殉死

山本周五郎





「どういうわけなんだ、いったいこれはどうしたというのだ」八島主馬やしましゅめはすこし腹立たしそうにまわりの人々を見まわした、「まるでめしゅうどを警護しているようではないか、五郎兵衛、きかせてくれ、これはどういうわけなんだ、みんな此処ここでなにをしているんだ」「まあ待て、仔細しさいはいまに話す」久米五郎兵衛がなだめるように云った、「なにもそこもとを窮命しているわけではない、おれたちはまあいわばとのい詰めのようなものなんだから」「とのい詰めだって」「云ってみればそんなところだ、いいからもう少しこうさせて置いてれ」主馬はぶきげんに[#「ぶきげんに」はママ]向き直り、仏壇のかねをうちならしてふたたびしずかに誦経ずきょうをはじめた。
 故ごしゅくん因幡守いなばのかみ浅野長治侯が逝去せいきょしたのは五日まえ(延宝三年正月九日)のことだった。そして今日は鳳源寺ほうげんじで葬りの礼がとりおこなわれた、その式に列して家へかえると、まもなくいま此処にいる五人の者がたずねて来て、そのままそばに付いてはなれないのである。べつに用事があるともみえなかった、話すこともとりとめて緊要と思えるものはなかった。そのくせもう宵も過ぎようという時刻なのにうごくけしきがない。――いったいどういうわけなのか。主馬は唱名しながらもそのことが胸につかえてしかたがなかった。
 宵がすぎると冷えがきびしくなってきた。この備後のくに三次みよしはまわりを山にかこまれているし、山陰国境からふきおろしてくる雪まじりの風は骨までとおる凛烈りんれつなものである。主馬は三次の冬はこれがはじめてだった、かれは江戸家老をつとめる八島主計の二男で、ずっと江戸屋敷のつとめだったが、去年の春ごしゅくんのおぼしめしで初めて国許くにもとへお供をして来た。幼年からおそばに仕え、「くにもとでは福尾庄兵衛、江戸では八島主馬」といわれるほどあつちょうをうけていた。だからいまごしゅくんの逝去せいきょにあったかれには、はじめてきびしい山ぐにの冬がひとしお身にしみるように思えるのであった。「たいそう冷えます、笑止ながらおしのぎにはなろうかと存じまして」家扶かふがそう云って、温めた桑酒をはこんできたのはもう九時に近い頃だった。みんなよろこんでさかずきをとった、けれどそれでも座を立とうとはしない、火桶ひおけのそばへにじり寄って言葉もなく主馬のようすを見まもっていた。――ぜんたいこれはどういう意味なのか、またしても考えがそこへもどったとき、ようやく主馬に思いあたることがあった。――そうだ、それにちがいない。
 五日いらい自分のあたまから去らなかった思案が、そう思い当ったときあらためてはっきりと意識の表面へあらわれてきた、それで主馬は誦経をやめてふりかえった。しかしかれが口をきろうとするまえに、家扶の案内で富沢右市郎がはいって来た。「どうした、まだ知れないか」待ちかねていたように五郎兵衛がきいた。右市郎はあるじに会釈して坐った。「ようやくわかった」「どこにいた」「鳳源寺の墓前にいた、いや」とかれはみんなのおどろきを抑えるように、「大丈夫なにごともない、無事だった、御墓前におとぎをしていただけだ」「やる心配はないのか、誰かついているのか」「誰もついてはいないがたしかだ、おれが逢ってよく話して来たんだ、かれもそんなつもりはないらしい」この問答を聞きながら主馬は、「庄兵衛だな」とすぐに推察した。「もうわかったろう八島」久米五郎兵衛がふり向いて云った、「御葬礼が終るとまもなく福尾庄兵衛がどこかへみえなくなった、そこもとと福尾とはおそば去らずの御寵遇であった、もしや追腹でも切りはせぬかと老職がたのご心配で、福尾のゆくえを捜すのといっしょに、此処へもわれわれをつかわされたのだ」
「福尾は鳳源寺の御墓前にいた」と富沢右市郎がひきとって云った、「かれはそこでお伽をするそうだ、しかし決して追腹は切らぬと云っている、八島、そこもとも殉死じゅんしの禁のきびしいことは知っているはずだ、かるはずみなことはせぬだろうな」
「そのことなら」主馬はしずかに答えた、「かねて御老職からおはなしのあったときお答え申したとおりだ、まちがいはない」
「それがたしかならわれわれは帰る、ながい邪魔をして済まなかった」庄兵衛のぶじなことがわかって安心したのであろう、そう云ってようやく六人のものは立ちあがった。


 雪が降っていた。かみの毛も凍るかと思われる北風がおりおりどっと吹きつけて来る、それは輪奐りんかんたる鳳源寺の七堂の屋根に雪けむりを巻きあげ、境内の松林を颯々さっさつと鳴りたたせた。枝をふるわせこずえを揺って蕭々しょうしょうと鳴りたつ松林のなかに、故因幡守長治の墓所はあった、塋域えいいきは石でたたみあげてあるがまだ碑はなく、喪屋もやのなかに位牌いはいが安置してあるだけだった。墓所の脇のあたらしい土の上に福尾庄兵衛が端坐していた、頭から雪まみれだった、肩とひざには二寸あまりも積っていた、右がわに大小が置いてあるのだが、そのかたちなりに積った雪の下に埋もれていてみえない、瞑目めいもくした顔つきは石のように、硬く、ひきむすんだ唇は微塵みじんもゆるがぬ意志のつよさを表わしているが、肉躰にくたいはその意志を裏切るようにぶるぶるとふるえていた。
 着てきた笠と雨具をぬぎ、雪の上へ膝をついた弟の勝之丞は、その顫えている兄のからだを見て胸をつき刺されるように思った、「これではおからだに障ります、兄上、お伽をなさるお心はよくわかりますが、せめて雨や雪の日は屋敷へおかえり下さい」「いくたび云ってもおなじことだ、大殿御他界のおり兄は死んでいる、御禁制ゆえ追腹を切らぬだけで心もからだも故殿のお供をしているのだ、兄のことはもう考えるには及ばぬ、そのほうはかねて申付けたとおり当お上への御奉公、両親への孝を専一にはげむがよい、もうなにを申しても口はきかぬ、帰れ」「それでは兄上」と勝之丞はなじるように云った、「葛木かつらぎとの縁組はどうするのですか、兄上は破約をすると申送って此処へおいでになったそうですが、さくじつ葛木から父上まで挨拶がありました、小松どのはどこまでも約束の日を待つと云っておられるそうです、内さかずきも済んでいることゆえ、わたくしもそう云われるのは当然だと存じます、兄上、あなたは小松どのの一生を無になさるお考えですか」
 庄兵衛は答えなかった。かれは老職をつとめる福尾庄左衛門の長子で二十六歳になる、おっとりとしたまるい性格で誰にも好かれていた。役目は書院番であるが因幡守が在国のときは主馬とおなじおそば去らずで、ことに文雅の道ではなくてはならぬおはなし相手だった。かれはまえの年の秋に、おなじ家中で御勘定方元締役をつとめる葛木八郎左衛門のむすめと縁談がととのい、内盃までしたのであるが因幡守の病臥びょうがのため延び延びになっていた。そしてついにその逝去にあうと、かれは葛木へは書面で破約を申送ったうえ此処へ来てしまったのである。「兄上、お返辞はいただけませんか」「…………」「小松どのを不憫ふびんとはお思いにならないのですか」庄兵衛は黙っていた、答えられないのではなく、答える必要がないという意志がはっきりみえている、勝之丞はもうなにを云っても無駄だと思った。それで持って来た行厨こうちゅうをそこへさし置き、「お食事をここへ持参いたしました、では勝之丞はおいとま仕ります」そう云ってしずかに立ちあがった。
 石段をおりてゆく勝之丞の背へ、はげしく雪を巻いて風が襲いかかった、もういちど兄のほうへふりかえり、笠のひもをかたく結んでから、かれは方丈のほうへと去っていった。庄兵衛は眼をとじ、両手を膝にそろえたまますこしも動かない。しかしそれが、きめたことを貫きとおす無念無想のすがたであるか、それとも去来する煩悩俗念を抑えつけているすがたであるかはにわかにきめがたいことであろう。江戸から来た八島主馬とかれとは、因幡守長治に百年のおりがあったらともに殉死するであろうと云われていた。当時は諸方の藩に殉死の風がさかんで、太守の不幸があると少なくて二三人、もっとも多い場合には二十数名に及んだこともあった、したがって主君の寵遇をうける者は、おのれもひとも、万一のときは泉下せんかまで供をすべきものと暗黙のうちにきめていたのである。庄兵衛も主馬も、ひとがそう思うばかりでなく、自分たちもむろんその覚悟だったにちがいない、けれども寛文八年八月に幕府から殉死の禁令が発せられたので、追腹を切ることができなくなったのである。……禁令はきわめて厳重なものだった、禁を犯した者はその血族まで罰せられ、なお主家にさえ累が及ぶのである。代表的なものは宇都宮城主の奥平忠昌が死んで家臣の杉浦右衛門兵衛が殉死したとき、幕府は奥平家を山形へ移封し二万石を削った、そして杉浦の二子を斬罪ざんざいに、婿二人と外孫を追放に処したのである。この例のきびしさは殉死の風がいかに根づよいものであったかということを示すもので、同時にそれ以来おおいに禁令の実があがったことも事実だった。つまり殉死はもはや主家にわざわいを及ぼす不忠な行為ということになったからである。


 たしかにそれは事実だった、けれどもそれですべてが決定したのではない。「腹を切って泉下への供をする」という習慣は、そのことのなかに武家の名誉と誇りとがあったと同時に、当然おいばらを切るべき者がおくれた場合には卑怯ひきょうの名を避けることができない、みれん者といわれ臆病者と云われる、幕府の禁令がきびしく主家にわざわいの累を及ぼすという事実がはっきりしていても、しかし「だから殉死をしない」ということは、世間のおもわくとおのれの良心とのふたつの面から考えて、そうたやすく解決のつく問題ではなかったのである。
 因幡守の葬礼がおこなわれた日に庄兵衛はこの墓所へ来た、身のまわりの事はすっかり始末したし、縁組の約束もことわった、かれの口からは云わないにしても、御墓所のお伽に一身をささげる覚悟だということはあきらかだった。寒気のもっともきびしい季節である、松林にかこまれてはいるが石でたたみあげた塋域は吹きさらしだった、風雪をよける物もなく寒さをふせぐなに物もなかった、庄兵衛はその寒さと風雪にさらされた墓畔に、まったく身ひとつで端坐したのである。はじめ寺僧は夜だけでも庫裡くりへはいるようにとすすめた、寒さをしのぐために衣服の上へかさねる物を持って来たりもした。しかし庄兵衛は鄭重ていちょうに謝辞して受けなかった。――あっぱれな覚悟だ。――追腹を切る以上だ。家中の人々はそううわさをしあい、墓畔をおとずれては労をねぎらった。そういう反響が庄兵衛にとってどれほどのものであったろう、かれは迷惑がるようすさえもみせず、ただ黙々と眼を閉じているばかりだった。食事は日にいちど、それを運んで来る者があればたべるし、なければ幾日でも無しで済ませた、用に立つほかは膝を崩さず、また端坐したまま眠った。「追腹を切る以上だ」という評は、肉躰の艱苦かんくをべつにしても不適当ではなかったのである。
 弟が来た日の夜のことだった、雪の降っているときは思いのほか温かいもので、十時の鐘をきいてから間もなく庄兵衛はとろとろとまどろんだらしい、ふともののけはいで眼がさめたかれは、自分のすぐうしろにしずかな人の呼吸の音をききつけた。「……勝之丞か」こえをかけたけれど返辞はなかった、そのときからだへ雪がかからぬのに気づき、みるとうしろから傘がさしかけられてあった。庄兵衛はふりかえって見た。
 若いむすめだった、たしかめるまでもなく葛木八郎左衛門のむすめ小松である。伏せたおもての濃い眉と、寒さにめげず艶々つやつやとゆたかな頬のあたりが、雪明りにくっきりとえてみえる。さすがに庄兵衛は心をうたれた、思わずはげしい言葉が口をついて出ようとした。むすめは九百石の老職の家にそだてられた、武家だからあまやかした育てかたはしないにしても、まだ十八歳の、男とは鍛えかたのちがうからだである、このような無理が続くわけはない。庄兵衛はそう思った。――黙っているほうがよい、なまじこばんだりしてはかえって意地をおこさせるもとだ。無情ではあるがそう考えて、かれはそのまま黙って眼をつむった。うしろではときどき居住いを変えるらしく、思出したように身動きのけはいがするほかには、人がいるとも思えぬほどひっそりとしていた。そうして夜半をよほど過ぎてから、庄兵衛はいつものとおり端坐したまま眠った、そしてしらしらと明ける頃に眼がさめてみると、むすめの姿はもうそこにはなかった。――いつか帰ったとみえる。そう思いながらかれは明けがたの雪に埋まった境内のかなたを見やった、ひとりとぼとぼとその道を帰ってゆく小松の姿がみえるように思えた。
 四五日して雨が降った、すると初更の頃になってまた小松が来た、そして明けがたまでうしろから傘をさしかけていた。その雨があくる日のひる頃から雪になり、二日のあいだ小やみもなく吹雪ふぶき続けた。その二日めの夜半、小松が来て傘をさしかけようとしたとき、庄兵衛ははじめてしずかに云った。「あなたがそうして此処へおいでになる気持はよくわかりますが、わたくしの覚悟はいつぞや申上げたとおりです、半年や一年のことならまたべつでしょうが、これはいつ終るということがらではないのです、あなたがそのようにまことを尽して下さるのは有難いが、しかしそうやって一生おわることはできません、途中でやめなければならぬことはわかりきっています、……どうか今後はおいでにならないで下さい、おいでにならずとも、今日まであなたの示して下すった真心は忘れは致しません、おわかりですか」


 むすめは答えなかった、庄兵衛はかなりながいあいだ返辞を待ったけれど、なんの答えもないので重ねて云った。「本当にもう無用です、あなたがそうしている理由はすこしもないのです、どうかお帰り下さい」「おゆるし下さいまし」小松はしずかな、しかしかたく心をきめた者の落ちついたこわねで云った、「わたくしよくよく考えたうえのことでございます、こう致すのがわたくしにとってただひとつの生きる道でございます、ひと眼にはかからぬように致しますゆえ、どうぞこのままおゆるし下さいまし」「…………」それを押し返して拒むべき言葉は庄兵衛にはなかった。けれどもまたよろしいと云える立場でもないのである、かれはやはり自然のなりゆきに任せるほかはないときめた。
 小松のことはなかなか世間には知れなかったが、庄兵衛の評判は伝説的に尾鰭おひれがついてひろまった、そして当然の比較として八島主馬がその対照にされはじめた。――いったい八島主馬はどうしたんだ、その後とんと沙汰がないではないか、――負けぬ気のつよい男だからいまに庄兵衛とはちがったなにか思切ったことをするぞ。――福尾に先を越されてみればへたなまねはできぬからな。ことがらの厳粛さはしだいに薄れて、人々の眼はいつかしら卑しい興味を追うようにさえなってきた。けれども主馬はどうするようすもなかった。因幡守の逝去で役どころをなくしたかれは、日々おのれの屋敷のなかで弓をひいて暮した、馬を駆って西城川をさかのぼり夜になって帰ることなどもあった、定日にはちゃんと登城をした。――なんだ、まだ碌々ろくろくとしているのか。そういいたげな家中の者の眼にも、かれはすこしもめげる風がなかった。それがあまり平然としているので、ついには口にだして諷諫ふうかんする者さえあったが、主馬の態度はいささかも変らなかったのである。
 こうして二月となり三月となった。三次盆地をとりかこんでいる山々のみねの雪もいつか消え去り、朝夕のかすみが濃くなるにしたがって、野づらの下草はえはじめ日だまりのあたりには桃と桜が咲きだした。そしてその春とともに江戸から新しい主君が国入りをした。因幡守長治のあとを継いだ式部少輔長吉ながよしは、実は浅野の宗家である安芸守あきのかみ光晟の三男である。はじめその兄の長尚が養嗣子となったのだけれど、病歿びょうぼつしたためさらにそのあとへはいったのであった。はじめての国入りなので五六日は政務をみるために費した。それから建立の成った故因幡守の墓所へ参詣さんけいの礼がおこなわれ、つづいて家臣たちの引見いんけんの式があった。その式のあと、老臣たちに御酒くだされの宴がひらかれたとき、長吉は墓畔に侍していたのは何者であるかとたずねた。老職のひとりが仔細しさいを言上した、式部少輔はあきらかに感動したようすだったがそのときはなにも云わず、さりげなくはなしをそらしてしまった。しかしそれから数日して作事奉行が呼ばれ、――御墓所の内に小屋をつくってやれ、庄兵衛一代を限ってかれに与える。そういう申付けがさがった。小屋を作っても墓から離れていては入るまい、そう察したうえの思切った恩典である、異例ではあったが反対する者はなかった。そして間もなく小屋が建つと庄兵衛は案外すなおにそこで夜をすごすようになった。
 三月の末に役々の任免があった、当時どこの藩でも家臣の職はほとんど世襲になりつつあったが、代替りには多少の更迭こうてつはまぬかれない、そのときも重だった役には変りはなかったが、二三異動のあったうち八島主馬が国詰めお側用人にぬかれたことは家中の人々をおどろかした。主馬の父は江戸家老であるし、俊敏な才分も衆目のみとめるところで、将来老職となるべき人物という点では、その抜擢もさして不当ではないのである。けれども一方に福尾庄兵衛のことがあり、それと対照して家中の評判がきわめて悪いおりからだったので、人々がおどろいたのも無理ではなかった。――だがまさか主馬はお受けはすまい。――それよりもおそらく江戸へ帰任を願うだろう。そう思う者が多かった。しかし主馬は辞退しなかった。お達のあった日から城にあがってその職に就いた。むしろ壮快なほど、きっぱりと割り切ったかれの態度に、かえって人々が威圧をさえ感じはじめたとき、式部少輔長吉の新しい政治が活溌にうごきだした。その中心はいままであまりかえりみられていなかった農業の振興にあった、耕地の整理や用水路の改廃が計画された。また三次は良質の木炭をだすので名があり、そのためとかく濫伐らんばつに傾いていた山々の植林、ついでは生糸、酒などという重だった産業の改良と指導にも手をつけたのである。そしてこれらの事業はすべて藩主長吉と主馬とのかたいむすびつきを土台とし、全藩のちからを集めてめざましく活動しはじめた。


 三次の城中には発蒙閣という天象観測の建物があった。因幡守長治の建てたものであるが、近年ほとんど忘れられていたため、屋根も壁も朽ちて立ちぐされ同様になっていた、それをとり壊そうという話がでたとき、主馬ひとりが反対して云った。――農事を振興するには天象季候をよく案じなければならない、むしろ発蒙閣を増築し、天文家を招いて研究をさかんにすべきである。長吉がその説を採った、そしてすぐに発蒙閣の増改築がはじめられたのである。
 その工事を起してから間もなくのことだった、主馬が現場へ来て、作業方の者と工事のようすを見まわっていると、下支配をしていた若侍たち四五人のなかまが、かなりこわだかに主馬の悪口を云うのが聞えた。「江戸そだちは利に賢いな、寵をうけた殿が御他界あそばしても、御禁令で痛い腹を切らずとも済んだし、そうなれば御恩も帳消しだという顔でうまく出世だ、この世をばわが世とぞ思うと云いたげではないか」「武士の道をまもった福尾はお小屋をひとつ賜っただけだし、命だいじと身をまもった者はお側御用の出頭だ、つまりまじめに勤めるのが馬鹿者さ」「だいたい江戸にいた時分からよろしく御前をとりまわしていたのさ、先殿でなければ当お上、なにしろ殿の御意にいりさえすれば家中の意見などはとるに足らぬからな」「これからは勤めぶりも考えてしないととんだことになるぞ」
 そこまで聞いた主馬はつかつかとかれらのほうへあゆみ寄った、こちらもそれを待っていたというようすで向き直った。
「お上のお名が出たからひとこと云おう」主馬はしずかな調子で云った、「正月いらい貴公たちのかげ評判は耳にしていた、じかにこの耳で聞いたこともある、江戸そだちは薄情だ武家の道を知らぬ、故殿の御恩を忘れているなどと」
「…………」
「だがもし拙者が江戸そだちの薄情者なら、貴公たちは田舎者の道理知らずだ」
「なに、田舎者だと」
「待て、喧嘩けんかをしに来たのではない、これまでは黙って貴公たちの悪評をきいていた、だから今日は拙者の申すことを貴公たちが聴く番だ、いったい貴公たちは先年の御禁令をどう考えている、殉死の禁は追腹を切りさえしなければよいということか」
「そのほかに解釈のしようがあるか」
「あるとも、禁令の御趣意は、ただ追腹を切らなければよいというだけではない、生きて御奉公すべしという意味だ、これまで諸方の藩にも例のあるとおり、太守の喪に当って幾人いく十人の殉死があった、君臣の情さもあるべきことながら、そのなかには有為の人材があったにちがいない、生きていればなおりっぱに御奉公のできる者が、いかに君臣の情とは云えあたら屠腹とふくして果てるというのは、国家という大きいところからみて無益な損失だ、……ごしゅくん百年のあとにも藩家はある、お世継もすなわちごしゅくんではないか、ひとりの殿に殉じて、家臣たちがみな屠腹したり世を捨てて墓守りになったとしたらどうなるか、それが武家の道だと云えるか、まことの武士なら生きぬけ、殉死すべき命を生きて御奉公に捧げよ、……御禁令の趣意はそこにある、拙者はそう解釈する、貴公たちこれを誤っていると思うか」
「八島どのにおたずね申す」
 そう叫んでひとりの若侍が前へ出て来た、福尾庄兵衛の弟、勝之丞であった。「いまあなたは兄を誹謗ひぼうなすった」「貴公は誰だ」「福尾勝之丞、庄兵衛の弟です」「拙者がなんと誹謗したのだ」「言葉をさしてはいない」勝之丞ははげしくかぶりを振り、ぐっと相手の面上を指さしながら叫んだ、「生きて御奉公をするのがまことの武士と云い、世を捨てて墓守りになるのは無益なわざだと申された、まことに兄は武士でない、武家の道にはずれておるか、もういちどたしかに聞かせて頂きましょう」
「ばかな、拙者は禁令の解釈をのべたばかりで福尾やおのれの批判をしたのではない」
「逃げ口上はよせ、御墓所のお伽をしているのは兄いちにん、墓守りといえば兄をさしたに相違ない、主馬、いいわけあるか」勝之丞は大剣へ手をかけた。
「福尾はやまるな、城中だぞ」つれの若侍たちがおどろいて抱き止めた、はなせともがき叫ぶ勝之丞の顔を、主馬は冷やかに見かえしたまま去っていった。


「もう西城川へあゆがのぼりだす頃だな」庄兵衛は竹のれ縁に腰をかけ、鳳源寺の本堂の大屋根ごしに北のほうを見やった。故因幡守の塋域のなかに建てた小屋である、ふた間きりの狭いながら、背戸にはかけひでひいた水が絶えず清冽せいれつな音をたてていたし、くりやもあった。……かれは故殿の百日忌が済んでからは、墓畔の土に坐ってお伽をするのは日の出から日没までにして、あとは賜った小屋のなかで看経したり写経に時をすごしていた。
「兄上、兄上は口惜しいとはお思いにならないのですか」濡れ縁の上にかたく坐った勝之丞は、ぽろぽろと涙をこぼしながら云った、「人も多くいる面前で、主馬どのははっきりそう申されたのです、勝之丞にはがまんがなりません、福尾の家名にもかかわると存じます、兄上はそうお思いになりませんか」
 庄兵衛は眼を転じて城下町のほうをみた、霧が立っていた。四方を山にかこまれた三次盆地は春から秋へかけて霧がふかい、それは「霧の海」とも呼ばれる名だかいもので、朝夕はほとんど盆地の上を覆いつくし、少し高いところからみると、丘陵や山々が島のように霧海へ浮いてめずらしい展望となる、……いま庄兵衛の眼にその霧の海のいちぶが見え、黄昏たそがれかかる光りをあびて刻々に巻きたち揺れうごくさまが眺められた。
「主馬の申すことにまちがいはない」庄兵衛はしっかりとした口調で云った、「禁令の御趣意は生きて御奉公せよということだ、故殿の御恩にむくゆるには、追腹を切るよりどこまでも生きて、お世継のため藩家のために御奉公するのが道だ、そのくらいの道理がおまえにわからないのか」
「では、では兄上は、どうして兄上はそうなさらなかったのです、なぜこのように御墓所のおまもりをなすっているのですか」
「誰かがしなければならぬから」庄兵衛は低くつぶやくように答えた、「おれか、主馬か、あの場合いずれかひとりは故殿のお供をしなければならなかった、主馬は才分の高いおとこだ、お家のために無くてはならぬ人物となろう、主馬を失いたくなかった、おれか主馬かとなれば主馬を生かして置くのがお家のためだった」
 勝之丞は唖然あぜんとして兄の顔をみまもった。庄兵衛は霧海を見やったまま続けた。「主馬は意地がつよい、おれが先を越せばかれは決してその真似はしない、それがよくわかっていた、だからおれは此処へ来た」呟くような兄の言葉は勝之丞の心を一語一語針のように刺した、唖然と見あげていた眼をいつか膝へおとし、勝之丞はこぶしでそっと涙を押しぬぐった。
「だが考えちがいをしてはならぬぞ、兄がこうして御墓所のお伽をしていられるのはこのうえもない果報なのだ、同時にそれが主馬を生かす役にもたった、兄にはこれほどの満足はない、主馬の申した言葉を口惜しいなどと思うのは身びいきのつまらぬひがみだ、おのれのまことを生きぬくために他人の批評を案ずる要はない、そんな無用なことを考えるいとまがあったら、御奉公に一倍の精をだすがよい、わかったか」
 はいと云って勝之丞は両手をついた、兄の覚悟は単純ではなかった、故殿に殉ずる壮烈なしかたと思ったが、その裏にはもっと大きな、おのれを無にして有為の人材を生かす配慮があったのである。――主馬どのがこれを知ったら。そう思った気持がそのまま通じたように、庄兵衛がはじめてふりかえって云った。「いま申したことは他言ならぬぞ」「はい」「もう暮れる、帰るがよい」そう云うと、かれは濡れ縁から立って背戸のほうへ出ていった。……風が立ちはじめていた、海のように盆地をとざしていた霧が、風に吹かれてにわかにゆらめきだした。古い杉林のなかを丘のはずれまであるいていったとき、その深い林のなかにある小径こみちから、葛木のむすめ小松の姿があらわれた、小さな包をかかえて、黄昏のうすあかりの中にあゆみ出て来た姿はまぼろしのようにも※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけてみえた。「おそくなりました」ふりかえった庄兵衛の前に、小松はあかるく頬笑みながら会釈して云った、「きょうは御好物の仔鮎を持参いたしました」





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
   1943(昭和18)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2024年11月3日作成
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