合歓木の蔭

山本周五郎





 誰かが自分を見ている。奈尾なおはさっきからそのことに気がついていた。もちろん右側の男たちの席からである、さりげなく振り向いてみるが、その人はすばやく視線をそらすとみえて、どうしてもその眼をとらえることが出来なかった。――こんど完成した二の丸御殿の舞台で、こけら落しとかいう、江戸から観世かんぜ一座が呼ばれ、殿さまも安宅あたかの弁慶をおつとめになる演能えんのうに、寄合以上の者が家族といっしょに拝見を許された。母のない奈尾は叔母のまさ女に付き添われて来たのだが、席へつくとすぐ叔母は知合いの婦人と会い、その婦人がさらに三人ほどつれを呼んできた。旧友がひとかたまりになったというかたちで、奈尾はいつか会話の外へ残されてしまった。……市蔵という兄だけでおんな姉妹きょうだいもないし父が厳しくて稽古ごとなどもみんな師匠を家へ呼んで習ったから奈尾には友達というものがなかった。まわりを見ると同じ年ごろの娘たちはたいていつれがあって、おかしそうに耳こすりをしたり、ささやいたり※(「目+旬」、第3水準1-88-80)めまぜをしあったりしている、慎ましくとりつくろっているだけ余計に楽しそうである。なかには男の席から会釈をおくられて、はずかしそうに赤くなる者や、勇敢に挨拶を返してつれの娘に叩かれる者などもいた。
「さあこんどは安宅ですよ奈尾さん、殿さまの弁慶は江戸ではたいそうな評判だそうですから、よく気をつけて拝見しましょうね」
 叔母がそう教えてくれた。奈尾は黙ってうなずいたが興味はわかなかった。もう三番ほど能役のるのを見るのは見たけれども、言葉もしぐさもよくわからず、物語の筋もはっきりしないから少しも面白くないのである。――またあの眼が見ている。こっちの視野にははいらないが、その凝視が自分の顔に向けられていることはたしかだ。不愉快ではないがいらいらしてくる、舞台では安宅が始まった。見物席はこれまでと違った緊張におおわれ、鳴物もひときわ高くえて聞こえる。しかしやはりあの眼はこっちを見ていた。ときどき脇へそらすがまたすぐにこっちをじっとみつめる、右の高頬たかほおのあたりにそれがはっきりと感じられてるのである。……奈尾はその視線の当たるところが熱くなるように思った。するとそれが胸に伝わって、しぜんと動悸どうきが強くなり、あまやかにそそるようなふしぎな幸福感にからだぜんたいを包まれた。
 ――どなただろう、兄上のお友達かしら、奈尾を知っていらっしゃる方かしら。
 見覚えのある人を思いだしてみた。岩田半三郎の顔も想像したが、どれもいま見られている感じとはぴったりしない、その人たちなら見るにしてももっと違った見ようをするであろう、たしかに知らない人である、そしてそれは無礼なことなのだが、奈尾には少しも怒りの感情が起こらなかった。むしろあやされるようなひそやかな歓びが胸にあふれて、十七になる今日までかつて知らなかった一種のするどい快楽のような感じにとらえられるのであった。
 安宅が終わると席がざわざわとくずれだした。多くの人たちが手洗いに立ち、どの席でもにぎやかに弁当をひらいた。奈尾はそっと振り向いて、このあたりと思うところを眼で捜した、するとこちらへ会釈をする者があった、ちょっとどきっとしたが、それは岩田半三郎であった。兄の市蔵や藤巻三之助や池田伊兵衛など、いつもの仲間が四五人いっしょにいた。奈尾は半三郎の会釈を気づかない風によそおってそらしてしまった。
 ――たしかに、あの人たちではない。
 能はそれから二番あって、婦人たちはお城をさがることになった。それからは賜餐しさんうたげが張られるのである。持ち物を始末して叔母といっしょに席を出た。はぎのお廊下は往来する人で混雑し、中ノ口へ出るまでは叔母とはぐれそうになったこともある。叔母はつれの婦人たちと殿さまの弁慶のすぐれてよかったこと富樫とがしをつとめた観世なにがしの美貌であったことなどを、その混雑のなかで話し興じていた。
「あなた今日はお行儀が悪かったのね」叔母は外へ出るとすぐにこう云った、「おちつかなくて脇見ばかりしておいでじゃないの、ああいう席ははじめてだろうけれど、もっとしゃんとしていなければおかしいことよ」
「お能って退屈なものだわ」奈尾はこうこたえながら、顔が赤くなるのをおさえられなかった、「あの声を聞いていると眠くなってしまうの、がまんするのに困ってしまいましたわ」
「あなたにはどこかにこわいようなところがあるのね、亡くなったお祖母ばあさまに似たのかしら、――」叔母はこう云って疑わしげにこっちを見た、「花を見ても美しい衣装を見ても満足しないような眼だわ、あなたの眼はいつも途方もなく遠いところを見ているようなのね、……そういう気質きしつはあぶなくってよ、気をおつけにならないと、本当にあぶないわ」
 口数の多いうわ調子な、云うあとからすぐに云ったことを忘れてしまう叔母だ。奈尾は聞きながしにして、はな紙を出そうと思い、左のたもとへ手を入れた、すると妙な物がさわったのでそっと出してみた。――それは結びぶみであった。


 叔母はすぐ帰ると云いながら、ばあやのそのと長いこと話しこみ、日の傾いたのに驚いてあわてて座を立った。――袂に火でも入れているような気持で辛抱づよく待っていた奈尾は、叔母が去るとすぐに居間へはいり、その結び文を解いて読んだ。
 ――今宵十時よりお庭の合歓木ねむの蔭にてお待ち申し上げそろ、神ぞしろしめせ、おいでなくばこの命ひとつ今宵かぎりにそろ。
 新古今からでもとったらしい恋歌れんかを一首添えて署名はただ「き」とだけ記してあった。奈尾の顔はあおざめた、けれども眼は酔ったように恍惚こうこつとうるみを帯び、それがしぜんと閉じられた。まちがいはない、あの眼のぬしである、烈しくいちずに、じっとこっちを凝視していたあの眼のぬしである。おそらく萩の廊下で袂へ入れられたものだろう、とすれば自分はその人を見たかもしれない。――奈尾のからだをしびれるような感覚がはしり深いあえぐような溜息ためいきが出た。
 むろんそれは長い時間のことではない、奈尾はすぐに身震いをして眼をあけた。罪を宣告するように叔母の言葉が思いだされたのだ――あなたにはこわいようなところがある、お祖母さまに似たのかも知れない、気をつけないとあぶない。……叔母は父のただ一人の妹である、数馬五郎左衛門という五百石の大寄合へしたが、娘時代から明けっ放しのがらがらした性質で、無遠慮になんでもずばずば云う癖がある、云ってしまえばさっぱりするらしい、人はごくいいので、そのために憎まれるほどのこともないが、深い付合いをする人もないようだ。今日もいきなり「お祖母さま」と云いだしたが、椙原すぎはらの家では奈尾の幼いじぶんからお祖母さまのことには話しを触れないのが習慣である、病身でいつも寝たり起きたりしていた母がまだ生きていたころ、ばあやのそのとそれらしい話をしているのを聞いたこともあるが、子供ごころになにか綺羅きらびやかに美しい罪という感じがしただけで、くわしいことはなにも覚えていない。けれどもその「綺羅びやか」に「美しく」しかもそれが罪であるという印象は、奈尾にとって胸のときめく秘やかな憧憬あこがれの一つだったのである。
 花を見ても美しい衣装を見ても満足しない眼、いつも途方もない遠いところを見ているような眼。叔母はそう云った。自分ではわからないが、そんなところがあるかもしれない。小さいときから現実の自分とは別に、本当の自分がどこかに生きているような気持をときどき感じることがあった。それは乞食こじきのように哀れな身の上であったり、王姫のように耀かがやかしい生活であったりするが、どっちにしてもそういう空想のほうが現実よりなまなましく、実感がこもっているように思えたのはふしぎである。岩田半三郎と婚約ができ、祝言の日どりが定ってからも、ふとすると誰かが遠くから自分を呼んでいるような錯覚におそわれる。
 ――さあ早くおいで、なにを迷っているんだ、早く来ないと取り返しのつかないことになるよ。その声はこういう風に呼ぶ。早く早くさあ、そのまま出て来ればいいんだよ。
 奈尾は今じっと反省してみる、自分のこういう性分は本当にあぶないことかも知れない、婚約者があるのに、袂へ入れられた見も知らない人の文を隠れて読むなんて、普通の娘ならこんなことはしないであろう、すぐに親へ告げるか、読まずに裂いて捨ててしまうに違いない、――奈尾は持っていた文を裂こうとした。けれどもそれより強い感情がそうさせなかった。ためらっているうちに足音がして、「奈尾さま」と、ばあやの呼ぶのが聞こえた。
「はい、ばあや、ここよ」
 彼女はそう答えながら、手文庫の中へその文をしまった。「旦那さまのお帰りでございます」
 ばあやはこう告げて玄関のほうへゆく、奈尾は片手でそっと手文庫の蓋を押え、五拍子ばかり息をひそめていた。
 父は成田将監なりたしょうげんという碁友達をつれて帰り、客間へ酒のしたくをさせて碁を始めた。兄は賜宴しえんからよそへまわったのだろう、九時になっても戻るようすがない、……奈尾は蒼白あおじろい顔をして、居間の小机にもたれたままじっと眼をつむっていた。ばあやは台所で下女や小間使たちを指図しながら、まだ客間の接待をつづけている。酒を入れた碁はいつも長い、しばしば夜半を過ぎることがある、――庭へ出ることは出来ないだろうか、いや奈尾は少しもそんなことを躊躇ちゅうちょしてはいない、自分を戒しめる声ももう聞こえない、ただ時間のくるのを待っているだけだ、やがて寝間へはいるだろう、それからあかりを消し出てゆけばよい、どんな障害も起こらないことを奈尾は知っている、理由わけを証明することは出来ないが、決して障害の起こらないことが感じられる、……蒼白そうはくめいた透きとおるような奈尾の顔に、あるかなきかの微笑がうかんだ。
 客間の障子には明るく燈がさしていた、夜空は暗く、一つの星も見えなかった。寝間をぬけ出た奈尾は、庭の片隅にある合歓木ねむのほうへ、静かにすべるように歩いていった。


「奈尾は躯のぐあいが悪いんじゃないのか、四五日こっち顔色も冴えないし、なんとなくぼんやりして精がないようにみえるが」
 兄の市蔵がそう云って眉をひそめた。奈尾はじっくりと振り返った、そしてかなしいほど深いまなざしで兄の眼を見ながら云った。
「十八日までにあと六日しか残っていませんわ」
 市蔵はその意味を悟るとひどくこたえたような眼をした。それから寄って来て、妹の髪の毛からなにかをつまんで取った、なにもついていたわけではない、単純ないたわりの表現である。
「知っているだろう、岩田は温厚ないい人間だ、心配することなんかなにもありはしない。ばあやもついてゆくんじゃないか」
「いいえ、ばあやには来てもらわないわ」奈尾はそっと首を振った、「そんなことではないの、お兄さまにはおわかりにならないことよ」
「そうだろうけど、――それでも心配だよ」
 奈尾は笑いながら兄の手をそっとでた。
「大丈夫よお兄さま、あちらへいらっしゃいまし、本当はただ気がふさぐだけなんですから、おんなって、――おかしなものだわ」
 その夜もまた奈尾は寝間からぬけ出ていった。うす月の光を吸って、合歓木の花が夢のようにおぼろに夜空をかしていた。三歩を隔てて垣根があり、男はその外に来て待っていた。――奈尾は合歓木の樹蔭へ身を寄せた。昼の日光で暖められた土や雑草が、ほのかにそそるように匂っていた。男はああと声をあげた、のどから出るのではない、口のなかで、ほとんど舌のさきだけでささやくのであった。
「あなたはまた来てくださいました、私はあなたの足音が、母屋おもやからここへ来るまでの、一歩一歩を数えることができました、軽くてやさしい地面に触れるか触れないような、たおやかな足音、――私は今夜で三晩それを聞きました、それでもやはりあなたがそこへいらっしゃるまでは、あなたではないだろうという疑いで血が凍るように思うのです」
 男は深い嘆息をもらした、それから奈尾がなにか云おうとするのを恐れるもののように、臆病な哀願の調子でこう続けた、
「いいえなにもおっしゃらないでください、私は自分を知っています、私は卑しい無能な人間です、こうして名も知られず姿も見られないからこそ、あなたにものを申し上げることが出来るんです、私はこの世に生きるねうちのない人間です、生まれて来ないほうがよかったと、どれほど考えたかしれません、あなたに御想像がつくでしょうか、人間が自分を生まれて来ないほうがよかったと考えるなんて、――けれども今は違います。私はあなたのお姿を見ました、こうしてあなたに話すことができる、はじめて私は生きて来たことを、自分が生きていることを神に感謝しました」
 男のささやきはおよそ四半刻はんときも続いた。奈尾の全神経はしびれたようになり、合歓木の幹にもたれた躯は地上から浮きあがって、泡沫あわのように空間へ消えてゆきそうに思えた。
「お手をとは申しません」男はやがてささやきの哀訴をした「せめてお袖の端に触らせてください、あなたが私を怒ってはいらっしゃらないということが知りたいのです」
「いいえお寄りにならないで」奈尾はおののくように云った、「わたくしここへまいるだけで精いっぱいなのです、これだけでさえ、もし人に知られたら」
「ああそのあとをおっしゃってはいけません、私はよく知っています、あなたがもうすぐお輿入こしいれをなさるということをね、――私が絶望したり泣いたりするとお思いですか、いいえあなたはただよそへお輿入れをなさるだけです、境遇が変わり姓が変わるだけです、本当のあなたはそのまま少しの変化もなく私の心に生きていらっしゃる、私の眼にはあの日のお美しい姿がいつまでも残っているのです……なにものも、どんなちからも、私のなかに生きているこのあなたを、持ち去ったりうち消したりすることはできません、これでも私が仕合せでないでしょうか――」
「人が来ます」奈尾はこうさえぎった、「兄かもしれませんわ、おいでになってください」
 話しごえと足音がこっちへ来る。垣根の外から男がささやいた。
「あすの晩もういちど、どうかもういちどだけ」
 忍び足に去ってゆくのを聞きながら、奈尾は合歓木の幹に背をもたせ、放恣ほうしな姿勢でじっと眼をつむった。――話しごえはもうそこへ来た、兄のほかに池田伊兵衛と藤巻三之助が一緒らしい、そのあとからばあやが下女たちになにか運ばせて来る。「この辺がいい」兄が芝生の端まで来て立ちどまった、「毛氈もうせんをこっちへもらおう、それはそこへ置いといていいよばあや、いやもう少しこっちだ」酒宴のしたくである、合歓木の花を眺めながら、庭で夜宴を催すのは毎年の例であった。
「岩田はまだ来ないね」池田伊兵衛のこう云うのが聞こえた、「おれより先に来ているはずなんだがね、――いい月だ、燭台しょくだいはいらないぜ」


 彼らが席を設けているうちに、植込みの蔭を伝って、奈尾は家のほうへまわっていった。すると前庭のところで岩田半三郎に会った。彼は急いで来たとみえ、珍しく息をせいていたが、奈尾を見ると立ちどまって声をかけた。
「ああ、あなたもいらっしゃるんですか、今夜は」
 奈尾はふしぎな戦慄せんりつを感じた。その言葉のずっと奥のほうに、さっきの垣根の外の声が隠れているように思えたのだ。もちろんそんなことがあるはずはない、奈尾はええとうなずいた。
「お待ちしていましたの、どうぞおつれくださいまし」
「そんな薄着でいいのかな」半三郎は包むような眼で見た、「もうすぐ夜露がおりますよ」
「だって、そんなに長くはおりませんわ」
 奈尾はとつぜん浮き浮きした声になり、つと自分の手を半三郎の腕にからんだ。
「さあまいりましょう、きれいな月だわ」
 夜宴の席は奈尾を迎えてにぎやかになった。ばあやもさかずきを持たせられ、藤巻三之助が小謡をうたったりした。奈尾は絶えず空想と現実とのあいだをたゆたい、思いがけないときに声をあげて笑った。
「お庭に合歓木を植えましょう、ねえ」奈尾はこう半三郎にささやいた。
「そして花の咲くころにはわたくしたちもこのように宴げを催しましょう、わたくしたちがお爺さんになりお婆さんになったら、誰も招かずに二人だけで静かに宴げをいたしましょう、――ねえ」
「お望みならすぐにそうします」半三郎はそっと笑った、「けれどもまだ結婚の式もあげないうちから、爺さん婆さんの話は早すぎるでしょう」
 奈尾の眼はうっとりと夜空を見ていた。耳のすぐ側であの声がささやいていた。――あすの晩もういちど、どうかもういちどだけ。
 六月十八日に奈尾は岩田へ輿入れをした。椙原は八百五十石の年寄肝入役としよりきもいりやくであり、岩田は七百石の納戸なんど奉行である、婚礼の式には藩主からとくに使者を賜わり、祝宴は三夜にわたって催された。岩田家にも主婦がいなかったので、ばあやが小間使をつれてゆき、岩田椙原両家の親族の婦人たちとはかってすべての世話をした。――奈尾はその時間を夢の中にいるような気持で過ごした。土地の習慣で、祝宴のあと二日は、新嫁が主になって親族知己の婦人たちを招待する、この日は客たちの望みによって、新嫁はたしなみだけの芸事を披露しなければならない、音曲とか舞とか、茶、華、香、ときには歌、俳諧なども所望されることがある、奈尾も琴だけは弾いたが、あとはなにを望まれても「ふたしなみでございます」と云って辞退しとおした。ばあやがとりつくろって、座の白けることだけは救われたが、客たちの不満は明らかであった。叔母のまさ女は幾たびも蔭へ呼んでは怒った。
「それは高慢というものよ奈尾さん、そんなことではすみませんよ、来てくだすった方たちみんなをかたきにしてしまうつもりですか」
「もうわかったわ叔母さま、わたくしいやなの、気の向かない芸事なんてそらぞらしくって」
「それはお客さまをはずかしめることになるのよ、取り返しのつかないことになるのよ奈尾さん、せめて島川さまがお望みの舞だけでもなさいな、御家老の奥さまだということは知っておいでじゃないの」
「それではほかのかたがたになお失礼だわ」奈尾は平気で首を振った、「もうたくさん、わたくし厭なの、厭なの、厭なの――」
 ばあやは十日めまでいたが、持って来た衣装や道具も片つき、奈尾が岩田家の召使たちに慣れ始めたのをみて帰っていった。――岩田には三郎左衛門という隠居したしゅうとがいた、中風を病んだのだそうで、ずっと別棟の隠居所に寝起きをし、孫兵衛という老人の家僕がいっさいの世話をしていた。舅の姉で赤松という家へ嫁している婦人が、ときどき家政のことで注意をしに来た、「おしゅうとのいるのも辛いが、いないのも別の意味で辛いものですね」などと云いながら、まだ奈尾などにはわからない細かしいことをくどくどと教えるのであった。どこかへ客にでも来ているような気持でうかうかと夏を越した。毎朝いちど、隠居所へいって舅に茶をてるのが日課だったがこれが父だという実感はなかなかわいてこなかった。良人おっとに対しても同じようであった、長く知り合っていたので遠慮はないけれども、これが身も心もささげる生涯の良人だという感じがぴったりと身につかない。つい「岩田さま」と呼びそうになって驚くことが多かった。――約束の合歓木も庭の西の端に植えられた、椙原の庭のよりも大きい樹で、枝も充分に張り、花が咲いたらどんなにみごとかと想像された。根づいたことがはっきりすると、半三郎は楽しそうにその樹蔭へ茶を運ばせたりした。
「来年はあぶないが再来年は咲くそうだ」彼は奈尾にこう云った、「そうしたらひとつ趣向を凝らして夜宴をするかね」
 しかし奈尾はまったく別のことを考えていた。


 あすの晩もういちど、――そういわれた夜は雨であった、そのうえ嫁入りじたくのことでばあやにおそくまでつかまり、とうとう庭へ出ることが出来なかった。岩田へ来てからはあわただしい日が続いて、夏のうちはふと思いだす程度であったが、秋風の立つころになって生活もおちつき、根づいた合歓木の葉が哀しく枯れだすのを見ると、しばしばあの夜のささやきの声が思いだされ、あやしく胸のときめく時間がかえって来た。
 ――あの夜あの方はひと晩じゅう雨にぬれて立っていらしったに違いない、そうだ、その次の夜もその次の夜も、きっと……。
 その想像はあざやかになまなましく眼に描くことができる、すると水を吸いあげる草花のように神経がめざめ、動悸が高く緊張して打ちだし、筋肉にこころよい収斂しゅうれんが起こる、そして奈尾は自分が生きていることを感じるのであった。一日一日と生活は平板で退屈になるばかりだった、良人は予想したよりはるかに善良で、思いやりが深くゆき届いた愛情を示してくれる。召使たちもこれといって気に入らぬ者もない、赤松の伯母と数馬の叔母は苦手であるが、だんだん来る度数が少なくなるし、来てもはいはいとうけ流していればすんでしまう。明けくれは無風帯のように平穏である、――世間の新嫁たちには最も望ましいであろう、この静かな恵まれた日々が、奈尾には壁のようにあじきないいらいらしたものに思われた。なにかいちばん大切なものが足りない、この生活は自分にとって本当のものではない、絶えずつきまとうこうした疑惑を、空想だけがわずかに救ってくれた。垣根の外からのささやき声は、現実より強くはっきりと奈尾をよびさます、お祖母さまの秘められた物語、綺羅びやかな罪の真相が、いつか空想のなかでしだいにかたちを成し、放恣な情景を描きだしてみせる、……眠りは絶えず夢に妨げられた。昼間も日のさすところを嫌って、居間に閉じこもってはもの思いにふけった。
 良人は奈尾の変化に気づいたようであった。しかし娘じぶんからの性質を知っているので、くどくきいたりことさらいたわったりする態度を控えているようにみえた。召使たちもいつか不安そうなおどおどした動作になり、なるべく奈尾の前から逃げていようとした。――これらも気の毒というよりも退屈で、暗くもの哀しく、いらいらと満ち足りない日が息苦しいほど緩慢にたっていった。
 年が明けて二月に、奈尾の亡母の七年忌があり、七日ほど椙原の家に滞在した。三月にはいって間もなく兄の市蔵が結婚し、ついで奈尾自身が風邪で十日ほど寝た。もちろんたいしたことではなかったが、このあいだにだいぶ見舞いをうけたり、手紙や贈り物をもらったりした。もうほとんどなおってからのことである、「あや」という覚えのない名の手紙が届き、すぐにひらいてみたが、奈尾はたちまち蒼くなった。一年まえのあの筆跡であった、それはこう書いてあった。
 ――合歓木をお植えなされ候ことわが身のいのちを覚えそろ、御いたつきの趣き承まわり及び候より、夜々、合歓木の樹蔭にて御平癒ごへいゆを祈りまいらせそろ、おはこびある折のありや否やは知らず、せめて祈りの夜々のみはゆるしたまわり候え。
 文字ではなくそのままあのささやきの声であった。奈尾はそれをまざまざと耳で聞いた。それからの時間をどう過ごしたか覚えていない、夜になって、良人も召使たちも寝てしまい、家じゅうがしんと鎮まりかえったとき、奈尾は寝所をぬけて庭へ出ていった。春ではあるが夜気は冷え、あやめもつかぬ闇であった。まわってゆくと隠居所の障子にあかりがさしていて、庭の樹立がほのかな片明りに浮いてみえた。魔にかれたような足どりで奈尾は合歓木の側までいった。
「ああ来てくださいましたね、やっぱり」からたち生垣いけがきの外から、すぐにこうささやく声がした、「御病気はいいのですか、こんな時刻に出てお悪くはないのですか」
 奈尾はわれ知らず合歓木の幹によって身を支えた、全身がしびれて、そのまま倒れるかと思えたのである。ささやきは続いた。
「あなたはゆるしてくださいますね、こうしてまた私がお会い申しに来ることを、あなたに会うことの出来なかった一年、私がみじめで生き甲斐がいのない日を送ったとお思いですか、いいえ私は仕合せでした、あなたはいつも私のなかにいらしったのです、めていても夢のなかでも私は絶えずあなたの姿を見ることができ、お声を聞くことができます。――そしてとうとうまたこうしてお会いするときがめぐって来ました」
 言葉の意味はほとんど理解しなかった、その必要もなかった。舌のさきだけで語られるささやき、思いをこめたその調子が奈尾を酔わせ云いようのない恍惚感にひきいれるのだ。
「幸福をこわさないようにしましょう、五日めの夜ここでお待ちしています、五日めごとに、お願いです、来てくださることを信じていますよ」
 その明くる朝、寝所から起き出た奈尾の、生き返ったように元気な、さえざえと明るい顔に半三郎は驚きの眼をみはった。


 奈尾は熟睡するようになり、眼に見えて快活になった。なおざりにしがちな良人の世話もまめまめとするし、召使たちにも笑顔をみせた。ただ一つ欠けていた夢が与えられたのである、日々はもう退屈ではなかった、いつも身内に生きる歓びが感じられた。――五日めごとのささやき、それが平板な灰色の生活をいやしてくれる、躯じゅうの神経に火を放ち、しびれるように感覚を陶酔させてくれる。もちろんいかなる恋もそこでとまっていることはできない、いつかは危険の近づいてくることを、奈尾はようやく感じ始めた。
 ――そのとき自分はどうしたらいいだろう、拒みとおすことができるだろうか。
 四月の中旬を過ぎて、七たびめの夜のことであった。男はいつものように綿々とささやき続けたのち、自制のちからの尽きたような調子で、このまま耐え切れなくなったと訴えた。
「それ以上なにもおっしゃいますな」奈尾はおびえたように身震いをした、「さもなければわたくしいってしまいます」
「あなたは私に死ねと云うのですか、私にもだえ死にをさせたいのですか」
「あなたは出来ないことをお求めなさいますわ、わたくしもうなにも伺いません、そんなことをおっしゃるのでしたらもうここへもまいることはできません」
「待ってください。ああいかないで――」
 しかし奈尾は足早に去っていった。
 からたちの生垣の外で、男はじっと耳を澄ませていた。けれども遠く去った足音が、そのまま戻って来ないのをたしかめると、舌打ちをしながら生垣を離れた。あざけるように、もういちど舌打ちをして振り返った、するとすぐ眼の前に人が立っていた。月の光が、上からその人間の姿を照らしている、男は「あっ」と低く叫んだ、立っているのは岩田半三郎であった。男はうめいた、じりじりと後ろへ退さがったが、身をひねったとみると、絶叫しながら抜討ちに半三郎へ斬りつけた。刀はぎらりと青白く閃光せんこうをとばしたが、そのままがっしと腕ごと相手にかかえこまれた。「――卑劣なやつだ」半三郎はかかえた腕を逆に絞りあげた、「おまけに馬鹿者だ、ここでおれを斬ってどうする、――貴様の悪い癖は聞いていたがこれほど底ぬけの馬鹿とは知らなかった、狐め」こきっと骨が鳴り、半三郎の手に男の刀が奪い取られた。男は右腕を曲げたまま獣のようにうめきごえをあげて横ざまにすっとんだ。
「二度と来るな、世間へは云わずにおいてやる、帰って自分の顔をよく見ろ」
 男はいたちのように逃げ去っていった。
 半三郎はもぎ取った刀を提げたまま生垣をまわってゆき、へいの切戸から庭へはいった。彼の眉はしかんでいたが、怒りや悲嘆の色は少しもなかった。――すでに三度、ひそかにその密会にたちあって、二人の関係がどのようなものかを知っていた。男は老職なにがしの二男で、そういう悪癖のあることでは定評のある人間だった。これは一喝くれれば片がつく、だが妻をどうしたらいいか、どうすれば悲劇が避けられるか、どうしたら妻を無事にそこから救い出すことが出来るか。
 問題はそれだけであった。半三郎は三度まで彼らの側に身をひそめて、会話のなかにそのかぎをみつけだそうとした、そして今その唯一の方法を発見したのであった。
「たしかにそのほかに方法はない」眉をしかめながら、半三郎はこうつぶやいた。「それで破綻はたんが避けられるなら、それだけの努力を払う値打ちはある」
 奈尾は熱を病むような日を送った。男の切迫した情熱、ほのおのようなささやきが耳について離れない。ひとりでいると片ときもやすまずその声が聞こえるのである、――死ねと云うのですか、悶え死にをしろと云うのですか。奈尾はたまりかねてあえぐ、呼吸が苦しくなる。
 ――決してもう庭へはゆくまい、決して。
 追い詰められた者のように、ただそこからのがれようともがいた。けれどものがれることは出来ない、毒の快楽はそれが毒だとわかっているところにある。五日めが来ると血が騒ぎだした。おさえようもなく不安な、けれどぞっとするような歓びが身を包んだ。
 ――いいえ庭へはゆくまい、どんなことがあっても、こんどあの人に会ったら、それで自分は破滅してしまう。宵のうちまでこう思い続けた。しかし、それが不可能であることはわかっていた。奈尾は十時になると寝所をぬけだしていった。――雨もよいの暗い夜であった、隠居所の窓も燈が消えて、樹立のあたりでは虫のがしていた。奈尾は合歓木の樹蔭へゆき着いた。全身が氷のように冷たくなり、くらくらと眩暈めまいがしそうになった。
「ああやっぱり――」からたちの生垣の向こうで、男の低いささやき声が起こった、「やっぱりあなたは来てくだすった、私がどんなに苦しんだかおわかりでしょうか、どんなに苦しんだか」


 奈尾はわなわなと身を震わせた。
「わたくしがまいったのは」彼女はけんめいにこう答えた、「ただあなたにお断わりするためだったのです、わたくしこれ以上もう」
「おっしゃらないでください」ささやきは哀願の音をおびた、「私が悪かったのです、私はあの夜どうかしていたのです、あんなことを望んではならないと初めから知っていて、つい愚かな情に負けてしまったのです」
「あなたは間違っていたとお思いですの」
「こんなに美しい恋を」と、ささやき声は歌うような調子になった、「なんのためにこわすことがあるでしょう、あなたはそこにいらっしゃる、私はこうしてここにいます、私が胸にあふれる思いを語るとき、あなたはそこにいて聞いてくださる、――私たちのあいだには現実の壁はあるが、お互いの心を隔てるものはなにもありません」
「ああおっしゃって、おっしゃって」奈尾はうっとりと眼をつむり、酔ったように合歓木の幹へ身をもたせた、「どうぞ今のようにおっしゃって、わたくしそういうお言葉で聞きたかったのですわ、どうぞおっしゃって――」
「そうです、これが私たちの恋なのです、ここには煩瑣はんさな生活も世間の義理もありません、夜のしじまと樹や草のほかには、この恋を妨げるものはなにもありません、現実の中へはいればどんなに深い真実の愛もいつかは冷たくひえてしまうものです、――私は二度とお手を求めもしますまい、これで充分です」
 頬に涙の流れるまま、奈尾はこの時間が永久に続くようにと祈っていた。危険の去ったことに疑いはなかった。五日めごとに、男はこれまでになく美しい言葉で愛をささやく、歌のように絵のように心の思いを語る。しかしそれ以外のことは求めなかった。――奈尾はよく眠り、満ち足りた快活さで家の中を明るくした。秘めたる歓びが、謝罪のかたちで良人に酬われる、半三郎が戸惑いをするほど、奈尾の愛情は強くなっていった。
 こうして季節は梅雨つゆにはいろうとした。ひどく空気の湿ったむしむしする夜のことだったが、男のささやきの中にふしぎな言を聞きとがめた。
「来年になったら、この合歓木は」こう男が云った、「――私たちを夢のようにおぼろな花笠でおおってくれるでしょう……」
 来年になったら。奈尾はふと眼をあげた、いまはまだ花期には早いのに、どうして今年咲かないことがわかるのだろう、そう思ったとき奈尾はああと口を押えた、眼に見えぬ手で躯を真二つに裂かれたような、非常な驚愕きょうがくにうたれたのである。
 ――まさか、まさかそんなことが。
 彼女は全身を耳にしてささやきの声を聞いた、舌のさきだけで語るごく低い、かすかな声である。生垣を隔ててからくも聞きわけられるだけだ、しかし心をとめて聞けば隠しようのない抑揚に気がつく、言葉の切り方にある癖もその人のものだ。奈尾は喪心したように合歓木の樹蔭をはなれた、ほとんど夢中で、よろめきよろめき家に帰った。
 寝間の夜具の上に坐り、眼をつむって初めからのことを思い返した。――そうだ、椙原の家の庭で夜宴のあったとき、あの人は誰よりも遅れて、それもあんなに急いでかけつけて来た。あの人は奈尾をよく知っている、奈尾になにが必要だかということも……あの人は喜んで合歓木を植えてくれたではないか。同じ家に寝起きをしていて、五日めごとの庭の忍び会いを気づかないはずもない。
 ――お祖母さまに似たのね、気をつけないとその気性はあぶなくってよ。
 こう云った叔母の懸念を、あの人はそれ以上によく理解してくれたのだ。――垣根の外のささやきは良人であった。奈尾がそこまで考えたとき、廊下に忍び足の音が聞こえ、良人の寝間へ誰かが入った。
 奈尾は震えながら立って、ふすまを明けた。半三郎がびっくりしたようにこっちを見た。刀は差していないが、明らかにいま帰った姿である、
「――どうした、まだ寝なかったのか」
 微笑をうかべた温かい眼である。なにもかも知っている眼だ、奈尾の心のどんな片すみをも知って、しかも柔らかく包んでくれる眼だ。奈尾は頭から足の爪尖まで赤くなるように思い、羞恥しゅうちと歓びにおののきながら、声をあげて良人の胸へ倒れかかった。
「あなた、……あなた、――」
「そんな声をあげて、向こうへ聞こえるじゃないか」半三郎はそっと妻を抱いた、「どうしたんだ、なにを泣くんだ」
「申し上げてもいいでしょうか」
 奈尾は激しく頬を良人の胸へすりつけなかば笑いなかば泣きながらこう云った。
「申し上げてもいいでしょうか、わたくしがあなたをこんなに愛していることを――こんなにこんなに愛しているということを……」





底本:「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」新潮社
   1983(昭和58)年12月25日発行
初出:「新読物」交友社
   1948(昭和23)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年8月27日作成
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