「いや、私にはできません」と功兵衛はかすかに首を振った、「それは不可能だというほかはありません」
苅田は冷えてしまった茶を
「ほう」苅田は好ましそうに微笑した、「これは寿栄堂の栗饅頭ですな、わたしはまたこれがなによりの好物でしてね、あの店はおやじと娘の二人でやっているんだが、娘はもう二十八九にもなるでしょうかな、おやじの栄吉があの娘を
いつもの癖だ、と功兵衛は思った。都合がわるいとみると巧みに話をそらす。これまではもっと巧みだったが、いまではもう
「いかがでしょう、あと半年」苅田は急に話を元へ戻した、「来年の四月までには必ず片をつけますが」
「あなたはまえにもそう云われた」
「功刀さんには正直に申上げた」と苅田はきちんと膝へ両手を置いた、「わたしは私利私欲のためにやったのではない、生計の苦しさに耐えかねた者たちのため、見るに見かねてやったことです」
また庇へ枯葉が散りかかり、それがみぞれでも降りだしたかのように聞えた。
「いますぐにと云っても、かれらには返済する能力がありません」苅田は続けていた、「しかしここで半年のゆとりがあれば、間違いなく金は集まると思う、いや必ず、たとえわたしの身をはたいても集めてみせます」
功兵衛はちょっとまをおいて反問した。
「あなたは楯岡さんのことを覚えていますか」
苅田壮平は口をあき、眼をみひらいた。耳の側でとつぜん鐘を鳴らされでもしたような感じで、すぐには返辞もできないようすだった。
「功刀さんは」とようやくにして、苅田はさも心外そうに云った、「あなたはこの私をそんなふうに考えていらっしゃるのですか」
「覚えているかどうかを聞いたまでです」
「わたしはまた功刀さんが、もっとよくわたしの話を理解して下すったものと思っていました」
「それは思い違いです」功兵衛はゆっくり首を振った、「あなたが御用金をどう使われたか、私は知りもしないし知りたいとも思いません、その事情をどんなに詳しく話されたところで、私には関係もなし、どうする力も私にはないのです」
苅田はながい
「殿の御帰国は来年の三月、それまでは待ちましょう」功兵衛は静かに云った、「――では登城の刻限ですからこれで失礼します」
功兵衛は立ってその座敷から去った。
そのとき苅田壮平が、捨てられた
「着替えをするから
「吉川さんが今朝」
「吉川だ」と彼はさえぎった、「彼は
ふじは眼を伏せ、頭を垂れた。功兵衛は少し声をやわらげて、吉川はどうかしたかときいた。吉川甚左衛門は急な腹痛で寝た、とふじは答えた。
「もう一つ云っておくが」と功兵衛は着替えをしながら云った、「客に菓子を出すときは私からそう云う、今朝の客にはそんな必要はなかったのだ、覚えておいてくれ」
妻は「はい」と答えた。
裏のほうに仔猫がいるらしい、私は猫や犬が嫌いだ。すぐにみつけてどこかへ捨てさせるように、そう命じて功兵衛は家を出た。嫁に来て二百日にもなるのに、まだ家風に慣れない。いつもおどおどして、こっちの顔色ばかりうかがっているようだ。あれで本当に二十三歳になるのだろうか、功兵衛はあるきながらそう思った。彼はいらいらしていた。そうしてまた、妻に対する
「たちの悪い男だ」と彼は
楯岡平助も勘定吟味役のとき、御用金を商人たちに貸して、かなり多額な利子を
楯岡の場合には相手が商人であった。しかし苅田はまったく違う、いかに下級の侍でも、侍には外聞というものがあり、藩士としての面目がある。借金の返済ができなくなり、それがもし
「苅田はそこに眼をつけたのだ」あるき続けながら功兵衛はそう呟いた、「――苅田を恐れる貧しい侍たちの、
「なにか
「風が寒いな」と功兵衛は答えた。
その日の午後、下城してから
「どんな鳥でも」斎宮は激しく咳こみ、咳の止まらない苦しさに肥えた躯を二つに折り、顔をまっ赤にしながら云った、「――どんな鳥でも、殻に傷のついた卵は
小守は次の言葉を待った。
「あの半六はだめな男だ」斎宮はふところ紙で眼を拭き口のまわりを拭いた、「おまえさんは殻に傷のついた卵を孵そうとしている、ばかなめんどりのようなものだ、半六なんぞは巣からはじきだすがいい」
それから、なんの用だ、と云わんばかりな表情で、功兵衛を見た。彼はみまいに来ただけであると答え、小守をあとに残していとまを告げた。
靱町から北屋敷の自宅へ帰る途中に、町人まちの一角が伸びてきている。
「だめだ」とうしろで供の云うのが聞えた、「だめだ、寄るな寄るな」
功兵衛が振り返ってみると、こもをかぶった老
「くれてやれ幾馬」と功兵衛が云った、「おまえ小銭を持っているだろう」
「持ってはおりますが、番たびではくせになります」
「おまえがそう思うだけだ」と功兵衛は云った、「くれてやれ、その銭はあとで返す」
宇野が銭入れを取り出すのを見て、功兵衛はあるきだした。
越川斎宮の毒舌にはよく
――あいつはしようのないばか者だ、と斎宮が云った。ばか犬は打っても
ばか犬といわれた由良正七郎は、二年のあいだ謹慎し、それから許されて、いまでは誰の注意もひかず、ごく平凡にくらしている。ほかにもこれに類した毒舌はかぞえきれないほどあるが、いまの功兵衛にはこの二つが、特に意味ふかく思いだされた。
「もしも苅田のことを話したらどんなことを云われたろうか」と功兵衛は呟いた、「殻に傷のついた卵だ、巣からはじきだしてしまえ、と云うだろうか、それともばか犬は繋いでおけと云うだろうか」
いずれにしても話をもちださなくってよかった。相談をするのはもっとあとのことだ、苅田の身辺をまずしらべてみよう、と彼は思った。そして功兵衛はすぐにその手配をした。城下町の世間の狭いということもあろう、五日とたたないうちに苅田のしている
「こう根がひろがっていては、ちょっと手がつけられませんな」報告書を持って来た横目付の堀三左衛門が云った、「おもて沙汰にしては藩の名にきずがつきますし、
読み終った報告書をとじながら、功刀功兵衛は溜息をつき、暫く考えてみよう、と答えた。もう下城の刻に近く、その役部屋の中もたそがれの色が濃くなって、しんとした寒さが、部屋の四隅からひろがってくるように感じられた。功兵衛の役目は城代家老に直属している、勘定吟味役もその管轄内にあるから、まず城代に話さなければならない。けれども城代家老の生田五郎左衛門は、三十一歳というとしの若さだけでなく、生れつきの
――たとえ毒舌をあびせられるにしても、やはり靱町の意見を聞いてからにすべきだろう。
功兵衛はそう思った。
その日下城のとき、大手門のところで彼は供の者を先に帰らせた。靱町へ寄るという妻への伝言を告げると、宇野幾馬は承知してゆきかけたが、急に思いだしたように戻って来た。
「あの保利橋のところで袖乞いをする乞食のことですが」と宇野が云った、「どうかあの者にはお気をつけになって下さい」
「なにが心配なんだ」
「これまでにも申上げようと思ったのですが、私が注意していますと、あの乞食はほかの通行人には眼もくれず、あなたお一人だけに袖乞いをするのです」
「それでこのまえ、番たびではくせになる、などと云ったのか」
「私はありのままを申上げたのです」と宇野はまじめな口ぶりで云った、「お笑いになるかもしれませんが、御用心なさるにこしたことはないと思います」
「笑いはしないさ」功兵衛はあるきだしながら云った、「気をつけることにするよ」
靱町へゆくと、越川斎宮は独りで酒を飲んでいた。給仕には妻女が坐っていて、功兵衛のためにすぐ膳の支度をしようとしたが、御用で伺ったのだからと、彼はかたく辞退した。おれは保養ちゅうの身だ、御用の話などは聞かぬぞ、と斎宮は云った。
「しかしぜひとも御意見をうかがわなければならない事ができたのです」功兵衛はあとへひかなかった、「――それに御保養ちゅうとのお言葉ですが、酒をめしあがれるくらいなら」
斎宮は殆んど
「一藩のために心づよいことです」と功兵衛は目礼をした。
斎宮はどなりだしそうな眼つきになったが、側で微笑している妻女に気づくと、声をしずめて酒をつけて来いと命じた。いそがなくともよいと云うのを聞いて、妻女は功兵衛に
「その程度の金ならなんとかしよう、なにより先にそのばか者を閉じ込めることだ、――城代のほうはどうした」
「まだなにも申上げずにいます」
「おれから話そう」と斎宮は云った、「そうだな、早いほうがいい、明日おれは登城しよう」
なお二三うち合せをしてから、功刀功兵衛はまもなく越川邸を辞した。
予期していたいつもの毒舌はついに出なかった。こんどの出来事はそれほども、斎宮の心をみだしたに相違ない、しかし功兵衛は肩の荷が少し軽くなったのを感じた。
「靱町がのりだしてくれれば安心だ」あるいてゆきながら彼は呟いた、「気にかかるのは御城代の生田さんだが、靱町が押えていればつまらない騒ぎにはしないだろう」
そんなことを考えながらあるいていたので、誰かに呼びかけられたのを、すぐには気づかなかった。功刀さまというのを聞いて振り返ると、いつもの老乞食がうしろに立っていた。街にはもう灯がつきはじめてい、人の往来はまばらであった。功兵衛が
「そのほういま私の名を呼んだようだな」功兵衛は相手の動作に注意しながら云った、「また、いつも私だけに袖乞いをするそうだが、いったいそのほうはなに者なんだ」
乞食は片手を出しながら、酒がきれて苦しいから、五十文ばかり恵んで下さいと云った。舌がもつれて言葉がはっきりしないし、差出された手も、小柄な躯もぶるぶるとふるえていた。
「返辞を聞こう」と功兵衛は云った、「そのほうはなに者だ」
乞食は暫く迷っていたが、やがて「さくらです」とはっきり答えた。
「さくら、とはどういうことだ」
「あなたは」と乞食はふるえながら云った、「自分の妻の名を忘れたのですか」
功兵衛は相手の言葉をよく考えてみたのち、ゆっくりと首を左右に振った。
「おれに近よるな」と彼は云った、「おまえはもう死んだ人間なんだ」
「あたしは酒がきれて苦しいんです、五十文か百文あればいいんです」と乞食は云った、「あたしはいま酒を飲むためなら、どんなことでもするつもりです、ようござんすか、どんなことでもですよ」
そこは保利橋のちょっと手前で、右側には炭薪商、
「有難うございました」とうしろで乞食の云うのが聞えた、「またいつかお願い申しますよ」
功兵衛は戸惑い、うろたえていた。これまでけんめいに築きあげてきて、もはや不動であり安全だと信じていた地位が、突然ぐらぐらと揺れだしたのだ。いや、そんなことはない、おれには世間から非難されるような、ごまかしや不正や、うしろぐらい事はなに一つない。おれは同僚や上役にとりいろうとしたり、
「構わないほうがいい、したいようにさせておけ」と彼は呟いた、「相手はあのとおり乞食だし、じつはこれこれだと云いふらしても、信用する者はないだろう、仮に信用する者があり、
功兵衛は夕食のとき、妻のふじを叱った。菜の数が多かったし、汁の味が気にいらなかったからである。功刀は一汁一菜が家風であり、それはふじが嫁して来たはじめから、幾たびか繰返し云って聞かせたことだ。彼はそう小言を云いながら、ふっと自分が不愉快になり、泣きだしそうな顔をしている妻から逃げるように、荒あらしく立ちあがった。
「おどかしてはいけない」と云ってから、矢沢老人は急に大きく眼をみはった、「――まさか、本当のことじゃあないでしょうな」
「本当に戻って来ているんです」
矢沢老人は首をひねり、右手の指で顎をつまんだ、「私には信じられませんな」
功兵衛は仔細を語った。矢沢金右衛門は身じろぎもせずに聞いていた。この家の庭には巨大な
「私も初めは信じかねました」と功兵衛は語り続けていた、「けれども、私の名をはっきり呼び、自分の名もなのったのです、それだけではありません、乞食にまでなりはてて、躯つきも
「事実とすれば」老人は自分で自分に問いかけるように云った、「いったいどういうつもりでしょうかな」
「おそらく、生れた土地が恋しくなった、ということだと思いますが、それにしては乞食にまでおちぶれたのですから、人には気づかれないようにする筈ではないでしょうか」
「さよう、人並の女でしたらな」老人は途方にくれたような調子で云い、それから功兵衛の顔を
功兵衛は首を振った、「いや、もう暫くようすをみることにします、お伺いしたのは、さくらになにか
しかしそうはまいるまい、と矢沢老人は云い返したが、功兵衛はそれを受けつけず、いかなる事が起こっても、こんどだけは知らぬ顔をしていてくれるようにと、つよく主張して別れを告げた。
功兵衛は二十一歳のとき、
――さくらの
嫁して来て二年めの秋、妻のさくらはとつぜん出奔した。その年の初夏に、功兵衛の両親が死んでいた。酒に弱い父が卒中、母はその年この城下に流行した、激しい痢病に勝てなかったのだ。さくらの出奔は、その二つの不幸にだめ押しをされたように感じられ、功兵衛は立ちあがる力さえ失うほど打ちのめされた。さくらに十日ほどおくれて、若い下僕の吾平が
――そうしてはならなかった。
妻が密通し出奔した場合には、
――おれは女が信じられなくなり、それから八年のあいだ独身をとおしてきて、今年ようやくふじを
役目も諸奉行職監査から金穀出納元締役となり、家禄も百三十石から百五十五石十人
――そうしていま、ふじが身ごもったとき、八年も行方の知れなかったさくらが、乞食になってこの土地へ戻って来た。
病死と公表し、葬礼までおこなった当のさくらが、乞食になってあらわれたのだ。さくらになにか企みがあるとしても、これほど偶然に条件が
「もしもそうなら、こんどは事をごまかしてはいけない」と彼は呟いた、「はっきりと正面からぶっつかってやろう」
そのときから、功兵衛の心には変化がおこったのだ。彼は
初めて雪が降った日の夕方、功兵衛はまたさくらと会った。雪のおそい年で、満願寺の桜に返り咲きの花がひらいたという、絶えてないことなので、来年の凶作の予兆か、それとも異常な災害でも起こるのではないか。そんな噂が城下町から農村のほうまで
そして初めて、雪が降りだしたのだ。
さらさらと乾いた粉雪だから、功兵衛は
「だめだ」功兵衛はあるき続けながら、振り向きもせずに云った、「ついて来るな」
「あたしはいま死ぬほど苦しいんです」とさくらは舌のよくまわらない口ぶりで云った、「お酒がすっかりきれちまって、いまにも胸のここが
功兵衛はあるき続けたが、橋のたもとまで来ると、追いついたさくらに
「本当の望みはなんだ」と彼は問いかけた、「なにをめあてに帰って来たんだ」
「お酒を飲まして下さい、あたしは本当に死にそうなんです」女の声は悲鳴のようであった、「酒を飲むためなら、どんなことでもすると云ったでしょ、ここであなたの妻だと、叫びだしてもいいんですよ」
「それを人が信用すると思うか」
「評判にはなるでしょう、そして」と女はそこで
功兵衛はちょっとまをおいて、「いっしょに来い」と云い、橋のたもとを右のほうへあるきだした。
「あたしを殺そうっていうんですか」女は功兵衛の
「この袖を放せ」
「もしもあたしが帰らなければ、吾平が訴えて出ることになってるんだ」さくらは
喉までこみあげてくる憎悪と怒りを、功兵衛はけんめいに
おれはばかなことをしたのだろうか、と功兵衛は自問した。これでますます深みにはまり、あの女の好きなように振り廻されるのではないか。いや、と彼は自分に云い返した。ごまかしはいけない、正面からぶっつかるんだ、さくらがなんのために帰って来たのか、どんな目的があるのか、それをはっきり
あの雪のたそがれの中で、彼は女に金を与え、それで衣類をととのえ、まともな姿になって「さのや」へ来いと云った。さのやは柳町にある料亭で、離れ座敷が三つあり、そこならば人に気兼ねなく話ができるからであった。――初めて降った雪は、根雪にならずに消えてしまい、二日めの今日はもう道もぬかってはいなかった。下城の刻がきたとき、役所の助席の寺田庄司が近よって来て、勘定吟味役はいつ代ったのか、と問いかけた。
「知らないな」帰り支度をしながら功兵衛は答えた、「吟味役が代ったのか」
「御存じなかったのですか、苅田さんが
「知らなかったな」功兵衛は立ちあがってたしなめるように云った、「噂は聞き止めにするほうがいい、口から口へ伝わると
寺田は気まずそうに眼を伏せた。それを見て功兵衛は衝動的な怒りにおそわれた、なんのために怒ったのか自分にもわからなかったが、彼は寺田のほうへ一歩近よった。
「世評とはおよそ無責任なものだ」と功兵衛は怒りを抑えながら云った、「どんなに話を面白く誇張しても、噂をする者は少しも傷つかない、だが噂をされる本人はそのたびに傷つき、不当に汚名をきることになる」彼はそこまで云って、わかりきったことにいきまいている自分が急に恥ずかしくなった、「とにかく」と功兵衛は声をやわらげて云った、「――改易などということをむやみに云わないほうがいいな」
寺田庄司は黙って低頭した。
下城した功兵衛は、帰宅するとすぐ
「だが、いまさのやの離れ座敷には狐がいる」と彼は
いちばん端の離れ座敷に、さくらは来て待っていた。そこにはもう
「顔を知られたくないのね」さくらは功兵衛の頭巾を見て笑った、「不自由だこと」
「もう酔っているのか」
「まだこれで三本めよ、あたしは酒なんかじゃもう酔えやしないんですから、と云ったところでこういううちじゃあ
たぶん古着屋で買ったものだろう、こまかい
「相変らずね、あれから八年もたったというのに、あなたは少しも変っちゃあいないわ」とさくらは云った、「ようござんす、あなたがいやだと云うんなら、あたしは勝手にやりますよ」
「要件を先に済ませよう、私にどうしろと云うんだ」
「金二十枚」さくらは右手の指を二本立て、左手で盃を
功兵衛は歯をくいしばった。彼女は侍の妻でありながら密通し、出奔した。そのために功兵衛はどれほど困難な、苦しい立場に立たされたか、矢沢はもちろん、実家の斧島がどんなに心を痛め、世間的に
「理由はなんだ」功兵衛が静かにきいた、「私がなぜおまえに金を払わなければならないんだ」
さくらは火鉢の横から酒徳利を取り、膳の上にある湯呑茶碗を持って、その酒を
「その頭巾のためとでも云いましょうかね」さくらはいやな色をした歯を
「頭巾がどうしたというんだ」
「あんたはお侍だ、こんなところであたしのような女と会ったことがわかれば、御身分にきずがつく、だから頭巾で顔を隠してる、そうでしょ」
「それとこれとどういう関係がある」
「わからないのね、そうだと思った」彼女は湯呑からまた一と口啜った、「八年たっても元の
「妻はいま身ごもっているんだ」
さくらはどきっとしたようである。充血しふくらんだ
「ふしぎだわ、本当とは思えない」と彼女は実感のこもった口ぶりで云った、「あんたの
「おまえは二年いたが子はできなかった、いまの妻は嫁して来て二百日そこそこだ」
「その人はきっと人間じゃあないわ」さくらはまた湯呑から飲み、ふんと鼻をならした、「そうよ、きっとあんたと同じかなぶつかなんかだわ、かなぶつどうしなら子ができてもふしぎじゃあないもの」
「人間はおまえ一人というわけか」
「そうですとも、あたしは人間よ、血のかよっている人間の女よ」さくらの顔がひきつり、急に
「けれどもだめだったわ」湯呑の酒を啜ってさくらは続けた、「あんたは人間じゃなかった、あんたは人間であるまえに侍になっていたのよ、侍の中でもこちこちの侍、人間らしさなんてこれっぽっちもない侍にね」
「三十石の馬廻りにせよ、おまえも侍の娘なら侍がどんなものか知っていた筈だ」
「知ってましたとも、ええ知ってました、でもあたしの知っている人たちは、侍
「あやまちを犯す人間は、たいてい責任をひとになすりつけるものだ」
「あたしがなにをなすりつけました」
「いま自分の云ったことを考えてみろ」
さくらは頭を垂れて左右に振った。ききわけのない子供に
「あたしがもし、あんたになにかなすりつけたとすれば、あたしよりもあんたが傷ついた筈よ、ああだめ」さくらは功兵衛にものを云わせまいとして手を振った、「あたしを病気で死んだことにし、
どこかの離れ座敷で謡曲をうたう声が聞えだした。たいそう張りのある声だが、調子が狂っていてすぐにうたいやめ、たぶん当人だろう、さも愉快そうに笑うのが聞えた。――縁先までこのやの女中が来て、なにか用はないかときいた。功兵衛はあとで呼ぶと答え、女中は去っていった。
「ところがあんたはそうはしなかった」とさくらは続けた、酔いがまわったために、
「それではおまえは」と功兵衛がゆっくり反問した、「おれに斬られたほうがよかったと云うのか」
「とんでもないわ、ばかばかしい」さくらは鼻柱に皺をよせた、「あたしはかなぶつとくらすのに飽きちゃったのよ、あたしは人間とくらしたかった、あの人は身分こそ
その人間らしい男がおまえを乞食にしたのか、功兵衛はそう云おうとしたが、慎重に口をつぐんだ。
「あんたの躯には、人に見せられない
「そのうえあんたほど自分勝手な人はなかった」功兵衛になにか云わせまいとするように、さくらはいそいで続けた、「――あんたは自分が欲しいときだけしか、あたしを抱いてくれなかった、あたしは生ま身で、血のかよっている若い女だったのよ、酔ったから云うなんて思わないでちょうだい、あたしはあんたに抱いてもらいたくって、身もだえをしながら夜を明かしたことが、幾十たびあったかしれなかった、どうにもがまんができなくなって、あんたの寝間の襖へ手をかけたことも、かぞえきれないほどあったわ、――でもだめ、あんたの石のようにつめたい、かなぶつみたような姿が眼にうかんで、手をかけた襖がどうしてもあけられなかった、そんなとき女がどんなに苦しいおもいをするか、あんたには考えも及ばないだろうし、考えてみようとしたこともなかったでしょう」
吾平は自分を女として大事にしてくれた。吾平といっしょになってから、自分は初めて女のよろこびの尽きない深さというものを知り、女に生れてきた仕合せにひたった。どういうふうにかということを、酔って
「吾平はどこにいる」と彼はきいた、「吾平は本当にこの城下へ来ているのか」
さくらは
「はあわかった」あぶない恰好で、ようやく起きあがったさくらは、片手で躯を
「金が欲しいならおまえ一人ではだめだ、吾平と二人そろったところで渡そう」
「いいとも、吾平も
「明日の晩はいいが、ここはだめだ」
「頭巾をかぶっても」さくらは
「おまえたちの宿へ届けよう、宿はどこだ」
「宿だなんて笑わせるんじゃないよ、宿屋に泊れるくらいで乞食をするかっていうんだ」
「だが寝るところはあるんだろう」
「おまえさんまたひとをばかにする気かい」さくらは突っかかるように云ったが、急にうす笑いをうかべた、「ああ、寝るとこはあるよ、のら犬だって夜になれば寝るだろうからね」
そして百軒町のある
「断わっとくけれど、へんなまねはしないほうがいいよ」とさくらは念を押すように云った、「いざとなればあたしはすぐに名のって出るからね、たとえ密通出奔の罪で罰を受けても、乞食で生きてゆくよりはましなんだ、あたしも吾平も、死ぬことなんかちっとも恐れてなんかいやあしない、けれどもあんたは違う、あんたはあたしが病気で死んだとごまかし、にせの葬式まで出した、あんた一人でやった仕事じゃあないだろう、あたしが名のって出れば、あんたのほかにもきっと幾人か、お咎めを受ける者があるにちがいない、そういうごりっぱな人たちをみちづれにできるなら、あたしたちはよろこんでお
功兵衛は廊下へ出てから女中を呼び、勘定を済ませて、いいじぶんに女を帰らせるようにとたのんだ。
彼は膳のものには箸をつけなかった。しかし空腹な感じは少しもなかった。食事は済ませてくると云い置いたので、帰宅しても食事の用意はしてないだろう。「さのや」から出たとき、ちょっとそう思ったが、空腹だからではなかった。密通し、出奔したさくらが、八年もたって戻って来て、金をよこせと脅迫するあくどさ、金を
――人に見せられない痣か瘤がある、それを人に感づかせまいとして、つねにかみしもを着け、膝も崩そうとはしない、寝ても起きても人間ではなく、いつも侍であるという面目だけを守っている。
そう云ったさくらの言葉に、彼は自分が裸にされたような恥ずかしさと、反省感に浸された。夜の寝間で妻を抱くときでも、かみしもを着けたようだし、鎧甲を着けたようでさえあったという。さくらの非難は一般的ではなくかたよっている、わがままで色情のつよい女の不満だということに間違いはない、ということは誰に聞かせても異論のないところだろう。にもかかわらず、家名や侍の面目を保つだけに生きて、人間らしい生活がなかった、という指摘には反論のしようがないし、自分を弁護するだけの信念もなかった。侍であるまえに人間の「男」であってもらいたかった、という言葉は、彼がこれまでにかつて聞いたことのないものであった。その言葉のまえには、侍の面目とか家名などというものも、虚栄のようにしか思えない感じであった。
「しかしおれにはおれの生きかたしかできなかった」と彼は呟いた、「おれには功刀の家名が大切だったし侍として他に恥じない人間になろうとつとめただけだ」
そう呟きながらも、さくらに云われたことは、抵抗しようのないちからで彼の弱点をあばき続けるように思えた。
住居へ帰り、着替えをするとき、
「気をつかわないでいい」功兵衛は微笑しながらやさしい口ぶりで云った、「――なんでも自分の好きなようにして、丈夫ないい子を産むことだ、功刀家の初めての子だからな」
ふじはべそをかくように
その夜半からまた雪になったらしい。功兵衛が起きたときには、庭も隣り屋敷も、五寸あまりの雪に
「そのままでいい」功兵衛は手を振りながら云った、「今日は早く帰って来るよ」
家扶の妻女が口をあき、眼をみはっていたことが、功兵衛の印象につよく残った。
彼は二十両を紙に包んで登城し、供はすぐに帰らせた。そして下城したその足で百軒町へまわった。雪はまだ降り続いてい、彼は
「ここにいるのがお客の全部です」あるじだという五十がらみの女が云った、「そういう人は泊ったこともありませんし、ここのほかに座敷はありません」
「どういうことだ」と彼は雪のなかをあるきながら呟いた、「あれはゆうべ相当に酔っていた、宿の名を間違えたのだろうか、それともなにか
二十両やれば片がつく、そう思っていたのだが、金が取れるとみて気が変り、もっとあくどい手段を考えたのかもしれない。ことに吾平という男が付いているのだし、自分の女に乞食までさせるようだとすると、性分もより悪くなっているだろう。さくらを手先に使ってこちらの
「
もしもかれらが新らしい手を打ってくるとすれば、もう隠しとおすことはできない。妻ふじは子を産もうとしている、さくらを病死と届け出たことや、偽りの葬礼などもあばかれるだろう。けれども、それを逃げていてはだめだ、どういうことになろうとも、いまこそ正面から事実にぶっつかるときだ、と功兵衛は肚をきめた。――かれらがなにか企んでいるとすれば、さくらがまた呼びかけるにちがいない。そう思ったので、下城のときには必ず供を先に帰らせ、功兵衛はいつもの道を通って独りで帰った。二度めに降ったのが根雪になり、それからほぼ一日おきくらいに、乾いた粉雪が降った。功兵衛は同じ道をまいにち通ったが、呼びかける者はなかった。保利橋の付近にはときたま乞食がいるけれども、さくららしい女の姿も、吾平らしい男のいるようすもなかった。変ったことといえば、道の右側にあった桶屋がつぶれ、左側の石屋で
今日か、明日か。さくらはいつ呼びかけてくるのか、下城するたびに、功兵衛は不安な期待に緊張した。
「苅田壮平もこんな気持だったろうか」と彼は呟いた、「御用金を不正に動かしたことがいつ明るみに出るか、今日か、明日かと、絶えずびくびくしていたことだろう」
大丈夫、これは無事に始末をつけると思いながら、同時に、自分の犯した罪に
五日たち、七日たち、十日すぎても、さくらのあらわれるようすはないし、吾平らしい男も見かけなかった。功兵衛は決心して、横目付の堀三左衛門にあらましのことを語り、さくらと吾平を捜してくれるように頼んだ。堀は町奉行と連絡をとり、できるだけ早く捜しだそうと答えた。
そして三日めの夜、堀三左衛門が報告に来た。功兵衛は自分の居間へ招きいれ、火桶をあいだにして坐った。
「外はいい月夜です」と堀が云った、「まるでひるまのようですよ」
功兵衛は頷いただけであった。
「おたずねの女のいどころがわかりました」と堀は声を低くして云った、「伊勢屋ではなく、隣りの津田屋という木賃旅籠でした」
「隣りとはね、覚え違えたんだな」と功兵衛は云った、「それで女はどうしていました」
「死にました」
「死んだ」功兵衛は絶句した。
「十三日まえの晩、卒中だったそうです」
ではさのやで会ったすぐあとだな、と功兵衛は思った。しかし本当にそれがさくらだったろうか、吾平はどうしたのかという疑問が残った。
「男もいっしょだったそうです」と堀が続けた、「そういう宿のしきたりで、宿帳なども正確ではありません、女はおさい、男は吾助ということでした」
「男はどうしました」
「ほかの女と出奔したそうです」
おさいと吾助、それならかれらに相違ないだろう。堀三左衛門の語るところによれば、二人は三十日ほどまえから泊っていた。男も女も酔っぱらいで、朝から焼酎を飲み、酔えばすぐ喧嘩が始まり、殺してやるとかさあ殺せという騒ぎになった。男のほうは
「そうして十三日まえの夜、女が酔って帰ると、男はいなくなっていた」と堀は云った、「同じ宿に四十がらみで独り者の女がいまして、その女と出奔したのだそうです。それを聞いておさいという女は、あとを追いかけるつもりだったのでしょう、酔った躯で駆けだそうとし、土間へ
宿賃も
堀三左衛門が帰ってから、功兵衛は火桶に手をかざしたまま、ながいこともの思いにとらわれていた。これでおれは安全になった、他の女と出奔したのだから、もう吾平のあらわれる心配もないだろう、おれはまったく安全になった。繰返しそう思いながら、躯じゅうの力がぬけてしまったようにだるく、気持はみじめに暗くふさがれていた。
「
あなたは人間であるまえに侍だった、というさくらの言葉が、耳の奥にまざまざとよみがえってき、彼はつよく眼をつむって、頭を左右に振った。
――おれがもう少し人間らしく、人を劬る気持を知っていたら、さくらの生涯も変っていたかもしれない。
家扶の吉川が、寝間の用意のできたことを告げに来た。火桶の火はもう灰になっていたが、功兵衛は用心ぶかく灰をかぶせ、立ちあがって妻の寝間を覗いた。ふじは眠っていたらしい、彼が側へ寄ると眼をさまし、
「起こすつもりはなかったんだよ」と功兵衛は囁き声で云った、「気分はどうだ」
ふじははっきり眼がさめたのだろう、
「明日から起きるようにと、せきに云われました、寝てばかりいてもよくないのだそうです」せきとは家扶の妻女である、「――あなたに御不自由をおさせ申して済みません、どうぞ
「私に不自由なことなどはない」功兵衛は妻の手を
ふじの顔が歪み、いまにも泣きだしそうにみえた。功兵衛は「起こして悪かった、さあおやすみ」と云ってその寝間から出た。
――あんな単純な劬りにさえ、泣きそうになるほどふじは感動した。
おれはそんなにもつめたく、形式ばった人間だったのだろうか。功兵衛は寝てからも、ながいこと自分の過去を思い返してみた。たとえ侍でも人間らしい人間なら、ときには家名や体面をけがすようなことに、巻き込まれる場合があるかもしれない。醜聞のひろまることを恐れて、ただ問題を闇に葬ろうとするのと、人間としてその問題に正面から対決するのと、どちらが正しく勇気のいることだろうか。
「苅田壮平のためになにかしよう」と功兵衛は呟いた、「罰するだけが
すると越川中老の毒舌が聞えるように思えた。――いまになってなにを云いだすんだ、苅田というやつは赤ん坊に足がらをかけて投げとばすようなまねをしたんだぞ、断じて許すことはできない、だめだ。そこで功兵衛は空想のなかでくいさがるだろう、――あんな男でもいつかは死病にとりつかれ、苦しみながら死ぬんだと思えば哀れだと考えられませんか。おそらくそこで斎宮はまっ赤になるだろう、怒りのためまっ赤になった斎宮の顔が見えるようで、功兵衛はそっと微笑した。