明暦三年の火事は江戸開府いらいはじめての大災だった。正月十八日午後三時ころ、西北の烈風ちゅうに、本郷五丁目裏にある本妙寺から発した火は、ほとんど市街の三分の一を焼き、ついに江戸城の本丸天守閣をさえ炎上せしめた。そしてまだその
この十九日の大火のときであった。ふたたび江戸城へ火が迫ったとみて、諸大名旗本の人々はすぐさま駆けつけて来た。しかしこういう場合には誰でも城中へはいれるわけではない。諸門には譜代旗本が警固していて、入れてよい者は通し、必要のない者は見舞の言上だけ受けてかえしてしまうのである。殊にそのときは由井正雪、別木庄左衛門などの事件があって間もないために門々の固めは厳重をきわめていた。
井伊
「家来と申しても僅かに数名、お役のはしにもあいたつべく、お通しがねがいたい」
「御城中にも人数はござる、家来はあいならぬ」
「……さらば」忠善はとっさに思案して、「馬の口取り両名はおゆるしください」
「いや乗馬はあいなり申さぬ、それほどの事をわきまえぬ監物どのでもあるまい」
「おひかえめされ」忠善はどなりだした、「かかる大変の場合、乗馬なくしていざというときのお役がつとまると思うか、ならぬというなら押し通ってみせるぞ」
荒大名として忠善の名はかくれもなかった、いけないと云えば本当に押しやぶっても通るにちがいない、直孝はしかたがないので、「では片口でお通りなされ」と答えた。
片口とは馬の口取り一名のことである、直孝がそう云ったとたんにこの問答を聞いていた忠善の家来たちの中から、いきなり一人とびだして来て、
するとあとからとびついた男は憤然と忠善をふり仰ぎ、
「殿! おぼえて御座あれ!」と絶叫した。
夢中だったのである、主君の供がしたいという一念でとりみだしていたのにちがいない。しかしいかになんでも主君に向って「覚えていろ」とは言葉が過ぎる、彼はそう叫んでから自分でもあっと思った。――しまった、しまった、とりかえしのつかぬ失策である、彼は全身に冷汗をにじませながら
彼の名は天野半九郎、三百石の大小姓で年は二十四歳になる、うまれつき人づきあいの悪い性質で、同僚たちからいつも変屈人あつかいにされていた。半九郎自身ではむろんそんなことは
――殿、覚えて御座あれ。
と我を忘れて叫んだのも、主君の供がしたいという一心から出た言葉である。しかし事情はそうでも言葉としては暴言なので、きっとお
「
――殿は、自分の心を知ってくだすった。
それがうれしかった、あの暴言を暴言とうけとることなく、かえって半九郎の真実の心をみとめて
岡崎へ帰った、その翌朝のことであった。まだ暗いうちに眼覚めた忠善が、洗面をしようとして寝所を出ると、廊下に
「……誰だ」こえをかけると、ふり仰いだのは半九郎であった。「天野半九郎ではないか」
「……はあっ」彼は面をあげた。
「六ツまでは、起きてまいるには及ばぬぞ」
そう云いながら、盥へ近づいてみると湯気がたっている、手を入れると程よいぬるま湯だった。一月の厳寒、いつもなら氷の張っているのを、拳でうち割って洗面するのがならわしである。忠善はちらと半九郎を見たが、なにも云わずに顔を洗ってしまった。……いちど寝所へ戻った忠善は、短袴をつけて馬場へおりた。するとそのときすでに半九郎は
「だいぶ精がでるな」
「……はっ」なにか
「肩が凝るぞ」
忠善は低く笑いながら、馬を駆って馬場へ出て行った。
明くる朝もまた、半九郎が湯を
「余は少年のころから、顔を洗うのに湯をつかったことがない、べつに深い意味はないが柔弱を戒めるためだ、また岡崎にいるあいだは身のまわり一切のことを自分ですることにしている、それで宿直の者も六ツまでは起きなくともよい定なのだ、これからは湯を汲んで待つには及ばないぞ」
「おそれいりまする」半九郎は平伏して云った、「寒気がきびしゅうございますので独り合点に心付かぬことを仕りました、以後は必ず御意にそうよう致します」
「叱ったのではない、気にいたすな」
そう云って忠善は部屋へ戻った。
馬場へ出ると、半九郎はまた早くも厩から乗馬を曳きだして待っていた。馬をせめるときに、忠善はおりおり城外まで乗り出すことがある、その朝も馬場へ出て、未明の地上にいちめん白い霜がむすんでいるのを見ると、ふと
「来なくともよい、早朝はいつも独りで乗るのだ、戻っておれ」
「……はっ」彼は手綱を絞った。
「来なくともよいぞ」
二度まで云ったが、半九郎はすこし遠のくだけでしまいまで供をしつづけた。
その翌朝も、半九郎は暁暗の廊下で洗面の用意をしていた、湯ではなかったが、井戸から汲みたての、湯気の立つような新しい水だった。……忠善はなにも云わずにそれを使った。
それから間もなく天野半九郎はとつぜん役目を解かれた。
「
そういう
「申上げます」彼は作法も忘れて
「まことに、無礼なお願いではございますが、いちどだけお目通りおゆるしが願えませんでしょうか、わたくし心得と致しまして、お役御免の御趣意をぜひ申し聞かせて頂きたく存じまするが」
「それはお上におうかがい申してみよう、おゆるしなれば申し
「なにとぞおゆるしの出ますよう、
半九郎は、くれぐれもたのんで下城した。
なんのための役目御免か、彼にはまるで見当がつかなかった。彼は主君の帰城を待ちかねていた、誰よりも大きなよろこびを以て主君を迎えた、それから特に常宿直を願って、精いっぱい主君に仕えて来た。――どこが悪かったのだろう。――なにが御機嫌を損じたのだろう。いろいろ考えてみたけれど、どうしても自分では思い当ることがない、そのうちにふと、誰かの
――そうだ、誰かの讒訴にちがいない。
彼はそう信じてしまった。それでさらに再三、老職までお目通りを願い出た。だが目通りの許しはなかった。彼はますます、主君と自分とのあいだを誰かが
その朝はことに霜がひどく、あたりは見わたすかぎり雪のように白かった。凍てた道を
「……なに者だ」
忠善は馬足をゆるめながら近づいて来た。半九郎は道のまん中へ
「御馬前をおどろかし申し訳ございません、半九郎めにございます」
「……なにごとだ」忠善は冷やかに見下ろした。
「かねて重役がたへお目通りを願い出ましたが、どうしてもお許しがさがらず、かように押してお目通りを汚し奉りました、わたくし先般お役御免のお達しを
「黙れ半九郎、黙れ」
そう叫びながら忠善は馬からおりた。そして、つかつかとそばへ寄るや、かつてみたことのない
と声をはげまして叫んだ。
「他人の讒訴によって家来を誤り視るほど余を愚者だと思うか、そちは今ひと筋の奉公と申した、しかしそちの奉公ぶりは自慢のできるものではないぞ、今こそ申し聞かせるが、そちはいつも己れいちにんの奉公、他を
半九郎は息が止るかと思った。高頬を打った拳は骨に徹するものだった、しかしいま忠善の口を
「戦場に於て最も戒むべきを『ぬけ駆けの功名』とする、いちにんぬけ駆けをすれば全軍の統制がみだれるからだ、平時にあってもこれに変りはない、家中全部が同じ心になり互いに協力して奉公すればこそ家も保つが、もしおのおの我執にとらわれ、自分いちにん主人の気に入ろうとつとめるようなれば、やがては
云いおわると共に、忠善は馬にとび乗り、そのまま城のほうへ、と疾駆し去った。……半九郎は額を地に埋めるほど道の上にぴったり平伏していた、身動きもせず面もあげなかった。そしてやがて、その背がはげしく波をうち、
寛文十年、参覲で江戸にいた監物忠善のもとへ、八月二十五日に岡崎から早馬の使いが来た、城下の西、松葉町から出た火事が矢矧橋を焼き、さらに延焼して城の白山
「焔硝蔵(火薬庫)はどうした、移転はまだ終っていなかったであろう」
「はっ、隠居曲輪に建てておりまする蔵がようやく壁も乾き、一両日うちに引き移す手筈になっておるところでございました」
「では焼けてしまったのか」
「危うく火を引くところでございましたが、まことに奇特のことがあって、辛くも防ぐことができました」
「奇特のこととはなんだ」
使者はかたちを正して語りだした。……八月二十二日、強い西南の風のなかで城西松葉町から発した火は、矢矧橋を焼き、さらにずんずん延びて板屋町一帯を火の海と化し、
――窓が明いているぞ。
――誰か窓を閉めろ。
口々に叫んだが、誰の眼にももう間に合わないと思われた、蔵の中には幾百貫という火薬が
――もういかん、みんな逃げろ。
誰かがそう叫んだ、みんな一斉に
「そのときでございます、水に浸した布子を頭からかぶった一人の男が、まっしぐらに駆けていって焔硝蔵にとびつきました、
「扉の目塗りをする代りであろう」忠善が
「御意の如く、おのれの身を以て扉の隙を塞いだのでございました」
「即妙の知恵だな、なに者だ」
「それがなに者ともあいわかりません、火がおさまって駆けつけましたときは、全身まったく黒焦げとなっておりました、衣類はもとより、人相も見分けのつかぬ死にざまでございました」
「しかし家中の人数を
「それは早速検めたのですが、家中いちにんも欠けた者がございませんでした、風態は武士にまぎれもなく、おそらく城外より入りこんだものと思われまするが、不審のままわたくしはお使者に立ってまいりました」
家中の人数に欠けた者がないとすれば、城外からまぎれこんだ者にちがいない、しかし城内の地理を知らぬ者が、焔硝蔵の危険に気付くのはおかしい、白山曲輪に火がかかったとみて、すぐに駆けつけるからはようすをよく知った者でなければならぬはずだ。しかもおのれの身を殺して蔵を救う断乎たる態度は、岡崎城に縁故のない者にできることではない、――なに者だろう。忠善はずいぶん考えてみたが分らなかった。その翌日第二の使者が着いた、一日おいて第三の使者が来た、それでもその死者の正躰はわからずじまいだった。
明くる寛文十一年十一月、忠善は参覲のいとまが出て岡崎へ帰った。そうしてある朝、馬場で馬をせめているうちに、ふと思いついて矢矧川の堤へと遠乗りに出た。……霜のふかい朝だった、まだ明けて間のない時刻で、刈田や野づらには、低く灰色の狭霧が条をなしてたなびいていた、路傍の
「……半九郎」光りの
「……半九郎、そちか」忠善は馬からとびおりた、白く霜をむすんでいる道の上に片膝をつき、手を伸ばして凍てた土のおもてを
涙が忠善の頬をながれた。