契りきぬ

山本周五郎




一の一


「また酔っちまったのかい、しようのないだねえ、お客さんはどうしたの」
「いま菊ちゃんが出てるわ、こうなっちゃだめよかあさん、このひとにはお侍はいけないって、あたしそ云ってあるじゃないの」
「お侍ばかりじゃないじゃないか、お客ってお客を振るんじゃないか、それあ今のうちはいいさ、かせぐことは稼いで呉れるんだから、こっちはまあいいけどさ、こんなこっちゃおまえ、いまにお客が黙っちゃいないよ、さんざっぱらおまわりだのちんちんだの好きなようにひきまわしておいてさ、いざとなるとみんなおあずけなんだもの、あれじゃあんまりひどいよ」
「あたしだって初めのうちはそうだったわ、ひとにもよるだろうけれど、汚れないうちはつい一日延ばしにしたいもんよ」
「このはそんな初心うぶなんじゃないね、どうして、相当しょうばいずれがしているよ、素人でこんなに酒びたりになれるもんじゃないし、しょうわるで有名な柏源かしげんさんまで手玉にとるところなんかさ――玉藻前たまものまえじゃないけれど、いまにきっと尻尾しっぽを出すからみてごらん」
 酔いつぶれたおなつはうつらうつらとそこまで聞いていた。悲しいなと思った。そうしていつものように、口のなかで母の名を呼びながら、いつか眠ってしまったらしい。――その泥のような不愉快な眠りのなかで、珍しくお屋敷の正二郎さまの夢を見た。まるまると肥ったほっぺたを赤くして竹の棒でいっしょけんめいに地面を掘っていらっしゃる。なにをしていらっしゃるのかときくと、
 ――この中にいい物があるんだよ。待っといで、いまみんなおまえにやるからね。
 こう云っているうちに、その掘った穴からどんどん水がきだした。さあ手を入れてお取りというので、水の中へ手を入れてきさぐると、一朱銀がざくざく出て来た。幾らでも出て来るのである。うれしさの余り胸がどきどきし、これでお米も買えるし母さんのお薬も買える。こう思いながら水の中からつかみだしては手桶ておけへ入れていると急に周囲で笑いごえが起った。びっくりして見まわすと、正二郎さまは影もかたちもなく、近所の悪童たちが大勢とりまいて、見ているのである。――かれらのげらげら笑いはやす声と、身の縮むような恥かしさとで思わずうめきごえをあげ、その呻きごえで眼がさめた。
 眼がさめても笑いごえはやまない。そっと頭をあげてみると、朋輩ほうばいの女たちが五人明るくした行燈のまわりで、桃を食べながら話したり笑ったりしていた。――むやみに赤い色の寝衣の、裾も胸もあらわにして白粉おしろいげた疲れたような顔に、根の崩れた髪の毛がかぶさるのも構わず、口や手指をびしょびしょにしながら桃にかぶりつき、あけすけな言葉で客のしなさだめをしては笑うのである。
 ――なんて楽しそうだろう、このひとたちにはこんな生活が、苦しくも恥かしくもないのだろうか。
 おなつはそっと寝返りをうち、雨水のしみのある壁のほうへ向いて眼をつむった。
「男ってへんなものよ、衣巻きぬまきさんの御連中さ、みんな相当なお家柄の息子さんばかりでしょ、柳町あたりでずいぶん派手に遊ぶっていうのに、それで済まなくって、三味線もろくに弾けないこんな河岸かしっぷちへ来るんだもの」
「御馳走ばかり食べてると、たまにはおこうこで茶漬が欲しくなるのさ」
「あら御馳走はこっちのほうじゃないか」
 お菊といういちばん年嵩としかさの女が云った。
「――柳町なんかは一流とかなんとかいってさ、いやにお高くとまってきれいごとな遊びしかさせやしないさ、そこへいくとあたいたちはみえも気取りもありやしない、脂の乗ったこってりしたところをそれこそ食傷するほど……」
 わあっと笑って叩いたり叫んだり、障子が音をたてるような騒ぎが起った。
 ――いいえそうじゃない、このひとたちもみんな気の毒な身の上なんだ。こんなどん底のような生活へ堕ちるまでには、悲しい辛い事情があったに違いない。ああやって楽しそうに笑っているけれど、心のなかではみんな恥かしさと苦しさに泣いているのだ。
 女たちはなおしきりに、その五人づれの侍客のうわさを続けた。かれらは衣巻なにがしという、肥った若者を中心に、いつも同じ顔ぶれでやって来る。おなつはいちどしかその座敷へ出ないが、五人とも品のいい若者で、こんなところの女だからといってみくだすふうもなく、むしろ面白そうに飲んで遊んで、ときにはかなり多額な金を置いてゆくということであった。
「でも北原ってひとだけはべつだわね」
「あのひと女嫌いなんですってよ」
「笑わしちゃいけないよ」お菊が鼻でせせら笑いをした。
「――男でいて女が嫌いなら片輪者さ、今はまあ堅そうに澄ましてるけど、むっつりなんとかって、あんなのがいちど味を覚えたらたいへんなんだから」
「じゃあお菊さんくどいたらどう」
「だめよ、お菊さん振られちゃったのよ」
「なにさ、そういうおまえだって」
 きゃあと叫びごえがあがって、また叩いたり押したりして、みだらな言葉を投げあった。――彼女たちはそれぞれで、北原精之助というその侍を、ひそかに自分の客にしようと試みたらしい。最も縹緻きりょうのわるいお銀という女まで、あたしもよと云いだしたので、みんなはまたはじけるように笑い崩れた。
「よし、こうなったら意地だわ、なんとかしてあのひとを客にしようじゃないの、もしくどきおとしたら、――そうだね、みんなで金を集めてさ、それをそのくどきおとした者にやることにしようじゃないの」
「それあいいわ、やりましょう、そういう励みがつけば腕によりをかけて」
「まあ待ってよ、励みをつけるには金だかによるわよ、いったい幾らくらい集めるの」
「なにしろうちとしちゃ極上とびきりのお客なんだから、かあさんにも乗って貰って、そうね、まあ五両ってところかしらね」
 さあしめた。それ嘘じゃないわね。すぐかあさんに話してよ。大丈夫、相手が相手だからきっとかあさんも乗るわ、それっぽっちすぐ取り返せるんだもの。じゃかあさんにみんな出させちまえ。――そんな騒ぎがしだいに遠くなり、おなつはまたいつか重苦しい眠りにひきこまれた。
 そこは五十余万石の繁華な城下町のうちで俗に『河岸っぷち』といわれ、三十七八軒の下等な娼家が集まって一かくをつくっている。すぐ側を太田川がながれているのでそう呼ばれるのだろうが、柳町、松岡町などというほかの花街の者とは区別されて、着物も髪かたちも一定の規格があり、町の子供たちなどにも、――河岸っぷちの後家ということはひと眼でみわけがつくし、すぐ悪口の種にされた。
『後家』という代名詞はほかの土地にもあるようだが、ここではずっとむかし、妻が良人おっとの死後に不倫なことをしたばあい、それが法に触れるとそこへ落されて、娼婦にされたのが起りだという。事実はどうかわからないけれども、城下町の人たち、なかでも婦人たちは今でも固くそう信じていて、そこにいる女たちを特に卑しくみていることは確かであった。……しかしふしぎなことには、そこは柳町や松岡町よりも繁昌するばかりでなく、遊び客も職人や日雇取ひようとり人足どものほかに、大きな商家の息子や武家の者などが、こういうところあ本当の遊蕩ゆうとうの味があるなどといっては、かなりしげしげかよって来た。
 おなつは、この『みよし』へ来て百日あまりになる。
 彼女はこの国の隣りにある小さな藩の足軽の子であった。ここでは太田川というその川が、おなつの故郷では荒井川といい、少し大雨が続くと氾濫はんらんして、田畑を埋め城下町まで浸してしまう。そのため河修奉行という役所があり、おなつの父と兄とはその役所に属していた。
 それがちょうど、去年の八月はじめのことであるが、雨が五日ほど降ったあとの非常な暴風雨で、領内の所々に山崩れがあり、荒井川は大洪水になって、水はお城の石垣の根にまでついた。――田畑の被害はもちろん、城下の家もかなり流されたり、倒潰とうかいしたりして五百何十人も死んだり、埋められたりし、千人を越す負傷者が出た。
 父の茂吉と兄の市之丞とは、七番洗堰あらいぜきという持場を守っていたが、洪水のため流されていっしょに死に、母とおなつとは足軽長屋にいて、潰れた家の下敷になり、おなつは無事だったけれども、母は腰と右の太腿ふとももの骨を折ってしまった。――平生ならそんなことはないのだが、領内全般にわたる大災で、父や兄の葬らいはともかく、母のことはおなつのうえに全部かかってきた。親類も知辺しるべもみな多かれ少なかれ水にやられている。……結局は金を借り、借りた金に縛られて、隣藩のこんな土地へ堕ちて来たのであるが、おなつがこっちへ来るまえ彼女のそんな犠牲にもかかわらず、母はついに死んでしまった。
 男子がいなければ藩との関係は絶える。またいずれにしてもこんなみじめな境涯に堕ちるとすれば、いっそ母には死んで貰ったほうがよかったかもしれない。
 こうなったのは自分の罪ではない。どうしてもやむを得ない事情だったのだ。けれどもこれからさきは自分の問題だ。
 おなつはこう思った。そういう世界へはいってしまえばもうおしまいだという。それが世間一般の通念である。だが自分はそう簡単にあきらめはしないと思った。好んで堕ちたのではない、ぬきさしならぬわけがあって、そのほかに手段がなくて堕ちて来たのである。だからこんどはこっちの番だと思った。――宗田むねたという家名もなくなり親もきょうだいもない、ばあいによれば命を捨ててもいいのである。おなつはそう覚悟をきめていた。

一の二


 三十七八軒ある娼家の中でも、『みよし』のおてつという女あるじは肚のひろい暢気のんきな性分で、そんな稼業によくある、女たちをむりに働かせるとか、客からあこぎに絞るなどということがなく、家も大きく部屋の数も多く、酒さかなも吟味するというふうで、「みよしは後家の極楽だ」などといわれていた。おなつにはすぐに客がついた。縹緻もよかったが、育ちが違うのでどこかひと眼をひくらしい。身分は足軽にもせよ武士は武士という誇りがあって、ある点では寧ろ身分の高い武家よりきちんと育てられた。ひかえめな性質でいて、どことなく折目のりんとした挙措、そんなところが客の好奇心をそそるようであった。
 おなつはすなおに席のとりもちをした。そのあいだに酒を飲めるだけ飲み、客と二人だけになるとわる酔いで苦しみだす、転々と部屋じゅうもがきまわったり、嘔吐おうとしたり、苦しがって泣き喚いたり、客をののしったりした。
「ひどいやつだ、あんな女は初めてだ」
 ひと晩じゅう介抱させられたうえ、罵られ乱暴をされて、こんなふうに怒って帰る客がある。もう決してあんな女には構わないと云いながら、次に来ると必ずまた彼女を呼ぶのであった。
「おい、こないだの晩のことは忘れちゃいないだろうな、ひどいめにあわせたぜ本当に」
「――ごめんなさい」
 おなつは耳まであかくなって俯向うつむく。自分に恥じているのだが、相手はもちろんそうはとらない。またそうしているうちは際立った顔だちの、ことに眼が美しく、起ち居がきびきびしていて、しかもぜんたいがしっとりとおちついている。
「なにもそんなに固くなっていることはないじゃないか、さあ一ついこう、但し今夜は介抱はごめんだぜ」
 こうして客のほうからしぜんと酒をすすめる。一杯が十杯、椀の蓋になり椀で飲みだし、食べもしないさかなや菓子を注文させ、しまいにそこらじゅうの部屋の床間から花を集めて来て、それを両手で抱いて、
「おまえだけよ、あたしの仲良しはおまえたちだけだわね」
 そんなことを云って、花の中へ顔をうずめて泣きだし、泣きながら眠ってしまう、そんなことも珍しくはなかった。
 だがもちろん、番たびそう簡単にゆくとは定らなかった。性わるとか、おんなたらしなどと云われる客は、かえって扱いよかったが、若い職人とかお店者たなものなどで、本気になってかよって来る者には困った。そういう人たちには金は遣わせられないので、こっちで金を出して酒を取り、相手をも酔いつぶし、自分もべろべろになって暴れる。……みよしのおこうさんを自分のものにしようというのなら小判の五十枚もそこへ並べてごらん。まだくちばしの黄色いおまえさんたちの相手になるおねえさんじゃないよ、顔を洗って出なおしておいで。――そして物を投げ、着物のどこかをひき裂き、大の字にぶっ倒れるのである。それでもとびかかって来はしないかと、はらはらしながら、一方ではあまりのあさましさに涙がこぼれ、口のなかで母を呼ぶのであった。
 ――いまにお客が黙っちゃいないよ。
 酔いつぶれているとき聞いたおてつの言葉は、おなつの心を突きとおした。
 ――これからが自分のたたかいだ、いざとなれば死ねばいいんだ。
 こう思ってやって来た。そうして百日あまりはともかくきりぬけて来たのであるが、そのたたかいは常に一方的であった。一夜一夜をしのぐのに、おなつは身も心もくたくたにしなければならない、しかも同じ夜が同じような夜に続くのである。
「そうだ、このままでは済まないだろう」
 おなつは口の中でつぶやいた。
「いまにこのままでは済まないときが来るだろう」
 外には梅雨のような雨が降っていた。ひるさがりのひっそりとした時刻で、湯から帰ったお菊とおそのという二人が、なにか食べながらむだ話をしていた。――おなつは雨にけぶる空を眺めた。窓さきの忍草しのぶが濡れてあざやかに葉を伸ばしている。
「七両二分だってさ、ほんとだよ」
「あらいやだ、七両二分てえば人の女房となにしたとき……まあいやだ、かあさんたら、ははははは」
「なにがいやさ、洒落しゃれてるじゃないか」
 こう云っているのはお菊であった。
「つまりこうなの、北原さんくらい堅いひとをくどきおとすとすればよ、そのひとをねとるのと同じ値打があるっていうのよ」
「そいでそれ、みんなかあさん独りで出して呉れるの」
「但し期限つきよ、これから三十日以内になにしたらっていうの、三十日までにみごとくどきおとしたら、耳をそろえて七両二分おまけに証文を巻いてやるってさ」
「まあ驚いた、証文まで巻くなんて、かあさんどうかしたのね」
「あのひとだけはだめだって云うのよ。出来っこないって、ずいぶん客を見てきて知っているけれど、女嫌いなんていうんじゃない性分なんだって、――ああいうひとはすっ裸の女の二十人の中へ寝かしたって間違いを起すきづかいはないんだって、――くやしいじゃないの、こうなったら意地ずくだってなんとかしなくちゃならないわよ」
「ほんとよ、そうなればあたしだって」
 おなつは眼をつむった。体の中に棒でも入っているような、かたい疲れの凝りが感じられる。酔いのさめきらない頭は濁って、ふいと死んでしまいたいように思ったり、死ぬくらいなら楽しめと思ったり、このごろの癖で、ともすると考えることが極端から極端へとんだ。
 ――死ぬって、……いったい誰のために死ぬのさ、この命はあたしのものじゃないか、この体もあたしの体じゃないか、……なんで死ななきゃならないのさ。
 おなつはぼんやり眼をあけた。ひさしからおちる雨滴あまだれがしきりに吊り忍草の葉を叩き、きらっと光っては下へ落ちる。
 ――このままでは済まない、いつかは、どうにもならないときが来る。……あたしはもう疲れた、もうこれ以上こんなことを続けてゆく自信がない……とすれば、死ぬか……それともいっそこっちから。……
 おなつはそう思うとたん、われ知らず言葉が口をついて出た。
「その話、あたしでもいいの、お菊姐さん」
 二人はおなつが眠っているものと信じていたのだろう、突然そう呼びかけられたのでびっくりして、おそのなどはうへえと叫んでとびあがった。
 ほかの三人が湯から帰り、おてつが用達しから戻ると、冗談から駒が出たようなかたちで、この奇妙な契約が改めておてつと女たちのあいだに取交わされた。――おなつが進んでその仲間にはいると云ったことは、女たちに一種の軽侮の気持を起させたらしい。あんなに潔癖そうに客を振り続けてきたのに、ことにお侍の客には決して出なかったのに、やっぱり慾は恐ろしい、七両二分と証文を巻かれると聞いて、今まで隠していた正体を出したのだ。そんなふうに思うようすが、互いのめまぜのなかにあらわなくらい出ていた。
 ――なんとでも思うがいい、いまにわかることさ、あたしがどんな女になるか、……そのときになってびっくりしないがいい。
 おなつは平然とそっぽを向いていた。
 さっきお菊に呼びかけたときから、ふしぎに度胸がきまっていた。百余日の生活でいつか感情が慣れていたのかもしれない。生きるためには人間はいろいろなことをする。盗んだり、人を殺傷する者さえある。いちがいに汚れた世界というけれども、あれだけ多くの客がここへ来て楽しんでゆくではないか。ここにいる女たちだって、自分の好きでやっている者もなくはないだろうが、多くの者は親兄弟か身内を生かすために稼いでいる、なかには病んでいる良人おっとや子供のある者もいるという。みんな生きるためなのだ。これが汚れた世界だとすれば、こんな世界の存在を余儀なくさせる世間もまた汚らわしい筈だ。
 ――このなかで生きてやれ、誰よりもこの世界の女らしく、みんながあっというような生きかたをしてやれ。
 おなつはこう肚をきめ、そして、それにはぜひとも北原というその人を第一の客にしようと決心したのであった。
「まあごまめの歯ぎしりだね、気の毒だけれど」おてつはこう云って笑った「――あの方だけはだめさ、あの八方やぶれにゃ手も足も出やしないよっ、どうしてどうして、おまえさんたちがしゃちょこ立をしたって」
 それから二三日して衣巻きぬまきたちが来た。
 れがたまで晴れていたのが、暗くなってまもなく雷が鳴りだし、いっとき気持のいい夕立が来た。それがあがるかと思ったのが、少し弱くなったまま地雨になり、宵を過ぎてもやむけしきがなかった。――衣巻たちはその雨の中をやって来たのである。宴会のくずれとみえ、松岡町の『八十八やそはち』という料亭の印いりの傘を持っていた。かれらが座敷へおさまってから、おなつは朋輩のなみという女をとらえ、簾戸の外までいって、どれが北原という人かときいた。
「そらあれが衣巻さん、あんた衣巻さんは知ってんでしょ、あの肥った人、その右が今村さん、ええいま扇子を持ってる人、その隣りが北原さんよ、平気な顔でにやにやしてるでしょ、いつもあのとおりなの、――あら、どうかして」
「いいえなんでもない、なんでもないわよ、わかったわ」
「あんたお座敷どうするの、出ないの」
「ええあとでゆくわ、今ちょっと」
 おなつは廊下を自分たちの部屋のほうへと戻った。心はひどく動揺していた、――ふしぎだ、たしかに似ている、正二郎さまの幼な顔にそっくりだ。部屋へはいると、おなつは崩れるようにそこへ坐り、暗い壁のひとつところを惘然もうぜんと見まもった。

一の三


 おなつはこのあいだ見た夢を思いだした。正二郎がせっせと地面を掘っている、――この中にいい物がある、みんなおまえにやると云う。水の湧きだすその穴の中から、一朱銀がざくざく出て来た。うれしさに胸がどきどきし、これでお米も買えるし母さんのお薬も買えると思った。
 おなつの生れて育った組長屋は、願成寺という寺のある丘の崖下がけしたにあり、片方がかなり広い草原になっていた。昔は馬場だったそうであるが、その草原の向うに矢竹倉と並んで、牟礼むれという珍しい姓の、重臣の大きな屋敷があった。どういう役のひとかは知らなかったが、正二郎というひとり息子がいて、高塀たかべいの裏の木戸から出て来ておなつと遊んだ。年は一つくらい上だったらしい、色白のまる顔で、いい着物を着て上品な口をきいた。
 彼はこちらを『おなつ』と呼び、おなつは彼を『正二郎さま』と呼んだ。彼には妹が一人あり、それは幼いうち亡くなったそうで、その妹の使った玩具をよく持って来て呉れた。たいてい人形遊びの道具などであるが、おなつのよろこぶのを見るのが嬉しいらしい。
 ――いまに正二郎がね、大きくなったらね、おなつに家を造ってあげるよ、お庭のある広い大きな家をね。
 とうてい実現できそうもないことを、しかつめらしく幾たびか約束したりした。だんだんに疎くはなったけれども、お互いが十か十一くらいになるまでは、こうして話したり遊んだりしたものである。――それ以後はしぜんと遠ざかり、ごくたまに道で会うようなことがあっても、こちらで恥かしくなり、顔をそむけて通るようにした。そして、おなつの父と兄をいちどに奪ったあの洪水の日、彼もまた馬で水見廻りに出ていて、五町畷という堤が切れたとき、その濁流に呑まれて死んだということである。
 夢のことなどをそんなふうに思うのはばかげているかもしれない。そして母の医薬や食う物にも困っていたときの意識、つまりおなつ自身に隠れていた意識が、そんな夢となってあらわれたものであろう。だがそれでもいい、彼女にはその夢が哀しいほど嬉しかった、あんなにたくさんお金のある場所をみつけてくれたことが、死んでからも自分のことを心配し、護っていて呉れるようで、一種の心の支えになるように思えた。
 北原精之助がそのひとに似ている。十一か十二のときの顔だちが、おとなになったらこうなるだろうと思われるほど、よく似ていた。
「――いけない、あの人だけはいけない、あの人をだましてはいけない」
 壁を見まもったままこう呟いた。
 どのくらいの時間が経ってからだろう、お菊の喚くような声でふとわれにかえった。お内所ないしょといわれる主人の部屋で、おてつに向って云っているらしい。酔って高いだみごえでやけにどなるような調子だった。
朴念仁ぼくねんじんだよ、石の地蔵か金仏だよ、なんだいあのわかぞう、ふざけちゃいけないよ」
「ここでいばったってしようがないじゃないか、ばかだね、それでまだお座敷にいるのかい」
「おれはひと足さきに帰る、うっ、てえ仰せさ、もう帰っちまったよきっと、――にやにやっと笑って、おれはひと足さきに……」
 おなつは立った。殆んど無意識に立ち、お内所へはいってゆくと、酔いつぶれているお菊には構わず、おてつの前へいって、
かあさん、あたしに三十日ひまを下さい」
 こう云っておてつの眼を見た。
「――北原さんかえ」
「あたしはおちぶれても侍の娘です。三十日だけでいいんです。信用して下さい」
 おてつもじっとこちらの眼を見た。それからうなずいて微笑した。
「ほかに要る物があるかえ」
「いいえなんにも、お願いします」
 云いながらおなつは帯を解き、肌衣と二布ふたのだけになった。そうして脇にある鏡台からはさみを取ると、手早くふつふつと元結を切り、ばらばら髪をふりさばいて立上った。
「おやおや、橘姫という拵えだね」
 おてつが不審そうにこう云ったが、おなつはひきつったような顔で会釈をし、黙って裏口から外へ、はだしのまま小走りに出ていった。
 まだかなりつよく雨が降っている。おなつは暗い路地を北へぬけ、まっしぐらに中通りを横切って、桶屋町の路地を小馬場の脇へ出た。武家町へ帰るには必ずそこを通らなければならない。いわば『河岸っぷち』への出入り口に当っているのである。――小馬場のさくに沿って、古い大きな柳の並木が茂っている、おなつはその樹蔭にはいって、はじめて息をついた。
 髪毛の地から膚まで濡れとおっていた。肌衣の袖で乱れかかる髪のしずくをかきあげ、二布だけのひざを縮めた。――頭を幾たびも強く横に振り、なにも考えまいと、唇をひきむすんだ。
「誰が相手だって構うもんか」
 頬へ垂れてくるしずくを手で拭きあげ、きらきらと光る眼で暗い宙を見あげた。
「――勝てばいいんだ勝つんだ」
 着物をぬいだのも、髪をといたのも、そうしてここまでそんな姿で走って来たのも、すべては衝動的で少しの根拠もない。ただそうするほかに手段がないという、漠然とした直覚に応じただけである。
 ――いけない、そんなことはいけない。お帰り、そのまま帰るんだよおなつ
 ときおり風がくると、垂れた柳の枝が揺れて、ばらばらとしずくが降りかかった。そのしずくの音のなかから、そう呼びかけるこえが聞えるようである。
 ――そんな恰好で、どうしようというの、お帰り、おなつ、帰るんだよ。
 おなつは身ぶるいをした。ともすると心がくじけ、そのままつい駈け戻りそうになる。寒いのだろうか、とりはだがたち、歯がかちかち触れ合うほど体がふるえた。――そのとき彼が来たのである。ゆっくりした歩きぶりで、印いりの傘をさして、……彼だということはすぐにわかった。おなつは息をつめ、自分の前を通ってゆく彼の姿をじっと見まもった。
 ――いけない、おやめなさい。
 こういう声を聞いたように思い、その声につきとばされたかの如く、おなつは樹蔭から出ると走りだした。はだしの足がなにかを踏み、鋭どい痛みでああと叫んだ。しかしそのまま走ってゆき、彼の傘の中へとびこむようにして、いきなりすがりついた。
「どうぞお助け下さい、追われております」
 彼はというような声をあげ、身をひきながら後ろへ振返った。おなつはぴったりと寄り添い、息をあえがせ、全身をわなわなとふるわせた。
「大丈夫だ、追って来る者はないようだ」
「どうぞ早く、ここからおれ下さいまし、大勢で必ず追ってまいります、捉えられましたら、わたくし死んでしまいます」
「家まで送ってあげよう、どこです」
「は、あのずっと、遠国でございます」
 おなつは声までおののいていた。
「――ここにはしるべもございません。わけがあって、騙されまして、ああもう、どう致していいか……」
「これを肩へ掛けておいでなさい」
 彼はの夏羽折をぬぎ、それをおなつの背にかけてやった。それから小さな体ぜんたいを、自分と傘とでかばい隠すようにしてなにごともなかったふうな足どりで歩きだした。
「ともかく私の家までゆくことにしましょう、黙っておいでなさい、ああこれは、――はだしですね、その足どうかしたんですか」
「夢中でとびだしまして、途中でなにか踏んだらしゅうございますの」
「それは辛いでしょう。――履物屋も閉めてしまったろうし、かごでは追手にてがかりがつくだろうし、負ってゆくわけにもいかないし」
「わたくし大丈夫でございます」
 おなつは痛むのをがまんして、男のゆっくりした大股おおまたに小走りでついていった。
 北原精之助の住居は上条という処にあった。三の曲輪くるわへゆく乾門の通りから北へはいり、屋敷町のいちばん端に当っている――表からはいると、塀に沿ってすぐ右に、侍長屋のような建物がある。彼はその戸口を叩いて「仁兵衛、仁兵衛」と呼んだ、そうして灯を持って老人があらわれると、
「この人に湯をつかわせて、なにか着る物を出してあげて呉れ、足を痛めているらしい、薬をつけて、それから、――なにか事情があるようだから、よく聞いたうえで世話をしてやって呉れ」
 こう云って自分は向うへ去った。
 そこは仁兵衛という下僕の小屋でかねという老妻とふたりで住まっていた。仁兵衛は五十六七、妻女もおつかっつであろう、二人ですぐに湯を沸し、行水をつかわせ、妻女の若いころ使ったという、肌のものから、帷子かたびらの帯などを出して着せて呉れた。
「ああこれは釘を踏みぬいたのだ。びていたんでなければいいが、とにかく、――かね、来てちょっと手を貸さないか、少し血を出しておくほうがいいかもしれぬ」
 おなつはされるままになっていた。そしてこのあいだに、問われたとき、答える話の筋みちを、念をいれてしっかりとあたまにたたみこんだ。すっかり終ると、妻女のれて呉れた茶をひとくち啜り、両手を膝に置いて、ぽつりぽつり身の上話をした。
「家はごく軽い侍でございました。藩の名はおゆるし下さいまし、――家族は父母と兄、わたくしの四人でございました」
 洪水を思わぬ災厄というふうにぼかし、父と兄をいちどにとられたこと、母は重病になって、その療治のために金を借りたこと、母が亡くなったあと、借りた金に縛られてこの土地へ伴れて来られたこと、そうして素性のいかがわしい男と結婚させられることを知り、いっそ死ぬつもりでとびだしたこと、――およそそういうぐあいに、嘘と事実とをとりまぜて語った。おなつがとぎれとぎれに話すあいだ、外には依然しずかな雨の音がしていた。

二の一


 仁兵衛がいってそのとおり事情を話したらしい、半刻はんときほどすると母屋のほうへ移され伊代いよという老女にひきとられて、その夜はせんじ薬などのまされて寝た。
 伊代という人は精之助の乳母だったが、そのまま現在まで住みつき、今では家政のたばねをしているということだった。五十二三になる肥えた体つきで、おっとりしているが感じ易い気性とみえ、明くる日おなつから詳しく身の上を聞きながら、しきりに涙をこぼした。
「そんなふうでは帰ってゆく親類もないでしょうね、そんな金をお借りなさるようではねえ、本当になんということでしょう」
 そして涙を拭いては頷ずいた。
「ようございます、こうなるのもなにかの御縁でしょう、あたしから旦那さまにお願いして、どうにか身のふりかたを考えていただきましょう、なにか御思案があるでしょうから」
 しかしそのときもう伊代の気持は定っていたらしい、精之助の意見で、暫くこの家で面倒をみる、そのあいだ伊代のてつだいのつもりで働いて貰いたい、そういうことだった。そして伊代の居間の隣りに部屋をきめ、まにあわせだといって、着物や帯や髪道具などまで、ひと揃え出して呉れた。
「誰か若いひとが欲しいと思っていたのだけれど、旦那さまが――まだ御結婚まえだからでしょうか――それは困ると仰しゃるので、これまで不自由をがまんしてきたんですよ。おかげであたしも少し気が楽になれます」
 伊代はこう云ったが、しかしそれとなくおなつの起居動作に眼をくばっているようすだった。
 精之助はそのとき二十六であった。生母は体の弱かったひとで、彼を産むとすぐに寝つき、ようやく治って起きたと思うと、すぐにまた病むというぐあいで、彼が七つの年にとうとう亡くなってしまった。父は庄左衛門といって、身分は大寄合、松倉という者と交代で納戸奉行を勤めるのが世襲の役になっていた。――妻をひじょうに愛していて、病中の看護ぶりはひとに真似のできないものであった。ひまさえあれば病間へいって、花を飾り香を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)き、なにか軽口を云っては妻を笑わせ、またしばしば音曲の巧者を招いて、ふすまをはらったこちらの座敷で演奏させ、自分は妻の枕許まくらもとで、さも楽しそうに酒を飲んだ。
 妻の死がどんなにこたえたか、はたの者にはわからなかった。庄左衛門は一滴の涙もみせなかったが、しかしそれ以来ずっと独身でとおし、五年まえ、四十七歳で死んだ。――精之助はすぐ家督を継いだが、その年から納戸奉行は松倉に交代したので、現在では無役のまま暢気のんきに暮している。広い屋敷にはいま彼と伊代、父の代からいる時山中弥ときやまちゅうやという老武士、若い下僕二人に仁兵衛夫妻だけしかいなかった。
 伊代の眼がいつも自分のようすを見ていることは、おなつはよく知っていた。しかしそれは監視するというのではなく、使ってゆけるかどうかをためす意味のようだった。茶をたてさせてみたり、台所で煮物をさせたり、小さな買物の帳面をつけさせたり、さりげなく古い文反故ふみほごを読ませたりした。
「よほどおしつけが厳しかったとみえるのね。お年のわりにしては少しできすぎるくらいなさるわ」
 伊代はそんなふうに云い、また近在にある自分の実家の弟にやるのだといって、手紙の代筆なども書かせたりした。
 精之助は大寄合という席だけで、臨時の会合でもない限り月にいちど登城すればよかった。たいてい家にいるが、いつも友達が訪ねてくるし、三日めくらいには誘われて外出し、夜おそく帰ることも珍しくなかった。――友達には碁将棋とか謡などに凝っている者があって、彼もすすめられていちおうはやってみたという。だがどれひとつとしてものにならなかった。
「碁は目の数が多すぎて、頭がちらくらするっておっしゃるんですよ」伊代が笑いながらそんな話をした。「――将棋ではもっと面白いことがありました。衣巻きぬまきさんというお友達が、この方もぶきよう組だそうですけれどね、お二人で同じじぶん将棋をお始めなすったんでしょう、いつか猿山という湯治場へいらしって、退屈だから将棋をしようということになったのですって」
 猿山というのはこの城下から北に当る。太田川の支流の浅井川というのを三里ばかりさかのぼった、谷あいにある温泉場で、胃腸によく効くといわれ、まわりが紅葉の名所であるのも加えて、かなり遠くからも湯治客が絶えず、宿も三十軒ばかりあって繁昌していた。『みよし』の女あるじの、慥か叔母かなにかに当るひとが、その猿山のかなり大きな温泉宿ののちぞえにいっていて、秋になると遊びにゆくのだということをおてつが云っていた。
 ――十月になると山鳥だのつぐみだのがうんとこさ獲れるんだよ、そのまた美味うまいったら、……三度三度、あたしゃ幾日食べても飽きないね。
 そんな話もたびたび聞かされたものだ。
「するとその宿の主人が」伊代は可笑おかしそうに続けた、「――大事な客だと思っていたのでしょうね、自分で盤だの駒だのなんぞ運んで来て、ひとつ拝見を、……って側へ坐ったのですと」
 二人はまだ覚えたばかりで、ひとに見られるのは迷惑だった。しかし主人は動くようすがないので、しかたなしにともかくも駒を並べた。さて並べ終ってみると、互いの飛車と角が同一の筋にある。
 ――おい北原、おまえ飛車と角があべこべじゃないか、角がこっちだろう。
 衣巻が確信のない口ぶりでこう云った。精之助もそう云われると困った、自分は正しく並べたつもりである、が、そう云えばそうのようにも思えた。
 ――いや角は慥か、……こっちだろう。
 ――そうかな、おれはそうは思えないがね。
 なんとも醜態である。なんともひっこみのつかない感じで、衣巻が、側にいる宿の主人にきいてみた。角と飛車はどう並べるべきか、二人のどちらが正しいか、――こうきいてみた。すると主人はうなって、首をかしげて、もういちど唸って、
 ――さて、私もそこまでは存じません。
 こう云ったということである。
そこまでは知らないといって、なつさん駒の並べかたにそこもなにもないじゃありませんか、あたし可笑しくって可笑しくって……」
 謡はそのころまだ続けていた。五日にいちどずつ師匠が稽古をつけに来る。そういう日は師匠が帰ってからも、独りでよく復習しているが、それはそういうものを聞く耳をもたないおなつにも、きわめてけげんはがゆいものに思われた。――初めて彼の居間へ茶を淹れにいったときのことであるが、こちらで湯をさまし、茶を淹れていると、彼はその謡の復習をしていた。なにを謡っているのかおなつにはわからない、なにしろまのびのした調子で、声はよろよろしたり、戸惑ったり、とぎれたりもつれたりする、どうにもがまんできなかった。いそいでたもとで口を押えたがまにあわず、ついくくとふきだしてしまった。
「――どうしたんだ、ああ、おれの謡か」
 精之助はこう云って苦笑いをした。
「ごめんあそばせ、たいへん失礼いたしました」
「なに、自分でも可笑しいんだ」
 そうしててれたようにあごでた。
 七日めごろから伊代に云われて、精之助の世話をするようになった。茶や食事の給仕、外出や帰宅のときの着替え、そして友達が来たときの接待――なかには伊代でなければならない事もあるが、たいていはおなつが用を達した。ことに友人たちが集まると、その人たちのほうでおなつを放さなくなった。
なつさんこのあいだの鯉こくは残っていませんかね」
 衣巻は初めのうちはそんなふうに云ってよくおなつをまごつかせた。
「まあ、いくらなんでもそんなに、いつまでとってはおけませんですわ」
「それは残念、ではひとつ作って下さい」
 つまりそれが彼のねだり方なのであった。
 もっともよく訪ねて来るのは、衣巻大学と津田吉兵衛、河野又三郎の三人である。そのほかにも、大槻、渡、鎌田などといって、顔触れは殆んど定っていた。おそらく『みよし』などへ来たのはこの仲間であろう。しかしおなつは武家の座敷には出なかったし、かれらの席へもたったいちど、それもごく僅かな時間しか出なかったので、おぼろげに衣巻の顔を覚えているほかは、誰ひとり記憶に残ってはいなかった。
 精之助をはじめ、客の人たちはみんな、一種の尊敬といたわりの態度でおなつに接した。この家の娘という感じでもなく、もちろん召使いに対する扱いでは決してない。衣巻などはずいぶん遠慮のないほうだが、それでもひと筋はっきりと隔てがあり礼儀を崩すようなことは少しもなかった。
 身のまわりの世話をし始めてから、はっきりおなつにわかったことであるが、精之助のどこも正二郎に似てはいなかった。あの夜、廊下から簾戸越しに見たときは、正二郎さまの幼な顔に生き写しのようだった。あまりに似ているので息苦しくなったほどびっくりしたが、側で暮すようになって、おちついて見るとまるで違う。ふと微笑するときなどに、共通するおもざしが幾らかあるかもしれないけれど、それでさえ似ているというほどのものではなかった。
 ――どうしてあのときあのように見えたのだろう、まるで正二郎さまそっくりに見えたと思ったのに、……これが気の迷いというものかしらん。
 しかしそれで却って気持は軽くなった。心のなかで大切にしてきたひとと、おもかげがそれほど似ているとしたら、決心したことをやりとげることはできなかったかもしれない。今はそんなたじろぎはなかった。おなつは、寧ろ自分で自分をしかけながら、その機会の来るのを待った。

二の二


 機会は一つしかない。友達とどこかで会合して、夜おそく酔って帰る、それがもっともよい機会である。おなつはすぐにそうみてとった。ときにはずっと更けて帰ることもあるし、そんなときには伊代に代って寝所の世話もするから、ごく自然に事がはこびそうであった。
 けれどもおなつは決していそがなかった。伊代から貰ったじみな着物や帯を、さらに出来るだけじみに着、伊代がすすめる化粧もせず、髪なども眼立たない古風な結いかたをした。
「どうしてそんなふうになさるの、若いひとは貴女だけなのだから、少しは家のなかが華やぐように、娘らしい身じまいをなさいな」
 伊代はこう云って、ときどき自分で髪をあげて呉れたりした。また自分の若いとき使った着物や、派手な下着や肌の物など、幾品となく出して来て呉れたし、借りてある専用の鏡台には、白粉おしろいや口紅や香油なども揃えて呉れた。しかしおなつはどうしても派手にはつくらない、せっかく結って貰った髪も、すぐ元のように自分でなおしてしまった。
「こう致しませんと、なんですか気持がおちつきませんの」
「それではまるでお婆さんのようではないの」
「でもわたくしにはこれがいちばんしっくり致しますわ、生れつきでございますね」
 こう云ってすがすがしく微笑するのであった。
 だがおなつは知っていた、そういうじみすぎるほどじみつくりが、どんなに飾るよりも自分の美しさを際立たせ、どのように男たちの注意をひきつけるかということを――彼女の体つきは小柄であるし、着物を着ると痩せてみえるが、じっさいは柔軟な好ましいにくづきで、手足のさきのすんなりと小さいわりに、腰や太腿は張のある豊かな緊張をもっていた。……成熟しきっている若さと、あふれるようなつややかさは、着付や髪かたちが、じみでくすんでいるほど逆に魅力をつよめるものだ。
 ――美しいものはあらわすよりも、隠すほうがさらに美しくみえる。
 おなつは『みよし』での生活で、現実的な技巧としてもそれを知った。そうして、それが誤まっていないことを、まず衣巻や津田や河野たち、ひっくるめてこの家へ来る若い客たちみんなの、自分に対する言葉やまなざしではっきりと慥かめた。
 精之助はどうだろうか、彼女にはよくわからなかった。彼が自分にひきつけられていると思うときもあるし、まるっきり無関心であるようにみえるときもあった。――誰も客がなく、さし向いで精之助に酒の酌をしたことがある、夕餉ゆうげのずっとあとで、珍しく寝るまえの酒だった。
「この家におちついていられそうか、べつに辛いようなことはないか」
 黙って飲んでいた彼がふとこう云った。それから口がほぐれたように、ぽつりぽつりと静かに話をしたが、
「あのときの足の傷はもういいのか」
 とつぜんそんなことを云いだしたり、また急に叔父というひとのことをもちだしたりした。
三枝さえぐさという家へ養子にいったひとでね、父の弟に当るんだが、近いうちに来るそうだから接待を頼むよ、――酒好きでべつにむずかしいことはないんだ、肴に註文があるけれども、それは伊代が知っているからね……叔母もいっしょに来るかもしれない、母が亡くなってからはね、この叔母と伊代が母親代りだったんだよ」
 それから友人たちの話をし、こんどは自分の少年時代のことを語った。しいて話題を捜すというふうでもない、おちついた静かな調子なのに、話はなんの連絡もなくこっちからあっちへとび、いろいろな断片を順序もなく並べてみせる感じだった。
 ――酔っていらっしゃる。
 おなつはこう思った。いつもより、量を多く飲んでいるし、話しぶりとは反対に、絶えず身じろぎをし、常とは違ったまなざしで、ときおり燃えるようにこちらをみつめた。
「少し過したな、もう寝よう」
 こう云って立ったとき、彼がよろめいたので、おなつは反射的に手で支えた。彼はその手を押えた。力のこもった、火のように熱い手であった。しかしそれはほんの僅かな接触で、彼はその手を放してすぐに立ちなおり、
「大丈夫、なんでもない、大丈夫」
 こう云って廊下へ出ていった。――そのとき彼を寝所へおくってから、おなつは手早く髪をとき、派手な色の下着に替え、顔へうすく化粧をした。そうして忘れていたように装おって、水と湯呑を載せた盆を持ち、そっと寝所へはいっていった。
 動悸どうきがひどく高く、膝のあたりが震えた。彼は暗くしてある行燈の、仄かな光のなかで、暴く呼吸しながら仰臥ぎょうがしていた。
「ごめんあそばせ、おひやを忘れまして」
 こう云いながら、おなつは枕近くへ寄って、静かに盆を置いた。精之助は眼をあいた。そして一瞬、燃えるようなまなざしでじっとこちらの顔を見た。――今にも彼の手が延びて来そうだった。おなつは息が詰った。
「――有難う、おれも気がつかなかった」
 精之助はのどになにかつかえたような声でそう云い、そのまま眼をつむった。おなつは緊張から解かれ、失望と安堵あんどとのいりまじった、痛痒いたがゆいような気持でそっとひきさがった、そして障子を閉めようとしたとき、
「――なつ
 という低い声をうしろに聞いた。おなつは閉めかけた障子の手を止めて、そっと振返った。
「はい、お呼びでございますか」
 彼は元の姿勢のまま眼をつむっていた。

三の一


 なつと呼んだ精之助の声には、明らかに衝動の火がこもっていた。抑えかねた情熱のひびきが、じかにこちらへ糸を引くように感じられた。――おなつは膝をついたまま振返り、それが予期した瞬間であることを直感して不安とこびとのいりまじった、無意識のしなをつくりながら眼をあげた。
「――お呼びでございますか」
 精之助は元の姿勢のままだった。枕の上に仰向けに寝て、じっと眼をつむったまま――そうして、やがて静かに云った。
「いや、なんでもない、もういい」
 冷やかな、そっけない声であった。なつと呼びかけた声とはまるでうらはらな、とりつくしまのない、つき放すような調子である。……おなつは辱しめられた者のように赤くなり、挨拶の言葉も云うことができず、逃げるように障子を閉めて去った。
 ――あの方は自分にひかれているのだろうか、それともまるで関心をもっていないのだろうか。
 おなつにはどうしても、その判断がつかないうちに、日が経っていった。精之助の話した叔父に当る人とその妻女が訪ねて来たのは、そんなことがあってから三日ばかりのちのことである。三枝内記さえぐさないきという人は四十五六、妻女は一つ二つ下であろう、どちらも肥えているし、どちらも解放的な性分らしく、来るとすぐからおなつに親しく呼びかけ、もうながい知り合いかなんぞのように話したり笑ったりした。
「わたくしたいへんな汗かきなんですよ、それだもんでいつも御馳走になったあとでお風呂を頂くの、可笑しいでしょ、なつさんでもほかのおよばれはできないわね」
 妻女はこう云って、汗になった衿元などを見せるようなじかな親しさを示した。
「わたくしあとでおながし申します」
「それよりいっしょにはいりましょう、いいでしょう精之助さん、あとでなつさんをお借りしてよ」
「若くなるつもりでいるんだ」
 内記が酔って赤くなった顔でこう笑った。
「若い者といっしょに風呂へはいると肌が若くなるんだそうだ、誰かに聞いたもんだから、早速ためすつもりさ、あの年になってまだそんな妄執もうしゅうがあるんだから」
「女なんておろかな者だ、でしょう」妻女は巧みに良人の言葉の先をとった「――はいわかりました、そこでつかぬことをお伺い申しますけれど、御自分がこのあいだ隠れて白髪を抜いていらしったのはどういう妄執でございますか」
「はあ、叔父さんもう白髪があるんですか」
「ばかを云え、なにをつまらんことを、白髪などというものは見たこともない」
「ええ、禿げるたちでございますの」
 ばかばかしい会話であるが、あけっ放しで意気の合った、なごやかな夫婦の情がよくうかがわれ、伊代までが声をあげて笑った。
 食事の済んだあと暫く休んでから、妻女は本当におなつといっしょに風呂へはいった。幾たびも辞退したのであるが、伊代まで側についてすすめるので、ついに断わりきれなくなり、思いきって云われるとおりにした。――風呂へはいってまもなく妻女がそれとなく自分の肢体を眺めるのにおなつは気がついた。それは単純な視線ではない、なにかしらさぐるような、ためすようなものが直感された。
「さあ、こんどはわたくしがながしてあげましょう」
「いいえそんな勿体もったいのうございますから」
「遠慮はいりませんよ、さあいらっしゃい、いいからそちらへお向きなさいな」
 半ば無理やりに背へまわった。
「あなたはお体もいいし、お肌もきめがこまかくてお美しいのね、病気なんぞなすったことはないでしょ、――ほら、こんなにすべすべして、かたちよく緊っていて、……にくらしいようね」
 どういうわけであろう、そのとき急におなつのどが詰り、激しくこみあげてくる嗚咽おえつを止めることができなかった。
「おやどうなすって、あなた泣いていらっしゃるの」
 三枝夫人はびっくりしたのだろう、手を放してこちらをのぞいた。その声でおなつは自分のとつぜんな感動の意味がわかった。――彼女は恥かしさのあまり両手で顔を押え、なお啜りあげながらきれぎれに答えた。
「おゆるし下さいまし、わたくし、こんなにして頂くのは、初めてでございますの――あんまりうれしゅうございまして……」
「ああそうだったの」妻女は明らかに心うたれたようすだった。けれどもすぐ明るい調子にかえり、わざと手荒く背をながした。
「こんなことで喜んで貰えるならいいわね、うちの娘に頂いてゆこうかしら、ねえなつさん、あなたわたくしたちの娘になる気はなくって」
「勿体ないことをおっしゃいます、どうぞもう、お願いでございますから」
 おなつは相手の気持がよくわからず、そのうえ泣いたりした恥かしさで、風呂を出るまで三枝夫人の顔が見られなかった。
 ――その夜、夫婦が帰って、いつもより早く寝間へさがってから、おなつはなかなか眠ることができず、いつまでもいつまでもまじまじともの思いにふけっていた。

三の二


 風呂で自分の体をためすように見た、あの妻女のまなざしはなんの意味だったろう。いきなりうちの娘になれなどと云ったがそれには何かわけがあったのか、それともこちらをからかっただけだろうか。
 ――少しも悪意は感じられなかった。からかっわらうようなふうはみえなかった。……でもそれならあの眼はなんだろう。あの言葉はどういうつもりだったのだろう。
 ずっと更けるまで、おなつは堂々めぐりをするように、同じことをいつまでも考え続けていた。約束の日は迫って来た。
 三十日という期限が、五日となり四日と迫ってゆく。おなつはあせりだした、そして気持がせいてくるにしたがって、しだいに自信がなくなり、不安な、怖れのような感情が大きくなった。――『みよし』の女あるじの云ったことは本当だ、あのひとはほかのひととはまるで違う、自分などには及びもつかないことだ。こういう考えがだんだん重く胸をふさぐのである。だが一方ではそれに反撥する気持もつよくなった。
 ――いやそんなことはない、友達づきあいとはいえ、『みよし』などへ遊びに来るからには、まったく興味がないわけではなかろう……まだ初心なので、自分から機会をつかむことができないだけだ。
 ――そうだ、こっちを見る眼つきの、ときに燃えるような激しさは、慥かに心ひかれている証拠だ、こっちからとびこんでゆけばいいのだ。
 今夜こそ思いきって、そんなふうに自分を唆しかけ、そのときは眼をつぶってもと思うのだが、そのあとではきまって決心がゆらぎ、どうしても臆してしまうのであった。――もういけない、やっぱりごまめの歯ぎしりだった。いよいよ期限が明日という日になって、おなつはついにこうあきらめた。
 季節はとうに秋になっていたが、その日は初めて秋らしい静かな雨が降っていた。
 午後になると衣巻たち五人が訪ねて来、すぐに小酒宴が始まった。河野又三郎は、『鼻たか』というあだ名があり、それはじっさいにも鼻が高いけれど、それよりも多芸多能で、碁将棋とか謡とか魚釣りとか歌や俳諧などにまで手を出し、それをみないちおう素人ばなれのするくらいこなすので、御当人はいつも鼻たかだかだ、と、いう意味のほうがつよいらしい。――酔ってくるとその自慢ばなしで、巧みに話題をさらうのであるが、邪気がないのと話が面白いのとで、みんなは却っていいさかなにしているようにみえた。
 けれどもその日は鼻たかさんはいつものようではなかった。河野ばかりではなく、ほかの人たちも常とは違って、なごやかにおちついて話すというぐあいだった。おなつに対してもいつもほどれたふうは見せず、衣巻などでさえ妙に隔てのある口をきいた。
 ――この方たちとももうお別れなんだ。
 おなつはこう思って、なつかしいような名残り惜しいような気で、できるだけぜんの上を豊かにし、こまめに酌をしてまわった。
「さあ、そろそろ席を替えるかな」
 れがたになると衣巻がそう云った。おなつはひきとめたかった。明日になればこの家を出なければならない、この家を出れば『みよし』にもいられなくなる。この人たちに見知られてしまったのだから、どこかよその土地へ住み替えをしなければならない。今日が最後なのだ、もっともっと接待をしたいし、みんなのなごやかな話を悠り聞いていたかった。――どうぞもう暫く。そう口まで出たけれども、この家における彼女の立場としては、そんなにくどくひきとめるわけにもゆかず、心のなかでそっと、一人一人に別れを告げながら送りだした。
「たぶん帰りはおそくなるだろう、待っているには及ばないから、さきに寝ているがいい」
 出てゆくとき精之助はこう云った。
 伊代と食事をして、あと片づけが済むとおなつは自分の部屋へはいって、持ち物の始末をした。ひと月のあいだに、貰ったり借りたりして、ひととおり不自由をしないくらいの物が揃っていた。――しかしおなつはすべてを置いてゆくつもりだった、これは遣るとはっきり云われた物も、持ってゆく気持にはなれなかった。なにもかも置いて、初めてこの家へ来たときの姿で、誰にも知れないように出てゆこうと思った。
 ――伊代さんにだけでも手紙を書いておこうか、あんなにお世話になったのだから。
 こう考えて机に向ったが、事実を書くには忍びないし、これ以上ひとを偽るのもいやだし、結局は筆を投げてしまった。
 ――十時の鐘を聞いてまもなく、おなつは寝た。今夜きりだから起きていて世話をしたいが、そうすると却ってみれんが出そうに思えた。
 ――このままがいい。このまま会わないほうがいい。灯を暗くして眼をつむった。雨はまだ降っていた。やや肌寒いくらいの夜で、しみいるような雨の音のなかに、絶え絶えの、かぼそい哀れなこえで、こおろぎの鳴いているのが聞えた。客の接待で疲れたのだろうか、なにも思うまいと心をおちつけ、かたく眼をつむっているうちに案外はやく眠ったらしい、――なにか夢をみていて、誰かに呼ばれているのだが、なかなか眼がさめなかった。
「――なつ、……なつ
 こうはっきりと声が聞え、びっくりして眼をあいた。するとついそこに精之助が立ってこちらを見ていた。――おなつは本能的に夜具で胸を押えながら、それでもすばやく起きなおった。
「済まないが酒のしたくをして来て呉れ」
 精之助はそう云ってすぐに去った。
 おなつの心のなかを閃光せんこうのようになにかがはしった。なんであるかはもちろんわからない。一瞬の光に似たものがさっと心をかすめ、われ知らず身がふるえた。立って着物を着るあいだも、動悸が激しくち、手足が自由にならないような感じだった。――まるでなにかにおびえているようだ、どうしてこんなに身の竦むような気持がするのだろうか。そんなふうに自分で不審なほどおろおろしていた。……むろん火もいけてあるし、鉄瓶てつびんの湯もまだ熱かった。手早くかんをし、皿小鉢をそろえて、伊代を起さないように、そっと廊下へ出ていった。
 居間へゆくと精之助の姿がみえなかった。どうしたのかと思っていると、隣りの仏間のふすまがあいていて、そこから彼の声が聞えた。
「有難う、いますぐゆくから」
 そうしてすぐに彼は出て来た。すでに寝衣になっていて、こっちへ来て坐ると、
「寝ているところを済まなかった。少し相手をして貰いたいんだが」
「こんな見ぐるしい恰好でございまして」
「それで結構だよ。そのほうがいい、飾らないほうがよほど美しいよ」
 彼はこう云ってまぶしそうな眼をした。
「ひとつ受けないか」
 暫くすると彼はふいに盃を出した。
 こんなことは初めてである。辞退しようと思ったが、もう別れるのだと気づき、静かに膝をすすめてそれを受けた。
「よく降る、――しずかな雨だ、……これですっかり秋らしくなるだろう」
 彼は眼をつむり、戸外の雨を聞くようにいっときしんとした。そうして、眼をつむったまま、囁くように「なつ――」と呼び、片方の手をこちらへさし伸ばした。おなつはもうひと膝すすんで、その手へ盃を返した。すると、その彼は盃ごとおなつの手を握り、自分も身を起すようにしてひき寄せた。
 おなつは眼がくらむように思った。手を握られ、つよい力でひき寄せられたとき、相手をつきのけ、叫ぼうとした。本当につきのけ、叫んだかもしれない、だが逆になんにもしなかったかもわからない、一瞬に全身の力がぬけ、感覚が自分のものでなくなった。くらくらと眼が見えなくなり耳の中できみのわるいほど血の騒ぐ音がした。――ふしぎなことには、仏間の襖が少しあいていて、そこから仄かな光がもれるのを覚えているし、また伊代が起きて来はしまいかと、気がかりだったことも記憶にある。……しかしそのほかのことはみんな夢中だった。きらきらと多彩な光の舞う、深い谷底へ、頭のほうからうしろざまに落ちるような、混沌こんとんとした異様な感覚のなかで、おなつは殆ど気を喪っていた。

四の一


 夜明けが近いのだろう、気温がにわかに下ったようで、幾らかき合せても衿元が寒く、ふとすると激しく身がふるえた。
 体のなかは燃えるようだ。頭も火のように熱い、それでいてふるえるほど寒い。おなつは手指を額で温めながら手紙を書き終り封をすると、追われるような気持で立ちあがった――。そうして裏木戸からぬけ出すつもりで、障子をそっとあけるなり、ああと叫んでうしろへよろめいた。そこに精之助がいたのである、寝衣のままでしんと立ってこちらを見ていた。
「――そこにあるのは置き手紙だね」
 彼はこう云って小机の上を見やった。
「――焼いておしまい、もう不必要だよ」
 おなつは息が詰るように思った。舌が硬ばってなにも云うことができず、ただ相手の眼を見つめたまま立竦んでいた。精之助は微笑し、頷きながら、いたわるように云った。
「話すことがある、こっちへおいで」
 おなつは意志を失った者のように、頭を垂れてついていった。精之助は居間へはいり、そこへお坐りと云って、自分の机からなにか取って来た。そうしてさし向いになると、持って来た紙をそこへ出して、やはり静かに微笑しながら云った。
「もうあの家へ帰る必要はないんだ。あっちのほうはおれがきれいにしてある。それを見て、見たらそれも焼いてしまうがいい」
 おなつにはその言葉の意味がすぐにはわからなかった。そして、彼に促されてその紙を取って見て、それが『みよし』における自分の年季証文であることを知ると、さっとあおくなり、思わず叫びごえをあげた。
「わかったね、なつ――説明は要らないだろう、あの女あるじはおまえが失踪しっそうしたものと信じている、衣巻たちもおまえがあの家にいたことは知らない……これまでのことはすべて終ったんだ、これからなつの新しい日が始まるんだ、わかるだろう」
「――いいえ、いいえわたくし」
「いやなにも云うことはない、二人のあいだにはもう言葉などは要らないんだ、――なつこっちへ来てごらん」精之助はこう云って立った。そうしておなつを仏間へみちびいていき、そこの仏壇の脇に掛けてある二幅の画像をみせた。――経机の上に蝋燭ろうそくが短くなって、却って明るくほのおを立てていた。画像の一は侍、一は婦人である。麻裃あさがみしもを着た男のほうは三十四五にみえるが、婦人はずっと若く、娘のようなういういしい面ざしをしていた。
「父と母だ」精之助は心のこもった声で云った。「今夜の為にこれを飾って置いたんだ……子供らしいと思うかもしれないが、お二人にも喜んで貰いたかったんだよ」
 なつは固く身を縮め、蒼白く硬ばった顔で、じっと婦人の画像を見まもっていた。精之助は側を離れながら、ささやくように云った。
「おまえのしゅうとしゅうとめだ、挨拶をして、済んだらいってやすむがいい、――なにも考えることはないからね、なにもかもおれに任せて安心しておやすみ、わかったね」
 そうして彼は出ていった。
 おなつは彼が去るとまもなく北原の家をぬけ出した。東の空が仄かに白んでいるくらいで、街はまだ暗く眠っていた、――しきりに降る雨のなかを、頭から濡れて、はだしで、ただ北へと走った。城下町を出はずれたのも、八丁堤といわれる畷道なわてみちを通ったのも、なかば夢中であった、……そうしてやがて、浅井川の岸に立って、早瀬の暗い水を眺めている自分に気づき、とつぜん眼のさめたような気持で、濡れた草の上へくたくたと崩れるように坐った。
 ――堪忍して下さいまし、どうぞ堪忍して下さいまし。
 頭のなかで誰かほかの人間がつぶやいているように、絶えず同じことを繰り返すのが聞えた。
 ――なつが悪うございました、どうぞ堪忍して下さいまし。
 あとで考えると、まっすぐにそこへいったのは死ぬつもりだったかもしれない。そして、もしそのときその人が通りかからなかったら、本当に死んだかもしれないと思う。――その人は越前の絹物商だそうで、国へ帰るため城下の宿を早く立って来た。そこへ来かかったときまだ供の者は提灯ちょうちんを持っていたが、川岸の草の中に坐っているおなつをみつけ、はじめは狂人かと思ったそうである。
 おなつは意識なしに云ったらしいが、自分は猿山の湯治場の者で、町から帰る途中悪者に遭って着ていた物をがれた。そんなふうに云ったのである。――猿山という地名が口に出たのは『みよし』の女あるじからよく話を聞いていたのと、その話に聞いた宿へゆけばなんとかなるという、漠然とした考えに、支配されたからのようだ。
「それでは道順だから、猿山まではゆけないが二俣まで送ってあげよう」
 その絹物商人はおなつの言葉を信じてこう云った。そして下着一枚で顫えているのを見て、供の者に挾箱はさみばこを下ろさせ、中から自分の着替えを出して着せたうえ、なお供の者の雨合羽を上から掛けて呉れた。
「これはあげてもいいのだが、もし気が済まないようだったら、福井城下の角屋市兵衛あてに送って下さるがいい、しかしこのまま着捨てにしてくれていいのだから」
 そして彼は二俣まで送ってくれ、そこから川を越して越前へ去っていった。
 猿山へ着いて『むろい』というその宿をみつけるまでは、不安で暗澹とした気持だった。しかしその宿の古い看板を見たときおてつの話のなかで慥かに聞いた屋号だと思い、迷わずに台所口へはいっていった――ちょうど紅葉のさかりの季節で、人手の欲しいときだったのも仕合せだった。おかみさんに会いたいというとすぐあげてくれ、そこでおなつはなにもかもうちあけて語った。
 おてつの叔母に当るというその人は、色の白い肥えた体つきで、もう五十を越しているというのに、七八つも若くみえた。血つづきのせいかおてつに似て、おおまかな侠気きょうきはだな性分らしく、しかしさすがにおてつよりははるかにおちついた、大きな宿の主婦らしい貫禄かんろくがあった。
「ああよくわかりました、ちょうど人の欲しいときでもあるし、よかったらいて貰いますよ」
 いねというその主婦はすぐ承知してくれた。それから、ちょっと考えるような眼をして云った。
「いま聞いた話は、あたしはみんなこの場で忘れてしまいますよ、あなたも忘れておしまいなさい、うちと相談をして、うちのひとの遠縁の者だというふうにでもしましょう」
 そうしてさらに、話のようすでは客の座敷に出ないほうがよさそうだから、内所と台所の手伝いをして貰おう、おてつが来ても顔の合わないようにしてやるから、――こういうことで、思いもかけない好意をうけることになった。主人は茂平といって五十五六になるたくましい体つきをしていたが、おそろしく無口な、あいそうのないひとだった。一日じゅう碁譜を手に独りで碁石を並べたり、ときに尺八を吹いたり、すぐ前の谿流けいりゅうで魚を釣ったりしている。宿のほうは妻に任せたきりで、帳面を見ようともしなかった。……おなつは一年半ばかりこの家にいたのであるが、そのあいだに彼とは二度か三度しか口をきいたことがなかったくらいである。
 その湯治場は浅井川の谿谷に沿っていて三十数軒ある家の、殆ど九割までが温泉宿をしていた。『むろい』はそこの中心ともいうべき位置にあり、二百年とか続いているようで、本屋もとやと呼ぶ二階造りのほうは、大きな広間をいれて部屋が十五もあり、べつに平家造りの離れと呼ぶ建物が二棟あった。――前は道を隔てて谿川がながれ、その向うは紅葉で名だかい岩根山が、眉に迫る感じでそそり立っている。
 おなつはほかの女中たちとはべつに、内所と主婦の居間とに挾まれた三畳の部屋を与えられたが、そこの障子をあけると、正面に岩根山が見え、谿流の音が高く爽やかに、絶えず淙々そうそうと聞えてきた。
 紅葉のさかりが過ぎ、客がめっきり少なくなった。おてつは今年は来ないそうだ。どうやら亭主のような者ができたらしい。そんなことをいねが云った。――それからつい二三日してのことであるが、いっしょに湯へはいったとき、いねがおなつの体を見てちょっと首をかしげるようにしながら「あんたあれじゃないの」こう云って、また胸乳むなぢのあたりを見た。
「おかしいわよ、ずっと順調にあるの」
 おなつはどきっとした。手拭で胸をおおいながら、恥かしさと不安のために身を縮めた。そして問われるままに、北原の家を出てからずっとそれがなかったこと、自分ではただ単純な変調だと思っていたことを語った。
「それじゃたいていまちがいはないね、いちどみて貰うほうがいいわよ」
 いねはこう云ったあとで、もしそうとまったらよく考えて、始末するなら早いほうがよい、と、さりげない調子で云った。――それから数日して、いねの古い知己だという産婆が来た。まだ四十そこそこの、ひどくてきぱきした女だったが、ひととおりたのち慥かに身ごもっていると云った。
「いいえよくあることですよ、ひと晩きりだからってちっとも珍しいことじゃありませんよ」
 そうしていねに含められていたのだろう、そのつもりなら今のうちのほうが楽だからと、すぐにもその手筈をつけようとするようすだったが、おなつはきっぱりと断わった。いねは側にいて励まし、勇気を出すようにと云った。
「だってあんたそんな子を抱えて、ゆくさき苦労するばかりじゃないの、諦めなさい」
「――あたし産みたいんです」
「そこを考えなくちゃだめよ、あんたならこれからだってきっと良い縁があるわ、どんなにだって仕合せになれるんだし、それに、――生れてくる者のためにだって、そうするのが慈悲というものだわ」
 しかしおなつは眼をきらきらさせ、反抗するような姿勢で「どうしても産む」と云い張った。――いねは自分が子を産んだ経験がないので、おなつの感情を理解することができなかったのだろう、明らかにいやな顔をし、また四五日はきげんが悪かった。……だがやがて思い当ることがあったらしい、ある夜さし向いになったとき、おなつの眼を見て頷き、しみじみとした口ぶりで云った。
「心配しなくてもいいのよ。体に気をつけてね。――丈夫ないい赤ちゃんを産みなさいね、――あたしつい忘れしていたのよ、あんたがそのひとの家を出たときの気持、……いつか聞いたわね、――あんたはそんなにも本気だったんだものね」

四の二


 明くる年の六月下旬に子が生れた。
 よく肥えた男の子で、主人の茂平が名づけ親になり、お七夜に鷹二郎と名をつけて祝ってくれた。――おなつは初めから茂平の身よりの者ということで、独り別格に扱われていたから、ほかの女中たちは反感もあったらしく、それまであまり寄りつかなかったが、子供が生れてからはよく来るようになった。
「まあ可愛いわねえ、縹緻きりょうよしだわ、ねえちょっと抱かせて」
「あたしに抱かせて、ねえいいわねなつさん、あたし赤ちゃんのお乳臭いの大好き、ね、大事にするからちょっとだけ抱かせてね」
 代る代る来てはそんなふうに云い、あやしたり、頬ずりをしたり、抱きたがったりした。
 乳は余るほど出た。おなつ肥立ひだちがよく、二十日めには起きて洗濯もし、帳つけや台所の手伝いなども、以前より元気にてきぱきやり始めた。――いねは子守りを雇ってくれたが、可笑しなことには少しもその子に守りをさせない、側へ寝かして置くか抱くか、いつも自分が赤児に附きっきりである。
「まるでおかみさん、孫ができたみたいね」
 女中たちがそう云うばかりでなく、馴染の客からも「いつそんな孫ができたのか」と、まじめに聞かれることがよくあった。
 紅葉の季節がめぐって来て、客の混雑で眼のまわるような忙しい日が続いた。そのさいちゅうに思いがけなく、越前の絹物商が訪ねて来て、三日ばかり泊っていった。――去年のあのとき借りた着物は『むろい』へ住みつくとすぐ心ばかりの礼を添えて福井へ送ったが、そのときの便りを忘れずに寄ったのである。供はべつの若者であった。――おなつはもちろん、いねも事情を知っているので、ひと晩だけというのをひきとめて歓待した。
 四日目の朝、角屋市兵衛が立つとき、おなつは宿はずれまで送っていった。霧のふかい朝で、岩根山の斜面は濃い乳色の幕に掩われていたが、揺曳ようえいする霧のあいだからときおり燃えるような紅葉が鮮かに見えた。
「また帰りに寄らせて貰いますよ、こんどはあまり丁寧なことはしないようにね、こっちも気が安まらないから、――頼みますよ」
 こう云って角屋主従は別れていった。かれらはすぐ霧の中へ見えなくなったが、おなつはやや暫くそこに立って見送っていた。それから引返したのであるが、宿の家並にかかるところで、やはりどこかの宿を立って来たらしい、四五人の客とすれちがった。――濃い霧が巻いているので、近づくまでわからなかったが、姿が見えたときかれらが武家であるのを知り、はっとして脇へそむいて、足ばやにすれちがった。……そのときかれらのなかで、あっという声をあげた者がある。おなつは慥かにそれを聞いたように思って、立停ってこちらを見るようなけはいを感じた。
 ――知っている人ではないだろうか。
 そう思うと不安で、五六日は気持がおちつかなかった。
 しかしそれからべつに変ったこともなく忙しい時期も無事過ぎて、しだいに客足も少くなり、やがて川上の山々に雪が降りはじめた。……十月の末に三日ばかり雨が続き、それがあがったと思うと猿山にも雪が来た。ここではたいして積るようなことはない、ちょうど冬の梅雨といったぐあいで、宵のうちとか、午前とか午後とか、ひとしきり降るとまもなく晴れる。近在の人たちはそれを『猿山のきちがい雪』というそうであるが、――その雪が来はじめて十一月にはいり、四日の日の午後になってとつぜん北原精之助が訪ねて来た。
 おなつはそのとき離れの縁側で、鷹二郎を抱いて乳をのませていた。そこは本屋のうしろの少し高くなった丘の中腹で、南の日をいっぱいにうけ、坐っていてもぼっとするくらい暖かかった。子供は満腹したらしく、乳首はくわえるだけで、いいきげんに鼻声をたてながら、しきりに手で両の乳房をいたずらしていた。
「さあもういいの、おいたをするならないないちまちょ、ね、またあとで――」
 そう云って乳を離そうとしていると、本屋へ通ずる道を、いねがおちつかないようすで登って来た。――本能的な敏感とでもいうのだろう、せかせかしたいねの足どりを、緊張した顔つきをみるなり、おなつはっと色を変え、子供を抱いて逃げるように座敷の中へ隠れた。……いねはあとからはいって来ると、縁側の障子を閉め、おなつの側へ来て坐った。
「あの方がおいでになったのよ、北原さんとおっしゃったわね、――今までお相手をして、いろいろお話をうかがったけれど」
「あたしが、いるって、――ここにいるって、云っておしまいになったの」
「まだそうは云わないけれど、でもすっかり知っておいでになったらしい、あんたいつかお侍とすれちがったときどうとか云ってたでしょ、あのときの方が衣巻きぬまきさんとかいうひとで、それから手をまわしてお調べになったようだわ」
「それでもおかみさんが知らないと云いとおして下されば、人ちがいだと云って下さればいいわ、そうでなければあたし」
「まあとにかくおちつきなさいよ」
 いねはこう云って、びっくりしている鷹二郎をあやし、自分のほうへ抱き取った。そのとき障子をあけて、精之助がそこへはいって来たのである。
「――ああ」
 おなつは叫んで立とうとするようにみえたが、身が竦んで動くことができず、わなわなと震えながら脇へ顔をそむけた。――いねもなにか云おうとしたが、もはや自分の口をだすばあいではないと思ったのだろう、子供を抱いて、立ちあがって、そっと廊下へ出ていった。
なつ、――逢いたかった」
 精之助はそう云って、そこへ坐った。
「おまえどうして家を出たんだ、あの晩あれだけ云ったのに、おまえには、おれが信じられなかったのか」
 おなつは黙って震えていた。
「まだ式も挙げず、ちゃんと話も定めないうちに、ああいうことになったのは、おれが悪かったかもしれない。慥かに常識はずれであった。しかしあのときは、おれには、そうするほかに思案がつかなかったのだ。初めからのことをすっかり云ってしまおう」
 彼はこう云って、静かに語りだした。――おなつが北原の家に来てまもなく、衣巻たちの例の仲間と『みよし』へいった。そしてお菊から、おなつたくらみを聞いた。ひじょうに意外だったが、彼はしらを切った。
 ――そんな者は来ない、会いもしない。
 こう云いとおした。それで結局おなつはそのままどこかへ逃げたということになった。彼は自分のためにそんなことになったのだからと、おてつを呼んで、巧みに云いくるめて、おなつの借金を払い、証文を受取った。そうして、おなつの日常のようすを注意していた。彼女が足軽の娘であることや、そこへ身を堕した事情は、おてつから聞いて知っていたが、注意して見ると起居の作法もきちんとしているし、読み書きも、煮炊きも、縫いつくろいも、ひととおり以上のたしなみがある。――これは彼がそう認めるまえに、彼を育てた伊代のほうがさきに感心して、しきりにいい娘だと褒めだした。
 ――素性さえはっきりすれば、あなたのお嫁にほしいくらいですね。
 そんなことを云うようになったが、精之助はその前後から自分でもそのつもりになり、三枝さえぐさの叔父を訪ねてあらましの事情を『みよし』のことはべつにして――話した。すると叔父夫妻もいちど見ようということになり、二人で来ておなつを見たうえ、叔母のほうがこれまたすっかりれこんでしまった。
 ――あのひとなら申し分なしよ、よそへとられないうちに早くお貰いなさい。
 こう云ってすすめたそうである。このあいだには親しい友達の意見もきいたが、みんな賛成で、素性がはっきりしない点を除いては、誰にも異議がなかった。――精之助はおなつの素性がわかっていたし、なにしろ三枝の叔母がたいそう乗り気で三枝の養女にすればいいと云うくらいだったから、その点は心配することはないと思った。
「こうしてまわりの者の意向はすっかり定った。だがそうしているうちに日が経った。聞くところによると三十日という日切だそうだ――おれは正面からそれまでのゆくたてを話そうかと思った。しかしおまえの気性では、それを聞いたら恥じて、出てゆくだろうと思った」
 精之助は眼を伏せ、感情を抑えるように息をついてから、また静かに続けた。
「詳しくうちあければ、恥じて出てゆくだろうし、そのままにしていても、日限が切れれば出てゆくだろう、……おまえのようすでそれがわかった、……どうしたら出てゆかずに済むか。どうしたらひきとめることができるか、いろいろ考えたうえ、方法はひとつしかないと思った、――言葉も詩も要らない、慥かな愛情でむすびつくのがさきだ、ほかのことはすべてそのあとでいい、そう思った」
 脇へそむけているおなつの頬に、さっきから涙がすじをなしてながれている。精之助はその涙を見た、すり寄って抱き締めたい衝動にかられたらしい、つと身動きしたが、しかしくっと唇をひき結び、さらにこう言葉を継いだ。
「あの日、友達を呼んだのは、かたちばかりだが内祝言のつもりだった、友達もそのつもりで、口にはださなかったが、みんな祝ってくれた、――父と母の肖像を仏間へ飾った気持は、あのとき云った筈だ、しかし、こんなことは実は、少しも話す必要はないんだ、なつ、――おれはおまえを愛していた、今でも、これからも、おれにはおまえのほかに妻はない、おれの愛することのできるのはおまえだけだ、なつ帰ってくれ」

四の三


 宵のうちから降りだした雪が、さらさらと更けた雨戸に音をたてている。
 鷹二郎を寝かせてある側で、いねが泣きおなつも泣きながら話していた。油が少くなったのだろう、行燈の火がじりじり呟きながら揺れ、火桶の炭火は、白く厚く灰をかむっていた。――あれから精之助は鷹二郎とながいこと遊び、いい気持そうに酒を飲んで寝た。
 ――よくわかりました。それでは帰らせて頂きます。
 おなつがそう答えたのを信じて、これでようやく安心して寝られる。久しぶりで今夜は馬鹿のように眠れる。そんなことを云ったが、そのときの本当に安堵あんどしたようなうれしそうな顔がまだ見えるようであった。
「あたし蔭で聞いていたわ、そしてもらい泣きをしたわよ、なつさん」
 いねは涙を拭いて、囁くように云った。
「あんなになつさんのことを思っているんじゃないの、あんなにいろいろ気をくだいていらっしゃるじゃないの、――それをまた逃げるなんて、あれだけ思ってくれる気持を受けないなんて、それじゃあんまりひどいと思うわ」
「あたしだってそうしたいわ、あたしだってあの方のお側へゆきたいのよ」
 嗚咽が喉をふさぎ、幾ら拭いてもあとからあとから涙が頬を濡らした。今すぐにとびだして、そのひとのふところへ縋りついて、声かぎりに泣きたいと思う、だがそうすることはできない。おなつは身もだえをし、歯をくいしばって、むせびながら続けた。
「あたしあの方が好きなの、生涯でたったひとりの方だわ、――だからそれだからお側へはゆけないのよ」
「わからない、あたしにはわからないわ」
「あたしが初めてあの方のところへいったのは、あの方をくどきおとして、お客にして、みよしからお金を貰い、証文を取って、みんなをあっと云わせるつもりだったの、ひどい、自分でいま考えてもあんまりひどい、恥かしい、いやらしい気持だわ……あたしがあの方を本当に想い、あの方があたしを想って下さるのは、少しも嘘のないきれいな、まじりけのないものよ、――だからあたしにはできないの、初めのいやらしい汚い気持さえなかったら、どんな無理をしたってお側へゆくわ、でもあたしにはできない、……いちばん初めの卑しい気持は、どうしたって自分でゆるすことができないのよ」
 おなつは袂で顔を掩い、声を忍ばせて泣きいった。そうして苦痛を訴えるもののようにくいしばった歯のあいだから、絶え絶えにこう云った。
「ひろい世の中で想い想われ、愛し愛されるということは、それだけで美しい、きれいな、尊いものだと思うの、それだけはよごしてはいけないと思うの、――あたし独りで生きるわ、あの方に愛して頂いたこと、これまで愛していて下すったこと、それだけで生れて来た甲斐かいがあるわ、あたし独りで立派に生きるの、あの子をあの方のお子らしく立派に育てるわ、……それがそれが、たったひとつの――」
 そこでおなつの言葉が切れた。それが唯一の贖罪しょくざいという意であろうか。それとも愛のあかしといいたかったのだろうか、――言葉はそこで切れたまま、おなつは崩れるようにそこへ泣き伏してしまった。
「わかったわ、よくわかったわなつさん」
 いね溜息ためいきをつき、眼のまわりをそっとでながら、低い声でこう囁いた。
「あたしが女でなければ、こんな気持はわからないかもしれない、――いいわ、楢崎という方は大身のお武家らしいから、わけをよく話して頼んでみるわ、……鷹ちゃんのためにもお武家の家のほうがいい、古くから、ごひいきのお客だから、きっと承知して面倒みて下さると思うわ、――でもそうして、またあんたがいなくなったらあの方はどんなに」
「おっしゃらないで、それだけは、お願いですからもうおっしゃらないで」
 おなつは耳を塞いで叫ぶように云った。
 鷹二郎と床を並べて寝たのは夜半すぎであった。精之助は家のほうの支度をして、改めて迎えに来るという、しかしそのときはもうおなつはここにはいないであろう。――いねにうちあけて、泣くだけ泣いた。もうなにも考えてはいけない。なにも思わずに寝よう、こう自分に云いきかせて眼を閉じた。
 かたく閉じたまぶたのうちに、ふいと正二郎さまの顔がうかびあがった。どういう意識のはたらきだろう、おなつはそのおもかげに向って、心のなかで哀しく呼びかけた。
 ――ええ本当でしたわ。正二郎さま、あなたは本当にたくさん、いい物をみつけて下さいましたわ、あたしの泣いたのが、悲しいだけではなかったということ、あなたにはわかって頂けますわね、――なつはこれまでより元気で、強く生きてまいりますわ、みていて下さいましね。
 その夜はずっと降りつづいたのだろう、朝になると山も谷もいちめんの雪で、珍しく三寸あまりも積っていた。
 おなつは鷹二郎を抱いて、帰ってゆく精之助を道まで見送った。彼はいかにも別れが惜しいらしく、幾たびも子供を抱き取ったり、こんどこそ待っていてくれと念を押したりした。おなつはできるだけ明るい調子で、彼の眼をみつめ、微笑して、待っていますと誓った。
「――では近いうちに」
 精之助はやがて思いきったというふうに口を一文字にした笑いかたで、こちらをみつめながら別れを告げた。
「――四五日のうちには来る、それまでおまえも坊やも、気をつけてね」
「はい、あなたさまもどうぞ」
「――ではゆくよ」
 彼は雪のなかを大股おおまたに去っていった。もう振返らなかった。逞しい肩をみせ、しっかりとした、大きな歩調でずんずん去ってゆく。おなつは鷹二郎を抱きあげ、そのうしろ姿を指さしながら云った。
「よく見ておくのよ、鷹ちゃん、あれがあなたのお父さまよ……あなたもいまにお父さまのような、立派なひとになるのね、――さあもっとよく見るの、ようく見るのよわかって、……あれが鷹ちゃんのお父さまなのよ」
 あふれてくる涙をそのまま、おなつはけんめいに微笑して、なお高く子供を抱きあげるのであった。――精之助の姿はすでに遠く小さくなっていた。





底本:「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」新潮社
   1983(昭和58)年4月25日発行
初出:「ロマンス」ロマンス社
   1949(昭和24)年10月〜11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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