花咲かぬリラ

山本周五郎





 軍服を着た肩のたくましい背丈の眼だって高い青年が、大股おおまたのひどく特徴のある歩きつきで麻布片町坂を下りて来た。片手にかばんを持ち、右の肩に大きくふくらんだ雑嚢ざつのうをひっ掛けている、鞄にも雑嚢にも筆太の無遠慮な字で麻川来太らいたと書きなぐってあるが、その特徴のある歩きぶりと体つきとが似合っているように、そのなぐりつけたような名の文字と風貌ともよく似ているので、注意して見る者にはちょっと失笑したくなるような印象を与える。……坂の途中で彼は左へ折れた、そこは閑静な中流の住宅街で、たいてい同じような門とへいをとりまわし、樹の多い庭や、古びたつつましやかな、しかし住み心地の良さそうな家構えなど、みなどこかに共通点のあるのが、その街筋ぜんたいにおちつきと静かさを保たせている。……麻川来太は曲がった角から三軒めの家を訪れた。野茨のいばらの低い生垣の門を入ると洋風の玄関があり、春の光のいっぱいにさしているその片隅に鸚鵡おうむの籠が置いてあった。
「よう、生きていたな」彼は鸚鵡に話しかけながら呼鈴を押した、「……おまえが生きているくらいなら皆さん大丈夫だろう、どうだ、今でも豆腐屋をやるか」
 扉が明いて中年の婦人が顔を出した、そして「まあらいさん」と云って片手で自分の胸を押えた。来太は右の手でひょいと一種の身振りをし、唇を上へ押し上げるようにしながらにやっと笑った。眉も眼も少し尻下がりの、角張ったがっちりとした顔は、そのままでも相当に愛嬌あいきょうがあるが、笑うとまるであけっ放しな腕白小僧のような顔つきになる。
「まあ来さん」と、婦人はもういちど息を吸い込むように叫んだ、「……あなたお帰りになったの、ご無事だったんですか」
「ええ生きて帰りました」
「まあ、それはまあ、それなら電報くらい打っておよこしになればいいのに、とにかくまあお上がりになって」
「お邪魔します、しかし二時間しか余裕がありませんからどうか構わないでください」
「はいはい承知いたしました」婦人は来太の鞄を受け取りながら振り返って呼んだ。
「由利さん、来太さんがお帰りになってよ」
 わあという声がした。そして来太が婦人の跡について廊下へはいると、向こうから十八くらいになる少女がとびだして来た。白いスウェターの胸が固く張り切って短めのスカートから日焼けのした健康な脚がぬっと伸びている、頬骨は高く、眼は細く、口は大きくて美人という型ではないが、誰の眼にも愛くるしく見られる顔だちの一種である。
「まあ生きていたの来さん、ほんとう?」
「こんなはずじゃなかったんだがね」
「いいわよ堪忍してあげるわ」由利はいきなり手を伸ばして握手を求めた、「……その代わりあたしをお嫁にもらってよ」
「あ痛、このごろの庭球にそんなルールでも出来たんですか奥さん」
「しようがありませんよ悪くなるばかりで、さあこちらがいいでしょう」
 通された部屋は十畳の客間だった。この家の主人は吉村英作といって農科大学の教授であるが、若いころから版画の蒐集しゅうしゅうが道楽で、ことに銅版画にはひとかどの鑑識があり、その道で知られた名作をかなり持っている。今も壁面にけてあるのは、かつてM侯爵のコレクションとして有名だったツオルンの海景裸婦であって、主人の自慢のものなのだが、そういうものにまったく興味のない来太は、一べつもくれずその画に背を向けて坐った。
「それで、いったいどこにいらしったの」挨拶がすむとすぐ夫人がきいた、「……あなたの軍隊は玉砕したということで、私たちみんなすっかりあきらめていたんですよ」
「その話は勘弁してください、生きて帰って来たということが説明の全部です、……先生はおでかけですか」
「学校よ、四時にはお帰りになるわ」と由利が答えた。彼女には来太の気持がぴったりきたに違いない、なお問いかけようとする母の言葉をさえぎって元気に云った、「……今夜は泊まっていらっしゃるでしょう、梶井さんに電話をかけてやすべえと彦部さんを誘って来ていただくわ、みんなで祝杯をあげましょうよ、ねえお母さま」
「いやだめなんだ、午後三時に上野発の汽車へ乗らなければならない、ひとりならいいがつれが五人あって待ち合わせる約束になっているんだから」来太はぶっきらぼうに断わって夫人のほうへ振り返った、「……皆さんの御安否が知りたかったのと、先生にお眼にかかれたら御意見を伺いたいことがあってお寄りしたんですが、四時では間に合いませんから、こんどはお眼にかからずにゆきます」
「だめよ、そんなこと、お父さまお怒りになるわ」
「なにまたすぐ出て来るよ」来太はむぞうさに一しゅうした、「……ときに杉浦君はどうしました、まだここにいるんでしょう?」
「ああそう御存じなかったのね、去年の二月に国へお帰りになりましてよ」


「帰った、宮城へ帰ったんですか」
「あなたの隊が玉砕したという報道があって、そう、一週間ばかりしてでしょうか」夫人は頭を傾けながら云った、「……急に長瀞ながとろへ帰るからとお云いなすって、まるで鳥が立つようにすっと帰っておしまいになったんですよ」
「すると今は長瀞にいるわけですか」
「ええそうでしょう」夫人はちょっと云いにくそうに口ごもった、「……多分お家にいらっしゃるでしょうと思いますけどね」
「とおっしゃるのは、なにか変わったことでもあったんですか」
「由利さん」夫人は娘をかえり見た、「……あなたおビールを持っていらっしゃい、時間がないっておっしゃるんだからせめて喉でも湿していっていただきましょう」
「損だわねえ、すぐ帰る人になんか」来太をにらみながら由利は立った、「……おさかなは、お母さま」
「ピーナツがあるでしょう」
 わあますます損だと云いながら由利が去ると、夫人は少し声を低くしながら、
「去年の十月でしたわ、富美子さんから私にお手紙がありましたの、そのなかに近いうちお家を出て新しい生活にはいる、くわしいことは後から知らせるという意味のことが書いてありました」
「新しい生活とはなんのことなんです」
「それがそれっきり手紙がないのでわからないんですよ、まだお家をお出にならないのかとも思うし、それともお出になって……」
 腕白小僧のような彼の顔を、烈しい痛みでも感じたかのような表情が走った。もちろんそれはほんの瞬間のことで、彼はすぐ唇を押し上げるような笑い方をしながら、夫人の眼を見て云った。
「結婚じゃないんですか」
「…………」夫人はまぶしそうに見返した、
「そんなことはないと思いますけどねえ」
 由利がビールを運んで来たのでそのまま話は途切れた。来太はさっきから時どき左腕をぐっと伸ばしては手頸てくびの表を見る、ちょうど人が腕時計を見るのと同じ動作であるが、べつに時計を巻いてあるわけではない、「はいお待ち遠さま」といって由利がビールを注いで勧めたときも、またひょいと左手を伸ばして手首を見た。
「奥さん、お願いがあるんですがね、どんなのでもいいですから先生の服の古いのを貸してくださいませんか」
「どうして、なにかお必要なの」
「このなりじゃあ眼についていけないんです、むやみに戦地のことをきかれるんでね、これがいちばん閉口です、どうかひとつ貸してください」
「お貸しするような物はないけど、そうね、あなたは着丈が合っておいでだから、なにか見てみましょう」由利さんちょっと手伝ってちょうだいと云って、夫人は立っていった。
 来太はなにか思いついたという風に、ビールをひと口あおると、立ち上がって庭へ下りた。百坪足らずの前庭はいちめん茶色に枯れ縮んだ芝生におおわれているが、その一部にひとところ新しく土のき返された所がある。そこは花を作る場所で、今年ももう球根類は植付けをすませたらしく、くろぐろと柔らかく湿気を帯びた土は、日光をたっぷりと吸って、あたかも生きて呼吸をしているかのごとくみえる。……来太はその花壇の向こうの隅、ちょうど野茨の生垣と接する所までいって足をとめた。そしてなにか捜し求めるように周囲を眺めまわしていたが、ふと身をかがめて、枯れた矮草の中から小さな木片で作った立札のような物を拾いあげた、点々と土にまみれた方二寸ばかりの、白いペンキ塗りのげかかった表に、「また逢う日まで」と小さく書いた字が読める。
「抜き棄てたのか、それとも、持っていったのだろうか」
 来太はそっとつぶやいた。五年まえの秋の、ある日のことが痛いほど切なく想い返された、しかしそういう回想におぼれたり、ながく感慨にふけったりすることは彼の性質ではないとみえ、すぐにその小さな立札を枯れ草の中に突き立てると、それに対してにやっと笑いながら一ゆうした。「なにしてらっしゃるのらいさん、せっかくのおビールの気がぬけてしまってよ」
 縁側から由利の呼びごえが聞こえた。
「僕のリラはどうしたかと思ってね」来太は庭を戻りながらそういった。
「あああれは杉浦さんが抜いておしまいになったわ」由利はむぞうさに答えた。
「……だってあのリラったら花が咲かないんですもの、あの春に咲くからって植えていらしったでしょう、それがいくら待っても丈が伸びるばかりで花はちっとも咲かないの、それで『花咲かぬリラ』って綽名あだながついたくらいよ、とうとう杉浦さんが抜いておしまいになったわ」
「来さん、ちょっと当ててみてください」
 夫人が二組ほどの背広を縁側へひろげながら呼んだ。
「……みんな着切ってしまって良いのはないんですよ、これどうかしら……」


 午後三時過ぎに上野を出た青森行の列車は非常に混んでいた。近ごろは乗客の数もずっと緩和されて、列車地獄などという形容も聞かれなくなっていたが、その日の混み方は特別で、客は昇降口にまではみだしていた。……ぎしぎしに詰まったその車室の中を、来太は最後部から前へと突進していた。本当にそれは突進という感じであった、「押すな」とか「痛い」とか「だめだ、もう入れやせん」とかいう呶罵どばの声をひと足ごとに浴びせられる、ひじで小突かれたりられたりする。だが来太は神経の太い動じない顔に微笑を浮かべながら、「すまない、ちょっと頼む」とか「失敬、ごめんなさい」とか繰り返しながら、粘り強い根気と疲れを知らぬ躰力たいりょくにものを云わせて、一歩一歩と進んでいった。
 こういう努力を続けてゆくうちに、ある車室の中で、「小父さん馬鹿だなあ」と呼びかける子供があった。振り返ると十歳くらいの少年が座席の背凭もたれ板の上にちょこなんと腰を掛けて、こっちを見て笑っていた。席は男ばかり三人も押し合っているので、彼だけそこへはみ出たという感じである、「ここを伝わってゆくんだよ」と、少年は自分の掛けている背凭板を叩いてみせた、「……この上を跳び跳びにゆけば楽にゆけるんだよ」来太は疑わしげに苦笑した。するとすぐ側にいた若者が、「そうですよ、そのほうが早いですよ、皆やります」と口を添え、なお来太が鞄を持っているのを見て、「……その鞄はこっちでリレーにしましょう」と手を出した。初めは信じかねたが、なにしろ面白そうだという誘惑が彼をとらえた、「じゃあ頼みます」そう云って来太は鞄をその若者に渡し、身軽に背凭板の上へ登った。ずいぶん無礼なはなしである。掛けている客の頭とすれすれに靴を差し入れ、板の背を踏みながらつぎつぎと跳び移るのだ。両手では網棚をつかんで身を支えるのだが、背丈が高いから頭をかがめなければならない。不自由な姿勢だからうっかりすると靴がすべりそうになる。
「失敬ですが、ごめんなさい」そう繰り返しながらも、今にどなりつけられるだろうと覚悟していたが、若者が云ったとおり珍しいことではないとみえ、誰一人どなりもせず不平を云う者もなかった。そしてまさしく通路をゆくよりは楽でもあり早かったが、来太はふと誰かに平手打ちでも食ったように顔をひきゆがめ、車室の端までゆくとくるりと振り返った。そしてすばらしく大きな声で、
「皆さん、一言おびをします、僕はいま非常に無秩序なことをいたしました、どうしても会わなければならぬれがあるもので、つい手段を選ばぬ気持になったのですが、これはたいへん悪いことでした、おゆるしください」
「それにはおよばねえ」と叫び返す声がした、「……こんなときはしようがねえお互いさまだ」
「ありがとう、しかしこんなときだからしようがないではすまない」来太は声を張って云った、「それでは食えないから泥棒をするというのと同じだ、非常に恥入ります、どうか勘弁してください」
 云い終わって通路へ下りると、ちょうど客から客へリレーで送られた鞄が来た。彼はそれを頭上に高くあげながら、「ありがとう」と叫び、次の車室へ移ろうとした。するとその扉口にひしめき合っている人混みの中から、
「隊長ここです」と呼ぶ声がした。
 見るとその車室の最後部の席から、尋ねる五人の者が立ち上がって笑顔を重ねるようにして手を振ってい、「よかったですね、隊長がどなってくれなかったら会えないところでした」
「しかしびんびんとよく響いたなあ」
「久しぶりの大音声で胸がすっとしたよ」
「こいつは拍手しました」彼らは来太が側へゆくとわれ勝ちにそう云った。つばめひなが親鳥を迎えるような悦びにあふれた感じである。
「みんなそろってるな、よしよし」来太は一人の明けてくれた席へむぞうさに掛けながら、五人の顔を順々に見まわした。
「……訪ねた先で時間を取ってあぶなく乗りおくれるところだった、しかしみんなよくこの列車へ乗ったな」
「それはもう、隊長が乗るとおっしゃれば必ずお乗りになると信じていましたから、その点は安心していました」
「結構だ、しかし隊長はもうよそう」来太は吉村家で借りて着た背広の前をろげながらそう云った、「……それから僕はちょっと眠るからな、二時間ばかりたったら起こしてくれ、話はそれからだ、頼むぞ」そして腕組みをして後ろへもたれながら眼をつむった。五人の青年たちはそれで一斉に黙った、彼らは二十五六から三十くらいまでの年ごろで、服装も持物も、そして日焼けのした、けれども憔悴しょうすいの色の隠せない顔つきも、共通した「帰還兵」の特徴をもっている。だがきわめて注意をくことは、彼らがそろって明るく、元気にあふれていることだった、そしてそれは来太を中心に結び合うところから発するもののようにみえる、……彼らはいま互いにからだを寄せ合い、来太の眠りを護るかのように沈黙した。


 戦場生活をした者は思考のテンポが速い、一瞬間に何十年かの過去を回想する機会に馴らされてるからである。来太は眠ろうとして眼を閉じたが、睡気ねむけのくるまえにかずかずの幻像が習慣のように意識の面をかすめ去った。……戦場の思い出はもう遠かった、原隊で解除になり、五人の旧部下を集めて北海道にある故郷へ帰農することに決定したとき、すでに戦争という事実は切り捨ててある、今ではむしろそれ以前の生活のほうが身近になまなまと感じられるのだった。
 いま彼の心を去来する思考の中心になっているのは「花咲かぬリラ」という言葉であった。昭和十七年の一月、出征する直前に彼は恩師吉村教授の家の庭へ一本のリラの若木を植えた、それはその春にはきっと咲くと植木屋が保証してくれたものだった。……そのとき杉浦富美子と将来を約したのだ、「もし生きて帰ったら」と、二人は一緒にリラを植えながら誓った。富美子は吉村教授の旧友の娘である、実家は宮城県亘理わたり郡の長瀞という山村の豪家で、彼女は女学校をえるとすぐ上京し、片町坂の教授の家から女子大へ通学していた。そのころちょうど北海道から出て来て東京の農大で酪農法の勉強をしていた来太は、教授の私的指導を受けるために週二回ずつ片町坂の家へ通っていたが、持ち前の明るい無邪気な性質から、ほとんど家族の一人のような待遇を受けていた。富美子ともそういう関係で初めからの知合いであったが、彼女は控えめというより孤独癖のある気性で、来太の来る日のにぎやかな団欒だんらんにも加わるようなことは少なく、たいていひとり自分の部屋でこつこつ勉強しているという風だった。吉村家の人々はその気持を尊重して、そっと好むままに任せていたが、来太はよい意味の無遠慮さを発揮して、どしどしでかけていってはその部屋から彼女を誘い出した。
 ――いまみんなでトランプをするからいらっしゃい、勉強? なに勉強は待っててくれるよ。
 そう云った調子である。明らかに不愉快だという態度を示しても、例の神経の太い笑顔で無視してしまう、それがたび重なるうちに、富美子もようやく馴れていったが、それでも親しみ近づくという様子はなかった。……こういう状態が三年ばかり続いた、そして来太に召集が来たとき、まるで初めから約束していたかのように、いっぺんに二人の心が結び合ったのである。リラの若木を植えたとき富美子は泣いた、二人で小さな立札に、来太が「むらさきはしどい」と書いたあと、富美子はそれに添えて「また逢う日まで」と書きながら泣いた。もっと冷静な娘だと信じていた来太は、そのとき初めて本当の富美子の心を見たように思ったのであった。
 帰還して故郷へ帰るときめたとき、彼は新しい生活の中心としてまず富美子を考えた。将来を誓ってから五年という月日がたっているけれど、戦争の厳しいさなかではあり、彼女の気質からすれば必ず待っていてくれると信じた。それもおそらく片町坂の家で待っているに違いないと、……だが富美子はいなかった。来太の属する部隊が南方群島ちゅうの某所で玉砕したと信ぜられていたことは、日本へ帰って初めて聞かせられたのであるが、富美子はその玉砕の報道のあとで故郷の宮城県へ帰ったという、そして近く家を出て新しい生涯に入るという手紙を寄せたまま、音信が絶えているというのだ。
 ――新しい生涯とは結婚ではないだろうか。
 来太がそう疑ったのも決して無根拠ではないだろう。あのとき二人で植えたリラがついに花咲かずじまいで、富美子が帰郷するとき抜き去ったということも、なにかしら二人の運命を象徴するように思えた。
 ――だが絶望するのは早い。
 来太はそこまで考えをつき詰めると、いつもの癖でにわかにその事実の上へ傲然ごうぜんと腰をおろした。
 ――すべては長瀞の家を訪ねてからだ。
 そして彼はぐっすり眠りこんだ。
 呼び起こされたのは列車が水戸に着いたときだった。来太が覚めると、五人は夏蜜柑なつみかんをむいて「はいお眼覚めざです」と差し出した、来太はまずその一房を取っててのひらへ果汁を絞り、両手で受けて顔をごしごし擦ると、紙巻を取り出してうまそうに一服した。
「ここはどこだ、ああ水戸か」そう云って彼はまた左腕をぐいと伸ばし、手頸のところを見る動作をした、「……さて時間はたっぷりあると、そこでおれの計画を話すんだが、村野から酪業農場をやるということだけは他の者も聞いているはずだな」
 五人はぐっと前へ乗り出しながら熱心に彼の言葉をきき取ろうとした。来太は一房欠けた夏蜜柑の実を持った左手と、煙草を持った右手とで巧みなゼスチュアを交えながら、ちからのこもった早口で語りだした。


「われわれ日本人が米作農業から離脱しなければならぬということは幾たびも話した、稲は南洋圏内の原産であり、その地方に適した植物だ、その証拠には南洋地方だと肥料もやらずきっ放しで年二回も楽に収穫ができる、ところが日本は瑞穂国みずほのくにと誇称し、これほど苦心と研究を積んで来ながら五年に一回くらいは必ず不作に見舞われる、歴史を読めばいたるところに凶作と饑饉ききんの惨害の記録をみつけるだろう、つまり日本で稲を作るということが無理なんだ、それも米食が人間の食法として最もすぐれたものなら仕方がないが、現在の栄養学からいうときわめて非能率不合理な点が多い、たとえばパンにバタ、チーズ、肉類、生野菜という食事だと、その六五%ないし七〇%が栄養分として消化摂取される、ところが米飯に焼き魚とか野菜の煮物などを食べると、栄養分になるのは四五%ないし五〇%で、あとは食べた物を消化することに費やされるか未消化のまま排泄はいせつされてしまうんだ、こんな不合理なはなしはないだろう、しかも米食だとどうしても副食物の味付けが濃くなる、塩とか味噌醤油などを利かさないと飯が不味まずい、この濃い味付けというやつは原則として消化器官を疲らせる、これだけの例でも米食が非能率的な不合理なものだということがわかるだろう、とすればいたずらな苦心経営を積んでまで稲作に執着する理由はいささかもないんだ」
 来太はそこでぐるっと車内にひしめく乗客のほうへ手を振った。言葉はかなり昂奮こうふんしているが、尻下がりの眉も眼もしずかで、唇には例の動じない微笑が絶えず浮かんでいる。彼はもういちど乗客たちのほうへ手を振った。
「日本は国土が狭くなったうえに人間はこのとおり多い、最小限の耕地で最大限の人口の食糧を賄うには、量ばかり多く要して内容の貧弱な米食より、少量で栄養の充足する酪農食法を採るのが当然だ、米飯二椀に焼きいわし三尾と漬け物、これに対してバタ付きトースト二片にチーズ少量と生サラダ菜という、二つの食事を比較して、かりに両方の持つ栄養内容が等しいとしても、その量と料理の手間と消化吸収の状態とをみれば格段に後者のほうが優れている、この点はもっとくわしく検討しなければならないが、単純に以上のことを考えるだけでも、将来の農業が酩農に向かうべきだということは明白だ、……見たまえ、あの田圃たんぼを」と、来太は車窓の外を指さした、「……稲を刈り取ったあとの、醜い裸の泥田のさむざむとした展望、これは約半年のあいだ全国いたるところに見られる風景だ、おれはこの凛寒りんかんたる泥田を美しい牧草で飾るんだ、肥臭い稲田をクローバーの花と香に満ちた牧場にするんだ」
 彼はこういって水田というもののなくなった緑と野花に飾られた田圃を描写し、美しくなった郷土から生まれる新しい生活の詩と美とを語った、「こんな話はおれの柄ではないが」と断わるとおり、ぶっきら棒なぎすぎすしたものだったが、それでも五人の青年たちには楽しい空想を与えたとみえ、彼らはむしろ憧憬どうけいの色を眼に表わしながらきき入るのだった。
「これでおれの理想の要点は云った」
 と来太はやがて話を結んだ、「……君たちもこの気持をよく理解したうえで、中折れのしないように頑張ってくれ、戦争は終わり軍隊は亡んだが、戦友として死生を共にして来た精神的つながりは亡びはしない、戦時ちゅうしっかりと結び合ったこの精神的つながりこそ、今後あらゆることを行なう土台とならなければならない、現在の状態はいろいろな意味でばらばらだ、集中的に国をよみがえらさせようとする力がいていない、これはこのつながりが断ち切られているからだ、おれたちはこの団結の力を緩めないでがっちりやってゆこう、いいか」
「よくわかりました」五人の中でいちばん年長らしい固肥りの毛深い青年がそう云ってひざを叩いた、「……しかしここで乾杯すべき一杯の酒がほしいですね」
「こいつはすぐこれだ、なにかというと前祝いに一杯とくる、いつかなんか今夜はいい夢が見られそうだから前祝いに一杯やりたいと云いやがった」「それより今夜はちょっと呑めるから前祝いに一杯ほしいと云うたにはあきれたよ」
 来太は笑いながら手鞄てかばんを下ろし、中から一本のビールを取り出した。片町坂の家で出された二本めを抜かずにもらって来たのである。「わあ、こいつは手品みたいだ」毛深い青年はいきなり両手を出した、「……しかしほんものでしょうな隊長、まさか明けてみたら」
「その口金を例の手で取れよ、一本きりしかないからまわし呑みだ」来太はこう云ってびんを渡した、「……肴もあるぜ」
 そして南京豆の袋をそこへひろげると、みんな一斉にぱちぱちと拍手した。毛深い青年は馬のようにみごとな大きな前歯をきだして、ビール壜の口金にみついていた。


 夜半十二時過ぎ、来太は五人と別れて亘理わたりという小駅に下車した。彼らはそこからまっすぐ麻川農場へ向かったのである、連絡船が遅れたら追いつけるかもしれない、都合がよかったらそのまま先にゆけという約束だった。
 駅員に宿屋をきいたが、こんな時勢だし時間が時間だから起きまいと云う、長瀞という所をきくと歩いて一時間足らずだとのことで、これも初めて訪ねるにはすぐ歩きだすと早く着きすぎてしまう、仕方がないので彼は待合室のベンチでひと眠りすることにした。
 そういうことには馴れているので、さすがに北国の寒さはかなり厳しかったが、案外なくらいよく眠れて、覚めたときはすでにガラス窓の外がほのかに白みはじめ、一番列車に乗る客がちらほら集まりだしていた。……顔を洗おうと思ったが、どうやら洗面所もないらしいので、彼は手鞄を持って駅を出た。町はそこから離れているらしく、屋根の低いうら寂れた家並みのひと側並びに続く道が、霜を結んでてたまま西のほうへ延びている、その道の向こうには阿武隈山脈の高低の多い山峻さんしゅんが迫っていて、赤く枯れた草地と松林とのまだらな山肌を、未明の光の下にさむざむと横たえていた。
 長瀞という地名から渓流のほとりを想像していたが、二度ばかりき訊きしてゆき着いたそこは、国道から山ふところへ二町あまりも爪先登りに登った高台で、ひとまたぎほどの細流のある他には川らしいものもなく、まったくの山家という感じだった。杉浦の家は土地の豪家だと聞いていたが、予想したよりも大きな屋敷構えで、めぐらせてある白壁の土塀どべいは方一町もありそうに見え、その中に亭々と杉の古木が森をなしていた。何百年かたっているであろう飾鋲かざりびょうを打った門を入ると手入れのゆき届いた前栽があり、武家のような式台のある表玄関と脇玄関とが並んでいる、来太は表玄関へいって立った。
「へえ」という間伸びのした返事が聞こえ、やがてはかまを着けた白髪の、昔風に三太夫と呼びたい感じの老人が出て来た。――たいへんな格式だな、来太はそう思いながら自分の名と主人に会いたい旨を述べた。老人はいちど引っ込んで戻り「御用向きを」と、聞きとりにくい言葉で云った。
「用事はお会いしないと話せないことです」
「それではお眼にかかれぬと申しますが」
「なるほど」来太はうなずいた、「……では富美子さんのことでお話があると云ってください。それから僕が片町坂の吉村教授のゆかりの者だということも」
 老人はややしばらくして引き返して来た。
「お気の毒ですが主人はいま多忙で、お眼にかかることはなりかねると申します」
「しかしそれはおかしいじゃないか」そう云いかけて来太は口をつぐんだ、文句を云っても役にたたないと気がついたから、それでこんどは老人に向かってきいた、「……ではこれだけ聞かせてください、富美子さんは今お宅においでですか」
「いいえここにはおいでなさいません」
「どこへいらしったんです、おかたづきになったんですか、それとも……」
「さようなことは私からはお返事がなりかねます」
「僕はききたいんだ、きかなくてはならない理由があるんだから、教えてくれたまえ、富美子さんはどこにいるんです」
「お返事はできません、お引き取りください」
「じゃあしようがない」来太はかがんで靴のひもを解いた、「……失敬してじかに御主人に会うよ」
 靴を脱ぐとそのまま玄関へ上がった。老人はあっけにとられ、いったいなにをするのかと云いたげに見ていたが、来太がそのまま奥へゆこうとするのでびっくりして押し止めようとした。しかし彼は大股にそこの廊下をつき当たり、広縁へ出ると右へ、いくつかの部屋の前を通ってゆくと、十畳ほどのひと間にこの家の主人と思える初老の人物のいるのをみつけた。黒っぽいつむぎの着物に同じ柄の袴をはき、「端然」という感じで坐っている、眉のきっと張った、短く刈り込んだ口髭くちひげの半ば白い、かなりかんの強そうな顔つきである。来太は廊下に立ったままちょっと会釈をした。
「僕はいま取次ぎの人に申し上げた麻川来太という者です、御多忙で会えぬということでしたが僕も多忙なので、はなはだ失敬ですがお邪魔をします」
「話はできません」主人は冷ややかな眼でちらと一べつをくれた、「……ことにそういう無礼な態度をなさる以上お断わりします」
「僕は富美子さんに会いたいんです、会わなければならないんですよ、それはあなたがどうお考えになるかということとは問題がまったく別なんです、どうか教えてください富美子さんはどこにいらっしゃるんですか」
「君はいったい何者です、どういう権利があってそんな押付けがましいことが云えるのですか、家の娘がどうしたというのです」
「ひと言だけ申し上げましょう、僕は五年まえに富美子さんと将来を約束した人間です」


 主人杉浦氏の小鬢こびんのあたりがあおくなり、右の頬がぴくっと痙攣ひきつった。癇が強そうだと思ったとおり、氏はその年齢と格式をもって抑えきれないほどの忿いかりを発した。
「君は他人の娘を侮辱するつもりですか、富美子がそんなみだらな娘だということを親の私に面と向かって云うんですか」
「将来を約束することは猥らではありません、それはあなたの偏見です、しかし今ここであなたの偏見を指摘してもしようがない、ただ申し上げたいのは富美子さんは親権者の承認なしにも結婚のできる年齢に達していることです、したがってあなたには富美子さんの結婚を阻む権利はないのです」
「いいだろうやってみたまえ」杉浦氏はふしぎな冷笑を浮かべた、「……私には富美子の意志をげる気持もなしその必要もない、そしてまた富美子にその意志があったとしても、現在それが許されるかどうかは、……だがもうたくさんだ、帰りたまえ」
「富美子さんの居どころさえ伺えば帰ります」
「源吉はいないか」杉浦氏はとつぜんそう叫んだ、謡曲かなにかで鍛えたらしい張りのあるよくとおる声だった。さっき玄関へ出た三太夫が知らせてあったのだろう、廊下の向こうから作男とみえる屈竟くっきょうの若者が三人やって来た。「この方に帰ってもらいなさい」杉浦氏の癇昂かんだかな声を聞き、三人の若者の態度を見て、来太はどういうことになるかを納得した。
「どうぞ御心配なく」彼は右手でひょいと一種の身振りをし、尻下がりの眉と眼をあげてにやっと笑った、「……僕は帰りますよ、お手数はかけません、どうも失礼しました」
「文句を云わずに帰れ」若者の一人がそう云いながら来太の背中を小突いた、来太は振り返った。頬肉の盛り上がった眉毛の薄い野卑な顔の男である、小造りで醜いほど巌丈な体つきだ、来太はなにも云わずに玄関のほうへ出ていった。
 杉浦家の門を出て、国道のほうへ向かいながら、彼は云いようのない焦慮と不安に苦しめられた。列車の中で五人の仲間と語り合っていたときは、理想の実現に対する情熱と確信とで、どんなに困難な事情があろうとも必ず富美子を自分の手に奪いかえしてみせると思った。なぜなら彼の理想の実現にはいつもその計画の中心に富美子というものがおかれてあったからだ。しかし杉浦家を訪ねてみて、その困難さの意外に大きいことを知った、事情は予想以上に複雑なものらしい、彼女が家にいないということだけはたしかなようだが、結婚したのかどうかさえわからない、そのうえ杉浦氏は「富美子にその意志があったとしても、現在それが許されるかどうか疑わしい」という意味のことを云った。要するにぜんたいとして、杉浦氏が彼女のとった行動を世間に対して恥じている、なにをしたかということも、どこにいるかということも人に知られたくない、その事実のほかは来太にはなに一つ知ることができないのだ。
「おれは今きっと落第生のようなつらをしているに違いない」来太は勾配こうばいの緩い坂を下りてゆきながらそう呟やいた、「……おい隊長、きさま列車の中の元気はどうしたい、もうこのへんでかぶとを脱ぐかね、それとも、いやとにかく腹をこしらえるとしよう」
 道が二またに分かれるところに大きな胡桃くるみの樹が立っている、その右側に噴き井のあるのをみつけて、彼はまず顔を洗い、朝日のぬくぬくと射しつけている草の上に腰を下ろして鞄を開いた。吉村家でこしらえてくれた、黒い雑粉パンにサラダをはさんだサンドイッチと、握飯の包みを取り出し、噴き井の水をすすりながら食欲のない口へ押し込むような気持で食べた。……こうしてサンドイッチをようやく三つ食べたとき、道の上から一人の男が下りて来た、なにげなく見るといま別れて来た杉浦家の作男だった、しかも自分の背中を小突いた若者である、「ほう」と、来太はそっちを見た。男は気づかぬとみえ、小さな風呂敷包を首にしばりつけ、腕組みをして、せかせかと道を左へ曲がっていった。
「……そうか」来太はにやっと笑った、例の悪戯いたずら小僧のような笑い方である、
「……ちょっとお礼をするだけでもいいだろう」
 そう呟やくと手早く鞄を閉めて立ち、道へ上がって若者の跡を追った。……作男は小造りの体の上半身をかがめるような姿勢で、国道のほうへ急ぎ足にゆく、ちょうど小さな切通しになっている手前に、左側がやぶで、右側になにかのほこらでもあるのだろう、杉林に囲まれた湿め湿めした広場がある、来太はそこで追いついた。
「ああ君、ちょっと待ちたまえ」「…………」男は首だけこっちへじ向けた。
「さっきは失敬した」そう云いながら近寄ると、来太は鞄を藪の中へほうり込み、片手でいきなり男の胸倉を取り、右手でがあんと相手の頬を殴りつけた。
「なにをするだ」男は「仰天」したようだ、びっくりとか愕然がくぜんとかいうのではなく「仰天」という感じである、本能的に腕で顔をかばいながら身をもがいた、「な、なにをするんだ」


「なんにもしないよ」来太は男をずるずると藪の中へ引きり込んだ、「……ちょっとききたいことがあるんだ、静かにしたまえ」
「なにもしないと云って、そんなに殴るじゃないか」
「なにこれ以上はなにもしないと云うんだ」彼はもう二つばかり平手打ちをくれ、相手の右腕を捻じあげながら云った、「……だがきくことに正直な返事をしなければなにをするかわからない、断わっておくが僕は戦地から帰ったばかりだ、まだ相当に気が荒いということを忘れないでくれ、いいか、そこできくが富美子さんはどこにいるかね」
 男は懸命に来太の手からのがれようとした、力業をしているのでかなりくそぢからがある、来太はそれを利用して巧みに足を払い、そこへ捻じ伏せて馬乗りになった。そして頸を絞めあげた。男はぐうと云った。来太の唇には例の胆の太い微笑が浮かんでいる。男はがくんとうなずいた。
「云いましょ、お嬢さんは……苦しい」
「云うなら楽にしてやるよ、そら」
「お嬢さんは」と、若者は絞められている喉をぜいぜいさせながら云った、
「西洋の尼さんになるだとおっしゃって、山沢の修道院へお入んなさったですよ」
「山沢というのはどこだ」
「ここから南へ二里ばかりいった所です、仙台から疎開して来たとかいうことで、そこにゃあ尼さんが大勢いましたっけ。へえ、私がそのときお嬢さんの供をしてめえったです」
「それを人に話してはいけないと止められていたのか」
「旦那さまは家から耶蘇やその尼を出すなんて家名の恥辱だとたいへんなお腹立ちでした、もう杉浦の者ではない、親子の縁を切るとおっしゃったです」
 来太は手を放し、若者を援け起こした。
「わかった、ありがとう」彼は若者の肩を叩き、無邪気な明けっ放しな表情でにっと笑った。
「乱暴なことをしてすまなかったな、しかしこれはさっき君が小突いた背中のお礼も含めてあるんだ、じゃあ失敬」
 まだ痛そうに、片手で殴られた頬、片手で喉頸のどくびをさすりながら、若者は胆を抜かれたように見送っていた。来太は拾いあげた鞄を右手に歩幅の広いかけ足で国道のほうへとびだしていった。
 彼は力いっぱい大地を踏みつけこぶしを振り上げてわめきたい気持だった。富美子は嫁にいったのではない、それだけで元気を回復するには充分だ。修道院へ入って尼になろうという理由がどんなものだろうと、会いさえすればその決心を翻えさせる自信はある、「本当にその自信があるだろうか」一応そう反問してみたが、もう不安も疑いもわきはしなかった、彼はのしかかるような足どりで国道を南へ歩いていった。
 山沢という村へはいってきくと、その修道院というのはすぐわかった。それは国道から西へ十町ばかり登った赤松という部落にあり、明らかに古材を持って来て急造したらしい疎末そまつな、しかしがっちりした三棟の建物から成っていた。来太は門を入り、爪先登りの道を大股に玄関へいって、受付のような窓口で案内を乞うた。四辺はひっそりとして、風立ってきたのだろう、裏山のあたりで松の枝の鳴っているのが冴えて聞こえる。
「どうぞお入りください」出て来たのは中年の日本人の尼僧だった、「……いま呼びますからしばらくお待ちくださいまし」
 三坪ばかりの応接間へ通すと、尼僧はぎいぎい鳴る扉を閉めて出ていった。三方板壁で、幼児キリストを抱いた聖母の画像を掲げたほかには、なんの飾付けもないがらんとした室である、まん中に大きな長方形のテーブルがあり、それを囲んで荒削りの木で造った椅子が七つ置いてあった。……彼は窓の側へいって外を見た、抑えようのない感動が胸へこみあげてくる、とうとう逢えるということが、その事実を前にしてかえってふしぎな僥倖ぎょうこうのような気がするのだ。召されて南方へゆく船の中でも、戦場の地下壕の中で烈しい爆撃を受けているときでも、そして終戦となって帰還する途中も、「生きているだろうか」「もう二度と逢えないのではなかろうか」そういう疑問に苦しめられた。麻布の家で無事だということを知ってからも、ここへこぎつけるまでの再転三転は、物に動じない彼にとってさえかなりな心の負担であった。それがいよいよ逢える、その人はもうそこにいるのだ、この同じ建物の中にいて、おそらくはすでに彼の来たことを知らされたに違いない。そうだ、もうすぐ彼女はここへ来るんだ、……来太はたかぶってくる感情を押ししずめるように深く息をついた。
 そのとき扉が明いた。来太ははじかれたように身を振り向けた、さっきの尼僧に導かれて、見慣れない修道服を着た富美子が入って来た。
「面会時間は三十分に限られております」と、尼僧が云った、「……それからこの扉は明けたままにしておいていただきます」そして足音もなく去っていった。


 二人はテーブルをはさんで相対した。来太はむさぼるような眼で富美子を見た、彼女は帽子とも被衣ともつかぬものを頭からていたが、ちらとこちらを見たまますぐうつむいてしまった。すっかりせていた、豊かだった頬は蒼白いろうのような色になり、面長な顔がさらに細くやつれが眼だつ、それは彼女がどんなに苦しんだかを証拠だてるもののようだった。
「帰ってきました」来太はしずかにそう云った、「……そしてこれから北海道へ帰り、いつか話した酪業農場の経営を始めます、どうかすぐその手続きをとって僕といっしょに来てください」
「……わたくし、まいれません」富美子はなにか物が喉につかえてでもいるような、乾いたしわがれた声で呟やくように答えた、
「……お願いします、どうかわたくしのことはお忘れくださいまし」
「僕の眼を見たまえ」来太は命令するように云い、両手をテーブルに突いて半身をぐいと前へ乗り出した、「……そして理由を聞こう、それだけの権利は僕にあるはずだ」
 富美子はしばらく無言だった、かたくなに面を伏せたきり、息をしているかどうかもわからぬほどじっと身を固くしていた。来太は左腕をぐいと伸ばし、例の手頸の表を見る動作をしながら、「時間は三十分だといいましたね、しかし断わっておくが、僕は納得のゆかぬうちは二時間でも三時間でもここを動かない、わかりましたか」そう云って烈しく富美子の顔を見まもった。
「……申し上げましょう」やや久しくして、彼女はうつむいたまましずかに口を切った、
「……ここへ入る決心をするまでには、単純には申し上げられないことがたくさんございました、でもいちばん重要なことは、あなたのいらしった部隊が玉砕したという報知のあったことです」
「その点はいま解決したはずだ」
「わたくしそのとき生きる希望をうしないました、正直に申します、それまではあなたという方がそれほど自分に近いとは想像もしませんでした、召されていらしったあと、もしかすると戦死をなさりはしないか、そう思ってみるときでさえ、堪えられないほどの苦痛や悲しさは感じられなかったのです、……それが、玉砕したという知らせを聞いたとき、もうあなたには二度とお眼にかかれないのだ、決して決してお会いすることはできないのだ、そう思ったとき、わたくしは」そう云いかけた言葉は、激しくせきあげる嗚咽おえつのために途切れた。
「こんな云い方を許していただけるでしょうか」と、ようやくなみだを押えながら、富美子はやはり面を伏せたまま云った、「……わたくしの心と感情は、そのとき死んでしまったのです、その前と後とでは富美子という人間が違ってしまいました、生きてゆくというだけの気持の張りさえなくしてしまいました。そのうえに現在の世の中の悪徳と虚偽に満ちたありさま、救いようもなく汚れてゆくありさまを見ますと、わたくしにはどうしても世間並に立って生きる自信がありませんでした、これからもその力はございません、わたくしにはございません」
「わかった」来太は性急に富美子の語尾を奪い、もういちど左の手頸を見ながら、ぐっとまた半身を乗り出した、「……生きる希望を喪った原因の一つは、僕が帰ったことで解決されたはずだ、次の問題は現在の日本が虚偽と悪徳に満ちている、救いようもなく汚れてゆく、だから世間を捨てて修道院の中で清浄に生きたい、……こういうのだね、よし、それではこんどは僕に云わせてもらおう」彼は片手でさっと空を払った、「……現在日本の国土はほとんど維新当時の狭さになった、その原因は簡単ではないが、多くの同胞を殺し、国土を喪い、そのうえ厖大ぼうだいな対外債務を作った責任はわれわれにある、……われわれは祖国をこんな状態につきとして子供に譲るんだ、われわれの子や孫は、この息詰まるような狭い国土の上で、おそらく五十年も百年も、国家の復興と親たちののこした債務のために苦しまなければなるまい、しかも子供たちにはなんらの責任もないのに」
 来太はぎゅっと唇をひき結び、こみあげてくるものを抑えるようにしばらく言葉を切った。
「事ここにおよんだ理由や原因を千万ならべたところで、この責任がわれわれにあるという点はいささかも軽くはならない、せめて出来ることは、そういう苦難を与える子供たちのために、われわれはなにかをしなければならぬということだ、自分にできる限りなにごとかを子供のためにしのこさなければならぬということだ、……なんの罪もなく生まれ成長する子や孫が、どんなに苦しい艱難かんなんな生き方をしなければならぬか、それを考えれば、われわれには、自分ひとりのために生きる時間はないはずだ、少なくとも僕はそう信ずる」来太はふたたびのしかかるような姿勢になった、「……富美子、立ちたまえ、君に生きるちからがなければ僕の手を貸す、君は僕について来ればいいんだ、いってその手続きをして来たまえ」
 富美子は顔もあげず身動きもしなかった、来太は「時間がないんだ、早くしたまえ」と云い、床の上から自分の鞄を取った。しかしまだ富美子は動こうとしない、……とそのとき、来太の後ろの窓から、「いつまで問答を続けるのかね」という声がした。来太が振り返ると、窓の外に杉浦氏が来て立っていた。その後ろにはさっきの作男の姿もみえる。
「君の説はここで聞いたよ」と、杉浦氏は癇の強そうな顔に微笑も浮かべずそう云った、「……それ以上なにも云うことはあるまい、君はけさわしの家へずかずか踏み込んで来たが、どうして今あの手を使わんのかね」
 来太は大股に窓へゆき、
「黙っていてください、僕のことは僕がやります」そう云いざま手荒く窓を閉めた。そのとき初めて、杉浦氏の半ば白い口髭がゆがみ、わずかに微笑のゆらめいたことを来太は知らなかった。彼はふたたびテーブルの前へ戻った。
「出かけるんだ、そのかぶっている物を脱ぎたまえ」圧倒するような声だった。
「脱ぎたまえ」
「…………」富美子はたゆたいつつ被衣を脱いだ。そしてしずかに面をあげた、唇がふるえ、眼にはいっぱい泪がたまっていた。
「汽車の時間がある、幸いお父様が来ていらっしゃるから手続きや荷物のことをお願いしよう、それでいいね」
「……わたくし、家へ寄ってまいらなければなりません」富美子はしずかに被衣を折りながら、しかし今はもう心のきまった眼で来太を見上げた、「……あのリラの木を持ってまいりたいと存じますから」
「ほう、あれは長瀞へ持って来てあったの」
「花の咲かないということが可哀そうでしたから」
「なにリラは寒い所が合うんだ、北海道へいったらきっと咲かせてみせるよ」
 二十分後である、地味なワンピースに着換えた富美子の腕を取って、来太は大股に修道院の門を出ていった。坂道を下りかかったとき、ふとまた左腕を伸ばして手頸を見ようとしたがいきなりえいと叫んでその腕を振った。
「ええしゃくだ、腕時計をられたのは惜しくはないが一週間もたつのにまだこの癖がぬけない、おれの頭はよっぽど単純に出来てるんだな」
 富美子の明るい笑い声が遠のいてゆく足音とともに松林の中へ隠れていった。……ようやく中天に昇った早春の日を浴びて、落葉松からまつの芽ぶきだした枝から枝へうぐいすの鳴きわたる声が聞こえた。





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「新青年」公友社
   1946(昭和21)年5月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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