「おい土田」と十太夫はどなる、「今日は帰りに一杯やろう、
それから四半
「枡平はよそう、土田」と十太夫はどなる、「あそこは気取ってて面白くない、
また或る日は、やはり汗になった稽古着のままとび込んで来る。汗止めもそのまま、片手で
「おい土田」と十太夫はどなる、「まだ終らないのか、まだ仕事があるのか」
土田正三郎は黙ったまま、机の上をゆっくりと手で示す。まだ仕事の残っているときは、机の上には書類や帳簿がひろげてあり、
「よし、道場へ来てくれ」と十太夫は片づいている机の上を見てせきたてる、「ちょっと道場へ来て相手になってくれ、
そこで土田正三郎は立ってゆく。道場は三の丸の武庫の脇にあり、刻限のまえなら門人たちがいるし、刻限過ぎでも次席の安川大蔵がいて、土田が稽古着になるのを助ける。早く来いよ、と十太夫がせきたてる。いつまでかかるんだ、手っ取り早くしろよ、じれったいな、などと云って足踏みをし、少しのまもじっとしていない。土田はすっかり道具をつけるが、十太夫は
「さあ」十太夫は竹刀でびゅっと空を切って叫ぶ、「ゆくぞ」
土田正三郎は竹刀を青眼にとる。まだ門人たちがいる場合は、羽目板際に並んで見ているし、安川ひとりのときは、彼だけが祭壇の下に坐ってこの稽古を見る。十太夫はするどく絶叫し、大きく踏み込んだり、脇へとびのいたり、また土田の周囲を敏速に廻ったりする。絶叫の声は道場ぜんたいの空気をつんざくように聞えるし、床板はいまにも踏み破られそうに悲鳴をあげる。このばかげてやかましい物音と、眼まぐるしいほどの十太夫の動作に応じて、土田は竹刀を青眼につけたまま、ゆっくりと
「これまでだ」と十太夫はどなる、「汗をながして来るから待っていてくれ」
十太夫が出てゆくと、安川大蔵が立って来て、土田が稽古着をぬぐのを助ける。
「三度めの引き太刀は凄かったですね」と安川が云う、「てっきり一本と思いましたよ」
土田はなにも云わない。
「私にはどうしてもあの手が避けられません」と安川は云う、「ずいぶんくふうしてみるんですが、どうしてもだめですね」
「そう思いこんでるだけさ」と土田が静かに云う、「腕は五分と五分だよ」
「私がですか」
土田は黙って微笑し、安川の肩をそっと叩く、そこへ十太夫が、着替えた袴の紐をしめながら出て来て、さあ帰ろう、なんだまだ汗も拭かないのか、早くしろよとせきたてる、といったようなことが、月に二度か三度は必ずあった。
おかしなことだが、小野十太夫がそんなふうにおちつかなくなるのは、土田といっしょのときに限っていた。ふだんでもどちらかというと気の早いほうだが、土田といっしょにいるときほどせっかちで、こらえ性のないような例はなかった。また土田正三郎も平生はもっと話をするし、動作や
土田の父は正兵衛といって、四百石あまりの中老。正三郎はまだ家督を取っていないが、奉行職記録所の
小野と土田の家は、まえには隣りあっていた。土田は敷地も広く建物も広く大きく、小野は小屋敷であったが、ごく幼いころから二人は仲がよかった。としは同じで、隣り同志だから絶えず往き来をしていたが、一度も口論をしたことがないし、十太夫のほうがおとなびて、なにごとによらずあにきぶっていた。それは彼が早く父親に死なれ、十六歳で家を相続するという、困難な境遇にもめげなかった性格のあらわれであったかもしれない。――十太夫にはせいという母親と、
かれらが二十六になった年の十一月、雪の降る日のことだったが、下城の刻のちょっとまえ、例のように、記録所へ十太夫が走りこんで来た。もちろん、例によって汗まみれの稽古着である。
「おい、土田」と十太夫がどなった、「まだ終らないのか」
土田正三郎は机の上へ手を振ってみせた。そこはきれいに片づいており、硯箱にも蓋がしてあった。
「よし、帰りに袖町のよし野へゆこう」と十太夫がどなった、「雪見酒をやろう、よし野で雪見酒をやろう、いいな」
まわりにいた下役たちは、それぞれの机の前で、にやにやしながら眺めていた。十太夫はとびだしてゆき、すぐに戻って来た。
「おい、土田」と十太夫はどなった、「よし野はだめだ、あそこでは雪なんか見えやしない、今日は枡平にしよう、気にいらないが枡平なら雪が見られる、いいな、枡平だぞ」
半刻のち、二人は枡平の座敷にいた。そこは天神山の丘を背にし、前に芝野川の流れる広い眺めがあった。そのあたりには富裕な商人の隠居所や、藩の重臣の別宅があり、枡平はただ一軒の料理茶屋で、三人きょうだいの評判娘と、
「どうなすったんです」とおわかは土田に
土田は黙っていた。
「いいうちができたのさ」と十太夫が答えた、「もっと安くって
「へえ」とおわかはとぼけた顔で云った、「袖町あたりにそんなうちがありましたかしら」
「袖町とはなんだ」
「このごろずっとよし野がごひいきなんでしょ、あのうちはとしより夫婦に
十太夫は咳をして云った、「袖町ではよし野だけが呑み屋じゃあないぜ」
「とするとどこでしょう」おわかは首をかしげた、「小花かしら、千石かしら」
なにを数えてるの、と云いながら、この家の娘おみのがはいって来た。三人きょうだいのいちばん姉で、としは二十二。背もいちばん高いし、ぜんたいがおっとりしていて、いつか十太夫が土田に、女でも総領の
「だめだ、だめだ」十太夫は無礼にもおみのに手を振った、「おれたちは二人で雪見酒をやってるんだ、おわかもいってくれ、おれたちの邪魔をするな」
「いいわよ」とおみのは二人のあいだに坐り、徳利を取って土田に酌をした、「――あたしだって雪見酒をするんですもの、わかちゃん、こっちへお酒とお
「おれたちは」と十太夫がまじめに云った、「人に聞かれたくない相談があるんだ」
「ようござんすよ、百日以上も待ってたんですもの、はいお一つ」
「勘のにぶいやつだな」十太夫は酌を受けながら、露悪的な口ぶりで云った、「おれはおまえが嫌いだ、土田もおまえが嫌いなんだ、二人ともおまえが嫌いなんだぞ」
「そんなにひとをおだてないで」
「よく聞け、いいか」
「お酌して下さらないの」おみのは盃を取って云った、「きれいな雪だこと」
土田正三郎がおみのに酌をしてやった。十太夫は土田を
彼女は二人の恋人だったのだ。十太夫が念流の修業から帰ったのは二十一歳のときで、その帰国祝いに、二人は初めてこの枡平へ来、おみのの給仕で小酒宴をたのしんだ。そして十太夫は一遍でおみのが好きになり、せっせと枡平へかよいだした。枡平は勘定の高いので有名だから、三日にあげずというわけにはいかなかったが、少なくとも七日に一度ぐらいは、休まずにかよいつめた。さそうのも十太夫であり、勘定も十太夫が払った。土田が心配すると、十太夫は笑って「じつは内職をしているのだ」とうちあけた。富裕な商家の息子とか、
――こんな子供じみた、通俗な、ばかばかしい話があるか、と彼は云った。おれも土田もおみのも
こうして十太夫たちは枡平を避けるようになったのだ。酒が飲みたくなれば、袖町とか米町などの気楽な店で、町人たちにまじって飲み、家中の祝儀不祝儀でやむなく枡平へあがらなければならないときでも、おみのとはできるだけ接近することを避けたし、おみのもまたしいて二人に近づこうとはしなかったのである。
「さあ、相談があるならなさいな」おみのは五つめの杯を
「強情なやつだな」と云って、十太夫は土田を見た、「――まえから話そうと思っていたんだが、どうだろう土田、机の上の仕事なんか誰にだってやれる、この辺でおれといっしょにやる気はないか」
土田正三郎は十太夫を見て、静かに眼を細めた。
「そうさ、剣術だよ」十太夫は一と口飲んで
土田は細めた眼で十太夫を見まもり、それから首を左右に振った。
「道場に席のあるやつは三十七人」と十太夫は続けた、「みんな凡くらばかりで、おれのあとを任せられるような人間は一人もいない、いやわかってる、安川大蔵のことは云うな、土田には安川の能力がみぬけないんだ」
土田正三郎はおみのを見た。おみのは彼の盃に酌をした。
「そんなことはない」と土田が低い声で云った、「安川はいいよ」
十太夫がやり返そうとすると、おわかが小女たちと共に、
「枡平は女中の

「お客さまも躾がいいじゃありませんか」とおみのが云った、「はいお酌」
「よく考えてみてくれ、土田」十太夫は飲みながら云った、「べつにいそぐわけじゃない、おれはどうしても土田が欲しいんだ」
「あたしを欲しくはないの」おみのは手酌で酒を啜った、「あたしもう二十二にもなってしまったのよ」
「飲みすぎたな」と十太夫が
「今日は飲むの」おみのは
「おれの失敗だったな、土田」と十太夫が云った、「よし野にすればよかった」
「初めてお二人がみえたのはあたしが十七のとしだったわ」とおみのは続けた、「それから十九のとしにあの話が出たのよ、いったい二人のうちどっちが好きだ、土田かおれかって、小野さまが膝詰めで
「とんだ雪見酒になったぞ」と十太夫が云った、「まあお酌をしよう」
「あたし途方にくれちゃいました」十太夫の酌を受けながらおみのは続けた、「あなた方はいつもお二人ごいっしょだし、土田さまも小野さまもいいお方だし、一人ずつべつにお会いしたことはないでしょ」
「その話ならむし返すことはない」と十太夫が云った、「三年まえに相談しあって、ちゃんときまりがついている」
「あたしはまだ娘のままよ、なんのきまりがついたんですか」
「三人の気持が変るのを待とう、ということだったろう、だが肝心な点は一つ、おみ公が誰を選ぶ気持になるかということだ」
「卑怯だわ」とおみのは云い返した、「あたしは二人とも好きだし、この気持は変りようがないんですもの、こういうことは男の
「おれはみの公が欲しい」と十太夫がまじめに云った、「けれども土田を押しのけてまで、自分のものにしようとは思わない」
「あなたは」とおみのは土田を見た。
土田はからの盃をじっとみつめていた。十太夫とおみのはそのようすを眺めながら、やや暫く待っていた。
「おい――」と十太夫が云った、「おまえ
土田正三郎は十太夫を見て、てれたように頭を下げ「うん」と口の中で声を出した。それまで饒舌り続けていたが、注意をされて口をつぐんだ、というふうにみえた。
「つづめて云えば」と十太夫が云った、「おれが代りにつづめて云えば、土田の考えもおれと同じだということなんだ、つまり彼もまたおれを押しのけてまでおみ公を女房にする気はないんだ」
「じゃあどうすればいいの」おみのは盃の酒を
「それはだな」十太夫は少なからず押されぎみになり、
「あたしがお二人のほかの人といっしょになれると思うんですか」おみのは手酌で一と口啜ってから、
「なんでもない、忘れてくれ」と十太夫は手を振って云った、「だいたいこういう話は世間にありふれていて、ちっとも珍しくないし
枡平を出たとき戸外は
「そうかもしれないが」と土田が答えた、「笑いごとじゃあないな」
「そこでよせ」と十太夫が遮った、「おまえは饒舌り過ぎる」
土田正三郎は黙った。笑いごとじゃないさ、おれたちはこれが三度めだぜ、と十太夫が云った。初めは北園の娘、二番めは安川の妹、覚えているか。土田正三郎は黙って頷いた。初めは十五のとしだったろう、火事のあるまえ、小野の家が御蔵の辻にあったころ、同じ小屋敷の中に北園勝兵衛という
――おれは小野家を背負っているんだからな、と十太夫は分別ありげに云った。いまから女のことなんか考えていらりゃしないよ。
安川の妹はしづといった。これは二人が十八歳のときで、小野が修業のため江戸へゆくまで、一年ちかく続いたものだ。しづは縹緻も十人並だし、どこといって特徴のない、ふっくらとした感じの、おとなしい娘で、としは十五歳だった。安川の母と土田の母とが娘時代の友達だったため、安川の母が娘のしづを伴れて、しばしば訪ねて来た。しづが十歳くらいのときから土田正三郎は知りあっていたが、好きだという感情がめざめると、これまた十太夫を同席させずにはいられなくなった。半分はしづを見せる気だったろう、いくらかは自慢したかったとも云えるが、十太夫は一と眼でしづにのぼせあがってしまい、十太夫がのぼせあがったことを土田正三郎も感じ取ったのであった。また鉢合せだ、と二人はお互いに思ったが、こんどは譲らないぞ、とはらをきめたことも一致していた。
――二十歳になったら嫁に貰おう、おれは小野の当主だから、早く身をかためなければならないんだ、と十太夫は思った。
――妹が死んでおれは一人息子だ、と土田は土田で思った。早く嫁を貰って親たちを安心させなければならないからな。
二人ともまず彼女の心を掴もうとした。しづの気持をしっかり掴むほうが勝ちだ、縁談はそれからのことだと思い、かれらなりにいろいろ努力をした。もちろん十太夫は勤めのほかに道場での稽古があったし、土田正三郎は奉行職記録所へ勤務の命が出たから、努力をした、というのはおもに主観的な意味で、実際にこれこれのことをした、という実績はあまりなかったようだ。このあいだに、二人の感情には幾たびかの波があった。すなわち、十太夫は土田が早くしづの心をとらえればいいと思い、土田正三郎も同じことを十太夫に期待し、それが逆になって、こんどこそおれがしづを嫁に貰うぞと、互いに心の中でいきり立つ、というぐあいだったのだ。そうして、十太夫が江戸へ修業にゆくことになり、それといっしょに土田もしづから遠ざかった。
――親友の留守に親友をだしぬくのはいやだ、と土田正三郎は言明した。
そのとき十太夫と土田と喧嘩になった。そんな例はあとにも先にもない、たった一度のことなのだが、問題はしづで、自分が留守のあいだ安川へ近よらないというのは侮辱だ、と十太夫が怒りだしたのである。それは恩きせがましいうえに高慢だと云い、土田も珍しく、安川から遠ざかるのはおれの自由だとやり返した。兄弟よりも仲のいい二人、いつも形と影のようにはなれない二人が口論をはじめたので、周囲の者たちは半ば
――さあどうだ、と土田が云った。
――ちょっと待て、と十太夫が云った。
――待てとはなんだ。
――まわりを見ろ、と十太夫が云った。こいつらはおれと土田が無二の親友だということを知っている、にもかかわらず、二人の喧嘩を止めようともせず、面白そうに見物しているとは不人情じゃないか。
――それはそうだ、と土田は手を放した。
――こんな不人情なやつらに見物させることはない、と云って十太夫は立ちあがった。こいつらから先にやっつけてやろう。
見物していた者たちが逃げだしたのは云うまでもないし、二人の喧嘩もそれで終った。十太夫は江戸へゆき、土田正三郎はしづから遠ざかった。
「おい、ちょっと待て」十太夫が急に雪の中で
「知らないな、もう嫁にいって子供の二、三人もいるんじゃないか」
「うん」十太夫は指を折ってみて頷いた、「そうだろうな、もう二十三ぐらいだからな」
「北園の娘はどうしている」
「あれは嫁にいって死んだよ」と十太夫はまたあるきだしながら云った、「いったさきの名は忘れたが、初めてのお産がひどい難産、そのために死んだということだ」
土田正三郎は黙ってゆっくりと頷いた。十太夫は笠のふちを指ではじいて雪をとばし、合羽をばたばたと、鳥の羽ばたきのように振って雪を払いながら、口の中でぶつぶつ独り言を
その翌日から五日のあいだ、十太夫は土田の役所へあらわれなかった。役部屋の者たちはふしぎそうな、そして、なにか始まるぞという
「どうしたんです、あの豪傑は」と頭取は温厚な笑顔で問いかけた、「二、三日みえないようだが、なにかあったのですか」
「私はなにも知りません」と土田は答えた、「たぶんいそがしいのでしょう」
「あのくらいそうぞうしい人間もないが、来ないとなると気になるから妙なものだ」と頭取は云った、「病気でなければいいがな」
五日目にも姿をみせないので、役所が終ったあと、土田は三の丸の道場へ寄ってみた。十太夫は素面素籠手で、上位の者に稽古をつけていた。汗止めはもとより、稽古着も汗びっしょりであるが、これまでに見たことのないくらい力のこもった、
「元気なようだね」と土田が云った。
「あのとおりです」安川は苦笑した、「もう二刻以上も休まないんですよ」
「なにかわけでもあるのか」
「そのようですが」安川はちょっと口ごもった、「口止めされていましてね」
「この四、五日とんと姿をみせないんだ、病気でもしているんじゃないかと思ってね」
「あのとおり元気いっぱいです、いずれ小野さん自身から話されるでしょう、決して心配することはありませんよ」と云って安川は向うへ頷いてみせた、「――気がついたようですね」
十太夫が走って来て、荒い息をしながらどなった、「どうした土田、ちっともあらわれないじゃないか、風邪でもひいたのか」
当時、長島藩では治水工事に関して面倒な事件が起こり、
だからといって、家中ぜんぶがその紛争に関係しているわけではない。工事の担当者とか、吟味に当る役人や重職のほかは、平常と変りのない生活をしていた。土田の属する記録所は、役目の性質から多少は事務が
十太夫の
「今日はいっしょに帰ろう」と十太夫は片手で額の汗を拭きながらどなった、「久しぶりで一杯やろう、いいな」
下役の者たちは忍び笑いをし、仕切の襖をあけて加地頭取が覗いた。十太夫はそんなことは眼にも入れず、とぶようにして出ていったが、またすぐに戻って来た。
「帰るまえに道場へ来てくれ」と十太夫はどなった、「ちょっと相手をしてもらいたいんだ、いいな」
土田は眼で返辞をし、十太夫は走り去ろうとしたが、その役部屋にいる若侍の一人を認めると、部屋じゅうに鳴り響くような声で咎めた。このごろ稽古を
「またそうぞうしくなるようだな」加地頭取が襖を大きくあけ、土田の側へ来て、机の上を眺めながら云った、「道場へゆくんならもう片づけるがいいでしょう、済んだ分だけ受け取りますから」
「いまお届け致します」と土田は答えた。
道場には十太夫と安川だけで、ほかには誰もいなかった。十太夫の脇に道具が置いてあり、土田正三郎を見るなり、待ちかねたように
「今日はおれが受ける」と十太夫は云った、「土田が打ちをやってくれ」
土田は十太夫を見た。
「文句を云うな」と十太夫は面の中からどなった、「そっちで打ちを入れるんだ、遠慮はいらない、おれを粉砕するつもりでやってくれ」
土田正三郎はもの問いたげな眼をした。
「文句を云うな」と十太夫は
土田は稽古着に着替えながら、なにがあったのかと、安川大蔵に訊いた。安川はただ肩をゆりあげただけであった。道場へはいっていった土田は、自分の竹刀を取って立ち向うと、十太夫の面と胴へ、みごとな打ちを二本入れた。
「弱い、弱い」と十太夫が叫んだ、「もっと力いっぱいやれ」そしてさらにどなった、「おれをかたきと思って打ち込むんだ、さあ」
土田正三郎はするどい打ちを面へ入れ、十太夫が受けると、竹刀を返して躰当りをくれた。十太夫は転倒し、転倒したまま十二、三尺も
半刻のち、十太夫と土田は芝野川に沿った
「おれは安川のしづを嫁に貰う」と十太夫が云った、「異存があるか」
土田は眼をそばめて十太夫を見た。
「安川大蔵の妹だ、忘れたのか」と十太夫が云った、「――このまえ二人で話してから、気になったので安川に訊いてみたんだ、するとまだ未婚のままうちにいるという、母親に亡くなられて女手がないため、主婦の代りになったので婚期を逸したということだ」
十太夫の口ぶりにはなまなましい感動がこもっていた。彼は安川家へ訪ねてゆき、しづと会って話した。彼女が嫁にゆかなかったのは、主婦代りをしなければならなかったからではなく、土田と十太夫の二人を忘れることができず、そのどちらかでなければ、一生をともにする気になれなかったためである、と告白した。十太夫は続けて安川家へゆき、そのたびにしづと話しあった。安川大蔵はすでに結婚して、二歳になる子供もある。しづは父親や弟の世話をするだけだから、その機会さえあれば、いつ嫁にいってもいい立場であった。これらの事情を話しあっているうちに、しづの気持は十太夫にかたむいてき、十太夫もしだいに心がきまってきた。
「おれは抜け駆けをしたかたちだが、卑怯ではなかったつもりだ」と十太夫は肩を怒らせるような調子で云った、「――会って話すたびに、必ず土田のことを話題にし、むしろ土田を推薦するようにつとめた、けれども、しづの気持は少しも迷うようすがなく、おれとの結婚なら承知すると云った」
十太夫が立停ったので、土田正三郎も足を停めた。
「
土田正三郎は高い空を見あげ、唇を舐めながら、暫くのあいだ黙っていた。
「よし、もうそのくらいにしろ」と十太夫が云った、「土田はいつも饒舌り過ぎる」
土田正三郎はてれたような苦笑をもらし、十太夫はおうと
「少し寒くなったようだな」土田が云った。
「待て、まだ話が残ってる」と十太夫が
土田正三郎は眼を細めた。
「おい、先ばしったことを思うな」十太夫は土田がなにか云ったことを制止するように続けた、「まず聞け、いいか――安川のしづがなぜおれを
土田は黙っていた。十太夫はすぐに続けた。
「それはな、おれが一人で安川へいったからだ、初めからの計画じゃない、しづが未婚のままにうちにいると聞いて、どんなふうに変ったかを見たうえ、まだあのころのように美しかったら土田もさそってゆくつもりだった、嘘じゃないぞ、本当にそう思って訪ね、しづと二人だけで話した、その初めて訪ねていった帰りに、おれはしづのようすに昔とは変ったところがあったことに気づいた、――よく聞いてくれ、いいか、ここが肝心なところなんだ」
まえにはどこかに隔てがあった。こっちをみつめるまなざしにも、話しぶりにも、しなを作った
「お互いがそれだけとしをとった、つまりおとなになったためだろうか、と考えてみた、婚期におくれたしづの気持が、男を求めてあせっているからではないか、いろいろ考えたが、そうじゃない、問題はしづのほうにだけあるんじゃなく、おれのほうにもある、おれの気持もあのころとはまったく違っているんだ」と云って十太夫は、土田を咎めるような眼でみつめた、「これはどういうわけだ、二人のこの変りようはなんだ、――おれはそれがどんな原因によるものか知りたかった、それで土田をさそうまえに、その理由をつきとめようと思い、二度、三度と一人で訪ねた」
「寒いよ」と土田が云った、「すっかり昏れてしまった」
「そうして二人だけで会っているうちに」と十太夫は構わずに云った、「おれはだんだんにわかってきた、なんだと思う、しづとおれの気持がぴったりよりあい、結婚にまで踏み切れた理由はなんだと思う」
土田正三郎は黙って空をにらんでいた。
「それはこうだ」と十太夫は云った、「その理由はただ一つ、おれが土田といっしょにではなく、一人で訪ねてゆき、しづと差向いで話しあったからだ、つきつめたことを云えば、男女の仲は一対一ということなんだ、また、そこで思い当ったんだが、いつの場合でもおれと土田は一躰同様だった、おれが好きになれば土田も好きになる、そしてお互いの友情を裏切らないためだと思って、二人いっしょでなければどの娘ともつきあわなかった、ばかばかしい、娘のほうではこれをどう感じるか――こっちが二人で一躰同様なら、娘のほうでもそのとおりに感じただろう、だから枡平のみの公のように、おれたちのほかの男とは結婚できないが、おれたちのどっちを選んでいいかもわからないと云うことになる、これでわかったろう、おれたちは極めて子供くさい、ばかげた廻り道をしていたんだ」
土田正三郎はくしゃみをし、懐紙を出して
「土田はこれから一人で枡平へゆけ」と十太夫は云った、「一対一でやればみの公の気持も片づくだろう、そうしたら二た組でいっしょに式をあげよう、いいな」
その翌年の二月、小野十太夫は安川しづと
――どうしたんだ、あんなに仲のよかった小野と土田が、このごろすっかり疎遠になったじゃないか。
――生活が変れば感情も変るさ、両方とも結婚したからだろう。
――そうだ、二人ともおとなになったのさ、あの友情はおとなのものではなかった、幼年時代からずっと続いていて、つまり遊び友達という気持が抜けなかったまでだ、それが二人とも妻帯したので、ようやくおとなになったというところだろう。
――はかなきものだね。
家中の人たちはそんなふうに評しあった。
「土田は酒が弱くなったな」と十太夫が云った、「もう酔ったようじゃないか」
十月下旬のかなり強い風の吹いている夕刻、袖町という横丁にある「よし野」の店で、二人はつけ板に向って腰を掛けていた。台を隔てて主人の
「酔ったのでなければ、なにか心配ごとでもあるのか」と十太夫が云った、「そうだろう、うちでなにか気にいらないことでもあったんだろう、どうだ」
土田正三郎は盃の中をじっとみつめた。
「むだなお饒舌りはよせ」と十太夫はまた云った、「土田はみの公を貰えばよかった、みの公を女房にしていればうまくいったんだ、――いったいどうしてみの公を貰わなかったんだ、え、どういうわけだ」
土田正三郎は静かに手をあげて、右の耳のうしろを
「わけなんかないさ」と土田は云った、「――つまり、小野が結婚してしまったんで、あの娘も拍子ぬけがしたらしいよ」
「拍子ぬけだって」十太夫は軽蔑したように唇を片方へ
「いったさ」と云って土田は十太夫を見た、「――どうしてゆかなかったなんて思うんだ」
「金がそっくり返って来たと云ったろう」
「おれは役料を十人
「どうして勘定を取らないんだ」
土田は考えてみてから、云った、「――たぶん拍子ぬけがしたんだろう」
「おまえはお饒舌りのくせに言葉を知らないやつだ、それも拍子ぬけなんていう問題じゃないじゃないか」
そして十歳か十一歳のころ、土田が同じように当てずっぽうなことばかり云った例を幾つかあげ、それでよく記録所などに勤めていられるものだ、ときめつけた。やがて十太夫も酔ってきて、話を元へ戻し、家庭でどんな不愉快なことがあったか、と訊き直した。土田正三郎は考えこんだ。なにが不愉快だったろう、今日うちでなにか気にいらないようなことがあったろうか、とふり返ってみるようすだったが、そんなような記憶はないもようであった。
「じゃあ訊くが」十太夫はもどかしそうに土田を見ながら云った、「土田は女房とうまくいっているのか」
土田正三郎は平手打ちでもくらったように、眼をみはって十太夫を見返した。十太夫はまた土田のその眼をじっと見まもっていて、それから唇で微笑した。
「よし、それ以上饒舌るな」十太夫はいかにも先輩らしく云った、「土田は結婚してまだ三十日ちょっとしか
土田正三郎は手酌でゆっくりと飲んだ。おいせが新しい燗徳利を二本持って来、二人の前にあいている徳利と替えていった。十太夫は新しい徳利から酒を
「そうだ、そのとおりだ」と十太夫は
土田正三郎は唇をまるくしながら、やむを得ない、とでも云うふうに首をかしげた。
「心配するな、おれがうまく指南してやる」と酒を
土田正三郎は当惑したように、片方の肩をむずっと動かした。
「饒舌るな」と十太夫が云った、「なにも理由なんかありやしない、潔癖だとか、
土田正三郎は考えてみて、そうかな、というふうに首をかしげた。
「そうさ、それだけのことさ、きまってるじゃないか」と十太夫は云った、「土田だって結婚したときにはまごついたろう、おまえは融通がきかないからな、どんなにへどもどしたかおれには見えるようだぜ」
土田は静かに「知ってたよ」と云った。
「知ってたって」十太夫は不審そうに問い返した、「――なにを知ってたんだ」
「小間使から教えられたんだ」と土田はゆっくりと云った、「十二のとしにさ」
十太夫の眼が大きくなり、土田を睨んだまま眼球がとびだしそうになった。
「こま」と十太夫は
「十二のとしだったそうだ」
「おい、少しはなれろ」十太夫は顔をしかめながら身を
土田正三郎は首を振って否定した。
「でないとすると太っちょのほうか」
「おれは知らないんだ」
「そんなことを教えられたのにか」
「少しおれに話させてくれ」
「土田は饒舌り過ぎる」
「おれではないんだ」と土田が云った、「おれはおまえと同様、なにも知らなかった、知っていたのはしのぶのほうで、聞いてみると十二のとしに、小間使から教えられた、と云うんだ」
十太夫は反らせた躯を元へ戻し、土田を眼の隅で睨みつけながら酒を啜った。土田正三郎は済まなそうな顔で、だがなにも云わずに手酌で飲んだ。
「それなら、なにをそんなに気に病んでいるんだ」と十太夫が問いかけた、「女房と喧嘩でもしたのか」
土田正三郎は「なんにも」と云って、片方の肩をまたむずっと動かした。
土田正三郎には不愉快なことも、気に病むこともなかった。実際は小野十太夫こそ、そのとき大きな心配があり、気分がおちつかず、いらいらしていたのである。そうして、その日から十四五日のち、十太夫は目付役へ呼びだされ、数回にわたって吟味役から取調べを受けた。理由は、治水工事で不正のあった商人と、材木奉行、
十太夫に続いて土田が呼び出された。土田が証言をし、枡平の主人が呼び出され、それで十太夫に対する嫌疑はきれいにぬぐい去られた。――疑われたもとは、治水工事で不正をはたらいた主謀者たちの中から、十太夫に金が渡っていたことがわかったからであるが、これは十太夫がこれらの子供たちに剣術を教えた謝礼であり、その金は別途収入として土田と飲食に使ったものだし、枡平もその裏付けをしたので、結局なにごともなく済んだのであった。
「おまえ道場を引受けてくれ」事が片づいたあとで十太夫が土田に云った、「――目付役に呼び出され、吟味を受けたようなからだで人に剣術の指南はできない、土田の腕なら申し分なしだ、頼むからおれのあとを引継いでくれ」
土田正三郎は答えなかった。十太夫は暫く土田のようすを見まもっていて、ごうをにやしたように向き直ったとき、昔どこかの藩にたれそれとかいう侍があった、と土田がゆっくり云いだした。
「どこの藩だか、なんという名の侍か忘れたがね」と土田は語った、「役目が
「肝心な話になると」十太夫はいらいらして云った、「土田のお饒舌りはちっとも進まなくなる、それからどうしたんだ」
「その事は解決のつかないまま、結局うやむやに終ってしまった、ところが」と土田は一と口酒を啜ってから云った、「――ところが無解決のまま吟味が終ったあとで、たれ某という一人の侍が辞任を願い出た、こんな疑いを受け、吟味取調べをされた以上、この役にとどまるわけにはまいらない、それでは自分の良心がゆるさない、そう主張してゆずらず、やむなく役替えになった、つまり当人の主張がいれられたわけなんだな、まことに出処進退のいさぎよい男だといわれたそうだが、暫く経つと妙な噂が
「それでどうした」
「噂は弘まるばかりだし、無実を証拠立てる方法もない、たれそれとかいうその侍は、たまりかねてその藩を退身した、たぶんこらえ性のない男だったんだろうな」と土田は
「その話はいつか聞いた」と十太夫が遮った、「おまえはおれに師範を続けさせようとして、そんな話をもちだしたんだろう、だがそいつはでたらめだ、作り話だ」
「それなら云ってしまうが、これはこの長島藩であった事なんだ」
「ばかなことを」
「古い人は知っている筈だ」と土田は云った、「おれは父に聞いたんだがね、御先代の治世にあった事で、その侍の名は矢野五郎兵衛というんだよ」
十太夫の口がだんだんに大きく開いた。
「矢野五郎兵衛だって」と十太夫は唾をのみこんで反問した、「――それは土田の」
「そう」と土田は頷いた、「おれの母の外祖父だ、母は忍田の養女になっていたが、じつは矢野家の出なんだ」
十太夫は唇をひき結んだ。矢野五郎兵衛という名を聞いて、彼もまたその話を思いだしたのであろう。ふきげんに手酌で二杯飲んだ。
「おまえは饒舌り過ぎる」と十太夫は顔をしかめて云った、「いちごんで云えば、師範のあとを引受けるのがいやなんだろう」
土田正三郎は黙って微笑した。
「それならそう云えばいいんだ」と十太夫は云った、「なにも
土田正三郎はなにも云わなかった。そのとき二人は、袖町の「千石」という店で飲んでいたのだが、そこを出てから「よし野」へゆき、腰を掛けたかと思うとすぐに、十太夫が「枡平へゆこう」と立ちあがった。土田正三郎は反対しようとしたが、十太夫は「饒舌るな」ときめつけ、土田の手を
二人の生活は完全にもとどおりになった。十太夫に子供が生れ、土田正三郎は父の隠居で中老職を継いだ。そして記録所頭取を兼任することになったが、相変らず十太夫は「おい、飲みにいこう」とか、「道場で一本つきあってくれ」とか、云ってとび込んで来るし、そうでなければ土田のほうからでかけてゆき、どちらにせよ下城のときは必ず二人いっしょだった。一般にはこういう関係は嫌われるか、笑い話にされるものだが、この場合はごく自然に受けいれられ、
土田は三十歳のとしに女子を
二人が三十二歳になった年の十一月、十太夫が吐血して倒れた。道場で稽古をしているとき、突然よろめいて膝を突き、吐血したのであった。知らせを受けた土田正三郎は、すぐに医者を呼べと命じたが、自分はそのまま事務をとり続けていた。道場から二度も迎えがあり、三度めに医者が来たと告げられてから、ようやく机の上を片づけて立った。
「どうしたんだ」下役の者たちは、土田のうしろ姿を見送りながら
「御用はそれほどいそぐものではなかったのにな」
「
土田正三郎がいったとき、十太夫は道場のまん中に夜具を敷いて寝ていた。若い門人が三人ばかりで、床板を拭いており、枕の脇には医者の
「話はあとだ」と土田はやわらかに拒絶した、「雨が降ったら傘をさす、病気になったら医師の指示にしたがわなければならない、たまには人の意見も聞くものだ」
「雨が降ったらだって、ふん、饒舌り過ぎるぞ」十太夫は救いがたいと云わんばかりに首を振り、眼をつむった、「――土田の悪い癖だ、おまえはいつも饒舌り過ぎるぞ」
土田正三郎は医者の顔を見た。桂慈石は無表情のまま、十太夫の胸に当てた濡れ手拭を取り替えた。軽い症状ではないという意味か、いまは見当がつかないという意味か、どちらにせよ土田の眼に答えるようすはなかった。
「病気のときぐらいおとなしくするものだ」と土田は十太夫に云った、「――どこか痛むのか」
「話しかけないで下さい」と医者が云った。
十太夫は口の中で「それみろ」と
十太夫はそのまま道場で一夜をすごし、明くる日の午後に自宅へ帰った。土田正三郎も朝まで側にいたが、医者も付きっきりだし安川大蔵もいたので、十太夫と二人になる機会はなかった。医者も二人のことは知っているから、話をする隙を与えないように、絶えず気を配っていたし、土田もそれを察したように、なるべく十太夫を見ないようにしてい、夜が明けて十太夫が眠ったのを
土田正三郎は一睡もしなかったが、帰宅すると
「小野さまはいかがですか」と下役の者がすぐに訊いた、「もうよろしいのですか」
土田正三郎は単符と呼ぶ紙片へなにか書き、自分の印を
「お蔵へいって、この記録を出して貰ってくれ」と土田は云った、「それから中林、昨日の書類はまだか」
「もうすぐです」とその中林が答えた。
「いそいでくれ」と土田は云った、「このごろ事務がはかどらないようだな、郡奉行からの
「まだまいりません」と他の下役が答えた、「催促いたしましょうか」
「まあよかろう」土田は机の上へ書類をひろげ、
下城の刻が近くなったとき、安川大蔵が役部屋へ来て、半刻ほどまえに十太夫を家まで送ったと告げた。
「病気はなんだった」
「胃だろうと云うことです」安川が答えた、「吐血したのは初めてだが、知らないうちに胃が
「酒も弱くなっていたようだ」と云って土田は安川を見た、「道場のほうは頼むよ」
「帰りにお寄りなさいますか」
「いや」と土田は顔をそむけた、「当分そっとしておくことにしよう」
安川大蔵はじっと土田の横顔をみつめていたが、やがて挨拶をして去った。
三日のちの朝、土田正三郎が登城の支度をしていると、十太夫の家から使いがあり、ぜひ来てもらいたいという口上を伝えた。十太夫がまた吐血をし、土田に会いたがっている、妻女もこころぼそそうだということであった。土田は当惑したように、いそぎの御用があるので、登城の刻限におくれるわけにはいかない、いとまができたらゆこう、と答えて使いの者を帰らせた。――土田は十太夫をみまいにゆかなかった。それほどいそぐ事務があろうとは思えないのに、毎日たれよりも早く役部屋へはいり、下城の刻が来てもあとに残って仕事をした。小野家からはその後なにも云っては来なかったが、安川大蔵がたびたびあらわれて、十太夫の容態を伝え、みまいにゆくようにとすすめた。
「そのつもりだ」と土田はいつも答える、「からだがあきさえしたら訪ねよう、もう四五日したら時間ができると思う」
「なにかおことづけはありませんか」
「ないようだな」と土田は首を振る、「あれば会ったときに話すよ」
けれども土田は小野家を訪ねなかった。
十太夫の容態は少しずつ快方に向っているという。土田正三郎に対する家中の評は、しだいに悪くなるばかりだった。あれほど仲がよかったのにどうしたことだ、肉親のきょうだいより親密で、いつもはなれたことがなかったではないか。それなのにどうしてみまいにゆかないんだ、会いたいという使いさえ受けたそうだが、それでも訪ねてゆかず、みまいの伝言もしないという。それでも親友だろうか、平穏無事なときはつきあうが、病人には用がないというわけか。そういうような非難が弘まり、しばしば土田の側で、聞えよがしに云う者さえあった。
「なにか
土田は黙っていた。
「あれほどお親しくしていらしったのですから、さぞ待ちかねていらっしゃることでしょう、どうぞ一度みまってあげて下さいまし」
土田正三郎は頷いただけで、なにも云おうとはしなかった。十二月になってまもなく、夜の十時すぎに安川大蔵が訪ねて来、十太夫の病状が急変したこと。その日の夕食のあとで激しい吐血がおこり、一刻ちかく失神していたこと。医者は桂慈石のほかに阿部
「万一のことがないとは云えません、どうかいっしょにいらしって下さい」
「おちつけ」と土田は静かに云った、「これからいったところで、医者が面会をゆるす筈はない、朝になったら訪ねよう」
「しかし万一のことがあったら」
「なにができる」と土田は安川の言葉を遮って反問した、「二人の医者が付いていて、それでもだめなものなら、私がいったところでどうしようもないではないか、うろたえるな」
「うろたえる」と云って安川は土田の眼をするどく睨んだ、「――土田さんは平気でそんなことが仰しゃれるんですか」
「云っておくが」と土田は声を低くした、「私は十太夫の友人であるだけではない、中老という重任があり、奉行職記録所の頭取という役目も兼ねている、いまは十二月で、どちらにも欠かせない御用がたまっているのだ、わからないことを云うな、安川」
「わかりました、それがあなたの友情だったのですね」と安川は云った、「――失礼します」
安川は
この問答を父の正兵衛は聞いていたらしいが、そのことについてはなにも云わず、寝所へ立つときに、正三郎の居間の外から、「雪になったぞ」と声をかけていった。その夜半すぎに十太夫は死んだ。正三郎は父に
安川はもちろん、知った顔ばかりだったが、誰も土田には挨拶をしなかったし、眼を合わせることさえ避けていた。
土田もそんなことには無関心なようすで、接待で刀を受取り、そのまま出ようとすると、十太夫の妻のしづが、幼児を抱いて小走りに来、声をかけた。
「こんにちは
「そうですか、丈夫そうなよい子だ」土田は幼児に笑いかけた、「坊や、幾つだ」
小十郎は母の顔を見、それから片手を出して、慎重に三本を伸ばして差出した。
「ああ三つか、おりこうだな」土田は手で幼児の肩をそっと
「あの」としづが云った、「わたくしうかがいたいことがございますのですけれど」
「失礼ですが御用がありますから」と土田は遮って云った、「――どうぞお大事に」
そして顔をそむけてそこを去った。
土田正三郎は十太夫の
その年の十二月はじめ、少し早めに下城した土田正三郎は、まわり道をして宗光寺へ寄り、小野十太夫の墓参をした。
――ぼんやりしていたので気づかなかったが落葉を踏む足音が近づいて来、
土田はその後のようすを問い、しづは小十郎が健康に育っていること。実兄の安川が後見になり、二人きりでは淋しいので、安川の末弟の伊四郎が寄宿していること、などを答えた。
――それで話は途切れた。土田も父母は健在だし、娘のすずの下に男の子が生れ、
「あれからまる六年になります」としづが云った、「世間の噂も、すっかり消えてしまったようですから、もう本当のことを仰しゃって下さってもよろしゅうございましょう、――小野が倒れましてから亡くなるまで、土田さまは一度もみまいに来ては下さいませんでした、どういうわけでいらっしゃらなかったのか、わけを話していただけませんでしょうか」
土田正三郎はしづの顔を見た。
しづは微笑しているのではなかった。かすかに赤らんだその顔には、おそれと期待と、好奇心とがいりまじって、しかもそれをあらわすまいとする努力が、微笑しているような印象を与えたのであった。
「過ぎたことですが、人には知られたくないのです」と土田は空へ眼をやりながら静かに云った、「あなたは秘密を守ってくれますか」
「はい」しづは力づよく頷いた。
土田正三郎は
「十太夫は私に、道場の師範役を継がせるつもりでした」と土田は話しだした、「――かなりまえからのことで、私は相手にしなかったが、彼は幾たびも繰り返し、飽きることなく私をくどいたものです、師範の次席には安川大蔵がいるし、安川は師範として充分の腕をもっていました、十太夫はどういうわけかそれを認めようとしません、そのうちに、――彼はあなたを
しづの顔がひき緊まり、その眼はなにかをさぐるように、土田の云う言葉の裏にあるものをさぐり当てようとでもするように、熱心に土田の表情を見まもった。
「十太夫には口実がふえたわけです、妻の兄に自分の役目を継がせることはできない、とね」土田は非情ともいえる口ぶりで続けた、「私がみまいにゆけば、必ずその話が出たでしょう、道場で倒れたときも、私はその話に触れないようにつとめました、もし危篤の病床で頼まれれば、いやとは云えませんし、約束してしまえば
しづの顔にさみしそうな、失望のいろがあらわれた。土田正三郎はすばやくそれを認めたが、声の調子は変えなかった。
「無情なやつだというような噂はずいぶん聞きました」と云って土田は片手をゆっくりと振った、「噂などはなんとも思わなかった、云うだけ云えば飽きるものですからね、けれども、みまいにゆけないという
しづは頷いたが、それは力もないし、意志も感じられない頷きかたで、心はもうそこにないようであった。
「それだけでございますか」としづは細い声で問い返した、「ほかに仔細はなかったのでしょうか」
土田正三郎は黙っていた。
「よくわかりました」しづはそっとじぎをして云った、「これでわたくしの気持もおちつきます、決して他言はいたしません、――有難うございました」
土田は
彼の顔には、しづとは反対に、明るく挑戦的な微笑がうかんでいた。眼に見えない誰かを
「どうだ十太夫、みごとなものだろう」――寺の山門を出ると、土田はそう云いだした、「おれがみまいにゆかなかったのは、あの人のためさ、いつかおまえは云ったな、おれたちは二人いっしょにいると一人になってしまう、おれたちはいつも同じ娘に恋してしまうし、娘のほうでもどっちが好きか判別がつかなくなる、奇妙な、有り得ないことのようだが、事実がそのとおりだったことは、おれとおまえがよく知っていた」
「死んでしまったいまは、おまえにも見とおしだろう」と土田は続けた、「おれが枡平のおみのと結婚しなかったのは、おみのが拍子ぬけしたのではなく、おれのほうで興味がなくなったからだ、十太夫といっしょでなければ、これっぽっちも興味がわかないんだ、これが本当のことなんだ」
――おまえは饒舌り過ぎるぞ。
「その小言はもうきかないな、十太夫はこの世の人間じゃないんだから」
――土田は饒舌り過ぎる。
「おれがみまいにゆかなかったのは、危篤の病床にいる十太夫に、あの人とおれの並んだ姿を見せたくないと思ったためだ」と土田は云った、「――そしてまたあの人にも、おれと十太夫の二人がいっしょにいるところを見せたくなかった、いまになればつまらないことのようだ、子供っぽい心配のようだが、あの当時のおれたちのあいだでは大切なことだった、十太夫にもしづさんにもおれにも、――そうだろう、その証拠はいま、あの人の顔にあらわれていた、おまえもあの表情は見ただろう、おれが師範のあと継ぎの話をしたときの、あのがっかりしたような顔つきをさ」
――もうそのくらいでよせ。
「そうしよう」と云って土田はまた微笑した、「だが断わっておく、安川を師範に
土田正三郎はゆったりとした