ちゃん

山本周五郎





 その長屋の人たちは、毎月の十四日と晦日みそかの晩に、きまって重さんのいさましいくだを聞くことができた。
 云うまでもないだろうが、十四日と晦日は勘定日で、職人たちが賃銀を貰う日であり、またかれらの家族たちが賃銀を貰って来るあるじを待っている日でもあった。
 その日かせぎの者はべつとして、きまった帳場で働いている職人たちとその家族の多くは、月に二度の勘定日をなによりたのしみにしていた。夕餉ゆうげぜんには御馳走が並び、あるじのためには酒もつくであろう。
 半月のしめくくりをして、子供たちは明日なにか買って貰えるかもしれない。もちろん、いずれにしてもささやかなはなしであるが、ささやかなりにたのしく、僅かながら心あたたまる晩であった。
 こういう晩の十時すぎ、ときにはもっとおそく、長屋の木戸をはいって来ながら、重さんがくだを巻くのである。
「銭なんかない、よ」と重さんがひと言ずつゆっくりと云う、「みんな遣っちまった、よ、みんな飲んじまった、よ」
 酔っているので足がきまらない。よろめいてどぶ板を鳴らし、ごみ箱にぶっつかり、そしてしゃっくりをする。
「飲んじゃった、よ」と重さんは舌がだるいような口ぶりで云う、「銭なんかありゃあしない、よ、ああ、一貫二百しか残ってない、よ」
 長屋はひっそりしている。重さんは自分の家の前まで、ゆっくりとよろめいてゆき、戸口のところでへたりこんでしまう。すると雨戸をそっとあけて、重さんの長男の良吉か、かみさんのお直が呼びかける。
「はいっておくれよ、おまえさん」と、お直なら云う、「ご近所へ迷惑だからさ、大きな声をださないではいっておくれよ」
 のどで声をころして云うのだ。
「ちゃん、はいんなよ」と良吉なら云う、「そんなところへ坐っちまっちゃだめだよ、こっちへはいんなったらさ、ちゃん」
「はいれない、よ」重さんはのんびりと云う、「みんな遣っちまったんだから、一貫二百しか残ってないんだから、ああ、みんな飲んじまったんだから、はいれない、よ」
 長屋はやはりしんとしている。まだ起きているうちもあるが、それでもひっそりと、聞えないふりか寝たふりをしている。――
 長屋の人たちは重さんと重さんの家族を好いていた。重さんもいい人だし、女房のお直もいいかみさんである。十四になる良吉、十三になる娘のおつぎ、七つの亀吉かめきちと三つのおよし。みんな働き者であり、よくできた子たちである。
 重さんがそんなふうにくだを巻くのは、このところずっと仕事のまが悪いからで、そのためにお直や良吉やおつぎが、それぞれけんめいに稼いでいるし、ふだんは重吉もおかしいほど無口でおとなしい。だから長屋の人たちは黙って、知らないふりをしているのであった。
 たいていの場合、お直と良吉で、重さんの片はつく。しかし、それでも動かないときには、末の娘のお芳が出て来る。三つになるのに口のおそい子で、ときどき気取って舌っ足らずなことを云う。
「たん」もちろんちゃんの意味である、「へんなって云ってゆでしょ、へんな、たん」


 重吉のまわりで、冬は足踏みをしていた。
 季節はまぎれもなく春に向っていた。霜のおりることも少なくなり、風の肌ざわりもやわらいできた。梅がさかりを過ぎ、沈丁花じんちょうげが咲きはじめた。歩いていると、ほのかに花の匂いがし、その匂いが、梅から沈丁花にかわったこともわかる。――
 けれども、そういう移り変りは重吉には縁が遠かった。いま、れがたの街を歩いている彼には、かすかな風が骨にしみるほど冷たく、道はてているように固く、きびしい寒さの中をゆくように、絶えず胴ぶるいがおそってきた。
 灯のつきはじめたその横町の、一軒の家から中年の女が出て来て、火のはいった行燈を軒に掛けた。行燈は小形のしゃれたもので、「おちょう」と女文字で書いてあった。
「あら重さんじゃないの」と女が呼びかけた、「どうしたの、素通りはひどいでしょ」
 重吉の足がのろくなり、不決断にゆっくりと振返った。
「お寄んなさいな、新さんも来ているのよ」
「しんさん、――檜物町ひものちょうか」
「金六町、新助さんよ」
 女がそう云ったとき、家の中から男が首を出して、よう、と声をかけた。
「久しぶりだな、一杯つきあわないか」
「うん」と重吉は口ごもった、「やってもいいが、まあ、この次にしよう」
「なに云ってんの」と女がきめつけた、「それが重さんの悪い癖よ、いいからおはいんなさい、さあ、はいってよ」
 女は重吉を押しいれた。そうして、戸口の表に飾り暖簾のれんを掛けてから、中へはいってみると、新助が独りでさかずきをいじっていた。
「手を洗いに奥へいったよ」と彼は女に云った、「しかし、どうしたんだ、お蝶さん」
 お蝶と呼ばれた女はこの店のあるじだろう。土間をまわって台の向うへはいり、おでんのなべを脇にして腰をおろした。それは三坪足らずの狭い店で、台囲いに向って板の腰掛がまわしてあり、土間のつき当りにある暖簾の奥は、女あるじの住居と勝手になっているようだ。
「どうかしたのか」と新助は暖簾口のほうへあごをしゃくった、「それが悪い癖だって、――どういうことなんだ」
「なんでもないの」お蝶はそう云って、おでん鍋に付いている銅壺どうこからかん徳利を出し、ちょっと底に触ってみてから、はかまへ入れて新助の前に置いた、「熱くなっちゃったわ、ごめんなさい」
「そうか」と新助はうなずき、くすっと笑って云った、「あいつらしいな」
「なにがよ」
「こっちのことだ」と新助は云った、「しかし、断わっておくが、今日の勘定はおれが払うからな、あいつに付けたりすると怒るぜ」
 お蝶はうしろへ振返り、大きな声で呼んだ、「おたまちゃん」
 奥からもうすぐですという返辞が聞え、暖簾口から重吉が出て来た。
 新助は重吉に場所をあけてやり、そうして二人は飲みはじめたのだ。やがて、おたまという女があらわれ、お蝶は代って奥へはいったが化粧を直して戻ると、店には新しい客が二人来ていた。――
 日本橋おとわ町のその横町は、こういった小態こていな飲み屋が並んでおり、どの店にも若い女が二人か三人ずついて、日がくれると三味線や唄の声でにぎやかになる。このときもすでに、近くの店から三味線の音が聞えはじめ、まもなくお蝶の店にも幾人か客が加わって、腰掛はほとんどいっぱいになった。
「檜物町に会ったか」
 それまでの話がとぎれたとき、ふと調子を変えて新助がきいた。
「いや」と重吉は首を振った。
「話にゆくって云ってたんだがな、うちのほうへもいかなかったか」
 重吉はまた首を振った、「来ないようだな、なにか用でもあるのか」
「うん」新助は云いよどみ、燗徳利を取って重吉にさした、「まあ一つ、――おめえ弱くなったのか」
「檜物町はおれになんの用があるんだ」
「かさねろよ」と新助は酌をしてやった、「このまえからおれと檜物町とで話していたんだ、長沢町、――つまりおめえと檜物町とおれは、一つかまの飯を食って育った人間だ」
 新助は本店の「五桐ごとう」の話をした。
 日本橋両替町にあるその店は、五桐火鉢という物を作っている。いまは三代目になるが、先代のころまでは評判の店であった。さしわたし尺二寸以上の桐の胴まわりに、漆と金銀で桐の葉と花の蒔絵まきえをした火鉢で、その蒔絵の桐の葉が五枚ときまっているため、五桐火鉢と呼ばれるのであり、作りかたに独特のくふうがもちいられていて、ほかにまね手のないものと珍重されていた。
 かれら三人はその店の子飼いの職人であった。重吉が一つ年上、新助と真二郎はおない年だったが、五年ばかりまえ、新助と真二郎は「五桐」からひまをとり、片方は京橋の金六町、片方は檜物町に、自分たちの店を持った。
 二人は五桐火鉢にみきりをつけたのだ。先代までは珍重されたが、時勢が変るにつれて評判も落ち、注文がぐんぐん減りだした。五桐の品を模した安物がふえたし、世間の好みも違ってきたのであろう。手間賃を割って値をおとしても、売れる数は少なくなるばかりであった。――
 これでは店がもちきれないので、五桐でもやむなく新しい火鉢に切替えたが、名目だけは残したいので、重吉が一人だけ、元どおりの火鉢を作っていた。新助はそのことを云いだしたのだ。もう三十五にもなり、子供が四人もあり、職人として誰にも負けない腕をもっているのに、長屋住いで、僅かな手間賃を稼ぎにかよっている。もうそろそろ自分の身のことを考えてもいいころではないか、と新助は云った。
 重吉は飲みながら聞いていた。なにも云わないが、飲みかたが少しずつ早くなり、お蝶か新助が酌をしないと、手酌で飲んだ。
「心配してくれるのはありがてえが」と重吉はやがて云った、「おれにはいまの仕事のほかに、これといってできることはなさそうだ」
「それで檜物町と相談したんだ」
「まあ待ってくれ」
「いいからこっちの話を聞けよ」と新助がさえぎって云った、「それはおめえが五桐火鉢を守る気持はりっぱだ、けれども世間ではもうそれだけの値打は認めてくれない、あの蒔絵のやりかた一つだって、漆の下地掛けから盛りあげるまで、まる九十日もかけるというのはばかげている、木地の木目の選び、枯らしぐあい、すべてがそうだ、すべてがあんまり古臭いし、いまの世には縁の遠い仕事だ」
「重さん」と新助は続けた、「おらあ、はっきり云うが、ここはひとつ考え直してくれ、時勢は変ったんだ、いまは流行が第一、めさきが変っていて安ければ客は買う、一年使ってこわれるか飽きるかすれば、また新しいのを買うだろう、火鉢は火鉢、それでいいんだ、そういう世の中になったんだよ」


 新助は一と口飲んでまた云った。
「おめえが脇眼もふらず、丹精こめて作っても、そういう仕事のうまみを味わう世の中じゃあないし、またそんな眼のある客もいなくなった、このへんで時勢に合った仕事に乗り替えようじゃないか、その気になるなら、檜物町とおれがなんとでもするぜ」
 重吉は弱よわしく唇で笑った、「火鉢は火鉢か、そりゃあそうだ」
「おれたちは三人いっしょに育った、檜物町とおれはどうやら店を持ち、どうやら世間づきあいもできるようになった、いまならおめえに力を貸すこともできる、こんどはおめえの番だ、このへんでふんぎりをつけなくちゃあ、お直さんや子供たちが可哀そうだぜ」
 重吉は持っている盃をみつめ、それから手酌で飲んで、ゆっくりと首を振った。
「友達はありがてえ」と彼は低い声で云った、「友達だからそう云ってくれるんだ、うん、考えてみよう」
「わかってくれたか」
「わかった」と重吉はうなずいた、「おめえに云われて、よくわかった」そして彼は急に元気な口ぶりになった、「――じつを云うとね、両替町の店でも、あんまりおれに、仕事をさしてくれなくなったんだ、むろんそいつは、売れゆきの悪いためだろう、待ってたひにゃあ買いに来る客もねえから、おれが自分で古いとくいをまわって、注文を取ってくるっていう始末なんだ」
「自分でだって、――おめえがか」
「恥ずかしかったぜ、いまは馴れたけれども、初めは恥ずかしくって、汗をかいたぜ」重吉は手酌で二杯飲み、空になった盃をじっとみつめた、「いまは馴れた、けれどもな、おめえの云うとおりだ、もう三十五で、女房と四人の子供をかかえてるんだ、このままじゃあ、女房子が可哀そうだからな」
「その話、もうよして」とお蝶がふいに云った、「お酌をするわ、重さん、酔ってちょうだい」
「ちょっと待てよ」と新助が云った、「まだこれから相談があるんだ」
「もうたくさん、その話はたくさんよ」とお蝶は強くかぶりを振った、「重さんはわかったって云ってるし、ここは呑み屋なんだから、もうその話はよして飲んでちょうだい、今夜はあたしもいただくわ、いいでしょ、重さん」
「うん」と云って重吉は頭を垂れた、「いいとも、あたぼうだ」
 友達はありがてえな。注がれるままに飲みながら、重吉は心の中でつぶやいた。出てゆく客があり、はいって来る客があり、おたまがかなきり声をあげた。
 ――おれは泣きそうになってるぞ。
 重吉は頭を振った。友達だから云ってくれるんだ、ありがてえな、と彼は口には出さずにつぶやいた。お蝶がなにか云い、新助がそれに答えたが、やり返すような声であった。重吉は飲み、頭をぐらぐらさせ、そうして「ありがてえな」と声に出して云った。
 ――おれは泣きそうだ。
 泣いたりすると、みっともねえぞ、と重吉は自分に云った。そこで彼は外へ出たのだ。新助が呼びかけたのを、お蝶がとめた。手洗よ、というのが聞えたようで、重吉は戸口を出ながら、ああそうだよと云った。
 お蝶を出てから「源平」で飲んだ。お蝶もそうだが、源平も毎晩寄らないときげんが悪い。もう十年ちかい馴染で、客の少ない晩などは奥へあげられ、長火鉢をはさんで盃のやりとりをする、ということも珍しくはなかった。かれら夫婦には子供がなく、店を二人きりでやっていて、いろけのない代りに、源平の庖丁ほうちょうとかみさんのおくにのあいそが、売り物になっているようであった。
 重吉は二本ばかり陽気に飲み、そこでぐっと深く酔った。ほかに客が三人あり、源平は庖丁を使いながら、重吉のようすを不審げに見ていた。急に酔いが出たのは、まえの酒のせいで、重吉は源平の眼が気に入らなかった。へんな眼で見るなよ、と云おうとしたとき、お蝶がはいって来た。――お蝶はすっかり酔って、顔はあお白く硬ばり、眼がすわっていた。彼女は源平とおくにに挨拶すると、重吉の脇に腰を掛け、彼の手から盃を取りあげた。
「お蝶さん」とおくにが云って、すばやく眼まぜをした、「――奥がいいわ」
「ええ、ありがと」とお蝶が答えた、「あたし、すぐに帰るんです」
「どうしたんだ」重吉がお蝶を見た、「勘定なら気の毒だがだめだ、おらあびたも持っちゃあいねえんだから」
「お酌してちょうだい」
「ここも勘定がまってるんだぜ」
「お酌して」とお蝶は云った。
 重吉が注いでやった一杯を飲むと、お蝶は燗徳利を取り、手酌で二杯、喉へほうりこむようにあおった。
「あんたの顔が見たかったのよ、重さん」とお蝶は彼の眼をみつめながら云った、「――あたしくやしかった」
「客がいるんだぜ」
「あんなふうに云われて、なにか云い返すことはなかったの」お蝶のひそめた声には感情がこもっていた、「あんた云いたいことがあったんでしょ、そうでしょ、重さん」
「うん」と重吉はひょいと片手を振った、「云いたいことはあった、云い忘れちゃったが、よろしく頼むと云うつもりだった」
 お蝶は黙って、じっと重吉の眼をみつめていた。短いあいだではあるが、その沈黙はまるで百千の言葉が火花をちらすような感じだった。
「はい」とお蝶は彼に盃を返し、酌をしてやってから、立ちあがった、「あたしね、あの人をひっぱたいてやったの、平手で、あの人の頬っぺたを、いい音がしたわよ」
 重吉は盃を持ったまま、お蝶を見た。
「さよなら――」とお蝶が子供っぽく明るい声で云った。
 客たちが振返り、源平とおくにが眼を見交わした。重吉は立ちそうにしたが、お蝶は明るい笑顔を向けて手を振り、少しよろめきながら出ていった。
「さよなら――」と外でお蝶の云うのが聞えた、「また来ます、お邪魔さま」
「重さんいってあげなさいな」とおくにが云った、「ひどく酔っているようじゃないの、危ないからお店まで送ってあげなさいよ」
「そうだな」重吉は立ちあがった。
 出てみると、お蝶の姿は三、四間さきにあり、かなりしっかりした足どりで歩いていた。左右の呑み屋は客のこみ始めるときで、三味線の音や唄の声や、どなったり笑ったりする声が、にぎやかに聞えていた。――重吉はお蝶の姿が見えなくなるまで、黙ってそこに立っていて、それからその横町を、堀のほうへぬけていった。


「よせ、よしてくれ」と重吉は云った、「なぐるのはよしてくれ」
 彼はその自分の声で眼をさました。
 気がつくと自分はごろ寝をしてい、すぐそばにお芳がいた。彼は畳の上へじかに寝ころんでいるのだが、枕もしているし、掻巻かいまきも掛けてあった。三つになる末っ子のお芳は、千代紙で作った人形を持って、とがめるような、不審そうな眼で父親を見まもっていた。
「たん」とお芳が云った、「誰がぶつのよ」
 重吉は喉の渇きを感じた。
「誰がたんをぶつのよ、たん」
「かあちゃんはどうした」
「おしえーないよ」とお芳はつんとした、「たんがおしえーないから、かあたんが問屋へいったことも、あたいおしえーないよ」
 重吉は起き直った、「いい子だからな、芳ぼう、たんに水を一杯持って来てくれ」
「あたい、いい子じゃないもん」
 重吉は溜息をつき、充血した、おもたげな眼でまわりを眺めやった。その六帖はごたごたして、うす汚なく、みじめにみえた。実際はお直がきれい好きで、部屋の中はきちんと片づいているのだ。初めから古物で買って、そのまま十五年以上も使っている箪笥たんすねずみいらず、長火鉢や鏡架かがみかけに並んで、ふたの欠けた長持があり、その上に、女房のお直と娘のおつぎのする、内職の道具がのせてある。――
 これらは障子にうつっている曇りの日の午後の、さびたような、少しも暖たかさのない薄光りをうけて、事実よりもずっとうす汚なく、わびしく、気の滅入るほどみじめにみえた。重吉は箪笥の上の仏壇を見あげた。作りつけの小さな仏壇で、塗りのげた扉は閉っていた。その中には親たちの位牌いはいにまじって、長男の和吉の位牌もある。生れて五十日足らずで死んだから、顔だちも覚えていないのに、重吉の頭の中では良吉よりも大きく、はるかにおとなびているように思えた。
 ――生きていれば十五だ。
 おつぎまでが年子だったのだ。重吉はもういちど部屋の中を眺めまわし、みんな昔のままだと思った。お直と世帯を持ったままだ、がらくたが二、三ふえただけで、ほかにはなにも変ってはいない。
 ――残ったのは子供たちだけか。
 十五年の余も働きとおして来て、残ったのは四人の子供だけである。しかもその子供でさえ、満足には育てられなかったし、いまでは上の子二人にもう稼がせている。
 ――おめえはよかったな、和吉。
 おまえは死んでよかった、と重吉は心の中で云った。生きていれば貧乏に追われ、骨身も固まらないうちから稼がなければならない。良吉をみろ、あいつはまだ十四だ。なりは大きいほうだが、足腰も細いし、まだほんの子供だ。
 それが毎日ぼてふりをして稼いでいる、毎朝まっ暗なじぶんに起きて河岸かしへゆき、雨も雪もお構いなしに魚を売って歩く。いまに仕出し魚屋になるんだ、といばっているが、本当はまだ友達と遊びたいさかりなんだ。
 ――おまえは死んで運がよかったぜ。
 ほんとだぜ、重吉は心の中で云った。こんな世の中はくそくらえだ。生きている甲斐かいなんかありゃしねえ、まじめに仕事いっぽん、脇眼もふらずに働いていても、おれのようにぶまな人間は一生うだつがあがらねえ。まじめであればあるほど、人に軽く扱われ、ばかにされ、貧乏に追いまくられ、そして女房子にまで苦労させる。
 ――たくさんだ、もうたくさんだ。
 こんな世の中はもうまっぴらだ、と重吉は思った。
「たん」とお芳が云った、「水持って来ようか」
 お芳はじっと父親を見ていて、本能的に哀れを感じたらしい。咎めるような眼つきが、いまは(三つという年にもかかわらず)あわれむような色に変っていた。三つでも女の子は女の子であり、貧しい生活の中で母親や兄や姉たちの、父に対するいたわりや気遣いを見たり聞いたりしているためだろう。その顔つきにはひどくおとなびた、まじめくさった表情があらわれていた。
「いいよ」重吉は眼をそらした、「自分でいって飲んで来る、おまえ遊びにゆかないのか」
「いかない」とお芳は云った、「たんの番をしていなって、帰るまで番してなって、かあたんが云ったんだもんさ」
 重吉は立って勝手へゆき、水瓶みずがめからじかに柄杓ひしゃくで三杯水を飲んだ。
 ――お直さんや子供たちが可哀そうだぜ。
 新助がそう云った。あれは三日まえのことだな、と重吉は柄杓を持ったまま思った。あれは親切で云ったことだ。檜物町の真二郎もそうだ。あの二人とは同じ釜の飯を食って育った。金六町も檜物町もめさきのきく人間だ。二人が「五桐」にみきりをつけ、きれいにひまをとり、自分自分の店を持って、当世ふうのしょうばいに乗り替えたのは、めさきがきくからだ。おかげでしょうばいは繁昌するし、家族も好きなような暮しができる。檜物町は上の娘を踊りと長唄の稽古にかよわせているし、金六町はめかけを囲ってるそうだ。
「それでもおれのことを心配してくれる」重吉は持っている柄杓をみつめながら、放心したようにつぶやいた、「――友達だからな、友達ってものはありがてえもんだ」
 重吉はぎょっとした。勝手口の腰高障子が、いきなり外からあけられたのである。あけたのは長男の良吉で、良吉もびっくりしたらしい、天秤棒てんびんぼうを持ったまま、口をあいて父親を見た。
「ちゃん」と良吉はどもった、「どうしたんだ」
 重吉は戸惑ったように、持っている柄杓をみせた、「水をね、飲みに来たんだ」
「水をね」と良吉が云った、「びっくりするぜ」
「ご同様だ」
「今日は休んだのかい」
「そんなようなもんだ」と重吉は水瓶へ蓋をし、その上に柄杓を置きながら云った、「本所の吉岡さまへ注文を聞きにいって、そのままうちへけえって来たんだ」
「かあちゃんは」
「おつぎと問屋へいったらしい」
「湯へいこう、ちゃん」と良吉は流しの脇からたわしと磨き砂の箱を取りながら云った、「いま道具を洗って来るからな、こいつを片づけたらいっしょに湯へいこう」
「お芳がいるんだ」
「留守番さしとけばいいさ、すぐだから待ってなね」
 六帖へ戻るとすぐ、亀吉が隣りの女の子をれて来、お芳といっしょに遊び始めた。隣りのおたつは五つ、亀吉は七つであるが、どちらもお芳に牛耳ぎゅうじられていた。おまんまごとになれば、かあたんになるのはお芳ときまっていて、おたつはその娘、亀吉は「手のかかってしゃのないせがれ」ということになる。それでふしぎにうまくゆくし、お芳のかあたんぶりも板についていた。
「さあさ、ごはんにしましょ」とお芳が面倒くさそうに云う、「今日はなんにもないかや味噌汁でたべちゃいましょ、さあさ、二人とも手を洗ってらっしゃい」


「かあたんは夜なべだかやね、もう二人とも寝ちまいな」と云うのもお芳だ、「さっさと寝ちまいな、夜なべをして、あった問屋へ届けなけえば、お米が買えないんだかや、さっさと寝ちまいな」
 そのときも同じことであった。その小さな世帯はひどく苦しい、おたつはまだ頑是ないし、亀吉は手ばかりかかって少しも役に立たない、お芳ひとりが飯の支度をしたり、縫い張りをしたり、夜も昼も賃仕事をして稼ぐのである。
「うるさい、うるさい」とお芳がまた云う、「そんなとこよで、ごまごましてたや、仕事ができやしない、二人とも外へいって遊んできな」
 重吉は耳をふさぎたくなり、いたたまれなくなってそこを立った。
「十日えびすの、売り物は」上りはなの二帖へいって、重吉は外を眺めながら、調子の狂った節で低くうたいだした、「――はぜ袋にとり鉢、銭かます、小判に金箱」
 彼はそこでやめて、首を振った、「唄も一つ満足にはうたえねえか」
 重吉は気のぬけたような眼で、ぼんやり外を眺めやった。向うの井戸端で良吉の声がする。盤台を洗いながら、近所のかみさんと話しているらしい。元気な話し声にまじって、高い水の音が聞えた。良吉の声には張りがあり、話す調子はおとなびていた。重吉はからだがたよりなくなるような、精のない気分でそれを聞いていた。
 まもなくお直とおつぎが帰り、良吉も井戸端から戻って来た。お直たちは内職物の包を背負っていて、有難いことに来月いっぱい仕事が続くそうだ、などと重吉に云いながら、六帖へいって包をおろし、良吉は手ばしこく道具を片づけた。
「かあちゃん」と良吉は土間から叫んだ、「おれ、ちゃんと湯へいって来ていいか」
「大きな声だね、みっともない」と六帖でお直が云った、「いくんなら、亀吉も伴れてっておくれよ」
「だめだよ、今日はだめだ」と良吉は云い返した、「今日はちょっとちゃんに話があるんだ」
 彼は父親に眼くばせをし、「この次に伴れてってやるからな、亀、今日はかあちゃんといきな、な」
「ひどいよ、良」と云うお芳の気取った声が聞えた、「伴れてってやんな、良、ひどいよ」
「へっ」と良吉が肩をすくめた、「あいつをかみさんにする野郎の面が見てえや、ちゃん、いこうか」
 おつぎが重吉に手拭を持って来た。
 湯屋は川口町に面した堀端にある。れかかった道を歩いてゆきながら、良吉は父親に笑いかけ、帰りに一杯おごるぜ、と云った。冗談いうな。冗談じゃねえほんとだ、と良吉は口をとがらした。帰りに東屋へ寄ろう、今日はもうかったんだ、本当だぜ、ちゃん。まあいい、おれはさっき一と口やったんだ、と云いながら、重吉は喉が鳴るように感じた。まだ時刻が早いので、男湯はすいていた。ざっとあびて出よう、と良吉が云い、そうして彼は父親の背中をさすってやった。
「へんなことをきくけれどね、ちゃん」と背中をさすりながら良吉はいった、「お蝶さんていうのはどういう人なんだい」
 重吉の肩がちょっと固くなった。
「お蝶さんって、――どのお蝶さんだ」
「おとわ町で呑み屋をやってる人さ」
「それなら、どういう人だってきくことはねえだろう、その呑み屋のかみさんだよ」
「ただ、それだけかい」
「ただ、それだけだ、もう一つ云えば、勘定が溜まっているくらいのもんだ」と云って重吉は調子を変えた、「――良、どうしてそんなことをくんだ」
 良吉は声を低くした、「本当にそれだけならいいんだ、おれ」と彼はそこで言葉を切り、それから考えぶかそうに云った、「――かあちゃんが心配しているもんだから」
「そうか」と少しまをおいて重吉が云った、「そいつは気がつかなかった」
「まえにかあちゃんの友達だったって」
「この町内にいたんだ」と重吉が云った、「おやじは左官だったが、お蝶が十五の年に死んじまった、おふくろというのが気の弱い性分で、二年ばかりすると、押掛け婿のようなかたちで、亭主を入れてしまった」
 亭主というのは道楽者で、母娘はかなり辛いおもいをしたらしい。ちょうど重吉とお直が世帯を持つころだったが、お蝶はよくお直のところへ来て、泣きながらぐち話をしていた。そのうちに、ふいとかれらはいなくなった。夜逃げ同様にどこかへ越してゆき、まったく音信が絶えてしまった。
 ――お蝶さんは吉原へでも売られてしまったのではないか。
 近所ではそう云っていたし、重吉やお直もそんなことではないかと話し合った。そして五年ばかり経ったある日、重吉はおとわ町のその横町でお蝶に呼びとめられ、彼女が呑み屋を始めたことを知ったのである。
「その義理のおやじのために、ひどいめにあったそうだ。恥ずかしくって口にも云えないって詳しい話はしなかったが、ずいぶんひどいめにあったらしい、おい」と云って重吉は急にからだをひねった、「おい、いいかげんにしろ、背中の皮がむけちまうぜ」
「いけねえ」良吉はあわてた、「ああいけねえ」と云い、手に唾をつけて父親の背中をなでた、「赤くなっちゃった、痛えか、ちゃん」
「いいよ、温たまろう」
 二人は湯槽ゆぶねへつかった。
「かあちゃんにそう云いな」と暗い湯槽の中で重吉がそっと云った、「心配するなって、飲みに寄るだけだし、勘定が少し溜まってるだけだって、いいな」
「ああ」と良吉が云った、「――その人、いまでも苦労してるのかい」
「だろうな」と重吉が答えた、「義理のおやじってのは死んだが、おふくろが寝たっきりで、誰か世話になってる人があるようだ、詳しいことは話さねえが、やっぱり苦労は絶えねえらしい」
 良吉は黙っていて、それから、さぐるような口ぶりで云った、「――そのお蝶さんって人はね、ちゃんのおかみさんになるつもりだったって、ほんとかい」
「つまらねえことを云うな」
「だって、かあちゃんがそ云ってたぜ、お蝶さんって人が自分で、かあちゃんにそう云ったことがあるって」
「よせ、つまらねえ」と重吉がさえぎった、「よしんばお蝶がそう云ったにしろ、おれの知ったことじゃあねえ、つまらねえことを気にするなって、かあちゃんに云ってくれ、――こっちはそれどころじゃあねえんだから」
「出よう、ちゃん」と良吉が元気な声になって云った、「早く出て東屋へいくべえ」


 東屋は亀島橋に近い堀端にある飯屋で、すべてが安いうえに、酒がいいので評判だった。店は四、五十人もはいれるほど大きくて、女は一人も置かず、十四、五になる男の子が五人、若者が五人いて、客の相手をした。
 ちょうど灯のはいったときで、店はひどく混んでいたが、良吉はすばしこく、二人並んで掛けられる席をみつけた。
「ちゃんは酒だ、さかなはなんにする」と良吉はいせいよく云った、「おれは泥鰌汁どじょうじるで飯を食おう、――うちじゃあなぜ泥鰌を食わしてくれねえのかな」
「おれが卯年うどしだからな」
「卯年だといけねえのか」
の字が同じだから、うなぎを食うと共食いになるって、かあちゃんがかつぐんだ」
「だって鰻と泥鰌たあ違うだろう」
「おんなじように思えるらしいな、かあちゃんには」
「笑あせるぜ」と良吉は鼻を鳴らした。
 重吉ははぜ佃煮つくだにと豆腐汁で酒を飲み、良吉は飯をたべた。彼は泥鰌汁のお代りをし、たっしゃにたべながら、休みなしに話した。父親におごっていることよりも、父親と二人で、つまり男同志でそうしていることに、誇りと満足を感じているようであった。
 彼はやがて自分のやる仕出し魚屋について語り、淡路あわじ屋の旦那について語り、魚政の親方について語った。どっちも重吉には知らない名だったが、とにかく淡路屋の旦那は良吉が贔屓ひいきで、彼が店を持つときには資金を貸す、という約束になっているというし、魚政の親方は仕出し料理のこつを教えてくれるそうであった。
「いまに楽をさせるぜ、ちゃん」と良吉は顔を赤くして云った、「もう五、六年の辛抱だ、もうちっとのまだ、いまにおれが店を持ったら楽をさせるよ、ほんとだぜ、ちゃん」
 重吉はうれしそうに微笑し、うん、うんとうなずいていた。
 それが三月はじめのことで、まもなく十四日が来た。その夕方おそく、もう灯がついてから重吉はお蝶の店にあらわれ、ほんの二本だけ飲んで、溜まっている借の分に幾らか払い、それから「源平」へ寄った。
 お蝶へゆくまえに、彼はもう飲んでいたのだ。お店で受取った勘定が、予定の半分たらずだった。主人は云い訳を云ったが、要するに五桐火鉢では儲からない、ということであり、売れただけの払いということであった。
 くそくらえ、と重吉は思った。勝手にしゃあがれ、そっちがそう出るなら、こっちもこっちだ。こうなったら、泥棒にでもなんでもなってやる、押込みにだってなってやる、みていやあがれと思い、「五桐」の店を出るなり、見かける酒屋へ寄って立ち飲みをした。三軒で冷酒のぐい飲みをし、お蝶のところにさっときりあげたが、「源平」へいってから酔いが出た。
 自分では酔いが出たとは、気がつかなかった。勘定日の夕方だから客が混んでいて、その中に一人、重吉の眼をく男があった。年は四十五、六だろう、くたびれた印半纒しるしばんてん股引ももひきで、すり切れたような麻裏をはいている。顔も躯つきも、せて、貧相で、つきだしの摘み物だけを肴に、小さくなって飲んでいた。――
 重吉は胸の奥がきりきりとなった。その客はこの店が初めてらしいし、自分が場違いだと悟っているらしく、絶えずおどおどと左右を見ながら、身をすくめるようにして飲んでいた。重吉はその男が自分自身のように思えた。隣りの客に話しかける勇気もなく、小さくなって、一本の酒をさも大事そうになめている恰好は、そのまま、いまの自分を写して見せられるような感じだった。
「おかみさん」と彼はおくにを呼んだ、「奥を借りてもいいか」
「ええどうぞ、そうぞしくってごめんなさい」
「そうじゃねえ、あの客と飲みてえんだ」
 と重吉はあごをしゃくった、「うん、あの客だ、おれは先にあがってるから、済まねえが呼んでくんねえか」
「だって重さん知らない顔よ」
「いいから頼む」と云って彼はふところを押えた、「今日は少し置いてゆくから」
 おくにはにらんで、「そんなことを云うと、うちのが怒るわよ」と云った。
 重吉は奥へあがった。おくには手早く酒肴をはこび、支度ができると男を呼んだ。男は卑屈に恐縮したが、それでもあがって来てぜんの向うへ坐り、いかにもうれしそうに盃を受けた。そして、四本めの酒をあけたとき、重吉はたまりかねて云った。
「その親方ってのをよしてくれ、おれは重吉っていうんだ、頼むから名前を呼んでくれ、それに」と彼は相手を見た、「そうかしこまってばかりいちゃあ酒がまずくなる、もっとざっくばらんにやってくんな」
 男はあいそ笑いをし、頭をかいた、「済みません、あっしは喜助ってもんです、お気に障ったら勘弁しておくんなさい」
「それがかしこまるってんだ、もっと楽にやれねえのかい」
 そのじぶんはもう酔いが出ていたのだ。
 喜助という男は彼を「重さんの親方」と呼び、きげんをとるつもりだろう、自分の不運と、生活の苦しいことを話した。重吉の荒れた頭はべつの考えにとらわれていて、喜助の話すことはほとんど、うけつけなかったが、子供が三人あること、一人は生れたばかりだし、女房は産後の肥立ちが悪く、まだ寝たり起きたりしていること、彼には定職がなく、その日その日の手間取りをしているが、あぶれる日が多く、子供たちに芋粥いもがゆを食わせることもできないような日があること、そして案外に年が若く、まだ三十六だということなどが、ぼんやりと耳に残った。
「こんなことが続くんなら」と喜助はとりいるように笑って、云った、「いっそ泥棒でもするか、女房子を殺して、てめえも死んじめえてえと思いますよ」
「しゃれたことう云いなさんな」と重吉は頭をぐらぐらさせた、「泥棒になりてえのはこっちのこった、泥棒」と云って、重吉はぐいと顔をあげた、「――泥棒だって、誰が泥棒だ、泥棒たあ誰のこった」
「あんた酔ってるんだ、重さんの親方」
「おい、ほんとのことを云おうか」重吉は坐り直した、「ほんとのことを云っていいか」
「よござんすとも」喜助は唾をのんだ、「ほんとのことを云って下さい、うかがいますから」
「おれはね、重吉ってえもんだ」彼は坐り直したひざを固くし、そこへ両手のこぶしをつっぱって云った、「両替町の五桐の店で、子飼いから育った職人だ、はばかりながら、五桐火鉢を作らせたら、誰にもひけはとらねえ、おめえ――それを疑うか」
「とんでもねえ」と喜助はいそいで首を振った、「そんなことはちゃんと世間で知ってますよ」
 重吉は盃を取って飲んだ。


「おれは腕いっぱいの仕事をする、まっとうな職人なら誰だってそうだろう、おれは先代の親方にそう仕込まれたし、仕込まれた以上の仕事をして来たつもりだ」重吉はからになった盃を持ったまま相手を見た、「ここをよく聞いてくれ、いいか、――かりにも職人なら、自分の腕いっぱい、誰にもまねることのできねえ、当人でなければできねえ仕事をする筈だ、そうしなくちゃあならねえ筈だ、違うか」
「そのとおりだ、そのとおりだよ、親方」
「おめえはいい人間だ」と重吉が云った、「どこの誰だっけ」
「まあ注ぎましょう」喜助は酌をした。
 重吉はそれを飲み、ぐたっと頭を垂れた。喜助はすばやく二杯、手酌であおり、膳の上にある鉢の中から慈姑くわい甘煮うまにをつまんで口へほうりこんだ。
「おらあ、それをいのちに生きて来た」と重吉は云った、「身についた能の、高い低いはしようがねえ、けれども、低かろうと、高かろうと、精いっぱい力いっぱい、ごまかしのない、嘘いつわりのない仕事をする、おらあ、それだけを守り本尊にしてやって来た、ところが、それが間違いだっていうんだ、時勢が変った、そんな仕事はいまの世間にゃあ通用しねえ、そんなことをしていちゃあ、女房子が可哀そうだっていうんだ」
 重吉は顔をあげ、唇をゆがめながら、少し意地悪な調子で云った、「いまは流行が第一の世の中だ、めさきが変っていて安ければ客は買う、一年も使ってこわれるかあきるかすれば、また新しいのを買うだろう、それが当世だ、しょせん火鉢は火鉢だって」
「おめえ、どう思う」と重吉は喜助を見た、「そんなこっていいと思うか、みんなが流行第一、売れるからいい、儲かるからいいで、まに合せみたような仕事ばかりして、それで世の中がまっとうにゆくと思うか、――それぁ、いまのまに合う、そういう仕事をすれぁ、金は儲かるかもしれねえ、現におめえも知ってるとおり、檜物町も金六町も店を張って、金も残したし世間から立てられるようにもなった、それはそれでいいんだ、あの二人はそうしてえんだから、それでいいんだ、――おめえ、金六町と檜物町を知ってるか」
「それぁ、そのくらいのことはね、親方」と喜助はあいそ笑いをした、「ま一つ、お酌しましょう」
 重吉は盃をみつめた。
「あの二人からみれば、おれなんぞはぶまで、どじで、気のきかねえ唐変木とうへんぼくにみえるだろう、けれどもおれはおれだ、女房にゃあ済まねえが、おらあ職人の意地だけは守りてえ、自分をだまくらかして、ただ金のためにするような仕事はおれにゃあできねえ」重吉はまたぐらっと頭を垂れた、「――それを、あの金六町はいやあがった。新助のやつはいやあがった。火鉢は火鉢だって、ひばちは、ひばち……」
 そして重吉は泣きだした。終りの言葉はつきあげる嗚咽おえつに消され、垂れた頭が上下に、うなずくように揺れた。喜助は当惑し、なにか云おうとしたが、いそいで三杯、手酌であおった。
「おらあ、くやしかった」と重吉は盃を持ったままの手で、眼のまわりを拭いた、「向うが向うだからしようがねえ、向うはもう職人じゃねえんだから、職人の足を洗った人間に職人の意地を云ってもしようがねえ、おらあ、黙ってた、黙ってたが、くやしかったぜ、わかるか」
「わかりますとも、よくわかりますよ」
「おめえはいい人間だ」と重吉は眼をあげて相手を見た、「――誰だっけ」
「いやだぜ親方、喜助だっていってるじゃありませんか」
「ああ、喜助さんか、――宇田川町だな」
「まあ、注ぎましょう」喜助は酌をした。
 それから喜助が酒のあとを注文したのだ。それは覚えている。おくにが来て、重吉のひどく酔っていることを認め、もう飲まないほうがいいといった。重吉は財布を出し、そこで源平が来て、ちょっとやりあった。源平は中っ腹なようなことを云い、重吉は財布を投げだして、立ちあがった。
「くそうくらえ、おらあこの人と泥棒になるんだ」と重吉はどなったのだ、「こうなったら泥棒だってなんだってやるんだ、押込みだってやってやるから、みてやがれってんだ」
 それは外へ出てからのことかもしれない。喜助がしきりになだめ、二人はもつれあって歩いていた。重吉はひょろひょろしながら、女房のお直を褒め、良吉を褒め、おつぎを褒め、亀吉をお芳を褒めた。みんなを自慢し、褒めながら、自分をけなしつけ、卑しめ、ついでに喜助のこともやっつけた。
「なっちゃねえや、なあ」重吉は相手の肩にもたれかかりながら云った、「おめえもおれもなっちゃいねえ、屑みてえなもんだ、二人ともいねえほうがいいようなもんだ――おれにさからうつもりか」
「お宅まで送るんですよ、長沢町でしょう」
「泊るんだぜ」と重吉は云った、「今夜はおめえとゆっくり話をしよう、古い友達と会って話すなあ、いい心持のもんだ、泊るか」
「お宅へいってからね、親分、お宅にだって都合があるでしょうから」
「すると、泊らねえっていうのか」
「危ねえ、駕籠かごにぶつかりますぜ」
 喜助は重吉を抱えて駕籠をよけた。
 そうして長沢町のうちへ帰り、むりやりに喜助を泊らせた。時刻もおそかったらしいが、彼は喜助を古い友達だと云い、久しぶりだから、二人で飲みながら話し明かすのだと云った。子供たちはみんな寝ていたようだ。お直が酒の支度をし、喜助がしきりになにか辞退していた。それを聞きながら、重吉は云いようもなくくたびれてきて眠くなり、そこへ横になった。
「おめえはやっててくれ」重吉は寝ころびながら云った、「おらあ、ちょっと休むから、ほんのちょっとだ」
 そしてお直に、「すぐに起きるんだから、この友達を帰したら承知しないぞ」と云った。
 そのまま眠ってしまったのだ。なにも知らなかった。たぶん明けがただろう、泥棒、という言葉を二度ばかり、夢うつつに聞き、夢をみているんだなと思い、死ぬほど喉が渇いているのに気がついた。しかし、手を伸ばして、土瓶どびんを取る精もなく眠り続けた。――半睡半醒はんせいといった感じで、お直や子供たちの声を聞き、食事をする茶碗やはしの音を聞いた。そして、それらが静かになるとまた眠りこみ、豆腐屋の呼び声で眼がさめた。路地をはいって来た豆腐屋を、お直が呼びとめ、「やっこを二丁」と云っていた。
 重吉ははっきりと眼をさまし、しまった、と掻巻の中で首をすくめた。
「とんだことをしたらしいぞ」と彼は口の中でつぶやいた、「なにか大しくじりをやったらしい、うっ」
 すると、枕元へ誰か来て、そっとささやいた。
「たん、起きな」それはお芳であった、「あの人どよぼうだよ」


「云うんじゃないっていったのに、しょうのない子だねえ」とお直が云った、「――もうこのへんがよさそうよ」
 彼女は箸で鍋の中の豆腐を動かした。膳の脇にある七厘の上で、湯豆腐の鍋がさかんに湯気を立てている。重吉は盃を持ったままで、その湯気を仔細しさいらしく眺めていた。半刻ほどまえに起き、銭湯へいって来てから、その膳に向って二本飲んだのであるが、酒の匂いが鼻につくばかりで、少しも酔うけしきがなく、気持もまるでひき立たなかった。
「たべてみなさいな」とお直が云った、「熱いものを入れればさっぱりしますよ」
「どんな物を取ってったんだ」
「そんなこと忘れなさいったら、物を取られたことより、親切をあだにされたことのほうがよっぽどくやしいわ」とお直が云った、「それに、おまえさんの友達なら困るけれど、知らない他人だっていうんだからよかった、他人ならこっちは災難と思えば済むんだから」
 重吉は眼をあげてお直を見た、「出てゆくのを見た者はねえのか」
「良が見たそうよ、戸口のところで振返って、お世話になりましたって、低い声で云ったんですって」お直は七厘の口をかげんした、「うちの者を起こすまいとしているんだって、良はそう思ったものだから、そのまま眠ってるふりをしたんですってさ」
「あいつは」重吉は口を二度、三度あけ、それから恥じるように云った、「良のやつは、怒ってたろうな」
「なにを怒るの」
「おれがあんな野郎を、伴れこんで来たことをよ」
「良がなんて云ったか教えましょうか」とお直は亭主を見た、「――もしちゃんがこんなことをしたんなら大ごとだ、こっちが盗まれるほうでよかったって、良はそう云ったきりですよ」
「そうか」と重吉は細い声で云って、ひょいと盃を上へあげた。なにか云うつもりだったらしい。それとも心の中で云ったのかもしれないが、その盃を膳の上に置くと、そこへごろっと横になった、「まだ眠いや」
「少したべて寝なさいな、すきっ腹のままじゃ毒ですよ」
「まあいいや、ひと眠りさしてくれ」
 お直は文句を云いながら立ちあがった。
 枕を持って来て当てがい、掻巻を掛けてくれた。重吉は考えようとしたのだ。すっかりめたようでもあり、宿酔ふつかよいが残っているようでもあり、頭はぼんやりしているし、ひどく胸が重かった。眼をさましているつもりでいて、つい眠りこみ、子供たちの声で眼をさましたが、掻巻を頭からかぶって、ずっと横になったままでいた。
 灯がついて夕飯になったとき、良吉が父親を起こしに来た。重吉はなま返事をし、お芳が向うからなにか云った。すると良吉が、芳坊は黙ってな、と叱り、戻っていって食事を始めた。――重吉は考えに考えたあげく、すっかり心をきめていた。自分の決心がたしかであるかどうかも、繰り返し念を押してみたうえ、みんなの食事の終るのを待った。
「ちょっと、みんな待ってくれ」
 食事が終ったとき、重吉は起きあがって、そこへ坐り直した、「そのままでいてくれ、おれはちょっと、みんなに」
「よせやい」と良吉が云った、「そう四角ばるこたあねえや、酒だろ、ちゃん」
「うん」と重吉はうなずいた、「――酒だ」
「あたしがつけるわ」とおつぎが立った。
 重吉はお直に云った、「片づけるのは待ってくれ、そのまんまにして、みんな立たねえでそこにいてくれ」
「酔っぱやってんだな、たん」とお芳が云った。
 お直は立って、酒のかんのつくうちに片づけよう、このままではきたなくてしようがない、そう云って手ばしこく膳の上を片づけ、お芳と亀吉がそれを手伝った。良吉はこのごろ読み書きを習いにかよっている。一つ向うの路地にいる浪人者の家で、小さな寺子屋をやっており、夜だけかよっているのだが、彼は「今夜はおくれちゃった」と云いながら父親には構わず、道具をそろえて立ちあがった。
「そうか」と重吉は気がついて云った、「おめえ手習いだったな」
 それででばなをくじかれ、重吉はまるで難をのがれでもしたような、ほっとした顔になり、かしこまっていた膝を崩して、あぐらをかいた。――良吉は出てゆき、酒の支度ができた。お直とおつぎは内職をひろげ、重吉はお芳と亀吉をからかいながら、手酌で飲みだした。こんどは酒がうまくはいり、気持よく酔いが発してきた。
「十日戎の売り物は」重吉は鼻声で低くうたいだした、「――はぜ袋に、とり鉢」
「わあ、またおんなじ唄だ」とお芳がはやしたてた、「おんなじ唄で調子っぱじゅえだ」
「芳坊」とおつぎがたしなめた。
「いいよ、芳坊の云うとおりだ」重吉はきげんよく笑った、「ちゃんの知ってるのは昔からこれだけだ、おまけに節ちがいときてる、こんなに取柄のねえ人間もねえもんだ、なあ」
 良吉が帰って来たときにはすっかり酔って、勘定はゆうべみんな飲んじまったぞ、などといばっていた。それからまもなく横になり、なにかくだを巻いているうちに眠りこんだ。自分ではまだしゃべっているつもりで、ひょっと眼をさますと、行燈が暗くしてあり、みんなの寝息が聞えていた。――彼は着たままで、それでもちゃんと夜具の中だったし、彼により添って亀吉が眠っていた。隣りの家で誰かの寝言を云う声がし、表通りのほうで犬がほえた。
 重吉はじっとしたまま、かなり長いこと、みんなの寝息をうかがっていて、それから静かに夜具をぬけだした。亀吉はびくっとしたが、夜具を直し、そっと押えてやると動かなくなった。重吉はあたりを眺めまわし、口の中で「手拭ひとつでいいな」とつぶやいた。そのとき遠くから鐘の音が聞えて来た。白かね町の時の鐘だろう、数えると八つ(午前二時)であった。聞き終ってから立って勝手へいった。
 勝手は二帖の奥になっている。音を忍ばせて障子をあけ、手拭掛けから乾いている手拭を取り、それで頬冠ほおかむりをした。そうして、勝手口の雨戸を、そろそろと、極めて用心ぶかくあけかかったとき、うしろでお直の声がし、彼はびっくりして振返った。
「どうするの」お直は寝衣ねまきのままで、暗いから顔はわからないが、声はひどくふるえていた、「どうするつもりなの、おまえさん、どうしようっていうの」
「おれはその、ちょっと、後架まで」
 お直はすばやく来て彼を押しのけ、三寸ばかりあいた戸を静かに閉めた。
「後架へゆくのに頬冠りをするの」とお直が云った、「さあ、あっちへいってわけを聞きましょう、どうするつもりなのか話してちょうだい」


 二人は二帖で向きあって坐った。行燈は六帖にあり、暗くしてあるから、お互いの顔もぼんやりとしか見えない。それが重吉にはせめてもの救いで、固く坐ったまま、声をひそめてわけを話した。口がへただから思うとおりには云えないが、とにかく話せるだけのことは話し、どうかこのままゆかせてくれ、と頭をさげた。お直はわなわなとふるえていて、すぐには言葉が出なかった。
「そう、――」とやがてお直がうなずいた、「そうなの」とお直は歯のあいだから云った、「そうして、お蝶さんといっしょになるつもりね」
 重吉は息を止めてお直を見た。
「おめえ」と云って、彼は息を深く吸い、静かに長く、吐きだした、「そんなことじゃねえ、お蝶なんてなんの関係もありゃあしねえ、おれがいちゃあみんなのためにならねえっていうんだ」
「なにがみんなのためにならないの」
「いま云ったじゃあねえか」重吉はじれたように力をいれて云った、「おらあ、だめな人間なんだ、職人の意地だなんて、口では幅なことを云ってる、むろん意地もなかあねえが、おれだって人間の情くらいもってる、てめえの女房子に苦労させてえわけじゃねえ、できるんなら当世向きの仕事をして、おめえや子供たちに楽をさせてやりてえんだ、そう思ってやってみたけれども、幾たびやってみてもできねえ、いざやってみるとどうしてもいけねえ、どう自分をだましても、どうにもそういう仕事ができねえんだ」
「できないものをしようがないじゃないの」
「それで済むか」と重吉がさえぎった、「このあいだ金六町にも云われた、時勢を考えろ、いまのままじゃあ、かみさんや子供たちが可哀そうだって、云われるまでもねえ、てめえでよく知ってた、けれどもそう云われてみて、初めて、本当におめえたちが可哀そうだということに気がついた、檜物町や金六町はあのとおり立派にやっているし、二人はおれの相談に乗ろうと云ってくれる、だがおらあだめだ、おれにはどうしたって、あの二人のようなまねはできやしねえんだ」
「できないものをしようがないじゃないか」と、こんどはお直が遮った、「人間はみんながみんな成りあがるわけにはいきゃあしない、それぞれ生れついた性分があるし、運不運ということだってある。檜物町や金六町はそうなれる性分と才覚があったから成りあがったんでしょ、おまえさんにはそれがないんだからしようがないじゃないか」
「だからよ、だからおれは」
「なにがだからよ」とお直は云った、「お前さんの仕事が左前になって、その仕事のほかに手が出ないとすれば、あたしや子供たちがなんとかするのは当然じゃないの、楽させてやるからいる、苦労させるから出てゆく、そんな自分勝手なことがありますか」
「おれは自分の勝手でこんなことを云ってるんじゃねえんだ」
「じゃあ、誰のことを云ってるの、あたしたちがおまえさんの出てゆくのを喜ぶとでもいうのかい、おまえさん、そう思うのかい」
 お直はふるえる声を抑えて云った、「――二十日ばかりまえのことだけれど、檜物町がここへ来て、あたしに同じようなことを云ったわ、いまのようでは、うだつがあがらない、うちの仕事をするようにすすめてくれ、そうすればもうちっと暮しも楽になるからって」
「やっぱり、檜物町が来たのか」
「来たけれどおまえさんには云わなかったし、檜物町にも、あたしは仕事のことには口だしをしませんからって、そう断わっておきました」お直は怒ったような声で続けた、「――おまえさんがそんな仕事をする筈もなし、あたしたちだっておまえさんにいやな仕事をさせてまで、楽をしようとは思やしません、良は十四、おつぎは十三、あたしだってからだは丈夫なんだから、一家六人がそろっていればこそ、苦労のしがいもあるんじゃないの」
「そいつも考えた、いちんち、ようく考えてみたんだ」と重吉は云った、「けれどもいけねえ、昨日お店で勘定を貰ってみてわかったが、勘定はこっちの積りの半分たらずで、これからは売れただけの分払いだという、つまりもうよしてくれというわけだ、これまでだって満足な稼ぎはせず、飲んだくれてばかりいたあげくに、見も知らねえ男を伴れこんで、ありもしねえ中から物を盗まれた、もうたくさんだ、自分で自分にあいそがつきた、おらあこのうちの厄病神だ、頼むから止めねえでくれ、おらあ、どうしてもここにはいられねえんだ」
「そいつはいい考えだ」と云う声がした。
 突然だったので、重吉もお直もとびあがりそうになって、振返った。六帖のそこに、良吉が立ってい、その向うにおつぎも亀吉も、お芳までも立っているのが見えた。
「そいつはいいぜ、ちゃん」と良吉は云った、「どうしてもいたくねえのならこのうちを出よう」
「良、なにを云うんだ」とお直が云った。
「けれどもね、ちゃん」と良吉は構わずに云った、「出てゆくんなら、ちゃん一人はやらねえ、おいらもいっしょにゆくぜ」
「あたいもいくさ」とお芳が云った。
「芳なんかだめだ」と亀吉が云った、「女はだめだ、いくのはおいらとあんちゃんだ、男だからな」
「みんないくのよ」とおつぎが云った、「放ればなれになるくらいなら、みんなでのたれ死にするほうがましだわ」そしておつぎは泣きだした、「そうだわね、かあちゃん、そのほうがいいわね」
「よし、相談はきまった」と良吉がいさんで云った、「これで文句はねえだろう、ちゃん、よかったら、支度をしようぜ」
「良、――」とお直が感情のあふれるような声で呼びかけた。
 重吉は低くうなだれ、片方の腕で顔をおおった。
「おめえたちは」と重吉がしどろもどろに云った、「おめえたちは、みんな、ばかだ、みんなばかだぜ」
「そうさ」と良吉が云った、「みんな、ちゃんの子だもの、ふしぎはねえや」
 おつぎが泣きながらふきだし、次に亀吉がふきだし、そしてお芳までが、わけもわからずに笑いだし、お直は両手でなにかを祈るように、しっかりと顔を押えた。


 いうまでもなく、一家はその長屋を動かなかった。お直と良吉の意見で、重吉は「五桐」の店をひき、自分の家で仕事をすることにした。
 これまでも自分が古いとくいを廻り、注文を取って来たのだから、店をとおさずに自分でやれば、数は少なくとも、売れただけそっくり自分の手にはいる。「五桐火鉢」といわなくともいい、蒔絵の模様も変えよう。そのうちにはまた世間の好みが変って、彼の火鉢ににんきが立つかもしれない。いずれにせよ、やってみるだけの値打はある、ということになったのであった。
 それが思惑どおりにゆくかどうかは、誰にも判断はつかないだろう。長屋の人たちはうまくゆくように願った。かれらはみな重吉とその家族を好いていたから――しかし、それからのちも、長屋の人たちは重吉が酔って、くだを巻く声を聞くのである。こんどは十四日、晦日ではないし、せいぜい月に一度くらいであったが、それは夜の十時ごろに長屋の木戸で始まり、同じような順序で、戸口まで続くのである。
「みんな飲んじまった、よ」と戸口の外で重吉がへたばる、「二貫と五百しきゃ、残ってないよ、ほんとに、みんな飲んじまったんだから、ね」
「はいっておくれよ、おまえさん」とお直の声をころして云うのが聞える、「ご近所に迷惑だからさ、ごしょうだからはいっておくれ」
「はいれない、よ」重吉がのんびりと答える、「みんな飲んで、遣っちまったんだから、銭なんか、ちっとしきゃ残ってないんだから、ね、いやだよ」
 良吉が代り、やがてお芳の声がする、「たん、へんな」とお芳は気取って云うのであった、「へんなって云ってゆでしょ、へんな、たん」





底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
   1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「週刊朝日別冊陽春特別読物号」朝日新聞社
   1958(昭和33)年2月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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