竹柏記

山本周五郎




一の一


 城からさがった孝之助が、父の病間へ挨拶にいって、着替えをしに居間へはいると、家扶かふの伊部文吾が来て、北畠から使いがあったと低い声で云った。
「もし御都合がよろしかったら、夜分にでもおいで下さるようにとのことでございました」
 いぶかしそうな眼を向けたが、孝之助はうなずいた。北畠の叔母に関する限り、できるだけ話を簡単にするのが、長いあいだの習慣であった。伊部は、きょう一日の家事について、二三の報告をし、なお他に用があるかどうかをたずねたのち、邸内にある自分の住居へ帰っていった。
 着替えをして、脱いだ物を自分で片づけてしまうと、少しの遅速もなく、風呂を知らせて来た。彼は風呂にはいった。
 五年まえに母が亡くなってから、五人いた女の召使のうち、浅乃だけ残して、ほかの者にはみんな暇をやった。浅乃はもう五十二になる。母がこの高安たかやす輿入こしいれするとき、いっしょにつれて来て、もう二十余年になるし、身を寄せるところも無かった。それで、彼女だけは残したのであるが、母が死んだすぐあと、父の良平が卒中で倒れそのまま身動きもできない病床についたので、浅乃はその看護にかかりきりであった。
 孝之助はしぜん、自分の身のまわりのことはぜんぶ自分でした。もっとも、母がいるじぶんでも、それが彼の好みであって、
 ――こんなに手のかからない子も珍しい、なんだか情がうつらないようでこころぼそい。
 そんなふうに、よく云われたものである。
 ――ひとり息子じゃないか、もっと我儘わがままにしたらいいだろう。
 親類の者や、友人たちからも、そう煽動せんどうされるくらいだったが、それが生れつきであろう、彼自身にもどうにもならなかった。こういう性分をもっとも単直にあらわして「高安律義之助」という仇名あだなが、彼には付けられていた。
 食事はいまでも父といっしょにした。病床の脇へぜんを据える。いつもは浅乃が父にべさせるが、夕餉ゆうげのときは、孝之助が(自分も喰べながら)父に喰べさせた。ゆるいかゆと、つぶした蔬菜そさいであるが、この頃ではあごがうまく動かないとみえ、口からこぼしたりするので、ずいぶん時間がかかる。しかし彼は辛抱づよく、少しもいやな顔をしないで、喰べ終るまで決してそばを離れなかった。
 恒例のとおり、その日も、父といっしょに夕餉をとり、あとの茶を枕元で、城中のことなど話しながら、ゆっくり済ませた。それから、ごくさりげなく云った。
「北畠から使いがありましたので、これからちょっといってまいります」
 役所の用とでも云えばいいのだが、彼はそういうことはへたでもあるし、父にはどうしてもごまかしが云えなかった。良平は明らかに不快そうで、とがめるように、じっとこっちの眼を見た。
「たぶん、こんどの縁談のことだろうと思うんです」孝之助は赤くなりながら云った、「――話が済みしだい戻ってまいります」
 彼は独りで家を出た。
 北畠というのは所のことで、城の東方に当り、古くは藩侯の山荘であった。叔母の千寿せんじゅが先代の殿さまに貰い、もう二十六七年もそこに住んでいる。そのことが、父との不和の原因なのだが、ごく簡単に記すと……千寿はひじょうに才はじけた人で、十六歳の年、先殿の甲斐守かいのかみ利光の眼にとまり、その側室にあげられた。それも利光の自発的な意志ではなく、彼女のほうから誘惑した、といううわさがもっぱらであり、どうやらそれは事実だったらしい。
 ――家名を汚すやつだ。
 良平はひじょうに怒った。相当に折檻せっかんもしたようであるが、妹はびくともしなかった。しまいにはひらきなおって、
 ――わたくしはただのからだではありません。おなかの和子さまに万一のことがあってもよければ、どうぞお好きなようになすって下さい、殿さまのお側にあがれないくらいなら、死ぬほうがいいのですから。
 こう云ったそうである。
 父もこれには困った。結局は義絶をし、相川という親族の養女にして、お側へあげたのであった。正式に側室となれば、当時の規定で江戸へゆかなければならない。そこで、名目は「老女」ということで、北畠の屋敷を貰ったのである。良平が怒っているもう一つの理由は、そのとき彼女がみごもっていたと云ったのはぜんぜん嘘で、まだ殿さまとの関係はまったく清かったという点であった。
 ――だって、そうでも云わなければ、兄は折檻をやめるきっかけがなかったんですよ。
 ずっとのちに、叔母はそう云って、笑ったそうである。いかにも叔母らしい、ひとをくった云いかたであるが、父はそれから今日まで、彼女とは絶対に会わずにとおして来た。

一の二


 北畠は台地になっている。城下町の北から東をかこむ丘陵きゅうりょうの一部で、表門から、迂曲うきょくした坂道を、約一町も登らなければならない。まわりは松や杉の深い森がつづき、五千坪ほどある邸内も、まえ庭の僅かに平らな芝生を残してすっかり森に包まれていた。
 藩侯の使う御殿とはべつに、三棟の建物があり、そのなかの、隠居所ふうに造った一棟が、叔母の住居だった。叔母は独りで住んでいた。もっとも隣りの棟に女中たちがいるし、御殿の棟には、古くからこの山荘を預かっている中村忠蔵老人と、二人の番士がいた。裏のほうには植木番の足軽やお庭職人などの小屋もあるが、叔母の住居へは、必要のない限り、誰も近づくことが許されなかった。
 木戸まで案内された孝之助が、そこから内庭へ入ってゆくと、障子をあけた部屋の、縁側ちかく膳を据えて、叔母が独りで酒を飲んでいた。髪を洗ったものか、まだつやつやと黒い豊かな毛をひと束ねにして背へ垂れ、片方のひざを立てて、さかずきを持った手をゆったりとその膝がしらに載せている。小柄なひき緊った躯に、藍染あいぞめ単衣ひとえを着、そのうえに派手な、たづな染の羽折はおりを重ねていたが、……絹張りの行燈あんどんの光りに照らしだされたその姿は、下町ふうのいきにくだけた感じで、孝之助はちょっと戸惑いをした。
 まだ九月中旬だというのに、土地が高いのと、まわりに樹が多いためだろう、空気はしんと肌寒いほど冷えて、風もないのに、しきりと落葉が舞っていた。
「しばらくでございました、お使いを下さいましたそうで」
「おどろいたでしょう」叔母は持っている盃を見せて、笑いながら坐りなおした、「――このごろ独りでこんなことをする癖がついてしまってね。年のせいだろうけれど、まあこっちへお上りなさいな」
 孝之助はすなおに縁側へあがった。
 叔母は彼に盃を持たせて、良平の病状などをいたのち、この人らしい卒直さで、笠井杉乃との縁談について話しだした。孝之助には思いがけなかった。父には「縁談のことでしょう」と云ったが、べつに根拠もなにもない、その場のはずみだったからである。
「まあ、だいたいそうきまったんですが」
「杉乃という娘を、孝さんは知っていらっしゃるの」
「ええ、まあ」彼はちょっと云いよどんだ。
「――兄の笠井鉄馬というのが友人なんです」
「気にいったというわけですか」
 孝之助は答えなかったが、少しばかり赤くなった。叔母はふと調子を変えて、
「こんなこと云っていいかどうか、わからないけれど、知っていて云わないのも気が咎めるし、思いきって云うんですがね、孝さん、あの娘はやめたほうがよくはないの」
「――それは、どうしてですか」
「気だても悪くはないし、縹緻きりょうもいいけれどあの娘には恋人があるのよ」叔母は彼の盃に酌をしてやった、「――それもただ好きだというくらいのものじゃなく、お互いが相当つきつめた気持になっているらしいの、親たちは反対だそうだけれど、そんなことではとても抑えられまいっていう話よ」
「ええ、そのことなら知っています」
「知っているんですって」
「よく知っていますし、それはもうりがついたんです」
 千寿はじっとおいの顔を見た。それから手を伸ばして、小机の上の鈴を取って振った。その澄んだ美しい音色は、しんとえた、静かな宵の空気をふるわせ、その音にさそわれるかのように、暗い空から、落葉が、庭の上へひそやかに舞い落ちた。
 まもなく、二人の若い女中が、新たに酒とさかなをはこんで来、孝之助の膳をもこしらえて、(これらのことはすべて無言のうちに行われた)そして、黙って会釈して去った。
はしをおつけなさいな、今年もおちあゆはこれが喰べじまいかもしれませんよ」
 女中たちの手燭てしょくの光りが見えなくなると、叔母はこう云って銚子ちょうしを取った。
「そして、定りがついたとはどういうことか、もしよかったら聞かせて頂戴」
 孝之助は眼を伏せながら、おとなしく酒を受け、その盃を膳に置いた。彼はどちらかというと痩形やせがたで、濃い眉と、やさしい、温和な眼をもっていた。動作も言葉もものやわらかであるし、荒い声をたてるとか、人に不愉快な顔をみせる、などということは決してなかった。
「――その相手は、岡村八束やつかというのです」
 彼は眼を伏せたまま話しだした。
 背戸のあたりで、なにかの動物の、鼻にかかったような、なき声がした。この丘陵のうしろは、隣国の領分まで、殆んど山と森つづきで、いのししや鹿などが多くんでいた。そのなき声は、おそらく若い鹿であろう。かなしげに訴えるような、心に残るような声であった。
「そう、そうだったの」
 叔母は頷いた。孝之助の話はわかったけれども、そのままでは納得ができないようであった。
「正直におっしゃってれて有難う、でもねえ孝さん、あなたがそれほど、杉乃さんを愛していらっしゃることはわかるけれど、そういうふうにまでして結婚するということは、少し不自然じゃないかしら」
「――不自然、でしょうか」
「そう云っては、言葉が強すぎるかもしれないけれど」
 千寿はそっと銚子を持った。

一の三


「この叔母さまはべつとしても、女というものは初めて愛した人は忘れられないものよ。その人とならどんな苦労をし、どんなにおちぶれても悔いはない、いっしょに死ぬなら、死んでも後悔はしないというくらいに思うものよ」
 彼女は自分で注いだ盃を、大胆に飲みほして、きらきらするような眼で甥を見た。孝之助は黙って、やや長いこと、膝の上の自分の手を見ていた。
「私にもそれはわかるのですが」彼は低い声で云った、「――しかし、それだけだとは思えません」
 叔母は次を待った。彼は続けた。
「どんな貧窮、どんな落魄らくはくもいとわない、よくそう云いますけれど、じっさいに落魄し、貧窮して、衣食にもこと欠くようになって、それで愛情だけが傷つかずにいる、ということは信じられません」
「孝さんはいま人を愛していて、それでそのことが信じられないの」
「そういう愛情が信じられないんです。この世は愛情だけでは生活ができないし、死ぬまでは生きなければならない、家庭をいとなみ妻子をやしなって、五年、十年、二十年、飢えず凍えず、家族そろって生きてゆくということは、そう楽なことではないと思います」
「まるで意見をされてるようなものね」
 千寿はやや興冷め顔に、溜息ためいきをついた。
「そこまで考えたうえのことなら、わたくしにはもう云うことはないわ、ただこれだけは覚えていらっしゃい。女が初めて愛した人のことは忘れられない、ということ、もうひとつは、ひとをあまり軽がるしく判断しないことです」
「それは、岡村八束をさすのですか」
「その人にしても、杉乃さんにしても」こう云って叔母は酒をすすめた、「――さあ、めしあがれ、せっかくの鮎が冷たくなってしまったでしょう」
 孝之助はまもなく山荘を辞した。
 彼と笠井杉乃との縁談には、叔母のほかにも反対する者があった。杉乃の兄であり、孝之助とは幼な友達の鉄馬も、その一人であった。理由は、彼女に愛人のあることで、孝之助もまえからうすうす知っていたが、そのためにかえって、結婚する決心を強めた、といってもよかった。
 相手の岡村八束は、孝之助や鉄馬とおなじ年であった。さして美男というのではないが、少年じぶんから頬のややこけた、眼のきれいな、笑いかたに愛嬌あいきょうのある、ひと好きのする顔だちで、いつもまわりの少女たちに、にんきがあった。……岡村はその藩で「番衆ばんしゅう」というめみえ以上ではあるが、中の下くらいの家柄であって、八束は勘定奉行の払方はらいかたに勤めていた。
 高安は老職格で、父の良平は病臥びょうがするまで勘定奉行であった。孝之助もやがて、その職に就くわけであるが、父が倒れて以来、勘定奉行の元方(収納)支配をしている。こうして同じ役所に勤めている関係から、八束と親しくなったのであるが、八束は笠井にも遠縁に当るので、噂は以前から聞いていた。
 俊才という言葉が、そのまま当篏あてはまるように極めて才はじけ、孝之助などからみると、びっくりするほど世故にけた性質で、
 ――彼には宰相の実力がある。
 と評されていた。
 職位が殆んど世襲になっていた時代のことで、岡村くらいの身分の者に「宰相」の評がつくというのは異例である。孝之助にはそのままに信じられなかった。自分が「律義之助」といわれるくらい、じみで慎重な性分のせいか、八束の俊敏な才があざやかな綱渡りを見るような、不安定な、危険なものに思われた。
 その予感が当った、ともいえようか、或る御用商人とのあいだに、汚職の事実があるのを、ついさきごろ、ふとした機会に孝之助が発見した。
 現銀を扱う役目だし、まだ若いことではあるし、あやまち程度なら同情してもいいかもしれない。が、八束のばあいは、手のこんだからくりがしてあり、うっかりすると、他の責任になり兼ねないような、方法がとってあった。孝之助は八束に注意した。
 ――まだ誰も知らないから、いまのうちに始末をするがいい。
 もし必要なら、不足の金は用立てる、と云った。八束はすなおに頭をさげ、やむを得なかった事情を述べて、若干の借用を求めた。孝之助はそれだけの金を(かなり無理をして)貸したが、そのときの八束の、少しの弁解もせず、悪びれたふうもなく、あまりにすなおに過失を認め、頭をさげたようすが、――本来なら好い感じを受ける筈であるのに、――なにかしらん不愉快な、はぐらかされたような印象を受けた。
 ――彼はまた同じようなことをやる。
 孝之助はそう思った。
 ――うっかり信頼のできない男だ。
 その感じは動かしがたいものであった。そして、その八束が、笠井の杉乃とふみの交換などしていて、杉乃が両親に激しく叱られた。ということを聞いたとき、孝之助は、杉乃を自分が嫁に貰おう、と決心した。
 ――ほかの者ならともかく、岡村にだけは渡してはならない、どんなことがあっても、八束の嫁にだけは、……断じて。
 生れて初めて、孝之助は、燃えるような闘志に駆られた。
 彼はじかに八束と会って、自分が杉乃を愛していること、杉乃を貰うためには、いかなる手段をも辞さない、ということを、宣告するような口ぶりで云った。
 ――どうして私に断わるんです。
 八束は愛嬌のいい顔で、しかしかなり皮肉な笑いかたをし、軽い調子でこう云った。
 ――それは杉乃さんしだいじゃありませんか。

一の四


 叔母に呼ばれてから、十日ほど経って、祝言の日が迫り、すべての用意もととのい、どちらも緊張の緩む、数日が来た。
 孝之助が強引に、この縁組をまとめたのは決して岡村八束の関係だけではない、彼はずっと以前から杉乃を愛していた。どうしても杉乃でなければ、という強烈な感情ではなかった。もし嫁に貰うなら、というくらいの、ほのかな、ごく尋常な恋ごころにすぎなかった。笠井へはたまにしかゆかないが、杉乃を見ると心が温たまり、静かな、安息と慰めを感じた。そしてひそかに、
 ――このひとだけはいつもしあわせに、不幸や悲しみを知らずに、一生を送らせたいものだ。
 そう思うのであった。会うたびに、きまって同じことを思った。
 こんど縁談が始まってから、彼はいちども笠井へはいっていない。仲人は、老職で藩校の学頭を勤める、佐多梅所さたばいしょに頼んだ。梅所は父と親しいし、家格からいって(重みという意味で)適当だと思ったのである。
 笠井では数日の間をおいて、承諾の返辞をし、同時に「なるべく早く」という希望を出してきた。
 岡村八束のほうは、孝之助がもう宣言してあった。杉乃に対して、両親がどう説得したか、杉乃が本当に承諾したか、どうか。孝之助はまったく知らないし、また知ろうとも思わなかった。彼はただ、杉乃の一生を幸福にしてやりたい、八束と結婚すれば不幸になるおそれが多分にある、自分のところへ来て呉れさえすればいい、自分なら、決して不幸にはしない。こう思うばかりであった。
 婚約のできたすぐあとのことであるが、城中で鉄馬から呼びかけられた。
 ――話したいことがあるのだが。
 こう云う顔いろを見て、孝之助はそれには及ばない、と首を振った。鉄馬は初めからこの縁組に反対していた。そのときも彼がなにを云うか、孝之助にはおよそわかった。それで、大丈夫だよと、微笑して云った。
 ――おれはあせらない性分だからね、時間をかけるほうは得意だから……。
 鉄馬はそのとき、黙って眼を伏せた。
 祝言の三日まえ、午後から雨になった日のことであるが、孝之助が城をさがって来ると柳のつじのところで、岡村八束に呼びとめられた。
「ちょっとそこまで、つきあって貰いたいんですがね」
 傘を傾けて、こちらをのぞきこんだ、その息はつよく酒の匂いがした。
「お手間はとらせない。ほんのちょっとですよ」
 孝之助は供の者を見て、先へ帰れ、と云い八束に頷いてみせた。
 雨のためだろう、あたりはもう暗くなりかけ、辻通りにある柳並木の枝から、僅かに残っている葉が、しきりと道の上に散っていた禅昌寺橋ぜんしょうじばしの通りを、まっすぐにゆき、町家まちやへはいったところを、左に曲った。つき当ると鏡川の岸で、その手前に華やかな一画がある。俗に「洗濯町」と呼ばれているが、ずっと昔そこに城中の御用を受ける、洗濯長屋があったという。むろん真偽のほどはわからないが、のちに遊女屋が出来、料亭が建ち、唄や踊の女師匠(まだ芸妓とはいわなかった)などが住みついてあまり品のよくない花街ができた。
「御身分にかかわりますかね」
 孝之助がちょっとためらうのをみて、八束はこう云いながら、手で押しやるような、身振りをした。
「しかし此処ここも人間の遊ぶところです。いい経験になりますよ」
 そして、殆んど引立てないばかりに、横丁へ折れてゆき「かね田」と袖行燈の出た、小さな料亭ふうの家の、門へつれこんだ。
 思いきって卑しい、中年の女中が二人、あけすけにみだらなことを云いながら、ぎしぎしきしむ、狭い廊下を先に立って、八じょうばかりのうす暗い部屋へ案内した。右が壁、左が古びたふすま。庭でもあるのか、一方だけ障子になっている。
「そう四角張ってないで、はかまでもぬぎませんか」八束は冷笑しながら、「――肩肱かたひじをいからしていても、此処ではべつに仰天する者はいませんからね」
「ほんとにおくつろぎなさいよ、こちら」
 女中の一人が孝之助の腕をつかんだ。
「郷に入ったら郷に従えってね、こんなところで気取ったって誰もめやしないわ、すましてると、あたしたちで裸にしちまうわよ」
「私はすぐ帰るんだ」
 孝之助は静かに、女の手をはらいのけて、八束の顔を見た。
「用があったら云って呉れないか」
「じゃあ、まず、酒を持って来い」彼は女中に手を振った、「――大丈夫だ、今夜は払ってやる。ここに金主がいるんだから、これまでの分もきれいにするし、今夜の分も払うし、きさまたちにも心付けを呉れてやる、大丈夫だからどんどん持って来い」
 女中たちが去るとすぐ、
「断わっておくが」と孝之助が云った、「私は金は持っていないし、たとえ持っていたにしても、ここの支払いなどはしないからね」
「なあに払うさ、そのことなら私が保証してもいい、高安孝之助はここの勘定を払うし、そのほかに二百両こしらえて、私の前に並べるよ」
 八束はなま欠伸あくびをしながら、人をばかにしたような口ぶりでそう云った。孝之助は黙ってそう云う彼の顔を見ていた。
「用事というのはそれだけか」
 やがて孝之助が云った。
「さあ、今のところはね」と八束が答えた、「――あとはまた、おいおいの相談にしよう」
 孝之助は刀を持って立った。
 彼の想像したことと、この場の事実とは、あまりに違っていた。違いすぎていた。この汚れた、泥まみれの、いやらしい空気は、とうてい耐えることのできないものである。孝之助は黙ってふり返り、出てゆこうとして襖をあけた。
 すると、そこの廊下に三人卑しい風態の男が、道をふさぐように、立ちはだかっていた。そして、その一人は、持っている長脇差の柄に、手をかけながら云った。
「どうぞお静かになすって下さい、いま酒がまいります」

二の一


 孝之助はそのときひるんだ。
 恐怖とはいわないまでも、暴力に対する本能的な恐れで、一瞬、足がすくんだ。それは事実であった、彼はたしかに怯んだ。(むろんそのばあい、そういう男たちに対して、自分が平然としていられなかったことを、彼は恥じようとは思わないが)しかし、それでうろたえはしなかった。
 彼は前に立ち塞がった三人の男を、静かな眼で見やり、それから戻って、元の席に坐った。三人の男たちも、あとから入り、孝之助をとり巻くように、坐った。
「こんなふうにまで、しなければならないのか」
 できるだけ穏やかに、孝之助が云った。
「そこまで自分をとしていいのか」
「それはどういう意味ですか」
 八束は片足を前へ投げだし、からかうような眼で、孝之助を見た。
「他人の失策を利用して、女を横取りするよりも、このほうが堕落した行為だ、というわけですか、まさかそうじゃないでしょうな」
 孝之助はなにか云おうとして、口をつぐみ、眼を伏せた。八束の言葉は卑しく、毒をもっているが、嘘ではなかった。孝之助には孝之助のたちばがあり、云い分もある。だが、八束も八束のたちばから、云いたいことを云っているのだ。しかも、彼の云うことのほうが、身に弱点のあるだけ、かえって切実なひびきをもっていた。
 ――たいかわしてはいけない、本心と本心でぶっつかるときだ。
 孝之助はそう思って、
「この人たちに座を外して貰えないか」
 と云った。八束は冷笑した。
「これは木屋徳きやとくといいましてね、私とは飲み友達だし、こんどのいきさつもすっかり知っている。なかんずく、貴方と笠井との縁組の件などはね」
「お侍のなかにも、あきれけえった人間がいるもんだと、あっし共みてえな、こんな野郎がたまげてますよ」
 それが木屋徳というのだろう、三十四五になる、痩せた、際立って眉の濃い男が、ひどくしゃがれた声で、嘲弄ちょうろうするように云った。
「お友達が若気のあやまちで、ちっとばかりしくじった、てえしたこっちゃねえ、武士はあいみ互い、まして友達同志なら、出来ねえことをしたってかばいあうのがあたりめえだ、おめえさん岡村の旦那の友達じゃあねえのかい」
 孝之助は黙っていた。相手は続けた。
「ほんの目くそばかりの金を用立てて、そいつをかせに友達の想い者を横から取り、文句を云えば旧悪をばらすぞってよ、まるっきりぺてん師のやるこっちゃねえか、おめえさんそれでも侍のつもりかえ」
 いかにも下賤にふみまたがった、ねばりつくような木屋徳の調子は、殆んど聞くに耐えないものであった。しかし孝之助は侮辱を忍んで、八束に向って云った。
「おれはいつか云った筈だ、あの人を嫁に欲しい、あの人と結婚するためなら、どんな手段をも辞さない、……これはおれの本心だし、今でもこの決心に変りはない、だがこれは、おれがあの人を嫁に欲しいというだけではなく、あの人を不幸にしたくないからでもあるんだ」
「つまり、私と一緒になれば、杉乃が不幸なをみる、ということですか」
「現に一つ、此処でその証明をしている、本気でそうするつもりなら、こういう男たちを使い、こんなふうに人をおどさなくとも、ほかにいくらでも方法があった筈だ」
「毒草の種子たねけば毒草が生えるものさ」
「それはそちらの選んだたとえで、おれの知ったことではない、おれは毒草の種子など決して蒔きはしなかった」
 孝之助は膝の上で、扇子を強く握りしめ、相手の眼をひたとみつめながら、云った。
「岡村八束には、宰相の質がある、という評があった、いまでもある。おそらく自分でも知っているだろう、善かれ悪かれ、世評などというものは無根拠だし、責任のあるものではない、おれはそのままには信じないが、しかし、岡村にそういう評のあることは事実だし、それは人々の信頼が、どれほどか岡村に集まっている、どれほどかの人が、岡村の将来に期待をかけている、という証拠だと思う、そうではないだろうか」
「岡村の旦那、問答はたくさんだ」
 木屋徳が舌打ちをして云った。
らちのあかねえ理屈はやめにして、肝心の話のくくりをつけたらいいでしょう、待たせてある酒が不味まずくなっちめえますぜ」
「もうひとこと云わせて呉れ」
 孝之助は声を抑えて続けた。
「笠井のあの人は、岡村のまえの過失を知らない、むろん今日の事も知ってはいない、あの人はおそらく、岡村を世評どおりの人物と思っているだろう、岡村さえ、それを裏切るようなことをしなければ、いつまでもそう信じているに違いない、せめてあの人の信頼を傷つけないで呉れ、一時の情に激して一生を誤るようなことはしないで呉れ」
 八束の冷笑は、凍ったように、冷笑したままで、硬ばっていた。孝之助は静かに、息をついで云った。
「これはおれの本心から云うことだ、そっちも本心で考えて呉れ、そして、どうしても承知できなかったら、武士として恥ずかしくない方法を選んで貰いたい、もちろん決闘でもいい、おれは決して拒みはしないから」
 云い終って、呼吸五つばかり、八束の眼を見まもってから、孝之助は刀を持って座を立った。
「旦那、どうするんです」
 木屋徳がそう云って立とうとした。八束が制止したらしい、孝之助は見なかったが、そのまま廊下へ出ていった。

二の二


 祝言の日、孝之助は正午まで勤めた。
 午後からは賜暇しかを願ってあり、そのため、仕事はまえから、早く片づくように、手順がつけてあった。気になるのは八束のことで、役所が同じだから(部屋は離れていたが)姿は毎日みかけるけれども、かたくなに、こちらを無視するようすで、なにを考えているのか、まったく見当がつかない。
 ――わかって呉れたのだろうか。
 そう思いたいが、あんな、ならず者などを使うところまで、つきつめたのを考えると、とうていそうは信じられなかった。
 ――ではどんな要求をもちだすだろう。
 ――そして、それはいつのことだろうか。
 あのときのようすでは、金の必要に迫られていたらしい。どんな理由の金か、もちろんわからないが、単にこっちを困らせるためだけではなかったようだ。とすれば、その金の問題もかかってくる、と思わなければならない。
 ――おそらく、もっとも効果的なときに、もっとも効果的な手を打ってくるつもりに、相違ない。
 こんなふうに、いろいろと思いまわして、祝言の当日まで、孝之助はおちつかなかった。
 その日は、午後から雨になった。
 武家のことだし、家に病人もあるので、式はごく質素にし、客も最少限に、ということであったが、それでも、双方の近い親族だけで七家あり、ぜんぶの招客を合わせると、三十人以上になった。亡くなった母の実家から母の弟に当る渡辺又兵衛と、妻女の百代ももよが来、また父の弟で、瀬木家へ入婿した、叔父の蔵人と妻のかなえが来て、この二た夫妻が式の準備を受持って呉れた。
 すでに十月にはいって、気温も下っていたし、降りだした雨は、つよくもならないが、暗く鬱陶しく、いちめんに空をおおった雲から、なげきのように、ひそひそとしぐれてくるけしきは、いかにもしめっぽく、陰気であった。
「どうもよくないな、こういう雨というやつは気がめいるし、気がめいるということは」
「いや、そんなことはない、それが二本松の悪い癖で……」
 孝之助が、ともしをいれた居間で、着替えをしていると、隣りの内客の間から、そんな問答が聞えてきた。二本松というのは渡辺又兵衛のことである。相手は瀬木の叔父であって、この二人は、顔が合いさえすれば、なにかしら云いあいをするのが、恒例のようになっていた。
「昔から雨降って地かたまるといって、婚礼の日に降るのは縁起がよい、ということになっているくらいだ」
「誰がそんなつまらぬことを云ったのかね」
「誰が、ではない、誰でもだ馬子まご駕舁かごかきのたぐいでも知っていることだ」
馬場下ばばした(というのは瀬木蔵人であるが)はすぐにそうむきになるが、まことにつまらぬ理屈で、それは御幣担ぎというものだ」
「冗談じゃない、私は縁起は多少なにするかもしれないが、御幣など担ぐようなことは決してしない、それはむしろ二本松のように……」
 孝之助は苦笑しながら、ちょうど呼びに来た渡辺の叔母といっしょに居間を出ていった。
 五時ちょっと過ぎに笠井の人たちが到着した。そのじぶんはもう、すっかり暗くなっていたので、各座敷や部屋はもちろん、廊下などにも灯をいれたし、孝之助の友人たち五人もやって来て、家の中はようやく、にぎやかに活気だってきた。
 式の始まる少しまえのことであったが、彼の部屋へ笠井鉄馬があらわれて、
「済まないが、ちょっと……」
 そこにいる叔母たちに、座を外して貰うようにという、眼くばせをした。叔母たちは出ていった。孝之助は彼のようすで、なんの話かおよそ察しがついた。
「――岡村からか」
 そうだ、と鉄馬は頷いて、一通の封書をさしだした。
「家を出ようとするときに来て、これを置いていった、式のあとで渡して呉れと頼まれたんだが」
「ではあとで見よう」
「いやここであけて呉れないか、おれも文面を知りたいんだ」
 鉄馬はけしきばんでいた。彼には知らせたくない、自分だけで始末したかったが、もうすぐ義兄になる、という関係ばかりでなく、いちばん親しく近しい、友達として、鉄馬は見ずにはいないだろう、と思われた。
 孝之助は封書をあけた。
 それは左封じであって、中はいうまでもなく、日時と場所を指定した、決闘状であった。十月十日、午前七時、場所は大雲寺たいうんじヶ原である。
「――七日さきだな」
 鉄馬が云った。
「おれが介添をひきうけよう」
「――七日さき」
 と孝之助は口のなかでつぶやいた。
 八束がどれほどの腕か、まるで知らない。
 勝負は腕だけでなく、そのときのはずみにもよるし、気力や闘志にも左右される。孝之助は自分の腕にそう自信はないが、むざむざ負けようとは考えられない。だが、八束の日の選び方に、ちょっと逆を取られたように思った。
 笠井の人たちが、家を出る直前に、このはたし状を渡した。孝之助にではなく、鉄馬の手を通じて、……それは、鉄馬もこれを見るだろう、ということと、時日を祝言の前にくりあげられることを避けるために違いない。
 ――彼は杉乃にも思い知らせるつもりなのだ。
 いちど嫁にゆかせて、七日めに良人おっとを死なせてやろう。そういう八束の企みと、ゆがんだ冷笑とが、見えるようであった。
「介添のことは、そのときまた……」
 孝之助はそう云いながら、それを巻いて封におさめた。

二の三


 式が終り、客たちも帰り、祝宴のあと片づけがすんだのは十一時に近いころであった。
 藩の古くからの習慣で、祝言のあと片づけには、新夫婦も(たいてい形式だけではあるが)手つだわなくてはならない。おそらくはすでに協力生活が始まったということを、教戒するものであろう。また一般とは違って仲人夫妻もあとには残らず、しぜん寝屋の盃は二人だけでとり交わすしきたりであった。
 着替えをするまえに、杉乃はもういちど、良平のところへ挨拶にいった。祝言のときには、病床を移して、寝たままで式に臨んだのであるが、彼女は改めて、病間へもいったのである。
 ――そんなすなおな気持に、なっていて呉れたのだろうか。
 これから嫁として仕える。という謙虚な気持のように思えて、孝之助はふと胸の温たまるのを感じた。
 寝屋には屏風びょうぶを(夜具を隠すように)とりまわし、燭台のそばに、作法どおり、盃の支度がしてあった。
 白無垢しろむくの寝衣に、扱帯しごきを前で結んで、杉乃は孝之助と向き合って坐った。ややほそ面の平凡な顔だちであるが、しもぶくれのふっくらとしたあごと、受け口の、ひき緊ったくちつきと、そして右の眼尻にある、かなり大きな黒子ほくろとが、りんとした表情に、柔らかな、幾らかなまめいた印象を与えていた。
 化粧はしなおしたらしいが、額から頬のあたり、なめらかな皮膚が、あおざめて硬ばり、正座した姿勢にも、結ったまま解かない髪(通常は寝屋へ入るときに式の髪は解く)にも、或る激しい意志が、示されているようであった。
「わたくし申上げたいことがございます」
 杉乃は盃を受けようとして、ふと手を膝に戻し、こう云いながら眼をあげた。静かではあるが、なにものも怖れない、といったようなまなざしであった。
「聞かなければならないことですか」
「念のためにぜひ申上げたいのです」
 孝之助は頷いた。
「わたくし今宵から、高安家の嫁となり、貴方の妻となります、けれど、それはこの躯だけでございます」杉乃の唇が、僅かにふるえた、「――わたくしは、この御縁組は望みませんでした、こちらへまいる気持は、少しもなかったのです、貴方はそれを御承知のうえ、たってわたくしを御所望なさいました」
「――そのとおりです」
「そのために、貴方がなにをなすったか、わたくしよく存じております、どのような手段をおとりになったか、ということを」
「――少しも疑わずにですか」
「わたくし貴方をお愛し申すことはできません」彼女は続けた、「――まいった以上、妻としてはお仕え致しますけれど、心からお愛し申すことはできません、……聞いて頂きたいのは、それだけでございます」
 声は哀れに震えた。泣くかと思われたが、涙ぐみもせず、乾いたような眼で、まともに孝之助の顔を見まもった。
「私もひとこと云っておきます」
 彼は穏やかな、しかし心のこもった調子で云った。
「人の一生はながく、つねに平穏無事ではない、静かな春もあれば、夏の熱暑もある、道はけわしく、風雪は荒いと思わなければならない、この世は花園ではないのです」
 杉乃は眉も動かさなかった。
「正直に云うが、私は貴女を愛している」と彼は続けた、「――まだ貴女が肩揚げのある着物を着ているころから、……ずっと貴女を愛していたし、今でも愛している、そして、いつもこう思っていた、貴女がいつまでも仕合せであるように、悲しんだり苦しんだり、辛いおもいをしないように、一生、安穏に、幸福にくらすことができるように……」
 杉乃の唇が動いた。なにか云おうとしたらしい、しかし孝之助は続けた。
「私は才分もつたない、富裕でもない、貴女にとっては不足であろうし、愛して貰う資格はないかもしれない、けれども私は貴女を世の風雪から護る、できる限り、平安な一生がおくれるように努めるつもりだ」
「貴方には、安穏な生活というものが、それほど大切なのですか」
「私にではなく、貴女のためにです」
「わたくしが望まなくともですか」
 孝之助の額に、苦痛を忍ぶような、深いしわが刻まれた。
「いま私には、こう答えることしか、できない、……私は貴女を愛している、この一生が終るまで愛してゆく、どんなことがあっても不幸や悲しみから、貴女を護る」
 杉乃はそっと眼をそむけた。
 寝床はしばらく別にする、と云って、孝之助はまもなく杉乃を残してそこを去った。二人はついに寝屋の盃を交わさずにしまった。

二の四


 孝之助の心は、かなり深く傷ついた。
 杉乃の気持をあまくみていたわけではないが、そこまではっきり、云いきられようとは、おもいもよらなかった。喜ばれるとは考えなかったけれども、そんなに強く、殆んど憎みに近い表現で、少しの仮借もなく、
「愛することはできない」と云われようとはまったく予想もしないことであった。
 それから二三日、彼は、動揺する自分の気持に、悩まされた。
 ――いっそみんな話してしまおうか、岡村八束がどんな人間であるか、役目を利用した商人との不正、ならず者を使って脅迫し、金を強要したこと、そしていま、決闘を申し込んで来ていることなど。
 すべてを話して(まだ夫婦とは名ばかりのうちに)改めて彼女の意志どおりに、させてみようか。幾たびもこう考えた。ときには口まで出かかったが、結局そうはできなかった。
 ――それは杉乃を二重に辱しめることになる、おそらく彼女は実家へ戻るだろう、いや、もっと悪いことになるかもしれない。
 もっと悪いこと。つまり自殺ということが想像された。高安への輿入こしいれを承知しただけでも、自分の気持を相当ころしてきたに違いない、このうえ八束のことで辱しめられたら、(あれだけはっきり意志表示のできる気性では)ただ実家へ戻るだけでは済まさないだろう。自殺するか、尼になるか、ともかくその一生を放棄する手段にでる、という危惧きぐが十分にあった。
 ――自分が望んでこうしたのだ、あせるのはおかしい、辛抱づよく待つことにしよう。
 やがて孝之助はそう自分を云いなだめた。
 ――杉乃の一生を、幸福にすることが目的だった。小さな自尊心などは、初めから捨てていたのではないか、こちらからはなにも求めてはいけない、いつか、もしかして……そういうときがくるまでは……。
 岡村八束は、ずっと役所を休んでいた。
 孝之助はかくべつ気にもとめなかったが、笠井の鉄馬は、なんとか和解させようと、ずいぶん八束を捜したらしい。八束もそれを察したものか、家はいつも留守だし、居どころを知っている者もなかった。
 約束の前日、鉄馬が役所へ来て、その旨を告げた。孝之助は義兄に礼を述べてから、
「彼は和解など、決してしないよ」
 と静かに云った。
「たぶんそうだろう、おれも本当ならそんな交渉はしたくない、もしできるなら、おれが代っても始末をつけたいところだ、捜したのははらの虫を抑えてのことだったんだが」
「もういいよ、その場になったら、なんとかきりぬけるようにするよ」
「なにか思案があるのか」
「なにもないけれど、できるだけ事を小さく済ませるように、したいと思う、それには、独りでゆきたいんだ」
「ばかなことを」鉄馬は首を振った、「――はたし合に介添を付けない法はない、それに相手が岡村八束ではないか」
「しかしちょっと考えることがあるんだ」
 理由は云えないが、と断わって、彼は鉄馬の介添を、つよく固辞した。
「わかった、では介添はやめよう、だが原のところまでは付いてゆくよ」
 鉄馬はこう云って去った。
 この藩でも、私闘は原則として法度であるが、作法を守った「はたし合」は、理由が武士の名誉に関する限り、正式に咎められることはなかった。これは他の諸藩にも例のないことではないが、どこよりもはるかに寛大だった、というのが事実らしく、このほかにも、決闘の話がずいぶん残っているが、重科に処せられた、という記録は少ない。
 孝之助はまえから、少しずつ身辺の始末をして置いた。役所関係の事務も、支障のないように、手順をつけた。
 彼は朝の早いほうであるが、その日は四時に眼がさめた。風呂屋で水を浴び、庭へ出てまだほの暗い光りのなかで、枯れたままの、萩やすすき芙蓉ふようなどを、根から刈ったり、父の好きな、白桃の枝をおろしたりした。それから、気になっていた竹柏ちくはくを、妻の居間から見えるところへ、移しなおした。
 それは去年の春、こんど仲人を頼んだ、佐多梅所から貰ったものである。「竹柏」という、名も清らかであるし、その細葉の、濃緑に白く粉をふいたような、渋みのある、おちついた色も好ましかった。
 ――松はときに色を変えることもあるが、竹柏は枯死するまで色を変えない。
 梅所はそう云って、根づくまでは此処がよい、と、場所を指定した。そしてこの夏のはじめに、梅所が来て見て、これならもう移してもよかろうと云ったものである。
 ――枯死するまで色を変えない。
 枝ぶりの、尋常でつつましいのと、渋く、見飽きのしない葉の色とに、彼はひじょうな愛着を感じていた。それを妻の居間の、前へ移したのは、その木に、自分の心を託すという、ひそかな想いをこめてのことであった。
 朝食の膳には坐ったが、それはかたちだけで、なにも喰べずに、はしいた。
 杉乃はなにも云わなかった。
 食事をしないことにも、なにも云わなかったし、着替えのとき、肌衣を新しい白い物にしたときも、やはりなにも云わなかった。孝之助は父のところへ、挨拶にゆき、玄関へ出て、履物に足をおろしてから、ふと、ひと言だけ、なにか妻に云いたい、という衝動を感じた。それは口までつきあげてきたが、硬い、無表情な、杉乃の顔を見ると、つい云いそびれて、そのまま外へ出た。
 大雲寺ヶ原というのは、城下町を東へ出はずれたところにある。
 それは北畠の山荘のある丘陵が、染井川へと、低く裾をひく地形であって、俗に「柊寺ひいらぎでら」と呼ばれる、大雲寺が、丘ふところの森の中にあり、その前に、道を隔てて、かなり広く(一方は染井川の岸に到るまでの)草原がひらけている。眺めがいいので、城下の人々の恰好な行楽地になっていたし、ことに秋草のころは、野宴を催すものが多かった。
 孝之助がその原へ入っていったのは、まだ七時まえであった。途中で供を帰らせ、一人でそこまで来た。笠井鉄馬はどうしたか、そこへ来るまでも、来てからも、あたりを見まわしたが、彼の姿は見えなかった。
 原へかかるとすぐ、二段ばかり向うに、岡村八束の、立っているのが見えた。孝之助はそれを見届けて、身支度にかかった。
「よく来たな、独りとはあっぱれだ」
 八束の呼びかける声がした。同時に、八束のうしろへ、三人の男の出て来るのが、孝之助に見えた。

三の一


 八束のうしろにいるのが、いつかの木屋徳という男と、その子分たちであるのを、孝之助は見た。
 ――これはいけない。
 八束ひとりなら、無勝負にして和解の方法がとれると思った。そのくらいの自信はあったのだが、三人も邪魔者がいては、無事に済ませる望みは殆んどない。支度をしながら見やると、八束の(さすがに袴こそつけているが)ふところ手をして、ぬっと立っている恰好は、外聞もみえも棄てた、ふてぶてしさそのものであったし、他の三人は、裾を端折り、鉢巻、たすきをかけ、早くも長脇差を抜いていた。そのまま、無頼なかまの喧嘩けんかといったけしきで、――はたし合という言葉のもつ清潔さは、微塵みじんもなかった。
 ふり返ってみたが、笠井鉄馬もそのほかの誰の来るようすもない。孝之助は決心して、かれらのほうへ歩み寄った。
「お一人とは颯爽さっそうたるものだな、今日は論判で逃げるわけにはいかないぜ」
「私は下郎などは相手にしない」
 孝之助は静かに答えた。
「相手は岡村八束ひとりだ」
 彼がそう云ったとたん、「ほざくな」と喚いて、子分の一人が左から、まるで刀を叩きつけるような勢いで、り込んで来た。
 こんな無法な仕方は予想もしなかった。危うく躱したが、切尖きっさきで袖を裂かれた。八束が「やめろ」と叫んだ。同時に右から、木屋徳が突っ込んで来た。孝之助は抜き合せ、足場を広くとろうとして、うしろへとび退った。するともう一人の子分が、右うしろから拳大こぶしだいの石を投げつけた、(力いっぱい投げた)のが、孝之助のぼんのくぼに当った。耳ががんとし、眼がくらんで、前へのめった。
 ――しまった。
 そう思ったが、のめりながら振った刀に、手ごたえがあり、わっという悲鳴が聞えた。
 孝之助は横さまに倒れ、草の上で、躯を三転しながら、打込みに備えて、すばやく半身を起こし、刀をとり直した。
「やられた、畜生、やりゃあがった」
 極めて不愉快な、しゃがれ声で、そう叫ぶのが聞えた。ずっと脇のほうである、当人の姿は見えないが、叫び声はなお続いた。
「斬りゃあがった、畜生、あの野郎」
 孝之助は強く頭を振った。頭がくらくらすると、視線が不安に乱れる。枯れた草の色が揺れ、すぐ向うにいる三人の姿が、その草の色に紛れこむようにみえた。
「それだけはよせ」八束の声がした、「――木屋徳、そいつはあんまりだ」
 以上のことは、ごく短い時間のことだった。おそらく五拍子ばかりの出来ごとだったろう、孝之助は辛くも立った。まだ眼の焦点が合わなかった。しかし、踏み込んで来た一人を躱し、他の一人に(刀を返して)みね打をくれ、よろめきながら、大きく脇のほうへ足場をひろげた。
 もう一度、さらに一度、首を振り、眼をみひらいた。大雲寺の森が見え、草原の広さがやや判然としてきた。すると初めて、怒りがこみあげてきた。うしろから石を投げられたことが、その卑劣さよりも、侮辱感で彼を忿怒ふんぬさせた。
 子分の二人は、もうどちらも、満足にはたらくことはできないだろう。木屋徳が左にいた。それを眼尻で見て、孝之助はまっすぐに、岡村八束へ刀をつけた。
「こんな下賤な人間の」舌が粘った、「――助けを借りなければ、はたし合も、できないのか」
 八束は唇を歪め、初めて刀を抜いた。
「下賤とぬかしたな」
 木屋徳がとびかかった。威しの役にしか立たない腕である、躱しざまに、その脇腹へ、みね打を呉れた。肋骨ろっこつでも折れたか、鈍いいやな音がし、がくっと半身をかがめながら、木屋徳は転倒した。
 八束は蒼くなった。孝之助の顔も蒼かったろう、呼吸は平静だと思うのに、胸が固く硬ばり、のどの奥に吐きけを感じた。
 絶叫して八束が踏み込んだ。孝之助は迅速にまわりこんだ。八束は間を詰め、間を詰め、瞬時も離さず孝之助の眼を、自分の眼でつかみながら、上段から打ち込み、斬り返し、突き、そしてまた打ち込んだ。そんな太刀捌たちさばきがあるものではない、まるで自暴自棄、自殺でもしたがっているようにみえた。孝之助は左に右に避け、跳び退き、かつ外しながら、相手の刀の伸びたところを、巧みにはねあげた。刀は八束の手からはね飛んだ。孝之助も刀を投げ、八束にとびかかって、組み伏せた。
 八束は柔術ができる。しかも、かなり達者であることを、孝之助は忘れていた。二人の位置は逆になった。八束の片手が孝之助の喉にかかった。彼の荒い息、充血した眼、歯をきだした口、すごいほど歪んだ顔が、上からのしかかって来た。
 孝之助は絞めるに任せた。眼がぼうとなり両方の耳が血で塞がるように思った。そして、その刹那せつなに腰をはね、足で地をった。絞めることに全力をかけていた八束は、重心の虚をつかれてのめった。孝之助は上になり、拳をあげて八束の顔を殴った。が、同時にうしろから、後頭部を烈しく打たれ、自分では次の打撃を避けるつもりで、躰を躱そうとしたまま、意識を喪ってしまった。

三の二


 雨が降っていた。
 ずいぶんながいこと、降り続いているようでもあり、幾たびか、やんだり降ったりしているようでもあった。ひさしをうつ雨の音が、いつも聞き慣れているのとは違うので、此処は自分の家ではない、と気がついてから、少なくとも、四五日は経つように思ったが、それは、頭を強く打たれたため、判断力や記憶力が狂っていたからで、現実に意識をとり戻したのは、決闘の日のれがたであった。
 鉄馬がそっと入って来た。ふり向いた孝之助の眼を、暫く見ているようにしてから、そばへ来て坐った。
「顔色がよくなったね、気分はどうだ」
「少し頭が痛むだけだ」
 孝之助はそう答えながら、此処が笠井の家であることに、初めて気づいた。
「おれは、ひどくやられているのか」
「刀傷は一つもない、うしろから頭をやられたが、危ないところで躱して、つばが当っただけだ、やった男も、みね打をくっていて、手もとがたしかではなかったらしいが」
「そこへ来て呉れたのか」
「もうひと足というところだった」
 鉄馬の話によると、その早朝、笠井の家へ使いがあって、
 ――はたし合の場所は中洲に変更された。
 と、云ったそうである。まだうす暗い時刻で、高安から、と伝言しただけで、鉄馬には会わずにたち去った。聞いた下僕も、門を隔ててのことだし、「内密に」と云われたままを、鉄馬に伝えた。
 中洲というのは、大雲寺ヶ原とは反対の方向で、城下町から南へ、一里ちかくいった、染井川の流れの中にあり、小松や灌木かんぼくのよく茂った、殆んどもう島といった感じの洲であった。鉄馬はいちどそこまでゆき、そんなようすのないのを認めて、これは欺かれたと直感した。……時刻は迫っている、まにあわないかもしれない。鉄馬はそこから走って、小林三郎兵衛という友人の家を叩き、ちょうど来あわせた石川内記と三人、馬で大雲寺ヶ原へ乗りつけた、ということであった。
「どうしてそんな」孝之助は眉をひそめた、「――小林や石川などまでれて来たんだ」
「偽の使いをよこしたりする以上、どんな卑怯ひきょうなまねをするかわからないじゃないか」
「その使いは八束が出したんじゃない、彼はおれが一人で来たといって、褒めていたくらいだ、それはおそらく木屋徳という男のしたことだと思う」
「岡村もそんなことを云っていたが、そいつはよく調べてみなければわからないさ」
「調べてみるって、……それはどういうことだ」
「わかってるじゃないか」鉄馬は吐きだすように云った、「――あれははたし合じゃない、だまし討ちだ、しかも、三人のならず者までかたらっている、これはもう単なる決闘ではなく一藩の士の名誉に関する問題だ」
「待って呉れ、それはいけない」
 孝之助は起きようとして、後頭部の痛みに低くうめき、横になったまま手を振った。
「八束は止めたんだ、あの男たちが仕掛けたとき、やめろと叫んだ、それだけはよせと叫んだ、二度か三度、彼は一人で勝負するつもりだったんだ」
「それなら介添はほかに選ぶべきじゃないか」
「もちろんわけがある、その話はするが、彼の罪を責めるようなことはやめて呉れ、それは彼のためだけではない、おれのためでもあり、杉乃のためでもあるんだ」
 鉄馬は吃驚したように孝之助の眼をじっと見まもった。
「――理由を聞こう」
「いや、今は云えない、云えないが信じて呉れ、今日の決闘では、おれもずいぶん口惜しい思いをした、生れて初めて、心の底から憎悪というものを感じた、しかし、がまんする、当のおれががまんするんだ、どうか事を荒立てないで呉れ、頼む」
「――だが、小林や石川が見ているし、三人のならず者たちのこともあるし」
「そこを頼むんだ、どんな方法でもいい、とにかくここだけ無事におさめて呉れ、さもなければ不幸が大きくなる、ことによるとこの家にも迷惑を及ぼすことになるんだから」
 鉄馬はなかばあっけにとられ、やや暫く義弟の顔を眺めていた。
 ――これは誇張ではないぞ。
 律義之助といわれるくらいで、孝之助がわけもなくそんな強い表現をする筈がない。結婚したばかりの、杉乃のためでもあるというし、笠井家にも迷惑が掛るかもしれないという。八束と杉乃の関係は鉄馬も知っているので、これは孝之助の意見に従うべきだ、と思ったようすであった。
「ではともかく、小林と石川に相談をしてみよう」
「手後れにならないうちに、早く頼む」
「それで、高安はどうする」鉄馬は立ちかけてふり向いた、「――家のほうへは、気分が悪くなったので此処に寝ていると使いをやっておいたけれど、もう少し休んでゆくか」
「そうさせて貰おう、まだ少し頭がぐらぐらするようだから」
「ではおれはでかけて来る」
 鉄馬は出ていった。すっかり暗くなった部屋の中で孝之助は、じっと雨の音を聞いていた。

四の一


 十一月下旬に父が死んだ。
 五年このかた寝たまま、殆んど全身不随で口をきくこともできなかったから、父のためには、むしろ死は救いだったであろう。かけつけて来た叔母の千寿は、末期まつごの水をとりながら、例のさばさばした調子で云った。
「兄さんは頑固で強情でわからずやだったけれど、とうとう病気には勝てなかったのね、でも、これでさばさばしたでしょう」
 また、ずっと付ききりで看護していた、召使の浅乃も、臨終の枕もとで泣きながら、小さい声でこうささやいていた。
「ながいあいだの御不自由を、よく御辛抱なさいました、これでもう御苦労も終りでございます、どうぞゆっくりおやすみあそばしませ」
 二十年まえ、母といっしょにこの高安へ来てから、嫁にもゆかず、母の亡くなったあと、病臥びょうがした父の世話をひとりで受持っていた彼女には、父のために父の死を、誰よりも祝福することのできるたちばだったかもしれない。孝之助はその囁きを、すなおに承認した。
「これでわたくしは一周忌までまいりませんよ」
 叔母は枕もとでこう云った。
「まだ義絶されたままだし、死ぬまで赦して呉れる気持はなかったでしょう、そうだとすれば忌日の法要に来るのは、仏の意志にもそむくし、親類の口もうるさいでしょうからね」
「しかし私が当主になったのですから、義絶などということはもう」
「そればかりではないの、本当を云うと法事だの年忌だのという、辛気くさいことが嫌いなのよ」叔母はあっさり笑った、「――死んでしまった人のことなんかどうでもいいではないの。それより生きている者のほうが大事よ」
 こう云ってこちらを見る叔母の眼つきに、孝之助は困惑して俯向うつむいた。そのとき、そこには二人だけだった。千寿は甥のようすで察したのだろう、ごく低い声ですばやく問いかけた。
「その後どうなの、うまくいっていますか」
「ええ、まあ、ぽつぽつ……」
「なにか叔母さまで役に立つことがあって」
 孝之助は力のない笑いをうかべた。
「自分で好んでこうしたんですから、まあできるだけ、自分でやってみます」
「独り相撲はだめよ」千寿はなぞめいた眼くばせをした、「――やさしくいたわったり、大事にするのもいいけれど、女というものは、しんそこでは押えつけて呉れるのを待っているものなのよ、がっちりと、強い力で、……愛情がどんなに深くっても、それだけでは決して女の心をつかむことはできやしません。これは女の叔母さまが念を押しておきます」
 しっかりおやりなさいと云って、千寿は一種そそのかすように微笑した。
 藩の習慣として、親が死ぬと七十日、喪に服さなければならない。役目の登城も(重臣その他やむを得ない用務のあるばあいはべつだが)原則として遠慮する定りだった。それで、表向には、父の死を二日のあいだ秘して役所の用を片つけたのち喪を発表した。
 妻の杉乃は少しまえから、胃を悪くし、食事が摂れないので、部屋にこもって、寝たり起きたりしていた。臨終の日には、急でもあり人手が足りないため、いっとき客の接待に出たけれども、それがこたえたとみえて、三七日の忌日にも起きてはこられなかった。その代りという意味だろう、笠井から義母の松枝が女中を伴れて来て、浅乃と共にすっかり用をして呉れたが、あとから来た鉄馬はひどく怒って、
「しようのないやつだ、お母さん小言を云っておやりなさい、貴女の責任ですよ」
 などといきまいた。義母はあいまいな笑い方をして、女のからだには男にわからない故障が起こるので、そういちがいに怒ってもしようがない、もしかすると怒るようなことではないのかもしれないから、……そんなふうに、言葉を濁して云った。
「怒るようなことでないとはどんなことなんです」
「鉄馬さんなどが知らなくともいいことですよ」
「へえ、それは都合よくできてるもんですな」
 鉄馬はむっとして、なおなにか云いそうであった。孝之助は苦笑しながら、すでに集まっている客たちのほうへと、彼を伴れていった。
 法要のあと、この家では珍しく、賑やかな酒宴になった。客も親族のほかに、役所の上役や同僚たちも来て、ぜんぶで三十余人、二つの客間からはみだすくらいだった。それに年が明けると現勘定奉行の任期が満ち、孝之助が代って就任する筈だったから、座の空気はしぜんと陽気になっていった。
 叔父の瀬木蔵人はいいきげんに酔って、
「これからはひとつ、高安の家風を改善して貰うんだな、もっと戸障子をあけ放して、明るい活気のある家にして貰いたい、そう云ってはなんだが、故人はどうも気むずかしくて文句が多くていけなかった、ここでは酒もゆっくり飲めなかった、これからはそこをなんとか、ひとつ……」
 などと云った。すると例によって、母方の叔父の渡辺又兵衛が、脇にいて鼻で笑った。
「どうも馬場下は暢気のんきなものだ、石を笑わせるために道化るようなことを云う」
「おかしなことを云うじゃないか、私のどこが道化ているんだ」
「不可能なことに舌を疲らせていることさ、孝之助という者には仇名がある、律義之助といってな、その点では故人をしのぐ人物だろう、いくらうまいようなこと云ったところで」
「いやうまいようなことなど云やあしない、私はただ家風について、叔父のたちばから、一言」
 そう昂奮こうふんすることはない、叔父は馬場下ひとりではないのだから。いや自分は決して昂奮などしてはいないし、するわけもない。といったぐあいに、とめどのない対話が続いた。孝之助はこの二人の叔父の、罪のない口争いを聞くのが好きで、微笑しながらついひきいれられていると、左にいた鉄馬が、
「岡村がやられたよ」
 と耳もとで囁いた。孝之助は岡村と聞いただけでどきりとした。
「――なにかあったのか」
「これまでの不行跡さ、直接には洗濯町あたりの借財がこじれたものらしい、食禄しょくろく半減、五十日の謹慎というはなしだ」
 孝之助はにわかに暗い気持になった。

四の二


 大雲寺ヶ原の事があってから、孝之助は八束と会っていない。決闘の忌わしい事実は、鉄馬の奔走で、表沙汰にならずに済んだ。木屋徳と二人の子分は逃亡し、八束も従前どおり勤めだしていた。孝之助は打たれた後頭部がときどき痛み、急に立ったりするとくらくらすることもあるが、医者に診せたところでは、骨に別状があるわけでもなく、時が経てばそんな異和もなくなるだろうと思えた。
 危険なところまでいったが、どうやらきりぬけた。うまくゆけば無事におさまるかもしれない。そう思っていたのであった。
 ――困ったことになった。
 孝之助はやりきれないほど気が沈んだ。食禄半減、謹慎五十日といえば、相当に重い罰である。いちおう荒れるだけ荒れて、いくらか心の折れかかっている八束に、この打撃がどうひびくか。すなおに罪を認めればいいが、もし自暴自棄になったとしたら……。
「喪中にこんなことがあるなんて、折が悪かった、おれが登城しているときなら、なんとか手段があったものを」
 孝之助は同じことをつぶやいては、思いあぐねたように、繰り返し溜息をついた。
 それからつい数日のちのことであった。寝所へ入るまえに、妻の部屋をみまった。杉乃がひきこもるようになってから、日に三度は必ずようすをきにゆく。杉乃は(嫁して来てからずっと)固く殻を閉じている感じで、彼がなにか問いかけると、「はい」とか「いいえ」と簡単に答えるが、殆んど話らしい話をしたことがなかった。……そのときも、気分はどうかと訊いて、彼はすぐに去るつもりだったが、夜具の上に起きていた妻が、もの問いたげな表情をするので、珍しくそこへ坐った。
 髪もなでつけただけだし、化粧もしていず、寝衣の上に羽折を重ねたままのせいか、杉乃はひどくやつれて、神経がとがっているようにみえた。そして、彼が坐るのを待っていたかのように、
「どうぞ仰しゃって下さいまし、わたくし喜んでおうかがい致します」
 と云った。彼には妻がなにを云うのか、まるでわからなかった。すると杉乃は、とつぜん唇を歪め、刺すような調子で、
「岡村さまのことでございます」
 孝之助は妻の眼を見た。そして、自分がそのことを鉄馬から聞いたとき、妻もまた母親から聞いたのだということを了解した。
「そう、八束のことは笠井から聞いた、しかしわれわれには関係がないと思うがね」
「貴方はあの方の将来をみとおしていらっしゃいました、末を完うす方ではない、ひとを仕合せにすることのできない方だというふうに、……そうではございませんか」
 孝之助は眼を伏せた。
「それがそのとおりになりました、貴方が仰しゃったとおりに、貴方のお眼の正しかったことが、こんなにも早く事実になったのです、どうしてこれを、御自分のお口からわたくしにお聞かせ下さいませんの」
「もういちど云うが」
 できるだけ穏やかに、妻の顔を見ながら、孝之助が云った。
「岡村とわれわれとは、もうなんのかかわりもない、彼がおとがめを受けたことは、気の毒に思うけれども、私は詳しい事情を知らないし、知っていたにしても、おまえに話す必要はないと思う」
「わたくしが望んでもでございますか」
「誰が望んでもだ」彼は静かに、しかしきっぱりと云った、「――私たちのあいだでは、決して岡村の名を呼ばないように、これだけはよく覚えていて貰いたい」
 結婚して以来、初めての、きっとした云い方だった。杉乃は怒りの眼で彼を見、膝の上で両手を握りしめた、彼は静かに立ってそこを出た。
 祝言の夜のときよりも、孝之助の心は深く傷ついた。妻は彼を愛そうとしない、これまで夫婦のかたらいなどもあまりに冷たく、殆んど石に対するようなものであった。それは或る点まで承知のうえだし、時間をかける覚悟はできていた。けれども、その晩の態度では、単に彼を愛さないばかりでなく、まだ岡村を忘れないでいるらしい。
 ――貴方の想像どおりになった、さぞ愉快であろう。
 そういう意味を含めた言葉と、あの眼と、その刺すような調子とは、明らかに岡村八束の側に立ったものである。背中に八束を囲って、こちらへ挑みかかるような姿勢だった。
 ――そうだ、あれはまだ岡村を忘れてはいない、忘れていないばかりか、ことによると愛しておるのかもしれない。
 そう思うのは耐え難いことであった。しかも悪いことには、そう思いながらなお自分が妻を愛していて、その愛が断ち切れなくなるばかりだということである。
 ――そんなにまでして結婚することは、不自然ではないだろうか。
 北畠の叔母はいつかそう云った。彼はそうは考えなかった。この世に在ることは、すべてが偶然の組み合せである。恋はしばしば神秘的な表現で飾られるけれども、二人にとって、お互いが絶対だということはない。甲乙の男女が結びつくのは偶然の機縁であって、さればこそ失敗し、相別れる例が多いし二度め三度めの結婚でおちつくばあいも、少なくはない。……孝之助は杉乃を愛していた。そして、どんなことがあっても、彼女を岡村の手に渡したくなかった。それだけであった。求めて杉乃をめとった気持も、そのために生じた八束との争いも、強く愛する者を幸福にしよう、という情熱、他の大多分の男のもつ平凡な情熱と一般ではないか。
「だがこれは、やっぱり自分の一方的な考え方だったかもしれない」彼はそう呟く、「――結婚してしまえば、そこから自然と愛情が生れると思った、生活は人の感情や習慣を変えるものだから、……しかし、どんなにしても変らないものもある、それを変えようとするのはたしかに不自然だ」
 岡村の不行跡が明るみに出、厳しく罰せられたことがわかっても、彼に対する杉乃の気持は変らない。永久に変らないかもしれないし、それを変える力は人間にはない。
 ――ではどうしようか。
 孝之助は苦しんだ。まじめに離婚を考えさえしたが、もちろんそんなことができるわけもなく、結局、その苦しさに自分を慣らしてゆくよりしかたがなかった。
 年が明けて、正月中旬に、藩主が帰国した。伊豆守利秀といって、先殿甲斐守かいのかみ利光の三男に生れたが、二人の兄が若くして死んだため、すでに分封していたのを、戻って家督を継いだのであった。当時二十八歳、小太刀と槍が得意で、江戸では側近の者が悩まされるといううわさが専らだった。

四の三


 孝之助は喪中だったから、藩主が帰国しても、なおしばらくは登城しなかった。そのあいだに、思いがけないとり沙汰をいろいろ聞いた。
 利秀は武芸に凝るばかりでなく、学問にも興味をもち、江戸では世評の高い学者を扶持ふちして、かなり勉強したそうである。だが、困ったことに頭があまりよくなかった、もちろん愚昧ぐまいというものではない、――いっそ愚昧であるほうがよい、という種類の、したがって一藩の主君としては、もっとも好ましからぬ性格のようであった。
 彼の帰国はこれで二度めである。このまえは初めてのせいか、諸業事なかれという態度であったが、こんどは到着する早々、雪中行軍とか、御前試合とか、学問吟味などという藩士の能力を試すようなことを次つぎと催した。そのうえ、(その結果というべきか)政治方面の改善について、布令を出し、諸種の役目の世襲制を廃して、人材登用の途をひらいた。そして同時に、自ら二三の役の任免を行なった。……当時、或る種の役目が世襲制であったのは事実だが、それは在来の評家が非難するほど、現実を無視するものではなかった。いくら封建時代だからといって、その能力のない人間に政治を任せるほど、武家経済が豊かだったわけではない。必要な部署には必要な人材を据える、或る面では現代よりもはるかに融通をきかせた例が少なくなかった。
 利秀の改善策は、その内容よりも形式に眼目があったらしい。つまり必要であるかないかより、習慣を打破するところに意義を認めたようである。孝之助に関係する点では、現勘定奉行の広松大膳が免ぜられて、依田重右衛門が任命された。彼は五石十二人扶持の足軽組頭で、野戦操練に長じていたが、この抜擢には閉口したものだろう、広松前奉行を訪ねて、
 ――自分は事務はだめである、文書などは少しながく見ているだけで気が遠くなってしまう、万やむを得ないので名だけはお受けするが、実務は従来どおり貴方がやって貰いたい、さもなければ、切腹するよりしかたがない。
 こう云って男涙にくれたそうである。
 新制によると、任期は五年だが、これで孝之助の就任は、だいたい無期延期になったといってよかろう。かくべつ勘定奉行が望みではなかったけれども、家庭の事情がそんなふうなときだっただけに、相当まいった気持にさせられた。
 二月にはいってまもなく喪があけた。
 家柄がめみえの上位に属するので、その筋へ届け出たうえ、藩主の前へ挨拶に出た。利秀は色の黒い、小柄な筋肉質の躯で、口が大きく眼が鋭かった。家臣に対するとき、その眼でまばたきせず相手を見つめ、ひと言ごとに「いいか」「いいか」と云う癖がある、ちょっとみるとだだっ子が因業爺になったという印象であった。
「おまえ馬に乗るか」
 孝之助の挨拶が済むと、利秀はせっかちにそう訊いた。「乗るか」という質問は、その術に長じているか、という意味である。したがって孝之助は、不調法でございますと答えた。
「それは不心得ではないか」
 利秀はよく考えもせずに怒った。
「たとえ親の代からの文官にもせよ、武士たる者が乗馬できぬという法はない、急に遠方へ使者に立つときなどはどうするか」
「おそれながら、お使者を勤めるくらいでございましたら」
「いや使者ではない、使者は使者、いいか、遠方へ大至急で往って来る使者、そうしたばあいには、ぽくぽく歩いてゆくわけにはまいらん、どうしたって馬でゆくのが常識であろう」
「おそれいります、そのくらいでございましたら乗ります」
 利秀は拍子ぬけのした顔をした。
「それでは権現沢まで遠駆けをする、供を致せ」
 こう云って性急に立った。
 そんなふうに藩主と話したのは初めてである。おちつきのない、せっかちな人だと思った。また、なんで自分などに馬の相手をさせるのか見当もつかなかったが、あとで、(いや、まもなく)わかったところによると、利秀も乗馬は不得手なのである。小太刀と槍はどこまで事実かわからないがかなり練達しているし、三年まえから馬術を始め、江戸の中屋敷に馬場なども設けたが、このほうは性に合わないものか、どうしても上達しなかった。それで、あまりうまくなさそうな者を選んで、遠乗りの供を命じた、というのが真相のようであった。
 小姓一人、供侍五人(みんな孝之助とは、おつかつの腕前だったが)が扈従こじゅうして、まもなく城をでかけた。
 露払いは遠藤又之進という小姓で、孝之助はしんがりを駆けていた。あとで聞くと、又之進は馬術では殿さまの先輩だそうであるが、遠慮のないところ下手くそであった。他の四人の侍も似たものであって、城の西中門を出るとすぐ、利秀が「ゆけ」と命じ、いっせいにだくで行進を始めたが、誰も彼もいじり腰の妙な姿勢であり、馬のほうで危ながっているような恰好であった。
 西中門は城の搦手からめてである。いい日和で、四五日まえに降って消え残った雪が、道の左右にところどころ、日をうけてぎらぎらとまぶしく光っている。
「そろそろ駆けでまいろう」
 野道へかかったとき、利秀が愉快そうに叫んだ。
 ――駆けは危のうございます。
 孝之助は利秀の腰つきを見てこう云おうとした。しかし利秀はもうむちをあげていた。そればかりではない、ちょうど向うから一疋の犬がやって来た、白と黒の斑毛で、駄犬の代表者といったふうなごくつまらない犬だったが、またひどく臆病で、疑いぶかい性分だったのだろう。
 ――あれはなんだ。
 こう云いたそうな眼で、この一行を横眼で眺めていたが、利秀が鞭をあげたとたん、なにを誤解したものか、ひどく憤慨したようすで、いきなり悲鳴をあげながら、利秀の馬にとびつき、その後脚をんだ。……馬は吃驚びっくりしたものだろう、大きな声をあげ、跳ねあがり、そして狂気のように疾走し始めた。露払いがあっと云った、みんなもあっと云った。
「止めろ、この馬を止めろ」
 殿さまのそう叫ぶのが聞えた。
 孝之助は前にいる五人を追いぬき、殆んど夢中でびしびしと鞭を当てた。なにしろ、江戸邸内にある馬場、ちりもなく掃き清め、虫一疋もいない平らな馬場で習った馬術である、此処は石のごろごろした、穴ぼこだらけの道だし、もう少しゆけば鏡川がある。
 ――これはとんだ事になるぞ。
 こう思って、力いっぱい、けんめいに馬をあおって追いつこうとした。
 そのとき、川のほうに向って、魚釣にでもゆくのだろう、釣竿と魚籠びくを持った(脇差だけ差した)侍が一人、暢気そうに歩いていた。それが、激しい馬の音に気づいて振返った。おそらく裏金の乗馬笠と衣服とで、これは城主だと直感したのに違いない。
「…………」
 なにか高く叫んだと思うと、持っている物を投げだし、身構えをして、疾走して来る利秀の馬へと、みごとにとびついた。……そのとき孝之助は、十二三間近くまで追いついていたが、その侍を見てほっとしながら、手綱を絞った。
「――岡村……、八束」

五の一


 父の一周忌の少しまえに、妻の杉乃が男の子を産んだ。
 父の亡くなる前後、胃を病んでいると(杉乃自身も)思っていたのが、まもなく妊娠だとわかってから、孝之助の心にはひとつの期待がうまれていた。子を持つと女の感情は変るという、子供は二人の血をつなぐものだから、その子を通じて、妻の心が接近してくるかもしれない。
 ――どうかそうあって呉れるように。
 誇張していえば祈るような気持で、彼はそう願っていた。
 出産の予定日の七日まえから、笠井の義母が来ていて呉れた。夫婦の仲がうまくいっていないことを、彼女もうすうす感づいていたのだろう、お七夜を済ませて帰るとき、孝之助の部屋へ来て、さりげない口ぶりで云った。
「わがまま者で、いろいろ御不満もございましょうが、これで母親にもなったことですし、少しはおちついて呉れるだろうと思います。どうかもう暫くがまんしてやって下さいまし」
 孝之助には、義母の言葉よりも、そのさりげない口ぶりが、身にしみた。
 ――母にもなったことだし。
 母親である彼女の口から聞くと、それはいかにも実感があり、信じてもいいように思われた。……そしてまた北畠の叔母は、風邪ぎみで出られないからと、使いの者に手紙と祝いの品を持たせてよこしたが、その手紙にも同じように、これでうまくおさまるだろう、という意味のことが書いてあった。
 もう一つ、そのときから半年ほどまえに、岡村八束が藩主のお声がかりで、馬廻りにあげられ、なお食禄を二百石加増される、という出来ごとがあった。これは伊豆守利秀が遠乗りに出て、その乗馬が逸走したとき、八束が通りあわせて危うく止めた。その功によるものであって、以来、彼はたいそう利秀の気にいられ、つねに側ちかく仕えるようになった。
 役目を逐われ、食禄を半減されて、失意の底にあった八束には、天与の機会ともいうべきものであったし、孝之助にとっては、暗く塞がれていた精神的負担から解放され、ほっと息をつく思いであった。そして、おそらく杉乃の気持も軽くなることだろう、と考えていたのである。
 こうして内にも外にも、事情の好転する条件がそろっていた。すべてがよくなるという、期待をかけても、もうまちがいはあるまいと思われたが、やっぱりいけなかった。妻のようすは少しも変らず、むしろしばしば、それ以前よりも冷やかで、依怙地いこじな態度をみせるようにさえなった。
 ――もう少しがまんしてやって呉れ。
 彼は義母の言葉を忘れなかった。期待の外れたことにも、ひどく失望したわけではなかった。彼は自分自身に慥かめた。
 ――自分は妻に幸福な生活を与えようとして娶った、彼女を悲しみや不幸から守り、生涯、温たかく平穏に暮すことができるようにと、……決して自分の幸福や、満足のためではなかった筈だ。
 それにいまは子供があった。名は父の幼名をとって小太郎と付けたが、よく肥えた丈夫な子で、妻は殆んど溺愛できあいしていた。彼の分身である子供を、めるように愛している妻の姿は彼自身の不満や淋しさを、かなり償って呉れるものであった。
 ――これでいい、自分はこの妻と子の、仕合せを守ることに努めよう、そのほかのことはすべて時に任せるのだ。
 男には生活があった。
 藩主の職制改革で、彼の将来はいちおう停頓のかたちになった。悪くすると、勘定奉行所の「元方支配」という、現在の席に、一生とどまらなければならないかもしれない。それではやがて家計が逼迫ひっぱくしてくる、というのは、交代世襲制の奉行職は、その職に就いている期間だけ、家禄と年俸と合わせた収入がある。退職ちゅうは年俸は与えられず、しかも家の格式は守らなければならない。要するに支出の面は変らないのに、収入が減るわけであって、次の任期までは、経済的にかなり苦しく、よほどひき緊めても、借財が残りがちであった。
 父が倹約な人だったし、彼も律義之助などといわれるくらいで、現在のところはどうにかやってゆけるが、もしこのまま元方支配でいるとすると、早晩ゆき詰るのは明白であった。そこでさし当り、職制の改革にともなって、家の格式を食禄相当に直すこと、つまり格式上の負担を除いて貰う、ということを、退職した広松前奉行と相談のうえ、家老職まで願い出ることにした。
 それは藩主が参覲さんきんのため出府する少しまえのことで、家老職は承諾し、その旨をすぐ藩主に通じたが、利秀は「考えておく」と、きげんの悪い顔で、答えただけであった。

五の二


 藩主の江戸へ立つ日が迫った或る日、城中の長廊下で岡村八束に会った。
「しばらくでした、御長男をもうけられたそうですね」
 八束のほうからそう呼びかけた。
「お祝いにゆかなければならないんですが、遠慮するほうがいいと思ったので、つい失礼していました、どちらもお丈夫ですか」
 彼は明るい顔をしていた。血色もよく、眼つきにもえた力がこもっていた。あの頃の卑しく汚れた感じや、不健康な疲れはきれいに無くなって、彼本来の、賢い聡明な性格が、活き活きと脈搏みゃくうっているようにみえた。
「ちょっと話があるんですが」
 八束はこう云って、廊下の隅のほうへ孝之助をさそった。
「職制改革について、格式の更新を願い出たのは、貴方だということを聞きましたが、それは事実ですか」
 孝之助はそうだと答えた。
「まずかったですね」八束は眉をひそめた、「――もう少し時期を待つべきでした、あのとおり気の短い御性質で、それに大名もの識りの狭い御思案しかないから、御改革に対する不満、というふうにとられたらしいんですよ、もちろん高安さんの主張は正しい、格式上の負担をそのままにして、職制だけ変えるというのは片手おちですからね、しかしもう少し待ってからにすべきでした」
 孝之助には云うことはなかった。むしろ、なぜ八束がそんな話をもちだしたか、ということのほうが不審だった。八束もその点に気づいたのだろう。ふと思いだしたように、「実はこんど江戸詰になりましてね」
 こう云って苦笑した。
「役目も変るらしいので、これからは幾らかお力にもなれると思うんです。……ずいぶん御迷惑をかけたし、不義理な拝借までしているが、これで私も立ち直れますから、江戸へいったらできるだけ早く、拝借した分も返済しますし、なにかでお役にも立ちたいと思います」
「それはよかった、金のことなどはどっちでもいいが、それは本当によかった」
「そう云って下さるだろうと思っていました」
 八束はちょっと、あいまいな微笑をもらした。
「いつか高安さんは、私に期待するというように仰しゃった、たぶん御期待にそむかない程度の人間には、なれるだろうと思います、どうか見ていて下さい、そして必ずなにかでお役に立つ、ということを信じていて下さい」
 言葉は謙遜けんそんであったが、その態度は少なからず昂然とし、また確信に満ちていた。穿うがった見かたをすれば、それは八束が孝之助に向って、二人の位置が転倒したという意味を、宣告するようでもあった。
 ――それならなおいいじゃないか。
 孝之助はこう思うだけであった。
 八束が機会に恵まれただけでも、ずっと気が楽になった。これから江戸へゆけば、藩主利秀に(今のところ)気にいられているらしいから、あるいは相当のところまで出世するかもしれない。もしそうとすれば、これまでの気持のうえの負債は、おそらく完全に消えるだろう、と思った。
 そして岡村八束は、藩主の参覲さんきんの供に加わって、江戸へ去った。
 そのあと、孝之助に対して、かなりひろくいやな評が伝わった。例の格式更新の願いが彼の吝嗇りんしょくから出たというのである。奉行職になれない不満だろう、とか。格式よりも金のほうが大事なんだろう、とか。侍らしくない、家中一般の面目にかかわる、などというのである。なかでもっとも悪質なのは、
 ――高安はひそかに金貸しをしている。
 という噂だった。
 これは他の評よりずっと後れて、五月ころから急に、弘まりだしたのであるが、孝之助はもちろん知らず、妻から注意されて初めてわかった。……杉乃はよほど心外だったらしい、珍しく彼女のほうから部屋へ来て、こういう評判があるが、事実かどうか、とひらき直って訊かれた。
「ばかなことを云ってはいけない」
 孝之助はうんざりしながら答えた。
「私がそんなことをするかどうか、考えてみてもわかる筈ではないか、この春あたりから不愉快な蔭口をいろいろ聞くが、世評などというものは無責任だから」
「それでは格式願いのことも根のない噂でございますか」
 杉乃の口ぶりは意外に激しかった。

五の三


 孝之助は妻の顔を見なおした。
 杉乃は子を産んでから少し肥え、色も白く血色もよくなり、健康ななまめかしさがあふれるようにみえた。けれども、そのときは顔もきびしく硬ばり、蒼ざめて眼は咎めるような光りを帯びていた。
「格式願いのことは事実だ」
 孝之助は穏やかに云った。「――しかしあれは、断わるまでもないと思うが、今後、高安の家を保ち、故障なくお役を勤めてゆくためには、やむを得ないことであって、広松さんとも相談のうえであるし、人の噂するような意味は少しもないのだ」
「人の噂に尾鰭おひれの付くことは知っております、尾鰭のことは申上げません。けれども格式願いが根のないことでなかったとしますと、金貸しうんぬんという評判も、なにかそうした事実があるのではございませんか」
「まったく覚えのないことだが」
 孝之助は少しうるさくなってきた。
「いったいそんなことを、誰から聞いたのだ」
「笠井のあね(義姉)に聞きました」
 笠井鉄馬はその年の三月に結婚していた。相手は浜田主殿とのもという者の娘で、名をおぬひといい、三年まえから婚約ができていた。おぬひの病気で延びていたところ、ようやく医者の許しが出て、式を挙げたのであった。
「――では笠井も知っているのか」
「あねが実家から聞いたのだそうで、浜田でも外聞の悪い思いをしていると申したそうでございます」
 これを聞きながら、孝之助はふと八束のことを思いだした。
 ――江戸へいったら借財を返す。
 彼はそう云った。むろん、彼が御用商人と結託して、不正に費消した公金を、孝之助が用立てて始末した金である。こちらはもともと返して貰うつもりはなかったし「貸し金」などというものとはおよそ種類が違う。
 ――だがもし八束が話したとすると。
 それも不正の事実は除いて、単に、借りた金を弁済しなければならぬ、というふうにでも云ったとすると、聞いた者の口から、歪曲わいきょくされて伝わったと、考えられないことはない。少なくとも八束との関係以外に、そんな噂の出る原因はないのである。……孝之助は怒りを感じた、長廊下で会ったときの、八束の昂然とした態度が思いだされる。堕落の沼から救いあげられ、今やおのれの世を迎えつつある、という確信の上に居据わって、(さりげなく)借りた金のことなど口にするさまが、孝之助は鮮やかに想像されるのであった。
 ――これははっきりすべきときだ。
 笠井の耳にもはいったとすれば、そして、八束の身分もいちおうおさまったのだから、こういう不愉快な点だけでも、話しておくべきだろう、孝之助はそう決心して云った。
「明日、下城のとき、笠井へ寄るから、そのじぶんにおまえもいっていて呉れ、そこでよく話すとしよう」
「ではやはり」杉乃は唇を歪めた、「――そういうことがあったのでございますね」
「いやそんなことはない、まるで事情が違うことだ」
 こう答えて彼は顔をそむけた。
 その翌日は下城が後れた。というのは、出仕するとすぐ家老に呼ばれ、勘定奉行に仰せつけられる、という旨を、伝えられたのである。家老は和達友三郎といって、ごく温厚な但しそれだけの人であったが、どうして急に、そんな仰せが出たか、自分でも見当がつかないというようすであった。
「墨付の到着しだい、現奉行と即日交代せよというお達しである、いかなる御意から出たかはわかりかねるが、ともかくすぐに事務の交代をするように」
 孝之助はちょっと当惑した。このとつぜんの任命を聞いて、八束のことを(またしても)思いだしたのである。
 ――必ずなにかでお役に立ちたい。
 こう云ったが、この任命が八束の奔走によるものだとすると、彼の今の立場として、受ける気持にはなれない。辞退すべきだと思った。できることならそうしたかったが、藩主がじきじきに命じた役目を、理由なしに辞退するわけにはゆかない。そして、彼の理由は理由にならないのである。
「どうしたのか、まさか不得心ではあるまいな」
 家老にこう云われて、孝之助には云う言葉がなく、お受けをすると答えた。
 現奉行の依田重右衛門は、すでにこの交代を知っていた。彼は自分の柄にない役を当てられて、僅かな期間であったが、相当へこたれていたらしい。孝之助を見るといそいそと手を擦り、もうすぐにも、役所からとび出してゆきたそうにした。
「これでやっと息がつけます、幸い元の役に帰れましたのでね、足軽組頭ですよ、早速ひとつ、思う存分に駆けまわってやります」
 そんなわけで、笠井の家へいったときは、もう灯のつく時刻になっていた。

五の四


 勘定奉行就任のことは、笠井の人たちにもわかっていて、孝之助がゆくと、内祝いの支度をしているところだった。
「そのまえに話したいことがある」
 彼は鉄馬に囁いた。
「こちらの御夫妻と、杉乃と私の四人だけで話したいんだ。済まないがどこか部屋をたのむ」
 鉄馬は承知して、自分の居間を選んだ。
 杉乃が話したのだろう、兄嫁のおぬひは(自分の口から出たことなので)心配そうな浮かない顔をしていたし、鉄馬も知っているらしい、これはひどくむずかしい眼つきで、肩を張るように坐っていた。杉乃は良人の脇にいたが、きちんと膝を正し、窓のほうへ眼を向けたまま、しまいまで身動きもしなかった。
「これまでは、たとえどんな噂が出ても、自分だけのことなので、棄てておいてもいいと思ったが、こんどは義姉上というものができ、御実家にも迷惑の及ぶことを考えなければならないので、今後のために必要だと思う点を話すことにします」
 孝之助はこう語りだした。
 もちろん岡村八束と名はささなかったが、前後の関係でわかるに違いない。要点は公金費消のことで、それを内密で片づけるために自分が無理をして金を作ったこと、それは相手によることではなく、たとえなんのゆかりのない人間でも、そういう立場になれば、誰でもすることであって、むろん金を貸したなどという気持もないし、初めから返して貰おうとは思っていない。幸い相手に運がまわってきて、どうやら出世するめあてがついたのだろう、借りた金は近いうちに返済すると云っていたが、それは相手の気持しだいであって、自分は今でもそんなものは求めていないのである……これだけのことを、孝之助らしい控えめな表現で話した。
「それでよくわかった」
 鉄馬はうなずいて云った。
「実をいうと、江戸にいるぬひの弟から、そんなことを聞いたと書いてよこしたそうで、他にも聞いた者があるらしい、たぶん岡村が話したものだろう、あの男ならそのくらいのことはやりかねない」
「いやそういうふうに云うのはよそう」孝之助は静かにさえぎった。
「ほかの噂とは違うから、その原因になったと思われる理由を話したので、この三人にわかって貰えばそれでいいのだ」
「しかし噂はかなりひろく弘まっているし、勘定奉行という役に就く以上、こういう不潔な評判の根は断っておかなければなるまい」
「事実無根の世評など、決してなが続きのするものではない、棄てておいても必ずわかるものだよ」
「本当にそう思うなら」と鉄馬が云った。
「――本当にそう信じているなら、どうして此処ここで弁明をしたんだ、世間がどんなことを云おうと、われわれは高安を知っているし、高安を信じている、それなのにどうして、高安をよく知らない世評を棄てておいて、われわれだけにこんな弁明をしたんだ、どうしてだ、なにかそうする必要があったのか」
「――そうだ」孝之助はどきっとして、頭を垂れた、「――そうだった……おれの誤りだ、どうしてこんな弁明などする気になったのか」
「それはわたくしのためです」
 杉乃が鉄馬に向って云った。
「親類の方がたにも迷惑がかかると思いましたので、理由があったら聞かせて下さるようにと、わたくしから願ったのでございます」
「するとおまえには高安が信じられなかったのだな」
 鉄馬の眼は怒りのためにぎらぎら光った。彼は初めから、話頭わとうをそこへもってくるつもりだったらしい。この集まりが杉乃から出たこと、孝之助がそれにひきずられて、したくない弁明をしたのだ、ということを察し、抑えていた(妹に対する)怒りがいっぺんに出たようである。
「嫁にいってあしかけ三年、いまだに良人が信じられないのか、こんなことで良人に弁明を求めるような者は人の妻ではない。そういう者を兄として友の妻にやってはおけない、笠井へ引取るからいとまを貰って戻れ」
「なにを云う鉄馬、それは違う」
 孝之助が吃驚びっくりして手をあげた。
「今日のことは杉乃の責任ではない、おれが自分でこうしようと云ったのだ、鉄馬にも聞いて貰いたかったし、浜田さんも不愉快な思いをしているというので」
「浜田はおれの妻の実家だ」鉄馬は荒い調子で云った、「――妻の親族のことはおれが自分でする、またおれは高安を信じているから、そんな話を聞きたいとは決して思わない、それは高安自身がよく知っている筈だ、たとえば、大雲寺ヶ原の決闘のときがそうだ」
「待って呉れ鉄馬、それを云うのは待って呉れ」
「いや云わなければならない」
 鉄馬は首を振った。杉乃はあっという顔でなかば口をあけて兄を見た。鉄馬は決闘のときの始終を詳しく話し、さらに、咎めるような口ぶりで云った。
「あのとき、八束がなぜ決闘を申し込んだか、その理由をどうしても高安は云わなかった。また大雲寺ヶ原での、八束の卑劣なやりかた、下賤極まるあのやりかたをも、人に知れないように始末した、どうしてだ、なぜそんなにまでするんだ、おれは繰り返しそう訊いたが、高安はひと言も説明をしなかった、そうではなかったか、高安」
 孝之助はなにか云おうとした。が、それより早く、鉄馬が続けて云った。
「だがおれには察しがついた、高安は或る人間の気持をかばったのだ、八束がそんな男だということを、或る人間に知らせたくなかったんだ、事実を知れば、或る人間がよけい傷つかなければならない、そう思ってすべてを蔭に隠したんだ、その或る人間とは」
「やめて呉れ鉄馬、これはおれの問題だ」
 叫ぶように云って、孝之助は立ちあがった。
「おれが弁解をしたことは無分別だった、しかしそのために、必要のないことまで洗い立てるのはよして呉れ、改めてびに来る、今日はこれで帰らせて貰うから、……おいで杉乃、いっしょに帰ろう」
 杉乃はおとなしく立った。
「そうか、そういうならやめよう」
 鉄馬も立ちながら云った。
「けれどもこのまま帰られては困る、祝いの支度がしてあるんだ、親たちが不審に思うから、いちど向うで坐ってからにして呉れ」

六の一


 孝之助は浮かない顔つきで、とぼんと庭を眺めていた。
 机に片肱かたひじをつき、手であごを支えた恰好や、精のぬけたような眼や、濁った冴えない膚の色など、深い疲労を示しているようである。彼は疲れていた、げっそりと疲れていた。七日まえに藩主が帰ってから、ずっと役所が多忙だった。それには、三年まえに藩の直轄で始めた、新田開発の事業で資材関係の涜職とくしょく問題が起こり、さいわいおおごとではなかったが、勘定奉行所から(ごく下級の者で)二人、連累者が出た。役所には関係がなかったし、うまく利用されたくらいのことだったが、部下からそういう者を出した以上、奉行職としていちおう責任を負わなければならない。
 ――それほどの必要はあるまい。
 周囲ではそう云ったが、孝之助はともかく進退伺いを出した。そして、退任するばあいに備えて、事務の整理をしていたのである。
 帰国した藩主によって、昨日、退任に及ばず、という命が下った。それを伝えたのは岡村八束であった。七年まえ、江戸詰になって去った彼は、以来ぐんぐん出世し、今年の二月には側用人に挙げられた。孝之助は昨日初めて会ったのだが、八束はすっかり風貌が変り、肥えて、血色のいいつやつやとした顔をしていた。
 藩主の命を伝えたあと、八束は坐っていた位置をちょっとしざって、
 ――暫くでした、お変りもないようで結構です。
 こう挨拶した。親しい口ぶりであるが、対等の親しさではなかった。力のある眼光や、微笑する口もとなどに、かなりはっきりと冷やかな、見くだすような色があった。……帰るとすぐに会いたかったのだが、御用が多くてその暇がなかった。ついては、明夕四時から自宅で知友と会食することになっている、ぜひ御夫妻で来て呉れるように。八束はこう云った。
 ――高安さん御夫妻が主賓ですから、ぜひとも来て頂きたい、ぜひともですよ。
 念を押されて、孝之助は承知した。
 今日は役所は休みである。四時までには岡村へゆかなければならない。妻にはまだそのことは話してないし、話せばおそらくいやだと云うだろう。そんなことも(躯の疲れより強く)彼の気持を押えつけるのであった。
「しかし、どうしたってゆかなければならない」孝之助はそっと呟いた、「――だましてでも……おれと杉乃が主賓だというのだから、どうしたって」
 彼はふと眼をすぼめた。さっきからぼんやりとひとところを眺めていた、寒ざむと枯れた庭のひとところを。その焦点のぼやけた視野のなかで、一本の木がしきりに彼の意識へよびかけていた。彼はその木を眺めていたのだ、そして今、その木を眺めていたことに気がついた。その木は、竹柏であった。
 孝之助の表情は、殆んど絶望したもののように歪んだ。
 ――そういうことは不自然ではないだろうか。
 叔母の千寿の声が、記憶のなかからよみがえってきた。
 ――人間をそういうふうに観ていいだろうか。
 さらに、北畠の山荘へ呼ばれたときのことが思いだされた。知ったふうに、八束の将来を予測したこと。杉乃の幸福を護るために彼女の意に反いても彼女を娶ると云ったことなど。
 八束はいま藩主の側用人である。江戸家老寺田氏の娘を妻にしている。その人は(噂によると)いちど嫁して戻ったのだというが、家老の娘だということに変りはない。藩主のちょうばかりでなく、重臣たちの信望もあついようだ。かつて、宰相の質がある、と評されたが、八束はみずからそれを証拠だてつつある。
 竹柏も大きくなった。佐多梅所から貰って、植えたときに比べると、幹の太さも丈も、倍以上に育った。青みを帯びて白く粉をふいたような渋い緑色の葉が、すんなり伸びた枝えだに、いかにも品よく繁っている。
 ――もう十年になる、もう十年という月日が経ったのだ。
 長男の小太郎は七歳になり、三年まえに長女のふみが生れた。しかし孝之助自身は相も変らぬ勘定奉行で、職制が元どおりなら、それも交代する筈である。過失もないが、際立って功績もない。安穏ではあるが平凡きわまる生活だ。しかも、二人の子までしながら、夫婦の仲は依然として冷たい。事務のようにきちんとした明け昏れのなかで、妻は固く自分の殻を閉じている。
「――どう思うだろう」
 彼はまた呟いた。
 めざましい出世をし、なお輝かしい将来を約束されている八束の前へ、かつて八束と愛しあい、まだ忘れかねているらしい杉乃を、このような良人がいっしょに伴れて出る。他のばあいならできないことだ、それは孝之助自身よりも、杉乃にとって屈辱である、杉乃を二重に侮辱することであった。
 廊下を小太郎とふみが駆けて来た。
「お父さま、釣りにゆきましょう」
 小太郎が息をはずませて云った。休みにはゆこうと、約束がしてあったのだ。
「お父たまついにいちまちょ」
 ふみが負けずに力んで云い、すばやく入って来て、うしろから父親の首に絡みついた。
ふうちゃんはだめ」小太郎がいばる、「――女は釣りなんかできません、ねえお父さま、女はだめですねえ」
ふうたんこんなだあいまちぇんよ、ふうたんはただふうたんでちからね」
こんなだって、女のことこんなだってさ」
「ええそうでちよ、はばかいちゃま」
 孝之助は悲しげな微笑をうかべ、ふみの手を取って、脇へまわらせながら云った。
はばかりさまなんていけませんね、そんなことを云うとお母さまに叱られるでしょう、さあお父さまはいま御用だから、もう少し向うで遊んでいらっしゃい」
「釣りにはゆかないんですか」
「そう、……あとで、もしかしたらね」
 彼は言葉を濁して、ふみを押しやった。そのようすでなにか察したのだろう、小太郎は妹の手をひいて去っていった。

六の二


 岡村の家は元の処ではなく、松丸という処に新しく建てられた。そこは在から北畠へゆく道に当るので、途中まで来ると、
「叔母さまへ伺うのですか」
 と杉乃が訊いた。いつになく、というよりも彼には初めての、明るい表情であり、やわらかい調子の声であった。彼は「いや」と首を振ったまま、道を曲った。
 ――さる人に二人で招待された、いっしょにでかけるから、紋服に着替えるように。
 孝之助はそう云って、ゆき先は告げずに、出て来たのである。杉乃はなにも訊かず、おとなしく云われるとおりにしたが、ずいぶん久方ぶりに晴着を着、化粧をして出るためか、美しくなったばかりでなく、少しばかり浮き浮きしているようにみえた。
 道を曲ると、いま日が沈んだところらしく、はるかに大雲寺の森の上が、朱と金の色に染まっていた。いちめんに夕映えてはいるが、そこだけは眩しいほど強く、金粉を混えた華やかな朱色に輝いている。それは眼のさめるほど華やかであるが、しかもなにやらはかなく、うら枯れたような感じがあって、冬ちかい晩秋の、もの憂いわびしさを訴えるかのように思えた。……杉乃は眼を細めて、美しい夕空を見やりながら、良人の脇について歩いていたが、新しい岡村家の門の前へ来ると、初めてそれと直感したのだろう、急に足を停めて、良人のほうへふり向いた。
 それまでの明るい顔が、鋭くひき緊って、額のあたりが白くなり、眼は咎めるような、烈しい光りを帯びていた。孝之助はそっと頷いて、頭を垂れた。
「そうなんだ」と低い声で彼は云った、「――われわれ二人が主賓だという、ぜひというので断われなかった」
「なぜそう仰しゃって下さいませんでしたの」
「云えば不承知だと思った、騙したようで悪いけれど、頼むよ」
 杉乃の表情が歪んだ。引返すのかと思った。じっさいきびすを返しそうにしたが、また屋敷のほうへ眼をやった。それはその年の五月から建築にかかり、八月の下旬に出来あがったものである。敷地は三百坪ばかりだし、建物もさして大きくはなかった。しかし用材や設備はひどく凝った、贅沢ぜいたくなものだといわれている。庭にも樹石をずいぶん入れ、家具なども思いきって高価な品が多い、ということであった。孝之助の耳には、もう以前からそういう評がはいっていた。杉乃は聞いたことがあるかどうか、強い眼つきで屋敷のほうを見まもったが、すぐに(良人のほうは見ずに)頷いた。
「よろしゅうございます、まいりましょう」
 孝之助はほっとして、歩きだした。
 玄関の式台には、梅鉢の家紋を打った幕が張ってあり、左右に家士が詰めていた。すでに客が来はじめる時刻で、控えの間に通るともう五六人の先客が雑談していた。孝之助は妻といっしょなので、そこへ入るわけにはいかなかった。といって、別間へ案内して呉れるようすもない。当惑した彼は、見かけた家士を呼び止め、――妻が支度を直したいのだが部屋はどこか、と訊いた。高安孝之助と名をいって、二度も訊いたのであるが、
「どうぞこちらで、どうぞ」
 こう云って控えの間を示すばかりだった。
 構わずそこへ入ろうかと思った。だが杉乃は支度を直し、鏡を見る必要がある。なんの用意もなく、男たちのいる部屋ではどうにもならなかった。孝之助ははらをきめて、廊下を奥のほうへゆき、空いている部屋をみつけて杉乃と共に入った。
「初めて客をするので、手順がうまくいかないらしいな、私が見ているから此処でおやり、鏡を借りて来ようか」
「いいえ、もう……」
 杉乃は首を振りながら、帯へ手をやった。孝之助は半分あけた障子のところに、妻の姿を隠すようなかたちで立った。
 ちょうどそのとき、まるで計ってでもいたように、若い侍女を伴れ、きらびやかに着飾った婦人が、奥のほうから出て来て、孝之助の前で立停った。間着あいぎは紅梅地に百花を色とりどりに染めたものだし、打掛うちかけ綸子りんずらしい白地に唐扇と菊花ぢらしで、金糸の縫がある帯は桔梗ききょう色の地に唐草と蝶、これにも金糸の縫が入っていた。髪飾りも、濃い化粧も、着付けに劣らず派手だったが、彼女の容貌や態度は、これに際立てて豪奢ごうしゃな印象を与えていた。年は二十七八であろう、美貌というのではないが、眼鼻だちが大ぶりで、表情に富んでいるし、やや驕慢きょうまんな、抑揚の強い声などに家老の娘という、育ちの良さよりも、放恣ほうしに馴れた無遠慮な感じが眼立った。
 ――なに者だろう。
 こう思っていると、向うで不審そうにこちらを見た。そこで孝之助は自分の名を告げ、事情を簡単に述べた。
「おや、そうでございますか、それはようこそ」彼女はなめらかに云った、「――わたくし岡村の妻でございますの、吃驚なさいますでしょう」
 上から見るような眼つきである。妻と聞いて、孝之助はむろん驚いた。彼女はさもあろうという表情をし、いかにも世馴れた調子でいたずらっぽく秘密めかして云った。
「いちど国許くにもとを見たかったんですの、それで岡村にねだりましてね、なかなかうんと云わなかったんですけど、とうとう説き伏せまして、男姿になってまいりましたの、ええずっと男の恰好でとおしましたわ」
 こちらの困っている事情などは、聞きもしなかったというふうであった。そして、自分の云うことだけ云うと、目礼をして去っていった。
 ――これはいったいどういうわけだ。
 孝之助は苛立いらだってきた。妻に済まない、この家へ来ただけでも、杉乃には辛いことだろう。そのうえこんな扱いを受けたのでは、おそらく耐え難いにちがいない。どんなに怒っていることか、そう思って殆んど途方にくれた。
 やがて時刻になり、広間で酒宴が始まったが、主人側の態度は少しも変らなかった。
 八束は「お二人が主賓である」と云った。しかしそんなようすはどこにもなかった。招かれた客は重職ばかりで(城代家老は代理だった)身分からいえば、高安は次座より下であるのは当然だったが、導かれた席はそれより下であった。そのうえ、なにより困ったのは、妻を同伴しているのは彼だけで、ほかには一人も婦人客のいないことであった。
「珍しいですね、お二人ごいっしょとは」
 そんなふうにたびたび訊かれた。
「ぜひいっしょにと招かれたものですから」
 こう答えたが、ぐあいの悪さは、宴が始まるにつれて大きくなるばかりだった。
 八束は颯爽さっそうとしていた。挨拶のとき妻を紹介し、せがまれて男装に扮して伴れて来た、という話で、巧みに客たちを笑わせた。
「江戸育ちでわがままときているからかないません、あとで自慢の舞をまうそうですが、これは褒めないと逆鱗げきりんに触れますから、どうぞ皆さんで御喝采ごかっさいを願います」
 砕けた口ぶりであるが、妻を誇っている調子が、かなり露骨にみえた。態度は堂々として、しかも磊落らいらくで、口のきき方も身振も、あたりを払うというようすである。そうして、孝之助夫妻には眼もくれなかった。

六の三


 杉乃はめげなかった。
 女客は自分だけだということも、主人側から無視されていることも、まったく気にかけないというようすで、盃も取ったし、隣席の客に話しかけられれば、快く返辞をし、静かに笑ったりした。屈辱を感じたり恥じたりしているようすはいささかもみえなかった。
 二献のぜんが片づくと、八束の妻が舞をまった。たぶん江戸から伴れて来たのだろう、見たことのない、若い下座が四人、笛、鼓、小鼓、太鼓をつとめた。
 曲は桜狩というのだそうで、巧拙はわからないが、たいそう華やかであり、振の派手な舞いぶりであった。杉乃は無感動に、おちついて観ていた。桃山風の華麗な屏風、立て列ねた燭台のまばゆい光り、贅を尽した酒肴しゅこうと選りぬきの客たち、……これらはみな、岡村八束の価値とその威勢を示すかのようであった。彼は今すべての客の上にいる、やがてもっと上に、もっと高くいるようになるだろう、彼自身もそう自負し、客たちもそれを認めているようだ。
 ――みごとに変ったものだ。
 孝之助は圧倒されながらそう思った。
 舞が終って、賑やかな喝采かっさいが始まると、杉乃はそっと立って、手洗いにでもゆくふうにさりげなく出ていった。孝之助はまさかいっしょに立ってゆくわけにもいかず、まごつきはしないかと案じていたが、杉乃はそのまま三献の膳が配られても戻って来なかった。
「一つ差上げましょう」右隣にいた藤井という老人が、盃をさしながら云った、「――どうやら奥方は御帰館とみえますな」
 なにげなく云ったらしいが、孝之助はそうかと思い当り、うちのめされたような気持になった。
 ――そうだ、もう帰るべきときだった。
 八束が招待した意図は、もう明瞭である、もうとうに帰ってもよかったのだ。杉乃はけなげに辛抱したが、ついにがまんが切れたのであろう。
 ――念のいった失敗だ。
 こう思ったが、それですぐ、帰るわけにもゆかず、暫く藤井老と話してから座を立った。
 八束に挨拶はしなかった。向うでもそこまで求めてはいないであろうし、挨拶することはかえって厭味いやみになると思った。
 家へ帰る足は重かった。自分というものがじつに小さな、愚かしい、みじめな存在に思えた。十年まえ、八束は役目のうえで不正を犯した。洗濯町で大雲寺ヶ原で、ちるだけ堕ちた姿をみせた。しかし彼は立派に立ち直りその才能を充分に生かした。かつてあれほど堕落しながら、みごとに彼は勝ったのだ。
 このあいだに自分はどうしたか。自分は杉乃を愛したし、今も愛している。杉乃を不幸や困難から護り、平穏な生活のなかに温ためようと思った。それらはどうやら実現した。これからもひどい蹉跌さてつのない限り、この生活は続けてゆくことができるだろう。
 ――だがそれがいったいなんだ。
 杉乃が自分の愛をよろこばないとすれば、自分の愛などはお笑い草ではないか。また人間は、必ずしも平穏無事な生活に、満足するものではない。貧苦や艱難かんなんにすすんでぶっつかり、それを打開することに、生き甲斐を感ずる者もいる。
 ――結局おれは臆病おくびょうで退屈な人間にすぎなかった。
 ――帳尻を合わせる能だけの律義之助だ。
 こんなときこそ、茶屋酒にでも酔い痴れることができたら、と思ったが、彼にはそれもできなかった。すっかりまいって、自分で自分をひきずるような気持で、家に帰った。
 杉乃は出迎えなかった。
 気分が悪いから、ということであった。孝之助はほっとした。いま妻と顔を合わせるのは彼にとっても辛かったのである。独りで着替えをし、食事を訊きに来た召使には、茶だけを命じて居間へ入った。

六の四


 火桶ひおけをひき寄せ、机にもたれて、もの思いにふけっていたが、やっぱり酔っていたのだろう、そのままうたた寝をしたらしい、眼をさますと背に抱巻かいまきが掛けてあった。
「寝間のお支度ができました」
 こう云われて、ふり向くと杉乃がいた。呼び起こされたのである。ああと答えたが、彼は胸を衝かれた。妻は髪をといて束ね、白無垢しろむくを着ていた。顔には濃い化粧をし、京紅を付けていた。
 ――なにか異常なことが起こる。
 孝之助はそう直感しはっきりと眼がさめた。
「寝るまえに話がある、顔を洗って来るから此処で待っていて呉れ」
 彼は逃げるように立っていった。
 夜はかなり更けたらしい。高安は昔から夜の早い習慣であるが、冷える気温や、ひっそり寝鎮まったようすでは、十二時ちかいのではないかと思えた。居間へ戻ると、杉乃は元の位置にうなだれて坐っていた。
「今日は済まなかった」
 孝之助は正坐して云いだした。
「黙って伴れていったうえに、あんな扱いを受けて、さぞ肚が立ったろうと思う、いや待って呉れ、話というのはそのことではないんだ、まずこれを詫びておいてから、聞いて貰いたいことがあるんだ」
 杉乃はなにか云おうとして、またそっと俯向いた。
「私がおまえを娶ったときのことは、知っているね、おまえが望んではいなかったのを、無理に娶った、まったくおまえの意志に反し、おまえの兄の鉄馬も、北畠の叔母も反対だったのを押し切って妻に迎えた、それは私がおまえを愛していたのと、もう一つは、岡村八束という人間を誤解したためだった、……おまえがもし、岡村でなく、他の人間を愛していたのだったら、私は決してあんなふうにはしなかったと思う、八束は才気も手腕もあった、世間の評もひじょうに良かった、しかし私の眼にはそうみえなかった、彼の才腕はいつか彼自身を誤り、周囲の人々を傷つけるように思えた、そして、彼は偶然そういう不始末をした。
 いつか笠井でも話したが、もうはっきり云ってもいいだろう、彼は御用商人と謀って、不正に役所を利用し、役所の金を費消したのだ、そのとき私は、自分の眼がまちがっていなかったと信じ、どうしても杉乃を彼の手に渡してはならない、と思った。
 こうして無理におまえを娶った、私はおまえを愛していたが、それ以上に、おまえを不幸にしたくなかった、恋はなにより美しく尊いものかもしれない、しかし人間には生活がある。生きてゆくには辛抱づよい努力と、忍耐が必要だ、しかもその道は嶮しく遠い、思わぬ災厄や病苦にもみまわれるであろう、……私はそういうものからおまえを護りたかった、風雪に当てたくない、苦しみや悲しみを味あわせたくない、平安な家庭と、温たかく満ち足りた暮しを与えたい、これがなによりの願いだった」
 孝之助はちょっと言葉を切った。口に出してみると、自分の小心さやじみちな考えがはっきりして、われながら哀れに、悲しくなったのである。
「だが私は間違っていた」と彼は続けた、「――八束は失敗をしたが、それは若気のあやまちにすぎなかった、彼は私のような小心者にはわからない、大きな素質をもっていたのだ、彼はきれいに失敗を償い、もっている才能をみごとに発揮した、……彼はいま御側用人になった、やがては世評どおり、国老にもなるだろう……十年まえに、もし私があんな無理なことをしなければ、おまえは八束の妻になり、今夜の盛んな宴にも側用人の妻として、あの客たちの尊敬を受けることができたのだ、あの妻女の席は、そのままおまえのものになったのだ」
「もう結構でございます、それ以上は仰しゃらないで下さいまし」
 杉乃はこう遮って、眼をあげて良人を見た。孝之助は黙った。妻の声はふるえ、その眼は濡れた光りを帯びていた。
「お詫びを申さなければならないのは、わたくしでございます」杉乃は云った、「――でもお詫びは申上げません、どのように言葉を尽しても、それで詫びのかなうことではございませんから、……杉乃は愚かで、かたくなで、心の浅い女でございました。それが自分でわかっていながら、どうにも直すことのできないほど愚かで、頑なな……ただひとつ、わたくしの心が今でもあなたのほかにあるとか、この家の生活に不満をもっている、というふうにお考えなさることだけは、それだけはどうぞおやめ下さいまし、それはあんまり悲しゅうございます」
「私はおまえを責めているのではない、私は自分が誤っていたことを」
「いいえ違います、誤っていたのはわたくしでございます。それだけはわかって頂きとうございます」
 杉乃の顔はあおざめた。唇は乾き、ひざの上で手がみじめにふるえた。
「七年まえ、笠井であなたのお話をうかがい、兄から家へ戻れと叱られましたとき、わたくしは初めてあなたのお気持がわかりました、わたくしを悲しみや不幸から護って下さるばかりでなく、わたくしの心を傷つけないために、あの方の、あのようにひどい、卑しいなされ方をも隠していらしった、どんなに……わたくしがどんなに嬉しかったか、申し訳ないと思いながらどんなに、嬉しかったか、あなたにわかって頂けるでしょうか」
 孝之助は息をのんだ。杉乃は続けた。
「あのときから今日まで、昼も夜も、いつもあなたに申し訳がない、済まないと思っておりました、でも、それを口にだして云うことができない、……口にだせないなら、黙ってすがりついて泣けばいい、あなたはそれだけで、きっとわかって下さるに違いない、今日こそ、今夜こそこう思っても、そうすることさえできなかったのです」
 良人の淋しそうな顔を見ると、自分も胸を裂かれるように、淋しく悲しかった。自分は良人が愛して呉れる以上に、良人を愛していた。身を焼くほど激しく、深く、良人を愛していた。しかしそれを伝えることができない。そぶりにも色にも、あらわすことができないのである。生れつきとはいえ、このように頑な性分を、どんなに自分はのろい憎んだことだろう。杉乃はこう云って、両手でかたく顔をおおった。
「――夢のようだ」
 孝之助は殆んど茫然と云った。
「私にはまるで夢のようだ」
 杉乃の肩が波をうち、掩った手のあいだから声がもれた。どんなに激しい感情を抑えているのか、声は哀れにもつれ、喉に詰り、苦痛に耐えぬかのように、半身がいたましく捻れた。……孝之助は眼をつむって、両の拳を強く握りながら、妻の泣く声を聞いていた。そして、その泣き声がしずまるのを待って、云った。
「よくわかった。有難う杉乃」
 杉乃はたもとで顔を拭き、それから畳に手をついて黙って頭を垂れた。やはり口ではどう云いようもないらしい、罪を乞うようにじっと頭を垂れてから、泣きらした眼をあげた。
「堪忍して頂いたと、思ってもよろしゅうございましょうか」
 孝之助は包むような眼をして頷いた。
「有難うございます」杉乃はもういちど頭を垂れた、「どうぞお寝間へいらしって下さいまし、おねだりがございますから」
 孝之助は立って寝間へいった。
 そこはいつもとは支度が変っていた。重ね夜具を屏風でとりまわし、絹張りの行燈の脇に、祝いの膳が置いてある。それは覚えのあるけしきだった。華やかな色の重ね夜具、清らかに嬌めいた絹行燈の光り、そして祝いの銚子の載っている膳。それは婚礼の夜の、床盃の支度であった。
 ――そうか、あの白無垢……あの髪、あの化粧はそういうつもりだったのか。
 孝之助は微笑した。微笑しながら、眼がぼうと濡れ、行燈の光りがかすんだ。
「――おまえ覚えていたのか、杉乃」
 彼はそっと呟いた。
「――あのとき床盃をしなかったことを、……ずいぶんながいおあずけだったね」
 杉乃が入って来た。孝之助は静かに、膳の前に坐った。





底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「労働文化」労働文化社
   1951(昭和26)年10月〜1952(昭和27)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「頑な」と「頑」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード