燕(つばくろ)

山本周五郎




若い人たち(一)


 佐藤正之助が手招きをした、「こっちだ、大丈夫だよ、祖父がいるだけだから」
「でも悪いわ」と阿部雪緒ゆきおささやいた、「お庭を通りぬけたりして、もしもみつかったらたいへんよ」
「こっちの松林をゆけば裏木戸があるんだ、木戸の外には栗の木が茂っているから、そこなら誰にもみつからずに話ができるんだよ」
「だめ、いやよ」雪緒はかぶりを振った、「そんなところで二人っきりで話すなんて、わたくしこわいからいや」
「なにがこわいんだ」
「なんでも」と雪緒は脇へよけた、「あなた今日はどうかしていらっしゃるようよ」
「どうかしていらっしゃるようだ、なんて云わなくっても本当にどうかしてるんだ、あなたのためにね、阿部雪緒さん」
「そういうお口ぶり嫌いよ、わたくし、――もうゆかなければへんに思われますわ」
「いらっしゃい、どうぞ」と佐藤正之助は一揖いちゆうした、「力ずくで止めたりはしませんから」
「怒ったふりをなさるのね」
「いらっしゃいと云ってるんです」
「怒ったふりをなさってるのよ」
「どうぞと云ってるだけですよ、みんなのことが心配なんでしょう」
「ねえ、――あとで」と雪緒が囁くように云った、「その栗の木の林がどこにあるか教えて」
「いっしょに来ればわかるよ」
「いまはだめって申上げているでしょ、畑中の早苗さなえさまが待っているのよ」
「兄の采女うねめもいっしょにか」
「ばかおっしゃい」と云って雪緒は急に口へ手を当て、それからすばやく囁いた、「お縁側へどなたか出ていらしったわ、あの方がおじいさまですの」
「そうじゃない」佐藤正之助は伸びあがって、広庭の向うにある母屋を見た、「あれは祖父じゃあない、私の知らない人だ」
「まいりましょう、みつかると困りますわ」

主人と客(一)


 梶本枯泉かじもとこせんは広縁に立って、庭の西端の松林と、その向うにひろがる湖の青い水面と、湖を越した対岸の遠い山なみを眺めながら、幾たびも胸をひろげて深い呼吸をした。
「いいな、昔のとおりだ」と梶本は云った、「松林が高くなったくらいかな、いや、湖水へおりる道がもっとこっちにあったようだな」
「道は十年ほどまえに移した」と座敷の中から佐藤又左衛門が云った、「道の幅だけ松林に隙間があって、向うの山が見えすぎるんだ、若いじぶんはいい眺めだと思ったがね、年をとってからはそれがうるさくなったよ」
「道はもっとこっちにあった」梶本は独りごとのように、うっとりと云った、「ここで裸になって、あの道をまっすぐに駆けおりて、泳ぎにいったものだ、そう」と彼は心の中で数を読んだ、「ちょうど五十年になるな」
「五十年にはならぬさ」
「いや、そうなるんだ、私は絵師になろうと決心して家をとびだした、あれが二十の年の春だからね、まる五十年になるよ」
 又左衛門は喉で笑った、「梶本の強情にはかなわなかったが、家をとびだしたのは本当に絵師になるためだったのか」
「現に絵師になっているじゃないか」
 梶本は湖のほうを見まもったまま、ちょっと黙っていたが、ふと唇に微笑をうかべながら振返った。
檜垣屋ひがきやの娘のことか」
「忘れてはいなかったな」と又左衛門も微笑した、「私はおそらくそうだろうと思った、ほかに気づいた者はないようだったが、私だけはそうだろうと思ったものだ」
「そうだ、そういう勘のするどさだ」と梶本が自分にうなずいて云った、「私はあのころから感嘆していたものだが、佐藤にはほかの者にない勘のするどさがあった、そのうえこの藩はじまって以来、初めて最年少の城代家老になった理由は、ほかにもう一つ大切なものが、――うん」
 松林のかなたで、青年たちの歓声が起こり、続いて活気のあふれる歌ごえが聞えた。
「なんの騒ぎだ」と梶本がいた。
「わからないかな」
「娘たちの声もするようだが」
「わかる筈だがね」と又左衛門が穏やかに笑った、「若い者と娘たちが、一年に一度だけ半ば公然と席を並べたじゃないか」
 梶本は口をとがらせた。それから一種の微笑をゆっくりとその顔にうかべた、「――茸狩きのこがりか」
 又左衛門は頷いた。梶本は湖のほうを見ているので、又左衛門の頷いたことはわからない。二人はそのまま暫く、若者たちの浮き立つような歌ごえを聞いていた。
「しかし、佐藤は知らないだろうが」と梶本が云った、「茸狩りを待っているのはいくじなしだけと云われていたんだよ、茸狩りなんかで娘たちといっしょになって、わくわくするような者は軽蔑けいべつされたものだ、すばしっこいやつは茸狩りなんぞ見向きもしなかったね」
「音頭を取るのは梶本だったな」
「おれが、――なんだって」
「その」と又左衛門が云った、「そういう方面の音頭を取ったのは、梶本だったというのさ」
 そんなことも知っていたのか、と云いたげな顔つきをしたが、梶本は口に出しては云わなかった。若者たちの歌ごえはやんで、舟をぎだした者があるのだろう、の音が二つ三つ聞えて来た。
「われわれの若い日もここから始まった」と梶本が低い声で云った、「自分たちの屋敷でもなく、城でもなく、ここへ集まったとき初めて、人間らしい若さを感じ、思うままに若さを生き、そうして、ここからおとなの生活へ出発していった、――私にはそう思える、ここにこうして立って、この広庭や、松林や、湖水や、対岸の山なみを見ていると、そのことがはっきり眼にうかんでくるようだ」
「ここは留守番だけで、なにをしても自由だったからな」
「佐藤の気性が昔どおりなら、いまの若者たちも遠慮はしないだろう」
「そうらしい、みんな勝手に庭の松林を通りぬけてゆくし、もっと遠慮のない者は酒や弁当を持ちこんで、小酒宴をひらくことさえあるよ」
「そんなときには」梶本は座敷へはいりながら云った、「湯茶の世話でもしてやるのじゃあないか」
「その障子を閉めてやるくらいのことはするさ」
「年をとっても変らないな」梶本は自分の席に坐った、「勘がするどいだけではなく、感じとったことを相手に知らせないというおもいやりが佐藤にはあった、これは口で云うほどたやすいことじゃない、河野、渡貫わたぬき、沢橋、――私が知っているだけでも、この私を入れて四人が危ないところを、そのおもいやりで助けられたからな」
「ばかなことを云っては困る」
「もうお互いに年だ、こんなことを云うのもこれが最後かもしれない、終りの日の来るまえに、云いたいことは云ったほうがいいと思う、佐藤にしても、いまさらそれでてれることはないだろう」
「いや、てれるというわけではない」又左衛門は火桶ひおけ鉄瓶てつびんから、湯を湯ざましへ移し、急須きゅうすと湯ざましとで湯をこなしながら、まるで色褪いろあせた情事を悔みでもするように云った、「――人に云われるまでもない、自分で考えるだけでも冷汗が出るんだ、自分のいやらしさ、わる賢さ、凡俗さというものが思いだされるのでね」
「なにをそう誇張するんだ」
「誇張どころか、もっとはっきり云えば、おれは鼻持ちのならない賤民せんみんだったよ」
 又左衛門はこなした湯を急須に注いで、その急須をゆっくり三度廻してから盆の上におき、茶筒から茶を出して入れ、そっと蓋をした。このあいだに梶本が云った。
「佐藤又左衛門は歴代に比べる者のない名家老と、藩史に残る人物ではないか」
「賤民だな」と又左衛門は繰り返した、「――ありのままに云えば、事務のあやまちや、女や金のことで失敗し、または失敗しそうな友人たちに、自分の力でできる限りは助力した、生涯をともにする妻、ときめていた娘を、友人のために譲ったこともある、――心の中では、そうすればなにかが得られると思った、名声でも金でもない、ひとりの人間として、なにかたしかなものが得られると思った」
 二つの茶碗に茶を注ぎ分けるあいだ、又左衛門は口をつぐんだ。茶碗の一つを梶本に渡し、自分も他の一つを持って、大事そうにすすったが、その動作は機械的で、自分ではなにをしているか意識しないようにみえた。
「ところが、なにも得たものはない」と又左衛門は云った、「城代家老は村野と交代で、おれの才能が認められたのではないし、在職ちゅう治績をあげたといわれるが、これも同僚や部下にすぐれた人間がいて、実際にはかれらが働いて仕遂げたものだ、――それで藩史に比べる者のない名城代だって、嘲笑ちょうしょうならそう云われてもまだ人間らしいが、おれの場合は嘲笑さえも含まれてはいないのだ」
 又左衛門はなお言葉を続けた。沖から帰った漁師が、あげて来た魚がみな売り物にならなかった、とこぼしでもするように。梶本は茶を啜りながら黙って聞いていたが、やがて又左衛門の言葉の僅かな切れ目をみて、やさしみのある口ぶりで云った。
「佐藤には珍しいことを云うが、もうそのへんでいいだろう」それから、なにか批判を加えそうな眼をしたが、思い止ったように頬笑んでみせた、「――佐藤の結婚はおそかった、たしか四十七のときだったな」
「四十六だ」
「私は江戸で通知をもらったが」と云って梶本はまた頬笑んだ、「すると、結婚のおくれたのはその娘のためだったのか」
「その娘とは、――」
「友達のために譲ったという娘さ」
「ああ」又左衛門は巧みに狼狽ろうばいを隠した、それは極めて巧みであり、梶本でなければ気づかなかったろうと思われるものであった、
「あれは一つのたとえだ、私のような味もそっけもない人間に、そんな浮いた話があるわけはないよ」
「庄野の妻になった人か」
「ばかなことを云わないでくれ」
「では新原宗兵衛の妻だな」梶本はわざと意地の悪い調子で云った、「佐藤のことは私が誰よりもよく知っている、その二人のほかにそれらしい娘はいなかった、待てよ」と梶本は唇をみ、持っている茶碗を下に置きながら、さぐるように又左衛門を見た、「――わかった、新原へいった娘だ」
「ばかなことを云っては困る」
 梶本は笑った。あわれみではなく、そんな年になってさえ身構えを崩せない又左衛門の性分に閉口した、といいたげな笑いかたであった。
「侍奉公というやつはつまらないな」と梶本は笑いやんで云った、「私は絵師になってよかった、私ならそんな気兼ねはしない、昔の恋人があって逢いたくなったら、さそいのふみでもやって逢うところだ」
「結構だな」と又左衛門が云った、「檜垣屋の娘はまだ健在だよ、孫は二人あるが、幸い後家になって七八年も経つだろう、文をやって逢ったらどうだ」
「さすがに親友だな」と梶本は受けながした、
「ありがたく礼を云うよ」
 老女のいよふすまをあけて云った。
「渡貫さまがおみえになりました」

若い人たち(二)


 相川忠策が追いつきながら、「おちつけよ渡貫」と呼びかけた。
「そういきり立ったってしようがないじゃないか、それじゃ事がぶちこわしになるよ」
「なにがぶち毀しだ」と渡貫藤五が立停って振向いた、「初めからなにもまとまってはいなかったじゃあないか、それが今日やっとわかった、みんな口先で調子を合わせていただけだ、本気で事に当ろうとしていたんじゃない、ただ口先だけでうまを合わせていただけなんだ」
「そう云ってしまうな」と相川がなだめた、
「渡貫の気持もわからなくはない、慥かに、かれらの中には口先だけの人間もいるよ、藩政改革という気運に調子を合わせていなければ、自分が時勢にとり残され、若いなかまから嘲笑される、ということを恐れるためにね、――本当のことを云うと、十ちゅう七か八まではそういう人間だと思う」
「九分九厘までがそれだ」
「まあ聞くだけ聞けよ」と相川は同じなだめるような口ぶりで云った、「そういう人間の多いことは慥かだが、気運がもりあがって、いよいよというときが来れば、そういう人間でもないよりあるほうがいい、枯木も山の賑わいと思わず、大きな※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおをあげる焚木たきぎというふうに考えないか」
「そんな時期じゃあない、断じてそんな悠暢ゆうちょうなときじゃあない」渡貫はせきこんだため言葉がつかえ、唇をめて、一語一語をゆっくりと云った、「――いいか、今日もこの屋敷で、老臣たちが密会をする、あるじの佐藤又左衛門、もと江戸家老だった庄野重太夫、これももと側用人そばようにん鵜沢帯刀うざわたてわき、ことによると現城代の村野主殿とのもも来るかもしれない」
「しかし」と相川が反問した、「なんのために密会などするんだ」
「ばかなことを訊くな、われわれのことを探知したにきまってるじゃないか」
 相川はちょっと考えて、それからまた訊いた、「それは事実か」
「祖父から聞いたんだ」と渡貫は云った、
「もちろん密会の理由には触れなかったが、これこれの者が佐藤別墅べっしょに集まる、ということをそれとなくおれに告げてくれたんだ」
「渡貫老はわれわれのことを知っているんだな」
「だと思う、おれはそうだと思う」渡貫は自分を慥かめるように云った、「年をとると人間はたぬきになるから、尻尾しっぽをつかまれるようなことはなかなか云わないが、祖父のようすを見ると慥かにおれたちの計画を勘づいているし、それが藩のためだと思っているようだ」
 相川は低い声でうなり、地面に落ちている枯れた松葉を、草履の先でった。うしろの、湖の遠くから、舟ばたを叩く音と、若者たちの喚き声が、水面を伝わって聞えて来た。
「おれは今日やる」と渡貫はひそめた声で云った、「この屋敷へ集まる老臣のうち、一人でもいいからおれの手で斬る」
「そういう犠牲を出さないために、これまで苦心をして来たんだぞ」
「おれがその忍耐をしなかったか」
「渡貫ひとりじゃあない、おれだって同じように忍耐して来たぜ」
「ではいまの、あの連中の」と渡貫は湖畔のほうへ片手を振った、「――あの軽薄な連中のことをどう思う、あれが藩政改革という、大事に当面している者のふるまいか」
「今日は年に一度の茸狩りだよ」
「茸狩りであろうと桜狩りであろうと、大事を計っている人間なら、論ずべきことはまじめに論ずべきだ、それを、――いや」と彼は強く首を振った、「おれはかれらが娘たちにさそいかけたり、ひそかにしめし合せて、どこかで密会しようとすることを非難するんじゃない、そんな個人的なことはどっちでもいいんだ、おれがはらに据えかねるのは、かれらの本心のあいまいさ、当面している大事に対する無誠実さだ」
「こういう問題では、たいていの場合がそんなものじゃあないのか」
「そうだろう」渡貫は呼吸をしずめ、空へ眼をやりながら云った、「おれもこれまではそう思っていた、事をはやまってはならない、一人の力でできる事ではない、なかまの力を結集し、藩ぜんたいの気運にまでもりあげるのが先だと思った、けれども、いまかれらと話してみて、そんな悠暢な方法ではなにごともできない、ということがわかった」
 渡貫は唇をひきしめ、空を見あげていた眼を相川へ戻しながら、ひそめた声で叫ぶように云った。
「万全の手段などというものはない、そういう考えかたは老人のものであり、燃えあがるべき火を消す役にしか立たない、いいか、われわれの目的を要約して云えば、伝統を打ち壊すということだろう、それを常識に即してやろうというのは間違いだ、根本的な考え違いなんだ」
「おい、ちょっと見ろ」と相川が手をあげて云った、「――あの縁側、あそこに立っているのは渡貫老じゃあないか」
 渡貫は松林の端のところまで進み出、眼を細めて向うを見た。
「祖父だ」と彼は口の中でつぶやいた、「――見に来たんだな」
「見に来たとは、――なにを」
「おれがやるかやらないかをさ」と渡貫は云った、「いまおれがなすべきことは、改革断行の火を放つことだ、今日ここで、おれが老臣の一人でもたおすことができれば、くすぶって消えかかっている火が燃えあがる、おれはよろこんで一本の焚木になるぞ」
「おい、待て」と相川が渡貫を追いながら云った、「渡貫ひとりではむりだ、どうしてもやるのならおれもやる、だがそのまえに手筈をきめよう、やるなら仕損じのないようにな」

主人と客(二)


「云うことは同じだな」と梶本が広縁に立っている渡貫義兵衛に云った、「――もっとも、この別墅そのものが、われわれのみんなの若い日を記念しているんだから、どこを見てもなつかしく思うのは当然だろうがね」
「苦い思い出もあるさ」と渡貫が云った、「――あの松林の中には、いまでも胸の痛むような思い出がある」
「湖畔の舟小屋ではないのか」
「あの松林の中だ」と云って渡貫は振返った、「――舟小屋だって」
「庄野とはたし合になったのは、あの舟小屋でのことがきっかけだったろう」
「それは人が違う」
「新原宗兵衛だ」と又左衛門が云った、「庄野とはたし合をしたのは新原だよ」
「しかし新原は」と云いかけて、梶本は笑いながら首を振った、「そうだ、だんだん思いだしてくるが、そう単純じゃなかったな、いや、いまふり返ってみると極めて単純だったが、あのころはみんな血が余っていて、些細ささいなことがみな重大なように思えたし、恋にさえ命をける意気ごみだった」
「それも」と云って渡貫はくすっと笑い声をもらした、「一人の恋人では満足せず、きれいな娘は片っ端から自分のにしたがってな」
「若い軍鶏しゃものようだったな、とさかを振り立て、羽毛を逆立てて、――いま考えるとまさに若い軍鶏そのものだったよ」梶本はその軍鶏の姿を空に描いてみるような眼をした、「――この佐藤ひとりはべつだったがね」
 襖をあけて、老女のいよが云った、「庄野さまおみえになりました」
「やあ、――」はいって来た庄野は、梶本を見、渡貫を見て、なにか云おうとしながらきこんだ、「やあ、これは」と咳のあいまから云った、「これは珍しい、そこにいるのは梶本ではないか、梶本源次郎だろう」
「雅号は枯泉」と又左衛門が云った、「絵師になったということを忘れたのかね」
「ああ」と庄野は首をかしげた、「そんなことだったかな、私はずっと江戸詰だったから、国許くにもとのことは記憶がうすれてしまってね」
 そして渡貫義兵衛に挨拶し、又左衛門の示す席に坐った。渡貫もこっちへ来て座につきながら、今日は珍しい顔ぶれが集まるが、なにかわけがあるのか、と又左衛門に聞いた。庄野の帰国祝いだ、と又左衛門が答えた。庄野が江戸家老を辞して帰国したのを機会に、あのころのなかまで夕餉ゆうげを共にしようと思い、京から梶本も呼んだのだ。それはそれは、と云って庄野はもういちど梶本に会釈した。
「わざわざ京からとはたいへんでしたな」と庄野が云った、「お住居はずっとあちらですか」
「もう二十年ちかくになるかな」と云って梶本は急にくだけた調子になった、「その、――ですか、でしたかはよしにしよう、昔のなかまが集まったんだから、今日だけはおまえおれでやろうじゃないか」
「口ぐせになってしまって」と庄野は扇子を手にしながら苦笑した、「――なにしろ締りのない性分で、あんまり長く勤めすぎましたよ、ええ、佐藤は早く城代になった代りに、終りはきれいにさっと辞職しましたがね」
「あまりにきれいでもないさ」又左衛門は茶をれ替えながら云った、「こっちもずるずると六十八まで勤めてしまったからね」
「あと誰と誰が来る」と梶本が訊いた。
「二人だ」と又左衛門が答えた、「一人は新原宗兵衛、もう一人は平作というんだが、これは会ってみなければわからないだろうな」
「平作だって、姓はなんというんだ」
「ただの平作、いま長浜で小さな料理茶屋をやっているんだ」と又左衛門が云った、「もちろん、もとは家中かちゅうの者だったが、――まあ会えばわかるよ」
「それだけか」
「村野玄斎げんさい、井島頼母たのも、栗木与八の三人は死んだ」と渡貫が云った。
「栗木が、へえ、――」と庄野が云った、「あんな頑丈なからだをして、たしか槍の師範をしたこともあったと思うが、そうかねえ」
「鵜沢というのがいたろう」と梶本が云った、
「鵜沢小助といった筈だが」
「帯刀といってね、これも長いことお側御用を勤めたが」と渡貫が答えた、「いま病気で動けないんだ、寝たっきりもう半年くらいになるんじゃないか」
「私も肝臓のぐあいが思わしくない」と庄野が云って、右の腹部を押えた、「江戸で医者からもう大丈夫と云われたんですがね、こっちへ来る途中から、またこの辺が重っ苦しくなりだして、持薬を送るように江戸へ手紙をやったところです」
「年をとってからの肝臓は命取りだからな」と梶本が云った、「私も酒がちょっと過ぎるとこの辺がおかしくなるんだが、どんな症状が起こるのかね」
 庄野重太夫が説明し始め、みんながしんけんな顔で傾聴した。話は肝臓から心臓に移り、いろいろな病気と、その徴候や予兆、また食餌しょくじのとりかたや睡眠や、持薬の種類や服用法や、女色を断つかどうか、というところまでひろがっていった。
「もういい、この辺でよそう」梶本がふと気づいたように云った、「としよりが集まるときまってこういう話になる、今日だけは年のことも病気のことも忘れようじゃないか」「そのとおりだが、養生のしようによって天寿をまっとうするのも心得の一つだからね」と庄野が云った、「梶本は肥えているから、年相応な養生をするほうがいいと思う、六十を越してから肥えるのはもっともよくないと云うぞ」「六十まではもっと肥えていた」と梶本が云った、「絵を描くのに不自由したくらいだが、そのころに比べると、これでもう三分の一は痩せたんだ、昔と変らないのは佐藤だな、肥えもせず痩せもせず、言葉ぐせまでが昔のとおりじゃないか」
 それでまた健康の話に戻ったが、やがて老女のいよが襖をあけて、「旦那さま、ちょっとどうぞ」と云った。
「なんだ」と又左衛門は渡貫と庄野に茶をすすめながら振返った。
「花屋の主人がまいりましたので」
「ああ」と又左衛門は頷き、他の三人に向って、「平作だ」と云い、老女にもういちど頷いてみせた、「今日は客なんだ、こちらへとおしてくれ」
 老女は襖を閉めて去った。
「花屋だって」と渡貫が又左衛門に訊いた、
「長浜の花屋か」
「そう、あの湖畔にある茶屋だ」
「あれなら二度か三度いったことがある、あるじというのは痩せた小男で、右のこめかみにこのくらいのあざが、――」と云いかけて、渡貫は下唇を噛み、じっとどこかを見まもっていたが、ふと又左衛門のほうへ振返った、「米浦よねうら平四郎か」
 又左衛門は微笑しながら頷いた。平四郎、米浦平四郎、あの乱暴者か、などという言葉が、驚きの調子で云い交された。
「あれが平四郎とは意外だな」と渡貫が云った、「花屋では現に挨拶に来たが、彼はなにも云わなかったしこっちもまるで気がつかなかった、佐藤はまえから知っていたのか」
「ああ、五年ほどまえかな」と又左衛門が答えた、「二十四五のときに出奔して、江戸で庖丁ほうちょうの修業をし、江戸で店をやっていたそうだが、年をとると故郷が恋しくなるのだろう、江戸では一人息子に死なれ、店もうまくいかなかったようだ、息子の嫁は離別し、孫娘をれて帰って来た」
「だが出奔したとすると、この土地へ帰るのはうまくあるまい」
「いや、話はついた」と又左衛門は庄野に答えた、「いま米浦は平四郎の弟の子が継いでいるし、米浦を名のりさえしなければ、ということでおちついたし、長浜へ店を開くについても助力したようだ」
「あの乱暴者がね」と梶本が云った、「――故郷へ帰って、孫娘と小さな料理茶屋か」
「孫娘といってももう三十くらいだった」と渡貫が云って、独りで頷いた、「縹緻きりょうもいいしあいそもいいし、食わせるものもなかなかしゃれていたよ」
「いまに城下の客をさらってみせると云っていたな」と又左衛門が云った、「そのうちに建て増しをするそうだが、新しい座敷は水の上へさしかけに造るんだそうだよ」
 襖をあけて、老女が云った、「花屋のあるじは失礼をすると申しております」
「失礼をするって」又左衛門が云った、「ここへ来るのはいやだと云うのか」
「いいえ」と老女のいよは答えた、「いまでは身分が違いますから、みなさまとの御同席は遠慮したい、その代りに御膳は腕かぎりのものを差上げます、と申しておられます」
「相変らず強情らしいな」
「しかし昔のなかまだ」と渡貫が云った、「われわれも隠居の身の上だし、そんなに堅苦しく考えることはない、気詰りなら挨拶だけでもしに来させるがいい」
「まあいいさ」又左衛門が云った、「来たくないものを呼ぶことはない、好きなようにさせておこう」そして老女に頷いてみせた、「――ではうまいものを頼むと云ってくれ」
 老女は襖を閉めて去った。

若い人たち(三)


「そっちへいってもだめですよ」と佐藤正之助が云った、「なぜ逃げるんです」
「放して、人が見ますわ」と畑中早苗がたもとを押えながら云った、「わたくし逃げはしませんけれど、あなたこわいことをなさるんですもの」
「こわいことってなんです」正之助はつかんだ袂を放さずに云った、「早苗さんがもし私を好きなら、あんなことなにもこわくもなんともない筈だ、もちろん知っているでしょう、あんなもの誰だってすることですよ」
「阿部さまともですか」
「またそれだ」
「阿部雪緒さまともなさるのね」
「そんなことなんの関係があるんです」うんざりするというふうに彼は首を振った、「あの娘はいまにあなたの兄嫁になるんでしょう、そんなこと考えるだけでもばかげていますよ」
「あなたはいけない方よ」と早苗はきつくにらんだ、しかしそれはかえって男をそそるような眼つきになった、「阿部さまばかりじゃなく、ほかに二人も三人もいるのよ、みんなは村野友四郎さまのことを悪く仰しゃるけれど、あなたのすばしっこさにはかなわないわ、わたくしちゃんと知ってるんですから」
「そんなことは誤解だ、あなたは私を誤解しているんだ」と正之助は苛立いらだたしげに云った、「しかし仮に、そんなことがあったとしても、それがあなたとどんな関係があるんです。私はあなたが好きだ、私があなたに夢中だということはよくわかってる筈だし、あなただって私が好きでしょう」
「どうかしら」早苗は含み笑いをし、横眼づかいに彼を見た、「わたくしがあなたを好きだって、あなたは信じきっていらっしゃるのね」
「どうだかな、って、こんどはこっちで云おう、私はなにも信じたりはしない、正直なところ生きることにいそがしいんでね、番たびなにかを信じたり疑ったりする暇なんかないんだ」
「そうね、栗林の中でもおいそがしそうでしたわ」
「私がどきっとすると思いますか」彼は平然と云い返した、「眼に見えるのは形だけだ、栗林の中のことをあなたが見たとすれば、ただ形だけ見たというまでのことで、人間の心の中まで見たわけではない、そんなことにとらわれるなんてばかげたことですよ」
「ではいま、ここにこうしているわたくしたちはなんですの」
 正之助は片手を振ってみせた。
「ごらんのとおりです」と彼は云った、「あなたが私に答えさせたいことは、あなた自身がとっくに知っていることだ、さあ、こっちへいらっしゃい」
「あなたは悪い方よ」
「自分でも望んでいるくせに」
「知りません」
「女のくだらないみえだ」正之助は右の腕をいっぱいに振廻した、「生きていることを充分にたのしみたいのに、人に気がねをしたり世間の評判をおそれたり、徳義だとかたしなみだとか云って自分を金縛かなしばりにしている、そんなことがなんの役に立つんです、あなたは生きているんですよ、あなたは現に生きていて若いんだ、その若さや美しさはすぐに色褪せてしまうんですよ」
「人は、――」と早苗は言葉を捜しながら云い返した、「人は、若さや美しさだけが全部ではございませんわ」
 正之助は調子を変えて云った、「もちろん、江南の真砂まさご女史みたような生きかたもありますよ、知っているでしょう、あの真砂女史」
「和歌の手ほどきをしていただきましたわ」
「あの人は城下随一の美人だったそうです」と正之助は云った、「家柄は中老だが、城代家老のうちより裕福だといわれたし、いまでもそうでしょう。身分もよし金にも困らず、おまけに家中で比べる者のない美人だ、縁談はもちろん、ひそかに恋文をつける者もずいぶんあった、ところが御当人はてんで受けつけない、家柄や金や、美貌などに眼を奪われるような者の妻にはなりたくない、――そう云って片っ端から断わってしまった、さすがだと、老人なかまは褒めたそうだな、婦徳のかがみだなどとも云ったでしょう、惨憺さんたんたるもんだ」
 彼は地面に落ちている枯れ松葉を蹴とばした。それから松林の下生えの笹を一本折り取り、枝葉を払ってむちのようにすると、それを力まかせに打ち振った。それが空を切るたびに、笛を鳴らすような音がし、早苗はたじろいで、二た足ばかりそっと脇へよけた。
「女史は学問ができる、琴、鼓、笛から、茶、華、縫い張りから炊事までできるそうだ」と彼はなにかを憎悪するような調子で云った、「しかもそれが現実にはなにも役立っていない、いまそういうことを家中の娘や婦人たちに教えてはいるが、うちが裕福だから教授料を取るわけでもなし、謝礼を貰っても化粧料にもならないだろう、年はすでに五十六か七、むかし美人だったというおもかげは残っているが、もう恋文をつける者もなし、みとれる者もないだろう、――婦徳のかがみか、若さと美しさの代償としては、あまりに安っぽい褒め言葉だ、くそっ、あなたはいま若く、そして美しい、あなたにとっていまなにより大事なのは、その若さと美しさを充分にたのしむことだ、こんな単純なことがわからないのかな」
「わたくしそういうあなたが好き」早苗ははぐらかすように云った、「そんなふうにむきになっているあなたは、だだっ子のようで可愛かわいいんですもの、あら、どうなさるの」
「頭から喰べてしまうんだ」正之助は早苗の手首を掴み、乱暴に自分のほうへ引きよせた、「この可愛い頭から、手から足まで喰べてしまうんだ」
「あたし声をあげてよ」
「できるならね」と云って正之助は竹の鞭を投げやると、両手で彼女を抱えあげた、「さあ、できるなら叫んでごらん、さあ」
 早苗が叫ぼうとすると、彼は自分の唇で彼女の唇をふさいだ。娘はほんの僅かに反抗したが、かすかに、あまえたようなうめき声をもらすと、抱えられたまま動かなくなった。彼はそのままで、松林の奥へと去っていった。

主人と客(三)


「残念ながら鳥はいけない」と庄野が云った、「奥歯が両方ともだめになってね、魚ぐらいはどうにか噛めるが鳥は手に負えない、香の物もたいていかくやに刻まないとだめだ」
「義歯を入れればよかろう」と梶本が噛んだ物をのみこんで云った、「おれも左右の奥歯は義歯だ、大阪にいい医者がいて、大名などの中にもずいぶん療治に来るよ、半月も滞在すれば済むし、費用もさしたることはない、なんならおれから話しておこう」
「江戸でもそう云われたんだが、どうもこの年になってはね」
「老いこんだことを云うもんじゃない」と渡貫が脇から云った、「これまで公務に縛られて来たんだ、ようやく隠退してこれから余生をたのしむときじゃないか、おれなどはもし女房が死んでくれたら、すぐさま若い側女そばめを置くつもりでいるぞ」
「ああ」又左衛門はゆっくり首を振り、殆んど、聞えないくらいの声で呟いた、「――渡貫がまた」
「渡貫がね」と梶本が又左衛門のあとをつけるように云った。「庄野とはたし合までしてものにした女房を、死んでくれたらなどとよく云えたものだ」
「私とはたし合をしたって」と庄野がいぶかしげに梶本を見た。
「梶本の思い違いさ」と渡貫が云った、「庄野とはたし合をしたのは新原だ、舟小屋で例のことがあってさ」と彼は庄野に笑いかけた、「それから新原宗兵衛とはたし合になったじゃないか」
 庄野は箸を持ったままの手を、静かに膝の上へおろし、どこか遠いところを見るような眼つきで、暫く黙っていた。――老女のいよが酒とさかなの鉢を持って来、かれらの膳部の上を片づけてから、持って来た物を置き替え、庄野の前にある手のつけてない皿を、どうしようかと問いかけるように又左衛門を見た。又左衛門は、さげてよしと云うように頷き、老女は片づけた物を持って去った。
「うん」とこのあいだに庄野が云っていた、「そんなこともあったな、すっかり忘れていたが、そうだ、たしかにそんなことがあった」
「佐藤が仲にはいって、幸いけがもなく済んだが」と渡貫が云った、「あのときおれたちは、佐藤がよけいなことをすると、内心みんな不平だったものだ、庄野も新原も本気でやるつもりらしかったし、どう勝負がつくかこっちはまたたのしみでね」
「この酒をためしてくれ」と又左衛門が云った、「なだの蔵元からじかに送らせているんだが、酢のきいた物や焼き魚にはよく合うと思う」
 四人は肴を喰べ、酒を啜った。
「そんなことはない」と又左衛門が云った、「いや、いまのはたし合の話だが、渡貫も思い違いをしている、あのときは新原も庄野も本気でやるつもりはなかった、どちらも誰か止めにはいるのを待っていた、私にはそれがわかったので止めにはいったのだ」
「佐藤らしいな」と梶本が頷いた、「いかにも佐藤らしい、彼はいつもそういう役にまわっていた、見えないところで人を助けるとか、人を慰めなだめるとか、喧嘩の仲裁をするとかね」
「そうだな」と庄野が云った、「われわれのなかまが長続きしたのも、梶取りに佐藤がいたためかもしれない、あのころから佐藤だけは老成していたからな」
 そして庄野はまた咳をし始め、かなり長いあいだ咳きこんでいてから、懐紙を出して眼をぬぐい、口のまわりをぬぐった。
「夏の風邪は治りがおそいというが」と庄野は弱よわしく云った、「江戸で辞任の許しが出たあとすぐにひいた風邪がまだ治らない、肝臓が弱っているからなおさらだろうがね」
「義歯を入れるほうがいい、歯が悪いのが万病のもとだというぞ」
 襖をあけて、老女のいよが「旦那さま」と云い、又左衛門が振向くと、一種の眼まぜをした。なにか客には知らせたくない用があるらしい、又左衛門は三人に会釈して立っていった。
「新原の奥さまです」又左衛門が近よるのを待って老女が囁いた、「奥のお客間におとおし申しました」
「妻女だけか」
「はい」と云って老女はもっと声をひそめた、「新原さまがお亡くなりになった、と仰しゃっていらっしゃいました」
 又左衛門は息を止め、驚きをしずめるように、ゆっくりと、吸いこんだ息を吐きだした。
 中廊下の途中を左へ曲ると、右側に婦人用の客間がある。八年まえに妻が亡くなってから、殆んど使ったことはないが、深い土庇どびさし造りの縁側の向うは、横庭から湖水の一部を眺めることができた。――新原こずえは敷物からはなれて坐り、じっと湖水のほうを見まもっていた。膝の前には茶菓が出してあるが、手をつけたようすはなかった。又左衛門が静かにはいっていって坐ると、こずえは向き直って挨拶をした。
 六十半ばとは思えないほど若わかしくみえる。小柄な躯はほっそりしているが、いささかのたるみもない肌はつややかに張っているし、髪の毛もたっぷりと黒く、青い眉のりあとや、その下に少しくぼんでいるつぶらな眼など、どちらかというとなまめかしくさえ感じられた。
「それは急なことでした」又左衛門は話を聞いて悔みを述べた、「つい四五日まえに会って、今日の集まりの話をしたときには、べつに変ったようすもなかったようですが」
「はい、新原も今日をたのしみにしておりまして、朝餉あさげのあとまではふだんと変りがなかったのですけれど」こずえは小さく切った絹の布をたたんだきれで、そっと鼻を押えながら云った、「ひるちょっとまえに茶をいただいておりまして、急に立ちあがって縁側へ出ますと、そこでひどく吐血をして倒れました」
 多量の吐血をしたあと、暫く胸を押えて苦しんだ。すぐに医者を呼びにやったが、医師の来たときはもう死んでいた。そこまで話すと、こずえは布切で口を押え、肩をすぼめるようにして嗚咽おえつした。
「医師を呼びにやりましたあと、新原はわたくしに、あなたのところへあやまりにいってくれ、と申しました」
「どうしてです」
「わたくしもゆるしていただきとうございます」とこずえは嗚咽しながら云った、「――新原は、あなたからわたくしを奪ったことで、長いあいだ後悔していたようですし、わたくしも自分の罪の深さに苦しんでまいりました」
「そんなことはない」又左衛門は微笑しようとした、「それはあなた方の思いすごしです、新原は正当に縁談を申込み、両家の親御たちも承知されて祝言をした」
「いいえ」こずえはかぶりを振った、「そのまえに新原はあなたに相談を致しました」
「友人だからです」
「あなたのお気持がわかっていたからです」とこずえは云った、「先に相談をすれば、あなたが譲って下さるということを見ぬいていたからですわ、新原の思ったとおり、あなたは御自分のことはなにも仰しゃらず、新原のために縁談をまとめる手筈さえととのえて下さいました」
「それはやはり思いすごしです」と又左衛門はいたわるように云った、「私がもしあなたを本当に欲しかったなら、いくら友人に相談されたからといってあとへはひかなかったでしょう、たしかに、私はあなたが好きだった、まわりにいた幾人かの娘たちの中で、妻に迎えるならあなただと思っていました、けれども、それは私ひとりではなく、あなたを知っている者ならたいていはそう考えていたでしょう、新原はそういう者ぜんぶを押しのけるほど強くあなたを愛していた、仮に私が譲ったとすれば、私の愛は彼ほど強くなかったというだけですよ」
 こずえの嗚咽がやや高くなった。
「さあ、さあ」と又左衛門が云った、「新原が悔むこともなし、あなたが自分を責めることもありません、もしなにかがあったとしても遠い昔のことです」
 こずえはなにも聞いていなかったのか、嗚咽がしずまるのを待って、訴えるような声で云った。
「新原もわたくしも、結婚するとまもなく、あなたに申し訳のないことをした、と思うようになりました、子を生み、孫が生れても、わたくしたち夫婦はそのことのために、どうしてもしっくりいかなかったのです、新原は自分を責めるだけでなく、わたくしが新原を断わってあなたのところへゆかなかったことで、わたくしをも責めました、いまここに――」こずえは眼をぬぐって、又左衛門の隣りあたりをじっとみつめた、「人にもし魂があるなら、死んだ新原の魂はここに来ているでしょう、新原の魂がここにいるものとして申しますけれど、新原がわたくしを責めましたのは、わたくしがあなたの妻にならなかったからではなく、結婚をし子を生んでも、わたくしがしんから新原の妻になりきらないことを」
「あなたは不幸のために気がみだれている」と又左衛門はやわらかに遮った、「そういうことを云うのは気持が紊れているためです、どうかもうよして下さい、私も聞きたくありません」
 こずえは又左衛門の眼をみつめた。涙のまっているその眼には、怒りともとれる強い光があった。
「一生にいちどくらい」とこずえは囁くような声で云い、「一生にたったいちどくらい」と云い直した、「しんじつあったことをあったとおりに認めてはいただけないでしょうか」
「年をとってくると、人間の考えかたもいろいろと変るものです」
「あなたはお変りになりません」とこずえは云った、「あなたは昔のままのあなたですわ、人のために助力をし、失敗を償ってやり、御自分が悲しんでいるときでも、それを隠して人を慰めたり励ましたりしていらしった、それも誰にも知れないように、――けれどもあなたは、あなたに負いめを持っている人たちにとって、その負いめがどんなに重いものであるか、知ってはいらっしゃらないでしょう、わたくしたちの場合も、あなたは思いすごしだと仰しゃる。そう仰しゃればわたくしたちの気持が楽になるとお考えかもしれません、そうお考えになっているのでしょう」
 又左衛門は静かに頭をめぐらせて、湖のほうを見た。
「新原とわたくしのくらしは、おもてこそ平穏無事にすごしましたけれど」とこずえはまた布切で鼻を押えながら云った、「二人の心は古い傷の痛みからぬけでることができませんでした、――もう助からないと思ったとき、新原はあなたのところへいってびるようにと申しました、けれどもあなたはそれを受けようとはなさらない、臨終を前にした新原の気持さえ、あなたはすなおに受けては下さらない、――それがもし奥ゆかしい劬りだとしたら、わたくしはあなたをお気の毒に思うだけです、そういうふうに御自分をころして生きていらしったあなたに比べれば、心に負いめや傷を持って、その重さや痛みに耐えながら生きて来た新原のほうが、よほど人間らしく、そして生き甲斐があったと思うからです」
 又左衛門は黙って湖のほうを見やっていた。
「いまようやくわかってきました」とこずえは低いけれどもしっかりした口ぶりで云った、「あなたのためにお互いを責めながら、わたくしたちがしんじつ愛しあったのはお互い同志だったのです、新原がわたくしを責めるのは、わたくしがしんじつ自分のものであるかどうかを慥かめたかったのでしょうし、わたくしが自分を責めるのは、しんじつ新原を愛していることが、あなたに申し訳ないように思えたからですわ」
「どうしてそうでないわけがありますか」と又左衛門は湖を眺めたままで云った、「――新原とあなたとは、紛れもなく仕合せな夫婦だったのですよ」
 こずえは又左衛門の横顔を、きつい眼つきで凝視した。
「もういちど申上げますけれど」とこずえは云った、「あなたは本当にお気の毒な方でございますわ」
 又左衛門は黙って会釈した。こずえは眼のまわりをぬぐい、鼻を押えてから、別れを告げて立ちあがった。――又左衛門は内玄関まで送ってゆき、こずえを待っていた侍女といっしょに、敷石道を門のほうへ去るまで、内玄関に立って見送っていた。
 元の広間へ戻ると、三人はもう茶を啜ってい、又左衛門の膳部だけが据えてあった。又左衛門はいよを呼んで、その膳部をさげさせ、自分にも茶を淹れさせた。
「そこがどうもわからない」と梶本が能弁に話していた、「あのころわれわれは野心に燃えていた、それぞれ目的は違っても、出世をし名をあげ、青史に残るような仕事をしようと誓った、ここで幾たびも誓いあった、覚えているだろう、庄野」
 彼は庄野を見、渡貫を見、又左衛門を見た。かれらの顔はこころよい酔のために赤らみ、その眼には遠い思い出を追うような、静かな昂奮こうふんの色があらわれていた。庄野が頷き、渡貫が頷き、又左衛門は穏やかに微笑した。
「鵜沢小助、――」と梶本は続けた、「帯刀といったか、彼と死んだ栗木与八の二人は中でも野心満々だった、世間のおとなどもがみんなくだらない無能な人間のようにみえ、政治からなにからすべて気にくわなかった、そうだ、いま思いだしたが、栗木与八は藩政の腐敗を怒って、重臣たちを誅殺ちゅうさつするなどと云いだしたこともあった」
「たしかそのために」と渡貫が云った、「二十日だか三十日だか、謹慎を命ぜられたように思うがな」
「私は江戸で聞いたな」と庄野がたのしそうに云った、「栗木のほかに四人か五人、謹慎を命ぜられたのだろう、江戸でもなにごとが始まったのかと、若い者たちはだいぶざわざわしたものだ」
「あれも血が余っていたからだ、理由は二の次で、とにかくなにか思いきったことをせずにはいられなかったんだね」と梶本が云った、「――そういうふうに、迷ったり躓いたり、失敗を繰り返したりしながら、ふしぎなくらいみんな順当に成長した、初めの目的どおりとはいかないまでも、殆んど目的を達したと云っていいだろう」
「おれは交代寄合こうたいよりあい元締もとじまりまでだったが」と渡貫が云った、「佐藤はわが藩はじまって以来の若さで城代、庄野は江戸家老、鵜沢は側用人とね」
「そして梶本は」と庄野が云った、「おれの思いだしたことに誤りがなければ、土佐派の絵師として天下にその名を知られている筈だ」
 又左衛門はそっと庄野を見た。さっきは梶本源次郎としか覚えていなかったのに、枯泉という雅号から思い当ったのだな、と考えたようであった。
「いまは謙遜けんそんはよそう」と梶本が云った、「おれは慥かに土佐派では知られている、おれの描いた屏風びょうぶは紀伊家をはじめ、加賀、越前、土佐の諸家におさまっているし、京の寺々には襖絵がずいぶんある、いまは奈良の法林寺から金堂の壁絵を頼まれて、その下絵にかかっているところだ」
「つまり」と梶本は続けた、「おれだけに限っても、若い血をたぎらせて望んだものが、ほぼそのまま自分のものになった、それにもかかわらず、実感としてはなにもつかんだような気がしない、若いころ待ち望んだ輝かしいもの、栄誉や名声のもつ胸のときめくような感動は、若いころよりもはるかに遠く、手の届かないかなたへ去ってしまったように思える、そういう感じはしないか」
「絵などを描いていると妙なことを考えるものだ」と渡貫が苦笑して云った、「しかしそう云われてみると、慥かにそんな感じはするようだな」
「それとも」と庄野が云った、「そういう輝かしいものは、初めからなかったともいえるのではないか」
「いや、思いだしてみればわかる」と梶本はそっと眼を細めた、「――おれたちはここで、この屋敷の広庭で誓ったこともある、そうだ、広庭で火をきながら、焚火を囲んで酒を飲みながら、いまに天下を取ってみせると誓った、無能な重臣たちを放逐して、藩の政治を新しく、根本から建て直すと誓ったのは、庄野や死んだ村野だったろう、領内の耕地や道路について、また工業農産業について、夢のような計画に熱中した井島頼母たちがいた、おれは絵師になりたかったが、みんなそれぞれの野心を語りあい、必ず目的を達してみせようと誓いあったものだ、――あのとき、おれたちの眼に、未来の輝かしさがみえなかったか、おれたちの到達するところに、胸のときめくような名声や栄誉の座があることを信じなかったか」
 梶本はそこで口をつぐんだ。庄野は持っている茶碗をみつめ、渡貫は庭のほうを見、又左衛門は天床てんじょうを見あげていた。
 広縁の外では、二人の老人が、大きな方形の卓を運んで来、陶製の腰掛を四つ、その卓の四方に据えていた。卓はがっしりとした胡桃くるみ材で、なんの飾りもないが、時代がついているのとよく拭きこんであるためだろう、その単純な形がそのままで、云いようもなく美しく荘重にみえた。
「そうだ」と庄野が低い声で云った、「――おれたちには輝かしい未来があった」
「渡貫はどうだ」
「念には及ばないさ」と渡貫は答え、「焚火をしたのは庭のあのあたりだ」とそちらを指さして云った、「みんなの昂奮した顔、激しい昂奮のために、眼が血ばしっているような顔が見えるようだ」
 そこでまたかれらは黙った。
 松林のかなた、おそらく湖畔であろう、青年たちの歌ごえが聞え、どっとはやしたり笑ったりするのが、とぎれとぎれに聞えて来た。だが、こちらの老人らの耳にははいらないのであろう、かれらは追憶の甘さと苦さを、それぞれの想いの中で、それぞれに噛み味わっているようであった。
「さて、――いまはどうだ」と梶本がしゃがれた声で云い、咳をして云い直した、「みんなが殆んど、めざしたものを手に入れたいまはどうだろう、誰かこれまでに一度でも、名声や栄誉の輝かしい感動にひたった者がいるだろうか、――庄野はどうだ、佐藤は、渡貫は」
 渡貫がなにか云おうとして黙り、庄野は自分の心の中をのぞくような眼つきで、なにも云おうとはしなかった。
「少し独り合点のようだが」と梶本は太息といきをついて続けた、「われわれはみな、目的に向って全力をつくした、佐藤の城代家老は一代交代ではあるが、当人が無能では一代交代も行われはしない、それはむしろ佐藤にとって大きな負担だった、彼はその負担に耐えたばかりではなく、藩史に銘記されるほどの功績をあげた、佐藤は同僚や下役たちの力だと云ったが、同僚や下役たちに充分はたらかせるところにこそ、城代家老の才腕があるのだろう、――こうして、みなそれぞれに力いっぱい努力しながら、一歩一歩と目的をはたして来たわけだが、目的に近づくほど、名声の輝かしさや、誇らしき栄誉というものは遠くなり、庄野の云ったように、そんなものは初めからなかったようにさえ思えるようになった」
 渡貫が喉で笑った、「栄誉どころか」と彼は皮肉な調子ではなく云った、「いままでに自分のして来たことがすべて、なんの意味もない、むなしいことのようにしか思えない」
「梶本はべつだがね」と庄野が云った、「――梶本の絵は大名諸侯や、寺社、愛好家に珍蔵されて、千年のちまでも残るだろうからな」
「うちあけたところ」と梶本はまじめな口ぶりで云った、「もしできることなら、死ぬときにはこれまで描いた絵を一枚残らず、焼き捨てて死にたいと思っているよ」
 かれらはまた沈黙した。その中で、又左衛門が静かに立ちあがって広縁へ出た。庭では二人の老人が卓の用意をしてい、松林に夕靄ゆうもやの立ち始めるのが見えた。
「あの声を聞いてくれ」と梶本が頭をかしげながら云った、「――茸狩りに来た若者たちが歌っているぞ」
 渡貫と庄野が耳をすました。
「うん、思いだすな」渡貫がゆっくり二度、三度と頷いて云った、「あのころのおれたちの声を聞くようだ」
 庄野は黙ったまま眼をつむった。

若い人たち(四)


 村野友四郎と畑中采女が松林の中をやって来て、村野が立停り、下草の中から女の履物の片方を拾いあげた。
「早苗さんのものではないか」
 村野はそれを畑中に見せた。
「妹のだ」と畑中は受取って云った、「この奥に相違ない」
 二人は松林の奥へゆこうとした。するとそっちのほうから、佐藤正之助が畑中早苗を背負って出て来た。
「なんだそのざまは」と畑中が喚いた、「早苗、みぐるしいぞ」
「履物をなくしたんでね」と正之助が云った。
 畑中は持っている履物を、二人のほうへ投げてやった。早苗はあおくなり、正之助の背中からすべりおりて、履物をはいた。
「恥を知れ佐藤」と畑中が叫んだ、「きさまそれでも侍か」
「まあそう怒るなよ」正之助はおちついて云った、「今日は年に一度の茸狩りだし、早苗さんとは話すことがあったんだ」
「阿部さんの娘とはどうだ」
「そうどなるな」
 畑中は「こいつ」と云って正之助のえりを掴み、「こっちへ来い」と、乱暴に広庭のほうへ小突いていった。正之助は温和おとなしく、されるままになっていた。
「お兄さま」と早苗があとを追いながら叫んだ、「お兄さま、お願いですから乱暴なことはなさらないで」
「きさまは黙っていろ」松林の外へ出ると、畑中は掴んでいた衿を放してどなった、「女の出る幕ではない、黙って引込んでいろ」
「まあおちついてくれ」と正之助が云った、「わけも聞かずに怒ってもしようがないじゃないか、とにかくわけを話すから」
「ごまかしてもだめだ」畑中は自分で自分の怒りをあおるように喚き返した、「阿部さんの娘は席へ泣いて戻った、どうしたのかと訊いてもなにも返辞をしない、側にいた娘の一人が、あの丘の栗林の中できさまといっしょだったと教えてくれた、きさま雪緒さんをどうしたのだ」
「あの人は畑中の婚約者だろう」正之助は唇に微笑をうかべながら云い返した、「婚約した以上はあの人を信じている筈だ、おれは畑中とは友人の仲だし今日は年に一度の茸狩りだぞ、知っている者同志が少しばかり歩きながら話したって、眼の色を変えて怒るほどのことではないじゃないか」
「雪緒さんはおれの婚約者だ、それを伴れ出しても怒るようなことじゃあないのか」
「ないと思うね」と正之助が云った、「あの人はおまえと婚約はしたが、まだ妻になったわけじゃない、まだ嫉妬しっとをするのは早すぎるだろう」
「嫉妬だと」畑中の顔は赤くなった、「きさまには武家の作法と嫉妬の区別もできないのか」
 このあいだに、湖のほうから若侍たちが次つぎとあがって来、このようすを遠巻きにして眺めていた。こちらでは早苗が、しきりに「お兄さま」と呼びかけてい、村野友四郎が彼女を押えていた。
「やきもちのうえに作法まで持ちだすな」と正之助が云った、「おれが雪緒さんと話したのは、畑中が邪推するようなことじゃない、そのへんでやめにしないと、あとで引込みのつかないことになるぞ」
「雪緒さんのことだけではない」と畑中がむきになって叫んだ、「きさまはおれの妹まで誘惑した」
「お兄さま」と早苗が叫んだ。
「現に下生えの中に履物が落ちていた、きさまが松林の奥で妹になにをしたか、もし弁解ができるならしてみろ」
「そんなことはしないね」
「弁解もできないのか」
「できなくはない、する必要がないんだ」
「よし、抜け」と叫んで畑中はうしろへとびさがり、刀のつかへ手をかけた。
「どうするんだ」
「きさまを斬ってやる」と云って畑中は刀を抜いた、「いいから抜け、佐藤」
「おれを斬るって」正之助の眼がいたずらそうに光った、「おまえの腕でか」
「誰も止めるな」と畑中が叫んだ。
 正之助はしなやかな身ぶりで刀を抜き、同時にはいていた草履も脱いだ。そこへ阿部雪緒が、三人の娘たちと駆けつけて来、白刃を構えている二人の姿を見るなり、悲鳴をあげた。
「待って下さい、畑中さま」と雪緒がふるえ声で呼びかけた、「あなたは勘違いをしていらっしゃるのです」
「お兄さま」と早苗も村野に押えられたままで叫んだ。「どうぞそんなことをなさらないで下さい、佐藤さまにもしものことがあったら、わたくし生きてはいられませんのよ」
「わけを申上げます」と雪緒もなお呼びかけていた、「佐藤さまとはわたくしたちの祝言のことで相談があったのです」
「わたくしは」と早苗が叫んだ、「佐藤さまと結婚のお約束をしましたのよ」
 畑中の刀がだらっとさがった。
「どうした」と正之助が微笑しながら云った、「おれを斬るんじゃないのか」
「憎いやつだ、きさまは」
「友達のおれの言葉は聞こうともせず、女の云うことはすぐに信じるんだな」と正之助は刀を構えたままで云った、「二人はおれを助けるために、嘘を云っているのかもしれないぞ」
「きさまは憎いやつだ」と云って畑中は手を振った、「いいから刀をおさめてくれ」
 正之助が刀をさげると、遠巻きにしていた若侍たちが、わっと歓声をあげながら、二人のほうへ集まって来た。

主人と客(四)


 渡貫は卓のまわりを廻りながら、その平面や、太い脚部をでてみた。他の三人は脇に立って、渡貫の動作を眺めていた。
「これは浄閑院じょうかんいんさまの御下賜ごかしだったな」と渡貫は云った、「あのころのおれたちには使わせてもらえなかった、いつかいちどは、この食卓でゆっくり食事がしたいと思ったものだ」
「このがんどうは見たことがないな」と梶本が云った、「まえからあったのかね」
「やはり浄閑院さまから賜わったものだ」と又左衛門が答えた、「私は祖父から聞いたのだが、この卓も舷燈げんとうも、――これは船の舷門に掛けるものだそうだが、どちらもオランダ船の船長から浄閑院さまに贈られ、のちに私の祖父が頂戴したという話だった」
「あの殿はよほど西洋のものがお好きだったらしいな」と庄野が云った、「江戸の本邸にも、ギヤマンの鉢や杯が幾組かしまってあるし、オランダ語で注のある海図とか、袂鉄炮たもとてっぽうとか、それに古い葡萄酒まで残っていたよ」
「飲んでみたか」と梶本が訊いた。
「いや」と庄野は首を振った、「浄閑院さまの御遺品には手をつけないことになっているんだ」
「それを馳走しよう」と又左衛門が云った、「やはりこの舷燈や卓といっしょに頂戴したものだそうだが、密封をしたのが一瓶、うしろの穴蔵にとってあるんだ」
「しかし何十年も経つのだろう」と渡貫が云った、「そんな古いものが飲めるのかね」
「保存のしかたさえよければ、古いものほど味がよくなるそうだ」と又左衛門が答えた、「祖父はこの屋敷のうしろに、石でたたんだ穴蔵を造らせたが、それには湿気を防いだり、気温を一定に保つようなくふうがしてある、――今日の集まりに出すつもりで、じつは一と口ためしてみたのだが、私の口ではなかなかうまいと思った」
「酸っぱくはなかったか」と梶本が熱心に訊いた、「おれも京と大阪で幾たびか飲まされたが、どうも酸味が強くていけなかった」
 この家の老僕と、老女のいよが、酒の壺やギヤマンの杯や、菓物くだものの鉢を運んで来、それらを卓の上へ置き並べた。
「私には酸味は感じられなかった」と又左衛門が云った、「渋い味がよくこなれているという感じだったが、まあおのおのでためしてもらうとしよう」
「平四郎を呼ぼう」と渡貫が云った、「さっきの料理の礼も云いたいし、同じなかまだったんだからな、もしなんならおれが呼びにいってもいいよ」
「せっかくではございますが」と老女のいよが云った、「花屋のあるじはもういましがた帰りました」
「平作が帰った」と又左衛門がいよの顔を見た。
「はい」いよは舷燈に火を入れてから答えた、「もう少し人らしくなったら、改めてみなさまを御招待いたします、それまではどうぞお構い下さらぬように、と申しておりました」
「あの暴れ者が」と渡貫が云った、「相変らずの強いやつだな」
「さあ掛けてくれ」と又左衛門が云った。
 かれらは卓に向って腰を掛けた。湖畔のほうで青年たちの歌ごえが高くあがり、松林をぼかして、霧がゆっくりと庭へながれ入って来た。
「みろ、霧だ、――」と梶本が息を深く吸いながら云った、「湖水から来る霧だ、これであのころのものがすっかりそろったぞ」
「悲しいかな、いまの私にはこの霧がいけないんだ」と庄野が両の肩を撫でながら云った、「医者から注意されているんでね、なにか肩に掛ける物はないだろうか」
いよ」と又左衛門が振向いた、「納戸なんどにあるブランケットを持って来ておくれ」
 いよは舷燈の位置を直して去った。れかけてはいるが、まだ舷燈の光が必要なほど暗くはない。又左衛門は酒壺を取って、四つのギヤマンの杯へ、黒みを帯びた赤い酒を、さも大事そうにいだ。――四人の顔には満足さと、たのしい期待の色があらわれ、梶本は両手をこすり合せた。そして、かれらは静かに杯を手に取ったが、老女のいよがブランケットを持って来たので、庄野がそれを肩へ巻きつけるまで待っていた。
「御用はございませんか」老女は去ろうとして訊いた。
 又左衛門は「うん」と頷いた。
「では」と老女が云った、「霧がはいりますから玄関を閉めますが、よろしゅうございますか」
「玄関」と又左衛門が云った、「つばくろがまだ帰らないようではないか」
「燕はもうおりません」といよが答えた、「たぶんもう南へ帰ったのでございましょう、おとついから一羽もいなくなってしまいました」
 又左衛門は頷き、老女のいよは去った。
「燕がどうしたんだ」と梶本が訊いた。
「玄関の中に巣をかけていたのさ」と又左衛門が答えた、「もう七年か八年になるだろう、毎年やって来て巣をかけるんだが、――いってしまったとは知らなかった」
 まるで彼の言葉に答えるかのように、湖畔のほうから、いさましく歓声が聞えて来た。
「ときが来れば」と庄野が云った、「燕も立っていってしまうか」
「しかし来年になれば」と渡貫が云った、「かれらはまた帰って来るさ」
「若いのは子を伴れてね」と梶本が云った。
 又左衛門が杯をあげて、ゆっくりと、云った、「――年をとったのは、骨になってか」
 四人は声をださずに笑い、おのおのの杯を口へ持っていった。黄昏たそがれの色がやや濃くなり、四人を包んだ霧の中で、ぼんやりと舷燈の光が明るくなり始めた。

若い人たち(五)


「ばかばかしい」と渡貫藤五が云った、「なんだと思ったら老人の懐旧談じゃないか」
「だからおちつけと云ったんだよ」と相川忠策が云った、「ああいう隠退した人たちが、政治問題で密会するなんてある筈がないもの」
「おれはもっと骨のある連中だと思った」と渡貫がいまいましげに、地面へ唾を吐いて云った、「いくら隠退したにしろ、藩の政治が腐りかかっているのに、集まって昔話に興ずるなどとはあきれたおいぼれどもだ」
「もういいよ」と相川がなだめた、「なまじ老人たちに口出しをされては、却って事が面倒になる、あの人たちには余生をたのしませておけばいいよ」
「おいぼれどもが」と渡貫は云った、「みんなもう半分は棺桶かんおけへはいったも同然だ、ばかばかしい、帰ろう」
「うん帰ろう」と相川が云った、「今夜の泰正寺の集まりでは穏やかに頼むよ」
「そんなことは問題じゃないだろう」と歩きだしながら渡貫が云った、「穏やかにやろうと荒っぽくやろうと、大事を計るのに方法を選んでなんかいられるか」
「そう云うな」といっしょに歩み去りながら相川が云った、「渡貫はこらえ性がないので困る、大事を計るのは辛抱が肝心だ、そうあせっては事をこわしてしまうぞ」
 かれらは話しながら去っていった。そうして、かれらの話し声が聞えなくなるとまもなく、湖に面した松林をぬけて、佐藤正之助と畑中早苗があらわれた。
「悪い方よ、あなたは」と早苗が囁き声で云った、「あんなことになっても平気な顔をしていらっしゃるんですもの、わたくし呆れてしまいましたわ」
「じゃあどうすればよかった」と正之助が云った、「おろおろして、地面に手を突いてあやまりでもすればいいのか」
「そんなことなすってはいや」
「誰も見ていやあしないよ」
「いけない方ね」と早苗があまえた声で云った、「だめですったら、だめ、いけません」
「なにがいけないもんか、そら」
「いけませんったら」早苗は喉で笑った、「そんなことなさると、兄に本当のことを云ってしまってよ」
「さあ早くいこう」と正之助が云った、「みんなに追いつかれると面倒だ、走るよ」
「待って」と早苗が云った、「暗くってもう足許が見えませんわ、ねえ、手を引いて」
 二人は松林に沿って歩み去った。





底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
   1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
   1960(昭和35)年10月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年10月26日作成
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