粗忽評判記

山本周五郎





 苅田久之進かりたきゅうのしん粗忽者そこつものという評判である。粗忽者といってもどの程度に粗忽なのかはよく分らない、いちどそういう評判をとってしまうとつまらぬ失策まで真らしく喧伝けんでんされるもので、ときには他人の分まで背負わされることも珍しくはない。これはつまり何々の粗忽があったという事実が元ではなくて、むしろその人柄によるものであろう。普通の人間がしたことならかくべつ面白くも可笑おかしくもないのに、彼のしたことだとなると急に精彩を放って、いかにも並外れた滑稽さを帯びてくるのだから奇妙である。ことに久之進の場合にはそれを助長するもうひとつの条件があった。それは主君三浦壱岐守明敬みうらいきのかみあきたかが彼に劣らぬ粗忽な人であったことだ。しかも壱岐守は性急の質で、忘れっぽくて早耳という粗忽人の特徴を備えているのに、久之進は落着きはらって粗忽をやるのだから目立つこともまた一倍であった。ある時この二人が馬競べのあとで優劣の論を生じたことがあった。壱岐守は次第に旗色が悪くなるので大いにせき、「では囲碁で勝敗を決めよう」と云った。「いかにも承知でござる」久之進はにやにや笑いながら立って行ったが、間もなく将棋盤を持って来て据えた。にやにや笑って立つまではいかにも落着いたものだが、肝心の物を間違えている。当人も気がつかないし壱岐守は元より大いにせきこんでいるので、すぐに駒箱を明けながら、「許す、先手で参れ」「それはなりません。先手は下手なほうが取るもので、お上と拙者とでは段が違います」「余の命令じゃ、先手で参れ」「御意なればやむを得ません、では――」久之進はしぶしぶ駒箱の中へ手を入れた。
 ここで気がつくかと思うと気がつかない。指先で駒を弄りながらはてなと考えだした。碁は打つもの、将棋は並べて指すものである。駒と石とが違っているから摘んではみたが具合が変なのはあたりまえだ。壱岐守も駒をひねっていたが久之進のようすを見てこいつまた何か失策しくじったなと思った。粗忽人の癖としてこうなると『失策た』という考えだけに突当って他のことは忘れてしまう、しばらく無言のまま駒を弄りまわしていたがついに壱岐守が取って付けたように笑いだした。
「どうだ、久之進、え――どうだ」
 何がどうなのか分らない、ところが久之進のほうもまたひどく恐縮したようすで、
「いや、どうも、まことにどうも」
「あははは、どうだ久之進、どうだ、どうだ、あははは」
 むやみにどうだどうだと云って笑っている。久之進も笑いだした、二人でしばらくけらけらと笑っていたが、やがて碁のことには一言も触れず、そろって庭のほうへ出て行ったところをみると、両方とも何を間違えて可笑くなったのか、分らずじまいらしかった。
 壱岐守はことあるたびに、久之進は粗忽者だからと云う。けれどもそれは非難の言葉ではなくてむしろ寵愛ちょうあいの意味であった。久之進は十五歳の時から御すずり役といって、もう七年もお側去らずに仕えているが、じつをいうと壱岐守明敬とは血続きになっていた。つまり久之進の母は明敬の母の妹で、君臣のかかわりを除けば従兄弟に当るのだ。もっとも明敬が久之進を離さなかったのはそういう血縁からきたものではなく、お互いの粗忽さが共通点となって結び着いたものらしい、もう少し穿うがった言いかたをすれば、久之進は粗忽者だから、ということによって、いくらか明敬の負担を軽くしている傾きさえあるのだ。
 元禄九年という年の春のある日、
「久之進、改めてたずねるが」と明敬がひどく意気ごんで云った、「そちは矢表ということを存じているか、いや矢表に後れをとらぬ自信があるか」
「突然そう仰せられましても……」
「言訳けは要らぬ、自信があるかどうだ」
「はあ、いかにも武士として矢表に後れを取らぬ覚悟はございます」
「きっとだな、よし」明敬はうなずいて、「ではこれから吹上侯を尋ねるから供をせい」
 矢表と吹上侯とどんな関わりがあるのか、久之進は解せぬままに立った。下野国吹上藩主、斎藤出雲守信継さいとういずものかみのぶつぐは、壱岐守明敬と莫逆ばくぎゃくの友である。壱岐守は同国壬生みぶの城主だから隣藩のよしみもあり、また明敬が天和二年十六歳で家を継いだのと、ほとんど前後して信継も十五歳で家督した関係から、この年少の両藩主は江戸に於ても国許くにもとにあっても、きわめて親密なつきあいをもっていた。


 出雲守の屋敷は芝桜川町にあった。飯倉の壱岐邸からはほんのひとまたぎでゆける、供五名を従えて馬を乗りつけた明敬は、久之進だけを伴れて数寄屋へ通った。
「ほう、本当に御光来か」信継は笑いながらこう云った。「今のうちによしたほうが無事ではないか」
「なにを云うか」明敬はむずと坐りながら、「いちどこうと思ったことは中途で思止った例のないこのほうだ、今日こそ兼光を貰ってゆくから覚悟をするがよい」
「覚悟はそのほうのことだ、小萩こはぎの弓勢は三人張だからうっかりすると落命に及ぶぞ、――ところで相手はつれて来たか」
 この久之進だと云われて信継は妙な笑いを漏らした。彼が粗忽者であることは信継もよく知っている、けれどいま妙な笑いを漏らしたのはそのためではないようだ。
「これは妙なことになったな」
「――なにが妙なことだ」
「いや別の話だ、久之進……」と信継は眼をあげて、「そのほうはこれまでに矢表の勝負をしたことがあるのか」
「矢表の勝負と申しますると」
「一方が矢を射かけ一方が太刀で受けるのだ、矢は五本、射当てれば弓が勝、五本とも落せば太刀が勝だ」
「恐れながらいまだ試みたことがございません」
「なにを云うか久之進」壱岐守が驚いて、「そのほうはせんこく矢表に後れは取らぬと立派に申したではないか」
「いや、あれはただ矢表と伺いましたので、矢表と申せば戦の先陣、武士として先陣に後れは取りませんというつもりでお答えを」
「いや、戦場であろうと無かろうと矢表に二つはないぞ、あれほど立派に云っておきながら、この期に及んでとやかくと」
「いや、別にとやかくと申す訳ではございません、なにしろ」
「まあ待て」信継は失笑しながらさえぎった、「それではただもつれるばかりで話にならぬ、このほうから訳を話してやろう久之進こうだ、壬生侯は余の秘蔵する兼光の太刀を欲しがっておられる、もう数年このかた譲れ譲れとせがまれるのだが、余も秘蔵の品で手放すのはいやだから断ってきた。すると今日、お城で雑談のおり、ふと家来自慢が始って壬生侯は」「いや久之進、つまりこうだ」側から明敬が急き込んで、「吹上侯の家中に弓の名手がいるという、それもまだ十八の娘だが三人張の強弓を引いて百発百中、この矢表に立つ者はあるまいと大自慢なのだ」「事実だから仕方がない、すると壬生侯が、そんなら自分の家来と勝負をさせて、勝ったら兼光を譲るかとこう云われるのだ」
「ははあ――」と久之進はようやく合点した、「それで仔細しさいはよく分りました、その勝負には兼光のお太刀をけるという訳でございますな」
「久之進、やるであろうな」明敬が押し冠せるように云った。
「相手はあれだ」と信継が前庭のほうへ振返った。
 いつ来たものか、沓脱石の向うのところに一人の乙女が慎しく控えていた。小麦色の肌のきりっと緊った、富士額で眉の濃い、いかにもかぬ気の勝った顔だちであるが、張のあるつややかな双眸そうぼうと、右の唇尻に黒子ほくろのあるのが、きつい感じの表情を柔げてみえる。信継は二人の顔をひそかに見較べた。
 久之進は眉も動かさなかったが、乙女のほうはかすかに眼の縁を染めたようである。
「――心得ました」久之進は両手を下して、「仰せのとおり矢表の勝負を仕りましょう、支度をして参ります」
「支度はここでするがよいぞ」
「は、腰の物を持参仕ります」と久之進は立って座を退った。
 脇差は帯しているが大剣は控間に置いてある、それを取りに退出したのだが――さて、出ていったきり戻って来ない、いくら待っても戻って来ないのである。大名屋敷で広いには違いない、ことに奥殿の数寄屋と玄関の控間では相当に離れているが、それでも十町二十町とある訳ではなかった。
「見にやっていただこう」明敬は焦々しはじめた。出雲守の小姓が見に行った、そしてすぐに妙な顔をして戻って来た。……控間には一緒に供をして来た四人がずっと待っていたが、久之進は現われなかったと云うのである。「控間には戻らぬと申すか」「はい」「そんな、そんなばかなはずはない!」明敬はせかせかと云った、「刀を取りに出ていったのだから他へ参るはずはない、もういちどいってたしかめて参れ」
「はい、――」
 小姓はあたふたと走っていった。


 出ていった小姓とほとんど入れ違いに、出雲守の馬廻りをつとめる若侍が二人で久之進を左右から支えながら運び込んで来た。じつのところ運び込んだと云うより他に形容のしようがない、「壱岐守さま御家来、かように大酔されまして……」会釈しながら二人掛りで坐らせると、久之進は蒟蒻こんにゃくのようにぐたぐたとそこへ崩折れてしまった。このありさまを見て明敬も信継もあっと眼をみはった。
「これは、なんとしたことだ」
「はっ、御配膳所へ見えまして酒をとのお頼みゆえ、係りの者がお相手にて差上げましたそうで、とうとうこのように……」
「どうしてまた、そんな」
 刀を取りに行きながら何のために配膳所へ現われ、また何のために酒などをねだったのか訳が分らない、明敬はひざを打って、「久之進、面をあげい」と叫んだ、「そのありさまはなにごとだ、見苦しいぞ久之進」
「はっ、……お上、――」久之進はうっとりと酔眼を瞠いたが、「じつに、じつに申し訳なき、粗忽を仕りました、どうか、久之進めに切腹を仰付けのほど」
「いや切腹に限らぬ、次第によっては手討にもするぞ、訳を申せ!」
「申上げまする」久之進はがくりと平伏しながら「拙者め、腰の物を取りに、お控間へ参るつもりで、お廊下へ出ましたので、……ずんずん参りました、……ずんずん歩いて参りましたが、計略のあるお廊下とみえまして、どっちへ参っても奇天烈きてれつなところへ出るばかり、一向にらちがあかず、……さりとて街中ではなし改めて道を訊ねるというのもお上の御威光に関わることゆえ、じつに迷惑に存じていますと、つい御配膳所と思われますところへ出てしまいました。……何ぞ御用かと問われましたが、いまさらお廊下に迷ったと申すのもお上の御威光に……」
「余の威光はそっとしておけ」明敬はこう叫んだ、「それで酒を求めたと申すのか」
「仰せのごとく、――平に、切腹のほど」そう云うのが精一杯で、言葉が終るとともにぐたぐたと平伏してしまった。
 これでは矢表の勝負どころではない、怒る明敬を信継がなだめて、勝負は次の機会ということになった。久之進は間もなく若侍たちに運び出されていったが、さっきから前庭に控えて始終を見ていた乙女は、運ばれて行く久之進の姿をりんの燃えるような眸子ひとみで鋭く見送っていた。
 それから四五日のあいだ、久之進は不快という届を出したまま御前へ出仕しなかった。「どうして出ぬ、見て参れ」明敬は出たら骨に応えるほど叱りつけてやろうと待ち構えていたが、見に行った者の復命によると、飲みつけぬ大酒ですっかりやられ、まだ床を離れることができないということであった。――怒られるのを知って逃げを打つな、明敬はそう思ったので、「よし、あと三日の猶予を遣わす、それまでに出仕しなければ勘当だと申せ」と厳しく命じた。
 じつのところ久之進は参っていた。これまで飲むというほど飲んだことがないのに、身の立たぬまであおったのだから無理もない話である。水ばかり飲んでうなっていたが、それでも猶予三日の最後の日には蒼白あおじろい顔でふらふらしながら御前へ出た。いきなり頭から呶鳴どなりつけられるものと覚悟していた久之進は、「どうだ、具合は好いか」という優しい言葉を聞いて驚いた。「はっ、――」「苦しいならまだ出仕するには及ばないぞ、顔色も本当ではないようだ、無理をせずともよいだけ休んでおれ」
 まったく意外な結果である。そっと面をあげて見ると、明敬の眉間みけんが曇っている、額に深くしわを刻んでどうやら憂悶ゆうもんに苦しんでいるようすであった。かつて例のないことなので久之進は何か間違いがあったなと直感した。
「恐れながら、なんぞ御不快なことでもございましたか、御気色が勝れぬように拝見仕りまするが……もしやせんじつ久之進めの」
「いや心配するな、そうではない」明敬はそう云って立上った、「庭を歩く、苦しくなければ供をせい」「お供仕ります」久之進もすぐに座を立った。
 庭へ下りた明敬は、足を速めるかと思うと緩め、立停るかと見ればすぐまた歩きだすというふうで、心の屈託がそのままかたちに現われているようすだった。こうしているうちに、丘の上の松韻亭という亭のところへ出た。
「久之進、先日は余が悪かった」卒然とこう云いだした。
「なにごとの仰せでございましょうか」
「いや隠すことはない、兼光が欲しいため、家来に賭け勝負をさせるなどは道を外したしかたであった、忘れてくれ」


 久之進は頭を垂れただけである。
「じつは、出雲守と交わりを断った」明敬は屈託をぶちまけるように云った、「あんな友誼ゆうぎを知らぬやつはない、このほうは一歳でも年上だと思うから、なにかにつけてかばってもやり引立て役にも廻っていたのだ、その恩義も忘れておのれひとかどの人物かなんぞのように、のさばり返っているようすは見るに耐えない」
「……なんぞゆき違いでもございましたか」
「もとは些細ささいなことだ」明敬は苦い表情で云った、「昨日は式日で長袴ながばかまの登城だった、余は少し遅刻したので心も急いていたが、ついしたはずみで前をゆく者の袴を踏んでしまった、向うはみごとにつんのめった。なに、いささかでも心得のある者なら、長袴の裾を踏まれたくらいであんな転びようをするはずはない、うかうかしているものだから、のめる拍子に萩間のふすまを押倒して、お詰間へ転げこんでしまった」
「……それが吹上侯でございましたな」
「あの田舎者め」明敬は宙をめつけた、「余がびる暇もなく、起上るといきなり無礼のなんのと怒りだし、はては先日の矢表のことまで云いだして、あれは敵わぬから逃げたのであろうなどと云いおった、詫びようと思ってもそうなれば売り喧嘩げんかに買い喧嘩だ、――壬生の家中にはおんなわらべと立会うような腰抜は一人もおらぬ、こう云ってやった」
「……それだけでございますか」
「まあ、そんなものだ」まぶしそうな眼をしたようすでは、どうもそんな温和おとなしいことではなかったらしい、――明敬は急いで話題を変えた、「それはそれでよい、肝心なのはそんな些細なことで、日ごろの友誼を忘れた出雲守の態度だ、余はきっぱり交を断つと云ってやったが、今にして思えばあのとき兼光を譲り取らなくてよいことをした、もし兼光がこのほうへ来ていたら、昨日はもっと雑言を吐かれたに違いない」
「お交りを断つと、お上から仰せられたのですか」
「余が云わなければ向うが申したであろう、あんな腹黒いやつはない」
 向うが云うだろうと想像して腹黒いというのは無理である。しかしいかにも性急な明敬らしい話であった。久之進はなにも云わなかった、長袴の裾を踏むなどということはありがちである、またそのはずみで襖ごと顛転てんてんすることだって無くはない。それでも過失なら笑って済ますのが普通である、しかし虫の居所が悪ければ袖が触っても命のやりとりをすることさえあるのだ。ことに我儘わがまま自由に育った大名同士のことだから、どんな些細なきっかけで癇癪かんしゃくを破裂させぬ限りもない、出雲守が怒ったのも分るし、また壱岐守がこんな詰らぬことをと云う気持もよく分る。――まあそのうちに和解するだろう、と久之進は気軽に考えていた。
 そのほうは楽に考えていたが、すこぶる楽でないことが久之進のほうに持上った。その明る日の朝であったが、久之進のもとへ一通の手紙が届けられたのである。穏かならぬ左封じだ。披いてみると、「冠省ごめんくださいまし、先日桜川町屋敷へ御入来、久々のおめもじ嬉しゅう存じました、あのおりはあなた様の御粗忽で勝負はそのままお取止めとなり残念に存じておりましたところ、そなた様には女童と勝負をするような腰抜ならず、と仰せられましたとか、わたくし、身にとり無念のことに存じます。勝負をお逃げなされたあなた様に、おんなわらべとおさげすみ遊ばすお心得ありや否や、失礼ながら手練の矢ひと筋参りたく存じますゆえ、この状お手に入りしだい、赤羽ヶ原までお越しくださるよう、もし先日のようにこしらえ粗忽でお逃げなされば、そなた様の未練なること世上の沙汰とお覚悟あそばせ、小萩」と達筆に書いてあった。
「相変らずだな……」久之進は眉をひそめて、「しかし、こいつは、どうもちょいと弱ったぞ」手紙を巻納めながらこう呟いた。
 弱るには訳があるのだ。三人張の強弓を引くと出雲守信継が自慢の乙女、奥田おくだ小萩は久之進の許嫁いいなずけなのである、――久之進の国許の家の隣村に小萩の家があって父親同士が昵懇じっこんにしているため、二人は幼少の頃からよく識っていた。小萩の父文左衛門ぶんざえもんは吹上藩国許の弓の師範で、久之進もおりに触れて教えを受けたことがある。その頃から小萩は弓いじりをしていたが、三人張を引くというのは天分があったのであろう、久之進は十五歳の時に江戸詰となって出府し、許嫁の約束はそのあとでできたものだ。吹上侯の庭さきに小萩の姿をみつけたときはまったく驚かされた。あのとき信継が妙な笑いを漏したのは、おそらく二人の関係を耳にしていたためであろうが、久之進はむろんそんなことには気付かなかった。――おさない時から肯かぬ気性だったが、三人張を引いて敵無しとは驚いた、と舌を巻いたのである。


 それでもあのときは無事に済んだ。あのときの粗忽が拵えごとであったかどうかは別として、無事に済んでよかったと思ったのは事実だ、しかし今度はそうはいかない、明敬の一言がとんだほうへ火を放けたかたちで、来なければ未練なりと世上の沙汰にして笑うというのである、久之進が笑われるだけなら考えようもあるが、おそらく小萩から信継に伝わって、殿中の評判になるだろう、そうすれば恥辱は主君の上にも及ぶ、「弱ったはねかえりだな」久之進はしばらく考えていたが、「しようがない、まあしようがないだろう」独りつぶやきながら立った。所用の届を出して、飯倉の屋敷を出ると、道を急いで赤羽ヶ原へやって来た。後にそこは増上寺の境内にとり入れられたが、その頃はまだ赤羽橋の畔に二万坪ばかり、樹木もない空地になっていた。原へかかるとまず驚いたのは、小萩の他に十人ほど、美しく着飾った奥女中たちがいずれも馬上でずらりと並んでいたことだ。――春とはいえまだ草の芽が微かにえはじめたばかり、広い空地は荒涼と枯れている、そこへ色彩華やかな乙女たちが駒を揃えたのだから、その派手なことはちょっと類がなかった。
「やあ、お揃いですな」久之進は微笑しながら近寄った、「まるで一時に桃が咲き出したようで眩しゅうござるぞ、みんな弓をおやりか」
「お黙りあそばせ」小萩がきっと遮った。色は浅黒いが、そこに集ったなかで小萩はやはり群を抜いた器量である、三所籐の強弓を左手に、籐へ五本のを負った馬上の姿は娘ながらりんとした威をもっている。「趣意は文で申上げましたとおり」と小萩は切り口上で続けた。「わたくしの射る箭は五本でございます、間合は三十歩、これへ胴を持参致しておきましたが、お着けになっても万一のことはお覚悟あそばせ」
 そう云いながら、傍にいた女中の手から、用意してきた桶側胴おけがわどうを受取ってそこへ差出した、これを着けてももしかすると命はないぞと云うのである。
「それは色々と御心のつくことで」久之進は笑って、「せっかくだがどうせ着けても危いものならよしに致そう、同じことなら胴を着けて死ぬより、着けずに死ぬほうが外聞が好さそうだ」
「どちらともお心まかせに」
「すぐに始めますかな」こちらはじっと相手の眼を見た。
「間合は三十歩です」
 じっとみつめる久之進の眼から慌ててそむきながら、小萩は突放すように云った。久之進は身を退いた。そして静かに数えながら三十歩だけ遠退き、振返って大剣のさやを払った。小萩は馬上のままである、籐の箭を二本抜取り、一本を弦に、一本を命矢にしてきっと馬の上に伸上った。久之進は大剣を正眼につけた……そよとの風もない早春の麗日、増上寺の森で渡り遅れたひよどりの鳴く声が、ときおり静かな空に聞えるほかは、なんの物音もしない、十人の女中たちはさすがに息を詰め、手綱をひしと汗にしながら見戍みまもっていた。
 小萩は弓をひきしぼった。ききききと微妙に巻籐がきしむとみるや、ひゅうっと久之進の胸板ま正面を狙って電光のごとく飛ぶ矢、えい、という叫びとともに大剣が空を截る、矢は二つに折れて右手へ落ちた。小萩は措かせず二の矢である、しかし三の矢も四の矢も、見事に久之進は払い落した。踏開いた両足はまだ一歩も動いていないのである、小萩の額は蒼みがかり、しかもふつふつと汗がにじみ出ていた。
「お待ちなさい」久之進がとつぜんこう叫んだ、「その矢は射させぬぞ」
「…………」
「射てみられい、いざ」
 叫ぶとともに右足を踏出し、籠手こて下りに刀を執ってはたと相手の眼を見た。小萩は五の矢、最後の矢を弦につがえて、馬の上に伸上ってきっと呼吸を計った。なんの、強く唇をひきしめながら、きりきりと弦をひきしぼった、ひきしぼったが、そのまま小萩は呼吸が止るかと思った。今までの木偶でくを立てたような構えとはまるで違う、今度は久之進の姿が大剣の蔭に隠れて見えないのだ。そればかりではない、籠手下りの正眼に構えた刀が、今にもこっちへ跳びかかって来る生物のようにさえ見える。これしきのことが、勇を鼓して眼を凝らすが、次第に血が頭へのぼってくるので眸子ひとみが狂い、詰めている呼吸は胸膈を引裂くかと思われる、そのとき「えい」久之進が凄じく絶叫した。
 小萩はがくりと馬の首へうち伏した。


 まわりにいた女中たちの二三人が、あっと云って馬を寄せようとしたとき、久之進は刀を鞘に納めてつかつかと近寄り、「小萩どの一言だけ申上る」と云った、「女童と云われたのは、武芸沙汰をわらうのではない、武家に生れたからは女子でも武芸の一手二手、心得るのがあたりまえのことだ、ひと口に女童と云われるのは、いささかの才能に慢心して婦の道を忘れるからだ、三人張の強弓を引いてその矢表に立つ者なしなどとは笑止なばかりでなく、吹上藩の侍どもの名聞をおとしめるわざだ、閨門けいもんの威を張る国は亡び、女のでしゃばる家の末遂げたためしはない、あなたとは親たちのあいだで約束したこともあるが、たった今ここで破約をする、しかとお伝えしましたぞ」
 これだけ云うと、久之進は大股おおまたにそこを去っていった、……小萩は失神したもののように馬上にうち伏したまま身動きもしなかった。
 こんなことがあったとは、むろん久之進は色にも出さなかった。そして壬生家中に関する限りは誰一人として知らずに過ぎた、それよりも妙なのは、まあそのうちに和解するだろう、と気楽に考えていた明敬と信継が、案外そう容易たやすく仲直りするもようがないことである。明敬は出雲守の屋敷の側を通るのもいやだと云って、登城のおりにはわざわざ行列を遠廻りさせるくらいなのだ、そして久之進に向っても、時おり「出雲め、お役に有り付いて余を見返すつもりか、この頃頻りに老中の御機嫌をとっているそうだ、田圃奉行にでもなる気だろう」などと憎さげにののしるのだった。
 悪い時には悪いことが続くものである、田圃奉行にでもなるかと嘲った信継が、それから間もなく本当に御厩奉行に任ぜられた、その告示のあった日のことである、下城して来た明敬は不機嫌そのもので、近習の者に当りちらしたあげく、「久之進、酒の相手をしろ」と云い出した。
「恐れながら拙者酒では懲りております、お上にもさような御気色ではお体に障りましょう」「黙れ、出雲守の酒を飲みながら余の酒を飲まぬとは云わさんぞ、きゃつめが御厩奉行になってどんな心持か、そのほうも一緒に味わってやれ」
「――御厩奉行」ああと彼は声をあげた。
「出雲めがまんまと為止めおったぞ」
 久之進は眼を伏せた。それから低いこえで、お相手を仕りますと答えた。明敬も酒をたしなむほうではない、しかし喧嘩相手の信継が眼前に出世したことを思うと、酒でも飲まずにはいられなかったらしい。これもまた我儘育ちの大名の一癖である。……多くも飲まなかったが悪酔いをした、むろんそんなことで胸の忿懣ふんまんは納るはずはなかった。
「――久之進、使者に行け」
「いずれへ参りまする」
「愛宕下の志摩しま侯を招いて来い」
 愛宕下の松平まつだいら志摩守、これは殿中で明敬と話のうまの合う人だった。ときには互いの邸を訪ね合うこともある、もう四十に近い年だが無役のままで、明敬としては今の不満を語るのにもってこいの相手だった。
「仰せではございますがもはや夕景でもあり、お上にもお酔いあそばしたごようすゆえ、明日御茶になりと御招待遊ばしますよう」
「そうか、――」明敬は案外穏かに頷いた。「ではそうしよう、使者には今宵のうちに参っておけ、申付けたぞ」
「承知仕りました」
「……もう入るぞ」悪酔をしたのであろう、蒼い顔をして奥へ入ってしまった。
 久之進は御前を退るとすぐ、着換えをして馬を命じた。松平志摩守へ使者にゆくためである。――主君明敬の気持は、久之進にも痛いほどじかに感じられた。あんなことのあった後でしかも嘲り笑っていた相手がこっちをだしぬいて出世をしたのだ。御役づきとなれば殿中での格も違うし、場合によればどんな意地の悪いことをされても黙っていなければならぬだろう、志摩侯を呼んで不平を語ろうとする、女々しいようではあるが、この場合お上としても他にお心遣りはないに違いない。久之進は胸を痛めつつ、別当を従えて飯倉を出たが、考えごとに気をとられていたためか、愛宕下へ行くべき道を桜川町へとり、そのまま斎藤出雲守の屋敷へ乗りつけてしまった。


「なに壱岐守から使者とな」信継は不審そうに訊き返した、「壱岐の間違いではないか、飯倉から使者を寄来すはずはないぞ」
「飯倉様のお使者に相違ございません、苅田久之進でございます」
「なにあの、……粗忽者か」信継はあっと云った。彼また粗忽をやったな、と気付いたのである。なにしろあれ以来明敬とは口も利かぬし、こんどこっちが御役についたからは、歯ぎしりをして口惜しがっているはずだ。今さらなんの使者を寄来す必要があろう。これはたしかに久之進の粗忽だと推察したので、「――よし、会うぞ」にやりと笑った。
 書院に平伏しているのはまさに久之進であった。信継は座につくと、よそよそしい声できぱきぱと云った。
「信継じゃ、壱岐殿の使者大儀」「はっ」「口上の趣聴こう」
 久之進は平伏した顔を静かにあげた。もう度胸を決めているらしい。
「壱岐守より口上にて申上げまする」
「――うん」信継は天床を見ている。
「このたびは御厩奉行に任ぜられ、祝着至極に存じ上げまする、壱岐守自ら御祝儀に参るべきところ、他ならぬ御当家様のこととて使者口上のお祝い、ひらに御免こうむりまする」
「待て久之進、待て」信継は苦笑しながら遮った。「ただ今の口上、壱岐守より申付かって来たのか、そうではあるまい」
「恐れながらまさに」
「いやそうではあるまい、そのほうは使者として行くべき先を間違えたのであろう、壱岐守がそんな祝を云って寄来すはずはないぞ」
「それは恐れながら出雲守様のお鑑識違いかと存じまする、そう仰せられまするは、いつぞや殿中で壱岐守の過失により、お仲違いに相成ったことの意趣をお含みのうえと存じまするが、……手前主人とこちら様とは十余年のお交り、たとえお仲違いに相成りましょうと、壱岐守心中には一時もこちら様のことをお忘れ申したことはございません。いや偽りは申しません、なるほど口では無念がましき言を申しましょう、けれどその言葉の裏には、十余年の御親友を失われた淋しさが歴々ありありうかがわれまする、お側に仕えまする久之進、そのありさまをみるたびに苦しく、切なく、かようなとき出雲守様はいかが思召すか、あれほどのお仲が不和になって、出雲守様はお淋しくは在さぬかと、失礼ながらお怨み申上げたことさえございまする」
 信継の眼がいつか膝へ落ちていた。
「このたびの御出頭に、御不和を忘れて御祝儀の使者を差立てました壱岐守の心中、おみ分けくださいませぬのはお情のう存じまする」
「……久之進」信継は静かに眼をあげた、「余が過った、いまの言葉は忘れてくれ、いかにも壱岐殿の御祝儀有難く受けるぞ」
「――はっ」久之進は平伏しながら、「早速お聴分けくださいまして、久之進面目に存じまする、なおまた、……明日は久々にて御対面を得たく、茶を催しまするゆえげて御来駕らいがくださいまするよう」
「なに壱岐が余を招くというか」
「くれぐれもお待ち申すとの口上にございます」
「そうか――」信継は感動して頷いた、「いかにも快く参ろう、帰ったら壱岐殿にお伝え申せ、出雲も土産を持って参るとな」
「は、仰せ相違なく申伝えまする」
「大儀であった」信継はすっかりまじめになっていた。
 久之進は拝揖はいゆうして辞去した、使者の行先を間違えたばかりではない、とんでもない相手にとんでもない口上を述べてしまった。出雲守の屋敷を出た彼は心なしか顔色も暗く、馬をやるにも放心しているかに思われたが、もう信継の前へ出たときから覚悟はついていたのだろう、飯倉の屋敷へ戻るとすぐ、夜中ながら押してお目通りを願い出た。悪酔をしてすでに寝所へ入っていた明敬は、久之進と聞いて申付けたこともあり、仔細ありげな押しての願いに、間もなく衣服を換えて表へ出て来た。――久之進はいつにも似ず、はるかに退って平伏しながら、「お上、久之進めに切腹を仰付くださるよう」いきなりこう云いだした。
「なんだ、どうしたのだ」
「申訳ございませぬ、お使者先を取違えました」
「間違えたと云って……」明敬は眉を顰めた。「ぜんたいどこへいったのだ」
「出雲守様お屋敷へ参りました」
 あっと云って明敬は口をひき結んだ。


「今日のお怒りも出雲守ゆえと、そのことのみ考えて参りましたためか、ついうかうかと御門へ入り、しまったと思いましたがすでに遅く、ついに出雲守様と……」
「会ったのか、会ってしまったのか」
「明日の茶の催しに御招待申上げてしまいました、粗忽でございます」
 久之進は平伏しながら叫んだ、「お詫びの申上げようもございません、どうぞ切腹仰付けくださいますよう、しかし、生前に一言お願いがございます」
「…………」
「明日は出雲守様とお二人にて、御茶席の催しを遊ばしまするよう、すれば久之進の粗忽も救われ、せっかくお悦びの出雲守様も御失望なさらず」
「待て、……出雲が悦んだと云うか」
「明日を楽しみにすると仰せられました、またその節は土産を持参するとまで、御悦びのごようすでございました」
 明敬は黙って眼を閉じたが、やがて呻るように、「――切腹には及ばんぞ」と云った、
「きさまの粗忽は病だ、病をとがめるわけにはゆかぬだろう、ただしこれ一度に限る、この次には許さぬから覚えておけ」
「では御茶のお招きも……」
「しようがない、残念だが催してやる」
「はっ、かたじけのう」平伏する久之進をいまいましげに睨みながら、明敬は跫音もあらあらしく奥へ入っていった。
 その翌日である。出雲守来邸と聞いて、しぶしぶ迎えに出た明敬は、いきなり両手を信継の温い手で握られて呆気あっけにとられた。
「負けた、このほうの負けだ壱岐侯」信継は震える声で云った、「信継も仲直りがしたかったのだ、殿中でなんど言葉をかけようと思ったかしれないぞ、だがやはりできなかった。嬉しかったよ壱岐侯、あのおりのことは許してくれ、よく先に折れてくれた、嬉しいぞ、嬉しいぞ」
「……出雲侯」明敬もひしと手を握り返した。信継はしかし相手に言葉を与えず、「さすがに一年の長だけある、仲違いをしていなくとも、出世をした者の門は訪ねにくいものだ、ことにあの不和のなかでなおさらであろう、それだけに嬉しかった、誰に祝われるよりやはり壱岐侯に祝ってもらいたかったのだ」
「よい、よい、もうよい」明敬の声はにわかにしめってきた。「会えばいいんだ、よく来てくれた、さあ、席へ行こう、席へ……」ほとんど手を執合ったまま二人は奥へ入った。客間へ通っても、しばらく二人とも同じ感動の言葉を繰返していたが、やがて信継は小姓に持たせて来た錦の袋を取って、「さ、土産だ、受けていただこう」と差出した。なにが入っているかは勿論もちろんひと眼で分る。
「兼光だな」
「御執心の兼光だ、今日の招きの返礼に持って来た」
「そんなに……」と明敬はうるんだ眼で相手をじっと見た。「そんなに今日の招きを悦んでくれるか」「それが分ってもらえないか」
「まあ待ってくれ、事実を云おう」明敬はふいと兼光を置いてかたちを正した。「じつは今日の招きはこのほうの心から出たのではないのだ」
「なにを云う壱岐侯」
「愛宕下の志摩守を招くよう命じたのを、久之進が粗忽で間違えたのだ、……しかしよく間違えてくれたと思う、式台でこなたの顔をひと眼見たとき、……自分はどうかして泣くまいと、歯を喰いしばっていた、正直に云う、招いたは久之進の粗忽だ、けれども今こそ改めて、心から招きたい、出雲侯、受けてくださるか」
「そうか、そうだったのか」信継は頷いて云った。「よく打明けてくれた、云うまでもなく心からお受けをするよ、その代り兼光も受けてもらいたい」
「いや、これは粗忽の褒美として久之進に遣ってくれ、この粗忽はそれだけの値打がある」「久之進にはべつに土産があるのだ」信継が微笑しながら、「なあ久之進」とこちらへ振返った。「三人張の弓を折って、せっせとくりやしごとの稽古をしている者がある、そのほうよもや知らぬとは云うまいな」
「いやこれはもってのほかの仰せ」
「壱岐侯には余が仔細を話そう、土産として届けるゆえたいせつにしてやれ、よいか」
 久之進は平伏しながら微かに笑った。
「なんだそれは」明敬が不審そうに訊いた。
「まあよい」信継は笑いながらこう云って立った、「明日になれば自然とお分りになろう、では茶席を拝見致そうかな」
「久方ぶりで手前を笑われようか」
「喧嘩は法度としてな」
 明るく笑いながら二人はつれだって茶席のほうへ立った。……それを見送る久之進の眼には、静かな、けれどいくらか誇らしげな微笑が浮んでいた。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「富士」大日本雄辯會講談社
   1929(昭和14)年7月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2024年1月18日作成
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