須磨寺附近

山本周五郎





 清三せいぞう青木あおきに迎えられて須磨に来た。
 青木は須磨寺の近くに、あによめと二人で、米国の支店詰になって出張している兄の留守を預っていた、で、精神的にかなり手甚てひどい打撃を受けていた清三は、その静かな友の生活の蔭に慰を求めたのであった。
 須磨は秋であった。
 青木の嫂の康子やすこはひじょうにすぐれて美貌だった。彼女については青木がまだ東京にいた時分よく彼によって語られていたのでおおかたのことを清三はっていた。
「君なら一眼で恋着するだろうなあ」
 青木は話の出るたびにかならずそう云ったものである、従って打明けて云えば、青木の暗示的な言葉は、彼女の写真を見たり性情を聞いたりすることに救けられて清三の心の中でいつのまにか育っていた。
 月見山の家に着いた夜、清三のために風呂がかれ、食膳しょくぜんには康子の手料理が並べられた。
「東京の人には何を差上げても不味まずいのでね」
 康子が云った。
「でも牛肉だけは自慢できますわ」
 清三は微笑しながら肉の煮えたつなべを見下ろしていた。今晩だけは特別だと云って、康子の手で麦酒ビールが開けられた、清三も青木も顔のあかくなるほど飲んだ、清三はまたかねがね聞かされていた神戸の牛肉の美味うまさに頻繁ひんぱんはしを鍋に運んだ。
「遠慮なぞしないで、ゆっくり遊んで行ってくださいね、二人きりで寂しいんですから」
 飯が終ると康子は女にしては鋭いひとみを動かせながら云った、清三はその瞳に威圧されるような気がした。康子は林檎りんごをむいてくれた、清三は白い長い指が巧みに働くのと、果実の肌と刃物の触れ合う微妙な音を聞きながら、温い幸福な気持にひたっていた。
 茶がすんでから、康子が月がいから浜へ行こうと云い出した。麦酒でぼうとなっていた清三はすぐ応じた、青木も立った。
 浜には波がなく、淡い霧が下りて寂然としていた、三人の息は月の光を含んで白くこおった、青木は、月見頃になるとこの浜一面に藻潮をいて酒の宴を開く習慣があると話した、ことにそうしたとき、男たちよりも、女たちのほうがよけい騒ぐので、かなりなまめいた月見の戯が浜いっぱいに開かれるのだそうである、藻潮を焚いて月を待つという、歌めいた習慣に清三はなにか雅致のある懐しさを感じさせられた。
「おい相撲をとろう」
 足の甲までさらさら没してしまう深い砂地に出たとき、清三はそう云って青木の手を取った、二人は踏応えのない砂の上でみ合った、康子は微笑しながら見て立っていた、二人は勝負のつかぬ先につかれてしまった。
「おい離せ離せ、息が切れて耐らん」
 青木はそう云うと砂の上に腰をおとした。
「弱い人たち」
 康子が月を背にして清三の顔を見下ろしていた、清三は手をわきの下にやった、そこが大きくほころびていた。
「ひどいやつだなあ」
 青木も腋の下をたが異常はなかった。二人は大きな声を立てて笑った。静かによどんでいた夜霧が、二人の笑声でゆらゆらと揺れて流れた、康子もやがて二人のあいだに坐って足を投出した。
「御覧なさい、淡路島の灯が見えます」
 康子の指示した遠い海の夜のとばりのかなたに、ほとんど見えるか見えぬか分からないほどの灯がちらちらと揺れている、清三はほのかな気持で、ひっそりした海の上を見やった。青木はふいと立って、黙ってなぎさのほうへ歩いて行った、清三も康子も無言のままその後を見送る、間もなく水の鳴る音がし始めた、青木が石を投げるのであった。清三は眼を閉じて、佗しい水の音をじっと耳で味った。
「いつごろまでいてくだすって」
 つぶやくような康子の声が起った、清三は眼を開いて康子を見た、康子の面は月光を浴びて彫像のように崇高に見えた。そのときの彼女の顔から人間のものを求めたら、きらきら輝く瞳だけであったろう。――清三はふっと顔の熱くなるのを覚えながら、さあと云ったまま返辞に窮して眼の前にある康子の白い足袋を履いた小柄な足を見ていた。
「お正月まで?」
 康子が云った、清三はただ笑って答えた。康子の表情が月光の下でちょっと変った、が清三はその変化の解釈がつかなかった。
 青木が汀で野蛮な声を張上げて詩を吟じ始めた、それを合図のように康子はすっと立上った、清三も続いて砂から尻をあげた。
 清三は温い幸福なものを抱いて寝た、夜晩くまで階下で康子のく声がしていた。

 清三はじゅうぶんこの新しい家に満足できた、そして当分この温い情的な(云い得べくんば)家に慰まぬ心を隠しておこうと思った。
 二三日してから大阪に来ている先輩を訪ねて為事しごとを求めてみた。その男はすぐ引受けてくれた、そして間もなくKという雑誌の為事を見付けてくれた、下らない手伝いに近いものではあったが遊んでいるよりはましだと思ってすぐその日から堂島に近いその会社へ通勤し始めた。
「早く帰ってらっしゃい」
 康子はかならず朝、門の裏まで送って来てそう云った、清三はいつもそれに感謝の笑で応じた。帰って来て清三が門を潜るとかならず康子の白い割烹着かっぽうぎ姿が玄関の式台に現れた。
「労れたでしょう」
 康子はそう云う、清三はやはり感謝の微笑でそれに答えた、そして自分に注がれる鋭い情熱的な冷たい瞳をわくわくしながら味っていた、神戸の新聞社に出ている青木は毎日午近くに出て帰るのは夜晩くなった。清三は二人きりの時間を、毎日何か事件でも起こるような気持で過ごした。
 雨の降る日、例より早く帰って来た清三と茶を飲んでから康子はその辺を歩こうではないかと云い出した。清三はすぐ同じた。二人は家を閉めて雨の細い夕暮の中に歩き出した。
「よい処へ連れてってあげます」
 上目使いにちらと悪戯いたずららしく清三の額を見ながらびたような笑を唇に見せて康子が云った、清三は康子の、娘のように豊かな胸元を見た、康子はきれるほどきゅっと帯を締めていた。
 康子はときどき何か話しかけた、清三も言葉すくなくそれに答えた、何を話し何を答えたかはすぐ忘れてしまったが、五つも年の上である彼女が、常に姉のような態度で迫ってきたことだけは覚えている。もちろん清三の態度にはいくらか弟としての甘えたさがあったに相違ない。
 清三は大きな池のある広場へ連れて来られた、ここが須磨寺だと康子が云った。池の水には白鳥が群を作って遊んでいた、雨がその上に静かにそそいでいた。
 池を廻って、高い石段を登ると寺があった。そこには義経よしつね敦盛あつもりの名の見える高札が立ててあった、それはどこへ行ってもかならずある、松だの小沼だのに対する伝説が書かれてあるのだ、康子は清三を振返って、この高札に皮肉な瞳を動かして見せた、清三も釣られてさげすんだ笑いを洩らした。
 寺の前から裏山へかけて、八十八ヶ所の地蔵堂が造られてある、二人はそのほうへ進んだ、がもはや夕闇が拡がり出して、木樹の蔭には物寂しい影が動き始めた。
「ここへ入って少し休みましょう」
 朱い小さい山門の下へ来たとき、康子は傘をすぼめてその下に入った。清三もその後に従った、そして康子のために台石のほこり手帛ハンカチで払ってやった、康子は微笑ほほえみながら清三の手を見ていたが、素直にその上へ腰を休めた。
「静かでしょう」
 康子はちょっと耳を澄ませてから、呟くような声で云った。
「地の中で虫が土を掘る音まで聞えそうだ、と云っている人がゲエテの詩の中にありましたね。――雨さえ降っていなかったら、こんな静かさをそう云うのでしょうか」
 清三は恐縮して、そうですねと云ったばかりである、康子はその静寂の中から何か聞き出すもののように、しばらく眼を閉じてじっとしていたが、まもなく帰ろうと云いだした。清三はその甘い溶けるような静寂の中にいつまでも二人きりでじっとしていたかったが、康子に添ってすぐ立った。
「清水さん」
 康子は傘を拡げようとしながら清三の顔を見て云った。
「あなた、生きている目的が分かりますか」
「目的ですか」
「生活の目的ではなく、生きている目的よ」
 清三にはちょっと康子の云う意味が分からなかった。康子は清三の返辞を待つ容子もなく、さっと傘を拡いて雨の中に歩み出た。清三は自分が失敗したと思って顔が熱くなった。――二人は傘を並べて黙って寺の前まで戻り静かに石段を下りた。

 風のない、暖かい日曜日である、青木も社が休みだったので三人は六甲山へおそい紅葉を見にでかけた。
「嫂さん近ごろ若くなったなあ」
 清三も青木も学校時代から歩くのでは負けないほうだったが康子はこの二人のあいだにあって、尠しも勉める容子なく楽々と歩いた、青木は、嫂が活発に裾を蹴る足元を見ながら何度もそう云った。
「これからだんだん若くなるのよ」
 康子はそう云って清三の眼を横眼で見た、その瞳が清三にはひじょうに色っぽく思われた。
 山ではまったく紅葉は晩すぎた、十王山という懸額のある寺の辺は、盛頃には大変な人出だというのに、その付近の平地には朽ちかかった落葉が佗しく風に飛ぶばかりであった、三人は六甲の頂上へ行くつもりなのだがその道順を訊く人すらない、寺から右へれる小路を青木が先頭に立ってだらだら坂に下った。
「道が分からないってことは興味があるじゃないの」
 康子が清三を振返って云った。
「なぜです」
 青木が反問した。
「どこへ出るか疑問だから――」
「じゃその興味には不安が伴いますね」
「どうして――」
 康子は落着いて思うことを順序よく言葉の上に配列した。
「だって興味というものは不安があるから起こってくるものじゃないの」
 清三は、康子が自分の云いたいことを、上手に相手から抽出させる技巧に思わず微笑した、青木はふと立止まって、
「こりゃいけない、川だ」
 と云った、康子は川があればたぶんそれに添って路が山上へ行くに相違ないと云った、三人は川を越した。康子が川の中にあらわれている岩の頭を飛び飛びに越して来るとき、清三は手を貸そうとした、康子は軽くそれを拒んだ、もちろん清三の親切を拒んだのではない、助けてもらうという弱さを見せたくなかったのだ、康子の笑顔で清三はすぐそれを看てとった、――道は何度も、迂回うかいして来る川を横切っていた、従って三人はそのたびに危い川渡りをしなければならなかったが康子はとくにそれに興味があるふうだった。
 だんだん道が狭くなって、しかも次第に谿間たにまへ入ってゆくので、元気な青木も何度か立止まった。清三はこの山の奥のほうに無籍者が出没するという話を聞いたことがあるので、女連れがあるだけに急に気になり出した。そのうえ道は六甲の頂上へ行くものでないことがはっきりしてきたから、三人はそれから戻ることにした。
「人間の一生に」青木が谿流けいりゅうの中に持っていた杖の先をひたしながら云った、「こうした静かな行楽や、温い散歩が何度あるだろうか」
 清三は黙って聞いた、康子は白い雲を見上げていた。
 帰りの道は下りなので楽だった。清三は康子と狭い道を並んで歩いた、青木は大股おおまたにどんどん急いだ、で、次第に清三たちとのあいだに距離ができた、道が曲がると彼の姿は見えなくなった、急ごうとした清三に二三歩後れた康子が、あっと軽い驚きの声をあげて立止まったので清三は見返った、康子の右足の草履の緒がきれている――立戻った清三はとっさのまに手帛を取り出してそれを裂いた、そして康子の足元にひざまずいて草履をとりあげた。無器用な手で清三がどうやら緒を継ぎ終るまで康子は微笑しながら見下ろしていた。
「ありがとう」
 康子の瞳が情的に動いた、清三は頬の熱くなるのを覚えた、それから青木が流れの端の石に腰かけて待合せているところまで、二人とも事件を待つような気持で黙って歩いた、青木は澄んだ秋の山の空気の中へ、煙草のけむりを吹き散らせていた。
 時間がたつに連れて、清三の胸の中では、康子の働きかけてくる情的な瞳が領域を拡めていった。それが清三にとってはひじょうに幸福だった、で清三はことさらにその中へおぼれていこうとした、ときおり理性がその気持を引戻そうとするが、結局引戻すことはできなかった。
「君は嫂をどう思うか」
 青木が清三にそう質問したことがある。
「つまり性質だよ、たいていの人間は規範のなかにめることができる、男でもそうだがことに女はそうだ、しかしどうも俺には嫂ばかりは分からん」
 清三は自分の胸にある思いをそのまま青木に云われたような気がした、だからそのとき、清三は、もちろん自分にも分からんと答えただけである。
 夕飯のぜんに三人の顔が合ったとき、こんな問答の交されたことがあった。
「いったい、結婚はどういうふうに考えるべきものだろう」
 青木が云った。
「幸福なものとして幸福に没頭すれば破綻はたんを見るし、平凡なものとして平凡にやれば人間が老いるし――」
 清三は康子の顔を見た、康子は黙って魚に箸を運んでいた、それから飯が終って茶になったとき、ふいと康子が青木に云った。
「龍さん、あなた私たちの結婚が、幸福か幸福でないか分かりますか」
 青木はびくっとしたようだった。清三も少なからず不意を打たれた。康子は静かに笑った。


 雑誌の為事は月の半頃になると煩わしいほど忙しかった。天王寺にある印刷所まで校正に行って、そこで十時まで朱筆を持たなくてはならない日がすくなくとも四五日は続いた。汽車がなくなって、阪神の終電車に辛うじて間に合うようなことも再三あった。
 為事するあいだは熱のあるように妙に怠いからだが乗物で須磨へ近づくと次第に元気を恢復かいふくするようだった、朱筆を持って努めて睡気と戦っていた眼が、家の門を入るとはっきりめる気がした。
 その日は朝から独特の暗い冷たい雨が降っていた、前日に印刷所で職工が休んだので、二日分の原稿が校正机の上に重ねてあった、何だか朝家を出るときから少し熱があるようだったのが、時間とともにだんだんひどくなって、ちょうど夕方、再校の出る時分から後頭部が刺されるように痛み始めてきた。清三は耐らなくなって為事を同輩に頼んで印刷所を出た。天王寺の裏町の暗い汚れた、道の上に残っている薄明を十一月の寒い雨が濡らしていた。
 汽車はちょうど退けどきでひじょうな雑踏だった、清三は混雑している車室の隅にじっと身をすくめて立っていた、どれもこれも皆知らぬ顔ばかりである、皆親しみのない表情をして、耳障りな発音で野卑な方言を吐き散らしている、清三はまるで別な世界へほうり出されたような、重い淋しい郷愁を感じた、旅にいるという寒い頼りなさが、ひしひしと胸を緊めつけるようだった、この頼りなさ、淋しさは長いあいだ清三の胸の中で荒れ回っていたが、不意にそれが康子の愛にけ口を発見して、強い勢いでそっちに流れ出した、清三は初めて、康子のおもかげを恋しいという言葉でむさぼるように心の壁に描きつけた。
 ずきずきと痛む頭を抱えて清三が家の門を潜ったとき、いつもかならず開かねばならぬ玄関の障子が動かない、物足らぬ心で書生部屋へ上ると、茶の間のふすまが開いて、青木が首を出した。
「何だ、今日は晩くなるって云ったそうじゃないか」
 青木はすぐ見ていた新聞に眼を戻した。清三は朝康子にそう云いおいたことを想い出した。
「頭痛がしてね。あの人は?」
「嫂かい、ちょっと兄貴の上役の家へね、兄貴から電報がきたもんだから」
 清三の胸がびしりと鳴るようだった、青木は手を伸ばして長火鉢の抽出ひきだしから、電報紙を取出して清三の前に置いた。清三は何か宣告されるような気持でそれを取上げた。電報は二枚で、一枚が暗号ので片方が会社で翻訳してよこしたものだった、それには、正月に帰るという意味が記されてあった。
 水枕を造ってもらって、清三はすぐ寝た、けれど頭の痛むのと電報とがいつまでも眼を閉じさせなかった。躯中が悩ましかった。康子がますます恋しくなった。逢うことが許されなくなった恋人たちのように狂おしく恋しかった。清三は枕の白いきれを噛んだ、なみだが熱く頬を伝って落ちた。
 清三は何かに驚いて眼を覚した。とちょうど仰臥ぎょうがした彼の鼻の先に康子の顔が近づいているところだった、康子の表情はやや狼狽ろうばいを見せたが清三はそんなことを見分けている余裕がなかった、康子が顔を引くのとほとんど同時に、清三の手が本能的に康子のひざへ伸びていった、康子はその手をしっかりと握った――清三は全身がわくわくと波打つのを覚えた。二人はしばらく黙って手を握り合ったままでいた、康子は眼を閉じ、清三は枕に顔を押伏せていた、二十三年の月日が清三の目前で炎のように回転していた。
「我慢なさい」
 程経て康子がそう呟いた、そして清三の手を蒲団の下に入れて、立って階下へ去った。清三は干き切った唇を噛みながら、「我慢なさい、我慢なさい」と口の内で呟いた。
 明る朝清三は十三弦の音の中で眼を覚した、なにかなしに微笑ほほえまれた。そして長いあいだその琴の音の中に身をおぼれさせた。
 青木が上って来て、具合はどうだいと云った、これから社へ行くが、喰べたいものがあるなら買って来てやるぞと云った。清三は微笑しながら心からありがとうと答えた。
「おい、ちょっと」
 去ろうとする青木を清三は呼び止めた。
「琴はあの人か」
「うん、うるさいだろう」
 青木は悪戯らしく笑った。
「頭がすっとする、階下へ行ったら、いつまでも続けてくれるように云ってくれ」
暢気のんきだなあ」
 青木は元気に去った、するとすぐ琴の音が止んだ。そして間もなく康子が来た。
「眠れましたか」
 康子はそう云いながら含嗽うがい茶碗を枕元に置く、清三は康子の顔を正面に見ることができなかった。
「電報が来たのを知ってらっしゃる?」
「ええ知っています」
「そう」
 清三は黙って康子の言葉を待っている、が康子はそれきり何も云わなかった。
「さっき弾いていらした琴は何です」
「――千鳥」
 清三はそこまできて初めて康子の顔を見た、康子は瞳を動かした。
 清三は三日寝て起きた。
 清三の心には明かに期待が生まれ始めた、従って家の中の空気がひじょうに緊張して感じられるようになった、そしてそのなかで幸福と不安との入混った落着かない日を送った。
 ある日清三は、社で電話を受けた、でてみると康子だった。
「帰りにちょっと松竹座に寄ってちょうだい、二階の正面の五番にいます」
 それだけの用件を云うと、電話はきれてしまった、清三は退けまでの時間をすこぶる愉快に過ごした。
 神戸の駅に到着いたのは五時に近かった、あいにく雨が降り出していたので、清三はわずかなところを電車に乗った。電車の中で青木に逢いはしないかという考えがなぜともなしに軽い怖れを感じさせられたのが自ら不愉快でならなかった。
 劇場の前はいたずらに明るくして、人の姿は絶えていた、灯の色の華やかなだけ、ひっそりした前庭の雨は佗しかった、茶屋から行けばすぐ案内してくれるのは分かったが、なぜかそうするのが気まずかったので、清三は幾許いくばくかの入場料を払って中へ入った。
 二階の正面の席が見えるように、東の桟敷に坐った清三はすぐ示された座席から康子の姿を探し出そうとした。康子の姿はすぐ見出せた、康子はちょうど劇眼鏡で舞台をうかがっている姿勢だった。見ていると隣にいる中年の男が、康子の耳に顔を寄せて何か私言ささやいている、康子は何か答えたらしく、男はちょっと歯を見せて顔を離した。清三は生唾液なまつばを呑みこみながら舞台を見た。そこでは冑武者よろいむしゃが数人、百姓家を取囲みながら、何か口喧くちやかましく叫んでいた。清三はその場面に幕の下るまで、康子と同席の男の解釈に苦しんで過ごした。
 燈火が一時にあかるくなって、座にいた人たちが一様にざわめきあった、清三は康子の姿を見逃すまいと立ったままそっちを睨んでいた、そして康子の立つ姿を見ると、すぐ自分も廊下へ出た、廊下の揉むような人のあいだを抜けながら二階へ下りて来るまでの気持は、形容できないくらいに焦せっていた、で、もう少しで見知らぬ男と連れ立って行く康子と行違ってしまうところだった、康子はすぐ慌てた清三の姿を見出したが、黙って行き過ぎた、そして男に何か云って待っている清三のところまで引返してきた。
「御苦労さま」
 康子は白いものをいた頬をちょっと押えながら笑った。清三はそうした場所にあってことに美しい女の姿を見た。
「次の幕が開いたら、二階の食堂に行っててちょうだい」
 それだけ云うと康子は清三から離れた。
 電鈴が鳴ると、廊下の人波は皆扉の中に流れ入ってしまった、清三は命ぜられたままにした、食堂には客の姿は見えなかった。
 康子の来るまでに清三は二杯の牛乳を空けた、時間にしたら二十分たっぷりであろう、いらだたしい眼が、何度か壁のクリムトの複製画に止まった。平常は大好きであるこの画家が、そのときはこの上もなく平凡に倦怠けんたいに見えた。
「失礼、ゆるしてね」
 康子は清三と向合って坐りながら云った。清三のいらいらした気持はすぐけむりのように消えていくのを覚えた。数皿の軽い料理が運ばれて、康子が清三に喰べろと云った、清三は葡萄酒で煮たという仔牛の肉を平げた。
「すぐ帰る? それとも観ていらっしゃる?」
 清三は思いがけない気持で康子の言葉を聞いた、すくなくとももう少し情に訴えるものを期待していたのである。
「帰ります」
「観ていらっしゃい、一緒に帰りましょう」
 康子は清三の気持を感じたらしかった。けれども清三は康子の白い指を見ながら、もう一度、帰りますと繰返した。
「怒ったの?」
 康子が清三の顔をぬすむようにして云った、清三は黙って座を立った、清三が外套がいとうを着て食堂を出ると、康子も一緒にいて来た。
「怒ってるの?」
 出口のほうへ近づいたときまた康子が云った。清三は静かな廊下の曲角の蔭で不意に立止まると、手を伸ばして女の指を握った、康子の瞳が驚いて男を見た、清三はげるように女の前から去った。
 家では青木が炬燵こたつに寝そべっていた、青木は、嫂が今日兄貴の上役と交際つきあいで芝居を観に行ったと話した。清三は冷えた躯を派手な炬燵蒲団の中に埋めて、やけにがんがんする頭をぐったり垂れた。
 そうしているうちに、だんだん落着いてきた清三は、康子の気持が分かるような気がしてきた。とくに二人の食事を、そうした場所へもっていったことも首肯うなずかれた。そして何かもっと大きな事件を期待して行った自分の、軽々しい恋情を見返って苦笑した。
 康子の帰りを待たずに清三は二階へ上って寝た、夜中躯が悩ましかった。
 四五日後の夕刻二人きりで夕食の膳についたとき、康子がやや強い表情で清三を見ながら、
「清水さん下宿をなさい」
 と云い出した。清三はあきれて康子の顔を見た、康子は眉ひとつ動かさずに清三を見返していた。
「須磨寺のすぐ前に佳い家を見つけておきましたよ」
「そうですか」
 清三は糸に操られて手足を振る泥人形のような自分を見た、何か不快なものが胸先にこみあげてくるようだった、いままで耐えていた種々な感情がしきりに言葉を誘った、清三はとうていそこに坐っていることができなくなって、箸を置くと黙って立上った。
「清水さん」
 康子の声を背に受けながら、清三は階段を上った、悲劇的な感傷が頭の中で火のようにひらめき回る、叫び出すかも知れないと自ら清三は自分の口を両手でふさいで、部屋の中を歩き回った、誇張した言葉が口の中へ後から後からあふれてきた。
 階下から上って来る跫音あしおとを聞いて、清三は電燈を消した。上り詰めた跫音は入口の襖の際で止まったが清三は眼をつぶって窓際にかがんだ、泪が出てしかたがなかった。
 窓から来る宵明りで清三の姿を見出した康子は、素早く寄って来て、清三のくびに腕をかけた、清三はその腕を払い除けようと思った、が反対に躯をねじ向けて、康子を抱いた。
「あ――」
 康子の短い叫びが清三の唇に触れた、二人の唇はしっかりと合った。しかし清三はすぐ康子の前に膝をおとした。康子の手が清三の髪毛の中に差しこまれた。二人の嵐のような呼吸が静寂な八畳の部屋に荒々しく続いていた。
「あたし来月の船で亜米利加へ行きます」
「――――」
「五日ほど前に電報がまた来てね! 船までまってしまったんです」
 康子の言葉は遠くから来るようだった。
「階下へ」
 清三は辛うじてそう呟いた。
「あなたもいらっしゃい」
 清三はわずかに首を振った。
「清水さん」
 康子の熱い呼吸が清三の頬に近づいた。
「我慢なさい」
 そう云って康子は静かに階下へ去った。
 清三は冷たい畳の上に仰臥ぎょうがした、眼が暗い中でちかちかした、我慢なさい我慢なさいという言葉が何度も舌の先で翻った。
 明る朝起きて見ると雨だった、康子はもうとうに神戸へでかけていた。
「顔色が悪いぞ、熱でもあるんじゃないか」
 青木は背広に着換えているところだった。
「少し頭が痛い」
「何だか嫂が、今日は君が休むそうだから留守を君に頼んでくれと云っておいたぜ」
「そうか」清三はちょっと微笑して見せた、心の中では康子の人の意表に出る態度がはっきり分かった。
「あの人、亜米利加へ行くんだそうじゃないか」
 清三は靴をはいている青木に云った。
「なあんだ」
 青木は苦しそうに首をじ向けて案外らしい口吻くちぶりで云う。
「もう知っているのか、嫂から聞いたんだろう」
「うん」
「俺ゃ、清水には内証にしておいてくれってずいぶん喧しく約束させられたんだぜ」
「へえ、そうかい」清三は康子の気持を探り当てた。
 青木が寒いと呟きながら雨の中を出て行くと、清三は冷たい水で顔を洗った、茶の間には蠅帳を被せて食膳は出ていたがとても坐る気はない、重い不快な固りが腹の底にわだかまっている。
 冷たい清い空気を胸いっぱいに吸いたいような気がしたので清三は二階へ上って、北側の窓を開けた、雨の中に須磨寺や鉄枴山てっかいざんの峰が寒くかすんでいた。
「生きている目的が分かるか」清三は朱い山門の下で云った康子の言葉を想い出した。傘を開こうとしながら、横眼使いに自分を見た、女の色っぽい姿も眼に見えた。清三の眼の前で、山や森が呆と消えた。泪が続いて頬を流れた。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「文藝春秋」
   1926(大正15)年4月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2023年1月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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