超過勤務

山本周五郎




「だめ、だめ」と若い女が云った、「いやよ、そんなことするんならあたし帰るわ」
「ばかだなあ、なんでもないじゃないか」と青年が云った、「こうしたって、こうしたって平気なのに、どうしてそれだけいけないんだ」
「知らないふりしないで」と女が云った、「あたしまだ嫁入りまえなんですからね」
「古臭いよそんなこと、きみのからだはきみのもんじゃないか」と青年が云った、「握手をする手だってキスをする唇だってきみのもんだし、そこだって同じきみの躯じゃないか」
「いやだったら、さわらないで」
「ばかだなあ」と青年は云った、「同じ躯の一部なのに、そこだけどうして区別するのさ、ほっぺただって足だってそこだって、みんな同じ組織なんだぜ」
「あなたがくどき魔だってことは知ってるわ、あなたはきまってこう云うんだって」と女は作り声になって云った、――「ザーメンさえはいらなければ完全な処女だ、トアレ[#「トアレ」はママ]へいってさっぱりするのと同じことだって、ふふ、知ってますよ」
「だってそのとおりなんだよ」
「さわらないで」女は身をそらした、「胸へさわられるとあたし死ぬほどくすぐったいのよ」
「くすぐったいだけかい」青年は女の肩を捉まえた、「そうじゃないんだ、くすぐったいだけじゃなく、もっとほかの」
「しっ、誰か来るわ」女は青年を押しのけた、「ほら聞いてごらんなさい、あの足音」
「ちえっ」と青年が云った、「きみがじらしてるから悪いんだ、損しちゃったじゃないか」
「いきましょう、堪忍袋かんにんぶくろが残業してたのよ」女は青年を押しやった、「みつかるとうるさいじゃないの、早くう」
 彼らはドアをあけて去り、ドアをそっと閉めた。
 二人の去ったドアの反対側にあるドアがあき、なんだと云う声がした。誰が電燈を消したんだ、それとも停電かな。生気のないつぶやき声に続いて、スイッチの音がし、電燈が明るくついた。
「おかしいな」彼は室内を眺めまわしながら首をひねった、「自分で消したのかな、そんな覚えはないんだが」
 彼は持っている帳簿を置き、大きなデスクに向かって腰をおろし、神経質に椅子のぐあいを直してから、並んでいるベル・ボタンの一つを押し、ボイス・パイプのふたをあけた。
「給仕くん、お茶」
 パイプの中へそう云うと、蓋を閉めて、ペンを取り、記帳にかかった。
 七メートルに五メートルほどの、うす暗く湿っぽい部屋である。左と右に出入りのドア。彼がはいって来たのは右側のドアだから、いましがた二人の男女が出ていったのは左側のドアであろう。他の二方はコンクリートの壁で、いまデスクに向かっている彼のうしろの壁の上部に、金網張りの通気口が二つあるほか、窓らしいものがないのは、ここが地下室であることを示していた。――部屋の中でいちばん眼につくのは、彼の掛けている大きなデスクであるが、それは彼のものではない。彼のデスクは通気口のある壁際にあり、電話が二つと、書類入れや帳簿やインク・スタンド、ペン皿などが、きちんと整頓してあった。右側のドアの脇にも、テーブルと椅子があり、たぶん女事務員の専用であろう、しなびたカーネーションを※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した緑色ガラスの一輪※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)と、小さな立て鏡と、鏡の下にちびたルージュが転がっていた。
 このほかにはガラス戸のある大きな書棚が三つ、スチール製の防火キャビネットが二つ、二た組のテーブルと椅子などのあいだに、麻紐で束ねた書類が積み重ねてあり、包装のやぶれたボール箱の山があり、またおびただしい数の外国雑誌やカタログ類が、床いちめんに置かれてあった。――いま彼が向かっているデスクの上は、大小さまざまな帳簿と、クリップされた伝票の束ですき間もない。サイド・テーブルにはやはり帳簿を入れた帳簿立てと、電話が五つ。それにエア・キャリアの太い真鍮しんちゅうパイプと、伝声管とが並んでい、彼の頭上には彼らが「籠便」と呼ぶオートマティック・キャリア用の架線が二重に通じていた。
「ステルンホフ、ステルンホフ」彼はそう呟きながら帳簿をめくり、そこをあけて、伝票の文字を丁寧に書きこむ、「――縞柄が二十ダズンと、三、縞柄が二十ダズン、と、三、無地物、無地物が十八ダズン、十八ダズンと、五、十八ダズンと」
 彼はとしのころ六十くらいにみえる。小柄なやせた男で、あるくときに少し右の足をひきずるが、いつもそうするわけではないし、もちろんちんばでもなかった。くたびれた背広をきちんと着、古ぼけたネクタイもきちんと結び、ひじまで隠れる黒い袖カバーをつけている。頭髪はすっかりしらがであるが、左右とも耳の上のところだけ黒く、――ちょうど、黒い髪毛がしらがになり始めるときそうなるのと反対に、いましもそこから黒くなりかけているようにみえる。あまり日光にあたらない者に特有の、白ちゃけた、しぼんだような顔はしわだらけで、干からびたような細い唇にも血のけは薄かった。
 彼は思いだしたように、さっきと同じベル・ボタンを押し、ボイス・パイプの蓋をあけた。
「どうしたんだ給仕くん、お茶をくれたまえ、お茶を」彼はそう云って返辞を待ったが、返辞がないのでまたベル・ボタンを押し、パイプの中へどなり声を吹き込んだ、「――おい給仕くん、柴田くん、おい、きみ」
 彼はボイス・パイプの蓋を閉め、ポケットからハンカチを出して額の汗を拭き、大きな溜息をついた。
「土曜日だった」そう呟いて彼は腕時計を見る、「もう四時か、土曜日の午後四時二分前、みんな帰っちまった、残っているのは宿直と夜警と掃除婦くらいのもんだろう」
 低くモーターのうなりが聞こえて、頭上の架線が動きだし、彼の右側のほうから金網の籠が進んで来た。それは壁の四角い穴から出て来たものだが、彼の頭上のところで停止すると、彼が手を伸ばすより早く浚渫しゅんせつ機が口をあけるように、籠が二つに割れて、浚渫機が泥を吐き出すように、中にはいっていた書類をデスクの上へ吐き出し、すぐに口を閉めて、もと来た方向へ戻っていった。それはあたかも、誰かが彼のひとり言を聞いていて、まだみんな帰っちまったわけじゃないぞと、彼に警告したかのように感じられた。
「やれやれ、発送の中島はまだいるんだな」彼は吐き出された書類を取り分けながら、げっそりしたように呟いた、「――こんなものは月曜でいいじゃないか、あいつは成績をあげるのに夢中なんだ、そのために他人が迷惑しようとなんだろうとかまわない、ただもう自分の点数をかせぐことでいっぱいだ、ふん、その結果がどうなるか見ているがいい、部長クラスから役員まで、社長と一族でぎっちり固められているんだ、どんなに成績をあげたところでいまの椅子からおとされずにすめば万歳だということを知ってびっくりするな」
 分類を終わった彼は、まだハンカチを手に持っているのに気づき、それをたたみ直してズボンのポケットにしまった。また記帳にかかったが、まもなくデスクの上の電話の一つが鳴りだし、彼は左手で受話器を取った。
「はあ」と彼は喉で声をころしながら、電話機に向かって反射的に微笑した、「こちらはにほん屋百貨店の輸入品整理部でございます、私は整理部副部長代理の木内徳三でございますが、はあ」
 電話の相手はなにか云い、彼はさえぎろうとし、相手はかまわず云い続け、彼はペンを持った右手を振り、それからおもむろに声を高めた、「――失礼ですが、こちらはにほん屋百貨店の輸入品整理部でございます、バー・ボンポンクラブではございませんし、したがってまりっぺという女給さんもおりません」彼は辛抱しんぼうして相手に誤りを告げる、「はあ、いいえ嘘などは申しません、こちらはにほん屋百貨店の輸入――」
 電話は先方から切れた。彼は受話器をみつめて、首を振りながらそれを戻し、伝票と帳簿に向き直った。
「ハンド・バッグ六ダズン、六ダズン、七、どうしてこうハンド・バッグが売れるんだろう」と彼は呟く、「それもみんな高価なやつばかりだ、おれのサラリーより高いのがぱっぱと売れるんだが、いったいどんなやつが買うのか、そういう客のふところがどんな仕掛けになっているのかみてやりたいもんだ、ええと次は手袋か、手袋が十三ダズンと二、十三ダズンと、二」
 エア・キャリアのブザーが鳴った。彼は手を伸ばしてパイプの蓋をあけ、中からまるい筒を取り出し、それを逆にして、筒にはいっていた書類をデスクの上に振り出すと、円筒をパイプへ戻して蓋を閉め、返送のボタンを押しながら、鳴りだしたべつの電話の受話器を取った。
「はあ」と彼は喉で声をころして云う、「こちらは、――はあ、整理部でございます、いいえ副部長はおりません、私は副部長代理の木内徳、――はあ、副部長は部長さんとごいっしょでゴルフにゆかれました、はあ、午後一時ごろおでかけで、私にも来いと申されたのですが、私には仕事が残っていますものですから、はあ、はあ、はい、いまここへ届きました、はあ、はいかしこまりました、はいどうも」
 彼は受話器を置いて、いまエア・キャリアで届いた書類のゴムバンドを外し、それをデスクの上にひろげた。彼はそれらをずっと眺めてから、ごく軽くうなり声をあげ、立ちあがって書棚のところへゆき、ガラス戸の外から中をのぞいてみて、一つの書棚から三冊の大きい帳簿を抜き出して戻った。
「これもかせぎさ」彼は帳簿をデスクの上に置いて呟く、「おかげで超過勤務手当がもらえるんだからな、これあればこそ、どうにかくらして来られたんだから、文句はないさ」
 彼はいま届いた書類と、大きい帳簿との照合をはじめた。陽気な感情を駆りたてようとして、彼は低く鼻唄をうたい、顔の筋肉をほぐした。そうすれば気分もしぜんと明るくなるし、愉快に仕事ができると信じているらしい。彼は自分をあやすように、わざと眼をむいたり、舌さえ出してみたりした。
「人間は気の持ちようだからな、おい木内徳三」と彼は自分に呼びかける、「世間には失業して職のない者、停年退職でおなさけの夜警に雇われる者さえいるんだぞ、おまえなんか幸運児といってもいいんだ」
 彼は照合を続ける。
「この店へはいれたからこそ」と彼はうわのそらで呟く、それはいつも自制心を呼びおこすため、習慣になっている内心の呟きのようであった、「とにかく結婚もし、五人の子供も育ててこられた、店がつぶれて職捜しにとびまわるようなこともなかったし、くびにされて途方にくれたこともない、超過勤務のおかげで、ほかの者より収入も多かった、実収入はいまでも副部長より多いくらいだろう、なんの不平があるか、来年になればせがれも大学を出る、そうすれば一と息つけるというもんだ、ざまあみろというところさ」
 低いモーターのうなりが聞こえ、こんどはべつの架線が動きだし、彼の左側から金網の籠が進んで来た。彼はあっけにとられてそれを見まもり、籠は彼の頭上までくると停止し彼はあわてて手を伸ばした。こんどはあぶなくにあい、そいつが浚渫機のように口をあけたとき、吐き出された書類を両手で受け取ることができた。籠は口を閉めて、ゆっくり元のほうへ戻ってゆき、彼はデスクの上を見まわしたのち、隅の物を押しのけて、その書類を置いた。
「やれやれ、受注の半沢もまだいたのか」と彼は云った、「これではきりがない、これ、――まあ待て、おちつくんだ、おまえのことを蔭では、いじらしい堪忍袋と云っているんだぞ、いじらしいだけはよけいだが、堪忍袋という綽名あだなは悪くない、いまどき堪忍袋などといわれるには、十年や二十年の辛抱で、できるもんじゃない、おれは三十年、いや三十九年も勤めていて、それでもよく辛抱しぬいたからこそなんだ、役員だってこの綽名が耳にはいれば、停年の延長も考えてくれるだろう、おい木内、このいじらしい堪忍袋め、きさまもなかなか隅におけないやつだぞ」
 彼はほくほくするように気分をひきたて、み手をして照合を続けた。
 右側のドアがあいて、一人の少女がはいって来た。おとなっぽいスーツを着、髪も化粧もおとなっぽくつくっているが、よく注意して見ると十八歳そこそこ、まず十七歳のなかばというところであろう。まだ細い体に、ふくらみはじめた胸と腰とが発達して、他の部分の育ちきらないのと奇妙に不均衡な対照を示し、不均衡であることから一種のいろけをふりまくようにみえた。
「あらよかった」と少女はおおげさな身振りで彼のほうへ駆けよった、「おじさんいてくれたのね、もう帰っちゃったんじゃないかと思って、心配してとんで来たのよ」
「こらこら、静かにしないか」と彼はむずかしい顔つきで云った、「いそがしいんだから僕にかまわないでくれ、これを見ろ、まるで」
「あちしもいそぐのよ」少女は彼の肩に手をまわし、彼の頬へキスをした、「ねえーお願い、お小遣かしてえ」
「こら、ばかなまねをするな」彼はキスされた頬へ手をやりながら、少女をそっと押しのけた、「人が見たらどうする、すぐうわさになってしまうぞ」
「平気よ、こんなキスくらい親子だってするんだもの」少女は鼻声をだしながらまたすり寄った、「――おじさんさえよければ、いつかのように口と口でしてあげてもいいわ」
「ばかなことを云うな、こら、おとなをからかうやつがあるか」
「だって本当はしたいんでしょ、だからこないだみたいにしたんじゃないの、いまだってしたいのをがまんしているだけよ、あちしちゃんとわかってるわ」
「きみは誤解してる、きみにはおとなの気持がわからないんだ、僕はね」と云いかけて彼はまぶしそうな眼つきになった、「あのとき僕はセンチになってたんだ、きみが化粧室でひとりで顔を直しているのを見て、急になんとも云えず悲しい気持になったんだよ」
「あらどうして」
「つまり、きみのような若さでもう生活の波に巻き込まれている、つまり」彼は言葉を捜しながら続けた、「きみのような若さで、もう子供ではなくおとなになりかかっている、これから苦労が始まるんだ、いろいろと辛いことや苦しいこと、悲しいことを経験しなければならないんだと思うと、なんとも可哀そうでやりきれなくなったんだよ」
「それであたしにキスしたの」少女は声をあげて笑った、「あたしが可哀そうだからって」
 彼は叱責の眼で少女を見た。それは神聖を冒涜ぼうとくされたというふうな、威厳を示すつもりらしいが、反対に、秘していた自分の弱点をあばかれたための、屈辱感のあらわれのようであった。
「おじさんこそ誤解してるわ、あたしは可哀そうでなんかありゃしなくってよ」と少女は云った、「これまでは可哀そうだったわ、うちがひどい貧乏で、きょうだいが六人もいて、うすぎたない狭いうちにごちゃごちゃと、みんなぼろを着ておなかをすかして、まるでのら犬の親子みたいなくらしをしていたわ、ああいやだ、考えてもぞっとする、ああいやだ」少女は外国映画で覚えたのだろう、両手を左右へひらっと振り、肩をすくめながら顔をしかめた、「いまはちがうわ、あたしはのら犬の巣から出られたのよ、ようやく人間らしいくらしができるようになったし、これからの一生もたのしさがいっぱい、おなかをへらしたのら犬がなんでも食べるように、たのしいことならなんでも、片っ端からあちし食べてやるわ、どんなことだってもよ」
「できればね」彼はもの憂げに云う、「――それができるなら、この世で苦労することはないんだがね」
「時代が変わったのよ」少女は聞き覚えのことばをすらすらと云う、「おじさんなんか天皇制の封建制度に縛られて育ったんでしょ、あちしたちはそんなもの知りゃあしないわ、親にだってむりなことは云わせやしないし、自分でこうしたいと思えば、人がなんと云おうと、世間がどんなに騒ごうとかまやしない、やりたいことをやりたいようにやるのよ」
「きみは不良少女のようなことを云う」
うらやましいでしょ、あーっ」少女は胸を張って叫ぶように云った、「人生は短いのよ、不良だとかずべ公だとか云われるのを恐れて、やりたいこともやらずにちぢこまっているような生活は終わったのよ、あ、いけない」少女は急に調子を変えて云った、「あちしこんなおしゃべりしてる暇なんかなかったんだわ、ねえ、お小遣かしてえ」
「だめだよ、こないだ貸したばかりじゃないか、いったいどうしてそんなにお小遣がいるんだ」
「デ、イ、ト」と少女は云った、「わかってるじゃないの、そんなの意地わるよっ」
「ごめんだね」彼はペンを取る、「僕だってふところは楽じゃないんだ、時代がきみたちのほうに変わったんなら、僕は僕の時代に坐ってるよ、僕にうるさくしないでくれ」
「それ本気で云うの」少女は遠くから見るような眼で彼を見た、「いいわ、――おじさんがそういうつもりなら、あちしいつかの化粧室のことをピー・アールしちゃうから」
「ピー・アールってなんだ」
てんカムだなあ、ほんとに」
てんカムとはまたなんのことだ」
「頭へきちゃうってことよ」と少女は得意そうに云った、「頭へきちゃうなんてもう古いでしょ、だからさ、頭はおてんてんだし、くるはカムだからてんカムじゃないの、そのくらいのこと覚えときなさいよ」
「ピー・アールとは」
「トアレ[#「トアレ」はママ]の壁へ書いちゃうの、ルージュでさ、誰と誰とがどこでなにしてたかってこと、ぱあっとすぐに広まっちゃうのよ、面白いくらい」
「ばかな」彼は少しばかり不安になる、「そんなこと誰が信用するもんか、らく書なんて昔から、でたらめなものときまってるんだ」
「あーらおとなのくせに」と少女は彼を指さして笑った、「でたらめだから人は信じちゃうんじゃない、ほんとのことなんかに興味をもつ人なんかあると思って」
「週刊誌が多すぎる」と彼は嘆息する、「わさわさ週刊誌を出してつまらない知恵をつけるから、みんなが一知半解の理屈をこねる、実際に経験しもしないことを、頭だけで知ったかぶりをするんだ、週刊誌はみんなつぶしちまわなければだめだ」
「頭だけ、ですって」少女は云った、「おじさんはあちしがなにも知らないって云うの、ほんとに」
 少女は猫のようななめらかな動作で、彼にとびつき、両手で彼の首と頭をかかえると、唇と唇をぴったり合わせた。彼の鼻からーという声がもれ、その手はいたずらに少女のからだを押しのけようとした。けれども、彼の首と頭をかかえた少女の腕には、意外なほどの力があり、どうもがいてものがれるすべはなかった。
「どう、おじさん」少女は唇を放して云い、すぐにまた唇を合わせた、「どんな気持」
 彼は本気になって唇をもぎ放した。
「なんて娘だ」彼は少女を押しやった、「いいよ、少しぐらいなら貸してあげるから、もうふざけるのはよしてくれ」
「悪い気持でもないくせに、ふ」少女はコンパクトを出して、唇のルージュを直しながら彼にながし眼をくれた、「知らないのはおじさんじゃない、おじさんはいまのようなキス初めてでしょ、すぐわかっちゃったわ」
「ませたことを云うもんじゃない」彼は上着の内ポケットから札入を出し、中から紙幣を一枚ぬき出して云った、「口で云うことが癖になると、躯までいつかそうなってしまうぞ、さあ、これを持っといで」
 少女は奇声をあげ、コンパクトを持ったなり片手で紙幣をさっと取った。
「もういい、たくさんだ」少女がまた抱きつこうとするのを、彼は手を振ってこばんだ、「早くいかないと彼に怒られるぞ」
「おじさんてやっぱりたのもしいな」少女は紙幣といっしょにコンパクトをしまった、「これで今夜のデイトも恰好つくわ」
「ちょっときくけれどね、いつもそんなにデイトばかりしていて飽きないのかい」彼はげせないというふうに云った、「僕なんかは一週間に一度がせいぜいだったけれど、それでさえ二時間もいっしょにいると、もう話すこともなくなって困ったもんだがね」
「話すばっかりでしょ、ふ、あちしっちなんか時間が足りなくって困るくらいよ」
「ジャズ喫茶か」
「ペッティング」と少女は顎を突き出す、「あちしなんか躯がしびれちゃって頭がからっぽになっちゃって、時間の経つのなんかてんでわかりゃしないわ」
「この不良少女」彼はにらみつけたが、好奇心のために身を乗りだした、「きみはただ人の口まねをしているだけさ、頭も躯もしびれちまうなんて、そいつも週刊小説の受け売りなんだろう」
「あちしもうオールモスト・エイティーンよ、失礼なおじさま」少女はおじさまを気取った鼻声で云った、「あなたこそご存じないんでしょ、あちしおじさんが知らないってほうに賭けるわ」
「天皇制で育ったからね」
「教えてあげようか」少女はるそうに彼の顔色をうかがう、「――そうら、隠してもだめ、教えてもらいたいって、ちゃんと顔に出ているわ」
 彼は帳簿に向き直って伝票を繰った。
「へえーほんとだ」と少女が云った、「みんながおじさんのこといじらしい堪忍袋って云うけれど、そうしているところを見るとぴったりだわ」
「よさないか、本当に怒るぞ」
 少女はくすっと笑い、すばやく側へ寄ると、彼の耳へ口を近づけた。ペッティングっていうのはね、とささやいたあとは、なにを云っているのかまったく聞こえなかった。彼は初めだらしのない微笑をうかべていたが、少女のささやきが進むにつれてその微笑がちぢまり、表情がしだいにこわばっていった。
「これでフィン」やがて少女は彼からとびのいた、「わかったでしょ」
「あきれたもんだ」と彼は云った、「みんなそんなことをするのかい」
「個人差はあるでしょ」少女は肩をすくめて笑い、おとなぶった調子で云った、「人のことは知らないけどあちしはそうなの、あちしはね、少しね、露出症なんですってよっ、チャオ」
 少女は身をひるがえし、片手を振りながら走り出て、外からドアを乱暴に閉めた。――彼はまっすぐに、前方の壁をみつめ、三十秒ほど身動きもしなかった。いま聞いた少女のささやきが、彼には強烈すぎたらしい。頭の中で多彩なイメージが展開し、それが彼の思考力を麻痺させているようにみえる。――しかしまもなく、いちばん初めに鳴った電話が、ベルを鳴らせて彼を呼びさました。
「はあ」彼はその受話器を取った、「こちらはにほん屋百貨店の輸入品整理部でございます、私は整理部副部長代理の、はあ、――いえ冗談などは申しません、こちらはにほん屋百貨店の輸入、はあ、いいえ違います、ここはバー・ボンポンクラブではございませんし、まりっぺなどという女給さんもおりません、もういちど申し上げますがこちらはにほん屋、――ええ、切っちまやがった」
 彼は受話器を戻した。
「人をばかにしたやつだ、なんだと思ってるんだ」彼は伝票を繰り、記帳にかかる、「――ボンポンクラブかい、おっさん、まりっぺを出してくれよ、だってやがる、ごまかすなよおっさん、こっちは冗談じゃねえんだから、だって、――そして間違ってすまなかったとも云わずに、がちゃりと切っちまやがる」
 おっさんとはなんだ、と彼が云いかけたとき、エア・キャリアのブザーが鳴り、彼が手を出すまえに蓋をぽんとはねて、円筒がデスクの上へとび出した。彼は口をあけて、信じられないとでもいうように、いまとび出した円筒をじっと見まもっていた。
「なんだいまじぶん」彼は呆然と呟いた、「このうえなにをさせようというんだ」
 電話のベルが鳴り、彼は受話器を取りながら、自分の腕時計を見た。
「四時二分前、まだこんな時間か、――はあ、いえなんでもありません」彼は明るく微笑してみせる、「はあ、はあいま届きました、はあ、いえまだ時間がございますから、はい、はあ月曜日にでございますね、承知いたしました、はい、はい、承知いたしました、いいえまだ仕事が残っておりますから、はい、ごめんくださいまし」
 彼はおじぎをして受話器を置き、ベル・ボタンの一つを押してボイス・パイプの蓋をあけながら、ハンカチを出して額をふいた。
「給仕くんお茶」と彼はパイプの中へどなった、「きみ給仕くん、――」
 彼はパイプの蓋を閉め、もういちど額をふいて、ハンカチをしまい、記帳にかかろうとして、そこにある円筒をみつけた。
「神よ、忍耐力を与えたまえ」彼は円筒の中から書類の束を振り出し、円筒をパイプに入れて蓋をし、戻しのボタンを押した、「――土曜日の午後四時、もうみんな帰っちまった、残っているのは宿直と夜警と――」
 彼は口をつぐんだ。無意識に口から出た言葉が、そっくり繰り返しだということに気づいたらしい。彼はペンを持った手で、自分の口尻をつねった。
「こんどは、バンサン・アレか」
 彼は伝票を見て、帳簿のページをめくる、「バンサン・アレ、――と、黒てんのケープ、七、次にミンクのケープ五、五、と、それから銀狐のケープ一ダズン、三、一ダズンと三」
 彼はしばらく無言のまま続ける。そのあいだに頭は頭でかってに動きだし、さまざまな空想があらわれたり消えたりするのだろう、記帳を続けながら、顔をぎゅっとしかめたり、にたにた微笑したり、急に頭を振ったり、口の中でなにか呟いたりした。
「ペッティングだって、いやはや」と彼は低い声で云う、「おれなんかぜんぜん知らなかったな、三十二で結婚するまで、女の手さえ握ったことがなかった、まわりには女店員がくさるほどいたっけ、化粧品売場だったかな、堀田きよかという女の子がいて、おれは生まれてはじめて恋をしたものだ、――堀田きよか、もう三十四五年もむかしのことだが、いまでもこの名だけは忘れない、顔の小さな、きりっとしまった躯つきで、――その後もあんなきれいな女の子は見たことがなかった、あのころは規則がきびしくて、店員同士の恋愛沙汰は厳重に禁じられていた、うわさをたてられただけでもくびになりかねなかったものだ」
 彼のペンは動かなくなった、「おれは二十二か三だったな、あの人恋しさに仕事も手につかず、一日のうち幾たびも、あの人の立っている売場の前をいったり来たりした、あの人がおれのほうを見たりすると、全身がかあーっとして眼がくらむような気がしたっけ、――それでもなにをする勇気もなかった、ほかの者は適当にやっていたんだ、規則がきびしければきびしいほど、それをやぶりたくなるのが人情なんだろう、そのためにくびになった者もあるが、うまくたちまわって結婚したやつも少なくない、やろうと思えばできたんだ、それをおれはやらなかった、死ぬほど恋していながら、話しかけることさえできず、胸のつぶれるようなおもいで、遠くから眺めているだけだった、そうだ、――おれはそのころから欠かさず残業をした、残業手当はうちの家計になくてはならないものだったからな、そうやって残業しながら、あの人のことを思ってはよく涙をこぼしたものだ、――もしおれにも青春というものがあったとすれば、残業しながら泣いた、あの時期だけがそれだろうな」
 電話のベルが鳴って、彼を空想の中からひきずり出した。彼はいそいで記帳にかかろうとし、それから気がついて、受話器を取った。
「はあ」彼は喉で声をころして云う、「こちらは輸入品整理部でございます、あ」と云って彼はデスクの一点を見てあわてる、「はい、はあやっております、はあ、いえそんなことはございません、帳簿がしまいこんであったものですから、捜すのにちょっと暇をとられましたが、もう照合にかかりましたから、はあ、はあ、はい、月曜日でよろしいとおっしゃるのですか、はい、いえ私はべつに、はい、はい、はあそれはどうも、はい承知いたしました、ではごめんください」
 彼は受話器を置いて深い大きな溜息をつき、ふん、と鼻を鳴らした。さっきまでやっていた照合をすっかり忘れ、うっかり記帳にかかっていたことがいまいましかったし、いまになって月曜日でいいと云われたことが、いまいましさを十倍にもしたようであった。
「まあそうむきになるな」と彼は記帳に戻りながら云った、「こういうぐあいに辛抱したからこそ、今日まで無事にやって来られたんじゃないか、三十二で結婚するまで、女の手も握らなかった、無欠勤で、いつも残業をして、かりにも人に憎まれないように、できるだけ腰を低く、眼だたないようにつとめて来た、そしてもう五十五歳、この十一月には停年というところまで漕ぎつけたんだ」
 彼の背後にあるデスク、つまり彼自身のデスクで電話のベルが鳴りだした。彼はペンを区切りのところまで動かしてから、ペンを持ったまま立ってゆき、その電話の受話器を取った。
「はあ、こちらはにほん屋百貨店の輸」とまで云って、彼の声が急に変わった、「――次郎じゃないか、いまじぶんなんだ、え、うん、まだ仕事が残ってるからいるよ、どこからかけてるんだ、え、なに、いまどこにいるんだときいてるんだよ、はい、はい、銀座だって、銀座のどこなんだ、きみ一人か、うん、いますよ、まだ一時間くらいはここにいるが、なに、うん、うん、だめですね、ノ・サンキューだ、僕がお金なんか持ってるわけがないじゃないか、毎日かあさんから僕が幾らもらっているか、次郎だって知っているだろう、だめですよ、だめ、それより早くうちへ帰んなさい、そんなところで、――おい次郎、もしもし、おい」
 彼はしばらく受話器を耳に当てたままで、やがて舌打ちをしてそれを置き、こっちのデスクへ戻った。
「困ったやつだ、ひとをなんだと思ってるんだ」彼はペンを取りながら云った、「友達におごられたから、お返しをしなければ悪い、ふん、親のすねをかじってる分際で、おごられたお返しもくそもあるか、あいつだんだん不良じみてくるぞ」
 彼は記帳を続け、伝票をめくる、「――ロンバールか、ロンバール」そして帳簿のページをめくって、そこをひらいたが、そのままなにか考えこんだ。表情が固くなり、眉がしかみ、眼が一点をみつめたまま動かなくなった。
「いや、――」とやがて彼はゆっくり首を左右に振った、「そっとしといてやろう、誰にでもそういう時期がある、つまずいたり、転んだり、あっちへぶっつかりこっちへぶっつかりして、それでだんだん成長してゆくんだ、子を育てるにも辛抱が」
 電話のベルが彼の独白をさえぎり、彼は受話器を取った。
「はあ、――」声をころして云いかけたが、突然、彼はとびあがりそうになり、わめきだそうとするようにみえたが、そこでまた突然、にこっと笑って電話機におじぎをし、グロテスクな作り声をだして云った、「――はい、こちらはバー・ボンポンクラブざあます、まりっぺはあたくしざあますのよ、どうだ」と彼は赤くなってわめいた、「どうだ、この、なに、なんだと、老いぼれの腰抜けだと」
 彼は立ちあがり、片手でデスクを殴りつけながら、「おれが老いぼれの腰抜けなら、きさまなんぞは、その、あの」彼はもっとも痛烈な悪罵あくばを思いだそうとしてあせる、「おい、きさま、そのきさまなんぞはな、その、あれだ、その、――えいくそ、また切っちまやがった」
 彼は受話器を叩きつけるように戻し、椅子を押しやって荒い呼吸をしながら、事務室の中をあるきまわる。いちど赤くなった顔色がしだいにさめ、灰色の古いなめし皮のようにひすばってきた。
「もうたくさんだ、考えなくちゃあならない、このへんでおれも考えてみなくちゃあならないぞ」と彼はあるきまわりながら云う、「――おれはこの店に三十九年勤めて来た、妻をもらい、五人の子を育てた、長男は来年で大学を出るし、下の四人もまあまあ人並だろう、女房は太りかえってすっかり尊大に構えている、それはそれでいい、それはそれでべつに文句はない、なあ、文句はないだろう、ない」と彼は自分にうなずく、「ところで、このおれはどうだ、おれはこれまでになにか得たか、なにか得たものがあるか、死ぬほど恋した娘にも手を出さず、人のいやがる超過勤務をよろこんで引き受け、腰を低く、出しゃばらないように絶えずびくびくし、さて、この十一月には停年なんだ、――長いあいだの地下室生活で、右の膝の痛風が持病になった、これだけはたしかに自分の得たものだ、ほかになにがある、なにかほかに、――うんある、もう一つだけある、いじらしい堪忍袋という綽名だ、たしかに、この二つだけはおれの得たものだ」
 彼はせかせかと右のほうへゆき、くるっと振り向いて、せかせかと左のほうへゆき、急に立ちどまると、いんぎんに一揖いちゆうした。
「みなさん、私を見てください」彼はそこに誰かがいるように、自分を指さしてみせながら云った、「この私をどうぞよく見てください、この痩せた、しらが頭の、膝に痛風を病む小男の姿を」それから、自分を指さしていた手で、拳をにぎり、天突き体操のように、二度、それを上へ突きあげた、「だが、いまこそこんなみじめな姿になったが、私にも若いときがあったし、人並に夢もいだき野心に燃えたこともあった――ごく短い期間でしたけれどもね、とにかく自分の将来にかがやかしい夢をいだいたり、野心に燃えて胸をとどろかしたこともあったんです、信じてください、私だっていちおう人間なんですから」
 彼はせかせかとあるきまわる。それはどろぼうが他人の家へはいって、なにも盗む物がないので脱出しようとしたが、こんどは出口がわからなくなった、というようにみえた。
「だがおれはすぐに悟った」と彼はあるきながら云った、「そんな夢や野心が、自分には実現しないだろうということを、おれは貧乏人の子に生まれ、十六の年から稼がなければならなかった、高等小学を出るとすぐ小さな洋品屋の小僧になり、まもなくこのにほん屋百貨店に移った、すると主任の一人が、にんげん学問がなければ出世はできない、おれがいい手本だと云って夜学の学資を出してくれ、おれは簿記と英語の夜学へかよった、その主任は云ったものだ、にんげん辛抱がかんじんだ、石の上にも三年というが、縁の下で三十年と思え、人の眼につかないところで辛抱することが、ついにはかえって人の眼につくものだって、――その結果がこんにちのこのおれさまだ、英語と簿記、は、は、は」
 そら笑いをして、その声にびっくりして彼は立ちどまり、あたりをせわしく眺めまわした。
「笑ったな、誰だ」彼は両手を拳にする、「さぞおかしいだろう、いくらでも笑え、さあ笑え、腹の皮のぶっ裂けるほど笑え、おれは怒りはしない、縁の下に三十年、はあ、はい、はい、こちらはにほん屋百貨店でございます、はい、はあいらっしゃいませ」
 彼は片方へ向いておじぎをし、次に反対側へ向いておじぎをし、あいそ笑いとともに「はあ」と云って揉み手をする。
「この、はあ、と喉で声をころした調子を出すのは、おれが売場主任に提案したものは、はい、とはっきり発音するより、喉で声をかすらかすほうがいかにも恐縮しているように聞こえるからな、はあ、――」と彼は声を喉でころしてみせる、「この声を出すようになったとたんに、おれは人間性を放棄したんだ、どなられようが笑われようが、反抗はもちろん怒ることさえできなくなった、どんなに笑われたって怒りゃしないぞ、そのおかげでおれは輸入品整理部の副部長代理になったんだ、――副部長代理?」彼は考えてみて急に顔をあげる、「――部長代理ならわかる、副部長というのがすでに部長代理ということだろう、とすれば、副部長代理というのはなんだ、代理のまた代理か、人をばかにするな」
 彼の眼から涙がこぼれ出る。自分では気がつかないとみえ、それをこぼれ出るままにして、またせかせかとあるきまわる。
「もう充分だ、おれにだって生きる権利はある、おれにだって自分の人生があり、自分の人生を生きる権利があるはずだ」彼は意識せずにズボンのポケットからハンカチを出し、眼をふきながら云う、「――ここにいるこのおれは、本当のおれ自身じゃない、これは現実じゃあない悪夢だ、おれはここから脱出する、おれは自分の人生をとり戻すぞ、デイト、ペッティング、もう超過勤務はお断わりだ」
 彼はデスクへ歩み寄り、その上にある帳簿や伝票の束や書類などを、両手でさっと払いのけた。それらは賑かな音を立てて床へ落ち、彼は鉛筆やペン軸を「えい、えい」と叫びながら折って捨てる。万年筆も手に取ったが、それは高価だと気づいたのか、折るのをやめてデスクの上へ戻し、こんどは床の上に積み重ねてあるカタログや、外国雑誌やパンフレットの類を、手当りしだいに取って引き裂き、引き千切ってあたりに投げ散らす。
「えい、どうだ、えい、これでわかったか、もう止めてもだめ、なだめてもだめだ、おれは出発だ」
 そのときモーターのうなりが起こって、左右の「籠便」が動きだし、両方から金網の籠が進んでくると、デスクの上でとまり、浚渫船の浚渫機のように、二つとも口をあけて書類を吐きだし、エア・キャリアのブザーが鳴って、パイプの蓋をはねあげながら、すぽんと円筒がとびだし、同時に二つの電話のベルがやかましく鳴り始めた。――出発だと、右手の拳をあげて宣言した彼は、その手をあげたままで「籠便」の動きと、エア・キャリアの動きと電話のベルのけたたましい共鳴音とを放心したような顔つきで眺めていた。――およそ十秒。だがそのあいだに彼の内部では、長い時間の経過があったようだ。彼の振り上げていた右手が操り糸を切られた人形の腕のように、力なくだらっとさがり、彼は右足を少しひきずりながら、デスクへ歩み寄って、椅子に掛け、持っているハンカチでゆっくり顔をふいた。彼は受話器の一つへ手を伸ばしながら、その手首に巻いてある腕時計を見、なんだ、まだ四時二分前か、と呟いた。
「まだこんな時間とは知らなかった」彼は一つの受話器を取り、喉で声をころして、微笑しながら答えた、「はあ、もしもし、こちらはにほん屋百貨店の輸入品整理部でございます、私は整理部副部長代理の木内でございますが」





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「文藝朝日」朝日新聞社
   1962(昭和37)年6月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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