初蕾

山本周五郎





「花はさかりまでという、知っているだろう」
「…………」
「美しいものは、美しいさかりを過ぎると忘れられてしまう、人間いつまで若くていられるものじゃない、おまえだってもう十八だろう、ふじむら小町などと云われるのも、もう半年か一年のことだ、惜しまれるうちに身の始末をするのが本当じゃあないか」
「それはわかってますけれど」
 おたみは客のさかずきに酌をしながら、ふと考えるような眼つきになった。
「身の始末をするにしたって、ゆきさきのことを考えますからね」
「私の世話じゃあ不安心だと云うのかえ」
「貴方と限ったことじゃあないんです、これまで貴方には誰よりも我儘わがままを云わせて頂けたし、いちばん気ごころもわかって下さるから、お世話になるとすれば他にはありません。でも、そういう身の上の人をなんにんも知っていますけれど、たいていが末遂げないものですからね」
「この場合はそれとは違うじゃないか」
 喜右衛門は盃をおき煙草を取った。
「私のは、いろけは二の次にしての話だ、田河屋を買う金も、私がたて替えるというかたちにして、あがって来る物から年割りで返して貰ってもいい、私としては気楽に我儘の云える家、のんびりと手足を伸ばしてくつろげる場所、そういうことだけでも満足なんだよ」
「それもよくわかるんですけれど、でもそれではもし……」
 お民はじっと客の眼を見まもった。
「もしあたしに思う人があるとしたら、それでも構わないとおっしゃいますか」
「おまえに思う人だって」
「もし仮にそんな人がいて、時どき逢ったりなんかするとしたら、幾ら貴方だってああそうかで済みはなさらないでしょう」
 客はお民の眼をしずかに見返した。それはなにか意味をかよわせるような視線だった、お民はわれ知らず眼を伏せた。
「私が身の始末をしろと云うのはそれなんだ、好いた好かれたとかいうことは花の散らないうちの話で、添い遂げられる縁ならいいが、さもなければやがて悲しい別れをするか人にうしろ指をさされるようなことになりやすい、そんなことにしたくないから相談をするんだ、世間を知らないわけじゃあないだろう、よく考えてみて、気持がきまったら返辞を聞かせておくれ、また二三日うちに来るからな」
 お民はなにも云えずに眼を伏せていた。この人は知っているのかもしれない、ふとそういう気がしたからである。もしそうなら、梶井さまの親御たちと話しあいのうえで、こんな相談をもちかけたのではないだろうか、半之助さまと自分との仲をさくために……そう考えると、それがもう紛れのない事実のように思え、お民はひそかにせせら笑いたい気持になった。
「どうせ泣くように生れついたんだ」
 お民は客を送りだして、あと片付けに戻ったまま、小窓にって、自嘲じちょうするようにこうつぶやいた。
「花がさかりまでのものなら、散るまで好きなように生きるだけさ、初めからそういう積りなんだもの、どうなったって悔むことなんかありゃあしない」
「どうせ泣くように」
 すてばちに似たその言葉は、決して出まかせのものではない。最も幼ない頃、記憶の初めともいえるものが既に悲しい泣声に濡れている。それは大きくて広い家の土間だった、ひと抱えもありそうな柱や、鼈甲べっこう色に光るかまちや、重そうな杉戸が、うす暗いよどんだ空気のなかに、恐ろしいほどがっちりと威圧的に見えた。兄の太市は手をひかれ、お民は母に背負われていた、母は上り框のところに手をついて、なにか頼みながらしきりにおじぎをする。向うの帳場格子の中には人が三人ほどいたが、算盤そろばんをはじいたり帳面を繰ったりするだけで、誰もこっちの相手にはなってれない。母は歌うような調子でなにか云っては、いつまでもおじぎをし続けた、そしてしまいには五つになる太市にまでおじぎをさせ、いっしょに頼みを云わせた。
 ……そこが鳥羽港の「山越」という船問屋の店であり、母が米を買う銭を借りにいったのだということは、それから数年のちに知ったのである。「山越」の船で船夫をしていた父が、熊野灘くまのなだで難破した船といっしょに死ぬまで、幾たび同じことを頼みに母子三人でその店へいったかわからない。お民も母や兄といっしょにおじぎをし歌うような調子で店の人に頼み言を云った。幼なごころにも情けなく恥かしくて、しまいにはおろおろと泣きだしながら。
 ……父が死んでから、母はしるべをたよってこの二見へ来た。二見浦の浜にある藤屋という宿へ、下女奉公のような勤め口があり、太市とお民と三人、物置よりみじめな小屋をあてがわれて新しい暮しを始めたのである。もちろんそこの生活も苦しかった。母のかせぎでは三人の米も満足には買えず、九つになる太市も八つのお民も、走り使いをし、子守りをし、水をみ、掃除の手伝いをした。宿の主婦が評判のしまりやで、使い走りも子守りも、ちゃんと度数で駄賃がきまっていたから、時にはその度数を多くしたいばかりに、海から吹きつける寒い風にさらされながら、夜おそくまで使いがありはしないかと待ち更かすこともあった。


 兄の太市が十二で死に、母はお民が十三の年に亡くなった。太市は客の残りものを食べた中毒で、烈しい吐瀉としゃを続けながら医者にもかけることができず、僅か五日ばかりで骨のようにせて死んだ。母はそのまえから脚気を病み、あおくむくんだ顔をして、肩で息をしながら足をひきずるように歩くという風だった。太市が死んでから眼立って弱り、薪ひとたば持つのも苦しそうだったが、宿の者に気づかれるのを恐れて、倒れるまで達者なように装おいとおした。母が倒れたきり動けなくなると、宿の主婦はお民に奉公へ出ろと云いだした。藤屋の主人の妹が、宿屋街の地はずれで「ふじむら」という小料理茶屋をやっていた、そこで小女が要るからゆけという、――どうせおまえの働くくらいじゃおっつかないが、あとは私が足しまえにしておっ母さんの面倒はみてあげると、それが気にいらなければおっ母さんをれて好きな処へ出ていってお呉れ。
 宿の主婦ははっきりとこう云った。お民はおっ母さんの側にいたかった、自分で看病がしたいし、なにより側を離れるのがいやだった、けれどもそこを追出されれば、母を抱えて乞食こじきでもする他はない、十三になったばかりのお民は、それでも母には笑ってみせ、近いから毎日でも来られると慰さめて、ふじむらへ奉公に出たのである。
 ……そのとき藤屋の主婦はふじむらから、お民を五年間の年期奉公にして五両という金を取っていた。母はそれから九十日ほどして亡くなったが、医者にはもちろん、薬もろくろくのませず、とむらいなど真似ごとというにもひどいものだったのに、それが更に三両なにがしという借分になって証文に書き込まれた。
 こういう始末を知ったのは、お民が十五になって、客の接待に座敷に出るようになったときのことだった。幼ない頃から世間はこわいもの、人は信じられないものと考えていたので、そうわかっても今さら藤屋を恨む気持はなかった。それよりも、すでに自分が美しく生れついたこと、客たちに人気があるので、家人が大事にし始めたことなどを知って、云いようのない自信が身内にうまれ、新しい明けれのほうへとぐんぐんかれていった。
 ……それからの三年あまりは夜の明けたような生活だった。ふじむら小町などと呼ばれて、客もよく付き、面白いほどみいりがあった。通って来る客のなかには好きな相手もできたし、伊勢の山田の御師の息子で、仁太夫という名のおとなしい若者には、ずいぶん危いところまでいったが、「山越」の店でおじぎをした幼ない日のこと、物置のような小屋の隅で冷たくなっていた母のことを思いだして、なんだいという気持になり、間もなくきっぱりと別れてしまった。
 ――信じられるのは自分だけだ、世間や人を信じたら泣かされるにきまっているんだ、好きも嫌いもあるものか稼げ稼げ。
 そういう風に自分をしかけていた、八両なにがしという借金を返し、着物も二枚、三枚と作れるようになったのは、十八になった今年の春からだった。そこへ梶井半之助が現われたのである。……初めは「島喜」という名で知られた島屋喜右衛門の案内で来た。「島喜」は鳥羽で廻船問屋をしている富豪で、藩侯稲垣家のお勝手御用も勤めている。喜右衛門はもう隠居だったが、藩家の用事は自分が扱っているので、重役たちを伴れてしばしばふじむらへ来た。半之助の父は梶井良左衛門といって、稲垣家の港奉行だったから、その関係で半之助をも伴れて来たようだった。
 ……お民は初めから彼に惹きつけられた、けっして美男ではない、笑うと眼が糸を引いたように細くなるし、背はあまり高くないし、声は少し鼻にかかるし、酔ってうたう歌は調子ぱずれだし、どこといってとりえのない風貌である。しかしぜんたいの人柄がいかにも自然で、みえやてらいが少しもなく、向いあっていると、ゆったりと大きな温かいもので、静かに押包まれるような気持にそそられる、……温かくふんわりと包まれる、お民はその感じに全身をつかまれ、まるで崩れるように彼のふところへとびこんでしまった。
「どうせいっしょには成れないんだ」
 初めに彼はこう云った。
「お互いにあっさりいこう」
 ええそうしましょうと云って僅かに半月、五たびめに逢ったとき、むしろお民のほうからすすんでふかい契りができてしまった。
「いっしょになんかなれなくってもいいの、ただあなたが好きだというだけ、こうして会うほかにはなんにも望みはないわ」
「夫婦になっても三年か五年、くすぶった気持で厭いや一緒に暮すよりも、好きなうちこうしてたのしく逢い、飽きたらさっぱり別れてしまう、これが人間らしい生き方じゃあないか」
「その約束をしましょう、好きなうちは逢う、飽きたら飽きたと隠さずに云う、そしてあとくされなしに別れる、……きっとですよ」
 こうして夏から秋ぐちまで、ひとめを忍ぶう瀬がつづいたのである。


 喜右衛門が来て二日経った。明日あたりはまた返辞を聞きに来るであろう、しかしお民の気持はどっちともきまらなかった。……喜右衛門から世話をしようという話の出たのは、夏のはじめ頃だった、この二見浦で同じ料理茶屋をしている田河屋というのが売に出ている。それを買ってお民を主婦に入れるからという条件なのだ。半之助という者がありまだ十八の若さで、そんな老人の世話になることはなかったが、この頃になってお民は迷いはじめた、それはもう三月もからだが変調だからである。もしこれがまちがいでないとすると、そして半之助に迷惑が掛けられないとすると、少なくとも身二つになるまでは誰かの世話にならなければならない、それには十三で奉公に来たときから可愛がっても貰い、我儘もゆるして呉れた喜右衛門が誰よりも頼みやすかった。
 ――事情なんかかずに、なにもかもひきうけて呉れるだろう。
 そう思っていた。いろけなどは二の次だと云うし、それが嘘でないこともわかるので、ことに依れば半之助との仲も黙認して貰えるかもしれない、そんな勝手な想像さえしていた。それで先夜ふとほのめかしてみたのだが、案外にも喜右衛門は承知しなかった。世話をする代りにはそういうものをすっかり始末しろと云われた。……それは相手が半之助だということを知っているからのようだった。二人の仲をさくためにそういう手段を講ずるようにも思えた。身勝手な空想はすべて破れ、二つに一つの現実へつき当ったのである。身の安全をとるか半之助をとるか。
「どうせ泣くように生れついたんだ」
 と、お民はなんども呟いた。
「物置みたいな小屋で死んでいったおっ母さんのことを思えば、不仕合せになったところでたかが知れている、いっそゆくところまでいってみるがいいのさ」
 そういうつきつめた気持のあとから、しかし身内にある小さないのちのことがとげの刺さるように心をとがめ、喜右衛門の世話になろうかと迷いを誘われるのだった。
 午後になってから思いがけなく、半之助は四五人づれで来た、人を伴れて来たのは初めてで、もうかなり酔っていた。お民は親しい口もきけず、そっと眼で心をかよわせるばかりだったが、やがて彼が手洗いに立つと、廊下まで追っていってすがり付いた、彼の息には悪酔をしたときのいやな匂いがあった。
「きょうで七日ですよ、どうなすったの」
「こんど納戸役というのに成ったんだ、そのことでずっと暇がなかったものだから」
 彼は蒼い顔つきで、それでも笑いながらそう云った。
「あのれんちゅうは役所の新しい同僚だ、恐ろしく酒の強いやつがいるから加減をして呉れ」
「ゆっくりしていらっしゃるのでしょう」
「みんなを帰してからだ」
 少し話があるんですからと云って、お民は半之助の手を自分の胸へ抱緊め、あふれるようなまなざしで男の眼を見た。……座の空気はちぐはぐだった、中に一人、それが酒の強いという人だろう、色の黒い怒り肩の、ぎすぎすした調子で話す青年がいて、それが頻りに半之助をやりこめていた。内容はよくわからないが、「人間」とか「秩序」「道徳」「尊厳」などという言葉のむやみに出る、かたぐるしい議論ばかりだった。そして彼等を帰すどころか、かえって半之助のほうがつかまってしまい、間もなく席を替えようと伴れだされていった。
 別れ際に、
「すぐ帰って来る」
 と云ったが、日が昏れても戻らないし、客の多い夜で、表も奥もいっぱいになった。これなら、戻って呉れないほうがいいと、あきらめていた。……昏れるじぶんはよく晴れて、星がいっぱいだったけれど、宵さがりから小雨になり、九時をまわると本降りになったので、たてこんだ客も早くひきあげ、十時には二た組ほど残るだけになった。お民はお伊勢参りの客に出ていた。三人づれの江戸の人で、裕福な商人とみえる中年の人たちだった。こちらにはよく通じない洒落しゃれを云われるので困ったが、おちついた静かな座敷は気持は楽だった。……十時ちょっと過ぎだろうか、酒を運んで来たお房という女中が、
「お客さまよ」
 といってめくばせをした。
「離れにいらっしゃるわ」
 お民はその意味を悟り、会釈をしてそこを立った。離れへゆくと半之助が来ていた。白壁のように蒼ざめた、生気のない、硬ばった顔で、眼だけが大きくぎらぎらした光を帯びている、これまでいちども見たことのない顔つきだった、そして頭からずっぷりと雨に濡れていた。
「そんなに濡れてどうなさいました」
「人を斬って来た」
 ああとお民は声をあげた。ふいに眼がくらんだ感じで、立っていることができず、男のほうへ手を伸ばしながら崩れるように坐った。


 ありあう着物を着せ、濡れた物をくりやへ乾かすように頼んでから、お民は熱くして来た酒をすすめながら仔細しさいを聞いた。……相手は森田久馬という、あの酒の強い男だった、ふじむらを出て二軒ばかり呑み、鳥羽へ帰る積りで五十鈴川を渡った、その渡し舟の中で喧嘩けんかになり、向うへあがった草原ではたしあいをした、そして彼は久馬を斬ったのである。
「それはそれだけのことだ、立会った者も三人いるし、作法どおりのはたしあいだから恥ることもなし、後悔もないんだ、けれども喧嘩の原因はおれが悪い、それがやりきれないほどおれを苦しめるんだ」
「でもあの人のほうが半さまをやりこめにかかっていたじゃありませんか」
「そうじゃない、森田は正しいことを云っていたんだ、おれはあいつを斬ってから、雨のなかを当もなく歩きまわるうちにそれがわかった、おれがどんなに下等な卑しい人間だったかということも、……おまえとこういう仲になっていながら、好きなうちは逢おう、飽きたらさっぱり別れよう、そんな約束まで平気でした、それが人間らしい生き方だなど云って」
 半之助はそこで激しくかぶりを振り、盃の酒を毒でもむようにあおった。
「……森田はこう云った、そういう考え方は人間を侮辱するものだ、幾十万人といる人間の中から、一人の男と女が結び付くということは、それがすでに神聖で厳粛だ、好きなうちは逢う飽きたら別れる、いかにも自由に似ているがよくつきつめてみろ、人間を野獣にひき下げるようなものだぞ、……きさまは自分を犬けものにして恥ないのか、この言葉がはたしあいの原因になったんだ、お民」
「でもそれは、それは半さまひとりがお悪いのじゃあなく、あたしだってよろこんでお約束したことだし、二人の身分ちがいということが」
「いやそのことだけじゃないんだ、きょうまでのおれの生き方すべてが、ごまかしと身勝手とでたらめで固まっていた、それがおまえとの仲まで根を張ってきたんだ、おれは雨に濡れて闇のなかを歩きながら、……幾十万という人間のなかから、一人と一人の男女が結びつく、それがどんなに厳粛な機縁かということを身にしみて悟った、お民にはわからないか」
「…………」
 お民は黙って俯向うつむいていた。
「顔をおあげ、お民、相談があるんだ」
 半之助はつと手を伸ばしてお民の肩を押えた。
「おれはこれから江戸へゆく、そして人間らしい者になってくる、どんな苦労をしてもやりぬいてみる決心だ、もちろん困難だし、なん年経って望みが果せるかわからない、だから待っていて呉れとは云えないが、もし、……もしおれが人らしくなって帰り、そのときまだおまえが独り身でいたら、おれの妻になって貰いたいんだ」
「待っていろとはおっしゃいませんのね」
 お民はややしばらく考えてから、こう云ってそっと男を見上げた。
「約束ではないんですね」
「約束じゃあない、いつ帰るとも、いや生涯かえれないかも知れないんだから、待てと云うことは今のおれにはできない、ただ、ちょうどいい折だから云っておこう、……お民、おれは本当におまえを愛していた、心から愛していたんだ、あんな約束はしたけれど気持には嘘はなかった、これだけがおまえにれる餞別せんべつだよ」
 半之助のぐいぐいと高まってゆく感情には、とうていお民は付いてゆけなかった。はやくからそういう世界にいて、好いて飽かれた、契る別れるなどの、単純なうれしさ悲しさは、見もし自分で味わいもしたが、人間を侮辱するとか、厳粛な機縁とか、この際になって「本当に愛していた」などと云われることには馴れていなかった。彼女にはただ男がにわかに自分から離れて、別の世界の人になってしまったように思え、――とうとう泣くときが来た、という悲しさのなかで息をひそめるばかりだった。
「男なんて子供みたいなものだ」
 半之助を送りだしてから、すっかり更けた冷える夜具の中で、お民は独りこう呟いた。
「これから江戸へいって人間らしくなる、なん年かかるか、人間らしくなって帰れるかどうかもわからない、けれどいつか帰ったら嫁になって呉れなんて、……女がこんな境涯にいて、それまでまちがいもなしに待っていられると思うのかしら、どうして食べてゆくと思うんだろう」
 もう逢えないという悲しさのなかで、お民は泣き笑いをするように男の単純さをわらった。その日その日の生活に追われ、食う、着る、寝るの苦労を骨身で味わってきたお民には、それ以上の考え方はなかったのである。
「でもこれで迷うこともなくなったわ、稼げるうち面白く稼いで、あとは島喜さんのご隠居に頼むんだ、子供が生れたら、どこかへって、身軽になって、田河屋をりっぱに売りだしてやろう」
 夜具のえりをひきあげて、それで涙を拭きながら、お民は自分を唆しかけるようにそう云った。
「そしてもう、好いた好かれたはこれっきりだよ、お民ちゃん、これからは情のない女になって稼ぐんだ、しっかりするんだよ」


 志摩のくに鳥羽の城下から、日和山を西へ越えたふところに西沢という閑静な村がある。鳥羽とは僅かな距離だが、山ひとつ越えるために、環境がひなびているし、うちかさなる丘陵のかなたに、朝熊山をのぞむすぐれた眺めがあるので、春秋には城下の人たちがよく遊山に来た。……その村のうちに古くから「島喜」の隠居所があった。ほんの小さなありふれた建物で、くりやを入れて二十坪ばかりしかない、庭もざっとしたもので、白ちゃけた石が五つばかり、あとは家をとり巻いて松が林を作っていた。久しく閉まったきりで、時どき人が掃除にくるくらいのものだったが、去年の冬から武家の老夫婦が来て、そのままもう一年ちかく住みついていた。
 老人といっても主のほうは五十五六、夫人は五十歳ほどだろう、静かな人柄で、召使も置かず、ほとんど訪ねて来る人もなく、ひっそりとつつましやかに暮していた。……村人たちは知る由もないが、二人は梶井良左衛門と妻のはま女である。半之助が森田久馬を斬って、そのままゆくえ知れずになった。幸い久馬は死なずに済んだが、良左衛門は責を負って致仕した。それまでには及ぶまいと云われたけれど、我子のゆくえ知れずということが面目にかかわり、どうしても致仕せざるを得なかったのだ。彼は貯蓄も家財もきちんと整理し、すべてをきれいに返上して城下を立退いた、その始末の潔ぎよさが藩侯にきこえて、「終身十五人扶持を遣わす」こと、「領内に永住する」ことの二つのお沙汰があった、特別の沙汰だったのでお受けをしたが、それさえ彼には心ぐるしいようだった。……家がみつからないので、すすめられるままに島屋喜右衛門の隠居所を借りたが、これも旧職を利用するようで、おちつくまでにはずいぶん気を病んだものであった。
 夏を送り秋を迎えたが、明け昏れの無為にはなかなか慣れなかった。庭はずれに菜園を作り、二人で蔬菜そさいを育てたり、思いついては庭前の松の枝をそろえたりする他に、なにをこれという仕事もなく気持も動かない。
「こんなことなら、せめて碁将棋でも覚えておけばよかった」
 良左衛門は思い余ったという風にしばしばそう呟いた。
「なんにも仕事をしないということがこんなに疲れるものだとは気がつかなかった、肩ばかり凝ってどうにもしようがない」
「毎日きめて山でもお歩きになりましたら」
「このまわりはたいてい見尽したし、なにしろ風流というものに縁遠い性分だからな、山水をたのしむなどといった芸がまったくないんだから」
「お書物の行李こうりでも明けましては」
 と、あるとき見兼ねてはま女が云った。
「これからは夜ながになりますから、御書見でもあそばせば、幾らか気保養にはなりますでしょう」
 良左衛門は返辞をしなかった。黙って向うを見ている肩つきの、きびしい冷やかな姿勢に気づいて、はま女は息をひきながら、ああいけなかった、と思った。なにもかも返上したなかで、行李三つに入れた書物だけは、この家へ持って来てあった、それは半之助のものだった、幼少の頃から学問の好きな子で、藩の学塾では秀才といわれ、十七歳のときには塾の助教を命じられたくらいである。良人おっとがそういうことに興味をもたないし、もとよりはま女にはわからなかったが、二十二歳のとき彼の思想が老子の異端に類するといわれ、助教の席を逐われてしまった。ようすの変ったのはその後のことだったが、彼の蔵書はその筆記類といっしょに、行李に納めて持って来たのだった。……あの出来事があってから、「半之助のことは決して口にするな」と云われていた。書物の行李をあけるということから、良人は恐らく、半之助のことを思いだしたのであろう、心づかぬことを口にしたと思い、はま女はそっと良人の側から離れた。
 霜月になったが、例年より暖かい日が続き、中旬すぎてから初めて霜をみた。その夜のことである。久しぶりに少量の酒を呑んだので、良左衛門は宵のうちに寝床へはいり、はま女が独り燈をひき寄せて解き物をしていた。すると九時頃だったろうか、良人が呼ぶのでいってみると、表へ人が来ているのではないかと訊いた。
「さっきから赤児の声がするようだが」
「心づきませんでしたが、見てまいりましょう」
 こんな時刻に来る者もなかろう、そう思いながら、手燭てしょくに火をうつし出してみた。門ぐちには人のいるようすはなかったが、どこかで赤児のぐずり泣きの声が聞える、はま女は外へ出て、手燭をあげながらあたりを見まわした。玄関をかこうように網代の袖垣がある、その垣の下に厚い布子絆纒ぬのこはんてんでくるんだ赤児とかなり嵩張かさばった包みとが置かれてあった。……はま女は、
「どなたかおいでなさるか」
 と呼んでみた。
 曇ったのだろうか星ひとつみえず、風もない静かな夜であった。もういちど呼んで耳を澄ましたが、答える声も聞えず、人のいるようすもない、はま女は赤児を抱きあげ、ともかくも手燭を玄関に置いて部屋へはいった。


「まさか捨て児ではあるまいな」
「こんな処まで来て児を捨てる者もございますまいが、どうしたことでございましょうか」
「包になにか書状でもありはしないか」
 良左衛門も起きて来て、そう云いながら包みを解いてみた。着替えが二三枚に襁褓むつき、それとへその緒書があるだけで、手紙のような物はみあたらなかった。町なかなら知らず、わざわざこんな山里へ来て捨て児をするということも考えられない、なにか必要があってそこに置き、戻るのに手間どっているのだろう、そう語りながら待ってみたけれど、更けてもそんなようすはなく、乳を求めて泣く児をあやしすかしながら、夫婦はほとんど眠らずに夜を明かした。
「どれ少し代ろう」
 明け方になって良左衛門が児を抱き取った。
「……夜が明けたら名主へ届けるんだな、これは捨て児に違いない」
「この村には乳呑み児のある家はございませんでしたろうか」
「村に無くとも城下には有るだろう」
「いいえ」
 はま女はさりげない調子で云った。
「もし村に乳があって貰い乳ができたら、わたくし育ててみようかと思いまして」
「ばかなことを云ってはいけない、こんな身の上になって、今さら子を育ててどうするのだ、まして氏も素姓も知れぬものを……」
 こう云いながら、彼はふと妻のほうへ眼をやった、厨へ立ってゆく妻のうしろ姿に、なにやらさびしげなけはいが感じられたからだ。……彼は抱いた児の顔を見た、児は眠っていた、黒い髪のたっぷりある、唇つきのひき緊まった、眉のはっきりした品の良い顔だちである、彼は自分の手に伝わってくる赤児の体温の、湿っぽい感じに遠い記憶をよびさまされた。
「半之助をこうして抱いたことがあった」
 心の内で彼はこう呟いた。
「あれからもう二十余年になる、そしてもし半之助にあんな事さえ無ければ、もうこのくらいの孫を抱いていたかも知れない、……はまもそう考えたのではなかろうか」
 おそらく妻も同じように考えたのであろう、あれ以来どんなことがあっても半之助のことは口にせず、お互いに案ずるそぶりもみせなかった、しかし一日として忘れたことはないのである。半之助が学塾の助教を免ぜられたのは、彼の才能をねたむ人たちの讒誣ざんぶであった、学問をし儒学にはいれば老壮をたたくのは自然である、朱子以外に眼をつむることは、単に御用学者としても怠慢といわなければなるまい、半之助が塾生に老子の講義をしたのなら別だが、異端の風があるなどという漠然とした理由で、結局つめばらを切らされたかたちになったときは、親としてずいぶん不憫ふびんにたえなかったのである。それから性格が変って、酒を呑んだり、茶屋でいりをするようになり、ついに森田との間違いを起したのだが、そんな風に気持の崩れていった原因を思うと、彼だけを憎むわけにはいかなかった。この頃ではむしろどこかで無事に生きているように、強くたちなおって呉れるようにとひそかに祈ってさえいるくらいだった。
「そうだ、半之助も今どこかで人の情けをうけて暮しているかもわからない」
 良左衛門は冷えきった朝寒から赤児をまもるように、布子を頭のまわりにき寄せながら、しずかに火桶ひおけの側を立った。
 おまえにその気持があるなら育ててみよう、そう云われたときはま女の眼には一種の感動があらわれた。彼女もまた良左衛門と同じ気持を良人の上に感じたのである。朝食のあとで、良左衛門は自分から名主の家にゆき、捨て児のあったことを告げ、乳呑み児のある家がないかどうかたずねた。
「お育てなさるのでございますか」
 と名主の老人は気遣わしげに首をかしげたが、幸わい半年ほどの乳があるから、ともかくあとから伴れてまいりましょうと答えた。……老人はすぐに若い百姓の女房を伴れて来た、のどをならして吸い付く顔を見ながら、若い女房はその児の親をのろうように云って涙ぐんだ。このあいだに良左衛門は名主とたちあいで臍の緒書をあけてみ、宝暦四年六月某日誕生、名は松太郎ということをたしかめた、姓も親の名もないのは、生んだとき既に、手許てもとに置けない事情があったのであろう、それなら不仕合せな過去と縁を切る意味で名を変えるほうがよいと思い、良左衛門は改めて小太郎と呼ぶことにした。
 百姓の女房は四五日せっせとかよって来て呉れた。このあいだに良左衛門は城下の島屋へ使を遣り、あらましの事情を書いて適当な乳母の世話を頼んだ。喜右衛門は五日めに、まだ娘のようにうら若い女をつれてやって来たが、しかしずいぶん気まぐれなことだと、笑いながら意見を云った。
「こういうことはとかく末のうまくゆかぬものです、おやめなさるが宜しくはございませんか」
「そうも思うが、門へ捨てられたのもなにかの縁であろうし」
 と、良左衛門はふとまじめな調子でこういった。
「それに爺婆さし向いの山家ぐらしも退屈なものだからな」
「お孫さま代りでございますか」
 喜右衛門はわざとのように渋い顔をした。
「うまくまいればようございますがな」


 喜右衛門の伴れて来た女は名をうめといった。伊勢のくに松坂の者で、いちど嫁して子を生んだが、婚家との折合いがわるく、生れて五カ月の乳呑み児を置いて離縁したのだという、小さな商人の家に生れて年は十九、幼いじぶん父母に死別して、苦しい育ち方をしたそうだが、そのためだろう、見かけは年より若く娘むすめしているのに、起ち居や言葉つきはずっと世慣れて、少しはすわに思えるほどぱきぱきとしていた。
「初めに云っておきましょう」
 はま女はまずこう云った。
「お乳をやるときは清らかな正しい心で、姿勢もきちんとするようにして下さい、乳をやる者の気持や心がまえは、乳といっしょにみな児へ伝わるものですからね、小太郎はさむらいの子ですから、それだけは忘れずに守って頂きますよ」
 うめは眼を伏せてうなずいた。――よくわからないのだな、はま女はそう気づき、当分のうち自分で教えなければなるまいと思った。……じっさいうめには欠点が多かった、寝るときに脱いだ着物をそのまままるめておくし、少し急ぐとひっ掛け帯で歩きまわる、お乳に障るから化粧は控えるようにと云っても、忘れるとすぐ臙脂べに白粉おしろいをつける、肌着もなかなか脱ぎ替えない、足袋は裏の黒くなるまではく、児が泣いたりぐずったりすると、時間に構わず乳を含ませる、添乳をしたまま寝たがる、とりあげて云えば眼につくことばかりで、なるほどこれでは婚家ともうまくいかなかったであろうとうなずけた。……しかし唯一つ、赤児の世話だけは親身になってした。どこがどうと云えないところによく気がまわる、虫気で寝そびれる夜が続くとき、風邪けで具合の悪いときなど、背負ったまま幾夜か寝ずにいて厭な顔もしない、その点がはま女の気持をひきつけた。――子供にさえよくして呉れれば、あとは少しずつ根気で教えていってもよい、そう考えるようになったのである。
 はま女の努力がなまやさしいものでなかったのと同様に、うめにとってもそれは辛抱を要することだった。十九という年になってから、まるで違う生活のなかにはいったのである、しかもそれが規矩きくのきちんとした、作法の厳しい武家となると、こまかい習慣の差はもちろん、心がまえまで変えなければならない、それが日常瑣末さまつなことに多いので、面倒くさいと思うともう手も足も出なくなる、事実そう思うことがしばしばあった。――あたしにはとてもできない、これでいけなければ出てゆくまでさ。そんなやけな気持になったことも、三どや五たびではなかったのである。はま女とは違った意味で、うめが辛抱したのもつまり小太郎という者があるためだった。ながいことではない、精ぜいもう八月、誕生が来て乳ばなれするまでだから、彼女はそう考えながら、できるだけ家人に逆らわないように、教えられることに従うようにと努めていった。
「あなたは習字をなさらないか」
 年が明けて二月になったある日、はま女がなにか思いついたというようすでそう云った。
「読み書きぐらいは覚えておいて損のないものです、よかったらお手引きぐらいはしてあげますから」
 その頃にはうめの気持も少しずつはま女のほうへ傾むいていたので、すなおに教えて頂きたいと頼んだ。これが新しい生活へふみだすきっかけとなった。姿勢を正し墨をる、手本をひらき、紙をのべ、呼吸をととのえてしずかにすずりへ筆を入れる、快い墨の香が立って、云いようもなく心が鎮まる、……はじめは肩が凝り気に詰ったけれど、かな文字を五つ七つと覚えはじめるにつれ、習字をしたあとのすがすがしくおちつく気持と、なにかしらよいことをしたという満足感は、うめにとっては初めての大きなよろこびであった。
「乳をやるときは清らかな正しい気持でと仰しゃった、あれはこのような気持をいうのだな」
 うめはある時ふとそう気がついた。
「紙へはじめて筆をおろすときの、姿勢の正しいおちついたこの気持……ほんとうにこういう気持でやる乳なら、児に対しても恥かしくはないだろう」
 眼が明けば、今まで見当のつかなかったこともずんずんわかるようになる、家常茶飯いちいち面倒だと思った事がらが、いつか自分からそうしなければ済まぬようになり、初蝉はつぜみの鳴きだす頃には良左衛門など、
「まるで人が違ったようだ」
 と云いはじめた。
 はま女がよろこんだことは云うまでもあるまい。時どき訪ねて来る喜右衛門も、
「たいへんな御丹精でしたな」
 とはま女の努力について感歎のこえをあげた。……ある日そういう話のあとで、はま女はうめとの約束について喜右衛門に相談をもちだした。誕生までという期限をもう少し延ばして貰えないかというのである。
「小太郎もあのとおり馴れてしまったし、せめて立ち歩きのできるまでいて呉れると助かるのですがね」
「そうでございますな」
 喜右衛門はなにか考える風だったが、やがてこう云った。
「ではそのまえに一つうちあけたお話を致しましょう」


 約束の期限を延ばして呉れぬか、そう云われたときうめはよろこんで承知した。
「島屋の御隠居さまは御承知でございましょうか」
「喜右衛門どのには話しました」
「それではお世話になりとうございます」
 こう云いながら、うめはそのときなにゆえともなく、肩をすぼめるような身振をした。……誕生までという約束は、梶井家に対してと同様、彼女が自分のためにかたく心にきめたものであった、それ以上はいけない、児に愛をもってしまっては身がひけなくなる、深い愛情のうまれないうちに出よう、そう決心をしていたのだ。然しおそれていたその愛情はすでにぬきさしならぬ激しさで、彼女を小太郎にむすびつけた、それだけではない、今では小太郎をとおして梶井夫婦にまで、その愛情はつながってしまったのである。
「こんな積りではなかった」
 うめはそのことに気づくたびに慄然りつぜんとした。
「これでは半さまにも申し訳がない、どうにか考えなくては」
 うめがお民であることは念を押すまでもないだろう、これまでの事はすべて喜右衛門に相談のうえでやった。初めは生れたらどこかへ遣る積りだったが、半之助という父があり、梶井家というものがある以上、いちおうは縁をたぐってみるのが本当だ、もし縁のないものなら仕方がないから、そういうことで門ぐちへ捨てたのである。乳母になって来ても、それは乳ばなれまでのつきあいで、あとは一日も早く身軽になって出なおす積りだった。……けれども日がゆき月が経つにしたがって、お民の考え方はしだいに変ってきた。
「乳をやるには清らかな正しい気持で」
 ――そういうはま女の言葉がわかってから、次ぎ次ぎといろいろなことに眼が明いた。
 ――好きなうちは愛し合おう、飽きたらさっぱりと別れよう。そういう考え方が人間を侮辱するものだということも、その意味どおりにではないが理解できた。
 ――幾十万人という人間の中から、一人の男と一人の女が結びつく、これはそのまま厳粛で神聖なことだ。そういう言葉も、かなしく痛いほど身にしみてわかるようになった。
 二人の人間がむすびつき、心をひとつに愛し合うことはあそびではない。育ってゆく小太郎を見るごとに、その気持はお民の胸を緊めつけた。はま女からしつけられたことのはしはしが、更につよくその気持を支え力づけて呉れた。――早く身軽になろう、そう考えていたのが、今では、
「この家を出たらどうなるだろう」
 という不安と惧れに変っている、この家を出てむかしの生活へ帰る自分を考えると、お民は肌寒くなるような厭悪えんおを感ずるのだった。
「半之助さまには申し訳がないけれど」
 お民はそう考えながら、はま女の頼みにこちらからすがり付く思いで、
「立ち歩きのできるまで」
 梶井家にとどまることになった。
 六月に誕生日を迎え、秋には小太郎は歩きはじめた。しかし冬になっても、その年が暮れても、約束の期限について家人からなんの話もなかった。そればかりでなく、年が明けると良左衛門が素読を教えようと云いだし、毎日きまって少しずつ稽古をして呉れるようになった。……習字は千字文を続けていたし、夜には縫物の手ほどきも受けた。小太郎は麻疹はしかを軽く済ませたあと、よく肉付いて丈夫に育だち、眉つき口もとなど、びっくりするほど半之助に似はじめた。――もし御夫婦に気づかれたらどうしよう、そういう心配はあったけれど、お民はそれが身のふるえるようなよろこびで、人眼のない処では我知らず抱き緊めて、いやがるほど頬ずりをせずにはいられないのだった。
 こうして月日は経っていった。三年となり四年となった。とりかわした約束はそのままで、どちらからも触れようとせず、お民はいつか梶井の家族と同じ気持で、明け昏れを送っていた。……小太郎は六つのとし疱瘡ほうそうにかかった。そのときお民はかゆがるのを掻かせないために、七昼夜というもの一睡もせずに看病をした、おかげで小太郎は痘痕あばたを残さずに済んだが、お民は過労にまけて倒れ、余病が出たりして三月あまり寝たり起きたりが続いた。
 宝暦十一年を迎えた正月、小太郎は袴着の祝いをした。その祝宴の明くる日、城下から俣野考太夫という老臣が訪ねて来た。俣野はもと納戸奉行をつとめ、良左衛門とはごく親しくしていたが、こちらが蟄居ちっきょをかたく守っていたため、訪問を遠慮していたのである。現在では国家老の席にあり髪毛なども眼立って白くなっていた。
「実は珍らしい知らせを持って来た」
 久濶きゅうかつの挨拶が終ると、考太夫はこちらの眼を見ながらそう云いだした。
「おそらくこなたには想像もつくまい、半之助どののいどころがわかったのだ」


 鋭どい痛みを感じたように眉をしかめながら、しかしとみには信じかねるような良左衛門の顔に、考太夫は微笑の眼をやりながら云った。
「去る十一月のことだ、殿が昌平黌しょうへいこうの仰高門日講に出られた、すると講壇にのぼったのが半之助どのだった、お側に付いていた者が気づいて申上げ、講義のあとで係りの者に尋ねると、それに相違ないことがわかった、それで殿は大学頭に会われた、仔細を問われたところ、七年まえに堀尾佐吉郎という教官の塾へはいり、それから学問所へ通ううち、才能を認められて助教に挙げられたのだそうで、もちろん身の上は隠してあるから、処士としては極めて異例だということだった。殿にはひじょうな御満足で、旧過は構いなし、儒臣として新たに召抱えるという仰せで、江戸邸ではすでに家臣の待遇をうけているそうだ」
「しかしあのような事があって」
 と良左衛門はにがにがしげに云った。
「お上の御意はともかくも、半之助がさような御恩典をお受けする筈はないと思うが」
「若い者にはまたそれだけの思案があるのだろう、殿の御帰国はこの十日だ、おそらく半之助どのはお供をするだろう、そのときは意地を張らずに、褒めて迎えてやってほしい、こなたの快く迎えてやることが、半之助どのにはなによりの褒美だと思う」
 隣りの部屋で体を固くしながら、話をここまで聞いていたお民は、それ以上は座にいたたまれず、胸ぐるしい気持で廊下へ出ていった。――あの方がお帰りになる、半之助さまが、そのことだけが頭いっぱいになって、どうしていいかもわからず、なにもかも見えなくなる感じだった。
「ばあや、どこへゆく」
 小太郎がそう叫んだ。
「坊も伴れていって、坊も……」
 門を出ようとすると小太郎が追って来た。しかしお民は、
「すぐ帰りますから」
 と云い捨てたまま、なかば夢中でずんずん歩いていった。……どこへゆくとも知らず、どこをどう辿たどったかもわからない、気がついたときは、日和山の梅林の中へ来ていた。子供を伴れて、よく海を見に来る処である。東南にひらいている斜面のかなたに梅と松との林を越して、鳥羽湾のあおい海と、美しい島々が眺められる、――ああいつもの場所だ、そう気づくのと同時に、もう小太郎とここへ来ることもできない、という悲しさがこみあげて、お民は思わず両手で面をおおいながら泣きだした。
「どうしてお泣きなさるの」
 とつぜんうしろでそういう声がした。とびあがるほど驚ろいてふり返ると、はま女が小太郎を伴れて立っていた。
「……半之助が帰って来るのです、よろこんでもいい筈ではないか、あなたがお民どのだということも、小太郎が半之助の子だということも、わたしたちにはずっと以前からわかっていたのですよ」
「でも御隠居さま、わたくしは決して」
「仰しゃるな、喜右衛門どのから、あなたの気持はみんな聞いています。過ぎ去ったことは忘れましょう、半之助が帰って来ること、小太郎をなかに新しい月日の始まること、あなたはそれだけを考えていればいいのです」
「わたくしにはできません」
 お民は泣きながら云った。
「わたくしには、梶井家の嫁になる資格はございません。そうする積りもございませんし、半之助さまに対しましても」
「もういちど云います、過ぎ去ったことは忘れましょう、七年まえのあなたと、現在のあなたとの違いは、わたしたちが朝夕いっしょにいて拝見しています、旦那さまがなぜ素読の稽古までなすったか、あなたにもわからないことはない筈です」
 はま女はそう云ってつとかたわらの梅の枝を指さした。
「ごらんなさい、この梅にはまたつぼみがふくらみかけていますよ、去年の花の散ったことは忘れたように、どの枝も初めて花を咲かせるような新しさで、活き活きと蕾をふくらませています、帰って来る半之助にとって自分が初蕾であるように、あなたの考えることはそれだけです、女にとってはどんな義理よりも夫婦の愛というものが大切なのですよ」
 お民は梅の枝を見まもった。小太郎がそっとすり寄った。そして、
「ばあや」
 と低く呼びながら、お民の手に縋りついたとき、彼女は子をひき寄せ、重くつつましく頭を垂れた。
「顔をおあげなさい、民さん、……よく辛抱なすったことね」
「おかあさま」
 お民はそう云って眼をあげたが、まるでなにかの崩れるように、泣きながらはま女の胸へもたれかかった。





底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社
   1983(昭和58)年8月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1947(昭和22)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2021年1月27日作成
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