彩虹

山本周五郎





「……ひと夜も逢わぬものならば、二た重の帯をなぜ解いた、それがゆかりの竜田山、顔の紅葉で知れたとや……」
 さびのあるというのだろう、しめやかにおちついた佳い声である。窓框まどかまちに腰を掛けて、柱に頭をもたせて、うっとりと夜空を眺めていた伊兵衛は、思わず、
「たいそうなものだな」
 とつぶやいた。彼の足許あしもとへ身を寄せるようにして、色紙で貼交はりまぜの手筐てばこのような物を作っていたさえは、
「なにがでございます」
 と眼をあげた。そういう表情をするとふしぎにしおのある美しい眼だ。
「あの唄さ、たいそうな声じゃないか」
「ほんとうに佳いお声でございますわ、脇田さまでございますか」
「そうだろう」
 伊兵衛はしずかにうなずいた。
「小さいじぶんから、なにをやっても人の上に出る男だったが、あんな俗曲にもそれが出るんだな、さすがの蜂谷が音をひそめているじゃないか」
「お顔が見えるようでございますね」
 さえはそう云ってくくと笑った。
「……それにしても今夜は皆さまずいぶん温和おとなしくていらっしゃいますのね、蜂谷さまだけでなく村野さまも石岡さまもまるでしんとしていらっしゃるではございませんか」
「脇田の帰国を祝う催しだから遠慮しているのだろう」
 伊兵衛はそう云いながら、その宴会のありさまがそのまま鳥羽藩の近い将来を暗示するものかも知れないということを考えた。……脇田宗之助は、つい数日まえ江戸から来た。彼の父は宗左衛門といって、六年まえに死ぬまで鳥羽藩稲垣家の国家老であった。宗之助はその一人息子で、幼い頃からずばぬけた俊敏の才をもっていた。十六歳のとき藩主対馬守照央つしまのかみてるなかに従って江戸へゆき、専ら法制の勉学をやっていたが、こんど、二十五歳で国家老に就任するために帰国したのである。今宵はその帰国を迎えるために、旧友たち十人の者が集って祝宴を催した。みんな二十五六の青年たちだし身分も老職格の者ばかりで、そのうち五人は顧問官というべき年寄役か、やがて其役を襲うべき位置にある者だった。……樫村伊兵衛は筆頭年寄で、宗之助とは最も親しい旧友であり、この祝宴の主人役であったが、宗之助のために酒をしいられ、やや悪酔をしたかたちで少し息を入れに立って来たのだった。
「なにか匂っている」
 伊兵衛はふと中庭のほうへ振返った。
「……なんの花だろう」
「梅でございましょう」
 さえはそう云いながら立って来た。
「……ああ、丁字でございますね」
 窓へ寄って見ると、早春の暖かい夜気が面をなで、せるほど丁字の花の香が匂って来た。植込の茂み越しに、奥座敷の灯が明あかと見え、なにかにぎやかに笑いあう声が聞える。この季節のならいで、薄雲のかかった空に十六夜いざよいのおぼろ月があった。
「ごめんあそばせ」
 さえは自分の頭からくしをぬき取ると、丁寧に紙で拭いてから、伊兵衛のびんの毛をそっとでつけた。
「……二十日のお祝いにはまたお座敷へおよばれにあがります、昨日わざわざ奥さまからお招きを頂きました」
「二十日になにかあるのか」
「まあ、お忘れでございますか」
 さえ可笑おかしそうに首をかしげた。
「……貴方あなたさまのお誕生日ではございませんか、去年もおよばれ申しましたわ、母といっしょに」
 そう云っていたとき、廊下の向うにあわただしい跫音あしおとが起り、
「そちらは家の者の部屋ですから」
 と、女中の制止する声にかぶせて、
「どけどけ、向うから姿を見かけたのだ」
 という宗之助の高声が聞えた。さえは急いで櫛を自分の髪に差し、とり散らした物を片付けようとしたが、それより早く、廊下を踏み鳴らして宗之助がやって来た。……明けてある障子の前へ来て立った彼は、酔のために少しあおみを帯びた端正な顔で、伊兵衛を見、さえを見た。上背のあるりっぱな体躯たいくと、眉の濃い、一文字なりのくちつきの眼立つぬきんでた風貌である。伊兵衛からさえに移した彼の眼は、一瞬きらきらと烈しく光った。
「ほう」
 と、彼は唇をつぼにし、無遠慮にさえを見詰めたまま歎賞の声をあげた。
「……美しいな」
「中座をして済まなかった」
 伊兵衛はそう云いながら立っていった。
「……なんとも堪らなかったものだから」
「そんなことは構わないが、もういいのか」
 おちついたようだと聞いて宗之助は微笑したが、急に身をひらいて、
「では庭へ出よう」
 と云った。伊兵衛は相手の眼を見た、宗之助ははかまひもを解き、くるくると裸になった。
「久方ぶりで一みやろう」
「どうするのだ」
「相撲だよ」
 宗之助は挑むような眼でこちらを見た。
「酒では勝ったが力ではまだ負けるかも知れない、あの頃はどうしても勝てなかったからな、さあ来い」
「酔っていてはけがをする、それはこんどに預かろうじゃないか」
「おれは裸になっているんだ、恥をかかせるのか」


 このとつぜんの挑戦は単純なものではない、伊兵衛の神経はそれを感じた。そして袴の紐へ手をかけるのを見て、さえが止めにはいろうとしたが、伊兵衛は、「止めるな」と眼で知らせ、手早く裸になって出ていった。
 宗之助は色の白い、しかしたくましく肥えたみごとな体だし、伊兵衛もせ形ではあるが、筋肉の発達した浅黒い膚で、どちらも若さの満ちあふれた「ちから盛り」という感じである。……伊兵衛は相手を射ぬくように見て、
「いい体だな」
 と呟やき、大きく跳んで庭へ下りた。……中庭のひとところが芝生になっている、二人はそこへいってがっしと組み合った、さえは縁側の柱へよりかかり、息を詰めながら見ていた。勝負はながくはかからなかった、肉体と肉体の相いつ快よい音が二三度し、両者の位置がぐるりと変ったとき、宗之助は巧みに足を払って、伊兵衛を大きく投げ倒した。しかし投げ倒した刹那せつな、なにを思ったか、いきなり相手の上に馬乗りになり、
「怪しいぞ伊兵衛」
 と歯をくいしめたような声で云った。
「わざと負けたな、本気ではあるまい」
「ばかなことを云うな」
「いや不審だ、いまの足は軽すぎた、きさまおれを盲目めくらにする気か」
「よせ脇田、人が見ているぞ」
「云え、本気か嘘か」
 宗之助は両手を伊兵衛ののどへかけた。
「……刀にかけて返答しろ」
「まいった、おれの負だよ」
 宗之助は、
「たしかだな」
 と叫んだが、それと同時に破顔しながら立った。つい一瞬まえまでの執拗しつような、たかぶった表情は拭き去ったように消え、まるで人が変りでもしたようなおちつきと威厳をとり戻していた。……縁の柱にって、この有様を屏息へいそくしながら見ていたさえは、そのとき崩れるように其処そこひざをついてしまった。
 その夜の出来事を、家へ帰ってから、伊兵衛はいろいろな角度から考えてみた。宗之助は少年時代から負けず嫌いだった、頭脳的にも肉体的にも常にひとりぬきんでなくては承知しなかった。そして事実それだけの才分に恵まれていたが、伊兵衛だけにはそういう意識をもたず、いつも互いに鞭韃べんたつし合うという風で、――おれたちが家督したら鳥羽藩に活きた政治をおこなおうぞ、などと云いあいしたものであった。
 ――だが今度の彼は違う。伊兵衛は、あらゆる方面から考えてそう思った、酒のしい方も尋常ではなかったし、相撲のときの勝負に対するくどさも昔の彼には無かったものだ。――彼はこの伊兵衛をしのごうとしている、とつぜん相撲を挑んだ動機はさえにあったかも知れない、さえと自分とが二人きりでいるのを見て、若い血がなにかせずにいられなくなったのかも知れない、しかしあんなに勝ち負けに対するこだわり方は他に理由がある、そしてその真の理由はわからないが、おれを凌ごうとしている点だけはたしかだ。繰返し考えた結果、伊兵衛のつかみ得たものはそれだけでしかなかった。
 翌日まだ早く、九時まえという時刻に宗之助が訪ねて来た。あがると先に母の部屋へはいり、活溌な声でしばらく話していたが、やがて、
「ああ庭の梅がずいぶん大きくなりましたね」
 と、云いながら伊兵衛の居間へやって来た。
「たのみがあるんだ」
 彼は座につくとすぐそう云いだした。
「……明日から御政治向きの記録類を調べたい、御納戸、金穀、作事、港、各奉行所の記録方へ資料をそろえるよう、五老職の名で通達して貰いたいんだ」
「それは御墨付が無くてはできないだろう」
「そんなことはない、五年寄役には随時に記簿検察の職権がある筈だ」
「だがそれは事のあった場合に限る」
「事はあるよ」
 宗之助は笑いもせずにそう云った。
「……国家老交替という大きな事が迫っている、理由はそれで充分だ、たのむ」
「謀るだけは謀ってみよう」
「いやいけない、是非とも必要なんだ、それも明日からということを断わっておく」
 押付けるというのではない、自分の意志は必ず行なわれるという確信のある態度だった。そして伊兵衛が返辞をするのを待とうともせず、急に破顔しながら第二のたのみだと語を継いだ。
「……昨夜の佳麗はあの料亭のむすめだというが、其許そこもとはよほど親しくしているのか」
 話題がとつぜん変ったので伊兵衛は返答に困った。
「そんなこともないが」
「だって家族の部屋で、二人差向いになっているくらいじゃないか」
「あの家へは小さい時からよく父にれられて食事をしにいった、それで普通よりは気安くしているというのだろうかな」
「あの女を嫁に欲しいんだ」
 あっさりと宗之助は云った。
「いいむすめだ、あのしっとりとした美しさは類がない、縹緻きりょうも良いがあの縹緻は心ざまの良さが裏付けになっている、おれはいきなり楽器を思った、弾き手の腕しだいでどんな微妙な音をも出す名器、そんな感じだ、なんとしてでも嫁に欲しいんだが、其許から話してみて呉れないか」


「しかしそれは、両方の身分がゆるさないだろう」
「なにそういう点は自分で処理する、其許はただ相手へおれの意志を伝えて呉れればいいんだ」
「信じ兼ねるなあ」
 伊兵衛は首を振った。
「……なにしろこっちは国家老になる体だし、向うは料亭のむすめだからな、少し違いすぎるよ」
「ばかを云え、江戸では芸者を妻にする者だって珍しくはないんだ、もし本人に来る気持があれば正式に人を立てるから、頼むぞ」
 これで要談は済んだと云って、宗之助はさっさと立って帰っていった。……伊兵衛はそのあとで香をたき、もう、さかりを過ぎた庭の梅を見ながら、登城の刻の来るまでじっと考えこんでいた。昨夜の宴の酒から始まって、なにか決定的なものが動きだしている、それは単に「伊兵衛を凌ごう」とする程度のものではない、昨夜に続いて各奉行所の記簿検察、さえに対する求婚、こうして矢継ぎ早に、先手先手とのしかかってくる宗之助の態度には、たしかになにかを決定的にしようとする意志がある。
 ――宗之助と自分との、かつて最も親しかった関係が、今や新しい方向へ転換しようとしている、この転換がどんな意味をもつかまだわからない、しかし見はぐらない要心は欠かせないぞ。
 伊兵衛ははらをきめるという感じでそう思い、やがて登城するために立った。……彼は肚をきめたのである、その日すぐ年寄役四人を集めて相談し、現国老である大槻又左衛門の加判を得て、各奉行所へ「記簿検閲」の旨を通告した。下城するとき脇田家へ寄ってその由を伝えると、宗之助は、
「では明日、金穀方から始めよう」
 と云い、帰ろうとする伊兵衛の背中へ、
「桃園のことも忘れないで呉れ」
 と、投げつけるように云った。
 伊兵衛は振返って相手の眼を見、しずかにうなずいて門を出た。
 その月二十日は伊兵衛の誕生日で、毎年ごく親しい者ばかり招いて、ささやかに祝うのが例になっている。その日も数人の客を招いて昼※ちゅうさん[#「餮」の「珍のつくり」に代えて「又」、U+4B38、21-下-17]を※[#「餮」の「珍のつくり」に代えて「又」、U+4B38、21-下-17]したが、それが終ってから、母親のほうの席へ呼ばれて来ていたさえと会った。父が亡くなってから、いちど伊兵衛が母を桃園へ食事をしに案内した。それ以来ときどき母は、親しい夫人たちと食事にゆき、桃園の家族とも口をきくようになった。
さえというむすめはよいこですね」
 そんなことを云い云いしたが、去年あたりからは時おり自宅へ呼んだりするようにさえなったのである。
「ここでいいでしょう」
 伊兵衛がさえを呼びにゆくと、母はちょっと気遣わしそうな眼つきでそう云った。
「……話ならここでなさいな」
「いや少しこみいった事ですから」
 伊兵衛はそう答えてさえを自分の居間へ伴れていった。……着ている物も化粧もかくべつ常と変ってはいないのだが、明るくえとした顔つきや、楽しそうな起ち居のようすが、つねとは際立って美しくみえる、伊兵衛はちょっとまぶしそうな表情で、暫らくさえの姿を見まもっていた。
「どうあそばしましたの、そんなにしげしげとごらんなすって」
いつもとは人違いがしているようだから」
「珍らしいことをおっしゃいますこと」
 さえは頭を傾げながらじっと伊兵衛を見た。
「……そう申せば貴方さまも常とはごようすが違うようにみえますわ」
「そうかも知れない、おれにはその理由があるんだから、そしてぶっつけに云ってしまうが、さえを嫁に欲しいという者があって、おれからさえに意向をいて呉れと頼まれたんだ」
「まあ、大変でございますこと」
「笑いごとではない、本当の話なんだ」
「ですけれどそんな」
 と、さえは半信半疑に伊兵衛の眼を見つづけた。
「……そんなことがございますかしら、他処よそのむすめを欲しいからといって、親をも通さずじかに気持を訊くなどということが」
「習慣というものはその人間の考え方と事情に依ってずいぶん変り兼ねないものだ、うちあけて云えば相手は脇田宗之助だよ」
「脇田さま、江戸からお帰りになったあの」
「去年あたりからだ」
 伊兵衛はさえの追求するような眼から外向そむきながら、ふと述懐するような調子で云った。
「……おれは時どきさえの結婚する場合のことを考えた、おれのなかには初めて父に伴れられて食事をしにいった頃のさえの姿がそのまま成長しているので、結婚ということに結びつけて考えることはどうにもしっくりしない、なんだかおかしいんだ、しかし年齢がその時期に来ていることはたしかだ、いつかは、それもそう遠くない将来に、さえが眉をおとし歯を染める時が来る、……そう思うたびに考えたことは、どうか仕合せな結婚であるように、相手にもゆくすえにも恵まれた仕合せな縁組であるようにということだった」


 伊兵衛の調子が思いがけないほどしみじみとしたものだったので、さえも我知らず眼を伏せ肩をすぼめるようにした。
「その意味から云うと」
 と、伊兵衛はしずかに続けた。
「……脇田は才能もぬきんでているし、風格もあのとおりだし、身分も家柄も申分のない男だ、難を云えばあまり条件がさえと違いすぎる点だが、これも脇田が自分で手順をつけるという、彼のことだからこれはもちろん信じてもよいだろう、……おれから云えることはこれだけだが、さえはどう思うかね」
「まるでご自分のことのように熱心に仰しゃいますのね」
 さえふるえるような微笑をうかべながら眼をあげた。
「……他の方でしたら伺うのもいやですけれど、頼三郎さまのお言葉ですから考えてみます」
 とつぜん幼な名を呼ばれて、伊兵衛はびっくりしたように振向いた。さえは頬のあたりを上気させ、かつて見たことのない、底に光をたたえたような眼でじっとこちらを見まもっていた。それは十八の乙女の情熱を表白するような、眼つきだった。伊兵衛は眼叩またたきをしながらその視線を避け、
「脇田はだいぶ急いでいるようだから、なるべく返辞は早いほうがいいな」
 と云った。
 数日して江戸から三人の青年が帰藩した。又木内膳、戸田大学、津村条太郎といい、宗之助が国老就任の場合その帷幄いあくに入る者らしく、帰るとすぐ脇田家に詰めて出入りとも宗之助から離れず、城中での記簿検閲にもこの三人が補助の役をするようになった。……彼らの調査はしばしば越権にわたるほど思い切ったものだったが、国家老大槻又左衛門は温厚一方の人物だし、国老交替の期も迫っているので、あえて違法を鳴らす者もなく、むしろあっけにとられて眺めているという感じだった。
「これは恐るべき無為だ」
 宗之助は伊兵衛の顔を見るとよくそう云った。
「……いかに世が泰平であり、五万石に足らぬ小藩とはいえ、この政治の無能無策はなんとしたことだ、大げさに云えばこの十年間まるで眠っていたようなものだぞ、いったい年寄役としての其許からしてなにを視ていたのかね」
「政治のどこが眠っていたか、その言葉だけでは返辞のしようもないが、領内が平穏に治まって四民に不平がなければ」
「違う違う、そんなことじゃない」
 宗之助は突っ放すように笑う。
「……百のものを百に切廻すのは個人の家政で、百のものを千にも万にも活かして働かすのが政治というものだ、しかしこんなことはいま云ってもしようがない、近いうちにその証拠を見せてやる、政治がどういうものかという証拠をな」
 そしてそのあとで必ず、
「桃園の娘の返辞を早くたのむぞ」
 と、くどく念を押すのだった。
 ある日、下城して来る途中、めっきり春めいて来た海の色に誘われて、ふと桃園へ立ち寄った。まだ日の高い時刻で客もなく、海の見える二階座敷へ通って茶を求めた。……この家は茶だけの客もよく来るので、菓子もなかなか凝った物を作る。殊に「うぐいす」という名のものが美味で、伊兵衛は酒のあとでさえよく口にした。
 さえの母親が茶と菓子を運んで来て、先月むすめの招かれた礼を述べて去ると、間もなくさえが縫いかけの着物を持って上って来た。ちょっと肩へ掛けてみて呉れと云う。
「どうするんだ」
「お丈が拝見したいんですの、ゆきは大丈夫だと思うのですけれど、なんですかお丈がちょっと……」
「なんだ母はまたそんなものを頼んだのか」
「わたくしからお願い申したのですわ」
 伊兵衛が立つと、さえは後ろへまわって着物を肩にかけ、丈を当ってみて、
「はい有難うございました」
 とそこへ坐った。そのまま針を持って、しずかに縫い続けるさえの姿を、伊兵衛は暫らくぼんやりと見まもっていた。
「先日の話は考えてみたか」
「…………」
 さえは眼をあげた、それはこちらの心をのぞきでもするような眼つきだった、それからそっと微笑しながらうなずいた。
「……はい」
「それで返辞は、どうなんだ」
「わたくしの一存では、本当にどう申上げようもございませんわ、だって本当にわからないのですもの」
「それでは返辞になっていないよ」
「もし頼さまが」
 と、さえはまた彼の幼な名を呼んだ。
「……もしも頼さまがとつげと仰しゃるんでしたら、……」
「おれの気持はこのあいだ話した筈だ」
「あのときは勧めて下さいましたわ」
「しかしおれの気持はさえの気持じゃない、脇田の知りたいのもさえ自身の気持だろう、問題はおまえの一生なんだ、他人の意見にすがるような弱いことでどうするか」
「ではお返辞を致しますわ」
 さえは暫らくしてそう答えた。
「……わたくし、お受け申します」


 その年の夏は十何年ぶりという暑さで、梅雨明けから二百十日すぎまで一粒の雨もなく照り続けた。そして秋ぐちにかかる頃になって天気が崩れだし、まるで返り梅雨のように、陰鬱な曇天と雨の日ばかりが相次いで来た。……これでは不作はまぬかれまい、そういう不安が拡まりだしたとき、逸早いちはやく、今年は年貢半減だそうな、といううわさが口から口へ伝わった。
「年貢も運上も一律に半減だそうな」
「半作しかれない郷村は年貢御免になるそうな」
 たしかな筋から出たはなしだといって、その評判は領内の村々から城下町までき立たせた。しかもそれに次いで、
「来年度から家中の士一統の扶持ふちが表高どおりに復帰するそうだ」
 という噂さえ立ち始めた。
 当時はどこの藩でも、家臣の扶持は表高と実収とにかなりの差があった、是は食禄が米を単位にしているため、米価の高低に支配されるからで、平均している時でも実際の扶持は二割ないし三割は表高より少ないのが例になっていた。これに対して格式は表高に依ってちゃんと規矩きくがあるため、家臣たちの生活はかなり窮屈なものだった。……従って「表高どおりに復帰する」ということは、噂だけにしても家中の人気をたかめるのに充分で、半信半疑ながらこれまた大きな反響をよびおこさずにはいなかった。
 伊兵衛はさえの返辞を聞いて以来、なんとなく足が鈍って桃園へゆかぬ日が続いた。さえの返辞はすぐ宗之助に伝えたし、そのとき宗之助は例の「破顔」という感じで笑い、――ではすぐ正式に人を立てよう、そう云うのをたしかめたので、彼らが結婚するまではなんとなくさえに逢うことがはばかられる気持もあったのである。
 天候は八月の下旬からにわかに恢復かいふくし、申し分のない日なみが続いて、豊作はまちがいなしということになった。それにもかかわらず「年貢運上半減」という噂は消えなかった。そして九月にはいった一日、樫村の家へ年寄役四人が揃って訪ねて来た。
「重要な内談があって」
 というので、奥の間の襖障子ふすましょうじを明け放して対座した。
「先頃から世間を騒がせている評判をお聞きであろう」
 と、いちばん年嵩としかさの石岡頼母が口を切った。
「……年貢、運上半減、家中の扶持表高どおり復帰という、あの評判の出どころがわかったのです。ことに、豊作まちがいなしと定っている年貢が、やはり今年度から半減という噂は、噂だけでなくその実証があり、しかもそこに国老交替と微妙な関係があるという事実がわかったのです」
「はっきり云ってしまえば」
 と、蜂谷恭之進が云った。
「……これらの評判はみな脇田殿の周囲から出ているのです、なかには、ことに郷村へ向けては、文書で通告されているものもあり、それは現に私が見ています」
 そして四人の者が交互に語るところは、理由は判然としないが、とにかく脇田の帷幄から相当思い切った迎合政策の前触れが出ているということ、それが非常な勢いで領内に広まっているという事実だった。
「脇田殿の真意はわからないが、かような実行不能なことを申し触らすことは、御政治向きの上に面白くない影響を及ぼすのは必至で、今のうちなんとか方法を講じなければと思い、御相談にまいったのですが」
「すぐには信じ兼ねる話だが」
 と、伊兵衛は暫らく考えたのち云った。
「……もし風評が脇田から出たとすると、彼にどんな思案があるにしても捨てては置けないでしょうな」
「そこで御相談なのですが、表向きにすると事が大きくなりますから、樫村殿から話をして頂いて、できる限り早く風評の根を絶つよう手配をしたいと思うのです」
「ひき受けましょう」
 伊兵衛は快よくうなずいた。
「……彼の思案に依っては承知しないかも知れないが、とにかくすぐ話にはゆきます」
 四人はなお噂が脇田から出ているという事実の詳細を述べ、必要ならすぐ老職評定を開こうと云って帰った。……伊兵衛はまるで胸へ鉛でも詰められたような重苦しい気持だった。なぜそんな気持になったのか判然としないが、正直に云って宗之助と会いたくないのはたしかだった。今の場合、彼にその話をする者は自分だけで、それがわかっているからひき受けたのだが、帰藩して以来の態度をみると、会って話しても彼がすなおに受け付ける可能性は少い。
 ――ぜんたい脇田はなにを考えてあんなことをしたのか。
 四人が去ったあと、明け放した座敷から秋色の眼立ちはじめた庭の樹立を眺め、かなりながいこと伊兵衛は独り考えふけっていた。そこへ母が来て、
さえさんが来ていますよ」
 と伝えた。
「なんだか貴方に話があるのですと、こちらへよこしますか」
「そうですね」
 伊兵衛は母を見た。
「……なんの話か知りませんがここがいいでしょう」


 はいって来たさえは部屋の隅へ坐り、身をすぼめるようにしながら会釈した。ぜんたいにやつれているようだし、肩をすぼめるような身ごなしも、はじらいを含んだかなしげな微笑のし方にもかつて見たことのない寂しそうなかげがにじみ出ていた。伊兵衛はあまりの変り方に暫らくは言葉も出ず、心うたれた者のようにさえの姿を見まもっていた。
「ずいぶん久しくお逢い申しませんけれど、どうかあそばしたのでございますか」
 挨拶が済むとさえはそう云った。
「……御病気というお噂も聞かず、おいでもございませんので、何か御機嫌を損じたのではないかと母が心配しておりました、それでぶしつけですけれど、ちょっと御容子を伺いにあがりましたの」
「なにも理由はないさ、つい足が遠くなったというだけだよ」
「どうぞいらっしって下さいまし、母も家の者たちもお待ち申しておりますから」
「話というのはそのことか」
「はあ、……いいえ」
 さえはそっと頭を振り、両のたもとを膝の上に重ねながら俯向うつむいた。そして伊兵衛が黙っているままに、じっとなにか思い耽っていたが、やがてふと顔をあげ、こちらを挑むような眼でもとめながら卒然と云った。
「半年まえ、貴方様はわたくしに、脇田さまへく気があるかとお訊ねなさいました、あれは、おたわむれだったのでございますか」
「たわむれ……」
 伊兵衛は思いがけない言葉に眼をみはった。
「どうしてそんなことを云うんだ、脇田との間になにかあったのか」
「わたくし、お受け申しますとお返辞を致しました」
「おれはその通り脇田へ伝えた」
「脇田さまはなんとおおせでしたの」
「すぐ正式に人を立てて縁組をすると云っていた」
「なんのお話もございませんわ、それらしいお人もみえず、そういうおとずれもございませんでした」
 伊兵衛の脳裡に、その刹那ふと宗之助の逞しい顔が思いうかんだ。桃園の庭で自分をじ伏せながら、勝ち負けを執拗に追究した顔、それから忽然こつぜんと変った不敵な笑い顔が、……その一種特別な笑い顔が、今なにかを伊兵衛の心に叩きつけるようだった。
「それは本当だな」
「それでわたくし、お伺い申しました」
「家へ帰っておいで」
 伊兵衛は抱き緊めるような眼でさえを見た。
「……あとでゆく」
「脇田さまへおいでになりますのね」
「他にも用があるんだ」
「こんどは」
 と、さえは燃えるような眼で伊兵衛を見た。
「……こんどは、お断わり申しても宜しゅうございますわね」
「いやそれは待って呉れ、おれが会って」
「いいえ」
 さえきっと頭を振った。
「……わたくしあれからずいぶんいろいろなことを考えました。そして半年のあいだ待っていましたのは、ただ脇田さまからの縁談だけでございませんでした、頼三郎さま」
 伊兵衛は体をわすとでもいうようにつと起った。それに続くべきさえの言葉の重大さが、光のように彼の感情へ反射したからである。縋りつくようなさえの眼から外向きながら、彼はもういちど、
「家へお帰り」
 と云った。
「あとでゆく、そのときあとを聞こう、おれからも話すことがある、いいか」
 そして大股おおまたに居間のほうへ去った。
 海のほうからなまぬるい風が吹いていた。夕立でも来そうな空で、鼠色の断雲が低く北へ北へとながれていた。大手外にある脇田の家を訪ねると、
「登城しております」
 ということで、そのまま城へ上った。宗之助は勘定奉行役所で、うず高い書類をまわりに、筆を取ってなにか書き物をしていた。側には腹心の例の三人だけで、他には人がいなかった。
「もうすぐ済むから暫らく待って呉れ」
 伊兵衛を見ると彼はそう云って書き物を続けたが、やがて終った物から順に、
「これは作事方へ、これは御船方へ」
 と三人に渡し、かれらが出てゆくと、
「待たせて済まなかった」
 と云いながら伊兵衛の側へ来て坐った。
「かけ違って暫らく会わなかった、なにか急な用でもあるのか」
「口を飾らずに云うから、其許も言葉のあやなしに答えて貰いたい」
 伊兵衛は片手を膝に置いて云った。
「……先頃から世間に妙な評判が立っている、年貢、運上、一律半減、家臣一統の扶持を表高に復帰するという、あの風評が其許の手から出ているというのは事実か」
「ほう、来たな」
 宗之助はにやっと笑った。
「……それは樫村伊兵衛の質問か、それとも筆頭年寄としての問か、どっちだ」
「今のところは古い友人として訊くことにしよう」
「ではその積りで答えるが、ああいう評判をいたのはいかにもおれだ、それについてなにか意見があるのかね」
「おれの意見はあとだ、風評が其許から出たとすると、それにはそれだけの根拠があるのだな」


「ある」
 宗之助はうなずいた。
「……おれが国老の座に坐ればあのとおり実行する」
「それで藩の財政が成り立つと思うか」
「そうとう窮屈なことはたしかだな」
「しかもなお実行する必要があるのか」
「そのこと自体は必要じゃない、むしろ一つの手段だといっていいだろう」
「脇田政治の前ぶるまいか」
「痛いところだ」
 宗之助は平然と笑った。
「……たしかにそれもある、活きた政治を行うためにはまず家中領民の人望と信頼を掴まなければならない、家中の士にとっては扶持、領民にとっては租税、この二つは直接生活に及ぶもので、政治に対する信不信も多くここに懸っている、おれはこの二つでおれの政治に対する信頼を獲得するんだ」
「わかった、それではおれの意見を云おう」
 と、伊兵衛はずばずばと云った。
「……その得た人望に依ってどんな政治を行うか知らない、しかしまず人気を取るというやり方には嘘がある、其許の政治が正しいものならあえて事前に人気を取る必要はない筈だ、おれは筆頭年寄として絶対に反対する」
「どこまで反対し切れるか見たいな」
 宗之助は上機嫌に笑った。
「……脇田政治のうしろには家中一統と領民が付いているぞ」
「それがどれだけのちからかおれも見せて貰おう、次ぎにもう一つ話がある」
 伊兵衛は区切りをつけるように咳をした。
「……其許は半年まえに、桃園のむすめを嫁に欲しいと云った、おれは頼まれてその仲次ぎをした、女は承知すると答えたので、おれは其許にその返辞をもっていった筈だ、覚えているか」
「ああそんなこともあったな」
 宗之助はわざとらしく眉をひそめた。
「……そうだ、たしかにそんなことがあったっけ」
「そのとき其許は、すぐ正式に人を立てて申込をすると約束した、ところが人も立てず、むすめのほうへおとずれもしないという、……脇田、これをどう解釈したらいいんだ」
「実は嫁は定ったんだ」
 彼は具合の悪そうな顔もせずに云った。
「……たしか知らせた筈だがな、相手は安藤対馬守家の江戸屋敷で」
「おれの問に答えてくれ、桃園のむすめはどうする積りなんだ」
「どうするって、妻を二人持つわけにはいかないよ」
「それが返辞か」
 刺すような伊兵衛の視線を、宗之助はさすがに受けかねたらしい、まぶしそうに脇へらしながら、
「そうだ」
 と云った。
「よし、ちょっと立て」
 伊兵衛はそう云いながら自分から立った、宗之助はちらと伊兵衛を見た、そしてしずかに立った。伊兵衛はその眼をひたとにらんでいたが、大きく右手をあげ、宗之助の高頬をはっしと打った。力のこもった痛烈な平手打である。宗之助の上身はぐらっと右へ傾いた。
「これが古い友達の別れの挨拶だ」
 伊兵衛は抑えつけたような声で云った。
「……貴公は貴公の好むように生きろ、おれはおれの信ずる道をゆく、ひと言云っておくが、正しさというものを余り無力にみすぎるなよ」
 そしてそのまま大股に去ろうとすると、うしろから宗之助が、
「樫村」
 と呼んだ。
 伊兵衛は廊下に立止まって振返った。宗之助はじっとこちらを見た、なにやら色の動いている眼つきだった。
「……二人の仕合せを祈るぞ」
 低い声でそう云うと、宗之助は元の席のほうに帰った、伊兵衛もそのままきびすを返した。
 城を下って大手へ出ると、沛然はいぜんとした雨が来た。伊兵衛はその雨のなかを、まっすぐに海岸のほうへ歩いていった。昂奮こうふんしている頬を雨の打つこころよさに、彼はなんども空を仰いでは大きく呼吸した。……桃園へゆくと、待兼ねていたさえが迎えて、彼の濡れ鼠になった姿を見ておどろきの声をあげた、なにか事があったと思ったらしい。
「まあどうなさいました」
「いやなんでもない濡れただけだ」
 伊兵衛は手で制しながら脇へまわった。
「……なにか着替えを貸して貰おう」
「はい、でもそのままではお気持が悪うございましょう、お召物をお出し申しますから、ちょっと風呂へおはいりあそばせ」
「そうしようかな」
 伊兵衛は縁先でくるくると裸になった。風呂を浴びて、着替えをすると、さえは海の見える離室はなれへと彼を案内した。……雨はいつのまにかあがって、午後の日ざしが明るく、座敷いっぱいにさし込んで来た。伊兵衛は窓の側へ座を占め、しずかにさえを近くに招いた。
「脇田のほうは切をつけて来た、改めておれから訊くが、さえ……樫村へ嫁に来ないか」
「はい」
 さえは思いがけないほどすなおにうなずき、光をたたえた、美しいしおのある眼で伊兵衛を見あげた。
「……わたくし、よい妻になりたいと存じます」
「半年のあいだにいろいろ考えたと云った、おれもそうだった、正直に云おう、さえが脇田の申出を受けると答えてから、おれは初めてさえというものをみつけたのだ、それまでは夢にもそんなことは思わなかったが、他人の妻になるときまってから、どうにもならぬほど大切なものに思われだしたのだ、おれはずいぶん苦しい思いをしたよ」
「わたくしが、同じように苦しんだと申上げましたら、ぶしつけ過ぎるでございましょうか」
 さえは大胆に伊兵衛を見た。
「ああ」
 と、伊兵衛は、微笑しながらうなずいた。
「……それ以上は云わないほうがいい、脇田が現われたお蔭で、おれがさえをみつけたとすれば」
「いいえ、さえはもっと以前から……」
 そう云いかけた自分の言葉に自分でびっくりしたのだろう、さえはぽっと頬を染めながら立って縁先へ出た。そしてにわかに浮き浮きと、明るい調子で叫ぶように云った。
「まあごらんあそばせ、美しい、大きな彩虹にじが」
 伊兵衛も立っていった。
 雨後の浅みどりに晴れあがった空に、大きく鮮やかにすがすがしく彩虹がかかっていた。
「美しいな」
 伊兵衛も眼のさめるような気持で声をあげた。
「……あの雨があって、この彩虹の美しさが見られるんだ。脇田宗之助はおれたちにとっての夕立だったな」
 そう云った刹那だった、彼の耳に、「二人の仕合せを祈るぞ」という、宗之助の別れの言葉がよみがえってきた。
 ああ、――伊兵衛は思わず宙を見た。
 ――脇田め、それを承知のうえか、自分がひと雨降らさなければ、二人の上に彩虹の立たぬことを。
 ……あいつはおれの気性を知っていた、そうだったか。
 平手打をぐっと堪えたときの、逞ましい宗之助の表情を思い返しながら、伊兵衛はふと自分の右手を見た。
 ……さえはじっと彩虹を見あげていた。





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1946(昭和21)年2月号
※表題は底本では「彩虹にじ」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「餮」の「珍のつくり」に代えて「又」、U+4B38    21-下-17、21-下-17


●図書カード