はたし状

山本周五郎





 今泉第二は藩主の参覲さんきんの供に加わって、初めて江戸へゆくことになったとき、和田軍兵衛の長女しのを嫁に欲しいと親たちに申し出た。まず母に話したのであるが、母はさも意外なことのように、こちらの顔をまじまじ眺めながら、すぐには返辞ができないというふうだった。
「いけないでしょうか、私は、母上はもう御承知だと思っていたんですが」
「とんでもない、母さんはまるで知りませんよ、かえってその反対だと思っていたくらいです、だってあなたは小さいじぶんから和田へ入り浸りで、あちらの子たちとはずっときょうだいのようにしておいでだったでしょう」
「だから察して下すっていると思ったんですがね」
「普通はそれとは逆なものですよ」
 嫁に欲しい娘のいる家などへは、一般に男はそう頻繁ひんぱんには出入りしない。それまでごく親密だったとしても、そういう気持が起こればしぜんとゆきしぶるようになるのが通例である。母はそんなふうに観念的な意見を述べた。……そのとき第二の頭にふと藤島英之助の名がうかび、そういえば彼はこのごろあまり和田へ顔をみせないがどうしたのか、などと思った。それは母の言葉から受けた反射的な連想だったろう、きわめて漠然とそう思っただけであるが、あとで考えると、母の意見にも、彼が藤島を思いだしたことにも――どちらも無意識ではあったが――決して偶然でない意味があったわけである。
 父には母から話して貰った。父は渋い顔をしたそうである。ほかに縁談もあったらしい。また和田軍兵衛は母の兄で、しのと第二とは従兄妹に当る関係から、血が重なりすぎるとも云ったが、結局、それほど熱心なら、と折れてれたということであった。
 和田へも母がいった。江戸へ立つ日が迫っているので、正式の儀礼はあとのことにし、内輪で話だけめようということだった。もちろん和田に異存はなく、出立する二日まえに内祝のさかずきを交わした。第二は藤島英之助と八木千久馬を呼びたかった。しかし二人だけ特に招くというのは穏当でない。父も母もそう反対し、両家の親たちだけ列席して、ほんのかたちだけの盃をした。……そのときのしのは美しかった。縹緻きりょうや姿は妹のみよのほうがたちまさっている、姉のしのは背丈も低いほうだし、胸や腰のあたりも細く、顔つきなどにどこかしら育ちきらないような感じがあった。けれどもその日は髪かたちや化粧のせいだろうか、――もちろん正装ではなかったが、――それとも婚約の盃をするという気持の張りのためか、いつもの子供っぽさはなく、表情や身振りなど、ちょっとなまめかしいくらい冴えた美しさにあふれていた。
「今日のしのさんは見違えるようね」
 母にもそう見えたのだろう、席を変えるとすぐに、しのを前後から眺めてそう云った。
「ほんとにお美しいわ、ふだん肌理きめのこまかい肌をしていらっしゃるのね」
「なにしろ身じまいということをしないのですから」
 母親の加世が側から答えた、「――妹のほうは小さいじぶんから日に幾たびも髪をいじったり、隠れて紅や白粉おしろいを付けたりするんですけれど、このはもう叱るように云っても化粧などはしませんの、ですから肌だってもう荒れ放題で」
「そういえばみよさんはお洒落しゃれが好きのようね」
 母はそう云いながら、脇から手を伸ばしてしのの髪をそっと押えたりした。しのは母親たちの言葉など耳にはいらぬようすで、ひざの上に手を重ねたまま俯向うつむいていたが、二度ばかり眼をあげて第二を見、そのたびに唇だけでそっと微笑した。……悲しいような、なにかを訴えるような、感情のこもった微笑であった。第二は眼でそれに答えながら、心のなかでこう呼びかけた。
 ――とうとう、こうなったね、しの、喜んで呉れるだろうね。
 そのあくる夜、つまり出立する前夜のことだったが、親しい友人や同僚たちが「送り祝い」に来たので、母が酒の支度をしてもてなした。八木千久馬は妙にはしゃいで、
「大事な秘蔵息子を初めて旅へ出すんで、さぞ心配でしょう」などと母に冗談をいった、「――江戸は誘惑が多いですからね、たいへんな道楽者になって帰るかもしれませんよ」
「それもいいかもしれない、少し柔らかくなって来て貰わないとまわりが迷惑だからね」
 同僚の一人が云うと、千久馬がそれに添えて、「お母さまにきいて来るか――」と云い、みんなが笑った。友人たちがどこかへゆく相談で誘いに来ると、第二はいつも母にきいてからと答える。二十四になる現在でも同じことで、かれらのあいだでは逸話のようになっていた。
「暇があったら昌平黌しょうへいこうへやって貰うんだね」
 藤島英之助は口の重い調子でそう云った。それから千久馬は帰る真際になって、ふいに、殆んど第二の耳へ口を触れそうにして、すばやくこうささやいた。
しのさんとの話を聞いたよ、よかったね、おめでとう」


 江戸へ着いたのが三月、それから僅か半年しか経たない九月に、しのとの婚約の破れたことを、父が手紙で知らせて来た。理由はなにも書いてなかった、和田のほうから破談を申し入れて来たというだけで、……おまえもさぞ落胆するだろうが、要するに縁がなかったと思うよりしかたがない、どうか男らしくあきらめるように。そういう簡単なものであった。
 ――向うから破談を申し込んで来た。
 第二はそこを繰り返し読み、あり得べき理由を想像してみたが、どこをどう裏返してみても、これと思い当るようなものがみつからなかった。
「なにかの間違いではないだろうか」
 彼はちょっと茫然としてつぶやいた。
「それとも誰かの悪戯いたずらではないか」
 手紙が来て二、三日のうちは、そのことに実感がもてなかった。なんとなくだまされているような気持だった。それからしだいにおちつかなくなり、苛立いらだたしい疑惑に悩みだした。
 ――母へ問合せようか。
 ――いっそしのへ手紙をやろうか。
 母としのへ、幾たびか衝動的に手紙を書きかけたが、そのたびに途中で筆を投げた。書いてやってもむだだろうという気がした。こちらから手紙をやって返事を呉れるくらいなら、黙っていても向うから事情を云ってよこす筈である。殊にしのは当事者であるし、ごく幼い頃からきょうだいのようにつきあって来た。他の婚約者のばあいとは違って、たいていなことは遠慮なく云える筈である。それがなんとも云ってよこさないのは、云ってよこせない事情があるのに相違ない。
 ――では藤島へきいてやろうか。
 第二はそうも思った。友人としてもいちばん親しいし、彼は和田へもよく出入りしていた。彼ならば、まだ知らないとしても、ようすをさぐることくらいはできる。……こう思ったけれども、やはりいざとなると手紙は書けなかった。婚約は内輪だけのことで、ほかの親族や友人たちにはまだ正式には知らせてはない。それをいきなりそんな問合せをするのは不作法でもあるし、無用に恥をさらすようにも考えられた。
 こんなふうに思い惑っているとき、およそ父の手紙に十日ほど遅れて、八木千久馬からの手紙が届いた。千久馬は達筆である。古碑文こひぶん拓本たくほんなど習った独特の筆法で、ひねったような活溌な字を書く。第二はその手紙の、ひと眼でわかる彼の署名を見たとき、われ知らずと声をあげた。
「――千久馬……」
 第二の耳に千久馬の声がよみがえった。送り祝いの夜、彼の囁いた声が――よかったね、おめでとう。誰も知らない筈のことを彼は知っていた。もちろんふしぎではない、千久馬もしのとは従兄妹に当る、しのの母は千久馬の亡くなった父の妹だから……。そして、第二や藤島ほど繁くはなかったが、彼もまた和田へはよく顔をみせていたから。
 第二はすぐには封が切れなかった。だが思いきってひらいた文面は、予想に外れていたばかりではなく、彼をうちのめすほど思いがけない、殆んど信じかねるようなものであった。
 ――この手紙を出そうかどうしようかと、自分はかなり迷った。
 千久馬はそういう書きだしで、婚約の破れたことに同情を表し、そのいきさつは文字ではっきりとは伝えにくいが、しのは近く藤島英之助と結婚するだろう、それで万事を察して貰うほかはない。だいたいの文意はその程度であったが、その暗示的な書きかたには、事実そのものよりも強烈な印象を与えられた。
 ――藤島が、……英之助としのが……。
 第二は急にからだの重心をうしなったような感じで、くらくらとなり、片手を机に突いて身を支えた。
 藤島としの。第二にとって、二人がむすびついたということは、他のいかなるばあいよりも耐え難い打撃だった。しのがほかの誰かと、例えば千久馬とそういうことになったとしても、――必ずしも言明はできないだろうが、――それほどの傷手も受けず、もっと楽な気持でゆるせたであろう。だが英之助は違う、藤島だけはそうしてはならぬ筈である。藤島がしのとそうなることは、殆んど裏切りに等しい。しかも藤島英之助はそれが裏切りになることを知っている筈であった。
 十一月に八木千久馬から次の手紙が来た。それはしのが英之助のもとへ嫁入ったという知らせであった。
 ――今泉家に対する遠慮だろう、婚礼は質素であったが、当日は御城代ほか三人の老職が列席したし、またべつの日に知友を招いて宴を張った。今泉の御両親はむろん欠席なされた。自分も招かれはしたが断わった。なおうわさによると、藤島は近く先手組支配を命ぜられるらしい、人間の運不運はわからないものである。
 手紙にはそういう意味のことが書いてあった。


 人に対して不信をいだくことが、どんなに苦痛であるか。人を憎悪することが、どんなに自分を毒するものかということを、第二はその三、四カ月のあいだにいやというほど味わった。
 藤島家もまた今泉と縁が近い、英之助の祖父は今泉から入婿している。狭い藩中のことで、こういう血のつながりは珍しくはない。そして二人が親しくなったのは、そんな血縁関係からではなかった。六歳の年に藩の学堂で机を並べたとき、その初めの日から、互いに友情と深い信頼を感じあった。年は同じだったが、第二は一人息子で気が弱く、英之助は三人兄弟の長男で、はやくから沈着で意志の強いところがあり、しぜんと第二は彼に兄事するようなぐあいだった。
 二人の二十年ちかい友情には、ここでは触れる必要はないが、思いかえすと涙ぐましくなるような、感動に満ちた出来事が少なくない。第二の記憶のなかでは、英之助はいつも保護者であり、必要なときはいつでも慰めと励ましを与えて呉れる存在だった。……彼は考え深く、おちついていて、言葉少なで、動作も静かにおとなびていた。彼を和田へれていったのは第二であるが、和田の家人も彼に対してはあしらいかたが違った。和田には又之助、小三郎、しのみよという四人兄妹がいて、常にかれらの友達がにぎやかに出入りした。第二もその一人であり、八木千久馬も仲間であった。いったいが解放的な家風だったのか、和田では相当なわるふざけをしても叱られることがなかった。相撲を取って障子を抜きふすまを倒すようなことがあっても、たいていは笑って済まされた。……軍兵衛は第二にとって伯父であるが、話が好きで、家にいればいつも赤い顔で、側へ寄るとぷんぷん酒の匂いがした。
 ――こら坊主共、あまり家をこわすではないぞ、こちは貧乏だからな、少しは遠慮して暴れろよ。
 叱るにしてもせいぜいそのくらいだった。来る者には誰彼の差別を決してしない、身内も他人もまったく平等待遇であった。それが英之助だけは違うのである。えこひいきして美味うまい物をるとか、特に大事に扱うというのではなく、彼には一目置くという感じだった。軍兵衛夫妻から兄妹たち、――みよを例外にして、――みんなの言葉つきがまず違っていた。
 末っ子のみよは気の勝った娘だった。まだ舌のよくまわらないうちから人をやりこめたり、あら捜しをしたり、悪口を云うのが得意であった。
 ――だいたんぼたもち、ぼたもち。
 第二が一人っ子であまやかされているということでも聞いたのだろう、突然そんなことを云いだして、ついに「牡丹餅ぼたもち」という綽名あだなが付いたのもみよのおかげである。そしてみよは和田における唯一人の、英之助の敵であった。
 ――ふいちまたんはいしどうよ。
 これが第一声であった。黙っておっとり構えているから、幼い眼には石燈籠いしどうろうと感じたのであろう。ついで「おじいたん」「だちどころ」当時もこのだちどころは意味不明だったし、今でもついにわからない、みんながよく反問したが、
 ――だちどころだちどころよ。
 つんと鼻をらせて解釈を与えなかった。その後もじじむさいとか百人並とか、――これは容貌のことであるが、――いろいろ悪口をいい、両親や兄たちや姉などに叱られても平気だった。英之助は馬耳東風といった態で、みよの悪口を微笑でうけながした。いやな顔をしたこともなかった。……第二はそんなところにもつくづく敬服したものである、学問もできるし武芸も抜群であった。第二は単に兄事したというだけでなく、心から信頼し兄事していた。しのを貰いたいがどうだろうか。こう相談したのも、両親のほかには英之助ただ一人であった。
 ――その藤島がこんなことをする、二十年ちかい友情を裏切り、自分のこれほどの信頼をふみにじる。……ではこれまでは猫をかぶっていたのか、沈着な考え深そうな顔をしながら、心のなかではそんな刃を研いでいたのか、人間はそんなことができるものか。
 第二は藤島を憎むと同時に、人間ぜんたいに不信と憎悪を感じた。
 ――もう国へは帰るまい。
 彼は藩主の帰国のとき、昌平黌に学ぶことを願って、江戸に残った。父はこちらの傷心を察したのだろう、あのとき以来なにもいってよこさなかったが、彼が江戸に残ることに定ると、母からはしきりに手紙が来た。もちろん和田のことには少しも触れない、帰心をそそるつもりだろうか、故郷の山河を描いたり、誇張した四季の眺めや、彼の好きな川魚や山菜果実の季節の知らせなど、母としては精いっぱいのあやつづって。……そして年があけると、つまり江戸へ来て三年目であるが、その文章がしだいに崩れて、
 ――学校はどのくらい続けるのか、いつ頃になったら帰るつもりか。
 そんなふうに変り、やがて辛抱が切れたように、来る手紙がみな哀訴の文字で埋まるようになった。母は自分が病弱になったと繰り返し、日夜の孤独と寂しさをかき口説いて来た。
 ――帰ってお呉れ、第さん、どうか早く帰って……。

 彼が帰国したのはそれからさらに一年経って、ちょうど藩主が出府して来てすぐあとのことだった。昌平黌で史学を主に学んだ彼は、まえの年の冬に御文庫を命ぜられ、藩家の蔵書の整理とその補充調査の役に就いた。帰国したのは国許くにもとの書庫を整理するためで、父の位地はそのまま、彼に特旨として三百石、寄合番頭の格式が与えられた。
 第二は江戸にまる三年余いたわけであるが、この期間に彼の性格はかなり変った。彼は周囲には友人を一人もつくらず、暇があるとごく軽い身分の者の住居を訪ね、しまいには足軽長屋などへ好んでいった……。同じ藩士であり同じ邸内に住みながら、そこは貧しく、不潔で暗く。常に病気や不幸や災厄が付きまとっていた。かれらの多くは、町の職人にも及ばない僅かな扶持ふちしか貰えなかった。しかもその境遇をぬけだすことは殆んど不可能であった。
 ――日向ひなたえる木もあれば日蔭に生える草もあります。私どもはこういう運に生れついたのですから、……生れついた運というものは人間の力ではどうなるものでもございませんから。
 かれらはたいていこうあきらめていた。病気や思わぬ災難に遭ったらどうするか。始末のできる者は無理をしてもするが、できない者はなりゆきに任せるよりしかたがなかった。
 ――治る病気なら薬を飲まなくとも治るでしょうし、治らないものなら……。
 こう云って苦笑するか、首を振るかする。この世は自分たちのためにつくられているわけではない、世の中にはもっと不幸な者、乞食こじきになるとか、餓える者さえたくさんいる。自分たちが家族そろって、どうやらべてゆけるのはみな殿さまの御恩である。それだけでも有難いと思わなければならない。……かれらは殆んど口を合わせたように云った。それを聞いて第二は幾たび怒り、幾たび呪詛じゅそしたかしれなかった。世間の機構の不公正に対して、人間の狡猾こうかつと冷酷無情に対して……。
 ――だが、それならどうしたらいいのか。
 やがて第二はそう自問し始めた。こういう状態は改善することができるだろうか、世の中がもしも公正だったら、もしも人間がみな善良だったら。そうしたら、そのようなみじめな生活が無くなるだろうか。……彼には「然り」と断言する勇気はなかった。彼はまだ若く、生きる経験も浅かったが、いちどいだいた人間に対する不信は、ものごとを単純に看ることを許さなくなっていた。……政治や秩序や道徳などに関係なく、人間は先天的に不幸や悲嘆を背負っている。それは死ぬまで付いてまわる。幸福にみえる者、自分で幸福だと信じている者。それはただ気づかないだけのことだ。みんないつかは、一人の例外もなしに、必ずいつかは絶望に身をむしり、悲しみに泣き叫ぶときがくるだろう。かれはそのように思った。
 ――どんな幸福も永遠ではない、たしかなのは人間が不幸や悲しみを背負っているということだ。多くの史書が証明しているとおり、誰一人としてそれを※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれることができないということだ。
 第二は独りでよく江戸の市中を歩いた。学問所へゆくつもりで邸を出て、そのまま隅田すみだ川の河畔で茫然と時を過したり、本所とか深川あたりを目的もなく歩きまわったり、また猿若町の芝居小屋の片隅で、じっともの思いにふけったりした。……自分では知らぬうちに、彼はこうして孤独好きな、幾らか狷介けんかいかたくなな人間になっていった。

 帰って来た息子を見たとき、母親はああといったきりしばらく声が出なかった。
「どうなすったのです、母上、私の顔をお忘れにでもなったのですか」
 第二は玄関に立ってそういいながら、努めて母に笑ってみせた。母はかなり老けていた、その母の硬ばったような顔がみるみるゆがみ、唇がふるえだし、次いでその眼から涙があふれ落ちた。
「ようこそ、第さん、ようこそ……」
 御無事でおめでとうという言葉はのどつかえて出なかった。それだけいうのが精いっぱいで、母は式台に膝をついたまま、むせびあげた。
 そんなにも第二は変っていた。あの明るく澄んだ晴れやかな顔が、今はせて骨立ってみえる。眼の色は沈んで暗く、眉間みけんには深いしわが刻まれていた。玄関へはいって来た態度も、口のききようも、この家を出ていったときの第二ではない。なにもかも変った、見違えるように変ったのである。……父は登城中であったが、帰って来て第二を見ると、これも強く心をうたれたようすで、まぶしそうに眼をそらした。
「庭で薬草の栽培を始めてみたんだが、見て呉れたか」
 そんなつかぬようなことをいった。
 老職や自分の支配へは帰国の挨拶にまわったが、家へ知己を招待もしなかったし、祝いの招きも「旅中に躯をいためたので」という理由でみな断わった。たびたび八木千久馬や、以前の同僚たちが訪ねて来たが、かれらにも後日を約しただけで、会わなかった。
 季節は梅雨にかかっていた。


 彼のために三人の助手が待っていた。役所もあるし支配役もあるが、仕事が特殊なので、そちらとは殆んど関係がない。書庫のかぎも第二が預かったし、役部屋も一つべつに与えられた。……当時の彼としてはあつらえたような条件であった。必要なときは続けて登城したが、助手で事足りるばあいは二日三日と休んだ。
 第二の孤独癖は性格のようになった。
 彼は暇があると城下の外へ歩きに出た。北東と西に山をまわし、南に平野のひらけた地形であるが、彼は北側の山の裾を歩くのが好きであった。耕地と林と丘が段登りに山へと続き、二た筋の街道がその間をうねくねと山越しに隣国へ続いていた。その道の合するところを宇野と呼び、そこで道は広い往還になって、一里あまり迂回うかいしながら城下町の北口へはいる。彼はこの道をよく歩いた。両側にはならや栗やくぬぎなど、落葉樹の林があり、また古い松林や杉並木の断続するところもあった。道は丘を幾つもまわったり越えたりするが、丘の上をゆくときは眺めがよかった。左側には伊※(「田+比」、第3水準1-86-44)川の流れがあり、右には緩い傾斜の段丘平野がひらけて見えた。そこには田や畑や、防風林に囲まれた小さな部落や、森や林などが遠く近く展望された。
 下りあゆの季節になったとか、山女魚やまめしゅんであるとか、母が手紙に書いてよこしたのはその伊※(「田+比」、第3水準1-86-44)川である。また松茸まつたけしめじが出はじめたとか、蕨採わらびとりにいったなどという取手山も近くに見えた。その眺めのなかにいると心が安らかにおちついた。その眺めは第二を慰めて呉れるようであった。気が向けば河原へ下りて半日も水を見ていた。林の中に幾時間も坐って鳥の声を聞いた。また宇野の部落の、道が三つまたになっているつじの掛け茶屋で、茶店の老人と話したり、古朽ちた低い家並や、小石混りの乾いた白い道を眺めたり、山を越えてゆく人や馬をぼんやり見送ったりした。
 十月中旬の或る日、彼はその道を城下のほうへ向って歩いていた。やや強い北西の風が吹いて、落葉が頻りに舞っていたが、その落葉の中をうしろから激しい馬蹄ばていの音が近づいて来た。第二が道の脇に身をよけると、同藩の者だろう、遠乗りの戻りとみえる五人の侍が、次ぎ次ぎと彼の前を駆けぬけた。きのこの入っているらしいかごくらに付けている者や、みごとに紅葉したかえでの枝を持っている者もいた……かれらは第二の前を駆け去ったが、そのなかの四番めにいた侍が、馬を返して戻って来た。
「第さんじゃないか」
 相手は彼の前へ来てそう呼びかけた。笠を冠っているのでわからなかったが、それは藤島英之助であった。第二は黙って相手を見あげた。英之助はやや肥えて、まえより眼が大きく鋭くなったようにみえた。
「いろいろ話がある、今泉へは訪ねてゆきにくいんだが、いちど来て呉れないか、しのも心配して逢いたがっているが」
「馬を下りたらどうだ」
 第二の声は刺すような調子だった。
「馬上から話しかけるほど身分が違うわけでもあるまい、但し馬を下りることはないんだ、おれは話は聞かないからね」
 英之助は馬を下りた。しかし第二はもう歩きだしていた。英之助は黙ってうしろから、馬をいてついて来た。二人の上へ頻りに落葉が散りかかり、道の上で渦を巻いたりした。
「第さんはもうおれを信じなくなっているらしいが」
 暫くしてうしろから英之助がそういった。
「おれは今でも第さんを親友だと思っている、第さんとの結婚を破るについて、しのがどんなに苦しんだか、おれの立場がどんなものだったか話しても信じないだろうし、話したくもない、だが、……一人の女のために二十年の友情が、こんなにもろく毀れていいだろうか」
「ときによれば、血を分けた兄弟でも殺しあうことがある」
 第二は冷笑するように云って、肩に止った落葉を手荒く払った。英之助はまた暫く沈黙した。それから調子の変った声で云った。
「忠告することがあるんだ、いやなうわさがとんでいる、勤めはきちんとしたまえ、定日のほかに休むのはよしたまえ……それからもう一つ、千久馬とはあまり往来しないほうがいい」
 第二は足を停めて振返った。
「それは先手組支配としての忠告か」
 英芝助は鋭い眼でこちらを見つめ、手綱で馬をひき寄せながら云った。
「――友達としてだ」
 そして馬へ乗って駆け去った。その姿が丘を越えるまで見送ってから、第二は道を伊※(「田+比」、第3水準1-86-44)川の河原へ下りてゆき、枯れた草の上へ身を投げだした。……鎮まっていた怒りが再び燃えあがってきた。古い傷がなまなましく痛みだした。肥えて、どこかに重厚さを加えた英之助の、馬上から見おろした顔が、眼に焼付いているようであった。
「せめてあの事には触れないでいて呉れるべきだ」
 第二はうめくように云った。
「少しでも感情をもっていたら、あの事だけは口にはできない筈ではないか、彼は自分たちを弁護しようとさえした、しのがどんなに苦しんだかって……ではおれはどうなんだ」
 すぐ側で冷たそうに瀬の音がし、仰臥ぎょうがした彼の上へあとからあとから落葉が散って来た。

 八木千久馬に会ったのは、それからほんの数日後のことであった。誰が訪ねて来ても会わないし、招かれても断わるので、友人や元の同僚たちとは没交渉のままだったが、千久馬だけは辛抱づよく訪ねて来た。
 ――母さんが間へはいって困るから。
 母が困って頼むように云ったこともある。けれども第二は頑として会わなかった。手紙を置いてゆくこともあったが、初めの一通を半ばまで読んだだけで、あとはそのまま手箱へ入れてしまった。理由はもちろん一つしかない、藤島としのとの問題に触れたくないからだ。話はきっとそこへゆくだろうし、手紙にもその事が書いてあるだろう――初めの一通がそうであった――第二にはそれは耐えられなかった、かれら二人については古い想い出さえいとわしかった。もっと時間が経って、傷がまったくえ、気持がすっかり平静になるまでは、少しでも二人を連想させることは絶対に避けたかったのである。
 知人に会いたくないので、城へも安土あずち門から出入りした。御文庫は松の丸と呼ばれる二の曲輪くるわにあって、そこからは少しまわらなければならないが、大手やいぬい門のように知友に会う心配は殆んどなかった。
 千久馬はそれに気づいたのだろう、その日、下城して門を出たところでうしろから追いついて来た。
「あんなに呼んだのに聞えなかったのかね」
 激しい息をしながら、千久馬は肩を並べて歩きだした。
「いやわかってる、なにも云わなくてもいいよ」彼は第二をさえぎって云った、「――誰にも会いたくない気持はわかってるんだ、頑強なのには驚いたけれど、……でもおれにはよくわかっていたんだよ」
「まことに済まないが」
 第二は低い声で呟くように云った。
「いろいろ心配をかけて済まなかったが、どうかその事はもう暫く、このままそっとしておいて呉れないか」
「しかしそうはいかないんじゃないのか、第さんの気持はよくわかってる、おれだって不愉快だから、できるなら闇へ葬ってしまいたいよ、だが……ふりかかる火の粉は消さなければならない、さもないと焼け死ぬかもしれないからね」
 彼の暗示的ないいぶりは効果があった。第二は初めて千久馬の顔へ振向いた。
「それは藤島のことをいうのか」
「彼は悪辣あくらつに第さんをおとしいれようとしているよ」
「だって」第二はちょっと口ごもった、「――それは、なんのためにだ」
「想像がつかないかね」
 暫く黙って歩いた。第二は自宅へ曲る道を通り越して、藩侯の泉亭のあるほうへ向っていた。……やがて千久馬が「彼と出会ったそうだね」と云った。第二はちょうどそのときの情景を思いだしていたが、返辞をするのもいやで、ただうなずいてみせた。
「そのときおれについてなにか云わなかったかね、いや聞くまでもない、中傷することはわかってるんだ、彼はおれを第さんに近づけたくはない、おれの口からなにがばれるか、彼は身に覚えがある、ほかの者はとにかくおれだけは第さんから離して置きたい筈だ」
 昂奮こうふんしたのだろう、千久馬は顔をあおくし、もどかしげに手振りをしながら云った。……第二の耳には英之助の言葉がはっきり残っている、鋭い眼で、こっちを刺すように見ながら、「友達としての忠告だ」といった彼の言葉が……。
「おれはむしろ藤島に同情している」千久馬はなお続けていた、「――第さんが帰って来て、眼と鼻のさきにいるとすれば、彼の立場は苦しい、それも非常に苦しいだろうと思う、それはおれにはよくわかるんだ、しかしどうしたっていた種はらなければなるまい、彼はそれだけの事をしたんだから、……人間は弱いものだ、罪を犯した者が、その罪を隠蔽いんぺいするために重ねて罪を犯す、……初めに犯した罪をつぐなう勇気のない者は、必ず次ぎ次ぎと、段々に重く、大きな罪を重ねてゆく、そこに弱い人間の悲しさがあるんだ」
 第二は歩きながら低い声で独り言を呟いた。まったく聞きとれなかったが、千久馬は構わず続けた。それにしても英之助のやりかたが悪辣すぎるということを。信じられないような江戸での醜聞。情事。重役にとりいった役替え。帰藩してからの怠慢、常に無断で休み、勤めを投げやり、暢気のんきらしく山歩きばかりしていること。
「彼はいつも云っている、あれで誰にも恥じず、平気で高禄こうろくをいただいているとすれば……いや、おれにはそのあとは云えない」
 千久馬はやりきれないという手振りをした。
「それに口から口へ伝わると、言葉には尾鰭おひれが付くものだ、問題はどんなことを云ったかではなく、この状態をこのままにしてはおけない、早急にどうにかしなければならないということだ」
「――彼はおれの婚約を毀した」
 第二の独り言はこんどは千久馬にも聞えた。
「――彼はおれからあの人を奪った」
「だからこそ彼は第さんを除こうとするんだ」
「――彼は二十年の友情を裏切った」
「しかも今でも親友だと人にはいっているよ」
 ふいに第二は立停った。そして千久馬の顔を正面に見た。まるでそこに英之助を見るかのように。それから低い声で震えながら云った。
「済まないがおれを独りにして呉れ、……二、三日したら、たぶん、訪ねてゆくよ」
 そして千久馬の返辞は待たずに、泉亭の長い築地塀ついじべいに沿って、伊※(「田+比」、第3水準1-86-44)川のほうへ大股おおまたに去っていった。


 その翌晩であったか、夕餉ゆうげのあとで第二は父の部屋へ呼ばれた。母が茶を持って来たが、なにか遠慮するふうですぐに去った。
「実は縁談が一つあるんだが」父は窓のほうを見たままで云いだした、「――去年からの話で、向うではぜひと云うし、私も悪くはないと思うんだが」
「――そういう話はもう暫く待って頂きたいんですが」
「二十七にもなってまだ待つのか」
「――こちらが済むと江戸へ戻らなければなりませんし、ことによると、そのまま江戸に留ることになるかもしれませんから」
「国の者ではぐあいが悪いというのか」
「――それもありますし、とにかく……」
 父はこっちを見たようだ。第二は眼を伏せたまま黙っていた。かなり経ってから、父は声をひそめるように云った。
「おまえ、まだあのときの事が、……第二、おまえはそんなにみれんな人間か、おまえは男ではないのか、武士ではないのか」
 父の声はごく低いが、非常に烈しかった。むちで打つような調子だった。第二は俯向いて、硬直したような姿勢で、黙っていた。父は怒りを抑えていたらしい、やがて眼を脇へ向けて云った。
「七日のあいだに返辞を聞こう、返辞によっては考えなければならない」そして、第二が立とうとすると、冷やかにつけ加えた、「――理由もなく勤めを休むそうだが、今後そんなことがあると父が承知しないぞ」
 その夜はいつまでも眠れなかった。怒りや憎悪が胸をみ破るようであった。毒々しい空想ばかりが渦を巻き、絶望してうめいた。
「――だめだ……」
 法広寺の鐘が午前二時を打つと、第二は起きて、刀を持って、音をさせないようにはだしで庭へ下りた。それから刀を抜いて、冷たい土を踏みながら、力いっぱい刀を振った。……声はあげずに、上段から打ちおろし、また打ちおろした。寝衣ねまきが汗になり、刀が上らなくなるまで続けたが、縁側から母がそっと見ていたことには、彼は気がつかなかった。
 三日ほど過ぎた或る日の午後、御文庫の外へ藤島が来て第二を呼びだした。
「御用ちゅうだが、ひと言だけ云いに来た」
 英之助の顔は歪んで痙攣けいれんしているようにみえた。
「蔭で人を誹謗ひぼうするのはみぐるしい、文句があったらじかに云うべきだ、断わっておくが、おれは決闘を申し込まれて逃げるほど腰抜けではない、これだけははっきり断わっておく」
「待て藤島」第二はかっとなった、「――人を誹謗するとは誰のことだ」
「裏切り者という言葉は最上の侮辱だぞ」
「その覚えはある筈だ」第二は叩きつけるように叫んだ、「誹謗とは無いことを曲げてそしるのをいう、その事実が有ったとすれば誹謗ではない、決して誹謗ではないんだ」
 英之助は眼を大きくみはり、唇をひき緊め、ぎゅっとこぶしを握った。しかしすぐに冷笑をうかべ、こちらをあわれむような調子でいった。
「――いい気なものだ」
 そして駆けるように立去った。
 それから間もなく、半刻はんときも経たないうちに八木千久馬が来た。彼は第二が出てゆくのを待ちかねるように、御文庫のひさしまではいって来て、それからまた一緒に庭へ出た。……そのくせなにか云いかねるふうで、幾たびも話しだそうとしてはやめ、溜息ためいきをついたり、意味の知れない手振りをしたりした。
「――どうしたんだ、なにかあったのか」
「云いたくないんだが」
 千久馬は不決断に呟いた。そのとき第二は、――どういう連想作用かわからないが、――ふと江戸で貰った彼の第一信の、書きだしの文句を思いだした。
 ――この手紙を出そうかどうしようかと、ずいぶん迷った。
 そしてそれに続けて、英之助としのとの事を知らせたのである。云いたくないんだが、という今の彼の言葉も、おそらくそのあとになにか悪い知らせがあるに違いない。第二は苛々いらいらした。
「云わずに済むことなら聞かなくてもいいよ」
「――そうしたいんだ、したいんだが」
 千久馬はそこで思い惑ったように、眼をあげてこっちを見た。
「――おれは、はたしあいは不賛成だ」
「彼はおれに申し込むのか」
「いや、彼にはそれはできない」千久馬の額が白くなった、「――彼は受ける立場にいるんだから、そうじゃないか」
「ではおれに申し込めというのか」
 こう云いながら、第二はつい先刻の英之助の言葉に気づいた、――おれは挑まれた決闘を逃げるほど腰抜けではない。
「わかった」第二は頷いて云った、「――済まないがはたし状を書くから、あとでもういちど来て呉れないか、彼に届けて貰いたいし、それに、よかったら介添役も頼みたいんだが」
「いいとも、おれで役に立つことならなんでもするよ、ではあとで来る」


 その日は定刻を二時間も過ぎてから下城した。万一のばあいを考えて、いちおう仕事の手順を助手たちに教える必要があったから。気持はおちついていた、躯じゅうに力の充実が感じられ、頭も快く緊張して、ずいぶん久方ぶりに「生きている」という現実感のある時間を過した。……まる三年以上も、彼を取巻き、押えつけ、閉籠とじこめていたもの、どす黒く重苦しい壁のようなものがはたし状を書いた刹那せつなに崩れた。音が聞えるかと思うほどみごとに崩れ去って、にわかに明るい光りがさしこみ、新しい香ばしい空気がながれみなぎるように思えた。
「――これだった、これだったんだ」
 彼はなんども独りで呟いた。
「――早くこうすればよかったんだ」
 彼は自分では知らずに微笑さえうかべた。
 下城したときはもうすっかりれていた。かなり強い北風で、道から砂埃すなぼこりが舞いあがり、内濠うちぼりの水は波立って、頻りに石垣を打つ音が聞えた。……第二は濠端でふと足を停め、ちゃぷちゃぷというその水の音に聞きいった。濠の中は深くて暗かった。水は鈍い鋼色に光って、石垣の根を打っては返り、打っては返り、休みなしに揺れ立っていた。……ぞっとするほど冷たそうなその水の色や、なにかを嘆き、訴えるかのようなその音には記憶があった。江戸で、隅田川の岸で、彼は同じような時刻に、独りでじっと川波を眺め、岸を洗う水の音を聞いた。向島の堤の下で……本所の百本杭で……。
 歩きだしたとき第二は、哀しいような沈んだ気分にとらわれていた。江戸邸の中にある足軽長屋、暗くて不潔で湿っぽい住居と、そこの人たちの無気力な希望のない生活、絶えず病気や思わぬ災難におびえながら、一生じっと頭を垂れて、与えられた僅かな扶持で辛うじて生きている姿。……そういうもの哀しい回想が次から次へと思いうかび、やがて自分が決闘でたおれたあとの父や母の悲嘆の声までが聞えるように感じられた。
 ――だがどんな幸福も決して永遠ではない、人間は不幸や悲嘆から※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれることはできない。
 それが逃げ道であるかのように、第二はこう自分に云いながら家の門をはいった。
「藤島からしのさんがみえていますよ」
 着替えを手伝いながら母が云った。第二はなにか聞き違えたと思った。だが一時間ばかりまえにしのが来たこと、一生の大事だからぜひ会いたい、会わないうちは帰らないと云い張ったことなど、母は声をひそめるようにして云った。
「第さんにはお悪いと思ったけれど、一生の大事といえばむげにも断われないし」
「――会いましょう、どこにいるんです」
 常のはかま穿きながら第二は云った。
「母さんのお客間だけれど」こう云って母は不安そうにこっちを見あげた、「――なにかそんな、間違いのような事でもあったんですか」
「たいした事じゃありません、あとで申上げます」
 食事をしてからにしたらと母はいったが、第二は茶を一杯飲んで、内客の間へいった。
 しの火桶ひおけから離れた位置に坐っていた。第二は冷やかな眼で、無遠慮に彼女を見た。しのは豊かに肉付いた。あの頃のどこか子供っぽい、育ちきらないような感じはもう少しもない。髪毛もつややかにたっぷりしているし、躯じゅうの線が円く少しの緩みもなく張って、温かさと重たい柔らかさがあふれるようにみえた。それは彼の知っているしのではなかった。子供を一人産んで、なまめかしく成熟した女、良人おっとを持ち家庭を持つ一人の妻、そういう印象であった。
「用件だけ聞きましょう、なんです」
 第二はできるだけ静かに云った。しのはすぐにふところから封書を取り出し、それをこちらへ押しやりながら眼をあげた。
「これをお返し申します」
 それは第二が英之助へ送ったはたし状であった。第二はけんめいに怒りを抑えた、喉までつきあげてくる叫びを危うく堪えて、しのの眼を見つめながら云った。
「それは藤島の望みですか」
「いいえわたくしがお返しするんです」
「どうしてです、なぜです」
 第二が云いかけるのを遮ってしのはまるで挑みかかるような口ぶりで云った。
「あなたは間違っていらっしゃるんです、あなたは藤島にはたし状などを送ることはできません、そんなことは決しておできになれない筈です」
「では私はこれ以上なお」彼はちょっと絶句した、「――なお不当な侮辱を耐え忍んでゆかなければならないんですか」
「藤島は侮辱を受けなかったでしょうか、わたくしは数日まえに初めて聞きました、それも和田の弟から聞いたんです、あなたがお帰りになってから今日まで、わたくしの口からは申せないような、ひどいひどい蔭口や根もない謗りを、藤島はなにも云わずにがまんしていました、侮辱を耐え忍んでいたのは藤島でございます」
「お待ちなさい、私が彼になにをいったというんです」
「なにをですって、なにをいったかとおっしゃるんですか」
 しのは激しく第二の眼を見つめた。それから突然ああと低く叫び、深く息をひきながら、独り言のように呟いた。
「やっぱり、……やっぱりそうでしたのね」
 それは予想していたことが事実だったという響きをもっていた。第二を見つめているしのの眼が急にうるみ、挑みかかるような言葉つきが柔らかくふるえてきた。
「わかりました、そのお眼で、わたくしよくわかりました、蔭口をきいたり、人を謗ったりすることは、あなたにはおできになれませんわ、第二さまには、……そして藤島にも決してそんなことはできません、決して、……それは第二さまが御存じの筈です」
 彼は黙っていた。しのは続けた。
「悪いのはお二人のほかの或る人間です、その人間がお二人をこんなふうにしたんです」
「それは八木千久馬だというんではないでしょうね」
「あの人です、みんなあの人のしたことなんです」
「私は信じませんね」
「ではあなたは、あなたが侮辱されたということをどうしてお知りになりましたの、帰っていらしってから誰ともおつきあいにならないのに、どうしてそれがおわかりになりましたの」
 第二は返辞をしなかった。しのにはその理由がわかるのだろう、涙の溜まった眼で、今はやさしく第二を見まもりながら、
「おわかりになりましたでしょ、あの人がお二人の間で、お二人を裂いて決闘までさせようとしたんです、みんなあの人の企んだことなんです」
「だって……彼にどうして、そんな必要があるんです」
「申上げますわ、みんな」しのは眼を伏せた、声もずっと低くなった、「――申上げなければわかって頂けないでしょうから……済みませんけれどその灯を、もう少し暗くして下さいまし」
 自分は人に辱しめられたという、思いがけない言葉でしのの告白は始まった。
「あなたが江戸へお立ちになった夏のことですの、妹と二人で庭へ夕涼みに出て、急に水が見たくなったものですから、二人でそっと裏木戸からぬけだしました」
 姉妹は屋敷町を避けて諏訪明神すわみょうじんの境内へいった。社殿は小さいが古い杉の樹立があり、伊※(「田+比」、第3水準1-86-44)川の流れに臨んでいる。月のいい晩であったが、境内へはいるところで八木千久馬に出会った。彼は「泳ぎに来たのだが」などといって、二人と一緒に川の岸まで付いて来て、そこでとりとめのないことをいろいろ話した。妹のみよは千久馬を嫌っていたので、それとなく側を離れ、社殿のほうへ歩いていった。すると千久馬は、――その機会を待っていたのだろう――突然しのを抱き緊めて、川岸の灌木かんぼくあしの繁っているところへ引摺ひきずってゆき、押倒して、しのの唇へ、頬へ、いたるところへ狂ったようにくちづけをした。
 あまりに思いがけなかった。しのは声を出すこともできず、眼がくらんだようになって、ただ、自分は殺される、殺される、と思ったそうである。
 妹の呼ぶ声が聞えたので、千久馬はすぐにとび起きた。しのは身動きもできなかった。彼は荒い呼吸をしながらしのたすけ起こし、しどろもどろに云いわけをした。――何年もまえから好きだったとか、恋していたとか、そして、こんなことになった以上は責任はとる、貴女としてももう今泉へは嫁にはゆけないであろう、だから自分が改めて結婚を申し込むつもりである。そんなことを云った。
「わたくし藤島へ相談にゆきました、自殺しようかと思ったのですけれど、江戸にいらっしゃるあなたのことを考えると、どうしても死ぬ気にはなれなかったんです、藤島はあなたとは二十年ちかいあいだも、兄弟より親しくしていらしって、わたくしも頼りに思っていましたから……藤島は怒るよりも悩みました、あなたとわたくしのために、どんなに悩んだか、あなたに御想像がつくでしょうか」
 しのは身を汚されたものと信じていた。もう取返しはつかない、どんなことをしても第二の妻にはなれないと思った、一方では千久馬が結婚を申し込むという、そのばあい彼がなにを云うかは察しがついた。
 ――私が八木と会います、しかしそれには条件がある、ことによると私と結婚しなければならなくなるが、それでもいいですか。
 英之助は決意のある口ぶりでそう云った。千久馬が結婚を申し込むまえに千久馬に会って、自分がしのとあやまちを犯したと云う。そう聞けばおそらく彼は手を引くだろう、それでもなお自分の暴行を告白する勇気はあるまい。事は急を要した。そして英之助はすぐにその方法を執った。……予想どおり千久馬は手を引いたが、返報のように和田へいって、英之助としのとが密通していると告げたのである。
「それからのこまかいゆくたては申上げません、父は今泉へ申しわけに切腹をすると申し、今泉の叔父さまになだめられて、思い止りました、わたくしは義絶ということでしたけれども、それも叔父さまや叔母さまのお執成とりなしで、無事に和田から藤島へ嫁にまいったのでございます」
 しのは涙を拭いて第二を見あげた。
「わかって下さいましたでしょうか、藤島は身を汚されたしのを、承知のうえで妻にして呉れましたのよ」


「結婚してからはわかりました」
 また眼を伏せながら、しのは続けた。
「本当に辱しめられたのではない、躯はきれいだったのだとわかりました、でも……それでも、あんな恥ずかしいことをされては、どうしたってあなたの妻にはなれません、尼になるか死ぬか、そのほかにみちはないと思いました、……それを藤島が励まして呉れました、ただ怪我をしただけだ、自分がその怪我を治そう、自分を医者だと思って嫁に来い、……今泉は怒るだろうし、苦しみもするだろうが、いつか事情がわかれば納得して貰えるに違いない、今泉は自分がどんな人間か知っていて呉れるから、そう申しました」
 第二は懐紙を出して顔をおおった。しの嗚咽おえつした。嗚咽にむせびながら、恨みを述べるように云った。
「藤島はあなたのことを心配しどおしでございました、あんまり苦しまないで呉れればいいが、……いつもそう云っておりましたわ、あんまり苦しんで呉れなければいいが……」
 第二は立って廊下へ出た。それから暗い風呂舎へはいり、壁にもたれかかって泣いた。
「きさまは愚かなやつだ、第二」彼は泣きながら自分を叱咤しったした、「――そんなにもばかだったのか、そんなにも……あんまりじゃないか第二、なんと云いようもないじゃないか」
 藤島の言葉。千久馬の云ったこと。いま改めて思い返し、比較してみると、その虚実はあまりにはっきりしている。自分がもう少し男らしくじかに藤島に会えばよかった。じかに会って話せばこんな誤解はせずに済んだ。
 ――一人の女のために二十年の友情がこんなに脆く毀れていいだろうか。
 落葉のなかで云った英之助の言葉が、殆んど現実の痛みを伴って、彼の胸を刺した。第二は拳を握り額を壁へ押し当てて呻いた。そしてまたひとしきり声をころして泣いた。
 第二が顔を洗い身づくろいをして戻ると、燈火を明るくかきたてて、しのの側に英之助が来て坐っていた。不意をつかれたが、第二はそれほど意外ではなかった。……こちらを見る英之助の眼は静かで、おちついた沈着な色をしていた。第二はきわめて自然に微笑がうかんだ。
「あんまり遅いんでこれを迎えに来たんだ」
 英之助はなに事もなかったような声で、そう云った。それから第二が坐るのを待って、「さっぱりして呉れたかい」
 第二は云いように困った。それで、そこにあるはたし状を取って、行燈の火をつけ、燃えだすのを火桶ひおけの上へ差出した。そしてその小さなほのおを眺めながら、「これが救いの神になったというのは、いかにも皮肉すぎる」
「こういうものは本気で書くからね」
 第二は頭を垂れて頷いた。英之助には彼の気持がよくわかるらしい、「いやな事はみんな忘れるんだ、なにもかも」そう云いかけて、燃え尽きようとするはたし状の煙にせたものか、咳をしながらと顔を脇へ向けた、「――もちろん、千久馬のこともだよ、彼のことは彼に任せておけばいい」
 こんども第二は頷いただけだった。これでいい、なにも足りないものはない、礼は云いたいがその必要もないだろう、――有難う英さん。すっかり灰になったのを火箸ひばしで崩しながら、第二は心のなかでそう呟いた。そこへ母が来た。心配で見に来たのだろう、茶道具を持ってはいって来たが、第二はそれを見るとわれ知らず「ああ、母さん」と高い声をあげた。
「久し振りですから藤島と飲みたいんです、済みませんが酒にして下さいませんか」
「――仲直りができましてね」英之助も微笑しながら云った、「――お手数ですが私からもお願いします、しかし……驚きますねえこの男は、まだ母さんなんてあまえたことを云うんですか」
「第二さまの口癖でございますわ」
 しのが鼻の詰ったような声で云った。第二は顔をあげて、なにか云おうとする母をさえぎって、たいへん勿体もったいぶった口ぶりで云った。
「これも暫くのことさ、いま縁談があるんでねえ、嫁が来るとすれば、いくらなんでも、そうあまえてはいられない」
「どうぞそうお願いしますよ」
 母はそう云って立ちながら、絶えて久しく笑い声をあげた。しのも嬉しそうに笑い、「お手伝い致しますわ」と云って、母と一緒に出ていった。二人だけになって、急にしんとした部屋の中へ、戸外の風の音が聞えてきた。





底本:「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」新潮社
   1983(昭和58)年11月25日発行
初出:「週刊朝日 新年増刊」朝日新聞社
   1951(昭和26)年1月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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