ここで気がつくかと思うと気がつかない。指先で駒を弄りながらはてなと考えだした。碁は打つもの、将棋は並べて指すものである。駒と石とが違っているから摘んではみたが具合が変なのはあたりまえだ。壱岐守も駒を
「どうだ、久之進、え――どうだ」
何がどうなのか分らない、ところが久之進のほうもまたひどく恐縮したようすで、
「いや、どうも、まことにどうも」
「あははは、どうだ久之進、どうだ、どうだ、あははは」
むやみにどうだどうだと云って笑っている。久之進も笑いだした、二人でしばらくけらけらと笑っていたが、やがて碁のことには一言も触れず、
壱岐守はことあるたびに、久之進は粗忽者だからと云う。けれどもそれは非難の言葉ではなくてむしろ
元禄九年という年の春のある日、
「久之進、改めて
「突然そう仰せられましても……」
「言訳けは要らぬ、自信があるかどうだ」
「はあ、いかにも武士として矢表に後れを取らぬ覚悟はございます」
「きっとだな、よし」明敬は
矢表と吹上侯とどんな関わりがあるのか、久之進は解せぬままに立った。下野国吹上藩主、
出雲守の屋敷は芝桜川町にあった。飯倉の壱岐邸からはほんのひと
「ほう、本当に御光来か」信継は笑いながらこう云った。「今のうちによしたほうが無事ではないか」
「なにを云うか」明敬はむずと坐りながら、「いちどこうと思ったことは中途で思止った例のないこのほうだ、今日こそ兼光を貰ってゆくから覚悟をするがよい」
「覚悟はそのほうのことだ、
この久之進だと云われて信継は妙な笑いを漏らした。彼が粗忽者であることは信継もよく知っている、けれどいま妙な笑いを漏らしたのはそのためではないようだ。
「これは妙なことになったな」
「――なにが妙なことだ」
「いや別の話だ、久之進……」と信継は眼をあげて、「そのほうはこれまでに矢表の勝負をしたことがあるのか」
「矢表の勝負と申しますると」
「一方が矢を射かけ一方が太刀で受けるのだ、矢は五本、射当てれば弓が勝、五本とも落せば太刀が勝だ」
「恐れながらいまだ試みたことがございません」
「なにを云うか久之進」壱岐守が驚いて、「そのほうはせんこく矢表に後れは取らぬと立派に申したではないか」
「いや、あれはただ矢表と伺いましたので、矢表と申せば戦の先陣、武士として先陣に後れは取りませんというつもりでお答えを」
「いや、戦場であろうと無かろうと矢表に二つはないぞ、あれほど立派に云っておきながら、この期に及んでとやかくと」
「いや、別にとやかくと申す訳ではございません、なにしろ」
「まあ待て」信継は失笑しながら
「ははあ――」と久之進はようやく合点した、「それで
「久之進、やるであろうな」明敬が押し冠せるように云った。
「相手はあれだ」と信継が前庭のほうへ振返った。
いつ来たものか、沓脱石の向うのところに一人の乙女が慎しく控えていた。小麦色の肌のきりっと緊った、富士額で眉の濃い、いかにも
久之進は眉も動かさなかったが、乙女のほうは
「――心得ました」久之進は両手を下して、「仰せのとおり矢表の勝負を仕りましょう、支度をして参ります」
「支度はここでするがよいぞ」
「は、腰の物を持参仕ります」と久之進は立って座を退った。
脇差は帯しているが大剣は控間に置いてある、それを取りに退出したのだが――さて、出ていったきり戻って来ない、いくら待っても戻って来ないのである。大名屋敷で広いには違いない、ことに奥殿の数寄屋と玄関の控間では相当に離れているが、それでも十町二十町とある訳ではなかった。
「見にやっていただこう」明敬は焦々しはじめた。出雲守の小姓が見に行った、そしてすぐに妙な顔をして戻って来た。……控間には一緒に供をして来た四人がずっと待っていたが、久之進は現われなかったと云うのである。「控間には戻らぬと申すか」「はい」「そんな、そんなばかなはずはない!」明敬はせかせかと云った、「刀を取りに出ていったのだから他へ参るはずはない、もういちどいってたしかめて参れ」
「はい、――」
小姓はあたふたと走っていった。
出ていった小姓とほとんど入れ違いに、出雲守の馬廻りをつとめる若侍が二人で久之進を左右から支えながら運び込んで来た。じつのところ運び込んだと云うより他に形容のしようがない、「壱岐守さま御家来、かように大酔されまして……」会釈しながら二人掛りで坐らせると、久之進は
「これは、なんとしたことだ」
「はっ、御配膳所へ見えまして酒をとのお頼みゆえ、係りの者がお相手にて差上げましたそうで、とうとうこのように……」
「どうしてまた、そんな」
刀を取りに行きながら何のために配膳所へ現われ、また何のために酒などをねだったのか訳が分らない、明敬は
「はっ、……お上、――」久之進はうっとりと酔眼を瞠いたが、「じつに、じつに申し訳なき、粗忽を仕りました、どうか、久之進めに切腹を仰付けのほど」
「いや切腹に限らぬ、次第によっては手討にもするぞ、訳を申せ!」
「申上げまする」久之進はがくりと平伏しながら「拙者め、腰の物を取りに、お控間へ参るつもりで、お廊下へ出ましたので、……ずんずん参りました、……ずんずん歩いて参りましたが、計略のあるお廊下とみえまして、どっちへ参っても
「余の威光はそっとしておけ」明敬はこう叫んだ、「それで酒を求めたと申すのか」
「仰せのごとく、――平に、切腹のほど」そう云うのが精一杯で、言葉が終るとともにぐたぐたと平伏してしまった。
これでは矢表の勝負どころではない、怒る明敬を信継がなだめて、勝負は次の機会ということになった。久之進は間もなく若侍たちに運び出されていったが、さっきから前庭に控えて始終を見ていた乙女は、運ばれて行く久之進の姿を
それから四五日のあいだ、久之進は不快という届を出したまま御前へ出仕しなかった。「どうして出ぬ、見て参れ」明敬は出たら骨に応えるほど叱りつけてやろうと待ち構えていたが、見に行った者の復命によると、飲みつけぬ大酒ですっかりやられ、まだ床を離れることができないということであった。――怒られるのを知って逃げを打つな、明敬はそう思ったので、「よし、あと三日の猶予を遣わす、それまでに出仕しなければ勘当だと申せ」と厳しく命じた。
じつのところ久之進は参っていた。これまで飲むというほど飲んだことがないのに、身の立たぬまで
まったく意外な結果である。そっと面をあげて見ると、明敬の
「恐れながら、なんぞ御不快なことでもございましたか、御気色が勝れぬように拝見仕りまするが……もしやせんじつ久之進めの」
「いや心配するな、そうではない」明敬はそう云って立上った、「庭を歩く、苦しくなければ供をせい」「お供仕ります」久之進もすぐに座を立った。
庭へ下りた明敬は、足を速めるかと思うと緩め、立停るかと見ればすぐまた歩きだすというふうで、心の屈託がそのままかたちに現われているようすだった。こうしているうちに、丘の上の松韻亭という亭のところへ出た。
「久之進、先日は余が悪かった」卒然とこう云いだした。
「なにごとの仰せでございましょうか」
「いや隠すことはない、兼光が欲しいため、家来に賭け勝負をさせるなどは道を外したしかたであった、忘れてくれ」
久之進は頭を垂れただけである。
「じつは、出雲守と交わりを断った」明敬は屈託をぶちまけるように云った、「あんな
「……なんぞゆき違いでもございましたか」
「もとは
「……それが吹上侯でございましたな」
「あの田舎者め」明敬は宙を
「……それだけでございますか」
「まあ、そんなものだ」
「お交りを断つと、お上から仰せられたのですか」
「余が云わなければ向うが申したであろう、あんな腹黒いやつはない」
向うが云うだろうと想像して腹黒いというのは無理である。しかしいかにも性急な明敬らしい話であった。久之進はなにも云わなかった、長袴の裾を踏むなどということはありがちである、またそのはずみで襖ごと
そのほうは楽に考えていたが、すこぶる楽でないことが久之進のほうに持上った。その明る日の朝であったが、久之進のもとへ一通の手紙が届けられたのである。穏かならぬ左封じだ。披いてみると、「冠省ごめんくださいまし、先日桜川町屋敷へ御入来、久々のおめもじ嬉しゅう存じました、あのおりはあなた様の御粗忽で勝負はそのままお取止めとなり残念に存じておりましたところ、そなた様には女童と勝負をするような腰抜ならず、と仰せられましたとか、わたくし、身にとり無念のことに存じます。勝負をお逃げなされたあなた様に、おんなわらべとお
「相変らずだな……」久之進は眉をひそめて、「しかし、こいつは、どうもちょいと弱ったぞ」手紙を巻納めながらこう呟いた。
弱るには訳があるのだ。三人張の強弓を引くと出雲守信継が自慢の乙女、
それでもあのときは無事に済んだ。あのときの粗忽が拵えごとであったかどうかは別として、無事に済んでよかったと思ったのは事実だ、しかし今度はそうはいかない、明敬の一言がとんだほうへ火を放けたかたちで、来なければ未練なりと世上の沙汰にして笑うというのである、久之進が笑われるだけなら考えようもあるが、おそらく小萩から信継に伝わって、殿中の評判になるだろう、そうすれば恥辱は主君の上にも及ぶ、「弱ったはねかえりだな」久之進はしばらく考えていたが、「しようがない、まあしようがないだろう」独り
「やあ、お揃いですな」久之進は微笑しながら近寄った、「まるで一時に桃が咲き出したようで眩しゅうござるぞ、みんな弓をおやりか」
「お黙りあそばせ」小萩がきっと遮った。色は浅黒いが、そこに集ったなかで小萩はやはり群を抜いた器量である、三所籐の強弓を左手に、籐へ五本の
そう云いながら、傍にいた女中の手から、用意してきた
「それは色々と御心のつくことで」久之進は笑って、「せっかくだがどうせ着けても危いものならよしに致そう、同じことなら胴を着けて死ぬより、着けずに死ぬほうが外聞が好さそうだ」
「どちらともお心まかせに」
「すぐに始めますかな」こちらはじっと相手の眼を見た。
「間合は三十歩です」
じっと
小萩は弓をひきしぼった。ききききと微妙に巻籐がきしむとみるや、ひゅうっと久之進の胸板ま正面を狙って電光のごとく飛ぶ矢、えい、という叫びとともに大剣が空を截る、矢は二つに折れて右手へ落ちた。小萩は措かせず二の矢である、しかし三の矢も四の矢も、見事に久之進は払い落した。踏開いた両足はまだ一歩も動いていないのである、小萩の額は蒼みがかり、しかもふつふつと汗が
「お待ちなさい」久之進がとつぜんこう叫んだ、「その矢は射させぬぞ」
「…………」
「射てみられい、いざ」
叫ぶとともに右足を踏出し、
小萩はがくりと馬の首へうち伏した。
まわりにいた女中たちの二三人が、あっと云って馬を寄せようとしたとき、久之進は刀を鞘に納めてつかつかと近寄り、「小萩どの一言だけ申上る」と云った、「女童と云われたのは、武芸沙汰を
これだけ云うと、久之進は
こんなことがあったとは、むろん久之進は色にも出さなかった。そして壬生家中に関する限りは誰一人として知らずに過ぎた、それよりも妙なのは、まあそのうちに和解するだろう、と気楽に考えていた明敬と信継が、案外そう
悪い時には悪いことが続くものである、田圃奉行にでもなるかと嘲った信継が、それから間もなく本当に御厩奉行に任ぜられた、その告示のあった日のことである、下城して来た明敬は不機嫌そのもので、近習の者に当りちらしたあげく、「久之進、酒の相手をしろ」と云い出した。
「恐れながら拙者酒では懲りております、お上にもさような御気色ではお体に障りましょう」「黙れ、出雲守の酒を飲みながら余の酒を飲まぬとは云わさんぞ、きゃつめが御厩奉行になってどんな心持か、そのほうも一緒に味わってやれ」
「――御厩奉行」ああと彼は声をあげた。
「出雲めがまんまと為止めおったぞ」
久之進は眼を伏せた。それから低いこえで、お相手を仕りますと答えた。明敬も酒を
「――久之進、使者に行け」
「いずれへ参りまする」
「愛宕下の
愛宕下の
「仰せではございますがもはや夕景でもあり、お上にもお酔いあそばしたごようすゆえ、明日御茶になりと御招待遊ばしますよう」
「そうか、――」明敬は案外穏かに頷いた。「ではそうしよう、使者には今宵のうちに参っておけ、申付けたぞ」
「承知仕りました」
「……もう入るぞ」悪酔をしたのであろう、蒼い顔をして奥へ入ってしまった。
久之進は御前を退るとすぐ、着換えをして馬を命じた。松平志摩守へ使者にゆくためである。――主君明敬の気持は、久之進にも痛いほどじかに感じられた。あんなことのあった後でしかも嘲り笑っていた相手がこっちをだしぬいて出世をしたのだ。御役づきとなれば殿中での格も違うし、場合によればどんな意地の悪いことをされても黙っていなければならぬだろう、志摩侯を呼んで不平を語ろうとする、女々しいようではあるが、この場合お上としても他にお心遣りはないに違いない。久之進は胸を痛めつつ、別当を従えて飯倉を出たが、考えごとに気をとられていたためか、愛宕下へ行くべき道を桜川町へとり、そのまま斎藤出雲守の屋敷へ乗りつけてしまった。
「なに壱岐守から使者とな」信継は不審そうに訊き返した、「壱岐の間違いではないか、飯倉から使者を寄来すはずはないぞ」
「飯倉様のお使者に相違ございません、苅田久之進でございます」
「なにあの、……粗忽者か」信継はあっと云った。彼また粗忽をやったな、と気付いたのである。なにしろあれ以来明敬とは口も利かぬし、こんどこっちが御役についたからは、歯ぎしりをして口惜しがっているはずだ。今さらなんの使者を寄来す必要があろう。これはたしかに久之進の粗忽だと推察したので、「――よし、会うぞ」にやりと笑った。
書院に平伏しているのはまさに久之進であった。信継は座につくと、よそよそしい声できぱきぱと云った。
「信継じゃ、壱岐殿の使者大儀」「はっ」「口上の趣聴こう」
久之進は平伏した顔を静かにあげた。もう度胸を決めているらしい。
「壱岐守より口上にて申上げまする」
「――うん」信継は天床を見ている。
「このたびは御厩奉行に任ぜられ、祝着至極に存じ上げまする、壱岐守自ら御祝儀に参るべきところ、他ならぬ御当家様のこととて使者口上のお祝い、ひらに御免
「待て久之進、待て」信継は苦笑しながら遮った。「ただ今の口上、壱岐守より申付かって来たのか、そうではあるまい」
「恐れながらまさに」
「いやそうではあるまい、そのほうは使者として行くべき先を間違えたのであろう、壱岐守がそんな祝を云って寄来すはずはないぞ」
「それは恐れながら出雲守様のお鑑識違いかと存じまする、そう仰せられまするは、いつぞや殿中で壱岐守の過失により、お仲違いに相成ったことの意趣をお含みのうえと存じまするが、……手前主人とこちら様とは十余年のお交り、たとえお仲違いに相成りましょうと、壱岐守心中には一時もこちら様のことをお忘れ申したことはございません。いや偽りは申しません、なるほど口では無念がましき言を申しましょう、けれどその言葉の裏には、十余年の御親友を失われた淋しさが
信継の眼がいつか膝へ落ちていた。
「このたびの御出頭に、御不和を忘れて御祝儀の使者を差立てました壱岐守の心中、お
「……久之進」信継は静かに眼をあげた、「余が過った、いまの言葉は忘れてくれ、いかにも壱岐殿の御祝儀有難く受けるぞ」
「――はっ」久之進は平伏しながら、「早速お聴分けくださいまして、久之進面目に存じまする、なおまた、……明日は久々にて御対面を得たく、茶を催しまするゆえ
「なに壱岐が余を招くというか」
「くれぐれもお待ち申すとの口上にございます」
「そうか――」信継は感動して頷いた、「いかにも快く参ろう、帰ったら壱岐殿にお伝え申せ、出雲も土産を持って参るとな」
「は、仰せ相違なく申伝えまする」
「大儀であった」信継はすっかりまじめになっていた。
久之進は
「なんだ、どうしたのだ」
「申訳ございませぬ、お使者先を取違えました」
「間違えたと云って……」明敬は眉を顰めた。「ぜんたいどこへいったのだ」
「出雲守様お屋敷へ参りました」
あっと云って明敬は口をひき結んだ。
「今日のお怒りも出雲守ゆえと、そのことのみ考えて参りましたためか、ついうかうかと御門へ入り、しまったと思いましたがすでに遅く、ついに出雲守様と……」
「会ったのか、会ってしまったのか」
「明日の茶の催しに御招待申上げてしまいました、粗忽でございます」
久之進は平伏しながら叫んだ、「お詫びの申上げようもございません、どうぞ切腹仰付けくださいますよう、しかし、生前に一言お願いがございます」
「…………」
「明日は出雲守様とお二人にて、御茶席の催しを遊ばしまするよう、すれば久之進の粗忽も救われ、せっかくお悦びの出雲守様も御失望なさらず」
「待て、……出雲が悦んだと云うか」
「明日を楽しみにすると仰せられました、またその節は土産を持参するとまで、御悦びのごようすでございました」
明敬は黙って眼を閉じたが、やがて呻るように、「――切腹には及ばんぞ」と云った、
「きさまの粗忽は病だ、病を
「では御茶のお招きも……」
「しようがない、残念だが催してやる」
「はっ、かたじけのう」平伏する久之進をいまいましげに睨みながら、明敬は跫音もあらあらしく奥へ入っていった。
その翌日である。出雲守来邸と聞いて、しぶしぶ迎えに出た明敬は、いきなり両手を信継の温い手で握られて
「負けた、このほうの負けだ壱岐侯」信継は震える声で云った、「信継も仲直りがしたかったのだ、殿中でなんど言葉をかけようと思ったかしれないぞ、だがやはりできなかった。嬉しかったよ壱岐侯、あのおりのことは許してくれ、よく先に折れてくれた、嬉しいぞ、嬉しいぞ」
「……出雲侯」明敬もひしと手を握り返した。信継はしかし相手に言葉を与えず、「さすがに一年の長だけある、仲違いをしていなくとも、出世をした者の門は訪ねにくいものだ、ことにあの不和のなかでなおさらであろう、それだけに嬉しかった、誰に祝われるよりやはり壱岐侯に祝ってもらいたかったのだ」
「よい、よい、もうよい」明敬の声はにわかにしめってきた。「会えばいいんだ、よく来てくれた、さあ、席へ行こう、席へ……」ほとんど手を執合ったまま二人は奥へ入った。客間へ通っても、しばらく二人とも同じ感動の言葉を繰返していたが、やがて信継は小姓に持たせて来た錦の袋を取って、「さ、土産だ、受けていただこう」と差出した。なにが入っているかは
「兼光だな」
「御執心の兼光だ、今日の招きの返礼に持って来た」
「そんなに……」と明敬はうるんだ眼で相手をじっと見た。「そんなに今日の招きを悦んでくれるか」「それが分ってもらえないか」
「まあ待ってくれ、事実を云おう」明敬はふいと兼光を置いて
「なにを云う壱岐侯」
「愛宕下の志摩守を招くよう命じたのを、久之進が粗忽で間違えたのだ、……しかしよく間違えてくれたと思う、式台でこなたの顔をひと眼見たとき、……自分はどうかして泣くまいと、歯を喰いしばっていた、正直に云う、招いたは久之進の粗忽だ、けれども今こそ改めて、心から招きたい、出雲侯、受けてくださるか」
「そうか、そうだったのか」信継は頷いて云った。「よく打明けてくれた、云うまでもなく心からお受けをするよ、その代り兼光も受けてもらいたい」
「いや、これは粗忽の褒美として久之進に遣ってくれ、この粗忽はそれだけの値打がある」「久之進にはべつに土産があるのだ」信継が微笑しながら、「なあ久之進」とこちらへ振返った。「三人張の弓を折って、せっせと
「いやこれはもってのほかの仰せ」
「壱岐侯には余が仔細を話そう、土産として届けるゆえたいせつにしてやれ、よいか」
久之進は平伏しながら微かに笑った。
「なんだそれは」明敬が不審そうに訊いた。
「まあよい」信継は笑いながらこう云って立った、「明日になれば自然とお分りになろう、では茶席を拝見致そうかな」
「久方ぶりで手前を笑われようか」
「喧嘩は法度としてな」
明るく笑いながら二人はつれだって茶席のほうへ立った。……それを見送る久之進の眼には、静かな、けれどいくらか誇らしげな微笑が浮んでいた。