鼓くらべ

山本周五郎





 庭さきに暖い小春日の光があふれていた。おおかたは枯れたまがきの菊のなかにもう小さくしか咲けなくなった花が一輪だけ、茶色に縮れた枝葉のあいだから、あざやかに白いはなびらをつつましくのぞかせていた。
 お留伊るい小鼓こつづみを打っていた。
 町いちばんの絹問屋どいやの娘で、年は十五になる。眼鼻だちはすぐれて美しいが、その美しさは澄みとおったギヤマンの壺のように冷たく、勝気な、おごった心をそのまま描いたように見える。……此処ここは母屋と七間の廊下でつながっている離れ屋で、広い庭のはずれに当り、うしろを松林に囲まれていた。打っている曲は「じょの舞」であった。
 白いつややかな頬から、眉のあたりまでぽっと上気しているが、双のひとみは常よりもえて烈しい光をおび、しめった朱い唇をひき結んで懸命に打っている姿は、美しいというよりはすさまじいものを感じさせるし、なにか眼に見えぬ力で引摺ひきずられているようにも思えた。
 鼓の音は鼕々とうとうと松林に反響した。微塵みじんのゆるみもなく張り切った音色である。それは人の耳へ伝わるものでなくて、じかに骨髄へ徹する響を持っていた。
 曲は三段の結地ゆいちから地頭となり、美しい八拍子をもって終った。……お留伊は肩から小鼓を下すと、静かに籬の方を見やって、
「そこにいるのは誰です」
 と呼びかけた。……一輪だけ咲き残った菊の籬の蔭で誰か動く気配がした。そして間もなく、一人の老人がおずおずと重そうに身を起した。ひどくせた体つきで、髪も眉毛も灰色をしている。身なりも貧しいし、殊に前跼まえかがみになって、不精らしく左手だけをふところ手にした恰好が、お留伊には忘れることの出来ないほど卑しいものに感じられた。
「おまえ何処どこの者なの、二三日まえにもそこへ来たようだね、なにをしに来るの」
「申しわけのないことでございます」
 老人はしゃがれた低い声で云った。「……お鼓の音があまりにおみごとなので、ついお庭先まで誘われてまいりました。お邪魔になろうとは少しも知らなかったのでございます」
「鼓の音に誘われて、……おまえが」
 お留伊の眼は老人の顔を見た。
 加賀国は能楽がさかんで、どんな地方へ行ってもうたいの声や笛、鼓の音を聞くことが出来る。あえて有福な人々ばかりでなく、其の日ぐらしの貧しい階級でも、多少のたしなみを持たぬ者はないというくらいである。だからいま、そのみすぼらしい老人が鼓の音に誘われて来たと云っても、それほど驚くべきことではなかったし、お留伊が老人の顔を疑わしげに見詰めたのも、まるで別の意味からであった。
 お留伊は暫くして冷やかに云った。
「おまえ津幡つはたの者ではないの、そうでしょう。津幡の能登屋から、なにか頼まれて来たのでしょう」
「わたくしは旅の者でございます」
「隠しても駄目、あたしはだまされやしないから」
「わたくしは旅の者でございます」
 老人は病気でもあるとみえて、苦しそうにきこみながら云った。「……生まれは福井の御城下でございますが、ながいこと他国を流れ歩いて居りました。けれども、もう余命のない体でございますから、せめて先祖の地で死にたいと思って、帰る途中でございます」
「ではどうして福井へ行かないの、どうしてこの森本でぐずぐずしているの」
「持病の具合が思わしくないので、宿しゅくはずれの宿やどにもう半月ほども泊って居ります……一日も早く帰りたいとは存じますが、帰っても親類縁者の頼るところはなし。いや!」
 老人は急に灰色の頭を左右に振った。
「こんな話はなんの興もございません。本当になんの興もございません……。それよりもお嬢さま、今まで通りこの老人に、お庭の隅からお手並を聴かせてやって頂きとう存じます」
「いつ頃から此処ここへ来はじめたのだえ」
 お留伊は疑の解けた声音で云った。
「はい、ちょうど五日まえでございましょうか、ふとお庭外を通りかかって『男舞』をうかがいましたが、それ以来ずっとお邪魔をしていたのでございます」
「あたし二三日まえから気付いていました。でもまるで違うことを考えていたのよ」
「津幡の能登屋がどうとか仰有おっしゃっておいででしたが」
「もうそのことはいいの、それから庭の外なら構わないから、いつでも聴きにおいで」
 老人は鄭重ていちょうに礼を述べ、やはり左手をふところ手にしたまま静かに立去った。


 明くる日も老人は来た。
 それからその翌日も……お留伊は次第にその老人に親しさを感じはじめた。そして色々と話しあうようになった。老人は口数のすくない、どちらかというと話し下手であったが、それでも少しずつは身の上が分った。
 老人は名もない絵師だと云った、そして僅かな絵の具と筆を持って、旅から旅を渡り歩く困難な生活を過して来たという。苦しかったこと、悲しく辛かったこと、お留伊には縁の遠い世間の、なみだ溜息ためいきとに満ちた数々の話をしながら、けれど老人の声音にはいつも温雅な感じが溢れていた。……そしていつでも話の結びにはう云った。
「そうです、わたくしはずいぶん世間を見て来ました。なかには万人に一人も経験することのないような、恐しいことも味わいました。そして世の中に起る多くの苦しみや悲しみは人と人とが憎みあったり、ねたみあったり、自分の欲に負かされたりするところから来るのだということを知りました。……わたくしにはいま、色々なことがはっきりと分ります。命はそう長いものではございません、すべてがまたたくうちに過ぎ去ってしまいます、人はもっともっと譲り合わなくてはいけません、もっともっと慈悲を持ち合わなくてはいけないのです」
 老人の言葉は静かで、少しも押しつけがましい響を持っていなかった。それで斯ういう風な話を聞いたあとでは、ふしぎにお留伊は心が温かく和やかになるのを感じた。
「いつか能登屋がどうしたとか仰有っていましたが」
 或日老人がいた。「……津幡の能登屋といえば名高い海産物問屋だと存じますが、こちらさまとなにか訳があるのでございますか」
「別にむずかしい訳ではないのだけれど、お正月に金沢のお城で鼓くらべがあるの、それでこの近郊からは能登屋のお宇多という人とあたしと、二人がお城へ上ることになったんです」
 新年の嘉例として、領主在国のときには金沢の城中で観能がある。そのあとで民間から鼓の上手を集め、御前でくらべ打ちを催して、ぬきんでた者には賞が与えられる、……今年もまたそれが間近に迫っているので、賞を得ようとする人々は懸命に技を磨いていた。
 お留伊は幼い頃からすぐれた腕を持っていたので、教えに通って来る師匠の観世仁右衛門かんぜにえもんは、これまでに幾度もお城へ上ることを勧めていた。けれど勝気なお留伊は、御前へ出て失敗したときのことを考え、もう少しもう少しと延ばして来たのである。……能登屋のお宇多という娘は十六歳で、もう二度もお城へ上っているが、まだ賞を与えられたことはいちどもなかった。そのうえこんどはいよいよお留伊が上るというので、それとなく人を寄越してはこちらの様子を探るのであった。
「そうでございますか」
 老人は納得がいったようにうなずいた。「……それでわたくしを、能登屋から探りに来た者と思し召したのでございますな」
「でも同じようなことが何度もあったのだもの」
「わたくしはすっかり忘れて居りました」老人は遠くを見るようにして云った。
「……鼓くらべはもうお取止めになったかと思っていたのです」
「どうしてそう思ったの」
 老人は答えなかった。……そして、どこか遠くを見るような眼つきをしながら、ふところ手をしている左の肩を、そっと揺りあげた。
 それから二日ほどすると、急にお留伊は金沢へ行くことになった。師匠の勧めで、城下の観世家から手直しをして貰うためである。その稽古は二十日ほどかかった。観世家でもお留伊の腕は抜群だと云われ、大師匠が自分で熱心に稽古をつけて呉れた。……もう鼓くらべで一番の賞を得ることは確実だった。大師匠もそうほのめかせていたし、それ以上にお留伊は強い自信を持っていた。
 森本へ帰ったのは十二月の押迫った頃であった。――あの老絵師はどうしているだろう。家へ帰って、なによりも先に考えたのはそのことだった。……まだこの町にいるだろうか、それとも故郷の福井へもう立って行ったか。しまだいるとすれば、自分の鼓を聴きに来るに違いない。お留伊はそう思いながら、残っている僅かの日を、一日も怠らず離れ屋で鼓の稽古に暮していた。
 けれど老人の姿は見えなかった。
 すでに雪の季節に入っていた。重たく空にひろがった雲は今やまったく動かなくなり、毎日こまかい雪がちらちらと絶えず降ったりんだりした。……はじめのうちはたまたま射しかける陽のぬくみにも溶けた雪が、家の蔭に残り、垣の根に残りして次第にその翼をひろげ、やがてかたくてて今年の根雪となった。
 おおつごもりの明日に迫った日である。お留伊が鼓を打っていると、庭の小柴垣のところへ、雪蓑ゆきみのに笠をつけた人影が近寄って来た。
 ――まあ、やっぱりまだいたのね。
 お留伊はあの老人だと思って、鼓をやめて縁先まで立って行った。……けれどそれはあの老人ではなく、まだ十二三の見慣れぬ少女であった。


「あの? お願があってまいりました」
 少女はお留伊を見ると、笠をとりながら小腰をかがめた。
「おまえ誰なの」
「わたくし宿はずれの松葉屋と申す宿屋の娘でございますが、うちに泊っておいでの老人のお客さまから、お嬢さまに来て頂けますようにって、頼まれてまいりました」
「あたしに来て呉れって」
「はい、病気がたいへんお悪いのです。それでもういちど、お嬢さまのお鼓を聴かせて頂いてから死にたいと、そう申しているのです」
 あの老絵師だということは直ぐに分った。
 普通の場合なら、いくら相手があの老人であっても、そんなところへ出掛けて行くお留伊ではなかった。けれど……老人はいま重い病床にあるという、そして死ぬまえにいちど自分の鼓を聴きたいという、その二つのことがお留伊の心を動かした。
「いいわ、行ってあげましょう」
 彼女は冷やかに云った。「……おまえあたしの鼓を持っておいで、それから家の者に知れてはいけないから静かにしてお呉れ」
 手早く身支度をしたお留伊は、その娘に鼓を持たせて家を出た。松葉屋というのは宿はずれにある汚い木賃宿であった。老人はひと間だけ離れている裏の、狭いすすけた部屋に寝ていた。
「ようおいで下さいました」
 老人は衰えた双眸そうぼうに感動の色をあらわしながら、じっとお留伊の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みつめた。「……御城下へおいでになったとうかがいましたので、もう二度とお嬢さまのお鼓は聴けないものとあきらめて居りました。……有難うございます。ようおいで下さいました」
 お留伊はただ微笑で答えた。……自分の打つ鼓に、この老人がそんなにも大きなよろこびを感じている、そう思うとふしぎに、金沢で大師匠に褒められたよりも強い自信と、誇らしい気持がきあがって来た。
「いやお待ち下さいまし」
 お留伊が鼓を取出そうとすると、老人は静かにそれを制しながら云った。「……いま思いだしたことがございますから、それを先にお話し申し上げるとしましょう」
「あたし家へ断りなしで来たのだから……」
「短いお話でございます、直ぐに済みます」
 老人はそう云って、苦しそうにちょっと息を入れながら続けた。「……お嬢さまは正月の鼓くらべに、お城へお上りなさるのでございましょう」
「上ります」
「わたくしのお話も、その鼓くらべにかかわりがございます。お嬢さまは御存じないかも知れませんが、昔……もうずいぶんまえに、観世の囃子方はやしかた市之亟いちのじょうという者と六郎兵衛という者が御前で鼓くらべをしたことがございました」
「知っています、友割ともわり鼓のことでしょう」
「御存じでございますか」
 十余年まえに、観世市之亟と六郎兵衛という二人の囃子方があって、小鼓を打たせては竜虎と呼ばれていたが、二人とも負け嫌いな烈しい性質で、常づね互に相手をしのごうとせり合っていた。……それが或年の正月、領主前田侯の御前で鼓くらべをした。どちらにとっても一代の名を争う勝負だったが、殊に市之亟の意気は凄じく、曲なかばに到るや、精根を尽くして打込む気合で、遂に相手の六郎兵衛の鼓を割らせてしまった。
 打込む気合だけで、相手の打っている鼓の皮を割ったのである。一座はその神技に驚嘆して、「友割りの鼓」といまに語り伝えている。
「わたくしは福井の者ですが」
 と老人は話を続けた。「……あのときの騒ぎはよく知って居ります、市之亟の評判はたいそうなものでございました。……けれど、それほどの面目をほどこした市之亟が、それから間もなく何処かへ去って、行衛知れずになったということを御存じでございますか」
「それも知っています。あまり技が神に入ってしまったので、神隠しにあったのだと聞いています」
「そうかも知れません、本当にそうかも知れません」
 老人は息を休めてから云った。「……市之亟はある夜自分で、鼓を持つ方の腕を折り、生きている限り鼓は持たぬと誓って、何処ともなく去ったと申します。……わたくしはその話を聞いたときに斯う思いました。すべて芸術は人の心をたのしませ、清くし、高めるために役立つべきもので、そのために誰かを負かそうとしたり、人を押退けて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべきではない。鼓を打つにも、絵を描くにも、清浄しょうじょうな温かい心がない限りなんの値打もない。……お嬢さま、あなたはすぐれた鼓の打ち手だと存じます、お城の鼓くらべなどにお上りなさらずとも、そのお手並は立派なものでございます。おやめなさいまし、人と優劣を争うことなどはおやめなさいまし、音楽はもっと美しいものでございます、人の世で最も美しいものでございます」
 お留伊を迎えに来た少女が、薬湯をときだと云って入って来た。……老人は苦しげに身を起して薬湯をすすると、話し疲れたものか暫く凝乎じっと眼をつむっていた。
「では、聴かせて頂きましょうか」
 老人はながい沈黙のあとで云った。「……もう是が聴き納めになるかも知れません、失礼ですが寝たままで御免をこうむります」


 金沢城二の曲輪くるわに設けられた新しい楽殿では、城主前田侯をはじめ重臣たち臨席のもとに、嘉例の演能を終って、すでに、鼓くらべが数番も進んでいた。
 これには色々な身分の者が加わるので、城主の席には御簾みすが下されている。お留伊は控えの座から、その御簾の奥をすかし見しながら、幾度も総身のふるえるような感動を覚えた。……然しそれは気臆きおくれがしたのではない。楽殿の舞台でつぎつぎに披露される鼓くらべは、まだどの一つも彼女をおそれさせるほどのものがなかった。彼女の勝は確実である。そしてあの御簾の前に進んで賞を受けるのだ。遠くから姿を拝んだこともない大守の手で、一番の賞を受けるときの自分を考えると、その誇らしさと名誉の輝かしさに身が顫えるのであった。
 やがて、ずいぶん長いときが経ってから、遂にお留伊の番がやって来た。
「落着いてやるのですよ」
 師匠の仁右衛門は自分の方でおろおろしながら繰返して云った。「……御簾の方を見ないで、いつも稽古するときと同じ気持でおやりなさい、大丈夫、大丈夫きっと勝ちますから」
 お留伊は静かに微笑しながらうなずいた。
 相手は矢張り能登屋のお宇多であった。曲は「真の序」で、笛は観世幸太夫が勤めた。……拝礼を済ませてお留伊は左に、お宇多は右に、互の座を占めて鼓を執った。
 そして曲がはじまった。お留伊は自信をもって打った、鼓はその自信によく応えて呉れた。使い慣れた道具ではあったが、かつてそのときほど快く鳴り響いたことはなかった。……三ノ地へかかったとき、早くも充分の余裕をもったお留伊は、ちらと相手の顔を見やった。
 お宇多の顔は蒼白あおざめ、その唇はひきつるように片方へゆがんでいた。それは、どうかして勝とうとする心をそのまま絵にしたような、烈しい執念の相であった。
 その時である、お留伊の脳裡にあの旅絵師の姿がうかびあがって来た、殊に、いつもふところから出したことのない左の腕が! ――あの人は観世市之亟さまだった。
 お留伊は愕然として、夢からめたように思った。
 老人は、市之亟が鼓くらべに勝ったあとで自分の腕を折り、それも鼓を持つ方の腕を、自ら折って行衛をくらましたと云ったではないか。……いつもふところへ隠している腕が、それだ。――市之亟さまだ、それに違いない。
 そう思うあとから、眼のまえに老人の顔があざやかな幻となって描きだされた、それからあの温雅な声が、耳許ではっきり斯うささやくのを聞いた。……音楽はもっと美しいものでございます。お留伊は振返った。そして其処に、お宇多の懸命な顔をみつけた。ひとみのうわずった、すでに血の気を喪った唇を片方へひき歪めている顔を。
 ――音楽はもっと美しいものでございます、またと優劣を争うことなどおやめなさいまし、音楽は人の世で最も美しいものでございます。老人の声が再び耳によみがえって来た。……お留伊の右手がはたと止った。
 お宇多の鼓だけが鳴り続けた。お留伊はその音色と、意外な出来事に驚いている客たちの動揺を聴きながら、鼓をおろしてじっと眼をつむった。老人の顔が笑いかけて呉れるように思え、今まで感じたことのない、新しいよろこびが胸へ溢れて来た。そして自分の体が眼に見えぬいましめを解かれて、柔かい青草の茂っている広い広い野原へでも解放されたような、軽い活々とした気持でいっぱいになった。
 ――早く帰って、あの方に鼓を打ってあげよう、この気持を話したら、きっとあの方はよろこんで下さるに違いないわ。お留伊はそのことだけしか考えなかった。
「どうしたのです」
 舞台から下りて控えの座へ戻ると、師匠はすっかり取乱した様子でなじった。「……あんなにうまく行ったのに、なぜやめたのです」
「打ち違えたのです」
「そんな馬鹿なことはない、いやそんな馬鹿なことは断じてありません、あなたはかつてないほどお上手に打った。わたくしは知っています、あなたは打ち違えたりはしなかった」
「わたくし打ち違えましたの」
 お留伊は微笑しながら云った。「……ですからやめましたの、済みませんでした」
「あなたは打ち違えはしなかった、あなたは」
 仁右衛門は躍気やっきとなって同じことを何十回となく繰返した。
「……あなたは打ち違えなかった、そんな馬鹿なことはない」と。
      ×
 父や母や、集っていた親族や知人たちにも、お留伊はただ自分が失敗したと告げるだけであった。誰が賞を貰ったかということももう興味がなかった、ただ少しも早く帰って老人に会いたかった。森本へ帰ったのは正月七日のれがたであった。疲れてもいたし、粉雪がちらちらと降っていたが、お留伊は誰にも知れぬように裏口から家を出て行った。
「まあお嬢さま!」
 松葉屋の少女は、不意に訪ねて来たお留伊を見て驚きの眼をみはった。……そして直ぐ、訊かれることは分っているという風に、
「あのお客さまは亡くなりました」
 とあたりまえ過ぎる口調で云った。「……あれから段々と病気が悪くなるばかりで、到頭ゆうべお亡くなりになりました。今日は日が悪いので、おとむらいは明日だそうでございます」
 お留伊は裏の部屋へ通された。
 老人は北枕に寝かされ、逆さにした枕屏風まくらびょうぶと、貧しいしきみの壺と、細い線香の煙にまもられていた。……お留伊は顔の布をとってみた。衰えきった顔であった、つぶさに嘗めて来た世の辛酸しんさんが、刻まれているしわの一つ一つに浸みこんでいるのであろう。けれどいますべては終った、もうどんな苦しみもない。困難な長い旅が終って、老人はいまやすらかな、眼覚めることのない眠の床に就いているのだ。
 ――ようなさいました。
 お留伊には老人の死顔が、そう云って微笑するように思えた。
 ――さあ、わたくしにあなたのお手並を聴かせて下さいまし。
「わたくしお教で眼が明きましたの」
 お留伊は囁くように云った。「……それで色々なことが分りましたわ、今日まで自分がどんなに醜い心を持っていたか、どんなに思いあがった、たしなみのない娘であったか、ようやくそれが分りましたわ、それで急いで帰って来ましたの、おめにかかって褒めて頂きたかったものですから」
 お留伊の頬にはじめて温かいものが滴った。それから長いあいだ、袂で顔をおおいながら声を忍ばせて泣いた。……長いあいだ泣いた。
「今日こそ本当に聴いて頂きます」
 やがてなみだを押し拭って、お留伊は袱紗ふくさを解きながら囁いた。「……今までのようにではなく、生まれ変った気持で打ちます、どうぞお聴き下さいまし、お師匠さま」
 今はもう、老人が観世市之亟であるかどうか確めるすべはない、けれどお留伊はかたくそう信じているし、またよしそうでないにしても、その老人こそ彼女にとっては本当の師匠であった。
 部屋はもう暗かった。……取寄せた火で鼓の皮を温めたお留伊は、老人の枕辺に端坐して、心をしずめるように暫く眼を閉じていた。……南側の煤けた障子にほのかな黄昏の光が残っていて、それが彼女の美しい横顔の線を、暗い部屋のなかに幻の如く描きだした。
「いイやあ――」
 こうとして、鼓は、よく澄んだ、荘厳でさえある音色を部屋いっぱいに反響させた。……お留伊は「男舞」の曲を打ちはじめた。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「少女の友」
   1941(昭和16)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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