神原与八郎は豪快な生きかたを好んだ。からだはどっちかというと小がらなほうだが、肩腰の頑丈な
逞しい骨ぐみだし、眉のあがった
双眸の光りのするどい、いつも片方へひき
歪めている
唇つきなど、負けぬ気のつよさと
軒昂たる意気をよくあらわしていた。起ち居ふるまいも言葉つきも
颯爽として、大事に惑わず小事に拘泥せずという態度を常に崩さない、かくべつ大言壮語するわけではないが、なかなか
辛辣な舌をもっていて、年功の者などをも
屡々極めつけるようなことがあった。かれはくち癖のように「死にざま」ということを云った、もののふの鍛練は、つまるところ死にざまを
究めることだ、そう云いきるのである、……戦場の心得などというものも数かぎりなくある、刀槍の法とか進退のみきりとか、迫場の急所とか、それぞれ秘伝のように説く者がある、けれどもそんなことは末節にすぎない、大切なのはその死にざまだ、勝敗いずれにしてもいさぎよい死にざまこそもののふの真の面目だ。幾たびとなく
戦塵を浴び兵馬のうちに育ったような老い武者の前でも、確信のこもったくちぶりでそう云うのだった。もちろん単なる思いあがりではない、天正十八年の小田原攻めには十六歳で初陣しているし、征韓の役にも従軍した、そのときのはたらきぶりを認められて、二十三歳から槍組の三十人がしらを命ぜられている、つまりそう云うだけの経験があるので、出まかせの強弁でないことはいちおうたしかだった。……それにしても福島家には名高い勇士が多いので、与八郎くらいの身分や経歴では、さほど眼だつほうではなかったが、或るときかれは人の意表に出ることをやって、いっぺんにおのれの存在をはっきりさせた。
慶長三年の秋のことである、清洲城の
外曲輪にある大崎
玄蕃の屋敷で重陽の宴の催しがあり、与八郎も招かれて出た。玄蕃は鬼という名をとった豪勇の士だったし、席に列なる客の多くが名だたるつわもので、
盃がまわりだすと活溌に戦場ばなしが始った、与八郎は身分も軽く、若年でもあるので、ずっと末席のほうに坐っていたが、
昂然たる眉は一座を
睥睨するかにみえ、大きくあぐらをかいた身構えにはどこかしら挑みかかるような壮志を示していた。そのうちに上座のほうからふとかれに呼びかける者があった、長尾勘兵衛といって三千五百石の老臣である、「……そのほうの死にざまという言葉はかねて人づてに聞いていたが」と勘兵衛が云った、「たしかにそれも誤りではないが、それだけにとらわれるのは
褊狭だと思う、総じて戦場には是ひとつという心得はないものだ、時に応じ変に当って進退攻防の機は微妙をきわめる、そのとき死にざまなどに執着すると
却って後れをとるものだ、そうひとすじにつきつめないで、もう少しのびやかな考えかたもあってよいではないか」「お言葉ですがそれはご
尤もとは申上げかねます」与八郎は即座に答えた、「……こなたさまの時代には合戦もおうようなところがございました、たとえば戦場で敵と槍をあわせながら、
穂尖の汚れているのに気づいたので敵を待たせて置いて槍を洗ったとか、打ちあいちゅう敵の刀が折れたので得物を替えるまで待っていたとか、それに類する逸話が幾らもあります、また出陣するに当っては一番槍、一番乗りを誓い、功名てがらを競うという風でございました、しかし近来は銃砲の発達につれて戦の法もはげしく、全軍のちからが一点に集注するかしないかで勝敗のわかれが決定します、その一点とはいさぎよい死にざまという目標のほかにありません、もはや一番首も一番槍もないのです、功名てがらは末の末です、将も兵もただひとついさぎよく死ぬ決意、その一つに全軍のちからが集注してこそ合戦を勝にみちびくことができるのだと信じます」「……なるほど」長尾勘兵衛はちょっと眼を光らせたが、「いかにも銃砲が発達して近来は戦法もたいそう変って来た、単に銃砲が発達したばかりでなく、合戦そのものも年々しぜんと変化してゆく、それはたしかなことだ、しかし人間はそうたやすく変ってゆけるものではない、おれたちが若い頃とそのほうたちとの差は、武器や物具や攻防戦略の差ほど大きくはないと思う」「いや大きいのです、ひじょうに大きな差があるのです、つまりかつての戦場にあった功名てがらというものがわれわれの戦場には無くなるのです、あってはならぬものになったのです、これはこなたさまの時代とわれらの世代との根本的な差です」「……そうか」勘兵衛はぎろっとこちらをねめつけた、
暫くのあいだ
睨みつけていたが、やがて思い返したという風に頭をめぐらせた、「それではもう申すこともあるまいが、ただひと言だけことわっておく、そのほうしきりに一番槍とか功名てがらとか申すが、むかしの戦場でも、すべての者が功名を競ったわけではないぞ、どの合戦でも、一番乗り
兜首の帳についた者は、数えるほどしかなかった、多くはその名もとどめず戦場の露と散っている、理屈も云わず、あらためて覚悟も叫ばずに……」それは詠嘆のようなこわねであった。
まだそのあとに言葉が続くものと思っていたが、勘兵衛はそこでうちきってしまい、傍らにいる客となにやら別の話をはじめるようすだった。与八郎はうわ眼づかいに暫くそれを見まもっていたが、やがて自分の席から勘兵衛にこえをかけた、「……なんだ」「明日お訪ね申したいと存じますがご在宅くださいますか」かれはひたと相手の眼を
覓めながらそう云った、勘兵衛はにっと微笑し、在宅するからいつでもまいれと答え、そのままなにごとも無げにそばの客と話しつづけた。
その翌日、長尾勘兵衛の家はつねになく客が多かった。みんな昨日の与八郎の挨拶に興味をもって、なにかひと荒れあるだろうという期待でやって来たのだ、――うまくゆけば果し合になるだろう、そんなけしからぬことを
囁く者さえあった。神原与八郎が来たのは
午すこし前だった。客間へ通して勘兵衛が出ると、待ち構えていた客たちはそれと云わんばかりに、みんな黙って耳を澄ませた。ところがかれらの期待はみごとに外された、あまりに外れすぎてあっといったくらいである。ひととおり挨拶が済んでから、改めて与八郎が云いだしたのは縁談だった。「……作法にはかないません、しかるべき人を立てて申上げるのが当然ではございますが、生涯の大事ゆえぶ作法ながら自分であがりました、ご息女を家の妻に申し受けたいのです、
抂げておゆるしを願います」隣りにいた客たちも驚いたけれども勘兵衛もびっくりしたらしい。うむといったきりやや暫く返辞がなかった。「……昨日ここへまいると云ったのはその話か」「さようでございます」「……あまり突然すぎるではないか」「いいえ決して突然ではございません、わたくしとしては半年ほどまえから考えていたことでございます」「……そのほうとしてはそうだろうが、話を聞くこのほうとしては突然すぎるというのだ」「それはいつ申上げてもおなじことではございませんか、少しずつ小出しに申上げるというわけにもまいりませんし……」そのとおりである。勘兵衛はにがい顔をしていたが、やがて「考えて置こう」と答えた。与八郎はそれで満足したらしく、会釈をして座をすべったが、ふと思いだしたように、「……お断り申しておきますが、ご息女を頂戴にまいったからとて昨日のお説に服したわけではございません、それだけははっきりお断り申します」そう云って、さっさと辞去していった。まえにも記したとおり長尾は三千五百石の老臣だし、与八郎は僅かに槍組の三十人がしらにすぎない、しかも満座のなかで口論をした翌日、堂々と乗りこんで自ら縁談を申し入れた。豪快といえばいかにもかれらしく豪快であるが、その
胆の太さには清洲城の人々すべてが
呆れた、――やるなあと痛快がる者もあり、――たいへんなやつだと舌を巻く者もいて、神原与八郎という存在がにわかに大きく浮きあがってきた。
案外すらすらと縁談は
纏まり、その年の十一月に祝言の盃がとり交わされた。勘兵衛のむすめは名を松といい、容姿も心ざまもきわめて尋常な、どちらかというと地味すぎるくらいのひとがらだった。祝言の夜のことであったが、与八郎は新しい妻と差向いになるなりかたちを正して、「そなたはいかなる覚悟でおれに仕えて
呉れるか」と
訊ねた、松は面を伏せたままなかなか答えなかった。「……そなたは大身に育ち、神原はこのとおり小身者である、なまなかなことでは家政の切り盛りもむずかしいと思う、当然この思案はして来たと思うがどうか」重ねてそう訊ねると、松はようやく面をあげ、思いのほかはっきりした言葉で答えた。「……かくべつ覚悟と申すものもございません、父には――水の器にしたがう心でと
訓されましたが、できるかぎりその心得でお仕え申したいと存じます」「それだけか」「……はい」そしてまたしずかに面を伏せてしまった。与八郎はもの足りなかった。もっとつきつめた言葉が欲しかったのである、しかしさすがにそれ以上は問い詰めかねて口をつぐんだ。……月日はごく平板に過ぎていった。松はいつとはなく神原家の日常に溶けこみ、貧しい家計にもしぜんと馴れていった。眼につくほどの不たしなみもなかったし、また感動させられるようなそぶりにも触れず、いかにもあたりまえな妻、あたりまえな生活が続いていったのである。
年が明けて慶長五年を迎えたその五月に、徳川家康が上杉氏征討の軍を催し、天下の諸侯は競って出陣した。左衛門大夫正則も兵馬を率いて従軍したが、与八郎は留守にまわされて清洲に残った。留守の城代は正則の
舅にあたる津田備中守で、それに大崎玄蕃が差添えられていた。まえの年から隠密の間に種々の風説が流布していたし、玄蕃の残ったということがなにかあるなと思わせた、与八郎は
寧ろよろこんで留守にまわったのであった。
七月中旬、落ちたように風のない、ひどく蒸しむしする日の午後だった。大崎玄蕃からすぐに来いという使いがあったので、支度もそこそこにはせつけると、前後して物頭以下二十人ほどの者が集って来た。なんのための呼集か誰にもわからなかったが、やがて席にあらわれた玄蕃長行は驚くべき出来事を報じた、すなわち石田三成が挙兵したのである。木村惣左衛門という者が使者に来て、……秀頼公の仰せを
蒙って家康討伐の軍を起したこと、もちろん福島家は大阪御一味に相違あるまじく、早々こなたの軍勢を入城させたいと思う、そういう意味を伝えたのだ。城代の備中守繁元は承知しそうだったが、玄蕃はそばからきびしくはねつけた、左衛門大夫より直筆の証文でもまいればともかく、留守を預かるわれらとして、さような
如何わしき軍勢を一兵たりとも入れることは成らぬ、たってとならば弓矢を
以てお迎え申そう、そう云ってあたまから拒絶したのだ。「……集って貰った
仔細はこれだ」玄蕃は一同を見まわして云った、「おそらく治部少輔はすぐ兵を向けるであろう、大軍を迎えて勝算はないが、防げるだけ防いで、いさぎよく討死をするのが留守のつとめだと信ずる、みなすぐ部署について呉れ」そして用意してあった持場の割り書をひろげて、誰はどこ彼は
此処と順々に指名していった。
住居へ戻った与八郎は、いきなり妻を呼んで大阪へゆけと云った。大阪には御しゅくん左衛門大夫の妻子がいる、治部少輔がこれを無事に置くわけはない、すぐ駆けのぼってお護り申せというのだった。松は色も変えずにはいと答え、立っていったかと思うとすぐ身支度をととのえて出て来た、あんまりすばやいので、「あとの始末はいいのか、生きては帰れぬぞ」と念を押した。松はやはり「はい」と答えただけである。供をつれてゆくかと
訊くと、……眼立たぬほうがよいからと云い、まるで隣りを訪れでもするような淡々たる挨拶をして出ていってしまった。すぐ城へ詰めなければならぬ彼は、妻のようすがまだ不たしかなので、自分も支度をしながらひとわたり家の中を見てまわった、どこもかしこもきちんと片付いていた、なに一つみぐるしい物は残っていなかった、それはちょうど今日あることを予期していたもののようであった。……平生このとおりだったのかしらん、与八郎はそう思い返してみたが、それと合点のゆく記憶はなにもなかった、かれはわけがわからぬという風に頭を振り、支度を直して城へ登った。
僅かな留守兵をあげて必死の防備についたが、石田三成の軍勢は伏見城の鳥居元忠の敢闘に支えられ、ようやくこれを攻め落したときには、すでにひき返して来た徳川軍の
先鋒諸隊がぞくぞく清洲へ入城していた。八月十四日までに、城主の左衛門大夫はじめ、十九将三万五千の兵馬が集結したのである、そして同じ二十二日の早朝、これら先鋒諸隊はふた手にわかれ、
暁闇をついて木曽川を渡ると、石田軍の前備えともいうべき織田秀信の岐阜城攻撃を以て緒戦を挑んだ。この日のおもな戦は敵前渡河と竹ヶ鼻の
砦の攻略にあったが、左衛門大夫は池田輝政に先を越されてはかばかしい合戦に恵まれず、明くる二十三日の岐阜城攻めに当って、はじめて大手の攻め口をとることができたのである。……今日こそは、福島勢のすべてがそう決意し、午前六時を期して商町口から城の大手へと殺到した。神原与八郎は部下の槍組三十人と共に陣頭にいた。火を放たれて燃えさかる街筋のかなたに、殿前と呼ぶ敵の木戸が見える。獲物を狙う
猛禽のように、その木戸ひとつをねめつけていたかれは、突撃の命がくだるのを待ちかねて突っ込んだ。……両側の家を焼く煙が道いっぱいに渦を巻き、

が
睫を焦がすかと思えた。およそ三十間あまり、その火気と煙をついて疾走した与八郎は、とつぜん横腹を棒かなにかでぐわんと殴られたように感じ、足をとられて前のめりに転倒した。すぐはじかれたように顔をあげ、立ち止ろうとする部下に「突っ込め」と叫んで身を起した、すると左の脇腹に肉をもぎとられたような不安定な痛みがあるのに気づき、はじめて鉄砲に射たれたことを知った。具足の胴にぽかっと二寸ほどの穴があいている。――しまった、そう
呟いて一瞬くらくらと眼が
昏みそうになったが、その短い
刹那に「死にざま」という一語が脳裡をはしった。――ここでは死ねぬぞ、かれは歯をくいしばって
呻いた。――口ぐせのように云ってきた覚悟の前にもここで死んではもの笑いだ、石にかじりついても、……かれは力のぬけた足を踏みしめて走りながら、片手の指を傷口へ
入れてみた、さいわい弾丸は腸には届かないで、腹壁を
刳ってうしろへ貫通していた、かれは腹帯の端を切って傷口へ
填め、そのままひっしと敵の木戸へと跳り込んだ。
それからさきの
委しいことをかれは覚えていない、木戸の内へはいるといきなり突っ掛けて来た敵があった、いちどはその槍をはねあげたが、二度めには
躱しきれず、右の
高腿をしたたかに刺し貫かれた。かれは横さまにのめりながら、長尾勘兵衛の冷笑する顔をまざまざと見たと思った。それはふしぎなほどあざやかな幻覚だった、かれはそのまま失神してしまったのである。
四人の部下が楯の上に与八郎を乗せて担いでいた。……重傷を
見咎められて「清洲へ帰れ」と云われたが、どうしてもかれは部署から離れなかった。岐阜を落し、赤坂へ陣を進めると、
楯輿に担がれてついて来た。ろくろく医療も受けず、殆んど自分の手療治なので、やがて
銃瘡のほうが
膿みはじめた。けれども、福島勢が垂井へ移り関ヶ原へ進むにつれて、やっぱり楯輿に乗ってついて来た。「そんなからだでどうするんだ」みんながそう云った、「……まさか楯の上から戦場けんぶつでもあるまい」それは決して誇張ではなかった、二カ所の重傷でかれは立つことができない、だからこそ楯輿に乗っているのだ、戦場へいってどうするつもりなのか誰にもわからなかった。「強情をはらずに清洲へ帰って傷の手当をしろ……」口々にそう勧めたが、かれは石のように黙ってひと言の返辞もせず、楯の上にじっとつくばい、ぎらぎらと双眸を光らせていた。
天下を両分した東西二軍が関ヶ原に
対峙すること二旬、九月十五日の未明を期してついに決戦の
火蓋は切られた。左衛門大夫正則は味方の最左翼にあり、開戦と同時に西軍の宇喜多秀家の陣へ襲いかかった。そのときである、まさかと思った神原与八郎が楯輿に乗って戦場のまっ唯中へとびだしていった、四人の部下に楯を担がせ、自分はその上につくばって、幽鬼のような相貌で敵陣をにらみながら、むにむさんに戦塵の中へ突進した。そこではすでに銃撃から槍合せに移り、雨あがりの
泥濘を踏みちらして敵味方の烈しい
迫あいが展開していた。思いきって殆んど陣頭まで
舁きこませた与八郎は、「よしここでおろせ」と楯を叩いた、そして踏みしだかれた秋草の上へ楯がおろされると「おれに構わず突っこめ」と叫んだ、四人の者は楯をとりかこんだ、「われわれはここにおります、ごいっしょに討死を致します」「ばか者……」与八郎は
拳をつきだして
罵った、「おれといっしょに死んでなんの役にたつか、これが一期の戦場だぞ、突っこめ、突っこめ……」罵りながら
片膝を立て、ぎらりと太刀を抜いて高くふりかざした。
敵陣へ向ってひっしと斬りこんでゆく四人を見おくりながら、かれは刀を脇にひきつけ、
噛みつくような眼であたりを見まわした、……とうとう此処まで来た、そう思った。此処でなら死ねるぞ、此処で死ねればもう恥かしくはないぞ。自分でも案外なほど心はしずかだった、前方およそ二十間の近さで敵味方が槍を合わせていた、緒戦ながら烈しい迫合で、脇から味方の抜刀隊が斬りこんでゆき、敵の一角が崩れたつとみる間にこんどは味方の左翼が圧迫されてゆるぎだした、押しつ返しつ、乱離たる旗、馬じるし、差物などのはためき狂うさまや、叫喚や
呶号や物具の相い撃つ響きが、ひとつになってどよみあがりわきかえっている。敵が来たら刺しちがえるつもりで、太刀を構えたままじっと戦闘のありさまを見ていた与八郎は、暫くすると
愕然たる色をうかべた、なんとも形容しようのないおどろきの色である、……かれは兵たちの戦いぶりを見たのだ、指揮者の命のままに戦っている軍兵の姿を見たのだ。槍組でも抜刀隊でも、兵たちは指揮者の手足の如く縦横に戦っていた、眼の前に
鎧武者がいる、それを討てば兜首のてがらだ。敵の一角が隙いた、そこへ突っこめば一番槍かも知れない、好機はついそこにある、功名は手のさきに転げている、だが兵たちは眼もくれなかった。進めと云えば進み退けといえば退いた。全身に闘志は
漲り、相貌は悪鬼の如く怒張している、それは戦気そのものだった。しかも「おれが」というけぶりは微塵もない、壮烈をゆくという自負もみえない、生も死もはるかに超えてひたむきに闘う魂、そのたましいだけが烈々たる火となって躍動しているのだ。
「ああ……」与八郎はわれ知らず叫んだ、するとそれに答えるかの如く、もののふの多くはその名さえとどめずに戦場の露と散っている、そう云った長尾勘兵衛の言葉が雷鳴のように大きく耳へよみがえってきた。「その名さえとどめずに……」かれはいま戦場のまっただ中にいることさえ忘れ、
屹と空をふり仰いで呟いた。「その名さえとどめずに」そうだ、そこにもののふのまさしい姿がある。武士にとって戦場へ臨むことは異常事ではない、改めて覚悟すべきことなどある筈はなかった。自分はつねづね「死にざま」ということを考えていた、いさぎよく死ぬ決意こそもののふの面目だと信じていたが、死にざまなどを考えるのは寧ろ我執である、死にざまなどはどうでもよい、功名てがらが末のことだとすれば死にざまなども末の末だ、生も死も超えてひたむきに闘う、名もとどめず戦場に
屍をさらす、そこにこそまことの面目があるのだ。「ああ……」再びそう
呻くと、かれの眼に熱涙がつきあげてきた、
胸膈がひろがり、生れてはじめて肺いっぱいに呼吸のできる気持がした。今こそ妻の心ざまもみえる、大阪へ立ったあと始末のみごとさは、それが平生のたしなみだったからである、その場に臨んで始末しなければならぬようなものはなにも無かった、どんな運命に直面してもすぐに立てる、ふだんの用意と心がまえのあらわれだったのだ。「これでよい」かれは口のうちでしっかりと呟いた。それから信じられぬほどのちからで、刀を杖に楯の上へ立ちあがった。今こそ本当に死ねる、その自覚が傷の激痛を忘れさせた、かれは震える足を踏みひらきつつ、右手の太刀をとり直した。……そのとき中央へと移りつつあった白兵戦の上へ、朝雲をつんざいて太陽がさっと光りの
箭を射かけてきた、与八郎は前へ、しずかに一歩ふみだした。