滝口

山本周五郎





 益村安宅ますむらあたかが釣りをしていると、畠中辰樹はたなかたつきが来て「釣れたか」と云った。益村は振り向きもしなかったが、声を聞いて畠中だということはわかった。益村は返辞をせず、畠中はその脇に腰をおろした。七月のよく晴れたひるさがりだが、うしろのがけに樹の茂みがあり、二人のいるところは日蔭になっているうえ、川から吹いて来る風があるので、少しも暑さは感じられなかった。
「なにか用でもあるのか」と益村がきいた。
「べつに」と畠中が答えた、「たぶんここだろうと思ったんでね」
 益村はゆっくりと頭をめぐらせて畠中の顔を見た。それからまた釣竿つりざおの先へ眼を戻した。畠中は話があって来たのだ。城下から一里半ちかくもあるこんな山の中へ、用もなしにやって来るわけがない。そして、その話の内容も益村には察しがついた。料亭「衣笠きぬがさ」のおりうとの噂が耳にはいり、その意見をしに来たのだろう、そう思ったけれども、益村はなにも云わなかった。
「少しは釣れたのか」と畠中がきいた。
 益村は脇に置いてある、乾いたままの魚籠びくを指さし、頭を左右に振った。
「それでも面白いのかい」
「この川は十洲とす川ともいうんだ」と益村は眼の前の流れをみつめながら云った、「――正確に数えるとは十三ある、ここから三十町ほどかみで始まって、川下かわしもの滝のところまでにな、――水はその洲の一つ一つにぶつかって分れ、また一つに合流し、そしてまた二つに分れる」
「豊水期にもこれらの洲は冠水することなく」と畠中が暗誦あんしょうするように続けた、「またその数の増減する例もなし、これ珂知川のふしぎの一とす、――平州地誌に書いてあるさ」
「釣れても釣れなくっても」と益村は問いに答えた、「こんなことはかくべつ面白いものじゃないさ」
 畠中は黙っていたが、やがて水面を指さし、引いているぞと云った。けれども益村には聞えたようすがないので、もういちど「引いているよ」と注意した。
「魚じゃないさ」と益村は答えた。
浮子うきを見ろよ」
はりがなにかにひっかかったんだろう」益村はそう云った、「心配するな、のない鉤に魚はくいつきゃあしないから」
 畠中は眼をみはって益村の顔を見、すぐにその眼を細めた。むっとしたのだろう、なにか云い返そうとして、二三度その唇をむずむずさせたが、思い直したようすで、逆に皮肉な微笑をうかべた。
「なにか困ったことでもあるんだな」
「あの木を知っているか」と云って益村は対岸のほうへ顎をしゃくった、「あそこに大きな濃い緑の木があるだろう、葉の表はひどく濃い緑だが、裏は白いんだ、そら、――風が吹きあげて葉裏が返ると、ぜんぶの枝に白い花が咲いたようにみえるだろう」
「だからどうした」
「頭のめぐりの悪い男だ」
「なにをそんなに悩んでるんだ」と畠中は励ますような口ぶりで云った、「――もうはらをきめてもいいころじゃないか、なにか故障でもあるのか」
 ははあそうか、と益村安宅は思った。彼はその話で来たのか、それはそれは、と心の中でつぶやき、あのことでなかったのは幸いだ、と緊張した気分をゆるめた。
「益村はおれとおないどしだから、もう三十一だろう」
「おれのほうが半年はやく生れた筈だ」
「しかも、おかじさんが亡くなってもう三年にもなるのに、まだみれんが残ってるのか」と畠中は調子をやわらげて云った、「杉原の波世さんだってもう二十二だ、理由もなしにいつまでも待たせてはおけないじゃないか、そうだろう」
 おれの母は二十五で父と結婚した、二十二だからってそういそぐこともないさ。益村はそう思ったが、やはり口にはださなかった。
「あの洲を見るたびに」益村は川上のほうを見やりながら云った、「――ここへ来て、この川の水とあの洲を見るたびに、おれはいつも人と人との関係を連想する」
「またはぐらかすのか」
「まあ聞けよ」と益村は続けた、「友人でも夫婦でもいい、心と心がぴったり合っているかと思うと、川の水が洲にぶっつかったように、なにかの拍子でふっと、身も心もはなればなれになってしまう、それがいつかまた、洲のうしろで水が合流するように、しぜんと双方からよりあい、愛情や信頼をとり戻すが、やがてまた次の洲にぶっつかって分れ分れになる、――この川の洲は十三しかないけれども、人間の一生には数えきれないほどの洲がある、とね」
 畠中はちょっとをおいて云った、「益村には昔から、そういう思わせぶりなことを云う癖があった、よくない癖だ」
「家風でね、祖父もそうだったし、父もこんなふうだったよ」
「代々の留守役ということか」
 益村は肩をすくめた。
「留守役は一般の勤めかたとは違う」と畠中が続けた、「――他藩との折衝が多く、それには政治的なかけひきが付きものだし、ときには幕府の重職とも交渉に当らなければならない、話術にも特別な技巧が必要だろうし、酒席の設けかたにはむずかしい按配あんばいがあるそうだ」
「けれども」とひと息ついて畠中は云った、「それが留守役に欠くことのできない資格ではない、鶴井家は同じ留守役でも不粋ぶすいぶこつで知られている。当代の清左どのは一滴の酒も飲めず、酒席のとりもちは粗忽そこつだらけだというではないか、しかもこれまでに、役目のことで失策したという例は聞いたためしがない」
「名臣伝にでものせるか」と益村が気のぬけた調子でさえぎった、「――本当のところ、畠中はなんの用があって来たんだ」
「おれは江戸へゆくことになった」
 益村は振り向いて畠中を見た。
「川普請が難こうしていることは聞いたろうが、資金の調達がこっちではどうにもならなくなった」と畠中が云った、「――それで殿が御在府ちゅうに、なんとしてでもまとめようということになり、おれにその役が当ったというわけなんだ」
「鶴井を褒めるわけがそれでわかった」と云って益村は唇で笑った、「これは冗談だが、――しかしそいつはたいへんだな、幕府では財政緊縮でこちこちになってるそうじゃないか、殿も汗をかかれるだろうが、鶴井はそれこそ骨を削るぞ」
 去年、酒井氏が側用人そばようにんから老中に就任して以来、幕府は一般への倹約令とともに、財政のきびしい緊縮策がとられることになった。大名諸侯の中には、領内の土木、治水、農地開拓、産工業を興すなどのために、幕府から融資を受けていたものが少なくないので、この緊縮策は相当な打撃であり、それらの事業を縮小するか、中止、または放棄しなければならない例さえ出ているということだ。――江戸屋敷はもとより、国許くにもとの重臣たちもそれは知っているだろうし、承知のうえで融資を願い出るのであろう。珂知川の中流は俗に「宇木野」といわれる広い平野で、この藩の主要な米産地になっているが、古くからしばしば川が氾濫はんらんして農地を荒した。三十数年まえに川普請をし、三つの水門と堤防を築いて、大きな災害はいちおうくいとめたが、それらも近年になって、改修につぐ改修に追われながら、三年続いて堤防が崩れ、もはや根本的に工事のやり直しをしなければならなくなり、去年の秋から、新らしい方法による川普請にかかっていた。――幕府でも治水には特例を認めるというから、こんどの願いもあながち拒絶されるとはきまっていないが、要求するだけの融資がどの程度まで確保できるか疑わしいし、承認を取るだけでも、よほどの忍耐力と巧みな説得技術が必要だろう。おれが留守役でなくってよかった、益村はそう思い、心の中で安堵あんど太息といきをついた。
「江戸のことを心配するより」と畠中は云っていた、「おれが帰って来るまで身を慎んでくれ、それともう一つ、杉原との縁談のはらをきめておいてくれ」
「身を慎めだって」
「だいぶ噂がひろまっているぞ」と云って畠中はすぐに調子を変え、また水面を指さした、「――あれをなんとかしろよ、浮子があんなふうに出たり引込んだりしていると、魚がくっているようでおちつかないじゃないか」
 益村はいぶかしそうに反問した、「畠中はそこでおちつくつもりなのか」
「返辞によってはね」
「それはかたじけない」
 益村はゆっくり釣竿をあげて、かみのほうへ糸を投げた。畠中はまたなにか云いかけたが、思い返したようすで、水面をくだって来る浮子に眼をやり、その動きを仔細しさいありげに眼で追った。
「ときに、出立はいつだ」と益村がきいた。
「二三日うちだろう、十五日までには立つ筈だ」
「別宴でもやるか」
「まさか」と云って畠中はじっと益村の眼をみつめた、「――衣笠ではないだろうな」
「酒というものはうまいものじゃないな」と益村はまた竿をあげ、上のほうへ糸を投げてから云った、「五つのときじいさまに飲まされてこのかた、今日まで一度もうまいと思ったことがなかった、――畠中はたぶん」
「兼しげさ、云うまでもない、別宴をやってくれるなら南小町の兼しげだよ」
 益村はあわれむように唇を曲げ、かすかに左右へ振った、「救いがたき男だ」
「衣笠はごめんだからな」と云って畠中は慌てて水面の浮子を指さし、「おい、くってる」と云いかけたが、すぐに気づいて、憤然と口をつぐんだ。


きせちというものは正直なものですね」と女中がしらのおわきが云った、「ふんとに、八月にはいったとたんに、こんなんも[#「こんなんも」はママ]涼しくなるんですもの、ばかみたようですわ」
「正直なのか、ばかなのか」
 おわき燗徳利かんどくりへ手を伸ばしかけて、「え」とけげんそうに振り向いた。
 益村安宅は「なんでもない」と首を振りながら盃をさしだした。おわきはそれに酌をして、徳利を持ったままの手を膝へおろし、ひどくまじめな顔で益村を見た。
「わたし」とおわきは低い声で云った、「益村さんに申上げたいことがあるんですけど、いきませんかしらん」
「いいだろう」と益村は答えた。
 おわきが話し始め、益村は庭のほうを見た、この料亭「衣笠」はコの字形の二階造りで、中庭には琵琶びわのかたちをした池があり、それには石造りの太鼓橋が渡してあるし、芝を植えた築山つきやまには腰掛のちんがあった。松、杉、かえでかし、桜、梅、百日紅さるすべりなどの木が、庭いっぱいに植えてあり、それらの一本ずつは、よく見ると枝ぶりがみごとだったり、幹に珍らしい蘚苔せんたいが付いていたり、梅などは描いたような臥竜がりょうの姿をかたちづくっているが、ぜんたいとして見ると統一がなく、一本ずつがりぬきの木であることによって、互いにその値打と美しさを相殺そうさいしあっている、というふうに眺められた。いまはさるすべりが満開であり、そのひっそりとしながら華やかな花枝が、庭じゅうの景観をおのれ独りに集めていて、その脇にあるこけ付きの石燈籠いしどうろうのあたりで、かぼそくこおろぎの鳴く声が聞えていた。
「そのかた芳村伊織いおりっていう人なんでって」とおわきは話し続けていた、「――とはおりうちゃんより三つ上だっいうから、そうね、二十七だわね、江戸のお生れで、もとは二千石の旗本だったっいうことよ」
 この中庭はあるじの造ったものだ、と益村は思った。祖父の安左衛門がそう云ったのである。「衣笠」のあるじの金助はもう八十歳ちかいとしだが、まだ健在であり、いまでも木や石を買って来ては庭いじりをしている。若いころ江戸へ出て修業をし、道楽のはてに幾たびも「権八ごんぱち」をきめこんだ、というのが自慢で、金助という本名はひた隠しに隠し、あたしの名は権八だと主張していた。権八をきめこむ、とはどういう意味なのか、益村にはてんでわからなかったし、べつにわかろうとも思わなかったが、なんとなく、金助よりも権八というほうが人柄に合うようには感じられた。
「でからね、旦那」
「旦那はよせ」と益村が云った、「それに、酒がぬるくなったぞ」
 あらいませんと云い、おわきは二つの徳利を盆にのせて、立っていった。
 おりうには御家人ごけにんくずれの浪人者が付いている。遠い江戸からこの山ぐにまで、はるばるおりうを追って来た。おりうのほうでも、嫌っているようなそぶりをしながら、心の中ではその浪人者が好きらしい。そういうわけなので、もし間違いがあるといけないから、あまりおりうちゃんを近よせないほうがいい、というのがおわきの話の要点であった。
「こんな噂が弘まってるんだな」と独りになって益村は呟いた、「――たぶん畠中もこういう噂を聞いたんだろう、これが初めてではないんだがな」
 おりうがこのうちへ来て十カ月、それとなく益村に耳うちをした女中が、おわきのほかに二人いた。おりうさんてこわいような人だ、かげに男があっておりうさんを見張っている、「わるくすると闇討ちにあいますよ」と云った女中さえあった。
「岡野さえのときと同じだ」そう呟いた益村は、苦しげに顔をしかめ、眼をつむって、うなだれた、「――さえのときもこんなことが重なって、それであんなひどいことをしてしまった」
 酒を持って来たのはおりうであった。彼女は浴衣にひっかけ帯で、洗い髪を手拭で巻いたままであった。
「あなたがいらっしゃってるって聞いたもんだから、おにはいってたのをとびだして来たの、こんな恰好でごめんなさい」おりうびた眼つきで微笑し、膳の脇に坐った、「――おわきさんが出てたんですってね、あのとあたしに知らせてくれなかったのよ、ひどいと」
 そして酌をしながら、すぐに着替えて来るから待っていてくれと云った。益村はそのままでいいだろうと云った。
「そのままのほうが涼しくっていいよ」
「でもこんな恰好では」おりうは浴衣の両袖をひろげてみせた、「まあさまはいいっておっしゃっても、よそのお座敷へは出られやしませんわ」
「なるほどね」と云って益村はうなずいた、「そこには気がつかなかった」
「でもね」と云っておりうはすり寄り、益村の膝を手で押えた、「あなたがお帳場へひとこと、あたしをここに置くって仰しゃって下されば、よその座敷へゆかなくってもいいのよ」
「まさかね」益村は酒をすすって云った、「――いいから着替えておいで」
「薄情な方、あたしがいてはいけないんですか」
「ごらんよあのさるすべり」益村は盃を持った手で庭のほうをさし示した、「酒のみはああいう花をさかなに飲むほうが風流だというじゃないか」
 おりうは押えたままでいた手で、益村の膝をかなり強くつねった。その膝をおりうの手からよけながら着替えて来い、と益村は云った。ではこれ一本だけお酌してから、と云って、おりうは膝をすり寄せた。湯あがりでほてっている、やわらかに充実したおりうももの肉が、益村にはこちらの腿へ吸いつくように感じられた。初めてのときからこうだったな、と益村は思った。だんごという女中が来、おりうが着替えに立っていった。だんごというのは仇名あだなで、本名はわからない。としは十六か七だろう、この「衣笠」には十二三のころから下働きに来ていて、去年はじめてお座敷へ出るようになった。からだも小さいし、顔はまるく、鼻もまるくちまちまとしていた。ぜんたいがいかにも「団子だんご」という感じであり、当人もすすんでそれを認めていた。
 ――仇名で呼ばれるようになってから、あたしは初めて仕合せになった、と彼女はいつか告白した。貧乏人の子に生れたしこんなぶきりょうなので、いつも近所の人や子供たちにからかわれ、いじめられてばかりいたが、このお店へ来て、だんごという仇名をつけられたときから、みんなに可愛がられるようになった、だからあたしにとってはこの仇名が大切であるし、この名で呼ばれるあいだは仕合せでいられるのだ。
 それだものだから本名は誰にも教えないのである、と彼女は大事な秘密でもうちあけるような口ぶりで、まじめくさって語ったものであった。
「いまね、先生」とだんごはぶきような手つきで酌をしながらささやいた、「おりうねえさんのあの人が来ているんですよ、あっちの、いつものお座敷に」
だんごはもう酒が飲めるのか」
 彼女はまるい顔の中の小さな眼を、まるくみひらいて彼を見た。そして、いま自分の云ったことがまあさまには気にいらないのだ、ということを理解したらしく、いそいで笑顔をつくりながら、ときには飲むこともできると答え、追っかけて「ときどきには飲むこともあります」と訂正した。いまはどうだときくと、だんごは右手で胃のところを押え、首をかしげて思案したのち、いまのところ飲みたいようではない、と済まなそうに答えた。そうして益村に酌をしながら、あたしは十二の秋に殿さまを見た、という話を熱心にし始めた。彼はどきっとしたが、顔色にはみせなかった。ついさっき――岡野さえのときと同じようだ、と思ったが、いままただんごの言葉でさえのことが思いだされたのだ。
 ――わたくし八歳の夏、殿さまのお姿を拝見したことがございます、とさえは彼に告げた。初めてお国入りをなすった年でしょうか、珂知川へ水練にいらしったのを、わたくしほんの近くから拝見したんですの。
 いま川普請をしているところから、ほぼ十町あまり川上に、藩主のための水練所があり、そこから上下五町の川筋は「お止め場」といって、一般の者は立入り禁止になっていた。岡野さえはそのとき、三人の友達と水あびにいった。彼女にとっては初めての水あびだったそうで、珍らしさと面白さに、自分がどこにいるのかもつい忘れてしまった。そのうちに友達の一人が驚いて声をあげ、お止め場だと云って、慌てて川岸のあしの茂みへ逃げこんだ。さえと他の一人もそのあとから逃げてゆき、茂っている芦の隙間からそっと覗いてみた。――流れの中に幾人かの裸の侍たちが、横に並んでお止め場を警護しているのが見えた。三人の少女はみな唇を紫いろにし、がたがたとふるえながら、みつかったらどうしようか、という恐怖のためすくみながら、同時に、できるなら殿さまをひとめ見たいという、強い好奇心のとりこになった。水練場には仮屋を建て、定紋じょうもんを染めた幕がまわしてある、それが藩主の脱衣場であるから、水中に立っている警護の侍たちの向うで、藩主が泳いでいることはたしかだった。
 ――よく見ると、そこに三人の人が泳いでいました、とさえは語った。
 三人は川下のほうへ泳いでいったり、川上のほうへ泳いで来たりした。さえはまん中の一人が殿さまだろうと思い、舌が上顎へ貼りついたようになって、息をするのも苦しくなった。友達の二人もまん中にいるのが殿さまだと思ったらしい、やがてその三人が水からあがるのを見て、あれが殿さまよと囁きあい、芦の中でいっそう激しく身ぶるいをした。
 ――その方は痩せがたで背が高く、肌が眼にしみるほど白うございました、とさえは語った。眉が濃く、眼が澄んでいて、きりっとした一文字なりの唇が、おもながなお顔の中に際立ってみえました。
 他の一人は中背の目だたない侍だったし、もう一人はずんぐりした躯に大きな頭で、色が黒く、ひどくぶ恰好にみえた。少女たち三人は、殿さまのまばゆいようなお姿にすっかり心を奪われ、これは自分たちの秘密であり、親きょうだいにも語るまい、と誓いあった。
 ――友達の一人はそのとき十一歳になっていましたが、自分はなんとかして殿さまのお側へあがるのだ、殿さまのお側へ召されるためならどんなことでもするつもりだ、ってわたくしに繰返し云ったものですわ。
 少女たちは人を間違えていた。藩主の河内守正弘かわちのかみまさひろは背が低く、頭が大きく、色が黒くてげじげじ眉毛で、まったく男ぶりのあがらない人であった。益村は少女たちより先に、初入国の殿にめみえをし、賜盃しはいの席にも出たからよく知っていた。少女たちが誤認したのは、のちに側用人になった郷田靱負ごうだゆきえなのである。だがもちろん、彼はそのことをさえに告げるようなことはしなかった。
 ――おれが十七、さえが十六、知りあってから二年めのことだったな、と彼は心の中でおもい返した。
 さえの父は岡野久太夫といい、足軽組頭であった。益村の屋敷の裏が地境で、その向うは組長屋になってい、こっちから見ると、いちばん手前の端に岡野の家があった。安宅は一人息子であり、おじいさん子で、隠居した祖父がいつも側からはなさなかった。益村の広い庭は、なに流とかいう凝った造りで、別棟の数寄屋や茶室があり、先代の藩侯が幾たびか来て、そのたびに「おれの庭よりもはるかに立派だ」と、褒めるようなとがめるような評をされた、と伝えられている。植込には珍らしい木が多く、むろん常雇いの庭師がいたが、木の手入れはもっぱら岡野久太夫がした。久太夫にとくべつな才能があったのかもしれないが、祖父がひそかに金を与えているところを見たことがあるので、庭木の手入れをさせるのは、経済的に援助をする名目だったかもわからない。――安宅は十二三のころから、仕事をしている久太夫の側に、さえが来ているのをしばしば見かけた。痩せた小さな子で、色が黒く、怒った仔猫こねこのように、いつも挑戦的なきつい眼つきをしていた。数年のちに親しく話すようになり、やがて恋を語るようになってからも、ふとするとその眼に、たたかいを挑むようなきつい色があらわれたものだ。彼はその眼が好きだったし、いまでも強く印象に残っている。
「ねえ先生」とだんごが云った、「聞いていらっしゃるの」
「先生はよせ」と益村が云った、「どうしてまた、おれのことを先生なんて呼ぶんだ」
 あたし聞いたんですもの、とだんごは云った。いつかおけ町の辻で、三人の若侍が益村といっしょにあるきながら、しきりに益村先生と呼んでいた、というのであった。彼は二十五歳から三年、尚志堂という、藩の剣術道場で代師範を勤めたことがある。代師範といっても序級の少年組であったが、そのころ教えた者たちの中に、いまでも「先生」と呼ぶ者が十人あまりいるのであった。
「あれはないしょだ」と益村は云った、「これからは先生なんていうんじゃないぞ、――酒を持っておいで」
 だんごいた燗徳利を集めて立ちあがると、おりうが酒を持ってはいって来た。自分で結ったらしい、油けなしのじみなまげで、さっと水白粉みずおしろいいただけの薄化粧が、こまかくなにかの花を染めだした紫色の単衣ひとえと、涼しげな、いい調和をみせていた。
「あらだんごちゃんだったの」おりうは男のような口ぶりで云った、「済まないけれどね、おさかなの膳ができてるから持って来てちょうだい」
「はい」とだんごは答え、益村に振り返って云った、「あたしいま云われたこと決して忘れませんわ」
 そして出ていった。
「なんのこと」おりうは坐って徳利を持ちながら問いかけた、「決して忘れません、だなんて、なにを仰しゃったんですか」
「きれいだな」益村はおりうの姿を、細めた眼で眺めながら云った、「――きれいだ」
「あの子にもそう仰しゃったのね」
 彼は右手をさし出して「こっちへおいで」と云った。おりうは微笑してすり寄り、彼の胸へ肩を押しつけた。彼女の躯はまだほてっているように熱かった。益村はその肩を抱いた。
「痩せているんだな」彼は抱いている手でおりうをそっと揺すった、「折れてしまいそうじゃないか」
 急にばねでもかかったような動作で、おりうは益村にしがみついた。庭でないていたこおろぎの音が止まった。


 ――若旦那さま、あのさえという娘にはお気をつけなさいまし、とのがたなら誰とでもつきあうんです、と下女のとみが云った。
 ――岡野の娘はたいへんな子ですわ、昨日も裏庭の塀の外で、組長屋の誰かと抱きあっていましたわ、わたくしうっかり外へ出て、吃驚びっくりして息が止まりそうになりました、と隠居所の女中のぬいが告げた。
 それだけではない、似たような告げ口を幾たびとなく聞き、安宅はすっかり興冷きょうざめた気分になった。彼はさえを妻にしたいと思った。留守役というむつかしい勤めには、さえのように気の勝った、芯の強い女でなければならない。少年のひとかど悟ったような思案でそう考えたが、じつは文句なしに好きだったのだ。さえが本当に気の勝った、芯の強い娘だったかどうかはわからない。そうでなくっても好きなことに変りはなかったであろう、この藩では重職に準ずる益村の家で、足軽組頭の娘を嫁にとるというには多くの困難があった。けれども不可能なはなしではなく、便法はいろいろあったし、彼はさえと将来を約束するときに、その幾つかの例の方法を語って聞かせた。――さえは頷いただけで、なんの疑いも心配もしないようであった。もともと口数が少なく、ときたまひらめくような、強い光をみせるきれいな眼と、浅黒くひき緊った顔に、すばやくあらわれては消える一種の表情とで、その心の動きがうかがえるというふうであった。安宅が噂の真偽を問いただしたときも、眼にきつい光を走らせただけで、噂の否定もしなかったし、ひとことの弁明もしなかった。
 ――さえが尼になったのは、あのときの傷心のためだろうか。
 益村はそう思いながら、背後の暗がりに人のけはいを感じた。彼は小提灯こぢょうちんを持っている、「衣笠」を出るときに借りたもので、白地に小さく笠の紋がちらしてあった。――幅十尺ばかりの掘割があって、そこを渡ると武家屋敷になる。仁斎橋という橋を渡りかかったとき、うしろで人のけはいがした。それから三つめの辻まで来たいま、そのけはいははっきり人の足音となり、急にをちぢめて来た。
「益村さんですね」とうしろから呼びかける声がした、「ちょっと待ってくれませんか」
 安宅は立停って、ゆっくり振り返った。追いついて来た男を、すぐにこっちの提灯の光がとらえた。背丈は益村と同じくらい、としも三十を出ているようにみえる。色白で眼つきに険はあるが、すっきりとしたなかなかの美男子で、着ながしに両刀を差していた。
「私は芳村伊織という者です」
 益村は相手の顔を見たまま、黙って次の言葉を待った。芳村はどう云おうかと迷ったようすで、けれどもすぐに続けた。
「私のことは聞いていらっしゃると思いますが」
 益村は静かに首を振った、「知りませんね」
「本当に知らないんですか」
 益村は頷いた。芳村の険のある眼がすっと細くなった。
「じゃあ云いますが」と芳村が云った、「衣笠のおりうという女中は私の女です、あなたが御執心でかよっているという評判だが、どうかおりうには近よらないで下さい」
「どういうわけで」
「あの女にはわるい癖がある、男をひきつけ、手だまにとり、夢中にさせておいて棄てる、その手にかかって身をほろぼした男が幾人いるかわからないんです」
 益村はあるかなきかに微笑した、「――つまり、私をそういうめにあわせたくない、というわけか」
「そう思ってもらっても結構です」
「かたじけないな」と益村は云った、「よく覚えておきましょう」
 そして振り向いてあるきだした。芳村伊織という男はあとに残った。
 芳村はどういう立場にいるのか、と安宅は考えてみた。衣笠のおわきの話では、二千石とかの旗本だったが、おりうを追ってこの山ぐにまではるばる来たのだという。事実とは信じがたいが、もし事実だとすれば、少なからず異常だ。旗本御家人というのは幕府の中でも別格な存在で、他のことはともかく、その進退にはきびしい制限があり、女のあとを追って江戸からはなれる、などということは不可能だと聞いている。もちろん人間のことだから、すべての者がその制限に服従して誤らないとはいえない。幕府の禁制も家名も捨てて、江戸から出奔するという例もあるに違いない。――だが、芳村伊織はそんなふうにはみえなかった。人品も悪くないし、暗くてよくは見えなかったが、みなりもきちんとしていた。女のために前後を忘れて、旗本二千石の家名を捨て、こんなところまであとを追って来るような、だらしのない、崩れたような感じはどこにもなく、どこか大身たいしんの武家の道楽息子、とでもいうような人柄にみえた。
 ――いずれにしても、と安宅は思った。あの男がおりうにのぼせていることは慥かだろう、人を追って来て、おれの女だなどと云うのは決してありふれたことではない。
 そして、闇討ちにあうかもしれない、と云った女中たちの囁きが、それほど誇張ではないかもしれない、と思いながら、いったいおりうのほうはどうなのかと考えてみた。
 益村安宅は三日に一度ぐらいの割で「衣笠」へゆく。おりうが来るまでは月に一度か二度だったし、知人か友達といっしょでないときはなかった。けれども去年の十月におりうがあらわれてからは、でかけてゆく度数も多くなったし、いつも独りだけであった。このあいだに、しばしば芳村伊織のことを聞いたのであるが、安宅はまったく気にとめなかった。おりうのようすには、そんな男がいるような感じはちりほどもないし、安宅の心をつかもうと、ひたむきになっている姿にはいじらしいほどの情熱がこもっていた。
さえとはまるで反対だ」と安宅は独りで呟いた、「さえは少しも自分を語らず、黙ったままで尼になってしまった、おりうは自分の存在をはっきり主張し、男をひきつけるためにある限りのてくだを使う、欲しいものは必ず手に入れるだろうし、失敗しても決して尼になるようなことはないだろう」
 おりうさえと対比しながら、益村はふと自分のことを思った。ぜんぜん反対な二人の女性のなかにいた自分が、どちらに対しても「自分」でいたし、現在も「自分」でいる、ということに、おどろきよりも自分の中にある非人情なものを強く感じた。
「そしてお梶だ」と安宅は呟いた、「――さえともおりうとも似ていない、お梶は黙っていて、黙ったまま死んでしまった」
 男の一生はもちろん仕事であろう、けれども男に仕事をさせるのは「妻」であり、妻によって伸びも縮みもする。
「おりうなら留守役としての勤めを、安心してはたせるような支えになってくれるだろう」と益村は自分に云った、「――家中かちゅうの評がどうあろうと、芳村という男がどうじたばたしようと、おれはおりうを放しはしないぞ」
 だが彼の表情には、その呟きとはおよそ反対な、しかんだ色があらわれていた。


 江戸へいった畠中辰樹から、八月のうちに手紙が二通きた。初めの一通は江戸をこきおろしたもので、冷静な畠中にも似ず、肩肱かたひじを張った文字で埋まっていた。――天秤棒てんびんぼうで盤台を担いだ魚屋の二人れが、町を突っ走っていくという。横丁から呼びとめる女房などがあっても見向きもしない。ただもう韋駄天いだてんのように突っ走っていくので、あれでしょうばいになるのかとあきれるばかりである。四方八方、どちらへいっても家ばかり並んでいて、切れ目というものがない。人間とのら犬が多いこと、物売りあきんどが一日じゅう往来して絶えないこと、また一般に言葉が乱暴で、職人などが侍に対してけんつくをくわせる風景など、道で見かけることもさして珍らしくはない。それはいいけれども、家中の者までが酒でも飲むと、べらぼうめとか、こんちくしょうなどと云うのには驚いた。つまり江戸の人間だということをひけらかすつもりらしい、じつに軽薄なものである。そんなことが辛辣しんらつな表現で書いてあったが、それらの字句の裏には、初めて大江戸に接した国侍の、おどろきに圧倒されたようすがあらわに感じられた。――二通めはもっぱら見物記のようなもので、上野や浅草、向島や隅田川での舟遊び、猿若町の芝居の豪奢ごうしゃなことなど、こんどはむしろ誇らしげに書いてあった。
 そして九月になると、三通めの手紙が届いた。その日は亡くなった妻のお梶の命日に当り、こちらの親族二家と、亡妻の実家である園部の人たちを、祥西願寺に招いて法要をすることになっていた。――畠中の三通めの手紙は長文であった。出府して以来まる三十日以上にもなるのに、いつ帰国できるかまだわからない。みれんなようだがそろそろ国が恋しくなってきた。という書きだしで、「川普請の実状を報告すれば、それで用は済むものと思っていたが、幕府の役向きとの交渉にひとやくかわされてしまった。江戸屋敷の者だけでなく、国許の者が加わっていれば、訴願にもはくが付くということらしい。現に三回その交渉の席へ出たし、接待の酒宴ではとりもち役さえ勤めた。鶴井さんのことは以前から聞いていたけれども、実際に接してみて、その人柄がうわさをはるかにしのぐものだということを知ってびっくりした」
 そこまで読んだとき、家扶かふの沢井又二郎がはいって来た。広蓋の上に青竹の籠をのせたのを持っていて、いま使いの者がこれを届けて来たと告げた。
「使いの者が待っておりますが、いかが致しましょうか」
「中はなんだ」と安宅がきいた。
松茸まつたけあゆでございます」
「いま手が放せない」と安宅が云った、「あとで見るから受取っておけ」
 沢井はなにか云いたそうにしたが、益村がまた手紙を読み続けるようすなので、しかたなしにさがっていった。
 畠中は江戸の留守役である鶴井清左衛門について、かなり詳しく書いていた。「四十七歳にもなるのに、留守役としては新任者のようにしかみえない。酒が飲めないとは聞いていたが、本当に一滴も飲めないし、口のききかたもへた、少しどもるうえにすぐ顔を赤くする。五十近くになり一藩の留守役を勤める者が、言葉に詰まって赤面するなどということは、おそらく誰にも信じられないであろう。そればかりではない、鶴井さんは鼻をむという妙な癖がある。初めは拇指おやゆびと食指でつまみ、それから鼻柱の左右を丹念にこすり、ついには鼻ぜんたいを揉み動かすのである。それが人と対談するときや、接待の酒席などで特にいちじるしくなる。おれは誰かに似ているなと、いろいろ考えてみたあげく、南小町の兼しげのおやじのことを思いだし、つい独りで笑ってしまった」
 それを読みながら安宅もふきだした。城下の南小町にある料亭「兼しげ」の老主人は、帳場に坐っていつも自分の大きな鼻をいじっていた。その赤くて肉の厚い鼻を、擦ったりつまんだり、また鼻毛を抜いたり、鼻の穴へこよりを入れて、喉の裂けるようなくしゃみをしたうえ、「くそうくらえ」とどなる。そうしないと風邪をひくのだ、ということであった。――手紙にはなお江戸屋敷の消息がいろいろ並べてあり、幕府との交渉は容易にはまとまりそうもない、と結んであった。
 安宅が手紙を巻いていると、また家扶の沢井がはいって来、自分はこれから寺へゆかなければならないが、使いの者をどうしようかときいた。
「使いの者」と云って安宅は振り向いた、「――なんの使いだ」
「さきほどの松茸と鮎でございます」
「それは受取ったのだろう」
「さようでございますが、使いの者がおめにかかりたいと申しますので」
 なに者だときくと、御婦人であると答えた。どこの婦人かと問い返すと、衣笠の使いで来た者で、おめにかかればわかる、と云っているとのことであった。おりうだな、安宅はそう思い、とおせと云った。沢井が出ていってほどなく、おりうがあらわれた。誰かから借りたのだろう、着物も帯もひどくじみな品であるし、髪も化粧もごく目立たないようにしているのがわかった。
「あたし伺ったりしてわるかったでしょうか」とおりうは坐るとすぐに云った。
「そんなに固くなるな」と彼は笑った、「侍屋敷だって人間の住居に変りはない、坊主も来るし掛取りも来るさ、――鮎と松茸だそうだが妙なとり合せじゃないか」
「どっちもあんまりみごとなものでしたから、それに久しくおみえにならないし、どうしていらっしゃるかと思って」そしていつものこびのある眼をして云った、「――もしわるくなかったら、ちょっとお台所でなにか作ってみましょうか」
「せっかくだが」と安宅は答えた、「今日は寺で法事があるから、まもなくでかけなければならないんだ」
 おりうはじっと彼の眼をみつめた、「怒っていらっしゃるの」
「死んだ女房の法事なんだ」
「あたしのこと、なにかお聞きになったんでしょ」おりうは安宅の言葉をさえぎって問いつめた、「きっとそうなのよ、あたしにはどんな陰口をお聞きになったか、およそ見当がついてます、だから衣笠へもいらっしゃらないんでしょ」
 縁側のほうから、若い家士の栗原が茶菓の盆を持ってはいって来、益村の脇へそれを置くと、おりうに会釈して去った。おりうはすり寄って盆を引きよせ、茶をれて安宅にすすめた。
「昔こんなことがあった」と安宅は茶碗を取りながら云いだした、「――まだ少年のころだったが、好きな娘ができてね」
 ちょうどあの庭のうしろに、その娘の家があった、と彼は手をあげて指さしながら、岡野さえとのいきさつを語った。いま益村家の庭は秋のさかりで、別棟になった数寄屋のまわりにある杉林の、黒ずんだ緑のあいだから、若木のかえでのみごとに紅葉した枝の覗いているのが、朱を点じたようにあざやかに眺められた。池のまわりにあるすすきはみな穂をそろえているが、風がまったくないので、その穂はみなひっそりと、秋の午前の陽ざしをあびたまま動くけはいもなかった。
「その娘がふしだらだという告げ口は、二人や三人から聞いたのではなかった」と彼は続けた、「おれはまだ十八そこそこだったし、生れて初めての経験だから、辛抱しきれなくなって娘を問い糺した」
 おりうは眉をひそめ、いかにも心が痛むというふうに呟いた、「可哀そうに」
「娘は弁解らしいことはなにも云わなかった、黙って、きつい眼つきでおれの顔を見まもったまま別れ、それっきり会わなくなった」彼は茶を啜り、茶碗を持ったまま、ちょっと息をついでから続けた、「――若いからおれは長くは悩まなかった、まもなく忘れたんだろう、そして二年ばかりのちに、その娘が尼になったと聞いてびっくりした」
 藩の菩提所ぼだいしょ、鶴尾山万祥寺に清法院という尼寺がある。先々代の藩主、安房守正刻あわのかみまさときの側室に――といっても国許のことだから公式ではないが――松室よりという人があり、安房守の歿後ぼつごその菩提をとむらうため尼になった。そこで先代の河内守正元まさもとが、菩提所の地続きに清法院を建て、松室氏は鶴心尼かくしんにとなのってその庵主あんしゅとなった。さえはその鶴心尼をたよって清法院に入ったのである。
「よく聞いてみるとほかにも事情があったようだ」と安宅は話し続けた、「――相手はわからないがみそめられて、どうしても嫁にゆかなければならなくなったという、下には弟が二人いるし、断わる口実がない、それで尼になったのだということだ、そのほうが実際の理由だったかもしれないが、おれにはそれだけだと思いきることができなかった」
「もちろんよ」とおりうが低い声で云った、「それはあなたの罪にきまってますわ」そして安宅をにらんでからきいた、「いまその方、どうしていらっしゃるんですか」
「五年ばかり京のほうへ修業にゆき、いまは戻って鶴影尼かくえいにとなのり、清法院の庵主につかえている」
「おきれいな方なのね」
「そういうこととはもう縁のない人だ」と云って安宅は顔をそむけ、さりげない口ぶりで呟いた、「――それ以来、おれは、噂やかげぐちでは、人の判断をしないことにしているよ」
 おりうはうなだれて、安宅の言葉をあじわうかのように、独りでそっと頷いた。
「もうでかける時刻だ」と安宅が云った、「近いうちにゆくからこれで帰ってもらうよ」


 おりうがたずねて来たことで、益村安宅の気持は少しはずんだ。けれどもそのあとで、はずんだ彼の気持に水をあびせられるようなことがおこった。祥西願寺は鶴尾山にあり、深い杉の森を隔てて藩侯の菩提所と接している。寺はその森に沿った石段の上にあり、本堂、講堂、食堂じきどう、客殿、宝蔵などのほかに、三重の塔もあって、近国でも名刹めいさつの内にかぞえられていた。本堂で法要が行われたあと、客殿で茶菓が出、益村、園部両家の者が暫く対談した。益村のほうは庄司五郎左衛門と妻、鵜殿うどの久左衛門と妻。庄司は安宅の亡父の次弟で五十七歳、鵜殿は三弟で五十五歳だった。園部のほうは亡き妻の実父である内記と、その後妻。また亡妻の弟に当る長男の金三郎。ほかに米村、吉川の両夫妻という顔ぶれであった。
 庄司の叔父は話し好きで、どんな席でも、また相手が誰であっても構わずに、自分の好きなことを勝手に饒舌しゃべる癖がある。亡くなった父から聞いたのだが、叔父は幼ないころに熱病をわずらって聴覚が鈍り、人の云うことがよく聞きとれなくなった。庄司家へ養子にいってから五郎左衛門と名のるようになったが、益村にいたときは源二郎といった。そのころ父が「源二郎」と呼ぶと、叔父は「はい」と答えて、ま夏にもかかわらず炭取を持ってゆくとか、冬のさなかに団扇うちわを持ってゆくとかする。そこで単に「二郎」と呼んでみると、庭師をつれて来たり、台所から人蔘にんじんを一本持っていったりしたそうである。むろん番たびではないが、人の云うことを聞き違える、という弱点に自分で気がついたのだろう、それからはもっぱら自分で饒舌るようになった、ということであった。自分が主導権をにぎるためには、話し相手を飽きさせてはならない。そこで叔父はよく勉強したし、話術についてもくふうをかさねたうえ、独特のやりかたをあみだした。その一例をあげると、うりを取りあげて、「これが虎の先祖だそうですな」という。聞いている者はびっくりするか、ばかばかしいと思うかの二者にわかれる。そこで叔父は本草綱目ほんぞうこうもくとか植物啓原けいげんとか賤爪木しずのつまぎとか、そのほか聞いたこともないような書目を並べて、それを証明してみせる。しかもけむに巻くというのではなく、筋のとおった理論と裏づけがあるため、聞く者は「なるほど」と思い、虎は瓜から進化したものだと信じて、自分が賢くなったような気分になるのであった。
 その叔父が園部の人たちを、例のとおり話のとりこにしていたとき、園部鎌二郎がはいって来た。彼は二男で、兄の金三郎とは腹ちがいで二十一歳、躯つきも顔だちも兄とは似ていないし、一族ちゅうの暴れ者といわれていた。――彼がはいって来たとき、益村安宅は鵜殿の叔父と話していたが、誰かがこっちを見まもっているけはいを感じて振り向いた。そして、園部鎌二郎が左手に刀を持ち、立ったままこっちをにらんでいるのを認めた。刀は玄関で預けるのが作法である、それを手に持ち、しかも左手に持っているというのは、挑戦でないにしても、敵意を示すものだということは明らかであった。
実花みばなを飾って仇花あだばなを隠すか」鎌二郎はそう云いながら、するどい眼つきでその席を見まわし、鼻でふんとわらった、「――この法要はごまかしだ、こんな法要はやめてしまえ」
 金三郎が「鎌二郎」と制止した。とたんに彼は安宅に向かって指を突き出した。
「あんたはなんのためにこんな法要をするんですか、なんのためです」と鎌二郎が叫ぶように云った、「こうすれば世間や親族の者が、貞心のあつい男だと思うだろうという計算ですか」
 安宅はまた鵜殿の叔父のほうへ向き直り、それまで話していたことを話し続けようとした。園部金三郎と一族の米村平太夫が立ちあがって、鎌二郎を押し出そうとし、鎌二郎はこんどは声いっぱいに叫んだ。
「生きている者はごまかされても、死んだ者のたましいはごまかされないぞ、下賤げせん売女ばいたを囲っていながら、こんな殊勝らしい法要をしてみせる、死んだ姉の眼には見とおしだぞ、恥を知れ益村安宅」
 終りの言葉は、押し出された縁側から聞え、金三郎と米村に押されて、そのまま玄関のほうへ遠ざかっていった。誰もなにも云わなかった。ははあ、と安宅は思った。みんな鎌二郎の云ったことを正しいと思っているんだな、噂はここまで弘まっていたんだ、鎌二郎が亡くなった姉のたましいなどを口にしたのは、姉のたましいが問題ではなく、おれの不行跡をあばきたかったのだろう、それにしては絶好の席でありいい機会だったというわけだ。そう思って安宅はひそかに苦笑した。――庄司の叔父は園部の人たちとの話に戻り、鵜殿の叔父も安宅との話を続けようとした。婦人たちは婦人たちで、やはりなにごともなかったように、やわらかい声で話したり含み笑いをしたりしていた。
 ――孤立無援、四面楚歌しめんそかというところか。
 安宅は心の中でそうつぶやいた。彼は自分がはらをたてていないことに気づいた。鎌二郎は亡きお梶の腹ちがいの弟だから幾たびとなく会っているし、一本気で粗暴な性分もよく知っていた。けれども「姉のたましい」などと叫びだすほど、お梶を愛していたことはなかった。ではなぜあんなことを叫びだしたのか、「衣笠」がよいや、おりうの噂が弘まっていることはたしかであろう、だがそれだけではない。鎌二郎の無礼な罵倒ばとうに対して、園部の親や一族はなにもしなかったし、詫びごとを云おうともしなかった。
 ――おれが交代留守役だからだ。
 留守役は他藩との政治的な折衝や、御用商人との交渉がおもな役目であり、しぜん招待の応酬で酒席にのぞむことが多い。それは「役目」であり、自分が望んですることではないから、飲む酒もうまくはないし、女たちに興味をひかれることもない。けれども他人にはそうとは思えないだろう、はたの者からみれば酒は酒であり、遊興は遊興なのだ。そればかりではない、「かれらは御用商人たちから賄賂まいないを取っている」ということを、まじめに信じている者さえ少なくないのだ。
 ――それが今日の席であらわになった。
 こちらの親族はどうしようもなかったろう。だが園部一族はかたちだけでも詫びを云うべきである、金三郎と米村とは、ともかくも彼を外へ押し出していった。しかし、鎌二郎の云いたいことは云わせてからであった。おやじもこんなめに幾十たびとなくあったことだろう、それからあの祖父も、と安宅は思った。祖父が藩侯から皮肉を云われるほど庭に凝ったのは、そういう不快な、理由のない誹謗ひぼうからのがれるためだったかもしれない。そしておれはいまおりうか、よし、ひとつおりうを妻にして、みんなをあっといわせてくれようかな、安宅はそう思い、すると心がなごやかになるのを感じた。
 客を送り出し、方丈に寄って用を済ませた。住職の徹心和尚は七十幾歳かになるが、安宅の差出した布施ふせの包みをすぐにひらき、中の金額をしらべ、気にいったようすで頷きながら、さっきの若者は弓をやっておるな、と云った。益村安宅にはなんのことかすぐにはわからなかった。
「それ、――こんな法要はごまかしだ、と喚いていた若者よ」と和尚は云った、「おまえさんのほうへ指を突きつけていたが、眼つきは※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あずちの的をねらっているようだったぞ」
「それは気がつきませんでした」と安宅は答えた、「どこから見ておいででした」
「あの男は弓をやるだろう」
「家中では五人のうちに数えられているそうです、しかしどこから見ておられたんですか」
「これで助かった」和尚は布施の金を掌でもてあそびながら、へらへらとそら笑いをした、「――これだけあれば塀が直せるだろう、このあいだの風でな、南側の塀が二十けんも倒れおって」
 益村安宅はいとまを告げた。徹心和尚は必要なときにいつでもつんぼになれる、自分の云いたいことだけは云うし、聞く必要のあることは聞くけれども、それ以外のことには決して耳をかさない。突然つんぼになり、どんなに大きな声を出しても、平気でしらをきりとおすのであった。
 境内をぬけて石段にかかったとき、下から登って来るさえと会った。黒の法衣に白の頭巾をかぶってい、片手に白い山茶花さざんかを入れた閼伽桶あかおけを持っていた。僧形そうぎょうの彼女とじかに会うのは初めてであるが、岡野さえだということはすぐにわかった。
「暫くですね」と安宅が呼びかけた、ごく自然に声が出たので彼は自分でも意外だった、「お達者ですか」
「はい」さえは眼を伏せた、「――あなたも御壮健で」
 言葉はそこで切れた。言葉をしまいまで云わないようなことは、昔はなかった。いつでも語尾をはっきり云う少女だったが、と安宅は思った。
「今日はどうしてこちらへ」と安宅がきいた、「ああ、清法院はすぐ隣りでしたね」
 さえは静かに顔をあげて安宅を見た。もとから浅黒い膚だったが、陽にやけたのだろうか、その小さな細い顔は小麦色につやつやとして、意志の強そうな眼や、ひき緊った口許くちもとはあのころのおもかげをそのまま残していた。杉の香が森のほうから爽やかに匂い、陽がかげった。すると頭巾をかぶったさえの顔が、青白むようにみえた。
「初めて山茶花が咲きましたので」と云いながらさえはまた眼を伏せた、「――御命日でもあり、お墓へ供えようと思いまして」
 では亡き妻の墓参をしてくれようというのか、そう思って安宅は心が痛むのを感じた。心に痛みは感じたけれども、ふしぎに気持は軽くなった。――自分の誤解がもとで二人は別れ、そのあとお梶と結婚した。本来ならさえにとってお梶は恋がたきである、たとえお梶が亡き人になったとしても、女の気持としてはたやすくゆるせるものではないだろう。それをいまさえは墓参をし、供養しようとしている。安宅は気持の軽くなったのに気づくとともに、それまでさえのことが、そんなにも胸につかえていたのかと思って、われながらおどろいた。
「それはどうもありがとう」と云って安宅は会釈した、「――お宅のみなさんも御無事ですか」
「家族とはき来を致しませんけれど、弟の順之助が小姓組こしょうぐみに召された、ということを聞きました」とさえが云った、「子供も二人めが生れたそうでございます」
「ああ」と安宅は空を見あげながら、無感動な口ぶりで云った、「それはめでたいですね」


 なにかほかに云うことはなかったのか、十幾年ぶりかに昔の恋人と会って、ああそれはめでたいですね、とは芸がなさすぎるではないか、と安宅は思った。
「あたし今夜は酔うわ」とおりうが云った、「いいでしょ、飲んでも」
「その男ははらを立てていたらしい」と安宅が酒をすすりながら云った、「今日は酔うぞと云ってむやみに飲んだ」
「なにを云いだすの」
「酔ってうっぷんをはらすつもりだったんだろう、村松庄兵衛という徒士組かちぐみの者だったが、酒にはあまり強くなかったんだな、うっぷんをはらすまえに酔いすぎて、酔いつぶれてしまって、倒れるまえにひとことだけどなった、あんまり人をばかにするな、ってさ」
「いやな方」おりうはふきだしながら安宅をにらんだ、「あたしお酒には強いのよ」
「酌はしないよ」と安宅が云った。
「お酌してちょうだい」おりうは盃を安宅のほうへ差出した、「――あたし六つぐらいのとき、お勝手でぬすみ酒をしたことがあるの、おじいさんの取って置きだったんだけれど、おいしかったわ」
 いや、ほかに云うことはなかった、と安宅は思った。尼になっているさえに向かって、あのほかになにを云うことがあろう。昔の誤解を詫びても取返しはつかないし、慰めを云うのもそらぞらしい。やはり、弟に二人めの子供が生れたことを、祝うよりしかたがなかったであろう。それにしても、さえの目鼻だちはあのころと少しも変ってはいなかったな、と安宅は思った。
「そのひと芳村伊織っていうの」とおりうは話していた、「――三河以来の旗本で、代々八百石のお家柄なんですって」
「二千石じゃあないのか」
「やっぱり噂を聞いてらしったのね」
「二千石となるとね」安宅は酌をしてやりながら云った、「この藩では城代家老でさえ千石が欠けるからな」
「話を聞くのがおいやなんですか」
「べつに」と云って彼は片手をあげた、「話したいのなら聞きますよ」
 おりうは打つまねをした。
 彼女は男運が悪かったと云った。家は江戸の木場きばで小さな材木屋をやっていた。問屋ではなくて、注文された材木を問屋から卸し、買い手に渡す仲買のようなもので、男の雇人も三人しかいなかった。木場は気ふうの荒いところであり、おりうはひとり娘だったから、しぜんと勝ち気になり、幼ないころから、自分が女であることを常にのろわしく思って育った。
「おかしいようだけれど、笑わないでね」おりうは酔いのために少し赤くなった頬へ、そっと手をやりながら云った、「――あたしのからだわせだったのね、十二の春にお乳がふくらみだしたの、もう恥ずかしくって恥ずかしくって、おっ母さんとお湯へはいるのもいやだったし、両方のお乳を切って捨ててしまいたいって、本気になって考えたくらいよ」
 躯に娘らしいまるみがあらわれるにつれ、自分の肉躰にくたいが汚辱されけがされ、腐ってゆく革袋かわぶくろのように思えた。そして男がうらやましく、男に生れてこなかった自分を憎悪した。――おりうが十五の年に父親が急死し、父はしょうばいの才がなかったため、あとに借金が残って、母親とおりうはたちまち生活に窮した。母親もまたおっとりした人というだけで、親子二人のくらしをたてるだけの気力もなかった。
「めぐりあわせってふしぎなものね」とおりうは云った、「女だということをそんなにも嫌ったあたしが、髪化粧をし派手な物を着て、女であることをひけらかして生きなければならなくなったのよ、その年の十一月、あたしは東両国の甚兵衛じんべえという、小さなお茶屋へかよい奉公にはいったんです」
「十五にもなれば早いとはいえないさ」
「あたし十七より下ではないって云われましたわ」安宅に酌をしながら、おりうはいたずらっぽく微笑した、「誰にも負けてはいないし、旦那にでもおかみさんにでも突っかかっていくから、十五やそこらの小娘とはみえなかったんでしょ、甚兵衛は二十日ばかりかよっただけでやめてしまいました」
 安宅は庭を見た。百日紅さるすべりの花は散りつくして、石仏の脇にあるはぜの木がみごとに紅葉していた。我流の庭造りにもとりえはあるんだな、と彼は思った。腰掛のある築山や、池に架けた石の太鼓橋や、そこらじゅうにある石燈籠いしどうろうや石仏を囲んで、無計算に植えられた木や竹や草類は、無計算なままで、それぞれが季節どおりに花をつけ、紅葉し穂を出す。いまはぜの木が血のような鮮やかな色に紅葉しているが、それが脇にある石仏のこけむした姿と、おどろくほどぴたりと調和してみえた。
「甚兵衛をやめてから矢の倉の鳥万、馬喰ばくろ町の平松、神田の翁屋おきなやと、勤めてはやめ勤めてはやめ、みんな三十日そこそこしか続かず、十六の春ようやく、こうじ町平河町の稲毛という店へ住込みでおちつきました」
「そんなに喧嘩っ早かったのか」
「あなたは知らないのよ、お茶屋へ来るお客がどんなにいやらしいかっていうこと」おりうは手酌で飲み、膳の上を見て眉をしかめた、「あら、――おさかながなくなっちゃってるのね」
「芳村という侍もその一人か」と安宅が盃を取りながらきいた。
「平河町へいくとすぐ」とおりうは答えた。
 稲毛善兵衛というその料理茶屋は、周囲に旗本屋敷が多いので、客の大半は武家であった。おりうはうれしかった。おりうは小さいじぶんから侍にあこがれていたのだ。ふだん着にはかまをはき、両刀を差し、額をあげてさっさっと歩く。だらしなく脇見をしたり、話しながらあるくようなことはない。またかみしもを着け、供をしたがえてゆく姿は、その人が年寄りであろうと若侍であろうと、うっとりするほど清潔で男らしく思われた。下町では侍客はまれにしか来なかったし、道で見かけるようなきぱっとした人はいなかった。勘定はめるし、酔うとくどく女たちにからむし、ちょっと気にいらないことがあると暴れだすし、これが侍かと思うような人ばかりであった。おりうは幾たびかそういう侍客に反抗し、爪を立てたり噛みついたりしたことがある、といった。
「そのあいだに」と安宅がきいた、「――いい人はひとりもできなかったのか」
「ひとりも」とおりうは答えた、「おっ母さんにはできたのよ、あたしが十六になった春、呑んだくれの左官屋といっしょになったわ、躯がこんなに太って、どこもかしこもぶよぶよして、朝から晩まで呑んだくれていたわ、おおいやだ」おりうは顔をしかめて頭を振り、肩をすくめて身ぶるいをした、「いま考えてもぞっとするわ、女っていやなものだって、つくづくそう思ったものよ」
 それで稲毛へ住込みにはいったのだ。
 侍客の多い稲毛はおりうの気にいった。そうしてすぐに芳村伊織と会った。五人ばかりといっしょに来た芳村は、あびるほど飲んでもあまり酔わず、声もたてないでおりうを見ていた。ふと気がつくと、あたたかな、いたわるようなまなざしでじっとおりうをみつめているのである。おりうは生れて初めて、自分が女だということを感じ、これまでかって起こったことのないものが、躯の奥のほうでなまなましく動きだすのを感じた。
「こんなこと云っていいのかしら、笑わないでね」
「珍らしいことじゃないさ」
「初めはほんとにそうだったの、正直に云うけれど、初めのころはあの人を見ると、ここんところに」おりうは下腹部へ手をやった、「ここんところの奥のほうに、ちょうど手を握ったくらいの大きさのものができて、それが生き物のようにぐうっと動くのよ」
「そんなことは云わないほうがいいらしいな」そう云って益村は酒を啜った。
「もうおしまいよ」とおりうが云った、「そんなことは初めの五たびか六たび、それからあとはうんざりだったわ」
 お梶にもそんなことがあっただろうか、と安宅は思った。二十歳はたちで嫁に来たお梶は、わたくしなにも存じませんと云うだけで、いつもひっそりと眼を伏せていた。寝屋にはいっても人形を抱くようで、なんの感動もあらわさず、はじらいさえもみせなかった。自分が女であることを、そんなにも憎悪したおりうがそうであるのに、いかにも女らしくしとやかだったお梶に、そんなけぶりもなかったのはどういうことか、と安宅は心の中で反問した。
「江ノ島へ三度、大山おおやまへ一度」とおりうは続けていた、「――やれ船遊びだの螢狩ほたるがりだの、汐干しおひだの花見だのって、そう、なか(新吉原)へもずいぶんれていかれたわ、そうよ、なかにはあの人にのぼせあがってるひとが二人もいたわ」
 そのとき障子の外で、「だいぶ評判がいいじゃないか」と云う声がし、すっと障子があいた。芳村伊織が、ふところ手をして立っていた。酔っているのだろう、おもながな、すっきりした顔が少し赤く、着ながしの裾がちょっと乱れて、粗毛の生えているすねが見えた。
「この女には近よるなと云った筈だ」と芳村はふところ手のままで云った、「――そろそろ帰ってもらおうかな」


 その次にいったとき、おりうはぶあいそで機嫌がわるかった。どうかしたのかときいても、初めのうちは返辞をそらして、女には自分で自分の気持をどうすることもできないときがあるのだ、などと云い紛らわしていたが、そのうちにふと坐り直し、眼を据えて安宅を見た。
「あんなふうに云われて」とおりうはなじるような口ぶりで云った、「どうしてなにか云い返さなかったんですか、どうしておとなしく帰ってしまったんですか」
 安宅は眼を細めて庭を見た、「もみじが散ってしまったな」それからおりうに振り向いて微笑した、「――女でさえかなわないのに、男のおれにかなう筈はないじゃないか」
「なんのことをおっしゃってるんです」
「本当を云うと、あのときはもう帰りたくなっていたんだ」
 おりうは彼をにらんだ。そのとき障子の外で「おねえさん」と声をかけてから、だんごがはいって来た。だんごは酒と肴をのせた盆を持っていて、安宅に笑いかけ、こっちへ来てその盆をおりうの脇に置いた。おりうは膳の上の徳利や皿をおろし、新らしい徳利や肴の皿小鉢を膳へ移した。
「先生」とだんごが呼びかけた、「この着物いいでしょ」
 荒い滝縞たきじまの着物の、両袖を左右にひろげてみせながら、だんご昂奮こうふんしたような眼つきで安宅の表情をうかがった。およしなさい、ばかねえとおりうが云った。
「うん、いいね」安宅は頷いた、「よく似あうよ」
「おりうねえさんにいただいたの、わりと似あうでしょ」
「よく似あうよ」
 おかみさんもおわきねえさんも似あわないって云う、おわきねえさんが似あわないって云うのは、自分が欲しいからだと思う。だんごはそんなことを話し続けようとしたが、おりうに注意されると、盆を持って立ちあがり、なにやら残り惜しそうな動作で出ていった。
「おわきさんのお目付よ」おりうは安宅に酌をしながら云った、「みていてごらんなさい、こんどは自分でやって来るから」
まらないことを気にするな、おわきはとも三十だっいうじゃないか」
 おりうはふきだして「お上手だわ」と云った。安宅は眉をしかめながら酒を啜った。おわきの口まねをした自分の軽薄さに、自分でうんざりしたようであった。
「ねえ」とおりうが含み声で云った、「こんど袖ヶ崎へ伴れていって、ひと晩泊りで、いいでしょ」
権八ごんぱちをきめこむとはなんのことだ」と安宅がきいた、「ここの隠居の呼び名でなく、江戸でそんなことを云うらしいがね」
「また話をそらす」
「知らないのか」
居候いそうろうのことでしょ」とおりうが答えた、「あの人も権八をきめこんだわ、あの人こそ本当の権八よ、それであたしすっかり嫌いになってしまったの」
「袖ヶ崎へはいつかいこう」安宅は酒を啜って云った、「ついては本当の権八がどうして嫌いになったか、聞きたいものだな」
「聞いてどうなさるの」
「焼いて食うわけじゃないさ」と安宅が云った、「おりうほどの女が江戸から逃げだすくらいだったとすれば、相当ないきさつがあったと考えてもいいだろう」
「それが二一天作にいちてんさく、いきさつどころか、はっきり割切れたはなしだったわ、あの人がのぼせあがって、あたしに付きまとえば付きまとうほど、あたしにはあの人がいやでいやでたまらなくなったの」
「それでも江ノ島へ三度、大山へゆき、くるわがよいにも伴れてゆかれたんだろう」
「あの人は稲毛ではいい客の一人で、主人夫婦が守り本尊かなんぞのように大事にしていたものですから、お供をしていけと云われれば断わるわけにはいかなかったんです、――それに、――一杯いただいていいかしら」
 安宅は頷いて、膳の上に伏せてある盃を取っておりうに渡し、酌をしてやった。
「それにまだそのじぶんは」と酒を飲んでからおりうは続けた、「――嫌いといってもそれほど嫌いじゃありませんでしたし、旅をするときには二人っきりではなく、ほかにも伴れがいましたから」
「話がきれいすぎやしないか」
「袖ヶ崎へいけばわからないけれど」と云っておりうは安宅をながし眼で見た、「あたしの躯はまだきれいですよ」
「そんなことを云ってやあしない、話のはこびがきれいすぎると云ったんだ」
「そこまではね」おりうは片頬で微笑し、手の中で盃をもてあそんだ、「――そんなことをしているうちに、お家がつぶれてしまったんです」
 放蕩ほうとうと借財に加えて、御朱引ごしゅびきの外へ出たということがとがめられた。旗本、御家人は特に許可された場合のほか、原則として江戸から外へ出ることを禁じられていた。原則には必ず裏のあるものだ。そのきびしいおきての目をくぐって、箱根や草津へ湯治にゆくとか、筑波つくば赤城あかぎ、富士などへ山登りをするとか、水戸の浜から鹿島かしま香取かとりに参詣するなど、結構よろしくやっている例も稀ではなかった。けれども、いちど公然と摘発されれば※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれるすべはない。ことに芳村は二十三歳にもなるのに結婚もせず、放蕩のために借財もかさんでいたから、親族の人たちも敢て周旋しようとはしなかった。
「あれはあたしがはたちの年だったわ」おりうは安宅に酌をしながら云った、「いまからちょうど四年まえね、あの人がまっすぐにあるけないほど酔って来て、三河以来の家名が潰され、自分はいま知人のところで居候をしているって、ぐちをこぼしだしました」
 庭で澄んだ鳥の声が聞えた。つぐみだな、と安宅は思った。さえの父の岡野久太夫は鳥を捕るのが上手で、捕った小鳥の幾種類かは自分で飼っていた。安宅にはうぐいすめじろ頬白ほおじろくらいしかわからなかったが、益村家の庭からでも、久太夫の飼っているそれらの小鳥の声がよく聞えたものだ。そして冬になるとつぐみを捕って益村家へ持って来、自分で巧みにあぶり焼きをつくった。祖父が好きだったからだろう、父は喰べなかったが、安宅は祖父の相伴しょうばんで、毎年その焙り焼きを喰べるのがたのしみだったし、久太夫が鳥さしにゆくときついていったりして、その鳴き声も覚えてしまった。
「こんどはおまえの番だって云うの」とおりうは話し続けていた、「おれはおまえのために家名も侍の面目も投げだした、こんどはおまえが自分を投げだす番だって、そして、いきなりとびかかってあたしを押し倒したわ」
 おりうは抵抗しなかった。躯の力をぬき、眼をつむって、されるままになっていた。芳村伊織は溺れそうになった人間のように、激しくあえぎながらおりうの帯を解き、着物をぬがせ下衣したぎいだ。しかし彼にはそこまでしかできなかった。裸にされた素肌に、夜風の冷たさを感じて、おりうが眼をあけてみると、芳村はすぐ脇で仰向けにのび、苦しそうに両手で胸を押えて、頭を左右に振り動かしながらうめいていた。おりうはすばやく、着物で肌を隠しながら起き直ったが、恥ずかしさと怒りで気が狂いそうになった。気が狂いそうになったというのは、その場で芳村を殺してやりたいと思い、芳村の脇差を取って抜いたのが証拠だ。
「刀ってこわいものね」おりうはぞっとしたように肩をすくめた、「――行燈あんどんあかりが刀にうつって、ぎらっと冷たく光るのを見たら、急に躯がすくんで、がたがたふるえだしてしまったわ」
 おれに残っているものはおりうだけだ、芳村伊織は呻きながら、苦しそうに喘いだり身もだえをしたりしながら云った。おれはおまえをはなさないぞ、水の底、土の中、火の山へ隠れたっておれははなれない、おりうはこのおれのものだ、と芳村は繰返した。
「刀の刃を見てふるえだしながら、あの人がうわごとのようにそう云うのを聞いたとき、あたしは死びとの呪いを聞くように思いました、死んだ人が地面の下から手を伸ばして、あたしのことをつかまえようとしている、本当にそんなような感じだったんです、――あたしその晩のうちに、稲毛から逃げだしました」
 安宅はおりうに酌をしてやった。おりうが盃を口へ持っていったとき、声をかけておわきがはいって来、あちらでお呼びよ、とおりうに云った。おりうは盃の酒を飲みほして、あたしにですかときき返した。そう、あんたよ、ここはあしがお相手をするからいっらっしゃい、お座敷はいつもの菊よ、とおわきは答えた。いつもの菊と聞いたとき、おりうの顔色が変るようにみえた。おわきは安宅に一種の眼くばせをし、坐って燗徳利かんどくりを取った。
 おりうは盃を置き、「お願いよおわきねえさん」と両手を合わせて云った、「今夜はあの人の顔を見たくないんです、すみませんけれど誰かに代ってもらって下さいな」
「あらだって大事なお客よ」とおわきは安宅に酌をしながら冷たい口ぶりで云った、「それにあの方が、あんたのほかには誰もよせつけないっことも知っるでしょう」
 おかしななまりだ、この女はどこで生れたんだろう、と安宅は思った。おりうはなおもおがみ倒そうとしたが、おわきは冷淡にはねつけた。おりうは益村の顔を哀願するようにみつめ、益村安宅は盃を伏せて、帰ると云った。
「あら、どうなったんです」とおわきは眼をみはった、「あしのお酌じゃあお気に召さないんですか」
「云いがかりをつけるな」立ちあがりながら安宅は苦笑した、「帰りたいから帰るだけだ、どうしても酌がしたければ屋敷まで来てくれ」それからおりうに向かって云った、「亡くなった母が云ったことだけれど、女はどんな大身たいしんの生れでも、自分の着物は自分で縫うもんだそうだよ」


 それから五日めに庄司家へ招かれた。
 叔父の長男である祐四郎に二男が生れ、その七夜の祝いが催されたのである。五郎左衛門夫妻は子福者こぶくしゃで、男が四人、娘が三人いた。二男と三男は早くから養子にやり、娘も二人は嫁にいったから、いまでは彦三郎という四男と、娘のしずだけしか残っていないが、長男の祐四郎には三十歳なのに、もう女の子が三人、男の子が一人いた。こんど生れたので男女五人という、親に劣らない子持ちであるし、「まだ若いんだからあと三人や五人は生めるだろう」と五郎左衛門は云っていた。――祝いの席には八人の客が集まった。女客は別の座敷で、これは三女のしずが相手をし、こちらのほうは叔母のせきと、若い二人の家士かしとでとりもちをした。八人の客のうち鵜殿の叔父と、祐四郎の役所の上役である安部斎宮あべいつきをのぞいた他の六人は、祐四郎と同じ年配の者ばかりで、安宅の知っている顔も二三みえたが、彼はそっちへは近よらず、もっぱら鵜殿の叔父と話した。かれらが自分に反感をもっていることは明らかであって、留守役は嫌われるという通念は、その場のようにこちらが一人、かれらの数の多いときなど、もっとも露骨にあらわれがちだからである。庄司の叔父は安部斎宮をつかまえて、例のふしぎな博物学を展開しているらしい、むろんそのなかまに加わる気持はなかったし、鵜殿の叔父は話し相手としては退屈であった。この人は酒が強いくせに、盃一つを四半ときもかけて飲むというふうであり、自分の屋敷のどこそこの柱が西方へ一寸がた傾いているという、およそ他人には興味も関係もないことについて、めんめんと半刻も話し続ける癖があった。そのときも昨日なにがし家に呼ばれて碁を打ち、一日じゅう打ちくらしてしまったということで、朝起きたときから始め、途中の路上で犬と犬が大喧嘩をしていた、というように話し続けていた。この順でいくとなにがし家へ着くまでにどのくらいかかるかわからないし、着いてから碁盤に向かい、さらに布石ふせきのもようまで説明されたらと考えると、とうてい自分の忍耐力ではかなわないと思い、ちょっとなつをみまって来ると、立ちあがってその座敷から逃げだした。
 廊下で八歳になる長女のこそのをみつけ、産室への案内を頼んだ。なつ屏風びょうぶで囲まれた夜具の中に寝て、赤子に乳をやっているところだった。彼女はもとから少し肥えているほうだったが、子を生んだいまでも痩せたようすはなく、色の白い、やわらかそうな肌は、つやつやと張りきっているし、赤子に含ませている乳房の重たげな、たっぷりとしたふくらみは、まぶしいくらい美しくなまめいてみえた。
「ごめんなさい、こんな恰好のままで」
「私こそ失礼しました、またあとでまいります」
「いいのよ」なつは微笑した、「もう五人の母になったんですもの、いまさら恥ずかしがってもしようがないわ」
 安宅は坐って、なつの胸を見ないようにしながら祝いを述べた。彼女はあっさりした口ぶりで、おとうさまが子福者だから、自分たちもその筋をひいているのだろうが、このとしで五人もの子持になるのは気が重い、もうこの辺でおしまいにしたいと思う、などと云った。やがて眠った赤子を、並べて敷いた小さな夜具に寝かせると、彼女は寝衣ねまきえりを合わせながら起きあがり、衣桁いこうから羽折はおりを取ってはおり、夜具の上に戻ってきちんと坐った。
「ねえ安宅さん」なつは声の調子を変えて云った、「いちど伺って聞きたいと思っていたんだけれど、杉原さんとの縁談をどうなさるおつもりなの」
「この秋の初めのことですがね、大滝の上流で釣りをしていたんです」と安宅が云った、「どうしたわけだかえさをすっかり取られちまいまして、餌なしのはりだけで釣っていました」
 なつは「また始まった」といいたげな眼つきをしたが、黙っておとなしく聞いていた。
「そこへ畠中辰樹がやって来ましてね」彼はのどで笑った、「餌のない鉤で釣ってるんだってと眼をきましたっけ、そのうえ浮子うきが動くたびに魚がくってるんじゃないかと思って、気持がおちつかないからどうにかしろって注文をつける始末でした」
「それでおよそのことがわかったわ」となつは云った、「つまりいまのところ安宅さんは、餌を付けない釣鉤というわけね」
「餌箱がからっぽだったんです」
「魚をよせつけたくないんでしょ」
「あなたはさきくぐりをなさりすぎる」と云って彼は微笑した、「私は釣りの話をしたまでですよ」
「もうひとつうかがうけれど」なつは彼の眼をじっとみつめ、声をひそめてきいた、「――衣笠に馴染なじみの人がいるっていうのは、本当なんですか」
 安宅はちょっと当惑したようすで、眩しそうに眼を細めたが、すぐにそっと頷いた。
「そう、本当だったの、そう」なつの顔に心外そうな表情があらわれ、そこでさらに声をひそめた、「でもまさか、――その人を家へ入れようというつもりじゃあないでしょうね」
「そのときは御相談にあがります」
 なつは口をあいた。もしもそうなったらの話ですと云って、安宅は彼女の詰問をそらすように頬笑ほほえみ、立ちあがってその部屋から出た。――そのときは相談に来ると云ったのは、かねてから考えていたのではなく、ふと思いついて口から出たものであった。なつの実家である藤井家は代々の年寄役であり、当代の主殿とのもは筆頭の席にいるし、長女のはまは側用人の郷田靱負にしている。なつは三女で、母の乳がたりなかったのと、生来ひよわなたちだったので、城下の柴八という商家へ里子に出され、十二までそこで育てられた。ことばづかいや立ち居が、武家ふうとは違ってさばけているのも、町家で育ったためであろうし、気性もさっぱりとして開放的であった。こういう親族関係と彼女の人となりが、そうだこのなつなら相談にのってくれるだろう、と彼の頭にひらめいたのであった。
 元の座敷へは戻らず、益村は若い家士に断わって、そのまま自宅へ帰り、独りで更けるまで酒を飲んだ。本当におりうを妻にする気なのか、と彼は自分にきいてみた。幾十たびとなくきいてみた。留守役という特殊な役目では、その妻の役割も一般とは大きい差があり、おりうならその役に耐える、ということは初めからみぬいていた。にもかかわらず、なつと話してから逆に、自分の気持が動揺するのを感じたのだ。
「もちろんさ」彼は冷えた酒を手酌で啜りながら、声に出して呟いた、「おれはもう若くもないし男やもめだ、杉原の娘は若いうえに初婚だし、留守役の妻は重荷だろう」
 この城下勤めならどうにかなるだろうが、江戸詰めとなれば交際も多く、客のとりもちに慣れるだけでもなみたいていではない。おりうならこれらの条件にぴったりだ。
「面倒なのは芳村という男だが、これは片をつける手段があろう」と安宅はまた呟いた、「肝心なことはおりうの気持だ、――ひとつ袖ヶ崎へいったときにでもたしかめるか」
 おりうのほうから云いだしたことだ。本当に袖ヶ崎へいってみるとしよう、と益村は心をきめた。
 十一月になるとすぐに、江戸の畠中から四通めの手紙が届いた。まえによこした便りのあと、ずっと鶴井清左衛門に付いていたらしい、どうやら幕府からの融資は許可されることになったが、そこまでこぎつけるのに、留守役がどれほど奔走し苦労したかを、実際にこの眼で見て驚嘆し、心から頭をさげた、ということが書いてあった。しばしば酒席を設け、遊里へ誘い、ときにはおんなの面倒までみる。こんどの川普請はのっぴきならぬ場合だから、あらゆる手段を使ったのだろう。いつもこんなことが繰返されるとは思わないが、自分の面目や意地や、自尊心などにこだわっては勤まらない、という点ではつねに変らないだろう。しかも最後にみのりの穂を摘むのは家老であって、留守役の名はその陰に隠れてしまう。この事実を知ったら、家中かちゅうぜんたいの留守役に対する誤解や偏見は一掃されるに違いない。酒や遊興は自分の好ましいときに、自分の費用でまかなってこそたのしいものだ。役目のために心ならずも遊里に出入りし、飲みたくもない酒を口にするのは苦痛であろうし、よほどの忍耐力がなくてはなるまい。益村はいつか、祖父の代からこのように育てられた、と云っていた。幾たびか聞いたように記憶するし、そのたびに都合のいい自己弁護だと思っていたが、そうではなかったということが、自分でじかに接してみて、こんど初めてよくわかった。心の底からなどとは云わない、おれのこの肌でじかに感じたのである。――酒や遊興もこのように役立てるとすると、一朝一夕で身に付けるわけにはいかないだろう、益村の云うことが正しかったのだ。鶴井さんの場合も例外ではなかった。おどろいたことに、あの人が口べたですぐ返辞したり、どもったり、鼻をんだりするのは、留守役としてのあの人の技巧だったのだ。まことにおどろくべきことだが、鶴井さんは必要なときに赤面することさえできるのである。
「まさかね」安宅は苦笑した。
 杉原との縁談のことが書いてあるだろうと思ったが、それにはひとことも触れてはいず、安宅はかえっておちつかない気持になり、その気持がおりうのほうへ傾くのが感じられた。畠中の手紙は、年内に帰国できるかもしれない、とむすんであった。ではこっちも早くきまりをつけなければいけない、安宅はそう思って衣笠へでかけた。
 夕食を軽く済ませて出ると、外は雪になっていた。例年より半月以上もおそい初雪で、しかも積もるとは思えないくらい、僅かに白いものが舞っているという程度であり、いま降りだしたばかりなのだろう、まだ道も暗い土の色のままであった。――仁斎橋を渡って町人町へはいったとき、渡部わたべという老人に会った。老人は郡奉行こおりぶぎょうで、提灯ちょうちんを持った供が付いてい、雨具をつけていた。家格は益村のほうがはるかに上だから、安宅が気づくより早く、老人が笠をぬいで会釈をした。渡部老人の息は酒の匂いがし、足もふらふらしていた。
「御無礼」と老人が云った、「雪が待ちきれないので一さんやりに出たんですがな、飲んでしまったら、このとおり降りだしました、いったいどういうつもりですかな、とんとわけがわかりません、どうも御無礼」
 老人はもういちど会釈し、笠をかぶって去っていった。


「いやな方、思いだし笑いなんかなすって」おりうは酌をしながら云った、「なにかいいことでもあったんでしょ」
「おりうも飲めよ、今夜は話があるんだ」
「珍らしいこと」おりうはすぐに盃を持ち、上眼うわめづかいに安宅を見た、「やっぱりなにかいいことがあったのね」
「いいかわるいかはおりうしだいだ」
 そう云いながら、安宅が酌をしてやった。おりうは神妙に、いただきますと云って一と口啜ってから、安宅の言葉を聞き咎めた。
「あたししだいって、――こわいようなことおっしゃらないで」
「いつか袖ヶ崎へいこうと云ったな」
 おりうは安宅の眼をみつめてから、ゆっくりと頷いた。
「四五日うちにゆこう」と安宅が云った、「もちろん泊りがけでだ」
 おりうは安宅の眼をみつめたまま、ちょっと息を詰め、そして静かにきき返した、「――それ、本気で仰しゃるんですか」
「いやならむりにとは云わないよ」
 おりう俯向うつむいて酒を啜った。
「こわいわ、あたし」
「むりにゆこうと云うんじゃないんだよ」
「そうじゃないんです、ゆくのがいやじゃないんです」おりうの声はふるえた、「あたしのほうからお願いしたくらいですもの、れていっていただけるのはうれしいんです、本当とは思えないくらいうれしいんです」
 けれどもなんだかこわい、恐ろしいような気がする、とおりうはふるえ声で云った。もう少しいただいていいかしら、あたし躯のふるえが止まらないんです。いいとも、飲むのは構わないが、酔いを借りた返辞は信じないぞ、と安宅が云った。
「いつだったか、あなたは」と盃に三つほど飲んでからおりうが云った、「――女のおまえにできないことが、男のおれにできるかって仰しゃったわね」
「そうだったかな」
「あの人がここへ文句をつけに来たあとのことよ、あなたはなにも云い返さずに、黙ってお帰りになったわ」とおりうは云った、「どうしてなにも云わないままでお帰りになったのかって、あたしがうかがったら、そう仰しゃったわ」
「つまらないことを云ったもんだな」
「いいえ、つまらないことなんかじゃありません」おりうはかぶりを振った、「あたしはあの人に、はっきりけじめをつけなければいけなかったんです、それをそうしないで逃げてしまった、あの人の執念には勝てないように思ったからです、小さいときから自分は男まさりで、どんな相手にも負けないつもりでいたのに、あの人にだけはどうにも立向かえない、っていう気持からぬけられなかったんです」
「いまでもぬけられないのか」
 おりうは首を振り、微笑した、「この土地へ来て、あなたにお会いしてからはね、――いまのあたしは誰にだって負けやしません」
 安宅が「それはいさましいな」と云おうとしたとき、廊下でなにかささやきあう声がし、すぐに障子の外でだんごが「お酒を持って来ました」と呼びかけた。おりうだんごがはいって来ると、廊下にいたのは誰かときいた。だんごは誰もみかけなかったと首を振り、これは旦那から先生にと云いながら、酒と肴の皿をのせた盆をそこへ差出した。
「旦那が自分で釣って、自分で料理したんですって」だんごはそこへ坐って説明した、「たまごっていう魚で、白焼にして干したのをまた煮たんです、土鍋どなべでとろ火にかけて、半日もかかって」
「もういいわよ」とおりうは盆を引きよせながら制止した、「こっちをさげてちょうだい」
 だんごはつんとして出ていった。
「ここもいにくくなるばかりだわ」と云っておりうは酒と肴を膳に移した、「旦那やおかみさんまで、あたしがあなたのことをどうかするかと思ってるのよ、どうしてかしら、あたしってどこへいってもそねまれていにくくなるの、どうしてでしょう」
「まだ降っているかな」安宅は立って、庭に面した障子をあけ、降っているというだけだな、と呟いて障子を閉め、こっちへ来て坐りながら云った、「――ここへ来る途中、仁斎橋のこっちで老人と会ったんだ」
「あたししんけんなのに、またはぐらかすんですか」
「老人は息が匂うほど酔っていた」と安宅は構わずに続けた、「そしてこう云うんだ、――雪のくるのを待っていたが、待ちきれなくなって飲みに出た、ところが飲むだけ飲み、いい心持に酔って帰ろうとしたら、そこで肝心の雪が降りだした」
「またはぐらかすのよ」
「それが本当のことなんだ」安宅は喉で笑った、「そうして老人は、さも不服そうに云ったよ、これはいったいどういうつもりのものか、一向にわけがわからないってね」
 おりうは彼をにらんだ、「それを仰しゃりたかったのね」
「雪が降るのにどういうつもりもないだろう、おりうがいにくくなるのも自分の気のもちようじゃないのか」と彼は穏やかに云った、「このうちの者たちはみなおれのことをよく知っている、ことにあるじ夫婦はよくできた人間だ、遠い江戸から来ているおりうに、辛く当るようなまねはする筈がないよ」
 おりうは眼を伏せて、暫くなにか考えていたが、ふいと自分の盃に手酌で酒を注ぎ、眼をあげて安宅を見た。
「いつ袖ヶ崎へ伴れていってくださるの」
「こっちはいつでもいい」
「では」と云っておりうは指を折って日を数えた、「そうね、では、――あさってにしていただけるかしら」
「いいとも」頷いてから、安宅は思いだしたように箸を取って、膳の上を見た、「――忘れないうちに箸をつけておこう、たまごっていう魚だそうだな」
「あたし魚のことはなんにも知らないんです、旦那が釣って来たのは夏のはじめごろでしたわ」
 安宅は皿の魚を見て笑った、「やまめだ、――あまごともいうが、あのちびのやつ、たまごとはねえ」
 その夜はいつもより早くひきあげた。それでも九時ごろにはなっていたろうか、雪はやんでいたし、道は白くこおって足許あしもとが明るいから、提灯は持たずに衣笠を出た。南小町へ曲る辻のところで、左側の町家の軒下に、なにか高ごえで喚く声が聞え、益村安宅は立停ってそっちを見た。――雨戸の閉まった小さな家の暗い軒下に、一人の男が両足を前へ投げだして坐り、頭をぐらぐらさせながら、片手を振りあげたり、こぶしでなにか打つようなまねをしたりして、よくまわらない舌で喚きたてている。男は四十がらみの町人で、黒の紋服にはかま、白足袋をはいていた。雨戸を閉めた家の中からは、酒宴でもしているらしく、賑やかに笑ったり話したりする声が聞えて来た。
 ――なにか祝いごとでもあるのだろう、と安宅は思った。この男は酒くせが悪いのでほうりだされたんだな。
 いずれ知人の集まりだろうのに、こんなめにあわされるのはよっぽど悪い酒に相違ない。それにしても紋服袴という姿で、雪と泥の上に坐りこみ、わけのわからないことを喚きたてているようすは、気の毒というよりもむしろ滑稽であり、愛嬌あいきょうがあるという感じで可笑おかしかった。
「面白いですか」と安宅のすぐうしろで声がした、「それともあなたの知り人ですか」
 振り向いてみると芳村伊織だった。羽折もなしの素袷すあわせ、素足に雪駄せったばきで、ふところ手をしてこっちを見ていた。けて来たなと思いながら、安宅は黙ってあるきだした。
「あなたに話がある」と云いながら芳村はついて来た、「そこまで来てくれませんか」
「あるきながら聞こう」と彼は云った。
「いい場所があるんですよ、このすぐ向う裏ですがね」そう云いながら、芳村はすばやく安宅の前へまわった、「てまはとらせません、ついそこだからつきあって下さい」
 前をふさがれて、安宅は立停り、相手を見やった。芳村はこわばった顔で、にっと微笑しながら片手を振った。
「あの炭屋のかどを左へはいったところです、往来の者などに聞かれたくない話でしてね」
 安宅はまだ相手の顔をみつめていた。
「仮にあなたが不承知でも」芳村は微笑をたたえたままで云った、「今夜の私はあとへひきませんよ」
 安宅は芳村から眼をはなして、空を見あげ、町の左右を眺めてから、僅かに頷いた。芳村はどうぞお先にと云って道をひらき、安宅はあるきだした。降りそびれたためか気温が低く、道に積もった薄雪は、踏みしめる草履の下でかすかにきしんだ。芳村のいう炭屋の角を左に曲ると、かなり広い空地あきちがひらけている、安宅はゆっくりそっちへはいっていった。
「私はあなたに忠告した」うしろからついて来ながら云った、「あなたは忠告をきくべきだった」
「おれのためにか、それとも自分のためにか」
「あなたのためにです」
 芳村はそう云った瞬間に、うしろから安宅の背へ抜打ちをかけた。安宅は背中に危険を感じ、大きく跳んで振り返ると、芳村が二の太刀を打ちこんで来た。安宅はすばやく右へまわりながら抜き合わせたが、右足のかかとでなにかを踏み外し、躯の重心を失ってしりもちをついた。
「あなたはおりうと袖ヶ崎へゆく約束をした」と芳村が冷たい声で云った、「しかも泊りがけでね――だがそうはさせない」
「だからだまし討ちにするのか」
「いまの私には、侍の作法や面目などは縁がないんだ」と云って芳村は笑った、「――もっと卑劣な闇討ちだってできたんだぜ」
 益村安宅はほのかな雪明りで、芳村の身構えを見、彼が尋常の腕でないのを感じて、ぞっとそうけ立った。


 ずっとあとになってからも、そのときの背筋からそうけだった気持は、思いだすたびにそのときそのままの感じで、益村安宅の感覚を戦慄せんりつさせたものであった。
 安宅は自分の激しい呼吸の音を聞いた。だが芳村伊織の呼吸は聞えなかった。こいつは冷静だ、と安宅は直感した。氷のように冷静であり、おまけに馴れている。こんなことはこれが初めてではないだろう、腕がたつうえに幾たびも経験している、とうていおれのかなう相手ではない。――ほんの一瞬間のことではあるが、安宅はこれらのことを紛れなしに感じとった。
「おれの負けだ」と安宅はふところ紙を出して刀にぬぐいをかけ、さやにおさめながら云った、「――勝負はわかってる、へたに手向いしてもむだだろう、好きなようにするがいい」
「こっちは本気なんだ」と芳村がするどい口ぶりで云った、「待ってやる、立って抜け」
「おれの親類に園部鎌二郎という若者がいる、おれの死んだ妻の弟で」
「ごまかすな、その口にはのらぬぞ」
「そう思うなら斬れよ、どんな卑劣なだまし討ちだってやれるんだろう」彼は芳村の顔を見あげたままで云った、「その鎌二郎は、おれが死んだ妻の法要をしたとき、こんな法要はごまかしだと云った、そこには親類縁者がいならんでいた、鎌二郎は刀を左手に持って、立ったままでおれをそうどなりつけた、卑しい売女ばいたを囲っていながら、こんな法要をして生きている者はごまかせても、死んだ姉のたましいはごまかせないぞ、とね、いまにも抜打ちをしかけそうなけんまくだったよ」
「それがどうした」
「べつに」と云って、安宅は薄雪の上へ坐ったまま肩をすくめた、「――鎌二郎は実際には抜かなかったが、今夜は本当に斬られるらしい、そうなんだろう」
 芳村は答えなかった。
「二度あることは三度というが」安宅は大きく溜息ためいきをし、首を振った、「――二度めでけりがつくとは思わなかった」
「おりうから手をひくか」
「斬るんじゃないのか」
「これが最後だ」と芳村は喉声のどごえできいた、「今夜かぎりおりうに会わないと誓えるか」
 安宅はじっと相手の眼をみつめた、「誓う、と云ったら信用するか」
「そっちは侍だからな」
 安宅はまた溜息を吐き、眼を伏せた。殺意はもうぬけた、この男にはもうおれを斬ることはできない、と安宅は思った。
「刀をしまってくれ」と安宅は穏やかに云った、「刀を突きつけられたままでは返辞はできない」
 芳村は一と足うしろへさがり、刀をよくぬぐって鞘におさめた。安宅は静かに立ちあがり、着物のうしろを払った、躰温たいおんで溶けた雪と泥とで、そこはきみわるく濡れていた。
「さあ聞こう」と芳村が云った。
「まだだな」安宅は首をそっと振った、「おまえさんにはおれのことがわかってるようだが、おれにはおまえさんのことがなんにもわかってはいない、あの人からあらましのことは聞いたけれども、おれは人の話を信じてひどい失敗をしたことがあるんだ」
 芳村伊織は鼻でふんといった、「身の上ばなしでもしろというのか」
「おれはあの人を妻にしようとさえ思っているんだぞ」
 芳村は仰向いて夜空を見あげ、それから益村安宅のほうへ振り向いた。
「立ち話もできないな」
「すっかり酔いがさめてしまった」と安宅が云った、「あったかいところへいきたいな」
「衣笠へでも戻るか」
「そこもとの住居にしよう」
 芳村はすぐには答えなかった。
「住居はあるんだろう、聞く耳のないところがいいと思うんだ、もっともぐあいの悪いことでもあればべつだがね」
「こじきごや同然ですよ」
「酒を買っていこう」と安宅が云った。
 芳村の住居は川端と呼ばれる裏町で、古い長屋がごたごたと並び、はだら雪のほの白さが、それらをいっそううらぶれた、みじめな眺めに仕上げているようであった。ろじを突き当った向うに珂知川が流れているのだろう、横丁からそっちへはいってゆくと、流れの音がかすかに聞えて来た。芳村はその長屋の一軒の前で立停り、ここですと云って、雨戸をあけにかかった。たてつけが悪くなっていて、雨戸はなかなかあかず、すると、右隣りの家の戸があいて、お帰りですか、と女の呼びかける声がし、あたしがあけてあげますよと、その女が出て来ようとした。
「ありがたいがやっとあいたよ」と芳村は女に向かって云った、「もう馴れてもいいじぶんだが、この戸にはいつもてこずる」
「お客さまですね」隣りの女がこっちをのぞいて云った、「いま火だねを持っていきますよ」
 芳村は礼を云い、益村安宅を見て、あいた戸口へ一揖いちゆうした、「どうぞ」

十一


「或る町かどへ来る、左側になにかの商家があり、窓の下に天水桶てんすいおけが積んである」と芳村が話していた、「右側にもなにかの商家があって、その店先で小僧が道を掃いている、――そのときふっと、それとそっくり同じことを、ずっとまえに見たことがあるなと思う、左右の店の構え、天水桶、道を掃いている小僧、そっくりそのままのけしきを、いつかたしかに見たことがあったと、――益村さんにそんな覚えはありませんか」
「残念ながら代々の家柄でね、そういう瞑想めいそう的にはたらく頭を持っていないんだ、銭勘定をする商人のように、いつも俗っぽくって現実的なんだ」安宅は湯呑の冷や酒をすすりながら、ちょっと眼を細めて云った、「そうさね、――若いじぶんに一度か二度、そんなことがあったかもしれないな」
「初めておりうに会ったとき、私は同じような気持を感じてどきっとしたものです」
 火鉢には炭火がよくおこっていた。隣りの女房が火だねを持って来て、自分でおこしていったものだ。三十がらみのはきはきした、いかにも世帯しょたい持ちのよさそうな女房で、芳村が酒を持っているのを見ると、残りものでよければつまむ物を持って来ようかと云った。芳村は竹の皮包みをみせて、さかなはあるからその必要はないと答えた。――酒を買うときに、芳村は味噌もいっしょに買い、これで飲もうと云った。鎌倉のむかし北条時頼ときよりが、夜半に僧兼好けんこうのところへ迎えをやり、二人で語り明かそうというので酒の支度をし、肴がなにもないために、味噌をめ舐め飲んだという。なにかの本で読んだうろ覚えであるが、時の執権しっけんが味噌で酒を飲み、語り明かしたというのは、すがすがしい話ではないか、と芳村は笑いながら云ったものだ。――それは違う、執権時頼に呼ばれたのはたいら宣時のぶときで、兼好はその話を宣時から聞いて「徒然草」に書いたのだ。安宅はそう思ったけれども、兼好という法師はひねくれ者だから、平の朝臣あそんの昔がたりだなどといって、じつは自分のことだったかもしれないと思い、この話では執権と法師のほうが似つかわしいな。そう考えてなにも云わなかった。
 最明寺さいみょうじ入道はおごらない人だったらしい、台所をくまなく捜しても、小皿に味噌しかなかったというのだから、御殿も質素なものだったに相違ない。芳村伊織の住居は裏長屋の一軒で、むろん比較にならない貧しさであるが、六帖一と間の部屋の中は清潔に片づいていて、居心地がよかった。道具らしい物は小さな古い茶箪笥ちゃだんすと箱膳、火鉢と炭取だけで、ほかの物は戸納とだなへでもしまってあるのか、眼につく物はなにもないし、掃除もよくゆきとどいていた。なかなかしゃれたものだ、この部屋で飲みながら話すのに、味噌だけが肴というのは平仄ひょうそくが合っている、さすがに旗本くずれだな、と安宅は思った。
「おりうは自分が女だということを、しんそこいやらしく思っていた、私と会っているときには特に、女として扱われるのを嫌いました」
 胸がふくらみはじめたとき、それを切って捨てたかったと、おりうの口から安宅は聞いたことがある。自分の躯に娘らしいまるみがついてくるにつれて、まるで誰かにけがされ、革袋が腐ってでもゆくかのように思えた、とも云っていたようだ。
「私はどうかしておりうに、女らしい気持をよびさまそうとして、できる限りの手をつくしました」と芳村は続けた、「――単に好きだというだけだったら、身をほろぼすまで溺れこみはしなかったかもしれない、だが私の場合はそうではなかった、女として扱われるのはもちろん、女とみられることさえ極端に嫌うおりうの心のしこり、――妄念もうねんとでも云ったらいいでしょうか、私はそれにとりかれてしまったのです」
 あたし小さいじぶんからお侍にあこがれていました、とおりうはいつか話した。平河町の料理屋へ移ったとき、そこは侍客が多いのでうれしかったという。そしてこの男とめぐりあったのだ。おちぶれてしまったいまでも、この男はなかなかの人品であり、さほどよごれた感じは身についていない。さっき見た隣りの女房でも面倒をみているのか、着ている物もさっぱりとして、仕立て直しではあろうが、きちんと折目がついていた。おそらく、おりうと初めて会ったころは、相当ひとめをひく男ぶりだったに違いない、と安宅は思った。
 ――この男にも父母があり、友人があり、親族があった、式服をつけて江戸城へ登ったこともあろうし、学問をし武芸もならったことだろう、と安宅は思った。世襲の役がなかったにしろ、やがてめざましく出世したかもしれないし、平凡に妻をもらい子をもうけて、安穏あんのんに一生をくらせたかもしれない、だがこの男はそうはならなかった、三河以来という由緒ゆいしょある家柄と、八百石の禄を捨てたうえ、いまこのような田舎の城下町までながれて来てしまった、ただ一人の女のためにだ、と安宅は心の中でつぶやいた。
 芳村伊織は語り続けていた。彼もまた湯呑で冷や酒を飲み、ときたま小皿に分けてある味噌を、箸の先につけて舐めた。彼の話の大部分は、おりうからすでに聞いていたものだ。けれどもそれらの話から受ける印象はかなり違っていた。おりうの話が反物をひろげたようだとすれば、芳村のほうはその反物を裁ち、身丈に合わせて縫いあげるような感じであった。
「家が改易かいえきになり、躯ひとつで放り出された私は、或る知りびとのところへころげこんで、酒浸りになりました」と芳村は云った、「――知りびとといっても武家ではなく、古くから出入りしていた町人でした、数多い親族たちがそっぽを向くなかで、その町人だけは私を避けることもなく、なんとか立直らせようとさえしてくれたものです」
 おりうは侍にあこがれていたし、初めて出会ったころの芳村は、まわりの者より際立った男ぶりだったに相違ない。その二人がどうして合わなかったのか、芳村伊織のどういうところがおりうに反感をもたせたのか、ただ性分が合わなかったというだけだろうか、と安宅は考えた。
「或る晩、私はひどく酔っておりうに会い、自分はおまえのため裸になった、こんどはおまえの番だ、おりうはこのおれのものだぞ、と云いました」と芳村は続けていた、「――するとおりうは、あたしはものではない、人間だと云い返しました、あたしは誰のものでもないし誰のものにもならない」
 芳村はそこで口をつぐみ、次に云うことをどう表現したらいいかと迷うように、壁の一点をみつめたまま暫く黙っていた。その話はしなくともいいよ、と安宅は心の中で呼びかけた。酔っていたそこもとはおりうにとびかかって、彼女の着ている物をぎ、裸にしてしまったのだ。しかも結局なにもできずに酔いつぶれたのだ。
「おりうはそう云いながら、自分も乱暴に酒をあおっていました」芳村は低い声で話を続けた、「そのうちに私はつぶれてしまい、そのままうとうとしていたんでしょう、なにか異様なけはいを感じて眼をさますと、おりう脇差わきざしを抜いて私をにらんでいるんです、――いまでも覚えているが、おりうの血ばしってつりあがった眼や、灰色に硬ばった顔や、抜き身の刃の光など、まるで悪夢でもみているようなすさまじい感じで、ああ殺されるなと思いながら、私はその刃が自分の胸に突き刺さってくるのを、息もできずに待っていました、けれども、――私が眼をさましたと知ると、おりうはその脇差を私のほうへ差出して、二人いっしょに死のう、と云ったのです、あたしを殺してあなたも死んでくれと、ふるえながら繰返し云うんです、ひどくしんけんな、思い詰めた口ぶりでした」
 風のぐあいだろうか、長屋のうしろのほうで聞える川波の音が、まえより少し高くなったように思えた。おりうはそのことは云わなかった。さむざむと肌にしみるような川波の音を聞きながら、安宅はそう思いだした。芳村を殺そうと思ったが、刃の光を見て恐ろしくなったとは云った。けれども心中しようと云い迫った、などとは話さなかった。待てよ、そこになにかあるぞ。この芳村は言葉を飾るような男ではない、またこの場合そんな必要は少しもないだろう。とすれば、おりうが心中を迫ったというのは事実だと信じていい。ではどうしておりうは二人で死ぬ気になったのか、――そこだな、そうだと安宅は考えた。稲毛という麹町のその料理屋で芳村と出会ってから、おりうは自分の躯の中で初めて、女らしい感情がめざめたようだと云った。こうしてひところは芳村の顔を見るだけで、からだの奥になまなましい変化がおこる、とさえも云っていた。それがいつからか嫌いになり、芳村と聞くとうんざりしたという。どこかで糸が切れたのだ。二人をつないでいた糸が、どこかで、なにかの理由で切れたのだ。なにかの理由で、と安宅は考えていた。
「そしておりうは私から逃げはじめました、稲毛の店を出てからここへ来るまで、同じ店に半年といたことはありません。どこをどう逃げて来たかは云う必要がないでしょう、ただ、これだけは知っておいて下さい、おりうは逃げだすたびに、ちゃんと足跡を残していったものです」
 安宅は眼をあげて相手を見た。自分の考えにとらわれていた彼の耳が、いつも足跡を残していったという芳村の言葉を聞きとめ、注意力をよびさましたのだ。
「そのとおりなんです」と芳村は安宅の眼にうなずき返した、「いつも必ずそうしたんです」

十二


 甲の店から乙の店へ移るとき、おりうは甲の店の者に「ないしょだ」と断わって乙の店のことを告げてゆく。乙から丙、丙から丁へと、店を変えるたびに必ず、「これは誰にも云わないでね」と云って、次にゆく店のことを告げたというのだ。
「仲のいい朋輩ほうばいがあって、その者に告げてゆくというわけではなかった、おりうはどこの店でも独りで、親しく語りあうような朋輩は一人もないし、どこの店でも女中なかまには嫌われていたようです、嫌われる理由の一つは、どこへいってもおりうは客のにんきをさらい、客たちは必ずおりうの奪いあいを始めるからです」
 芳村の話しぶりはこのあたりからたどたどしくなった。それは話の内容を的確に云いあらわすため、言葉を選んでいるというようでもあり、また、話に独り合点がてんな解釈を入れないために、用心しているというふうにも感じられた。
「おりうは決して男にはれません」と芳村は話を続けた、「――男たちを夢中にはさせるが、自分では決して男に惚れず、男が自分のためにのぼせてきたとみると、手のひらを返すように冷酷になってしまうんです、男を夢中にさせるまでは、思いつく限りの手くだを使いますが、いざというときになると石になってしまうんです、冷たくこおった石のようにです」
 珍らしいことではない、そういう性分の女はどこにでもいるものだ。もともと女には、多少の差こそあれそういう本性があるのではないか、と安宅は思った。安宅がそう思うであろうことを予期していたかのように、芳村は唇をゆがめて微笑した。
「わかっています、私の話はありふれていて、あなたには興味もなしさぞ退屈でしょう」と芳村は云った、「けれども、あしかけ四年ちかいあいだ、私は自分の眼でそれを見てきたのです、骨の髄までとり憑かれてしまい、家名も、侍の誇りまでも投げ捨ててしまった男が、あしかけ四年ちかくもけまわしながら、現実にこの眼で見とどけたことなんです、あなたにとってはありふれた話かもしれないが、私にはその一つ一つが、血をふく傷のようになまなましく、思いだすたびにいまでも胸をえぐられるように感じるんです」
「べつに退屈ではないが」安宅は冷や酒をすすってから、なだめるような眼で相手を見た、「そこまでつきつめた気持でいて、今日までになにか打つ手はなかったのかね」
 芳村伊織はそっと首を振った、「ええ、待つこと以外にはね」
「待つとは、なにを」
「初めてあなたに話しかけたとき」と芳村は力のぬけた調子でゆっくりと云った、「あの女のために身をほろぼした男が幾人もあった、と云いました、実際に身をほろぼした男が幾人もいたのを、私は知っているんです」
 益村安宅がきき返した、「なにを待っているのか、とおれはきいたんだよ」
「これまで話したことで、察してもらえると思ったんですがね」
「おれは銭勘定をする商人のように、現実的な人間だと云った筈だ、想像や推察でものごとの判断などはしないよ」安宅はちょっと皮肉な口ぶりで云った、「けれども、男がそんなに長いあいだ、一人の女を思い詰めていたということは信じかねるな」
「世の中には、あなたの思いもよらないような人間や出来事が、幾らもあるものです」
「なにを待っているか、という返辞はまだ聞けないのかね」
 芳村は一升徳利の酒を、二つの燗徳利に移した。安宅と同じように、芳村もあまり量は飲まないらしい。半ときちかくも経っているのに、酒はまだそれほど減ってはいなかった。こういうふうに転落してきた人間は、自分の転落してきたことを看板にのんだくれるものだ。と安宅は思い、同藩の侍たちにも幾人かそういう男がいたことを、心の中で数えてみた。だがこの芳村はそうではない。おりうのために家をつぶし、侍であることも捨てながら、やけになったり、のんだくれることで自分を悲愴ひそうにみせかけようとしたりはしない。するとこの男は本気なんだ、本気になってなにかを待っているんだな、と安宅は思った。
「自分を弁護するわけではないが」と芳村は云った、「おりうのために身をほろぼした者がいること、おりうには近よらないほうがいいと、あなたに忠告したことに嘘はないんです」
「それならどうして袖ヶ崎へゆかせなかった、たとえ身をほろぼす男がもう一人できても、そこもとには関係のないことだろう」
 芳村伊織は十拍子ほど黙っていて、それからおもむろに云った、「嫁菜という草がありますね、こちらではなんというか、江戸にいたころ野がけにいって摘んできて、浸し物にしたり、めしに炊きこんだりして食べた覚えがあります」
「ここでも嫁菜というのはあるよ」
「だがそれは、春の双葉のころだけです、秋になって紫色の花が咲くころには、野菊と呼ばれるようになるのを知っていますか」
「そいつは知らなかった」と云って安宅は相手の顔を見た、「本当だろうな」
「おりうもそうなりかかっているんです、ちょっと待って下さい」芳村はいまこそ言葉を選ばなければならないというように、手酌で湯呑に酒を注ぎ、一とくち啜ってから、両手で持った湯呑を膝におろしながら云った、「いい寄ってくる男を手だまにとっていたおりうの中に、変化が起こりだしたんです、おりうも今年で二十四になりますからね、あたりまえなら子供の二人や三人はあってもいいとしごろです」
 嫁菜が野菊になるようにか、と安宅は思った。おまえさんもまた、昔のおまえさんのままでいたわけじゃあないだろうし、ものごとをそうたとえに当てめないほうがいいな、と思ったが、安宅は口にだしてはなにも云わなかった。
「失礼になるかもしれないが、袖ヶ崎へゆくのは益村さんでなくってもよかったと思う。おりうにとっては、好ましい相手なら誰でもよかったと思うんです」
「これは手きびしい」
「私にあてつけたいんです、自分が女だということをしんそこ嫌っていたおりうの中に、自分が女だったということをめざめさせたのは私でした、こんな思いあがった、きざなことを云うのを勘弁して下さい」芳村は気まずそうに眼を伏せ、すぐにゆっくりとその眼をあげた、「――おりうはたぶんあなたにも、この芳村伊織が嫌いだと云ったでしょう、どこでもそうだったんです、嫌いというより憎悪し、軽侮していた、そのくせ逃げだすときには必ず、ゆく先のわかるようにしていたんです」
「おりうが私から逃げ、私を憎んだり嫌ったりするのは」と芳村はさらに低い声で続けた、「――私がおりうに、自分が女だということを悟らせたためです、そして、おりうが嫌ったり憎んだりしているのは、この私だけではなく、小さいころから女でありたくない、という自分の心のしこりそのものでもあると思うんです」
 益村安宅は暫く考えていたのち、芳村の顔を見ながら反問した、「もしそれが事実だと信ずるなら、おれと二人を袖ヶ崎へやって、ためしてみてもよかったんじゃないか」
 芳村は極めてゆっくりと首を横に振った。
「それだけの自信はなかったのか」
「人間にはでき心というやつがあります」と芳村は答えた、「また、おりうはあなたに対しては、もう女になっていますからね」
 安宅は酒を啜ってから、ふと眼をつむった。幾たびかしがみついてきたおりうの、熱いような躯のほてりや、ときとすると強く匂った躰臭たいしゅうが、現実のように思いだされたのだ。安宅の眉間みけんしわがよった。けれどもそれはすぐに消え、彼は眼をあけた。
「よけいなことをきくが、いまなにをしてくらしているんだ」
「用心棒です」
 安宅は不審そうな顔をした。
博奕打ばくちうちのね」と芳村は云った、「あなたなどは知らないだろうが、賭場とばのたつときとか、博徒ばくとどうしの争いなどに、この刀を役立てるというわけです、人間のくずでなければやらない仕事ですがね、金にはなるし、おりうのあとを追うには都合がいいんです、たいていの土地で仕事にありつけますからね」
「それに、あれだけの腕があればな」
「腕ですって、冗談じゃない」
「むろん冗談じゃあない」と云って安宅は酒を飲んだ、「さっきあの空地でみたが、おれにはまったく勝ちみがなかった」
「冗談を云わないで下さい」芳村は苦笑いをした、「私のは実地に斬りあっただけの、法もなにもない乱暴なものです、私のほうこそ、あなたに抜き合わされたとき、これはしまったと思いました」
 安宅は笑った、「お互いにおくゆかしい話になってしまったな、――ついでにもう一つきくが、仮におれが身をひき、そこもととおりうと無事に結婚したとして、そのあとどうしてやってゆくか、思案はついているのか」
「なんにも」と芳村は答えた、「――しかしおりうといっしょになれば、なにかが始まるだろうとは思っています、ここまで落ちればどん詰りですからね」
 安宅はなにか云いかけたが、思いとまり、からになった湯呑をみつめた。
「相談があるんだ」安宅はそう云ったが、そこでまた自分の言葉を否定するように首を振り、「いや、その必要はないだろう」と湯呑を膳の上に置いた、「――もしも用事がないのなら、このままここにいてもらいたいんだがね」
「べつにでかける用もありません」
「それはよかった」
「というと、ここへ戻って来るんですか」
 ことによるとね。そう云って安宅は、刀を取って立ちあがった。

十三


 外はまたさざめ雪が降りだしてい、ろじから横丁まではそれほどでもなかったが、表通りの道はまっ白になっていた。ふだんより酒を飲みすぎているせいか、寒さは感じなかった。そうかもしれない、と益村安宅は心の中で呟いた。おりうが嫌っているのは、自分の心のしこりだと芳村伊織は云った。安宅はそれを聞いて、こじつけだと感じた。あんまりうがちすぎている、塗りの剥げた鞘を見て、あの刀身はなまくらだと鑑定するようなものだと。けれどもいま、彼は考え直してみて、自分の感じたことが疑わしくなった。
「そうかもしれないな」あるきながら彼は声に出して呟いた、「慥かにおりうは女になりきっている、したたるようななまめかしさもびだけではない、けれども、そのなかにどこかひとつ、こちんと固いようなものがあった、あの溶けるようないろっぽさが、抑えようのない、自然にあふれ出るものであるのとともに、どこかに固く解きがたいなにかがあるのも、おりう自身どうしようもないものだったかもしれない」
 安宅は顔にかかる粉雪を手で払いながら、意味ありげな微笑をうかべ、口の中でなにやら呟いてから足を早めた。そんな時刻にあるいたことのない街であり、両側の家並はみな雨戸を閉めているため、自分が目的の方向へあるいているのかどうかわからなくなった。そのとき町角に赤い提灯ちょうちんが見えた。近よってゆくと煮売りやの屋台店で、町の片側に十軒ちかくも並んでいた。――ここから川下の宇木野では、いまでも昼夜ぶっとおしで川普請が続けられている。工事人足の過半数はよそから来た者だというが、交代して休む者のため、特にその屋台店が許されたのだそうで、工事に関係のある者以外は、そこでの飲食を禁じられていた。益村安宅はその端の店へはいった。客は誰もいず、六十あまりの老人がたばこをふかしながら、人をこばかにしたような顔つきで腰掛けていた。
あつかんが二本」と安宅は指を二本立ててみせながら云った、「肴はいらない」
 老人は唇を歪め、無遠慮に安宅の恰好を見あげ見おろしてから、きせるをはたいて、お武家さんですねと云った。
「ああ、川普請の係の者だ」と安宅はあっさりと云った、「ばかに静かじゃあないか」
あいのときといいましてね」老人は酒を徳利に移し、湯のたぎった銅壺どうこへ入れた、「交代と交代のあいのときなんです、もう半刻もすればこの十三の屋台店がくまんばちの巣みたようになっちまいます、――お武家さんは知らねえんですか」
「ここへ来るのは初めてなんでね」
「何番方へお詰めですか」
「やぼな吟味をするじゃないか」
「お取締りがきびしいもんですからね」
「そいつはいい心掛けだ」と云って安宅はきまじめにうなずいてみせた、「係の者にそう云っておこう、――じいさんの名はなんていうんだ」
「そののれんにあるとおりです」
 安宅は振り向いて見た。紺木綿こんもめんののれんに白く「弥六」と染め抜いてあった。そしてまた老人のほうへ向き直った彼は、この土地の者かときいた。弥六は燗のついた徳利と、細長い湯呑をつけ台の上へ置きながら、そうだと答えた。酒はまさに熱燗だった。安宅は湯呑に注いで啜りながら、熱い酒の香にむせてせきこんだ。
「熱すぎましたかな」と老人は云った。やはり人をこばかにした顔つきで、唇のあたりにあざけるような微笑をうかべていた。
「燗にはやかましいらしいな」と安宅は穏やかに笑い返した、「勘弁してくれ、知らなかったんだ」
「酒は燗のぐあいで生きもし死にもします、むろん御存じでしょうがね」老人は次の徳利を銅壺へ入れながら、ぶあいそに云った、「私ああつ燗で飲むような酒は、昔っから置いたこたあねえんですよ」
「おそれいった」安宅はにこっと笑った、こんどはあいそよく眼を細めて、「なにしろこっちは、酒にはしろうとなんでね」
 そして急に、安宅の顔がひき緊った。どういう連想作用かわからないが、弥六というその老人との短い問答のあいだに、おりうの本心をどうしたら突き止められるか、ということを思いついたのである。彼はふところから銭入れを出し、小粒銀を一つ、つけ板の上に置いて老人に笑いかけた。
「こんどはじいさんの燗で飲むよ」
「そんな」と老人は小粒銀を見て眼をみはった、「お武家さん、そんな金につりはありませんぜ」
「燗の伝授料だ、つりはいらない」と安宅は云った、「あとの一本は馴染なじみの者にやってくれ」
 屋台店から出ると、雪は小降りになっていた。一町ほどゆくうちに林昌寺の鐘が鳴りだし、その音を数えて「十一時だな」と安宅は呟いた。「衣笠」の表は閉まっていた。彼は裏へまわりながら、地面から泥と雪を取って、顔や着物にこすりつけ、髪の毛を二三十本ばらっと顔へ垂らした。
「博奕だな」黒板塀の勝手口を叩きながら、安宅はそっと呟いた、「うまくゆけばいいが」
 もちろん勝手の者はまだ寝てはいない、まもなく返辞が聞え、勝手口の油障子をあけて誰か出て来た。くぐり戸の向うへ来たのは男の声で、わかったよ、そう叩くな、みんなに聞えるじゃねえか、と云った。
「益村安宅だ」と彼はひそめた声にちからを入れて云った、「ちょっとおりうを呼んでくれ」
「益村の旦那ですか」相手は吃驚びっくりしたらしい、いそいでくぐり戸をあけながら弁解した、「まさか旦那だとは気がつかなかったもので」
「おりうをここまで呼んでくれ、いや、中へははいれない、いそぐんだ」
 ただいま、と答えて男は戻った。
「佐助だな」と安宅は呟いた、「これからぬけ遊びにでもゆく約束があったんだろう」
 板前の佐助はもう四十のとしを越している、躯こそ小柄であるが、なかなかのおとこまえであるし、庖丁ほうちょうを持たせたらこの城下で第一に指を折られる料理人であった。したがって彼にのぼせあがる女は幾らもいたが、彼はどんな女をも近よせず、いまだに独身をとおしている。躯のどこかに故障でもあるのだろう、などという噂を聞いたことがあった。
「そう叩くなよ、みんなに聞えるじゃねえか、か」と呟いて安宅は微笑した、「佐助には佐助の生きかたがあるんだな」
 勝手口に提灯の光があらわれ、下駄の音といっしょにこっちへ来た。
まあさまですか」とくぐり戸のところでおりうの声がした、「どうなすったんですか」
「こっちへ来てくれ」と安宅が云った。
 おりうがくぐり戸から出るまでに、彼は刀を抜いていた。出て来たおりうは、提灯をかかげるなり、口をあけて「あ」と息をひき、片手でその口を押えた。雪泥にまみれ、さんばら髪で、抜き身の刀を持っている安宅の姿が、片明りの提灯の光のため、実際よりもはるかにすさまじく見えたらしい。
「驚かして済まない」安宅は右手に持った抜き身の刀をひらっと動かした、「これからいっしょに逃げてくれないか」
 おりうどもった、「いったい、なにがあったんですか」
「あいつを斬った」
「斬った」おりうはけげんそうに安宅のようすを見た、「なにをおっしゃってるの」
 安宅はふところ紙を出し、念入りに刀身をぬぐった。
「あいつが騙し討ちをしかけた」と彼は白刃をみつめながら云った、「それで斬った」
 おりうはまた大きく息をひき、それからふるえ声で、「あの人をですか」ときいた。
「芳村伊織をだ」と安宅は答えた、「浪人者でも人間ひとりを斬ればこの土地にはいられない、いっしょに逃げてくれ」
「あの人を斬ったんですか」おりうの手から提灯が落ちそうになった、「あんな気の弱い、可哀そうな男をあなたは殺しちまったんですか」
「向うが騙し討ちをしかけたんだよ」
「あなたほどの方が、騙し討ちをしかけるようなみれんな男を、斬ったんですか」とおりうは叫んだ、「女ひとりのために身をほろぼしたあげく、こんな遠い田舎の城下町まで追って来て、うろうろ付きまとうようなだらしのない男を、情け容赦ようしゃもなく斬っちまったんですか」
「おまえもそれを望んでいたんじゃあないのか」
「あたしがですか」
「そうじゃあなかったのか」
「ああ」おりうは悲鳴をあげ、片手で安宅の着物のえりつかんだ、「あなたは人殺しよ、あんな可哀そうな人を殺すなんて、どこでやったの、あの人はいまどこにいるの」
「川端町の裏長屋だ」安宅は小突かれてうしろへさがりながら云った、「――まだ死んではいないかもしれないよ」
「じゃあ生きているっていうんですか」
「わからない」と安宅はあいまいに首を振った、「だがおりうはおれと、いっしょにゆく筈じゃあなかったのか」
 おりうは敵意のこもった眼で安宅をにらみ、なにも云わずに走りだした。いちど下駄を踏み外して転びそうになったが、はき直そうとはせず、そのままはだしになって走り続け、すぐに町角を曲って見えなくなった。――いまにも消えそうに揺れはためく提灯の光が、町角を曲って見えなくなってから、安宅は刀を鞘におさめながら、「衣笠」の裏をはなれてあるきだし、なにやら満足そうに微笑した。
脱兎だっとごとしか」と彼は呟いた、「――うまくやってくれよ、芳村」

十四


 畠中辰樹が江戸から帰ったのは正月の八日であった。元旦の登城から八日まで、益村家には客が絶えず、畠中が帰藩の挨拶に来たときも、鵜殿の従弟いとこが二人と、友人たちが五人集まっていた。その中には園部の金三郎と鎌二郎もいて、特に鎌二郎はきげんよく酔い、能弁に饒舌しゃべっていた。給仕は家扶かふと若い家士たちで、鎌二郎はかれらを見るたびに、この家にも早く嫁を迎えなければならない、と繰返し云った。母も妹も来たがっているのだが、男ばかりの家ではたずねて来るわけにいかない、「いいかげんに再婚したらどうですか」などと云った。畠中はいちど座敷へはいって来、帰藩の挨拶をしたが、あんまり座が騒がしかったからだろう、いつのまにか黙って去ってしまった。鎌二郎のきげんのいいのは、おりうが「衣笠」からいなくなったためであろう。あれから三日ほどして飲みにいったとき、彼女はすでにいなくなっていた。
 ――あら、あなたにも挨拶なしにですか、ひどいしとだこと、とおわきが云った。お帳場からも来月分のお手当までそっくり持っていったんでってよ。
 ――あっぱれだな、とそのとき安宅は云った。嫁菜が野菊になったんだ、この衣笠ならそのくらいの損はすぐに取り返せるさ。
 嫁菜がどうしたんですか、とおわきが問い返した。安宅は笑って答えなかった。
 九日は城代家老に招かれた。相客が十人あまりあったし、「衣笠」からも料理人が呼ばれ、日のれるまで盛宴が続いた。城代の松島悠斎ゆうさいは酒が飲めないのに、こういう賑やかな催しが好きで、しばしば人を集めて宴を張る。あるじがげこだから、酒よりも料理のほうが主になるし、それも冬期だと鳥獣の皿や鉢が多いので、敬遠する者のほうが多かった。その日も鹿といのししと山鳥に、しぎのつくね煮という献立てで、せり胡桃くるみの叩いたのを詰めた山鳥のあぶり焼きはうまかったが、鹿と猪には安宅も手が出なかった。
「おい、もうそろそろぬけだそうじゃないか」うしろからささやきかける者があった、「これ以上ここにいると胃袋が裂けちまうぞ」
 振り向くと畠中辰樹であった。知らなかったので安宅はおどろいて眼をみはった。
「いつ来たんだ」
「初めからさ」と云って畠中は末席のほうへ手を振った、「身分が違うからな、あっちの隅でおそれいってたんだ」
「江戸のほうの結果はどうだ」
「うまくいったさ、知らなかったのか、とにかくここを出よう」
 安宅は隣りにいた諸岡主馬もろおかしゅめに断わり、急用ができたから城代によろしく、と伝言を頼んで立ちあがった。外はすっかり昏れてしまい、こおりかけた雪の道はあるきにくかった。どこへゆくんだときくと、衣笠がいいんだろう、と畠中が問い返し、今日は褒美が出たんだと、ふところを叩いてみせた。
「だめだ」安宅は手を振った、「今日は料理人がみな城代の屋敷へ雇われて、あの店は休んでる筈だ」
「では兼しげにするか」
「食うのも飲むのも今夜はもう飽きた、うちへいって茶にしよう」
 残念だな、せっかく軍資金があるというのに、畠中はそう云ったが、おとなしく安宅についてあるきながら、旅の途中の宿で、女客が他の客の座敷へ忍びこみ、金を盗もうとしたのがみつかって、夜なかに大騒ぎをした、などという話をした。病気の亭主を抱えた旅先で、宿賃もたまっていたし、薬礼が払えないために医者も来てくれなくなったからだと、その女は泣いて詫びたそうである。
「まだ若いきれいな女だったがね」
「あとはどうなった」
「主人が客座敷をまわって心付を集めた」と畠中が云った、「親切なあるじだったが、客の一人が女の素姓すじょうを知っていた、女は亭主と組んでそれをしょうばいにしているんだそうだ、結局、集めた心付は客に返し、女と亭主は追いだされてしまった」
 おりうではないな、自分を云いくるめるように、安宅は心の中で首を振った。芳村という男もそんなおろか者ではないようだし、おりうはなおさら、そんなことのできる性分ではない。まったく違う人間だ、と彼は断言するように思った。
「畠中は滝口っていう言葉を知っているか」
「話の腰を折るじゃないか」畠中は振り向いて安宅を見た、「それがどうした」
「知っているかときいたんだよ」
「滝の落ち口のことをいうんだろう」
「そのとおり」安宅はにっと微笑した、「――珂知川の上流に十三のがある、水はその洲にさまたげられて、離れたり合ったりしながら流れている」
「なんの話だ」
「合ったり離れたりして来たその流れが、滝口のところで一つにがっし、すさまじい勢いでどうどうとなだれ落ちるんだ」
 あの夜「衣笠」の裏手から、狂ったように走りだしていった、おりうのはだしの姿を思いだしながら、なにかをいとおしむように、もう一度やわらかな微笑をうかべた。
「おまえ酔っているのか、益村」
「らしいな」と安宅が云った、「だから杉原の縁談のことなんぞもちだしっこなしだぜ」
 畠中は振り向いて睨みつけたが、安宅はぜんぜん気がつかないようであった。





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
   1963(昭和38)年11月〜1964(昭和39)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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