十八条乙

山本周五郎





 その事のおこる五日まえ、西条庄兵衛さいじょうしょうべえは妻のあや火傷やけどをさせた。切炉きりろで手がすべって湯釜ゆがまを転覆させたとき、ちょうどあやが火箸を取ろうとしていて、その右手の先へ熱湯がもろにかぶってしまったのだ。叫び声をあげたのは脇にいた母のたえであった。あやはなにも云わず、庄兵衛は狼狽ろうばいして、すぐに薬箱を取りに立った。母はあやの手にあり合う布を巻き、やけどの手当なら知っているからと、女中を呼びながら台所へいった。そしてうどん粉を酢でこねたものを作り、それをあやの手へ塗って、上からさら木綿もめんを巻いた。
「わるかったね、おれの粗忽そこつだ」と庄兵衛は繰り返し詫びた、「あとにならなければいいが、大丈夫だろうか」
「大丈夫ですとも」気丈なあやは明るく頬笑ほほえんだ、「湯をかぶっただけですもの、そんなにおおげさにおっしゃらないで下さい」
 結婚して二年、まだ子を産まないせいか、あやは二十二歳になるのに娘らしさがぬけていない。実家の安田は三百石の寄合職よりあいしょくで、父の勘五左衛門は隠居し、家督した長兄の又次郎には二人の子があった。あやは五人きょうだいの三番めであり、唯ひとりの女だったから、きびしいしつけとともに、あまやかされて育った明るさと、のんびりした楽天的なところをもっていた。西条家は二百三十石、亡くなった父の世左衛門は大番がしらで勘定方取締を兼ねていたが、庄兵衛は郡奉行こおりぶぎょうが兼務であった。姉がいたのだが生れるとすぐに死んだそうで、彼は一人息子だから、あまり丈夫でない母はあとの子が望めないと思ったのか、特に大切に育てようとし、父は反対に、そんなことでは侍にはなれぬと云って、ことさら手荒い躾をした。そのためか、それとも生れついた性分か、彼はいくぶん神経過敏で、こらえ性のない欠点があり、自分でもそれをめようとして、父の死ぬまえには、永平寺へいって百日ほど参禅したこともあったし、いまでも禅に関する書物は熱心に読んだ。
 あやの手は夜になると痛みだし、庄兵衛はむりに医者へゆかせた。笈川玄智おいかわげんちという、祖父の代からかかりつけの老医で、武家町からひとまたぎの松屋町に住んでいた。女中をれていったあやは、帰って来ると母のいないところで、手当が間違っていたためひぶくれになるそうだと告げた。
「うどん粉を酢で練ったのは、筋のれやなにかに使うので、火傷にはかえってわるいのですって」とあやは云った、「油でも塗って布で巻いて、すぐに来ればひぶくれにはしないで済んだ、と云っておいででした」
「すると痕になるのか」
「できるだけのことはやってみるそうです、でも先生はね」とあやは肩をすくめながら忍び笑いをした、「もう結婚していることだし、片輪になるわけではないから、痕ができるくらいどうでもよかろう、それより早く子を生むように心掛けるがいい、ですって」
暢気のんきなじいさまだ」庄兵衛は笑わなかった、「手の先のことだからな、ひっつれになると困るよ」
 五六日はかよって来いと云われたそうで、毎日一度、朝の片づけ物が終ると、あやは女中を供に松屋町へかよった。――こうして、五日めになった日の夜、およそ十一時すぎたころに、伊原友三郎が逃げこんで来た。母はもう眠ったあとで、あや寝間ねまへはいり、庄兵衛も自分の寝間で夜具にはいったまま、碧巌録へきがんろくの一冊を読んでいた。――窓の戸をそっと叩く音を聞き、外で呼びかけるささやき声を聞いて、庄兵衛は起きあがっていった。
「誰かいるのか」と彼は云った。
「入れてくれ、伊原だ」と外で答えた、「伊原友三郎だ、人に知れては困る、静かに、早くたのむ」
「縁側へまわってくれ」
「こっちだったな、わかった」
 庄兵衛は寝衣ねまきの上へ羽折はおりをひっかけ、襖をあけて居間から縁側へ出ると、端の雨戸をそっと辷らせた。外は雪で、庭の木も石燈籠いしどうろうもまっ白におおわれ、なおはげしく降っていた。伊原は戸のあくのを待ちかねたように、雪まみれのまま縁側へ転げこみ、そこに横倒れになって苦しそうにあえいだ。
「たいへんな血だぞ」と庄兵衛が息をひいて云った、「どうしたんだ」
「たのむ、庭の血の痕を消してくれ」と伊原は囁いた、「裏の木戸からはいった、川の中をあるいて来たから外はいい、木戸から中には痕があるかもしれない、たのむ」
 庄兵衛はそのままとびだした。まもなく戻って来ると、羽折をぬいで足を拭き、からだの雪をはらいながら、妻を起こすために寝間へいった。伊原友三郎は妻の従兄いとこに当るし、そうでなくとも、妻の手を借りなくてはどうしようもないと思ったのだ。


 傷は脇腹に二カ所、一つは殆んどかすり傷だが、一つは相当な深手で、医者の治療を要することが明らかだった。しかし伊原は朝まで待つと主張した。追手が出ているからいまはだめだという、夜が明けるまで急場の手当だけで辛抱しんぼうしようと云い張った。
 あやは傷を見たときちょっとあおくなったが、すぐに気をとり直したようすで、敏捷に立ちまわり、庄兵衛のぶきような手当ぶりをよく助けた。伊原は絶えず戸外の物音に耳をすませていて、なにか聞きとめると、反射的に神経を緊張させ、眼をぎらぎら光らせた。
「御政道のため或る男をろうとして失敗した」と伊原は告げた、「だがなにもきかないでくれ、西条にはかかわりのないことだし、事情を知らなければ紛争にも巻きこまれずに済む、佐野を――いや或る人物を斬ろうとしたと云ったことも、この場かぎり忘れてもらいたい、わかったな」
「しかし、これからどうするつもりだ」
「ようすをみて江戸へゆく、おれはここで捕えられたり死んだりするわけにはいかないんだ、おれは大事なからだなんだ」そう云って彼は庄兵衛を見、あやを見た、「おれが江戸へぬけだせればよし、さもなければ取返しのつかないことになるだろう、ことによると、――いや、口でこんなことを云ってもしようがない、ただどうかおれが江戸へ脱出できるように力をかしてくれ」
「傷にさわるといけません、もうお話はなさいますな」とあやが云った、「少しでもお眠りになるほうがようございます、わたくしたちでなにかよい方法を考えますから」
 伊原を庄兵衛の寝間に寝かせ、二人はあやの寝間へはいった。それから殆んど眠らずに、伊原を脱出させる相談をし、外が白みはじめたのに気づくと、下男の加助を松屋町へやって、笈川老医に往診を頼んだ。母のたえがあやまって手にけがをし、出血がひどいからという理由で。玄智老が来るまで、庄兵衛は庭へおりて血痕けっこんの始末をした。
 母には告げたが、家士や召使たちには、できる限り知れないようにした。伊原は「追手が出ている」と云ったので、まちには騒ぎがひろまっているものと思ったが、玄智老はなにも知らないようすで、――友人と口論のうえ誤ってけがをした、ということを疑うようすもなかった。
「刀傷は吟味され、場合によっては私闘のおとがめを受けます」と庄兵衛が云った、「それで母がけがをしたと申したのですが、どうかこのことは内聞に願います」
「御家法二十六条によると、侍の刀傷は大目付へ届け出なければならない」と笈川医師は云った、「それがこの領内の医師の義務になっているが、私はもはや余命いくばくもない老骨だ、どんなことがあっても口外しないから安心するがよい」
 そして明日また来るが、縫合した傷口を動かさないよう、特に注意しろと云って帰った。
 庄兵衛は定刻に登城し、役所で事務をとりながら、なにか噂が聞けるかと期待していたが、平生どおり変ったこともなく、下城するまでそれらしい話さえ出なかった。伊原にそのことを告げると、却って不安がましたようすで、すぐにもこの城下から出たいと云いだした。
「傷は縫ったから、あとは膏薬こうやくさらしの取替えだけすれば充分だ」と伊原は云った、「そうでなくとも、城下を出てから必要なら医者にかかれる、今夜のうちにぬけだそう」
 伊原はそう主張してきかなかった。そこでその夜半、庄兵衛は伊原を背負い、必要な金と品物の包をあやが持って、裏木戸から家を出た。夜空は晴れて星がいちめんに見えたが、地面は雪が五寸くらいも積っているため、木戸を出たところで小川にはいり、流れの中を地蔵橋までいった。流れは早いが水は浅く、底は小石まじりの砂だから、あるくのに苦労はなかったが、伊原を背負っている庄兵衛は、重いのと緊張とでへばってしまい、躯じゅうに冷汗をかいた。――その橋には名がない、すぐかたわらに地蔵堂があるので、俗に地蔵橋と呼ばれているのだが、庄兵衛はその地蔵堂で伊原をおろし、納屋なや町へ駕籠かごをたのみにいった。その駕籠屋の弥右衛門やえもんというのは、もと西条家の下僕を勤めていたもので、いま勤めている加助はそのせがれであった。事情は話せないが極秘でたのむと云うと、この弥右衛門の首でも差上げましょうかと笑い、どんな理由にしろ秘密は守ると誓った。
 駕籠屋を伴って戻ると、あやはそこから家へ帰らせ、庄兵衛は小楯こだて山の上まで、伊原の乗った駕籠を送っていった。
「礼は云わない」と別れるときに伊原友三郎は云った、「西条のしてくれたことはおれのためではなく、藩ぜんたいのためなんだ、まもなくすべてがはっきりするだろう、まもなくな」


 五六日のち、あやの里の安田で長兄が中老職に呼びだされ、大目付の立会いで吟味を受けた、ということが伝えられた。吟味の内容がどんなことだったか、きびしく口外を禁じられたそうでわからず、次に原田十内と伊原やえ、同じくむすめの七緒ななおが呼びだされた。原田十内の妻は安田勘五左衛門の妹で、あやの叔母に当り、友三郎は原田十内と叔母とのあいだに生れた二人兄弟の弟であったが、伊原へ婿にいって七緒と結婚した。伊原やえは友三郎の義母であり、以上の三人は城中とめ置きになった。
 これらのほかに、十数人の家臣が吟味を受け、城中とめ置きになった者の中には、重職もいるなどという噂さえあったが、なに一つ公表されないため、どこまでが真実であるか見当もつかなかった。城代家老の布令ふれがしばしば出て、政治に関する批判や論議を禁じ、三人以上の集会を禁じ、日没後は公用以外の外出を禁じ、やがて指名者のほかは登城まで差止めの布令が出た。
 月があけて十二月五日、西条家へ大目付の滝沢忠太夫が来て、萩岡左内から出頭せよとの書状を示し、すぐ同行するようにと促された。萩岡は上席中老で、安田又次郎を呼びだしたのも彼であった。――城中へゆくのかと考えていたら、連行されたのは三の丸下にある大目付役宅で、着くとすぐに大小を取られたうえ、火鉢もない狭い部屋へ入れられた。そのまま三日間なんの沙汰さたもなく、庄兵衛はその薄暗くて狭い、火の気のない部屋ですごした。朝と夕方の二度、下役の者が食事をはこんで来、片づけに来たが、なにを問いかけても黙ったままで、一と言の返辞もしなかった。そして四日めの、およそうまの刻かと思われるころ、初めて吟味部屋へ呼びだされた。
 そこは二十帖ばかりの広さで、上段があり、その下に滝沢忠太夫と、二人の与力よりきがいた。侍の吟味には役支配の列席する規定がある。庄兵衛の正役は大番組だから、寄合がしらが出ていなければならないのだが、そんなようすはみえなかったし、書き役の机さえもなかった。――やがて萩岡中老が、ただ一人あらわれ、上段に坐った。滝沢と与力二人は礼をしたのち、庄兵衛のほうへ向き直り、穏やかな口ぶりで、これは正式ではなく仮の吟味だから、やかましい規則は省略する、そちらも楽にしてよろしいが、言葉だけは改めると云った。
「先月十六日の夜、そのほう居宅に伊原友三郎が逃げこみ、かくまってくれと頼まれたそうだが事実であるか」と滝沢が訊問じんもんした、「――答えるまえに申し聞かせるが、すでにそのほうの母たえ、並びに妻あやの両名を吟味し、口書爪印こうしょつめいんが取ってある、これらとそのほうの返答に相違のある場合には、かみを偽る者として処罰されるだろう、そこをよくよく胸にとめて答えるように」
 庄兵衛はためらわずに、その夜のことをすべて答えた。伊原はなにも話さなかったし、西条には関係のないことだと云った。妻の従兄に当る者が負傷して逃げこんだ、理由は云わないからわからないが、縁につながる者として捨ておけず、手当をしてやったうえ、翌日の夜まで自宅に寝かして置いた。とありのままに述べた。
「彼の逃亡にも手を貸したか」
「手を貸しました」と庄兵衛は答えた、「傷が軽いものでなく、自分では充分に動けないようすでしたから」
 滝沢はうなずいて、上段の萩岡中老を見た。庄兵衛は不安になった。本当に母や妻が吟味されたとして、はたして事実を申し述べたであろうか。もしかしてへたにとりつくろって、ありもしないことを云ったのではなかろうか。そう思うと後者の場合のほうがいかにもありそうなことのような気がし、不安のため胸苦しくさえなった。
「次にたずねるが」と滝沢が云った、「伊原友三郎はひごろより御政道を批議し、おのれの意を立てんため御城代佐野図書ずしょどのを暗殺しようと計った、そのほうこの仔細しさいを知っていたかどうか」
「存じません、伊原とは殆んどつきあいがございませんし、十六日の夜も彼はなにも話しませんでした」と庄兵衛が答えた、「そのようなことはいまうかがうのが初めてです」
「誓ってそう申せるか」
「誓ってそう申上げます」
 滝沢はまた萩岡左内を見あげ、それから庄兵衛に向って、吟味は済んだと告げた。
 元の部屋へ戻るとほどなく、与力の一人が大小を持って来て返し、帰宅していいが、当分は謹慎しているようにと、穏やかな調子で注意した。正式の命令かと、問い返そうと思ったけれど、母や妻のことが気になるので、庄兵衛は温和おとなしく役宅を出ていった。


 帰ってみると母も妻も家にいた。二人が萩岡中老に呼びだされたのは事実であり、笈川玄智が訴状を出したというので、あったことの始終を語った。二人の吟味はそれぞれべつにおこなわれたが、返答にくいちがいのないのがよかったのだろう、半日ほどで帰宅を許された、ということであった。
「これで済むのでしょうか」とあやは心もとなげにきいた、「それともなにかお咎めがあるのでしょうか」
「ここではっきり断わっておくが、この話は口にしないことにしよう」と庄兵衛は自分にはらを立てているように云った、「私はふだんから政治には関心をもたなかった、祖父に壱岐いきどの騒動の話を聞いてから、藩内の権力争奪のみにくさといやらしさに、少年ながらうんざりしたものだ、政権の争いはしたいやつがすればいい、私は自分の勤めだけに専念するときめた」
 こんどの出来事も好んでしたわけではないし、紛争の内容は知らない。罪に問われるかもしれないしこのままで済むかもしれない。いずれにもせよ西条一家には関係のないことだから、今後どんなことがあってもこの話はしないことにする。もし罪せられるようなことになったら、避けがたい災難だったと諦めるだけだ。庄兵衛は怒りを吐きだすような口ぶりでそう云った。
 雪の中で年があけ、正月になった。そのとき藩主下総守詮芳しもうさのかみあきよしは江戸にいたが、藩主不在のときでも、三日には祝儀しゅうぎのため登城しなければならない。謹慎するようにと云われたのが正式の申し渡しなら登城はできないが、内意ぐらいだったとしたら登城しなければ咎められる。現にあれ以来、彼は役所への出仕も控えており、必要な事務があれば下役の者が連絡に来ている状態なので、謹慎はほぼ正式なものだと思われたが、それでも念のために、家士の一人を大目付へやってたしかめた。大目付では「登城に及ばず」ということであった。その午後、妻のあやが里の安田へ年賀にゆき、帰って来るとせきこんで、こんどの事について聞いた話をしようとした。妻のようすで、なにを話しだすかわかったのだろう、庄兵衛はきびしい調子で、約束を忘れたのかときめつけた。あやはどきっとし、謝罪するように、そっと眼を伏せて黙った。
「ちょっとその手をおみせ」庄兵衛はすぐに声をやわらげて云い、妻のほうへ手をさし伸ばした、「その火傷をした手だよ」
 あやは膝の上で、その右の手を左の手で隠した。庄兵衛はすり寄って、押えている手をはなし、右手を取ってみた。拇指おやゆびはぜんぶ、他の四本は第二関節以下、そして手の甲から手首まで、みにくいひきつれになった皮膚が光っていた。
「知らなかった、こんなになってしまったのか」庄兵衛はするどい痛みを感じたように顔をしかめた、「治療にはちゃんとかよったのだろうね」
「もういいと云われるまでかよいました」
「あのごたごたでつい忘れたんだな、私が知っていたら医者を変えるとか、湯治にゆくとかなにか方法を考えたろうのに、どうして私に云わなかったんだ」
「火傷はむずかしい病気ではありませんもの」あやは頬笑みながら云った、「なにかいい方法があれば玄智さまがそう仰しゃったでしょう、片手をなくしたわけではないのですから、そんなに大事がらないで下さいまし」
「私の罪だ」庄兵衛はあやが放そうとする手をなお握ったままで云った、「こんな手にしてしまって、これではもう嫁にゆけないじゃないか」
 あやの眼が良人おっとの顔へ吸いつくように動いた。庄兵衛は冗談めかして、しかし感情のこもった声で云った。
「もう嫁にゆけないとすると、不都合なことがあっても離縁はできない、これは高価なものについたぞ」
 あやも冗談のように、「では安心してわがままができますね」と云った。
 正月十七日、庄兵衛は城へ呼びだされ、閉門永蟄居えいちっきょと、家禄かろくの内百石の削減を申し渡された。伊原友三郎を匿い、その逃亡を助けたことが重科に当る、というのである。申し渡しは評定所でおこなわれ、城代家老の佐野図書はじめ、中老、年寄の人たちが立会った。
 抗弁や異議の申し立てなどはむろんできない。庄兵衛が下城すると、大目付の者がついて来て、裏門を閉め、青竹を打った。閉門蟄居となれば家士も置けないし、西条家の身分では召使も一人ときまっていたから、下僕加助のほかはみな暇をやった。
「さて、島流しになったわけか」庄兵衛は皮肉に笑って云った、「こうなってみると、伊原の無事を祈り、その計画というのが成功するように祈るほかはないな」


 日用の買物に下僕が出るだけで、家人は一歩も外出できないし、親の死はべつだが、親族知友との往来も禁じられる。庄兵衛の云った島流しとは少しも誇張ではなく、その字義どおりの生活が続いた。家禄を削られたから実収入は約百石になったが、他家の交際もないし余分の入費は不用なので、家計が苦しいようなことはなく、ただ、なにもしないで閉居していることに慣れるだけが、なんにたとえようもなく苦しかった。
 五十日ころがもっともひどかった。神経がいらだって食欲もなく、夜も眠れず、些細ささいなことに怒って妻を叱りつけたり、物を投げたりした。
「伊原はどうしたんだ」と突然どなりだすこともあった、「生きているのか死んだのか、自分で事を起こし、迷惑をかけないと云いながら、その結果はこのありさまじゃないか、これでも迷惑をかけないというのか」
 そんなとき母は仏間へこもり、あやは黙って忍び泣くばかりであった。五十日が過ぎると少し気がしずまり、彼は禅の書物を読みふけったり、坐禅をするようになった。巻紙を縦にして「薬病相治」と書き、これを柱に貼ったのに向って坐るのである。どういう意味かとあやがたずねたら、なんの意味もないと庄兵衛は答えた。
「永平寺で参禅したとき、これを公案こうあんにもらったんだ」と彼は云った、「答案はできずじまいだったがね、こんどはたっぷり暇があるから、なんとか片をつけてみるつもりだ」
 百日目ぐらいにまた荒れる時期があり、十日ばかりは側へも寄れないような状態が続いた。
「お父さまがあの世で、それみたことかと仰しゃっているでしょう」と母は泣きながら云った、「そんなにみれんな、とり乱したまねをするのも、みなこの母があまやかして育てたからです、いまになってそれを後悔しようとは思いませんでした」
「永蟄居の味がどんなものかわかっても」と庄兵衛は云った、「父上はなお、それみろと仰しゃるとお思いですか」
 けれども彼はすぐにあやまり、これからは慎みますと誓った。
 日のつにしたがって、庄兵衛と妻とのあいだに微妙な感情が生れた。あやの里である安田から、なにか援助とかちからづけがあっていい筈だ。公式には往来も文通も禁じられているが、そうするつもりがあれば意志を通ずる方法がないわけではない。ことに、伊原友三郎の実母は安田家の出であり、当主の又次郎は伊原と従兄弟なのだ。自分の従兄弟に責任のあることだから、そのためにでもなにかつぐないをする気になるのが当然である。庄兵衛がそう思っていることは、あやにもおよそ察しがついた。里の長兄が事なかれ主義の、ひどく気の小さい人柄であることを、あやはよく知っていた。友三郎の生家である原田、養家である伊原、両家はもちろん罰せられているだろう。したがって、へたになにかすれば安田にも累が及ぶ、そう考えて息をひそめているに違いない。あやにはそれが眼に見えるように思い、けれども口にだしては云えないため、良人に対して絶えずひけめを感ずるのであった。
 その年の十一月に、母親たえが急死した。或る朝、いつまでも起きるようすがないので、あやが寝間へみにいったら、仰向きに寝たまま死んでいたのである。平穏な顔で、苦しんだようすはまったくないし、夜具をのけてみると、寝衣のすそも乱れてはいなかった。届けによって大目付から、与力が下役人と医師を伴れて来た。医師は「衝心しょうしん」と診断した。悪性の脚気によくあることで、これは脚気ではないが心臓に故障がおこり、衝心のため急死したのだと云った。
 母の実家である渡井わたらいと、安田家とに通知をすることはしたが、弔問は許されず、通夜をした翌日のれがたには、葬式を出さなければならなかった。これも寺までゆけたのはあやと下僕の二人で、庄兵衛は門の中から見送っただけであった。――母の急死がよほどこたえたのであろう、庄兵衛は人が変ったように温和しく、穏やかになった。彼は生臭物を断ち、朝と夕方には仏壇に向って、半刻はんときあまりも供養をし、殆んどの時間を読書によってすごした。
 こうして五年という月日が経った。


 伊原友三郎が事を起こしてから六年めに当る、享保きょうほう十九年二月に、下総守詮芳が帰国して重職の交代を命じ、藩庁の内外に思いきった粛清をおこなった。城代家老の佐野が家禄没収のうえ一家追放になったのをはじめ、重臣二人が閉門、その他十余人が重科に問われ、軽い咎めや役替えぐらいで済んだ者は、およそ二十余人に及んだ。これは二十年以上もまえ、この藩にあった「壱岐どの騒動」という、領主の継嗣けいしをめぐる政争以来の騒ぎで、すべてが落着するまでに一年あまりを要した。
 庄兵衛には詳しいことはわからなかった。定期的な見廻りに来る大目付の役人、――それはもう以前の滝沢忠太夫やその部下ではなく、新しく任命された者だったが、かれらが言葉少なに語ることで、およその経過を知るだけであり、また、かれ自身それ以上その紛争の内容などには関心がなかった。騒ぎがおちついてから、伊原友三郎が中老になり、国許くにもと留守役を兼務することになった、ということがわかった。彼は三年以上も身を隠したまま、江戸や国許のお為派と連絡を続け、こんどの御改新に多くの功績があったという。庄兵衛はそんな話はどっちでもよかったが、伊原の異例な出世にはよろこんだ。
「永蟄居もこれで終るか」と庄兵衛は太息といきをついて云った、「七年、いや、もう八年ちかく経ったな、ひどいもんだ、われながらよくがまんしたものだと思う、いろいろなことがあった中で、いちばんこたえたのは母に死なれたことだ、肩身のせまい日蔭ぐらしのままでね」
 あやはそっと、良人の手の上へ自分の手をかさねた。
 定期的な見廻りはあるが、閉門蟄居についてはなんの沙汰もなかった。騒ぎはおさまり、家中かちゅうは平穏になった。見廻りに来る与力の話によると、萩岡左内一派によって処罰された者は許され、放国された者は帰藩した。友三郎の生家である原田では、食禄を加増されたということであった。だが、西条家は忘れられたように、ぜんぜん音も沙汰もないのだ。庄兵衛はおちつかなくなり、怒りっぽくなった。交代した重職たちは気がつかないということもある。だが伊原が忘れるということはない筈だ。
「ことによると忘れたのかな」庄兵衛はなんどもそう云っては首をかしげた、「騒動のあと始末もあるし、新任の役目に追われて、つい忘れているということも考えられる、とにかくいちど手紙をやってみようか」
 庄兵衛は伊原に宛てて手紙をやった。五日待ち、十日待ったが、返辞もないしたずねて来るようすもなかった。庄兵衛は自分のもとの上役である城本内蔵助きもとくらのすけに訴状を出した。しかし、訴状は封のまま戻され、戻す理由さえわからなかった。次に与力が見廻りに来たとき、彼は大目付の手から城代家老に渡してくれるようにと、訴状を託した。そのとき知ったのだが、交代した城代家老は安倍頼母あべたのもといい、江戸から赴任した人物だそうで、このときの訴状は「閉門蟄居ちゅうの者が訴状を出すことはできない」という理由で、大目付から封のまま返されてしまった。このあいだに年があけて享保二十一年となり、四月には年号を「元文げんぶん」と改元された。
 庄兵衛は伊原に宛てて、もういちど手紙を書き、こんどはあやに持たせてやった。もちろん妻の外出は禁に触れることだが、いまでは監視もゆるんでいるし、庄兵衛には法を守るような気持はなくなっていた。
「実際にあったことを詳しく話せ」と彼は妻に云った、「手紙にも書いたが、文字では実際の気持はとうてい伝えられない、おまえの口からじかに云うんだ、あしかけ九年にも及ぼうとする、このみじめな罪人の生活、その中で母に死なれたことも、なにもかも残らず話して聞かせるんだ、遠慮することはないんだぞ、いいか」
 あやは眼を伏せたままうなずいた。
 さすがに世間をはばかって、日が昏れてのちあやをでかけさせた。加助を供に、提灯ちょうちんもつけずにいったあやは、一刻ばかりして帰って来たが、そのようすを見て、結果のよくなかったことが明らかに推察された。
「伊原は会わなかったのか」
「おめにかかりました」あやは眼をあげて良人を見、その眼を伏せながら答えた、「――手紙は見なくともわかっているし、決して忘れているわけでもない、けれども動かしがたい御家法があるので、いますぐにはどうすることもできない、もう暫く辛抱してくれるようにと、仰しゃっておいででした」
「御家法、――」庄兵衛は詰めよるように反問した、「動かせない御家法とはどういうことだ」
 あやは封書を出して良人に渡した。「伊原さまが写して下すったものです」
 庄兵衛はすぐにひらいてみた。この藩の家法は四十二条ある、それは第十八条の乙項を抜き書きにしたものであった。


 要旨は「おため筋により不埓ふらちの行動をした者は、その趣意が藩家お為にかなった場合、不埓の行動による罪を赦免されることがある。これに対し、その筋にもあらず、お為の趣意なくして不埓の行動を助けた者は、お為にかなわざるゆえに、罪もまたゆるされることはない」というのであった。――つまり、政権転覆を計った者は、政権の転覆によって罪を赦されるが、その計画に加わらなかった者が、計画者を助けた罪で処罰された場合には、その罪は計画そのものとは無関係だから、政権転覆が成功しても、赦されることはない、というのだ。庄兵衛は怒って、その抜き書きを引き千切った。
「御家法がなんだ」と彼は叫んだ、「あの夜かれはなんと云った、もし自分が江戸へ脱出できなければ、計画のすべてがだめになる、なんとしてでも生きて脱出できるように、方法を考えてくれと云ったではないか」
「おれは政治は嫌いだ」とすぐに彼は続けた、「政治なんぞには爪の先ほども関係したくなかったが、伊原はけがをしていたしおまえの従兄だ、妻の縁者であり重傷を負っている者を、いやだと追い払うことができるか、断わると云って、あの雪の中へ追い返せばよかったというのか」
「おれは伊原を背負って、あの川をすねまで浸してあるいた」庄兵衛はしだいに激昂げっこうしながら云った、「そして別れるときに、伊原はなんと云った、――西条のしてくれたことは、おれにしてくれたのではない、この藩ぜんたいのためにしてくれたことになるんだって、おまえも聞いていたろう、伊原はその口でこのとおりのことを云ったんだ、そうではなかったか」
 庄兵衛は立ちあがり、刀を持って庭へとびおりた。庭には若木の八重桜が一本、もったりとおそ咲きの花をつけていた。彼は刀を抜き、さやを縁側に置くと、足袋たびはだしのままそっちへいって、絶叫しながら刀を振った。珍しいほどよく晴れた夜で、月の光が明るく、庄兵衛の刀はその光を映してきらめき、若木の八重桜は花をつけたまま、中ほどから切断されて倒れた。
 あやたもとで顔をおおい、けんめいに泣くのをこらえていたが、桜の切り倒された音を聞くと振返って、立ちあがるなり自分も庭へ走り出ていった。
「あなた、気をおしずめ下さい」
「うるさい寄るな」庄兵衛は妻の手を乱暴に振放した、「おれはこの藩が憎い、伊原友三郎が憎いし伊原と血のつながるおまえも憎い、おれはここを出てゆくぞ」
 庄兵衛は泥まみれの足で家の中へとび込んでゆき、金包とみえる物を持って戻った。刀をぬぐいもせずに鞘へおさめ、居間へはいったと思うとすぐに、はかまをはきながら出て来た。あやは庭にはだしで立ったまま、良人のすることを黙って見ていた。十余年もの夫婦ぐらしで、庄兵衛の気質はよくわかっている。いまなにか云えば、かえって怒りをあおるだけだろう。そう考えたのであるが、まもなく、縁側へあらわれた庄兵衛がかさを持ち、草履ぞうりを持っているのを見て「あ」と口を押えた。
「閉門の身だからな」彼は草履をはき、刀を腰に差し、笠を持って庭へおりた、「門からも木戸からも出ない、罪人は罪人らしく、塀を乗り越えてゆくぞ」
「あなた」とあやがふるえる声で云った、「それはご本心ですか」
「見ていればわかる」と彼は云った、「他国へいって乞食こじきになろうとも、こんなばかげた土地にいるよりはましだ、まっぴらだ」
「待って下さい」あやは良人のそでにすがりついた、「いいえお止めは致しません、あなたが出ていらっしゃるのならわたくしもまいります」
「おれはおまえを憎んでいるんだぞ」
「それでお気が済むなら憎んで下さい、わたくしあなたの妻ですから、あなたが出ていらっしゃるならわたくしもまいります」
「放せ、うるさいぞ」
「放しません、わたくしごいっしょにまいります」
 庄兵衛は妻を突きとばした。あやはうしろへよろめいて膝を突き、庄兵衛は笠木塀のほうへ歩み寄った。そして、木戸になっている笠木のない部分へ手を掛けると、それを外へ乗り越えようとした。そのときあやが走って来、庄兵衛の着物の袖をつかんだ。力いっぱいな掴みかたで、振放すことができない。庄兵衛も袖のこっちを握り、袖が千切れないようにして塀の外へおりた。すると、その力を利用したのだろう、あやははずみをつけて伸びあがり、塀の上へ両手でしがみついた。
「あなたはあやを置いてはゆけない筈です」とあやは悲鳴のように叫んだ、「わたくしの、この右の手を見て下さい」
 庄兵衛は振向いた。月がま上にあり、塀にしがみついたあやの手を照らしていた。あやの右手にある大きな火傷の、ひきつれになった痕が、雲母でも貼ったように光ってみえた。
「あなたはいつか仰しゃいましたわ」とあやはふるえる声で云った、「こんな手にしてしまって、もう嫁にはいけないなあって」
 庄兵衛の顔がみにくくしかめられた。
「嫁にゆけなくなったとすると」あやは続けた、「不都合なことがあっても離縁はできないなあって」
 庄兵衛の持っていた笠が、その手から落ちた。
「あなた」とあやが叫んだ、「そこにいらっしゃるんですか」
 彼は「いる」と答えた。
「御家法も人が定めたものです」あやは云った、「御改新があったのですから御家法もやがて変ることでしょう、もう暫く辛抱なすって下さい、それがだめならあやを伴れていっていただきます」
 庄兵衛はふり仰いで月を見た。
「あなた」とあやがまた呼びかけた。
「やめたよ」と庄兵衛が答えた、「――おれの負けだ、その手はやっぱり高くついたな」
 高価についたとは、支払いでか、それとも受取りの意味でか。
 庄兵衛自身でも、どちらにつくかは知らないようであった。





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
   1962(昭和37)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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