山本周五郎





 寛永十二年十一月の或る日、紀伊のくに新宮の町の万字屋という宿に、木村外記となのる中年の武士が来て草鞋わらじをぬいだ。背丈のすぐれて高い、骨ぐみのがっちりとした、いかにも精悍せいかんなからだつきだし、浅黒い膚の面ながな顔にぐいと一文字をひいたような眉や、ひき結ぶと少しうけくちになる口もとや、そしてときどきひじょうに鋭い光りを放つ双眸そうぼうなど、すべてがたくましい力感に満ちているが、そういう風貌とは反対に着ている物も粗末だし、挙措も言葉つきも鄭重ていちょうでものしずかだったから、心なく見る眼にはちょっと近づきにくいというだけで、ごく平凡な、ありふれた武家のひとりとしかうつらなかった。……食事のときにお島というはしためが「お武家さまも本宮へご参詣さんけいでございますか」そうくと、木村外記という武士はそうだとうなずいた。新宮は紀州徳川家の国老のひとり水野出羽守の所領(三万五千石)でその居城があり、まわりには熊野本宮、新宮、那智神社、補陀落ふだらく寺、那智ノ滝など名所が多く、山川の風光も美しかったから、四季おりおりに探勝のつえをひく人が絶えない、夫木、玉葉、新古今などの歌集にもこのあたりを詠んだ秀歌がたくさん載っている。……こういう客は宿へ泊るときまったように名所まわりのあれこれを根問いするもので、婢たちもそれに答えてところ自慢をするのが愛相のひとつになっている、いまもお島は木村外記となのる客が熊野もうでをするというので、なにか訊かれたら知っている限りの話をしようと、給仕の盆をひざにしながら待ち構えていた。けれども相手はそうだと云って頷いたきりなにも云わない、黙ってひっそりとはしを動かしている、べつに肩肱かたひじを張っているわけではないが、そのしずかな、音ひとつ立てない食事ぶりは妙に厳粛な感じで、どうかすると尊い儀式でも見るような印象を与えられた。お島はちょっと膝を直したが、とうとう待ちきれなくなったとみえ、「お武家さまはこちらへはたびたびおいででございますか」とたずねた、客は眼もあげずにいや初めてだと答えたが、それなりまた黙って食事の終るまでなにも云わなかった。せっかく話の穂をむけるのにと、もともとしゃべることの好きなお島はいささかむっとしたようすで、やがて、膳部ぜんぶをさげていった。
 明くる日は朝からよく晴れた小春日だったが、木村外記は殆んど部屋にこもったきりで外出もしなかった、そしてれがたからひどく気温が冷えはじめたと思うと、初更の頃からとうとう雪になり、夜明けじぶんには三寸あまりも積って、なお霏々ひひと降りつのっていた、「おでかけあそばさないでようございました」お島はあいそ笑いをしながらそう云った、「昨日はお三人ばかり本宮へお立ちでしたが、これではさぞお困りでございましょう」外記は明けてある窓から降りしきる雪を眺めていたが「……雪の山路もいいものだ」とつぶやくように云ったきり、いつまでも窓外を見まもっていた。……このあたりには珍しく、雪はまる二日降ってようやくあがった。春さきのように暖かく晴れあがった朝のことである、食事の後の茶をすすりながら、外記は小窓にってうっとりと日をあびていた。その部屋は表からかぎの手にまがった廊下のはずれで、障子を開けると中庭が見え、小窓の外はこの宿の裏庭につづいている、……洗われたように新鮮な日光が雪に反射してぎらぎらと眼に痛いので、窓にもたれた外記は片手でその光りをけながら、かなり遠い城山のあたりをうっとりと眺めやっていた。そのうちにふと、すぐ眼の前にある柱へ間をおいて妙な光りがさすのに気づいた、きらり……きらり……ひじょうに速く、鋭く、きらりきらりと光りがうつるのである。外記は不審に思ってふり向いた。原因はすぐにわかった、そこから右手にこの宿の物置がある、その軒下に一人の若者が立っていて、時をおいては腰の刀を抜いて空をいでいるのだ、なにをしているのかはじめはちょっと見当がつかなかったけれど、やがて板庇いたびさしから滴れてくる雪解の雨だれをねらっているということがわかった。庇から落ちて来る一滴のしずくを、声もかけず抜き打ちにさっと切る、そして刃をぬぐってさやへおさめる、すぐにまた落ちて来るしずくをさっと切る、雨だれはかなりはげしくあとからあとからと滴るが、それをむぞうさに、誤たずさっさっと切り当てるのだ。ほう、と外記の眼がするどい光りを帯びた、若者は二十五か六とみえる、尻切り半纏ばんてんにからずねという身なりからすれば、おそらくこの家の下男でもあろう、手足も肩つきも肉瘤にくりゅうが隆々としているし、大きな口、太い眉、まなじりの怒った、いかにもあらくれといった感じの風態であった。
「……さなきだに妄執多き娑婆しゃばなるに」外記はなにを思ったか、ふと謡曲「忠度」の一節を低く口ずさみながら、小窓の障子をしずかに閉め、手を伸ばしてそっと茶碗をとりあげた。


 午餉ひるげの膳に向ったとき、外記はふしぎな若者のことを婢にたずねた、「……ああ瘤七のことでございますね」お島は得たりと坐り直した、まるでさあしゃべれるぞと云わんばかりのいきごみである、「瘤七と申しましてもこぶがあるわけではございません」まず赤い唇を舌で湿してからお島は話をはじめた。……若者の名は七郎次という、新宮から熊野川を二里ほどさかのぼった御船という在の農夫の三男であるが、幼い頃からすぐれて力がつよく、奉納相撲などでは近郷に知らぬ者がないくらい名がとおっていた。今から五年ほどまえ、かれは馬に米を積んで城下へ出て来たが、二人づれの旅の武士とゆきちがったとき、なにか無礼があったとか無いとかいうことから争いになった。ほかの者ならあやまって通るところだったろう、ちから自慢のかれは旅の武士だとみて喧嘩けんかを買って出た、そして足腰の立たぬほど叩き伏せられた。戸板でかれて家へ帰ったが、五十日ほどは出あるきもならぬありさまだったのである、その間じゅう、かれはても覚めてもそのときの口惜しさをののしりつづけた、――こんなめに遭うのもおれが百姓のせがれだからだ、おなじ武士だったら、そして腰に刀を差していたら、あんな男の三人や五人に負けているおれではない。歯ぎしりをしてそう叫びたて、ときには暴れだして手のつけられぬこともあった、けれどもしばらくするとそれがぴたりと止んだ、そしてこんどは刀法の独り稽古をはじめた、家の背戸に松林がある、その松の枝へ三尺ほどの棒を麻繩でりさげ、手作りの木刀でそれを叩くのである。牛若丸のむかし語りをそのまま真似たものらしい、――ばかなことをするな、と親や兄たちでいさめたが耳もかさなかった。野良へも出ずに、そんなことを半年ばかりやっていた、それからふいと新宮へ出て来て、本吉権之允という兵法者の下男に住みこんだ、本吉は田宮流を能くし、水野氏に扶持ふちされて家臣たちに教授していた、かれはそこに二年ほど下男をしながら、稽古のありさまを見てはくふうをしたものであろう、或るとき門人の一人にひとて教えてれと申し出た。――親の仇討でもするのか、そう云っておもしろ半分に裏の空地で相手になったが、その門人はしたたかに打ち込まれてしまった。ところが運悪くそれを権之允にみつけられたのである、権之允はひじょうに怒り、――おのれの分際をわきまえぬやつだ、と云ってすぐにその場で暇をだした。七郎次はおどろかなかった、二年のあいだ見まねで太刀さばきの呼吸はのみこんだし、現に門人をみごとに打ち負かして腕に自信もついている、このうえは世に出る機会さえつかめばよい、そう思ってこんどはこの万字屋へ下男にはいったのだ。泊り客のなかには名のある兵法者もあるに違いない、これと思う人物が来たら仕合を申し込んで修業の足しにもし、あわよくばみいだされて出世のつるにもしよう、百姓そだちのかれにはそれが精いっぱいの思案だった、そしてそれをじっさいにやったのである。かれは勝った、……ずいぶん多くの武士と立合ったがいちども負けなかった。「わたくしの知っているだけでも、もう十三人ほどお武家さまに勝っています……」お島は鼻でもこすりたげにそう云った、「けれどもひとつ可哀そうな話があるんでございますよ、お客さまは井戸端でよく洗濯をしている若い娘をごらんなさいませんですか」「……気づかなかったようだな」「おぬいという名で、色の白い、眼に愛嬌あいきょうのある可愛いひとでございます、このひとは瘤七さんの許婚ですが、それは口に云えない苦労のしつづけでございますの、なぜかと申しますと、あのひとは瘤七さんをどうかして元どおりまじめなお百姓にしよう、おさむらいに成るなどという考えをやめさせようとして、どなられても叩かれても側についていて、おりさえあれば泣きながら意見をしているんです、……去年の春ちょっと伊賀の上野というところへ奉公に出たこともあるのですけれど、瘤七さんのことが心配でたまらなかったのでしょう、間もなく戻って来てから、またずっと付きっきりで面倒をみております、ほんとうにいじらしいくらいでございますよ」
 息もつかずに話すのを聞きながら外記はしずかに食事を済ませた、それからほっとしたような婢の顔を見やって、「……だが、瘤もないのになぜ瘤七というのだ」ときいた、「ああそれはこうでございます、誰が云いだしたのかわかりませんけれど、あのひとにはどこかに瘤がある、その瘤が剣術をつかうのだ、そんなことを云う者がありまして、それから瘤七という綽名あだながついたのでございます、そういえばほんとうにあのひとにはどこかに瘤があるようにみえますわ」そう云ってお島はうまく洒落しゃれでもしたつもりか、手の甲で口を押えながらきゃらきゃらと笑った。


 さすがに南国である、晴れた日が二日つづくと、野山の雪はあとかたもなく消えて、風のない暖かな小春日がおとずれた。けれども木村外記はやっぱり本宮詣でにゆくようすがなく、いちど海を見にでかけたほかは、たいてい部屋にいて、なにか書きものをしたり、のんびりといかにも気楽そうに日をあびて過した。……すると或る日、珍しく隣りの部屋へ三人づれの武士の客がはいった、外記はべつに気にもとめなかったが、どうかしたはずみに瘤七というささやきごえが耳についた、囁きごえだったのでかえって耳についたのである、「……いやそう急ぐことはあるまい、逃げるきづかいはないのだから」「そうだ、今夜はゆっくり寐て明日のことにしよう」そんな言葉がきれぎれに聞えてきた、そしてかれらは宵のうちから寐てしまった。その翌朝のことだった、外記が朝餉あさげのあとの茶を啜っていると、隣りの部屋からけしきばんだ話しごえが聞えてきた、「……そのほうが瘤七に相違ないな」「瘤七というのはひとの呼ぶ綽名ですが、たしかにわたくしが七郎次でございます、なにか御用でございますか」「そのほうふた月ほどまえに折笠忠太夫という者と立合った覚えがあるか」「さようでございますな……」瘤七であろうひどくおちつきはらった声つきである、「ずいぶん大勢の方と立合いますので、はっきりご姓名は覚えておりませんが、それがどうか致しましたか」「いやわれらは折笠の同輩であるが、そのほうが刀法に堪能であると聞いて仕合にまいったのだ、われらとも立合うかどうか……」瘤七はすぐには返辞をしなかった、暫く黙って考えているようすだったが、やがて不敵なこえで低く笑いだした、「ああようやく思いだしました、折笠という方はたしか尾州さま御家中でございましたな」「…………」「あのときの勝負はわたくしの木刀が折笠さまの左の二の腕へはいりましたっけ、お気のどくに骨がくじけたと覚えておりますが、そうではございませんでしたか」「そんな詮索よりわれらと立合うかどうかというのだ」「おねがい申しましょう」かれは昂然こうぜんと云った、「修業でございますからどなたには限りません、お望みなればお相手を仕ります」「それでわれらも来た甲斐かいがあるというものだ、よかったらすぐに支度をして出るとしよう」「結構でございます、わたくしはべつに支度もいりません、これからすぐ表でお待ち申しております……」そう云って瘤七の出てゆくけはいがした。
 勘定を済ませて三人の武士がたち去ると、木村外記は机に向ってしずかに墨をすりだした、いつものように書きものをはじめるとみえる、けれども筆をとるいとまはなかった、内庭から廊下へあがるあわただしい足音がしたと思うと、「ごめん下さいまし」と云いながらいきなりこの部屋の障子を開ける者があった、「おねがいでございます」というひきつったような女の声にふり返ってみると、敷居へ半分のめりこむようなかたちで、若い娘がひとりこちらを見あげていた、色白でふっくりとまるい顔に、おびやかされた小鳥のような眸子ひとみが大きくみひらかれている、「おねがいでございます」娘はふるえる声でけんめいに云った、「わたくしの良人おっとに当る者のいのちが危ないのでございます、どうぞあなたさまのお力でお助け下さいまし、どうぞ」「わたしにはそんな力はない」外記はしずかに答えた、「どんな事情か知らぬが役人にでもたのんだらよいだろう」「いいえそのひまはございません、そしてあなたさまのほかにおたのみ申す方はないのでございます」「わたしのほかにたのむ者がないとは……」「はいそれは、わたくしあなたさまを存じあげているからでございます、わたくし去年の夏から半年ほど伊賀の上野に奉公をしておりました、鍵屋のつじのおはたらきは話だけしか伺っておりませんけれど、城下をお通りあそばすおりおり、あれがその方だと教えられて幾たびもお姿を拝見しておりました」娘はじっとこちらを見あげながら云った、「……あなたは荒木さまでございます、荒木又右衛門さまとおみかけ申したればこそ、ぶしつけを承知でおねがいにまいりました、どうぞ七郎次を助けてやって下さいまし、あのひとは三人のお武家に斬られてしまいます」どなられても叩かれても、良人ときまった七郎次の側を去らず、あらゆる苦労をして元の百姓になるよう諫めつづけているという、お島の話は記憶になまなましい、いまその娘が、おぬいがそこにかれを見あげている、良人ときまった七郎次を助けたい、死なせたくないという一念を双眸にこめて、ひっしにかれを見あげているのだ。……かれは隣室の問答を聞いていた、三人の武士はその朋友の復讐ふくしゅうに来たものと思える、起居のけはいと声音を聞いただけであるが、おちついた底ぢからがよく感じられた、――七郎次は斬られるかも知れない、かれもそう考えていたところだ、……しかしそれは七郎次がみずから求めたものである、斬られるとしてもおそらく悔いはあるまい、そう思いきっていたのだが、女の一念をこめた、けんめいな顔色を見るとやはり捨てては置けなかった、「わたしにそのちからがあるかどうかわからないが」そう云ってかれはしずかに立った、「とにかくゆくだけはいってみよう、果し合の場所は知っておるか」救いのひと言である、「ありがとうございます」おぬいの顔が耀くようにみえた、「場所はいつも日和山ときまっています、ご案内を申します」


 木村外記というのは仮名である、おぬいのいうとおり本名は荒木又右衛門だった、かれがどういう人物かということは改めて記すまでもないだろう、だがどうしてこんなところへ来ていたかというと、……その前年、すなわち寛永十一年十一月、かれは義弟に当る渡辺数馬の助け太刀として、伊賀のくに上野の鍵屋の辻で河合又五郎はじめ数名の者を斬った。これは仇討ではあるがほかの場合のように単純ではなかった、河合の党には徳川はたもとの庇護ひごがあったし、渡辺、荒木らには大名のうしろだてがついていた、つまりようやく固定しかかっていた封建制のなかで、旗本と大名という対立がその出来事を中心にひとつの渦紋を巻きおこしたのだ。幕府の機宜の扱いで大事には至らなかったが、河合を討ったとなると、その庇護をしていた旗本たちが、荒木、渡辺らを覘うのは必定と思われた、そこで幕府はひそかに上野城主である藤堂大学頭(高次)に二人の保護を命じた、ほとぼりのさめるまでかくまえという意味である。藤堂家がよろこんで承知したのはいうまでもない、寧ろそのまま家臣に抱えてしまいたかったのだろう、鄭重な客分あつかいで、又右衛門は屋敷を与えられ、なお家中の士に刀法の教授を依託された。復讐ふくしゅうのときにも藤堂家からはかげの助力を受けたし、懇切をきわめたこの待遇にあって、又右衛門は少なからず困惑した、それは旧主である本多氏の恩義と、藤堂家への義理との板挾いたばさみになったからだ。新宮への旅は、その去就をきめるために気持のいとまを求めて来たのである。
 万字屋を出て町筋を北へ、まっすぐにゆくと熊野川の流れへつきあたる、そこを少しさがると、殆んど川に沿って日和山と呼ばれる小高い丘陵があった。おぬいは気もそぞろのようすで、後から来る又右衛門を見かえり見かえり、胸をつくような急坂を登っていったが、やがて左手に台地のひらけているところまで来ると、なにやら叫びながらそこへ立ちすくんでしまった、立合はもう始っていたのである、……叢林そうりんをきりひらいた五百坪ばかりの草原のまん中に、七郎次が木刀を構えて仁王立ちになり、それに対して中年の武士の一人が真剣を抜いていた、れの二人は少しはなれて両者のほぼ中間に立ち、息を凝らせて立合のようすを見まもっている、森閑とした草原とこの闘争の人々の上に、さんさんとふりそそぐ冬の日光はまぶしいほどに思えた。
「……しずかに」又右衛門はおぬいを制して傍らの松の木蔭へ身をよせた、「こえをたてぬよう、暫く見ているがよい」「でも大丈夫でございましょうか……」又右衛門は答えなかった。かれは七郎次の身がまえのすばらしさにおどろいたのである、法はずれではある、我流がむきだしには違いない、しかし無ぞうさに中段へつけた木刀、籠手こてをひき半足に踏みひらいた躰勢には、田宮流の「むちむすび」というかたがもっと単直にあらわれている、それは本吉権之允の稽古から自得したものであろう、烈々たる闘志を蔵してまさに圧倒的なものにみえた。しかし同時にまた相手の腕もなみなみではなかった、木刀に対して真剣を抜いたところも武士らしく断乎としたものだし、正眼の尋常な構えも、七郎次のはげしさとは逆に山湖の水の如くしずかである、しかもそのしずかさは相手の手腕を知り、手腕の限度を見きっているようだ、もしも技において対等だとすれば後者はまさに気で勝っている、……又右衛門はふと右手ではかまをぐっとつかみあげた、するとそれを合図のように、七郎次が絶叫して踏みこんだ、武士はふわりとうしろへひき、七郎次は飛鳥のように間を詰める、その刹那せつなの間をあやまたず、「勝負みえた」と又右衛門が叫んだ。不意でもありよく徹る大音だった、切り返そうとした武士も、間を詰めていた七郎次も、はじかれたように左右へひらき、いっせいにこちらへふり返った。又右衛門はおぬいに向って、「さきへ戻っておれ」と云い、松の木蔭から出てゆっくりと四人のほうへ近づいていった。そして七郎次には眼もくれず、三人の武士のほうへしずかに会釈をして、「……ぶしつけですがさきほどからの勝負を拝見しておりました、次ぎの一刀でこの者のいのち無しと存じ、無礼を押してまかり出たしだいです、勝は明らかにそこもとのものです、さし出がましいがあとはお任せ下さらぬか」「ばかなことをお云いなさるな」七郎次が堪りかねたように出て来た、「どなたか知らぬが勝負はこれからだ、こなたにかかわりはないひっこんでいて貰いましょう」
 又右衛門はふり向いてかれを見た、底の知れない深さと、千斤の重みをもつ眼だった、呼吸五つばかりのあいだ七郎次の顔をみつめていたが、ふたたび又右衛門は向き直った。


 たとえ合意のものでも勝負に死者を出せばところのおきてに触れる、そうなれば主家の名にもかかわり、ことに相手が下郎では武士の体面もよくはない、勝敗はもうみえたのだからこれでひき取られてはどうか。条理のある言葉だし、どこかにいやと云わさぬ態度がみえた、それで三人の武士はこころよく納得し、あとを頼むとさえ云ってそこをたち去った。
「……さあ帰ろうか」三人の去るのを見送ってから、そう云って又右衛門はあるきだした、「おまえにはわからなかったろうが、そして自分では打を押していたつもりだろうが、相手はひきつけて切り返す、その間の見きりがついていた、おまえは胴をとられたろう、それも殆んど両断するほどに」「こなたさまはそうごらんなすった、こなたさまはな……」「信じられぬか、もし信じられぬならばうしろからおれを打ってみろ」又右衛門はふり向きもせずに云った、「……ここから宿まで、いつでもよい打ちこんでみろ」七郎次はなにをというように、きらりと眼を光らせた。どちらかというと小柄な固ぶとりのからだがぎゅんと緊り、木刀を握る手に力がこもった。又右衛門は平然と坂を下りる、ゆったりとした足どりだしかくべつ身がまえをするようすもない、どこもかもあけ放しで、打とうとさえすれば思うところへ打ちこめそうだった。今だという瞬間が絶えず眼前にある、……七郎次は木刀をとり直した、呼吸をはかった、けれど幾たびも「今だ」と思いながらどうしても打ちこむことができない、そのうちにこっちの息がきれはじめ、ふつふつと全身に冷汗がふきだした、すきだらけとみえたうしろ姿が、いつか大きく、ひじょうな重量をもってのしかかり、ともすれば圧しつぶされそうな感じさえする、七郎次は坂を下りきったところで立ち止った、もううしろからいてゆく気力もなくなったのだ。又右衛門はかれのことなど忘れてしまったように、しずかなおなじ歩度でずんずんあゆみ去っていった。
 それからさらに三日いて又右衛門は万字屋を立った。藤堂家からもらった暇の期日がきたのである、……熊野川を越して、海のほうへと下る道をほんの僅か来たときだった、道傍の並木の蔭からとつぜん二人の若い男女があらわれ、又右衛門のゆくてをふさぐように土下座をした、それは七郎次とおぬいであった。「おねがいでございます」七郎次はこちらを見あげながら云った、「わたくしをお屋敷へおつれ下さいまし、どんな辛い勤めもいといません、おつれ下すってひまひまに刀法を教えて頂きとう存じます、なにとぞ、……なにとぞ……」そう云うそばから、おぬいもともども、道埃みちぼこりの上へひたと面を押しつけた。又右衛門は暫くその姿を見おろしていたが、やがて穏やかな調子で、「手をあげるがよい」と云った、「……それほど望むものならばつれてまいろう、刀法も教えろとなら教えぬこともない、しかし七郎次、そのうえ刀法をまなんでどうするつもりだ」「はい道の極意をきわめたいと存じます」「それからどうする……」しずかに又右衛門は問い継いだ、「道の極意をきわめることができたとして、それからさきはどうするつもりだ」「はい、わたくしの身にかなうほどは、たとえ軽輩なりとも武士になりたいと思います」そう云いながらすがるように見あげる眼は、ひたむきな心をそのまま表白するようだった。又右衛門はその眼をじっと見おろしていたが、やがておぬいに向って、「おまえも来るか」と訊ねた、そしておぬいがはいと答えるのを待って、はじめて「ゆるす」と云った。「では望みどおりつれてまいろう、初めに断っておくが、どんなことがあっても不平不満をもらしてはならぬ、また又右衛門がよしと申すまでは身を退くこともならぬ、この約束ができるか」七郎次はよろこびの色のあからさまな面をあげて、「お申しつけは必ず守ります、どんな辛抱も致します、どうぞおつれ下さいまし」と云った、「よしそれではまいれ」
 望みのかなったよろこびはおぬいの顔をも耀かせた、又右衛門はしかしそれには気もつかぬようすで、埃だつ道をもうさきにあるきだしていた。


 又右衛門の住居は侍屋敷のはずれにあった、家は古びてもいたし手狭でもあるが、広い庭には樹が多く、そのなかに六七百年も経たかと思える巨きな樫木かしのきがぬきんでている、また裏はひろびろとうちひらけた草地で、ずっとさきは叢林と畑地に続いていた。……庭の一隅に二十坪ほどの道場があって、三日に一度ずつ藤堂家の侍たちが教えを受けに来るが、その日のほかは客も少なく、庭の樹立に来る小鳥のこえも数えられるような、しずかな明けれが多かった。
 七郎次はまったく下男として働いた、おぬいはくりやと手仕事のほかに、庭の一隅へ畑を作って蔬菜そさいつくりを始めた。ひとつ屋敷にいながら又右衛門とは殆んど会うおりがなく、会っても言葉をかけては呉れなかった。年が暮れ、年が明けてもおなじだった。伊賀の盆地をとりかこむ山なみに、朝な夕なうらうらとかすみがたなびくようになり、やがて花の使が山から里へとおりて来たが、そのあとを追い急ぐようにたちまち野山は若葉となっていった。けれど七郎次の気持にはしばしもとまらぬ季節のうつり変りをあわれと思うほどのいとまもなかった、上野へ来てからやがて半年も過ぎ、短い梅雨のあとにわかに夏がおとずれても、たのみとする人はいっかな刀法を教えては呉れず、ろくろく話をする機会さえない、……どんなことがあっても不平不満を云わない、そういう約束がはじめにとり交わしてあるので、もう少し、もう少しとがまんしていたのだが、ついに待ちきれなくなり、がまんの尽きるときが来た。六月はじめの或る日、……かれは又右衛門が庭へ出て来たのをみかけると、心をきめた顔色で側へあゆみ寄り、「おねがいがございます」と思いきってきりだした。「こちらへお供をしてまいりましてから半年も過ぎました、どうぞ刀法のお手びきをおたのみ申したいと存じます」「そうであったな……」又右衛門は見向きもせずに、「おれもそれは考えていたところだ、しかし七郎次、おまえはもうりっぱなうでをもっている、それ以上はおれにも手びきをすることはない、……あとは道の極意を伝授するだけだ」「ご伝授がねがえますか」七郎次は思わずせきこんだ、「極意のご伝授がねがえるのですか」又右衛門はあらぬ方を見やったままうんと頷き、こちらへ来いと云ってあるきだした。庭の裏木戸をぬけて外へ出る、広い草地のなかへ二三十歩はいってゆくと、立ち止って手をあげ、草地のまん中に立っている高い一本杉を指さした。「あれに杉木がある」「……はい」「日が出て日が沈むまで、杉木はその影を地におとす、わかるな」「わかります」「その影の移るところを掘ってみろ、何処どこからか壺が一つ出てくる筈だ、わが道の極意は一巻の書にしてその壺に封じてある、掘り当てたらその秘巻はおまえのものだ」思いもかけない言葉なのですぐには信じかねた、疑わしげにじっと見あげる七郎次には眼もくれず、又右衛門はしずかに、「おまえに必要なのはその掘り起す努力ひとつだ」そう云った、「しかしむりにとは云わぬ……」そしてそのまま住居のほうへ去ってしまった。
 七郎次は暫くそこに立ちつくしていた、奇矯ききょうのようでもあるしごく当然のようにも思える、道の秘奥を伝授するためには、ずいぶん並はずれた方法をとった古人の逸話も少なくない、これもその例のひとつかも知れぬではないか。かれは半年あまりも側に仕えて、荒木又右衛門という人物をよく見てきた、はなばなしい武名とはおよそ反対に、その日常はきわめて謙虚な、高ごえでは笑うこともないような、ひとくちに云うと隠棲いんせい人のような暮しぶりである。奇矯をろうして快とするようなひとがらでは決してない、……よしやってみよう、七郎次はそうきめて屋敷へ戻ると、物置からくわを一挺とりだして来てすぐに草地へひき返した。かれは一本杉の樹蔭へいって立ち、ぐるっとあたりを見まわした、ひるさがりのやや傾いた日をうけて、杉はいまその影を東のほうへと投げている、その投影を暫く見まもっていたかれは、やがて影のいちばん端、ちょうどこずえにあたるところまであるいてゆき、鍬をとり直すと、いささかの躊躇ちゅうちょもなく力をこめて打ちおろした。
 きつくような暑い日が続いた、朝夕は幾らか涼風も立つけれど、真昼は木葉もゆるがず、膚を焦がすように照りつける日光と、地から蒸れあがる温気とで、じっとしていても骨のぬけるような感じがする、七郎次はその暑さのなかでけんめいに鍬をふるい続けた。広い野なかの杉が、ときの移るにしたがって、地上へ投げる影の範囲は、考えるほど狭いものではない、しかもそこには生きるちからのつよい雑草が縦横に根を張っていて、打ちおろす鍬をともすればがんとはね返す、土を掘るというよりもむしろその雑草の根との闘いでさえあった、「だがここにおれの運をひらくかぎがある……」七郎次は歯をくいしばって自分に云った、「これまでの苦心が実るかいたずらになるか、ここですべてがきまるんだ、へたばるな……」


 かれは食事も満足にはとらなかった、一日じゅう鍬を手にして息をつこうともしない、五日、十日と経つうちに、暑さとはげしい疲れとでみるみるせてゆく、ふだんから無口だったのがこの頃はまったく黙りきりで、なにを云いかけても返辞ひとつしなくなった、げっそりと頬がこけて日焦けのした骨立った顔に、眼ばかりぎらぎらときみ悪く光っている、このままではいまに倒れてしまう、おぬいは見るに堪えなくなった、なんとかしなければならぬと思い、いろいろ考えたあげく、或る夜そっと寝所をぬけだし、身じたくもそこそこに鍬を持って外へ出た、時刻はもう十二時をまわって、しんかんと更けた夜気はおもたく露を含んでいた、足音をぬすむようにして裏木戸から出ると、さいわい空いちめんの星明りで、昼の温気が凝って漂うのであろう、朦朧もうろうと地をもやのなかに、妖しい巨人のような一本杉の立っているのがおどろおどろしく見える、……おぬいはすでに露のおりている草を踏みわけながら、七郎次の掘りかけていた場所へたどり着くと、裾をきりりと端折って鍬をとり直した。するとまるでそれを待っていたように、うしろから「ならんぞ」と云いながら近づいて来る者があった。おぬいはまったく不意をつかれ、あっと叫んでとび退いた、頭から足のさきまでぞっと寒気だった。「……よけいな事をしてはならぬ」そう云いながら近寄って来たのは又右衛門だった、「そうしたい気持はよくわかるが、それでは七郎次のためにならない、本当にあれのためを思うならもっと苦しませなければならぬ」「でも、でも旦那さま……」おぬいはけんめいに云った、「あの人は食事もろくろく致しませぬ、この暑さに一日じゅう照りつけられて、まるで気違いのようになっています、このままでは倒れてしまうに違いありません」「おとこが生きる道をつかむにはいずれにしてもいのちがけだ、七郎次に限ったことではない」「では、……ではお伺い申します」縋りつくような声音でおぬいは云った、「……あんなに死にもの狂いになって捜している壺が、本当にこの土のどこかに、埋まっているのでございますか、本当に……」「おまえがそれを訊ねてどうする」「わたくし恐ろしいのです、あれほど夢中になっている姿を見るのも辛うございますし、もしその壺がみつかって、極意とやらの伝授を頂けたとしますと、あのひとはそれでお侍になってしまいましょう、それを思うといっそいつまでもみつからずにいて呉れたらよいとも考え、どうしてよいか自分でもわからなくなってしまいます、旦那さま……本当に壺はこの土の中に埋まっているのでございますか、本当に……」
 又右衛門は杉の梢を見あげた、地面には靄が這っているけれども、空はぬぐいあげたように晴れ、満天の星があざやかにきらきらと瞬き耀かがやいている、又右衛門はやや暫くその星空をふり仰いでいたが、やがてしずかな声で云った、「……壺は埋まっている、だが埋まっていないかも知れぬ、もし七郎次にそのちからがあれば、埋まっていようといまいと壺は必ずみつかるだろう、肝心なことはかれにそのちからがあるかないかだ、壺の有る無しではない」その言葉がなにを意味するか、おぬいにはむろんわからなかった、「それはどういうわけでございますか」「……口で云うことはできない、だがもう間もなくわかる、おそらくは四五日うちに……」おまえは心配をしないで帰って寐るがよい、そう云って又右衛門は屋敷のほうへ去っていった。
 山なみの上に浮いた白い断雲が一日じゅう動かずにぎらぎらと光っている、そういう猛暑の日がさらに五六日つづいた或る日、七郎次が執念の鬼のような形相で草地を掘り返していると、ふいにうしろから「七郎次、おまえそれはなんだ……」と呼びかける声がした、かれは鍬を手にしたままふり向いた、いつ来たものかそこに又右衛門が立っている、「わたくしがどうか致しましたか」「……おまえはたしか壺を捜している筈だな」「いかにも仰せのとおりでございます」「たしかに」又右衛門は念を押すように云った、「よし、もういちど掘ってみろ」なにがそんなに不審なのかわからず、七郎次は再び鍬をとりあげて土へ打ち込んだ、三打ち、五打ち、すると又右衛門が押し止めるような調子で「……なぜその草を投げるか」とこえをかけた。七郎次ははっとおのれの手を見た、自分でも知らぬ間に、掘り返した土塊の中から雑草の根を抜きとって投げようとしていたのである、かれは又右衛門へふり返った、「……おまえは壺を捜すために土を掘り返している」と又右衛門が云った、「……それなら掘り返しさえすればよい筈だ、なんのために草を抜き捨てるのか」


「草だけではない、おまえはひと鍬おこす毎に瓦礫がれきまで選りだして遠くへ投げ捨てていた、それも今日はじめたことではなく、もう十日以上もおなじことをやって来た、みろ七郎次、おまえの掘り返した土地は畑のようになっている、……これはいったいなんのためだ」
 七郎次はうしろを見やった、云われるとおりだった、うちわたした草原の中におよそ一段あまり、みごとにき返された土が一本の草もなく黝々くろぐろと日光を吸っていた、まったくそれはもうそのまま畑になるようにみえる、……かれは茫然とその土のひろがりを見、やがてわけがわからぬという風に頭をうち振った、まるでわけがわからぬという風に「存じませんでした、夢中でやったものでございましょう、自分にもわけがわかりません」すると又右衛門がきめつけるように「壺はみつかった」と云った、「それが道の極意だぞ七郎次」えっと頭上を一撃された思いで大きく眼をみはり、なかば口をあけて、七郎次は放心した者のように棒立ちになった、又右衛門は「足を洗っておれの部屋へまいれ、改めて申し聞かすことがある……」そう云ってたち去った。七郎次はそれでもなお暫くそこに立ち竦んでいたが、やがてわれにかえって屋敷へ戻った。足を洗い汗をながし、着替えをして母屋へゆくと、又右衛門はかれをおのれの居間へまねき入れて対座した。……黄麻の帷子かたびら葛布くずふはかまをつけ、端然と坐った又右衛門の姿は、これまでついぞ見たことのない厳しさをあらわしていた。
「おまえがどういう仔細しさいで刀法をまなび始めたか、なぜ武士になりたいと望むか、そのわけはおよそわかっている……」又右衛門は穏やかなくちぶりで云いだした、「その理由はわかっているが、おまえの望みは間違っている、と申すよりさむらいというものに就いてまったく誤った考え方をしているのだ、……刀法の極意を会得し、よき主もあらば仕官をしたいとおまえは云った、つまり刀法の達人ともなれば武士の資格があると考える、その大根が違うのだ、なるほど武士は刀法をまなぶ、弓、槍、銃、馬術など、身にかなうかぎり武芸を稽古する、それはたしなみとして欠くべからざるものだから、けれどもそういう武芸を身につけたからといって少しも武士の証しではない、さむらいの道の神髄はそれとはまったく違うところにあるのだ」ではさむらいとはどういうものか、又右衛門はそう云いかけて言葉を切った。七郎次は全身の注意を耳と眼とに集め、いかなる言句もどんな表情も見はぐるまいと、けんめいにこちらを見あげていた。
「……さむらいとは『おのれ』を棄てたものだ、この五躰のいかなる隅にも我意をとどめず、御しゅくんのため藩家のため国のために、いつなんどきでも身命をなげいだす者のことを云う、生死ともに自分というものはない、常住坐臥ざが、その覚悟を事実の上に生かしてゆくのがさむらいの道だ……、おまえの眼からみれば、武士は両刀を差し肩肱かたひじを張って、いばりかえっているもののように思うであろう、しかし実はまるで違う、武士はその一挙手一投足がすべて御しゅくんにつながり、藩家に国につながっている、自分のはじは御しゅくんの耻だ、さればこそ独りを慎み、他行に威儀を崩さないのだ、自分の威を張るためではなく、御しゅくんのおん名が大切なればこそだ、……しかもこれらのことは家常茶飯のうちに溶け込んでいなくてはならない、そうしようと努力をしているあいだはまだ本当ではない、起きていようと寐ていようと、独り居にも会席にも、あらゆる時と場合にそれと気づかずしてこの覚悟が生きていなければならない、その覚悟をかためるのが武道の神髄なのだ、……ちょうどおまえが自分では気もつかず、しかもなんの必要もないのに草を抜き瓦礫を選り棄てたように」思いがけぬところへ自分のことをとりあげられたので、七郎次はわれにかえったようにはっと息を詰めた。又右衛門はおなじ穏やかな調子で、一句ずつんで含めるように続けた、「おまえは我流ながら刀法をよく遣う、しかし人間がけんめいになってやれば、刀法に限らずたいていなわざは人並にはできるものだ、しかしわざはどこまでもわざに過ぎない、心のともなわぬわざは注意が外れた刹那せつなに身からはなれるだろう、……おまえの目的は壺を捜すことにあった、それなのに掘り返した土から草や瓦礫を拾い捨てた、自分では気づかず、しかもまったく目的には無要なことなのに、……なぜだろう、ひとくちに云えばおまえが百姓だからだ、心がその道に達していれば意識せずとも肉躰は必要な方向へ動く、剣をとろうと鍬をとろうと、求める道の極意はその一点よりほかにはないのだ、……妄執を棄てろ七郎次、おまえにはおまえ本来の道がある筈だ」
 さいごの一句を大喝し、片手で膝をはっしと打った。七郎次はその刹那に、からだのなかからなにかがすっと消え去るように感じた、たとえば身内に燃えていた火が、いきなり水を浴びせられて消え去るように、……かれはそこへ両手をつき、額をすりつけた。「あやまりました、旦那さま、……夢でございます、みんな悪い夢でございました」殆んどむせびあげながら七郎次はそう云った、「今こそ瘤七という綽名が思い当ります、わたくしはおろか者でございました……」その言葉の真実をたしかめるように、又右衛門はやや暫く黙っていた、それから再び元の穏やかなくちぶりで云った、「人間のねうちは身分によってまるものではない、各自その生きる道に奉ずる心、おのれのためではなく生きる道のために、身心をあげて奉る心、その心が人間のねうちを決定するのだ、百姓は米を作るが、自分では多く稗麦をべている、自分では喰べないのになぜ艱難かんなんしのいで米を作るか、……それは米を作ることが百姓の道だからだ、ちょうど武士がおのれを滅して御しゅくんのため国のために奉ずるように、我欲を去って世人のために道をまもる、栄達も名利もかえりみず、父祖代々その道を守りとおして来た百姓の生き方こそ、まことに、厳粛というべきであろう、七郎次……ここをよくよく考えなくてはなるまいぞ」「わたくし紀州へ帰ります」七郎次は額をすりつけたまま云った、「……剣をとろうと、鍬をとろうと、求める道の極意は一つとの仰せ、しんじつきもに銘じました、この御おしえを子まごに伝えてまいりたいと存じます」「その心にゆるぎのないことを祈る、……おぬいがさぞよろこぶことであろう」又右衛門は眉をひらき、しずかに座を立ちながら云った、「……おれのかたみにあの鍬を遣わす、持ってゆくがよい」
 七郎次とおぬいとはその明くる日、早朝の霧のふかい上野城下を立って、紀伊のくにへと帰っていった。





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1940(昭和15)年10月号
※初出時の表題は「鍬とり剣法」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2025年4月26日作成
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