蜆谷

山本周五郎





「こんなにかもの寄らないこともないもんだ、もう師走しわすという月でまるっきり影もみせない」風邪でもひいているような、ぜいぜい声でこう云うのが聞こえた、「もう十年もむかしだったか、沖の島の杓子岩しゃくしいわのくずれた年だかに鴨の寄らないことがあった」
「なむあみだ、なむあみだ」別の声がうたうような調子でそう云った、「ばかなてだ、これじゃあまた明日は寝て暮らすだ、出て来なけりゃあよかった」
「猟場が変わったのもたしかだ、の鼻の千本杭から内湖うちうみのしりへかけて、去年はだいぶ捕れたというはなしだ、えさが片寄るからだろう」
 片方は水洟みずっぱなをすすってぶつぶつ口小言を云ったりしながら、彼らはしだいに湖のほうへと遠ざかっていった。
 ……弥之助はやがて稲村の蔭をそっと出た。あたりはまだ暗いが、もう間もなく明けるのだろう、気温は厳しく冷えはじめ、二日間なにも食べていない彼の全身は感覚をうしなうほどこごえてしまった。しかしもうひとつ丘を越えればいいのだ、足を強く踏みしめたり、両手でからだを叩いたりしながら、石ころの洗いだされている歩きにくい坂道を登ると、松林にはいってゆるく右へ曲がる、そこから十町ほどいったところで道が二つにわかれ、左へゆくともう青樹あおき村の地内だった。
 下り坂にかかると沢の音が聞こえてきた。蜆谷しじみだにの流れである。琵琶湖びわこに向かって下る鈴鹿山脈の支峻ししゅんが、もうほとんど平野に接する地形で、谷といっても深くはない、高さ三十間ほどのなだらかな丘と丘にはさまれた峡間はざまを、犬上川へ落ちる川があって、質のよい蜆が多くとれる。湖畔の村々へ種蜆として出すくらいで、蜆谷という小名しょうめいもそこからきたのだろう、子供のころから二十余年、朝な夕なに耳なれたその水音を聞いて、弥之助は胸がいっぱいになり涙がこみあげてきた。
 ――とうとう帰って来た、生きてあの水音を聞くことが出来た。
 心の中でそうつぶやきながら、杉林をぬけくぐりつつかなり勾配こうばいの急な坂を下りていった。……土橋を渡り、平地へ出たところから麻畑になる、彼は裸になったその麻畑の細い畦道あぜみちへはいり、やぶをまわって地蔵堂の横へ出た、そこから一段低くなった杉林の中に、自分の家があるのだ。彼は道なりにゆくのがもどかしくて、地蔵堂を過ぎたところから下の畑へとびおりた、もうひとまたぎだ、杉林をつきぬければわがの背戸である。しらみはじめた未明の光のなかに、もう家の屋根が見える。
 ――おっ母さん。
 彼はそう呼びたい気持でかけだしたが、杉林を出ようとして足を止めた。厨口くりやぐちから燈火とうかの光がちらちらと見え、人の声が聞こえたから……家には母親のげんと妻のおなおしかいないはずだ、しかしいまそこから聞こえてくるのはどちらの声でもなかった。彼は耳をすまして、誰の声か聞きとろうとした。すると燈火ともしびがふと消え、はなしごえが絶えて、表から誰か出て行くようすだった。彼はすばやく背戸へかけ寄り中のけはいをうかがってから「おっ母さん」と低く二ど呼んだ。答えはなかった。それで裏戸を明けてとびこみ、すぐあとを閉めながらもういちど呼んだ。しんとした家の中には誰のいるようすもない、草鞋わらじをぬいであがってみた、炉の残り火になべがつってある、けれども母も妻もいなかった。……ではいま出ていったのが母とお直だろう、彼は炉にかけてある鍋の蓋を取ってみた、かゆのようである。膳戸納ぜんとだなをあけて椀とはしをとりだすと、ふるえる手で粥をつけた、まるでとびつくようにひと箸ふた箸たべかけたが、あまり舌ざわりが変なので、よく見るとそれはひえであった。かきまわしてみたが一粒の米もない、まったく稗ばかりの粥なのだ。
「そうか」弥之助はそう呟やいた、「こんな苦労していたのか、あのおっ母さんが稗だけの粥をたべるなんて……」
 ずいぶん飢は激しかったが、三杯たべるともうのどに通らなかった、そしてともかくも温まり空腹感がおさまると、こんどは二日三ばんの疲労がいっぺんにでて、どうにも起きていられなくなり、納戸へはいって倒れるように横になった。「家に帰ったよ、又二郎」彼は手にあたる夜具にくるまりながら、死んだ友達にこう呼びかけた、「これからどうなるかわからない、けれどともかく蜆谷の流れの音を聞き、自分の家の納戸で寝ることができる、おまえが生きていて一緒に帰ったんだったらなあ」
 死んだように熟睡していた彼は、ああというするどい叫び声ではね起きた。ながいあいだの落人おちゅうどぐらしで、意識より肉体のほうが危険を先に感ずる。反射的にはね起きてから、彼はようやく眼をあいた。ふすまをあけて、そこに母が立っていた……髪はほおけたあしの花のように灰色だった、腰は曲がっていた、だらっと抜けたように垂れている手は、まるで枯木の枝のようにやせていた、けれどもそれは母に違いなかった、おっ母さんと呼ぶ彼の声を聞いて、母親はひいという風な、喉を絞るような叫びをあげ、両手で顔をおおいながらそこへひとつくねのぼろのように倒れた。


「蜆をとりにいったのさ、そして御城下まで売りにいって来たのさ」母の話はそこから始まった、「もうながいことそれでしのいできた、田も畑も売った、着る物も家財道具も売れる物はみんな売ったあげくただ頼りになってくれたのは西畑にしはたのお八重さんひとり、あとは村じゅうがかたきになってしまった、もう生きるちからもなくなっていたところだ」
 彼は歯をくいしばりながら聞いていた。安油の焦げる音が雪になった夜のしじまに悲しい呟やきをあげている。
 ……ここはもと佐和山城のあるじ石田三成の領分であった、二年前慶長五年七月、領主一代の合戦があるため、心ある者は陣へまいって働くようにという布令ふれがまわった。徴発でないために、たいていの者は見ぬふりをしていたが、この蜆谷からは彼と西畑の又二郎と、川端の源五の三人が出た。そのときは村じゅうがお祭りのような騒ぎをやり、幾夜も祝い酒でにぎわったものだ。
 ――おかげで青樹村の名も世間へ出る。
 ――ひとつ三人に大将首でも取ってもらうんだな。
 ――弥之さんが歳役としやくだ、頼むぞ。
 ――あとの事はひきうけたからな。
 家族も田畑もあとは村じゅうでひきうけた、どんなことがあっても案ずる必要はない、御領主さまのためにしっかり働いて来てくれ、みんなが口ぐちにうるさいほどそう云った。弥之助は四十日ほど前に嫁をもらっていた、村名主をつとめ、川延源兵衛かわのべげんべえ苗字みょうじをゆるされた旧家の三女で、名をお直といい十七歳だった、嫁の実家が庄屋に次ぐ旧家なので、三人のなかでもとりわけ彼は騒がれたし、「あとのことは心配するな」という言葉も信じていいと思ったのである。……しかしたたかいは負けいくさになった、彼はもちろん合戦の経緯などわかりようがない、はじめ荷駄に使われたのを、間もなく又二郎とふたり槍足軽にあげられ、関ヶ原の陣に加わった。九月十五日の合戦には槍をふるって敵とたたかいもしたが、これとてもまったく夢中といっていい、みかえす旗さし物の渦やひらめく槍かたなのすさまじい光や、があっがあっとしか聞こえない叫喚の声が、おぼろげな印象に残るくらいである。あとは雨あがりで戦場がひどくぬかり、進むにも退くにもひどく苦労だった、そのことだけはふしぎなほどはっきり覚えている……負けいくさになり、くずれだしたとき又二郎が討死した、背中から胸へ銃弾で射抜かれたのである、それからは敗走する兵といっしょに北へ逃げ、西へ逃げ、ちりぢりばらばらになって、方角も知れずうろつきまわった。佐和山は関東勢が固めているというし、石田軍の落人は捕まりしだいに首を斬られると聞いて、負けいくさになるまでそれほどでもなかったが、敗走を始めてから命が惜しくなった、ひじょうに惜しくなった。どうかして生きたい、生きてもういちど故郷の山河を見、母や妻に会いたいと思った。
 ――合戦で死ぬならあきらめもつくが、ここまで生き延びて殺されるのはいやだ、どうかして生きたい、母やお直の顔を見るまでは、どんなにしたって生きてみせる。
 弥之助は執念のように、ただその一つを思いつめた。どこへいっても関東軍の兵馬がいた、彼は山城のくに高塚という所で、苦しまぎれにその荷駄役のなかへまぎれ込んだ、彦坂という大将の荷駄で、そこから伏見へゆき、さらに京へのぼった。このあいだに領主の石田三成や安国寺恵瓊えけいや、小西行長などという大将が捕えられ、京の六条河原で斬られたことを聞いた。
 ――佐和山地内は賊将の直領だから、詮議せんぎもいちだんと厳しいそうだ。
 そういう評判はどこでもしていた。彼は故郷を案じ母や妻の無事を念じながら、しかし帰る決心はつかず、彦坂小刑部しょうぎょうぶの小者のなかで一年あまり過ごした。そして今年の夏、東海道に各駅伝馬の制が定められ、彦坂小刑部がその事業の宰領にあった縁から、近江の水口みなぐち駅の伝馬問屋へはいり、その検荷役になることができた。……これで身のおちつきがきまった、事情によったら母と妻をつれ出して来られる、そう思うと矢も盾もたまらなくなり、危険をおかして帰ったのであった。
 そのころ佐和山へは井伊直政という大将が新しい領主として就封して来た。治部少輔しょうゆうの旧直領として厳しい御詮議だったというから、新領主の法度はっとは重いものに、違いない、家や田畑はどうなったろう、母や妻はどんな身の上に落ちたろうか、そういう不安とおそれに心をおののかせて帰って来たのだが、事実はまったく予想に反していた。田畑もほとんど失い家財道具もなくなった、母は老いの身で蜆をとり、二里さきの城下まで売りにいって、かつかつ稗粥をすすって生きていた。しかしそれは領主が変わったためでもなく、治部少輔直領の民だったからでもない、原因はすべて村人たちにあった、負けいくさとなったときから、村人たちは寝返りを打つように態度を変えたのである。


 関ヶ原の合戦が終わると、田中兵部という大将がこの付近の監察に当たり「石田軍の兵となって出陣した者、また敗戦後に帰村した者は届け出るように、もし秘してかくまうような場合は屹度きっと申しつけるであろう」という厳重な布令ふれがまわった。……川端の源五は、関ヶ原の合戦の始まる前に帰っていた、「けがをした」といっていたが、実はいくさが恐ろしくて逃げ帰ったといううわさがたち、自分でもうしろ暗かったものか、ほとんど世間づきあいをせずにいたが、その布令がまわると急に元気になり、大手を振ってのしまわりだした。
 ――弥之と又は槍足軽になって関ヶ原の合戦へ出た、けれどもおれは足をくじいて途中で帰って来たんだ、おれは荷駄人足で関ヶ原にもかかわりはない。しかしあの二人はただじゃあすまない、もし帰って来れば捕まって斬られる、だってあいつらは槍を持って軍勢の中で戦ったんだから。
 源五は得々とこう云いまわった。なにしろ総大将であり領主だった三成はじめ、小西、安国寺などという偉い人たちさえ、捜し出されて捕まり、罪人のように首を斬られた。その他この付近でも関ヶ原くずれが幾人となく捕えられ、そこで斬られたり、本陣へかれていって打ち首になったりした。源五の言葉がなくとも、西畑の家族や弥之助の母は生きた心地もなかったのである、それでもいざとなったら村人たちが見捨てはしない、きっとちからになってくれるだろうと考えていたら、庄屋の沼田六平次がまず田を取り上げた、自分のものが五反、あとの五反は庄屋から借りていた、その五反を取り返されたのだ、それをきっかけのように、村名主が来て嫁のお直をつれ去った、「親類にもおとがめがあるそうだから」源兵衛はそう云った、「幸いまだ子供もできず、祝言して四十日あまりの、妻とは名ばかりの縁だから」それはうむを云わさぬやり方だった、荷物もきれいに持っていった。村人たちはまったく寄りつかなくなり、聞こえよがしに悪口を投げつけた。
 ――百姓は百姓でいるがいいのさ、柄にもなく戦場へのさばり出るからこんなことになる。
 ――兜首かぶとくびをあげるなんていばっていたが、こんどは自分の首が危ないじゃないか。
 ――分際ぶんざいを忘れたお先ばしりの罰だ。
 そんな悪口は泣きながらでも聞きのがせたけれども収穫が終わるとさらにひどいことが行なわれた。庄屋の田からあがったものは云うまでもなく、自分の田地からとれた米で母の手に渡ったのは五俵にすぎなかった。理屈はいろいろあったが、「今年の作はみんな村の者がやったのだから」というのがおもだった。
「西畑でも同じことさ」と、母親はふるえる手で涙をふきながら云った、「働き手の又さんが出て、あとは寝たきりの平助さんをかかえた若いお八重さんひとり、どうなるものじゃない、やっぱり村の衆の手を借りなければならなかった、それで出来秋できあきに受け取った米が六俵だ」
 そんなもので節期の払いができるわけはない、手に取った米を右から左へ、一粒も余さず渡して、なお田地を少し売らなければならなかった。西畑では老父が中気で寝たきりだし薬代というものがあるためもっとひどかった。
「売る物があるうちは売って食った。それがなくなったからとて食べずにはいられない。お八重さんと相談して、畑に出来る物を御城下へ背負っていった、手作りのやなでうなぎやふなをとって持ってったこともある、秋から春のかかりまでは蜆だ、……蜆は侍長屋でいちばんよく売れた。そうすると村の衆がかってにとっちゃいけないと云いだした。おまえも知っているだろう、蜆谷の蜆は、この家の三代前弥兵衛という御先祖さまが堅田かただから移したもんだ、二本柳から横橋までの五町が活け場になっている、その五町の上下にしるしを打って、村で定めた者の他は水へはいってもいけないと云うんだ、……しかたがない、あたしとお八重さんは二本柳の上までとりにゆくのさ、雪が降ろうと風が吹こうと、暗いうちに起きて、あの道を二十町ものぼって蜆をとるだ、それから、片みち二里の御城下へ売りにゆくだ、そうして稗粥さえすすれない日が幾たびもあったものだ」母の灰色になった髪毛かみが、心の忿いかりをあらわすかのように、うす暗い燈火ともしびのなかできらきらと震えた、「……おまえが討死でもしたとわかっていたら、私はとうに生きてはいられなかったよ」
 弥之助はそのどうしても眠れなかった。
 頭は燃えるようだ――てのひらには膏汗あぶらあせをにぎりながら、躯も足も氷のように冷え、休みなしにわなわなと震えた。……おさえようとすればするほど忿怒ふんぬが逆につきあげてくる。
 ――なにもかもいくさに負けたからだ、村の者が悪いんじゃない負けいくさのためだ、人間は誰しも自分が可愛いのさ。
 そう思うあとから、しかし戦に負けたのはおれのせいじゃない、軍卒になったのも自分の欲からじゃあない、お布令がまわったから出たのだ。そのとき村の者たちは、おのれらの責任がのがれたのを喜んで、あんなお為ごかしなばか騒ぎをやったじゃあないか、いったい彼らは、このいくさでどんな損をしたというんだ。彼は叫びだそうとするのをおさえるために夜具の袖をみ野獣のようにうめいた。
 まだ暗いうちに表の戸を明ける者があった。眠れずにいた弥之助が出てゆくと、お八重が雪まみれになった笠やみのを脱いでいた。
「おばさんお早う、今日はいかないでしょう」
 そう云いながら振り返った娘は、そこにいるのがげんじょでないのを知って息をひいた、「まあ、……まあ弥之さん」
「弥之助だよ、お八重ちゃん、帰って来た」
「あにさんは」八重はじりじりと後ろへ身をひきながら、恐怖にうたれた人のように声をふるわせた、「そして、あ、あにさんは」
「上へあがりな、いま炉の火をつくるから」


 朝の光がすすけた障子を寒ざむと染めだした。それで炉の火の乏しさがいっそうきわだったようにみえる、弥之助は関ヶ原の話をしていた、又二郎がどんな風に討死したかということを。……もうお八重は泣いてはいなかった。げん女が息子の生きていることを信じたように、彼女は兄が死んだものとあきらめる習慣がついていたのだ。
 母が釜戸かまどへ立っていた、弥之助はお八重の衿足えりあしにつよく眼をひかれた、二年のあいだにすっかり娘らしくなっている、そういう艱難かんなんな生活にいためられながら、若い命はいささかのためらいもなく、みずみずとそのつぼみをふくらめている、髪もつやつやとしてきた、うるみをおびた眼つき、鮮やかに赤く湿った唇、ちょっと手をふれても紅くなる豊かな頬、ひびきの深くなった声にまで、聞く者の心をそそるような一種の響きがあった。……ちょうどお直の年になったのだな、そう気がついた彼は、釜戸のほうに気を配りながら、去っていった妻のことをきいた。
「え、お直さんは泣いていました」お八重も声をひそめながらささやいた、「でもあのひとはあのとおりおとなしいから、どうしてもここにいると云いはれなかったのでしょう、家へ帰っても泣いてばかりいたと聞きました」
「いまどうしているか知らないか」
「このごろはどうしていらっしゃるか、多賀の宮の秋祭りにはきれいにおつくりをして、お姉さん達とおまいりにゆくのを見ました」
「出ていってから、いちどもここへは来なかったんだね」
「来たかったんでしょうけれどね」
 お八重はそこでまたお直がおとなしいから、親きょうだいに云いこめられてどうしようもなかったのだろうと云った。たしかにそうだろう、自分の意志というものをもたないかと疑がわれるほど、お直は従順いっぽうのおとなしい女だった、……たしかにそれはそうだが。
「弥之さんこれからどうするの」お八重はこう云って眼をあげた、「あなたの帰ったことを知れば、村の人たちはきっと黙っていないわ」
「佐和山へ訴えるとでも云うのか」
「おばさんにこんなひどいことをしてきたのだもの、あなたが帰って来れば仕返しをされると思うに違いないわ、お直さんとのことだってこのままじゃすまないでしょう、だからきっと訴えるに違いなくってよ」
「おれはおっ母さんとお直を迎えに来たんだ」弥之助はちょっとをおいてから云った、「母子おやこ三人のおちつき場ができたから、そこへいけばどうやら不自由なく暮らしてゆける、関ヶ原くずれなどとも云われずにな」
「そうなさるがいいわ、ここにみれんを残すことはなくってよ弥之さん、あたしだって身軽にさえなったら一日もいやしないわ」お八重はきつく歯をくいしめた、「すぐいっておしまいなさいよ、おばさんだってそのほうが仕合せだわ」
「しかしおれはいかない、おれは蜆谷にいるよ」
 お八重はびっくりしたように口をあけた、弥之助は自分の右手をあげ、掌をひらいてじっとみつめながら、重たく沈んだような声でこう云った。
「あの年になったおっ母さんを、いまさら他国へつれてゆくのは可哀そうだ、ここには御先祖の墓もある、お直という女房もいる、おれはこの蜆谷で暮らすよ」
「お直さん」お八重の肩がびくっとひきつるようにみえた、「だってそれ、……それじゃ、あなたは捕まってしまうわ、弥之さん」
「そうかもしれない、しかしそうでないかもしれないよ」
「そうでないかもしれないって、なにか捕まらずにすむ仕方があるんですか」
「やってみる」弥之助はひらいた手を固く握りしめながら云った、「人間はあるばあい、自分や家族の安全をはかるまえに、しなければならぬことがあるもんだ、そういうときにぶつかったら、やっぱりそのほうを先にするのが本当だ、おれはゆうべひと晩、眠らずに考えてきめたことがある、そいつをやってみるつもりだ」云い終わるとすぐ弥之助は立って納戸へはいっていった。そこへげん女があがって来た。


 弥之助はその午後になってどこかへ出かけた、そしてそれっきり帰らなかった。げん女は落胆のあまり気のぬけた人のようになり、お八重が来てしてやらなければ粥もこしらえず一日じゅう納戸で横になっていた。すると七日めになって、村名主の川延かわのべ源兵衛がやって来た。陣屋からお召状が来たという、なにやらおちつかない不安そうなようすだった。
「お召状はわたしに来たんですか」
「おまえさんにだ、庄屋と村名主、地子じご総代がいっしょに出ろということだ」源兵衛はこう云ってげん女の眼を見た。
「ことによると弥之さん捕まったのかもしれない」
「弥之助が捕まった」
「これだけつき添っておまえさんに出ろというのは、そのほかにわけのありようがない、もしそうだとしたら、はっきり断わっておくがお直とこの家との縁はもう切れているんだよ、一年まえにちゃんと縁が切ってあるんだからな、それを忘れちゃあ困るよ」
 げん女は聞いてはいなかった、大きくみひらいた眼であらぬほうをみつめ、手をわなわなと震わせながら、口の内でただ弥之助弥之助と呟やくばかりだった。……庄屋の沼田六平次、名主の源兵衛、地子総代の久八、それに村の若い者が五人ついて、雪どけのぬかる道をまず高宮の陣屋へいった、するとそこで身分や名を書き取られ、警護の者が十人ついて佐和山へ送られたが、そのときげん女には、「老いの身に遠道は苦しかろう」と、馬を与えられた。庄屋や名主たちには、意外なことで、それなら弥之助が捕まったのではなかったのかという疑いが起こった。……佐和山へ着いたのは日ぐれ前である、城は石田氏滅亡のとき炎上し、城下もほとんど焼き払われたが、井伊直政が就封してから仮城が築かれ、町家もどしどし建てられて、二年まえに劣らないにぎわいをみせていた。彼らは城内の侍長屋のような所で一を明かした。
 翌朝はやく呼出しがあり、げん女と三人の村役は吟味所の庭へつれてゆかれた。板屋造りの仮普請だが、城中のことで威儀きびしく、庭まわりには槍を持った足軽が警護に立った。彼らが設けのせきに坐るとすぐ、二人の番卒につれられて弥之助が出て来た。初めにみつけたのはげん女で、いきなり「弥之助」と叫びながらはね起きた。ひじょうな力でとびついてゆこうとする、押し止めた庄屋と名主をずるずるひきずるくらいだった。ようやくとり鎮め、弥之助の座もきまるとやがて正面の広縁へ四五人の武将があらわれた、みな腹巻姿であるが、なかに一人だけ白い大口を着けている人物がいた。背の低い、肩のいかった眼の大きい精悍せいかんな風貌である、「自分は吟味奉行井伊又左衛門である」その人はよくとおる声でこう云いだした。そして村役たちやげん女の名を呼びあげ、弥之助を見知っているかとたずねた。みんなは相違ないことを答えた。又左衛門はそこで川延源兵衛に呼びかけ、そのほうは娘を弥之助の嫁につかわしてあるかとたずねた。
「弥之助はさように申しているがどうだ」
「恐れながら」源兵衛ははげしく頭を振り、けんめいな声でこう答えた、「いったん嫁につかわしたことは事実でございますが、一年以前に弥之助母と談合はなしあいのうえ離縁をつかまつりました、これは村一統よく承知しております、ただ今ではいささかの縁もござりません」
良人おっとたる弥之助の留守ちゅう、その承諾なしに妻を離縁するというのは不審に思うが」
「恐れながら弥之助は百姓の分際をもってさきごろの合戦に加わり、負けいくさになりまして厳しい御詮議のかかった者にござります、賊将の兵になるような者には親として娘をつかわしおくわけにはまいりません」
「賊将とはなに者をさすのだ」
「…………」源兵衛はちょっと詰った、「それはさきの、治部少輔殿でござります」
 又左衛門は眉をしかめたが、庄屋と地子総代に源兵衛の言分が間違いないかどうかをたしかめた、二人は両家の離縁を認めた。又左衛門は次いで、弥之助の留守ちゅう、今日まで誰が老母の面倒をみたかと聞いた。
「御領主さまをはばかり慎しみまして、村の者はいっさい近づかぬことにしておりました」庄屋六平次が答えた、「よくは存じませんが、同じ村に又二郎と申して、やはり関ヶ原へ出た者の妹がおります、これが世話をいたしておるとやら、聞きおよんだように覚えまする」
「たしかに相違ないな」
 又左衛門は念を押し、その娘を召し出したうえ重ねて詮議するといい、その日はそれで吟味を終わった。……明くる日すぐかと思ったら、そのままで七日置かれた、あとでわかったのだが、彼らの出た日にお八重の父平助が死んだので、初七日のすむまで召出しが延ばされたのであった。かくて八日めに二度めの吟味が行なわれた。


 くだくだしい順序は省こう、その日はお八重の訊問じんもんから始まった。彼女はまるで自分を投げだした者のように、なんでも思い切って、ずばずばものを云った。
「御詮議のかかっている人の母御のお世話するのは、御領主さまに申しわけがないとは存じましたけれど、考えてみればわたくしも同じ身の上でございますし、現にその日のことにも不自由しているのを見ましては、とても黙ってはいられなかったのでございます」
「しかしそのほうの家には田が八反余、弥之助方にも同じほどあったというではないか、それらの上がりがあれば、老母ひとりその日のたつきに困るはずはないだろう」
「それでも」お八重は面をあげて云った、「村からわたくしの家へ渡りました米は六俵、弥之助さんの家へは五俵きりでございました、それでは節期の払いもできませぬ、わたくし方でも弥之助さんの家でも、その米はそのまま渡したうえ、物を少しずつ売らなければ払いがすみませんでした」
「その五俵六俵という割はどうして出たのだ」こう云って又左衛門は庄屋のほうを見た。
「六平次、そのほうしっておるか、源兵衛どうだ」
 庄屋も名主もよく知らないと答えた。村じゅうで相談したことで、自分たちはかかわらなかったというのである。そこで地子総代が問い詰められた。久八はまっ赤になり躯をちぢめながら、あまり筋の立たぬことを答えた。
「両方の田は働き手が留守でござりまして、村の者が手分けをして作をつかまつりましてござりまして、負けいくさなら損をするわけもあるまいから、ということになりましたものでござりまして、名主さまの勘考でそれなら日雇割りで分けるがよかろう、という話合いになったものでござりまして、それでもってからに」
「もうよい、それでわかった」又左衛門は首を振りながら叫んだ、「……源兵衛、ただいま久八の申したことに誤りはないか」
 名主は平伏するばかりだった。又左衛門はさらにお八重に向かって、それ以来きょうまでどのように暮らして来たかを聞いた。お八重はすべてを語った、それは弥之助が母から聞いたよりもくわしく、しかもなまなまと鮮やかだった、蜆とりを始めて村の者から川筋五町を禁じられ、そのあとは二十町もけわしい道をさかのぼってとらなければならなかったというところまでくるとたまりかねたのだろう、弥之助はくいしばった歯の間からうめき声をもらせてすすり泣いた。
 訊問は終わった。いっときしんとなった吟味所の庭上に、云うだけ云った昂奮こうふんのあまりだろう、こんどはお八重のすすり泣く声が、ひっそりとかすかに聞こえていた。……井伊又左衛門はやがて肩をあげ、よくとおる声をひときわ張ってからこう云いだした。「青樹村百姓、弥之助、そのほう旧領主たる治部少輔の布令によってその陣にまいり、関ヶ原において内府さま御軍勢に敵対したる儀ふとどきとは云え、百姓の身として理非を知らず、なおこのたび自訴し出でたる仕方しんみょうにつき構いなし」こう云ってふと調子を変えた、「……また領主一代のたいせつなる合戦と聞き、布令に応じて陣へまいったる仔細しさいはへいぜい鋤鍬すきくわを持つ身ながら、領民として恩義を忘れぬ心がけ武士におとらず、あっぱれにおぼし召さるるによって、蜆谷の川筋一帯、田地二町、山林五町、永代無役にて下しおかれる、有難くお受けいたせ」
 ああという泣き声が高くあがった、げん女が泣き伏したのである、又左衛門はそこでお八重の名を呼び、「かよわき身をもって、病父をかかえながら弥之助母をいたわり、辛労よく忍耐したる始末しんみょう」であるとて、田地山林あわせて四町をつかわすと云った。……お八重は顔をあげて、それはお受けができないと答えた。
「娘ひとりでございますから、田地山林をいただきましても荒らしてしまうに違いございません、それでは申しわけがございません、それでは申しわけがございませんから」
「もっともな申し分である、しかしそれは弥之助に相談すればできぬことではあるまい、留守ちゅう世話になったのだ、弥之助もいやと申さぬであろう、辞退はあいならんぞ」こう云って又左衛門は姿勢を正し、庄屋と名主の名を呼んだ、これまでのことがすでに意想外だったし、その呼び声の調子が厳しく凛烈りんれつだったので、二人は身をちぢめながら地面へ額をすりつけた。
「庄屋年寄、名主組頭たる者は、地子をいつくしみ困窮を救い、相たすけてところの平穏をはかるのが勤めだ、しかるにそのほうどもは旧領主の負けいくさをさいわいといたし、又二郎、弥之助ら留守宅のものなりを不当にかすめ、田地を取り上げ弱味につけこみ害迫したる条々ふとどき至極である、屹度申し付くべきところだが、思し召すところあってこのたびは沙汰なし、ただし弥之助母子おやこ、お八重の今後をそのほうどもにあずける、いささかたりとも疎略の扱いある場合は、村役はもちろん一村過怠に申し付くるゆえさよう心得ろ」
 吟味は終わった。退れと云って、又左衛門は座を立った。


 帰って来た人々の話を聞いて、青樹村は眼に見えないなだれに襲われたような騒ぎが起こった。自分たちが足下に踏みつけていると信じたものが、今や逆に彼らの頭上へのしかかってきた、好きかってに振りまわしているのが、こんどは自分たちの振りまわされる番になったのだ。……弥之助は遠慮するだろうか、いや、彼は帰るとすぐに、蜆谷の川筋五町、二本柳と横橋とに立てた水入り禁止の標木しるしぎを抜きすてた。庄屋と名主とにかけ合って、田地山林お八重の分をもふくめて十一町歩の地割りをさだめ、高宮の陣屋へ届け出た。せまい青樹村の地内十一町歩はほとんど五分の一に当たり、しかも上田じょうでんは三分の一以上をふくめられる。弥之助はだまって、すこしも容赦のない態度でこれだけの始末をつけた。こうしているうちに年が明け、正月中旬を過ぎると、お八重のなき父平助の五七日に当たる日、「法要をするから」ということで、村人たちのおもだった者が本宗寺へ招かれた、招き主はお八重と弥之助である、……この二つの名が村人たちにはどんな想像を与えたか云うまでもないだろう、ことに名主源兵衛のところへは「お直を同伴するように」と、念をおしてきた、これはたちまち村じゅうにひろまり人々の興味をひときわそそった。
 法要はつつましく行なわれた、かつては見ごろし同様にした人たちが、うやうやしく仏前に低頭し、焼香をした、庄屋六平次も、源兵衛も、お直も、そのほか十七人の村人たちが……そしてなかには涙をふく者さえあった。式がすむと客間で茶菓さかが出された、そのとき弥之助が施主の席に直って、参会してくれた礼を述べたうえ、あらためて聞いてもらいたいことがあると云いだした。「こんど村へ帰ってから、私のしたことをみてあなたがたはどうお思いなすった」彼はしずかにこう始めた、「捕まって首を斬られるはずがお褒めにあずかり、田地二町、山林五町、蜆谷川筋一帯を永代無役でちょうだいした。さぞいい気持だろう、こう思っておいでじゃないだろうか、……もしそう思うとすれば大きな間違いですよ、私はそんなものはほしかない、ほかにもっとほしいものがあったんだ、なんだかわかりますかね」
「もとの御領主さまからお布令が出て、御陣へまいるためにこの村を出てゆくとき」弥之助はそこで両手をこぶしにしてひざへ置いた、「あなたがたは幾たびも祝い酒をしてこう云った、あとのことは心配するな、どんなことがあっても残る者に不自由はさせない、家のことも田のことも案ずるにはおよばない、……くどいほどそう云ってくれた、私ぁそのつもりでいたんだ、負けるか勝つかそんなことは知らない、御領主さま一代のたいせつな合戦だというから、そしてこの村からも誰か出ずにはすむまいと思うから出た、百に七十は生きては帰れまい、けれど討死をしても母や女房の困るようなことはないだろう、村でなんとか世話をしてくれるだろうと安心していた……田地山林より蜆谷より、私のほしかったのはその約束だった、息子が戦場へ出て負けいくさになった、生き死にもわからない、年寄ひとりあとに残ってどうしたらいいか、めいめい自分につもって考えるがいい、合戦を始めたのは私じゃないんだ、負けたのも私のせいじゃない、ましておふくろになんの罪があるんだ、蜆谷も田地も私はいらない、その代わり二年間のおっ母さんの苦労を返してもらいたい、こんなみじめに老い衰えた姿を、むかしのおっ母さんに返してもらいたいんだ」
 お八重が泣きげん女が泣いた。
 そして村人たちの頭を垂れ手を膝におろして息をつけずにいる席のうしろで、お直の声をふり絞りながら泣き伏すのがみえた。
「お直、こっちへおいで」弥之助は眼がしらをふきながら呼んだ、「おまえは家の嫁だ、ここへ来てお坐り。いいから来てお坐り」
 だがお直は泣くばかりだった、弥之助は立ってゆき、拒もうとするお直をかかえるようにして自分の脇へつれて来て坐らせた。
「みなさんもよく聞いておくんなさい、わずか四十日ばかりでもお直と私は夫婦だった、しゅうとどのが留守に来て縁を切ったというが、良人の私は離縁した覚えはない、今日からまた家へ戻ってもらいます、おっ母さん」彼はげん女のほうへ向き直った。
「私の留守ちゅう、お直は良い嫁じゃあなかった、けれどもそれは私がいたらなかったからだ、四十日も一緒にいて、嫁らしい嫁にできなかったのは私が足りなかったからだ。これからはいい嫁になってくれると思います。戻してやっておくんなさい、おっ母さんお頼み申します」

 すべてが納まるように納まってから、弥之助は水口駅みなぐちえきの伝馬問屋へでかけていった、検荷役をやめる届けをするためである。……暗いうちに家を出た彼が、丘を一つ越して八幡村へはいったとき、しらじらと明けかかる田道を、二人の男が湖のほうへゆくのと出会った。
「なむあみだ、なみあみだ」と一人の老人が呟やいていた。
「なんてえ冷えだ、骨までみしみしいうわい、こんな日に出て来るなんてきっと仏さまの罰が当たるだ」
「もう鴨もおしめえだ」
 と片方が水洟みずっぱなをすすりながら云った。
「やっぱり千本杭へゆきゃよかった、でなければ内湖うちうみのしりへよ、あそこじゃなんでも寒中に千羽とったってえことだ、獲場かりばが変わっただよ獲場が」
 あのときの二人だ、弥之助はふと心が軽くなり微笑さえうかべながら彼らとすれ違いに道を急いだ。





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新読物」公友社
   1947(昭和22)年3月号
※「燈火」に対するルビの「とうか」と「ともしび」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年9月27日作成
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