長屋天一坊

山本周五郎




第一席 天一坊は大逆犯人のこと

並びに諸説巷間を賑わすこと

 徳川八代将軍吉宗の時代に、天一坊事件という騒動があった。
 真相のところは諸説まちまちで、ここに紹介すれば四五行で終る記事もあり、本書一冊分くらいのぼうだいな実録もある。
 またぜんぶ事実無根だという論もあって、学界……などはべつに問題にもしなかろうが、一般史家などは、……これもまあそのために眼色を変えるほどのことはないだろう。しかし演者わたしとしては「事実無根」と云われては困る。
 それはこの際は断じて御免をこうむりたい。
 天一坊は甲の記録では「改行」という名であるが、乙の文章では「宝沢」と呼ばれている。紀州の産であることはたしからしい。ともかくも将軍吉宗の直筆だという墨付と短刀を証拠にして、――自分は吉宗公の嫡出子である。こう名乗りをあげて、堂々と三葵の紋章をひけらかして、江戸へのりこんで来たということは、これはもうそれだけでたいした度胸である。かつて、敗戦の風雲に乗じて「おれが本家だ」といばりだした熊沢天皇様などとは、そこはいくらか段が違うと思う。
 江戸中の評判は、うるさい程度以上であった。幕府としても相手が堂々と来たからには、知らぬ顔をしているわけには体面上としてもゆかなかった。とりいそぎ治安法官に実情調査を命じた。命を受けた担当者は誰であるかというと……甲の記録では伊那半左衛門となっているが、乙の文章には越前守大岡忠相だとしてある。演者としてはどっちでもいいが、ひとつにはにんきなどの点も考慮して、ここには大岡忠相ということにしておきたい。
 周知の如く越前守には、名判官という定評がある。指令を受けた彼はあらかじめ事件の全貌をぐっとにらみ、小首をひねったのち、得たり賢しと部下を八方に散らしたのである。
 この探索の苦心には触れたくない。忠相としては肝胆を砕いたであろうし、部下たちは東奔西走、そこは草臥くたびれたぐらいのものではなかったらしい。が、詰るところ天一坊の悪事は摘発され、大岡越前としては法の威厳を示す必要上この坊主をば白洲の縁側から蹴落けおとすのであるが、演劇ではここは大向うなるものがうなりだすそうである。
「あのここな、大逆犯人めが」
 というようなことを忠相が断言する。これに対して天一坊はどうしたか。砂利の上へ蹴落された彼としては、そこはやはり自尊心というものもある関係から、いちおうふてくさったような姿勢をとるわけだろう。そして一種のせせら笑いをして、
「へっ、大岡様にゃあかなわねえ」
 などと虚栄的な感想をもらす。要するにそれだけのことなのであって、特別に唸り出すほどの問題ではないと思う。
 天一坊ならびにその連累者たちは、極刑に処せられた。すなわち事件は決着したのであるが、甚だ奇怪にも、愚昧ぐまいなる市民たちは納得しなかった。
 天一坊が現われたときは、かれらはやみくもいきり立ったではないか。公方様にお家騒動を起こそうなんてずぶてえ野郎だ。おらっちの将軍家を乗っ取ろうとはいけっぷてえ畜生だ、石臼いしうすで粉にひいてあべ川にしてしまえ。
 こういう種類の劣等なる評をしたではないか、にもかかわらず一味が極刑に行われると、市民どもは前言をひるがえして、各自が急にひそひそ話を始めたのである。
「これあごくないだがな、おらあこんどのお裁きは眉睡だと睨んでるんだ、あれにあおめえ裏の裏があるぜ」
「裏の裏たあなんの裏だ」
「大きな声じゃあ云えねえが、おう、ちょいと耳を貸しねえ、よしか、これはごくないだがな、あれあおめえ本物だあ」
「へええ――そうか、やっぱり本物かえ」
「そうだってことよ、あれあ慥かに将軍様の御落胤らくいんよ、ひとに饒舌しゃべっちゃあいけねえぜ、ごくないの話だからな、よしか、こんなことがわかったらおめえ文句なしに、これだあ」
 これらは無産階級の耳こすりであるが、有産知識階級においてはさすがにこれより穿うがっていた。
「実はさる信用のおける筋から聞いたのですがな、他言されては困るんですが、これこれしかじか、……どうです、私もうすうすは推察していたんだが、実はこれこれがしかじかと聞いては驚きました、……どうです」
「いやその話なんですがね、私もね、ほら御存知のあの方面ね、あれからちょいと耳にしたことはしたんですがね、だがまさかと思いましてね、だって貴方あなたまさかねえ」
「いいえ、私のはごく信用のできる筋の話なんで、なにしろ将軍家におかれてはですな、そのときはらはらと御落涙、さすが親子の情であると、閣老一統も暗涙にむせばれたというのですからな、いいえもう、これは間違いのない筋からの話なんでしてな」
 情報の出どころの慥かな、しかし極秘ごくないであるという、この種の風評が市中を横行した。せんさく好きな老人などは突拍子もないような書物など持ち出して来て、事件の淵源えんげんを考証したり解剖してみせたりするのである。

第二席 臼が臼たる道理のこと

並びに長屋の若者たくわんと
       見代えられのこと

 その当時、本所石原町に六軒長屋と呼ばれる貧民住宅区があった。
 戸数は実は三十八軒ある。が、初めは六軒だったので、付近住民の怠慢と無関心によっていつまでも「六軒長屋」と呼ばれているわけらしい。家主は繩屋吾助、女房おたきとのあいだにわきという娘が一人いた。
 吾助は下野しもつけの佐野という土地の産であって、故郷において二三の職業に失敗、三十一歳のおり江戸へ出て繩屋を開業した。以来約二十年、夫婦娘、三者一体となって業務に精励した結果六軒長屋を端のほうから一軒ずつ買ってゆき、自分は表通りへ店を構え、なお長屋を順次――古材木を買いめては――増築に増築して、もって今日の大を成すに至ったものである。
 長屋の住人たちは、かれらの家主に対して好意的ではなかった。かれらは蔭では吾助を「禿はげ」と呼び、女房おたきを「ごうつく」と呼び、娘おわきをば「臼」とも「色けち」とも呼んでいた。仇名としては没趣味な知恵のないものである。吾助は禿頭であったし、おたきごうつくそのものであった。娘を臼というのはもちろん彼女の腰部をさすので、これも実に俗なありふれた表現である。また色けちというのはこれはさらに俗な、いささかも曲のない或る意味を表わしていた。
 おわきはもう二十六になる。一人娘だから婿を貰うわけだが、そして実際これまでに五人も婿を貰ったのであるが、五人とも半年そこそこでみな逃亡し、出奔し、三年このかたは独身でいる。――眼をくぼませて後家の男は逃げる、こういう卑劣なる川柳点があるというが、おわきは後家ではなかったが、五人の婿はそれぞれどこかしらをくぼませ、命からがら逃げだしたと、長屋の住人共は伝えておる。
「おらあ知ってるんだ、おれと金太はな、すっかり知ってるんだ」
 親の代から長屋で成長し、現在では共同して辻駕籠つじかごかついでいる銀太と金太という二人の若者は、中んずく斯様かように公言しておった。
「あすこの婿は、五人ともおれたちの所へ、毎晩夜食を食いに来たもんだ、なあ金太」
「うん、……来たもんだ」口の重い金太は考えながらゆっくりうなずく。
「やって来たもんだ、なにしろ、おれたちは夜中に帰って、それから夜食をべて、……寝るから、……そのときやって来たもんだった、……五人ともだった、そして五人とも泣いたもんだった、いつもかつえてやがる、二番めの倉造ってえ婿なんぞは、毎晩おめえどんぶりで五杯も喰べやがった、ぽろぽろ涙をこぼしながらよ、なあ金太」
「うん、……ぽろぽろとよ、涙をこぼし、また飯もこぼしたもんだ、……飯をこぼすと拾って喰べ、……それくらいかつえていたもんだ」
「なにしろおめえ、昼間は禿とごうつくが掛ってて働かせるだろう、なにしろ千住の先から西は品川目黒のはてまで車をいて駆けまわらなけりゃあならねえ、それで餌はおめえ子供の弁当くれえしきゃ食わせねえ、三度が三度おかずは梅干か味噌か古たくわんの尻尾で、魚なんぞは月に一遍、それも目刺し一尾だってんだから、そしておめえ夜は夜であの臼だ、なあ金太」
「うん、……あれは聞いていて、誰もがよもやと思う、本当の事とは誰もが考えられないもんだ、おれはまさかと思った」
「三番めの幾次てえ婿だっけか、なにしろおめえ一と晩も欠かさず五度ずつ神輿みこしのお渡りだてんだ、まるで搾木しめぎに掛けて種油をしぼるみてえに、うむを云わさねえてんだから、そしてちっとでもいやなそぶりをすると、厭なら出ていきな、役にも立たねえ者にむだ飯を食わしとくわけにゃあいかないんだから、こうぬかすんだからおどろきだ、なあ金太」
「うん、おどろきだ、まったく、……うん、そしてその婿の持って来た物はみんな取上げて、夫婦の小遣いは……、幾らだったか忘れたが、……それもあの臼が取上げちまって、湯銭もれねえということだったもんだ」
「それで毎晩神輿だけはちゃんと渡るんだ、五番目の次郎助なんぞはおめえ、なにしろ毎晩おめえ六度か七度だってんだから、あいつは額までくぼませてやがった、なあ金太」
「うん、……あの次郎助はそんなふうだった、逃げるときはまた泣いた、……無事に逃げられればいいけれども、下手をして、もしつかまったときは、これこれのわけだからと、親許おやもとへ知らせて呉れと云って、うん、……ぽろぽろ泣いたもんだった」
 演者わたしとしては「神輿」とか、「お渡り」などという俗語は知らない。また知りたくもないのであるが、大体として色けちなる仇名の意味は、これで解し得ると思う。
 彼女は五尺そこそこの身長で、骨も太く肉付きたくましく、あかい縮れ髪で、腰部は臼と云う以外に形容をなし難い。足は俗にがみまたといって、外方に彎曲わんきょくして短く太い。その上方に臀部でんぶが怒り出ておる。卑俗な言葉で云えば、出ッ尻であるが、同じ出ッ尻といっても大一番と称さなければなるまい。……彼女、つまりおわきは朝から晩までよく働く。虚栄心などは少しもない、服装とか身嗜みだしなみなどの無頓着むとんちゃくさは、その無頓着さにおいて抜群である。
 彼女の労働力は、その父親の三倍に匹敵するであろう。一面ごうつくの点にかけても、その母親を少しは凌駕りょうがしていた。彼女は五番めの婿が逃亡して以来、それまで母親の役目であったところの、店賃たなちんの取立てを自分で執行した。
 このことは、長屋の住人共にとっては、かなり被害であったろう。母親、つまり「ごうつく」なるおたきはまだしもごうつく程度だったのである、が、彼女の取立ては甚大なるものであった。
 彼女は、大きなメリケン粉袋ほどもある布製の財布と帳面を持ち、矢立を帯にはさんで、多少前跼まえかがみになり、両手を――それは長くてぶら下げるとひざのあたりまで届くが――だらりと左右に垂れて、かの出ッ尻を後方で振り立てつつ、泥溝板どぶいたを鳴らし、或いは地面をずしんずしんと踏み鳴らして、路地から路地へと戸毎に訪問し、特に青年から壮年の男子、ときには少年でも老人でもいいが、ともあれ男子のいる家では、その家人はてきびしい取立てを蒙るわけであった。
「おらんも道楽で長屋を貸してるんじゃねえからな、おめえんところは三月も溜まってるじゃあねえか、え、……今日今夜、雨露風をしのがして貰って、店賃が払えねえじゃあ義理が済むめえ、よんど払えねえならうちの車あ三百で貸してやるから、今日にでも出ていって貰えてえ、おっと、出ていくに就いちゃあその火鉢と行李こうりの中の物を頂いておくぜ」
 文字で読むと、性別が不明のようであろう、聞いていても、男女の区別は明瞭とまではいかない。が、彼女が女性であることは、他の独身の男などの家へ取立てにゆくばあい判然はっきりするのである。
 とりも直さず、そういう家へは彼女は夜になって訪問する。職業上からして帰宅のおそい者などは、おそい時刻に訪問するが、そうしたばあいの彼女の駆引きは、際立って精彩を放つのである。
「店賃ぐらいきちんと払ったらどうだい」
 まずとりあえず右の如く第一声を浴びせるが、その眼はやさしく、声も色っぽい。そのうえ上半身や左右の手や腰部などで、種々なるところの挙動を示すが、これは柔軟体操ではなくしていわゆる「嬌態しな」であるらしい。
「そんながっちりした一人前の男がさ、おまえそれでも睾丸きんたまが有るのかえ、有るとすれば遊びにゆくんだろうが、むだじゃねえかよ、ばからしい、どうでもゆきてえときにゃおらにちょっとそう云うがいい、それで睾丸もおさまるし店賃もおさまるってもんだ、大家と店子は他人じゃあねえからな、はっはっは、今夜あたりどうだい、うすっ汚ねえけころをなんする銭で、もっと実のある楽しみをして店賃が払えるんだ、遠慮はねえんだがどうだい」
 こうずけずけ判り切ったことを云われては、彼女の同情者の立場にある演者わたしとしては困る。が、長屋の独身男子たちは、演者よりも困ったらしい。
 どんなに遊蕩心ゆうとうしんに燃えている男でも彼女の血走ってぎらぎら光る眼や、厚くまくれあがった赤い大きな濡れた唇や、妖気ようきを発する程の逞しい躰躯たいくや、そうして早くも火のように呼吸を荒くするさまを見るといかほど強烈に燃えている遊蕩心もかき消え、瞬時にして老僧の如く身内が冷えるという、かれらはおわきの好意を謝し、あわただしくも破れ財布をばはたいて、明朝の飯の代が無くとも、とりいそぎ店賃を払うのであった。
「おいよ、店賃は貰ったよ、貰ったからにゃあただ帰っちゃ済むめえ、朝まであ時刻もたっぷりあるから、ひとつゆっくりと」
「いや、そ、そいつあ待って、そいつだけは」
「遠慮はいらねえということよ、大家と店子は他人じゃあねえんだ、おら水臭えこたあ嫌えだから、ひとつざっくばらんに」
「まあ待って、ちょ、ちょいと待って呉んねえ、大家と店子は他人じゃねえかもしれねえが、世間じゃあ大家は親、店子は子と云うくれえで、親子の仲でそんな事をすりゃあ畜生だと云われるし、ま、とにかくそれに、今夜はおらあ草臥くたびれて、このままぶっ倒れて眠りてえんだから、まあ今夜のところは、このとおり」
「ふん、だらしのねえ」彼女としては憤然とするものだろう、「草臥れた、眠りてえッて、どいつもこいつも、男てえ男がみんな同じことをほざきゃあがる、据膳すえぜんが食えねえような睾丸なら切って捨てちまうがいい、ああばかばかしい、帰ってたくわんでも洗って、ひと汗かいて寝るとしべえか、ちょっ」
 演者としては、右のような卑劣なる言辞を紹介することを、江湖に対して恥じるものである。が、長屋の独身男子たちは、演者以上に恥じた。かれらは現にその当事者であって、面前において男性である自分とたくわんを比較されたのである。
 かれらがこの侮辱に対して、なにゆえに手をつかねていたかということは、出奔し去った五人の婿を前車のてつとしたのみではない、が、ここではまず談話の本筋を進めることにする。

第三席 繩屋吾助一念発起のこと

並びに「系図書き師」も人の職たること

 天一坊事件が江戸市民に及ぼした影響については、第一席で述べた。
 繩屋吾助、いわゆる「禿」なる当人も、この事件から非常なる衝撃と示唆しさを受けたことは、これは人情のやむべからざるところであるだろう。彼は考えて溜息をつき、小首を捻って考え、溜息をついて、そうしてまた考えて、溜息をついてから独り言をもらした。
「世の中には、どこにどんな人間が、それとなく、いるかもしれない理屈だなあ……」それからまた考えて、独りで続けた、「洗ってみれば、おれにしたってどんな名門の血をひいているかもしれない、太田道灌の落胤の子孫とか、もっと偉い、それこそ室町公方様むろまちくぼうさまなどというような人の、……そうだ、ここだ」
 吾助は鼻をこすり、坐り直してさらに考えた。
「つまり、こういうときに系図というやつがものを云う理屈だて、系図、……という物がある、人間というものは両親があって子を生む、その子が孫を生み孫が曽孫ひまごを生み、こうやって、きりもなく次から次と生んでいって、それで人間というものが今日ある理屈だ、……名物と云われる道具には伝来書があるし、書画掛物には箱書があるし、刀剣にも本阿弥ほんあみの折紙がなければ筋はとおらない理屈だ、……すべてそれ相当の由緒書がある、それのないやつは筋もとおらないし偽物と云われても返辞ができない理屈だ、まして人間、おれなども……、こうして旦那といわれるくらいの人格となってみれば、おまけにどんな名門高貴の血統であるかもしれないとなってみれば、……へえ先祖はわかりません、じゃあ世間に対して相済まない理屈だ、それはもはや人間の人格として、……いや、これはうかつだった、これはこんな独り言を云っているばあいじゃあないて」
 繩屋吾助は、奔走し始めたわけである。彼は故郷の佐野へ数回も手紙を出し、その地の寺の住職に対し、やはり書簡を以て交渉し、住職の返信によって幾許いくばくかの金銭を送り、結果として数枚綴った過去帳の写しを受取った。……その写しに付けて、住職はなお寺の窮状を訴え、
 ――御送金だけの調査では別記の如くであるが、なお調査を進めれば、或いは貴殿の先祖はかの有名なる佐野源左衛門常世ということになるか計り知れぬ、それには調査料として金二十枚御送付ありたい。また金五十枚御送付あれば平将門公へいしょうもんこう御直裔ごじきえいなることが判明するかとも愚考される。なおまたこれらに就いて系図が入用なるばあいは、系図書き師への染筆料として前者は金五枚、後者は金十五枚でお役に立つであろう。(注)右の価格はごく格安に願ったものであることを、特に付記する次第。
 こういう意味のことを書いて来た。吾助はさすが繩屋として大成するだけあって、住職の狡猾こうかつなる意図をすぐさま見抜き、同時にその文言の中から「系図書き師」なる者の存在を知って、にこっと笑ったということは、さすが商才というべきであろう。系図書き。それは「藩翰譜はんかんふ」の正統くらいを持って、諸家を回訪して、その家系を正し、補修し、そして最も多くのばあい各位の希望する系図を希望に応じて作製するを業とする者である。
 かかる業者の存在は、家系の尊厳を冒涜ぼうとくすると怒るなかれ、演者の遠い知人に天智天皇このかた一代の欠もなく連綿百二十代にわたるところの完全なる系図を所有する者もあり、彼はその有難さに日常身の置くところを知らず、病んで危篤となるや、這般しゃはんの系図を拝しつつ極めてうやうやしく死んでいったという。……是れを以て是れをみるに、いかなる職業も世を益し人を便ぜざるはない、と断言してはばからざるものだろう。
 吾助がどこで系図書き人をみつけたかは、史実には遺っておらぬ。
 六十あまりの、しなだれたような老人、赤錆あかさびたような白髪の、そして同色の顎髯あごひげを伸ばした、常時みずばなを垂らしている老人を伴れて来て、自分の家に泊めて、そうして遂には自家の正統なるところの系図を書き上げさせたのであった。
「こいだへ、こい、こいだへきゃ」
 報酬を手にしたときは、その系図書き人なる老人は、すっかり歯の脱落した口をぱくぱくさせたものである。
「こいでは、その、はいめのふェいやくに、もといやへんか、あま、あまいふとを、ばはにふうと、……その、わいだとて」
「やかましいね、この乞食爺いは」娘おわきが、このように応待した、「四日も五日も泊り込んで三度三度の飯をくらって、わけのわからぬ妙なお題目を書きゃあがって、おまけに銭をせしめてなんの文句がけつかるんだ、さっさと出ていかねえと眼のくり玉へ焼け火箸ひばしをぶっ通すぜ」
「ふわやもやもやふわ、はばいやもや」
 こう返答をして、老人はよたよたとどこかへ逃げ去ったのである。

第四席 吾助系図妄想のとりことなること

並びに長屋一同大迷惑のこと

 さもあらばあれ、繩屋吾助は、今や系図の持主となった。
 それは謡曲の「鉢の木」で周知なる佐野源左衛門常世を祖とし、十一代吾助に及ぶ綿密なる列伝で、但し仔細しさいに検討すれば、随所に御落胤あり夫婦養子あり廃嫡あり失踪者しっそうしゃありという結構で宗祖なる常世とはぜんぜん血縁関係のないことを証明しておるのである。
 が、元来系図なるものは、それが在るだけでもう役目は足りるのであってもしそんな詮索せんさくをするとなれば、万世一系と信ぜられるところの皇室におかせられ奉っても、越前のどこかに皇孫あり、これを迎えて継体天皇とす、などという押っ付け仕事のような記録があるではないか。で、それでつづめたところ、吾助は系図の所有者となったわけである。
 却説かえってとく。吾助は自家の由緒正しき系図を繰り返し眺め、また眺めするうちに、繩屋吾助である自分が、ちょっと洗ってみれば佐野源左衛門常世の後裔である、という事実の厳粛さに、心からおどろきの溜息をもらすようになったのであった。
「これでみるに、やっぱり、世の中にはどんな人間がそれとなく、いるかもしれない理屈だなあ」
 されば、と、これは心の中で考えたことであるが、自分の持ち長屋に住む連中のなかにも、叩いてみれば相当のほこりの出る者もいるかもしれない。まさか冗談でなく、将軍家とまではゆかずとも、どこかの大名の御落胤くらいは出て来るかもわからない。
「これは充分に疑ぐってみなければならない、現にこの俺がいい証拠じゃあないか、とすれば、誰にもそこは断言できない理屈だ」
 そしてもしも、と、これも心の中で考えたのであるが、もしもそういう人格がいたとして、それが俺の持ち長屋から発見されたとなればどうなるか。
 そのときは現に在るところの系図がものを云うではないか、佐野源左衛門の後裔が歴として繩屋吾助である、とすればどんなに絶大なことになるか。
「これはうかつにしてはいられない、こんな独り言など云っているばあいではない」
 こう独り言を云って、吾助は早速長屋住人の身許調査にとりかかったのである。
 長屋住人にとっては、このことは一つの新しい被害であった。吾助大家はごめんよと入って来る。そうしてまず天一坊事件に就いての注意を喚起し、家には系図、名物道具には伝来書、書画骨董こっとうには箱書、刀剣には折紙なるものの存在を説き、さて自分のゆゆしきところの系図をそこへ拡げて見せ、鄭重ていちょうにこれを袱紗ふくさに包み、さて威容を正して質問する。
わしもこうして相当以上の家柄だことをうちあけたからしては、まあ、しぜん言葉なども改めるという理屈だが、それに就いてはおまえさんの家柄というものを聞きたい」
「へえ、それはどうも、なんですが、どうもわっちらときては、それはもうその、なんです」
「いや隠すことはないて、儂もこうして系図を見せたわけで、それというのが大家と店子は親と子といったような理屈で、だからしてはおまえさんもうちあけて貰いたい」
「へえ、それゃあもうよくわかるんですが、なにしろわっちは家柄だの芋殻いもがらなんてええごいものはでえ嫌えなんで」
「家柄がえごいわけはない、家柄というものは、……それでは聞くのだけれども、おまえさんの祖先はどういうことになっているか」
「さあてね、祖先となると、こいつは大家さんの前ですが、実はここんところばかに仕事に追われてるんで、暫くつきあいが絶えているようなぐあいですから」
「それはいけない、いくら仕事が忙しいからといって、祖先とつきあわないなどということでは、人間の義理が欠ける理屈だ、……では聞くのだけれども、系図のほうはどうなってるんだ」
「冗談いっちゃいけねえ、いくら大家さんだってふざけちゃいけねえ、わっちはこれでも左官しゃかんとしちゃあ腕っこきと云われてるんだ、酒のために貧乏こそしちゃあいるが、そんないかがわしいうしろ暗えまねは、これっぽっちもした覚えはねえんだ、あんまりばかにしたことを云わねえでお呉んなさい」
「なにをそんなに怒るんだ、儂はただ系図のことを聞いたばかりじゃないか」
「まだ云ってやがる、いってえおれがいつけえず買いをしたってんだ、もういっぺんぬかしてみろ、大家だろうが紺屋こうやだろうが向うずねをかっ払って……」
 これは威勢のいい男であり、店賃をきちんと払っている関係からして、右の如く簡単に片づいたのであるが、他の多くのばあいはこうはいかない。
「自分の家柄血統がわからないという筈はない、刀剣書画などでさえそれぞれ身分証明の由緒書がある、それが人間たるものがわからないという道理はない、え、そういう理屈だろう」
「まことにどうも面目しだいもございませんので、どうぞ私のところはひとつお目こぼしを」
「お目こぼしといってなにも儂は博奕ばくちやかっぱらいの詮議をしているわけじゃあない、儂がこれだけの家柄であってみれば、店子のおまえさん方の中にもそれ相当の人格がいるかもしれぬ、こないだの天一坊様の例もあることだ、もしそれ相当の御落胤とか、よもやというような家柄血統の御仁がいたら」
「いえもうそのへんのところは、決して御心配はいりませんので、決してもう家柄血統などというだいそれたものは」
「べつにだいそれるとか、それないとか、これはそんなわざとらしい話ではない、おまえさんの先祖はどういう身分の人か、公卿くげとか武家とか大名とか、それがおちぶれてどうしたとか、二代目はこれこれ三代目はしかじか、なに兵衛の子がかに衛門を生んで、それ吉がかれ蔵の子だという、つまりおまえさんまでの代々の、つまり系図、と云ってわからなければ番付、とはちょっと違うて、が、しかし、……え、そんな物はない、なんにも、まるっきりか」
「ええそのへんはもうきれいさっぱりなんで、どうかひとつお目こぼしのほどを、店賃のほうはすぐお払い申しますんで、どうかここはひとつ」
あきれたもんだ、呆れてものも云えない」吾助としては、軽侮に耐えないわけだろう、「書画骨董でさえ、箱書とか由緒があるという時勢に、おまえさんそれで人間かえ」
 訪問調査の進行につれて、吾助の落胆は日に増大した。御落胤らしき者はおろか、多少これはと首を捻るような者さえいない。否、大多数の店子が、家柄や血筋、先祖とか系図とかいうことにまったく関心がない。
 ――なんという無知通俗なやつらであるか。
 吾助は、つい憤激せざるを得なくなった。おまえさんそれでも人間かえ、こう云っていたのが、やがてはそんなことではもの足りなくなり、
「おまえたちは書画にも刀剣にも劣った、人間の皮をかぶった薪ざっぽだ」
 などとつい心にあるようなことを口走るようになった。最も晦渋かいじゅうを極めたのは、かの銀太金太の二人の若者のばあいである。前述の如く、両名はこの長屋で出生してこの長屋で育成し、幼年期、青年期と通して、親密に月日を送った。
 片方が両親を亡くせば、片方もまた二親を亡くすというくらい、いわゆる水魚の交わりであって、現在では長屋の一戸に共同で住み、共同で駕舁かごかき業を営んでおる。で、両名としては、繩屋吾助が此処ここへ移住して来るまえからの住人であり、繩屋一家が食うや食わずの生活から、今日に到るまでの経緯を観察しているので、
 ――あの成り上りの繩っくず
 斯様にてんから軽視していた。自然吾助が調査訪問に来て、源左衛門常世以来の系図を展開し、祖先血統の質問に及んだときは、終始両人のへそが茶を沸かしたということである。
「ええありません、そんな奇天烈きてれつなまやかしものは、あっしゃあでえ嫌えでね、憚りながらこれでも辻駕を担いでまっとうに食ってるんだから、そんなももんがあみてえな物にゃあ用はありやせんッさ」
「そんな愚かな、その、これはももんがあとかまやかしものとか、そんなその、……では聞くのだが、おまえの親父はなに者だ」
「親父ってちゃんのことかい、ああ、ちゃんは銀造ってってね、この金太のちゃんは金兵衛というんで、どっちもいい人間だったよ、金太のちゃんはでこ金、おれのちゃんはやぶ銀ッて云われてたっけ、それッてえのがおれのちゃん斜視やぶにらみだったし金兵衛さんは、なあ金太」
「うん、……おいらのちゃんは、かなりおでこだった、うん、かなりなもんだった」
「いや、儂は親父の人相を聞いているのではないて、親父があるとすれば、親父の親父があるわけだろう、つまりおまえたちにとっては祖父という理屈のものだ」
「ああそんな化物もいたようだ」
「化物というやつがあるか、仮にも血を分けた祖父と孫、祖父は大親というくらいで、いかに無学文盲とは云いながら、……では聞くのだけれども、その祖父は名をなんといって、生れはどこだ」
「おらあ手品使いじゃあねえから、じじいの人別にんべつまでは知らねえ」
「なにが手品だ、どういう理屈で手品を使うんだ、ばかばかしい、云うことが一々……では聞くのだけれども、おまえたちの家は元来からの町人か、それともずっと先は武家とか公卿とか、或いはこの諸大名とかいう……」
「うるせえなこの禿は、おらそんないかがわしいけだものたあ、ひっかかりはねえ、つまらねえいんねんをつけると承知しねえぞ」
「なにを云うんだ、禿とはなんだ」吾助としてはむかついたわけである、「いかがわしいのはおまえのほうだ、儂も佐野源左衛門の末孫となってみれば、そこは家名のこともあるから忍耐するのだけれども、なんだおまえは、先祖も知らず家柄も血筋もわからない、それでも人間かえ、こ、な、なんだ、暴力を振う気か、こ、こ、そんな物を持ちやがって、この、……ひっ」
 吾助は表へとび出し、なにか一言ぴんとした言を云ってやろうとしたらしい、が、銀太が息杖いきづえを持って出て来るようすであってみれば、ぴんとした言は断念したわけだろう、とりあえず泥溝板どぶいたを踏み鳴らして逃げていった。
「こいつあなんとかしなくちゃあいけねえ、なんとかあのき物のおちるくふうをしなくっちゃあ、長屋一統の迷惑だぜ」
 銀太は息杖を置きながら右の如く感慨をもらし、ここに長屋同志の対策会議を開催するという、決意をするに到ったのである。

第五席 長屋一同雨宿会議のこと

並びに金太銀太名案のこと

 或る雨の日の午後のことであったが、長屋同志の重立った者が十人、売卜ばいぼく者の尾崎不識斎なる者の宅に集合した。そこには幾許かの酒肴しゅこうも出たものだろう、同志たる立場上かれらは景気をつけて、大家の非を鳴らした。
「あの禿の野郎、おれに向ってけえず買いがどうだとかこうだとか、とんでもねえことをぬかしゃあがった」
 同志の一人なる左官職は、こううめいた。
「私はね、私はそれは店賃は溜めました」
 一人は、早くもほろ酔いになって云った。
「恥を話さなければ理がとおらない、だから云いますけれどもね、店賃は溜めています、けれどもそれだからといって、書画にも劣るの、人間ではないとまで云われては、……皆さんの前ですが、私は、こんな、く……」
「それはもっとも、源兵衛さんの泣く気持は尤も、わしもそれを云われた、わしは佃煮つくだに行商、けれども人でなしと佃煮とは無関係」
「とにかくてんでんが、愚痴を並べていてもしょうがねえ」銀太が先住民の貫禄かんろくをみせてこう云った、「いったいどうして禿にあんな憑き物がしたか、病気の根はなにか、どうしたらあの気違え沙汰を治すことができるか、こいつをまず相談しようじゃあねえか」
「お、お、お、お、ヘヒーヘヒー」
 奇声をあげたのは、どもりの勘次である、彼はのこぎりの目立てを業とする、そして独身者の一人なのだが、本格的な吃りであって、いつか「明日はたぶん雨だろう」ということを、すっかり云うために二時間かかり、またそのために精力を使い果してひきつけたことがある。
「まあ勘次はそこで、坐っていて呉れればいいや、おめえが饒舌って源兵衛さんに泣かれていちゃあ寄合が流れちまう、……不識先生、なにかこれに就いては立たねえかい」
「さればさ、さればこの件だが」不識先生は、顎髯あごひげをしごいて云った、「儂がみたところ、家主吾助に憑いておるのは天一坊であるな」
「ええっ、天一坊ですかい」
「かの仁が家柄血統を調べるときの言動、仔細に考うるに天一坊じゃ、天は上にあり地は下にある、人間はその中間にあって、火風水木金土がこれを、……あれじゃ、そのなにしておる、じゃによって天一坊とてその自然の律動循環の理は動かせぬ、じゃが、あれは実は将軍家正統の御落胤であったという流説で」
「そんな子曰しのたまわくを云ったってわからねえ、もっとわかるように絵解きをしてやって呉んねえ」
「さればさ、そこで家主吾助としてはじゃ、仮にもこの長屋にじゃな、天一坊めいた人間がいるかどうか、いるとすれば天地人、これはもうなんじゃ、吾助として繩屋どころの騒動ではない、かの山内伊賀之亮、赤川大膳、常楽院……などはいけない、かれらは獄門になった、じゃが獄門にならぬほうの山内や大膳になれるか知れぬ、そこじゃて、……常楽院でもいい、家主吾助としては莫大ばくだいな出世であるし、かのごうつく並びに臼においても」
「そいつだ、まちげえなし」銀太がまるっこい膝頭を叩いた、「禿のよまいごととぴったり合う、そいつですよ先生」
 列席の同志はみな頷き、声々に不識斎先生の卦を肯定した。
 そこで銀太は早速のところ、対策の討議に移ることを提案し、どうしたら天一坊の憑き物をおとすことができるかに就いて、腹蔵なき意見を挑発したのである。各位は首を捻り、腕組みをし、貧乏ゆすりをし、にわかにせきをし鼻をかみしめて、それぞれ腹蔵なく妙案を開陳したが、やがて口の重い金太が、
「うん、……そのことで考げえたもんだったが」そう重々しく云って銀太を見た、「あのう、それ、あれよ、……神田の柳原の土堤どてに、うす馬鹿の乞食がいたもんだろう」
青瓢箪あおびょうたんみてえなあの若造か」
「うん、あいつだ、……あいつでやれねえかと、いま考げえたんだったんだが」
「だっておめえ、あのうす馬鹿をどうするんだ」
「うん、それなんだが、あれをだな、なんとかくふうして、天一坊みてえに仕立ててだ、そうして大家に押っ付けたらどうか」
「あのうす馬鹿の乞食をか」
「あのうす馬鹿の乞食をよ」金太は右足の拇指を静かに動かした、「あいつによ、うん、お墨付とか、短刀とか、まあそういった、……こいつはありきたりの物で、なんとかうまくまじなってよ、こんな物を持ったこんな人間がいたんだが、こう云って大家に押っ付ければ」
「うまい、その件は絶妙じゃ、それじゃ」
 不識斎先生が、思わず前へ乗出したので、着物の膝が――地がもろくなっていたのだろうが――びりびりと大きく裂けて口をあいた。
「それを実行すべしじゃ、家主吾助はひっかかる、いささかも疑惑なしじゃ、短刀はそこらのがらくた道具で買えばよろし、お墨付は儂が書く、古い鳥子紙とりのこがみかなにかへ、三文判でもせば歴としたものになるて、それじゃ、それで家主吾助も満悦し、我ら一統もこの難を免れる、それそれ、それを決議すべしじゃ」
 ここに対策会議は、一決したわけであった。

第六席 尊きお墨付と短刀のこと

並びに御落胤危うくお漏らしのこと

 この雨の日より僅か数日して、そこには蔭ながら不埒ふらちな工作をしたものだろうが、或る風の強い夕刻じぶん、銀太と金太が一人の茫漠として泰然たる青年を、駕に乗せて六軒長屋へ伴って来た。
 かねて妥協してあることだからして近隣の住人たちはがやがやと集合し、がやがやと山になってのぞきに来た。
 これがかの、神田柳原堤の、うす馬鹿なる乞食だというものであろう。年は十九かそこそこ二十歳、銭湯へも入れ、髪結床へもいったらしい、当然、住人の共同出資と思われるが、へばったような着物にはかまをはいて、扇子を持っておった。
 顔だちは、これは比較的なはなしであるけれども、美醜に大別するとすれば、その中間ぐらいには査定できるものだろう。鼻が太く長いところ、眼尻が下って、ゆるみを帯びた唇でいつもにたにたそれとなく笑っているところなどは、もし識見のある人が見るとすれば、無欲恬淡てんたんにして非凡な相がないとは断言しないと思う。
 騒ぎを聞きつけて、家主吾助がやって来たことは云うまでもない。銀太はそこは多少の思慮があるので、
「大家さんは来ねえで下さい、これはあっしと金太で片づけますから、なんか知らねえ身分のある人らしいし、妙な書付だの短刀なんか持ってるんで、おまけに大名の若殿みてえに馬鹿なんで、とにかく大家さんに迷惑が掛るといけねえから」
「いやそんなことはない、店子のことで迷惑が掛るのは家主の義理だて、なにか、その、書付とか短刀など持っているって、それは本当のことか」
「すばらしく大事な物らしいんで、けどこいつはあっしと金太の責任だから」
「そうでない、いやそうでない」吾助はいきごみ、まず、そこに集まっている住人を追い払った、「さあさあみんな帰った帰った、おまえたちがいたってしょうがない、みんな帰って晩飯の支度でもするがいい、この戸は閉めるから」
 吾助はがたぴしと雨戸を閉め、上へあがってむんずと坐った。実に興味津々しんしんたる心境らしい、相好を崩して銀太に向い、
「その、なんだ、その書付と短刀というのをひとつ、まず儂が鑑定しようじゃないか」
「あっしは構わねえけれども、なんしろえてえの知れねえ一件だからな、なあ金太」
「うん、……あとで文句をくうと」
「いや決して」吾助はお稲荷様ぐらいに誓ってもいいらしかった、「決してそんなことはないて、理屈からいってもこういう事案は家主が引受けるべき理屈だ、決して文句などは云わないから、とにかくその二た品を見せて呉れ」
「じゃあ、……見せるか、金太」
「うん、まあ、しょうがねえだろうが」
 銀太がしぶしぶ出したのは、古ぼけた油紙の包である。吾助が昂奮こうふんに震える手でそれをあけると、中には古ぼけて汚れくたったような唐草の風呂敷包があった、それを解くとやっぱり古ぼけた唐桟縞の風呂敷包が現われ、それを開くと、又々古ぼけた浅黄木綿の風呂敷包が出現した。
「これはなかなか」吾助はそっとつぶやいた、「どうしてなかなか、雑なことではこう本式にはいかぬものだ、この包み方だけでも……」
 そして遂に、その中から金襴きんらんの袋に入った短刀と、渋紙めいたずぬけて大きい封に入れた、古めかしい書付が出て来た。
「このこの、この、いや、こ、こ」
 吾助は、がたがたと震えだした。
 その金襴の袋というのが、実はぼろ市で買った古物の袈裟けさの切っ端で、源兵衛のかみさんが苦心して――と云うのが糸を強く緊めるとそこから裂けるほど脆けていたので――袋に縫ったものだとは気がつかなかったものである。
 吾助は恭敬の身ぶりで押頂いたのち、書付を取出して披見した。それには箆棒べらぼうに凝った筆法で、いかめしく左のような文章が記述してあったのである。

    記証文の事
其許そこもとに契り候こと実証なり。可愛き可愛き其許を思えば、一日既に千秋。千里なお一里。粉骨砕身也。男子出生のみぎりにあるなれば、余が末孫に紛れなく候。後日のため垢付あかつきの家宝の短刀ひとふり、証拠のために遣わし候。右実証に候也。
  佳年祥月吉日
よしちか印
かめ殿

「これは本筋だ、本筋どころではないて」
 吾助は克己心を呼び起こし、極力このところ沈着になろうと努めつつ、こんどは袋の中から、これまた謹厳に一礼して、短刀を出して見た。これも古ほうけた品だった。
 第一に寸法が規格外れである。製作者が脇差にしようか短刀にしようかと迷ったあげく、どっちにする決心もつかず、さりとて中途で止めるわけにもいかないため、まあともかくもということで、そらを使って仕上げたといったものに相違ない。
 つかは、これは鮫皮さめがわのようでもあるしまた巻いたもののようでもあるし、格別なんでもないようでもある。目貫めぬきや柄頭は、もちろん存在する。しかも金などという俗な金具は使用してはない。薄い赤銅しゃくどうの延板を使って、どちらにも無雑作に井桁いげたたちばなの紋が、たたき出しで浮かしになっている。
 さやはという、……鞘はげちょろけで、塗料のところは黒であったか鼠色であったか確言は出来ぬ。まあ見たところ、なんとも云えない風雅な、ちょっと奥床しい色合いというものだろう。これにも井桁に橘の紋が、それだけは判然と、胡粉ごふんようのもので捺染なっせんしてあった。
「どこかで見たような紋だが」吾助は考え深げに小首を捻った、「なにかどこかで、井桁に、だんぶく、ああそうだ法華の寺にある紋だが」
 こんな独り言を云いながら、敬虔けいけんに短刀を抜いてみた。恐らくあげ物というやつだろう、つばから切尖きっさきまでのバランスがとれていない。また研ぎがよほど乱暴――それは大道の古道具屋で買ったときまったくの赤鰯あかいわしだったので、肉の減るほど研がなければならなかったわけだが――だったとみえ、にえも匂いもみだれも殆んど消滅し、まるで「相済みません」とびを入れているような刀相をしていた。
「ますます本格正統だ、これは古刀も古刀、よほど昔の、うむ、鎌倉期のものか、或いはもっと古いか知れないて」吾助は繩屋の眼力でこう睨んだものだろう、「いや恐れ入った、何百年となく研ぎに研いで研ぎあげ、幾戦場を往来した古つわものに違いない、かかる伝統ゆかしき品は拝見するが初めて、いや恐れ入った、正しく本筋でございましょうて」
 吾助は禿から汗を吹き出させ、お短刀を鞘におさめると、坐り直して若者を見、それから銀太金太の説明を求めた。
「そこで聞くのだけれども、いったいこのお方を、どうしておまえたちが」
「それなんですよ」銀太が待兼ねていたように、「今日あっしと金太で客を浜町まで送っていったんで、こう降っちゃあやりきれねえ、かせぎよりからだのこったと、帰るつもりで河岸かしっぷちをやって来ますとね、両国橋のまん中にこの人が立ってるんで」
「橋のまん中、……両国橋の」
「側に橋番の爺がいましたよ、聞いてみると橋銭はしせんが無いのに、平気でずんずん、悠々と渡ってゆくってんで」
「悠々と、へええ、生れが違うんだな」
「もう平気の平左でね、まるっきり大名の若殿みてえなんだそうでね、あっしと金太も見るとこの通りの御人品、こいつあお気の毒だ、なにか深いわけのあるお方だろうと思ったもんだから、ともかくもてんで橋銭を立替えましてね、聞くてえとまるっきり世間知らず、てんで下情てえものに通じていらっしゃらねえんで、……なんだ金太、おめえ笑ってるばあいじゃあねえだろう」
「む、むせ、せちゃったんだよ、うん、咽せてね、なにしろ、お気の毒なもんだから」
「そういうわけでまあ金太とも相談したところ、よしんばどんな深いわけがあるにしろ、こんな御身分の高いらしい方を、……おめえまた咽せるのか金太、……でまあ御身分の高い方をうろうろおさせ申しとくのは恐れ多い、なにはともあれ家へお供をしてということでね、それで実はおれ申したというわけなんですが」
「それはそれは、稼業に似合わず、よくそんなところへ気がついた、それでと」吾助はここで初めてその若者のほうへ向き直った、「そこでひとつ、儂はこの長屋の家主で吾助という者ですが、……お初におめにかかります」
「ああそうだろう、一文呉れるか」
「ちょちょ、えへん」
 銀太はすばやく若者の尻をつねった。
「どうもね大家さん、このお方はときどき妙な冗談をおっしゃるんで」
「いやおまえは黙っていなさい、総じて高貴のお生れの方は、お言葉がみやびているからして、おまえたちにはその意がげせぬものだ、黙っていなさい、……ええ恐れながら私めは、唯今こそ零落して繩屋渡世などいたしておりまするが、祖先はかの佐野の庄の住人、源左衛門常世にございましてな」
「ああそうだろう、源左は馬鹿で間が抜けてるからな、いつも芥溜ごみためばかり引掻ひっかき廻して、痛ッ」
「これはどうも、仰せのほどまことに、へっへ……、で、なんでござりますかな、その御出生の地などはいずれの方面でござりまするかな」
「ああそうだろう、よき、よきよき、よきに取り扱え」
「へへっ恐れ入り奉りまする、次に御生母様はいまだ御在世なりや、これまでいずれに御在住ありしや、そのへんのところお漏らし下さりょうなれば」
「漏らさなくちゃいけないのかい」
「ぜひひとつお漏らしのほどを、へい」
「あたいはね、漏らしたくないけどね」
「ちょちょ、ちょっと待った」銀太は吃驚して叫んだ、「てめえ、いいえ、おまえさん前をまくったりしてどうするんだ」
「この人がね、ここで漏らせって云うから」
「へっへ……、いやこれはどうも」吾助は愛想よく笑ったろう、「見ろ銀太、な、お育ちは争えない、御冗談にもしろ畳の上へ悠々とお漏らしなさろうという、この一事だけでも貴いお血筋だということは、儂などにはもう、そこはこの眼識だて」

第七席 金太銀太大笑いのこと

並びに臼「ごやくいん」の鼻に惚れること

「へええ面白えもんですな、なあ金太、いまのをおめえ聞いたか」
「うん、聞いたよ」金太は重い口である、「うん、それで、それで、そして思ったんだが、あの夜泣きうどんの爺さんなんぞは、寝たっきりで漏らしてるが、あれはよっぽどの生れかなあ」
「馬鹿野郎、あれは中気だ」吾助としては、憐愍れんびんに耐えないわけであった、「中気の垂れ流しと、上つ方の悠々たるお漏らしと一緒にするやつがあるか、それだから無学文盲とわらわれるんだ、……そこで云うのだけれども、かかる高貴のお方をこんなむさ苦しい処へお置き申すわけにはいかない、儂が引取ってお預かり申すから」
「そいつはいけねえ、それゃあ困るよ」
「なぜいけない、なにが不服だ」
「だってこんな素性も知れねえ者を、いいえそれゃあ御人品もこの通りだし、いやいや、いやしやかやいや、ええ畜生、その、からねえお生れのようにゃあ見えるが、もしまやかし者だとすれば、大家さんに迷惑が掛るし」
「いいえさ、店子の迷惑は、大家の心配するのが当然だよ、そこが大家と店子の」
「まあお聞きなせえ、まやかし者で大家さんが迷惑を引取って呉れるなあいいけれども、これがもしだね」銀太は一つ咳をする、「もしこれが本物だったとして、この短刀や証文が本物で、このお方がどっかの大名の若殿で、もしまあ出世をなさるとすればですよ、そんときあっしたちゃあまる損てことに、……ねえ、へへへへ大家さんの口真似じゃあねえが、そういう理屈じゃあありませんか」
「それを云うな、すぐそういう品のないことを云うから、駕舁かごかきなどとさげすまれるんだ」
 吾助はそう云いながら財布を出し、その中から幾許いくばくかの小粒銀を取ってそこへ置いた。
「一応のところこれは骨折り賃だ、こういう事は欲得ではないて、このお方が世に出たときは、それはまたお屋敷からそれ相当の、しかしそんな卑しい考えを持つようでは、到底この、出世は出来ないものだ、そういうことにして、ではこのお方は儂の家へお伴れ申すから」
 取引を済ませて、吾助はかの証拠品をうやうやしく包み直し、かの若者を案内して、己れの住居へと去っていった。
 銀太金太の両名が、どの範囲で笑ったか。これに就いては、演者わたしは語ることをやめる。この卑劣なるふざけ方には人道の上から云って組したくはない。かれらは笑いに笑った。金太はそれ程でもなかったが、銀太はやがて脾腹ひばらが痛くなり、それでも笑いが停止しないために、畳を掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしったり、竹行李に抱きついたりした。
「ひーひーひー、助けて呉れ」
「う、それもそうだが」
 金太は口も重いがまた思慮にも重々しいところがあった。
「大丈夫かな、あのうす馬鹿、いずれはぼろを出すだろうが、すぐ泥を吐くようなことはあるめえか」
「そこだけは大丈夫で、心配はねえ」
 ようやく発作がおさまって、銀太は涙を拭きながらこう云った。
「おれがよくよくあいつに云い聞かした、どこかのすごいような家の御落胤だと思い込ましといたからな、そういうところは馬鹿の人徳てえもんで、一度こうと思ったら待ったなしよ、世間でも馬鹿の一つ覚えというくれえだ、大丈夫だよ」
「うん、それはまあ、そうだ」
「それより大家の禿め、おっ、みろみろ、豆板が三枚、三分あるぜ、これゃあ驚きだ」
「うんなにしろ本筋の本格だからな」
「悠々たるお漏らしか、ひーひーひー、ああまただ、ひーひーひー、助けて呉れ、ひーひー、ものう云わねえで呉れ、ひーひー」
 そうしてやがて、両名の者は、この吉報を伝えるべく、長屋同志の家を歴訪にでかけたのであった。
 ここにおいて、繩屋一家はどうかというと、ごうつくと臼は初めせせら笑い良人であり父であるところの吾助が、まんまと専門的詐欺にかかったのだと断定した。
 この自分の名さえ知らない若者は、高貴の生れであるために温雅沈着なのではなく、むしろ間抜けでありうす馬鹿であるに過ぎないと判定した。
 これに対して当のうす馬鹿であり、神田柳原堤の乞食であったところの、この若者は、眼尻をだらりと下げ、機嫌よくにたにた笑いながら頷いた。
「ああそうだよ、みんなねえ、そう云うよ、あたいのことをね、うす馬鹿だって、みんなそう云うけどねえ、あたいはそんなねえ、うす馬鹿じゃありゃしない、これでもねえ、あたいは、ごや、……ごやく、ごやくいんなんだってよ、もの凄いような、本当だよ、ごやく、ごや、ごやくいんだかやねえ、よきに取り扱え」
「それみろ、聞いたかいまのお言葉を」吾助は荘重な眼つきをした、「御落胤をごやくいんと仰しゃる、この下情に通じていらっしゃらぬところが、おまえたちにはわからねえのは情けない、実に涙がこぼれる、御自分からうす馬鹿ではないと仰しゃる御胸中、あッあ、おいたわしいと、おまえたちが思わないということは、女はさてさて浅墓なものなるかな」
「浅はねえ、ああ、浅はあたい知ってるよ」若者はにたにた笑い、貧乏ゆすりをする、「あいつはうす馬鹿だぜ、本当だよ、あいつねえ、あたいの貰いをねえ、取っちゃうんだ、けれどもあたいは、いまに、いまに、……あたいはいまに、おだ、おだいもくになるんだってよ、そ云ったよ、本当だよ、本当にあの人がそ云ったぜ」
「おだいもくと仰しゃるのはお大名ということだ、いいか」吾助は震えだした、「御自分の口から、この儂を御信頼あればこそ、秘中の秘をお漏らし、いや、いやお漏らしではない、お漏らしは後架でして頂く」
「ばかばかしい気でも違ったのかい」
 ごうつくは厚い唇を反らせ、鼻の孔を上へ向けた。
「御信仰だかなんだか知らないが、どうせ拾って来るなら繩の切っ端でも拾って来るがいい、繩はおまんまを食わないからね、ふん、家へ置くなら食い扶持ぶちは、おまえさんの煙草銭から差引だよ」
「でもこの人の鼻、立派だわねえ」
 臼であり色けちであるところのおわきは、真正面からこのお方の顔を眺め、特にその偉大なるところの逞しき鼻に、きつけられたものだろう。舌舐したなめずりをしながら妙な眼をした。
「鼻の大きい男は、なにかも大きいって云うじゃないの、それに、馬鹿のなんとかって、……いいわ阿母おっかさん、この人の食い扶持はあたしが払うことにするわ」
 ふしぎなことであるが、おわきは家庭においては女性的言語をろうするものだろう。これを聞いて母親ごうつくはいような顔をしたが、父親なる禿は俄かに膝を乗出したのである。
「そそ、それは儂の実はかねて思うところだ、それは頼む、そこのところは万難を排してひとつ、……まかり間違えばお部屋さま、とすれば儂とおたきは御幼君の、……なんに当るか、それは若君が御出産の上だけれども」
「親と娘でそろって気が違えば世話あない、あたしゃ知らないよ、そんなこと」ごうつくはますます鼻の孔を上へ向けた、「断わっとくけどもね、あたしゃまっぴらだからね、いいかい、あたしゃ関係がないんだから」
「いいわよ、いいことよ阿母さん」
 おわきおわきでますます女めかすのであった。
「この人のことで阿母さんに迷惑は掛けなくってよ、……ねえおまえさん、さあ、あたしと一緒にいらっしゃいな、あたしのお部屋へいきましょう、ねえ、一緒にあっちへいきましょうよ」
「うへっ、鼻がでかいからどこかもって、いい気なものさ、そんなになにがなんなら天狗様てんぐさまでも婿に取ればいい」
 ごうつくは、このようにいななくのであった。
 閑話休題それはさておき。吾助は多忙になった。彼は早速のところ奔走して、数年間に発刊されたる「武鑑」を買い集め、「井桁に橘」の紋と「よしちか」なる名とを捜し始めた。
 周知の如く武鑑とは現代の紳士録の先駆的出版物であって、徳川一門から譜代外様の大名諸侯残らずその家の紋どころ、槍飾り馬標うまじるし、領地江戸邸、各家の家族関係から重臣まで記載してある。そうしてその間には増刊的に、氏姓系譜とか官職名簿といったものも開板した。
 吾助はこれらを手当り次第にめくり返し、首を捻っては壁や天床を眺め、ときには店の客とも応接し、またしては丹念にめくり返しするのであった。
「人間の一心何事か成らざるべけんや、草の根を刈り石を除けるの故事ありという」こう独語を漏らすこともあった、「五風十雨、七転び八起き、艱難かんなんなんじを……汝を……」
 そして或る夜、吾助は片手に武鑑の一冊を持ち、坐ったままで三尺程度は跳上って、あ、あ、こ、こ、という風な声を発した。
 彼は遂に発見したのである。井桁に橘の紋を。それは摂津国十二万四千石の領主、松平伊賀守の紋どころ――替紋ではあったが――であり然もその分家の式部なる人のあざなが吉近と云い、然も五年前に本家へ入って伊賀守を相続しているのである。
 吾助はまず勝手へいって水を飲み、それから戦術を立てるがために、改めて坐り直した。

第八席 嘘から出た真のこと

並びに御落胤「臼」に大搾られのこと

 仰天したのを、銀太と金太の両名に限定するわけにはいかない。長屋同志の面々も仰天した、寧ろ長屋全体が仰天したと云っても、演者わたしとしては無責任ではないと思う。都合上つづめて云えば、繩屋吾助は羽折袴で松平伊賀邸に参上し、隠密を旨として其の筋へ伺いを立てた。然るところ驚くべし、伊賀守吉近は式部といって分家に在る頃、側近の侍女の二三を愛した事実があった。
 それだけなら驚くには当らない、その二三のうちの一人に猛烈なる嫉妬心しっとしんと頑強なる飲酒癖をもった者がおり、時にしばしば泥酔して嫉妬のために狂い立ち、主君であり旦那であるところの吉近をば、――この出来損いの唐茄子とうなす野郎などと呼び、当の旦那の顔を引掻きちらし、器物を破壊する底の狼藉ろうぜきなる振舞いに及んだ。吉近侯のみならず、係り家来の立場としては、迷惑だったものだろう、が、迷惑にも拘らず吉近侯は彼女を溺愛できあいし、顔中を引掻き傷にされながらも、敢えて屈せず、
 ――彼女あれなくてなんの己れが桜哉。
 などとやに下った感想を漏らされたとある。やがて彼女は懐妊し、そのため嫉妬と飲酒悪癖は増大に増大、或る夜、吉近侯と未曽有みぞうの大格闘を実行したあげく、
 ――あ、口惜しいこの助平野郎、おらあもう生きちゃあいねえ、大川へ身を投げて死んで呉れる、おっ死んで九代たたって呉れるぞ、いまにほえづらをかくなこの……野郎。
 この……なる言語は伝わっておらぬが、彼女はそのまま邸を脱走し、踪跡そうせきをくらましたのである。吉近侯にあっては切実なる未練に捉われ、手を尽して捜索されたが行衛のところは皆目不明、本家伊賀守を相続された今日においてなお、
 ――彼女は今頃はどこにどうしていられるやら、生れた子は男か女か、ああ世は果敢はかなきありさまよな。
 右の如く常々長々長大息を漏らされありということであった。すなわち、係り家来としては書付も短刀も精密検査に及ばず、ただ「御落胤出現」なる一事を以て俄然がぜんいろめき立ったものだろう。但しかかる事件は家督問題に重なるところの関連がある、そこは取扱い上つねに深甚なる謀略を要するので、係り家来は吾助に向い、
「御身分に就いては、厳に秘密を守るべし、追って手順を考案し、正当なる方式を以て御当家へお迎え申すべければ、最も鄭重ていちょう尊崇の念を忘れず、暫時があいだ其の方に於てお預かり申し奉るべし、決して御不自由ないし御不快を相掛けざるよう、屹度きっと申付け候もの也」
 こう厳命を下し、なお且つ金十枚を下げ渡されたという実情である。吾助の驚喜に就いては、これも演者として講演は不必要だと思う。
 ごうつくはなお疑いを解かなかったが、金十枚に対しては信頼してもいいらしかった。臼は、彼女個人はどうであったかという、……これは誇張すると思われては困るわけだが、その当日から髪を武家風に結い、武家風の着物に武家風の帯を締め、武家風化粧をし言語動作もそれらしく振舞うに到った。実例を挙げるならば、店賃を取りに行くばあい、彼女の帯には矢立のほかに懐剣が差してあるのである。そうして店子に向っては、上方から見下す必要上、背丈が低いために、やむなく半身を後方へ反らせ、眼の玉のみ下方へ向けて、うしたえたような声で云うのである。
「これこれ紙屑屋宇平、店賃をありていに出しましょうぞ、早うこれへ、早う早う」
 または路地内で住人にゆき会うばあい、彼女は大抵の人間が吃驚するほど反り返る、信じられない程度まで反って、そうして寛容に微笑しながら、頭部でこくりとうなずいて云う。
「おお、にちにち大儀じゃのう」
 長屋住人たちとしては、狂気の沙汰と誤解した。色けちの「色」なるものが、頭を冒したと思ったもので、幾らかは痛快がったとしても、これは暗愚な俗人共のことであるから、やむを得ないと思う。
 が、或る日、吾助から長屋代表の寄合を求められ、過般の厳秘なるところの実態を打明けられたとき初めてかれらは仰天したわけである。
 吾助が長屋代表に寄合を求め、かかる重大秘密を自ら曝露ばくろした所以ゆえんのものはなんであるかという……、彼は左の如き要求を発したのであった。
「そこで云うのだけれども、そういう尊い御身分の方であられる以上、なにはともあれ御殿を建ててお住い頂かねば相成らぬ、ましてすでに娘おわきにお手が付いたる今日、いやこれは私事であるが、……で、それに就いて、六軒長屋のうち三十二軒のところ取払いそこを御用地として御殿新築の計画を進めておるわけあいだからして、……これは云うまでもなく尊貴なる方よりの御内命と心得て貰わねばならないが、だからして無理な通告はしないもので、期限を六十日と切るわけである、六十日」
 吾助は、さすがに威厳のある目つきで、ぐるっと長屋代表の顔を眺めまわした。
「今日より六十日の期限に、該当地上の長屋を取払う件、固く契約されます可く、依而よって、そういうわけだから、ひとつ、これだけは儂としてはっきり云って置く」
 長屋住人の全部が、いかに仰天したか、これですべてが分明であると思う。が、銀太と金太の両名の者は、仰天だけでは済まなかった。
「だってあいつはうす馬鹿で、柳原堤の乞食なんだから、現に乞食をしていたやつをおれたちが引張って来たんだから、なあ金太」
「うん、……たしかに、柳原堤じゃあ、乞食の、うす馬鹿だったものだ」
「それが十二万四千石松平伊賀様の御落胤だって、そんな箆棒べらぼうなすっ頓狂な、ううう、そのへちゃむくれた話があるもんか、ぺてんにひっ掛ったにちげえねえ、それだけははばかりながらこの銀太が証人だ、いまにざまあ見やがれだ、なあ金太」
「うん、……いまにきっと、そんなこったろう、そうでねえにしたって、まあ、そんなこったろう」
 然し次の月になると、吾助はまた羽折袴で伊賀守邸へ出頭し、御手当として金三十枚を下げ渡されて来た。御親子対面までは、月々金三十枚ずつ扶持されるというのである。……吾助は此の度も長屋代表を呼び集め、その旨を告げて、六十日期限の取払いを確認させた。事ここに及んでは、最早、銀太としても蔭口をきく勇気はなかった。また長屋の住人共は今は両名を多少は恨んだ、中には浮薄な人間もあったろう、二人に会うと妙な笑い方をして、
「銀太さん金太さん、いい者をみつけて来て呉れたね、お蔭でおれたちも結構なことになった、有難うよ」
 などという嬉しがらせめいたことを云うのである。両名の者は大くさりと云いたい。
「世の中は逆さまだってえことを云うが、こんなばかな事があるだろうか」銀太はべそをかいて云った、「本物の天一坊は偽物で、偽物の天一坊が本物だってよ、……なんだかいやアなこころもちになって来た、ことによるとおいらなんぞも洗ってみれゃあ五十万石かなんぞの諸大名の御落胤かもしれねえ、そうじゃねえか金太」
「うん、……その心配はある、それは気をつけなくちゃいけねえ、かもしれねえ」
「こいつあとんだ事になった、おらあ寝そびれて風邪をひっこみそうだ」
 だがそれにしても、この期間中かのうす馬鹿なる御落胤は、どうしていたか。彼もまた、蓋をあけたところは、べそをかいていた。彼はあれ以来はずっと繩屋の一室に檻禁かんきんされ、昼夜いずれの時と限らず、臼であり色けちであるところの、娘おわきの訪問を受付けなければならない。
 その点うす馬鹿は無限的能力を持つと俗人は云うのであるが、それは単に世におもねるの説であって、組織学上から検討してみても、五官五能の満足ならざる人躰が、その一件にのみ絶大なる精力を持つという学理は成立しないのである。
 演者としては、ごまかしはきかない。現に、御落胤はせているのではないか、かつて出奔し去った五人の婿の如く、……すでにかなり痩せて、眼光はとろんとなり、唇は垂れあおざめて、常に虚脱的なべそをかいて、漠然と天床や壁を見たり、どこかをぼりぼり引掻いたりしておる。
「あたいは、お貰いをしてえるほうがよかった、柳原の土堤は、あたいを、こんなに、押っぺさなかった、土堤にいたときは、こんなに草臥くたびれなかった、ごやくいんなんて、あたいは、まっぴやだ」
 こんな独り言を云うときもある。もしかかるときおわきが側にいると、彼女は色をして喚きたてる。言葉は勿論もちろんごく上品であって、ときに語彙ごいの狂いはあるが、然し武家の風格を崩さないことは云うまでもない。
「さような御意ぎょいは、聞く耳もありましょうぞえ、若殿様には御健勝にましませば、柳原の土堤などという御上意は誰しも存ぜぬこと、壁に耳ある世の習いとて、おひひひひひ、御安楽に思し召されませられいなあ」
 おひひひというのは笑い声であるがそのときは、彼女は必ずなんらかの行動に出る。その行動に就いては講演はできないけれども、御落胤はとかく異な声をあげ、時にじたばたすることなどある点だけは、触れて置いてもよいと思う。
「あのねえ、あの、あのね、あたいは、ううふふふふ、くちュぐるのやアだよ、あっ、うっ、あのあの、……たアんま」どたばたと音がするわけだろう、「あたいたアんま、あっ、ねえったや、おばちゃんッ、もうごめ、もうごめんだよ」
「これはしたり若殿様、そのようにおうろたえ遊ばすと、姫ごぜのあられもないと世上の物やらいになりやすぞえこれまあちょっと、お静かに、あれ、え、この脳天気め、じたばたするとうぬ、こうするぞ、抜け作野郎」
「ごめんだよ、ごめんだよう、きゅッ」
 さて演者は、講演を急ぐことにしようと思う。

第九席 嘘はやはり嘘のこと

並びに事件落着大喜利のこと

 事件発祥より第三月めに入ったとき、吾助の督促は、漸次に現実性を露呈して来た。御殿新築のための用材は、今や長屋脇の空地に山を作り、指定地域の長屋住人に対しては、連日の如く期限切迫の警告を鳴らし、仮にも延期の許さる可からざる旨を反復厳達した。
「もういけねえ、俺あ引越しの支度にかかるよ、此処も長え馴染だったがなあ」
「お互えになあ」
 こんな会話を聞くたびに、銀太金太は身の縮む思いだったろう。あきらめのいい家庭の二三は既にそれぞれ他へ住居を契約して、長屋からして泣く泣く移転したくらいである。が、ところがである。……それは或る晴天の、初夏の風爽やかなるところの、日の、午後二時頃のことであったが、三人の供を従えた一人の立派やかなる武士が、繩屋吾助の家へやって来てからに、そこでかなりな悶着もんちゃくが始まったのである。
「自分は松平伊賀守家の者であるが、繩屋吾助と申すは其の方であるか」
 その武士は、まずこう発言した。年の頃は三十四五歳であるか、眉の太い眼の鋭い、きっぱりとした顔だちで、姿勢のところもりんとしていたと云いたい。吾助は店先にいつくばり、えへら笑い、み手、頻繁なる低頭など、各種の挙動をしたことはしたものだろう。そこへ娘おわきが出て来て、「これはこれはようこそ」とそこへ坐って手を突いた、「御家臣様には態々わざわざのお運び、ようこそこれへ、いらせられましょうぞえ」
 武士は、瞬間的にではあるけれども、恟っとしたのらしい。あかい縮れ毛の髪の、武家風な服装をした、肉付きも骨も四肢もずんぐりと太くたくましい、白粉おしろいと紅の化けたような、総体異形なこの女性を、彼は初めは妖怪かなにかと誤解したのか知れない。
 ありていに云えば武士はたじたじと半歩ほど後ろへ身を引いた。が、そこはさすが修練のある者だったろう、ぐっと踏止まってさも怪訝けげんそうに吾助を見た。
「へへっ、これなるは娘おわき」こう吾助は申上げた、「即ち佐野源左衛門家の正統なる一女にて若殿、いや御落胤様のお側近くお仕え奉り、そこは親の口よりは言上しがたい処まで、と申しまするところは」
「おひひひひひ」おわき嬌羞きょうしゅうの笑いと共に父の言葉を確証した、「恥ずかしながらとうより、わらわはお手付の身にござりましょうわいなあ」
 かかるあいだに既に多くの長屋住人たちが、表のあちらこちらに立って、恐怖と好奇の眼を輝かしながら、この有様をば観望しておった。
「其の方が繩屋吾助であるな」武士はこう念を押した、「間違いなく吾助だと申すのだな」
「そこはもう決して間違いはござりません」
「左様なれば申し聞けるが、先頃より其の方、伊賀守様上屋敷にまかり出で、御落胤云々の虚構を申し立てたるばかりか、大枚なる金子を騙取へんしゅせりというがしかと相違ないか」
「これは異なることを仰せられまする、御落胤様の儀は御邸お役人も既にお認めに相成り、金子なるものは、これはお世話を申すためのお手当てと致しまして前後三回にわたり七十両、あなた様より御下賜に相成ったものにござります」
「黙れ黙れ、御落胤などといううろんな者がある道理はないぞ」
「それはおめがね違い」おわきが脇から云った、「現にお書付とお短刀の証拠もあり、現に御落胤様には唯今おひひひひ、よくお疲れ遊ばして、おひひひひひお寝間でおより遊ばされましょうぞえなあ」
「その者をこれへ出せ、問答には及ばぬ、その曲者くせものをこれへ出せ」
 おわきは、つんとしたものだろう。この野郎腰を抜かすな、などと思った容子で、立って奥へはいって、そうして御落胤を伴れて出て来た。御落胤はすっかり眼をくぼませ、ふらふらと、骨の抜けたような歩き方で出て来て、くにゃくにゃとそこへ坐ったのである。
「これがその曲者だな」武士はこう云って、御落胤の全貌を眺め、ぐっと凄いような声で訊問じんもんを始めた、「これ、其の方はなに者で、名はなんと申すか」
「――へ、へ、へ……」
「若殿様には早う、早う御上意遊ばされましょうぞえなあ」
「黙れ女、控えおろうぞ」武士は大喝だいかつした、「これ返答をしろ、其の方はなに者であるか」
「あ、あた、あたい、ごやくいん……」
「はっきりと申せ、なに者で名はなんというか、紛らわしきことを申すと、おのれ、容赦はせぬぞ」
「あたあたあた、あたあた」御落胤はまっ蒼になり、震え上って手を合わせた、「あ、あたいは、なんにも知やないんだよ、ごめんだよ、たたた、たんまだよ、や、や、やなやな」
「口も満足にきけぬのか、この馬鹿者」
「そだそだ、そ、みんなねエ、そう云うんだよ、馬鹿め、うす馬鹿めってよ、ほんとだよ、柳原じゃみんな、知ってゆよ、あたいお貰いをしてたかやね、嘘つかないよ」
「なんと、……なんと」武士は眼をみはった、「其の方は柳原で乞食をしていたと申すのか」
「乞食じゃないよ、おも、おも、お貰いだよ」
「その辺まことに御艱難かんなん、まことにお痛わしき」
「黙れ吾助、控えおらぬか、これ馬鹿者、それでは其の方、柳原において乞食をしておった、しかと左様であるか」
「乞食やないって云うのにさ」うす馬鹿としては、侮辱に耐えられないのらしい、「乞食はね、源公だの房州だの太市のことだ、ほんとだよ、あたいはお貰いなんだかや、ほんとだよ、みんな知ってゆよ、阿母さんは土堤のおかんてってさ、そいつだって乞食じゃなかったんだかやね、やっぱいお貰いでしかやね、ほんとでしかや、みんな知ってゆんだかや、あたいは土堤のうす馬鹿でしかやね」
生得しょうとくの愚か者とみえる」武士が苦い顔をしたことは云うまでもない、「では其の方なぜ此の家へ来ておる、なぜ柳原でお貰いをしておらんのだ」
 うす馬鹿は、べそをかいた。それから涙を、ぽろぽろと豆をこぼすようにこぼした。
「帰やして呉んないの、この人が、あたい柳原のほうがいいんだけど、土堤はねあたいを押っぺさないし、土堤は舐めたりくすぐったりもしないし、そえかや、いろんな事もしないでしかや、ほんとでしよ、だかや、あたあた、あたい柳原へ帰りたいの」
「今すぐ帰りたいか」
「帰いたい」うす馬鹿は片手で涙を拭きながら、躯を揺さぶった、「帰いたい、柳原へ帰いたい、すぐ帰いたいのよ、うえーん、うえーん」
「よし帰れ、許すからすぐに帰ってゆけ」
「えっ、かか、えっ、……ほんと帰っていいの、ほんと帰って、嘘つかない」
「ちょちょちょっとお待ちを願います」
「吾助には構わぬ、早く帰れ」
 武士がそう云ったとき、うす馬鹿は既にそこから姿を掻消していた。既にそのときは店の前は、長屋住人たちが人垣を作っていたのであるが、うす馬鹿は店からとび出して、その人垣を抜けて脱走した筈であるけれども、誰一人としてそれを確認することができなかった――ということは、うす馬鹿としていかに命が惜しかったかということの証拠だと思う。
「あな、貴方様はどうしてこんな、こ、こんななされ方は、た、唯では相済みませんぞ、わた、私にはお書付もあり、お短刀もありますぞ、私はただちに御邸へ」
「おお、邸へまいれ」武士は多少は憐愍れんびんの尻目で見やった、「殿には御分家に在す折、若気のお過ちにて侍女をお愛し遊ばされた、しかしその侍女は先日お産み申した和子様と共に、殿へお目通りの上、唯今はお中屋敷におられる、第一に、お愛し遊ばされたは九年以前であるぞ、あの乞食は二十歳にはなるであろう、三十一歳の殿に、二十歳の御落胤があってよいと思うか……」
「はあ、……そ、……はあ……」
「自分が見るところ、其の方にも悪意はないようじゃ、欲に眼のくらんだ愚か者の所為とみて遣わす、本来ならば奉行所へ達し、屹度申し付く可きところなれど、此の度は穏便にして取らせるから有難く心得ろ」
「はあ……、はあ……」
「但し金子七十両は十日を限り、其の方自身にて御邸へ持参するよう、十日期限七十両、万一にも相違あるときは、始終の事ただちに奉行所へ達するであろう、申し付けたぞ」
「あのもし、ちょいとお待ち下さい」おわきは、狼狽ろうばい的にこう呼び止めた、「貴方はそれでいいでしょうけど、それでお役目は済んだでしょうけど、あたしはいったいどうしてお呉れなさいますか」
「――どうするとは、なんの事だ」
「あたしは唯のからだじゃありません、貴方だから云いますんだけど、あたしのお腹にはもう御落胤様の御落胤が入ってるんです、この片をつけずにいっちまうなんて、それじゃお侍様の責任は持てないじゃありませんか、帰るならあたしのこのお腹のきまりをつけていってお呉れなさいませ」
「よしよしいい事を教えてやる」武士は寛容に冷笑して云った、「その腹の始末がしたかったら雑作ない、いいか、今すぐにな、柳原へゆけ」
 そうして供をば従えて、武士は悠々と去っていったのである。それと同時に人垣を作っていた長屋住人共はどっとときの声をあげ、足を以て地面を踏鳴らし、
「腹の始末は柳原へゆきゃれ」
 などと下劣なる罵詈ばりを喚きたてるのであった。それと同時に、いやそれより先に、店の中ではごうつくが出て来て色けちは色けちで、左右から良人おっとであり父であるところの吾助につかみかかって、揉みくちゃにしながら叫んでいた。
「この禿頭のろくでなしのすっとこどっこいの兵六玉め」とこれはごうつく、「今日までのあの馬鹿の食い扶持を返せ、うぬのような底抜けのど阿呆のおっちょこちょいにゃ、あいそがつきた、出てゆけえ」
「なにが御落胤だよう、こん畜生」と、これは色けち、「あんな乞食のうす馬鹿を押っ付けやがって、ええ口惜しい、こう、こう、こう、この頓間のへちゃむくれの人でなしめ、おれの腹をどうする気だ、こん畜生、なにが佐野の正統家だ、偽の系図なんぞ書かしやがって、ええ畜生、なにがお書付のお短刀だ、さあ野郎、こうなれゃあ、唯あ置かねえからそう思え」
「長屋の皆さん、ひー」これは吾助、「ひー、どうかお助けを、ひー、あ、どうぞ皆さん、お助け、お助けを、ひー、人殺し」
 講演を終るに当って、演者わたしとしては事の結末はつけたい。
 この騒ぎを聞いて、銀太と金太は逸早く行方をくらました、繩屋一家に就いてはおわきは卒直に云えば六人めの婿に逃げられたし、吾助としては御殿新築のために買込んだ用材の代金や、伊賀守邸へ金七十両返却のため、やむなく長屋もろとも自分の店と居宅を売却し、或る夜、闇に紛れて、親子三人いずれかへ逃亡したものである。
 長屋天一坊なる一大事件の終結は以上の如くであって、特にこれ以上、演者としてはなにも付加えたくないと思う。さらば。





底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
   1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1950(昭和25)年5月
※初出時の署名は「酒井松花亭」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2019年12月27日作成
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