醜聞

山本周五郎





 苅田かりた壮平はなめらかに話した。それはちょうど、絵師が自分の得意な絵をくのに似ていた。どの線もどの点も、またぼかしの部分や着彩の順にも、いささかの誤りもためらいもなく、すらすらと描きあげてゆくのを見るようであった。
 楯岡たておかのときと同じだな、と功刀くぬぎ功兵衛は思った。楯岡平助のときと殆んど同じだと、――裏のほうで仔猫こねこのなく声がし、窓外のひさしに枯葉の散りかかる音が聞えた。
「いや、私にはできません」と功兵衛はかすかに首を振った、「それは不可能だというほかはありません」
 苅田は冷えてしまった茶をすすり、菓子鉢から栗饅頭くりまんじゅうを取って喰べた。
「ほう」苅田は好ましそうに微笑した、「これは寿栄堂の栗饅頭ですな、わたしはまたこれがなによりの好物でしてね、あの店はおやじと娘の二人でやっているんだが、娘はもう二十八九にもなるでしょうかな、おやじの栄吉があの娘を可愛かわいくって手放せない、娘はあのとおりのきりょうよしだから、縁談はいて捨てるほどあるんだが、おやじがうんといわないためいまだに白歯のまんまです」
 いつもの癖だ、と功兵衛は思った。都合がわるいとみると巧みに話をそらす。これまではもっと巧みだったが、いまではもうとうが立ってしまった。みじめだなと、功兵衛は相手から眼をそらした。
「いかがでしょう、あと半年」苅田は急に話を元へ戻した、「来年の四月までには必ず片をつけますが」
「あなたはまえにもそう云われた」
「功刀さんには正直に申上げた」と苅田はきちんと膝へ両手を置いた、「わたしは私利私欲のためにやったのではない、生計の苦しさに耐えかねた者たちのため、見るに見かねてやったことです」
 また庇へ枯葉が散りかかり、それがみぞれでも降りだしたかのように聞えた。
「いますぐにと云っても、かれらには返済する能力がありません」苅田は続けていた、「しかしここで半年のゆとりがあれば、間違いなく金は集まると思う、いや必ず、たとえわたしの身をはたいても集めてみせます」
 功兵衛はちょっとをおいて反問した。
「あなたは楯岡さんのことを覚えていますか」
 苅田壮平は口をあき、眼をみひらいた。耳の側でとつぜん鐘を鳴らされでもしたような感じで、すぐには返辞もできないようすだった。
「功刀さんは」とようやくにして、苅田はさも心外そうに云った、「あなたはこの私をそんなふうに考えていらっしゃるのですか」
「覚えているかどうかを聞いたまでです」
「わたしはまた功刀さんが、もっとよくわたしの話を理解して下すったものと思っていました」
「それは思い違いです」功兵衛はゆっくり首を振った、「あなたが御用金をどう使われたか、私は知りもしないし知りたいとも思いません、その事情をどんなに詳しく話されたところで、私には関係もなし、どうする力も私にはないのです」
 苅田はながい太息といきをついた。
「殿の御帰国は来年の三月、それまでは待ちましょう」功兵衛は静かに云った、「――では登城の刻限ですからこれで失礼します」
 功兵衛は立ってその座敷から去った。
 そのとき苅田壮平が、捨てられた仔犬こいぬが去ってゆく主人のうしろ姿を見るような眼で、じっとこちらを見あげていたのを、功兵衛は認めた。なさけないな、と彼は思った。自分の不始末をごまかそうとするときには、みんなあのような顔になるのだろうか。楯岡平助もあんな眼つきをしたのだろうか、と功兵衛は想像した。居間には妻のふじが待っていた。功刀家では、十二月にならなければ座敷には火鉢は入れない。苅田も寒そうであったが、妻のふじも寒さが身にしみるのだろう、唇が紫めいて見え、からだが小刻みにふるえていた。
「着替えをするから吉川きっかわを呼んでくれ」と云って彼は妻を見た、「おまえはどうしてここにいるんだ」
「吉川さんが今朝」
「吉川だ」と彼はさえぎった、「彼は家扶かふ、おまえは功刀の主婦だ、主従のけじめをはっきりさせないと、一家のきりもりはできないと云ってある筈だ」
 ふじは眼を伏せ、頭を垂れた。功兵衛は少し声をやわらげて、吉川はどうかしたかときいた。吉川甚左衛門は急な腹痛で寝た、とふじは答えた。
「もう一つ云っておくが」と功兵衛は着替えをしながら云った、「客に菓子を出すときは私からそう云う、今朝の客にはそんな必要はなかったのだ、覚えておいてくれ」
 妻は「はい」と答えた。
 裏のほうに仔猫がいるらしい、私は猫や犬が嫌いだ。すぐにみつけてどこかへ捨てさせるように、そう命じて功兵衛は家を出た。嫁に来て二百日にもなるのに、まだ家風に慣れない。いつもおどおどして、こっちの顔色ばかりうかがっているようだ。あれで本当に二十三歳になるのだろうか、功兵衛はあるきながらそう思った。彼はいらいらしていた。そうしてまた、妻に対する苛立いらだたしさが、じつは苅田の問題からはね返っていることも知っていた。
「たちの悪い男だ」と彼はつぶやいた、「楯岡よりも悪質だ」
 楯岡平助も勘定吟味役のとき、御用金を商人たちに貸して、かなり多額な利子をかせいでいた。二人の部下と共謀したもので、二年めに発覚したが、御用金は殆んど返済されたため、三人とも役目を解かれただけで済んだ。苅田壮平は勘定吟味役になって三年だが、去年の春ころから同じようなことをやり始め、この七月にぼろをだした。楯岡の問題がおこったとき、功兵衛は諸奉行職監査だったので、直接に関係はなかったが、こんどは金穀出納元締役きんこくすいとうもとしまりやくだから、御用金に関してもむろん責任があった。初め、苅田がひそかに金貸しをしている、という噂を耳にしたので、しらべてみると御用金が五十余両も動かされていることがわかり、功刀功兵衛はすぐに苅田を呼びつけた。壮平は云いぬけようとしたが、功兵衛の追求に耐えかねて告白した。いろいろと言葉は飾ったけれども、要約すると、中以下の侍に小額ずつの金を貸し、それによって利を得ていたのである。借りた側の者に二三当ってみると、それは「某御用商から出た金」ということであり、利子や返済条件もかなり不当なものであった。
 楯岡の場合には相手が商人であった。しかし苅田はまったく違う、いかに下級の侍でも、侍には外聞というものがあり、藩士としての面目がある。借金の返済ができなくなり、それがもし表沙汰おもてざたになったとすれば、扶持ふちをはなされ、一家が離散しなければならなくなるかもしれないのである。
「苅田はそこに眼をつけたのだ」あるき続けながら功兵衛はそう呟いた、「――苅田を恐れる貧しい侍たちの、うめき声や嘆きの溜息ためいきが聞えるようだ」
「なにかおっしゃいましたか」とうしろから供の宇野幾馬が呼びかけた。
「風が寒いな」と功兵衛は答えた。
 その日の午後、下城してからゆき町の越川邸えつかわていをたずねた。越川斎宮いつきは次席家老でとしは四十歳、家中では毒舌家といわれているが、功兵衛には親切であり、彼がいまの役についたのも斎宮のつよい主張によるものであった。この六七日、斎宮は風邪をこじらせたそうでひきこもっていた。そのみまいを兼ねて、苅田のことを相談しようと思ったのであるが、相客がいたので相談はできなかった。客は小守高根という中老で、斎宮より二つほど年長であるが、その言葉づかいにも態度にも、――地位とは関係なしに、――斎宮に対する尊敬と謙遜けんそんがあらわにうかがわれた。
「どんな鳥でも」斎宮は激しく咳こみ、咳の止まらない苦しさに肥えた躯を二つに折り、顔をまっ赤にしながら云った、「――どんな鳥でも、殻に傷のついた卵はかえさない、巣の中からはじき出してしまうそうだ」
 小守は次の言葉を待った。
「あの半六はだめな男だ」斎宮はふところ紙で眼を拭き口のまわりを拭いた、「おまえさんは殻に傷のついた卵を孵そうとしている、ばかなめんどりのようなものだ、半六なんぞは巣からはじきだすがいい」
 それから、なんの用だ、と云わんばかりな表情で、功兵衛を見た。彼はみまいに来ただけであると答え、小守をあとに残していとまを告げた。
 靱町から北屋敷の自宅へ帰る途中に、町人まちの一角が伸びてきている。丙午ひのえうまの年に火事で町人まちが五百戸ほど焼けたとき、そこに仮宅を建てることが許され、それがそのまま居着いてしまったのであるが、元は広い空地あきちで、まん中に「堀」と呼ばれる川が流れていた。いまではそこに保利橋という橋も架けられ、そのあたり一帯を「新町」と呼ぶようになっていた。
「だめだ」とうしろで供の云うのが聞えた、「だめだ、寄るな寄るな」
 功兵衛が振り返ってみると、こもをかぶった老乞食こじきが、供の宇野幾馬のほうへ手を差出していた。病気でもあるのか寒さのためか、差出された手はひどくふるえてい、上半身をかがめた躯も不安定に揺れていた。これでもう五たびか六たび、功兵衛が通りかかると袖乞そでごいをするのであった。
「くれてやれ幾馬」と功兵衛が云った、「おまえ小銭を持っているだろう」
「持ってはおりますが、番たびではくせになります」
「おまえがそう思うだけだ」と功兵衛は云った、「くれてやれ、その銭はあとで返す」
 宇野が銭入れを取り出すのを見て、功兵衛はあるきだした。


 越川斎宮の毒舌にはよくたとえ話が出る、いつだったか、由良ゆら正七郎という若者が、たび重なる乱暴のあげく原小一郎をった。小一郎も強情者で、由良の乱暴をとがめたのが原因となり、由良はのぼせあがって刀を抜き、小一郎の腕に斬りつけた。さいわいに傷は浅く、十針ほど縫っただけで済んだが、由良の乱暴に手をやいていた人たちが、刃傷沙汰にんじょうざたとして支配役へ訴え出た。ここでは毎月一回、城中で重職会合がおこなわれるが、その会合の席にこの件が提出され、由良正七郎は食禄しょくろく召上げ、領内から追放する、という意見におちつきそうになった。すると越川斎宮が反対した。
 ――あいつはしようのないばか者だ、と斎宮が云った。ばか犬は打ってもってもしつけはできない、つないでおくよりしかたがないだろう、あいつを追放にすれば、ゆくさきざきでこの藩の恥をさらすにちがいない、ばか犬は繋いでおくがいい、さしあたり三年の居宅謹慎が適当と思う。
 ばか犬といわれた由良正七郎は、二年のあいだ謹慎し、それから許されて、いまでは誰の注意もひかず、ごく平凡にくらしている。ほかにもこれに類した毒舌はかぞえきれないほどあるが、いまの功兵衛にはこの二つが、特に意味ふかく思いだされた。
「もしも苅田のことを話したらどんなことを云われたろうか」と功兵衛は呟いた、「殻に傷のついた卵だ、巣からはじきだしてしまえ、と云うだろうか、それともばか犬は繋いでおけと云うだろうか」
 いずれにしても話をもちださなくってよかった。相談をするのはもっとあとのことだ、苅田の身辺をまずしらべてみよう、と彼は思った。そして功兵衛はすぐにその手配をした。城下町の世間の狭いということもあろう、五日とたたないうちに苅田のしている仔細しさいがわかった。彼は中以下の侍に金を貸し、非常な高利をむさぼっている。その反面では新やなぎ町という、下級の花街はなまち馴染なじみの女があり、その女にかよいつめているが、単にいろ恋ではなく、女を使ってその町の娼婦しょうふたちに金を貸し、これまた法外な高利を取りあげている、ということであった。
「こう根がひろがっていては、ちょっと手がつけられませんな」報告書を持って来た横目付の堀三左衛門が云った、「おもて沙汰にしては藩の名にきずがつきますし、家中かちゅうぜんたいの恥にもなります、どう致しましょうか」
 読み終った報告書をとじながら、功刀功兵衛は溜息をつき、暫く考えてみよう、と答えた。もう下城の刻に近く、その役部屋の中もたそがれの色が濃くなって、しんとした寒さが、部屋の四隅からひろがってくるように感じられた。功兵衛の役目は城代家老に直属している、勘定吟味役もその管轄内にあるから、まず城代に話さなければならない。けれども城代家老の生田五郎左衛門は、三十一歳というとしの若さだけでなく、生れつきの癇癪かんしゃくもちでせっかちで、些細ささいな問題でもすぐ面倒なことにしてしまう癖があった。
 ――たとえ毒舌をあびせられるにしても、やはり靱町の意見を聞いてからにすべきだろう。
 功兵衛はそう思った。
 その日下城のとき、大手門のところで彼は供の者を先に帰らせた。靱町へ寄るという妻への伝言を告げると、宇野幾馬は承知してゆきかけたが、急に思いだしたように戻って来た。
「あの保利橋のところで袖乞いをする乞食のことですが」と宇野が云った、「どうかあの者にはお気をつけになって下さい」
「なにが心配なんだ」
「これまでにも申上げようと思ったのですが、私が注意していますと、あの乞食はほかの通行人には眼もくれず、あなたお一人だけに袖乞いをするのです」
「それでこのまえ、番たびではくせになる、などと云ったのか」
「私はありのままを申上げたのです」と宇野はまじめな口ぶりで云った、「お笑いになるかもしれませんが、御用心なさるにこしたことはないと思います」
「笑いはしないさ」功兵衛はあるきだしながら云った、「気をつけることにするよ」
 靱町へゆくと、越川斎宮は独りで酒を飲んでいた。給仕には妻女が坐っていて、功兵衛のためにすぐ膳の支度をしようとしたが、御用で伺ったのだからと、彼はかたく辞退した。おれは保養ちゅうの身だ、御用の話などは聞かぬぞ、と斎宮は云った。
「しかしぜひとも御意見をうかがわなければならない事ができたのです」功兵衛はあとへひかなかった、「――それに御保養ちゅうとのお言葉ですが、酒をめしあがれるくらいなら」
 斎宮は殆んどわめくようにさえぎった、「ばかなことを云うな、おれはおよそ十三歳から酒を飲み始め、それ以来こんにちまで、病気で寝ているときでさえ酒をやめたことはないんだ」
「一藩のために心づよいことです」と功兵衛は目礼をした。
 斎宮はどなりだしそうな眼つきになったが、側で微笑している妻女に気づくと、声をしずめて酒をつけて来いと命じた。いそがなくともよいと云うのを聞いて、妻女は功兵衛に会釈えしゃくしながら出ていった。功兵衛はすぐに苅田壮平のことを詳しく語りだし、斎宮は黙って聞いていたが、横目付のしらべだした、新やなぎ町の娼婦たちのことに及ぶと、世の中にこれ以上の渋い顔はあるまいと思われるほど渋い顔をした。それから功兵衛に向かって、持ち出した御用金の額をきき、鼻をならした。
「その程度の金ならなんとかしよう、なにより先にそのばか者を閉じ込めることだ、――城代のほうはどうした」
「まだなにも申上げずにいます」
「おれから話そう」と斎宮は云った、「そうだな、早いほうがいい、明日おれは登城しよう」
 なお二三うち合せをしてから、功刀功兵衛はまもなく越川邸を辞した。
 予期していたいつもの毒舌はついに出なかった。こんどの出来事はそれほども、斎宮の心をみだしたに相違ない、しかし功兵衛は肩の荷が少し軽くなったのを感じた。
「靱町がのりだしてくれれば安心だ」あるいてゆきながら彼は呟いた、「気にかかるのは御城代の生田さんだが、靱町が押えていればつまらない騒ぎにはしないだろう」
 そんなことを考えながらあるいていたので、誰かに呼びかけられたのを、すぐには気づかなかった。功刀さまというのを聞いて振り返ると、いつもの老乞食がうしろに立っていた。街にはもう灯がつきはじめてい、人の往来はまばらであった。功兵衛が立停たちどまったのを見ると、こもをかぶったその乞食は、不安定なあるきぶりでよろよろと近よって来た。
「そのほういま私の名を呼んだようだな」功兵衛は相手の動作に注意しながら云った、「また、いつも私だけに袖乞いをするそうだが、いったいそのほうはなに者なんだ」
 乞食は片手を出しながら、酒がきれて苦しいから、五十文ばかり恵んで下さいと云った。舌がもつれて言葉がはっきりしないし、差出された手も、小柄な躯もぶるぶるとふるえていた。
「返辞を聞こう」と功兵衛は云った、「そのほうはなに者だ」
 乞食は暫く迷っていたが、やがて「さくらです」とはっきり答えた。
さくら、とはどういうことだ」
「あなたは」と乞食はふるえながら云った、「自分の妻の名を忘れたのですか」
 功兵衛は相手の言葉をよく考えてみたのち、ゆっくりと首を左右に振った。
「おれに近よるな」と彼は云った、「おまえはもう死んだ人間なんだ」
「あたしは酒がきれて苦しいんです、五十文か百文あればいいんです」と乞食は云った、「あたしはいま酒を飲むためなら、どんなことでもするつもりです、ようござんすか、どんなことでもですよ」
 そこは保利橋のちょっと手前で、右側には炭薪商、籠屋かごや、桶屋などが軒をつらね、左側には八百屋、魚屋、繩蓆屋なわむしろや、石屋などが認められた。新町の地はずれであり、それらはみな小さな店だったから、濃いたそがれの色に包まれたその眺めは、救いようもなく落魄らくはくした人間たちの、嘆きと溜息の声を聞くように感じられた。功兵衛は銭袋から幾らかの銭を取り出し、乞食の手に渡してやると、なにも云わずにその場を去った。
「有難うございました」とうしろで乞食の云うのが聞えた、「またいつかお願い申しますよ」
 功兵衛は戸惑い、うろたえていた。これまでけんめいに築きあげてきて、もはや不動であり安全だと信じていた地位が、突然ぐらぐらと揺れだしたのだ。いや、そんなことはない、おれには世間から非難されるような、ごまかしや不正や、うしろぐらい事はなに一つない。おれは同僚や上役にとりいろうとしたり、へつらったことさえもない、と功兵衛はあるきながら思った。
「構わないほうがいい、したいようにさせておけ」と彼は呟いた、「相手はあのとおり乞食だし、じつはこれこれだと云いふらしても、信用する者はないだろう、仮に信用する者があり、身許みもとを洗いだされるとすれば、罪に問われるとすれば、それはこのおれではなくあの女自身なのだから」
 功兵衛は夕食のとき、妻のふじを叱った。菜の数が多かったし、汁の味が気にいらなかったからである。功刀は一汁一菜が家風であり、それはふじが嫁して来たはじめから、幾たびか繰返し云って聞かせたことだ。彼はそう小言を云いながら、ふっと自分が不愉快になり、泣きだしそうな顔をしている妻から逃げるように、荒あらしく立ちあがった。


「おどかしてはいけない」と云ってから、矢沢老人は急に大きく眼をみはった、「――まさか、本当のことじゃあないでしょうな」
「本当に戻って来ているんです」
 矢沢老人は首をひねり、右手の指で顎をつまんだ、「私には信じられませんな」
 功兵衛は仔細を語った。矢沢金右衛門は身じろぎもせずに聞いていた。この家の庭には巨大なえのきがある、むろんもう葉は散りつくして、小枝の先まで裸になっているであろう。その榎のあたりで、やかましくすずめの群の鳴く声がしていた。――奥さまは身ごもっていらっしゃる、と今朝になって家扶の吉川甚左衛門が云った。およそみつきで躯も不調であり、自分の食がすすまないばかりでなく、食事の支度をするのもつらそうである。たぶんつわりのためだと思われるので、このところ自分の妻が食事ごしらえをしている。あなたは御用繁多のせいであろうが、いつもお疲れのようであり、少し痩せてさえこられた。一汁一菜の御家風もよいが、躰力たいりょくが衰えたときには、精のつく食事をとるのが当然であろう。現に自分も腹痛と痢病のあと、躯を養うために食物を変えている。これらのことを考えて、もう少し奥さまにやさしく、また当分のあいだ食事のことは任せてもらいたい、と吉川はひらき直って云った。
「私も初めは信じかねました」と功兵衛は語り続けていた、「けれども、私の名をはっきり呼び、自分の名もなのったのです、それだけではありません、乞食にまでなりはてて、躯つきもおもざしも変ってはいますが、さくらに間違いのないことはすぐにわかりました」
「事実とすれば」老人は自分で自分に問いかけるように云った、「いったいどういうつもりでしょうかな」
「おそらく、生れた土地が恋しくなった、ということだと思いますが、それにしては乞食にまでおちぶれたのですから、人には気づかれないようにする筈ではないでしょうか」
「さよう、人並の女でしたらな」老人は途方にくれたような調子で云い、それから功兵衛の顔をまぶしそうに見た、「――ひとつ私が、しらべてみましょうか」
 功兵衛は首を振った、「いや、もう暫くようすをみることにします、お伺いしたのは、さくらになにかたくらみがあって戻った、と仮定した場合、またまた矢沢さんに御迷惑をかけたくありませんから、こんどは見て見ぬふりをしていて下さるように、ということを申上げたかったのです」
 しかしそうはまいるまい、と矢沢老人は云い返したが、功兵衛はそれを受けつけず、いかなる事が起こっても、こんどだけは知らぬ顔をしていてくれるようにと、つよく主張して別れを告げた。
 功兵衛は二十一歳のとき、斧島嘉助おのしまかすけの娘さくらと結婚した。そのときの仲人なこうどは矢沢金右衛門、さくらは十八歳であった。斧島は三十石あまりの馬廻りであり、矢沢はこおり奉行職付き記録方を勤めていた。両家が縁続きであって、功兵衛の亡父と矢沢とがまた誹諧はいかいなかまだったということから、二人の縁談がまとまったのである。さくらはわがままな女であった。人によってはあまったれの可愛い女だというかもしれない、人によってはそう思うだろう、ということは功兵衛にも推察することができた。あらゆる好みが人によってみな違う、それはそのとおりだ、妻の色香におぼれる者もあるし、家政を任せる便宜な存在とみる者、単に習慣のためと考える者もある。どれが正しく人間らしいかはわからない、わからないといえばなにもかもわからない。ののしり憎みあいながら一生ともにくらす夫婦もあり、まるっきり反対な性分だったのに、やがてだらしのないほど仲がよくなり、むつまじく折り合ってゆく夫婦もある。その一つ一つにはまた、幾百千とも知れない変化があるだろうし、それらは人間のちから以上の、なにかの力に支配されているのではないか。
 ――さくら出奔しゅっぽんは、功刀家にとって殆んど致命的な出来事であった。
 嫁して来て二年めの秋、妻のさくらはとつぜん出奔した。その年の初夏に、功兵衛の両親が死んでいた。酒に弱い父が卒中、母はその年この城下に流行した、激しい痢病に勝てなかったのだ。さくらの出奔は、その二つの不幸にだめ押しをされたように感じられ、功兵衛は立ちあがる力さえ失うほど打ちのめされた。さくらに十日ほどおくれて、若い下僕の吾平が行方ゆくえくらましたので、密通のうえかけおちということにまぎれはなかった。武家ではこういう醜聞は許されない、たとえ同時に出奔したのではなくとも、二人が理由もなくゆき先も告げなかったのだから、世間に知れれば密通かけおちと見られるのは当然なことだろう。
 ――そうしてはならなかった。
 妻が密通し出奔した場合には、良人おっとは二人を追って討たなければならない。しかも、女敵めがたきは討っても討たなくても恥とされていた。そこでそれを避けるため、仲人の矢沢金右衛門とさくらの親族とで合議のうえ、さくらは病死と公表し、葬礼までおこなったが、疑われるようなことはなかった。
 ――おれは女が信じられなくなり、それから八年のあいだ独身をとおしてきて、今年ようやくふじめとった。
 役目も諸奉行職監査から金穀出納元締役となり、家禄も百三十石から百五十五石十人扶持ぶちと加増された。
 ――そうしていま、ふじが身ごもったとき、八年も行方の知れなかったさくらが、乞食になってこの土地へ戻って来た。
 病死と公表し、葬礼までおこなった当のさくらが、乞食になってあらわれたのだ。さくらになにか企みがあるとしても、これほど偶然に条件がそろうというのは、人間の意志のちからではなく、やはりもっと大きな、なにか眼に見えない力の支配によるものではないか。功兵衛はそう思って、背筋が寒くなるような感じにおそわれた。
「もしもそうなら、こんどは事をごまかしてはいけない」と彼は呟いた、「はっきりと正面からぶっつかってやろう」
 そのときから、功兵衛の心には変化がおこったのだ。彼は栗饅頭くりまんじゅうを喰べたときの、苅田壮平のへつらい笑いや、哀願するような卑屈な表情が眼にうかぶと、それがさくらと共謀しているかのように思われ、烈しい個人的な憎悪ぞうおさえ感じるようになった。
 初めて雪が降った日の夕方、功兵衛はまたさくらと会った。雪のおそい年で、満願寺の桜に返り咲きの花がひらいたという、絶えてないことなので、来年の凶作の予兆か、それとも異常な災害でも起こるのではないか。そんな噂が城下町から農村のほうまでひろまっていた。城中でもそれが茶話に出、丙午の大火を思いだしたのだろう、町奉行では火の用心を例年よりきびしくするようにと、町人まちの五カ所の辻に高札たかふだを立てたりした。功兵衛もむろんこれらのことは知っていたが、見たり聞いたりしたというだけで、彼にとっては少しも現実感をともなったものではなかった。
 そして初めて、雪が降りだしたのだ。
 さらさらと乾いた粉雪だから、功兵衛は萱笠すげがさをかぶっただけで下城した。彼は登城して必要のない限り、供の者は帰らせていた。登城には供をれる規定であるが、下城にはその規定がなかったからである。――さくらは保利橋のてまえの右側、炭屋と籠屋のあいだに待っていた。うっすらと白くなった道の雪あかりで、こもをかぶったその姿はすぐ功兵衛の眼についた。功兵衛は歩度をゆるめることなく、近よってゆき、彼女の前を通りすぎた。するとさくらが追って来た。
「だめだ」功兵衛はあるき続けながら、振り向きもせずに云った、「ついて来るな」
「あたしはいま死ぬほど苦しいんです」とさくらは舌のよくまわらない口ぶりで云った、「お酒がすっかりきれちまって、いまにも胸のここがつぶれそうなんです」
 功兵衛はあるき続けたが、橋のたもとまで来ると、追いついたさくらすがりつかれた。絶えいりそうなあえぎや、全身のふるえがじかに感じられ、功兵衛は立停った。
「本当の望みはなんだ」と彼は問いかけた、「なにをめあてに帰って来たんだ」
「お酒を飲まして下さい、あたしは本当に死にそうなんです」女の声は悲鳴のようであった、「酒を飲むためなら、どんなことでもすると云ったでしょ、ここであなたの妻だと、叫びだしてもいいんですよ」
「それを人が信用すると思うか」
「評判にはなるでしょう、そして」と女はそこで昂然こうぜんひたいをあげた、「誰かが、あたしの墓を掘り返すかもしれない、墓を掘ってみろと、あたしから云ってもいいんです、ほんとうにはあたしの云うことを誰も信じないかもしれない、墓を掘ってみるようなこともやらないかもしれない、けれども、世間はそんな評判が好きですからね、ありそうもない評判ほど好きなんだから、そうでしょ」
 功兵衛はちょっとをおいて、「いっしょに来い」と云い、橋のたもとを右のほうへあるきだした。
「あたしを殺そうっていうんですか」女は功兵衛のそでに縋りついたまま、ひょろひょろとあるきながら笑った、「いいでしょ、あたしを殺したかったら殺しなさい、けれどもね、あたしには吾平という者がいるんですよ、お忘れじゃないでしょうね、お屋敷に雇われていた吾平ですよ」
「この袖を放せ」
「もしもあたしが帰らなければ、吾平が訴えて出ることになってるんだ」さくら嘲笑ちょうしょうするように云い、つかんでいる功兵衛の袖を、放されまいとしてもっと強く掴んだ、「さあ、それを覚悟のうえで、殺したければさっさと殺しなさいよ」
 喉までこみあげてくる憎悪と怒りを、功兵衛はけんめいにおさえた。彼は立停って、女のほうへ振り向いた。


 おれはばかなことをしたのだろうか、と功兵衛は自問した。これでますます深みにはまり、あの女の好きなように振り廻されるのではないか。いや、と彼は自分に云い返した。ごまかしはいけない、正面からぶっつかるんだ、さくらがなんのために帰って来たのか、どんな目的があるのか、それをはっきりたしかめるんだ、と彼は思った。
 あの雪のたそがれの中で、彼は女に金を与え、それで衣類をととのえ、まともな姿になって「さのや」へ来いと云った。さのやは柳町にある料亭で、離れ座敷が三つあり、そこならば人に気兼ねなく話ができるからであった。――初めて降った雪は、根雪にならずに消えてしまい、二日めの今日はもう道もぬかってはいなかった。下城の刻がきたとき、役所の助席の寺田庄司が近よって来て、勘定吟味役はいつ代ったのか、と問いかけた。
「知らないな」帰り支度をしながら功兵衛は答えた、「吟味役が代ったのか」
「御存じなかったのですか、苅田さんが改易かいえきになったのも」
「知らなかったな」功兵衛は立ちあがってたしなめるように云った、「噂は聞き止めにするほうがいい、口から口へ伝わると尾鰭おひれが付くからな」
 寺田は気まずそうに眼を伏せた。それを見て功兵衛は衝動的な怒りにおそわれた、なんのために怒ったのか自分にもわからなかったが、彼は寺田のほうへ一歩近よった。
「世評とはおよそ無責任なものだ」と功兵衛は怒りを抑えながら云った、「どんなに話を面白く誇張しても、噂をする者は少しも傷つかない、だが噂をされる本人はそのたびに傷つき、不当に汚名をきることになる」彼はそこまで云って、わかりきったことにいきまいている自分が急に恥ずかしくなった、「とにかく」と功兵衛は声をやわらげて云った、「――改易などということをむやみに云わないほうがいいな」
 寺田庄司は黙って低頭した。
 下城した功兵衛は、帰宅するとすぐ常着つねぎに替え、着ながしのまま家を出た。夕食は済ませて来ると云い、ゆき先は告げなかった。柳町は丙午の火事に焼けなかった一画から、さらに二町ほどはなれたところにあり、うしろの林は稲荷いなり山まで続いていて、きつねのなき声がしばしば聞えるという。山には稲荷神社の小さなほこらがあるので、そんな噂がでたものらしい。これまで幾たびか藩主の狩りがおこなわれたが、いのしし鹿しかのほか、狐などは一ぴきれたことはなかった。
「だが、いまさのやの離れ座敷には狐がいる」と彼は頭巾ずきんで顔を包みながらつぶやいた、「化かされないように気をつけろよ」
 いちばん端の離れ座敷に、さくらは来て待っていた。そこにはもう酒肴しゅこうの膳が二つ据えてあり、さくらが手酌で飲んでいた。丸行燈まるあんどんが一つ、赤あかと炭火のおこっている手焙てあぶりが二つ、さくらの脇に燗鍋かんなべをのせた火鉢があり、それには燗徳利かんどくりが二本はいっていた。
「顔を知られたくないのね」さくらは功兵衛の頭巾を見て笑った、「不自由だこと」
「もう酔っているのか」
「まだこれで三本めよ、あたしは酒なんかじゃもう酔えやしないんですから、と云ったところでこういううちじゃあ焼酎しょうちゅうなんかありゃあしないでしょ、だから」とうす笑いをしながら、さくらは火鉢の横から酒徳利を出して見せた、「このとおり買って来たのよ」
 たぶん古着屋で買ったものだろう、こまかい滝縞たきじまの着物に、小さな紅葉もみじを散らした帯をしめ、髪も結っていた。結婚したのが十八の年だから、いまはまだ二十八歳の筈だが、しわたるんだ膚や、肉をこそげ取ったような頬、おちくぼんだ眼などを見ると、どうしても四十より下とは思えなかった。結婚したころも美人とはいえなかったが、いまではもう醜いというほかはない。功兵衛は坐ったが、頭巾はぬがなかった。一ついかが、とさくらが盃を差し、功兵衛は頭を左右に振った。
「相変らずね、あれから八年もたったというのに、あなたは少しも変っちゃあいないわ」とさくらは云った、「ようござんす、あなたがいやだと云うんなら、あたしは勝手にやりますよ」
「要件を先に済ませよう、私にどうしろと云うんだ」
「金二十枚」さくらは右手の指を二本立て、左手で盃をあおった、「それであたしはこの土地を退散します」それからすぐに、二本の指を一本にした、「十両でもいいわ、本当なら五十両と云いたいところだけれど」
 功兵衛は歯をくいしばった。彼女は侍の妻でありながら密通し、出奔した。そのために功兵衛はどれほど困難な、苦しい立場に立たされたか、矢沢はもちろん、実家の斧島がどんなに心を痛め、世間的におびえたかわからない。その当人が戻って来て、本当なら五十金だが金二十枚よこせと、恥ずかしげもなく云うのである。けれども、功兵衛は怒りを抑えた。
「理由はなんだ」功兵衛が静かにきいた、「私がなぜおまえに金を払わなければならないんだ」
 さくらは火鉢の横から酒徳利を取り、膳の上にある湯呑茶碗を持って、その酒をぐと、一と口すすってから功兵衛の顔を指さした。
「その頭巾のためとでも云いましょうかね」さくらはいやな色をした歯をきだした、「それがあたしを、こんなみじめな女にしちまったからですよ」
「頭巾がどうしたというんだ」
「あんたはお侍だ、こんなところであたしのような女と会ったことがわかれば、御身分にきずがつく、だから頭巾で顔を隠してる、そうでしょ」
「それとこれとどういう関係がある」
「わからないのね、そうだと思った」彼女は湯呑からまた一と口啜った、「八年たっても元の木阿弥もくあみ、あんたはちっとも変っちゃいない、いまのお嫁さんがどんな人か知らないけれど、毎日まいにちをさぞうんざりしたやりきれない気持でおくっていることでしょうよ」
「妻はいま身ごもっているんだ」
 さくらはどきっとしたようである。充血しふくらんだまぶたを重たそうにあげ、とろんとした眼でじっと功兵衛の顔をみつめた。
「ふしぎだわ、本当とは思えない」と彼女は実感のこもった口ぶりで云った、「あんたのからだには血がかよっていない、あんたは鋳型いがたから出て来たかなぶつか、さもなければ石の地蔵のような人だった、あんたにだかれて寝て子をはらむような女が、人間の中にいようとは思いもよらないことだわ」
「おまえは二年いたが子はできなかった、いまの妻は嫁して来て二百日そこそこだ」
「その人はきっと人間じゃあないわ」さくらはまた湯呑から飲み、ふんと鼻をならした、「そうよ、きっとあんたと同じかなぶつかなんかだわ、かなぶつどうしなら子ができてもふしぎじゃあないもの」
「人間はおまえ一人というわけか」
「そうですとも、あたしは人間よ、血のかよっている人間の女よ」さくらの顔がひきつり、急に蒼白あおじろくなるようにみえた、彼女は湯呑へ強い酒を注ぎ、それを一と息に呷り、さらに酒を注いでから功兵衛を見た、「あたしがあんたと祝言しゅうげんしたとき、いい良人おっとにめぐり会ったと思った、家柄もいいし生活も楽だし、三十石の馬廻りの娘から百三十石の、諸奉行のなんとかいうむずかしいお役人の妻になれた、これからは良人を大切にし、良人と生涯むつまじくくらしていこう、――あたしはしんからそう思ったものよ、そしてあたしにできるだけのことはした筈よ」
「けれどもだめだったわ」湯呑の酒を啜ってさくらは続けた、「あんたは人間じゃなかった、あんたは人間であるまえに侍になっていたのよ、侍の中でもこちこちの侍、人間らしさなんてこれっぽっちもない侍にね」
「三十石の馬廻りにせよ、おまえも侍の娘なら侍がどんなものか知っていた筈だ」
「知ってましたとも、ええ知ってました、でもあたしの知っている人たちは、侍気質かたぎをもった人間でしたよ」さくらはまた酒を注いで飲んだ、「雪がこなければ座敷には火を入れない、年がら年じゅう一汁一菜、起きるから寝るまではかまもぬがず、膝も崩さない、――こんなことは功刀の家風でもあり、よそにも例のないことじゃないでしょう、あたしだって、もしあなたに少しでも人間らしさ、夫婦らしい愛情やいたわりがあったら、そのくらいのことは辛抱しんぼうしましたよ」
「あやまちを犯す人間は、たいてい責任をひとになすりつけるものだ」
「あたしがなにをなすりつけました」
「いま自分の云ったことを考えてみろ」
 さくらは頭を垂れて左右に振った。ききわけのない子供にあきれはて、もう言葉もない、とでも云いたそうな身ぶりであった。
「あたしがもし、あんたになにかなすりつけたとすれば、あたしよりもあんたが傷ついた筈よ、ああだめ」さくらは功兵衛にものを云わせまいとして手を振った、「あたしを病気で死んだことにし、にせの葬式まで出したのをあたしのせいだなんて云うんならよしておくれ、あのときもしはらがたったなら、あたしと吾平に追手をかけ、れ戻して二人を斬ればよかったんだ、世間ていは悪いかもしれないが、あんたにはおとがめもないし、はっきり事が片づいていたわ、そうでしょ」


 どこかの離れ座敷で謡曲をうたう声が聞えだした。たいそう張りのある声だが、調子が狂っていてすぐにうたいやめ、たぶん当人だろう、さも愉快そうに笑うのが聞えた。――縁先までこのやの女中が来て、なにか用はないかときいた。功兵衛はあとで呼ぶと答え、女中は去っていった。
「ところがあんたはそうはしなかった」とさくらは続けた、酔いがまわったために、かえって舌の動きが自由になった、というような感じであった、「――あんたはあたしを憎むまえに、家名とか侍の面目とか、世間の評判のことを考えたのよ、いまそのとおり頭巾で顔を隠してるように、まず家名や自分にきずのつかないくふうをした、そしてそのとおりうまく隠しとおしたじゃないの、そうでしょ」
「それではおまえは」と功兵衛がゆっくり反問した、「おれに斬られたほうがよかったと云うのか」
「とんでもないわ、ばかばかしい」さくらは鼻柱に皺をよせた、「あたしはかなぶつとくらすのに飽きちゃったのよ、あたしは人間とくらしたかった、あの人は身分こそ小者こものだったけれど、躯には熱い血がかよっていたし、ときには恥も外聞も忘れる、人間らしい人間だったわ」
 その人間らしい男がおまえを乞食にしたのか、功兵衛はそう云おうとしたが、慎重に口をつぐんだ。
「あんたの躯には、人に見せられないあざこぶでもあるようなものよ」とさくらは云った、「あんたはそれを人に見やぶられないように、一日じゅうびくびくしているようなもんだわ、――あんたは妻のあたしを抱いて寝るときでも、まるでかみしもを着けているようだった、いいえ、鎧甲よろいかぶとを着たようだといったほうがいいかもしれないわ、ちょうど躯のどこかにある瘤か痣を、妻のあたしにもみつけられたくない、っていうようにね」
「そのうえあんたほど自分勝手な人はなかった」功兵衛になにか云わせまいとするように、さくらはいそいで続けた、「――あんたは自分が欲しいときだけしか、あたしを抱いてくれなかった、あたしは生ま身で、血のかよっている若い女だったのよ、酔ったから云うなんて思わないでちょうだい、あたしはあんたに抱いてもらいたくって、身もだえをしながら夜を明かしたことが、幾十たびあったかしれなかった、どうにもがまんができなくなって、あんたの寝間の襖へ手をかけたことも、かぞえきれないほどあったわ、――でもだめ、あんたの石のようにつめたい、かなぶつみたような姿が眼にうかんで、手をかけた襖がどうしてもあけられなかった、そんなとき女がどんなに苦しいおもいをするか、あんたには考えも及ばないだろうし、考えてみようとしたこともなかったでしょう」
 吾平は自分を女として大事にしてくれた。吾平といっしょになってから、自分は初めて女のよろこびの尽きない深さというものを知り、女に生れてきた仕合せにひたった。どういうふうにかということを、酔って羞恥心しゅうちしんをなくしたさくらは、身振りを入れながらあけすけに語った。功兵衛は聞いてはいなかった。彼に対するさくらの非難は、自分の犯したあやまちを、彼の責任にしようとするものであった。――人間であるまえに侍になっていた、ということも、起居進退に隙がなく、家風を堅く守ってゆずらなかった、ということも、そしてまた、妻の欲望について理解がなかった、ということも、さくら自身の不満であって、特に彼が責任を負わなければならない問題ではない。女が嫁にゆけば、その家の家風と、良人の習慣に順応するのが当然であり、功刀家の生活がさくらに順応できないほど、非人間的だったとはいえない筈だ。功兵衛はできるだけ公平にそう判断して、とめどもないさくら饒舌じょうぜつさえぎった。
「吾平はどこにいる」と彼はきいた、「吾平は本当にこの城下へ来ているのか」
 さくらきものでもおちたように、話をやめて功兵衛を見、あんたはあたしの云うことを聞いていなかったんだね、と云い、きっと身を起こして坐り直そうとした。しかし却って躯の重心が崩れ、だらしなく横倒しになった。聞いていなかったのかい、ひとをばかにするんだね。そんなことを云いながら、起きあがろうとして手足をもがいた。着物のすそまくれ、太腿ふとももまであらわになったが、不健康に青白く、むくんだような太腿は、腐りかかった魚の腹のように醜くぶきみで、功兵衛はまゆをしかめながら眼をそむけた。
「はあわかった」あぶない恰好で、ようやく起きあがったさくらは、片手で躯をささえ、片手で口のまわりを拭きながら云った、「おまえさんあたしを殺すつもりだね、それで吾平のことが気になるんだろ、そうだろう」
「金が欲しいならおまえ一人ではだめだ、吾平と二人そろったところで渡そう」
「いいとも、吾平もれて来るさ」さくらはもう舌がよくまわらなくなっていた、「――あたしはここまでおちぶれたんだ、おどしをかけられたってこわいものなんかありゃあしないんだから、吾平がどこにいるかだって、へ、明日の晩ここへ来てみればわかるさ、そっちでそんな注文をつけるんなら金は五十両だよ」
「明日の晩はいいが、ここはだめだ」
「頭巾をかぶっても」さくらよだれで濡れた唇をゆがめた、「――たびかさなればあらわれにけりか、それがあんたたちの弱いところ、人に見られたくない瘤なんだ」
「おまえたちの宿へ届けよう、宿はどこだ」
「宿だなんて笑わせるんじゃないよ、宿屋に泊れるくらいで乞食をするかっていうんだ」
「だが寝るところはあるんだろう」
「おまえさんまたひとをばかにする気かい」さくらは突っかかるように云ったが、急にうす笑いをうかべた、「ああ、寝るとこはあるよ、のら犬だって夜になれば寝るだろうからね」
 そして百軒町のある旅籠はたご宿の名を告げた。そこはこの城下はずれにある一画で、もっとも貧しく、風儀の悪いことで知られていた。
「断わっとくけれど、へんなまねはしないほうがいいよ」とさくらは念を押すように云った、「いざとなればあたしはすぐに名のって出るからね、たとえ密通出奔の罪で罰を受けても、乞食で生きてゆくよりはましなんだ、あたしも吾平も、死ぬことなんかちっとも恐れてなんかいやあしない、けれどもあんたは違う、あんたはあたしが病気で死んだとごまかし、にせの葬式まで出した、あんた一人でやった仕事じゃあないだろう、あたしが名のって出れば、あんたのほかにもきっと幾人か、お咎めを受ける者があるにちがいない、そういうごりっぱな人たちをみちづれにできるなら、あたしたちはよろこんでお仕置しおきを受けますよ、ええ、――それを忘れないようにするんだね」
 功兵衛は廊下へ出てから女中を呼び、勘定を済ませて、いいじぶんに女を帰らせるようにとたのんだ。
 彼は膳のものには箸をつけなかった。しかし空腹な感じは少しもなかった。食事は済ませてくると云い置いたので、帰宅しても食事の用意はしてないだろう。「さのや」から出たとき、ちょっとそう思ったが、空腹だからではなかった。密通し、出奔したさくらが、八年もたって戻って来て、金をよこせと脅迫するあくどさ、金をれなければ仕置を承知のうえ名のって出る、そうなれば幾人かの犠牲者がでる、というところまで計算された脅迫。世の中にはもっと恥知らずで、無法なことをする者がいるかもしれない。さくらのやりかたがそれらよりもっとずぶとく、悪辣あくらつで卑劣なものだ。功兵衛はもちろん激しい怒りにおそわれた、その怒りはたとえようもないものだったが、それよりもさらに深いところで、たじろぎ戸惑っている自分を彼は感じていた。
 ――人に見せられない痣か瘤がある、それを人に感づかせまいとして、つねにかみしもを着け、膝も崩そうとはしない、寝ても起きても人間ではなく、いつも侍であるという面目だけを守っている。
 そう云ったさくらの言葉に、彼は自分が裸にされたような恥ずかしさと、反省感に浸された。夜の寝間で妻を抱くときでも、かみしもを着けたようだし、鎧甲を着けたようでさえあったという。さくらの非難は一般的ではなくかたよっている、わがままで色情のつよい女の不満だということに間違いはない、ということは誰に聞かせても異論のないところだろう。にもかかわらず、家名や侍の面目を保つだけに生きて、人間らしい生活がなかった、という指摘には反論のしようがないし、自分を弁護するだけの信念もなかった。侍であるまえに人間の「男」であってもらいたかった、という言葉は、彼がこれまでにかつて聞いたことのないものであった。その言葉のまえには、侍の面目とか家名などというものも、虚栄のようにしか思えない感じであった。
「しかしおれにはおれの生きかたしかできなかった」と彼は呟いた、「おれには功刀の家名が大切だったし侍として他に恥じない人間になろうとつとめただけだ」
 そう呟きながらも、さくらに云われたことは、抵抗しようのないちからで彼の弱点をあばき続けるように思えた。
 住居へ帰り、着替えをするとき、家扶かふの吉川甚左衛門が、妻のふじが寝ていることを告げた。いまは悪阻つわりがいちばんつよい時期らしいから、劬ってあげるようにとも云った。彼は妻の寝間へいってみた。例のないことなので、ふじはいそいで起き直ろうとしたが、彼は手まねでそれを制止し、妻の夜具の脇へ坐った。
「気をつかわないでいい」功兵衛は微笑しながらやさしい口ぶりで云った、「――なんでも自分の好きなようにして、丈夫ないい子を産むことだ、功刀家の初めての子だからな」
 ふじはべそをかくように頬笑ほほえみ、うれしそうに枕の上でうなずいた。


 その夜半からまた雪になったらしい。功兵衛が起きたときには、庭も隣り屋敷も、五寸あまりの雪におおわれて、なおこまかい乾いた雪が降りしきっていた。彼は起きるとすぐに妻をみまった。家扶の妻女がふじに食事をさせているところで、彼の姿を見ると二人ともびっくりした。妻の寝間をおとずれるなどということは初めてであり、二人のおどろいたようすにそれがはっきりあらわれていた。
「そのままでいい」功兵衛は手を振りながら云った、「今日は早く帰って来るよ」
 家扶の妻女が口をあき、眼をみはっていたことが、功兵衛の印象につよく残った。
 彼は二十両を紙に包んで登城し、供はすぐに帰らせた。そして下城したその足で百軒町へまわった。雪はまだ降り続いてい、彼は雨合羽あまがっぱかさをかぶっていたが、その町へはいるまえに頭巾で顔を包んだ。指定されたのは「伊勢屋」という旅籠はたごだったが、そこにはさくらはいなかった。さくらのような女も、吾平らしい男もいなかった。木賃旅籠というのであろう、戸口をはいった土間の向うが、すぐに広い二十帖敷ほどの部屋で、大きな切炉に火が燃えてい、そのまわりに客が坐ったり寝ころんだりしていた。
「ここにいるのがお客の全部です」あるじだという五十がらみの女が云った、「そういう人は泊ったこともありませんし、ここのほかに座敷はありません」
 もっともこれから泊りに来るかもしれないが、朝からこの雪なので、来るならとっくに来ている筈だ、とその女あるじは云い添えた。功兵衛はそこを出てから、しだいに不安な気分になった。
「どういうことだ」と彼は雪のなかをあるきながら呟いた、「あれはゆうべ相当に酔っていた、宿の名を間違えたのだろうか、それともなにかたくらんでいるのだろうか」
 二十両やれば片がつく、そう思っていたのだが、金が取れるとみて気が変り、もっとあくどい手段を考えたのかもしれない。ことに吾平という男が付いているのだし、自分の女に乞食までさせるようだとすると、性分もより悪くなっているだろう。さくらを手先に使ってこちらのはらをさぐり、もっと多額な金がゆすれるとみて、新らしい方法をとるために、急にいどころを変えたとも思える。
表沙汰おもてざたにできたらなあ」と功兵衛はまた呟いた、「――しかし瘤があるからな、侍の面目、家名、人には見せられない瘤か、さくらにはそれが見えたんだな」
 もしもかれらが新らしい手を打ってくるとすれば、もう隠しとおすことはできない。妻ふじは子を産もうとしている、さくらを病死と届け出たことや、偽りの葬礼などもあばかれるだろう。けれども、それを逃げていてはだめだ、どういうことになろうとも、いまこそ正面から事実にぶっつかるときだ、と功兵衛は肚をきめた。――かれらがなにか企んでいるとすれば、さくらがまた呼びかけるにちがいない。そう思ったので、下城のときには必ず供を先に帰らせ、功兵衛はいつもの道を通って独りで帰った。二度めに降ったのが根雪になり、それからほぼ一日おきくらいに、乾いた粉雪が降った。功兵衛は同じ道をまいにち通ったが、呼びかける者はなかった。保利橋の付近にはときたま乞食がいるけれども、さくららしい女の姿も、吾平らしい男のいるようすもなかった。変ったことといえば、道の右側にあった桶屋がつぶれ、左側の石屋で双生児ふたごが生れたことくらいである。桶屋は夫婦二人でやっていたが、しょうばいがうまくいかず、夫婦で夜逃げをしたのだという。通りすがりに聞いたのであるが、石屋のほうは小僧が饒舌しゃべっていた。うちの親方には十一年も子供がなかったのに、十一年めに生れたのは女のふたごだったと、自慢そうに饒舌っているのを聞いた。片方は生活に窮して夜逃げをし、片方では十一年めに双生児が生れた。ありふれたことだろうが、絶望とよろこびが向い合せになっている。自分などの知らないところで、こういう事が絶えずおこっていることだろう、と功兵衛は思った。
 今日か、明日か。さくらはいつ呼びかけてくるのか、下城するたびに、功兵衛は不安な期待に緊張した。
「苅田壮平もこんな気持だったろうか」と彼は呟いた、「御用金を不正に動かしたことがいつ明るみに出るか、今日か、明日かと、絶えずびくびくしていたことだろう」
 大丈夫、これは無事に始末をつけると思いながら、同時に、自分の犯した罪におびえ続けていたに相違ない。内容こそ変っているが、いまのおれは苅田壮平と同じように怯えている。しかも罪を犯した者に逆手を取られてだ――だらしのないという点では、むしろ苅田のほうが男らしいではないか、と彼は自分に云った。
 五日たち、七日たち、十日すぎても、さくらのあらわれるようすはないし、吾平らしい男も見かけなかった。功兵衛は決心して、横目付の堀三左衛門にあらましのことを語り、さくらと吾平を捜してくれるように頼んだ。堀は町奉行と連絡をとり、できるだけ早く捜しだそうと答えた。
 そして三日めの夜、堀三左衛門が報告に来た。功兵衛は自分の居間へ招きいれ、火桶をあいだにして坐った。
「外はいい月夜です」と堀が云った、「まるでひるまのようですよ」
 功兵衛は頷いただけであった。
「おたずねの女のいどころがわかりました」と堀は声を低くして云った、「伊勢屋ではなく、隣りの津田屋という木賃旅籠でした」
「隣りとはね、覚え違えたんだな」と功兵衛は云った、「それで女はどうしていました」
「死にました」
「死んだ」功兵衛は絶句した。
「十三日まえの晩、卒中だったそうです」
 ではさのやで会ったすぐあとだな、と功兵衛は思った。しかし本当にそれがさくらだったろうか、吾平はどうしたのかという疑問が残った。
「男もいっしょだったそうです」と堀が続けた、「そういう宿のしきたりで、宿帳なども正確ではありません、女はおさい、男は吾助ということでした」
「男はどうしました」
「ほかの女と出奔したそうです」
 おさいと吾助、それならかれらに相違ないだろう。堀三左衛門の語るところによれば、二人は三十日ほどまえから泊っていた。男も女も酔っぱらいで、朝から焼酎を飲み、酔えばすぐ喧嘩が始まり、殺してやるとかさあ殺せという騒ぎになった。男のほうは博奕ばくちが好きなようで、いつもさいころや花札をもてあそんでいたが、賭場とばへゆくほどの銭も気力もなく、同宿の客をさそっては博奕をやっていたが、誰とやっても負けるばかりだったし、かなりな借りができてしまった。女は夕方ちかくになると宿を出てゆき、なにをするのかわからないが、僅かながら銭をかせいで来た。からだを売っているとも云われ、乞食をしているのを見た、という者もいたそうで、いずれにせよ屋根代も満足には払えなかった。
「そうして十三日まえの夜、女が酔って帰ると、男はいなくなっていた」と堀は云った、「同じ宿に四十がらみで独り者の女がいまして、その女と出奔したのだそうです。それを聞いておさいという女は、あとを追いかけるつもりだったのでしょう、酔った躯で駆けだそうとし、土間へころげ落ちたまま動かなくなった、宿の者がすぐに医者を呼んだところ、もう絶息していたし、脳卒中という診断だったそうです」
 宿賃もたまっていたが、こういう出来事は木賃旅籠などでは珍らしいことではなく、同宿の客たちも哀れがって手を貸し、西目寺の無縁墓へ埋葬した、ということであった。
 堀三左衛門が帰ってから、功兵衛は火桶に手をかざしたまま、ながいこともの思いにとらわれていた。これでおれは安全になった、他の女と出奔したのだから、もう吾平のあらわれる心配もないだろう、おれはまったく安全になった。繰返しそう思いながら、躯じゅうの力がぬけてしまったようにだるく、気持はみじめに暗くふさがれていた。
可哀かわいそうな女だ」と口の中で彼はささやいた、「自分の思うままに生きたように考えながら、実際にはなんのとくもせず、たのしいくらしもできなかったろう、生れた土地へ帰っても、身を売るか乞食をしなければ生きてゆけなかった、そのうえに男は、ほかの女と逃げだしてしまったという、――そのときさくらはどんな気持だったろうか」
 あなたは人間であるまえに侍だった、というさくらの言葉が、耳の奥にまざまざとよみがえってき、彼はつよく眼をつむって、頭を左右に振った。
 ――おれがもう少し人間らしく、人を劬る気持を知っていたら、さくらの生涯も変っていたかもしれない。
 家扶の吉川が、寝間の用意のできたことを告げに来た。火桶の火はもう灰になっていたが、功兵衛は用心ぶかく灰をかぶせ、立ちあがって妻の寝間を覗いた。ふじは眠っていたらしい、彼が側へ寄ると眼をさまし、いぶかしそうにまばたきをした。
「起こすつもりはなかったんだよ」と功兵衛は囁き声で云った、「気分はどうだ」
 ふじははっきり眼がさめたのだろう、あわてて起きあがろうとしたが、功兵衛は押し止めて、妻の手を求めた。ふじの手指はやわらかくあたたかであった。
「明日から起きるようにと、せきに云われました、寝てばかりいてもよくないのだそうです」せきとは家扶の妻女である、「――あなたに御不自由をおさせ申して済みません、どうぞ堪忍かんにんして下さいまし」
「私に不自由なことなどはない」功兵衛は妻の手をでながら云った、「いまは丈夫な子を産むことが、おまえのたった一つの仕事だ、わがままを云っていいんだよ」
 ふじの顔が歪み、いまにも泣きだしそうにみえた。功兵衛は「起こして悪かった、さあおやすみ」と云ってその寝間から出た。
 ――あんな単純な劬りにさえ、泣きそうになるほどふじは感動した。
 おれはそんなにもつめたく、形式ばった人間だったのだろうか。功兵衛は寝てからも、ながいこと自分の過去を思い返してみた。たとえ侍でも人間らしい人間なら、ときには家名や体面をけがすようなことに、巻き込まれる場合があるかもしれない。醜聞のひろまることを恐れて、ただ問題を闇に葬ろうとするのと、人間としてその問題に正面から対決するのと、どちらが正しく勇気のいることだろうか。
「苅田壮平のためになにかしよう」と功兵衛は呟いた、「罰するだけがさばきではないからな、明日は靱町へいって相談しよう」
 すると越川中老の毒舌が聞えるように思えた。――いまになってなにを云いだすんだ、苅田というやつは赤ん坊に足がらをかけて投げとばすようなまねをしたんだぞ、断じて許すことはできない、だめだ。そこで功兵衛は空想のなかでくいさがるだろう、――あんな男でもいつかは死病にとりつかれ、苦しみながら死ぬんだと思えば哀れだと考えられませんか。おそらくそこで斎宮はまっ赤になるだろう、怒りのためまっ赤になった斎宮の顔が見えるようで、功兵衛はそっと微笑した。





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
   1964(昭和39)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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