られる衣装や、髪かざり調度などの美しさに、心を奪われるほど若かった。「十七にもなってこの子は、――」母親に幾たびもそう云われたほど若かったのである。祝言は八月のことで、話があってから三十日ほどしか経っていなかった。人の家へ嫁すということより、ふた親や兄たちと別れ、生れた家を去るという悲しさのほうが強く、でかける前になって庭へぬけだし、色づき始めた葉鶏頭はげいとうのところで激しく泣いたが、誰にもみつからないうちに涙を拭いて部屋へ戻った。……そのときの葉鶏頭の色と、それを眺めて泣いた涙のまじりけのない味を、そののち真沙はどんなに懐かしんだか知れなかった。
 新しい生活は真沙に衝撃を与えた。年よりもはるかにもの識らずだった彼女は、恐怖と苦痛と不眠とで、数日のうちに驚くほど憔悴しょうすいした。松室には病身のしゅうとめがいた。ごく口数の少ない人で、もう二年ばかりひきこもったきりだったが、このひとが真沙の様子に気づいたとみえ、さりげない事に託して色いろ話して呉れた。それでともかく訳のわからない恐怖は消えたが、その言葉のなかにあった「おんなという者のつとめだから、――」という表現がつよく頭に残った。どんな美味でも、それを喰べることが義務になったばあいには、食欲は減殺される。精神的にも肉躰的にも、余りに若かった真沙には、恐怖に代ってのしかかった義務の観念が新しい苦痛となり、抑えようのない厭悪えんお感となった。……昌蔵がもう少し違った性格だったら、それでも破綻はたんを避ける機会はあったかも知れない。然し彼自身も二十四歳という年にしては世情にうとかった。家系の落魄らくはくに対する卑下感から、その結婚を過大に考えすぎたらしいし、それだけ真沙への愛情も激しくいちずになったようだ。
「真沙はおれが嫌いなのか」彼はよくこう云って真沙の両手をつかんだ。「こんなに真沙を好きなおれの気持が真沙にはわからないのか。正直に云ってれ。どうしてもおれが好きになれないのか」
「おれはいつまで平徒士ではいないよ」僅かな酒に酔うと、肩をあげながら云った。「松室の家を興してみせる。大した事じゃあない。みておいで真沙、おまえをきっと中老夫人にしてみせるよ。世間へ出て恥ずかしくないだけの生活を、おれは誓って真沙にさせてみせるよ」
 家にいる限り、昌蔵はかたときも真沙を離さなかった。側にいれば絶えず手を握るか、肩を抱くかする。いつもじっとこちらを眺め、ふいにあおくなったり「美しいなあ」と溜息ためいきをついたりする。そして三日にあげずなにか物を買って来る。派手すぎてなまめかしいような着物や帯がえ、かんざし、なかざし、くしこうがい手筐てばこ、文庫、手鏡などという風に。――真沙はつとめて悦ぼうとした、なかには本当に嬉しい物もあったから。けれど最も深いところで齟齬そごしている感情が、どうしてもすなおに悦びを表わすことを妨げた。それでなくとも、昌蔵のこういう愛情の表現は、厳しく躾けられた真沙にとって好ましいものではなかった。――武士というものは、家常茶飯つねにこうだと云われて来た生活に比べると、恥ずかしさに身の縮むようなことが多い。それがますます彼女の心を良人から遠ざけるのであった。
 嫁していって間もなくのことだ。昌蔵は熟れた柘榴ざくろの実を割って眺めていたが、ふと熱のある人のような眼で真沙をかえり見、割った果実の中の紅玉のような種子を示しながら、こんなことを云った。
「この美しい実をごらん。私にはこれがおまえのからだのようにみえるんだよ」


「割れた果皮の中から、白いあま皮に仕切られて、この澄んだ生なましい果粒が現われる。まるで乙女の純潔な血をすすったような、この美しい紅さを眺めていると、私にはおまえのからだの中を見るような気持がしてくるんだ」
 そのとき真沙は、本当に自分の躯を割ってのぞかれたような、恐怖に近い羞恥しゅうちに襲われてぞっと身震いをした。云い表わしようのない嫌厭と屈辱のために、それから以後は昌蔵に見られるだけで、寒くなるような気持が続いた。――昌蔵は神経質になり苛々いらいらしだした。彼はどうかすると恐ろしく不機嫌になり、口もきかず、側へも寄らないことがある。居間からけたたましく呼びながら、急いでゆくと「もう済んだ、よし」などと突放すように云う。然しそれは決してながくは続かなかった。すぐにまた真沙をひき寄せ、びを云い、後悔しながら激しい愛撫あいぶを繰り返すのである。
「もう少しの辛抱だ。きっと出世してみせるからね」固く縮めた妻の肩を抱きながら、思い詰めた調子で彼はこう誓う。「こんなみじめな生活とはもうすぐお別れだ。真沙が妻であって呉れさえすれば、私はどんな事でもする。なんでもありあしない。もうめどはついているんだ」
 十月に姑が病死した。霜の消えてゆくような静かな死だった。臨終のとき姑は、枕元に坐っている昌蔵をつくづくと眺めた。それからその眼を真沙のほうへ移し、しばらくこちらをみつめていたが、やがてそのまままぶたを合わせた。それは、云い遺したいことがあるけれど、云ってもしょせんはだめだろう、そういう意味に真沙にはうけとれたのである。――昌蔵はみれんなほど泣き悲しんだ。然もそれは愛情の深いことを示すより、感情の脆さと、神経の弱さを証明するようで、真沙にはむしろ眼をそむけたい感じだった。
 年を越えて二月はじめのこと、とつぜん仲人の戸沢数右衛門が訪ねて来た。下城の途中だとみえ、継ぎ上下かみしもで玄関に立ったまま「松室は帰ったか」といた。そしてちょっと考えてから、「では帰ったらすぐ私の家へ来るように」と云って、そのまま玄関から去った。
 昌蔵は帰らなかった。真沙は夕餉ゆうげもとらずに待った。十二時に下女をかし、幾たびも迷ったのち、二時の鐘を聞いたので、常着のまま自分も夜具の中へはいった。――くりやを開ける下女のけはいで眼がさめると、もういつか夜が明けていた。すぐに起きて、そっと良人の居間へいってみたが、もちろん姿もみえないし、帰った様子もなかった。
「どうなすったのかしら」
 さすがに不安になって、こうつぶやきながら廊下へ出ると、そこに封書の置いてあるのが眼にとまった。真沙は危険な物をでもみつけたようにぎょっとし、五拍子ばかりおびえたような眼で眺めていたが、やがてすばやく手に取ると、人眼を恐れるように自分の部屋へいって坐った。……それは昌蔵から彼女に宛てた告白と謝罪の手紙だった。
 ――自分がなにをしたかということは、すぐわかるだろうから此処ここには記さない。そういう書きだしであった。自分は松室の家をむかしの位地に復そうと努力した。然しそれは家名や自分の出世のためよりも、それに依って真沙を中老職の夫人にし、物質的にも精神的にも恵まれた生活をさせてやりたかったからだ。自分には真沙を幸福にすることの他になんの野心もなかった。どうかこれだけは信じて貰いたい、自分はただ真沙を仕合せにしたかったのだということを。――だがみごとに失敗した。焦る余りに眼がくらんで、取返しようのない失敗をした。恐らくこれが松室家の辿たどるべき運命だったのだろうと思う。自分は退国して身の始末をつける。真沙には詫びのできることではない。だから赦して呉れとは云わずに去るが、ただゆくすえ仕合せであるように祈ることだけは許して貰いたい。真沙のためには本当に悪いめぐりあわせだった。どうか一日も早くこの不幸ないたでから立直って呉れるように。
 およそこういう意味のことが書いてあった。
 真沙はその手紙をすぐに焼いた。そのときの彼女にとっては、武士たる者が妻を仕合せにするために身を誤ったという、めめしいみれんな言葉にはらが立ったのと、これで自分は解放されるという気持の安らぎとで、短い文章にめられた哀切の調子などは、まったく眼に入らなかったのであった。……朝食を済ませるとすぐ、真沙は着替えをして戸沢中老の屋敷を訪ねた。数右衛門は話を半ばまで聞いたが、あわただしく家士を呼んで、追手の手配をするように命じた。
「両街道へ馬でやれ。雪を利用して山を越えるかも知れぬ。針立沢へも追手をかけろ」数右衛門は激しい言葉でこう云った。「どうしても逃がせないやつだ。出来る限りの手を打て」
 真沙はそのまま其処そこに留り、戸沢の家士が下女と留守宅へいった。……昌蔵はつかまらなかった。後でわかったのだが、そのときは菩提寺ぼだいじに隠れていて、追捕の手の緩むのを待って国境を脱けたのである。くわしい始末はわからなかったが、罪科は多額の公金費消ということだった。――真沙はそのまま戸沢家で、半年ばかり世話になった。


 昌蔵には逃亡のまま斬罪のとがきまり、松室の家名は絶えた。本来なら当然その妻にも御とがめがなければならない。然し仲人の責任で戸沢が奔走したものだろう、「国許くにもとお構い」ということで、その年の九月ひそかに江戸屋敷へ移された。
 江戸では母方の叔父に当る小野木庄左衛門の家におちつき、やがて御殿の奥勤めに上った。初め松泉院という藩主の生母に付いたが、五年して※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ちゅうろうかくにあげられ、祐筆を勤めた。このときの扶持ふちが御切米金十五両、御合力七両二分の他に、月々薪六貫四分、炭二俵八分、水油八合、ぬか二升八合、菜銀三十匁で、子供を三人使うことが出来た。――それから更に六年して、二十八の年に錠口勤めとなり、三十五歳で老女になった。
 ここまでは平穏で明るい生活が続いた。女ばかりの明けれで、時には詰らない中傷や嫉妬しっとや蔭口などにわずらわされる。中には好んでいかがわしい話題に興じたり、悪い癖を持っている者などがあって、女というもののいやらしさあさましさに、身のすくむような思いも幾たびか経験した。けれども年の若い者は別として、二十を越した者には、色いろな事情から生涯独身ときめた者が多く、そこには独立して生きる者のはりと自覚があったから、松室での生活に比べれば遙かに気楽でもあるし、伸びのびと解放された気持でいることができた。
「お嫁にいって苦労することを考えると、本当にこういう暮しは女の天国ね」
「むずかしい良人の機嫌をとったり、しゅうとや姑の小言にびくびくしたり、年じゅう休みなしに家事で追い廻されたりするなんて、想像するだけでもぞっとするわ」
「女が嫁にゆくということは、詰り自分と自分の一生を他人に呉れてしまうことなのね」
 こんな話をよくしたものである。然し三十五歳になる頃から、真沙の心に少しずつ変化が起こりだした。それは国許から長兄の娘が、江戸屋敷へ嫁して来たときに始まる。――そのめいは早苗といって十八になり、相手は納戸役で渡辺大七といった。真沙は二人の結婚式に招かれたのが機会で、同じ家中かちゅうにいる三家の親族とよく往来するようになった。それは老女という身分で、勤めにいとまのできたことや、三十五歳という年齢の関係もあるだろう。ごく疎遠だった杉原という母方の縁者とは、殊に近しいつきあいが始まり、時には家庭の中の事まで相談されるほどうちとけていった。
 その杉原で、妻女が病気で寐ついたときのことだ。真沙が見舞いにゆくと、良人の伊兵衛が枕許から立つのをよく見かけた。暇があると側へ来て、ものを読んだり話しかけたりしているらしい。いつもむずかしい渋い顔をしている人なのだが、そのときは不安そうな、ひどくそわそわと落着かない様子で、薬や食事なども自分で世話をする風だった。
「男って本当に子供のようですのね」妻女は眉をしかめてみせた。「わたくしが死ぬかも知れないって、すっかりおろおろしているんですの。医者の云うことなぞ信用ができないと云いながら、少し顔色が悪いくらいですぐ呼びにやるんですもの。恥ずかしくなってしまいますわ」
 そんな風に云う法はない。それは御主人がどんなに深く貴女を愛しているかという証拠ではないか。真沙はこう云おうとしてふと口をつぐんだ。理由はわからないが、なにかのどへ物でもつかえたようで、どうしても言葉にならなかったのである。その夜、真沙は初めて自分の結婚生活を回想した。夫婦生活に対する考え方は、既に十七歳の時のままではない。二十年ちかい年月のあいだには多くの事を識った。世間や人の心の裏おもて、生活を支える虚飾や真実、美しいものの蔭にある醜さ。……女が三十五という年齢で理解するものを、彼女も今は理解することができる。「自分は若すぎた――」真沙は胸の痛むような思いでそう呟いた。昌蔵のして呉れたことが、どんなに深い愛情から出たものであるか、それに対して自分がどういう酬い方をしたか、初めて真沙にはわかるように思った。
 そのときから、彼女の心にひとつの世界がひらけた。人を訪ねると、無意識のうちにその夫妻の様子を見ている。そしてそのたびに、自分と良人との生活を思い返すのである。収入も家格も年齢もほぼ共通しているのに、五つの家庭があるとすれば、五組の夫婦はみな違った生活をしている。よそよそしいもの、むつまじいもの、派手なもの、質素なもの。どのひと組も他のものに似てはいない。然もみなそれぞれにかたく結びつき、互いに援けいたわりあって生きている。脇から見れば、良人にも妻にも欠点のない者はないが、当人たちにはそれ程にみえないようだ。これが本当なのだ。真沙はそう思う。「良人となり妻となれば、他人に欠点とみえるものも、うけ容れることができる。誰にも似ず、誰にもわからない二人だけの理解から、夫婦の愛というものが始まるのだ」
 真沙はいま昌蔵の示した愛情の表現を、一つ一つ思いだしてみる。それはみな彼なりに真実であった。なみはずれてみえたのは、彼の愛情が他のどんな人間とも似ない彼だけのものだったからだ。彼が真実であればあるほど、それ以外に表現のしようはなかったに違いない。
「なんということだろう」真沙は両手で面をおおった。「なんということだろう――」


 昌蔵が出奔するとき遺していった、告白と謝罪の手紙も思いだされた。――真沙を幸福にしたかった。その他になんの野心もなかった。これだけは信じて呉れ。こういう意味の、叫びに近い部分がおぼろげな記憶に残っている。武士たる者がなんというみれんなことを、……そのときはそう思うだけで、すぐに焼いてしまったが、みれんにもめめしくもみえるほど、深い、ひたむきな愛情だったということが、今の彼女には鮮やかにわかる。
「焼くのではなかった。焼いてはならなかった。いま読めばもっともっと本当のことがわかったに違いないのに」
 真沙は四十歳で「年寄」になった。幕府や三家の大上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)に当る奥勤めの最上位で、切米も三十石、合力二十五両という扶持である。その頃から気持もまたひと転換した。昌蔵との結婚の失敗についても、自分に責のある点は云うまでもないとして、松室の不運な家系とか、その影響をうけた昌蔵の性格とか、また複雑に絡み合っていた周囲の事情とか、要するに不幸は避け難かったということなどがわかってきた。……ただそれが避け難い宿命だったと思えば思うほど、真沙自身にもう少しの知恵と愛情があったら、昌蔵の破滅だけは救えたであろうと、そのことだけがいつまでも悔いとして残った。
 真沙は五十二の年においとまが下って帰郷した。城下の桃山という処に家を賜わり、生涯五人扶持に、奥方から年十両ずつ下ることになったのである。……
 桃山は城下町から二十町ほど北へいった丘陵で、家はその南側の中腹にあり、赤松の林ごしに城と武家町の一部を眺められる。もと老職の隠居が住んでいたそうで、部屋数は少ないが千坪ばかりの庭があり、松や杉やかえでや桜などが、家をかこむように繁っている。よほど季感に敏い人だったとみえ、楓や桜なども松杉と対照して、眼立たぬようにくふうがしてあり、思わぬ灌木かんぼくの茂みに、苔付こけつきの石燈籠いしどうろうが据えてあったりした。
 さとの井沼では、ずっと前に父も母もき、長兄も五年まえに亡くなって、その子の善左衛門が家を継いでいた。これはなじみも薄かったし、気性が合わないので、ほんの儀礼に往来するだけだったし、その他の親族も同じように代が替っていて、親しく問い訪われるという相手が殆んど無かった。……召使は、金造という老人の下僕に、小間使と下女を加えた四人暮しである。三十日もすると、小間使のいねがまず淋しさにたまらなくなったのだろう。「この辺は冬になると狐が出るのでございますって――」などと背中を見るような眼つきで云った。そのくらいのことはあるかも知れない。北側にもう一段高くなって、ちらばらに武家の別墅べっしょがある他は、丘から向うの葉島谷にかけて、多く松やくぬぎの林と畑つづきである。真沙の幼い頃にはおおかみが出るとさえいわれ、松茸やしめじを採りに来るにも怯えたものだ。
「では聴狐庵とでもつけようかな」
 そのとき小間使にはこう笑ったものの、さすがに自分でも肩の寒いような気持は避けられなかった。
 三十余年もにぎやかなつぼねぐらしをしたあとではあり、はじめは流人にでもなったような寂しさだった。夜になると燈火を二つも三つも点けたり、いねを自分の寐間へ一緒に寝かせたり、どうしても眠れないので、しばしば夜半に酒をめたりした。冬のかかりにいちど鹿が迷い込んで来た。そのとき真沙は松林の中でまんりょうを採っていたのだが、落葉を踏むあらあらしい音を聞いて振返ると、つい鼻先に身の丈九尺(本当にそう思った)もある牡鹿が立っていた。栗色の斑毛と、恐ろしい枝角と、そしてぎらぎら光る眼とが、いっしょくたになってこちらの眼へとび込んで来た。自分では覚えていないが、非常なこえで叫んだそうである。金造が棒を持って駆けつけたときには、その鹿は林の下枝に角をひっかけひっかけしながら、田ノ窪といわれる方へ逃げていったという。「ひとつ鉄砲を買って頂くんですな。惜しいことをしました」老僕はいかにも残り惜しそうに、地境の外まで見にいったが、真沙はすっかり不安になって、雪の来ないうちに庭まわりへぐるっと竹垣を結わせた。
 年が押詰ってから、とつぜん一人の老婦人が訪ねて来た。
「おわかりになって――」その婦人は玄関でこう云いながら笑った。「おわかりにならないでしょ、いかが」
「まァ、戸沢の菊江さま」真沙はむすめのように叫んだ。「菊江さまでしょう。まあびっくりしましたわ。ようこそ、さあどうぞ」
 客は戸沢数右衛門の末娘だった。真沙より一つ年下で、いつか戸沢家に半年ほど世話になったとき親しくした。その頃もうどこかへ縁談が定っていて、真沙が江戸へ去ったあと嫁いだということは聞いたが、互いの境遇の変化もあって、それ以来まるで思いだしもしなかった人である。嫁ぎ先は大倉主殿という老職で、現在は良人と隠居ぐらしだという。真沙は百年の知己に会ったほども嬉しく、金造をその家へ使いにって、その夜はむりやり泊っていって貰った。


 桃山での生活はしぜんとおちついていった。菊江の訪れから糸をひいて、折おり客も来るようになり、俳諧はいかいや茶の集会を催したり、月雪花に小酒宴を張ったりした。……いねは三年いて暇を取り、下女もなかなか落着いて呉れなかった。金造はよく勤めたが、足に痛風が出たため、五年めに伊助という男を代りに入れて去った。それから二年ばかりのうちに、菊江が亡くなったのを始め、よく客に来た人たちの中から、江戸へ転勤になったり、病死したりして、幾人かの知人が欠け、彼女自身も三月ばかり病んで寐た。
 ――そのときのことである。秋も終りにちかい季節だったが、夜半と思うころふと眼が覚めると、庭のほうで横笛の音がしていた。江戸の御殿にいるうち、真沙も音曲はひととおり稽古をして、笛などもかなり聞き分けられるのだが、そのとき聞く節調はまったく耳馴れないものだった。節調とはいえないかも知れない。ただ即興に好みの音色をしらべているのかも知れない。淡々として平板で、少しも人の感情に訴えるものがなかった。笛は間もなく止んだ。
 起きられるようになって、かたちばかりの祝いに客をまねいた。その後のことであるが、客を送り出した庭さきで、ふと伊助を呼止め、
「おまえ笛をお吹きか」と訊いてみた。老僕はまごついたように叩頭こうとうして、いたずらでございますと口を濁した。金造と代ってから二年あまりになるが、いつも黙々と働く姿を見るだけで、彼とは余り言葉を交わしたことがなかった。もう六十七八であろう。せてはいるが骨のしっかりした躯つきで、肩のあたりにどことなく枯れた品がある。口数が極めて少ないし、なにをするにもおっとりと静かだった……。なにか過去に事情があって身をおとした人に違いない。こう思ってそのときはなにも云わなかったが、数日のち彼が庭を掃いていたとき、縁側へ茶を運ばせて、少し休むようにと呼んだ。伊助は沓脱くつぬぎに腰をかけ、いかにも静かに茶を味わいながら、真沙の問に少しずつ答えた。
「さようでございます。この土地の生れではございません」松林のかなたを眺めるような眼つきで、区切り区切りこう云った。「ひとこと話せばひとことが身の恥でござります。家はかなりにやっておりました。土蔵なども三棟ばかし有ったものですが、やっぱりそういう運だったものですか、今では帰っても土台石ひとつ残ってはおりません。さようでございます、ずっと南のほうでございます」
 そのときがきっかけになって、真沙はよく伊助を話し相手に呼んだ。彼は訊かれることはすなおになんでも話すが、すべてが控えめで、直接その事を語るより、脇のことで表現するという風だった。例えば笛にしても、「自分のはでたらめである。然し三年ばかり里神楽の仲間と一緒に暮したが、あの仲間には名人といってもいいような人間がいる」こういう云い方をするのである。妻もいちど貰ったが、うまくいかないで別れた。もちろん子供もない。故郷をとびだして以来は街巷ちまたから街巷を流浪して歩き、口には云えないような世渡りもした。まるで水の上に落ちた枯葉と同じで、ただ流れのまにまに生きて来たのである。
「その枯葉が風の拍子で、よどみへ吹き寄せられた、――此処のお世話になったのも、ちょうどそんな工合でござりましょうかな」伊助はこう云って静かに笑った。「おかげさまで生れて初めて落着きました。こんな静かな、のびのびした暮しができようとは、夢にも思いませんでしたが――」
 こうして親しく話すようになっても、伊助の態度は少しも変らなかった。いささかでもれた様子とか、怠けた風はみせない。こちらから呼びかけない限りは、黙ってこつこつ自分の仕事をしている。酒なども出してやれば飲むが、自分では決して口にしないようだった。
 或る年の秋だったが、林の中を歩いていると、あけびのなっているのをみつけた。採ろうとしたが高いので、伊助を呼びに戻った。彼は薪を割っていたのだろう、納屋の前のところで台木に腰をおろし、こちらに背を向けて、なにか手に持った物をじっと眺めていた。割られた木の、酸いような匂いが、そのあたりいちめんに漂っている。なにを熱心にながめているのだろう。真沙はふと脇のほうから近寄りながら覗いた。――老人の掌の上には、柘榴の熟れた実があった。真沙はなんだと思って苦笑しながら、
「うちの柘榴は酸っぱくて喰べられないのだよ」
 こう云った。どんなに吃驚びっくりしたものだろう。伊助は殆んど台木からとび上り、柘榴は彼の手から落ちてころころと地面をころげた。
「ああきもがつぶれました」伊助はあけびを採りながらも、幾たびか太息といきをついた。「こんなに驚いたことはございません。きっとはんぶん眠っていたのでございましょうが――」
 八年いるあいだに、彼がそんなあからさまな自分をみせたのは初めてである。真沙も久方ぶりにずいぶん笑い、後になってからも、思いだしては可笑おかしくて頬笑まされた。


 庭のかしることにきめたのは、のちの月の十日ばかりまえだった。こずえも伸び枝も張りすぎて、月を眺めるのに邪魔になる。去年もそう思ったのだが、つい気がすすまずに延ばしてあった。その話をすると「宜しかったら私が伐りましょう」こう云って、伊助はすぐ城下までおのを買いにいった。
 樫は根まわり五尺ばかりあった。伊助は休み休み一日いっぱい斧を振っていたが、二日めの午後にようやく半分くらい切込んだ。……真沙はそれを見にいってから、居間へ戻って手紙を書くために机に向った。亡くなった菊江の友で、城下の本伝という大きい商家の妻女が、この頃では最も親しく訪ねて呉れる。その人へ後の月の招きを出す積りだったのだ。――墨を磨り、紙をのべて、筆を手にしながら書きだしを考えていると、どんな連想からだろう、とつぜん真沙の頭に奇妙な疑いがきあがった。それは伊助が良人の昌蔵ではないかということだ。この奇妙な疑問が、なにを根拠に起こったかわからないが、ふとそう思ったとたんに、非常な確実性をもって真沙の頭を占領した。それは八年のあいだ、無意識に溜めていた印象の断片が、自然の機会を得て、一つのかたちを成したとも云える。
「ああ」真沙は低くうめきながら筆をおいた。
 樫木が伐倒されたのであろう、だあっとすさまじい物音がし、地面が揺れた。
 真沙は身震いをした。柘榴、――松室へ嫁したはじめの頃、昌蔵は柘榴の実を割って、その美しい種子粒を妻の躯にたとえた。伊助は納屋の前で掌に同じものを載せ、近づいて来る人のけはいにも気づかぬほど熱心に眺めていた。あのときの度外れな驚きようは、単にぼんやりしていたための驚きだろうか。……真沙の潜在意識の中から、八年間のあらゆる記憶がよみがえってくる。彼の身振り、言葉の端はし、笑う口つき、ものを見る眼もと、そしてまた柘榴。
「だがどうしたのだろう」真沙はふと庭のほうへ眼をやった。「――なにも聞えない。樫の倒れる音がしたっきりだ」
 たしかに、樫の倒れる凄まじい音と地響きがしてから、急にひっそりとなにも聞えなくなった。……真沙は立って縁側へ出てみた。庭の向うがひとところ、嘘のように明るくなって、これまで見えなかったお城の巽櫓たつみやぐらが正面に眺められる。樫木は斜面の低いほうへ倒れ、鮮やかに新しい切口をこちらへ見せている。なんの音もしないし人の影もない。――その異様な静かさは真沙をぞっとさせた。なにか起こった。なにか非常な事が起こった。こう直感するなり、彼女は跣足はだしで庭へとびだしていた。
 伊助は樫木の下敷になっていた。腰骨のあたりを押潰おしつぶされて……。彼は唇まで紙のように白くなり、歯をくいしばっていた。真沙は悲鳴をあげて、小間使と下女の名を呼びながら伊助の側へ膝をついた。――駆けつけて来た下女と小間使が、とりみだして騒ぐのを叱りつけ、一人を医者へ、下女には人を四五人呼んで来るように命じてやった。
「しっかりして下さい。もうすぐ人が来ます。医者もすぐ来ますよ。わたしがわかりますか」
「構わないで――」伊助はほとんど声にならない喉声のどごえで、眉をしかめながらこうささやいた。「年を取ったのですな。足を滑らせまして、……ばかな事です」
 真沙は伊助の肩へ手を掛けた。そしてじっとその眼をみつめながら云った。
「本当のことを云って下さい。――あなた昌蔵どのではございませんか、あなたは松室昌蔵どのではございませんか」
 伊助は口をあき眼をみはった。その大きくみひらかれた眼を、光りのようにすばやく、なにかのはしるのが感じられた。真沙は両手で彼の肩を掴み、顔と顔を重ねるようにして呼びかけた。
仰言おっしゃって下さい。傷は重うございます。これが最期になるかも知れません。本当のことをひと言だけ聞かせて下さいまし。あなたは真沙の良人でございましょう――」
 伊助はじっとこちらを見た。黙って、かなりながいこと真沙の眼を見上げていたが、やがて静かに頭を左右へ振った。そして、ごくかすかな、殆んど聞きとれないような声で、「いい余生を送らせて貰いました」と囁いた。
 後の月の招宴はとりやめにした。伊助のなきがらを埋めた庭の隅の、灌木に囲まれた日溜りに、よくひよどりが来ては鳴いていたが、間もなく雪が来てすべてを白く掩い隠してしまった。
 凍った根雪の上にまた雪が降り、その上にまた積っては凍りしてからも、真沙は伊助の墓標の前へいって物思いにふける習慣をやめなかった。
 伊助は自分が昌蔵であるということを否定した。それはそのままに受取ってもよいし、また否定のかたちをとった肯定と解釈してもよい。真沙もすでに六十三歳になっていた。言葉やかたちで示すもの以外の、もっと深くより真実なもの、人の心の奥深く秘められたものを理解する年齢に達していた。八年いるうちには、真沙があれからずっと独身でとおしたことも知って呉れたであろう。伊助も「いちど妻はめとったが、うまくいかずに別れた。それ以来は妻もなし子もない」と語ったことがある。――そして伊助が昌蔵であったにせよなかったにせよ、最期に囁いた彼の言葉は、真沙を慰めるのに十分であった。
 ――いい余生を送らせて貰いました。





底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
   1983(昭和58)年12月25日発行
初出:「サン写真新聞」サン写真新聞社
   1948(昭和23)年4月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード