橋の下

山本周五郎





 練り馬場と呼ばれるその広い草原は、城下から北へ二十町あまりいったところにある。原の北から西は森と丘につづき、東辺に伊鹿野川が流れている。城主が在国のときは、年にいちどそこで武者押をするため、練り馬場と呼ばれるようになったと伝えられている。
 いま一人の若侍が、その草原へはいって来た。月は落ちてしまって見えない、空はいちめんの星であるが、あたりはまだまっ暗で、原の南東にある源心寺の森がひどく遠く、ぼんやりと、墨でぼかしたようにかすんでいた。
「少し早かったな」とその若侍はつぶやいた、「しかしもうすぐ明けてくるだろう」
 彼は周囲を眺め、空を見あげた。年は二十四五歳で、眼鼻だちのきりっとした顔が、寒さのためであろうか、仮面のように硬ばって白く、無表情にみえた。彼は東の空を見やり、それから首を振った。
「いや、そんな筈はない」と彼は呟いた、口は殆んど動かず、誰かほかの者が呟くように聞えた、「間違える筈はない、たしかに七つの鐘を聞いて起きたのだ、たしかに七つだった」
 彼は自分をおちつかせようとして、腹に力をいれた。そしてゆっくりと、往ったり来たりし始めた。きっちりとはいた草鞋わらじの下で、こおった土や枯草がみしみしときしみ、そこから寒さがはいあがってきた。寒さは足をはいのぼって腹にしみとおり、からだしんからふるえが起こった。彼はまた東の空を見あげたが、そこには朝のけはいさえなく、さっきよりは一段と星が明るくなったように思えた。
 その若侍のおちつかない動作は、眼に見えないなにかに追われているか、または追いかけているようにみえた。白く硬ばった顔は硬ばったままで、感情の激しい動揺をあらわしているようであり、歩きまわる足どりや、絶えまなしに左右を見やる眼つきには、追いつめられたけものが逃げ場を失ったときの、恐怖にちかい絶望といった感じがあらわれていた。
「なにを、いまさら」と彼は呟いた、「もう考える余地はないじゃないか、これでいよいよけりがつくんだ、もうなにも思い惑うな、なんにも考えるな」
 腹部から胸のほうへと、ふるえが波を打ってこみあげ、歯と歯がこまかく触れあった。彼は歯をくいしばり、足に力をこめて歩きまわった。やがて、源心寺で鐘が鳴りだした。彼はうわのそらで聞いていたが、ぼんやり七つ(午前四時)かぞえたのでわれに返った。
「七つじゃないか」と彼は云った、「捨て鐘をべつにして、たしかに七つだった、すると刻を間違えたのか」
 家で聞いた刻の鐘が七つだと思ったが、それではあれは八つ(午前二時)だったのか、と彼は思った。空のもようでみても、いま七つが正しいらしい。約束の六つ半まではたっぷり三時間ちかくある。ばかな間違いをした、あがっていたんだな、と彼は思った。
「どうしよう」寒さのためにふるえながら、彼は自分に問いかけた、「帰って出直すわけにもいかない、そうはできない、といって、ここにこうしていれば躯が凍えてしまう」
 彼は舌打ちをし、両手の指をんだり、擦りあわせたりしながら、川のほうへと足を向けた。自分がどっちへ歩いているのかも知らず、川の岸まで来てようやく気がつき、おどろいて立停った。――伊鹿野川は冬になると水が少なくなる。幅三十間ばかりの川が、半ば以上もかわいて、広くなった河原を、細く二た条に分れた水が、うねうねと蛇行しているのだが、いまはそれも冰っており、星明りの下でかすかに白く、いかにも冷たげに見えていた。
 岸のところで立停った彼は、なにかに眼をひかれてふと右の、川上のほうへ振向いた。およそ三十間ばかり先に、焚火たきびの火らしいものが小さく見えた。そのちらちらする火が彼の眼をとらえたのであろう、彼はちょっとためらっていたが、すぐにそちらへ向って歩きだした。
 火は岸の下で燃えていた。水のない河原の岸よりで、近づいてみると、そこは土合橋の下であった。若侍はもっと近づいてゆき、そこに人のいるのを見て、河原へおりた。焚火は土合橋の下で燃えており、その脇で二人の老人がなにかしていた。よく見ると一人は男、一人は女で、焚火にはなべがかけてあった。
 老人のほうでも、彼が近づいて来るのを見ていたらしく、彼が立停ると、穏やかな声で呼びかけた。
「お見廻りでございますか」
「いや」と彼はあいまいに口ごもった。
 老人は彼のようすを眺め、それからまた云った、「これからがいちばん凍てる時刻です、よろしかったら、こちらへ来ておあたりになりませんか」
 若侍は迷った。かれらが乞食だということがわかったからである。だが、それはただの乞食ではなく、城下では「夫婦乞食」といって、数年まえからかなりひろく知られていたし、彼も幾たびか見かけたことがあった。――かれらはいつも二人いっしょだった。ほかの乞食とはちがって、身妝みなりもさっぱりしており、人の家の勝手口で残った冷飯や菜を貰うほかには、道ばたで物乞いをすることもないし、銭などには決して手を出さなかった。
 ――人柄も悪くない、なにかわけのある夫婦だろう。
 城下の人たちはそう云って、着古した物などを、わざわざ持っていってやる者もある、という話を聞いたこともあった。
「では、――」と若侍が云った、「邪魔をさせてもらおう」
 老人はどうぞと云い、掛けてある鍋をおろすと、うしろからむしろを取り出して、焚火の脇へ敷いた。蓆は新しいもので、まだ甘ずっぱいようなわらの匂いがしていた。若侍は刀をとってから、その上に腰をおろし、そしてまわりのようすを眺めた。
 頭上には土合橋が屋根になっていた。水の干いた河原に坐って見あげると、おどろくほど高いが、それでも屋根の役をすることはたしかであった。橋のつけねには石が組んであるが、その石垣と橋桁はしげたのあいだに三尺ほどの隙間があり、二三の包の置いてあるのが見えた。おそらく、そこが老人たちの寝場所になるのであろう。若い侍はそう思いながら、ふと眼を細くした。そこに置いてある包の一つから、刀の柄が見えたのである。眼をとめて見ると、それは紛れもなく刀の柄であった。
 老人は焚火に湯沸しを掛けていた。焚火には太い枯枝を三叉に立て、結びめのところにかぎがさがっている。老人はその鉤へ湯沸しを掛けながら、妻女になにか云いつけ、また、それとなく若侍のようすをぬすみ見ていた。


「あれは刀のようだが」とやがて若侍が訊いた、「御老人はもと武家だったのか」
「これ」と老人は妻女に云った、「おまえもうひと眠りするがいい、かゆが出来たら起こしてやる、それまで横になっておいで」
 妻女はなにかを片づけていた。
「立町の国分という材木問屋の主人が亡くなって、ゆうべ通夜がございました」と老人は若侍に云った、「残り物があるから取りに来い、と云われたものですから、頂戴にいってさきほど戻ったところでございます」
 妻女は口の欠けた土瓶どびんと、湯呑を二つ、塗のげた盆にのせて、老人の脇に置くと、よく聞きとれない挨拶を述べ、石垣と橋との隙間へ、緩慢な動作でいあがっていった。老人はまた若侍のようすを見た。彼は黒い無紋の袖の羽折を重ねていたが、着物も下衣も白であった。
「寒くはないか」と老人は振返って妻女に呼びかけた、「えりをよく巻いておくんだぞ」
 妻女が低い声でなにか答え、老人はまた若侍の着物を見た。その白い着物が、老人になにごとか思いださせたらしい、焚火に枯枝をくべながら、老人はゆっくりとうなずいた。
「さよう、私はもと侍でございました」と老人は云った、「国許くにもとは申しかねますが、私までに八代続いた家柄だそうで、その藩主に仕えてからも四代になり、身分も上位のほうでございました」
 老人は土瓶の中を見た。それから、たぎり始めた湯沸しをおろし、土瓶に注いで、二つの湯呑に茶をれると、茶といえるようなものではないが、もし不浄と思わなかったら飲んでもらいたい、と云ってすすめた。若侍は礼を述べて、湯呑を受取った。
「その」と若侍が云った、「こんなことを訊いては失礼かもしれないが」
 老人は静かにさえぎった、「いや、失礼などということはありません、ごらんのとおりなりはてたありさまですから、いまさら身の恥を隠すにも及びますまい、それにまた、聞いて頂くほどの話もないのです」
 若侍は茶をすすり、湯呑を両手でつかんで、老人の話しだすのを待った。老人は湯沸しを鉤に掛け、自分の湯呑を持って、大事そうに啜りながら、やや暫く黙っていた。
「さよう、じつのところ、申上げるほどの話ではない、私は四十年ほどまえに、一人の娘のために親しい友を斬って、その娘といっしょに出奔しました、つづめて云えばそれだけのことです」
 老人は茶を啜り、それからゆっくりと続けた、「その友達とは幼年のころから親しかった、私のほうが一つ年下でしたし、友達の家は徒士かちにすぎなかったが、二人は兄弟よりも親しかったといってもいいでしょう、さよう、――いちどこんなことがありました、たしか十一か二のときだったでしょう、のちにあらそいのたねになった娘のことで、私がひどく怒り、三人でなにかしていたのを放りだして、私だけさっさとそこをたち去りました」
 老人は唇に微笑をうかべ、さもたのしそうに、頭を左へ右へと振った。
「三人でなにをしていたのか、場所がどこだったか、私がなんで怒ったのか、いまではすっかり忘れてしまいました、うろおぼえに落葉の音を覚えています、私は落葉を踏んで歩いていました、するとまもなく、うしろでも落葉を踏む音が聞える、その音がずっと私のあとからついて来るのです、私はてっきり娘が追って来たものと思い、振返ってみると友達でした。
 ――ついて来るな、帰れ。
 私はそうどなって、もっといそぎ足に歩き続けたのです、友達はやはりついて来ますし、私は二度も三度もどなりました」
 老人は自分で静かに頷き、茶をひとくち啜った、「その友達は躯も小柄でしたし、眉は濃いが、まる顔で頭がとがっているため、握り飯のような恰好にみえるので、みんなから黙りむすびと呼ばれていました、黙りむすび、私にとってはなつかしいあだ名です、――彼は口かずが少なく、ふだんはごく温和おとなしいが、いざとなると決してあとへはひかぬ性分でした、三度もどなりつけたので、もう帰るかと思うとやっぱりついて来る、なんにも云わずに、黙ってうしろからついて来るのです、私は振返ってまた云いました。
 ――どうしてついて来るんだ。
 すると彼は答えました。
 ――だって、友達だもの」
 老人は口をつぐみ、眼をつむって暫く沈黙した。若侍はそっと老人を見たが、すぐにその眼をそらし、両手で持っている湯呑を静かにまわした。
「だって、友達だもの」と老人はくり返し、それからまた続けた、「もし正確にいうなら、二人が兄弟より親しくなったのは、それからあとのことだったでしょう、彼は学問もよくできましたし、武芸でもめきめき腕をあげました、十五六のころから家中かちゅうの注目を集め、将来ぬきんでた出世をするだろうと云われたものです、そして彼もまた、その世評の正しいことを立証したのですが、――」
 老人は焚火の上から湯沸しをおろし、脇にある鍋を取って掛けた。使い古した鉄鍋で、もとのつるこわれたのだろう、つるの代りに麻の細引が付けてあった。老人は薪をくべ、火のぐあいを直した。すると煙が立って、いっとき※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおが隠れ、それから急に明るく燃えあがり、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)のさきが鍋底をめた。
「私がどんなふうだったか、ということは申しますまい、私も私なりにやっておりました」と老人は云った、「もし私が、彼に嫉妬しっとしていたとお考えになるなら、それは間違っています、私は少しも嫉妬は感じませんでした、ことによるとそれは、私の家柄がよく、身分もずっと上だったからかもしれません、私はむしろ彼を尊敬していたといってもいいくらいです、いい時代でした、家があり、家族があり、若さと力を自分で感ずることができ、そしてよき友達をもっている、――さよう、二十一の年まで、私はそのように安定した、満足な生活に恵まれていました。それが父の死を境にして、狂いだしたのです」
 老人は土瓶に湯を注いで、若侍のほうへさしだした。若侍は首を振り、老人は自分の湯呑に茶を注いだ。
「つまらない話で、御退屈ではありませんか」
「いや、うかがっています」と若侍が答えた、「どうぞ続けて下さい」
「父が病死したあと、私にすぐ縁談が始まりました」と老人は云った、「二十一の冬のことですが、私はまえからそのつもりでいた娘を、自分の嫁にと望みました、娘の家は番がしら格で、彼女の年は十七歳、もちろん当人も私の妻になることを承知していたのです、しかし、その申入れは断わられました」


 ――せっかくではあるが、娘はもう婚約した相手があるから。
 娘の親は仲人にそう云った。そして婚約の相手を訊くと、その友達の名をあげたのだという。老人はちょっと口をつぐみ、茶を啜ろうとしたが、湯呑を口までもっていったまま、それを飲もうとはせずに、顔を低く俯向うつむけた。
「私は友達に会いにゆきました」とかなり経ってから老人は続けた、「友達は婚約したことを認め、私はかっとなりました、彼は私と娘のことをよく知っている、幼いころから知っている筈です、娘の親にぜひと懇望されたのだそうですが、私と娘のことを知っている以上、断わるのが当然ではないか。
 ――きさまは他人の妻をぬすんだ。
 私はそう云いました、言葉はもっと激しく、もっと卑しいものだったのです、友達はたいそう冷静でした、私の怒りをそらし、私をなだめようとつとめました、それがかえって私を逆上させたと思うのですが、私は彼にはたし合を申入れたのです」
 老人は俯向いていた顔をあげた。そして、湯呑を脇に置いて、掛けてある鍋の蓋を取った。鍋の中から湯気があがり、香ばしい匂いが、あたりにひろがった。
「なだめあぐねたようすで、友達もはたし合を承知しましたが、彼は腕に自信もあったし、その場になってからでも話しあえる、と思ったのでしょう、あとで考えるとそう推察できるのですが、結果は逆になりました」老人はそこで言葉を切り、低い声で、なにか不快なものでも振り捨てるように、口ばやに云った、「介添もない二人だけの決闘でしたが、私は初太刀たちで彼の肩を斬り、二の太刀で腰を存分に斬りました。
 ――もういい、これまでだ。
 友達は倒れながらそう叫び、私は刀をひきました、私は私で、存分にやったと思ったのです、存分に、……友達は地面に倒れたまま、私にこう呼びかけました。
 ――人の来ないうちに、医者を呼んで来てくれ、早く。
 私は刀にぬぐいをかけてそこを去ると、娘を呼びだして始終を話しました、そして、そのまま二人で、城下を出奔したのです」
 老人は木の杓子しゃくしで鍋の中をかきまぜ、それから鍋に蓋をした。若侍は待っていた。老人はながい溜息ためいきをつき、片手でうしろくびを揉んだ。
「僅かばかりな金を持っただけで、私たちはすぐに窮迫しましたが、自分たちの恋に勝ったというよろこびと、若いころの無分別さとで、ただもうその日その日を夢中ですごしておりました」
 老人はそこでまた、さもたのしそうに首を振った、「無分別、――さよう、無分別もあながち悪くはありません、一日や二日、食事のできないようなことがあっても、却って二人の愛情をつよめ、自分たちが恋に勝った、ということをたしかめるように思えたものです、もちろん、それは二年か三年しか続きませんでしたが」
 老人は低い声で笑った。薪を火にくべながら、喉でくすくすと笑い、失礼、といって続けた、「いまこの火を見ながら思ったのですが、火をもやすには薪がなければならない、薪がなくなれば火は消えてしまう、私たちの場合もそういうことだったのです、人を狂気にさせるほどの恋も、いつかは冷えるときが来る、恋を冷えないままにしておくような薪はない、それでも家を持ち子供が生れ、生活する能力があればべつでしょう、私たちにはそれがなかった、幸か不幸か子も生れず、職業といえるものも身につかず、家ときまった住居を持つこともできなかった。そのときばったりの稼ぎを追って、東へゆき西へゆき、二年と同じ土地にいたことがない、というくらしが続いたのです」
「出奔してから七年めのことですが」と老人は続けた、「私たちはいちど国許へ帰りました、いっそ名のり出て、処罰を受けようと思ったのです、しかしそれができなくなった、というのは、三年まえに母は死に、家名も断絶していましたし、私の斬った友達は生きていたばかりでなく、二百石あまりの小姓頭にとりたてられていたのです、――さよう、存分に斬ったと思ったのは誤りで、友達の傷はさしたることもなかったし、却って家中の同情を集める結果になったようです、これでは名のって出ることはできません、仮にそうする勇気があったとしても、世のもの笑いのたねになるだけで、なんの意味もないからです、私たちはすぐにそこを去りました」
 妻をその実家へ帰らせることも不可能であった。妻にはもとよりそんな気持はない。そのくらいなら自害をする、と妻は云った。こうしてまた、二人は放浪生活に戻ったのだが、お互いの気持はまえよりも悪くなった。徒士にすぎなかった友達が、二百石あまりの小姓頭になっていたこと。たいそう藩主にめをかけられているので、将来さらに出世をするだろうこと。老職の家から妻を迎え、すでに一男一女の子があることなどが、二人の気持に深い傷跡を残したのである。
 ――あのとき自分さえでしゃばらなければ、妻はいま彼を良人おっとにし、家中の人たちの羨望せんぼうと尊敬のなかで、安穏な生活ができたのだ。
 老人はそう思ったし、老人の妻はまたこう思った。
 ――この人をこんなに落魄らくはくさせたのはあたしの責任だ、この罪をつぐなうことはできない。
 そして二人はかの友達を憎んだ。彼さえいなければよかったのである。二人は幼いころから互いに好きあっていたし、成長してもその愛情は変らなかった。身分に少し差はあったが、結婚がゆるされないほどの差ではなかった。かの友達さえいなければ、二人はいっしょになれたであろうし、家柄と身分とで平安な生活ができたことだろう。二人をこのような不幸に追いやったのはかの男である、憎むべきはかの男だ。
「友達を憎むことが、いっとき私どもの愛情をかきたてたようでした」と老人は首を振りながら云った、「しかし、それも長くは続かなかった、憎悪という感情のなかには、人間は長く住めないもののようです。そしてまた、その日その日の稼ぎに追われる生活では、どんな感情もすり減ってしまうのでしょう、――さよう、あとは申すまでもありません、四十の年を越すとまもなく、私は左足の痛風で力仕事ができなくなり、それ以来ずっと乞食ぐらしをしてまいりました」
 そのとき、源心寺の鐘が鳴りだした。若侍はきっと顔をあげ、鐘の音につれてその数だけ、持っている湯呑を指で叩いた。気がつくと東の空が白んでおり、鐘は六つ(午前六時)であった。老人は若侍の顔を見やり、それから太息といきをして、自分に頷いた。


「この橋の下には、人間の生活はありません」と老人は静かに話を続けた、「こういうところで寝起きするようになってからの私は、死んだも同然です、橋の上とこことはまったく世界が違いますが、それでも私には、橋の上の出来事を見たり聞いたりすることはできます、世間の人たちは乞食に気をかねたりはしませんし、もうこちらにも世間的な欲やみえはない、ですからどんなこともそのままに見、そのままに聞くことができます、いいものです、ここから見るけしきは、恋もあやまちも、誇りや怒りや、悲しみや苦しみさえも、いいものにみえます」
 老人はまた鍋の蓋をとり、杓子で中のものをきまぜた。まえよりも濃い湯気が立ち、なにかの煮える香ばしい匂いが、まえよりもつよくあたりにひろがった。
「この足が痛風にかかり、乞食をしてまわるようになってから、私はしばしばあのときのことを考えるようになりました」老人は鍋に蓋をし、溜息をついて云った、「はたし合を挑むほかにやりかたはなかったろうか、どうしても娘を自分のものにしなければならなかったのだろうか、――少年のとき、怒ってたち去る私のあとから、友達は黙ってついて来ました、私が帰れとどなっても、やはり辛抱づよくついて来て、そうして、友達だから、と云いました、だって友達だから」
 老人は頭を垂れ、垂れた頭を左へ右へとゆり動かした。焚火の明りをうけても、もう光りをみせなくなった灰色の薄い髪毛が、乾いたまま心もとなく揺れた。老人は薪をくべ、長い溜息をついて、静かに顔をあげた。
「あのとき友達のところへゆくまえに、茶を一杯啜るだけでも、考えが変ったかもしれない、堀端を歩くとか、絵を眺めるとか、ほんのちょっと気をしずめてからにすれば、事情はまったく変っていたかもしれません、そうでなくとも、あの少年時代の、うしろからついて来る足音、落葉を踏みながらついて来た足音や、友達の云ったあの言葉を思いだすだけでもよかったのです」
 老人はどこを見るともない眼つきで、明けてくる河原の向うを見まもった、「あやまちのない人生というやつは味気ないものです、心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのがしぜんです、そうして人間らしく成長するのでしょうが、しなくても済むあやまち、取返しのつかないあやまちは避けるほうがいい、――私がはたし合を挑んだ気持は、のっぴきならぬと思い詰めたからのようです、だが、本当にのっぴきならぬことだったでしょうか、娘一人を失うか得るかが、命をけるほど重大なことだったでしょうか、さよう、……私にとっては重大だったのでしょう、家名も親も忘れるほど思い詰め、はたし合の結果がどうなるかを考えるゆとりさえなかったのですから」
「どんなに重大だと思うことも、時が経ってみるとそれほどではなくなるものです」と老人は云った、「家伝の刀ひとふりと、親たちの位牌いはいだけ持って、人の家の裏に立って食を乞い、ほら穴や橋の下で寝起きをしながら、それでもなお、私は生きておりますし、これはこれでまた味わいもあります、そして、こういう境涯から振返ってみると、なに一つ重大なことはなかったと思うのです、恋の冷える時間はごく短いものでしたし、友の出世もさしたることではない、友達はその後さらに出世をしたでしょう、ことによると城代家老になったかもしれませんが、いまの私にはうらやむ気持もなし、特に祝う気持もない、ただひとつ、思いだすたびに心が痛むのは、あのはたし合で友を斬ったことです。
 ――これまでだ、人の来ないうちに医者を呼んでくれ。
 友達が倒れながらそう叫んだ声が、年をとるにしたがって、しだいにはっきりと耳によみがえってくるようになりました、おそらく、友達はおもて沙汰にならぬように、事の始末をしようと思ったのでしょう、さよう、私にとってはこの一つだけが、癒えることのない傷口になりましたし、出世をしたのが友達であり、自分がこのようになりはてたことを、いまでは有難いとさえ思っているくらいです」
 石垣の上の隙間で、妻女が身動きをし、なにかぶつぶつと呟くのが聞えた。うるさくって眠れない、と云っているらしい。老人はちょっと振返ったが、すぐに向き直って、焚火のぐあいを直した。
「なが話をしてさぞ御迷惑だったでしょう」と老人が穏やかな眼で若侍を見た、「茶をもう一ついかがですか」
「頂きましょう」と若侍が答えた。しかし声が喉でかすれたので、彼はもういちどくり返した、「ええ、頂きます」
 老人は火のそばに置いてあった湯沸しを取り、手で触ってみてから、ゆっくりと茶を淹れた。
「失礼ですが」と若侍は湯呑を受取りながら、声をひそめて訊いた、「――あれが、そのときの御妻女ですか」
 老人は首を振った。否定したのかとみえたが、老人は首を振りながら云った、「そうです、あれがいま申上げた妻です、まえにはしばしば、そうでなければと思ったものですが、いまではそんなことさえ気にならなくなりました、さよう、あれが命を賭けて得た、私の妻です」
 若侍は河原のほうを見た。河原にはもやが立っていた。明るくなった空の光りを含んで、靄は帯のように条をなし、冰った流れの上をゆるやかに、殆んど動くとはみえないほどゆるやかに、川下のほうへと動いていた。
「いかがでございますか」と老人が鍋のほうへ手を振りながら云った、「粟のかゆですが、しょせんお口には合わぬでしょうが、もし不浄とお思いにならなかったら、一椀めしあがっていらっしゃいませんか」
「頂戴したいが」と云って、若侍は湯呑を下に置いた、「人と会う約束がしてあるので、また次のことに致しましょう」
 そして彼は立ちあがり、刀を持って、老人に振返った。
「こんどはゆっくりお話をうかがいたい、席を設けますが、来て下さいますか」
「いや」と老人は微笑した、「おぼしめしはかたじけないが、この御城下には少し長くお世話になりすぎました、じつは今日にもここを立とうと思っていたところです」
「お立ちになる」
「ひとところに長くいると、その土地の情がうつります」と老人は云った、「人にも、町にも、川にも草木にも、路傍の石ころにさえ、はなれがたい思いがしてくるものです、いや、この御城下には少し長くいすぎました、もうおいとまをしなければならないと思います」


 若侍は刀を腰に差しながら、いかにも心のこりらしく云った。
「ではせめて、今夜だけでもここにいてくれませんか、私だけではなく、私の友人もいっしょに、もういちどお話をうかがいたいのですが」
 老人は微笑した。もう若侍の白装束には眼もくれず、なにやらたのしいことでもあるかのように微笑し、二度、三度と頷きながら、穏やかな声で云った。
「ではそう致しましょう」
「きっとですか」
「そう致しましょう」と老人は云った。
 若侍は老人の眼をみつめた。
 ――この人はいってしまうな。
 と彼は思った。老人は微笑しながら見返していた。
 若侍は礼を述べて、そこを出てゆき、岸の上へあがった。
 東のほうに遠く、隣藩との境をなす伊鹿山が見え、その上にひろがっている棚雲が、金錆かなさび色に染まっていた。若侍は岸に立って橋を眺め、橋の下を見やった。あたりはもうすっかり明るいが、橋の下は暗く、ひっそりとしていた。
 ――ここはまったくべつの世界です。
 老人はそう云った。
 たしかに、岸を歩く者も、橋の上をとおる者も、そこに人が住んでいるなどとは気づきもしまいし、たとえ気づいたにしても、なんの関心をもつこともないだろう。いままで老人と語りあった彼でさえ、岸の上へあがってみると、眼のさきにあるそこがはるかに遠く、焚火の火や、老人の姿や、茶を啜ったことまでが、まるで現実のことではないように感じられるのであった。
「怒りや悲しみや、苦しみさえも、いいものです」と若侍は呟いた、「――いいものです」
 彼は自分が変ったことに気づいたようだ。彼の顔はなごやかになり、その眼には謙遜けんそんな、あたたかい光りがあらわれている。彼は唇に微笑をうかべ、そうして口の中で暗誦するように呟いた。
「心に傷をもたない人間がつまらないように、あやまちのない人生は味気ないものだ」
 彼は伊鹿山のほうへ眼をあげた。
 棚雲は明るい牡丹ぼたん色に染まり、その上空は浅黄色にぼかされていた。彼は深く、胸いっぱいに呼吸をし、もういちど橋の下を見た。そこはまだ暗く、ひっそりと人のけはいもなく、ただ青白い煙だけが、薄く静かに、河原のほうへとなびいていた。
 若侍はそのけしきを、しっかり覚えておこうとでもするように、やや暫く見まもっていたが、やがて向き直ると、練り馬場のほうへと歩きだした。
 その広い草原にも靄が立っていた。靄は地上二尺ほどのところをいちめんにおおい、それとはみえないほどゆっくりと、濃淡の条をなして揺れ動いてい、歩いてゆく足の下で、霜柱の砕けるこころよい音がした。――彼は自分があたためられているのを感じ、少しばかりそわそわした。空腹のあとで、温たかい汁気たっぷりな美味うまい食事をしたような、ゆたかさと満足感にみたされ、その感じを早く人に伝えたいという気持でわくわくした。
「もう刻限だろう」と彼は歩きながら呟いた、「まだ来ていないようだな」
 彼は向うを見ながら立停った。源心寺の森が薄墨で描いたようにみえ、広い草原には人の影もなかった。彼はちょっと迷い、それからまた歩きだしたが、すぐに向うから人の来るのを認めた。一人の若侍が、源心寺の土塀をまわってあらわれ、大股おおまたにこちらへ歩みよって来た。
「おーい」と彼は手をあげた。
 向うの若侍は立停り、こちらを見ると、くるっと羽折をぬいだ。下は白支度で、手早く刀の下緒を外し、それをたすきに掛けた。
「待ってくれ」とこちらの若侍は叫んだ、「話すことがある、待ってくれ」
 彼は腰から両刀をとり、さやのまま右腕に抱えて走りだした。
 向うの若侍は不審そうにこちらを見た。襷をかけた手の片方は脇、片方は肩のところで、下緒をつかんだまま止め、きびしい眼つきでこちらをにらんだ。
 走ってゆく彼のすねのあたりで、靄が尾をひくように巻き立ったが、彼が走りすぎるとすぐにしずまった。彼は相手のところへけより、右の脇に抱えた両刀を見せながらなにか云った。――遠いので言葉は聞えないが、彼は熱心に話してい、相手のきびしい顔つきがほぐれた。そのとき、雲のあいだから陽が横さまにさして、相手の若侍の、たくましい顔を赤く染めた。その若侍は大きく頷き、手を伸ばして、こちらの若侍の肩を叩いた。こちらの若侍はいさましく低頭し、相手は笑いながら首を振って、いまかけた襷を外し、羽折を拾いあげた。
 陽がさし始めるとともに、靄はにわかにふくれて、地面から浮きあがりながら薄くなり、かれら二人の姿を包んでしまった。そうして、その靄がさらに薄れてゆき、明るい日光が草原いっぱいにあふれたときには、もうかれら二人はそこにはいなかった。





底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社
   1982(昭和57)年10月25日発行
初出:「小説新潮」新潮社
   1958(昭和33)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード